Top > 第一巻 > 第二編 第十二章

第二編 東京専門学校時代前期

ページ画像

第十二章 鳳雛の羽搏き

ページ画像

一 第一年度の学科配当

ページ画像

 東京専門学校がその開設を出願した際の各科の学科配当に関しては、四三三-四三六頁および四四二―四四三頁に既述したところであり、明治十五年九月二十二日の『郵便報知新聞』附録の「東京専門学校開設広告」に掲載されたものも、政治経済学科および法律学科に関する限り、それとほぼ同一であることは、四四〇―四四一頁に指摘した如くである。この当初案の作成に関与した高田早苗らの鷗渡会の青年達その他にしても、小野梓にしても、何れも未だ教育の玄人であるとは言い得ないけれども、東京大学の学科配当を参考にして、良心的に練り上げたものであったに違いない。しかし、いざ実施という段になると、種々問題も出て来たであろうし、また外部の情勢も影響して、草創期の学苑にあっては、かなり目まぐるしいまでの変動を経験したのである。ただ創立当時の学苑には、資料の保存に十分な配慮を行うだけの余裕に乏しく、散逸に任せてあったから、その変化の跡を史料に即して辿ることにはかなりの困難が伴うと言わざるを得ない。このような事情に鑑みて、本書の編纂と同時に『東京専門学校校則・学科配当資料』を刊行して、現在において可能な限りの原史料を蒐集・覆刻し、若干の解説も加えておいたから、変動の詳細は同書に譲ることとし、本書においては、その中の特に注目すべきもののみについて略述するのに止めよう。

 さて、東京専門学校が、その第一年度において、「開設広告」に示された通りの授業を実施したか否かには、疑問がある。「梧陰文庫」の中には、『東京専門学校規則』と題する五十八頁の小冊子が発見されるが、その刊行年月は明記されてないけれども、十六年三月編纂と推定される『東京諸学校学則一覧』中の「東京専門学校校則」ときわめて類似していることからみて、第一年度の校則と看做すことができる。ところが、そこに記載されている学科配当(『東京専門学校校則・学科配当資料』資料3参照)は、「設置願」なり「開設広告」なりに示されたものとは、若干異っている。しかも、その相違の中には注目に値するものさえあるが、どのような手続で、また正確にいつから、この変化が実施されたのかは、はっきり断定できない。

 ここに最も特筆すべき変化として挙げなければならないのは、政治経済学科の学科配当である。政治経済学科は、「開設広告」に言うところの「政治、経済学」を教授すべき学科でありながら、「設置願」では、経済学については、経済学原論に第一年第一期毎週四時間、第二期三時間、経済沿革史(=経済学史)および租税論に第二年第一期四時間、貨幣史(「開設広告」には貨幣論と改めらる)および貿易論に第二年第二期三時間が充てられ、更に日本財政学に第二年第一・二期二時間が配当されているにも拘らず、政治学関係では、外交学を暫く別とすれば、第三年第二期に、政理学三時間が僅かにその存在を示しているのに過ぎない。もしこの通りの学科配当で東京専門学校の政治経済学科が発足したとすれば、政治学および経済学の独立学科というよりも、政治経済学(political economy)の独立学科であったと言うべきであろう。

 発足当時数年間こそ、法律学科の学生数が政治経済学科を上回っていたことは事実であるが、東京専門学校の特色を示すものとして、世間も注目し、学苑当局もひそかに誇るところがあったのは、政治経済学科であった。高田早苗は、後年次のように述べている。

明治十五年余輩が帝国大学を卒業して東京専門学校即ち今の早稲田大学の創立に与る事になつた当時、余等の先輩であり且つ東京専門学校の創立に大に力を致された小野梓先生等から専門学校に於ける学科の相談があつた時、余は主として此政治学の独立を唱へたのである。当時帝国大学に於て政治学は未だ法律学に隷属しては居なかつたが文学部の一学科に過ぎなかつたのを、余等の主張が容れられ、東京専門学校に於いては政治学を経済学と共に一つの独立せる学科として政治経済学科を置く事になつた。即ち此事実から云ふ時は、我日本の大学に於いて政治学経済学を初めて大学の中の科目として取扱つたのは当時の東京大学であるが、之を一つの独立の学科と見做し、他の法律学其他と対立せしめたのは、我東京専門学校即ち今の早稲田大学が最初であると申して宜しいのである。元来、大学の諸学科中では神学即ち宗教学、法律学及び数学が最も古い者であつて、続いて文学の如きが研究学修せられ、更に科学の発達と共に後に至つて理学が加へらるるに至つたのであるが、政治学経済学の如きは大学の学科として頗る新しい者である。殊に之が独立の一学科として取扱ふと云ふが如きは極めて近世の事に属する。我早稲田大学が世界に於ける最初の学校として政治学を独立せしめたと云ふ事は或は云ひ難いかも知れぬが、少く共外国の諸大学に比して余り後れて居らぬと云ふ事は確に云ひ得られる。

(『早稲田政治経済学雑誌』大正十四年五月発行第一号 一一―一二頁)

すなわち、政治学は、学苑当局により、創立当初から、経済学とともに、否、経済学以上に重要視され、やがて、後述の如く、二十一年には、「本校ハ政治学、法律学、行政学、及ビ英学ヲ教授スル所トス」と、完全に経済学を除外した「規則」が発表されるに至るのであり、従って正規の名称は、最初の数年間、「政治経済学科」であるべきにも拘らず、公式の文書にもしばしば「政治学科」と記載せられているほどである。(現に学苑の半公式記録である『早稲田大学沿革略』にさえ、前述の第一回入学試験の記事のみならず、開校式当日の項にも、「学科。政治科、法律科、理化学科」と記載されている。)

 そうしてみると、最初に公表された政治経済学科の学科配当に政治学関係の科目が少いのは、甚だ異様であると感ぜざるを得ない。高田は更に、

早稲田に於ける政治学〔は〕帝国大学の独乙流なるに対して、英吉利的学風を以て特色となした……。元来故大隈侯爵其人が英国に於ける立憲政治の謳歌者であつたのは勿論、之を補けた小野梓先生の如きは弱冠にして英国に留学し、英国憲法の運用を研究されたのみならず、ベンタム、ミル等の功利説を深く学んで帰られたのである。而して最初から政治学、憲法等の講座を担当した余の如きも、東京大学に於て英国風の教育を受け、加ふるに英国の歴史、其憲政史等を好んで学修し、更には英文学に心酔して居たと云ふ様な訳で、其教ふる所総て英吉利流であつた事は自然の勢である。夫や是やが原因をなして、早稲田が我日本に於ける英国流の政治学の中心と成つたのは毫も怪しむに足らぬ事と云はねばならぬ。 (一三頁)

と記しているが、イギリスの大学では、政治学に対する処遇は必ずしも厚かったとは言えず、政治学に関して教授の椅子が設けられたのはオックスフォードで一九一二年、ケンブリッジで一九二七年であり、一八九五年、シドニー.ウェッブによって設立され、一九〇〇年よりはロンドン大学の一構成部分となり、「英国流の政治学の中心」に発展したロンドン・スクール・オヴ・エコノミックスでさえ、一八九六年以降政治学が講述されはしたものの、最初の政治学教授が任命されたのは漸く一九一五年(行政学教授は一九一三年)であった。他方、経済学もイギリスの諸大学で正式の講座が開設せられたのは十九世紀以後のことであるとはいえ、既に明治十五年(一八八二)には、オックスフォード、ケンブリッジ、ロンドンのほかに、エディンバラとダブリンとに経済学教授が任命されていた。しかし、このようなイギリス学界の実状が、東京専門学校の最初の学科配当に反映されたと看做すことは、牽強付会も甚だしいと商量せざるを得ない。勿論、政治学関係の科目を省くことにより、大隈の私兵養成との世評を幾らかでも沈静させようとする思惑など、ある筈がなかったと信じても誤りではなかろう。と言って、まさか、願書作成者がこんな重要科目を書き落す筈もないであろう。しかも、法律学科の当初案には、第二年第一期に、政治原論四時間が配当されているではないか。何れにしても、政治経済学科の当初案に、最重要とも見らるべき政治学関係の科目が殆ど脱落しているのは、謎と言わなければならない。

 さて、前述の『東京諸学校学則一覧』に掲げられた学科配当には、当初案と異る重要点として、政治経済学科の第二年第一期に、史論として文明史および憲法史四時間、政治学として政治原論四時間、第二年第二期に、政治学として政体総論および立憲政体論四時間、第三年第一期に、政治学として立憲政体論四時間、第三年第二期に万国公法三時間が新設せられ、経済学関係では第一年第二期に経済論理が追加されて計四時間となり、第二年第一期の経済沿革史は削除されて貨幣論が繰り上げられ、第二期には銀行論および国債論と変更され、更に第三年第一期に貿易論および為替論三時間が追加されている。そのほか、行政法は行政学と改められ、第二年第二期のみで完了することになった。そして、第三年第二期には卒業論文が加えられている。この第二次学科配当によって、政治学関係が漸く体裁を整えたのみならず、経済学関係もまた充実するに至ったと言うことができよう。毎週教授時数を見ても、当初案では、作文を除き、第一年第一期十六、第二期十七、第二年第一期八、第二期十二、第三年第一期九、第二期九と不均整であったが、第二次案では、それぞれ、十六、十八、十六、十六、十三、十二と整備されている。としてみると、政治経済学科の学科配当は、学苑独自のものであっただけに、出願までに最終的な構想をまとめ上げられず、未完成のままで取敢えず認可を申請したものと考えることが、一番無難であるのかもしれない。

 法律学科については、卒業論文の追加と訴訟演習配当学期の拡大その他若干の変更は見られるが、政治経済学科に比べれば、きわめて僅少である。東京大学法学部や既設の私立法律学校の先例を検討して学科配当を作成することには、政治経済学科の場合ほど困難が感ぜられなかったのは、容易に理解できるところである。

 理学科の当該学科配当は、第一年および第二年については、教科書と参考書に若干の相違はあるけれども、他は殆ど当初案通りである。しかし、第三年および第四年については、第一期ならびに第二期を、それぞれ更に第一課および第二課に分けて学科配当を行っているのみならず、和漢学を第三年まで配当し、既に「開設広告」で改められているように、微積分ならびに重学を第四年に課するほか、細かな変更が発見される。

 英学科については、夙に「開設広告」が学科名を英語学科としているのをはじめとして、「設置願」とは異るものであったが、前掲の「梧陰文庫」中の『東京専門学校規則』(『東京専門学校校則・学科配当資料』資料3)には、「英学科教則」として、その発足時の具体的な姿が記載されているから、左に掲げておこう。

第一条 本校ハ正則三学科ノ外、更ニ英学科ヲ設ケ、有志ノ学生ヲシテ、英書ニ就テ各自専門ノ学ヲ研究スルノ力ヲ養ハシム。

第二条 英学科ヲ分ツテ六級トナシ、半学年ニ一級ヲ終ルモノトス。

第三条 英学科六級ノ外ニ別課二級ヲ設ケ、篤志ノ学生ヲシテ尚英学ノ蘊奥ヲ窺ハシムルヲ期ス。

第四条 英学科ノ卒業ハ正則三学科ノ卒業ニ関セザルモノトス。故ニ正則ノ学科ヲ卒業スルモノニシテ英学科ヲ卒業セザルモ妨ナク、正則ノ学科卒業後尚在校シ英学科ノミヲ修ムルヲ得。

第五条 左ニ掲グル課目ノ外、正則学科ノ参考書ニ就テ質問ヲ許ス。

課程表〔著者名および書名は原文のまま〕)

第六級

第五級

第四級

第三級

第二級

第一級

別課)

第二級

第一級

 小野梓の開校式の演説(四六一―四六六頁参照)により明らかなように、早稲田建学方針の主軸の第一は、学問の独立である。これは後から高遠な理念づけが試みられたが、最も通俗に言えば、どんな西洋の高尚な学問も日本語で講じなければ、日本の学問として根を下ろさないということである。早稲田としては、到底、英語で諸学の講義のできる教師の数を揃え得ない経済事情もあり、また集まる学生が文部省直轄の六英語学校や大学予備門の卒業生でないから、英語講義は解し得ぬという事情もあったのだが、しかし日本語での講義の標榜はきわめて至当であり、東京専門学校開設の翌明治十六年には、文部卿福岡孝弟の名で、東京大学でも外国語を主とする講義方針を廃止し、日本語本位に切り替える旨上申して太政官の裁可を得るに至った。小野梓は、前述(四一三頁)の如く、これ我が党の勝利だと凱歌を挙げている。それにも拘らず、東京専門学校が必ずしも英語を軽視しないのは、小野もはっきりと言明しているところであり、開校時に既に「原書ヲ自読スルノ力ヲ養ハシ」(四六四頁参照)むるため、英学科が併置され、また開校翌年以降、試験成績優秀な学生への褒賞を英書と定めているのは、主張の放棄、自己矛盾ではないのである。

 英学科の聴講は、そのための特別受講料の支払いを必要とせず、全生徒――特に二十歳未満の生徒は必修が原則であった――に認められていたのであり、十五年十月に、在校生の七五パーセントが英学科にも登録しており、この比率は翌年には八〇パーセント台に上昇し、十六年三月には八三パーセントを示している。学苑当局が、前記「教則」に見られるように、英学科には、正課三ヵ年の上に、更に別課一年を設置しようと考えたのも、この学科への生徒の大きな関心をあらかじめ察知したか、実際に経験したかの結果であったに違いない。この別課一年の設置(「別課」としては結局実現しなかったが)により、政治経済、法律の両学科を実質的に年限延長する計画が当局の胸に懐かれたのか否かは、にわかに断定し難いが、何れにしても、後からできた学校のハンディキャップが殊に英語教育にはつきまとい、慶応義塾、東京大学、同志社などに比して劣るとの引け目を、学苑当局は常に感ぜざるを得なかった。これを克服するためには、以後多くの工夫と努力が払われ、朝令暮改とさえ言えるほどの制度の改正が英語教育をめぐって行われているのである。

二 第一回卒業式

ページ画像

 未経験ではあるが、高い理想に燃える学苑当局が懸命の努力を傾倒しているうちに、早くも開校時に第二年に編入した生徒は、二年間の習学を終えて、得業証書を受領することとなった。この第一回卒業式が挙行されたのは、明治十七年七月二十六日である。

 当日第一回卒業生の栄誉を担ったのは十一名で、その氏名(○印は優等生)と卒業論文の題名とは左の如くである。

政治経済学科)

法律学科)

なお、後日の卒業生名簿を見ると、法律学科に更に板屋確太郎が加えられ、合計十二名となっているが、後の学苑講師板屋が、いつ、どのような経緯で追加卒業を認められたのかは明らかでない。

 当日出席した来賓としては、鍋島直彬、南部利恭、辻新次、外山正一、福沢諭吉、中村正直、穂積陳重、田尻稲次郎、荘田平五郎、河野敏鎌、前島密、北畠治房、中島永元、菊池武夫、杉浦重剛、野村文夫、前田健次郎、藤田茂吉、高橋荘右衛門、星松三郎、須藤時一郎、米田精、小鷹狩元凱、箕浦勝人、尾崎行雄、乙部鼎、中上川彦次郎、加藤瓢乎、寺家村逸雅、波多野伝三郎など各界の名士数十名が数えられて、開校式の盛大さに匹敵するものがあり、学苑に対する大方の関心が、二年の間に増大するとも減退することのなかったのを立証している。

 式は、得業証書授与の後、大隈英麿校長の祝辞、岸小三郎の答辞、小野梓岡山兼吉前島密、中村正直、小幡篤次郎(山田喜之助代読)の祝辞があり、式後大隈別邸で、来賓に立食の饗応が行われた。この日の式典に高田は「英学論一班」と題して演説し、また監督山田一郎は学苑の現況について報告を朗読したが、後者の中には、この二年間の学苑教育の成果を知る上に役立つ部分があるので、それを抄録しておこう。

学ハ元ト政法理ノ三科ニ分チ、政法二科ハ各々三年、理学科ハ四年ノ修業ヲ以テ、其全課ヲ畢ハル。政法ノ二科ハ相関スル所多キヲ以テ、其学科モ亦二科相通ズルモノ少シトセズ。三科皆ナ邦語ヲ以テ教授シ、生徒ヲシテ筆記セシム。蓋シ邦語ヲ以テ泰西専門ノ学科ヲ速修セシムルノ新法ハ、本校実ニ之ヲ創ム。幸ニシテ講師ノ尽力ト生徒ノ勉強トニ由リテ、能ク此法ノ時機ニ適中シ、又タ能ク教育ノ理ニ合フ所以ヲ証明スルニ至レリ。……創立第三学期ノ初ニ当リ、新タニ予科ヲ設ケ、年歯学力又タ本科ニ入ルニ適セザル者ヲ教授スルノ処トナス。又タ理学科ノ規則ヲ改正シテ、政法二科ト同ジク、修業三年ノ課程トナシ、主トシテ土木工学ヲ教授シテ実用ニ適セシム。而シテ各学科新タニ講師数名ヲ聘シテ陶冶ノ任乏ヲ告グルコトナカラシム。……初メ本校教授ノ新法ヲ立ルニ当リ、相議シテ曰ク、教育ノ道ヲ全フシ、学問ノ独立ヲ保捗セントスルニハ、須ラク邦語速修ノ急務ヲ挙ゲザル可ラズト雖ドモ、専門ノ蘊奥ニ究メ到ラント欲セバ、必ズヤ又タ泰西ノ語学ニ通ゼザル可ラズ、泰西ノ語学中ニ在リテ学問上ニ精密ナル弁識力ヲ与へ、政治上ニ活溌ナル自治心ヲ養フモノ、英語ヲ措テ他アル可ラザルナリト。則チ特ニ英学科ヲ置キ、丁年以上ノ子弟ハ之ヲ修ムルコト其意ニ任シ、丁年以下ノ子弟ハ必ズヤ側ラ之ニ就カザル可ラザルノ制トナセリ。生徒ノ英語学ヲ修ムルニ熱心ナルヤ、競テ此科ニ入リ、復タ丁年前後ヲ問ハズ。於是乎、大ニ英学科ノ課程ニ改良ヲ加へ、本科ヲ得業スル者ハ直チニ英書ニ就テ其ノ専門ノ道ヲ窮ムルヲ得ルヲ度トナス。惟フニ是レ邦語速修ノ便益ヲ補賛スルモノナラン。 (『郵便報知新聞』明治十七年七月二十九日号―三十日号)

 右の報告の末尾には、開校二年後における学苑の教育陣容が述べられているが、議員(評議員)は当初の四名中、官界入りをした鳩山が姿を消し、前島密、北畠治房、成島柳北、牟田口元学、砂川雄峻秀島家良小川為次郎の七名が加えられて、十名に増加し、講師は政治経済学科に坪内雄蔵、呉文聡が加わり、法律学科では砂川雄峻が去って磯部醇、薩埵正邦が入り、理学科は田原一人となり、その他に漢学教諭前橋孝義と画学教諭後藤金弥の名が現れている。

 なお、当時山田が就任していた監督とは、事務総長とも言うべき役職で、この年三月、次章に説述する学苑の経済危機打開策の一端として、事務組織を教務、庶務、会計の三部に分け、講師の中から選ばれた監督が事実上それを総轄することに定められた。監督としては、山田が初代、続いて、高田、天野、田原と交代したが、十九年三月よりは、監督制が廃され、これに代るものとして任期二年の専任幹事が置かれるようになるのである。

 さて、山田報告に指摘されているように、十六―十七年度の学科配当には、予科の新設と理学科の年限短縮という二つの改正が行われた。この両者とも、十七年四月に東京府知事宛に再提出した「科程設置並改定開申書」(『東京専門学校校則.学科配当資料』資料8)で至急認可を求めているが、既に十六年六月二十四日の『東京横浜毎日新聞』附録に印刷された「東京専門学校規則要領」ならびに「広告」(同書資料5)に掲げられているものと、大筋で一致しており、恐らく、正式の認可を待つことなしに、夙に十六年九月から発足していたものであろう。

 予科の方は、右附録の「広告」欄に、「今般当校ニ於テ政治経済学及ビ法律学ノ予科ヲ設ケ、修業期限ヲ一周年トシ、一年級ニ入ラント欲スルモ学力不足ニシテ試験ヲ受ル能ハザル者ヲ教授ス」と記されているもので、それぞれ半年ずつの下級および上級に分け、下級にあっては、本朝歴史、支那歴史、泰西歴史をそれぞれ毎週二時間、文学(文章講義)を三時間、作文を二時間、英学(綴字、読方、訳読)を十五時間(「広告」では五時間)、算術(平算)を三時間、上級にあっては、泰西歴史、経済論、文学(文章講義)をそれぞれ三時間、作文を二時間、英学(読方、訳読)を十五時間(「広告」では五時間)、代数学を二時間教授することになっている。そして、泰西歴史、経済論、算術、代数にも英語の教科書を使用する計画である。なお「広告」には、「但本朝及ビ支那歴史、算術ハ、教師之ヲ試験シテ既ニ学ビ得ル者ト見認ルトキハ、其欠科ヲ許スコトアルベシ」と記されている。この予科については、十七年七月十一日の『郵便報知新聞』に東京専門学校の「入学試験に及第せざる時は直ちに同校予備科へ入学することを得べしといふ」との記事があるほか、十七、十八両年に授賞された優等生中にこの予科生と確認できるものがあるのを別とすれば、その後継続設置されて、二十一年の二年制の予科に発展したと推定できる資料に乏しい。

 この「開申書」には、英学科の改定についても認可を求めているが、その内容もまた、既に前記の十六年六月二十四日の『東京横浜毎日新聞』附録に見られるものと、大筋で一致している。右「要領」の第五条には、「英学科ハ分テ予科二級本科六級トシ各半学年ニ一級ヲ卒ヘシム」と記されているが、予科下級および上級の配当表を見ると、四九七-四九八頁に掲げた学科配当の第六級および第五級に近似し、その本課第六―一級および別課第二―一級が、予科下・上級および本科第六-一級に改称・編成替されたとも見られないことはない。第一回卒業式に際し、優等生として賞品を授与せられた生徒には、「法律学科予備科」生と並んで、「英学予備科上級生」と「英学予備科下級生」が見られることに徴しても、政・法二科の予科と英学科の予科とが、少くともこの時期には、別個のものであったのには間違いないが、これら両種の予科に在学した生徒の数は正確には知り得られない。しかも、両種予科で使用した教科書に共通のものが多いことなどから見て、政・法両科の予科の英語の授業が英学科の予科の授業と全く別々に実施されたか否かには、疑問の余地もないわけではない。なお、理学科の年限短縮については、その説明を第十四章に譲ることとする。