本編の核心とも言うべき本章に入るに当って、少しばかり道草を食わせてもらおう。それは昭和四十八年刊の『ハンス・ケルゼン』(鵜飼信成.長尾竜一編)という書物の中に、こういう一節を見出したからである。
ハンスは一八八一年一〇月一一日、プラハで生れた。この日は日本においては、御前会議で国会開設の勅語が決定され、また大隈重信が罷免されたいわゆる「明治一四年の政変」の当日にあたる。ヨーロッパ大陸ではビスマルク外交の全盛時代で、勢力均衡による平和が維持され、一応の安定期であった。同じプラハで二年後に、ユダヤ系作家フランツ・カフカ……が生れている。一八八三年という年は経済学上はマルクスの死、ケインズ、シュムペーターの出生という画期的な年とされているが、その二年前という訳である。 (二〇二頁)
ここに「いわゆる」という先行詞を置いて、明治十四年の政変を語っているのは、これら少壮学者の間に、まだこの名称が十分な歴史的な定着を見ず、若干この使用に不安定感を覚えていることを示すものと見られないこともない。それはそれとして、ケルゼンの生誕と、大隈の罷免と何の関係があるか。しかもこの「純粋法学」を提唱した新オーストリア学派のケルゼンの生誕が大隈の追放やマルクスの死や、近代経済学に不朽の業績を残したケインズやシュンペーターの出生などとからんだ連想で、我が少壮学者の頭に入っていることに、何となく興味を覚えずにはおられぬ。そしてこの書の批評として昭和四十九年六月十日号の『朝日新聞』には、次の記事が見えた。
ケルゼンは、その生誕が、大隈重信の追放と国会開設の詔勅で有名な明治十四年の政変前日であった。
ここには、原文に用心深く置いてあった「いわゆる」という先行詞が除かれているのを見ると、この評者は無意識にか、それとも何かの考えあってか、新聞を読む国民大衆には、これを不要と考えたものと察せられる。ということは、この名辞もまた我が近代史の専門語として、国民常識の間に定着していることを意味するであろう。とすれば、半世紀に亘ってこの歴史が次第に地歩を固めてくるのを現実に見てきた研究者達には、まことに感慨無量たらずには済まされぬ。
実はこれは明治史最大の謎で、久しく定まった名のつかぬ荒草の中の無縁仏であり、大正・昭和の宮中某重大事件、満州某重大事件でも、夙に解決がついているのに反し、未だに周辺から月暈・日暈の曇りを払拭し去って明鏡の如くなったとは言えない。しかもこれが早稲田大学百年の前史を終結する台風の目として重要視せられねばならぬのは、例えば明治憲法起草の一人であり、そして昭和になっても、最後まで憲法の番人を以て任じた金子堅太郎が、「憲法制定の由来」で左の如く回顧しているからである。
十四年に大隈侯爵が建議になつて、政府部内に於て一問題が起つて、終に已むを得ず侯爵も内閣を去られて野に御下りになつたのは過ぐる十〔四〕年の十月のことである。併し此大隈侯爵が辞職は日本の憲法史上に於ては一大記念とすべきことである。当時は朝野に於て囂々の声があつたが、二十三年を期して国会を開くといふ詔の出たのは即ち大隈侯の建議の結果と私は思ふて居る。 (『早稲田叢誌』大正八年十二月発行第二輯 六八頁)
この講演者金子堅太郎は、井上毅、伊東巳代治とともに伊藤博文の下で実際に憲法起草に携わった、いうところの三羽烏の一人として、重要な役割を演じた人で、反大隈陣営の最も有力な遺老だった。しかし伊藤に招かれる前の青年時代には、小野梓、馬場辰猪らの牛耳を執った「共存同衆」の熱心な会員であり、またそれと友好関係にあった沼間守一らの「嚶鳴社」に島田三郎らとともに活躍した自由民権派の名士でもある。更に、乃木希典(中佐)がハイカラの象徴とも言うべき彎曲刀を吊って、しばしば自由民権の会合に列し、黙々として傾聴していたという珍しい事実を語り残しているのも彼一人である。つまり敵味方両陣営に跨って細かな内情にまで通じ、もし虚心坦懐なるを得ば、最も公平なる見方のできる立場におり、その性質も党同伐異の念がきわめて淡い。殊にこの日は憲法発布三十年の記念の催しに早稲田大学に招かれ、嚶鳴社での友僚だった島田三郎は、時の内務大臣床次竹二郎とともに前弁士として講壇に立っているし、後には、同じく講演者として、大隈自身が、「私は憲法に就ては直接に関係のあるものである」と断言しようと、待ちかまえているという席だから、まさにこれが腹の底からの本音で、自分の経歴を語るに、この場合歪曲するところがあろうなどとは断じて思えない。さればこの講演中の「大隈侯爵が建議になつて」という、その建議の内容はどうであったのか。「政府部内に於て一問題が起つて」という、その問題とは何であったか。「已むを得ず侯爵も内閣を去られて」という、その已むを得ずとは、どういう事情であったのか。この辺を明らかにすれば、この事変にまつわる久しい間の疑問も解け、この百年史に課せられた最も重要なる使命も果せるというものである。
しかしこの講演にも、「明治十四年の政変」という言葉はどこにも見出せず、すなわちこれが大正八年の時代相においてはまだ史的用語として学生達も耳にしたことなく、従って明治史の上にまだ定着せず、史学界にも、一般常識の上でも、その意味が決まっていなかったことを意味する。そこで以下先ず、明治・大正史において、これが如何に記叙され、如何に取り扱われてきたかを、概見せざるを得ない。
そもそも明治史として今日も一般にとって嗜読参照の価値ある最初の出版としては、先にも述べた如く、竹越与三郎の『新日本史』をその一冊として挙げねばならぬ。これはマコーレーの『英国史』に倣うて、自由主義の立場から忌憚なき筆を揮うた新時代の史書として、実は後にプロレタリア史学の芽生えかけた時も唯物史観を執る若き未成の急進主義学者達(平林初之輔、服部之聡その他)が、最初に着目して資料として活用した書物であった。先ずその記述を見よう。
此の〔国会開設の〕詔勅の出ると同日に、廟堂内の国会論者大隈は失墜して民間の人となれり。彼は国会を以て内閣中の異分子に対して政治的追放クーデーターを試みんと欲して、却て追放せられたる也。 (上巻 二一三頁)
竹越はその史観の立場上、官僚・藩閥には心からの反感を持ち、廟堂にある間の事績では大隈にも満面に毒気を吹きかけているから、この国史の大転換の記述としては、当時の読者は、もっと詳細なる論評を期待したであろう。後世、史料としてこれを流読する我々もまたその望蜀の念を持つのである。
これより前、文部省は指原安三に嘱して『明治政史』を編せしめつつあり、慶応三年から明治二十三年の第一回総選挙まで、一年に一編を当て、断続的に刊行せしめたのだが、その第一巻は、竹越『新日本史』上巻の出た翌明治二十五年に刊行せられた。観察は平板で、文は事が分るというに留まり、快読には値せぬが、生の資料を惜しみなく採取し、公平に且つ詳細に明治史を知るには、第一の好手引として知られる。幸徳秋水補・石川旭山の「日本社会主義史」(日刊『平民新聞』に連載)でさえ、先ずこれに拠ったとは、当事者の口から、じかに出た話である。視野の広闊なることはこれを以ても知られよう。しかるにこの書でさえ、記叙するところは僅かに次の如きに留まる。
大隈一派の辞職 抑大隈重信の掛冠せらるるや、同君と常に相提携し、寧同君門下生とも云ふべき矢野文雄(統計院幹事兼太政官大書記官)〔以下十四人の姓名と官職を列記し〕其他平素大隈に因縁ある者は復た官途に隻影を留めざるに至る。
(『明治政史』上篇旧版『明治文化全集』第二巻所収 三七四頁)
と僅々十行の記述あるのみで、而もその中の八行余は大隈とともに下野した人名の羅列を以て占めている。この書は、他のことには詳しいのに、今や征韓論と同じほど重大な意味を持つと言われる事件の記述としては、あまりにも僅かでバランスを失っていることに気付く。或いは文部省の御用出版だから、殊更に明治十四年の政変を軽視する傾向が執られたのかもしれない。
次に雑誌『太陽』の臨時増刊第六巻第八号(明治三十三年六月十五日発行)の「十九世紀」を見る。東洋第一の大雑誌の貫禄を備えた同誌が、旧世紀を送り新世紀を迎える記念としての好企画で、大隈重信、井上哲次郎、田口卯吉その他の各界長老の論説を巻頭に乞い受けた他、高山樗牛、上田敏以下の大学出たての新学士を動員して、十九世紀における、政治、学術、産業、文化その他万般に亘っての消長を紹介した。その中「日本」を担当したのは木寺柳次郎(その頃日本史専攻の学者として世に聞えていた)で、世はこの雑誌と執筆者から、広く知識階級・庶民の最も納得し得べき記述を期待したが、その説くところは次の如くである。
大蔵卿大隈重信は、薩長藩閥の跋扈に憤慨し、政体を根本より改革するには憲法を定め国会を開き、国民の代表者をして立法に参与せしむるの外無しと為し、予め青年学者を各省の要地に配置して以て時機を待ちしに、会たま其頃北海道の為に従来政府が数百万円の資本を注入したりしを、薩人五代友厚長人中野梧一等の組織したる関西貿易会社の請を容れ、三十万円無利息三十ケ年賦の低価を以て之を払下るの議を決するや、左なきだに政府の施設に不満なりし民間の反対党は、猛然起て之を攻撃し、新聞に演説に全国囂々たり。此時有栖川左大臣宮は窃かに大隈重信を召して民心鎮撫の策を諮詢せらるるに及び、大隈は予め準備したる憲法行政施行の案を進め、藩閥政治に代ふるに輿論政治を以てすることを述ぶ。其事幾ばくも無くして他の閣僚間に漏れ、皆大に怒り、当時陛下には東北巡幸中なりしが、十月十一日東京に還幸し給ひし即夜、請ふて御前会議を開き、大隈重信の職を免じ、同時に開拓使官有物払下を取消す。而して二十三年を期して国会を開設すべき詔勅を発し給ふ。
(二八二頁)
さすがに政府御用でない民間誌だから、取扱いが公平に近く、且つ筆者が専門の若き史学者だったので、いささか憤慨を込めてこの事変の要点を伝えている。厳密に言えば、若干の誤謬もなくはないが、それは文を簡略にして複雑の経緯を叙するに免れ難いところであったろう。そして大隈派の各省高官中「青年有為の士多く職を辞して野に下る。実に明治六年征韓論の衝突以来の破裂なり。」(二八二頁)と重大視しているところ、他書の記事が軽々に擦過しているのと面目を異にする。征韓論に比較するところは必ずしもこの筆者の創見でなく、先例がありそうだが、とにかく一向に顧みられないで路傍に捨てられた枯れ花のようになっていたのを拾い上げて、最も読者の多い総合雑誌によって、天下に流布させたということで十分に使命を果した。
日露戦争の大勝は、いわゆる皇国の歴史の大転機で、その際に『岩倉公実記』が出版せられた。岩倉具視がなくなって、実に二十年余を経過した後である。人の死せんとするや、その言よし。岩倉は病が重って、死期の近いのを自覚すると、大隈追放の時執った自分の態度の卑怯姑息で公正を欠いたのを後悔し、「あれに会って直接に詫びを言わねば、安心して目がつぶれない」と言って、大隈邸に訪問の意を伝えたので「それなら自分の方からお伺いする」と言って、義絶以来、二年にして二人が再会したのは、死の前二日のことである。当時これは民間でも専ら噂され、後年大隈が自分で述べてもいることで、疑いようのない事実と思えるが、浩瀚三冊の『岩倉公実記』に全くその記事を欠くのは惜しむべしとしても、十四年の政変に関しては、事を記するに今までに出たものとしては最も詳密で、殊に各参議の上奏した憲法建議を全文併記したのは、この謎を解く基本資料を提供したもので、大隈追放の主因である「到底ついて行けぬほど急進というのは果して真実かどうか」を比較研究できる。一口に言えば他の諸参議の出した建議は、表面憲法制定の必要を唱えながら、皆もっと政治が整備し、民知の開明を待つべきだと言って、内々はこれに不賛成な本心であることが分る。それに憲法がどんな体裁と内容を具備せねばならぬものであるかを一向に心得ないのは、研究したことがないのだからやむを得ないとして、それでありながら、例の漢文流の美辞麗句を、滔々として懸河の如く列ねて、奏文の中味は、味噌汁の中の刻み葱ほどもつまみ出せない。そこへいくと大隈の奏文は、部下の識者の研究になるものだけに、首尾整然として憲法の全形を具備したもので、彼此全く比較にならぬ。それに大隈の建議は密奏であったのを、有栖川宮が約束を破って(三六四―三六五頁参照)、岩倉と三条に示し、その上で伊藤にだけ筆写を許したのであり、他の参議は全くどんなものであるかを知らない。しかるに大隈非難は、薩長の他参議からこぞって出ている。伊藤は寧ろ他から強要され威嚇されて、遂に大隈排斥の先鋒に立たされたのだから、この竜巻が噴騰した主因は憲法意見の違いでなく、宮中府中、よってたかって大隈を理不尽に叩き出したのである。別言すれば薩長藩閥が、元の勢力回復のために企てた陰謀に、明治天皇側近の寵臣が巧みに乗り、そして寵臣が藩閥を手先に使って、この始末に及んだ経緯がほぼ推察できる。それでありながら、この伝記は大隈と福沢との提携、それに対する三菱の援助など、実はまるでなかった讒構を以て大隈排斥の主因としている。この伝記者が世上の流説のままを信じている点に、事件の半分を岩倉側からのみ見ている欠陥がある。
『福翁自伝』に、大隈辞職のことが自分にまで影響してきたことは大笑いだと言い、岩倉が心配して、しばしば来訪して、今度のことは征韓論以上の大動揺だと話したことや、また「十四年の真面目の事実は、私が詳に記して家に蔵めてあるけれども、今更ら人の忌がる事を公けにするでもなし黙つて居ます。」(『福沢諭吉全集』第七巻二四五-二四六頁)とあるのに気がつけば、岩倉伝の筆者は、当然福沢方の資料も一応当ってみるべきであった。そうしたら自分ら宮廷と太政官で蒐集していた諸材料は、慶応義塾を出て、福沢に信任され、福沢邸に起臥まで許されていた一スパイが、官界の望んでいるところを推察し、それにぴったり当てはまるように讒構して耳に入れる材料を、そのままに信じて、あの大事変を招来したことに気付いたであろう。それはともあれ、宮廷側の材料はこれで出揃い、その限りでは、ほぼ信が置ける。
ところで日露戦争中に企画され、ペリー来航五十年を記念して出たのが、大隈重信撰の『開国五十年史』上下二巻である。皆その道の権威が、分担して自分得意の項目を書いたので、「帝国憲法制定の由来」は、その起草の責任者で、その時まだ健在だった伊藤博文が当然これに当った。しかしそれには、十四年の政変の内容には一言も触れるところなく、次のように書かれている。
十四年(一千八百八十一年)に至り、天皇陛下は代議政治の基礎に於て立憲政体を採用するの告旨を発するの時機熟せりとなし、立憲予約の詔勅を発布し給へり。以上説く所により、元年(一千八百六十八年)誓勅発布の当時より今日に至る迄、我天皇の守持し給へる終始一貫の御政策は、第一 国民を教育して立憲国の必要に応ぜしむること、第二 国民をして近代文明の精華を収めて其用に供せしむること、第三 斯くして国家の富強、人文の進歩を図り、世界最強の文明国と伍して同等の位置を得しむること、にありしを知るべきなり。 (上巻 一二五―一二六頁)
ここは、その原因となった自分の進退について、書くべき場合でもないかもしらぬが、もし書くなら明らかに自分の不利である。伊藤は口を閉じて、これについては遂に一生涯語ったことがないのは、却って自分に弱点のあるのを暗示する結果にならぬか。
これに対し、同書の「政党史」は浮田和民が稿し、板垣退助・大隈重信の校閲となっている。左の如き記事がある。>十四年七月政府に北海道官有物払下の議決するや、朝野に物議沸騰し、民間にては各新聞の政府総攻撃となり、政府反対の大演説会となり、政府部内にも亦異論者少からず。中にも維新の初め佐賀藩より入りて参与となり、薩、長二藩の出身者間に在りて開国進取の国是を翼賛し、外交、財務の難局に当りて功を奏したる参議大隈重信氏は、其最大有力なる反対論者なりしが、藩閥専横の根を絶つは国会開設にありとし、断然民間の輿論と相応じて、明治十六年を以て国会を開くべしとの意見を宮廷に上奏せんとしたりしに、挙朝震駭し、十月十一日聖駕東北より還幸あるや、即夜大臣参議の御前会議となり、北海道官有物払下の件は取消され、翌十二日明治二十三年を期して国会を開くべしとの詔勅を発布せられたり。是日国会急設論の主唱者大隈氏は官を免ぜられ、彼と主義意見を同じうしたる農商務卿河野敏鎌、駅逓総監前島密、判事北畠治房氏等を首めとし、矢野文雄、犬養毅、島田三郎、尾崎行雄、小野梓、牟田口元学、春木義彰、中野武営氏等も亦依願免官となり、大隈氏に因縁ある者は、官途に隻影を留めざるに至れり。是れ夫の明治六年征韓論以後の大変動なりとす。 (上巻 三三一―三三二頁)
初めて大隈側から事件を語り、「藩閥横暴の根を絶つに国会開設を必要」とし、「明治十六年開設」を上奏しようとして挙朝震駭したことなど、核心に触れてはいるが、経緯を明細に知るほど詳らかでない。
この書刊行の翌年、伊藤博文はハルビン駅頭で暗殺され、更に三年たって明治天皇の崩御があった。その両度とも各雑誌が競って追悼号を刊行した中に、やはり『太陽』臨時増刊第十八巻第十三号(大正元年九月十日発行)の「明治聖天子」は、他に抽んでて立派なもので、その中の「立憲政体創建の御偉業」の一節に言う。
斯くて幾多の波瀾起伏の間に数年の星霜は過ぎ、愈よ記念すべき明治十四年十月十一日に及ぶ。此年七月、車駕東北巡幸の途に上らせらる。奥羽より北海道に渡らせられ、悉さに民情を視察せらるること、約二箇月余日、東京に還幸あらせられしは実に十月十一日なり。而して此夜直ちに御前会議は開かれ、当時熾んに民間の物議を惹起したる開拓使官有物払下問題に断乎たる裁決を下し給ひ、同時に明治二十三年を期して国会を開設するの大英断を下し給へり。 (一四一頁)
この『太陽』にも劣らぬ権威を持つどころか、ややもすれば、これを凌がんとした雑誌は『新日本』である。当時まだ第二巻を迎えたばかりだったが、小野梓の遺業の「東洋館」を継いで、屈指の大出版社たらしめた冨山房の発行で、しかも主宰大隈重信の下に、最愛の門下生永井柳太郎が自ら編集に当り、内容の高度と、清新溌刺たる意気込みは、優に群誌を圧倒していた。その第二巻第九号(大正元年九月発行)の「明治聖代号」という特輯では、「明治の政党」と題する章を大隈自ら担当し、こう語っている。
〔明治〕十四年に至るや、其七月偶ま北海道官有物払下事件の生ずるあり。物論紛起して時の開拓使長官黒田清隆を攻撃し、引いて政府の総攻撃となるあり。而して政府部内にも亦異論者少からず。我輩の如き其最大なる反対論者なりしが、此藩閥の専横を根絶するは国会開設に在りと断じ、民間の輿論と呼応して明治十六年を期し国会を開くべきの議を宮廷に上奏せんとしたるに、挙朝震駭し、十月十一日聖駕の東北より還幸あるを迎へ即夜大臣参議の御前会議となり、一方北海道官有物払下の件の取消となると共に、翌日国会急設論者の我輩に旨を諭して官を免じぬ。されど是と同時に遂に明治廿三年を期して国会を開設すべしとの詔勅の発布を見たりき。 (一一二―一一四頁)
先の『開国五十年史』の記事と、互いに相補い、今まで博弁宏辞の大隈が珍しく口を閉じて語らなかった事件の表明に、いささか積極的になっていることが注目を惹く。
さて、以上の諸記事を通覧、併看して、言うべきことはもとより多いが、その何れをも通じて先ず指摘できるのは、繰り返して言えば、この事変が三十年を経ても、未だに名称が決まっていないことである。歴史には、それぞれの出来事の意義の大小によって、名称を付さなければ、記憶のしようもなく、況んやそれを明日を生む母体とし、「後ろ向きの予言者」として、活用のしようがない。しかるに、筆頭参議に加えた一種のクーデターは、大老職の井伊掃部頭の暗殺にも類する大事変であり、それが導火線となって憲法制定の大詔が下ったのは、憲法を最大の誇りとする明治史にとって、最も重要なことなるは言うを要しない。それがこの状であるのは、奇傑の白骨空しく朽ちて、戒名もつけられぬままに、荒草の間に埋没しているのに類しないか。
大正の先頭を切って、民間史学の巨擘で本大学史学科の定礎者の一人である吉田東伍の『倒叙日本史』(全十巻附索引一巻、大正二―十四年発行)が出て、今日から見れば不備もあるが、停滞混濁した我が史学界に新風を入れ、世の注目を惹いた。この政変の経緯が初めて、やや系統を立てて、従前に類例を見ぬほど詳しく記述され、殊に諸参議の憲法諮問に応える上奏書を併記して、その差異優劣を一目の下に瞭然たらしめようとした等、苦心の跡を見る。
すなわち、第二冊の第七章は「国会遅速の論争」という総括的標題の下に「政治運動の新気運」「諸参議の国会論争」「大隈・伊藤の進退、及び開拓使事件」「薩長の根軸に由りて大隈を排斥す」「十四年十月の国会期限の詔書」「政治と学問」の諸項目を展開していても、現在のように「明治十四年の政変」として、一括して捉えるには至っていない。吉田は諸書に目を通し、適宜に取捨選択して、読者自らこれを比較して結論を出すべき方法を採り、殊に在野の評論で、アカデミックな史家なら到底一顧も払わぬような新聞雑誌記者の手になるものまで、採るべきは採って、当時として一応これ以上は望まれない域に迫っているが、如何にせん、時未だ熟さず、決まった名称を付さなかったのは大沢に長蛇を逸した遺憾がある。
この書発行開始の翌年(大正三年)、思いがけずも枯れ木の花を開くに類して、第二次大隈内閣が成り、組閣後間もなく、これまた意外にも第一次世界大戦の前奏曲なるヨーロッパ大乱の勃発に直面し、日英同盟その他の条約で、我が国も参戦するに至った。
二、三ヵ月でやむとの識者(例えばキッチナー元帥)の予想を裏切って、戦いは前後四ヵ年余に亘り、これが世界の風潮を一変せしめたことは著大である。その最も目覚しいのはデモクラシー思想の地球全面風靡で、イギリス戦時首相ロイド・ジョージは、『タイムズ』をはじめとして有力な通俗諸新聞から諸雑誌の発行者なるノースクリッフの全面的協力を得、この大戦を、ドイツの専制主義・軍国主義に対する連合軍の民主主義・平和主義の戦いとする宣伝を洋の東西、極の南北にまで撒き散らし、遂にカイゼルをして、ドイツはイギリスの宣伝戦に負けたと兜を脱がせるに至った。事が収まってみれば実際はその宣伝通りではなかったが、しかしこれに依って民主主義が国権主義を圧倒する風潮が、世界の隅々にまで浸透した。
我が国もその例外でなく、初めは政府の弾圧を警戒して、民主の語を憚って旗幟を掲げた吉野(作造)民本主義が天下を鼓舞したが、我が学苑では浮田和民と安部磯雄とが、それに先んじて久しくこれを唱え、新鋭の大山郁夫、北沢新次郎らがこれに呼応して起ち、議会ではまた永井柳太郎の初当選の処女演説で、「西にレーニンあり、東に原首相あり」の意表の一呼が、ここにも新時代の曙光がさしたと、諸新聞を歎賞せしめた。
変化は恐らく最も敏感に経済方面に現れ、議会では犬養・尾崎の雄弁時代が去って、浜口雄幸、若槻礼次郎、小川郷太郎らの、数字を挙げての緻密の論が多く傾聴され、強く重んぜられるように変って行った。経済学界では、従来の学者の、西洋経済理論を紹介し、西洋の書に引用せられている事例や統計でなければ重んじられなかったような風潮に、特に駁撃を加えて、日本の事実と統計による議論を立てて、事大主義学風を慴怖せしめるのに、最も目覚しい存在だったのは、我が学苑の生み出した逸材、『東洋経済新報』の記者高橋亀吉であった。その活躍は緋縅の若武者の如く鮮やかで、経済学界の大勢、彼の隻手によって一大転回したと評する者さえあった。
この経済学界の風は、同時に、史学界殊に近代史・現代史の取扱いに大いなる変化をもたらし、諸新聞雑誌その他一般世間を注目せしめた。文化全面、旧来にない急激な速度を以て、それぞれにその影響を蒙らぬはなく、特に近代史・現代史には、掩える物を剝いで、白日の下に全姿をさらけ出すほどの大変化があった。
明治この方、史を論ずる者を最も歎かせたのは、天皇・皇族に関する真相、および、これを擁して権威を振う制度・組織に対して、破邪はおろか顕正の筆を揮う自由の全くなかったことである。正確なる事実を記録することを最初の任とする歴史学が、使命を束縛、掣肘せらるること、これより甚だしきはない。この矛盾を世に最初に呈示したのは、久米邦武の「神道は祭天の古俗」という日清戦争以前の論文で、これ神道を冒瀆するものなりとして、神道敬重派の激怒を買い、帝国大学教授の地位を逐われ、博士号まで取り上げられようとしたが、僅かに竹馬の学友大隈重信に救われ、後述(七三八頁)の如く、早稲田大学に迎えられて庇護せられた。
更に顕明に、日本史学にこの致命的欠陥のあるのを暴露したのは、本学出身の朝河貫一と帝大教授黒板勝美との論争であった。朝河貫一は本学文学科第三回生の首席、すぐ抜擢を蒙ってダートマス大学へ留学した。そしてダートマスからエールへの国内留学の選を受け、明治三十五年(一九〇二)二十八歳で学位を得たが、翌年出版された学位論文The Early Institutional Life of Japan, a Study in the Reform of 645 A.D.は、今日なおしばしば蒸し返される大化の改新に初めてメスを入れて学問的に究明したもので、勅撰史なる『日本書紀』は皇室を荘厳化する政治的意図の加わったもので、そのままには受け入れ難いとし、自由な立場から、事実に基づいて大化の改新の歴史的意味をさぐろうと努め、改新に至るまでの日本古代の政治・経済・社会・法律の実相と変遷を明らかにした。実に津田左右吉、坂本太郎両碩学の大化の改新の研究に先んずること三十年に、発表せられたのである。
エール大学でもその篤学ぶりに注目し、日本人として初めてのアメリヵ大学講師として迎えられ、「日本文明史」と「東洋近代史」を担当したが、日露戦争後は、日本および世界の封建制度に研究範囲を定め、続々として研究結果を発表したのに対し、東京帝国大学の有名教授黒板勝美が、私立学校出の未だ黄口の乳臭癖の脱けぬ青年学者が、資料の乏しいアメリカで日本史の研究を発表したとて、何程のことができようかと、その浅薄不備を冷嘲したことが聞え、はるばる『史学雑誌』に駁論を寄せ、自分の論文を殆ど読まずに批評した非学者的態度を難詰し、海外においてはたとえ資料の量は少くても、「研究の自由」があり、独自の放胆な長所を持つことを明らかにして、これが今更のように、我が学界に思わぬ致命的な究学の障碍があることを、痛切に実覚させた。
今一つ、維新功藩の薩長の元老が相次いで死亡し、ここにまた維新前後の明治史に課せられていた幾多の禁断が解けることになった。殊に長州系の大長老山県有朋の「目の玉の黒いうち」は、苟も自藩および自分に都合の悪い記述は許されず、異る見解にも干渉が行われた。ちょうど明治の末年には、横浜市が井伊大老の銅像を立てたことに反対し、彼を開国貢献者の一人と書いた小学国定教科書の中から、その記述を削除せしめたこともあった。大正になって徳富猪一郎(蘇峰)の『近世日本国民史』に対しても、会津藩に手を回して資料の自由なる閲覧に干渉したという噂が高かった。更に晩年、久邇宮家良子女王が皇太子妃として入内さるるのを阻止せんとの不逞を敢えてした。その母が薩摩の島津家の出なので、これによって自分が宮廷に築いた長州勢力が大打撃を蒙る恐れのあるのを慮ってのことであった。事は直ちに「宮中某重大事件」の名称を付せられて、巷間に漏れ、輿論の力はその陰謀を挫折粉砕せしめ、ここにさしもの天下第一の権臣も、蕭条落莫たる死を遂げると、塞き止められた潮水が一時に堤を決壊して奔流するの姿を直ちに呈して、今まで久しく埋没し、隠匿された歴史の諸秘密に続々として研究の鋤犁が打ち込まれた。一時的な催しであったが中外の注目を惹いたのは、大隈の遺業の一つ「文明協会」が、関東大震災の翌年(大正十三年十二月七日)開いた「明治文化発祥記念会」で、朝野の遺老、内外の名士を招いて講演会・展覧会を催して、大いにこの機運を盛り上げて、天皇からも賛助の下賜金があり、その式典にはフランスのクローデル大使やアメリカのバンクロフト大使など、今世紀中葉の世界的名士の懐しい顔が見えている。また同年、東京帝国大学の吉野作造、明治大学の尾佐竹猛、故実家石井研堂、宮武外骨などの主唱で、「明治文化研究会」が発足し、我が大学からも木村毅、柳田泉などが少壮組として参加し、ここに諸派有志合同で明治歴史にトロール網式な材料捜しが始まったので、自然、多年の謎の十四年の政変も地下の埋蔵物では済まなくなった。
先ず除幕の功を挙げたのは慶応義塾で、早稲田大学がこれに呼応し、昭和七年までには大体の史料公開が成果を挙げ、史家はこれを歓迎して左の如く言った。
その十四年の政変はといへば、明治史上の重大なる事件であるにも拘はらず、近年に至る迄、その真相が明瞭を欠き、甚しきは前後顚倒した誤謬さへ伝はつて真事実と信ぜられて居つたのである。これには、此事件の中心人物と目された大隈重信と福沢諭吉との両方面より研究せなくてはならぬが、これも学界の進歩は有難いもので、大隈家側からは、渡辺幾治郎氏の『文書より観たる大隈重信侯』の一節に「明治十四年政変の真相」が掲げられ、また『季刊明治文化研究』第二輯にも、同氏の「明治十四年政変に就いて」が載せられ、福沢家側よりは、『福沢諭吉伝』第三巻第三十三編に「明治十四年の政変」が出て福沢先生が、自らその顚末を書し筐底に蔵せられてあつた明治辛巳紀事が、始めて公にせられ、これは『続福沢全集』第七巻にも掲げられてある。それから、また小泉塾長の『師、友、書籍』中の「福沢諭吉伝」及び高橋誠一郎氏の『福沢先生伝』にも、いづれも論究せられて全貌が明白となつた。これ等に依れば、あの常識を失したと思はれる程馬鹿々々しき騒ぎをなした政変の基は、福沢に関する限りに於ては事実無根のデマであることは明瞭となつたのである。結局は、薩長出身の参議が聯合して、大隈重信を排斥の辞柄として一場の喜劇を演じたことに帰するのであるが、あの騒ぎの最中には、薩長連と別に、この際に、薩長を押へねばならぬといふ宮廷内の一派の運動に付ては、従来余り知られなかつたが、これも、当時一等侍補から元老院副議長となり、君徳培養運動に専念しつつあつた佐佐木高行の史料が公にせられ、一部は『明治聖上と臣高行』に掲げられてある。 (尾佐竹猛『明治政治史点描』 一四四頁)
慶応義塾は、『福沢諭吉伝』と『慶応義塾七十五年史』の編纂着手に当り、指示を尾佐竹猛に乞いに行くと、この際「明治十四年政変の真相」を徹底的に洗えと注意されたが、そんな言葉は初耳だったとは、この時の当局者の話である。帰塾して仔細に点検してみると、その材料は足許に転がっていた。燈台もと闇しでつい不注意に見過ごして来たものの、『福翁自伝』にはちゃんと次のような記述が見出される。
明治十四年の頃、日本の政治社会に大騒動が起て、私の身にも大笑ひな珍事が出来ました。明治十三年の冬、時の執政大隈、伊藤、井上の三人から私方に何か申して参つて、或る処に面会して見ると、何か公報のやうな官報のやうな新聞紙を起すから私に担任して呉れろと云ふ。一向趣意が分らぬから先づ御免と申して去ると、其後度々人の往復を重ねて話が濃くなり、とうとう仕舞に、政府はいよいよ国会を開く積りで其用意の為めに新聞紙も起す事であると秘密を明かしたから、是れは近頃面白い話だ、ソンナ事なら考へ直して新聞紙も引受けやうと凡そ約束は出来たが、マダ何時からと云ふ期日は定まらずに、其ままに年も明けて明治十四年と為り、十四年も春去秋来、頓と埒の明かぬ様子なれども、此方も左まで急ぐ事でないから打遣つて置く中に、何か政府中に議論が生じたと見え、以前至極同主義でありし隈伊井の三人が漸く不和になつて、其果ては大隈が辞職することになりました。扱大隈の辞職は左まで驚くに足らず、大臣の進退は毎度珍らしくもない事であるが、此辞職の一条が福沢にまで影響して来たのが大笑ひだ。当時の政府の騒ぎは中々一通りでない。政府が動けば政界の小輩も皆動揺して、随て又種々様々の風聞を製造する者も多い。其風聞の一、二を申せば、全体大隈と云ふは専横な男で、様々に事を企てる。其後には、福沢が居て謀主になつてる其上に、三菱の岩崎弥太郎が金主になつて既に三十万円の大金を出したさうだなんて、馬鹿な茶番狂言の筋書見たやうな事を触廻はして、ソレカラ大隈の辞職と共に政府の大方針が定まり、国会開設は明治二十三年と予約して色々の改革を施す中にも、従前の教育法を改めて所謂儒教主義を復活せしめ、文部省も一時妙な風になつて来て、其風が全国の隅々までも靡かして、十何年後の今日に至るまで政府の人も其始末に当惑して居るでせう。凡そ当時の政変は政府人の発狂とでも云ふやうな有様で、私は其後岩倉から度々呼びに来て、ソット裏の茶室のやうな処で面会、主人公は何かエライ心配な様子で、此度の一件は政府中、実に容易ならぬ動揺である。西南戦争の時にも随分苦労したが、今度の始末はソレヨリモ六かしいなんかんと話すのを聞けば、余程騒いだものと察しられる。実に馬鹿気たことで、政府は明治二十三年国会開設と国民に約束して、十年後には饗応すると云て案内状を出したやうなものだ。所が其十年の間に客人の気に入らぬ事ばかり仕向けて、人を捕へて牢に入れたり東京の外に逐出したり、マダ夫れでも足らずに、役人達はむかしの大名公卿の真似をして華族になつて、是れ見よがしに殻威張を遣つて居るから、天下の人はますます腹を立てて暴れ廻はる。何の事はない饗応の主人と客とマダ顔も合はせぬ先きに角突合ひになつて居るから可笑しい。十四年の真面目の事実は、私が詳に記して家に蔵めてあるけれども、今更ら人の忌がる事を公けにするでもなし黙つて居ますが、其とき私は寺島〔宗則〕と極く懇意だから何も蚊も話して聞かせて、「ドウダイ僕が今、口まめに饒舌つて廻はると政府の中に随分困る奴が出来るが」と云ふと、寺島も始めて聞て驚き、「成程さうだ、政治上の魂胆は随分穢いものとは云ひながら、是れはアンマリ酷い。少し振ぢくつて遣つても宜いぢやないか」と、態と勧めるやうな風であつたけれども、私は夫れ程に思はぬ。「御同前に年はモウ四十以上ではないか、先づ先づソンナ無益な殺生は罷にしやう」と云て、笑て分れたことがある。 (『福沢諭吉全集』第七巻 二四四―二四六頁)
この中に「十四年の真面目の事実は、私が詳に記して家に蔵めてある」というのは「明治辛巳紀事」と題して、久しく篋底にしまってあったのを、福沢伝の編者は福沢家から借り出し、その許しを乞うて全文のまま載せたのが、伝記第三巻の「明治辛巳紀事」で、これこそこの謎を解く基本的鍵を提供したものである。福沢はこの手記を作ると、これに謬ちがあるかどうかを確かにするため、手回しよく且つ抜け目なく、稿本を伊藤・井上に送って一閲を乞うたところ、脛に傷持つこと深い伊藤は返事を寄こさず、親交の時期は大隈よりも前からの井上は黙ってもおられず、「一件のヒストリー御綴被成御附与一読仕候。大略は右の通り。併し第一の主眼とする処漸進を以て設立と云ふ事は申上置候事と存候。」(『福沢諭吉伝』第三巻八四頁)と返事を寄こして、否応の言えぬ一札を取られているのだ。
戦後になると、明治十四年政変の研究は、岩倉―伊藤―井上馨ラインの陰の立役者たる井上毅の憲法意見書や書簡等を含む井上文書、時の警視総監樺山資紀の日記や官憲の諜報等を収めた樺山文書、或いは当時の諸新聞に窺われる輿論の分析などを通じて、大いに進展した。こうした研究成果を踏まえた上で、福沢の手記を中心として、同じ渦中の大隈家の文書、大隈にも薩長にも快からぬ感情を抱いていた佐佐木高行の談になる『明治聖上と臣高行』、その他を参考按配して、この事件の輪郭を組み立ててみると、大体次のようになる。
自由民権運動の猖獗とともに、政府部内でも憂慮してこれを捨ておけずとしたのは、武士あがりの参議でなく、公卿出の大臣二人であった。イニシアティヴを執ったのは有栖川宮左大臣ともいい、また岩倉右大臣の方だったともいう。有栖川宮は明治九年天皇から詔を受け、アルフィアス・トッドの『イギリス議会政治論』を参考書に授けられて「汝等之カ草案ヲ起創シ以テ聞セヨ」と言われた当人で、元老院に命じてそれを起草せしめたことのある経歴から、これを思いつくのもなるほどと合点できるが、岩倉はロシアの専制主義でも最強最大国たり得ているを信条としている人だから、そういうことを発言するには不似合に見える。しかしマキャヴェリズムの権化ゆえ、時代の動きを見てどう変らぬとも限らず、二人のどちらとすべきか、決め手はない。
ただ二人が、この際諸参議から国憲制定に関する意見書を提出せしめようということで意見が一致したのは明治十二年のことで、その十二月には第一着に山県有朋の建言が出た。これまた意外と言えば意外で、山県も後にはロシアの政治の神秘崇厳の風を我が宮廷にも移すことを終生の念願とした反動家だから、その素早い手際は驚くの外ない。しかし山県の前半生は、奇兵隊の経験から徴兵制を布いて、国防を特権階級の士族から奪って国民化した民主傾向の先駆者で、殊にその翌年の板垣の岐阜遭難の際は、元の参議だから天皇の慰問使差遣相成るべしと主唱した例があり、時によって進歩的傾向も絶無とは言えず、そのくらいな建言はしたろうという見方もできる。既にある府県会議員の中から徳識ある者を簡抜する「特撰議会」を設けて、暫験するもまた遅しとせずという論旨である(『岩倉公実記』下巻六五六―六六四頁)。西周を帷幕に用いていたので、その案に依ったのかもしれない。年が明けて十三年二月には黒田清隆の建議が出た。彼は二世西郷として薩摩の輿望を担った権力者、長州などの後塵を拝しておられるかという気負いもあったろう。「国会以テ今日ニ施行ス可キカ、曰ク不可、時機尚早シトス。」(『岩倉公実記』下巻六六五頁)と明快だ。参議中の長老である寺島宗則(薩)らは、意見なしとして建言を差し控えた。六月には山田顕義の建議が出ている。我が国は古来、人民の政権に参する者無し、と高飛車に断じ去り、「四五年間ハ元老院ト地方官会議トヲ以テ之ヲ試ミ、其実跡ニ就テ可否ヲ考究シ然後憲法ヲ確定シ、特命ヲ以テ之ヲ布告スベシ。」(同書同巻六六九頁)という。彼は年少にして穎脱、ナポレオン流の天才を自負し、元来軍人で西南戦争には長州では独り彼の活躍が目覚しかった軍歴があるのに、日本では今後兵を用いる機会はあるまいとして、陸軍を見切り、それは山県のような鈍物に任せておけばよいことだと豪語して、自らはナポレオン法典に倣うて、その編纂に志を換えたものの、憲法には最も冷淡に見える。四番目には井上馨が七月、岩倉右府あてに建議した。条約改正の衝に当って、日本は民法ができておらず、裁判が不安だから対等条約はできぬと言われて、頭を抱えている井上は、先ず民法を完成し、法律上の安全を定めて後、之に次ぎ憲法を布告すべしとし、「世ノ議者或ハ云フ、先ヅ国会ヲ起シ之ニ拠テ以テ憲法ヲ制シ、民法ヲ議スベシト。僕大ニ其説ノ迂ナルヲ見ル。」(同書同巻六七七-六七八頁)と言っている。十二月十四日には伊藤博文が建議した。それは大略次のように言う。「其謀大凡二あり、一に曰く、元老院を更張し、議官を広く士族に選ぶべし、今天下の人物品流を概観するに、其国事を担当して、文明の率先たるに堪ふるもの、士族に望まざることを得ず。則ち斯の士族を栄用して、其報効の力を収め、永遠王宮の輔翼たらしめん。二に曰く、公選検査官を設くべし。是れ府県会議員の中に採り、以て財政を公議するの漸を開く者、亦立憲の初歩となすべし。」(同書同巻六八一―六八六頁参照)と。これは大隈にも示してその同意を得たものというが、士族のみ対象とし上院議員の設置だけ認めたもので、まるで憲法の体をなしていない。大隈が見たとしても、伊藤はまだこの程度なのかと、内心に憫笑したに過ぎなかったろう。
しかるに、太政官の新知識を以て任ずるこの大隈、伊藤、井上の三人は、閣内における三人の既得の指導的地位をいよいよ確固たらしめるためか、しきりに会合した跡があり、そして新聞を作ることを思いついた。日本は民度が低い、よろしく新聞紙を発行して啓蒙機関に当てる必要がある。その新聞発行を頼むのは最大の民間教育家たる福沢諭吉が適任で、『通俗国権論』『民情一新』を著し、慶応派の機関紙の観を呈する『郵便報知新聞』には、「国会論」などを発表して、国憲施行には大いに積極的である。この人に憲政宣伝のための新聞を経営させたら、説得力も広大だし、世間の信用も厚いという点で、三人は期せずして一致した。
たまたま塾出身の俊才中上川彦次郎が外務省に務めて、井上馨の下にいるので、中上川を介しサウンドしてみると、政府嫌いの福沢が断然拒否するというのでもなく、ともかく一応、三人と会ってみようということになり、場所は雉子橋の大隈邸と決めて、出かけたのが十二月二十四日か二十五日のことである。座には早く主人の他に伊藤・井上が待っていたから、いよいよ今度のことはこの三参議の合意の上なのだなと福沢には推察がついた。話を切出したのは先ず井上で、長々と前置きを述べた後、「憂は民間の学者も在朝の官吏も共に与にする所なれば、……今回政府に企る所の新聞紙は云々の趣向なれば之を引き受けよ。」と言って、その企案の大綱を述べ、大隈・伊藤も傍らから口添えして「コノ席にて応否の返答あれかし」と、しきりに促したものの、福沢は決答は保留して辞去した。その後、大隈と井上は人を以て返事を催促するので、年が明けて明治十四年一月井上の宅を訪れた。そして勿論断ると、井上は「然ば則ち打明け申さん。政府は国会を開く意なり。」と言って、「五箇條之御誓文」以来の経過を述べ、「何時までも此閥を存す可きに非ず。若しも強ひて之を存せんとすれば、遂には政府の交代に銃剣を要するの場合に陥るも計る可からず。最も歎かはしき次第なれば、此度我輩に於て国会開設と意を決したる上は、……何卒この主義を以て此度の新聞紙も論を立て公明正大に筆を揮ひたきものなり。」と言うので、福沢は国会開設という意外の吉報に「実は驚駭したる程の事にて」その英断と美挙に双手を挙げて思わず賛成の意を表した(『福沢諭吉伝』第三巻七一―七三頁)。
老生は、始終君〔井上〕の言を聞て感に堪へず、是までの御決心とは露知らざりし。斯くては明治政府の幸福、我日本国も万万歳なり。……即座に新聞紙発兌の事を諾し、其跡は雑談に亘り、仮に国会開設後の有様を想像して、政党は斯く分るるならん、其人物は誰れ彼れならん。若し其党が政府を得たらば、誰れが外務卿たらん、彼が内務卿たらん。若し然るときは井上君は即ち一時落路の人なるぞ。其時には君は一個の国会議員にして議場に罷出で、外国交際の事に付き、前きの外務卿たる本員に於ては云々の見込などと述立る歟。扱々面白き事ならん。諭吉は兼て御存知の通り政治に念なし、此時こそ遠方より活劇を見物致さんなどと、両人対話歓を尽して告別。 (同書同巻 七四―七五頁)
しかしこの時の井上の話は楽観的に終始したのではなく、声をひそめて、実はこの仕事のできるのは自分ら三人(大隈、伊藤、井上)だけで、鹿児島出の参議はデクの坊の如く、それでいて自分の利害に係わるとなると、頑然として巨岩の如く動かない、国会開設など、ある参議は三十年後でいいと言い、別の参議は百年後のことと言っている。
だが結局、自分らの手で説得してみせる――
都て此度の事は伊藤大隈二氏と謀りて固く契約したるものなれば万々動く可きに非ず。斯く大事を打明けて申すからには、三参議は決して福沢を売らず、福沢も亦三氏を欺く可からず。全く徳義上の約束にして証書を認めたるよりも堅固なり。若しも是れに疑念あらば大隈に面会して之を叩け。益々其実を証するに足る可し。余は生来斯る大事に就て違約など致したることなし云々と。 (同書同巻 七四頁)
元来、福沢は、大隈より先に井上を知り、この時点では大隈以上に懇意であった。その人から、こう腹心を明かされては、福徳円満の彼としては言うまでもなく、たとえ鬼神の鋭き知恵を持った者でも、信ぜざるを得ないだろう。
いよいよ一月の十七、八日頃、井上はわざわざ福沢を尋ねて来て、明後日ロシアの軍艦に便乗して熱海へ行き、伊藤・大隈と三人水入らずの話をするのだが、過日の約束、間違いないことを二人に話してよいなと念を押す。福沢は勿論異議なしと返事し、その後に福沢が一問題を提起して、曰くとして付記していることは、この事変の是非を批判する重大な鍵鑰である。
目今は大伊井三君漆膠の交の如くに見ゆれども、権を争ふと申すは人類に免かれざるの常情、若し今後一日国会開設の其時に誰れか首相の地位に昇りたるときに、俗に所謂役不足などの意味は有之まじくや、随分掛念なり。其辺に就て三君の御間柄如何と尋たるに、井上君笑て云く、気遣ひあるな福沢君。我輩三名は既に已に誓て事を謀る者なるぞ。徹頭徹尾三名の間に苦情の起る可き気遣ひなし。其誓の固きは既に斯くまでと申すは、経済の一点に付ては余は多年大隈と主義を殊にせり。依て過日両人差向に語て、此一点は双方の向ふ所を別にするものと覚悟を定め、強ひて相投ずるを勉めずして、他は都て同説同意、終始易変なかる可しとまで特に約束したる程の事なれば、我々三名の間に何として不和の生ず可きや。……実に磊落寛大の口気、これに加ふるに井上君又言葉を副て云く、此度新聞紙の事又これに関する様々の示談は、今後政府の参議中特に我輩三名を相手にして談じ呉れよ云々の言もあり、諭吉は益々三君の同一心たるを信じたり。 (同書同巻 七五―七六頁)
かくして井上が出かけて行ったこの時の熱海の三者会談は、史上有名な事実だが、しかしそれにしてはその会談について、何一つ記録はおろか、談話の片鱗も残っていないのが却って注目の集まる対象となる。三人の憲政開設に対する信念は白熱的にいよいよ高まり、且つ憲法の組織内容についても理解を深めたに違いない。
一月の中旬頃になって、井上がまた一人で来訪したので、福沢の方から、国会を開くと言っても、今から何ヵ年何ヵ月の後かと念を押したところ、
容易には出来ず、先づ三年さと答へたる其趣は、必ずしも三年三十六個月を計へたるに非ず。唯其用意の難きを表するものの如し。
>(同書同巻 七七―七八頁)
とある。これは確定でなくても、全く無意味ではない。仮にこの時から「三年」というのを計算してみると、明治十七年一月になる。後に蜂の巣をつついたように「意外の急進」として問題になる大隈上奏の「明治十六年実施」とは僅少の差なので、熱海会談ではそういうことが討議されたようにも推測せられる。後に大隈は、自分の上奏案は伊藤の考えと大同小異と言い、伊藤も承知のことだと言った根拠はここにあるだろう。記して識者の後考に俟つ。
天皇から徴された諸参議の国憲に関する意見書は、大体出揃った。これを御前会議を開いて討議することになったが、その前に、各参議あらかじめ協議し、できるだけ考えの疏通を計った方がいいとして、当然首席参議大隈がその主座を占めた。しかしその大隈はまだ意見書を差し出していない。有栖川宮左大臣からこれを督促されると、大隈は、御前会議の開かれる時、天皇の前で親しく上陳したい、文書では意が尽されないばかりか、外間に漏れる恐れがあると言ったのは、疎放にして胸に城府を設けぬ日頃の大隈に似ず珍しく用心深いが、これはどうしてであったか。しかし天皇にはそのお許しがなかった。そこで問題は、なぜ大隈が他参議とは異例の途を取って、直接上陳したいと言いだしたのか、その心事である。こういう疑念が大隈のこの時の進退全般に、何となくすっきりせぬ曇暈の気を帯びさせることは掩うべくもない。
大隈は勅命こばみ難く、三月になって意見書を有栖川宮に差し出し、「奏覧セザルノ前ニ於テ大臣、参議ニ示スコト勿レ。」(『岩倉公実記』下巻六九八頁)と頼んだ。既述の如く、『明治天皇紀』第五には、「或は謂ふ、太政大臣・右大臣以外に示さるることなかれと。」と割注の付記がある。有栖川宮はこれを承諾した。大隈が何故そういう警戒線を張ったのか、これがまた彼の行動に曇った印象を与えて、不利である。有栖川宮は一読して、その急進的なのに驚かされた。すなわち結論は、翌明治十五年に先ず選挙を行い、十六年に国会を開設すべしというのである。黙考の後、有栖川宮は大隈との約を破って、これを三条太政大臣と岩倉右大臣に示し、その後でこれを天皇に差し出した。ここで再考するに、『明治天皇紀』にある先の割注は、他のどの書にも見えない。岩倉はひそかに大隈を呼び、そのあまりに急進忽卒に過ぎることを非難すると、大隈は、例えば庭園を開くに、群集が押し寄せてからでは却って混雑して収拾し難くなる、それに先んじて混乱を起さぬ手を打つ方がよいと答えた。この意見は伊藤と食い違いはないかと念を押すと、「小異あるのみ」と言って、大綱に差はないと保証した(『岩倉公実記』下巻六九八-六九九頁)。蓋し大隈は拙速主義である。憲法の如き、発布し、実行に移して、不都合があったら、その時点で如何ようにも訂正できると思っている。それに熱海会議や、福沢との会談その他の会合で、お互いに腹の中は分っていると思ったのかもしれないが、意外にも、伊藤が反対して怒り出し、これが政府分裂の導火線になるだろうとは、疎放な大隈は思いそめもしていなかったであろう。
何れにしても、これは伊藤に示すことになったのである。『岩倉公実記』には、大隈と会見の状を三条に報告し、「大隈ガ意見書ヲ伊藤ニ示シ、其異同ヲ問ハバ如何。」と問い、三条は「善」としたので、これを伊藤に示したとある(下巻六九九頁)。異説には、伊藤は大隈が天皇に奏するのを聞き、太政大臣にその一覧を乞うので、三条は十四年六月天皇の手許よりそれを借り出し、二十七日これを示すと、一読して、明後年を以て国会を開会せんとし、参議・諸省卿より宮内卿・大輔・少輔および君側の臣をも民選に委せんとするなど、全く君権を抛棄するの精神で、其の主義はかつて聞くところと大いに異っていると、そのあまりにも急進に過ぎるのに吃驚を禁じ得なかった。伊藤はただに熟読したのみでなく、自らその長文を筆記したものが複製せられて、今日も時々古書肆に見つかるのは、その本文を他日用いるところがあるための備えであったろう。
七月一日、書を三条に呈して、また「大隈の建白は、恐らくは其出処同氏一己の考案には有之間布様狐疑仕候。」と断じて、輿論沸騰の制すべからざる兆あるを訴え(『伊藤博文伝』中巻二〇六頁)、翌二日には岩倉に向い「大隈此節之建白熟読仕候処、実ニ意外之急進論ニテトテモ魯鈍之博文輩驥尾ニ随従候事ハ出来不申、且亦現今将来之大勢ヲ観察仕候主眼モ甚相違仕候。読歴史欧洲之沿革変故之迹ヲ想像スルモ、博文ガ管見ニテハ彼建白ニ載スル所ノ如ク成蹟ヲ容易ニ被得候モノトハ不存候。到底如斯ニ大体之眼目背馳候上ハ実ニ遺憾、且恐縮之至ニ御座候へ共、当官御免ヲ奉願候外幾回熟考仕候。」と言って辞官の申入れをなし(『岩倉公実記』下巻七〇〇頁)、参朝をやめてしまった。俗に言う拗ねたのである。
岩倉は大隈邸に到り、自ら質問した。卿はかつて憲法制定について伊藤と大差なしということであった。そこで卿の建言を伊藤に見せても、他日協議の際、益あることと思い、伊藤に示したところ、怫然色をなして怒り、辞職を申し出た。卿は伊藤と大政に参議すること年久しきに、今や俄然、意見を異にすることかくの如きは、どうしたことだと尋ねた。大隈は答えて、誰にも極秘にせらるることを求めたのだが、こうなった以上仕方がない、しかし予の意見は決して伊藤と大異はないと答えた。然らば、卿まさに伊藤に面晤し、親しくこれを弁護すべしと言い、事実、大隈は伊藤に会ってじかに話をして、伊藤の憤懣も解け、七月八日からまた例日の如く登庁し出した(『明治天皇紀』第五三一四―三一五頁)。
しかしこれは一時の弥縫糊塗で、これを機にこの莫逆の大親友の間にも、決定的にひびが入った。これを従来の史家は、建議文を伊藤は事前に大隈に示したのに、大隈は伊藤に示さず、まして他参議には諮らなかったのだから、大隈は伊藤を裏切ったもの、或いは大隈の陰謀と唱えているが、それは最も皮相な常識的な見解で、原因はもっと底深い藩閥の利害・消長から起っていることである。明治十年代には、藩閥打破の傾向が、多少の差はあれ、各藩に見られたのに、大久保死後また逆戻りして、藩閥意識が強くなってきた。そして薩長が連合して、大隈・伊藤・井上の新知識三羽烏の中から、もともと閥外の大隈を除外しようとする暗黙の謀計がいつの間にか熟しつつあった。殊に長州は木戸、大村、前原、広沢などの大先輩が死没し、鳥尾小弥太、三浦観樹などの中先輩は時勢から弾き出されると、年少伊藤とそれに付随する井上以外に、指導者として中心になる人物がなく、藩を背景に二人の勢力は増大して昔日の比でない。呑気坊の大隈はそれに気付かず、築地梁山泊以来、幾らか門弟視していた癖が脱けず、いつまでも二人は自分と同腹で、その言いなりになるものと楽観していた。殊に伊・井ともに西南戦争に示された薩摩の軍事的威力には恐怖を持ち、特にその隠然たる総帥は今や二世西郷として重きをなす黒田清隆で、酒落な、空竹を割ったような性格である一面、乱暴者で、酒乱で、一度調子をはずすと何をし出すか分らない。「御辺ごつ、大隈どんのケツば、いつまでも食いついちょると、薩摩鍛冶の切味を御賞味にお入れ申そか。」と鍔鳴りを聞かせそうで恐ろしくて堪らない。それに同じ長藩内でも小ナポレオン気取りの山田顕義は、大隈と伊藤・井上の離間策を講ずるに最も熱心であった。その上に宮廷に大隈嫌いの一群がいる。天皇の信任の最も厚い元田永孚は音に聞えた西洋嫌いで、その風潮を日本に取り入れようとする森有礼を仇の如く憎悪し、次いでは藩閥外の成上り者の大隈に反感を持った。元田と並んで、横井小楠門下の五郎十郎と言われた井上毅も、大隈に快からぬままに、いつの間にか伊藤の知謀となっている。いわば四面みな敵に包囲されながら、事の勃発して噴煙を上げるまで大隈はそれに全く気付かなかった。今や内部からその肉腫が潰えて、膿汁を吹く時が来たのだ。また大隈は三条太政大臣、特に有栖川宮左大臣、岩倉右大臣の三大臣みんなから、薩長藩閥抑えの要石として、陰に信任を受けているのに気をよくして来たが、この頃は、有栖川宮左大臣に召さるること最も多く、岩倉右大臣は素通りにする傾きがある。岩倉はこれを不快として、折あらば灸を据えてやろうと機を待っていたところもある。粗放疎漏の大隈は、こういう機微に配慮できる男でない。以上の如く、諸種の情勢が遠巻きに、大隈不利の情勢を作りつつあった矢先、決定的に大隈、伊藤離反の楔となったのは、この憲法問題でなくてはならない。三宅雪嶺はいみじくも道破している。
執れも明治七年の民撰議院設立建白及び十三年の国会開設願望に対して漸進主義なりとし、漸進の程度が人毎に違ひ、急進に近きより守旧に近きに至る。薩州は一般に口よりも腕を重んじ、憲政問題に興味を感ぜず、国会を好みもせず、さりとて適当の案あらば賛成するをも厭はず。長州は法文を以て規定するを欲し、之を作るに苦心するの常にて、帝国の憲法を制定するの容易ならず、必ず幾歳月を要するを思ふ。肥前は突嗟の間に法文を案出するに長じ、誤謬は何時にても改むべく、準備に幾歳月を費やすを以て無用の次第とす。寄合所帯に紛争の起り、大隈が薩長に挾撃せられたる間、此の如き事情あり。
(『同時代史』第二巻 一二五頁)
思うにこれが、伊藤の癇にさわった主要点であろう。長州が憲法の条文作りを主張したのには木戸以来の伝統がある。木戸は、西郷・大久保に比べて人物も規模が小さく、維新三傑として一番見劣りがするのに、しかもよくその地位を保ち得たのは、憲法の成文化を人に先んじて唱えたその見識による。伊藤はそれを継承して、心ひそかに自分がその晴れの役を演じたいと期していたのに、大隈が自分を出し抜いて成案を提出した。それは伊藤自身の建言が、国の基本法の概念だに掴めず、不完全極まる雑文程度であったのに対し、大隈のは理路整然、その全容の整っていることで、到底比較にならない。これは偏頗の論でなく、後世、上奏書を比較評論する者の一致するところで、大隈の意見書が比較的最も完備していたこと、異論の余地がない。
大隈と伊藤とは憲法制定の競争者とすべく、大隈が比較的整備せる意見書を提出せしは、立憲政体に功を立つるが為めにし、伊藤が大いに憤り、職を賭して争ひしは、憲法制定の功を大隈に奪はるるを恐れての事にして、其の功名争ひは普通の常識にて解し難く、特に伊藤に於て甚だし。 (同書同巻 一五八頁)
伊藤が、三条から大隈の意見書を見せられて怒ったのは、自分は意見書を事前に見せたのに、大隈は秘して抜け駆け上奏をした不信義と、あまりに急進的にて「魯鈍之博文輩驥尾ニ随従」し得ぬこと、大隈の奏議の如きも決して一己の考案にあらざることの三つが主なる理由である。
なるほど、大隈の奏議は一己の考えではない。文字を書かぬ大隈が、純粋なる自己の意見を奏することなど不可能で、世間も朝廷もこれを期待する者はない。しかし陛下よりの下命は案を具することで、これは個人の案であろうと、衆庶の共案であろうと差支えなく、朝廷の求めるところは最善の案なので、伊藤の如く、大隈一己の考えでないのを批議するは全く理由にならない。
これが、福沢門下の逸材で当時大隈の知嚢であった矢野文雄の筆になったことは、大隈も矢野も共にこれを語り、或いは、小野梓が若干加筆したかとも言われている。矢野は大隈からアルフィアス・トッドの『イギリス議会政治論』を渡されて、研究すること年あり、殊に三田同人の会合所の交詢社で彼此論議したものが、「私擬憲法案」としてこの前後に発表された(明治十四年四月)。これは西周が徳川慶喜のため作った憲法私案以来、幾つもの試案が作られている中の最高に完備したものとの評を中外に得たが、大隈奏案は、この交詢社の「私擬憲法案」と大同小異なのは、後に暗躍者の大隈・福沢という虚偽の噂流布の材料となって、物議を醸すに至ることとなる。
奏議まで時間がかかり、他に比して提出期日が遅れたのは、或いは矢野の試案が熟するのを待っていたのではあるまいか。しかもそれを見ると、思いしに勝る立派なものである。伊藤の建議などは支離滅裂、寧ろ滑稽なほど稚拙である。これを事前に示せば、伊藤はこれを羨望して、提出に何か故障を言い出すこともあろうかと恐れ、有栖川宮に直奏の形を取ったのだとでも解しなければ、大隈のこの時の出所進退にも、説明のつかぬことが多い。
初めから不明朗の妖気を付帯して出発した諸参議の憲法上奏に、一層輪をかけて遂にこれを収拾できぬ混乱に陥れたのは、同時に発生した北海道開拓使官有物払下げ事件である。
北海道は明治二年から開拓使を設置したが、当時は僻遠というより寧ろ化外の地に近く見られ、開拓の仕事も熱心でなく、政府の投資は年四十万円前後であった。明治三年黒田清隆がその軽視すべからざるを建言し、次官(明治七年長官)として自らその実務に当ると、明治五年から一千万円投入、十年で一区切りの計画を立て、急に諸事業が活発となって、旧態を一新した。一例を挙げれば、女子留学生五名をアメリカに送って女子教育の道を拓き、札幌農学校を建設して、文部省直轄学校には見られぬまことに異例な清新の学風を興した。開墾・農耕・畜産から、醸造や海産物にまで仕事を拡め、ただに北海道ばかりでなく、広く全日本の農工促進に大いに役立った。小は明治天皇が賞味された日本で初めてのアイスクリームは北海道開拓使が試作したものであり、大はキャベツ、トマト、馬鈴薯などを全国に普及し、デヴォン種、短角種その他のイギリス原産種の牧牛を開始し、また例えば岡山県を果物王国にした桃も、北海道開拓使から苗木の分譲を受けて交配したのである。植民開拓の事業が一朝一夕に実績の著しきものがある筈なく、後に日清戦争後の台湾も砂糖主軸に経営が安定するには樺山、桂、乃木、児玉四代の総督の更迭を要し、また朝鮮は最後まで特に言うべきものがなかった。しかし開拓の経験のない当時の日本においては、この程度の成果では北海道の開拓も実績挙がらずとして、黒田開拓使長官もいささか持て余し気味だった。
この頃大阪では、五代友厚(薩)、藤田伝三郎(長)、その他の豪商が寄って関西貿易商会を企て、資本金五百万円を政府から借り出そうとして、『東京横浜毎日新聞』などの反対に遭い成功しなかったが、たまたま北海道開拓使の第一期計画が満期になるので、これが払下げを受けて北海道物産売買の権を一手に掌握しようとする野心を起した。政府では翌十五年を以て開拓使を廃止し、新たに県を置く予定を立て、参議寺島宗則(薩)をして黒田に伝えさせると、黒田は事前に自分に何の相談もなかったことを頗る不快としたが、払下げには不賛成でなく、ただ北海道は農工とも大スケールだから開拓に経験ある者でなくては払下げられない、しかし大資本を要するから富豪の参加が必要であると、二条件を付して同意した。
北海道開拓使大書記官安田定則、同権大書記官折田平内、同金井信之、同鈴木大亮の四人は、五代らの財豪と謀り、自分達の名前を以て払下げを請け、関西貿易商会と一緒になって運営することを願い出ると、経験ならびに財力ともに備われりとして黒田は払下げを内諾し、これを七月二十一日付で、黒田長官から太政官へ伺い書を出した。黒田の案によると、北海道開拓使の仕事一切を三十八万七千余円で払下げ、償還は三十ヵ年年賦、それも無利子というのである。ただよりも安いが、実は維新以来、このような笊で水を掬う式の処置は何度も執られて来たことで、こればかりが別に異例ではない。そこで太政官内では別に大した異論もなかったが、参議では大隈は初め別に異を唱えなかったものの、後に大いにこれを非とし、大臣では有栖川宮が難色を示した。
北海道開拓使が、明治二年から十三年度までに使った金は千四百九万六千八百四十二円八十三銭二厘である。そして払下げの主なものは工場・機械・建物一切を含めて、およそ次の通りであった。永代橋側物産取扱所、函館船場官有地、函館・敦賀・東京・大阪の蔵所、七重勧業試験所、根室と札幌の牧場、玄武丸・矯竜丸その他の汽船風帆船工作所、大野養蚕所、製紙所、麦酒製造所、葡萄園、葡萄酒製造所、諸鑵詰製造所、製毛所、製鋼所、ラッコ猟場等。
これに諸参議が別に異議を唱えなかったのは、或いは腹中では不満に思っても、黒田の背後に控える薩摩の軍力を恐れて口に出すのを憚った向きもあった。それに常に官僚の不正を憤る三田の福沢先生でさえ、天下慣行のことに過ぎず、これに反対を言えば今までのこと多くに溯って反対を議論せねばならぬと言って、あきらめ顔であったのだ。
しかし身いやしくも会計検査院の設立を推進し、政府にあって会計の主任を拝命している大隈としては、看過できない。ここに不思議なのは、これまで一心同体のトリオなる伊藤・井上がどうしてこれに目をつぶって一言も異議を言わなかったのか? 黒田の怒りを恐れるというのなら大隈も同じで、現にこの時から、大隈の了解者であった黒田は最も恐るべき敵に回った。薩長の協和を保つためだというなら、昨日まで共に藩閥打破を叫んで、福沢に一緒に新聞の発行まで頼んだ伊藤.井上もこれに同調すべきに、大隈の一人角力に任せたのは、どういうことだ。それどころか、その新聞については、福沢は費用をかけて準備に取り掛かり、若干、社員の人選も整えて、発行着手のおよその期日を再三に亘って問い合せても、急に音も沙汰もなく、勿論、来訪しても来ない。こちらから尋ねて聞くと曖味に言葉をにごすので、大隈と伊藤・井上の上に何らかの紛転が生じかかっているのではないかと、聡明な福沢の気付かぬ筈がない。つまりこの間に、伊藤・井上は元の藩閥に威嚇され、賺され、宥められて、大隈を見捨てて古巣の仲間に立ち戻ったのだ。この明治十四年五、六月以降の伊藤・井上の豹変には、何か裏面に重大な事情が潜むに違いないのだが、その経過を明瞭にする史料は何一つ出ておらぬ。
更に不可解極まるのは、この征韓論以来の政治的大震動――憲法奏議の悶着と北海道開拓使官有物払下げ事件との渦巻の真最中に、明治天皇の最も長期の巡幸が断行されていることである。普通に第三回東北・北海道巡幸と呼ばれているが、前二回の時、山形のみは道路が瞼悪なので忌避され、今度はそれが整ったので、全国いずこの地へも、偏頗のないように鳳輦を巡らさるるとの主旨から、山形が主で、ついでに東北.北海道をも巡回さるることとなったので、正しくは「山形行幸」と呼ばれるのだそうである。
それにしても、たとえ初めから予定があったにしろ、時局がら日延べになるべきであり、どうしても出かけねばならぬ事情があったとしたら山形往復だけでよいのに、わざわざ日数のかかる予定を組んだかの如く、東北・北海道を巡るのに、実に二ヵ月半も政務から離れることになる。更にその供奉者を見ると、有栖川宮、北白川宮はいいとして、参議の中に問題渦中の大隈重信と黒田清隆が共に加えられているのは、当時から「一奇観」と言われた。そして長州参議が四人もいるのだから、いつもなら振合上、一人は当然加わるべき筈なのに、それが漏れている。従来この点への疑問が挾まれていないが、長州系およびこれに同調する策士が、大隈追出しの陰謀を熟成させる時間稼ぎに、この長期第一の巡幸を画策したのではないかという想像がつく。不思議なことに、この間の留守中の政局事情を解明する文書的資料が非常に乏しい。諸家の記録を集めたモザイク的産物の『明治天皇紀』にさえ見えないぐらいだから、わざと抹殺したのではなかろうか。
表面に反対を唱える勇気はなかったが、内心ではみんな、北海道開拓使官有物の払下げは快く思わなかった。殊に三条太政大臣も岩倉右大臣も口にこそ出さね、同意しかねている様子が見える。しかし黒田はこれが正しいことと確信している。多難なあの島の開拓は、こうして継続の策を講じなかったら、中絶してしまうと見越して、主張は一歩も譲らない。とうとう天皇旅立ちの日まで決着がつかず、七月三十日には、発輦、午後二時に第一の行在所なる草加の大川弥惣右衛門の家に入御になってから、この旅先への門出において北海道開拓使官有物払下げの許可がおりている。『明治天皇紀』によると、大隈、有栖川宮の不賛成はあったが、
然れども閣議之を許可することに決し、予め聖意の在る所を候す。天皇其の計画の前途を深く慮らせられ、果して確実なる成算あるかを垂問したまふ。清隆、聖慮を煩はしたてまつる事なき旨を奉答す。尚調査して奏聞すべきことを命じたまひしが、是の日太政大臣三条実美更に之れが聴許を奏請す。乃ち特に之れを聴したまふ。八月一日其の旨を開拓使に令す。
(第五 四二一頁)
とある。してみると、この審議は出発前までに太政官では決定できず、旅先に持ち越して、天皇の裁可を得ている。これは一刻を争う急問題でなく、旅が済んで還幸の後まで待ってから決定しても、一向に差支えない問題なのに、どうしてだか旅中で、つまり天皇に有無を言わせず、裁可をもぎ取ったような形に見える。この辺り、政治の螺子が狂っていることが分る。
この払下げの裁可は、旅先なれば分るまいと思って企んだことだったかもしれぬが、いつの間にか民間に漏れ、方方で不満の煙をぷすぷすと揚げている中に、さすがに大阪は関西貿易商会の地元だけあり、反応が早く且つ強く、大阪の戎座で藤田茂吉、鎌田栄吉、加藤政之助、鹿島秀麿らの主催の下に演説会を開くと、集まった大聴衆が皆深く感動した。それはすぐ東京の言論界にも飛火してきたのである。
その時の東都言論界の略図を作ると、『東京横浜毎日新聞』社長の沼間守一は別に嚶鳴社なる結社を作って、河津祐之、島田三郎、金子堅太郎などを有力社員とし、フランスの政論とベンサム流の実利論との両刀使いの急進派であった。『東京日日新聞』は、政府の御用を務め老実にして信用のあること小タイムズと言われ、福地源一郎(桜痴)が社長で保守派の牙城であった。『郵便報知新聞』は福沢門下の慶応派の堅寨で、イギリス流のslow but steadyの態度を執りながら新思潮に敏感で、進歩的態度は崩さなかった。『朝野新聞』は成島柳北、末広鉄腸らの漢学を基礎とした自由民権論で、これまた相当の同感者を持っていた。雑誌では『近事評論』や『扶桑雑誌』が、どちらかというと過激粗暴の論鋒で壮士の読者を喜ばせていた。
それが今までは、立論の目標がばらばらで方向の一致を欠いていたが、事ひとたび北海道開拓使官有物払下げの不都合を知ると、にわかに筆鋒を同じくしてこれに一斉攻撃を浴びせ、殊に八月二十五日の新富座の演説会(弁士福地源一郎、益田克徳、高梨哲四郎、肥塚竜、沼間守一)および九月二十四日の浅草井生村楼の演説会(弁士高梨哲四郎、丸山名政、志摩万次郎、堀口昇、田口卯吉、青木匡、福地源一郎)は、共に空前の大聴衆を集め、満堂は興奮し、感発し、熱狂した。これによって聴衆は、このような不都合が起るのも寡頭政治、藩閥政府の情実と勢力の致すところだから、どうしても国会開設の必要があるということを、理論的によりも、実感として感じた。日本に国民的輿論というものが発生したのは、これを最初とすると説く論者もある。かつて大隈がパークスと談論の際、昂然たる口調でそんなことは日本の輿論が許さないと言うと、パークスはすぐそれを捉えて、言論の自由のない日本のどこにどんな輿論があるというのかと追及し、こればかりは大隈も二の句が継げなかったという話を渋沢栄一が残しているが、それ故にここで新聞雑誌が初めて国民の総合的意向を代弁したと考えるのは、理由のないことではない。そしてこの払下げに反対したのは参議中、大隈が一人だったというので、人気は忽ち大隈に集まり、国民的英雄というは愚か、まさにタイタンに近い存在にふくれ上がった。大正の初め、憲政擁護運動が『国民新聞』を除く他新聞連合で巻き起って犬養・尾崎が憲政の神と称されて、祭り上げられたのに彷彿たるものがあった。薩長藩閥にとっては、まさに青天の霹靂とも言うべき突然的出来事に、狼狽し、錯愕し、仰天して、大隈に致命的なケチをつけて、この留守の間に、讒構を組み、これを没落させねば、今に世は大隈の天下になるだろうと心配した者は、他の何人よりも伊藤であったのだ。
大隈が屡々政治の改革に就て伊藤等と協議し、而して何故に国会開設の意見を左大臣有栖川宮に呈し、他に協議せざりしか、頗る不可解の次第にして、伊藤等が之を含み、大隈を放逐するに一致せること、凡夫の情とする外、均しく不可解なり。
(『同時代史』第二巻 一三七頁)
陰謀は「凡夫の情」から生れること、椎茸が種子木から一雨浴びて簇生するようなもので、あれ程どの新聞雑誌も大隈を持ち上げて騒ぐのは、きっと大隈が政府の機密を漏らしたに相違ない。これは不謹慎も甚だしい。大隈上奏の憲法案は三田派の交詢社案の「私擬憲法案」と酷似する。大隈、福沢は提携し、憲政問題で政局を壟断し、薩長の転覆、殱滅ひいては天朝への不諱も計りかねない。この陰謀のバックは三菱で、その費用は皆ここから出ている―等々々。為政者は為政者で、無際限に憶測を拡大し展開した。
毒気の噴湧する根元には、蟇がひそんでいる。大隈追い落しの筋書を書いた第一の発頭人は、稀代の策士、伊藤の黒幕の井上毅である。彼は敏才にして学あり、計画に富み、有能なること小野梓に匹敵し、小野が大隈の張良ならば、彼は伊藤の陳平である。
そしてこれらの陰謀者が大隈のために不利な画策をすれば、響の声に応ずるように、それにぴったりの情報をさぐって来て、これに裏づけする便利な諜者がいた。便佞にして権家の間を遊泳し、画策の巧妙よりも寧ろ辛辣毒悪なのは、そぞろにナポレオンの懐刀として奸策を擅にしたフーシェの小型なのを偲ばせる。彼は慶応義塾の卒業生で、福沢家の女中達に親愛され、しばしば同家に泊って行くほどの関係にあった。そして福沢・大隈と三菱の関係のまるで空なことを揑造して報告したが、当路者は福沢家の台所からさぐった情報としてこれを信用した。伊藤・井上の両参議から岩倉右大臣まで、その往復した書簡を見ると、それを材料に大隈の反逆(?)をあげつろうている。『明治天皇紀』の記事にまで、彼の蒔いた虚報の影は浸透している。
福沢家ではこれに気付いて直ちに破門にし、その後も接近を乞うてきたのを断じて拒絶している。しかし『福翁自伝』では、さすがに彼をかばって、そのしたことには触れても、名前だけは伏せてある。長者の惻隠の情からであろう。しかしこのような憎むべき卑劣行為がいつまでも掩えるものではない。彼の名は九鬼隆一である。摂州三田の藩士の生れで、慶応義塾を出ると明治六年(小野梓と前後して)ヨーロッパに留学し、帰国後、文部省や宮内省に奉職した。この秋いわゆる明治十四年の政変に、慶応派の役人は一人残らず政府を逐われたのに、不思議に彼のみ居残って、次第に栄達し、宮内省図書頭、枢密顧問官、帝室博物館長を歴任しているのだから摩詞不思議と言うの外はない。
天皇の行幸に供奉した大隈は、通信機関の未発達な時代ではあり、留守中にそんなことが起っているとは露知らず、奥州路を越えて北海道に入ったが、その間、八月の終り頃から、東京の不穏の状況は天皇の耳に達し、更に東京の諸新聞も送られてきて、その概略が分り、天皇には、これは「薩長が連合して大隈を排斥するのではないか」という漠然たる推察はついた。それを翻そうとしてか、東京還幸が迫ってくると、真偽取交ぜての情報は天皇の許のみか、大隈の身辺を憂うる同志からも飛び、まさに羽檄旁午の観を呈した。しかし天皇は最後まで、薩長一部の陰謀という印象を堅持せられていたことが、諸種の文献によって分る。
反大隈派の中心は、主として天皇側近の熊本・土佐派(何度も言う如く熊本の井上毅、元田永孚、土佐の佐佐木高行)で、それが黒田清隆(巡幸に供奉中だったが)、山田顕義と結びつき、大隈追放の網を、至らざる隙間なく張り巡らした。小才子の山田は、時局を避けて京都に静養中の岩倉のところへ、長州派の意向を携えて九月十八日自ら使し、大隈の意見を採用せらるれば、閣員一同辞職すべく、閣員の意見を採用せらるれば大隈の党与排斥せらるべしと、二者択一の難題を持ちかけ、伊藤と西郷従道も前後して岩倉を説き、大義の純不純よりも、実務への適不適を優先して考えるマキャヴェリ的政策実行の雄なる岩倉は、これまでの大隈を以て心ひそかに薩長の防壁としようとした計画の到底実行至難なるを見越して、日本政治の将来を、薩長藩閥の手にゆだねることが、最善ならざるも次善なるを観念し、大隈を犠牲にし、それを血祭りに上げて、薩長の軍門に降るより外に方法はないと腹を決めた。これを有力に裏書きするものに、伊藤から岩倉に送った左の十月八日付書簡が残っている。
退而勘考仕候処、到底国会論之局は早晩御結無之而は、明治政府之艱難無休時事は申上候迄も無之、且薩長中興補翼之功績も竟ニ水泡ニ帰シ候而已ならず、却而天下後世之為ニ禍害を残し候様ニ而は不相済……勿論期限之長短ニ至テハ一年二年之間、強テ争フベキ儀ニハ無御座候へ共、言テ却テ人心収攬之効無之様ニテハ、政策之得タル者ニ無之、先ヅ明治二十三年ニ御治定有之候ヘバ、緩急其宜ニ適スベキ歟ト奉存候。 (『岩倉公実記』下巻七六七―七六八頁)
結局この案が実行せられて、その後の明治の世局を左右することになるのだが、時勢を看るに敏なる臆病者伊藤よ! 汝は嘗て、長州諸先輩の重圧下にある時は、大隈の驥尾に付して藩閥打破を考えていたのに、今に至って「薩長中興補翼之功績」の維持を言い、また大隈の憲法奏上に対しては、急進にして魯鈍の身、到底随従し難しと言いながら、今に至って憲政の施行がなければ、明治政府の平安なしとは何事ぞ!
天皇還幸の二日前の十月九日、三条、伊藤、西郷、山田らが岩倉邸に会して、奉迎の順序と大隈追出しのクーデターの手筈を左の如く決めた。
一、千住駅ニ於テ車駕ヲ奉迎シ、行宮ニ於テ目下朝野ノ形態ヲ言上ノ事。
一、還幸ノ後三大臣直ニ談合シ諸事一決、奏聞宸断ヲ仰グ事。
一、大隈参議免黜処分順序ノ事。
一、国会開設勅諭ノ件ハ何年ヲ期シ断行スベキ事ト議決シ、宸断ヲ経テ直ニ宣布ノ事。
一、内閣及元老院章程改正、宸断ヲ経テ施行ノ事。
一、参議院設置如何ノ事。
一、開拓使官有物払下処分速ニ相定メ、公衆ヲシテ安堵セシムル事。 (『岩倉公実記』下巻 七七二―七七三頁)
如何に時局が切迫したればとて、寸刻を争うほどではない。しかるに、千住駅到着の時、行在所(付近の民家)にて朝野の形勢を言上することといい、二ヵ月半の長旅行の疲労も問題とせず、会議を強行して「大隈参議免黜処分」を決めることといい、今まで数年もめて、「時機尚早」の口実のもとに事実上否定してきた憲政施行という百年の大計を、この一挙に決めようとすることといい、これ堂に尋常一様のことであろうか。