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第三編 東京専門学校時代後期

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第十六章 大学への道

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一 大学設立の構想

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 何故専門学校が大学に変ったのか。何故本校が私立大学に改められねばならなかったのか。

 東京専門学校開校式当日における小野梓の演説(四六二頁参照)中には、「余ハ本校ニ向テ望ム。十数年ノ後チ漸クコノ専門学校ヲ改良前進シテ、邦語ヲ以テ我ガ子弟ヲ教授スル大学ノ位置二進メ、我邦学問ノ独立ヲ助クルアランコトヲ。」とあるばかりか、その前にもまた後にも繰り返し大学設立の希望が述べられている。小野は「余〔の〕冀望」と断っているから、単独の意見であるのには間違いない。しかし、小野が七人組を引き具しての雉子橋訪問に際して、将来これを一大私立大学に発展させようとする計画が語られたとは、『留客斎日記』にも、高田の『半峰昔ばなし』にも記述されていない。といって彼らの炉辺会談や、橋場村荘往来途上の私語雑談中に、学苑の未来像を夢想し、その実現を語り合わなかったとも言えないだろう。小野個人の理想であったにせよ、公の席上、反復して大学設立の構想を表明した点、列席の識者に、ある程度の感銘と、学苑の前途に明るい期待を与えたに相違ない。例えば、『東京輿論新誌』第百七十六号(明治十七年九月発行)に総南和郎の名で発表された「学問ノ真象ト其独立ヲ論ジテ私立大学設置ノ必用ヲ弁ズ」には、左の如き主張が発見される。

今ヤ本邦学問ノ本素ハ果シテ何クニアル。諸科学皆専門ヲ以テ之ヲ脩メ、将来社会分業ノ大務ニ当ルノ学生ヲ養成スル大学ヲ措テ他亦之アラザルナリ。而シテ今其大学ヲ見ルニ、真正ニ大学ノ名ヲ負フ者ハ独リ東京大学及工部大学校ノ二アルノミ。……其私立ニ係ル者果シテ幾何カアル。余ガ知ル所ヲ以テスレバ独リ東京専門学校アルノミ。……嚮キニ明治十五年ノ秋大隈重信君ハ早稲田ニ一大専門学校ヲ開キ、学ハ政・法・理ノ三科ヲ教授シ、師ハ国内ノ学士ヲ聘シ、殆ンド東京大学ニ準ズベキ者ト謂フ可シ。幸ニ開校以来、生徒日々ニ増加シ、学制漸ク整頓シ、前程大ニ期ス可キ者アリ。若シ夫レ天下ノ学問ヲ好ミ教育ヲ重ズルノ志士ニシテ奮テ翼賛スルアラバ、此校ヲシテ私立大学タラシムル素ヨリ難事ニ非ズ。 (一四―一六頁)

惜しむらくは、創業当時の苦しい経済状態と官憲の圧力に抵抗しながら苦闘を続けた学苑当事者達は、小野の雄大な理想実現の端緒をも見出せないままに、彼を鬼籍に移すの余儀なきに至ったのであった。

 しかし小野の衣鉢を継いだ当事者間には、いつの日か大学の出現を期待し、暗黙の中にも、これに対する希望が個個人の胸中に秘められていたことは想像するに難くない。そして、その希望は二十一年十一月に結実し、学苑において「実質的な大学部が呱々の声を挙げ」(五六四頁)たことは、既に前編に説述したところであるが、ここでもう一度、当時の実状を考察してみよう。

 先ず第一に、いたずらに夜郎自大の謗りを受けることのないよう、英語専門諸科の設置がどこまで学苑の独創と言えるかについて、若干の疑問が存在することを記しておくべきであろう。すなわち、東京法学院は明治十九年六月、「熟々社会ノ情勢ヲ察スルニ今ヤ内外人ノ交際日ニ繁キヲ致スノ秋ニ方リ、区々邦語ニ依リ外国法律ヲ授クルガ如キハ未ダ以テ有為ノ士ヲ陶冶スルニ足ラザルナリ。」(『東京法学院学則』明治二十三年八月三頁)との理由で、第二科(原書科)を置き、約四十名の学生がそこに学んでいる。これに対し「世間の私立学校の原書科」(五六二頁)と学苑側では軽視しているかのような口吻も見られないではないが、こうした先例は必ずしも無視できないであろう。また二十一年七月二十二日の『東京朝日新聞』には、「明治法律学校、東京法学校等の未だ特別認可学校とならざるよしは、……他に原因あるには非ずして、只原書科の設けの有無に因て認可を与ふるを遅々せられしまでにて、右等の各校主へ其筋より内諭の趣もあり」云々の記事が掲げられているが、同年八月九日付の認可に先立ち、「其筋より内諭」が学苑にもあって、それに動かされることが果してなかったか否か、にわかに断定し難いものがあると言わざるを得ない。

 さて、『慶応義塾百年史』によれば、

明治二十三年(一八九〇)一月、わが慶応義塾は文学、理財、法律の三科より成る大学部を開設した。実にわが国における最初の私立総合大学である。これより先、わが国の教育界にようやく学問の専門化の要求が高まってくるにつれて、義塾も従来の英学塾の姿から脱皮して一段と高度の専門学術を授ける学塾としての内容を備える必要を感ずるに至り、明治二十年(一八八七)大蔵省主税官小泉信吉を慶応義塾総長の名において迎え、これを中心として大学部設置の準備およびその資金募集のことに着手した。小泉はハーバード大学から各科の主任教師三名(William S. Liscomb, Garrett Droppers, John HenryWigmore〕を招聘したが、着任した各教師はいずれも新進気鋭の学者で、熱心な教育態度とまじめな研究ぶりとをもって学生に好い影響を与えた。義塾の大学部はその発足においてまず人を得たと称してよい。資金募集も、私学として最初の宮中からの賜金〔金一千円〕の御沙汰に接するなどのこともあって、すこぶる順調に進み、一方においては義塾の維持経営の管理方式も、従来は明治十四年に制定された慶応義塾仮憲法のままであったものを、この機会に慶応義塾規約を制定して新しい組織を打ち立て、今日の慶応義塾の基本体制を整えた。こうして発足した大学部は、義塾内外の大きな期待にもかかわらず、入学者が予想外に少なく経営的に見るときはとうてい自立不可能の有様であった。学科目の整備に伴なう教授人員の増大は年々収支の不足額を累積し、募集した大学資金の元金を漸次削ってゆくのみであったので、一時塾内には大学部廃止が論議されるに至ったほどであった。 (中巻前 三―四頁)

 慶応義塾にあっては、既に明治十八年以来、教科書としての英書の使用が増加し、「大学校に進む一つの道程」(同書一二頁)を歩み出したと見られているが、これも学苑に刺戟を与えなかったとは言えないであろう。そして、慶応義塾が「大学部」を開設した最初の私学であったことは、学苑が校名に「大学」を名告った最初の私学(単科大学は別として)であったことと並んで、誇りとすべきであろう。

 慶応義塾が大学部設置を目標として、基金の募集に着手したのは二十二年であるが、その頃の我が国には、私立大学設置の気運が漂っていたと言っても過言ではない。これについて先鞭をつけたのは、同志社であった。「明治二十一年十一月十日を以て『同志社大学設立の旨意』なる一片の文章が、全国二十大新聞雑誌上に一斉発表せられ、此れ等の各新聞社は競うて義損金募集の任に当られた。」とは『同志社五十年史』の記すところ(八六頁)であるが、新島襄はその文章の中に次のように述べている。

〔明治八年に開設せる同志社英学校は、〕十四五年の頃ひに至つては、学校の規模漸く大に、入学の子弟漸く多く、業を卒はる者漸く増し、学科の程度漸く高きに進み、而して中には父兄をして独り普通科のみならず、其上に専門科を加へんことを請求する者あるに至らしめたり。是に於て吾人が宿志たる私立大学の基礎漸く成れりと云ふも、敢て誇張の言に非ざる可し。然りと雖も私立大学は実に大事業なり。之れを設立するには多くの人を要するなり。多くの金を要するなり。吾人は誰れに向つて此志を談し、誰れと共に此事を行はんや。幸ひにして或る部分の人の信用を得たりと雖も、吾人が当時の有様は全く孤立にてありしなり。然れども黙して止む可きに非ざれば、此時より同志相議し、頻りに同感の士を天下に求めたりき。而して各地往々其賛成を得たるを以て、遂に明治十七年四月、始めて京都府会議員を招待し、数回の演説を為し、私立大学創立の目的を発言し、其重立たる人々の賛成を得、茲に於て明治専門学校設立の旨趣と題し、大学創立の目的を記したる小冊子を発行して賛成を天下に求めたり。是れ私立大学設立の第一着手にてありしなり。……思ふに我が政府が帝国大学を設立したる所以は、人民に率先して其模範を示したる事ならん。思ふに日本帝国の大学は、悉く政府の手に於て設立せんとの事には非ざる可し。吾人は豈に今日に於て傍観坐視するを得んや。吾人は政府の手に於て設立したる大学の実に有益なるを疑はず。然れども人民の手に拠つて設立する大学の、実に大なる感化を国民に及ぼすことを信ず。素より資金の高より云ひ、制度の完備したる所より云へば、私立は官立に比較し得可き者に非ざる可し。然れども其生徒の独自一己の気象を発揮し、自治自立の人民を養成するに至つては、是れ私立大学特性の長所たるを信ぜずんば非ず。……吾人が先づ将来に於て設けんとする大学専門の学科は、現今同志社に在る神学科の外に於て、政事、経済、哲学、文学、法学等に在り。若し是等の諸学科を一時に設置すること能はずんば、漸次に其最も実行し得易き者よりして設置せんと欲す。吾人が目的とする所の者は、既に以上に明言したる所の者なり。去れば此の大学なる者は、決して宗教の機関にも非ず、又政事の機関にも非ず、況んや一地方、一党派の人の能く為す可き所の者に非ざるや素より論を俟たず。故に吾人は敢て吾人が赤心を開陳して全天下に訴へ、全国民の力を藉り、以て吾人年来の宿志を達せんと欲す。…… (同書 九〇―九五頁)

 同志社の大学設立運動は、二十三年新島が永眠したことによって中止の不運に遭遇したが、東京でも、大学設立計画のあったのは、慶応義塾のみではなかった。例えば、二十二年四月五日の『東京朝日新聞』には左の記事が見られる。

同志社先づ私立大学の計画を為し、慶応義塾もまた其計画中なるが、英吉利法律学校に於ても、規模を拡張して大学の組織となすの目論見あり。岩崎弥之助氏の如きは、同校資本金の内へ金五十万円を出し、年々此利子を以て外国より良教師を傭はば如何ならんとて、咋今評議中なりとぞ。

 そして、英吉利法律学校は二十二年十月に東京法学院と改称したが、これは東京文学院ならびに東京医学校改め東京医学院とともに、三校が核となって「東京学院聯合」を結成し、私立大学を組成しようとの意図によるものであった。しかし、「東京学院連合計画は計画倒れに終ってしまったが、もしこれが実現していたらわが国さい初の綜合私立大学となったであろう。」と、『中央大学七十年史』は慨歎している(五〇頁)。

 慶応義塾が大学部を開設したことに対して、学苑当局が決して無関心でなかったのは、五六四頁に引用した二十三年十月の学生募集広告に、学苑の英語専門諸科を以て、「世に所謂大学科なる者なり」と記していることによっても明らかであるが、当時の慶応義塾の大学部にあっては、主要科目は外人に依存していたのであり、もし大学の呼称がそれを必要とするというのならば、学苑の財政状態では到底不可能であるばかりでなく、それでは「学問の独立」を標榜する学苑の建学精神に悖ることにもなるわけであるから、学苑当局としては、暫くは隠忍して、大学の呼称に拘泥せず、専門学校の名称の下に、大学たるの実を築き上げることが、賢明の策であると判断したに違いない。そこで、例えば、前述の如く、二十五年七月十五日の評議員会は、研究科の設置を定め、二十六年秋より実施されたというような、大学昇格に対する注目すべき布石を試みたが、六九八|六九九頁に掲げたような立派な規則は制定されたものの、結果は予想外の不成績に終り、入学志望者は僅少に止まって、当局者の意気込みは十分に報いられるところがなかったのであった。

 学苑当局は、大学昇格問題にはきわめて慎重な態度に終始したが、その周囲にも、学生間にも、促進論者もないわけではなかった。例えば、校友室井平蔵(二十四年邦語政治科卒)が集録した『明治二十三年五月中旬東京専門学校壁書写』の「第七教場」には、

校長前島密殿ハ余リ年老ナレバ「ムコ」ノ高田早苗氏ヲ以テ校長ニ選挙スベシ 生徒総代

東京専門学校幹事局御中

大学ノ組織トシ早稲田大学ト名称ヲ変ゼヨ

とあり、既に前島校長辞任の前後から、学生間にはこうした声も上がっていたものと思われる。また、二十五年九月発行の第二次『中央学術雑誌』第五号「社説」欄には、「早稲田大学」と題する一文が掲載されている。匿名ではあるが「社説」というからには、執筆者が編集人(小山愛治)または発行人(山沢俊夫)であるか、或いは彼らと考えを同じくするものであることには間違いなく、当局の意を体して上げた観測気球ではあるまいかとの疑問さえ、全くの臆測とは言えないであろう。文中、世上一般が本学苑を「早稲田大学」と称するに至っていると断っているところを見れば、正式にそれを名告る以前十年にして、既に我らの固有名詞が坊間に普及しているのは注目に値する。言うところの要点を左に掲げてみる。

六拾有余名の内外博士・学士は、日々茲に来往して政治、法律、文学に亘る講筵を開き、学生の数一千名、蔵書一万余巻、校規厳粛、塾舎巍々、堂々私立大学を気取る所の学校は、是れ本社が寓する所の東京専門学校とす。……常に世に先て進歩し、遂に現今の盛況を呈し、天下至る所嘖々として早稲田大学の名を称するに及べり。夫れ名は実の賓なり。実なき名は避けざる可らずと雖も、実に副ふ所の名は是れ事の当然なり。……一方官立学校の階級を見れば、浅より漸く深に入り、卑きより漸く高きに進む可き順序整然たるある以上は、私立学校と雖も亦之に準拠して、以て之と権衡を保たざる可らず。試みに見よ、官立・公立の学校に於ては、先づ幼稚園より尋常小学となり、高等小学となり、尋常中学となり、高等中学となり、遂に進んで大学となり、大学院と為るに至るまで、其次第等序能く整ふに非ずや。……専門学校が毎度の改良も、皆此方針に向て進みたるものにして、今や私立学校の中に於ては、罕に観る所の完全なる組織を致したり。……然れども、蜀を得て隴を望むは人生の常なり。吾人は尚ほ一歩を進めて、時勢の需用に応じて、早稲田大学部設置の挙あらんことを希ふ。蓋し専門学校が其各科の中に於て、英語政治科、法律科、及文学科を大学部と為すは、敢て名を大にして、形を美にするに非ず。現在の程度、既に大学部たるに愧ぢざるの実あればなり。然るに其名の大学部たるを示さず、名却て実に副はざるは豈策の得たるものならんや。……英語政治科、法律科、及び文学科の三科に付するに早稲田大学部の名称を以てす可しと云ふ所以なり。是れ過分の望みに非ず、只名を実に副はしむるに過ぎざるなり。而して之を大学部と名つくるの利益に至ては、学校の体面よりして、学生の面目よりして、日本教育の制度よりして、地方父兄の気受よりして、及び専門学校が他の各私立学校に対する関係よりして、百利ありて一害なきを信ずるなり。(傍点新付) (一―四頁)

すなわちその主張するところは、専門学校全体を大学に改めようとするのではなく、邦語専門諸科はその枠外に置き、英語政治科、法律科(英語法律科を復活して?)、ならびに文学科を大学部と呼ぶべしというのである。

 ところがこれに対して、直ちに反論が出た。同年十月発行の第二次『中央学術雑誌』第六号に、「田舎の校友抜山生」の名を以て寄せられた、「『早稲田大学』を叱して専門学校の気風に及ぶ」という一文がそれである。その書き出しは、「中央学術雑誌第五号を見るに開巻第一『早稲田大学』なる一編あり。予通読一過、巻を擲て凡俗輩の我専門校を汚さんとするを嘆ず。」とあり、痛烈過激な口調で執筆者を罵倒して曰く、「其誌上に現はるる所の者は、特に署名ある者の外は実際何人の手に成るとするも、先づ以て早稲田学生の全部、少くとも一部の意見を代表したる者と云ふを得ん。殊に全誌中の最要部なる『社説』欄内に掲げある以上は、如何に強弁を以てするも早稲田学生の意向に何等の関係なしとは云へず。」と、その筆者の責任を強く追及した(六〇―六一頁)。そして更に筆を転じ、前段の傍点の個所を掲げてそれに反論している。彼の言うところによると、「規則が能く行われ、教授がよく行き届き、学生が勤勉であることは認めるが、それなれば何故学校名を変更する必要があるのか。」と詰問し、傍点の後段を引用し、何故このように述べるか説明を求めている。彼が説くところはまさに延々として尽きざる感があるが、以下にその要領を抜粋して、「叱咜激励」、真意の「究明釈問」を求めている点を記しておこう。

予は、元来専門学校を以て或点に於て帝国大学に優る数等なりと信ずる者なり。単に学科の点より云へば、或は彼に譲る所あるべし。又た器械的動物を製造するに於ては我遙かに彼に劣るべし。然れども、教育の大主眼は学科の高低にあらず、器械的動物の製造にあらずして、不羇独立なる人物を造くるにあり。而して此点に於ては、専門学校の大学に優る蓋し数等ならん。……今後「専門校的気風」を失ふなくんば、其成跡蓋し見るべき者あらん。要は不羇独立の気象と唯我独尊的自任心の養成にあり。徒らに名目の末に呶々し、大学部と改名して面目と思ふが如き気象にては、遂に専門学校の名誉を失墜するに至らん。戒しめざるべからざるなり。 (六三頁)

 以上「田舎の校友抜山生」の悲憤慷慨は、必ずしも大部分の校友の説と言えないかもしれない。この文中で興味あるのは、開巻冒頭に「早稲田学生」の五字を使っていることで、既に当時、専門学校の別名として地名を冠した「早稲田学校」という校名が相当広範囲に流布していた証と見るべきであろう。第二次『中央学術雑誌』の編集者は、この寄書を相当重要視したため、当該号の「社説」で、「再び早稲田大学に就て」と題し、反論を加えている。

該一編は、惜しむらくは匿名(寄者の請求によりて)なりと雖も、校友中に在りては気象文筆共に著名の士なり。吾人が更に一言する、又止を得ざるなり。……氏は往々専門学校の名を捨て早稲田大学と名づくる如く思ふ所あるに似たれども、吾人は然か云ふにあらず。只だ英語本科及び文学科を専門学校の大学部と名づくるのみなり。又氏は学問の独立、学校の気風等に付て喋々するも、是れ大学部と名つくることに関係せず。何となれば、大学部とするも私立は私立なり。専門学校は専門学校なり。而して大学部として学問の独立もなく、学校の精神気象もなくんば、大学部とせざる今日も精神気象なく、又独立なければなり。去れば氏は、大学部と名づくる時は学問の独立、学校の気象精神を失ひ、然らざれば此等のもの充実せりと思ふは、即ち無関係の事実を強て持来れるのみ。……吾人と反対者との論点は、詮じ来れば大学部の各を設くるの可否に在るのみ。……学校は、士人を養ひ書生の気象精神を涵養す可きは固より当然にして、且必要なれども、現今の教育を以て昔時の村夫子的義塾のみに倣はしむ可らず。殊に教育には階梯教育あり、義務教育あり、学理教育あり。制度の日に月に完全なるの今日に方り、殊に専門学校は、此如きの二階級に属する高等教育を併せ行ふ以上は、一方に学校の学校たる効用を充分ならしむる外、一方には教育上階級の区別を明かにして、以て時世の進歩と伴ふは策を得たるものなり。而して英語本科及び文学科は、教育上高等に属する以上は之に応ずる名義を与へざる可らずとは、是れ吾人の意見なり。……之を要するに、吾人は、実に副ふ名を与ふ可しと云ひ、氏は、名は不用なり実あれば足れりと云ふに在り。(傍点新付) (一―二頁)

 結局、この両論は何れにも軍配が挙げられないままに、自然の成行きに任された形となった。前掲の創立十周年記念式における高田早苗の演説(七二三頁参照)中にも、「専門学校と云ふ者は、此先長しなへに栄へ栄へて、……将来に於ては実に一大勢力とならねばならぬ。唯一の勢力となることを私は冀望するのである。」と言い、「大学」という文字を使ってはいない。しかし、『中央学術雑誌』の社説執筆者は、翌二十六年、二月および三月の両月に亘り、「東京専門学校と慶応義塾及び帝国大学」と題して、学苑が既にして「堂々たる大学」である事実の論証に努めている。その中から、主要な点を次に引用してみよう。

日本の首府に、堂々たる大学三箇あり。帝国大学と、慶応義塾及び東京専門学校是なり。此三のもの、其組織、及び学科の種類程度、所謂ユニバルシチーに該当するものなれば、其名称異なるを問はず、共に大学と称す可き学校なりとす。帝国大学は本郷に在り、専門学校は牛込に在り、慶応義塾は芝に在り、東西北の三方に位置を占めて、鼎足の形を為し、各々他を睥睨して相降らず。尤とも専門学校と慶応義塾とは、私立なるを以て、大学に於ける如く、収支の償ふと否とに、懸念せざるを得ざるを以て、未だ万有の学を教授する丈の、準備なしと雖も、普通科(英語)と専門科とありて、其の専門科に於ては、法律、経済、文学等の高等なる学科を授け、普通科を卒業したるもの、専門科に入りて、猶ほ数年の歳月を積む可きの順序にして、幼少なる子弟を受取りて、他日成丁有用の器として、会社に紹介する迄の用意整頓せり。且又慶応義塾に於ては、既に専門科の卒業生に、学士の称号を与ふることを実行し、専門学校も亦、研究科なるものを置き、大学の卒業生が更に大学院に入るが如く、専門科の卒業生は更に研究科に入りて、藩奥なる学理を探究吟味するを得るの規則を設け、此研究科を卒りしものには、学士の称号を与ふることとする由なれば、他日此三大学の卒業生が、共に肩書を有して競争するの日を見るなる可し。勿論府下には学校の数多し。従て高尚なるものなきに非ずと雖も、或一種又は二種の専門学を教ふる単一なる目的に出るものは、所謂カーレツヂに属す可きものにして、ユニバルシチーと称す可らず。例へば法学院、明治法律学校、又は和仏法律学校等の、司法官又は代言人に於ける、済生学舎の医学に於ける、哲学院の哲学に於ける如し。此等と本題の三大学と、区別するの至当なるを信ず。此三大学は、其性質に於ても学校の方針に於ても、各々特色を有するが故に固より之を同視す可らずと雖も、既往及現在の有様に依て考ふるときは、未来に於て此三大学が、日本の社会に及ぼすの影響は、実に著大にして、殊に政治社会、経済社会、文学社会等を支配するもの、左右するものは、此の卒業生なる可しと考ふるなり。(第二巻第二号 一―二頁)

帝国大学、慶応義塾及び東京専門学校の三ユニバルシチーUniversityは、其学科の種類程度より論ずれば多少の径庭あり、又学生干渉の寛厳を異にし、学問を活用するの精神に差違あり。従て其各大学の主義に至ても、各々執る所守る所ありて一ならず。卒業生の去就を観察すれば、益々相違ありて、未だ俄かに其優劣を評す可らずと雖も、之を他の棊布散在せる無数の大小学校に比すれば、共に遙かに卓越超出し、人才を社会に供給するの成蹟あるの点に於て疑を容る可らず。慶応義塾の如きは稍々創設時期の古きも、帝国大学と専門学校の如き僅かに十余年の齢を積みたるに過ぎず。従て啻に一千内外の卒業生を出だしたるのみの今日、既に曩きに叙述せる所の好成蹟あり。是を以て推考すれば、渺茫たる前途廿年を経、卅年を過ぎ、将た五十年百年を数ふるの後に及ばば、此帝国丸の船長shipmasterも、運転手mateも、水先人pilotも、夫れ必ず三大学の供給する所なる可し。……無数の大小学校あるに拘はらず、吾人は帝国大学、慶応義塾及び東京専門学校の三者に、日本の三大学の名称を呈し、特に帝国の前途を依托せんとするもの、誠に故なきに非ず。其創設と性質と傾向とは実に此希望を属するに足ると思へばなり。 (第二巻第三号 三―五頁)

 その後、学苑内においては、大学設立の企画が漸次進められていたと想像するに難くない。大隈が学苑創立十五周年式典に際し、「専門学校も近々……大学……に為るがよい」と答えた插話(七三三頁参照)は、ここには繰り返さないが、例えば、これまた既述(七三六頁)の如く、三十年に司法省内で、府下の各私立法学校を合併して法律的大学とも言うべきものを起し、これを保護奨励しようとする議が台頭した際には、断乎として拒否している。毅然として官辺の企画に応じなかったのは、拮据経営十五年の歳月を閲して、漸く独立独歩の自信を深めた所産であったとも言えよう。這般の経緯を報道した『早稲田学報』第六号(明治三十年八月発行)の「早稲田記事」には、左のような一文が掲載されている。

私立大学 蓋し本校創立の趣旨は、完全なる私立大学を見んとするに在りて、歩一歩毎とに校勢拡張の結果は此点に向て進まざるはなく、校舎の増築に、学科の増設に、教師の増員に、図書の増加に、比年累積せる要素は今や実際的私立大学を構成するに足るものあり。只だ教育界の事業は由来虚名を衒ふべきに非ざるが故に、徒らに其の名称を変更する挙に出でざるのみ。

(七一頁)

二 大学設立への階梯

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 本校創立期の校長は後の学長や今の総長と違ってアクティヴなものではなかった。実際の校務の処理については、高田、天野、田原、市島などがブレーン・トラストを組んでこれに当ったのである。特に高田は、繁忙多事なるにも拘らず、海外の教育事情を研究し、時あるごとに機関誌に発表し周知方に努めた。例えば、その「東京専門学校とロバート、コレーヂ」と題する一文は、彼此を対照して本学苑のあり方を示唆するものとして注目に値する。

我が東京専門学校が学問の独立を主義とし、高等なる国民教育を授けて現代の日本に必須なる人才を養成するを目的とすることは今更ら茲に言ふまでも莫し。而して創立以来十有七年間の経営に因り多少の効果を表はすを得たるは恐らく世人の認むる所ならむ。然れども、育英的開発的の事業は一時の奮励に依りて成就すべきにあらず。専門学校が創立当時の所期を果たして至大の効益を此国家と社会とに与ふるを得るは遠き未来の事に属せむ。事に之に従ふ者、固より一時の小成に安んず可きに非らざるなり。茲に欧羅巴の東部土耳古帝国の領内に一の学校あり。ロバート・コレーヂ(Robert College)と謂ふ。其創立せられたる所以及び其目的事業等に就て考ふるに、我専門学校に髣髴たるものなきにあらず。固より国情を異にし其他周囲の事情同じからざるが故に、彼是相違の点亦た少からずと雖ども、私立学校として起り、一の天職を完うせむと励精する点に於ては殆ど相同じ。而して彼は是に比して年所を経ること多く其奏効も随て大なるが如し。果して然りとせば、東欧に於けるロバート・コレーヂの概況は我専門学校の関係者に取りて裨益なしといはむや。

(『早稲田学報』明治三十二年七月発行第二九号 一八頁)

 ロバート・カレッジの創立、その精神、活動等を要約すると、一八七〇年代に二人のアメリカ人がトルコに移住し、その地の少年を薫陶せんとしたに始まる。その主義主張は如何なる宗派や党派にも捉われず、アメリカ的学風による語学教育を主とした。しかし最も主眼としたのは、学生の徳義を養成し、精神的発達を期することであった。校友は実に微々たるものであったが、彼らの活動は瞠目に値するものがあり、特にブルガリア侯国のトルコからの独立に尽力したことは偉大な功績であった。すなわち「ブルガリア虐殺事件」と称する大虐殺に憤激して、欧米の輿論を喚起する運動を起し、校長もまたデイリー・ニューズ社を通じてその顚末を詳細に報道した。その後露土戦争など数次の紆余曲折があって、遂に自治国の成立を見、彼らは校庭に集まりアメリカの歌を吹奏し、カレッジ万歳を叫んでこれを祝福した。彼ら校友達の活動はこれのみに止まることなく、更に進んでは新憲法制定に参与し、ロシアの武断的勢力がこれに加わると見るや敢然として排斥運動を起し、遂にその中より総理大臣にさえ就任する者が出たという。

 高田は語を結ぶに当り、「ロバート・コレーヂは実にブルガリヤ政治家の養成処なり」と言い、更に「我専門学校及其出身者たるもの是等の事実に鑑みて茲に奮励し、ロバート・コレーヂが近来に於ける事業に比し優るあるも劣るなきの功業を我絶東の天地に建つること莫くして堂可ならむや。」(二一頁)と本学苑の学生ならびに校友の奮起を促している。尤も、高田が右のロバート・カレッジに学ぼうとするのは、その精神教育の面であり、制度の面ではなかったであろう。高田は、学苑がカレッジであることに満足するものではなく、ユニヴァーシティへの発展を念願していたのであった。

 さて、高田は三十三年二月七日、学監に就任し、事実上校長の事務を鞅掌することになった。「学監」という名は、市島の郷里の新潟学校に学長の次に校監があったから思いついてそれに倣った由であるが、高田は学監となって間もなく、東京専門学校の名称を改めて早稲田大学とする大望を抱いたという(市島春城『随筆早稲田』四三頁)。

 明治三十六年「専門学校令」の公布後、大正七年「大学令」の公布に至るまで、多くの私学は、専門学校として設置を認可されながら、大学の名称を許容されるようになるのであるが、学苑が大学部を開設し、校名を早稲田大学と変更することを文部省に申請して許可を得たのは、まさにその前夜であった。そもそも、

明治五年の「学制」の公布から、諸学校令公布の前年である明治十八年に至る……時期に、教育法令は、公・私立学校の設置についてなんの規定ももたない「学制」から、それを府県知事への「開申」事項とする「教育令」(明治十二年)、さらに府県知事の「認可」事項とする「教育令改正」(明治十三、十八年)と変わったが、事実上、公・私立学校の開設はまったく自由だったといってよい。大学・専門学校をふくめて「何ノ学校ヲ論セス各人皆之ヲ設置スルコトヲ得」たのである。……公・私立高等教育機関の設置認可については、明治十九年の「諸学校通則」に、府県立の学校は文部大臣の、私立学校は府県知事の設立認可を経る必要のあることが簡略に規定された他は、長い間設置認可の要件を定めた法規はなかった。明治三十二年「私立学校令」およびその「施行規則」が制定され、ようやく設立認可の規制に一歩がふみ出されたが、それは幼稚園をふくむ私立教育機関全体を対象としたという点だけではなく、規制の内容においても、私立校の質の向上と平準化に重要な役割を期待しうるものではなかった。……同令および同規則で、認可の唯一の具体的な要件とされたのは校長あるいは教員の「資格」であり、施行規則にはその欠格事項が列記され、また中等学校以上の教員については「文部大臣ノ認可」を必要とするとされているが、それもしばしば指摘されているようにキリスト教主義学校の規制を主目的としたものであり、質的向上をねらいとするものではなかった。こうして規制に若干の強化はあったものの、明治三十年代の半ばに至るまで、公・私立高等教育機関の設立は事実上放任状態にあった。……しかしこのことは、この時期を通じて「適格判定」を目的とした、中央政府の政策がまったく存在しなかったことを意味するのではない。「設立認可」行政とは別途に、政府は専門的職業の資格試験制、官僚任用制、さらには徴兵制などの運用を通じて、次第に公・私立高等教育機関の質の改善と平準化をはかりつつあったからである。

(天野郁夫「戦前期の設置認可行政」天城勲・慶伊富長編『大学設置基準の研究』 八五―八七頁)

 右の最後の点に関しては、これまでしばしば説述してきたところであるが、三十四年七月の「東京専門学校規則一覧」(『早稲田学報』臨時増刊第五五号)中に記載されている公記録から、もう一度抜粋してまとめておこう。

二十一年八月文部省本校ヲ指定シテ特別認可学校ト為ス。初メ十九年十二月政府私立法律学校特別監督ノ制ヲ布キ、本校モ其班ニ列リシガ、今年五月監督制変ジテ認可制トナル。 (二四頁)

二十六年十二月司法省判検事登用試験ニ関シ法律学校ノ指定ヲ為ス。本校亦之ニ与ル。 (二五―二六頁)

二十七年九月本校法律科ハ文部省令二依リ徴兵令ノ特典ヲ受ケ、学生ハ在学中徴集ヲ猶予セラレ、卒業生ハ一年志願兵タルノ資格ヲ与ヘラル。 (二六頁)

三十二年四月文部省ハ省令第廿五号ヲ発布シ、私立学校ニ教員免許ノ定規ヲ設ケラレタルヲ以テ、本校之レニ則リ、案ヲ供テ同省ニ出願シ、同七月許可セラル。乃チ文学部卒業生ハ中学校・師範学校・高等女学校等ノ教員資格ヲ与ヘラルルコトトナレリ。又徴兵令特例ハ法律科ノミナリシガ、同年十二月文部省ハ告示第百六十三号ヲ以テ、政学部・法学部・文学部等ノ全部ニ許可セラル。 (二七頁)

 右のような実績を背景とし、また既述(七三九頁)の如く、三十一年十一月学苑は社団法人の認可を得て、法的基盤も確立されたので、中等学校卒業者を就学させる一ヵ年半の高等予科の開設を条件とする大学部の開設の構想が、高田の学監就任後半年もたたないうちに、三十三年七月十一日の評議員会で可決され、発表されることになった。すなわち、第十七回得業生証書授与式が、三十三年七月十五日午後四時より田中唯一郎幹事司会の下で行われた際、鳩山校長演説の後を承け、高田は「東京専門学校の過去現在未来」と題する報告を行ったが、その中で彼は大変革案を公表したのである。(因に高田は、報告中に述べた「系統学制論」に関連して、この年、議会に学制調査会を設置するよう運動した学制改革同志会の有力会員であった。)

偖未来は如何に致す積りであるかと申しますると、先づ年々歳々程度を高めて参りたいと思ひます。夫れも大抵程がありまするから何処までもと云ふ訳ではありませぬが、一層尚ほ程度を高める余地があると考へる。そして明後年即ち明治三十五年の九月学期の始まる迄には種々の準備を遂げまして、所謂大学部なるものを開設致したいと云ふ考でございます。其暁にはどう云ふ事になりまするかと云ふと、此専門学校が大体に於て二ツに分れます。即ち大学部と専門学部と云ふ二ツに分れる。専門学部なるものは、専ら邦語で以て専門学を研究致し、直接に中学と連絡を取ります積りである。大学部なるものは、今日の高等予科を発達致させまして、一年半の課程を設け、夫れを経ましたものを入れて専門学を教へると云ふ仕組に致したいと思ひます。之を今日の帝国大学に較べますると、帝国大学に入りますれば、三年の高等学校即ち高等予科の準備を要します。此専門学校では、一年半だけの予備科を設けて入れて見やうと云ふ考を持つて居ります。御承知の通り、近来世の中には系統学制論と云ふことが喧かましうございまして種々の説がありますが、夫れは何れが是であるか、非であるか、なかなか容易ならぬ問題と心得まするが、兎に角議論は後に致しまして、本校に於きましては略々右の程度を採りまして、如何なる結果が挙りまするか、先づ出来る丈けは一つ試みて見やうと云ふ積りで居ります。又専門学部の生徒と雖も、此後の都合が付きますれば、外国語の研究を深く致させまして成可く此大学部へ移させるやうな仕組に致したいと思ひます。是等も未だ計画中でありますので、追つては遠からざる未来に於て設備を整へまして、文部省其他とも交渉を致しまして明後年よりは是非共之れを開設したいと云ふ考を抱いて居ります。又是等の事を致しますには、尚ほ此上に校舎の建築も要しまする訳であります。又専務講師の増聘等も致さなければなりませぬ。其上に図書館の拡張と云ふことも図らなければなりませぬので、なかなか準備は多端であらうと思ひまするが、兎に角明後年に於ては其端緒を開きまして、先づ英語政治及び文学部の一部、法学部の一部に於て大学部を開設したいと云ふ考へでございます。 (『早稲田学報』明治三十三年八月発行第四三号 三四―三五頁)

 高田が既にこの構想を打ち出した以上は、これを各地の校友に知らしめるとともに、その後援を乞う必要があったため、既述(八四二頁)の如く、夏季休暇を利用して、七月二十日に北海道巡回講話の途に上っている。この一行は大隈英麿鳩山和夫高田早苗という学苑の最高首脳部で、函館、札幌、小樽、青森等の各地で講演会を開き、その席上高田は「本校の状況及将来の計画」と題して所見を明らかにした。一方、別働隊天野為之浮田和民中村進午の各講師は、田中唯一郎幹事を帯同して八月五日東京を発ち、福井、金沢、富山、大津、岐阜、豊橋各地に講演会を開き、田中は「学校の近況及将来の施設」と題する挨拶をした。高田は北海道より帰京して、いくばくもなく、岐阜に現れ、田中に代って一場の報告演説を行うなど精力的な活動を行っている。

 学苑はいよいよ、翌三十四年一月十四日大学部設置の願書を東京府知事に提出した(九七八頁に後述の如く、四月一日認可)。同十七日の社員会では大学部の組織および募金額とその方法が協議され、次いで三十日の校友大会で、これを説明するとともに校友諸兄の協力を求めた。

 春期校友会大会と呼ばれたこの会合は、一月三十日午後四時から芝の紅葉館において開かれた。議事に先立って、欧州から帰国した石渡敏一、仁保亀松、呉文聡諸講師、ならびに清国に出発する財部元治郎のための歓送迎会を開き、終って幹事総代斎藤隆夫の開会の辞に次いで、本会の会計収支の報告があった。次いで学監高田早苗は、先に決定した大学部創設に関する説明を行った。それによると、

一、校名を早稲田大学と改称し、大学部および専門部の二部門を開設、三十五年九月より実施のこと。

二、その予備部門として一年半の高等予科を設け、三十四年四月より開始のこと。

三、講堂建築、専任講師増聘、図書館拡張、海外留学生派遣等のため基本金三十万円を募集すること。

四、右のうち五万円を建築費に充て、二十五万円を確実な管理方法を設けて利殖を計り、校費の補助となすこと。

五、このため校友はもとより一般篤志家の寄附を乞うこと。

(『早稲田学報』明治三十四年二月発行第五〇号「早稲田記事」 一五六|一五七頁)

などであり、勿論満場一致を以て賛意を表した。増田義一の発議により、募集委員長に評議員前島密を推挙し、黒川九馬の発議で、校友会幹事、校友会選出の評議員と委員とをして基金募集の方法を講ぜしむることを議決した。

 以上の議決に先立ち、高田の説明の後を承けて、大隈はやおら身を起して中央の座に進み、「私立大学設立に就て」という題名で、所信表明とも、演説とも、挨拶とも、希望ともつかぬ長広舌を揮った。大隈は先ず、近時における学苑の盛運は、当事者の並々ならぬ忍耐力に加えて校友の惜しみなき助力が実り、更に社会の機運がここに至らしめたと述べ、次いで教育の目的について説述し、早稲田大学設立の不可欠なることに論及している。

学校は官立も公立も私立も随分私は必要であると思ふ。而して其間に切磋琢磨して遂には真理の光明を放ち、非常の学説を生み出すやうにもなるのであらう。此早稲田大学なども其間に立つて、彼の帝国大学其他の大学に比して多少特色を現はして切磋琢磨の功を積むと云ふ上から申せば、教育の上に最も強い力を持つであらうと私は斯う考へるのである。併乍ら是は只一席の議論で、中々大学などを拵へるに付ては其設備に随分入費の掛る者である。成程今では凡そ三十万円の資金を募集することに定められて居るけれども、三十万円を三百万円にすれば多々益々宜しい。……併し今後社会が此早稲田大学に重きを置く時になつたら、社会の善を好む人、教育に熱心なる人達が段々賛成して、遂に早稲田大学へ何百万何千万と云ふ資金を設くる事になると云ふは決して空論ではないと思ふ。今一年半の後には大学を設くると云ふ事に付て、其設備に余程忙しい。……併乍ら既に教育社会の状態はどうであるかと云ふと、最早少しも猶予する事を許さぬ。又専門学校に於ては二十年と云ふ大切の時機であるから、其時を逸すると云ふ事は甚だ以て宜しくない。……然るに我専門学校は余程学校に縁故のある相当の資金ある人達に向つても是迄寄附を申込んだ事はない。さう云ふ訳であるから専門学校は何故に募集せぬのか、若し募集するならば我我は応分の寄附はする積りだと云ふ様な申出でもあつた。……今言ふやうな事情に促されて遂に募集することになつた。……夫故にどうか諸君にも十分に力を尽されて、一人の金より多数の集合した資金を得るやうに致したい。百万の金を一人で寄附するより、百万人の人が一人宛寄附する金の方が宜い。……さうすると自から専門学校に同情を表する人の数が増す。此数が増すと云ふことは大いなる力、一度関係が付けば、又他日其人達が段々財産を拵へるに従つて、更に第二回、第三回の大いなる寄附をすることになる。……実は私は今度の事位迄は多数の人に御話せずして、どうか往ければ可いと思つたが、何分さう云ふ訳には往かぬ。何でも一昨年の卒業式であつたか、学校は寺のやうなものである、専門学校は大きな寺であるが、どうも宜い檀家が一向ない、大隈は専門学校の頭檀家であるが、此檀徒が余り富んだ檀徒でない、残念にも寺は大きいが貧乏寺である、一向御賽銭が集らぬと云ふ事を言つたが、今日は始めて多数の信徒を拵へると云ふ初陣であるから、初陣には潔よく十分なる勝利を得て、大学の成功を期するやうに致したい。諸君は所謂学校の講中であると考へますから、特に諸君の御奮発を願ひたいと考へます。 (『早稲田学報』五〇号 三|六頁)

次いで当日の出席者一同に次の如き「早稲田大学設立趣旨」が配布された。

我が東京専門学校は、学問独立の主義を持して起り、経営既に十九年に及べり。幸にして其の施設の方宜しきを誤らずして今日の隆盛を見るに至りたりと雖も、因循して小成に安んずるは固より本校の素旨に非ず。是に於てか之れを建学の主旨に照し、世運の推移に鑑み、更に其事業の歩武を進めて儼たる私立大学を建設し、国家教育の為め尽す所あらんとす。是れ本案を具して敢て大方の賛助を請ふ所以なり。本校は現今、政学、法学、文学の三部より成りて、之れに政治経済、法律、行政及び哲学、史学、国語漢文の各分科を設けたり。其の課程の整備せる、既に私立大学の規模に庶幾す。然れども尚更に程度を進めて組織を改善するの必要存するあり。乃ち来る明治三十五年九月本校創立の第二十年を機とし、東京専門学校の称を改めて早稲田大学と称すると同時に、左の如き改正拡張を実行せんと欲す。

一、本校の学科組織を変更して政学部、法学部、文学部を大学部、専門部の二大部門に別たんとす。

一、大学部、専門部、高等予科、研究科の内容(略)

一、修業年限(略)

一、入学者の学力程度(略)

一、本規定実施以後の課程(略)

以上の組織を完備せんと欲すれば、其の費固より大ならざるを得ず。試みに其の一二を挙げんか、校舎講堂の新築の如き、専任講師の増聘の如き、図書館の整備の如き、得業生海外遊学の如きは、其の最も急なるべきものにして亦た最も大なる出費を要す。其の他普通経費上の増額、亦た予め期せざるべからず。抑も本校の資力たる従来の組織のみを維持するに於ては必しも乏しきを告げずと雖も、今回の大計画に対しては更に新に備ふる所無からざるべからず。惟ふに教育は個人の私事にあらずして、公共の大業なり。今や大学乃至専門教育に関する国家の施設不備にして志学者の需を充すに足らず。切に乞ふらくは、大方の君子、私立大学設立の止むべからざる所以を察して本校の挙に賛助せられよ。回顧すれば、明治十五年大隈伯爵首として巨資を義捐し以て本校の創立に力を致されしより、本校が自存経営に苦辛せること実に此に十数年、今日の状況は聊か自慰するに足るものありと雖も、未だ固より小成に安んずべきにあらず。夫れ斯学をして権勢俗尚の覊絆を脱して卓然として社会に独立せしむるは本校の主義本願なり。此の主義と本願とを持して進学の士を鼓吹し、教導し、有為実用の材たらしむるは本校の方針なり。而して今回の事業の拡張は、此主義と此の方針とを益々遠大に、益々普及ならしむる所以なり。茲に本校の沿革及び現況を申報し、併せて基本資金募集手続を具し、敢て大方の賛助を請ふ。諸君子冀はくは垂鑑して本校の微衷を諒とせられよ。 (同誌同号「早稲田記事」 一五二|一五三頁)

 この趣旨書の末尾に「東京専門学校経費」ならびに「早稲田大学経費予算」が添付されているが、前者は、この時点では三十四年度の決算は行われていない筈であるから、恐らく前年度のものであり、参考として提示したものと考えられる。なおこれらは共に旧来の形式によって金額を上欄に項目を下欄に記しているが、便宜上記述方式を改め、第十四表として次頁に掲げて読者の理解の参考とする。

 最後に、一言是非付け加えておかなければならないことがある。それは既に述べた如く、「田舎の校友抜山生」の反論のうちにも無意識に「早稲田学生」という言葉が使用されているので明らかなように、当時東京専門学校の学生の中には、自らこう呼び、また多く神田周辺に所在する学生達も、都心を離れた本学苑をこう呼んでいたのであろう。小野梓の『留客斎日記』により校名決定までの経緯が知り得られるが、それによると、三九二―三九三頁に指摘したように、初めは早稲田学校と言い、戸塚学校と言い、東京学校と呼び、最後に東京専門学校と名付けられている。最初の早稲田学校や戸塚学校の名称は、もとより固有名詞としての校名ではなく、恐らくは「早稲田の」、「戸塚の」というように所在地を指したものであろう。その頃大隈の別邸は南豊島郡早稲田村に、建築中の新校舎は同郡下戸塚村にあり、現に昭和五十年五月末日まで旧地名そのままに東京都新宿区(旧名淀橋区)戸塚町と表示されていた。

第十四表 東京専門学校・早稲田大学収支予算および決算表

 我が学苑が首都東京の名を戴いて世に出たのは、恐らくは東京大学に比肩する存在たらんとの意図があったものと考えられる。ではその東京専門学校の昇格に際し、なぜ大都会を象徴する東京の呼称を捨て、殊更に辺鄙な地名を取って早稲田大学と名付けなければならなかったのか。かつては大隈学校と称して東京専門学校の校名を呼ぶ者なく、西郷の私塾に比肩する反乱軍の拠点とさえ目された本学苑も、いつしか世人もこれを呼んで早稲田学校と呼ぶようになった。日本を代表する首都東京の名称を校名に冠するには既に東京帝国大学があったから、寧ろ大隈によって代表された早稲田の名称の方がふさわしく感ぜられたからであろう。従って、その早稲田学校を「早稲田大学」と改名するとしても、誰一人怪しむ者がなかった筈である。

 かくして我が学苑は、三十五年三月二十八日付で、同年九月より「早稲田大学」と改めたき旨の認可願を、学則変更願と併せて、「私立学校令」に依拠して、東京府知事を経て文部大臣に差し出した。これに対して、同年九月二日付を以て文部大臣から、ただ名称変更のみを聴き置くという次の如き認可があった(学則変更については、「追テ何分ノ儀詮議可相成」と通達されている)。

私立東京専門学校社団法人理事 法学博士 鳩山和夫

明治三十五年三月二十八日付願校名改称学則変更ノ件校名改称ニ限リ聴置

明治三十五年九月二日 文部大臣 理学博士 男爵 菊池大麓

(東京都公文書館所蔵『明治卅六年文書類纂』)

次いで、同日付で「文部省告示第百四十九号」を以て、

明治三十二年文部省告示第百六十三号ノ私立東京専門学校ハ明治三十五年九月ヨリ私立早稲田大学ト改称ス

明治三十五年九月二日 文部大臣 理学博士 男爵 菊池大麓

(『法令全書』明治三十五年告示)

として告示され、ここに「早稲田大学」の名称が正式に誕生することとなったのである。

三 早稲田大学前夜祭

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 近代日本における諸相変貌のさなか、特に経済界激動の渦巻く潮流を跨いで、本学苑は旧態の此の岸から、新制の彼の岸に、雄大な橋梁建設の工を起した。既述の如く、大学部設置に関する願書を文部大臣に提出したのは三十四年初めであったが、同年四月の『早稲田学報』(第五二号)の「早稲田記事」には、

私立東京専門学校長 法学博士 鳩山和夫

本年二月十二日願其校学則改正ノ件並ニ大学部、文学科、専門部、和漢文学科、同史学科卒業生ニ対シ明治三十三年当省令第十号第五条第一項第二号教員免許資格ニ関スル件許可ス

明治三十四年四月一日 文部大臣 松田正久

(一六七頁)

と許可が報ぜられている。

 この許可書の前段に当る学則改正の概要は、

一、大学部は、明治三十五年九月より開設す。

一、英語政治科、邦語政治科、法律科、行政科、哲学及英文学科、国語漢文及英文学科、史学及英文学科等三十四年九月には旧規則に依り入学を許し、其卒業に至る迄旧規則を適用す。但し、三十五年九月よりは英語政治科、哲学及英文学科を除きたる外の各学科は専門部の内に組入るるものとす。

一、高等予科は三十四年四月より開始す。

高等予科の学期を三期に分ち、第一期(自四月至八月)、第二期(自九月至二月)、第三期(自翌三月至八月)とす。

高等予科に入学せんと欲する者は、中学卒業生、若くはこれと同等の学力を有するものたるべし。其学力を験する為め左の試験を行ふ。

第一種 一倫理 一国語漢文 一歴史 一地理 一英語 一理化 一博物 一数学 一図画 一習字 一体操

第二種 一倫理 一国語漢文 一万国歴史 一万国地理 一数学 一英語

一、大学部に入学するには高等予科全部を卒したる者、専門部中の史学科、和漢文学科に入学するには高等予科第一期を修了したる者、又は是と同等学力ある者、専門部中の他の各科入学程度は中学卒業程度にして、其課目は旧規則に同じ。

(『早稲田学報』明治三十四年三月発行第五一号「早稲田記事」 一六二頁)

という如きものであった。

 大学部開設について正式に許可されたので、同年四月付の学生募集広告には、大学部の予備門としての高等予科の授業開始が、次のように明らかにされている。

高等予科 従来の英語政治科及文学部各科並に来三十五年九月開始の大学部に入る予備門也。授業来四月開始す。

(『早稲田学報』明治三十四年四月発行 第五二号 末尾広告の四)

 大学昇格については、当然、校舎の増築、図書館の増設、運動場の拡張等が必要条件となるので、あらかじめ建築を始めていた新講堂(階上二室、階下一室)は四月二日に落成し、出版部もこの建物の一部に移転したが、それでもなお不足するところがあったので、翌三十五年一月十八日には、前島、鳩山、高田、天野、坪内、三枝および田中幹事の首脳を大隈邸に集めて校舎新築の件を議し、四月初旬、図書館の建築(書庫、煉瓦造り三階建六七・八五坪、閲覧室、木造二階建一二五坪、三十五年十月落成)に着手した。また大学部校舎の建設は遅れた(三十六年七月落成)が、これらの落成に先立ち、七月には早くも、キャンパスの北側に五千余坪の運動場を新設し、他にボート三艘、小銃三百余挺を備え付け、何れも体育の用に供した。そして市島謙吉浮田和民に代って図書館長に、安部磯雄が体育部長に、松平康国に代って本田信教が寄宿舎長に、それぞれ就任した。

 『早稲田大学沿革略』第一によれば、三十五年二月に十年来の懸案である商科設置の件(次巻参照)が取り上げられ、その創設が決議された。三十五年七月発行『早稲田学報』臨時増刊第七十号「早稲田大学規則一覧」中の「早稲田大学紀要」の「本校部門」の項に、「大学部、専門部、高等予科ノ三種二分チ、大学部二政治経済学科、法学科、文学科、商科ノ四科ヲ設ケ」(一頁、圏点新付)とあり、また特に、「商科大学ノ新設」として、

明治三十七年九月ヨリ本校大学部内ニ新ニ商科大学(修業年限三ケ年)ヲ置ク。而シテ右入学志願者ハ、明治三十六年四月始業ノ本校高等予科ニ入学セシム。蓋シ今日ノ通弊、学識アル者ハ実業ノ修養ニ乏シク、実業ノ修養アル者ハ学識ヲ欠ク。此二者ノ調和ヲ計リ、高等ノ学識アル実業家ヲ養ヒ、実業ノ修養アル学者ヲ出スコト、是レ本大学設立ノ旨意ナリ。 (五頁)

と明記しているから、恐らく三十五年夏までにかなり突っ込んだ意見のやりとりがあった上、このような大綱が決定された模様である。

 とにかく、新学年から早稲田大学と改称することが決定的となったため、創立二十周年記念日を期して開校式を挙行することに定め、六月十六日、学生に対し、開校式の式場内は勿論のこと、その他の式典に参列する場合にも、必ず制服制帽を着用すべしと公示した。更に七月十二日大隈邸で開かれた社員会および評議員会で、学制の変更、校舎の建築、体育部費の徴収、運動場の設置につき協議するとともに、安部磯雄、梅若誠太郎、岡田正美、岡田朝太郎、小山温、志田〓太郎、戸水寛人、平沼麒一郎、藤井健治郎を新たに評議員に加えてこれを強化し、また大学部・専門部各科教務主任と高等予科長を定めた。これと同時に二十周年記念式および大学開校式を行うことを確認し、それぞれ手順を決め、準備委員を選んで万遺漏なきを期した。

 七月十三日高等予科第一回修了証書授与式を挙行したが、この修了生達こそ、新制大学部第一回生の栄誉を担う若人達であった。

 さて基金募集の件が校友大会の席上で発表されたことは、既述の通りである。従って実行に移すべき時は目睫の間に迫っていた。当局の宣伝活動が急速に展開された模様を、三十四年および三十五年の記録を総合して記してみよう。

 全国各地に散在する校友ならびに関係者に送られた書状は次のものである。

早稲田大学基本資金募集手続

第一条 今回募集する資金は、早稲田大学建設の為めに寄附を請ふものとす。

第二条 資金募集の事務は、着手より凡そ満二ケ年を以て期限として終局するものとす。

第三条 資金寄附の方法は、左の二項の中孰れに拠るも寄附者の便宜に任するものとす。

一 寄附金全額を一時に贈附する事。

一 寄附金全額を五ケ年以内の期間に於て適宜に分割して贈附すること。

第四条 資金寄附の承諾を得たる時は、基本資金寄附名簿に其金額を記入し、寄附者の署名を請ふものとす。

第五条 寄附金は、確実なる銀行を選び、之に出納を託すべし。

第六条 資金募集の事務結了したる時は、資金募集委員は報告書を製し、之を資金寄附者に送付すべし。

第七条 資金募集の事務結了したる時は、資金寄附者中より基本資金管理委員若干名を推選し、資金募集委員は之に其事務を引渡すべし。但し其推選の方法及任期等は、本校評議員会の決議を以て別に規定すべし。

第八条 資金管理委員は、募集したる資金全額を保管し、分割寄附に係る未納金の贈附を受け、幷に校長の請求に依り基本資金より供給すべき用途を議定するものとす。

第九条 基本資金は、資金管理委員に於て必ず確実なる銀行に預け置き、利殖を謀るものとす。

第十条 基本資金の利息を以て本校事業の用途に供するものとす。但し、校舎の建築敷地購入等の為めには一時基本資金を流用することを得。

第十一条 本校々長は、毎学年の初めに於て其学年間に基本資金より支出を請ふべき予算全額を定め、資金管理委員の議定を得て之が支給を受くるものとす。

第十二条 資金管理委員は、毎年十二月に於て其前年間の基本資金収支の報告をなすべし。

第十三条 本校は、資金寄附者に対し、其功徳を彰表する為めに左の雛形の謝状を送るべし。

第十四条 本校は、評議員全部を以て資金募集に関する事務を委嘱す。

第十五条 資金募集委員は、其互選を以て専務委員若干名を選定し、実際に於ける一切の事務取扱を委任すべし。

第十六条 専務委員は、別に本校の趣旨を賛助する有力者に就き委員を嘱託し、其協力斡旋を受くることを得。

募集委員規定

一、本校評議員及校友会幹事を基金募集委員とし、会合を募集委員会と称す。

二、募集委員長には、中央校友会の推薦に依り前島密氏を挙ぐ。

三、募集委員中より左の専務委員を互選す。

前島密 鳩山和夫 高田早苗 市島謙吉 田中唯一郎 田原栄

坪谷善四郎 山沢俊夫 堀越寛介 増田義一 谷新太郎 宮川鉄次郎

平田譲衛 前川槇造 砂川雄峻 小川為次郎 三枝守富 斎藤忠太郎

青地雄太郎 川上淳一郎

四、募集の都合に依り臨時に募集委員を嘱託することあるべし。差向左の諸氏を其委員に嘱託す。

昆田文次郎 今井鉄太郎 増子喜一郎 柏原文太郎 門馬尚経 小鷹狩元凱

五、委員中左の諸氏に基金取扱を託す。

前島密 鳩山和夫 高田早苗

六、基金募集事務所は本校内に設置し常務を左の諸氏に託す。

高田早苗 市島謙吉 田中唯一郎 小鷹狩元凱

七、募集費は本校より特別支出を為して之に充つ。

募集方法

一、全国の校友には、

(一) 趣意書に(紅葉館中央校友会春期大会の席上に於ける大隈伯爵幷に高田学監の)演説、筆記及寄附申込書を添へ、且つ学校よりの書翰を郵送の事。

(二) 地方校友会の幹事又は委員等へは、前項書類の外に、校友諸氏の会合を促すの書状を特に差出し、其日割を本校と協議の上決定し、且可成本校より募集委員出張の事。

(三) 地方有志者に大隈伯爵の書翰及趣意書等を送致するには、其県地校友会に至急取調を託し、其報告を参照して郵送すること。

二、有志者には、

(一) 大隈伯爵の書翰に本校規則書、大学設立趣意書及本校よりの書状を送致の事。

(『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』 一八八―一九一頁)

右のように定められた募集方法により、全国の校友諸氏に送られた書簡は、次の如きものであった。

拝啓、余寒難凌候処、御清穆珍重奉存候。陳者、我東京専門学校も明年を以て創立満二十年に相達候に就ては、此好期をトし私立大学建設の宿志を貫徹致度奉存候。然るに此挙に伴ふ緊急の一事は、実に基金の募集に御座候。右に関しては、校員等屢屢協議を重ね案を立て、去月校友大会に協議致候処、幸にして熱心なる賛成を得候に付、始めて大方に向て企画を発表し賛同を求むるの場合に立至候。抑々我校、素と私人団体の経営に成ると雖も、其志す所は国家教育を裨益するにあること勿論の儀に候へば、普く天下の有志に協力賛助を求むるは、必ずしも不当の事に有之間敷候。乍併本校との関係に就ては、自ら内外親疎の別も有之義に付、先づ校友諸君の一大奮発を請ふにあらざれば、目的の貫徹到底無覚束と奉存候。目下財界不振の折柄、三十万円の基金を募るは難事の如くには候へ共、全国校友二千五百名、一名二百円を(自力にても他力にても)負担すと仮定すれば、五十万金は立どころに集まる計算に候へば、一概に難事とは難申、要は校友諸君の御奮発如何に有之義に付、幾重にも御尽力相願度、可相成は至急貴県下校友の会合相催し被下候て、本校の志望相達候様御相談希上候。尤も右御会合の時日、予め御打合被下候へば、本校募集委員の内罷出親しく本校の企図希望申述候様可仕候。尚別冊趣意書差上候間、委曲は右に就て御覧被下度、先は右得貴意候。敬具。

明治三十四年二月

東京専門学校に於て

市島謙吉

鳩山和夫

大隈英麿

高田早苗

坪内雄蔵

天野為之

何々殿

尚此度基金募集の事決定致候に就ては、中央校友会の決議を以て評議員前島密氏を募集委員長に推薦し、又評議員及校友会幹事を同委員に挙げ候間、御含迄に申上候。

有志を御勧誘被下候節は、早稲田大学設立趣意書幷に大隈伯爵書状可差出に付、御申越願上候。

御寄附被下候節は、差出候寄附金申込書へ金額並姓名御記入、本校へ御送附相願候。

(『早稲田大学開校

東京専門学校創立廿年紀念録』 一九三|一九四頁)

また有志に向けて送られた書状は、次の如きものであった。

拝啓、弊校此度従来の規模を拡張し、私立大学を建設せんが為め基金を募集致候に就ては、主として賢台の御賛助を仰度、幸

に弊校の企図に御同情を寄られ、御同志被申合御助力被成下候はば、本懐の至に奉存候。尚委員罷出親しく懇請可致候得共、

不取敢別紙趣意書相添得貴意候。敬具。

明治三十四年月日 東京専門学校校長 鳩山和夫

学監 高田早苗

募集委員長 前島密

(同書 一九二頁)

そしてこのおのおのには別紙の如き申込み証が添付された。

(同書 一九四頁)

これら二通の書状の他に、次の如き大隈の丁重な挨拶状が同封された。

粛啓、時下御清適珍重存上候。陳者、唐突ながら早稲田大学の義に付得貴意度、微衷御諒承被下候はば、本懐の至に候。抑々同校は、従来東京専門学校と称し、去明治十五年創立の当時老生一臂の力を致したる縁故有之、爾来切に其発達を翹望罷在候処、幸に校員の奮励と社会の声援に依り年を追ふて隆盛の域に達し、茲に創立の第二十週年、即ち明治三十五年九月を期し大学組織の計画を成就せんとするの場合に立至り候。熟々考候に、大学教育なるもの、今日の場合国家の設備のみを以て満足の結果を挙る能はず。又必しも国家の設備にのみ依頼すべきものに非ず。東京専門学校の如き、既に久しく其萌芽を現したるものを培養して、教育上の欠点を補ひ候は、最も切要の事と為存候。然れども私設大学の事業を完成するには、固より巨大の投資を要し、到底少数者の能く得て為し遂ぐる所に無之、且這般の事業は衆多の力を基礎として立つに非ざれば、永遠の存立を期し難きものと確信致候。世間或は、同校は創設以来老生の私有物なるかの如く思惟せらるる者有之候へ共、固より誤解に過ぎず、老生は素と維持者の一人として多少の力を致したる来歴より、将来此事業に賛同協力せんとする同志者多からんことを切望する者に外ならざる儀に候へば、何卒国家教育の上に貢献する所あらんとする同校の抱負に充分の同情を表せられ、幾重にも御賛助被下候様致度、茲に衷情を吐露し、御同意を求め候。先は所懐の一端のみ申述度、如此に御座候。勿々敬具。

明治三十四年二月 大隈重信

(『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』 一九一―一九二頁)

 芝紅葉館における春期校友会大会の後を承けて、二月二日には全国各新聞に基金募集広告を一せいに掲載し、全国に趣旨徹底を計り支援を乞うた。続いて新潟県出身代議士およびその他越佐会関係の人々を大隈邸に招き、大隈ならびに高田学監から特別に後援方を依頼した。これは、創立後間もなく結成された新潟・佐渡出身者の団体「越佐会」が、先に大学部設置の計画があるのを知って、基金募集をしようと申し出たが、当局はその好意を謝しながらも、一応辞退したことがあったからである。なお、越佐会を語る場合、市島謙吉の存在を特筆しなければならない。市島の生家は角市・市島家と言われ、酒田の本間家とともに千町歩地主と称せられ、市島宗家の筆頭分家であった。既に第二編第十一章に詳述した通り、市島は東京大学在学中高田らと相知り、鴎渡会を起したのが機縁となり、終生東京専門学校ならびに早稲田大学と苦楽を共にしたのである。次いで、同月十六日には本校出身代議士を紅葉館に招待し、基金募集の方法等を協議し、三月二十一日には憲政本党の代議士を、二十六日には貴族院多額納税者議員を、それぞれ紅葉館に招き、基金募集に関する後援を依頼した。四月以後には、地方に巡回講演会を開くとともに、基金募集の周知運動を精力的に開始した。各首脳部が各地に転戦した模様を略説すれば、千葉、茨城、埼玉など近県を別として、左の如くである。

 一、前島・市島新潟巡遊。自明治三十四年四月一日至五月十一日。遍歴地=高田、新潟、相川、長岡、柏崎。講演会長岡にて二回。招宴七回。

 二、高田学監西国巡遊。自同四月十七日至六月一日。遍歴地=静岡、大津、大阪、京都、奈良、岡山、倉敷、広島、下松、福岡、佐賀、長崎、熊本、山口、八幡、津、名古屋、岐阜、島田。講演会十四回、招宴二十四回。

 三、大隈信越地方巡遊。自同五月二十三日至二十九日。特別車輛増結による遍歴地=上田、高田、沼垂、長岡、柏崎。講演六回、招宴八回。因に大隈の講演題目は、「教育及経済貿易」、「財政経済及外交」、「金融と財政」、「財政整理策」等経済に関するものが多く、四百名から一千二百名の聴衆を集めた。

 四、前島委員長仙台訪問。同七月二日、招宴。

 五、高田・中村(進)四国巡遊。自同七月二十二日至八月十四日。遍歴地=大阪、徳島、高松、松山、久万町、川口村、高知。講演会数六回、招宴十一回。講演会は学術講演と称し、高田は何れの地でも「国民教育の方針」、中村は「国際法の概念」その他について述べた。

 六、大隈(英)・天野・浮田・田中東北巡遊。自同七月二十七日至八月二十五日。詳細前掲(八四三頁)。

 七、大隈(英)・首藤福島・宮城・岩手巡遊。自同十一月二十三日至十二月六日。詳細前掲(八四三―八四四頁)。

 八、高田・水口北陸巡遊。自明治三十五年四月二十四日至五月二十二日。詳細前掲(八四四―八四五頁)。

 この運動に関し痛感されるのは、当の責任者であるとはいえ、如何に高田が精力的に各地を巡回し、講演に、面接に、寧日なき活動を続けたかということである。恐らく彼の行動範囲は、東北および関東の一部を除いた西日本全体に及んでいるだろう。また、市島が越佐会の有志を説得した功績も大きい。更に元南部藩主の御曹子であった大隈英麿の実力も見逃すわけにはいかない。かくて獲得した基金は、最終的には次のような成果をもたらしたのである。

 開校および創立二十周年記念式典挙行の三日前、すなわち三十五年十月十六日調べによると、応募者数は、各団体の個人名が明らかにされているものを含めて、総人員千五百五十五名、この醵出高金二十五万四千七百十九円十九銭であった。この他、京都市在住の藤原忠一郎は亡父源作翁の遺志により、金二万円以上を本校人材養成のために積み立てるという申し出があった(『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』一九八|二一二頁)。所期の金額三十万円達成にはなお二年有余を要したが、それでも三十七年十二月十日調べでは、三十万六千三百三十八円六十六銭を得ることができた(『早稲田学報』明治三十八年一月発行第一一二号六〇頁)。華族、貴衆両院議員、財界有名人をはじめとして、講師および校友は勿論のこと、地方巡回講演会の講演を傍聴した人々が手許の二銭三銭をはたいて喜捨したという逸話は、関係者一同をいたく感動せしめた。大隈がかつて校友会席上で、「一人の金より多数の集合した資金を得るやうに致したい」と語ったその願いが、今ここに結集されたからである。五爵の有名人は、近衛篤麿、岩倉具定ら四公、鍋島直大、前田利為、伊藤博文、西園寺公望ら九侯、大谷光尊、佐野常民、土方久元ら十伯、鍋島直彬、田中光顕ら十二子、岩崎弥之助、三井八郎右衛門(高棟)、渋沢栄一ら十六男を挙げることができる。これに対し西本願寺をはじめ、天理教会本部、上田青年革進会、憲政本党滋賀支部、寺泊築港期成同盟会など、異色あるものもあった。

 三十五年十月十六日調べの募金成績が『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』(一九八―二一二頁)に詳しく載っている。その応募者数を地方別および府県別に集計した表を最後に掲げておく。

第十五表 明治三十五年早稲田大学募金成績

一地方別応募者数一覧

二府県別応募者数一覧(応募者十五名以下は%を出さず。)