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第二編 東京専門学校時代前期

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第十一章 創設当時の講師たち

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一 大隈英麿と小野梓

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 東京専門学校の初代校長となった大隈英麿は、もと南部英麿と言った。すなわち盛岡の旧藩主南部利剛の次男で、安政三年九月十一日、盛岡城内に生れた。幼名を剛健と言い、早くから書を読み、文を講じ、しばしば師父を驚かせ、神童の名があった。明治三年八月、十三歳の時、華頂宮博経親王に従って渡米した。親王は孝明天皇の甥に当り、一時剃髪して智恩院に入ったが、明治元年正月勅によって復帰し、華頂宮家を創設した。英資夙に勝れ、早くから海外事情を吸収せんとする望みを抱いていた。たまたま宮の夫人郁子は英麿の姉に当っていたから、親王の宿願を彼女から聞いていた英麿は、父を説き、親王に乞うて許しを得、これに随行したのであった。渡米後先ずニュー・ブランズウィック小学校に入り、更にニュー・ヘヴンの私立中学を経て、ダートマス大学に入学し、ヤング教授の下で天文学を研究した。のち同教授の転任に従ってプリンストン大学に移り、理学部に籍を置き、数学を専修した。十一年六月同大学を卒業し、バチェラー・オヴ・サイエンスの学位を得て同年十二月帰国した。大隈と養子縁組をしたのは、その翌年、英麿が二十二歳の時であった。

 ところで、佐賀藩の大隈家と、盛岡藩の南部家、九州と東北の両家が、如何なる縁故で結ばれるようになったのか、この間の消息を知るに足る記事が『原敬日記』に記されている。この記事は、時間的に二十有余年も経過した後のものであるが、原敬は周知の如く盛岡藩の家老職の出身であるから、この話は十分信用してよかろうと思う。今その要点を挙げてみると、次の通りである。

〔明治三十五年九月〕三十日……英麿米国より帰朝せし頃此縁談始まりたるが、北畠〔治房〕が撃剣の友たりし某、糊口の道なく大隈に頼み五十円斗りも貰ひ使用せられ居たるに、此者高平小五郎の父と懇意の者にて高平の処にも出入せしが、高平は米国にて英麿を世話したる関係あり、夫是れにて英麿を大隈家の養子となすの内相談はありたるものの如く、……遂に大隈より北畠に鑑定を頼まれ、高平の処にて英麿を見たるに、容貌は立派なるも無口故、あまり無口ならずやと尋ねたるに、高平の妻の云ふには夫は長く米国に在りて日本語に熟せずと、其後大隈妻〔綾子〕娘〔熊子〕同伴にて見合せしに、英麿米国風に婦人に対し敬礼も表したれば、大隈の妻娘は非常に気に入り遂に縁談を申込むに至れり。 (第二巻 二九頁)

 こうして南部英麿は大隈家に入って大隈英麿となって、内務省地理局(今の中央気象台)に入り、次いで外務省公信局に転じたが、明治十四年の政変で、養父重信とともに下野した。翌十五年十月東京専門学校創設に当り、推されて校長に就任し、他方理学科で教鞭をとり、代数学、幾何学、三角術、微分積分学、星学等を教え、傍ら英学科で得意の英語を教えた。これについて市島謙吉は『随筆早稲田』の中で、「英麿氏は初期の学生に英語や書取などを親しく教へられた。氏は温藉の人に似ず、教場では常に厳格で、発音やアクセントを正すことに仮借がなく採点も峻厳であつたと、教を受けた校友は語つてゐる。」(一二六頁)と記している。ところで大隈重信が最初に私塾を起す目的は、英麿が専修した理学を生かすためであったが、鷗渡会員と会談した結果は、政治法律を授ける専門学校の創立に変ってしまった。それでもなお且つ理学科を併置して、科学知識を普及するの具とした。しかるに世間はこれに対する関心を欠き、第一回に少数の応募者を得、十七年まで募集広告を出したことが知られるが、生徒少く、とうとうこの科を廃止するのやむなきに至った。時あたかも我が国高等教育の模索期で、学苑の規則の改廃もしきりに行われ、且つ財政上の危機に見舞われる等、学者の英麿にとっては処理し難く耐え難い問題が山積した。そのような時、仙台に新設された第二高等中学校の教諭として迎えられる話がまとまったのを寧ろ好機と考え、二十年八月、校長の地位を辞して、東北の地に赴任した。その後二十一年九月には東京高等商業学校教諭に任ぜられ、英語と理化学とを教えた。二十四年九月再び我が学苑に迎えられて英語を講じ、二十九年早稲田尋常中学校が創立されると、推されて校長に就任し、大いに中等教育の徹底普及に挺身したから、早稲田尋常中学校の名声は夙に上がり、都下有数の中等学校の一つとして世人の信望を得た。ところが三十五年九月に至り、何らかの理由で大隈家を去って南部家に復籍した。その原因について市島謙吉は、「其間の消息は爰に語る必要もなく亦語るを欲しない」(『随筆早稲田』一二六頁)と言い、事情を知りながら口外するのを憚っている。九月二十日付の『報知新聞』は、「不良の知人に欺かれて多額の債務を負ひ……之を弁償する能はざるの窮境に陥りたる」ためであるとし、『原敬日記』の三十五年九月三十日の項では、これを全面的に肯定し、なお詳細にそのいきさつを語っている。思うに世情にうとい上流の子息が奸人にうまく利用された結果、養家に禍を及ぼすことを恐れて、自ら養子縁組を辞退したものであろうが、市島の言う如く、とやかくこれを詮議立てする必要もなかろう。かくて南部家に復籍し郷里に戻った彼は、私立作人館中学校の校長となり、或いは高等農林、県立中学、私立家政女学校等に歴任し、不遇な晩年を過ごして四十三年五月十四日盛岡で不帰の客となった。しかし思いは絶えず我が学苑の上に馳せ、特に理学科再興のことを念願していたもののようで、四十一年理工科再建の報を耳にして非常に喜んだという。

 我が学苑の創設者が大隈重信であることは、何人も否むことができない。彼は東京専門学校の建設を発案し、その土地を提供し、資金を據出したからである。しかし学校の機構を作り、系統を定め、教員を選ぶ等、実質的な学校作りをした者は、小野梓その人であった。世に大隈を第一祖とし、小野を第二祖と呼ぶのもこのためである。

 小野梓は、維新の際尊王論の主導的な役割を務めた坂本竜馬、中岡慎太郎、後藤象次郎、谷干城らを輩出した土佐藩の出身であった。彼の前歴については、既に第三章、第四章、第八章に詳しいから、ここでは割愛するが、東京専門学校創立に関して閑却し得ない事項を述べてみよう。それには先ず十三年、会計検査院が設置されるや、抜擢されて検査官となり、多年研究蓄積していた財政に関する意見を建策する時を得たことから始まる。二ヵ年足らずの在官期間を通じて、小野は大隈に心服するに至ったが、他方、後年東京専門学校の原動力となった高田、天野らの少壮学徒とともに鷗渡会を作り、新世代から知識を吸収した。たまたま十四年の政変により大隈重信が下野したので、これに従って桂冠し、橋場の小野義真邸に身を寄せて、只管、時の来るのを待っていた。側の見る目では、墨堤に糸を垂れて魚を釣り、関屋の里の草原に小禽を捕えるなどをしている小野を見れば、悠々閑を楽しんでいるかの如く映じたろうが、そのうちにあってさえ瞬時も国政を忘れることがなかった。かくて小野が理想とした三事業すなわち政治・教育.出版の中、先ず政党の樹立が取り上げられ、十五年四月十六日立憲改進党の結党式が行われた。これと前後して計画されていた学校の建設は、「学問の独立」を標榜した大隈の援助の下に実現し、同年十月二十一日に東京専門学校が開校した。校長は前述の如く大隈英麿であったが、開校式の次第を見ても、英麿の開校の詞は文字にして僅かに二百字であるのに対し、小野の式辞は実に五千六百字に及び、その内容も前者は校是を述べるに止まっているのに比べ、後者は小野が抱く教育の理想を述べて余すところがない。議員として学苑運営の最高首脳部に名を列しているのは、鳩山和夫小野梓矢野文雄島田三郎の四名であるが、学校運営の実権を掌握していたのは小野であった。小野はその矮軀を引っ提げ、病弱の身に鞭打って、改進党掌事の要職にあって党務を処理するとともに、更に校務を鞅掌し、且つ正規の授業としての日本財政論のほかに、科外講義として国憲汎論を授けたのである。この時期に小野は、丹念に漢文で日記をつけており、その『留客斎日記』を繙いてみると、これらの講義案を毎日精力的に作成しているのが分る。彼は吟詩をよくしたが、また流麗な文章を以ても名声を得た。当時二大名文家として、朝に井上毅あり、野に小野梓ありと言われたほどで、金子堅太郎は、小野の四十年忌で彼の追憶を述べた一節に、「小野は雄弁といふよりも寧ろ能弁で、馬場〔辰猪〕は雄弁であつた。併しながら文章は小野に勝るものは一人もなかつた。我々が演説をすると、小野は所々を鉛筆で書き留めて置いて後になつて之でよいかと出すのである。それは却つて名文になつて、我々のまづい演説がこんな名文になるかと、我々を驚かせたのである。」(『早稲田学報』大正十五年七月発行第三七七号六六頁)と言っており、彼が名文家であったことを裏書きしている。

 ところで、小野の講義はどのようであったろうか。これについて市島謙吉は次のように語っている。

先生が東京専門学校の開校に引つづき国憲汎論や日本財政論などを講義された。講義であるから拍手喝采は禁物であるのだが、先生の雄弁は学生をして不知不識禁を犯して先生に叱られたことを思ひ起す。 (『文墨余談』 二五七頁)

これに対し小野の講義ぶりを更に詳しく紹介しているものに、広井一の思い出の記がある。広井は明治十八年の政治学科卒業で、後に『越佐毎日新聞』の主筆、次いで『北越新報』の社長になった人である。彼の記録は「私の在学した頃」と題し、その一項に「小野梓先生の講義」を設けて語っている。

私の東京専門学校へ入学した翌年、即ち明治十六年から小野梓先生が日本財政論の講義を受持たれた。先生は病身ながら学校には始終参られた。学校で昼飯など摂られた。何時も人力車の中でパンを噛ちりながら書見して登校せられた。講壇に立たるるや、雄弁滔々口を突いて出て、学生をして思はず快哉を叫ばしめられた。財政論と云ふても学理許りでなく、先生が会計検査院長として政府の枢機に参与し、日本財政の基礎を大隈侯を補佐して定めたお方丈けありて、実際政治に触れて其大綱を説き、政治を談ぜらるるので非常に有益に、極めて趣味多く感じた。私共と先生の講義を共に聞いた同級生は二十七八名あつたが、……先生は科外講義として在学生全体を講堂に集め、先生の大著国憲汎論を講義せられた。「大凡ソ天地間ノ物古今代ノ事止ムヲ得ザルトキハ必ラズ起ル矣。芳草ノ枯凋スルモ陽気ニ遇フトキハ則チソノ花ヲ発チ、緑樹ノ蔭森タルモ陰性ニ遭フトキハ則チ其葉ヲ落ス。糸竹ノ声ナキヤ人コレヲ弾ズレバ則チ其音ヲ発チ、金石ノ音ナキ人コレヲ撃テバ則チ其声ヲ発ス、夫ノ鳥禽ノ春郊ニ鳴ク、迅雷ノ夏天ニ轟ク、秋夜ノ鳴虫アル、冬暁ノ怒風アル、皆是レ止ムヲ得ズシテ起ルモノニシテ、固ヨリ偶然ニ出ヅルニアラザルナリ。」との冒頭より説き起して、次第に論歩を進め玉ふや思はず禁を破りてヒヤヒヤを絶叫し叱られた学生も多かつた。先生が勤王と立憲政治を結び付けて論断せらるる時などは、学生も泣き先生も泣くと云ふ実に非常なる感動を与へられた。先生が国憲汎論上中下三冊が出来上がつた時、如何に喜ばしかつたか、先生は講堂に多年心血を注ぎ漸く一握有余の此著書を出版することが出来たと満面喜悦の情溢れ之を学生に示された。

(『早稲田学報』昭和三年十一月発行第四〇五号 三九―四〇頁)

これと同工異曲な記事が、西村真次の『明治文化の開拓者小野梓』のうちにも見えている。

小野の学園に於ける講義は、日本財政論、国憲汎論の二科目であつた。其講義振りについて早期得業生たる森田卓爾は次ぎの如く語つてゐる。「先生は財政論を受持つて居られて、何科の学生でも随意に之を聴いてよいといふことで、尤も其頃は学校全体で僅に二百人足らずの生徒であつたが、殆ど挙つて聴きに出る。何故かといふに、小野先生の講義は丸で政談演説のやうだ。財政の原理などはそち除けで、盛んに政談をせられる。かういふ風にして、学生の気風を政治弁論に導かれたのは実に非常なものである。それで当時の専門学校は、明治や専修学校などより、法律は劣つて居つたかも知れぬが、政治経済は盛んである。設令法律科に籍を置くものでも、政治家を気取つてゐる。全校の生徒約二百人は、総て是れ年少気鋭の政治家であつた。其根元は外ではない、実に小野先生の亜流を汲んだのである。」これを以て観ても、小野の講義が全く独自のもので、いたく学生を牽きつけたことが分る。彼れのさうした吸引力は、実に彼れが自己を投げ出し、自身の為めではなく、国家社会の為めに人材を教育しようとした献身的努力、愛他的精神の所産であつた。 (一〇―一一頁)

ここに引用された森田卓爾は、明治十八年法律学科の卒業生で、後に広島弁護士会会長になった人であるが、この二例に共通した小野の風格は、一言にして言えば、真っ向から正義に取り組んだ熱血漢であったということである。

 小野の三十三回忌追悼法要が、大正七年三月十日に築地本願寺に開かれた時、来会者一同に配布されたパンフレット『小野梓』(早稲田大学仏教教友会編)の小伝には、

明治十七年(〔数え〕三十三歳)条約改正問題一世を騒がす。先生「非条約改正論」一篇を草して外務卿に出し給へりと云ふ。

而も先生の満腔の熱血は抑ゆること能はず、時に先生は病弱のため引籠中なりしが、直に床を蹴つて専門学校に到り、三百の生徒を講堂に呼集し非条約改正論の草稿を左手にし、右手にはコツプを以つて渇を医し、又卓を撃て沈痛悲壮の語を以て説き来る所誰人も覚へず暗涙を飲みしと云ふ。家に帰るや俄然喀血せらる。時に九月卅日なり。 (九頁)

とあり、これこそ如実に彼の風貌を語り尽しているものと言える。ただしこの時日については、『留客斎日記』の十七年七月十九日の条に、「到学校、演条約改正論。」とあり、吐血したのは、前記の通り九月三十日になっている。日記の記載よりも前掲の記述の方が迫力があるが、それにしても大隈が、「小野君はあのか弱い身体を持ちながら死ぬる迄積極的に働いた。胃が弱かつたので消化力を失ひ、為めに発熱しても気力は仲々熾んな人で、空想ではあつたかも知らぬが、早稲田大学で帝国を維持するといふ考であつて、具図具図騒ぐ奴は征伐するといふ確信を持つて一生の事業として学校の経営に従事したのである。この意味で小野君の死は帝国の為めに身を犠牲にした殉教者である。」(「殉教者としての小野梓君」、前掲『小野梓』一五頁)と歎賞したのも、強ちお世辞ではなかったのであった。

 小野は政治・教育の二事業と殆ど時期を同じうして第三の出版業を始めている。すなわち、四一三頁に一言した如く、我が学苑創業の翌十六年の春、神田小川町に東洋館書店なる書舗を設けたのがそれである。

 服部誠一が著した『東京新繁昌記』三編十八丁に、「文化之盛衰ハ、書肆之多少ヲ以テ之ヲ証ス可シ。方今書肆之数、追次繁殖シ、老舗ト称スル者大ハ凡ソ五百、其ノ子肆孫店ニ至ツテハ数フ可カラズ。洋書ヲ売ル者有リ、雑本ヲ売ル者有リ、新版ヲ発スル有リ、古籍ヲ鬻グ有リ。」と記しているが、この作が世に出た明治七年八月頃、既に洋書を販売する書店が銀座界隈に見受けられたようで、事実丸善の開祖横浜の早矢仕有的は、明治三年丸屋善七の名を以て日本橋に支店を開き洋書を販売していた。早矢仕は初め医学を志して福沢の門に入ったが、彼の勧めによって洋書販売業に転じたもので、小野とは彼の所へ使いをつかわしてその著『国憲汎論』の上梓を乞うような間柄であり、その福沢は東洋館書店開業前に二回ほど小野と大隈邸で会談を行っているから、恐らくこれについて適当なアドヴァイスをしたことであろう。

 さて小野がこの計画を最初に明かした人は義兄の桃斎こと小野義真で、それは十六年二月二十六日のことであった。『留客斎日記』によると、越えて三月四日には「遂訪雉橋老、話書店之事。」、八日には「訪雉橋老。決書店之条款。」、十八日には「訪雉橋老、決買肆店之議。」している。かくて四月十九日に小川町一番地に家屋を見つけ、二十八日には「開業之趣旨書」を、五月四日には「開業之詞」を書き、大隈と相談の上、店名を東洋館書店と名付けた。小野にとっては初めての商売だったせいもあったろうが、実にまめまめしく立ち回り、家屋の接収から開店に至るまで、連日東洋館に出勤している。しかも大隈邸、改進党事務所、東京専門学校を訪れた後か、この三者を訪れる合間かに、書店に顔を出しており、一日三度以上書店を訪れたのは十回を数えた。かくて八月一日開店の日を迎え、既に関係者に頒布しておいた広告通り、「広く政治、法律、哲学、歴史等の新著新訳を開板し、多く英、仏、独逸の原書を舶載し、廉直を以て之を鬻ぐ」業を起した。今、山田喜之助著『麟氏英国会社法』(明治十八年刊)末尾掲載の赤広告に依って、東洋館書店出版(予定)目録を拾い上げてみると次の通りである。

 東洋館書店が輸入した書籍がどのようなものであったかは不明であるが、開業の翌二日に小野が大隈に宛てて書いた手紙によると、

右仲間之者の争て買はんとするの有様、且つ書生需用之模様等にて、当時流行之学校用教科書之種類大略相分り、且つ今日売却之為め既に仕入品を売り尽さんとする者も御座候得者、明後日四日之船便を以而、多少学校用之書籍幷に独仏之書少々計注文仕度、右御含み置被下度候。 (西村真次小野梓伝』 二二七頁)

とあり、大体当時東京大学や、東京専門学校で採用されていた洋書の教科書を輸入したことが、これに依って推察がつく。

 このように小野は、晩年の五年間、政治・教育・出版に八面六臂の勇を振ったが、十八年の中期吐血してのち胃腸の疾患に悩み、加うるに胸部をも損ね、病床に親しむこと六ヵ月余り、遂に十九年一月十一日、行年三十三歳の壮年を以てその一生を終えた。東京専門学校がその緒についたばかりであり、東洋館書店を起して僅かに二年余、未だその業は未知数であったから、定めし心残りであったろうが、それにしても畢生の著書であった『国憲汎論』を生前に完成したことは、せめてもの慰めであったに違いなかろう。法号を願入院釈東洋大居士と言い、今東京下谷谷中墓地に眠る。なお昭和四十七年、学苑が創立九十周年を迎えるに当り、その記念事業の一つとして、梓の故郷、宿毛市東福寺山の一角に梓の墓を建立し、同年十月七日に除幕式を挙行した。

二 その他の講師群像

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 名実共に鷗渡会のリーダーであり、東京専門学校の筆頭講師であった高田早苗は、安政七年三月十四日(当編集所保管『幹部履歴』による)、清常、文の三男として、江戸深川伊予橋通りの幕臣吉田某所有の一屋に生れた。祖先の高田友清は、手賀沼の干拓や、利根川と荒川を結ぶ運河構築などに大功を立てた。六代目の小山田村から迎えられた養子与清は国学者として有名であり、その著『松尾筆記』は、芸能に関する参考書として洛陽の紙価を高めた名著である。後年早苗が一かどの芸通であったのも、この血を受けていたからであろう。父清常は貢平とも小太郎とも言ったが、維新前後の動乱の最中に家財を蕩尽し、さしもの名家もその日の生活にさえ困るようになった。早苗の幼年期は、このような貧しい生活に終始したが、さすがに江戸ッ子の気っぷの良さは、貧に対していささかも動じない大らかなものがあった。慶応二年数え七歳にして心正堂という私塾に入り手習いを教わった。その後下谷三味線堀の小室樵山の塾に通ったことがあったが、明治六年には神田の共立学校に入って英語を学んだ。彼が正式に勉学したのはこれが初めてで、後に、官立の東京外国語学校に移り、更に分れて東京英語学校ができた時、高田もこれに移籍している。九年同校を卒業して東京開成学校に入学。翌十年東京大学予備門の官費貸費生となった。彼がこの大学生生活を送っている時、前に第五章で述べたように、同級の橘槐二郎の父機郎が作った私学校、進文学社が休校しているのを、東京大学入学を志す学生のための予備校として再開し、高田は英語を教えることになった。今で言う学生アルバイトで、これによって費用の不足を補っていたのである。ところが彼の大学生生活は、こうした環境とは全く裏腹なものがあった。薄田貞敬著『高田半峰片影』には、「当時の大学生行状記」と題して次のような記事がある。

半峰は晩年、「何も欲しくない、何もいらない。ただ気の合つた道連れと方々遊び歩いて居たい。」と言つたとやら。少壮時から遊んで居る事の好きな人であつた。それで東京大学時代にも半峰は頗る不勉強な方で、正課は余りやらず、図書館へ行つては西洋小説を多く読んだ。そして卒業近くなつては、少々酒を飲む事も覚え、自分が先頭となつて、坪内、市島、山田一郎

石渡敏一などいふ仲間を誘ふて神保町の松月といふ天ぷら屋へ行き、飲み食ひつつ、或は文学論、政治論などを闘はして豪快をやつた。嚢中空しくなると、神保町の本屋へ各自の書物を質入れ又は売却して所謂軍費を作る。或る場合には、一ツ橋通りへ出る両側のパン屋、牛肉屋へ借金が出来て、其関門を通過するが容易でない為、すつぽり洋傘で顔を隠して通つた事もあつた。それが発覚して、大学の副総理として実際の指導監督者であつた処の浜尾新先生に呼ばれて訓戒を蒙つた。(七八頁)

 この遊びは後世、演劇協会の設立、美術院の創立、文芸普及運動、謡曲の復興等に活躍した素地を作ったものと言える。彼が市島、坪内などとともに白足袋党と言われ、柾下駄を履いて戯場に出入りし、団菊の芝居に心酔したのも、また卒業前既に坪内と共同でスコットのLady of the Lakeを『春窓綺話』という題名で訳出(明治十七年刊)し、英文学紹介の先鞭をつけたのも、この副業の賜であった。尤も十五年六月、市島らとともに、立憲改進党の綱領作成の参考にでもなればと、『主権論』を刊行しているような面も見落すべきではなかろう。ところで、進文学社の仕事に携わったことは、文学青年高田の将来を一変せしめた。すなわち橘の兄の友人小川為次郎との交わりが生じ、彼の紹介によって小野梓を知り、更に小野の紹介で大隈重信の知遇を得、遂に東京専門学校創設の衝に当ることになったからである。高田は後年、薄給にあえぎながらも、敢えて本学苑に職を奉じた当時の状況を、次の如く述懐している。

創立当時の講師の境遇と云ふものは何と言はうか……誠にどうも惨怛たるもので……東京大学では、吾々の連中が揃も揃て私立学校に従事し、多少政治にも関係する事を痛く心配されて、文部省あたりからは、私共に対して文部の官吏に為ては何ふかなどの話もあり、死なれた外山正一君あたりも切に勧めて呉れて、俸給なども其の当時にしては先づ優遇の方であつたが、此の方を断て東京専門学校へ従事することにした。が何分にも東京専門学校は資本も何もない学校であつたから、従て吾々講師の俸給なども極めて少い。始めは専務講師……私と天野は三十円で、其の外の代言人や新聞記者を兼ねてる砂川、岡山、山田(一郎)など云ふ連中は十五円と云ふ有様…それで三十円の専務講師は、週間少くとも授業が三十時間、一ケ月百二十時間を下らない。兼務の人々も矢張り相応な時間を持たされた。這んな風だから、銘々の手許も始終頗る不如意勝で…私なども学校創立以来五六年間と云ふものは、まるで衣物を新調した事は一度も無く、母の遺物の衣服ばかりを着て居て、これがほんとの母衣(ほろ)といふものだといつて笑つた位である。 (『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』 二九五頁)

 十五年七月、東京大学文学部を卒業して、文学士の学位を得るや、我が学苑創立当初の校規の起案、学生募集広告の創案、学科課程の編成や担任講師の配当などに参画し、開校の時は鷗渡会の同志とともに講師陣に加わり、自らは憲法史、外交学、貨幣論等を教授した。十九年小野が他界するや、代って学苑の中枢となり、この年の法科移転問題、学費値上げ等の危機を突破し、専門学校の基礎を固めた。二十一年『読売新聞』の招きに応じ、講師の座に坐りながら正式に主筆を兼務し、教育と操觚の両界で活躍した。越えて二十二年憲法発布に際し、同志とともに『憲法雑誌』を発行し、その主筆をも兼ねた。翌二十三年帝国議会開設の時には、埼玉県第二区から推されて衆議院議員になり、その後六回に亘って同議員に選出された。明治三十年外務省通商局長、翌三十一年文部省参与官に任ぜられ、専門学務局長を兼ねた。同三十三年学監に就任、東京専門学校の大学移行計画に専ら当った経緯は、次編で詳述する。

 高田とともに学苑設立の一翼を担った天野為之は、万延元年(安政六年説の淵源は七一四-七一五頁参照)十二月二十七日、父松庵、母鏡子の長男として、江戸唐津藩下屋敷に生れた。生家は代々藩医として小笠原侯に仕えていたから、幼少にして学問的薫陶を受けた。明治元年、維新の騒乱の最中に父の急逝に遇い、母および弟喜之助とともに故郷の唐津に翌年帰省した。唐津での生活は、僅かな俸禄で生計を立てていたから、相当苦しかったろうが、健気な母の勧めにより高橋是清の建てた英語学校に入学した。当時彼は十歳ばかりの少年であったが、藩が選出した優秀な同期生中にあって、既にその学才は頭角を現していた。しかるに明治四年に廃藩置県が実施されるや、藩知事小笠原長国は居を東京に移し、高橋もまた上京したので、英語学校も自然活気を失った。そこで母は彼を東京に送り出すことに決し、明治六年、彼が十二歳の時、上京して東京外国語学校に入学した。八年九月には更に東京開成学校に進み、次いで十一年には東京大学文学部に入り、十五年同学部を卒業して文学士の学位を受けた。在学中フェノロサから功利主義哲学の概念を授けられていたから、小川為次郎高田早苗の紹介で、小野に面接し、彼から実利主義すなわち功利主義の話を聞かされた時、大いに共感を覚えた。そのためであろうが、爾来鷗渡会の有力なメンバーとなり、小野の傘下に入った。政治・教育・出版の三事業を兼ね行うという小野の理想はまた天野の理想でもあったようだ。すなわち、天野は卒業後直ちに改進党に入り、同時に東京専門学校の講師となって教育に従い、また『内外政党事情』『朝野新聞』『読売新聞』『郵便報知新聞』等の記者となり、『東洋経済新聞』を経営した。しかし二十五年の衆議院議員選挙に敗れてからは、政界進出を断念し、専ら学苑の講師として教育事業に専念することとなったが、それは彼の天性がこれに適していたからであろう。

 ところで天野が最初学苑で担当した学科は何であったろうか。これについて彼自身は次のように言っている。

それから初めは何んでしたよ、高田君と私などで、殆んど専門が無くて、高田君は租税論、貨幣論をやる、憲法を教へる、公法をやる、私の方では政治、憲法、経済なぞを教へると言ふやうな訳でしたが、それが中途から分業して憲法は高田君がやる、私の方は経済をやるやうになりました。今では余り一方に偏し過ぎて不都合な程になつた。……初めの二年三年の間は何うも講義が旨く行きませぬでした。読んで書取をさせる方、即ち今よく行はれる方、それならば種は尽きぬなれど、私はあれが嫌ひ故、大要を筆記させるやうに初めからしましたから、毎日の講義がいつでも不足で、一時間のうちを四十分もやると種切れとなり、此のようなことが度々あつたから生徒には笑はれ、支障が有るからこれで止めると云ても、種が尽きたのだと感付て信じなかつたのです。演説体の講義、これは私だけの話だが、講義をするに、初めのうちには面白く演説体でやつて居たが、これじや一方では非常に疲れるし、それからまた他の一方から見ると、余りぺらぺら饒舌ると生徒が煙に巻かれて講義の要点を解し兼ねる恐れが有るので、考へ直して演説をやる時は別、講義はゆるゆるやる方が、自分も好し聞く人も必ず好からうと考へて、今でも其の通りでやつて居ります。 (『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』 三〇〇―三〇一頁)

 これによると天野は政治、憲法、経済を教えていたことになる。しかし、開設当初でもその担当科目は、経済学原論、貿易論など、やはり経済関係が主であったようである。次に講義の仕方について、時間内に講義が終ると早々に教場を引き上げたと称しているが、直接天野から講義を受けた三浦鉄太郎(二十九年邦語政治科卒)は、これを裏書きするかのように「無雑作に立つた儘で、殆ど手も体も眉も動かさず、生徒を見るでもなく見ぬでもなく、また、ニコリともせず、テキストなしに、諄々として説去り説来り、予定のコースを終れば、時間が余つて居ようが、そんなことに頓着なくサツサと引揚げて行き、質問はありませんか、などと、一度でも云つたことはなく、何となく寄付き難い感を与へてゐた。」(『天野為之先生を偲ぶ』六頁)と述べている。しかし同書にはまた松岡忠美(三十年邦語政治科卒)から聞いた話として次のような逸話をも紹介している。

同君が早稲田在学の折、先生が講義を終りて階段を降り切らぬ途中に、先生をつかまへて何かの問題を尋ねた場合のことである。話が簡単に片付かぬのと、松岡君の求めて倦まぬ態度に動かされて先生は遂に、当時悪路の泥下駄のままで出入せる汚れた階段に、腰を卸して諄々として教えられた。 (同書 一〇頁)

 今これらを思い合せると、如何にも佐賀人らしい、朴訥で寡黙な天野の風格が偲ばれる。大正十四年の頃、天野はその教育者としての心境を「功名独在鏡中憐、白髪蕭騒歳月遷。剰有講壇三寸舌、推弾心力教青年。」の詩に託して吐露しているが、これは彼が初めて我が学苑の教壇に立った黒髪の頃から、一貫して教鞭をとっていた時の心情であり、その誠実さを示すものである。事実彼は常に三苟主義、すなわち己に対しても苟くもせず、人に対しても苟くもせず、事業に対しても苟くもせずという教えを立て、身を以てこれを実践せんとした。特に三十四年四月、早稲田実業学校が設立され、翌年その校長に就任して以後、実業青少年の育成に当った時にも、このことが彼の処世訓となったばかりでなく、また教育の指針でもあったのだ。

 高田、天野と並んで学苑の三尊と言われた坪内逍遙は、名実共に文学科創設とその運営の功労者であったから、その業績は第三編で詳述するが、ここではその経歴を簡単に紹介しておく。

 広く人口に膾炙している逍遙とは、もとより坪内の雅号で、本名を勇蔵と言った。のちこれを雄蔵の字に改めた理由については、坪内士行の『坪内逍遙研究』の中に、少青年の頃内気で気の弱い坪内は、勇の字を嫌い同音の雄を選んだのであると記している(四―五頁)。安政六年五月二十二日、美濃国加茂郡太田村(現岐阜県美濃加茂市)に生れた。父は平之進、母はミチと言い、その三男であった。初め愛知英語学校に入って学んだが、のち選ばれて上京し、東京開成学校を経て東京大学文学部に進み、高田、天野、市島らを知り、政治、経済、文学、哲学などを修めた。後年坪内がシェイクスピア研究の第一人者になった素地は、高田に勧められて在学中英文学書を愛読するようになったからであり、また演劇に興味を抱くようになったのも高田との交友の成果であった。しかも高田、天野らに一年遅れて大学を出るや、また高田に乞われて東京専門学校に職を奉じ、爾来終生我が学苑と運命を共にした。坪内の精力的な活動は既にこの頃から始まっていた。すなわち教師としては、専門英書のほか、歴史、社会学等まで教授し、一週四十時間以上の授業を受け持って倦むことなく、傍ら研究、創作、寄稿、講演等超人的な活躍を続けた。殊に明治二十三年専門学校に文学科が創設されるや、率先してこれが教授に当り、多くの優秀な卒業生を世に送り、当時の文壇を東京大学とともに二分する早稲田文科時代を現出した。また大隈重信が永年念願していた理想的中学校の設立を企画し、明治二十九年に早稲田尋常中学校の創立が実現すると、教頭に就任して初代校長大隈英麿を輔け、『中学修身訓』等を著し、経営・教育の両面で大いに貢献した。

 岡山兼吉は、嘉永七年七月七日、遠江国城東郡(現静岡県浜北市)横須賀に生れた。父は横須賀藩の元締役で定基と言い、母はタケと称した。万延二年正月六歳で藩校修道館に入学。慶応元年四月藩士三好左衛の養子となり、この時幼名重吉を兼吉と改めたが、のち復帰して岡山姓を名告った。その後維新の際、横須賀藩は安房(現千葉県)に移封され、岡山家も藩主とともにここに移った。時あたかも政治上の変革に遇い、思想もまた動揺し、洋学履修の熱が盛んであったから、岡山もまたこの風潮の影響を受け、明治五年川口某について英学を修め、翌六年には上京して久保某の益友社に入った。益友社は久保が主宰する学術研究の団体で、主として英書を翻訳して経営の資としていた。従って岡山もその社業に従事しながら英語を学んだ。ところが翌七年、久保が北越新発田の私立英学校化盛堂に教鞭をとることになったので、彼もまた同地に赴き、初めは化盛堂に学んだが、のち転じて新潟英語学校に入った。翌九年同校を卒業するや直ちに東京に帰り、東京開成学校に入学したが、学制の変革に伴い、これが大学に昇格すると、その法学部に進学して、法律学を専攻した。この時高田、天野らと親交を得、これと組んで鷗渡会の一員となったのである。当時学生間には政治運動をなす者が多く、自由民権論が天下を風靡し、国会開設の請願運動も全国に勃興したが、彼は国会創設尚早論を唱え、学生の同志を糾合して元老院に書を送った。十五年東京専門学校創立の計画に加わり、代言人として活躍の傍ら、法律学科で、数課目に亘って講義を行った。また講義の傍ら吉田熹六、島田三郎らと壬午協会を起し、政治・法律・経済の研究機関とし、更に市島、山田一郎らと『内外政党事情』という新聞を発行して、政治思想の啓蒙運動を行い、倦むところを知らなかった。彼が主張した、東京専門学校を東京の中央神田に移さんとする、いわゆる学校移転問題は、学苑内に大波瀾を巻き起したが、遂にその主張は容れられず、十八年学苑を去った(第十三章参照)。その後増島六一郎、高橋一勝とともに、神田に英吉利法律学校を創設したのは周知のことである。このように教育事業に携わりながらも、彼の政治活動はやむことなく、国会開設を前にして政党の大同団結を計り、或いは明治倶楽部を起して、改進主義の徹底を期した。第一回衆議院議員選挙の時、静岡県第三区より推されて代議士に当選し、議会では商法の延期、資格審査問題等に活躍した。しかし二十四年第二議会が解散されるや、政界との縁を断ち、寸閑を得て国是取調べに従ったが、二十七年五月二十八日、未だ業成らずして遂に白玉楼中の人となった。行年三十九歳。葬儀はおよそ二十日後の六月十七日に執行されたが、この時校友会総代黒川九馬が彼の霊前に捧げた弔詞の一節は、岡山の業績を賞め称えて余すところがないから摘記しておこう。

学術界ニ立テ偉勲アル岡山先生ハ、当代ノ弁護士トシテ特に老練着実ノ雷名高ク、最モ学理ト事実ノ適合ニ巧妙ニ、能ク至難ノ詞訟ヲ処理シテ範ヲ将来ニ示シ、起テ政事ヲ論ズレバ、不偏不党深ク官民ノ肯綮ヲ穿チ、静ニ経済ヲ策スレバ、精巧緻密備サニ其要ヲ悉クシ、朋友ニ接シテハ信誼義侠其比ナク、後進ヲ励マシテハ誘掖提助至ラザルナク、己レヲ持スル勤倹ニシテ、温厚懇ロニ人ニ交リ、高節徳行、実ニ一代ノ師範タリ。 (『梧堂言行録』 五五五頁)

 鷗渡会の一人として、小野梓に師事した山田一郎は、万延元年五月二十八日広島県府中村に生れた。藩校修道館に学び、のち広島英語学校に学んだが、更に上京して、東京大学文学部に籍を置いた。この時高田、天野らと相知り鷗渡会を作った。また明治十四年十一月、官吏・学生の政治演説禁止の条例に反対し、市島や岡山と反対の建白書を元老院に提出した。十五年同学部を卒業するや、同志とともに東京専門学校で教鞭をとり、傍ら市島とともに『内外政党事情』の記者を兼務して活躍した。彼の教えを受けた広井一は、彼の印象を次のように語っている。

山田一郎先生は、岡山兼吉先生と合乗り、若しくは其二人乗の人力車に乗つて登校せられた。両氏のカピタル文字を取り、O.Yの徽しを付け威勢能く乗り込まれるを例として居つた。先生は服装など御構ひなく、冬でも夏でも一着の服さへ持たず、盛夏の時冬服に扇子遣ひと云ふ風の人であつた。山田氏は学問学理の教授に重きを置くよりは、之を実際に応用することに専ら力を用ゐられた。先生からは論理学、心理学、政治学等の教授を受けたが、三段論法の応用を直ちに活用せしめんとせられ、又心理学の如きも、哲理は第二として之を世態人情に応用せしめんとせられ、又政治学、就中政党論の如きは生きたる政治を教授する積りで、現時の政党に適用し、現在の政治に応用し、全く政治家養成の気取りで教壇に立たれた様だ。私始め政治や政党に趣味を持つ人が、此頃の早稲田畑から輩出したのは全く山田一郎先生の薫陶が深く脳裡に印して居たからと思ふ。山田先生は学生に、政治学を実地に応用せしむる階段として、毎週夜分に頼山陽の通議一章宛を両分し、之を二人に課し西洋の政治学と比較論議せしめられた。降旗元太郎君と私とが二章か三章を講演せしめられたことなど今に記憶に微かに残つて居る。

(『早稲田学報』昭和三年十一月発行第四〇五号 四〇頁)

 十八年、学苑の移転問題に関連して岡山兼吉が講師を辞したので、彼もまた退職して静岡に居を移し、同地の『静岡大務新聞』に入り、麗文を以て活躍した。このことあって後に『越中富山新聞』に招かれて、雄筆を揮い、更に全国二十余の新聞の客員として寄稿を続けた。彼の政治活動は静岡時代から活発になり、改進党の地盤を拡張するため、各地に演説会を開き、その弁舌はよく聴衆の共感を呼んだ。この間、郷里広島から両度に亘って衆議院議員選挙に立候補したが、共に破れ、ために自ら九十七票外史と称した。彼はまた愛校心が強く、退職後も評議員となり常に校友会大会等に書を送り、校友の奮起を促した。日頃酒をたしなみ、斗酒なお辞せず、談論風発、時の移るのも忘れることがしばしばあったが、こうした放縦な生活のため、肺を病み、胃を患い、これが寿命を縮めて、明治三十八年五月二十七日逝去した。行年四十四歳十一ヵ月。葬儀には大隈重信もこれに列なり、校長鳩山和夫は弔辞を捧げ、

吾早稲田大学の東京専門学校として起るや、君は書を講じ、事を幹し、心血を披瀝して余力を遺さず。後去りて身を新聞事業に寄せ、椽筆を載せて諸道に遊ぶも猶吾校の評議員として周旋尽力殊に深し。吾校出身諸士は君の誘掖指導を経て地位を占め業務に就く、前後甚だ多し。是れ我校の長く感銘して忘る可からざる所なり。

(『早稲田学報』明治三十八年七月発行第一一九号 五三頁)

とその功績を称えた。

 学苑草創時の講師に二人の山田がいた。その一人は前述の一郎、他は喜之助で、両山田は弁論に文筆に雄を競った。その山田喜之助は安政六年六月大坂の生れ。父は砂糖商を営んでいたが、幼くして学に志し、大坂の儒者藤沢南岳や岡松甕谷について漢学を修め、前者に因んで号を奠南と称したが、後者の岡松からは殊の外愛せられ、その娘を得て妻とした。上京して東京大学に在学中、鷗渡会員と相知り、卒業後代言人となると同時に、我が学苑の講師として国際法その他を講じた。岡山の法科移転説に加担して職を辞し、英吉利法律学校を起して法学生の育成に従った。松隈内閣には衆議院書記官長に任ぜられ、第一次大隈内閣には司法次官の栄職に就いた。官界・政界にあっても、権勢に屈せず、気骨ある士として世間から高く評価されていた。下野して弁護士となり、弱き者の味方として活躍したが、晩年は赤貧洗うが如く、また薬餌に親しむこと多く、遂に大正二年二月二十日不遇のままに他界した。享年五十三歳。

 さて以上の六人の他、いくばくもなく学苑と離れたが、生涯を通じて我が学苑と不即不離の関係にあった砂川雄峻の経歴について述べておこう。砂川は安政七年二月十二日、播州(兵庫県)姫路に生れた。父貫一郎は姫路藩の目付役で砲術の名手であった。雄峻は初め藩校の好古堂で和漢学を修め、明治五年十二歳の時上京して東京外国語学校に入り、のち転じて東京英語学校、更に転じて東京開成学校に移った。この学校は東京大学となったが、砂川はその法学部に進み、十五年に卒業、法学士の学位を得、東京専門学校創立に際し教鞭をとった。しかし在職期間僅かに一年余、十六年暮には大阪に居を移し、江戸堀で弁護士を開業、翌十七年早くも推されて大阪組合代言人会長(弁護士会長)になるとともに、大阪の政治界に不抜の地位を築き、改進党、憲政党、次いで憲政本党に籍を置いて、大隈党の有力者として活躍した。砂川は明治二十年に中之島に大阪英法学校を創立したが、短期にして廃校された後、明治二十三年から創立間もない関西法律学校(後の関西大学)の講師となり、専ら英米法を講義し、また理事としてその経営に中心的な位置を占めた。同時に評議員、のち維持員として学苑の発展に貢献したが、昭和八年四月十六日病没した。

 名利にこだわらず、地位に泥まず、終生学苑の裏力として活躍した市島謙吉は、安政七年二月十七日、新潟県新発田の市島筆頭分家である角市・市島家に生れた。父は五代直太郎(のち次郎吉と改名)、母はシゲ。幼名を雄之助と言い、のち上杉謙信にあやかって謙吉に改名したというが、一般には春城の号の方でよく知られている。これは謙信の居城であった頸城の春日山から取ったものだという。幼少の頃故郷水原の弘業館(後の水原学校)に漢学を学び、数え十三歳でよく無点の『資治通鑑』を読んだ。英学校(後の新潟学校)が設けられた時、半ば強制的に入学せしめられ英学を勉強した。明治八年東京に出て東京英語学校に入り、ひたむきに勉強したため、同級生より一年早く予備門に入り、次いで東京大学に学んだが、卒業の一年前に退学した。在学中は文学部に籍を置いたから、高田、天野、坪内らと交遊し、いわゆる白足袋党の一味としてよく戯場などに出入りした。しかし学者になる気は毛頭なく、政治家になる積りであったから、大隈が改進党を組織するやこれに入党し、また小野の傘下に入って鷗渡会会員として活躍した。従って学苑が創立された時は当然その一員として校務に参加する筈であったが彼はそれを選ばなかった。彼の振出しは新聞記者で、政治面を担当した。すなわち小野が山田一郎らとともに興した『内外政党事情』という小新聞に携わったのである。しかしこれは間もなく廃刊の憂き目を見たから、迎えられるままに越後の高田新聞社に入り、その社長となって第一号を創刊した。当時は民間の政党と政府との摩擦が最も激しかった時で、政府は「新聞紙条例」に峻烈な改正を加え、社長といえども容赦なく罪に問うという有様で、彼もまた高田事件を擁護する筆を執ったため投獄された。八ヵ月後、無罪釈放となったのを機会に『高田新聞』を去り、東京専門学校で教鞭をとることになった。これが十八年九月のことで、およそ一ヵ年、政治原論および論理学を担当し、また英学科で経済や歴史などの英書を講じるとともに、小野梓の死後、学費値上げ問題や学則大改正の難問に直面した学苑の経営にも協力した。十九年には『新潟新聞』の主筆に迎えられ、一時学苑と袂を分ったが、なお改進党を介して繫がりを持っていた。この新潟新聞社在職中に、第一回の衆議院議員の総選挙があり、市島は立候補したが、戦い利あらずして落選したので、これを機会に上京し、暫く橋場の宗家八代の市島徳次郎の別荘に静養した。彼が放浪旅行をやったのもこの期間中のことであるが、やがて高田に代って『読売新聞』の主筆に就任した。その後二十七年九月の衆議院議員選挙に当選して、多年の宿願を達成し、以後八年間、国会で大隈の懐刀として活躍した。同時に市島は二十七年、幹事として学苑事務の責任者となり、爾来会計監督、図書館長、理事、名誉理事、維持員を歴任、多年学苑の枢機に参画した。

 鷗渡会とは関係なく、直接大隈重信または大隈英麿の招聘に応じ、学苑創立当初の学校行政に参画した者に秀島家良田原栄の二人がいる。

 秀島は大隈と同郷の佐賀出身で、嘉永五年七月生れである。明治四年藩命により東京に遊学し、更に藩命によって法学研究のためフランスに留学した。その間文部省の給費生となり、六年に帰国した。その年の十二月陸軍省十一等出仕に補せられ、十年七月陸軍中尉に任ぜられ、十二月まで陸軍省に奉職した。越えて十一年五月司法二等属に任ぜられるや、軍人畑から官界に転じた。秀島は初め急激な自由主義を唱え、また熱心な江藤新平の崇拝者で、明治七年江藤反乱に際し、同郷の大隈がこれを見殺しにしたのに反感を覚え、ことごとに大隈に対して反抗した。ところが明治十二年大隈が大審院判事杉本香煕を通じて面会を申し込んだので、不本意ながらその招きに応じたところ、大隈は熱心に民権説を説いたので意外に思い、反ってこれに親近するようになった。十三年三月司法一等属に進み、十四年八月には四等検査官として会計検査院勤務を命じられ、この前後から大隈と密接な関係を持つようになった。この年の政変で大隈が下野した時、彼は小野と親しく交わっていたが、小野に殉じようとはしなかった。しかし東京専門学校創設に際し、小川為次郎の紹介で鷗渡会の人々と会見したのを機会に、官吏在職のまま、その相談に与った。秀島は十五年初めに辞表を提出し、改進党の春木義彰、河野敏鎌、中野武営、牟田口元学などと修進社という弁護士事務所を作って、生活の資としたが、辞表は提出後六ヵ月を経て受理されたから、弁護士業に携わりながら幹事として学苑の校務を鞅掌し、毎日大隈家の奥に出入りすることになった。ところが彼が幹事として遭遇した第一の困難は、政府ならびに反対党の妨害を如何に排除するかであり、第二の困難は大隈の援助を辞して学苑を経済的に独立せしめることにあった。幸いにしてこれらの困難は一応排除することができたが、軍人と官吏の道を歩んで来た彼は、自由主義の洗礼を受けたとはいえ、高田や市島などからは俗物視され、公私混清と白眼視されたので、学苑の経費節約の必要に際して、十七年三月幹事の職を辞し、学苑を去って秀英舎の取締役に就任し、更に第三十銀行監査役をはじめ民間各種の業務に従事した。明治四十五年三月六日永眠、享年五十九歳であった。

 次に名幹事と謳われた田原栄は、石州(島根県)津和野の出身で、安政五年八月九日、芸州(広島県)廿日市の御船方屋敷に生れた。父は津和野藩士田原耕十郎と言い、一期間栄は廿日市奉行頭加藤某の養子となったこともあった(明治十二年復籍)。明治五年英学修業のため広島に出て、土居善右衛門の塾に学んだ。七年広島に外国語学校が設けられるや山田一郎とともに入学した。九年山田と同じく選抜されて東京開成学校に入学、次いで一ッ橋の東京大学に転じ専ら化学を修めた。十四年病を得て大学を中退し帰郷したが、快癒したので、乞われるままに広島県中学校の教壇に立った。東京専門学校が設立され、理学科が併置されるに際し、招かれて講師となり、大隈別邸の二階に〓〓高田と起居をともにし、更に高田が牛込若松町に新居を構えると、そこに同居した。理学科は予期に反して不成績であったから間もなく廃止されたが、田原は留まって学苑の経営を担当する幹事の職に就き、学苑が直面した最大の課題である月謝値上げ問題を処理し、また廃止寸前の講義録を学苑の直営に移して存続させるよう決断した。彼は校務が一応軌道に乗ったのを見るや、かねてから懸案としていた日本漆器の改良を志し、二十五年四月、学苑を辞任して東京に工場を設け、更に二十七年には、工場を横浜に移し、建築に応用する漆塗料を発明して、外国貿易促進の一翼を担った。その業績は日進月歩の進展を見たが、不幸にして三十五年火災に遭って、工場は烏有に帰し、その事業に一頓挫を来たした。しかし彼は不屈の精神を振い、外国貿易進展に挺身して、大いに実績を修めるとともに、実業会委員、貿易協会委員、横浜経済会評議員、日本美術協会委員等を兼任し、他方横浜早稲田校友会会長、学苑評議員として、学苑の興隆に大いに尽力した。大学への昇格の翌年の三十六年に、精神的教育家であって事業家ではなかったと評された田原は学苑に復帰し、三十七年よりは高等予科長の要職に就いて高等予科生を心服せしめ、大正三年十月十八日五十六年の一生を閉じるまで、我が学苑のために貢献した。