同攻会創立時、講師の寄贈や購入による書籍、僅かに三百五十冊ぐらいを以て出発した同会の文庫も、逐年その数を増し、七年後には三千七百十四冊を数えるに至った。二十四年六月十五日発行の『同攻会雑誌』第四号に、創立満七年記念会の記事が掲載されているから、ここにその報告を摘記してみよう。
同攻会紀念会本会は、明治十七年五月創立以来茲に満七ケ年の歳月を迎へたるに付き、去五月廿四日を以て春期大会を兼ね第七紀念会を本校大講堂に於て開きたり。……当日は午後第一時より開会の筈にて、本会々員は勿論、本校学生及校外生等続続来集し、定刻には殆んど千有余名に達しぬ。……一同着席するや、委員斎藤和太郎氏は開会の趣意を陳べ、併せて一年間の事務報告を為し、次に来賓島田三郎氏は欧亜に於ける露西亜の事情と題して、雄弁治々欧亜に向て露西亜の勢力を論弁し、田口卯吉氏は内地雑居論と題して井上哲次郎氏の内地雑居論を駁撃し、市島謙吉氏は煙草の歴史と云ふ演題にて欧米に於ける喫煙の歴史をいと面白く演述し、尾崎行雄氏は武道と題して士気の振はざるべからざる所以を慨切に痛論せり。……更に午後第七時よりは別講堂に於て余興の催しあり。……尚ほ当日委員より報告したる現在専門学校図書室の一部を占め居る同攻会図書の総数は三千三百九十六冊にて、特別借入図書三百十八冊を加へ、合計三千七百十四冊と外に日刊新聞十二種、雑誌四十二種なり。今又図書の種類を別てば左の如し。
(二七―二八頁)
次に初期における雑誌発行について述べよう。『中央学術雑誌』はもとより学術雑誌と銘うって発行され、販売された。会員および購読者からの寄書も多かったが、学術研究のために発行された以上、匿名などによる投書は勿論取らざるところであり、次のような広告を出すに至った。
書ヲ本会ニ寄送シ、中央学術雑誌ノ論説等ニ向テ質問或ハ駁撃ヲ為サルル諸君ハ、幸ニ其宿所姓名ヲ報知セラルベシ。単二別号等ノ外、真ノ姓名ヲモ知了セザルトキハ、本会ノ迷惑少ナカラザルヲ以テ止ムヲ得ズ答弁ヲ辞ルコトアルベシ。
東京府下南豊島郡下戸塚村東京専門学校内 同攻会雑誌局
また、本誌に寄稿する以外には、何ら施すべき術を知らなかった地方の一般読者にとっては、本誌がその意志を表明し得る唯一の拠り所であったことも頷けないわけではないが、これによって政治上或いは時局の批評を行い、僅かに日頃の鬱憤を晴らさんとするような、辺境の雑誌購読者の寄書も、厳に避くべきであったろう。更に二十四年七月の『同攻会雑誌』第五号には六項目に亘る稟告を掲載し、そのうちの一項には、
会員諸君の寄送に係る論文中、政談に渉るもの少からず。是は新聞条令の許さざるのみならず、本誌の旨趣に背くを以て、空しく金玉の文字を匣底に蔵するの止むを得ざるに陥る。以来一省を垂れ、委員をして憾みを遺さしむる莫れ。 (三二頁)
と、はっきり断っている。しかしこれらの投書を抹殺することは、門戸開放の上からも、経済上の理由からも、所詮は不可能に近く、誌面を改良して新鮮な気風をこれに送り込み、論陣を厚くすることにより、好ましからざる寄書を抑制しようとした。二十四年十月奥山亭で開かれた「同攻会例規会合」席上でもこの問題を取り上げ、雑誌委員山沢俊夫は「雑誌の形勢益々盛大なる事を報道し、併せて将来雑誌委員及編纂上に付き一同の協議を享けんこと」を提案し、これを承けて、
同攻会雑誌は、爾後一層の光彩を添へん為め編輯員を増聘し、紙面の拡張を図る事。
東京専門学校所蔵の書籍は成るべく本会に寄送せられん事を本校幹事に建議する事。
(『同攻会雑誌』明治二十四年十一月発行第九号 二六頁)
等を定めた。これによって直ちに「本誌改良広告」を出し、第十号から改良を実現するよう約束し、同号表紙二に「同攻会雑誌編輯員一同」の名を以て、米国哲学博士大石熊吉郎を編集主任に任命したと報告した。「謹告」と題するこの報告では、大石新編集主任は、海外に留学すること九年、英語を本職とする他、ラテン語、ギリシア語、フランス語に精通し、憲法学の権威であると大いに推賞している。
これに対し、国内の各有力新聞がそれぞれ批評を加え、またその誌面改良の成果を大いに期待するものがあった。そのうちから代表的なものを二、三拾うと、先ず、『毎日新聞』(明治二十五年一月二十七日号)には、「同攻会雑誌の改良」と題し、
早稲田の東京専門学校より発行する同攻会雑誌は、誕生以来既に十号の年を層ね、着々改良を加へ来りしが、此度又々一大改革を断行し、多年海外に遊学し学識共に卓励、英仏は勿論、雅典、希臘諸国の言語に精熟し、特に憲法学に錬通せりとの評ある米国哲学博士大石熊吉郎氏入て編輯主任の局に当りし由なれば、爾来早稲田の文壇又一層の光彩を添ゆるならん。而して去る廿一日発行第十号の紙上には大石博士の時事論あり、家永、天野、有賀諸学士の学説あり、森、野口諸詩伯の詩あり、落合、黒川諸翁の歌あり、其他俳諧、雑録、批評等あり、読者をして倦厭せしめざる虚構、編輯者の苦心察知するを得べく紛々誌冊濫出の此節柄、嶄然脱俗の好雑誌と云ふべし。
とあり、また、『中央新聞』(明治二十五年一月三十日号)は、「同攻会雑誌(第十号)」と題して、
東京早稲田専門学校内の同攻会より発行する同雑誌は、此度米国哲学博士大石熊吉郎氏を聘して主筆となし、大に改良を加へ、家永博士、天野〔文〕学士、有賀法学士の諸氏筆を揮はれたれば、特に光彩あるを覚ゆ。政法、経済、文学の粋を味はんとするものは、同攻会雑誌会員とならるべし。
と、大いに宣伝し、学苑と深い関係を持つ『新潟新聞』(明治二十五年二月五日号)は、同じく「同攻会雑誌」と題し、
東京専門学校の同会より発兌する同誌は、新年発刊の第十号より大に規模を拡め、米国哲学博士大石熊吉郎氏を以て編輯主任となし、記事の如きも大に其面目を改めたり。同誌は、重もに政治、経済、法律の諸科に関する講究を主とし、傍ら学事界の評論を為す者にして早稲田文学と並んで万丈の光焔を吐けり。
と紹介の労を取っている。当然と言えば当然であるが、それだけに編集者の責任もいよいよ増し加わったのであった。 さて『同攻会雑誌』は、二十五年五月十五日、『中央学術雑誌』(第二次)と改題し、その第一号を発行し、巻頭に社説「発行の辞」を載せている。その要領は次の通りである。
同攻会雑誌は、同攻会の目的を達せん為め、去歳三月、初号を発行して、学術雑誌界に立ちて以来、号を重ぬる十有二、殊に本年一月、第十号よりは、体裁を改良し、紙面を拡張し、頓に其勢力を加へたり。……然るに今や、内、維持委員の補助あり、外、読者の増加あり、基礎漸く強固を致したるを以て、茲に雑誌委員は議を決して、中央学術雑誌と改題し、以て大に雑誌界に雄飛せんとするの策を採れり。去れば、此中央学術雑誌は、之を以て明治二十一年迄、早稲田より発行したる中央学術雑誌の再興なりと看認む可らず。彼と此とは同名なるも異物なり。……本誌は、只夫れ、早稲田を中心として集まれる所の、其数限りなき学士、学友、学生が、其勃々たる思想、其焔々たる才気、之をして、空しく春花秋月に費やさしむるに忍びず、内に之を輯めて、広く社会に紹介し、外は進んで大に人知の開発誘導に、力を致さんとするに在り。 (一―二頁)
このように再三改題したが、世人のこの雑誌に対する評価は次第に高められていった。従ってまた輿論を代表する新聞雑誌等もこれを推賞した。その代表的な批評或いは紹介文を挙げておく。
読売新聞 早稲田の辺陬快天地あり。曩に同攻会雑誌を発刊して、政治、法律、理財、文学等に関する名論卓説を紹介し来りしが、今や又其名を改めて中央学術雑誌と題し、去る十五日其第一号を発刊せり。(中略)諸氏の論文を始め、文苑、雑録、学海時評、寄書、雑録等生気紙面に溢れざるはなく、真に是れ当代の学術社会に一大光彩を添へたるものと云ふべし。
芸備日日新聞(前略)這は例の東京専門学校内同攻会より発行し来れる同攻会雑誌の変体にして、要は早稲田を中心として集れる所の其数限りなき学士、学友、学生が勃々たる思想、焔々たる才気を広く社会に紹介し、大に人知の開発誘導に力を致さんとすと云ふに在り。輯むる所何れも卓抜なる文学道場の花早稲田文学と幷び咲て、香を斯の道場に発ち得るの観あり。学術雑誌中の鑠々たるもの看る可し。摘む可し。
早稲田文学東京専門学校に関係ある人々の企に成れるものにて、発行の辞にも見えたる如く同攻会雑誌の編纂に従ひしものが其組織を改め、其精神を襲ひ、只(中央学術雑誌)と云ふ旧名称を仮りて新に発行する所なりと云ふ。論説欄内には鳩山、高田、天野、井上等の諸博士の有益なる論文あり。文苑欄内には諸名士得意の詩歌あり。又雑録、学海時評の二欄は依然たる同攻会雑誌の旧面目あり。此外寄書、雑報の二欄ありて、後者には有要なる報道を集めたり。
(第二次『中央学術雑誌』明治二十五年六月発行第二号 五八頁)
しかし本学苑では何をやってみても、大隈が関係する以上、所詮は白い目で見られ勝ちであった。この雑誌はしばしばその題名を変えて世人に問うたのである。すなわち『中央学術雑誌』廃刊のあとを承けて、或いは『専門学会雑誌』となり、『憲法雑誌』と改め、または『日本理財雑誌』となり、更に『公友雑誌』と改題し、或いは『同攻会雑誌』となり、次いで第二次の『中央学術雑誌』となって出版された。二十六年一月発行の第二次『中央学術雑誌』第二巻第一号には、
本誌は、昨年第二号及び第八号発兌の際に其筋の懇諭を受けたり。勿論何れの文字が注意を受くるに至りし原因なるや之を知るに由なきが故に、若し邪推を以てせば、或は干渉の厚きを云ふに足らん。 (二頁)
とあり、また二十七年三月発行『中央時論』第一号には、
然るに私益を主とせざるの誠心は、或は不幸にして中絶の非運を来たし、国家を憂ふる熱心は、或は不幸にして発行差止の厳命に接せり。 (二頁)
と記して、陰に陽に加わる司直の苛烈な迫害ぶりを示唆している。しかし彼らは不撓不屈の精神を以て真理の道を歩み、誠を心にして一路精進を続けた。
さて当初の規約は二十六年一月から次の如く改正された。
一、本誌は、毎月二十日を以て発兌す。
一、本誌は、政治、法律、理財、文学及び社会上の観察を為し、特に道徳元気を発揚す。
一、本誌は、社説、論説、翻訳、文苑、雑録、学海時評、寄書、内外彙報等の諸欄に分つ。
一、本誌代金は、左表の如し。
一、本誌代金は、為替券(牛込郵便局振込)、又は郵便切手を以て前金に払込む可し。
一、本誌代金は、特に本社宛にて払込む可し。
一、本誌への通信は、必ず東京牛込早稲田中央学術雑誌社と為す可し。
一、前金終る時、又は端金に過ぎざる時は帯紙を朱書にして注意するを以て、次号発兌迄に前金送致せらるべし。
一、本誌への投書は、一行二十四字詰楷書に認む可し。 (第二次『中央学術雑誌』第二巻第一号 表紙二)
この中、改正の主たる要点は、㈠発行回数月二回を一回に改めたこと、㈡為替振込郵便局を四谷局から牛込局に移したこと、㈢通信宛名を山沢俊夫の個人名から中央学術雑誌社に変更したこと等であったが、殊に注目に値するのは、第二項本誌掲載種目の後段に「特に道徳元気を発揚す」という一句を挿入したことである。言うまでもなく政治・法律等司直の掣肘を受け易いものに偏することを避け、文芸欄の増加とともに、本誌の倫理性を高め、これを強調せんがためであった。
このように、学術研究の成果を江湖に発表して、世の批評を乞い、世人を啓蒙することが雑誌発行の目的であるが、図書を購入し学苑内の講師、学生ならびに校外生を含む関係者達の便に供するのも、同攻会に課せられた使命の一つであった。寧ろ後者の方がその発端の第一目的で、前者はこの内部的な試みが外に向って発せられたものと見ても差支えなかろう。従って二十七年十月の例会でも、「書籍購求は本会の主眼とする処にして、又已往に徴するも、図書館本会員を利したるや頗る大なり。」と述べられた。ところが現実には本会が徴収する会費だけでは、満足すべき程度の図書を購入することが不可能であったため、或いは講師の、または有志の寄贈を俟ってこれが充足を計るとともに、学校から若干の補助金を得て、その不備を補って来たのであった。しかるに二十五年からこの補助金が中止されたので、しばしば学苑当局にその復活方を懇請して来たが、一向に埒があかなかった。そこでこの例会では、現状打開の一案として、「校友中の有志を特別会員となし、毎年応分の醵出せしめん。」と定め、これがため規約の一部改正をなさんとし、臨時大会を招集することにした。
この大会は二十七年十一月二十七日、牛込赤城神社境内の清風亭で開催されたが、例会提案の特別会員を設ける点では、役員たちの予期に反し、甲論乙駁、採決に至っては何れの修正案も否決という状態に立ち至った。そこで坪谷善四郎の動議で、漸く、「本会は本会図書室拡張の為め、校友中有志の士に就き年々応分の寄贈(金円又は書籍)を請わんとす。」に議は決し、本会委員をしてその任に当らしめることにした。これによって先ず、進文学社以後本学苑と深い関係を持つ小川為次郎幹事には、その蔵書を本会に貸与されるよう、また小山愛治には、各界から中央時論社に寄贈される書籍を本会に譲渡されるように訴えた。その結果は両者の快諾を得たばかりでなく、小山からは雑誌編集の剰余金を寄附すべしとの提案があり、思わざる収穫に一同は声を挙げて快哉を叫んだ(『中央時論』明治二十七年十二月発行第九号五一頁)。
さて先に学校当局に対し、その所蔵書籍の移譲を申し出た同攻会は、二十八年五月に「特別図書室」を開設することとし、
今般元と講師室を特別図書一覧室と為し、左の資格を有する者に入場閲覧を許す。
一、講師
一、研究科学生
一、講義係編纂係
一、早稲田文学編纂係
一、卒業論文執筆の為め図書の借覧を要する者、但受持講師の証明を有する者
(『中央時論』明治二十八年五月発行第一二号 六一頁)
と定めた。右は前年末決議の図書室拡張計画の一つであり、恐らく第五章六八六頁に触れた、小川が海外から持ち帰った貴重な図書の活用を考えた結果であろう。なお同号の別欄には、書籍寄贈者として矢野文雄、土子金四郎らの名を挙げ、また資金醵出者として島田三郎をはじめとして、井上辰九郎、岸小三郎ら旧教師とともに、西川太次郎、菅三郎、大浜茂七郎ら校友も名を連ねた。こうして図書室拡張の問題は一応解決したが、資金獲得のめどは容易に立たなかったので、二十八年十一月十六日大会を開いて、主としてこの件について協議した。すなわち当日午後五時清風亭で大会を開き、桑田豊蔵幹事が二十七年度の会計報告ならびに書籍買入れの件等を詳報し、各人が種々質問したのち、二十余件の議題が提出され、可決されたが、そのうち重要なものは、何と言っても助成金の復活問題であり、図書利用の点にあった。今その決議文からこれを拾うと、
一、学校より従来毎年二十五円宛の助成金ありしを、小川為次郎君の幹事となりし時代に廃されたるは、本会にとり遺憾なるを以て、自今依旧二十五円宛の助成を求むることを学校に請ふこと。
一、図書閲覧時間の午前八時より十二時迄、十二時半より四時迄、五時より九時迄と一日二回の区限ありて、時々借覧書籍を返納して更に借受の手数を廃する為め、毎日午前八時より夜九時迄断間なく開館すること。
一、従来、講師は書籍を借受け、自書を持帰るを得たる為め、講師の名によりて校友学生中に持出すものあり。緊要の書籍は常に備置かれざる有様にして、不都合少なからず。依て自今講師と雖も借出すことの特権を廃すること。
一、同攻会委員の学生より選出するものに三年生あるときは、其委員は昨年の七月に校を去り地方に帰るものあり。現に昨年選挙したる委員は、本日の会には多数不在にして僅かに一、二人の残れるのみ。此弊を防ぐ為め爾今一年二年より正員を選挙し、三年生より補員を出すこととする事。 (同誌明治二十八年十一月発行第一八号 四三―四四頁)
などであった。この補欠者選挙の時、法律科三年の某がこれを承認しなかったことがあったので、『中央時論』の記者はこれを非難し、これによって「法律科には補員を欠き権利を失せり、法律科に似合はしからず。」と憤慨した。
『中央時論』は二十九年八月、第二十七号を以て休刊した。その理由は明らかでないが、『中央学術雑誌』に端を発して、数度の改題を行いつつも、或いはまた休刊を重ねつつも、当初の精神は絶えることなく継続して来たのであるけれども、早稲田学会の設立によって、機関誌『早稲田学報』が発行されるに至り、遂にその主目的の一半をこれに譲ることになったと見るべきであろう。その「早稲田学会設立の旨意」は次の通りである。
早稲田学会は、我が東京専門学校に関係ある諸氏及び天下の同志と共に政治、法律、経済及び文学上の問題を学術的に講究するを目的とし、此目的を達する為めに早稲田学報と称する学術応用の評論雑誌を発行するものなり。顧ふに我国最近数年間文運の隆興と共に政法文学の雑誌世に出づるもの千百啻ならずと雖も、多くは時事を放談するに非ざれば、徒らに抽象的学理を空論するものに非ざるはなし。而して軽薄放漫なる時事論の青年学生に害あつて利なきと共に、幽玄深邃を衒ふ抽象的文字の実際社会に無用なるは世人の夙とに知る所なり。唯だ夫れ青年学生にも実際社会にも共に有益にして又た必要なるは、実際的学理と学理的の実際知識となり。換言すれば、学理と実際との調和を得たるもの是れなり。早稲田学会は、乃ち此調和を計るを目的として起り、早稲田学報は、乃ち政治、法律、経済及び文学上の時事問題を採り来りて学術上より精細の観察を下し、正確穏健の論議を為さんとするものなり。四方同感の人士幸に本会の意を諒とせば、下文の規約を読で入会を吝む勿れ。
早稲田学会規約
第一条 本会は、政治、法律、経済、文学に関する諸般の問題を学術的に講究し、傍ら東京専門学校と会員との関係を親密ならしむるを目的とす。
第二条 本会は、広く東京専門学校に関係を有する人士を以て之を組織す。即ち左の如し。
一 東京専門学校講師、校友、学生 二 同準校友 三 同校外生 四 其他本校に関係ある者
第三条 前条の外本会の旨趣を賛成し、会費を納むるものは其請求により会員たるを得べし。
第四条 本会は、第一条の目的を達する為め月刊雑誌を発行して之を会員に頒布す。雑誌発行日は毎月十五日とす。
第五条 本会に雑誌編輯部を設け、左の委員を置く。
一 講師委員 四名 一 編輯主任 一名 一 校友委員 四名 一 学生委員 八名
第六条 本会に協賛員を置き、雑誌編輯の事に協賛せしむ。
第七条 協賛員は、東京専門学校講師、校友、其他本校に関係あるものの中より之を嘱託す。
第八条 本会々員たらんとする者は、会費(雑誌発行費)を添へ其旨本会へ申込むべし。
第九条 前条の申込ある時は、本会は会員証を添へ本会雑誌を送付すべし。但し、会員姓名は時々之を本会雑誌に広告すべし。
第十条 会費は、左の割合を以て之を前納すべし。但郵券代用を謝絶す。
一ケ月 拾銭 半ケ年 五拾銭 一ケ年 壱円
第十一条 本会々員は、雑誌の頒布を受くるの外、東京専門学校に定期開設する課外講義、法学部討論会、大演説会及び国会演習に出席するの権利を有す。
第十二条 本会々員は、本会に対し政治、法律、経済、文学に関する質問を為すを得。但し、質問応答は本会雑誌に掲載すべし。
第十三条 本会々員は、東京専門学校出版の書籍を特に割引を以て講読するを得。
第十四条 本会は、之を東京専門学校内に置く。
第十五条 本会発行の雑誌は、早稲田学報と称し、其掲載目次は大要左の如し。
論説 政治、法律、経済、文学に関する東京専門学校の講師、校友、其他諸名家の論説を掲ぐ。
講演 内外の碩学名家を聘して東京専門学校に定期開設する課外講義、大演説会、国会演習及法学部討論会の筆記を掲ぐ。
翻訳 泰西の新著及雑誌等より政治、法律、経済、文学に関する有益の文字を訳載す。
新刊批評 内外の新刊物を批評して之を世人に紹介す。
時事 政治、法律、経済、文学上の時事を観察して、簡明誠実に之を世人に報道す。
質疑 政治、法律、経済、文学に関する会員の質問に対する答案を掲ぐ。
早稲田記事 東京専門学校の状況、校友会、同攻会及本会員の動静を報告す。
公議一斑 新聞雑誌の名論卓説を抜萃して、公議輿論の趨勢を知らしむ。
明治三十年三月 東京専門学校内 早稲田学会
(『早稲田学報』明治三十年八月発行第六号 七八―八〇頁)
こうして同攻会の事業の一部は他に移されたが、未だ他の重要な目的が残されていた。それはこの会創立の動機となった図書購入と図書室の整備ならびに利用にあった。『廿五年紀念早稲田大学創業録』は、図書室充実に対する同攻会の貢献を次の如く説述している。
去ぬる明治十五年十月東京専門学校の創立せらるるや、図書室は早くも既にその一室に設けられしが、当時は諸事創設の際なりしこととて、乱雑紛淆緒につきたるものとては一も之れなく、図書室の如きも亦た只だその名を存したるのみにて、偶々室内を点検するも、塵埃に埋もれたる一基の書架に数百冊の書籍を載するの外、何等注目すべきものあらざりき。然るに明治十七年に至り、校友及び学生等の組織に係かる同攻会なるもの起り、会員相互間の知識の交換、学術の研究を目的として、専ら力を図書の蒐集に致たし、而かもその蒐集したる図書は、一切之れを図書室に託して、その会員に限ぎり閲覧を許すこととなしたれば、図書室の面目ここに漸く旧時の観を改むるに至りたりしも、同攻会は主として和漢書の蒐集に力を致たしたりしかば、洋書は依然として甚だ僅少なりき。斯くて明治二十二年五月煉瓦造りの新講堂落成するに及び、……その階下の数室を以て図書室に充てしがゆゑ、図書室の結構面目稍々一新するに至り、書庫・閲覧室・事務室などいふが如き形を覚束なきながらも備へしのみか、かの同攻会は益々和漢書の蒐集に主力を注ぎしかば、学校に於いては専ら洋書の購入に努め、以て明治三十三年に至れり。 (二八―二九頁)
今既掲の第九表を見れば、三十三年七月には同攻会図書は学苑の全蔵書中、未だに部数で一二・九パーセント、冊数で一〇・四パーセントを占めていることは事実である。しかし大学部設置を目標として、三十三年二月の臨時評議員会で決定された既述(七四六―七四七頁)の「東京専門学校職務章程」には、専任の図書館長を置くよう次の如く定められ、年間約百冊程度の同攻会寄贈書への依存を必要とした時代は、過去のものになりつつあるのを示している。
第一条 本校図書館に図書館長一名を置き、校長の指揮に従ひ図書を管理せしむ。
第二条 図書館長は校長之を任命す。但し、特に講師中より嘱託することあるべし。
第三条 図書館長の任期は三ケ年とす。但し、任期中と雖も校長之を解任することあるべし。
第四条乃至第八条(略)
第九条 図書館商議員若干名を嘱託し、館長の協議に与からしむ。
(『早稲田学報』明治三十三年二月発行第三六号「早稲田記事」 六八頁)
この規定により、三十三年三月六日付を以て、初代図書館長に浮田和民が任命された。思えば、十七年五月十五日、同攻会が創立され、その目的のうちに、図書の閲覧をはじめ、演説・討論、会合等を挙げて華々しく発足したが、いつの日かその多くを失い、唯一つ残された図書に関しても、昔日の役割は失われて、ただ書籍の寄贈という消極的な部分だけが残されたのだから、関係者にとっては感慨無量のものがあったろう。浮田は館長就任以来、特に図書館の活用を図り、『早稲田学報』第四十六号の「早稲田記事」に続いて次のような広告を出し、一般の寄贈を要請した。
篤学ノ士此広告一覧ヲ乞フ‼
図書館広告
書庫ハ智識ノ泉源ナリ。カーライルハ、之ヲ称シテ現代ノ真大学ナリト賛シタリ。欧米諸国ニ於テハ、書庫ノ大小ヲ以テ学校ノ価値ヲトスルニ足ルト為スモ、偶然ニ非ラズ。蓋シ書庫ハ良教師ト価値ヲ同クスル者ナリ。時トシテハ良教師ノ代人ト為ルモノナリ。故ニ智識ノ源流タル学校ニシテ善良完備ノ書庫ナクンバ、何ヲ以テカ混々タル世界ノ智識ヲ溢出セシムルヲ望ムベケンヤ。本校茲ニ見ル所アリテ、夙ニ図書館ヲ設ケ内外書籍ノ蒐集ニ従事セリト雖ドモ、創立日猶浅ク資本亦限アリテ、未ダ設計ノ目的ヲ達スル能ハザルヲ遺憾トスルヤ久シ矣。然ルニ今ヤ本校ハ学校内外ノ有志者ニ訴ヘテ、従来ノ素志ヲ貫カザル可ラザルノ秋ニ到着シタリ。乃チ本校ノ学生ハ、年一年ヨリ増加シテ既ニ一千余名ニ達シ、学課ノ程度ハ、期一期ヨリ進歩シテ夥多ノ参考書ヲ要シ、加フルニ明治三十五年ヲ期シテ大学部将ニ開設セラレントスルニ至レリ。是ニ於テ本校ハ、益々内外古今ノ書籍、新刊雑誌、地理、歴史ノ材料、標本等ヲ整備シテ、図書室ヲ完全ナラシムルノ一大急務ニ遭逢シタリ。希クハ江湖ノ諸彦陸続多少ニ拘ハラズ金円若クハ物品ヲ投ジテ本校ノ目的ヲ賛助セラレンコト、是レ本校ノ切ニ希望スル所ナリ。若シ又タ、諸君ノ中ソノ愛読貯蔵セラルル書庫アリテ自宅ニ置クノ必要ナキカ、若クハ火災ノ危険ヲ慮カルル場合アラバ、本校ノ図書館ニ貸付セラレンコト、是レ又タ本校ノ切望スル所ニシテ、本校ハ厳重ニ之ヲ保管シテ、以テ依託ノ責ニ任ズ可シ。因テ左ノ条々ニ従ヒ普ク江湖諸彦ノ賛助ヲ希フト云爾。
第一条 本校図書館ハ、左ノ物件ヲ寄付セラルル諸君ノ姓名ヲ寄付者名簿ニ記入シ、其領受証書及謝状ヲ発送シ、又タ其ノ姓名ヲ早稲田学報ニ広告ス可シ。
一、金円 一、古文書、古器物 一、和漢洋書籍、雑誌及ビ地図、標本 一、地理学上ノ標本
第二条 図書ヲ貸与セントスル人ヘハ、本校ヨリ証書ヲ差出シ、其図書ハ特別図書トシテ厳重ニ保管スベシ。
第三条 特別図書ハ、依託者ノ許可ヲ有スル者ノ外、何人タリトモ室外ニ携帯スルヲ許サズ。
第四条 特別図書閲覧手続ハ、総テ図書室閲覧規程ニ拠ル者トス。
第五条 本校ニ於テ特別図書保管中、若シ之ヲ毀損シ又ハ紛失シタルトキハ、所有主ノ望ニ因リ原品若クハ代価ヲ以テ賠償スベシ。
第六条 特別図書ハ、其ノ所有主ニ於テ入用ノ節ハ、何時タリトモ其返戻ヲ請求スルヲ得ベシ。
以上
三十三年十月 東京専門学校
そもそも同攻会は小野梓の共存文庫の精神を継承するものであり、その設立の背後には小野の一方ならぬ尽力があったものと想像されるが、既に大学部設置の計画が公表され、二年後には早稲田大学が設立されんとするのであってみれば、同攻会の歴史的意義は終了したのであり、次巻に説述するように、新図書館の竣工を機に事実上解散するけれども、それこそまさに発展的解消と言うべきで、たとえ同攻会は消滅しても、本学苑が続く限り、その名声と功労は永久に伝えられるであろう。
大隈の政治学校と世間から見られていた東京専門学校時代の学苑は、五大法律学校の一員として、自他共に認める存在でもあった。五大法律学校とは、最初は、専修学校(十三年創立、専修大学の前身)、明治法律学校(十四年創立、明治大学の前身)、東京法学校(十四年創立、二十二年東京仏学校と合併し和仏法律学校と改称、法政大学の前身)、英吉利法律学校(十八年創立、二十二年東京法学院と改称、中央大学の前身)と学苑とを指すものであったが、専修学校が著しく減少を見せた法律科の生徒の募集を二十七年以降停止して、その特色とする理財科に専門化するのに伴い、専修学校に代って日本法律学校(二十二年創立、二十三年開校、日本大学の前身)が、その一角を次第に形成するようになって来る。
さて、五大法律学校とは称せられるものの、学苑と他の四校とは、単にその所在地が、郊外と都心と異っていたばかりでなく、学苑が人間教育に重点を置いたのに対し、他の四校では職業教育を旨とするという顕著な相違があったのは事実である。例えば、学苑以外の諸学校が位置する神田地区の歴史を伝えた『千代田区史』の一節には、
〔明治〕十年までの私立学校では、英語その他外国語を教授する学校が多かつたが、次の十年代では、法律専門の学校が次々に生れたのが特徴であつた。一方では自由民権運動の昻揚に見られるように、青年の間に政治熱がたかまつたこと、他方で条約改正にからんで十年代後半から法律制定がすすめられ、法律の知識にたいする需要がたかまつたことが、この風潮を生んだものであつた。 (中巻 四二六頁)
と記されているし、明治大学法学部八十五年史編纂委員会が刊行した『明治法律学校における法学と法学教育』には、「私立法律専門学校の相つぐ設立とその動向は、わが国における代言人制度の発達と無関係には考えられない。」二五頁)とし、
代言人のもつ社会的責任がいよいよ重くなつてきたにもかかわらず、公事師、無免許時代のいかがわしい代言人の弊風があまりひどかつたのと、免許代言人時代になつてもその弊風が容易に一掃されがたかつたため、世間から代言業のもつ積極的意味がなかなか理解されなかつた。ここにおいて望まれるのは、より高度の知識と高邁な抱負をもつた在野法曹を育成することであつた。あたかも、代言人規則改正〔明治十三年五月〕以前から講法局と代言局の二本立で存在していた私立法律学校は、改正規則によつて代言業務を兼ねることができなくなり、私立法律学校はいわば代言社的な尻尾を落して、まさに法律専門学校たることが要求されるようになつた。 (二三頁)
と述べられている。
これに対して、学苑の法律科の特色は、後年、大学部法学科・専門部法律科の初代科長に就任した小山温の言を以てすれば、
他校の法律書生とは異なり、法律を学んで判検事、弁護士になる目的で勉学する人は少く、他日卒業の暁は地方に帰り家業に就き、又は郷土の政治経済方面に活躍を志してゐる人が主で、職業を得る目的の為に学問を為すといふ風ではなくて、人間を造る為に学問をすると言ふ風でした。
(「法科回顧録」『早稲田法学』昭和八年五月発行第一三巻「創立五十周年記念論集」 九一頁)
小山は明治三十年から大正の半ばまで学苑で教鞭をとったのであるが、当時の事情を次のように語っている。
政治科、文科に比較して、〔法科が〕あまり振はなかつたのは、専任の教員のなかつたことにもよるが、特に法科の主任を他から迎へると言つた風で、とかく学校も法科には他科程力を注がなかつたことなどが原因したものと存じます。政治科、文科には専任の先生が有つたが、法科には専任の先生一人もなく、全部校外から来てもらつてゐた様でした。又先生は主として裁判所方面の人で、帝国大学の先生には依頼しなかつた様です。 (同書同巻 九一頁)
学生の側でも、学苑の法律科に対して、小山と同じような見方をしていたことは、二十年代初めに在学した野間五造の左の言によっても明らかである。
我々在学当時に於ては、早稲田の法律部と云ふ者は、決して優秀な者では無かつたし、亦決して繁昌して居たとも言へ無かつた。他の四大法律学校に比較して頗る劣等な者であつたのみならず、生徒の数も甚だ少なく貧弱極まる見窄らしい者であつた。元来に於て早稲田学園の特長は政治学科で有る。此学科は毎時も栄へて居た。従て早稲田学園の法学部の生徒は半分は政治科の学生の様で、他の四大学校の生徒とは其育ひ立ちに於て、其考へに於て、余程と異つて居た。彼等は法律を学びつつ、法律を以て一代飯を喰ふとは思ふて居無かつた様子で、弁護士試験や判事試験を受ける者が甚だ少なく、却つて文章を書いて新聞記者に成つたり、演舌使ひと成つて地方政客の群に投ずる者が多かつた。学校の方でもまた、他の法律学校の様に、民法や商法の研究に重きを措か〔なかつた〕。 (同書同巻 六七頁)
前編第十三章に説述したように、岡山兼吉と山田喜之助とが学苑都心移転案を提唱して容れられず、学苑と袂を分つに至ったのは、砂川雄峻がその一年半余り前に大阪に赴いたのと合せて、創立時の学苑法律学科の首脳部が、僅かに三年にして潰滅したことを意味するものであった。これらの欠員の補充は、政府の妨害もあって容易でなく、小野梓さえ、「英律を教授するを以て目的とし創立したる法学部なれば、恰好之教師を不得時は、一時中止して之を授けざる事と致し、中途に在て仏蘭西律を教授し、稍々其初志を変ずるに近き事なき様致度と存候。」(十八年六月五日付書翰)と大隈に書き送ったほどであったが、大隈はあくまで法律学科の存続を希望したので、三宅恒徳、俣野時中の両名を専任に聘し、更に関直彦などの協力を得て、漸く何とか糊塗したのであった。しかし、三宅も俣野も、教師としては必ずしも適任と言い得ず、間もなく学苑を去ることとなり、高田が「我が法学部の中心人物」と称した平田譲衛が法律科に定着するに及んで、漸く何とか陣容を整え得たのである。上原鹿造(二十五年邦語行政科卒)が次のように記しているのは、辛うじて危機を脱した後の学苑法律科の実状なのである。
私共の居つた二十四五年の頃に於ては、専門学校の法律科の先生には、相当の人を得られて居つたと思ふ。其当時江木衷博士、磯部四郎博士、平田譲衛先生、岡野敬次郎先生、原嘉道先生、松崎蔵之助先生、奥田義人先生といふやうな立派な学者が法律の講義に従事されて居〔た〕。 (「法科回顧録」『早稲田法学』第一三巻 八頁)
いわゆる五大法律学校の活動は、明治法制史において、また明治教育史において、きわめて注目すべき主題であるが、ここでは、右に略説したような特異性を持つ学苑法律科がその中で演じた役割に焦点を絞って、以下に記述することにしよう。
学苑創立五十周年に際して、法学部長寺尾元彦(三十九年大学部法学科卒)がまとめた公的記録とも言うべき「法科の過去及現在」(『早稲田法学』第一三巻)には、これに関連する記事として、次の三項が発見される。
明治二十年頃になつて政府の圧迫は稍緩んだが、是れも重圧が緩んだといふに止まり、軽圧は依然として加へられた。それに対抗する為め、早稲田が主催となつて、都下の「私立学校聯合会」を開き、その打開策を講じたことさへもあつたそうである。
(一〇三頁)
明治二十一年五月、政府は……「特別認可学校規則」を公布した。是に於て我学園は明治、法学院、専修、和仏の四校と共に「聯合法律学校会」を設け、特別認可学校の資格獲得及現在学生無試験の特典を得る為めに団結して行動した。
(一〇四頁)
〔明治二十九年〕十一月十八日には、「法学会」の主唱の下に、都下法律学校の聯合大討論会を大講堂に開き、来会者千五百余名を算した。 (一〇四頁)
この最後の記載に見られる、学苑が参加した他の法律学校との聯合討論会としては、既に十六年十一月二十一日の『読売新聞』に次のような記事が見られる。
当今府下に於て尤も評判よく六大法学校と算へらる明治法律学校、明治義塾〔十四年創立〕、東京法学校、東京専門学校、専修学校、泰東法律学校〔十五年創立〕の教員生徒が申し合せ、法律上の研究に兼ては親睦の意を表さんとて、毎月一回づつ集会する事に決し、去る十八日、神田中猿楽町の専修学校にて第一回を開かれ、当日は同校教員法学士鈴木充美氏が会頭となりて、成文律の可否に付て討論あり。会員は二百余名にて、銘々得意の弁を振ひ、弁難攻撃時を移せしが、多数にて成文律を可とするに決したりとか。尚ほ来月よりは、各校より一名づつ撰抜して会頭を順番に勤められるといふ。
これは、学苑創立以前、十四年頃に設立されて、三、四回開催された後中絶していた法律聯合研究会を再興したのであると言われるが、学苑からは、早川早次、森谷三雄の両学生が尽力している。そして、この記事にあるように、以後毎月開催されたか否かについては、資料が欠けているけれども、明治二十年代になると、きわめて注目すべき活動が五大法律学校関係者により展開され、他の法律学校と比較して弱体である学苑の学生や校友の雄弁が、その聯合討論会では他校を瞠目させることさえあったことは、野間五造が左の如く指摘したところである。
明治二十三年の春には、我邦始めての国会が開設されると謂ふので、其両三年前から、弁論の練習が盛んに行はれ、到る所に演説会や討論会が開会せられた。其中でも五大法律学校の聯合討論会は非常な評判で、……会場は何時も満場立錐の余地無き迄での盛況を呈して居たので有つたが、其五大法学校の内で、全く早稲田の選士が言論の雄として、嶄然群を抜いて居た。其情況は恰度現今の野球仕合に於て、早稲田が冠頭の位置を占めて居ると同様の始末柄であつた。
(「法科回顧録」『早稲田法学』第一三巻 六七頁)
東京五大法律学校聯合討論会は、二十一年三月十一日、神田区一ツ橋通り帝国大学講義室で第一回の会合を開いて以来、同年中に計四回、二十二年に五回、二十三年に六回(?)同じ会場で開催せられた。その記録は、『五大法律学校聯合討論筆記』、『五大法律学校聯合討論会雑誌』、「東京五大法律学校聯合討論筆記」(『日本之法律』号外)に順次掲載されたが、委員はその目的を次のように記している。
本会ヲ創立セル其目的ハ東京ニ樹立セル五大法律学校講師・校友等一堂ニ会シ、互ニ其蓄積セル学理ノ蘊奥ヲ叩キ、新理ヲ発見シ、智識ヲ交換シ、且ハ各自其交際ノ親密ナランコトヲ望ムノ趣旨ナリ。就中従来我国未ダ一定ノ成文法ナキヲ以テ法律ノ学課其具ニ乏キノ憂アリ。故ニ法律ヲ学ブ者其因ル所ノ源各異ナリ、英法ヲ研究スルモノ、仏典ヲ専修スルモノ、独逸・伊太利等、各其志ス所ノ法律ニ由テ攻修シ来リタリ。……近来我国法律社会ノ有様ヲ見ルニ、彼レ其修ムル所ノ国法ノ異ナルヤ、真正ナル学理ノ攻究ヲ勉メズシテ、末流ノ輩、偏見ヲ以ツテ其道ヲ曲庇セントスルノ弊アリ。抑モ我法律家ハ我日本帝国ノ臣民ナリ。日本帝国ノ臣民ノ法律ヲ研究スルニ当テヤ、眼中仏蘭西ナシ、又英吉利ナシ、独逸・伊太利彼レ何物ゾ。只夫レ英法ニ執ル可キアリ、伊法ニ捨ツベキアリ、仏典改ム可シ、独律正ス可シ。要スルニ一理一弊ハ宇内ノ通患、攻究討義、長ヲ執リ短ヲ捨テテ初メテ能ク真理ヲ発見スルニ足ル。是レ本会ガ……超然トシテ一大旗章ヲ飜シ、我東京五大法律学校済々タル有為ノ士ヲ網羅シ、偏セズ私セズ、中央ニ直立スル所以ナリ。……已ニ我帝国ハ純然タル法律整備ノ国タルニ至ラントス。……然レドモ法律ノ学タル深遠高尚、薄学浅見ノ徒ノ得テ解スベキニアラザルヲ以テ、其法ノ出ルヤ疑義百出、難問交モ起ルハ已ニ諸外国ノ例ニ徴シテ屢見ル所ナリ。今ヤ此ノ艱難ノ衝ニ当リ、難問ヲ氷解シ、疑義ヲ弁明シ、且ツ法典ノ完全ナラザルヤ、改ム可キハ之ヲ改メ、捨ツ可キハ之ヲ捨テ、縦横局ニ当テ英断果決、恰モ莫邪・正宗ノ名剣ヲ振テ乱糸ヲ切断スルガ如キハ、夙トニ仏・英・独・伊ノ諸外国ノ法理ヲ攻究シ、技術才幹其素アルノ士ニアラザレバ、以テ此ノ任ニ当ルニ足ラズ。我五大法律学校ハ誠ニ此ノ済々タル士ニ乏シカラズ。而シテ亦本会ハ特ニ五大法律学校済々タル多士、一粒撰リノ名士ヲ以テ、能ク一堂ニ会シ其蘊奥ヲ吐キ出スノ組織ナレバ、鋭鋒当ル可ラズ、光茫閃々、法律社会ヲ照シテ我法典ニ一大輝色ヲ添フルハ遠キニアラザル可シ。是レ本会ノ夙トニ希望シテ已マザル所ナリ。
(『日本之法律』明治二十三年七月発行号外「東京五大法律学校聯合討論筆記第五編」 九九|一〇〇頁)
さてその第一回会合については、当日の状況が左の如く記録されている。
明治二十有一年三月十一日午後一時、本会ノ第一回ヲ一ツ橋外帝国大学ノ講議室ニ開会ス。此日ヤ日麗ニシテ風清ケレバ、午前十一時頃ヨリ来会セル各校ノ校友生徒無慮千五六百名ニ及ビ、満室立錐ノ余地ナカリキ。臨場ノ各校講師ニハ日本仏国法律学士磯部四郎、薩埵正邦、法学士三宅常倫、法律学士飯田宏作、米国法律学士中村忠雄、吉原三郎、法律学士春日粛等ノ諸氏ナリ。開会ニ先ツテ本会委員明治法律学校々友帖佐顕氏開会ノ趣旨ヲ演舌シ、演舌終リテ直ニ開会シ、薩埵、中村、飯田ノ諸氏順次議長トナリ、発言者ニハ各校々友等ヨリ臨時抽籤ヲ以テ之レヲ定メ、加フルニ磯部四郎、飯田宏作、吉原三郎、薩埵正邦ノ諸氏モ発言セラレ、十席ヲ重ネ、午後五時頃閉会セシハ実ニ近来無比ノ盛会ナリキ。(『五大法律学校聯合討論筆記第一回第二回』 一八七頁)
学苑からは校友首藤貞吉と園田(栗山)賀四郎とが委員に参加しているが、第一回会合の討論には学苑の校友に参加者はなく、学苑関係者としては、講師磯部四郎と中村忠雄との名が議長および発言者の中に僅かに見られるのみであった。しかし五月二十一日の第二回会合には、磯部講師の他に、首藤ならびに学生平野法梁が熱弁を揮い、更に九月三十日の第三回会合には、討論に参加した学苑講師の数が、何れも他校と兼任の講師ではあるが、戸水寛人、中橋徳五郎、松野貞一郎と増加したばかりでなく、新校友木下尚江が刑事問題につき、簡にして要を得た討論を展開しているのが注目される。
本会の江湖に及ぼした反響については、
一度ビ大問題ノ我五大法律学校聯合大討論会場上ニ登ルヤ、社会ノ耳目悉ク爰ニ注射シ、府下著名ノ諸新聞ハ特ニ委員ヲ派シテ本会ノ事ヲ探ラシメ、志士・論客ト称スルモノ悉ク本会ノ議決如何ニ注目スルニ至リ、聴衆常ニ千五百人ニ充ツルニ至ル。
(『日本之法律』明治二十三年四月発行号外「東京五大法律学校聯合討論筆記第三編」 一〇三頁)
と委員は誇っているが、事実、本会の記事はしばしば新聞紙上を賑わした。例えば、その第三回討論会については、二十一年十月二日の『東京日日新聞』に、次のような記事が掲載されている。
一昨三十日正午より、神田一ツ橋外大学講義室に於て第三回五大法律学校討論会を開く。会する者千六、七百名。民・刑二間題に付き弁士交々立て論難駁撃殆んど余蘊無く、十八席を重ねて午後五時四十分頃全く閉会せり。当日の来賓・講師の姓名は鳩山和夫、戸水寛人、中橋徳五郎、平田譲衛、宮城浩蔵、松野貞一郎、飯田宏作、今邨信行、光妙寺三郎、山田喜之助、股野潜、吉原三郎諸氏なりき。
扨民事問題(契約履行云々……)に附ては契約を有効とする論者七名、無効とする論者三名、決を聴衆の起立に問ひたるに有効説多数なりき。此問題に付き、重なる論者は戸水寛人、中橋徳五郎、松野貞一郎、鳩山和夫の諸氏なりき。
次に刑事問題(決闘事件)は有罪論者六人、無罪論者二名。而して有罪論者中にも、或は決闘者を謀殺とし、介添人を無罪とするものあり、或は殴打致死に擬するものあり、又た無罪論者中光妙寺三郎氏が、決闘を以て文明の花と称し、三十分許り演説し、拍手喝采の裡に徐に論局を結びたるは一層目覚ましく覚えたり。
これらの聯合討論会においては、討論の出題者としては毎回のように、また講演者としてもしばしば、学苑講師の名が発見される。例えば、二十三年七月十三日の討論会について、七月十日の『読売新聞』は次のような予告記事を載せているが、伊藤、三宅、中橋は学苑講師である。
来る十三日午前八時より神田一ツ橋通り帝国大学講義室に於て開く五大法律学校聯合討論会の問題及び講題は左の如し。
第一 民事問題 法学士 伊藤悌治君出題
甲者乙者より粘土若干噸を一噸若干円にて買受くる事に約せり。右売買の契約を以て右の粘土は甲に於て運搬を為す事とし、運搬の途中に仕掛けたる器械を以て衡る事に約せり。然るに未だ全く運搬せざる中に、天災に由り、売買を約せし粘土悉く流失せり。右粘土の流失より生ずる損失は、甲乙何れが負担す可きや。
第二 刑事問題 法律学士 宮城浩蔵君出題
甲者乙者より金若干円を借受くるに付き丙者の保証を必要とす。然るに丙者会不在、已を得ず、甲者は丙者の印影を偽造し、以て乙者より借受け、後丙者に告ぐるに事情を以てし、只管其承諾を乞ふ。丙者之を許し、乙者に向つて其義務を追認せり。是より先き、乙者事に因て甲者と悪し。爰に至て奇貨措く可しと為し、其追認書を破て之を無き者にし、更に甲者に係り偽造行使の告訴を提起せり。甲者之を聞て其無状を憤り、乙者に係り誣告の告訴を起せり。右甲乙の処分如何。
第三 国際法問題 法学士 三宅恒徳君出題
甲国は乙国を自己の所属国と看做し、事々内政に干預し来りしが、丙丁等諸国之を独立国として条約を結び、対等の交渉を為せども、甲国は数年を経て猶ほ其の関係を改めず。甲国の乙国に対する主宰権猶ほ存するや否や。
講演
法典修正論 中橋徳五郎君演
尤も、当日疾病のため、中橋の講演は取止めとなった。
なお、二十二年五月五日には「五法律学校東北七州学生大懇親会」が日暮里の修性院で開催されたり、同年九月一日には「五大法律学校々友政談演説会」が浅草非生村楼で開かれたりして、五大法律学校の学生や校友の問には当時かなり密接な連絡が保たれたもののようであるが、二十四年になると聯合討論会は中絶している。学苑の法律関係学生数が、二十三年と二十四年とを比較すると、半数以下に減少したのは、一〇二三―一〇二四頁の第十七表によって明らかであるが、これが学苑のみの現象でなかったのは、他の私立法律学校の卒業生数が、二十四年には、前半に比して、東京法学院を別として大幅に減少している(専修、明治、和仏、法学院の合計では、九二八名から五七六名への減少であり、それに学苑の数字を加えると、一、〇三五名から六五八名への減少となる。――『九大法律学校大勢一覧』二四八頁ノニ参照)ことではっきりと示されている。この減少について、第二次『中央学術雑誌』は左の如く報じているが、聯合討論会の中絶がこれと関連するものであるのは、容易に想像し得るところである。
法典の編纂は法理の発達を害すとは、富井博士の大に論ぜし所なるが、如何にも近来法律書生の数を減じ、従て法律学校の衰運を来せり。蓋し法典の解釈ならば註釈書によるも充分にして敢て講師の口演を仮るに及ぼずとの意に出で、地方より法学を修むる為め負笈上京するもの少きによらん。然れども法文の死したる解釈は註釈によりて充分なるも、法理の活きたる研究は学者の〔謦〕咳に接せざる可らず。 (明治二十五年六月発行第二号 五六―五七頁)
聯合討論会は、八九八頁に引用した公記録にも見られるように、学苑の法学会が音頭をとって、二十九年に復活した。同年一月発行の『中央時論』第二十号には、「五大法律学校聯合討論会」と題して次のように報ぜられている。
曾て同会の存せし比は、私立法学校の気焔を吐くの地として世の驚きし所なるが、明治廿四年より経費の不足によりて中絶したりしは誠に惜しむべき事なり。今や又各校の有志中此挙を企つるものありと云ふ。五大法律学校たるもの、各自費用を分担して之が再興を務めざる可からず。此挙は実に法律界の気焔を揚ぐるものなり。 (二二頁)
そして、この記事は「五大法律学校聯合討論会再興の議」と題する左の寄書を招いた。寄稿者は斎藤又郎で、東京法学院の学生であるとともに本校の校外生の一人であった。
首を回せば、今を去ること六、七年以前の頃なりと思ふ。明治、専門、法学、専修、和仏等の各私立法律学校の諸氏は、協議相謀りて所謂五大法律学校聯合討論会なるものを設立し、以て大に気焔を吐きたることありき。……其後何時となく其跡を絶ちて香もなく声も無きに至りしは、是非もなき事とは申しながら甚だ遺憾に耐へざる所なりし。……情々現時我邦法律社会の情勢を視るに修正民法案は既に議会に提出せられ、……又或は刑法、商法の如き孰れも皆な現に法典調査会委員の手に附して頻りに其改正を急がるる。……従而法律を運用する司法官は勿論、法学を攻究するの学生たる者は、曾て五大法律学校聯合討論会の設けありし時に比して一層の覚悟と一段の奮励とを要す。……目下社会の情勢は、……大に其必要を叫ぶの傾向あるを以て、余輩は励声一番大に天下同志の諸君に訴ふる所あらんとす。都下各私立法律学校の学生諸君無慮幾千、而かも鵬志を持し壮図を抱きて斯学に身を委ね、他日邦家の為めに大に雄飛せらるるの覚悟を有ちながら、何ぞ進んで此壮挙を企つるの勇気なきや。若しそれ之れが費用及び組立の方法の如きは、予輩乞ふ其一端を左に述べん。
一、聯合討論会は、各私立法律学校より一校につき委員三名位ヅツ選出して其世話を為さしむる事。
二、聯合討論筆記を発刊して、法律大家の論説及び法律に関する一切の記事を併せ掲載して之を公にすること。
三、聯合討論会に関する総ての費用(凡そ二十五円)及び雑誌不足金(凡廿五円)は、各校の均一分担とすること。
四、聯合討論会は、隔月一回開会すること。 (『中央時論』明治二十九年三月発行第二二号 一三―一四頁)
こうして学苑の主唱により復活した聯合討論会の記録は『六大法律学校聯合討論会筆記』として公刊されたが、その末尾には、以下のような記事が掲げられている。
一瀉千里の勢を以て第九議会を通過し、尋で裁可公布せられたる改正民法の実施は正に指呼の間に迫れり。此が法条の精神を討究し、此が実際の適用を論難し、以て解釈の一致を謀るはこれ法曹界にある吾人の本分なりと謂ふべし。又大審院、行政裁判所及び其の他の裁判所に於て下したる判決例なるものを見るに、其の法理の錯誤往々にして慊焉たるべきもの尚尠とせず。之を駁撃し之を論究し、以て法律の適用を誤らざらしめんとするもの、これ亦吾人の責務なりと謂ふべし。加ふるに条約の改正は着々其の歩を進め、其の実施と共に法律的の関係は益々複雑を極め、法治国の実愈々揚がらんとす。社会の状勢は法曹界をして恬然日を曠ふして苟安を偸むの態なからしむるに至れり。これ早稲田法学会が、一時中絶したる法律学校聯合討論会の再興を計る所以のものにして、豈にまた他あらんや。早稲田法学会は、帝国大学、東京法学院、明治法律学校、日本法律学校、和仏法律学校、慶応義塾、此等の学校と互に気脈を通じ、交誼を温め、結社的の団体は已上の大目的を達せんと欲し、委員を派して之に交渉したるの結果、帝国大学を除くの外は、大に此の聯合に賛同の意を表せられ、以て盛大なる法律学校聯合大討論会は、去る十一月八日日曜日をトし、東京専門学校大講堂に開会せらるるに至れり。会するもの、講師・校友・学生を合せ無慮二千五百有余名、さしもに広き大講堂も立錐の地なく、為めに一時は門戸を閉鎖して入場を謝絶したるに、門前には蟻の蝟集するが如く、大声以て開鎖すべしと怒鳴り、土塀を破壊して乱入せんず勢ひは、さながら戦場の思ひを為し、吾人の心をして壮ならしめたり。 (八三―八四頁)
午前九時開会、学苑の玉川謙吾が「開会之趣旨」を述べた後、新進の学苑講師中村進午が議長となって、中絶前の聯合討論会にも出題したことのある法学博士富井政章(当時はまだ学苑の講師ではなかった)出題の「甲、乙を殺害するの意思を以て之に毒物を服用せしめたるに、乙は間もなく丙に殺されたり、甲は毒殺未遂を以て論ずべきや。」につき、法学院五名、和仏三名、明治三名、日本二名、学苑四名(山岸与四郎、中井隼太、小沢長之助、堀添壮吾。何れも学生または若い校友)が討論に参加し、昼食休憩を挿んで夕刻に及び、この間校長鳩山和夫の挨拶があり、また午後よりは学苑法学部主任講師平田譲衛が議長席に着いたが、若い学苑講師勝本勘三郎の解説を最後として閉会した。鳩山は、自分が会長であるとはいえ、早稲田法学会は、「専門学校に居る法学生諸君の発起でござりまして学校は一向関係がない」と挨拶の中で述べてはいるけれども、実質的には学苑の主催に近いものであったのは事実であろう。この討論会は、その後年二回開会するよう決議されたようであるが、それが実行に移されたという記録は発見できない。
聯合討論会は、私立法律学校の、学生・校友・講師の活動であったが、これとは別に、学校経営者の間にもまた、共通の利害関係について連絡を密にし、一致した行動を執ろうという、戦後の日本私立大学連盟なり日本私立大学協会なりの萌芽とさえ言い得るような動きが存在した。八九七頁の寺尾執筆の記録の第二項に記されているのは、二十一年五月五日、「文部省令第三号」を以て「特別認可学校規則」(五四六―五四七頁参照)が制定され、五大法律学校が帝国大学総長の監督を解かれたのに際して、その第一条に定める特別認可学校の指定を得、また、二、三年生を無試験でその特典に浴せしめることを目的として、一致した行動に出るとともに、定期的に懇親会を開くことを、五校で申し合せたのを指すものである。すなわち、その第一回会議は、二十一年五月十六日、神田万代軒に会し、次のような決議を行っている。
一、五法律学校ハ、各適宜ニ認可学校タルノ請願ヲ為ス事。
一、五法律学校連署ヲ以テ目下在学生徒中、第二年生、第三年生ニ限リ、明治廿一年文部省令第三号ニ依リ入学試験ヲ要セズ認可学校生徒タルノ特典ヲ与ヘラレンコトヲ文部大臣ニ請願スル事。
一、毎年二度五法律学校ノ懇親会ヲ開ク事。
一、半年代リノ当番ヲ定メ置キ、五法律学校ニ関スル総テノ事ヲ処理スル事。
但抽籤ノ法ヲ以テ当番ノ次序ヲ定ム。
明治法律学校
英吉利法律学校
東京専門学校
専修学校
東京法学校〔抹消して和仏法律学校と訂正してある〕
(『明治二十一年聯合五法律学校要録』)
そして右の決議については、その結果が引続き左の如く記録されている。
明治廿一年六月廿七日附ヲ以テ第一回ノ決議二基キ、五法律学校々長連署ニテ、東京府庁ヲ経由シ、第一号之請願書ヲ文部大臣二捧呈ス。
文部大臣ハ第一号請願書ニ対シ、明治廿一年九月二十四日附ヲ以テ左ノ指令ヲ為セリ。
書面在来ノ第二年課以上ノ生徒ニ特別認可学校規則第三条ノ入学試験ヲ欠ク儀ハ聞届ケ難シト雖モ、其入学試験ヲ該生徒卒業期マデ延期スルハ苦シカラズ。又仝第一年科生徒入学試験延期之儀ハ願之通。
この『要録』に記録されている会合は、例会八回、臨時会議一回で、会場には万代軒の外、松源楼、八百善楼、東京法学院が充てられ、参集者は最低七名、最高二十八名であった。会合は、初めのうちは目標が定まっていたせいか相当活気を帯びたものであり、また各校の紐帯を固めるため交流が盛んに行われた。例えば、第二回会議では、「甲ノ認可学校ニ於テ認可規則ニ拠リ入校試験ニ及第シタル者ニシテ、其校ノ及第証明書ヲ有スルトキハ、乙ノ認可学校ニ於テ直チニ入校ヲ許ス事。」とか、在学者の転学編入を認めている等がその良い例である。しかるに第七回、第八回に至ると、特定の議定事項もなくなり、遂に二十五年四月十六日を最後に記録は絶えている。
なお、この間において、五大法律学校の有志による注目すべき活動として、司法大臣山田顕義の「機関学校、国家主義保守党の養成所と噂さされた」(『公友雑誌』明治二十三年四月発行第二号四八頁)日本法律学校に対する特別保護反対運動が存在した。二十三年四月十一日の『読売新聞』は、
今般設立せし日本法律学校を特別認可とし、五万円の保護金を与ふるのみならず、書籍の売却代金三万五千円及び従来司法省の所有に属せし書籍の版権をも下付さるるとの風説ありしより、他の認可学校即ち五法律学校の校友中有志の士は大不平を抱き、去る九日神田錦町三丁目の重の井に集会を開きたるよしなるが、其不平とする処の要点を聞くに、特別認可を与ふる学校は、法律に定むる学科を三年以上授業し来り、且つ何名以上の学士を備へ置き、及び其他の条件を具へざるべからざるなり。然るに右の法学校の如き外国語を教授せざる学校に特別認可を与へ、且つ莫大の保護金を与ふるは不都合の処置なりと云に在〔り〕。
と伝えたが、更に五月四日の『東京朝日新聞』は、
〔日本法律学校事件の政談演説会は、〕愈々今四日午後一時より富士見町河岸富士見楼に於て開会するよし。出席弁士は平松福三郎、久保田与四郎、信岡雄四郎、塩入太輔、藤井乾助、花井卓蔵、鳥居鍗次郎、本田恒之、黒川九馬、田中唯一郎、田中亀七、北岡保定、増田岩男、渋谷三郎、平井恒之助、結城朝陽等の諸氏にて、傍聴は無料なり。
と報じ、黒川九馬、田中唯一郎、渋谷(坂本)三郎と学苑校友の活躍が偲ばれる。尤も、官辺からの補助金については、独逸学協会学校をはじめとして、先例があったし、特別認可の件は、「過日浜尾専門学務局長がある人々に答へたる如く、三ケ年以上云々の条件の如きは、独り徴兵令に干係したる制限にして、文部大臣は少しもこの辺に懸慮するに及ば」(『読売新聞』明治二十三年五月五日号)ないのであって、反対運動には山田に対する感情的反発が多分に加わっていたことは否定できないであろう。すなわち、先の英吉利法律学校に続き、このたびの日本法律学校と、山田顕義の学苑の勢力削減に対する執念に対しては、学苑関係者が不快の念を禁じ得なかったのは事実であろう。なお高田が、二十四年一月十九日、第一議会の衆議院予算案全院委員会において、特別認可学校中特に保護金を与えられているもののあることについて、質問しているのを付言しておく。
さて、『早稲田大学沿革略』第一の二十七年三月二十八日の条には、「司法官試験ノ件ニ関シ五法律学校同盟規約ヲ決ス」と記載されている。これが先に九回の会合の記録を残している「聯合」の延長であり、強化であるか否かは断定し得ないが、二十七年三月発行の『中央時論』(第一号)に、
専門学校は文部省の指定学校となりしに付ては、従来の得業生又は向来の学生中、一年後期又は二年後期に編入し満三年の在学なき者は、判検事の受験資格なきや否やに疑ありしが、彼の法学院の如きは一咋年の火災に旧記録を焼失し三年在学者と否らざるものの区別を為し難く、和仏法律学校の如きも合併前の記録なきを以て仝様の憂あり。夫れ是れ聯合会議の上、文部省に向て単に卒業生に資格を与へんことを請求し居りしと聴きしが、遂に其通りとなりしと云ふ。 (三四頁)
という記事が見られるところからすれば、「聯合」は消滅していなかったと考えるべきであるかもしれない。そもそも、二十四年五月十五日、「司法省令第三号」により制定された「判事検事登用試験規則」の第五条には、「判事検事登用試験ヲ受クルコトヲ得ル者ハ成年以上ノ男子ニシテ左ノ各項ノ一ニ該ル者ニ限ル」とあり、その第二項に、「文部大臣ノ認可ヲ経タル学則ニ依リ法律学ヲ教授スル私立学校ノ卒業証書ヲ有スル者」(『官報』第二三〇六号)と定めている。これによれば特別認可学校の卒業生は、右試験の受験資格を得ていたわけである。ところが二十六年十月九日の「司法省令第十六号」は前条の改正を行い、その第一項として、「官立学校及司法大臣ニ於テ指定シタル公私立ノ学校ニ於テ三年以上法律学ヲ修メタル証書ヲ有スル者」(『官報』第三〇八五号)と定めた。そして、同年十一月四日「文部省令第十五号」を以て「特別認可学校規則」が廃せられ、十二月十四日「司法省告示第九十一号」により、関西法律学校、独逸学協会学校、慶応義塾、日本法律学校、東京専門学校、専修学校、東京法学院、明治法律学校、和仏法律学校の九校が司法省の指定学校となった。しかし、前掲『中央時論』よりの引用文に窺われるような問題があるので、かねて連絡のあった五校が、一層連繋を密にし、その解決を促進しようとして、「同盟」を成立させたのではなかろうか。この同盟については詳細は不明と言わざるを得ないが、『早稲田学報』には、三十二年五月二十七日の「五大法律学校懇親会」に市島・杉田・田中(唯)が、また三十三年六月十三日の「五法律学校同盟懇親会」に高田・鈴木(喜)・杉田・田中(唯)が出席していることが報ぜられているところを見ると、「司法官試験ノ件」に関する「同盟」は必ずしも厳密に解すべきではなく、懇親会が寧ろその実体であったのかもしれず、また依然として、日本法律学校ではなく、専修学校がその一員を構成していたのである。
明治二十八年十二月発行の『中央時論』(第一九号)は、「私立学校校友並学生の運動」と題して、左の如き記事を掲載した。
〔帝国〕大学生は高等官試験に外国語を加へしめて私立法学生排斥の運動中なりとは前号に載する所ありしが、反之一方私立学生は所謂五大法律学校の校友・学生等一大団結を為し、大学生の弁護士営業の特権及び予備試験を受くるを要せざるの特権、無試験にて司法官試補たるの特権、此三のものを剝奪して、全く私立法学校の卒業生と同一ならしめんことを第九議会の問題とせんと運動中にて、此程再三集会を催ふし、各学校学生の代表者の間に略ぼ決する所ありたりと云ふ。 (四八頁)
これが「非大学派運動」と称せられるものの始まりで、同月五日の『東京朝日新聞』によれば、五大法律学校の中には、日本法律学校が入っていて、専修学校は除かれている。この年の運動は実を結ばなかったが、更に、翌二十九年十二月十一日の『読売新聞』は、
府下六法律学校の出身者及学生等は、大学出身者を無試験にて高等官に採用することに就て大に反対運動を為し、既に其筋に向て建白書をも提出したるが、尚ほ明後十三日午前十時より、江東中村楼に於て、六法律学校校友・学生等の大懇親会を開き、今後の運動方針に付協議する筈なりと云ふ。
と、前年より運動が盛り上がってきていることを報じている。この運動は、翌三十年二月の学苑の校友会大会の議事に取り上げられた。『早稲田学報』(明治三十年三月発行第一号)は、
和仏法律学校より「従来の文官高等試験は其儘据置き、帝国大学卒業生も一般志望者と同様、試験を受くるに非ざれば、高等官に採用するを得ざること」の件に付き、本会に交渉ありたるを以て、之を満場に問ふ。議論百出の末、座長より委員十三名を指名し、審議することに決し〔た〕。……右校友大会にて可決せし高等官試験の件に関し、委員協議会を〔三月〕七日牛込赤城清風亭に開く。市島、昆田、小山、渡辺、細野、黒川、堀添、並木、杉田、坪谷の諸氏会合し、「本校に於ては、各分科の校友を以て組織せられたる校友会なれば、校友会の名称を以て非大学運動を為すも到底決定し難きが故に、単に法学部校友の名称に於て運動すること」に決し、更に並木、堀添、小山、小林、上原の五氏を委員に撰み、和仏法律・法学院に交渉せしむることと為し〔た〕。 (一二四―一二五頁)
と記録しているが、その結果、
五法律学校々友聯合運動各校よりの委員の人名確定せしを以て、三月十八日神田金清楼に於て各校委員の聯合懇親会を開くことを決す。三月二十二日法学院会議室に会するもの、専門・法学・和仏・専修・明治五校委員二十名。席上、行政整理委員会が試験規則改正を為すの実否を議会に於て政府に質問すべき事を某々議員に依頼すること、各校委員各々行政整理委員の各員を訪問して事実を陳ずること、各校の委員聯合して会長大隈伯を訪ふ事、芝紅葉館に聯合校友会を開くこと等を議決し、其斡旋者五名を定めて散会す。右決議の主旨により各校友委員思ひ思ひに整理委員を訪問す。四月五日四時より紅葉館に聯合校友懇親会を開く。来会するもの多数。席上爾今継続して毎年一、二回宛此会を開くこと、並に行政整理委員会の経過はむしろ五法律学校々友に利得あるの傾きあれば、本会に於て此件に付ては何等の事をも格別に決議せざるべしとの事を議決し、各自歓を尽して散会す。因に云ふ、本校及び明治・和仏・専修は委員各四、五名宛なるも、法学院は委員三十名なり。
(『早稲田学報』明治三十年四月発行第二号 一二七頁)
ということになった。法学院が、他校委員合計数を上回る委員を出していることに、その熱意が察せられ、またこの場合にも、日本法律学校が疎外されているのが注目される。こうした運動に対して、三十一年八月十五日の『読売新聞』は、
府下各私立学校関係者は、曩に建議書を出して、官・私立学校の待遇を同等にせん事を求むる所ありしが、文部省にては、官・私立の区別に依りて其待遇を異にするは固より不可なれども、左りとて権利を附与せんと欲せば、又監督をも厳にせざるべからずとて、目下委員を挙げて之が調査をなさしめ居れりと。
と、政府の対策を伝えている。また、これより先、三十年十月八日号の『日本』新聞は、「五大法学会」と題して、
司法省指定学校なる五大法律学校の得業生、在学生及校外生等の発起にて、鳩山和夫、岡村輝彦、岸本辰雄、江木衷、長島鷲太郎、朝倉外茂鉄、花井卓蔵、井本常治、上原鹿造の諸氏其他廿余名の賛成を以て此程組織したる五大法学会は、其目的、会員の親交を保維し、新法典の解釈、其他法律及財政上に於ける時事問題の研究を為すに在りて、毎月一回法学新論と題する雑誌を発刊して会員に頒ち、且つ時々大会を開きて講演及討論を為す筈にて、其会員は既に五百余名に達したりと云ふ。
と報じているが、これに非大学派運動への暗々裡の応援の意図を結びつけても、強ち牽強付会とのみは言い得ないかもしれない。
以上、学苑が五大法律学校中のいわば異端児でありながら、体制順応を旨とする他の四校と、なるべく歩調を合せて、私学全般の発展を志した足跡を辿ったのであるが、この時期の全部を通じて、五校の利害が常に一致していたとは限らなかった。その最も顕著な例が、いわゆる法典論争である。
穂積陳重の『法窓夜話』には、こう説明されている。
此論争といふは、商法・民法両法典の実施断行の可否に関する争議であつた。即ち明治二十三年三月二十七日に公布せられて、其翌二十四年一月一日より施行せらるべき筈の商法と、及び明治二十三年三月二十七日及び同年十月六日の両度に公布せられて、明治二十六年一月一日より施行せらるべき筈の民法とには、重大な欠点があるから、其実施を延期して之を改修せなければならぬとの説と、之に対して、両法典は論者の言ふ如き欠点の存するもので無いのみならず、予定期日に於て其実施を断行するは当時の急務であると云ふ説との論争であつた。右の争議に関しては、……当時「イギリス」法律を学んだ者は概ね挙な延期派に属し、「フランス」法律を学んだ者は概ね挙な断行派に属して居つた。 (三三四頁)
明治三年、箕作麟祥にフランス民法を翻訳させたことに始まる我が国の民法編纂は、十一年の民法編纂委員による民法草案を経て、十二年以降フランスの法学者ボアソナードに起草させたものを主体とした旧民法が二十三年に公布されたのであり、また商法は、十四年ドイツの法学者レースラー(Karl Friedrich Hermann Roesler)の起草した草案に基づいた旧商法が同じく二十三年に公布されたのであった。そして、旧商法および旧民法の中で、最も激しく論争されたのは旧民法であった。我が国における法学教育は、司法省明法寮におけるフランス法教育と、東京開成学校におけるイギリス法教育と、二つの源流を持っているが、前者は明治法律学校ならびに和仏法律学校によって継承され、後者は学苑ならびに東京法学院によって継承されていた。帝国大学の法科大学には、英・仏・独の三科があったが、当時はドイツ法学は我が国では少数派に過ぎず、フランス法学とイギリス法学とが、我が学界を二分する形勢にあった。そこへ、フランス流の民法と、イギリス流とは言い得ない商法とが公布されたのである。フランス法学者が実施の断行を、そしてイギリス法学者がその延期を、強く主張するに至ったのは不思議ではない。私学にあっても、フランス法学派とイギリス法学派とは、真っ向から衝突した。そのそれぞれの本拠は、明治法律学校と東京法学院とであった。そして、激烈な論戦のすえ、先ず商法施行延期法案が第一帝国議会で成立し、二年後には民法もまた施行の延期を議決され、フランス法学派は一敗地に塗れた。再び穂積陳重の筆を借りれば、
延期戦は単に英・仏両派の競争より生じたる学派争ひの如く観えるかも知れぬが、此争議の原因は、素と両学派の執る所の根本学説の差違に存するのであつて、其実、自然法派と歴史派との争論に外ならぬのである。由来「フランス」法派は、自然法学説を信じ、法の原則は時と所とを超越するものなりとし、いつれの国、いづれの時に於ても、同一の根本原理に拠りて法典を編纂し得べきものとし、歴史派は、国民性、時代等に重きを置くを以て、自然法学説を基礎としたる「ボアソナード」案の法典に反対する様に為つたのは当然の事である。故に此争議は、同世紀の初に於て「ドイツ」に生じたる、「ザヴィニー」「ティボー」の法典争議と其性質に於て毫も異なる所は無いのである。 (『法窓夜話』 三五二頁)
以上、法典論争について若干の紙面を割いたのは、これが五大法律学校中のあるものに対しては、きわめて大きな影響を及ぼしたからである。例えば、『明治法律学校二十年史』の如きは、
法典断行論の敗衂は、仏法学派の敗衂なり。仏法学派たる我校、焉ぞ此が影響を免る可けんや。況や其の陣頭に立てりし者は、概ね我校有力の諸氏たりしに於てをや。即、我校は此の一敗よりして以還、衰頽の気運徐々として襲ひ来り、明治二十六年より同二十九年に至り、歳を追うて淪落摧残しつつ往きぬ。過ぐる二十三、四年の交に於ける、旭日沖天の盛境は、今や黄梁の一夢たり。 (六三頁)
と悲歎の涙に暮れているし、勝者の方では、
法典延期の決せらるるや、仏法系の諸学校は敗戦の結果非常なる衰運に遭遇し、轗軻落寞の観を呈せしに拘らず、本大学は斯る戦勝の結果意気頓に揚り、正に之と反対なる盛況を齎らし以て今日に至れり。蓋し我大学の今日ある所以、法典実施延期問題当時の戦闘者に負ふ所少からざるべきを信ず。 (川島仟司・高野金重編『中央大学二十年史』 一八七頁)
と、いささかも喜びを隠そうとしていない。
ところが学苑の場合、イギリス法学の立場を鮮明にしているにも拘らず、法典論争には派手な動きを何ら見せていない。これは、当時の学苑の法学陣が、いわば借りものであり、他法律学校に比べて弱体であったことも勿論大いに影響しているに違いない。しかし、二十三年に校長に就任した鳩山も、その補佐役の筆頭高田も、英米派として世に聞えた人物である。彼らを擁して、なぜ学生が、延期運動の一翼を形成しようとしなかったのであろうか。考えられる一つの大きな理由は、大隈が二十一年初め黒田内閣の外相に迎えられ、明治政府に課せられた最大難問題の一つである条約改正の実現に向って邁進したが、そのためには、刑法・治罪法・民法・商法・訴訟法の編纂・改正の必要を認め、二十二年二月二十日付「法典編纂及飜訳ニ関スル宣言」中に、「帝国政府ハ右ノ大業ハ本年中ニ完了スベキコトヲ信ズ」(『条約改正関係大日本外交文書』第三巻八四頁)と明記せざるを得なかった。ところが、大隈の法典編纂促進政策に対しては、反対運動が熾烈を極め、遂に来島の一弾により隻脚を失うに至った顚末は、本編第一章に説述したところであるが、校主大隈を見舞ったこの悲劇的結末は、英米派の名望家にせよ、またその感化を受けること深かった校友・学生にせよ、華々しい法典延期運動を学苑が旗頭となって繰り拡げることに、躊躇を感ぜざるを得なくさせたのではなかろうか。何れにしても、当時の卒業生数の推移を学校別に比較してみると、次表の如くである。
(『九大法律学校大勢一覧』 二四八頁ノ二より作成)
すなわち、二十七年を二十三年と対比すると、学苑では、卒業生の減少率がフランス法学派の牙城明治法律学校に次いで高く、イギリス法学派の東京法学院と利益を共にすることが全くなかったのであった。
なお、ボアソナード作成の草案によって明治十三年に制定された旧刑法に対しても、ドイツ法学の勢力が我が学界に漸く増大するのに伴い、改正の叫びが挙げられたが、これに対しても、若干の運動が学園を巻き込もうとした。例えば、三十四年一月十八日号の『時事新報』は、「新刑法改正案の反対運動」という見出しで、
府下の五大法律学校と称せらるる法学院、専門学校並に和仏、明治、日本の三法律学校々友会にては、刑法改正案に対し挙げて反対の意見を有する由にて、近日一大懇親会を開き反対運動の歩調を整へんとて目下其準備中の由なるが、明治法律学校々友会にては昨日午後一時より臨時会を開きて満場一致反対の決議をなし、其実行委員として斎藤孝治、長島鷲太郎、井本常治の三氏を選定したりと云ふ。
と報じているし、また同年二月二十四日には、八大法律学校有志による非刑法改正案同盟会大演説会が神田錦輝館に開かれている。『明治法律学校二十年史』は、「東京専門学校〔は〕賛否区々」(九六頁)と記しているが、学苑の法学部大討論会が三十四年二月に刑法改正賛成の決議を行ったことは、八〇五―八〇六頁に指摘したところであり、また三十四年十月には、藤沢茂十郎(判事・二十四年邦語法律科卒)の『改正草案刑法評論』が学苑出版部から刊行もされていて、民法典論争の際よりも幾分なりとも学苑法学部の存在を示していることが看取されるのである。
最後に、東京専門学校時代の学苑が他校と肩を組んで行動した例が、法律学校の狭い範囲にのみ止まるものでなかったことについて、一言しておこう。すなわち二十四年十二月十四日、「勅令第二百四十三号」を以て公布された「中学校令」一部改正の中においても、その第十一条には、「中学校ノ教員ハ文部大臣ノ免許状ヲ得タルモノタルヘシ」と依然定められていて、中等教員検定資格につき、官公立学校卒業者との間に開きが残されていた。そこでこれを官公立並みに取り扱われるようにとの要望が、哲学館と国学院から提起され、本校もこれに同調して、三十一年六月十七日、中等学校教員検定資格を私立学校出身者に付与するよう働きかけることを協議した。越えて七月一日には、更に攻玉社、明治法律学校、済生学舎、物理学校も参加し、その方法等を相談した結果、八日には右決議の代表者を哲学館館長井上円了と定め、十五日に文部省に出頭して陳情せしめることにした。この日またこの問題に関し、江原素六、長谷川泰、棚橋一郎、杉浦重剛、市島謙吉、飯田宏作、今泉定介を委員に挙げ、更に研究を依頼した。なおこの会合には新たに高山歯科医学校も加わり、前記の各校と合せて八校となった。『早稲田大学沿革略』第一は同月十九日の条に、「私立学校特典問題ニ関シ委員会ヲ開キ、建議書草案ヲ議決ス。」と記してあり、更に『早稲田学報』第二十三号(明治三十二年一月発行)の「早稲田記事」には、翌三十二年、「本校及哲学館、国学院三校職員懇親会を去〔一月〕十四日午後五時神田明神開化楼に於て開会し、杉浦重剛、市島謙吉、井上円了、其の他の諸氏にて文学科特典問題に関し当局者を訪問する件其他を協議したり。」(一頁)とある。その結果、三十二年二月七日、「勅令第二十八号」で定められた「中学校令」第十三条では、「中学校ノ教員ハ文部大臣ノ授与シタル教育免許状ヲ有スル者タルヘシ但シ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ本文ノ免許状ヲ有セサル者ヲ以テ之ニ充ツルコトヲ得」と但書によって資格が認められ、曲りなりにも一応素志が貫徹されたのである。