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第二編 東京専門学校時代前期

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第十三章 学苑の危機

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一 外圧相次ぐ

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 既述の如く、大隈は学苑の開校式には出席しなかった。大隈が初めて学苑の式典に姿を現したのは、十五周年祝典である。それほど慎重に、自己の政治的立場と学苑とが結びつけられることのないよう配慮したにも拘らず、藩閥政府は学苑を以て大隈の私兵養成所であるかの如き疑惑を懐き、世間もまた学苑は「大隈学校」であり、大隈の私有物であると誤解していた。こうした疑惑なり誤解なりに悩まされ続けたのが、東京専門学校二十年の歴史であったとさえ言えないことはなかろうが、殊に当初約五年間は、それに由来する種々の圧迫が学苑に重くのしかかり、行路は艱難に充ちていた。その艱難が風霜に屈服することのない学苑の学風を醸成するのにどれほど寄与したにせよ、揺藍期の学苑にして、もし一歩対応策を誤れば、空しく瓦解の運命を辿らなければならなかったほど、情勢はきわめて切迫したものがあったのである。

 『大隈侯八十五年史』には、

学校が少しづつ隆盛になつてゆくと、薩長政府は、ひどくそれを喜ばなかつた。丁度目の上の瘤のやうにそれを見た。それは野に下つた君〔大隈〕を一大敵国視してゐた為と、一つは君が生徒に政治教育を授けて、自己の勢力を張らうとするのだと誤解した為である。殊に当時は西南戦後、未だ五六年を経たばかりで、世間が物騒がしく、加ふるに学校の評議員中には君の政治的幕僚が少くないので、政府当路の神経は鋭敏になつて、各方面から君の羽翼を殺がうと計つたのである。それに学校事務に最も力を入れた小野梓は、曾て会計一等検査官を勤めた時、北海道官有物払下事件について、烈しく当事者を弾呵したことがあつたから、政府が東京専門学校を謀反人養成所のやうに見たのは不思議でない。後、君は当年を回顧して、「学校と我輩の位置が片田舎に辺在したことと、小野始めその他の友人が、学校に関係した為に、世間では政治上の目的の為に、学校を設けたと誤解して、為に最初、学校の発達は甚だ遅緩であつた。甚だしいことには、政治上の意味からして、或は官辺の権力を以て入学者を妨げる、その父兄を脅迫して入学を拒ませる、或は学校に教鞭を執ることを妨げる。今日では殆んど想像も出来ぬやうな、不思議な現象が起つたのである」と述べた。 (第二巻 四二―四三頁)

と記述されているが、幹事秀島家良も、当時の事情を、次の如く回想している。

開校後第一に困難を感じましたものは、政府及び反対党の妨害で、東京専門学校は創立の当初建学の趣旨として夙に学問の独立を標榜し、断じて政党政社に関係なきことを声明しましたに拘はらず、政府も反対党も手を換へ品を換へて種々の妨害を加へ、学校に於いては、教場といはず、寄宿舎といはず、間諜様の者が入込み居りまして、機会だにあらば騒擾を醸し、開校の翌年の如きは、百二十八名の多数者に一時に退校を命ぜざるを得ざるに至りました。否やそれのみならず、此の騒擾と先後して、〔東京〕大学には殆んど東京専門学校と同様なる別科〔別課法学科、明治十六年七月設置、十八年新募停止〕生なる者が出来まして、盛んに生徒を吸集しましたから、之れが為にも東京専門学校は尠からざる困難を感じました。尤も此の時に於ける東京専門学校の学生は、重もに地方の有志者で、年齢も現今の如く二十歳以下の者は皆無といふ姿で、中には三十九歳といふ人もありましたほどですから、他の妨害若くは誘拐の為めに所志を変ずる者の如きは案外少くありました。

(『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』 三〇四―三〇五頁)

 右に触れられた「間諜様の者」の問題は、必ずしも学苑のみの問題でなく、例えば明治法律学校の創立者の一人である岸本辰雄によれば、開校当初の同校「生徒数四十四人中、其の二人は国事探偵なりし事実」(中村雄二郎「草創期における明治法律学校」『法律論叢』別冊『明治法律学校における法学と法学教育』二九頁)があった由であるが、学苑についても、前々章に紹介した広井一が、

私が川上淳一郎〔十八年政治科卒〕君と学校へ入学した許りの時であつた。即ち明治十五年十一月と思ふが、我等は何も知らないで寝て居ると寄宿舎の廊下で大騒ぎをして居る。何か起きたかと驚いて出て見ると寄宿生の都留某と云ふを捕へて、詰責して居る。遂には大隈侯の別墅(本邸は雑子橋にあり此頃の御屋敷は別荘に過ぎなかつた)に寄寓してをつた講師の高田先生に特使を派し、深夜ながら登校を求め都留の処分法を乞ふた。高田先生も来校せられ事情を聞取られ本人を引取られ処分することで鳧が付いた。聞く所に依れば都留は大隈侯の知遇を得て居る人の紹介で学校へ入学し居るものであるが、当時の東京専門学校は政府に敵対する叛虐人共の養成所だと云ふので、密探に入れられたもので、それが発覚したと云ふのが騒ぎの原因であつた。 (『早稲田学報』昭和三年十一月発行第四〇五号 四〇頁)

と寄宿舎の事件を記していることや、また一〇〇九頁に後述する塩沢昌貞が述べた挿話についても、「三島通庸関係文書」(国立国会図書館所蔵)に、「間諜」が探知したに違いない次のような「生徒臨時退校ノ件」(明治二十年四月四日)が収められていることによっても明らかな如く、間諜問題は必ずしも疑心暗鬼の産物とは言えなかったようである。

一、早稲田専門学校生徒ハ集会条例ノ覊絆ヲ脱セン為メニ其当日俄ニ退校届ヲ為シ、政談演説ノ席ニ臨ミ、演説会畢レバ復タ直グニ入校ヲ為スト云フ。

一、既ニ本月〔明治二十年四月〕二日ノ改進党大会ノ節モ、前手段ヲ以テ七、八拾名出掛タルヨシナリ。

一、其退校届ト云フハ全ク名ノミニシテ、其実届書抔ハ出サザル由、又タ直チニ入校スルト云フモ別ニ何等ノ手続モナサヌ趣ナリ。

一、入塾生ハ舎長楢崎俊夫ニ、通学生ハ書記佐藤鎮雄ニ退校届ヲ差出ス訳ナル由。

一、専門学校生徒ニテハ右ノ臨機退校ノコトハ別ニ怪マズ、黙許ノ便法ナリト心得居ル由ナリ。

一、斯様ナル手段ヲ為スハ専門学校ニ限ラズ、府下ノ学校等ニハ随分アルベシト信ズルナリ。

 『大隈侯八十五年史』は政府の弾圧につき更に次のように記している。

政府が君を苦しめる上に辛辣を極めたのは、兵糧攻の策で、生活上、君に脅威を加へた。彼等は私憤と公憤、私争と公争とを混同して、自家の利益を擁護するために手段を択ばなかつた。彼等は政治上の主義見地のために正々堂々と争ふことをせず、権力維持のために争うた。而も正面から男らしく争はないで、裏面から詐略を以て、その敵を苦しめた。……それで彼等は生活上、君を脅かすのが最好方便であるのを知つて、勢力ある銀行を威嚇し、「大隈に少しの金でも貸してはならぬ」と厳命した。官尊民卑の思想が激しい時であつたから、銀行業者はその不当を知りながら、一斉に無理な命令を固守して、君に金銭上の融通をしなくなつた。君は生活の調子を下げることが嫌で、在朝の時も、在野の時も、順境にある時も、逆境にある時も、同様の生活を維持する事をやめないで、ある程度まで痩我慢を張つた。……表面は政府の兵糧攻に逢つても屈撓しない風を見せたが、その実生活費を弁ずるために、そつと家従に命じて、郷里の田畑を売り払ひ、蔵にある物品を悉く売つた。かうして君は売喰ひの生活を続けるうちに、到頭売るものがなくなつた。銀行は政府に身方して、君のために融通せぬので、当時有名な高利貸平沼専蔵から借金した。最初、君は新聞経営の費用として平沼から四万円借りた。それから次第に借金して、その額が十三万円に上つた。当時、或る新聞社の建物や印刷機械の類までも抵当に入れてしまつた。が、君は世間から「鬼」と呼ばれた平沼を、「吾輩の恩人だ」と云つて歓待した。……君は或る時、「世間では平沼の事を無暗に悪く云ふが、吾輩に対しては少くとも酷薄でない。十三万円の金を快く貸してくれた。勿論、それには新聞社の機械や建物などを抵当に入れたが、それは銀行家が正当に担保と認めない品物だから、事実無抵当同様である。それに利息も高くなかつた。あの男のお蔭で、吾輩もやつと一時の苦境を切り抜けることが出来た。」と後に述懐したのを見ても、当時君が如何に苦境にあつたかが察せられる。……既に学校の創立者、後援者たる君が財政難に苦しんでゐたので、学校も亦財政上窮迫しないわけにはゆかなかつた。

(第二巻 四三―四五頁)

平沼は学苑にも大隈の口添で二千円を融通し、内一千円は意外にも後年学苑への「第一号の寄附」となるのであるが、大隈の経済的苦境については五一七頁以降に更に触れることにし、もう一度、『大隈侯八十五年史』に戻ろう。

その頃政府は無法にも学校から講師を奪はうとした。当時、専門各科について良教員が極乏しいので、主として官立学校の教授や判検事などの中から同情者を見出して、それらの人々に講義を依頼してゐたのである。政府はその内情を知つて、それらの人々に内訓を発し、官吏及び官立学校教員が私立学校の教員となるのを禁じた。或は勢利を以て、頻に講師を誘惑した。これも亦学校に取つて少からぬ打撃であつた。それを防いで、講師に事欠かぬやうにするのが、当時非常に困難なことであつた。

(第二巻 四六頁)

 明治十五年三月、伊藤博文が外遊の途につくと、政府は警視総監樺山資紀に新聞、政治演説等を厳しく取り締らせ、私立学校を不平分子の温床と看做し、その撲滅に乗り出し、十六年二月には、判・検事や東京大学教授の私立法律学校への出講を禁止した。中でも、改進党のために「遊説派出の人物を養成」(明治十五年六月十五日付伊藤宛山県有朋書翰、『伊藤博文伝』中巻二八一頁所収)するものと見られた学苑に、風当りが最も烈しかったのは怪しむに足りない。例えば、高田らとともに十五年に東京大学を卒業し、母校理学部のスタッフに加わったばかりの田中館愛橘や石川千代松が、学苑の開校広告に講師として名を連ねたのに取消が命ぜられると、「員外講師」という官吏服務規則に縛られない名称が考え出されたと伝えられている(薄田貞敬『高田半峰片影』八七―八八頁)。ともかく、政府の政策に反対する不平家は、学苑のこの苦境に同情し、東京法学校の薩埵正邦(十六年四月就任)をはじめ、十八年九月には三宅恒徳、俣野時中、そして十九年三月には反対党である帝政党の関直彦さえ応援に駆けつけ、授業を担当してくれた。それでも、『舎務日誌』を見ると、創立後暫くは相当詳しくいろいろな記載が見られるが、やがて連日「〔某々〕教師休講」という記事だけになっている。殊に法律科の場合、秀島の言うところの、「当時学生は尚ほ頗る少く、一般の設備も亦た頗る不完全でありましたから、講師諸氏の報酬は只だ其の車代を支弁するに過ぎない位でありましたのに、法律科担当の講師諸氏は代言其の他各種の業務がありまして外出せらるる向が多く、為めに学校の講義は欠席勝ちと為り、学生の不平甚だし」(『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』三〇五頁)かった事態の根絶は、難事中の難事であった。

 更に十六年十二月二十八日付太政官布告第四十六号による徴兵令改正により、徴兵猶予の特典が官公立に限定され、私立学校には及ばないことになった結果、私立学校は軒並学生数の減少に悩まされるに至った。学苑にあっても、「三百名ノモノ忽ニシテ其六十名ヲ失」ったが、「但シ我生徒ハ壮年晩学ノモノ多カリシヲ以テ動揺尚甚ダ大ナラザリシ也」(『明治二十九年度東京専門学校年報』二頁)とは公式記録の見解である。

 慶応義塾の場合、「私立学校中ただ一校の特例」が廃止されたという事情もあり、「義塾にとってはまさに重大なこと」(『慶応義塾百年史』上巻八〇七-八〇八頁)として、東京府に願書を提出したのをはじめとして、福沢その他の当局者が参議を歴訪して了解運動を行ったり、『時事新報』に七回に亘る反対論を掲げたりしている。学苑にあっても、前記の如き楽観的記録にも拘らず、退学者の比率は慶応義塾の五八八名中百余名と大差がなかったのであるから、大問題でなかったとは言い得ない。小野の『留客斎日記』には、十七年一月下旬に、これに関連して「呈文部卿書」の記事が連日見られ、「徴兵令特例之事」を中村敬宇や新島襄と話したと記されている。しかも、これの学苑財政に及ぼした悪影響は、四月一日の同日記に、大隈を前にして当局者に対し、「我校之基礎、不可不堅之。況徴兵令之改定、大害私立学校之利益。吾儕宜用意於此際。而会計之改良為最急。凡為会計之改良、有二法。曰増収入、曰減経費、是耳。而増収入之事、不可行之於今日。則減経費之事、実為今日独有之法。」と建策し、委員を選んで具体策の検討に入ることになったとの記載が行われているのによっても明らかである。そして「宜使講師諸君献若干円」との小野の主張は、その翌月から給料の一割天引寄附として具体化し、また幹事秀島ならびに副幹事小川為次郎の辞任も、経費節減の一助として実現したのであった。

二 学苑移転問題

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 さて十七年十二月十五日、「学校移転案」なるものが突如として教師岡山兼吉から持ち出された。その経緯については、日頃彼と同居し、合乗り車で登校するほどの仲であった山田一郎が、「梧堂追思録」に記し、これが『梧堂言行録』に転載されているから、以下順を追って摘記してみよう。

改進党既に其の頭首を失ひ局面一変の機に会す。君が此間に処するの進退将た如何あるべきや。進んで持説を貫徹せんため党派に尽力すべき乎、或は退て他日の時会を待つべき乎、君は其の後者を取れり。蓋し君は啻だに時運の不可なるのみならず、君等同志者一身立脚の地歩も亦た未だ高飛するに適せずと認めたるに因るならん。而して其の自家立脚の地歩を固めんとするに当りて、君は一種奇妙なる考案を提出せり。君は、君等同志者の創立して後進誘掖の本城となせる所の東京専門学校を牛込早稲田よりして神田区内便宜の地に移さんことを主張せり。曰く、学校早稲田に在る時は忽ちにして衰微の端を開くべし、之を中央地区に移し来るに若かず、と。 (一三一頁)

 ここに言う改進党の解党についていささか言を加えると、当時、政党結社存立の直接目的は国会開設であったが、それも決せられたため、国民の政治的興味が段々下火になり、それに財界の不況も手伝って遂に自由党潰え、帝政党の解党は改進党員にも大きな倦怠感を与え、そのため十七年十二月副総理河野敏鎌をして解党意見を提出せしめるに至った。これに対し沼間守一は頑強に反対し、国会開設も目前に迫っているのだから、暫くこの苦難に耐え、有終の美をなすように主張した。大隈総理は初めこの両者の間に立って斡旋を試みたが、遂に解党説に与し、牟田口元学、春木義彰、藤田高之もこれに賛成し、解党説は次第に優勢になった。そこで沼間は大いに憤慨し、「改進党は改進党員の改進党なり、之に与するを欲せざるものは宜しく脱党すべし。」と放言したので、大隈・河野は相次いで脱党するに至ったという。

 大隈らの脱党については、或いは大隈が党勢拡張のために党員名簿の不必要を説きこれを廃止したが、党員の反対に遭い、そのため総理の威信が行われないのに憤慨した結果であるとし、或いは沼間らが地租を軽減し農民の負担を縮小しようとしたのに、大隈がこれに反対したため、両者相反目した結果、このようになったとし、或いはまた当時在野唯一の政党として孤立の状態にあった改進党に対し、政府が旧自由党員を使嗾して、これを逆境に陥らしめたためであると言い、説くところ区々であるが、要するに「其何れをも原因とすべきものがあると思ふ。」と林田亀太郎は述べている(『日本政党史』上巻二三八頁)。

 これに対し『大隈侯八十五年史』第二巻には、大隈の意として次のように述べられている。

明治十七年頃の事であつたと思ふ。わが輩は表面、改進党の総理を退く事になつたが、十四年の政変にわが輩との義理合で、わが輩と共に政府を去つた人々があつた。何分わが輩は謀叛人として政府から追放されたんであるから、これ等の人をその儘放つて置けば、立身出世の道を妨げて頭の上る機会は無い。……所で、これ等の連中の将来の活路を開くために、改進党を離れさせて役人にして遣らうと考へた。さう云ふ仲間がかれこれ二十人位もゐて、何とかしてやらなければならぬ、仕方の無いことになつた。そこで、わが輩も改進党を退き、これ等の連中も同時に党を退くことにした。無論これは表面だけのことで、

わが輩が党の首領であるに変りはない。 (七三頁)

 これによると大隈が党籍を離脱した真意は、苦況下の改進党から役人上りの仲間を救済するためであり、あくまで「表面だけのこと」で、実態は総理を辞めたのではないことになる。しかし前文に続くところに、彼が脱党するのやむなきに至った直接の原因として、党員名簿廃止による多数党員の反対に遭ったことを挙げ、

今日の形勢では名簿の必要を認めないのみならず、それを備へて置くことは、却つて改進主義の拡張を妨げる。改進主義に共鳴する人々が社会に少くないのだが、唯その人在来の履歴若しくは一旦他党に出入した事故などによつて、改進党中に自分の名を列ねるのを不便に思ふものがある。そして党員の集会や懇親会に臨む時に自分の氏名が名簿中にないために隔心を生じてその席へ列することを差控へるやうなことになる。畢竟、名簿があるため同主義者の親みを疏隔するの感がある。それで名簿を廃することは、交誼を円滑にして主義の弘通に利する所以である。 (七四頁)

と記している。この考えを裏返すと、既に党内に不和確執があり、大隈でさえこれを収拾できず、困惑のすえ離党の挙に出たことになる。何れにせよ、十七年十二月十七日、次の如き脱党届が立憲改進党掌事宛に提出された。

時勢ノ変遷ニヨリ党員名簿ノ不用ナルノミナラズ、却テ不可ナルヲ感ジ之ヲ廃センコトヲ詢リシニ、在京党員ノ中、不同意ノモノアリ。已ニ不同意ノモノアレバ、之ヲ全党員ノ会議ニ付シ、互ニ多数ニ由テ其可否ヲ決スベキモノニアラズ。依テ不得止除名ヲ請フ。

明治十七年十二月十七日

(改進党副総理)

河野敏鎌

(改進党総理)

大隈重信

(『大隈重信関係文書』第五巻 六一―六二頁)

 ところで岡山の提案は、東京専門学校を中央に移し、大隈の勢力挽回を策したものと『梧堂言行録』は言い、更に語を継いでこの移転を不可能と断じている。

君が学校移転論の理由は誠とに簡単なるものにして、人々の解するに苦しむ所なりし。早稲田に在るを以て衰微の源なりとするは、其の地勢僻遠なりと云ふにある乎。慶応義塾の三田に在るは如何、学農社の麻布に在るは如何。否な否な専門学校の創業既に三年、七十余名の生員は増加して三百余名となり、将さに駸々として進歩せんとするの現況なるは如何。学校の位地何ぞ必ずしも其の盛衰に影響すると云はん哉。然らば則ち、早稲田は大隈氏の膝元なりと云ふに在る乎。大隈氏の膝元何を以て不都合なりとするや。氏の従来党事に熱心尽力したる時に在りてすら、地方の父兄は何の疑念をも挾まずして其の子弟を入学せしめたり。今や氏党派を除名せり。何ぞ亦た地方父兄の嫌疑を招くことある可けん哉。理由を詳明にせず、方法を陳述することなく、巨万の資本を投じて起せる黌舎を一朝移転せしめんとす。聞く者之を奇とせざるはなし。議論固とより奇なり。而して君が、此の議論をば他人に得心の行かぬにも拘はらず執拗にも之を年来の親朋に強ゆるに至りては、奇上更らに奇を加ふ。

(一三一―一三二頁)

 しかし実は、この「学校移転案」は岡山が最初に提唱したものではなかったようである。すなわち、先年新潟の市島家から発見された山田一郎の手記(市島はこれに『山田霜岳稿波瀾史』と題している)によると、最初の主唱者は小川為次郎であったらしく、日がたつにつれ、岡山がこれに代り、小川が同調する形となったようである。手記には、

〔明治十七年〕十二月十四日論又タ専門学校ニ渉ル。小川氏曰ク、此際ニ及ンデ我族ノ威ヲ張ラント欲セバ、学校ヲ他ニ移転>スルノ議ヲ起シ、大ニ我族ノ名声ヲ揚ゲ、且ツ同校ノ独立ヲ保持スベキナリト。余モ亦タ、総理ニ反スル以上ハ此事ノ可ナル所以ヲ述ブ。岡山氏ハ必勝ノ算ナシトテ之ヲ排シタリ。

十七日再ビ族議アリ。岡山氏更ニ学校移転ノ説ヲナス。曰ク、我レ曩キニ小川氏ノ説ヲ駁シタリト雖ドモ、退テ思フニ、今回ノ事誠ニ忍ブ可ラザルナリ。去レバ必勝ノ策ナシト雖ドモ、之ヲ唱ヘザル可ラズト。……岡山氏ノ説タル、四日三回ノ変アリ。十九日三ビ族議アリ。……岡山氏ハ、移転論用ヒラレズンバ余ハ学校ヲ辞セント欲スト述ブ。余ニ向テ説ヲナサンコトヲ求ム。余未ダ説ナシト答フ。

廿三日五ビ族議アリ。……岡山氏曰ク、学校早稲田ニ在ル時ハ忽チ衰微ノ端ヲ開クベシ。余ハ大隈氏ニ対シ不礼ヲ恕スル処アリト雖ドモ、為メニ学校ノ衰微ヲ来タスコトヲ忽ガセニスル能ハズ。高田、天野、山田三氏之ヲ駁ス。

(五葉の表―七葉の裏)

とあり、鷗渡会関係者の会議を意味する族議で、岡山は小川に遅れること三日後に初めて説をなしているのである。山田一郎は、この岡山の豹変を不思議に感じ、

十二月十五日、君始めて移転の説を出してより未だ旬日ならざるに、君は、其の二十三日持説の行はれざるを名とし、断然講師の職を辞したり。如此きは、是れ君の言行録中空前絶後の急激なる処置なり。此夜家に帰る。余君に謂て曰く、頃日の事洵とに憂ふべきもの多し。君請ふ、移転の説を中止し枉げて我等の為めに尽力あれ。君曰く、君の言誠とに切至、独り移転論に至りては決して枉ぐ可らざるを奈何せん。余曰く、枉ぐ可らざるを枉ぐる是れ美徳なり。君常に此の美徳を以て名あり、何ぞ躊躇する所あるや。君曰く、然り。余常に説を枉ぐるに慣る。而して今は即ち之に反せざる可らざるなり。此機一たび失せば、亦た得可らざるに至らん。二十九日にも復た大に論じたれども、尚ほ要領を得るに至らず。去ればとて、余は此論の結局を告ぐる迄局外に中立するに決し、高田、天野、山田氏は断然校地を維持することを宣言し、玆に十七年度の局を結びぬ。

(『梧堂言行録』 一三二―一三三頁)

と述べ、一応中立の立場を取った。十七年はこれで論争が終ったが、翌年早々再びこの問題が月次会議に上程された。『梧堂言行録』はその経過を克明に記述している。

明治十八年(三十二歳)一月七日、君は、湘南の遊程より帰り来るや否や、直ちに専門学校々主大隈氏の許に至り、大に移転論の気焰を吐きたり。大隈氏は熟考する所あるべしとの挨拶なりしが、月末に至り前島氏より伝言を君に致し、議論の片付く迄は教授に従事せんことを求めらる。君は人情の義理を断ち得ざる人なり。氏の伝言に背き得ず、再び講師の職に就けり。則ち講堂に上るとは雖も、君の意、固より長く学校に出勤するに非ざれば竊かに計画して持論を貫徹せんと企てたり。三月一日と云ふに、学校の月次会議を開く。君突然起立して曰く、頃日増島六一郎、高橋一勝等諸氏新たに英吉利法律学校の発起をなさんとて、余に相談加入を申し来れり。余の進退も繫がり居ることゆへ、此際学校の移転するや否やを速に決了ありたきものなりと。君の言は直ちに取捨を決せられざりしかば、君は心喜ばざるの色あり。数日の後、又も講師の辞表を呈せり。英吉利法律学校の企ては、専門学校移転論と直接に関係あるに非ざれども、君が専門学校を移転するの上にて改革せんとするの組織は、恰かも増島、高橋諸氏の発起せる所と其の主旨を同うせるが故に、君は熱心に諸氏と謀議を凝らし、専門学校にして移転するなれば、専門学校法学部を以て此の英吉利法律学校に引継がしめんとし、移転行はれざるに於ては、自分は専門学校と関係を絶ちて専ら英吉利法律学校に従事すべしと決心せるなり。君が専門学校に於て専務講師の制を廃し、数多の兼務講師を招かんとするも、其位地早稲田に在りては行はる可らずとて、極力移転論を主張したる其大眼目は、蓋し、諸法学士が改進党云云を嫌ふて大隈氏管理の学校へ来らざるべしとの断案より来れるが如し。然るに、其後専門学校法学部は漸次君の主張せる如き兼務講師の制を取りたるに、英吉利法律学校に従事せる所の諸講師も大抵は専門学校へ来ることとなり、其の位地の僻遠なるも、亦た政治家の管理の下に在るも問ふことなかりしなり。去れば、君が組織変更、位地移転と両々相対して専門学校に勧告したる中に在りて、移転論は行はれざりしも、変更論は行はれたる姿なり。而して君が移転せずんば変更も行はれずと主張したる所の理由は、事実に於て之が反対を示したり。亦た一奇と云ふべし。其専務講師の制と兼務講師の制と、旧専門学校風と英吉利法律学校風と、利害得失の何れに在るやは、今ま之を喋々せず。君の専門学校に対する関係一変せると共に、君の移転論も漸く其の実相を顕はし来れるが如く認められたり。則ち昨年臘尾、君の始めて移転論を提出せるに当りては、早稲田の土地が不便利ゆゑ之を中央地区に移すと云ふが大眼目の如くありしに、今ま英吉利法律学校云々の談を聞きて見れば、必ずしも地区の問題のみに非ずして学校の組織に一大変革を起さんとするに在るが如し。地位の移転固より要用なれども、其先き組織の変革は、尚更ら必用なりと云ふが如く思はれたり。地位の議論丈けにてさへ中々に容易ならざるに、搗てて加へて組織の議論となりては、精神的に渉ることとて尚更ら人々の同意を得ること面倒なり。然るに君が此の面倒なることを人々に迫りたるのみならず、咄嗟の間に之を実行せんと迫りたり。是れ君の平生に於て決してなき所にして、其の平生になき所に出でたるの行為は、転た益す人々をして疑惑を君の身辺に抱かしむることとなれり。 (一三七―一四〇頁)

 ここに至って岡山の意図するところは明らかになった。彼が最初の発想は、大隈を中央に引き出し、改進党の昂揚を計らんとしたには相違なかろうが、四辺の情勢を勘案しているうちに、設立準備中の英吉利法律学校と合併し、一大私立英法系法律学校を創らんとするにあった。ここに言う英吉利法律学校とは、『中央大学七十年史』の記すところによれば、明治十八年七月八日に設立願を出した(九頁)が、既に明治十六年頃から計画されていたものである。

 岡山は代言人として早くから同業の増島六一郎、高橋一勝と接触し、明治義塾(英吉利法律学校の前身、明治十四年創立)の敷地買収にも活躍し、神田区錦町二丁目二番地の土地を低額で買い入れることに成功した。また十六年十一月京橋区南鍋町一丁目に信成社と東京攻法館とが合併して作られた審理社と称する代言事務所に足繁く出入りしていたが、実はこの審理社が英吉利法律学校の創立仮事務所に充てられていたから、岡山が同校の創立に陰ながら尽力していたことは疑う余地がなかった。従って彼が企てた「移転案」は、東京専門学校を都の辺陬から中央に移して向学者の便を計り、これによって学生数を増し、財政的破綻を未然に防止しようとしたものではなく、大隈の名声によって新設の英吉利法律学校を箔づけんとしたものではないかと見られてもやむを得なかった。そこで山田一郎も指摘しているように、彼の論理に矛盾撞着するものがあり、本学苑教師達からも異論が出て、十八年六月十八日の臨時議員会で否決されるに至った。この結果岡山は孤立し、遂に、彼に和した山田喜之助とともに、退職することになった。

 ところでこの岡山の「移転案」が討議された六月十八日の臨時議員会で、新議員沼間守一、藤田茂吉を交えた席上、山田一郎は法律学科の廃止という重大な提案をしている。これは勿論議員間に大きな波瀾を投げかけ、或いは「法、政両学部の分離」、或いは「法学部の廃止」、または「同部の存続」など、甲論乙駁容易に結論が見出せず、結局大隈の裁量に任せることになった。今『山田霜岳稿 波瀾史』によってこの間の経緯を記してみよう。

六月十八日、学校臨時会議ヲ開ク。沼間守一、藤田茂吉両氏新タニ議員トナリ出席セリ。余先ヅ議ヲ発シテ曰ク、熟ラ旬月間校勢ノ進歩ヲ見ルニ、凶兆日進大ニ憂慮スベキモノ頗ル多シ。而シテ其ノ最ナルモノヲ法学部トス。法学部ノ紊乱、此ノ旬月ニ至リテ極マル。紊乱玆ニ至テ極ルト雖、其自ラ来ル所、早ク業ニ本校創立ノ時ニアリ。爾来三年間本校ノ害ヲナスコト多クシテ利ヲ与フルコト少ナシ。之ヲ今日ニ截除スル、亦タ惜ムニ足ラザルナリ。翻テ将来ヲ察スルニ、斯ク講師人乏キガ如クンバ、到底之ヲ永遠ニ維持スルコト難シトス。仄ニ聞ク、今回英語法律学校ノ設立アリト。思フニ、本校法学部ト其性質ヲ同フスル者ナラン。則、学生ノ敢テ途ニ迷フ患アルコトナカルベキナリ。今日ノ要ハ、断乎法学部ヲ廃シ、本校ヲバ純然タル政治ノ学校トナスニ在リ。我輩ノ志ス所ハ、我邦学問ノ独立ヲ保チ、其教育ノ道ヲ全フスルニ在リ。此目的ニシテ達スルコトアランニハ、何ゾ瑣々タル事情ニ拘泥スルヲ須ヒンヤト。股野時中氏、沼間守一氏等之ヲ駁シ、既往ヲ以テ将来ヲ推ス可ラズトナシ、藤田茂吉氏ハ講師其人ヲ得ルコト容易ナリト云ヒ、岡山氏ハ廃スルニ及バズ、移スヲ可ナリトシ、島田氏ハ憲法ヲ改正シテ法学ト政学トヲ分離スベシト云ヘリ。議論錯定マル所ナシ。高田氏、当局会計ノ事情等ヲ報ジテ法学部ノ維持シ難キヲ述ブルト雖ドモ、奔波ノ中耳ヲ傾クル者ナシ。島田氏言ヲ発シテ曰ク、如此ニテハ到底論局ヲナシガタシ、決ヲ総理ニ仰ガンバ如何ニ。余未ダ会議ノ状察スルニ余ガ意見貫クニ由ナクシテ、余ガ苦心水泡ニ帰スルコト亦タ疑フベカラズ。此際余ガ論拠ヲ打破サレ、以テ決ヲナサンヨリハ、寧ロ全ク総理ノ独決ニ帰スルノ愈レルニ如カザルナリト思惟セシカバ、則チ氏ノ議ヲ賛成シテ曰ク、従来ノ組織ヲ変ジ議員講師全体ニテ有セル所ノ権利ヲ総理ニ奉還スベキナリ。衆議玆ニ定マル。之ヲ総理ニ白ス。

(一五葉の裏―一六葉の裏)

 大隈は開校以来法律学科の不振に頭を痛め、殊に十七年以来同学科の「混乱」を知悉していた。事実、現存する十六年九月より十七年八月までの『舎務日誌』を見ても、退学者多く、これを補うため入学時期でない時に、殆ど毎日と言っていいほど新入生を迎えている。また創立期の功労者砂川雄峻は去り、応援講師の磯部醇は病気欠勤勝ちな上、法学系教師の無断欠勤が頻繁に記録され、十八年には殆ど学科休業の状態が続いた。そこで、高田や天野のみならず、小野までが、「一時法学部を中止し専ら力を政治英学之二目に用」(六月五日付書翰)いるよう大隈に進言している。

 しかし、この難局に際して、大隈は、寧ろ当時簇出した私立法律学校に対抗して、法律学科の充実を計るべしと決断した。山田一郎の手記にも見られるように、「競争者出ルアルヲ畏ルル時ハ際限ナカルベシ。之ヲ意トスルニ及バズ。」と大いに豪腹なところを見せたのである。

三 月謝値上げ問題

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 開校当初に嘗めた学苑の内憂外患は、そのままにして大隈のものであった。入ること少くして出費のみが嵩むのでは、さすがに国政を料理した稀代の経世家大隈にしてもなす術なく、「三菱も、陰には大隈に毎月若干宛の金員を投じ居候趣」(前掲山県有朋書翰、『伊藤博文伝』中巻二八一頁所収)と伝えられたにも拘らず、十七年には早くも早稲田の別荘を本宅としてこれに移り、別に京橋区弓町にささやかな事務所を設けて、毎週二回ここに通い、接客するという不自由な生活を続けた。それにも拘らず年々増加する学生のために独力で校舎を増築したり、二十年六月には学校の基金として金三万円也の公債証書を与えたりしている。この金は、その年の春に雉子橋の広大な土地家屋を、形式的には渋沢栄一に、実質的にはフランス公使館に、売却して得た五万五千円のうちの半額であったと言われている。このように大隈が殆ど経済の大半を引き受ける形となっていた。尤も、それだからといって学校経営の衝に当った人達が安閑として大隈に寄り掛かっていたわけではなかった。年額二千円、月額百六十六円六十六銭余の大隈家の補助も、十六年一月から十八年八月までは月額百五十円に、同年九月から十九年三月まではその半額の七十五円に減少されているが、これは恐らく学校当局の方から辞退を申し出て、そうなったのであろう。薄給の教師達が十七年五月以降、前述の如く、給料の一割を天引きして寄附しているのを見ても、自ら難局を切り抜けようとする決意の程が偲ばれる。心ある者は経営の衝にあるとあらざるとの如何に拘らず、運営の正常化に心を痛めていたのである。

 俣野時中もその一人で、『東京専門学校改革案』なるものを、「十九年二月下浣」に「大隈校主大人殿下」に提出している。この『改革案』は、「古語ニ曰ク、狂夫ノ言聖人之ヲ択ブト。不侫狂愚幸ニ校主大人ノ棄ツル所ト為ラズ、曩時講師ノ末ニ列シ、委スルニ本校ノ盛衰ヲ以テセラル。駑才浅識猶且奮激セラザルヲ得ズ。蓋シ知テ言ハザルハ忠ニ非ラズ、思テ沈黙スルハ責ヲ塞グ所以ニ非ラズ。是故ニ管見ヲ録シ、高覧ヲ仰ギ、敢テ採択ヲ必スルニ非ラザルナリ。大凡物全ク善良ナラズ、事全ク利益アラズ。久ヲ経テ弊生ジ、時ニ渉テ害起ル。弊害ヲ避ケ時宜ヲ制スル、実ニ已ムヲ得ザルノ数、今日本校ノ如キ是ナリ。」の序言に始まり、「資金ノ積アルニ非ラズ、恵顧ノ人アルニ非ラ」ざる「狭小ノ私塾」たる明治法律学校や東京法学校の如きが「未ダ曾テ維持ノ困難ヲ聞カ」ないのに、東京専門学校が「全国私立校舎ヲ挙ゲ、比数ヲ聞見セザル」規模を誇りながら、「教務時宜ヲ失」っている現状を分析し、その改革のための私案として、縷々数千言を費やし、㈠校紀を張ること、㈡教科を一にすること、㈢会計を改むることの三項に亘って、次のように私見を開陳している。

第一 校紀ヲ張ル

何ヲ以テ校紀ヲ張ル。曰ク、専任幹事ヲ置キ、教科及事務ヲ管理セシムルコト。曰ク、議員ヲシテ本校ノ事情ヲ詳悉セシムルコト。曰ク、賞罰ヲ実施シ勤怠ヲ正スコト。不侫請フ、先ヅ幹事ノ事ヲ陳ゼン。是昨年八、九月ノ交、不侫ノ主張シタル所ニシテ、今更ニ縷言ヲ要セズ。聊力実験ニ徴シ、益々幹事ノ今日ニ急要ナルヲ知ルナリ。校主大人親ク管理ノ全権ヲ執ラセラレシヨリ、田原栄ヲシテ監督ト称シ、指揮ヲ奉ジ、事務ヲ行ハシムルト雖ドモ、実際果シテ管理ノ效ヲ奏シタル乎。不侫近ク喩ヲ取ランニ、監督ハ講師、役員ヲ統べ、各ヲシテ職分ヲ守リ、猜忌ノ気ヲ消滅セシメタルヵ、惰弱ノ慣習ヲ抱擲セシメタルカ。不侫其善ク簿冊ヲ修メタルヲ見ルモ、未ダ講師、役員ヲ率ヒ、生徒ヲ戒メ、管理ノ大綱ヲ挙グルヲ聞カザルナリ。……畢竟、講師、役員一致セズンバ、教科及事務ヲ整理スルコト克ハズ。校紀ヲ張ルコト克ハズ。校紀張ラズ、教務整理セズンバ、多数ノ生徒ヲ致シ公益ヲ進ムルコト克ハズ。学校ノ隆盛得テ而シテ望ム可ラズ。明治法律学校ハ、教師ノ一致ヲ以テ立ツ。東京法学校ハ、幹事ノ周到ヲ以テ成ル。彼ノ盛ナル所以ハ、我ノ衰フル所以トスルニ足ラン乎。況ンヤ講師ヲシテ私事ヲ抛チ、校務ニ徇フレノ精神ヲ励マ〔サ〕シムル、幹事ノ率先ニ存在スルヲヤ。不侫ノ幹事ノ必要ヲ痛論スル、決シテ偶然ニ非ラザルナリ。議員ヲシテ事情ヲ詳悉セシメズンバ、校紀ヲ張ルコト克ハズ。不侫謂フ、本校議員十余人、其中本校ノ事情ヲ詳悉スル者殆ド希ナリトス。……議員ノ事情ヲ詳悉セザルヤ、本校ノ実況ニ親炙セザレバナリ。実況トハ講師、生徒ノ関係、勤怠及情偽、金銭出入ノ模様等是ナリ。而シテ之ヲ詳悉スルノ方ハ、議員各自生徒ニ近接スルニアリ。生徒ハ多数ナリ。一々応対スルコト克ハズ。故ニ其中若干名ヲ選抜シ、時々邸宅ニ召シ、事情ヲ推問ス可シ。即、小長ヲ設ケ十人ヲ代表シ、大長ヲ置キ五十人ヲ代表ス。小長ハ通常生徒ヲ統べ、大長ハ小長ヲ統べ、以テ直ニ議員ニ接シ、相互ノ心意ヲ通達シ、又、議員、特ニ講師ニ推問スルトキハ、啻ニ事情ヲ詳悉スルヲ得ルノミナラズ、実ニ訓戒ヲ下シ、奨励ヲ行ヒ、以テ校紀ヲ張ル所ノ好方法ナリ。…賞罰ヲ実施シ、勤惰ヲ正サズンバ、校紀ヲ張ルコト克ハズ。学校ハ多数生徒ノ集ル所ナリ。生徒ノ狡獪ニ浸シ懶怠ニ潤ズル者、尠カラズ。之ヲ待スル、固ヨリ道義ヲ用ユ可キモ、亦タ厳威ヲ参ゼザル可ラズ。講師ハ生徒ノ模範ナリ。其過ヲ矯メ、其惰ヲ責メザル可ラズ。本校懲罰ノ設ナキニ非ラズト雖ドモ、徒具ノミ、空文ノミ。不侫未ダ其実施セラルルヲ見ズ。……講師ノ欠席スルヤ、無拠若クハ病気ノ二字ヲ報ズルノミ。而シテ多キ時ハ一日三四枚ノ掲示ヲ読ム。又甚シキハ、一人毎週一両回、或ハ某本週病気ノ文ヲ見ルニ至ル。是其人事実ノ理由ヲ曲陳セズ、監督真偽ヲ探尋セズ。又未ダ曾テ詰問ヲ加ヘタルヲ聞カズ。法之不行自上犯之、其生徒ヲ罰シ克ハザルヤ怪ムニ足ラズ。校紀ノ弛ムヤ、嘆息ニ堪ヘザルナリ。……厳罰ハ苛察ニ流レ易ク、寛待ハ明粛ニ至リ難シト為スモ、生徒ニ近接シ、情偽ヲ洞見シ、然後道義ヲ提ゲ、罰則ヲ挈リ、以テ之ニ臨マバ、必ズ生徒ノ心情ヲ服ス可シ。……学校ハ教科ヲ以テ成ル。教場ノ規則ヲ正サズ、反テ他ヲ規制セント欲スルハ、本末ヲ誤ルモノナリ。今先ヅ其本ヲ正サバ、其末自ラ正シカラントス。即、俸謝怠納、宿舎一切ノ事、寛厳相済決シテ慮ルニ足ラズ。……然而シテ、罰スルノ方法、講師、役員ニ在テハ、軽キハ譴責ヲ加へ、重キハ俸給ヲ減ジ、委嘱職務ヲ免ズ。又一月三日以上欠席シタル者ハ月俸ノ日割ヲ減ズ可シ。否セザレバ、従来ノ慣習ヲ洗滌スルコト克ハズ。生徒ニ於テハ、説諭張出、俸謝前納、退舎、退校ヲ命ズ可シ。賞スルノ方、生徒ニ在テハ、学術優等者、特志者、善行者ハ、賞状ヲ与へ、品物、金円ヲ贈リ、書籍借覧特権ヲ賦与ス。若クハ校主校長小讌ヲ賜リ、賞意ヲ表セラレ、各々事実ノ大小ニ従ヒ適用ス可シ。且ツ学術優等及特志者ニ限リ臨時撰抜試験ヲ歴テ上級スルノ特権ヲ与フ可シ。講師、役員ニ於テ、精勤者ハ賞金ヲ贈リ、若クハ校主校長ノ慰労ヲ受ケ、且ツ生徒倶共ニ新聞ニ広告ス可シ。……

第二 学科ヲ一ニス

何ヲカ学科ヲ一ニスト謂フヤ。曰ク、政治及法律二科ヲ合一ニシ、之ヲ以テ正科ト為ス、是レナリ。抑モ本校ノ設立明治十五年ニ在リ。其学科、当時ニ適切ナル可シト雖ドモ、星移物換、人智進捗、今日其改良ヲ唱ヘザルヲ得ズ。即、本校学科ノ不完全ナルハ、英学兼修ノ弊ト雖ドモ、亦タ二科ノ分立ニ坐シタリト謂フ可シ。何トナレバ、政治生徒ニシテ法律ヲ知ラザレバ、其智識ヲ全〔フ〕ス可ラズ。法律生徒ニシテ政治ヲ兼ネザレバ、亦タ智識ヲ全フス可ラズ。是故ニ従来多少二科ヲ参ジ、以テ教授シタルモ、二科ノ分離ニ因リ自ラ妨害ナキコト克ハズ。一ニ曰ク、有形ノ妨害。二ニ曰ク、無形ノ妨害。有形ノ妨害トハ、講師ノ多数ヲ致シ会計ノ困難ヲ生ズル是ナリ。無形ノ妨害トハ、講師ノ鬩争、生徒ノ阻隔及学科ノ不完全是ナリ。不侫請フ、先ヅ学科ノ不完全ヲ論ゼントス。夫本校ノ所謂政治ハ、専ラ経済、政体ニシテ、其他殆ド法律ヲ仮ルモノナリ。法律ハ経済ト併行シ、政体ニ因リ社会ニ施行スルモノニシテ、三者相待ツコト猶ホ車ノ輪ノ軸ニ於ケルガ如ク、其要、社会ヲ経営スルニ帰ス。

法学ハ政治ヲ離レズ、政学ハ法律ヲ離レズ、高尚ノ門ヲ分ケ明細ノ科ヲ立テ、始テ相離ルルト雖ドモ、之ヲ本校ノ教科ト為シ、日本社会ニ適用セント欲セバ、不侫寧ロ合一ノ必要ヲ信ズルナリ。……是故ニ法律、経済及政体ヲ折衷シ、速成応用ノ科ヲ撰ビ、以テ本校特有ノ教ヲ立テンコト、実ニ今日ノ急務ト謂ハザルヲ得ズ。……不侫既ニ無形ノ妨害ヲ論ジ、更ニ有形ノ妨害ニ及バントス。常ニ謂フ、本校講師寧ロ多数ニ失セリト。然レドモ、二科分立勢已ムヲ得ザルモノノ如シ。従来講師ノ数、校長ヲ合セ十有人。其中本科ニ関スル者七人、其俸給太ダ多ク、殆ド会計ノ堪ヘザル所。実ニ校主大人毎年二千円ノ恩賜ヲ受ケ、猶ホ不足ヲ告グルニ至ル。而シテ結果ノ現ハルルヤ、弊ニ非ラザレバ、則害、毫末事物ニ益ナシ。今若シ二科ヲ合一スルトキハ、講師五人ヲ要スルノミ。即、一人一日三時間ヲ担当シ、十五時間ヲ得可シ。其中九時之ヲ本科(一科三時)ニ用ヒ、六時之ヲ英学科ニ用ユ可シ。英学科ハ一人ノ専任教員ヲ置キ、校長ノ輔助ヲ仰ギ、又、本科及英学科共ニ名誉講師ヲ招待シ、若クハ得業生中ノ志望者ヲ撰ビ補講ト為シ、衆心一致其授業ニ黽勉セバ、啻ニ会計ノ困難ヲ救フノミナラズ、大ニ学科ノ進歩ヲ致ス可シ。多数ノ講師ヲ置キ、無要ノ金額ヲ費スコト甚ダ謂ナキナリ。而シテ此弊害ヲ救フハ、唯学科ヲ一ニスルニ在ルノミ。

第三 会計ヲ改ム

夫会計ノ事タルヤ、教科ノ因テ存廃スル所ニシテ、校主大人特ニ巨額ノ金円ヲ賜ハル、全ク之ガ為ノミ。然レドモ、方法其宜ヲ失ヘバ、恩賜モ無効ニ属シ、徒ニ之ヲ以テ弊害ヲ買ハントス。不侫ノ痛心最モ切論セント欲スルナリ。……不侫断言ス。会計一切変革セズンバ、決シテ本校ヲ維持ス可ラズト。是故ニ第一、入ヲ規リ出ヲ度リ、本校独立ノ基ヲ定ム可シ。第二、講師ノ俸給ヲ均一ス可シ。第三、事務所ヲ改メ、理事ヲ廃ス可シ。凡ソ事業ノ大小ヲ論ゼズ収入ノ金円ヲ以テ其経費ヲ支ヘズンバ、決シテ永遠ニ維持スルコト克ハズ。本校ハ、校主大人ノ設立ニ系リタリト雖ドモ、維持継続ニ至テハ須ク独立、其収入ヲ以テ自弁ス可シ。恩賜ヲ仰ギ始メテ維持スベシト定ムルハ、誤謬ノ甚シキモノナリ。生徒平均三百四五十名、他校ニ於テハ之ニ因テ利益ヲ収メ隆盛ヲ致ス。唯独立維持スルニ止マラズ。而シテ、本校之ニ因リ啻ニ自立スル克ハザルノミナラズ、毎年二千円ヲ受ケ、猶ホ困難ヲ訴フルモノ、会計其宜ヲ失ハズシテ何ゾヤ。……果シテ然ラバ、今日断然弊害ヲ掃除シ、将来本校ノ独立ヲ定ムルコト、蓋シ、校主大人ノ吝マルル所ニ非ラズ。是不侫ノ入ヲ規リ出ヲ度ルノ必要ヲ主張シ、予算表ニ拠リ不誣ヲ証スル所以ナリ。

一月概算表)

差引残金百二十一円也

……従来講師ノ労力、若クハ他事情ニ因リ其俸給ヲ一〔ニ〕セズ。且ツ多キニ失ス。是甚ダ不可ナリ。労力ノ多少ハ勤怠ヲ正シ、不定賞与ヲ行ナフ可シ。事情ニ因リ俸給ヲ異ニスルハ、一致協同ノ心情ヲ妨グ。不侫ノ平均ヲ論ズル所以ナリ。俸給多キハ賞与ヲ行フノ余資ナク、賞与ヲ行ハズンバ、勤労ニ酬ユルコト克ハズ。勤労酬ヒズンバ、講師ノ精励ヲ促スニ足ラズ。不侫ノ減少ヲ論ズル所以ナリ。入ヲ以テ出ヲ支へ、独立ノ際実ニ止ム可ラズ。……不侫稍々会計ノ改革ヲ説キ、遂ニ事務所ノ組織ニ至ル。不侫毎ニ謂フ、本校事務所ノ儼然タル官衙ニ彷彿タリ。而シテ事務ノ挙ラザル、抑モ何故ゾヤ。例ヘバ俸謝ノ怠納、一人五十円ニ達ス。保証人身元ノ如キ、曾テ調査スルコトアラズ。怠納金円殆ド催促スルニ由ナシ。其他之ニ類スル、一々枚挙ニ違アラズ。所謂理事、果シテ何事ヲ理スルヤ。……畢竟幹事其人ヲ得テ、厳粛勤勉講師ニ率先シ、生徒ヲ奨励シ、以テ事務ヲ整理セバ、必ズ積弊ヲ改メ、本校ノ隆盛ヲ期ス可キナリ。其他賄部等ノ事此ニ贅セズト云爾。嗚呼不侫狂愚、昨年七月ノ議ニ参ジ、其主張シタル所、近来大半画餅ニ属セリ。不侫自ラ其罪ヲ知ル。当サニ委任ヲ奉還シ、校主大人ニ謝ス可シ。日ニ講堂ニ上リ子弟ニ対スルコト、甚ダ俸給ヲ貪ルノ嫌アリ。然レドモ、後任其人ヲ得ズンバ、未ダ遽然自潔スルヲ克ハズ。聞ク、一日職ニ居レバ、一日其心身ヲ尽クスト。不侫ノ忌揮ヲ避ケズ、狂言ヲ逞スル、曩時駑材ヲ量ラズ重任ヲ受クルノ所以ニシテ、独リ一片ノ丹心感激自ラ禁ズ可ラザレバナリ。校主大人、若シ憫諒高覧ヲ辱スルアラバ、実ニ不侫罪余ノ幸栄ナリ。

 筆者俣野時中が寄宿舎舎監として特異な存在であったことは、後に第三編第十七章で述べることにするが、市島春城の「学園物故諸家録」によると、彼は司法省法律学校の出身で、フランス人アペール(George Appert)の薫陶を受けた仏法学者であった(『随筆早稲田』一三七頁)。従って本文中明治法律学校を礼讃しているのも、アペールが同校最初の講師として赴任していたからであろう。尤も明治法律学校の教師がよく一致難局に当ったことは、必ずしも誤りではなく、特に明治十六年、神田小川町に東京法学校が移転した時、難局に立たされた様子を『明治大学史』は次のように語っている。

是より先き、岸本〔辰雄〕、宮城〔浩蔵〕、矢代〔操〕の三氏は創立当時より、毎日出でては講義し、入ては校務を会議し、惟れ日も足らざるを以て、宮城氏は番町に住し、矢代氏は島原邸内の校側に移住し、岸本氏は邸と道路を隔つる処に転居し、以て全力を校事に注ぎしが、是に至りて、一層奮励夙夜商量して、彼我互に設備を補充し、互に月謝を逓減する等、作戦計画に忙殺せらる。 (三〇頁)

 また、東京法学校が「幹事ノ周到ヲ以テ成ル」とあるのは、恐らくフランス法学者ボアソナード(Gustave EmileBoissonade)が教頭の地位にあって、学校の経綸に参加したことを指すのであろう。『法政大学八十年史』の一節には、ボアソナードについて、次のように述べられている。

法思想上の巨大な啓蒙的役割、民法の基礎的な整備等注目すべき活動を続け、また法学者・法技術者の育成についても、まったく献身的であった。それによって梅謙次郎(のちの法政大学総理)をはじめ多くの有能な法学者を育てるとともに、東京法学社や明治法律学校等の私立法律学校の発展に積極的に協力し、わが東京法学社が明治一四年東京法学校に改組されてからは、自らその教頭となって学校の発展を助けた。 (一七頁)

 俣野はアペールやボアソナードと近接していたから、これら両校の経営を過大評価し、これを以て我が学苑の向うべき指針とした結果、その讃辞が生れたものと思う。しかし、本学苑においても高田や田原その他の首脳者は、多く大学の近隣に住居を構えていたのだから、この比較は必ずしも適当だとは言えないだろう。それにしても学苑草創の時から経済的に相当苦しんでいたのは事実で、そのため志ある者は、それぞれ自案をまとめて要路に進言したであろう。岡山兼吉の学校移転の進言のうちにも、確かにこうした意図があったものと思う。それがたまたま自他共に許した剛毅果断の俣野の癇にさわり、こうした改革案として大隈の机下に献じられたものであろう。この改革案は過去何十年間その有無さえ不明であったが、偶然の機会にその草稿が発見され、更に正本も、昭和五十一年に大隈家から寄贈された文書の中に含まれていたのである。摘録したところによって大体の構想は推察できるから、今更贅言を要しないが、要は教職員および学生の風紀粛正、事務の整備、ならびに学苑の癌と目された会計方法の改正にあった。

 俣野が職を賭しての改革案がどれだけ導火線としての役割を果したかは確言できないが、十九年三月十八日、大隈重信臨席の下で大隈邸に開かれた評議員会で、教則の大改正、事務の刷新、学費の値上げ等二十八ヵ条の校則改正を決議した(『早稲田大学沿革略』第一)。ここで決定を見た三項目中最も注目すべきものは、学費の値上げであり、「一つの学校ともあるものが、仮令戴く其人は大隈伯のやうな大人物であるとしても、常に其の庇護の下に居ねばならぬやうでは到底理想的事業として永遠に経営するには適しない。」(『半峰昔ばなし』一一一頁)との高田ならびにその同志の主張が容れられて、学苑の大隈家からの経済的独立がここに実現に至ったのである。しかし、当時私立学校の月謝は一円が通例であったから、その大幅な値上げを学生に納得させるのは容易なことではなかった。市島は、

当時は今頃のやうに学校の経済の不足を寄附金で補ふやうなことは絶対に出来なかつた。借金をしようとしても学校に金を貸すやうな篤志家も無〔か〕つた。毎月の不足を補ふ道は、唯だ単に月謝を増額するの外に無〔か〕つたのである。僅かに八十銭の増額と云へ、学生には可なりの苦痛であつたに相違ないが、学校ではこれが為めどれだけ増収があつたかといふと当時の学生の数はよくも記憶しないが、多分三百人位しか無かつたであらう。仮りに三百人とすると増収が二百四十円に過ぎぬ。二百四十円は些々たるものであるが、此の僅かばかりの増収が大切であつた程、学校の経済の規模が小さかつたのである。今日コンな昔し語りをすると人は多く不審を抱き、ナゼ一円増額しなかつたのか、八十銭と一円は五十歩百歩でないか、といふものもあらうが、刻んで八十銭としたのは学生に対して二十銭だけ遠慮したのである。当時の金は今よりも遙かに貴かつた。二十銭だけでも遠慮の趣意が立つた訳である。学校では二十銭遠慮したのみでなく、教科用の原書は従前学生に買はせたのであつたが、月謝を増額する代りに、教科書は学校より貸付することにした。此の教科用書貸付の件も建議案中の一要項で、之れを購入する費用は大隈家より仰ぐといふ案であつた。実に斯くまでせなければ八十銭の増額は行はれ難い事情であつたのだ。

(二二―二三頁)

と『随筆早稲田』の中で語り、更に『早稲田大学開校

東京専門学校創立廿年紀念録』では、次の如くそのいきさつを述べている。

学校も創立以来漸次隆盛に赴いて、十八年の暮には已に三年の星霜を送り、学生も数百名の多きに上りましたから、経済も寛やかになるべき筈でありますのに、事実は之に反比例を為して居たのです。それはどういふ訳かといふに、月謝の滞納者が非常に多くて、其の三分一も取り立てられない。此の月謝滞納のために学校では非常に困難して、之がために大隈伯の救助を仰いだことが幾度だか知れない程です。……これでは何時までたつても、学校の独立自営といふことは覚束ない。是非とも一大改革を施さねばならぬといふので、私ども三四人の間に其の協議を開いたのです。此の時高田君は牛込の若松町に宅を持つて居られたので、田原君と天野君と私とでそこへ詰めかけて、高田君の原案によつて三昼夜の熟議を凝らし、二十余個条の決定をなし、三十枚ばかりの建議書を自分が書いたことを記憶して居る。……其の建議書〔「春城雑纂」十四所収〕の骨子を摘んで御話し致しませう。学校の目下の財政困難はどうしたら救へるであらうか。詰まり壱円の月謝を壱円八十銭に引きあげるより外致し方がない。八十銭増額すれば初めて夏期の休業中教師に給料を払ふことが出来る計算になる。併かしながら従前の如く月謝の滞納者が多くては矢張り元の杢阿弥であるから、此の処非常の英断を以て月謝徴収を励行せねばならぬ。其の方法としては、滞納者はドシドシ停学を命ずることにしたら善からう、又た学生に対しては、八十銭を増額する代りに英語兼修のため無料で書籍を貸与するといふ事にしたら不満も無からう、斯様にして学校は全く月謝の収入を以つて経済を立て、自今断じて大隈伯の救助を仰がざる事にしよう。これが即ち建議の要点です。さて愈々かうと決定しましたので、学校全体の生徒を集めて高田君から熱心に其の趣意を演説されました。其の要の点はかういふ事であつたと覚えて居ります。

本校創立以来校運日に盛にして学生月に多きを加ふるにも拘はらず、月謝滞納者の極めて多きため、学校の経済立たずして常に大隈伯を煩はすは、実に慨歎の至りなり。これ一に大隈伯に依頼する依頼心より起るものにして、学校の気風を害し、発達を妨ぐること甚大なるべし。学校には必ず独立独歩の精神を要す。故に此の精神に基き、学校に於ても今や一大改革を断行し、従来壱円なりし月謝を壱円八十銭に増額し、其の代り書籍を無料にて貸与すべし。学生諸君も宜しく本校の意を諒し、快よく之を承諾せられたし。月謝の滞納者には、今後は気の毒ながら猶予なく受業停止を命ずべし。此の改革案を実行するためには、諸君に借すに五十日の猶予を以てすべければ、諸君も充分の用意せられたし。云々。

……其の改革の結果として、……六個月交代の監督制を改めて、この時から二個年交代となし、其の名称も旧に復して幹事といふことになつて、田原君が第一回の幹事として就任しました。此の改革案実行の衝に当るものは即ち幹事でありますから、其の責任は中々重大でありました。そこで田原君は、十九年三月十八日に愈々事務を執り初じめ、四月一日から新規則の実施といふことになりまして、高田君の口より生徒全体に向つて改革の趣旨を発表しました。所で、幹事の第一の苦心は月謝滞納者との戦である。之を善く処分することが出来ねば、学校の生存も六かしいといふ程の重大問題でありますから、幹事の苦心は実に言語に尽されぬ程です。月の三日までに月謝を納めない者には一個月間の停学を命ずるといふことが新規則に掲げてありまして、改革の焼点ともいふべき個条は即ち是れでありましたが、規則通りに月謝を払込んだものは、学生に懇諭し且つ借すに期日を以てせしに拘らず三分の二で、残りの三分の一は悉く滞納したのです。田原君は非常の英断を以てそれ等の学生に向つて直ちに停学を命じました。ここで一寸御注意を願ひたいのは、当時の学生の気風が今とは大層違つて居つたことです。即ち当時の学生は今のやうなおとなしい学生では無いのですから、随分暴動も起しかねないので、中々やりにくい。田原君も勿論覚悟の上で此の処分を励行したものですが、全校学生の三分の一、即ち凡そ二百名の滞納者に向つて停学処分を励行したのですから、非常に激昂して幹事を叩き殺すなどといふやうな騒ぎになつて、其の紛擾の結果講師から仲裁者があつて、若干日の猶予を与へることになつて一先づ落着しましたが、翌月即ち五日に至つても、亦た多数の滞納者が出来ました。是に於て容赦なく停学を命じましたが、狡猾な学生は停学中にも教場へ出るので、厳重に之れを取締らなければ停学を命じた甲斐が無いのです。……当時、田原君が学生の粗放な時代に方つて、即ち動もすれば暗討にでも逢ひさうな時代に方つて、断乎として校規を励行し学校の基礎を固められたのは、実に献身的の働きであつて、我が学校の歴史上に特筆大書すべきものであると考へます。之と共に吉川〔義次〕、佐藤〔善長〕両氏の功労も決して没すべからざるものであります。二十年の夏の事です。田原君の尽力で月謝の滞納者も無くなり、どうにか経済も立つやうになつたので、高田君が百円の金を持つて突然田原氏を訪ひ、感謝の印であるといつて出された時には、田原君も寝耳に水の思をして驚喜したといひますが、当時は学校の経済がヤツト立つたばかりで余裕が無かつたのですから、僅かに百円でも中々の大金です。田原君が驚いたのも無理は無いのであります。

(三一六―三二一頁)

 以上のような経緯を経て、とにかく学苑の最大の難関である経済的独立に一応のめどが立った。しかしこの中、教科書無償貸与の実施に必要な経費については、やはり大隈の出資に頼らなければならなかった。俣野が改革案第三で、「会計ヲ改ム」ることのうちで、講師に対する俸給が多きに失する弊に対する緊縮案として提案しているところは、ここには見られなかった。しかし果して諸講師の俸給が多きに失したのであろうか。春城市島謙吉は、開校当時の教師は薄給に甘んじ、その義侠的精神が本学苑を築き上げたものであると述べている。創立者大隈は、挂冠後収入がなくなり、貯えのない布衣の身には、早稲田の木枯しも一しお身にしみたであろうが、それにも拘らず、堅く閉じた唇の錠を開けば、出るものはただ金ばかりで、改進党の結成といい、校舎の建築といい、年額二千円という学校への補助をしなければならないほどの学校の内幕であったから、もとより教師達に高給を支払うことはできなかった。明治十五年十月から翌年二月までの『月給判取帖』を見ると、三十円給は専任の高田、天野、田原の三人、他に代言人や新聞記者の職を持つ、いわゆる兼任教師の鷗渡会の連中や、幹事の秀島は二十円クラスで、十一月に就任した前橋孝義の初任給は十円、彼だけが毎月昇給して二月には二十五円を支給されているぐらいで、文部省十等属門馬尚経は、退職後改進党の事務員となり、のち引き抜かれて本校の会計委員となったが、その月給は在職中の十二円から五円引き下げられた金七円也であった。尤もその頃東京大学の教授で奏任待遇である者でも、『高等官々等年俸表』の規定通りに支給されなかったもののようで、十四年六月の『改正官員録』では、大槻文彦が一等属上等給で七十五円、江木千之が六十円、小中村清矩が二等属で五十円であり、十五年九月一日の『改正官員録』には、その年大学卒業の田中館愛橘、石川千代松、青山胤通(後の侍医頭)が御用掛準判に任じられていて、この準判の俸給は明らかでないが、判任官に準ずるという意味であろうから、恐らく判任官二、三等の五十円または四十五円級であったろう。というのは、高田が恩師外山正一から、文部省の官吏になるように勧められた時の俸給が「大枚五十円といふので、当時としては頗る優遇であつた。」(『半峰昔ばなし』七八頁)と記しているところから、大体推定できるのである。こうした官吏の俸給基準から言えば、我が学苑の月俸は、大体その六割程度を支給したに過ぎなかったから、薄給と言えば薄給であり、教師達の義侠的精神による奉仕と言えば、まさにその通りである。だがこの頃の米価は一升当り十一銭五厘、家族構成が一戸当り四・三人であるから、一人一ヵ月の米の消費量を一斗と見ても、四円九十五銭に過ぎなかった。従って月給三十円は必ずしも薄給であるとは言えないかもしれない。しかしその頃の風潮としては、官僚になるのが青年の理想であり、官僚第一主義の事大思想がはびこっていたものであった。しかも官吏は、実質的にも経済的に恵まれていたので、任官を拒絶してその六割相当の月俸に甘んじた高田らの行為は、市島の言う義侠的精神の発露かもしれないが、大隈の下で小野を中心として新事業を開拓することができるのは、男子の本懐ではなかったろうか。尤も砂川が京橋西紺屋町から人力車を飛ばして来るのでは、いくら車賃の安かった当時でも、二十円の月給(『月給判取帖』には二十円とあるが、高田も砂川も十五円と記憶している)では、奉仕に近かっただろう。現に砂川は後年、「雪の日は俥賃が高くて、雪が降ると止むを得ず草鞋穿きで歩いたものである。」(「法科回顧録」『早稲田法学』昭和八年五月発行第一三巻四九頁)と述懐している。何れにしても給料支出は収入に見合って支払われたもののようで、例えば十五年十月分の収入は、二十一日に開校したため、月額の半額(四十三円五十銭)を徴収したから、大隈の補助金の月割額(百六十六円六十六銭)と合してもなお諸給料の支払い(二百三十八円七十銭)に不足し、その他を含めて九十一円三十六銭二厘三毛の借入れをしているが、翌十一月には、補助金と月謝だけで諸給料を賄って、五十六円六十六銭六厘六毛を余している。また十六年十月十五日付の「明治十五年度出納決算書」でも、補助金と月謝の合計額は、諸給料を支払ってなお三十五円九十五銭三厘三毛を残している。尤も右の決算書は二通りのものが作成され、一通には、補助金、臨時補助金、月謝、教場費、塾費より成る総収入三千八百十六円五十八銭三厘三毛と、諸給料、諸費、書籍代より成る総支出三千九百五十三円六十三銭が記載され、差引百三十七円四銭六厘七毛の赤字となっているのに対し、もう一通には、総収入に更に束脩金と借用金とが加えられて、四千三百十一円七十三銭五厘二毛、総支出には「束修金預ケ分」、「仝日高私用分、但シ本人ヨリ取立次第弁償」、「生徒ヨリ預金、日高私用」、「月謝集金、日高私用」を含む六費目が加えられて、四千三百四円七十二銭七厘、差引七円八厘二毛の残金が記録されている。当初学苑の会計を委ねられたのは日高啓輔であったが、恐らくは、月謝未納などに基づく不足を預金の流用などによって糊塗し始め、そのうちに日高個人の生活費と学校の経費とを混同するに至ったのを、かつて会計検査官であった幹事秀島家良の慧眼が見逃す筈はなかった。学苑の『出納簿』の十六年三月の決算の末尾には、「開校以来本月ニ至ルマデ日高会計委員扱ウ」と書き入れられて、門馬が捺印していることにより、会計委員の更迭が暗示され、『会計精算書』には、四月以降、新会計委員として、門馬尚経および山元治郎兵衛が、毎月捺印している。こうして経理の紊乱は大事に至らぬうちに是正されたけれども、第一年度の決算が三百二円二十銭一厘九毛の借用金により辛うじて辻褄を合せたような事態は、なかなか改善されなかった。

 さて月謝の増額は、既に述べたように大きな波瀾ののち決定を見たが、それでも収支が完全に繕われたのではなかった。教師の月給も急に上昇したわけではなく、相変らず応援講師の厚意に頼らざるを得ないのが実状であった。

四 校長の交替

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 学苑創業時代の最初の五年間は、難問題が山積していた。殊に明治十八年から十九年にかけての二年間は、学苑の興亡に関する移転問題、月謝値上げ問題が学内を大きく揺り動かした。幸いにして当事者達の賢明な判断と処置とは、雨降って地固まるという好結果をもたらし、反って学苑の基礎を安泰にした。しかしかかるうちにも創業の功労者であり、名実共に学苑行政の支柱であった小野梓を失ったのは、何と言っても大きな打撃であった。大隈英麿が校長としての職責を果し得たのも小野あってのことで、高田や天野などの少壮講師が、彼の傘下にあってなおかつ彼を擁護するとはいえ、小野の死は英麿の心をどれだけ暗くしたであろうか。その上、学苑開設の第一目的であった理学科の廃止に遭って希望を失い、今はただ留学中に習得した英語のみを教える地位に止まっていることは、定めし彼の心を平らかにしなかったものがあったろう。そこで、ひそかに転身の機会を待っていたところ、たまたま仙台に第二高等中学校が開設され、その教諭に迎えられたのを機会に、明治二十年八月、遂に校長の職を辞して、熊子夫人とともに、東京を離れることになった。

 評議員会は後継者として前島密を選んだので、同年九月から彼は第二代校長の座についた。前島が我が学苑の創設者大隈重信の知遇を得たのは、遠く明治二年に溯る。すなわちその年に民部省九等出仕を拝命して、初めて官界に入った時、大隈は民部大輔であり、五ヵ月後の翌三年四月、租税権正に任ぜられた時、その上長の大蔵大輔を兼任していたのもまた大隈であった。大隈が前島の実力を本当に知ったのは、鉄道を作るためイギリスで国債を起した際、その条件について紛争が起きたが、郵便制度視察のために派遣されていた彼がこれを見事に処理し、訴訟に勝利を得た時からであった。その後政府の要職を歴任しながらも、大隈と不即不離の関係を持続し、十四年の政変に際しては、大隈直属の官職に就いていなかったにも拘らず、内務省駅逓総官の職を辞し官界を退き、改進党結成に当っては、有力なスタッフとして参画した。『留客斎日記』の十五年一月三十一日の条に、「会於雉橋老之寓。会者河野・前島等也。議我政党之事、余諾起諸規約之草。」とあるのがそれで、その後十三回に亘って会議に列席している。また大隈や小野義真とともに発起人となり、改進党員のための金融機関として、壬午銀行を創設した。その他学苑との直接関係としては、創設当初から議員(後の評議員)として、開校式に連なり、その後も評議員に重任している。このように前島の本学苑に対する関心はきわめて深いものがあり、校長就任は形式的には評議員会の推薦によるものであったが、実は彼自らがこの職を買って出たものであると、『前島密自叙伝』は告げている。

翁は始終其の内方の種々なる紛糾や混雑に対して調停の位地に立たれ(校長にならぬ以前から)、其処で校長たりし英麿氏が其位地を退くや、翁は最も大切な最も困難なる時に当つて自ら奮つて校長たらんことを大隈伯まで申込み、伯も勿論喜んで同意せられた訳である。其れは十九年九月大隈伯が伊香保の温泉に居らるる時、翁は態々訪問して事を決したのである。是れ即ち翁が東京専門学校の校長となられた所以である。 (一二四頁)

 なおここで注意すべきは、東京専門学校の校是とも言うべき「学問の独立」に関し、これを前島が年来の主張である「国語の独立」に関係せしめ、更にこれについて本学苑の学生を前にして演説している点である。彼は早くから国語改良について深い関心を寄せ、明治初年頃から漢字無用論を提唱し、政府が漸く国字改良問題ならびに国語調査に意を用い始めた明治三十二年以後、これが委員となり、熱心にこの仕事に取り組んだ。校長就任後間もなく、全学苑の学生に対して本来の主張を表明しているのは、まことに興味深いものがあるから、今その要点を摘記しておく。

学問の独立とは各国共に学問は其国の言語文章を以て教へ学ぶの義で、外国の言語文章を知らねば学問が出来ぬといふのは、外国の学問の奴隷、少くとも其付庸となるもので、決して独立とは言はれない。精しく言へば、元来其国々の事情に依り或一部分を除くの外は、世界的で無くてはならず、随つて何れの国の学科でも益あるものは広く入れて我学問中のものとせねばならぬことは勿論であるが、然し之を入れるにしても其外国の言語文章までをも其儘に入れずして、我言語文章を以て之を説き明かし又書き著はすべきである。昔し漢学を採用した時漢語漢文漢字までをも入れたやうなことは学ぶべきでない。更に進んで言へば我を主として他を客とし外国の事物は之を咀嚼消化して我肉骨と化成し、我国のものとして学科を立つべきであらうと思ふ。……諸君、爰に於て御注意を請ひたいのは学問の独立は何に依て成るかといふ点である。抑も学問の独立は国語の独立に依つて成るのである。国語国文が純正の独立を成さざる時は唯精神のみであつて体用を具へないものになる。故に真正なる学問の独立を保持せんには専ら国語の独立に重きを置かねばならぬ。果して然らば国語の独立とは如何なる意味か、或は我国の純粋なる言葉のみを用ひるのであるかといふ疑問が起る。……森羅万象実に数限りなく日々開進する学術上複雑なる事物思想に対し、皆我純粋なる国語を用ひんとすることは徒に困難と労苦とを得るのみで、其益が却つて少ない。故に我国語で訳されるものは之を訳し、訳し難きものは原語を其儘恰も仏経漢訳に印度語を存する如く取り入れる方がよろしい。又我国語で言はれるものでも世界に普く通用する外国語は其儘に入れるがよく、或は訳しては趣味を失する如きものも原語を其儘採るのがよい。又術語も同じく然りであるが、其他は皆我に帰化せしめ我国語の国籍に編入し、即ち日本辞書に登記するのである。かやうにすれば少しも国語の独立を傷つけずに之を完全にすることとなるのである。……我帝国の如き開闢以来他の侵掠を受けたことのない目出たい国では、国語の独立といふことは昔から大切にすることは勿論、全体此点に気の付た人すらも無かつた程に国家が危きに瀕したやうなことが無かつた。将来に於ても国語独立を擁護せねばならぬやうな事は万々あるまいとは信ずるが、然し苟も国の独立、国の生存を完くするには深く之に注意せねばならぬことは勿論である。……明治十五年に東京専門学校は学問の独立を主義とし之を声言して立てられたが是も此事と大なる関係がある。斯の如くであるから最早学問独立の如何に就ても国の独立如何に就ても別段関心するにも及ばぬが、而も此問題は決して高閣に束ねて閑却して置くべき小事件で無い。永世に渉つて学者教育家の能く注意して講究すべき大問題である。否学者教育家の務として責むべきものでなく寧ろ政治家の活眼で見るべきが当然である。然るに古より我政治家には中外種々の刺戟を受けなかつた故でもあらうが、頓と斯様な事に着眼しようともしなかつた。イヤ古人は兎も角近来の政治家が既に中外の刺戟を沢山に受け乍ら矢張此点に気が付かぬ人が多くはあるまいか、真正に学問の独立を為し各科の学を容易ならしめ、殊に国民教育を普ねからしむるには第一に漢字を廃し、音符字を用ゐ、国語を正し、言と文とを一致せしめ、極めて学問を為し易からしめねばならぬ。それには先づ政府が根本的に大改良の成案を具へ、凡百の漢文書をこれと相共に進ましむることに勉めねばならぬのである。以上の意味から私は私の確信する一則を爰に掲げて断言する。即ち国語国文を一致せしめて学問の独力を確固ならしむるは国家の大本であると、之れ無ければ其国終に殆しと断言するのである。 (『前島密自叙伝』 一二五―一三〇頁)

 「学問の独立」とは大隈の発想によるものであるが、その後における歴代の学苑統率者によって、それに対する解釈は少しずつ異ったものがある。前島の考えは以上の演説によっても明らかである通り、「国語の独立」がその根本的な要素となっている。それはともかくとして、彼の学苑を愛する熱情は関係者の誰にも劣らないものがあり、校長として全くふさわしい人であった。彼の校長在任期間は僅かに三ヵ年に過ぎなかったが、次章に後述する英語専門諸科の設置の断行をはじめとして、在任中に処理した事件は一、二に止まらなかった。しかも後年、大学に昇格するために必要な募金運動には委員長となって活躍し、終生我が学苑の事業を助け、且つ大いに貢献した。

 前島密は、天保六年一月七日、越後国中頸城郡津有村大字下池(現新潟県上越市)に生れた。父は上野助右衛門、母は貞子と言い、その二男で、幼名を房五郎と称した。父は農耕の傍ら仏典や論語を愛読したが、その子と同居すること僅かに六ヵ月で死去したので、父の訓育を受けることなく、寧ろ教育に熱心であった母の影響を受けることが大きかった。七歳の時糸魚川藩医相沢文仲に養われ、十二歳にして江戸に出で、医学生、漢学生、蘭学生として勉学。その後西洋砲術、兵法、汽関学、航海法等を学ぶ。この間幕臣前島家を継ぎ密を名告った。官界に入ったのが明治二年、四年三月に創始された我が国の近代的郵便制度の発展に貢献し、十年駅逓局長の時、万国郵便聯合条約に加盟するのに功があった。既述の如く、明治十四年の政変で下野したが、次編に後述するように、二十一年から二十四年まで逓信次官に任ぜられた。のち実業界に入り、北越鉄道株式会社社長、東洋汽船株式会社監査役、日本海員掖済会理事長、日清生命保険株式会社社長等を歴任、男爵を授けられ、貴族院議員となり、大正八年四月二十七日、八十四歳の天寿を全うして逝った。なお、高田早苗夫人不二は前島の長女であるが、前島の校長就任時には、前島はまだ高田の岳父ではなかった。