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第二編 東京専門学校時代前期

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第八章 小野梓(下)

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一 小野の「一冊の書」

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 百年の歴史は、この大学の最強最高の礎をなした小野梓の業績をも、大半は土の底に埋没させてしまって、全くこれを知らない者、または無関心の者に比して、これを知る者、或いはぼんやりとでも心得ている者の数は幾割にも当らないほど少いものと思われるから、ここでもう一度、その高風を振返ってみよう。

 彼が死んだのは壮年僅かに満三十三歳十ヵ月。孔子が而立と言って奮起し、キリストが大工をやめて道に志し、釈迦が出家して苦行に入った頃にほぼ当る。男の盛りはこれからという時だから、世間がその死を惜しんだのは勿論、当人もさぞ残念だったであろう。しかし人は死して名を残すとはよく言ったものだ。彼の信念と情熱は、発して都の西北の早稲田大学として今日の発展をし、凝っては一巻の『国憲汎論』にまとまって、永く学界に不朽の栄誉を留めている。ところが早稲田大学は今日、東洋いな世界でも屈指の有名学府として広く知られているのに反し、『国憲汎論』の方は、燈台下の本大学にさえかつては『国権範論』と書いて気付かぬ者がいたような始末である。憲と権は一字の違いに過ぎぬものの、内容は両極をなしている。そのくらいだから一般の無理解と忘失は多く咎められない。

 世には「一冊の書の著者」という言葉がある。ハリエット・ビーチャー・ストウ夫人の『アンクル・トムズ・キャビン』は、アメリカの黒人奴隷のために南北戦争の火をつけたとさえ言われ、トルストイは、ユゴーの『レ・ミゼラブル』などと並べて天下第一等の書の中の一冊だと激賞している。しかしどうしてだか、彼女は他にも面白い小説は何冊か書いているのに、読まれるのは殆ど『アンクル・トムズ・キャビン』だけである。そのトルストイはまた、ロシアでも第一の多作家で名著も数ある中に、『復活』は彼の複雑に動いた思想が一冊にまとまって窺えるというので、さながら、「全トルストイ」だと言われる。

 『国憲汎論』は、幾つかの多くは埋もれ、刊行されても流布の狭い小野の著作の中で、これまでその道の研究家の間に、関心を持たれてきたという意味でも、これさえ読めば小野の思想は大抵みな分るという意味でも、彼の「一冊の書」だから、これに対する解説をよそにして、小野は語れない。小野が「国憲」に関する著述を思い立ち、それを完成しようとの情熱は一朝一夕のものでなく、この書の序説とも言うべき『国憲論綱』に着筆したのは恐らく、イギリスから帰国の翌々明治九年五月からで、それが完成したのは同年暮秋である。戊寅十一月、すなわち明治十一年十一月に、清書の上、同郷の先輩である元老院議官細川潤次郎に呈したものの序に起した左の詩を見よ。

欲暖猶寒節序遅、朝々屈指数花期。

花期未到意先到、為賦墨江春色詩。

待花代国憲論綱之序

戊寅十一月東洋学人

 この「花期」は憲政実施の日で、「意先到」というのは、自由民権運動などの台頭を指したのであろう。小野の作詩中、広く知られたのは『邦人欧米詩集』などのアンソロジーに拾われている「亜児山月」を推さねばならないが、早稲田その他で小野に関係ある者には、この詩が最も深く愛誦せられている。

 ただし『国憲論綱』は存在を知られても出版せられたことがなく、ただその一半は断続的に『共存雑誌』に分載され、その卓抜の意見は早くも識者注目の焦点となったものの、遂にいつとなく踪跡を消すに至った。そして久しく烏有の珍籍と思われていたが、戦後十年ほどして法務省の法務図書館に小野自身の清書した完全なる稿本(前述の細川潤次郎に贈呈したもの)が発見され、前にも一言したように、昭和四十九年早稲田大学の比較法研究所が『羅瑪律要』と合冊、解説を付して翻刻し、眼福を天下に頒った。これで見ると『国憲論綱』が大著『国憲汎論』に対して持つ関係は、あたかもマルクスの『経済学批判』と『資本論』との関係に似て、序説であり、一面前著の内容は後著に全く収容されて、更に発展したのである。

二 『国憲汎論』上巻 出版

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 かくて一応『国憲論綱』は完了しながら、明治十四年一月二日の日記を見ると、

晴。早起在家。萩原・高橋来訪、饗酒。談話数刻還。津隈某贈象山之遺墨。此夜開筆国憲論綱之追稿。寄賀詞於郷里及広島。

とあるから、「国憲論綱之追稿」に取り掛かったことが明らかである。ところが、毎夜、著作を続けている中に、この月の三十日に至って急に考えが変り、或いは熟し拡大して左の記事がある。

晩間筆国憲私纂。先是題本篇、均謂国憲論稿。至是改今題。更割在来之論綱、為国憲論綱、万国憲法之二篇。併本篇与国憲私案(将起其稿)、共編之於一書中、題謂国憲通書。客二人至。

すなわち『国憲論綱』一本立てで、続稿拡大する考えを改めて「国憲私纂」「国憲論綱」「万国憲法」に三分し、一括して『国憲通書』と題することに決めた。これが『国憲汎論』のプロトタイプと見ることができよう。そして続稿に努めたものの、二月に入って、自分の健康はすぐれず、娘は病気し、且つ何より参考材料の乏しきに苦しんだ。しかし日記によると四月二十一日で、「私纂」第四巻を書き終った。

 その後は、北海道開拓使官有物払下げ事件から政局漸く多端となり、十月には大隈下野の政変あり、その二十五日には自分も退官するという身辺の大変動で、執筆どころではなかった。しかし下野すると、『論綱』の改筆に着手したのが十一月八日で、年末暫く眼病を患って数日間、筆を中止したものの、また奮い立って病を冒して大晦日にも筆を休めず、明けて明治十五年には、新年も元日二日を休んだだけで三日から続稿し、一月九日に、

晴。猶未快。此日論綱巻五成。

とあるが、完成した『国憲汎論』は修正せられて「巻区別」になっていないから、どの辺りまでを指すのか分らない。

 それからは、この続稿と、ディズレーリの新伝を得て毎日のようにこれを読んでいるのと、それから、市島、小川、高田などの来往が繁くなっているのとが、急に目立ってくる。二月二十六日は高田来訪。午後は小野から雉子橋に大隈を訪ねて不在。その足で同郷の先輩、竹内綱を訪ねて、これも会えなかった。この竹内は前年結成の自由党の常議員で、板垣派の重鎮である。自分の方でも改進党を創って対立することになりそうなので、その弁解に行ったのかどうか。翌二十七日にはこうある。

快晴。高早・小為・岡兼・山一等来訪。接阿南之書。夜課書生。此日創鷗渡会。投書竹綱。

これによって鷗渡会はこの日にできたのだと考える説も、文献的に裏付けられて有力である。「創」を何と解するかで、ニュアンスが違うが、『半峰昔ばなし』その他遺老の思い出話から総合すると、漫然と「鷗渡会」と呼んで、別に規則など作らぬ、ルースな、自由な纏まりはもっと前からあったらしくも解せられる。それが改進党の宣言、設立と直面して、それに加入する一個の集団単位たる体面を作るので、「創」の字を用いたとも思われ、両説、それぞれ根拠はあると思うが、ここでは後説に従っておく。

 それから半月して三月十四日に「開発立憲改進党之宣言」を新聞に発表し、それから数日は「告朝野人」の起稿に忙しく、二十一日には、「法思徳印度財政」「保淮都仏国紙幣始末」「斯辺瑣代議政体」「亜児伝政治学」を買い、従来のイギリス功利学派や、アメリカ、フランスの政治論以外の知識が、彼の頭に入って来ることになる。

 その後は雉子橋を中心に、或いは大隈派の諸有志、或いは嚶鳴社、或いは慶応義塾、或いは郷里の自由党派の人々と、来往殊に繁く、羽檄旁午の間、大著述などに掛かっている暇がない。四月に入って四日の日記に塩谷某を携えて雉子橋を訪い、塩谷辞去の後「余留話事、談遂及内勅之事。」とは何か重大事の伏在を思わせる。しかし五日には朝のうち大隈を墨田川に招いて花見をするの風流があり、八日には雉子橋の大隈邸に花見の宴を開いて、改進党の諸人集まる者百人、且つ歩し且つ語り、知らぬ者同士の顔合せも大分あった。この日玉川堂に山田喜之助砂川雄峻と会し、二更、家に帰った。

還家則家人云、金堅来訪。余未能解其心事也。金堅素与余相知。中背付権門、而今来訪。余殆不能解其意也。或非又背彼付我者乎。蓋可戒心也。夜暖雨。此日決遣牟田口存問板垣之傷之議、筆其書。

金堅は金子堅太郎。共存同衆の最も有力な会員であった。小野の学才に真に深く推服していたのは彼である。しかし途中から伊藤の影武者として有力な井上毅と、大隈陣営の柱石なる小野と激しく相対立する関係となり、金子は同じ九州出の関係から井上と親しくし、伊藤の輩下に趨ったかに見えたので、いつしか小野とは相離れる関係にあった。しかしその伊藤は去る三月十四日、欽命を帯びて憲法調査に旅立ちし、大隈派がまた改進党の組織で羽振りを盛り返す形勢にあるので、自分も伊藤の洋行中、大隈派に付きたい意向で来訪したのかと推測したのである。それは寧ろ反対で、伊藤も小野の有能なのには夙に注目し、留守中は彼の好意を繫いでおいて、自派に誘致させようとする下心があったのではないかと思われる。またこの日記の最後の記載は、四月六日に、板垣退助が岐阜で、相原尚褧という小学校長上りの志士に刺されて、負傷したのを見舞わせる一件を議したのであろう。

 四月十六日は改進党の結党式。それからは党務と宣伝のため、各地に東奔西走、寧日がない。五月に入って、九日泉岳寺に大石良雄以下赤穂義士の墓を訪い、その夜、四月二十日以来稿を重ねていた「硬貨論」の著作を続け、暫くはこの完成に取り憑かれたようである。この「硬貨論」は、小野が会計検査院時代の実験の上に築いた宿論の一つが熟したものである。フランスのルイ王朝では、チュルゴー、ネッケル、タレイランが実施して適宜に歯止めをかけようとした紙幣政策が裏目に出て、遂にかの大革命を引き起した。我が維新も由利公正の「紙屑」で天下を取ったという豪語から、井上・渋沢の緊縮方針も薩長土肥の功藩の予算分取りで破れ、大隈の「無い袖」を振る政策から、一時、緊縮に向ったものの、西南戦争でまた紙幣の増発をしたのはルイ王朝の末路の轍を踏むものである。しかし大革命にならなかった所以のものは、もともと、井上、渋沢、大隈とも皆心の中では硬貨政策を抱いて、紙幣の無制限の濫発は慎まねばならぬとの「腹づもり」が常に考えの底にあったからで、その線に沿って早く財政整理をしなければならぬ急務を主張したのである。

 その後も、毎日のように党務に忙殺されながら、彼が何か書かぬ夜とてはなく、六月六日は愛児の死という悲痛事があった。「余挙児前後四人。而二男一女、皆以脳水腫斃。」とあり、三人まで失ったのである。そして六月十三日に至って「此日使田中生禀国憲汎論会設置之事於京橋警察署。」とあり、「国憲汎論」の字が初めて日記に出て来る。しかしこれは書物の出来を届けたのでなく、「国憲汎論会」という研究会の届をしたのである。それから六日後の六月十九日に「決下開板国憲汎論上篇一之意。」とあるから、不朽の大著『国憲汎論』上巻は、この日を以て、出版を決めたのだ。

三 為賦墨江春色詩

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 それからは、『留客斎日記』に毎夜のように、「筆汎論。」と見えるのは、書き終った上巻の刪潤、補充、推敲などを指すのであろう。七月七日「晩間訪雉橋老、議早稲田学校之事。初更衝雨而還。筆汎論、課書生。」とあるのは前にも引いたが、ここからは学校の設立と『汎論』の稿とが二本立てになり、日を経て次第に学校の用事が繁忙を加えて来るにしても、暇さえあれば『汎論』からも筆を放たない。八月七日に、

陰冷。筆汎論。終第廿三章。夜読李抜自治論、及宇児聖政治学等。考究其論直選間選之利害者。

とあるのは、勿論、前年購求したリーバーやウルジーをこの時になって初めて読んだのではなく、直接選挙と間接選挙の記事があるのを思い出して参考に再読したのであろう。

 十月に入って、八日の快晴には東京専門学校に行って「観其工事。」とあり、岡山兼吉高田早苗も一緒について来た。槌や手斧の音が響き、新しい木の香が漂い、木造西洋館だからペンキの匂いもしたことであろう。十一日はあいにくの風雨の中に専門学校の入学試験が行われた。「及第者無慮七十余人云。」とある。無慮とはこれだけの及第者があるとは思わず、期待を越えた喜びであろう。二十一日に開校式を行って七日の後、二十八日「校汎論、送汎論第四於丸善書肆。」とあり、多分、原稿は整うに従って送り、第四回目を手渡したという意味であろう。十一月五日は「投書丸善書肆、送国憲汎論開版公告文、応其嘱也。」とあるのは、広告文を頼んで来たので、それを郵送したのだから、発行はもう近い。二十日からは房総に改進党の宣伝遊説に出かけ、二十五日帰京。この間は日記に毎夜のようにある「校汎論」の文字が見えぬのは勿論だが、帰京早々、またこれが再現する。

 十二月一日朝は、車で改進党事務所に寄って仕事を片づけた後、「遂入専門学校、教授日本財政論。」とあり、これが初講義である。大晦日の日記の後に「書于後一」との跋文があり、この明治十五年は、大臣と事を争うて野に下り、一党を設けて平生の志を遂げ、日本三府五十余県(当時はそうであった)の中、今や改進党の声を聞かざる所がない。官憲の弾圧は一層の快味を増すが、党の前途の悠久を思えば、これしきの小快で休んじてはならないと、いささか反省の意を述べている。

 明治十五年年末、いよいよ待望の愛児にも比すべき『国憲汎論』上巻の見本ができた。明けて十六年、何を措いても久しく念願したことだから、先ず三日に天覧を願うため「上国憲汎論于天皇表」を書いた。五日は「郵逓送汎論于毛郷、呈先大人之霊。」とあり、毛郷は郷里の宿毛という意味であろう。六日は「浄書上表。此日発売汎論。」とあるから、畢生の心血を込めた大著の上巻が、いよいよ市場に出たのだ。

 菊判(今のA五判)本文二五九頁、紙表紙の清楚な、いかにも学術書らしい書であり、布表紙金文字の豪華本は改版後のものである。巻頭に再び次の旧作の詩を載せている。

待花 留客斎(印)

欲暖猶寒節序遅、朝々屈指数花期。花期未到意先到、為賦墨江春色詩。

壬午之歳小梓題首書 小梓之印 号東洋

この詩は、細川潤次郎に呈した『国憲論綱』に題した時には戊寅(明治十一年)とあるが、その時は、自由民権運動の勢炎は漸く騰りかけても、憲政実施の約束は未だ全くなく、花は「山の彼方の空遠く」にあって、まだまだ到底実現の曙光だに見えなかったのだが、十四年の政変とともに、引換えに、明治二十二年に憲法を発布し、翌二十三年に総選挙を行うとの大詔が下ったのだから、「意」は、雪の中に若菜を捜すの類でなく、芭蕉の句の「春なれや、名もなき山の薄霞」ぐらいに春色は近づいている。同じ詩でも、ここで見る方が実感が湧く。

四 献上始末

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 一体この『国憲汎論』とは何を論じた書であるのか。誤りなくその概略を要約して伝えるのは、容易なことでたい。本書は上中下三冊、一千ページに垂んとする浩瀚なもので、その内容も専門的に亘り、その上明治初年のいわゆる文章体の行文で、漢字が多く用いられており、また明治憲法制定以前の著作だから、専門語が小野の独創のものが多く、現行用語と違うので、今の読者ではなかなか通読し難い。そこでその大意を略説した梗概が必要となる。勿論、梗概はスープを取った後の鶏の胴殻のように無味ではあるが、難解書を読むにはそれも役に立つ。カントの『純粋理性批判』でも、或いは紫式部の『源氏物語』でも、マルクスの『資本論』でも、無味乾燥であることは我慢して、主旨の輪郭を梗概により頭の中に入れてかかると、原典に近づき易い。或いは原典に接する機会がなく、一生梗概だけを知るに終っても、教養としてなお多くの物を与える。幸い新版『明治文化全集』第二十八巻として本書が、著者の死後八十二年にして覆刻された際、東京教育大学の稲田正次教授が巻頭に付した「解題」は、最も適当なものと思うので、氏の了解を得て左に引こう。稲田博士はかつて参議院にあって日本憲政史の編纂に従い、のち専門的立場から本書の研究に没頭し、各ページに綿密なる検討を加えて十余冊の研究ノートを作り、夙に学界に聞えた篤学の士である。今や本大学においても、小野梓の研究は年とともに進み、新版全集第一巻として『国憲汎論』の刊行が予定されているので、梗概の作成を託するに適者を欠かないが、時間の制約もあるので、ここでは一応既成の旧稿を借りておく。

上巻は、第一章から第十六章までである。第一章では、本書を著作する趣意について、明治十四年十月の大詔を拝し、聖恩の辱きに感激し、聖旨に奉対するためにこの著止むを得ざるに至つたとし、天皇の乙夜の覧に供し、併せて日本民人の国憲を論ずるものを資けようとするものであるといつている。国憲については、主治者被治者の関係を正し、官民の分限を定め、官人の職権民人の権利を示すものであると定義している。第二章では、本邦の憲法史を肇国から明治十四年十月の勅諭に至るまで述べ、君民同治は我が豊蘆原中国の大法であつて、明治の昭代に遇うてますます顕われて盛んになつたと述べている。第三章では、代議政治は、独裁(君主専制)合衆(直接民主)二治の短所を補い、君主または民主の国を利するものであるとし、代議政治を採用せば、皇統の一系を万世の後に保持し易しなどと述べている。第四章では、人生の三大要事である生存、富周(豊富)、平等を保固(保障)し、これを可及的高度に実現することは、国の国における本務であり、万法の目的であるとし、国憲は官民相争うの恐怖を予防し、一国の安寧を保固(保障)するを最大目的とし、その目的を達するためには、政務官の徳義、聡明、勤勉を必要とする、などとベンサムの説をとつて述べている。第六章では、有国の全権すなわち主権について述べているが、主権の所在については、一人の身にあるとのグロティウス、ホッブスらの説、万民の手にあるとのルソー、ベンサムらの説、政府のいかんにより一人の身または数人の手にあるというオースティンらの説、正理の手にあるとのギゾーおよび儒家の説をあげた後で、ウルジーの説をとつて、国を保有するの全権は国土または国人にありとし、時の主治者にその局面に当らせるとしている。第七章は、わが国古来の皇位継承の制を述べ、次に外国の例をあげ、英・白二国の制をとるべきものとしている。第八章から第十三章までは、民人の各種の自主(自由)について、西洋各国の制、さらにわが国従来の制をあげて詳しく論じている。第八章では、リーバーの説をとつて自主とは自ら安んじて事をなし、他人のみだりにこれに干渉するを許さぬをいうとし、さらに本身の自主(人身の自由)についてヘビアス・コーパスの制、保釈の制などにわたつて説いている。

第九章は、集会の自由、印書の自由、信書の秘密、動行(移転)の自由、信仰の自由について述べ、検閲や国教定置の非などについても説いている。第十章は、財産所有の自由について述べ、政府が直接に人民の生業に干渉するを非とし、私人の財産を公共の用に供する場合は、相当の代償を必要とすといい、また、請願の自由、結社の自由、政治の公開(国会議事の公開、裁判の公開など)などについても説いている。第十一章では、課税は納税者の承諾を要す、とし、アダム・スミスの課税の四原則を説き、次に戦いは凶事であり、好むことはできないが、今日は濁世なれば兵をもつて自由の災害を防禦せざるをえず、したがつて徴兵の制もやむをえないなどと述べている。第十二章では、日本人民は古来常に主治者の奴隷であつて民権は存しなかつたかどうか、という問題について考察し、中古以来の政令によれば、例えば官司に抑屈せられる者の申訴することをみとめるなど、多少民権を固くしたものがあつた。ただ集会の自由と信仰の自由は明らかに奪われていたと述べている。武家政治の時代になつてからは、強者これ貴く民人の権利が殆んど無視されるにいたつたが、それでも民のために吏を置くの理はまつたく滅ぶことはなかつたといつている。第十三章では、明治維新以来の諸改革によつて民権がしだいに伸長するにいたつたことを述べている。今日世論のやかましい讒謗律、新聞紙条例、出版条例といえども、まつたく言論印刷の自由を剝奪したと見るは当らない。とくに讒謗律は、民人自由の好友であるといい、集会条例も集会の自由をまつたく奪つたものではないが、その十五年六月の改正については問題があるとし、人民上書の取扱も請願をみとめぬ嫌があるといつている。拷訊を禁ずるの令や、刑法、治罪法の規定は民人身体の自由を保固すること多いと述べている。第十四章では、政権の分類について述べた後で、政柄の総合(権力集中)と政柄の分掌(権力分立)の問題について論じ、ジラルダン、ルソーらの総合説を排し、ロック、モンテスキュー、ウェブスター、リーバーらの主張する分掌説をとり、分掌制こそ国憲の根軸であると説いている。第十五章では、政権を立法、行政、司法の三官に分掌させるの説は、今日広くみとめられているけれども疑問があるとし、ベンサムの説をとつて立法局を組成し、これを解散することができる政本の職(Supreme Constitutive)を最高とし、立法官はその次、行政・司法二官はまたその次であり、しかも四官おのおのその定分をもつと説明している。第十六章では、わが国の立法、行政、司法の三官職の近状を述べ、立法も司法も行政から分離していないといつている。 (七-八頁)

一月七日(明治十六年)の日記に、「陰、寒凛大加。与桃斎話。午後到皇居、献汎論。」として、持参した上表を掲げている。

明治十六年一月七日 某位臣小野梓、恐懼々々頓首々々再拝謹白。臣之遠祖新田義貞、尽忠於元弘・建武之際。臣之父臣節吉、唱義於元治・慶応之間。特如臣節吉、夙奉先帝愛民之詔、竊抱勤王忠節之志、頗有謀報効、不幸中道而死。臨其終、垂涕遺嘱臣曰、吾未見王政之維新、今将齎志而帰地下。吾死之後、汝為王家与国土致汝之身、以全乃父之遺志。

臣時年甫十五。爾来十有余年之間、未曾一日忘之、常用意于茲、非不思大尽力於此際。以為、竭孝之道、莫大於勤王家致国土。但臣也不才無識、先任某官、不能尽其職。剰及一昨十四年国会開期之大詔降、直言事而不当、閣命解其職、臣之罪誠大。然臣之家、世々勤王家竭国土。及臣之身落其名、不孝莫大於是。臣之至愚、亦知其可恥。是以雖去職之後、不敢自逸。常用意於国家之事、私謀其報効。伏惟、陛下聡明仁徳、登極之初、首立五事之誓約、八年垂立憲之詔、十四年定国会開設之期、将及時而立憲法。臣梓以負責之身、生遇此盛時。安不能荷聖恩之辱致力於此際、以為対亡臣節吉之遺嘱之一端哉。側聞、陛下嚮派遣内閣大臣於海外、周査察各土之憲法。臣深感、陛下用意於憲法之制定、欲大立万世之根法。臣也嘗游海外、略講憲法之理論、併及各土之国憲。帰朝以来竊述之、挿以本朝古今之典故、以作一篇之書。明治九年起其稿。筆作之前後七年。至昨年始脱其稿。名謂国憲汎論。其為書也、浅薄鄙近、固雖不足供万乗之宸覧、臣梓七年之辛苦、又或覚足達九重之叡聞。是以今印刷其稿本、装一本以呈。区々之著作、臣雖不敢言継義貞之功、報節吉之志、又知少所以勤王家竭国土。語曰、昇高於卑。千里之道於一歩。臣也年壮、前途猶遠。其所以勤王家竭国土者、又応不止于玆。然非於卑、則不可昇高。非於一歩、則不可到千里。臣所自期於王家与国家、雖甚大非積小而致之、則又知其無能也。伏惟、陛下聖徳広大、無所不容。雖臣区々之著作、又知不必捨之。陛下若当有聴政之聖暇、一賜叡覧、有憐臣所以勤王家竭国土之微衷、有察七年之辛苦、則臣之光栄莫大於是。臨表不堪恐々懼々之至。冒瀆万乗之尊厳謹白。某位臣小野梓、恐懼々々頓首々々再拝上表。

 すなわち遠祖新田義貞の孤忠、亡父節吉の皇事奔走から説き起し、天皇に対する恭敬もまた甚だ厚い。寧ろ厚きに過ぎ、これが進歩思想家たるこの著者の口吻であろうかと、目を刮するほどである。ただし早くから海外に学んで、先程渡欧の途についた伊藤らが、欽命によって漸く憲法調査に腰を上げたに先んじ、つぶさに諸国の憲法を講究し、明治九年から黽勉、まる七年を費やして完成した苦心の著だから「又或覚足達九重之叡聞。」と、満々たる自信の程を述べているのも無理ではない。「伊藤らが帰朝する前に御一読なさって、憲法の何たるかを、あらかじめ心得なさい。」と、平俗な言葉に意訳すれば、そう言わんばかりの態度だ。宮内官某が応接し、宮内卿(徳大寺実則)が休んでいるから、代りに受け取っておいて、いずれ卿の手を通し天皇のお手許に差し出すよう計らいますと言った。辞して、改進党の事務所に入り、それから雉橋老と河野敏鎌に一冊ずつを贈ったのは、先ずお初穂は天皇に捧げてからという順序を立てたものと思える。家に帰ってから「校汎論中巻。」とあり、追っかけて続稿の朱正整理に掛かったので、「中巻」の語の出てくるのはこの夜が初めてである。

 九日「初更還家、開始汎論之講義。」とあるのは何を意味するか。東京専門学校にまだ夜学はないし、また「還家」の字があるから自宅のことに違いない。或いは学校で講義するための腹案でも作ったというのであろうか。一月十三日、他出して家に帰ると、宮内省から献本のことに関し話があるとの知らせが来ていたので、翌日、訪ねて口記官に会った。

書記官某来告白、付上表以献著書、先例之所無。故非止上表之添付、則不能上於之宮中。余曰、献書者主也。上表者客也。為客廃主、元背素願。若付表果不得献書乎、余応止上表之事。但宜再思再登省。乃辞宮内省。

 つまり宮内省では、上表文をつけての著書献上ということは先例がないので、これを取り下げてもらいたいと言い、小野は、著書献上が主で上表は従だから、それは取り下げるが、とにかくもう一度よく考えて再訪すると言って引き取ったのである。ここは宮内省が、民党に持つ反感から、上表文を取り次がなかったように解する史家もあるが、献上本は、印刷以外の字が書いてあったら、それがたとえ「仰天覧」というだけの墨書或いは朱印であっても、一切取り次がない規定があり、今はどうか知らぬが、少くとも先程の終戦まではそうであった。尤もな話で、献上本に墨書その他の書き込みや添書が許されるなら、多くの中には、何を書いてくる者が現れるかも予測し難い。或いは小野のこの時からそういう規則ができたのかもしれぬ。十七日に「此日致書宮内書記官、告止付表。宮内書記官回書謹了。」で話し合いがついた。本来ならこの宮内書記官が誰であったか、名前を突き止めて考察を巡らすべきであろうが、大学史では、そこまでには及ぶまい。二十二日「宮内卿致書曰、受国憲汎論之献納。」と。その書は次の通りである。

国憲汎論献納之儀ニ付上申

拙者自著国憲汎論上巻印刷出来候ニ付

聖上御手許へ一本献上仕度即別封之通信達候間可然御執達有之度副本相添此段奉冀候也

東京府北豊島郡地方橋場町千三百八十番地住平民

明治十六年一月十四日 従五位小野梓

宮内卿徳大寺実則殿

これは小野が差し出したので、

書面願之趣聞届候事

明治十六年一月廿二日

宮内卿徳大寺実則印

(『小野梓全集』上巻 扉)

とあるのは、その同じ紙の余白に書いて来たのである。このことはすぐさま『内外政党事情』や『郵便報知新聞』によって報道され、広く知れ渡った。

念五日 陰、遂雨。到専門学校、講汎論。

とあり、二十七日にも同様な記載が見られるから、明治十六年一月以降学苑で汎論の講義が開始されたものと考えられる。これは学生の間に感動を与えること多大であった。小野自ら、情迫り、声激して、手を掲げ、卓を叩き、アカデミックな講義というよりも、寧ろ政談演説に類した。共存同衆においては、土佐の竜虎の馬場辰猪・小野梓のうち、前者は天成の雄弁家で、その名声は早くから四方に聞えたが、改進党結成以来、小野も党拡大のため南船北馬して、昨日の筆の人、今日は漸く舌の人をも兼ねるに至った。

五 短生涯最良の年

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 その後も小野の生活は、改進党の党務、東京専門学校の監督・講義と二大別されている形で、その中も、殆ど連夜、時ありて遊説その他で中絶することがあっても、すぐ元に戻って、続くのは「校汎論」の三字で、これも勿論中巻の未定稿に筆を加えていることという以外に解しようがない。しかし明確にそれと示したのは、明治十六年四月四日の『日記』に次の如くあるのが最初である。

午後晴。到事務所、処事。接雪堂之書。浄書汎論中巻題詞之付言。〓鉤先人之遺墨、以為題詞。其文曰、著書言其志。随荘。余乃付言之曰、右係先大人之遺墨。先人嘗告梓曰、大丈夫不能当路行其志、則宜著書言其志。梓也未能当路行其志、則宜著書言其志也。此書之作、其意全在于玆。故今集此七字、明所以原於先人戒飾之語云。先人諱義与、字比郷、号金水、通称節吉、随荘其別号也。好文善書。土佐宿毛之人。嘗唱義於元治・慶応之間、不幸中途而終。

嗚呼悲哉。明治十六年四月三日。東洋学人小野梓謹識並書。投書執行、託書籍買取之事。致書籍目録。晩間聴雉橋老之帰京、往訪之。与執行逢、閑話数刻。還家校汎論。

 上巻において、あの新思想の持主にして天皇に恭敬なることかくの如きかと、いささか驚く現代人は、中巻のこの題詞においては、今度は亡父に対して孝慕の情の深きに、明治前半期の儒教で育った代表的人格に接する思いを禁じ得ない。而して小野梓の伝記者が、等しく用いる著作の初志の最初の資料はここから出ているのである。

〔四月〕十五日 雨、寒冷再催。到事務所、処事。筆政略紀。訪雉橋老、与学校講師之諸人議校事。夜還家、接英人王堂智亜弗連所贈英訳古事記、筆政略紀。

すなわち党務と校事を処理すること例日の如くで、それなら特に引用するに及ばないようなものの、王堂チェンバレンから、英訳古事記を贈られていることは閑却すべきでない。博言博士・日本研究者としては先駆者であり、第一級の学者でもあったべージル・ホール・チェンバレンが、Transactions of the Asiatic Society of Japanの附録として出したThe Ko-ji-ki, or "Records of Ancient Matters"のことで、詳密な完訳として夙に名著の評の高かったもの、その初版は今日万金に値する稀覯書だが、小野がその受贈者の一人なるを見ても、滞在外人の間に広く名の知られていることが分る。

十八日 ……晩間還家、筆政略紀。此日中巻印刷成、付之於装工、釘装之始。欲冠中巻以上天皇表。宮内官衙、不許之。中欲以祭先大人之文、又不果。……余常期縁機而顕章先人之名。故以今冠汎論以先人之遺墨、以為顕章之一端。蓋出余之至情也。

 二十四日に「此日発売国憲汎論中巻。」とあり、二十七日に「使伊東代献国憲汎論中巻於宮中。」とあり、五月二日「贈汎論於諸新聞社。此日宮内卿致書、告入国憲汎論中巻於聖上之御覧。」とある。世上に「天覧本」と伝わっているのは無数で、多くは献上書目に加えられるに過ぎず、真に乙夜に翻読せられた書としては、世に聞ゆるところ全くない。ただ一つの例外は、乃木将軍が部下の桜井忠温中尉著の『肉弾』を感読し、軍人だから宮内卿でなく、侍従武官長岡沢精の手を通して献上し、これは本当に明治天皇が読了されて、破格にも陸軍中尉へ賜謁があり、異常な出来事としてジャーナリズムが報じた。小野梓の『国憲汎論』も、取次の宮内卿徳大寺実則にこれを理解し、その真価を知る見識があって、この一読を天皇にお勧めし、天皇がこれを読了された場合を想像してみる。天皇は既に青年時に四年の長きに亘ってブルンチュリーの『国法汎論』をみっちり勉強されている日本最初の政治学生だ。すなわち小野がイギリスでベンサムやミルの勉強に没頭しているのと、天皇が加藤弘之の手さぐりによるブルンチュリー発見で、十分には自分にも理解できぬところがあったろう進講を受けられたのとは、あたかも時を同じうする。そしてブルンチュリーの『国法汎論』と小野梓の『国憲汎論』と、類似の問題を扱った点が多く、ブルンチュリーは未だべンサムやミルの最新学説に言及するところはないが、ルソーやモンテスキューや、その他両著に通ずる名も若干はあるので、比較して、天皇は大いに興味を感ぜられたのではあるまいか。この後、いよいよ憲法審議会の起る前に、明治天皇の頭には、藤波言忠を通じて、グナイストの憲法知識が入るが、その前に小野の『国憲汎論』を摂取されていたら、明治憲法審議の際における天皇の発言は、また若干違ったものになったかもしれない。それを想像すると、今日からでも、油然たる興味抑え難きものがある。

 稲田正次氏による中巻の梗概は次の如くである。

中巻は、第十七章から第三十一章まである。最初の第十七章では、最大多数の最大幸福を達成するためには、全国民に政本の職を担当させる要があるとしたベンサムの説をあげた後、君民同治のわが国においては、国会を組成することと、国会を解体することを分かち、立法官選挙の権は民人これを専にし、国会解散の権は天皇これを掌握し、二者あい俟つて政本の柄を保つをよしとするといつている。第十八章から第三十一章までにわたつて議政(立法)官を細論している。第十八章では、議政官が法律を定め、行政・司法二官を監視して一国官職の上長であることをいい、欧米の代議政治の沿革を述べ、代議政治の功用は一人(君主)の専制と万人の抑圧(直接民主制の弊)を規制調理するにあると説いている。次に第十九章では、ベンサム、チュルゴー、フランクリンらの一局議院を利とするの説、J・S・ミル、リーバー、ウルジーらの二局議院を利とするの説をあげた後、著者ははじめ一局議院を利としたが、今は説を改めたといい、ただ、上院をもつて皇室の藩屏とするの説はこれをとらない、といつている。第二十章では、上院の組織について、貴族、富豪または勅選をもつて、あるいは民選をもつて組成するなどの説をあげた後、J・S・ミルの説をとつて、老練有為の政事家をもつて組織して下院の行動を抑制させる必要があると説いている。第二十一章では、条約批准権、弾劾裁判の権など、各国の上院の特権について述べている。第二十二章から第二十六章までは、下院の組織について述べている。第二十二章では、選挙権の有限無限、普通選挙の得失について述べ、ベンサムやJ・S・ミルのごときも純然たる普通選挙論者ではなく、今日は有限選挙制が世界の大勢であると説き、選挙権は、年齢の長少、財産の有無、芸学の精疎によつて制限することができるが、財産制限は、高きに失すれば富豪少数の弊政を来たし、低きに失すれば賤民放肆の禍害を蒙るといつている。第二十三章では、多数派のほか少数派にも、その代議官を出させることができる考案として、立限投票法(制限連記制)、積聚投票法、名籍(名簿)投票法、中意投票法(イギリスのへーアの主張した単記移譲式比例代表制)を紹介している。第二十四章では、直選、間選の得失について論じ、ベンサム、J・S・ミル、ウルジー、リーバーの説をとつて直選を是としている。また開示(公開)投票と暗密(秘密)投票の問題については、ベンサムに反対し、ミルの説をとつて前者を是としている。第二十五章では、ベンサムの説のごとく、議官は財産資格は不要とし、また英制のごとく行政官は議官を兼ねることができるとすべく、議官は三年ごとの選挙とし、リーバー、J・S・ミルの説のごとく全員改選の方法をとるべしとしている。第二十六章では、代議官は一地方の代人ではなく、全国の総代であるとし、モンテスキュー、ベンサム、J・S・ミル、ウルジーの説をあげており、また議員への俸禄支給の得失についても述べている。

第二十七章は、下院の金銭に係る議案起草の権、弾劾の権、および議長自選の権について述べている。第二十八章では、両議院の共通の権として、議案起草の権、言論の自由、拿捕糺治の免除、選挙の当否の監査権および議事規則自定の権をあげて説いている。第二十九章では、まず議会は会期を立つべきか、常開なるべきかの問題について、モンテスキュー、ウルジーの説に反対して、ベンサムの常開説に賛成している。次に議事の公行の利を説いている。第三十章では、会議定則の問題について述べている。例えば議事を開くに要する出席員数、議長の職務、議事の順序、票決の方法などについて詳しく説いている。議案の可否を決するに、比較多数によると過半数によるとの二種があるが、後者をとるべきとし、可否平分の場合議長の決裁権をみとむべく、またベンサムの説をとつて、議官が可否いずれに加わらず中立の意を表することを許すべきである、などと述べている。第三十一章では、制可、特赦、訂約、開戦の権について論じている。君民同治の国においては、君主が議会の所決の法案を制可する権をもつことは当然であるが、無制限の制可権をみとめることは民権を抑圧するおそれあり、よつて英国の慣例をよしとしている。特赦は議会の委員に掌らせ、君主の許可を得て行わせるを利といつている。条約を結ぶことは立法の性質をもち、本来、議会の権限に属するけれども、便宜上君主に専掌させるも可と述べている。開戦の権は重大であり、君主議会同議すべきであるといつて、ウルジー、リーバーの説をあげている。

(新版『明治文化全集』第二八巻「解題」 八―一〇頁)

 五月八日、「与丸善結第二之契約。」とあるのは、中巻の出版契約書の交換のことに違いなく、十九日大隈を訪うて、たまたま来合せた福沢に面会し、暫く話して「東洋館」に到るとあり、この頃から東洋館の名がしばしば出る。小野生涯の三大目的の、政治・教育・出版のうち、最後の目標として作った書肆の名に、自分の少年時からの雅号をとって「東洋館」としたので、今日の冨山房の前身なのは既述したから繰り返す要もなかろう。六月十六日は「講日本財政論、及国憲汎論。」とあり、これまでは東京専門学校において別な日に別々に講じていたのを、この日は二課目を同じ日に講じたものと見える。二十三日は、ヨーロッパに遊んで、アコラスやユゴーに会った板垣が帰国したことを新聞で見た。同郷先輩ながら小野は彼に推服しない。「惟渠云何処於此間乎。蓋開一場之活劇、余輩宜刮目観焉。」とあるのは、夫子に何ができようぞ、お手並拝見というところであろう。七月一日に「校汎論上巻了。」とあるのは、再版に備える誤植の朱正その他だと思える。

 十五日に「余聞、東京大学決模倣我専門学校、設以邦語所授之専門科之議。拍案曰、是可賀也。我校之贏也。」とある。東京大学側の記録にもこれを裏付けるものがある。外国語を以て教育することを誇りとしていた文部省の敗北、学問の独立を旗幟として日本語講義を開始した我が校の勝利である。

 十九日、雉橋老を訪うて、岩倉が死亡し天皇の親弔された話を聞く。「果是信乎。」と大隈の話に、大いなる疑問符的興味を置いているのは、思うに大隈は昨日か一昨日、岩倉の乞いによって病床を訪ね、十四年の時は「まことに相すまんことをした」との詫びを言われた関係から、この間の情報も他に先んじて耳に入れたものと解される。小野は「我邦之事又動矣。嚮板垣・後藤自欧洲還、其挙動頗可怪。而伊藤・寺島等亦将帰朝、朝野之人心既動心、而今遇岩倉之死。」と、天下の大いに動かんとする兆あるを記している。

念日 熱。到学校、会学生於講堂、授成業証書。此日成就年期之業者、無慮二百余人。

これ、我が学苑の最初の修業式で、当時は毎学年証書が授与されていたのであるが、しかもこの日岩倉の喪が発せられているのは、何事の象兆か。八月六日、夕方から雑子橋の大隈邸で催された壬午協会に列席し、自分の起草した「私擬憲法」を討議にかけた。これは永らく真偽不明とされていたが、後に山田顕義文書の中から草稿が発見せられ、今は『明治前期の憲法構想』の中に全文を見ることができる。

 暮の十二月二十二日に「晴。井上毅来訪、不遇。未知其何意。とある記事は頗る注目に値する。井上は伊藤の股肱として、大隈の片翼たる小野と相対峙し、大隈を憎むとともに、小野を正面の敵として画策至らざるなかった注意人物だ。伊藤が前年、欽命を帯びて憲法調査のためヨーロッパに行くに際し、敢えて残して随員に加えず、「国体の淵源と精華とを究明し置くを緊要なり」(『伊藤博文伝』中巻二六三―二六四頁)として、専ら留守居役を命ぜられていた。それが何の前触れもなく突然、来訪したのである。ただ「不遇」として、他の場合は必ず「不在」と理由書きをつけているのに、ここでは何とも断っていないのは、居て門前払いを食わせたのであろうか。井上は、帰国後の伊藤が小野の才能を評価すること高いので、いよいよ憲法起草に着手せねばならぬ矢先、自家陣営に招致しようとして来たものと察せられる。

 明治十六年の大晦日の記事は左の如くである。

大尽日 寒凛頓加、飛雪須臾而止。到東洋館。訪雉橋老話事。到東洋館了諸債、還寓。挿門松、為迎歳之備。守歳徹暁。

書于後。

十六年、筆尽矣。国会開期又短一年。顧想本年経過之迹、則又是愉快之年也。昨創専門学校、未満一歳而得信於海内、延及海外。況又創東洋館、其業有大成之望。而此二者、皆為可鳩閑接之功於後日者。余豈得不自快哉。加之、汎論一出、海内争購之。未半歳而公第二版。又游南房北越等之各処、受優遇多。余快之、非無故也。然専門之校、致之於大学之位置而始合素志。東洋之館至積三十万之資金而始全本願。受天下公衆之優遇、著等身之書而始酬平生之望。則此一小愉快、不足為自足也。唯夫不足為自足、則宜自奮而勉之也。

明治十六年十二月大尽日、夜寒徹身、硯海結氷時、点残燈、書于東洋館之楼上。

東洋学人 小野梓 手記

すなわち国会開設(小野のいわゆる花期)は一年縮まり、東京専門学校もまた一年にして、信を海の内外に博し、『国憲汎論』はあの大部で難解の筈のものが、半年ならずして再版になり、まことに、小野の生涯最良の年であった。

六 大著完成す

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 もし明治十六年を短き小野梓の生涯の最高の得意満盈の年とすれば、翌十七年からは望月が十六夜月、立待ち月、居待ち月、寝待ち月と、次第に欠け細って行くように、衰勢を辿って行く。意気なお盛んに、壮心未だ失せぬものがあっても健康がこれに伴わぬ。四月十八日、初めて吐血、診察に来た緒方(洪庵の子であろう)は「非肺腑之血。」と慰めて帰ったが、父が喀血して死んでいるのだから安心はならない。

 七月二十六日は東京専門学校初めての卒業式、「修政治学科一者四人、修二法律学科者七人。」の第一回得業生が出た(五〇〇頁に後述する如く、校友会名簿によれば法律学科八名)。蓋しこの得業生は、入学時に第二年の編入に合格した組である。この頃、『民法之骨』の著述に忙しい。奇なる題だが、今で言う概論を、その頃英米でskeletonと言った訳字で、他にも清沢満之の名著『仏教骸骨』など、類似の書名は幾つかある。九月三十日再び吐血。十月五日「又喀血。」病篤しと聞いて、郷里の諸先輩から、遂には雉橋老まで心配して見舞に来る。十一月には床上に起きて、来た客に『八犬伝』を読んでもらって聞くまでになった。二十四日、初めて外出し得るようになった。十二月六日、改進党内紛、解党論も出たという報告を聞いた。十七年の大晦日の日記は左の如くである。

大尽日 在家処事。督家人、為迎歳之備。例此夜守歳、徹暁。但此歳病余、不宜於不眠、早臥。

書于後。

明治十七年亦尽矣。此歳民間逼塞、民有菜色。加之、封建割拠之風、漸復行。強藩人士之間、殆如忘有日本。又外之、則条約之改正未成。朝鮮之事、未有所決。銀貨騰貴、紙幣下落。不吉之年也。且秋来罹病、於身不幸甚大。然天下之事、一身之事、浮沈無常者、理之当耳。有敗則有成、不復要区々於一敗也。宜鋭意期大成於晩也。此歳余不甚利社会、唯民法之骨之印行、或補万一。民法之骨之著、比国憲汎論之著、則苦心更多。蓋之、骨之著、出自家之創意者最多。且渉猟日耳曼諸家之説者、非余之易事也。然我邦未有具眼而読書者。之骨著作之苦心、或不顕而罷。

甲申之大尽日、識於東京錦巷之寓居。時家人相倚為迎歳之備忙。 東洋学人 梓 手録

 明治十八年は、外出できぬため家居して自然に世界の形勢に目を配ることが多くなり、韓国問題、清国問題、伊藤の弱腰外交、軍人跋扈の兆あることなど連日書き留め、後に日清戦争の遠因となる天津条約を作る遣清大臣の記事など、特に注意して記録に留めている。

二月念四日 晴。聞伊藤・西郷奉使命、未知其信。

と記し、翌日は、「是薩人監視長人也。」と見ているが、しかし後世の明治史家は、薩長協合のため西郷が同行して、伊藤が蒙るべき不評判の火の粉を共に浴びてやろうとする侠気と解する人が多い。

 ここに不思議なのは、伊藤が李鴻章との間に天津条約を結んで帰ると、小野は『民間衰頽論』という論考を草し、五月二十八日その写本に添えて手紙を伊藤に送っていることである。小論では意を尽し難いから、会ってくれるなら訪ねたいと言い送っている。伊藤からは翌日、明三十日午前八時なら都合が良いと返事して来たが、その言に尾を振って、それも午前中にすぐ訪問するのでは自ら軽んずるものだと見えを張って、六月二日午後三時に訪ねることで約束が決まった。しかし六月二日は喉頭充血して、約を果せず、やむなく断らねばならなかった。そして翌三日は、その『民間衰頽論』――大隈に見せて大いに修正してもらった別の写本――を井上外務卿に贈っている。

 去る十四年の政変で敵味方に別れ、不倶戴天、睚眥の怨は必ず報いんとも言うべき、酷毒辛辣の敵意をお互いに抱く仲になっているだろうと普通には考えられるところだが、どうもそうではないらしい。そこが西郷.大久保より新時代で、政治家もずるく小賢しくなったのか、最後的決裂には至らず、皮一重のところで繫がりを保っていたのだ。

殊に伊藤・井上のおん大とも言うべき岩倉が死ぬ前に大隈に詫びを入れたとあっては、敵視し合う理由が薄れる。

四日 咳稍癒。三校国憲汎論下巻。

とあるのが、この下巻のことの『日記』に明記せられている初めで、十日には「此日汎論第三拾六章再校成、付印工。」とあり、稿のたまるに従って印刷所に入れたのだ。まだ半ばに至らない。

 七月に入ると、多分、東洋館のためであろう、岩崎弥太郎はじめ、二、三の所から借金することが初めて日記に出てくる。

七月念一日 在蓐。接伊伯之書(100 till 20th 8th.)。

とあるのは遂に伊藤からも百円を借金し、八月二十日までに払うということであろう。八月に入り、

八月十五日 稍軽。校汎論。今現印刷其下巻、勢不可惰其校讐。故有小閑、乃校之。是亦人生之一奇事也。

下巻の印刷に掛かっているから、勢い校正を怠けてはおられない。だからちょっとでも暇があれば朱筆を執るというのであろう。

念三日 大快。校汎論。投書伊伯也(Return 30 y.)。

百円の借金の中、三十円を返したのであろう。それから連日「校汎論」が続く。

三十一日 全校了汎論。明治九年五月起稿以来、十一年三月於玆。嗚呼、余亦熱心於国憲之制定者乎。

九月一日 此日手製核肴、置酒賀国憲汎論之全成。

二日 咽喉掀衝覚痛、延医療之。筆国憲汎論中所引用諸家之略伝。蓋欲付刊於汎論而便読者也。

三日 汎論之印刷、逐次告成。此日詠和歌代汎論下巻之題言。曰、逢ひ見むと契ることばのなかりせばかばかりふかくものは思はじ。余素不習詠歌、故到前田香雪正之。香雪為余刪正如此。

四日 咽喉未全癒、然又不加其患。此日出汎論第三稿、糊綴之排其次序、而為保存之備。余筆汎論、初親筆之、使人繕写之、朱批之而又使繕写之、再刪添之、為之定本、以付印刷。是所謂第三稿。而雖成不出於余之手跡、而其朱批若緑批之類者、皆出於余之親筆。但印刷之際、截断之、為断片者多。故今糊綴之、為保存之備。惟是吾家将来之一蔵珍。而百世之後、子孫重学術、則必重之。余始期保存第一稿即係余之手筆者。然余手書之稿本、字画紛雑、雖余不能読過者多。故決意於保存第三稿。

五日 咽喉稍快。校正汎論之印本、終日凭几。

 十月一日、書を伊藤に投じてまた百円を、この月末まで借りる無心を言い、三日、岡山兼吉には、かねての借金百円に利子七円五十銭をつけて返す。(その後十一月八日、大隈に百五十円の借用を懇請し、翌日貸与されている。)

此日汎論上中下三巻合装成。観之一握有余。自知称大著決不恥也。欣然得句。曰、積微雖半似遅迂、堪久大成終不愚。四十七章三巻論、自言我業小形模。朝来体温昇三十八度以上、請緒方診之。曰、尋常之感冒也。此日頒汎論於諸友。

それから五日間(十月八日まで)日記はついているが、「投書犬養・森田。」の字を最後として、後は空白のままで終っている。例によって、稲田正次氏の「解題」を借りて下巻の内容を窺うこととする。

下巻は、第三十二章から第四十七章までである。第三十二章から第三十六章までは、行政官について述べている。第三十二章では、まずベンサムは行政の首長は人民の中から選立すべしと説いているけれども、わが国には当らないとし、次いで行政の官長は施行、指揮、叙任、罷免、兵馬、報告、嘱咐、起議、統計の九つの職務をとるとし、そのおのおのについて説明している。施行の職とは、議会の決めた法律を布告し、その細則を布達することなどといい、兵馬の職とは陸海軍を指揮することであるが、その弄権は抑制する必要があるといい、起議の職とは法律を起草し、議政官に提出すること、報告の職とは議政官にたいし内政、外交について報告すること、嘱咐の職とは議政官にたいしてある事項について勧告することなどといつている。

第三十三章では、君主がみずから行政の衝に当り、万般の政務についてその責を負う孛国(プロシア)の制をとることは、君主を危地に陥いれることになり、わが皇室の無窮の尊栄を保つ所以ではないといい、大臣責任、政党内閣の制をとる英国になろうべしと説き、英国内閣組織の順序について述べている。また参議院もしくは枢密院を設ける必要なしといつている。第三十四章では、政府の行政事務とその限界について述べている。例えば貧民の救済は政府の職務なるか、今のところ自説を定めずといい、政府は直接に人民の生業に干渉せず、間接にこれを奨励すべしといい、教育については無用の干渉を不可とし、警察も人民抑圧の具となつてはならないといつている。第三十五章では、わが国の中古の八省と現時十省との対照、明治維新以後の省の設置の沿革について述べている。第三十六章では、政務官の責任を尽くさせる問題について述べ、議院弾劾の法により、あるいは他の常法によつて、また公衆の世論によつて大臣の責任を追求できると説き、なお事務官の任免制-公開試験による採用、身分保障などについても述べている。第三十七章から第四十章までは、司法官について述べている。第三十七章では、まず法律の無上(支配)、公義(正義)の自主について述べ、次に司法官の独立について説き、司法官の独立を全うするために、ベンサムの説を参酌して、立法官によつて選挙され、君主の制可を得て任ぜられる終身官たる司法官長によつて法官は選任され、終身在職すべく、また陪審官が置かるべきことなどを提案している。第三十八章では、司法官選任の方法について、各国の例やベンサム、J・S・ミル、ウルジー、ハミルトンなどの説をあげ、自説を述べ、司法官の終身制についても説いている。第三十九章では、司法官の弾劾制について述べ、陪審官について詳しく説き、検官、裁判所の構成、法廷の常開についても述べている。第四十章では、わが国上古以来徳川期にいたるまで、および明治維新以後の司法制度の沿革について述べている。第四十一章と第四十二章は、会計について述べている。第四十一章では、会計と政治との関係、歳計予算、歳計決算、会計検査などについて述べ、予算の毎年度議定の重要性を説いている。第四十二章では、明治維新後の会計制度の沿革について述べている。第四十三章は、兵力のことについて述べ、兵制に定族就役の制、随意応募の制、限男服役の制、国民皆役の制の四種があるが、国民皆役の制をとるべきであるといつている。第四十四章と第四十五章は、地方政治の制について述べている。第四十四章は、中央把総(集権)と地方自治の制を比較して、地方自治の利を説き、中央政府と地方政府との間の政務の分配について述べ、地方議会に三分の一以内の非公選議員をおくことをみとめ、府知事県令は、地方議会が数人の候補を指名し、そのうち行政官長が一人を選び、上議院の承諾を得て任命し、また郡区長は郡区会指名し、府知事県令が府県会の承諾を経てこれを任じ、戸長は町村会これを指名し、郡区長が郡区会の意見をきき、これを認可して可であるといつている。第四十五章では、地方政治の制の古代以来の沿革、維新後の三新法、区町村会法にいたるまでの沿革について述べている。第四十六章では、憲法制定および修正(改正)の方法について述べている。憲法制定の方法には国約、欽定の二制あるが、十四年十月の大詔は欽定の制によるとあれば、この問題は既定とみとめる。しかし欽定の前に予備が必要であり、天皇の下に憲法起草局を設け、草案成れば天下に公布し、公衆の批評を集め、これを審査して修正のうえ、天皇の裁可を乞うべきであるといつている。最後の第四十七章では、立憲国民の具備すべき性質として、独立自主の精神、愛国の公心、多数の決定に従う気風、政治を改良前進するの精神、順正の手段と着実の方便によつて社会の事業を処理する性格、憲法を固執する実力の六つをあげている。そして著者は、わが脳裏を探ぐるに国憲に係る細大の鄙見既に出し尽してまた余す所なきを覚うといつて、筆をおいている。『国憲汎論』の内容のあらすじは上述の通りであるが、上、中、下三巻を合せて九百十数頁に上る大著であるばかりでなく、憲法に関する問題は、著者自身がいつているごとく、ほとんど細大もらさずとりあげ、それらのおのおのについて欧米諸国の立法例と主要な学説をかかげて比較検討し、なおわが国の古来の制度の歴史をも詳しく考察した上で自説を述べているあたりは、スケールが大きく学問的香りも高く、当時の日本において、かような著作が世に出たことは驚くべきことであつた、といわねばならない。著者の参照した著書はおそらく多数に上つたであろうが、Jeremy Bentham, Leading Principlesof a Constitutional Code, 1823; id., The Constitutional Code, 1827-1843; John Stuart Mill, Considerations onRepresentative Government, 1. ed, 1861; Francis Lieber, On Civil Libertyand Self-Government, 3. ed., 1874; TheodoreD.Woolsey, Political Science, 1886は最も多く参照され、著者にたいして大きな影響を与えたものと思われる。イギリスのベンサムは共和制論者であつたが、著者は彼の説を最も重んじた。イギリスのJ・S・ミルやアメリカのリーバー、ウルジーの説も著者は少なからず採つている。著者は西欧の民主主義と自由主義を大幅にとり入れて、日本の立憲制をうち立てることを望んだ。しかし著者は、他面日本の歴史と伝統をも軽視せず、日本の皇室の尊栄を保持するを利とし、結局、君民同治の立場に立つて、来たるべき日本の新憲法を構想したことは、前述の通り、主権論において、基本的自由の論において、また、立法、行政、司法、地方自治等々の組織と権限の論において、はつきりとみとめることができる。しかし著者が、憲法について考えたことは、おおむね伊藤らによつて起草された明治の欽定憲法の水準をはるかにこえ、したがつて現行の日本国憲法の水準にやや近いものがあつたことはいうまでもない。著者を最もよく知つている同志であつた大隈重信高田早苗が、後年この著を激賞してやまなかつたことは当然である。 (新版『明治文化全集』第二八巻「解題」 一〇―一二頁)

 『汎論』の完成した後、四ヵ月とはたたず、十二月二十二日、太政官は廃され、九省を置いて、伊藤博文が最初の内閣総理大臣となった。この改革は小野が『国憲汎論』下巻の行政編で説いていることがほぼそのままに実現したので、病床に新聞紙を披いて知って、必ず満足の微笑を漏らしたであろう。年が明けて明治十九年となり一月十一日に、小野はその頃の住居、神田錦町三丁目五番地の自宅で死亡した。享年三十三歳十ヵ月。小野梓については、余は第十一章に譲り、ここにはその葬儀の模様を伝えた記事の一つを転載して、彼のことを終ろう。

葬儀は、去る一月十四日午後を以て同君の故宅より出棺し、谷中の墓地に葬らる。行列の模様は真先に白張提灯並に白旗四旒、造花二対、生花九対、之に次で、導師本願寺の輪番某四名の僧侶を随へて列り、次に白張一対、次に位牌、大旗一旒従五位小野梓之枢と記して枢の前に立て、次に白張一対、次に墓牌なり。喪主は小野是一郎君にして、葬儀に会せし者無慮千余人、改進党員、明治協会員、交詢社員、新聞記者、東京専門学校の講師・学生、及び君が在官の時より交際ある官吏にて見送られたる人々の中には、東京府知事渡辺洪基、司法少輔三好退蔵、参事官岩崎小次郎、小池靖一等の諸氏をも見受けたり。特に東京専門学校の学生は同君の薫陶を受けたる人多きを以て、一篇の祭文を柩前に備へ、得業生岡田庄四郎氏学生総代として之を朗読したり。会葬せし人皆な、君が志を齎たらして中道に歿せるを嘆惜せざるはなかりき。

(『中央学術雑誌』明治十九年一月二十五日発行第二一号 四六―四七頁)