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第三編 東京専門学校時代後期

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第十四章 留学生日記

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一 外国人留学生の来学

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 学苑に業を受けた初期の外国人留学生は、朝鮮の学徒であり、清朝中国の青衿であった。旧来鎖国政策を採っていた朝鮮・清国の両国が外国に留学生を派遣するに至ったのは、その強制された開国と、それによって直面せしめられた政治・経済的諸課題と、密接に関連するものであった。

 朝鮮は一八七六年(明治九)、江華島事件を機として日本によって開国させられ、一方清国はこれより先一八四二年(天保十三)、対英アヘン戦争に敗北した結果開国せしめられるに至った。この両国にとって、その開国は、それぞれ欧米列強の帝国主義的侵略による植民地化の危機と同義に近かった。そこで、このような危機を回避し、乗り越えるためには、両国では国内の近代化改革を図ることが緊切の要件として求められねばならなかった。両国が外国に向けて留学生を派遣することになったのも、畢竟このような近代化改革を推進して行く過程で要請されたものに外ならない。朝鮮および清国が外国へ留学生を派遣した基本的な動機の概略は以上の如くであるが、この両国が、特に日本を指して留学生を派遣したということについては、一般には次のように説明される。すなわち、日本は東アジアにおいて欧米列強の植民地化の危機を脱したばかりでなく、西欧文明を移入して近代化を達成しつつある唯一無二の国であり、植民地化の淵に臨ましめられている朝鮮・清国にとって、その近代化の軌範と考えられたためである、と。

 さて、朝鮮から最初の留学生が来日したのは、明治十四年、慶応義塾に入学した柳定秀、愈吉濬の二名だと言われている(『慶応義塾百年史』中巻前一四五頁)。これまで専ら中国に向けて留学生を派遣していた朝鮮が、特に留日学生を派遣するに及んだことは、明治九年朝鮮が開国して後、初めて京城に派送された花房義質代理公使が、翌年十二月十八日朝鮮の礼曹判書趙寧夏に対して送った「留学生派生催進」の書簡で、維新以後における日本の科学技術、例えば医学・機械・軍事工業などは朝鮮より優れていること、朝鮮は富国強兵を講ずべきで、そのためには速かに少壮の両班貴族の子弟を日本に留学させるべきことなどについて陳べた建議(『日本外交文書』第一〇巻三〇四―三〇五頁)に基づいたものであった。そしてその後の朝鮮からの留日学生は、開明派の金玉均と福沢諭吉との親交により、十六年には金玉均の勧導で六十名が慶応義塾に入塾したが、彼らはしかし、翌年十二月に起った金玉均を主導者とするクーデター(甲申事変)の機に、大部分が帰国して革新運動に参加するに至った。ところで、学苑に来学した、恐らく最初と目される朝鮮留学生については、明治十七年九月十三日号の『郵便報知新聞』に「同校へは朝鮮人二名政治科志願にて入校せしと云ふ」との記事に伝えられるが、この両学生の入学後の消息は遺憾ながら詳らかにし得ない。『学籍簿』に拠る限りでは、朝鮮留学生の最初の卒業生は、三十年に邦語政治科を畢えた「大江恭次郎事洪奭鉉」(明治三十二年十二月調『東京専門学校校友会名簿』では本名で記されている)である。洪奭鉉は青雲の志を抱いて笈を負うたものの、学費は十分でなかったもののようで、自ら、

自分は明治二十六年の頃初めて早稲田学校へ入学し、学資なき苦学海を泳ぐこととなりました。いかにして此の苦海を渡らむか、捨小舟とりつく島もなかりしが、恰も校友増田義一君が義俠に依り、当時鳩山校長をはじめ、高田、小川〔為次郎〕の両先生より学資金各二円づつの補助を仰ぐことになりしが、其後物価の騰貴に呪はれ、市島、天野の両恩師より各金二円づつを恵まれ、辛ふじて勉学することになつた。……春風秋雨遂に首尾善く政治科を卒業し、錦を郷国に飾ることを得たるは此の上なき愉快で、当時朝鮮では文化の率先者、はいからの第一人者であつた。

(『早稲田学報』昭和三年五月発行第三九九号 三一頁)

と述懐している。増田や市島は別として、薄給の高田、天野、小川らが毎月二円ずつ援助するというのは容易ではなかったろう。それはともかく、洪奭鉱は、二十八年「他日国家有用ノ材タラン」という抱負を懐いて留日した朝鮮学生達がその目的完遂のために結集組織した「朝鮮人留学生親睦会」の指導者の一人として活躍していた(『中央時論』明治二十八年八月発行第一五号二七頁)。そして彼は、三十二年に帰国し、三十四年には京城南署の中学校に奉職、三十六年には仁川港韓国司令部付、三十九年には京城中署署長、四十年には京城学部文書課長の要職に就いている。

 この他、明治三十年代に学苑を卒業した朝鮮留学生を列挙すると次の如くである。

このなかで、李寅植は、京城韓一銀行支配人を振出しに全羅南道光州農工銀行支配人と経済畑を歩んで朝鮮金融界に貢献し、安明善は東辺彰信社支配人に就任して一城一廓の主になり、朝鮮における文化・言論活動の一翼を担った。また、金英鎮は平安南道監察官から朝鮮総督府中枢院参議へと官僚生活に終始し、金祥演は中清南道洪州の郡守に任じて地方政界に貢献している。なお、三十九、四十年度に卒業生を欠いているのは、思うに、日露戦争の初期に朝鮮の国土も戦場と化し、戦災による農村の疲弊、都市の荒廃による経済の混乱が、留日学生派送の障碍要因となったためであろう。

 アヘン戦争は、中国をして西洋近代国家の軍事的優位を認めさせ、この敗戦の反省から、曾国藩、李鴻章、左宗裳らをはじめとする官僚が中心になって軍事・産業を主体とした西洋文明の摂取・模倣を主眼に据えた洋務運動を展開した(一八六〇―九四年)。また、旧来採って来た外国蔑視の「夷務」外交から、「洋務」外交へ切り替える必要に迫られ、その要員を養成するために外国語の研修機関を設け、一八七二年には、曾国藩、李鴻章の周旋によって三十名の留学生がアメリカに派遣された。これが近代中国における最初の海外官費留学生の派遣であった。続いて一八七六―七七年には、イギリス、フランス、ドイツにそれぞれ留学生が官派された。これらの留学生は、近代的な「洋務」外交要員の養成と、国内近代化すなわち洋務運動完遂のための人材養成を目的に派遣されたものである。

 洋務運動はしかし、その中心課題である軍事整備についてみても、旧式の編成のままで兵器のみを洋式化した淮軍のように、木に竹を継いだような改良に止まった。ために、それは日清戦争の敗戦によって破綻が告げられねばならなかった。東海に浮かぶ一小「島夷」に過ぎなかった日本に喫した敗北の意味したものは、列強による中国の半植民地化が公然と進展する契機となったことを考慮の外に措くとしても、なおアヘン戦争にも匹敵するものがあったであろう。ここにおいて中国は、日本の戦勝の因由について省察を加えざるを得なくなり、洋務運動を乗り越える改革策を打ち出すことを迫られた。この時、前面に現れたのは、康有為、梁啓超らを中心とする変法自強運動である。その主張するところは、日本の戦勝は、明治維新とその後における西洋文明の摂取・消化の成功によるものに外ならないのであるから、目睫の間に迫った中国の植民地化の危機を救うのには部分的な改良ではなく、全面的な改革、つまりこれまでの専制政体を立憲政体に改めるという「変法」を図らねばならないというにあった。康有為らの政治意見は時の皇帝光緒帝によって採択され、農工商業の振興、軍事、運輸通信施設の近代化を企て、また官報、新聞、雑誌等を発行して啓蒙機関を整えた、いわゆる「戊戌の変法」が展開した。この改革政治は、一八九八年六月十一日に発進したものの、百日余にして九月二十一日、西太后一派のクーデターの前に頓挫を来たした。しかし、戊戌の変法政策は、義和団事件(一八九九―一九〇〇年)後に採られたいわゆる西太后新政に殆どそのまま受け継がれて行ったように、列強の圧迫下にあって清朝中国の維持延命を図る上で不可避的な内容を含むものであった。清国の留日学生の派遣は、こうした変法・新政政策の一環として推進されたものに外ならない。

 ところで、清国が日本に留学生を派遣するに至ったことには、駐清公使矢野文雄の進言が直接的な動機として関わっていた。すなわち彼は、一八九八年五月七日清国政府総理各国事務衙門(外務省に当る)に対し、人材造就、教育の徹底等による中国の近代化を図る上で、日本へ留学生を派送する必要があるならば、日本政府はこれに援助を惜しまない旨を申し出た。この提案は直ちに康有為の共嗚するところとなり、政府において政策立案の審議に移されて行った。一方康有為とは政治的に対極にある張之洞もまた、参謀本部員福島安正、宇都宮太郎らの勧誘に接して留日学生問題に熱意を示していた。康有為をはじめとする当時の官僚・知識人層に共通して見られる留日学生派遣の構想は、すなわち張之洞が『勧学篇』で、「西学は甚だ繁、およそ西学の切要ならざるものは、東人〔日本人〕すでに刪節してこれを酌改す。」或いは「我れ径を東洋〔日本〕に取らば、力はぶけて効すみやかなり。」と述べた考え方に基づいていた。そして、こうした政府要路者の考図に留日学生の派送が支えられていたことは、言うまでもないであろう。いま少しく清国留学生の東来の理由を、さねとうけいしゅうの「中国人早大留学小史」によって補っておけば、

第一は近いということ。さあ、というときに早く帰れる。……つぎは風俗習慣が似ておるということです。何となく、むしろ日本のいろいろな風俗を中国の人は、わが国の唐の時代の風俗が残っている、と非常に親しむわけであります。それから第三には、何としましても日本はヨーロッパ諸国に比べて生活費が安い、だから費用が安くいける……それからもう一つは、文字が似ているということが大きな原因です。……この四つの原因のほかにもう一つ大きなことがあります。かれらは日本文化を学びにくるのではなくて、ほんとうをいえば西洋の近代文化を学びにくるんです。……当時の指導者のいわく、日本は西洋文化の肝要ならざるものを省き、直ちに利用できるようなことを考えておるから、本場よりも日本へ行くんだ、……本場へいくと原理的である、出店の日本へいけば東洋人として急ぎ必要なこと――時局上非常に急いでおりましたので、日本でなければ早く学ぶことはできない、これが一番大きな原因でありましょう。

(『東洋文学研究』昭和四十三年五月発行第一六号 三―四頁)

という如くである。

 さて、学苑に来たり学んだ清国留学生に眼を転ずれば、さねとうけいしゅうの『増補中国人日本留学史』に、

一八九六(明二九・光緒二二)年旧暦三月のすえ、清国の留学生=唐宝鍔・朱忠光・胡宗瀛・戢翼翬……王某・趙某の一三名が日本にやってきた。かれらは総理衙門で選抜試験をうけ、これに合格して、日本に派遣された人々で、年齢一八歳から三二歳にわたっていた。ときの駐日清国公使=裕庚は、この一三名の教育を外務大臣=西園寺公望に依頼、西園寺は文部大臣を兼任していたので、この一三名の教育を高等師範学校々長=嘉納治五郎に一任した。 (一頁)

と記されている。この留学生は、日本大使館の要員養成のために総理各国事務衙門から派遣されたものであって、文部大臣からこの「使館留学生」教育の依嘱を受けた嘉納治五郎は、日本語に未だ通じないこれら十三名の学生を神田三崎町に一戸を借りて収容し、日本語および普通学の教授に当った。後、六人が中途退学したため、結局七人が、明治三十二年、三年の課程を卒業し、このうち三人が上級学校に進学した。すなわち唐宝鍔、戢翼翬、胡宗瀛の三名で、胡宗瀛は後に東京帝国大学を畢えるが、唐宝鍔と戢翼翬の二人は本学苑の門を叩いた。この時のことを『早稲田大学沿革略』第一は「〔明治三十二年〕九月十九日、是日清国留学生二名、外ニ銭恂氏監督学生三名入学ス。之ヲ清国学生ガ本校ニ入学スルノ初メトス。」と記している。留学生監督の銭恂は、各省派遣の学生をそれぞれに適応した学校に入学させたので、都内の各校とは親交を結んでいたに違いないが、とりわけ学苑に対しては好意を持っていたもののようである。それは、現在早稲田大学図書館に架蔵されている彼の寄贈本が八十六種一、五二五冊の多きに上るのを以て窺えるだろう。しかるに不幸にも、銭恂が仲を介した三名の学生の姓名は杳として詳らかでない。

 ところで、唐宝鍔はその学歴が多彩で、宛然東京専門学校から早稲田大学へ移行する過渡的な、学苑制度の改廃の跡を見る観がある。彼が入学した時には未だ清国留学生部はなく、嘉納治五郎が彼らを卒業させた時、彼らの日本語の学力は、中学三、四年生程度であったと言っているから、恐らくは仮入学に準じた処置を講じたものと思量される。唐宝鍔が邦語行政科を畢業したのは三十六年七月であってみれば、修業に四ヵ年を費やしたことになる。しかるに『早稲田学報』臨時増刊第九十四号「第十八回早稲田大学校友会誌」(明治三十六年十二月発行)によると、三十四年行政科校外生卒業となっている。校外生というのは講義録を以て履修する者で、『早稲田大学漢訳講義録』の発刊されたのが三十九年九月十五日であるから、唐宝鍔は、日本人学生向けの『行政科講義録』を閲読しながら学習したのであろう。校外生卒業ならびに邦語行政科卒業の双方の事柄を正しいとすれば、校外生卒業者は本校の編入試験を受けることができるという規定によって、既述の津田左右吉の場合のように、彼もまた第二学年への編入試験を経て正式入学を許可されたと見られ、これならば符節が合おう。唐宝鍔は、邦語行政科を卒えてから、大学部政治経済学科に進み、三十八年度卒業生中にその名を列している。

 三十八年七月二十日号の『東京朝日新聞』は、「殿試及第の留学生」という見出しの下に「過般北京保和殿に於て行はれたる殿試に及第したる日本に留学の清国学生左の如し」としてその一等八名を挙げ、その四名が早稲田大学卒業生であることを明記するなかに、「唐宝鍔広東人、早稲田大学政治科卒業、山東師範館務」と、唐宝鍔が一等登第の栄に浴したことを報じている。また、殿試登第の二等のなかには戢翼翬の名が連なり、「湖北人、早稲田大学政治科卒業、進士館教習」と紹介されている。しかしながら、彼は学苑を卒業するまでに至っておらず、三十八年に推選校友に挙げられたというのが正しい。中退前後の彼の活動は至って華々しく、独り清国留日学生と学苑の紐帯を堅くするのに与ったのみならず、日中文化交流の懸橋として貢献するところ大であった。また、唐宝鍔を学究的・外交官的であったとすれば、戢翼翬は政治家的・革命家的であったと言えよう。

 「辛亥革命までのすべての革命は、日本が楽屋であり、登場人物は亡命客・留学生、それに日本の『支那浪人』であった。」(『増補中国人日本留学史』四一一頁)と言われるが、留日学生が最初に組織した結社は、一九〇〇年東京で成立した、「智識の交換」と「感情聯絡」を宗旨に掲げ、政治思想と没交渉であることを前提とした励志会であったとされる。学苑に笈を下ろしたことのある馮自由の伝えるところによれば、かかる宗旨の下にあっても、革命思潮が風起雲湧し来たる中で、激烈・穏健の二派が分立したといい、激烈派には沈翔雲・程家檉、それに楊蔭杭(三十四年政治科校外生卒)、雷奮(同)、そして戢翼翬らが属していたという(『革命逸史』初集一四六頁)。戢翼翬ら数名は、義和団事件に列強連合軍が北京進攻を企てたため、光緒帝・西太后の西安蒙塵という事態が生ずるや、梁啓超(当時日本に亡命)の弟子の唐才常(東京高等大同学校生)が漢口に自立起義軍を起したのに呼応参加した。けれども起義は事、志と異り唐才常以下指揮者が張之洞に捕えられ惨殺されたため、急遽日本に再来した。この一件を機に励志会は激烈派が牛耳るところとなり、また、戢翼翬は、その中心の一人となって邦書の中国語訳を積極的に試みる訳書彙編社を興した。これは学苑に近接する牛込喜久井町二十番地にその本拠が置かれ、戢翼翬以下十三名の編集成員中、上海育材学堂総理王植善を除いた他は全員留日学生で、学苑に笈を下ろした者を挙げれば、次の通りである。

 再び馮自由の言を借りれば、楊廷棟、楊蔭杭、雷奮の三人は、清末中国における「青年の思想的進歩にとって巨效を収めた」「留学界雑誌の元祖」と言われる訳書彙編社の機関誌たる『訳書彙編』(一九〇〇年十二月六日創刊)の編輯を主持していたという(『革命逸史』初集一四七頁)。因に、金邦平は唐宝鍔とともに殿試一等に登第、また富士英は直隷総督衙門随弁を経て政治科挙人に登第した、何れも官費留学生の恩典を受けた逸材であった。なお励志会は、一九〇二年(明治三十五)成員の中から「官場の走狗」となる者が多出するに及んで、激烈・穏健両派に疎隔を生じ、会内から民族主義・破壊主義を標榜する新団体を組織すべしとする声が挙がり、遂にこの路線に沿った東京青年会が結成されるに至った。この東京青年会の「発起人には、葉瀾、董鴻〓〔三十七年邦語政治科卒〕、張継〔大正二年推選校友〕、秦毓〓、江栄宝〔四十一年推選校友〕、周宏業〔三十七年邦語政治科卒〕、謝暁石、張肇桐、蔣方震、王家駒、嵆鏡〔三十八年邦語政治科卒〕、呉綰章、鈕翔青、薩端、熊垓、胡景伊、蘇子〓(曼殊)〔高等予科中退〕、馮自由〔前出〕、金邦平〔前出〕等二十余人、中でも早稲田大学生が多」かった(同書同集一五二頁)ことは特筆しておきたい。かく記述する馮自由も、末弟馮偉氏の回想によれば、「兄自由が早稲田に学んだ」ことが知られる(鴻山俊雄「在日華僑馮鏡如の足跡をたずねて」『日華月報』昭和四十七年二月発行第六四号三頁)けれども、学籍に当該せず、恐らく聴講生ではなかったかと推定される*1。何れにせよ、東京青年会は、「日本留学界における革命団体の最も早いもの」(『革命逸史』初集一五二頁)でもあり、学苑留学生の特質の所在を窺わしめるに足りるであろう。なお、周宏業には、矢野竜渓の『経国美談』の訳業(横浜『清議報』に連載、後単刊)があることを付記しておこう。また、三十五年七月までに学苑の課程を得業した清国留学生は、三十五年校外生政治科卒業の王鴻年、権量、それに、康有為の門下生で亡命した梁啓超の日本語修得を助け、後に『上海時報』主筆に迎えられた羅孝高が挙げられる。

二 学苑の海外留学生

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 明治三十三年六月発行の『早稲田学報』臨時増刊第四十一号「東京専門学校規則一覧」は、その「紀要」の中に一項を設け、

特待生及海外留学生本年九月ヨリ特待生及海外留学生ノ制ヲ設ケ、本校学生及得業生中品行方正ニシテ学業成績優等ナル者ヨリ選抜ス。本年度ニ於テハ各学部得業生ノ中一名ヅツヲ海外ニ派遣スルコトニ決セリ。 (五頁)

と記している。これは、来たるべき三十五年九月を期して早稲田大学に昇格せんとする準備と見られ、このことは、『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』に「専任講師増加の為め従来の講師、校友数名を海外留学生として英、独、米等の各国に派遣せり。」(二一五頁)とあるのを見ても明らかである。かくてその第一回選抜の栄誉をかち取ったのは、既述の如く、坂本三郎金子馬治で、三十三年九月八日正午、横浜港出帆の日本郵船会社所属河内丸に搭乗し、ドイツに向って出発した。なお、特待生については、「本校学生中品行方正にして学年試験の成績優等なるものより選抜し一学年間学費を免除する計画なり。」(『早稲田学報』明治三十三年七月発行第四二号八二頁)と記されている。

 坂本三郎は、慶応三年十月、武蔵国南多摩郡原町田村に三浦徳二郎の次男として生れ、在学中渋谷、坂本と二度改姓し、二十一年本校の邦語法律科を卒業後、検事および判事に任官した。留学中学位を得て帰国、本学苑講師に就任し、法学科教務主任、維持員、専門部長、学長(臨時)、早稲田専門学校長等の要職を歴任し、傍ら行政裁判所の評定官をも務め、また秋田県および山梨県知事に赴任した時期もあった。因に明治の天才的女流作家樋口一葉と婚約し、彼女の日記の中に渋谷栄一の名でしばしば出てくるのは彼である。昭和六年四月十四日に逝去、享年六十三歳。

 金子馬治は、明治三年一月、長野県小県郡上田町五百七十八番地に生れ、二十六年本校文学科第一回の卒業生である。同期には中桐確太郎、紀淑雄、種村宗八、永井一孝、土肥庸元、水谷弓彦ら、後年本学苑の講師として教壇に立ち、出でては文壇にその名を謳われた、錚々たる人達が机を並べて競学していた。田中穂積は彼を追憶して次のように語っている。

元来君は、逍遙先生の第一高弟として文芸に深き造詣を持つた上に、又大西祝先生の後継者として哲学の研鑽に精進したのであるから、所謂鬼に金棒で、文芸界に於ては天折した俊髦島村抱月君等と轡を駢べ、哲学界に於てはこれも亦不幸にして天折した綱島梁川君等の先駆を為し、早稲田学園に金子筑水ありと謡はしめ、逍遙先生の右腕となつて学園文学部の基礎を築き、飽までも学者として一教授として終始して、学園の興隆に貢献したいと云ふことが君の平素の念願であつた。

(『早稲田学報』昭和十二年六月発行第五〇八号 一三頁)

彼は、ハイデルベルヒなど三大学で哲学を学び、h

P・Dの学位を得て帰国後、本学苑に教鞭をとり、哲学科、和漢文学科、史学科等の教務主任を歴任し、また演劇博物館長にも就任したが、のち常務理事の要職にあって田中総長を補佐した。「芸術美は、個性が個物の中に人生の普遍相、または永遠相が活き活きと描き出されることである。」との不変の芸術観、人生観、教育観を後進に遺し、昭和十二年六月一日、六十七歳で病没した。

 卒業生の成績優秀なる者に賞を授与することが始まったのは十七年の得業式からであるが、二十一年度得業の坂本はこの栄誉を受けていない。彼の成績は不明であるが、古い校友名簿は成績順に記載されるのが例で、それによると彼は第四位、木下尚江が第五位にランクされているから、相当優秀な成績を以て卒業したものと考えられる。これに対し金子馬治は、第一学年の期末成績は、哲学、論語、マクベス共に満点、平均点九五・一三、席順第二位。第二学年では、哲学、日本文学、荘子は満点、テンペストは九九点、平均九五・五六で首位。第三学年の時は、哲学史、倫理、美学がそれぞれ九八点で、平均九五点を獲得して第一位に立っている。三年間の期末成績を通算しても、その平均点は実に九五・二六に達し、得業式には卒業五席のトップを確保し、大隈夫人寄贈の賞品をかち得ている。

 法律、文学の両科はこれで定まったが、更に商科を創設して総合大学を実現する雄大な企画があったため、大学経営の任を帯びる後継者を養成しておく必要があった。そこで校友中より物色され、留学生として海外に派遣されたのが田中穂積である。彼は明治九年二月、長野県更級郡川柳村に生れた。生来病弱であったから、松本中学校を中退し病気療養に努めていたが、向学心強く、病床にあって東京専門学校講義録を耽読して独学を重ね、二十八年十一月に本校邦語政治科第二学年の編入試験を受けて合格、続いて一ヵ月後の十二月に同第三学年の編入試験にも合格して、翌年卒業するや直ちに東京日日新聞社に入り、間もなく東京毎日新聞社に転じ、その主筆として操觚界に活躍した。この時の彼の犀利な論説が学苑当局の目を惹き、留学生に選ばれて三十四年六月渡米することになった。外遊二ヵ年間米・英両国に滞留しマスター・オヴ・アーツの学位を得て帰国するや、既に大学に昇格していた本学苑の講師に嘱任され、経済学および財政学を担当した。その後商科科長、理事、常務理事、総長を歴任、各学部校舎の耐火建造物化、学制の改革、大学経営の合理化等、多くの成果を挙げたが、現職のまま昭和十九年八月、東大病院で逝去した。行年六十八歳。

 次いで三十四年十月二十一日の学苑社員会は、塩沢昌貞島村滝太郎の両名を三十五年度の留学生に推挙した。

 塩沢は明治三年十月、水戸市下荒神町に生れ、幼くして国・漢学および英語を修得した。十九年上京して東京英語学校に学び、卒業後学苑英語政治科に入学。二十四年七月優秀な成績を以て卒業している。最終学年の学業成績は、行政学および公債に満点を取り、財政学は九五点、平均九一・八五点を得、勿論首席を占めた。優等生(評点九〇以上)として、邦語政治科卒の津田左右吉とともに賞品を受け、また卒業五席の一人として、大隈夫人寄贈の賞品をも受領している。その成績が如何に優秀であったかは、次の記事によっても明らかであろう。

学生の名誉東京専門学校英語政治科第三年級塩沢昌貞氏は、平常抜群の勉強家なりと聞きしが、先き頃租税論の試験に於て頗る完備なる答案(英文)を差出したるに由り、受持講師家永豊吉氏は事の序でを以て北米合衆国ジョンズ、ホプキンス大学政治部教頭博士アダムス并に同教師博士イーリーの二氏に当てて右の答案を郵致し批評を請はれしに、二氏は此程家永氏に書を送りて曰く、外国人にして斯く英文に熟練したるは余輩の深く讃美する処なり、且其答の周到なる頗る看るべきものあり、と。 (『同攻会雑誌』明治二十四年六月発行第四号 二九頁)

彼は卒業後、著訳の傍ら正則予備校および早稲田尋常中学校で教鞭をとっていたが、二十九年九月自費で渡米し、ウィスコンシン大学大学院に入学、R・T・イーリー教授について研究に従事した。大学の課程を終えずして直ちに大学院に入学を許可されたのも、またイーリー教授に教えを乞うことができたのも、ひとえに前掲の英文租税論の成果と見てよかろう。更にこのことが学苑当局者達の着目するところとなり、在米の塩沢に対し留学生推薦の措置を採ったものと思う。そこで彼はドイツに転じ、ハルレ、ベルリン両大学に学んで、経済学および財政学の蘊奥を極め、三十五年九月帰国、直ちに本学苑の講師に就任、経済学を講じ、爾来政治経済科教務主任を振出しに、同科長、同学部長、理事、学長を歴任し、大正十二年五月新校規の定めにより第二代総長に就任した。この間その学識と卓見は広く官・民両界に認められ、学士院会員に任命されたのをはじめとし、関係した顧問、委員等は数え切れないほどであった。昭和二十年七月八日、静岡県伊東町久須美の仮寓で逝去。七十四歳。

 島村滝太郎は雅号抱月を以て名高い。明治四年一月島根県那賀郡久佐村に生れ、二十七年学苑文学科卒業。後講師となり、三十五年三月美学および心理学研修のため英・独両国に派遣され、三十八年帰国、『早稲田文学』主幹として自然主義文学運動を指導し、大正二年学苑教授を辞して芸術座に専念したが、大正七年十一月病没。行年四十七歳。

 学苑の揺籃期における経済的逼迫のため、留学生派遣が実現の域に達するまでには十有八年を必要とした。しかし校友の中には、青雲の志抑え難く、或いは自費を以て、或いは奨学金を得て、翼を海外に羽搏いた者も少くはなかった。今これら向学の士を本学苑派遣の留学生をも含めて、渡航年度順に一覧表を作ると第十三表の通りである。三十五年八月現在の留学生総数は五十三名で、このほか校外生で佐賀県小城出身の服部行政は自費で渡米し、ジョンズ・ホプキンズ大学院を受験、優秀な成績を以て入学を許され、且つ授業料免除の特典を与えられた。なお、小倉松夫については、エール大学で「米国法律学士、米国状師〔弁護士〕の学位を受く。抑も我国人にして米国状師の学位を得たるは、実に君を以て嚆矢とす。」(『同攻会雑誌』明治二十五年二月発行第一一号五三頁)と記されていることを付記しておく。

第十三表 初期海外留学生

 この表によって知られるように、留学先はアメリカが断然多く、また出身学科は、英語邦語を問わず政治科出身者が多い。また、卒業生の間にかなり英語の素養が浸透していたことが分るし、更に経済的能力を度外視しても、いわゆる文化圏内にある社会人の間にどれほど渡航熱が盛んであったかが察知できるであろう。かくして学苑が大学に昇格するまでに既に海外留学を終えて帰国し、各界に活躍した者、或いはなお現地に留まって更に研鑽を続ける者もあったが、その中で著名人数名を抜き出し、その略歴を掲げておく。

板屋確太郎 山形県南置賜郡元籠町出身。法律学科卒業後、十八年最初の自費留学生として渡米。バチェラー・オヴ・ローの学位を得て帰校、講師となり、暫く評議員を兼ねた。のち熊本市に移り、文学精舎に就任したが、二十六年天折した。

岸小三郎 岐阜県大垣西長町に生る。卒業後、代言人となる。のちオーストリアに渡り独法を学び、ドイツのゲティンゲン大学に転じてドクトル・ユーリスの学位を受け、帰国後代言人として活躍する傍ら、代議士に二回当選、また学苑の法律科に教鞭をとったが、精神に異状を来たして死去した。

杉田金之助 岐阜県揖斐郡小島村に生る。卒業後判事試補に任ぜられたが、のち渡米し、ミシガン、エール両大学に学んで帰国。東京地方裁判所判事、農商務省特許局審査官、韓国統監府特許局審判官等を歴任、退官後、弁護士・弁理士を開業する傍ら、母校に教授としてローマ法を講じた。

大内暢三 福岡県上妻郡白木村の出身。アメリカより帰国後、雑誌『中外時論』を発行。一時故郷に帰ったが、その対外的な識見を買われて「対支文化事業調査会」委員に任命された。第十、十一、十三、十五、十六回総選挙で衆議院議員に当選、外交問題に敏腕を揮った。学苑講師、後に東亜同文書院大学長。

斎藤隆夫 兵庫県但馬に生る。卒業の翌二十八年弁護士試験に合格。エール大学に学んだが、病気のため一年にして帰国。四十五年五月以来衆議院議員に当選十三回。「憲政の擁護と自由の確保」を信条とし、二・二六事件直後の粛軍演説をはじめとして、常に軍部と対抗して屈しなかった。終戦後進歩党結成に努力し、第一次吉田内閣および片山内閣に閣僚として入り、国歩艱難なる時に処して、堂々節義を全うした。

関和知 千葉県東浪見村の出身。卒業後『千葉民報』の主筆となり、間もなく日刊新聞『新総房』を創刊した。のちエール、プリンストン両大学に学び、帰国後は『万朝報』『東京毎日新聞』等の論壇に活躍す。四十二年補欠選挙に当選して政界に入り、憲政本党に所属した。大隈内閣の時には内務大臣秘書を命ぜられ、爾来憲政会の要職を歴任して、政界に重きをなした。

 ところでこれらの留学生のうち、案外日本においても、更に学苑関係者間にあってもその名が知られず、反って外国人間に著名な者が二人いる。渡辺竜聖と朝河貫一である。この二人について、特に数頁を割いて記述しておこう。

 渡辺竜聖は、もと加藤を名告り、慶応二年八月、新潟県古志郡吉水村二十七番地の農家に生れている。新潟県と言えば市島謙吉の出身地で、学苑創立以来特に関係が深く、幾多の英才を送り込み、例えば昆田文次郎(十八年法律学科卒)、本田信教(十八年政治学科卒)、上野喜永次(十八年法律学科卒)、坪谷善四郎(二十二年邦語行政科卒)、増田義一(二十六年邦語政治科卒)、増子喜一郎(同上)、羽田智証(二十八年邦語法律科卒)、長谷川誠也(三十年文学科卒)など、各界に雄飛した強者どもを輩出した有名県である。当時二十歳と言えば既に晩学であったが、彼は十九年十月に学苑の英学本科に編入し、翌二十年七月には早くも全課程を履修して卒業している。その後二十一年に渡米し、ミシガン大学、次いでミシガン州のヒルスデイル大学に入学、数学、理学、語学等を学び、二十四年同大学を卒業後直ちにニューヨーク州のコーネル大学大学院に移り、哲学、心理学、論理学、純正哲学、倫理学、宗教哲学の諸学科を研修した。その間、学業優等の故に名誉学生に選ばれ、一年三百ドルの奨学金を二回受けたことがあるという。

 彼のことを初めて我が学界に紹介したのは二十八年七月発行『太陽』第一巻第七号で、「渡辺竜聖氏の帰朝」と題する記事を載せている。そのうちの一節に、

氏の専攻は倫理学なれども、心理学に於ても、種々新奇の実験を為し、殊に左の三点につきての実験は、頗る学者社会に声誉を博し、近刻の米国心理学雑誌(スタンレー、ホールの編輯に係る雑誌)に載せられたり。

第一、On the sensorialmuscular difference in the simple reaction

第二、On two points in analysis of the simple reactiontime

第三、On the quantitative determination of the optical illusion

コーネル大学総長シュルマン氏、幷に同校心理学実験室長チチナー氏は、共に渡辺氏の学識につきては、大に推重の意を表する旨を、日本の学者に表明せり。 (一九六頁)

と、その功績を賞め讃えている。彼は留学中、勉学の傍ら哲学に関する論文を各種の研究機関雑誌に載せ、その緻密犀利な論旨は、高く評価され、広く賞揚されていた。日清戦争が起るや、日本の正当な処置と立場を表明し、誤った考えを持っているアメリカ人を大いに啓蒙したのも、彼の隠れた功績の一つであると言わなければならないだろう。

 二十八年七月、ドクター・オヴ・フィロソフィーの学位を得て帰国するや、迎えられて高等師範学校教授兼付属音楽学校教授に就任し、また数ヵ月間、学苑の教壇にも立ったが、三十二年、同音楽学校長に昇任するや、本校講師を辞任した。次いで三十五年には、本郷区駒込千駄木に居を構えたまま清国保定府教育顧問に就任した。三十五年七月の『早稲田大学規則一覧』には講師としてその名を列ねているが、学苑で授業を実施した確証は発見できない。翌三十六年には保定府学校内に住居を移して中国人の教育に専念し、三十九年天津北洋師範学堂に、四十一年には天津直隷学務部に招聘され、爾来およそ十五年間、中国に在って活躍した。大正十年帰国して名古屋高等商業学校に教鞭をとり、更に同学校長に昇任、教育事業に余生を送ったが、昭和二十年七月二日病気のため不帰の客となった。

 朝河貫一は本学苑が生んだ世界的碩学の一人で、エール大学の朝河教授と言えば、ロックフェラーの野口英世とともに欧米の学界にその名を喧伝されているにも拘らず、我が国ではごく少数の人の記憶に留まっているに過ぎないのは、彼の活躍の舞台が母国でなかったためでもあろう。朝河は明治六年十二月二十日、福島県二本松に生れた。父は正澄、母はウタという。二十五年安積中学校を卒業して学苑文学科に入り、苦学しながらも終始首席を続けた。殊に第二学年の成績は平均点九一・九一で、第二位との差は、総点で七九点、一課目平均七・一八と大きな開きをつけている。特に近世史九六、哲学史九五、カーライル九八、バイロン九七、社会学九八等、殆ど満点に近く、既に史学、哲学等に深い関心を持ったことが分る。卒業試験には、英才梁川綱島栄一郎を二位に退けて、首席優等賞を獲得している。卒業後神田の基督教青年会館でラムのシェイクスピア物語を講じていたが、たまたまダートマス大学の貸費生試験に応募、合格して渡米、二十九年同大学に入学、三十二年アメリカ人学生を圧して首席で卒業し、M・Aを得、更にエール大学に学んで、三十五年h

P・Dの学位を受けた。卒業後母校ダートマス大学の教壇に立ち、東洋史および東西文明史の講座を担当した。

 一九〇五年(明治三十八)にはエール大学に転じ、同年ミリアン・ディングウォール嬢と結婚。翌一九〇六年、史料調査のためエール大学より日本に派遣され、東京帝国大学や学苑で日本・東洋文化や仏教の研究に従事する傍ら、学苑で英語の教鞭もとった。一九〇七年帰米して再びエール大学で教え、日本文明史および日米交通史を担当した。一九一七年(大正六)再度帰国したが、これは、日本文化の研究は欧米の法制史、社会史と比較研究を行ってこそ、初めてその本義を知悉することができると考え、そのため日本側の史料を精細に調査する必要を感じたからである。朝河は東京帝国大学史料編纂掛をはじめ、各大学、図書館所蔵の原史料について精査し、滞在二年間に多数の古文書を渉猟し、その足は殆ど全国各地に及んだという。帰米後はこの原史料について独創的比較研究に没頭したが、その頃は未だ助教授の待遇を受けるに止まっていた。しかしその研究の成果はやがて衆目の認めるところとなり、同大学でも彼の業績を高く評価して、一九二三年(大正十二)にはヨーロッパ中世法制史教授に昇叙した。

 彼が恩師坪内逍遙に送った書簡を中桐確太郎が大正十五年に紹介しているが、

兼て申上候如く三年前より中世法制史を担任仕り、初二年は仏国を主として研究仕、今年よりは学科を一つ増して、独伊をも加ふることとなり候為、小生の責任猶相加はり候。来秋からはセミナルの方の学科を更に改造して中世史を二分し、フランク時代と、中世とを、各々隔年に研究することといたし候。此法には或は志願の学生なきこともあらんかと存候へども、先づ試みるつもりに候。セミナルに候間、原材料の中より毎週夥しき時間をかけて適当の文を選び、之を読ましめて、教室に会して演習仕候。各週の演習の予備に学生の費す時間も亦少からず、時としては二日又は二日半を要することあり候。演習に当つては予習の文書を厳しく討論して、其の背後の法制を研探するの法を取り候。別にセミナルならざる一科目を毎年教授仕候。是は仏、独、伊の封建法制史にて、原料を用ひず、学生は主として仏語の良著より五十頁乃至七八十頁を読み来り候て、小生は教場にて之につき問答し、之を補ふに小生の研究の結果を(独と伊とを加へて)講演仕候。之が為に小生は七個の国語を用ひて勉学仕候。幸にして中世の文書は(英国のすらも)皆中世拉丁語を通用仕候間、小生にも学生にも都合よろしく、只第十三世紀より各の国語が(古き形にて)原料の内に加はり行き候。材料を用ふるに右の難関あり候上に、中世の文書は近世のと異りて、之を研究するに、自から特殊の取扱を要し候間、小生の教場にて致すことの目的の大半は法制史を理解せしむることよりも、之が研究の方法に習熟せしむるを主といたし候。殊にセミナルの方は専攻者の素養を主眼と致候。扨又欧中世史は史料の主題の一つに有之、且又教授にも学習にも史料の他の諸方面よりは困難多く候故、之を東洋人なる小生が担当するは異様と存候。幸にして同僚及び学生間に漸く認識を得ることを聊か自ら慰むる所に候。猶々当大学の面目を傷けざる様にと奮発仕候。やや述懐のやうに候へども、前年日本のことのみを教へ候時は、誰も之を批評し得ず、学生は原料を用ひ得ず、如何に小生が独創の点を申候ても誰も之を評価し得ず候ひしに、今日は他の大なる学者の何時にても評価し得べき重要の分野に、而かも至難と万人の認むる科目に従事するに至つて、始めて奮闘、征服の快を覚へ候。幸に御諒察を賜はり候はば幸甚に候。之につき自分にも案外に感じ候ことは、比較の眼を以て欧洲中世法制を研究する時は随所に独創の貢献を為し得べきを認め候ことに候。欧の一国の法制のみを観る学者の著書に不満足を感ずること多きは、単に欧の他諸国を比較するのみならず、全く之と異なる系統の日本法制をも比考する故に候。されば此比較によつて日本の法制につきても、欧洲の法制につきても、斬新の貢献を為し得る余地少からず、而かも根本的に重要なる点を毎年益多く発見仕候。只之を透徹するまでに研究して取りまとめ候には時間乏しく、只それのみを遺憾と存じ候。 (『早稲田学報』大正十五年八月発行第三七八号 三〇―三一頁)

というように、比較法制史研究が独創的なものであるのを自他共に許していると述べ、自信の程も窺える。

 彼の業績についてコロンビア大学中国史担当教授C・M・ウィルバーは「朝河の研究は、実証的研究方法を採用した点で、これがアメリカの学者達に強くアピールした。彼は歴史的進展についての先在的な理論に捉われたこともなければ、先入的な解釈に捉われたことも嘗てなかったようである。それどころか、いつ如何なる場合においても彼を導くところの『歴史上の諸事実』に忠実に従うという、真の知識の探究者の態度をもって、その課題に応接した。」と賞揚し、特に『入来文書』(Documents of Iriki, Illustrative of the Development of the Feudal Institutions of Japan)(一九二九年刊)を高く評価し、これこそ実証的研究の模範的なものであるとさえ極言している(『早稲田学報』昭和二十九年十月発行第六四四号四―七頁)。

 エール大学在職三十六年、一九四二年(昭和十七)六十八歳に達し定年退職したが、在職中の功績により名誉教授に推挙された。爾来大学を去ってもその研究は続けられ、一九四八年(昭和二十三)八月十一日、ヴァーモント州の避暑地で七十四歳の多彩な生涯の幕を閉じ、大学の墓地に埋葬された。


*1 馮自由については、2018年1月の再調査により、馮懋龍の氏名で学籍があることが確認された。