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第二編 東京専門学校時代前期

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第十四章 学科の改正

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一 理学科の廃止

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 東京専門学校創設に当り、政治経済学科、法律学科の他に理学科を併置したのは、養子英麿のために理科に関する学校を設立しようとした大隈重信の考えが、鷗渡会員の出現により、政治・経済・法律を主とし、理科を従とするものに急遽改められた結果であることは、既に第十章に述べた通りである。一見本末転倒の感がなくはないが、大隈も小野も必ずしもそうではなかったと説明している。例えば小野梓が、既述の開校式の演説中に、「今ヤ本校ノ政治、法律ヲ先ニシ、而シテ理学ニ及ボスモノハ、其意敢テ理学ヲ軽ジテ之ヲ後ニセシモノニアラザルベシ。唯ダ今ノ時ニ当テ政治ヲ改良シ、法律ヲ前進スルニアラザレバ、天下ノ子弟ヲ導テ其歩ヲ理学ノ域ニ進マシムルニ便ナラズ。故ニ先ヅ夫ノ二学ヲ盛ニシ、其得業学生ノ力ニ依テコノ政治ヲ改良シ、コノ法律ヲ前進シ、以テ大ニ形体ノ学ヲ進ムルノ地歩ヲ為サント欲スルモノナラン。」(四六四頁参照)と述べている点から見ても明らかであろう。理学科併置には、講師難をはじめとして、何かと困難が少くなかったであろうが、それでも英麿の専攻する天文学の知識を生かした星学、田原栄の得意とする化学ばかりでなく、恐らくは大隈の国土経営に関する示唆も考慮に入れられて、一応は学科配当も整い、生徒募集に踏み切ったのであった。明治十五年十月の「理化学科…初年級ノ入学試験」(『早稲田大学沿革略』第一)に合格したのは三名であったらしく、翌月からは四名に増加したが、田原の懐旧談に記されている八名(『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』三〇八頁)という最多数になったのは、いつからであったか、明らかでない。

 何れにしても、専任教員二名、生徒数名を以て私塾の名にふさわしい理学科が出発したが、前記のように、内部では理化学科と言われたほど、英麿と田原とを中心としたものであり、至極不完全なものであった。田原はその講義の内容について、

其の頃は大学にさへ電気学などは無かつた時代で、学校のなどは極めて単純なもの。申さば工学、鉄道などの智識でも与へたらと云ふ位に過ぎない。素より天文学には及ばぬといふ次第。私は、化学一点張りであるから殆んど必要がない、と云つて別に一科を設ける余力はなし、中学程度の講義をした位でありました。と申すものの高等な学校で理科の書物を教へるのは手始めですから、願くは普通に理学思想を注入して置きたいといふ希望でやり始めたのです。 (同書三〇七頁)

と告白しているが、田原や英麿の相談相手であった田中館愛橘も、「早い話が、理工科の技手を造らうといふ位の事であつた。」(薄田貞敬『高田半峰片影』八七頁)とその目的を語っている。

 しかしそのように幼稚な講義では生徒も満足しなかったろうし、将来数多くの志望者を得ることも不可能であったろう。この理学科を、どのようにしてもっと魅力のあるものにするかに、当局は決して無関心であったのではなく、予科四ヵ年、本科三ヵ年、計七年制として、本科は、数学、土木工学、化学、生物学の四専攻に分けるというような画期的な改革さえ立案されたものの如くである(『東京専門学校校則.学科配当資料』資料6参照。この案では、理学科の入学資格は十三歳以上で、政・法二学科の十六歳以上よりも、三歳低く定められてあることを注意せられたい。)が、実施には至らなかった。結局、十六年六月に既述の「広告」に発表され、十七年一月の「開申書」で認可が申請されたのは、四年制の理学科に代る、第三表の如き三年制の土木工学科であり、田原の言を以てすれば、「一層学理でなく応用智識を与ふる簡易なものにしたら」というのがその趣旨であった。

第三表 土木工学科課程表ならびに参考書表(明治十七年一月)

土木工学科課程表

土木工学科教課用参考書表〔著者名は原文のまま〕

(『東京専門学校校則・学科配当資料』資料8)

 しかし、この改正も起死回生の妙薬とはなり得なかった。それどころか、生徒は却って三名に減少したので、遂に理学科は、一人の卒業生をも出すことなく、廃止のやむなきに至った。尤も、翌十八年の新学年以降、理学科の募集が中止されたこと以外には、廃止決断の日時や、残留学生の処置等についての記録は、欠如している。大隈は非常に残念だったようで、後述するように、十五周年祝典に際し、理学科廃止に言及して、次の如く語っている。

理科、物理学は、私はどうしても学問の土台となるものと考へたんだ。所が、此私立学校で、就中此理科にはどうも余まり社会が注意して呉れぬ。さうして中々理科は金が要る。入費が要る。どうも貧乏なる学校では続かぬ。それから教師が宜う来て呉れぬ。そこで此理科は、……初陣に失敗をしたのだ。此理科の失敗は千歳の遺憾である。

(『早稲田学報』明治三十年七月発行第五号七頁)

二 試行錯誤期

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 既記の如く、「コノ専門学校ヲ改良前進シテ、邦語ヲ以テ我ガ子弟ヲ教授スル大学ノ位置ニ進メ」(四六二頁参照)ることが、小野の理想であった。そして、この理想の実現のための試行錯誤が東京専門学校二十年間の歴史であったとも言い得られようが、中でもそれが顕著に看取されるのは、当初数年間においてである。その最大のものであった理学科の廃止については前節に説述したが、本節では、それ以外に関して、第一回卒業式以後の概況を主として学科配当の面から一瞥することにしよう。

 十八年七月、『中央学術雑誌』(第九号)は、東京専門学校が、「今般更ニ学科ヲ皇張シ従来ノ政治科及ビ法律科ノ外新タニ高等科並ニ専修英学科ヲ設ケ益々教務ノ完全ヲ図」(二七頁)ることになった旨を報じているが、高等科に関しては、その「規則要領」に次の如く規定されている。

第一条 高等科ニ入ル者ハ政治科法律科並ビニ専修英学科卒業生ニ限ル

第二条 高等科ハ政治、経済、法律ノ三科ニ分チ学生ヲシテ其好ム所ヲ専修セシメ尚ホ一般ニ左ノ学科ヲ授ク

一 論文 毎月一回 一 質問 毎週一時間

一 独逸学若クハ仏学 毎週六時間 一 英語学 毎週二時間

一 英文 毎週二時間 一 法理講義 毎週二時間

一 哲学講義 毎週二時間

但論文ハ之ヲ雑誌ニ登録ス (二七頁)

これは恐らく、学苑が大学への途を歩み出そうとする野心的な第一着手ではあるまいかと推測されるが、同年九月に発表された「受持表」によれば、担当講師の予定は左の如くであった。

(『中央学術雑誌』明治十八年九月二十五日発行第一四号 二六頁)

しかし、この高等科が果してどれだけの成果を挙げたかは知ることができず、二十六年以降研究科として定着するまで、この年と二十年とにその設置が記録されてはいるけれども、何れも翌年には、高等科という名称はその姿を消している。

 十八年のもう一つの画期的改正は、専修英学科の新設である。既述の如く、開校以来設置された英学科は、独自の学生を持つものでなく、他学科の学生が兼修するのを建前としていたが、この年初めて、従来の性格を持つ兼修英学科予科下・上級、本科六-一級のほかに、政治、法律両学科と肩を比べる独立の学科として、専修英学科予科下・上級、本科六―一級が設置された。兼修、専修両英学科の学科配当を比較すると、各級とも、基本授業は同一であるが、専修科の場合、そのほかに、初級にあっては数学、本科では作文をはじめ、事実暗記や会話などが課せられ、授業時間も、二―七時間兼修科よりも多かった。また専修英学科にあっては、半年ずつにはっきりと分れていたから、他学科の入学試験が毎年七月、九月の両度施行されたのに対し、三月を加えて年三回施行せられている。(尤も、翌年からは、三月の入学試験は廃止され、英学部入学志望者を随時学力相当の級に編入させるよう改められた。なお、英学科以外にあっては、開校時以来、入学試験施行後に入学を希望する生徒に対して、「傍聴生」として仮入学を認めていたのであり、この慣行は、学苑の一つの特徴として後年まで存続した。)

 後述するように、専修および兼修英学科は十九年には英学部に発展するが、二十年の卒業式に、高田早苗は次のように、その内容を説明している。

一体本校の英学科は普通学でありまして、他日専門の学科を修むる時に力になることをさせました。従つて本を読むことを主と致しました。……本を読むのが主でありましたから、語学の方へはあまり骨を折らなかつた。然るに近頃になつて英語が大変はやつて来たから、文章・会話を頻りに教える事に致しまして、それが為めに西洋人を三名程、雇つて居ります。

(『中央学術雑誌』明治二十年七月二十五日発行 第五五号 五一頁)

この時の英学部卒業生は十九名を数えているが、その卒業論文の題名を見ると、政治、経済、哲学、史学、文学、教育など、きわめて広い分野に亘っている(同誌同号四五―四七頁)。そしてその中から、帝国大学へ進学した者も一、二に止まらなかったと高田は報告している。

英学科の方の事を申しますれば、こふ云ふ学校では兎角生徒が普通学に達して居らない。それは無論中学校等を卒業した者は普通学の智識を備へて居るけれども、中には始めより変則で研究した者もあるから、英学科の中には物理とか化学とか云ふ様な「サイエンス」の「アウトライン」を含めてある仕組になつて居ります。それで此の英学科の方も、今年は大分卒業生もありまするが、此中の三年生の方からも、四年生の方からも、六七名大学の撰科の試験に参りまして、一人も帰らずに参りました。 (同誌同号 五四頁)

 さてこれより先、十九年三月、『中央学術雑誌』(第二五号)は、東京専門学校の改革について左の記事を掲載した。

同校今般の改革は、従来三年にて得業したる学科を改め四年となし、各学部に新講師を聘し、生徒に英学科の書籍を貸与する等、凡て従来の組織教則等に改良を加へられたるものに外ならず。元来同校は世人の識る如く大隈重信君が明治十五年の秋創立せられたる所に係り、爾来日を追ふて盛大におもむくと雖も、校長を始め校員諸氏は尚ほ之を以て満足せず、如何にもして其基礎を固くし、私立大学の実を備ふるに至らしめんと熱中せられ、終に今回の改革を為すに至りたるなり。右の如き次第なるを以て、同校にては先づ講師の不足なからしめんと欲し、創立の際より尽力せらるる高田、天野、坪内、田原、三宅、市島等諸氏の外、法学士関直彦、同片山清太郎、菅谷正樹、堀田正忠、英人ページ、今井鉄太郎等の諸氏、及法学士二名を聘し、夫々得意の課目を受持たれん事を依頼し、四ケ年卒業の新教則を制定し、之を九月より実行することと為し、且英書数千部を購求して悉く生徒に貸与することとなしたり。 (四三-四四頁)

すなわち、従来の三年制を四年制に延長し、それを契機として学部制を布くという大改革である。しかし、学科配当(『東京専門学校校則・学科配当資料』資料15参照)を仔細に検討してみると、従前の三年制に、前年度の高等科を換骨奪胎したと見るのは酷であろうが、原書研究に重点を置いた第四学年を付加した政・法両学部と、従前の予科を第一学年に、本科を第二―四学年に昇格したものに近い英学部とから成るものであると言っても過言ではない。尤も、各学部ともその学科配当は、形式的に整備せられた点が少くなく、政学部の場合、先ず政治学、次に経済学と配列したのは、経済学が二番目、政治学が七番目に置かれた前年度配当表に比べて大きな進歩であろうし、法学部にしても、法学入門を第一に、続いて憲法、契約法、訴訟法、刑法という順序は、史学、論理学、経済学、法学という配列に勝ること万々であると言えよう。なお英学部は、英学本科と英学兼修科とより成るものであるが、前者は前年度の専修英学科を、後者は前年度の兼修英学科を継承したものである。

 右の新学科配当が発表されたのは十九年四月であったが、文部大臣森有礼は、帝国大学に対し、同年八月二十五日の「私立法律学校特別監督条規」に基づき、「東京府下ニ於テ適当ナリト認ムル私立学校ヲ択ヒ特ニ帝国大学総長ヲシテ之ヲ監督セシ」めることとし、本学苑は、英吉利法律学校、専修学校、東京法学校、明治法律学校とともに、「特別監督」学校に十一月二十九日に指定されたので、またもや学科配当の修正が法学部に必要となった(『中央学術雑誌』明治十九年十二月十日発行第四二号五四頁、および明治二十年三月十日発行第四八号四六頁参照)。高田は前記の二十年卒業式の報告中に、

法律の方は、ドウであるかと云ふに、これは帝国大学で定められた監督規則に拠つて、御覧になればおわかりになるだらうと思ひまする。全体此学校にては監督規則外の課目を色々と含んでやつて居りました。それは例へば、万国公法とか、私法とか、憲法とか、羅馬法とか、列国交際法とか、云ふ様なものにて、今度是等を高等科として別に一年の課程を設け、尋常科の方は専ら監督規則に基いてやつて居ります。勿論従来は課目も多く、従つて時間も多くやつて居りましたから、監督規則に従へば、余程時間が余ります。そこで例へば或る講師を頼んで来て、独逸の刑法はどうだ、英吉利の刑法はどうだと、之を日本の刑法に比較して、種々の点から委しく講究する時間が出来た様なわけであります。それで大分此度の試験の成蹟は宜しう御坐いまして、大抵はうまく往つた様であります。シテ只今申しましたのは此度新たに設けたので、之を実行するは来学年あたりからであります。之れと同時に政学の方も、従来三年修めたものを更に四年に致しまして、これにも憲法、行政法、理財学、財政学、法理学等を加へて高等科を修めしめる様にしたのであります。偖尋常科の方は何れも原書に就て専門でさせたのではなく、訳書でさせました。と云ふのは三年間訳書をやりまして、一方では英学の力が付きまするから、そこへ持つて往つて高等科を原書に就て講究させる目的で、之れを設けたのであります。 (『中央学術雑誌』第五五号 四九―五〇頁)

と述べている。「法学通論 契約法 私犯法 代理法 刑法」の法学部一年度での履修を規定した第二条が遵守されるようになったのは、二十―二十一年度に入ってからであるが(東京都公文書館所蔵『明治二十年特別認可学校書類』、東京大学庶務部庶務課文書係所蔵『明治十九年私立法律学校往復及雑書』参照)、既に十九―二十年度にあって、十九年四月に発表された学科配当とはある程度異った学科配当が、法学部のみならず、政学部にあっても実施されていたのは、同年度の試験問題(『中央学術雑誌』第四八号四七―六六頁、および明治二十年八月二十日発行第五六号四三―五六頁参照)を一瞥することによって知り得られよう。試験問題が、両学部とも、一―三年生についてのみ発表されていることによっても、高等科とは別の四年生はこの時点では既に存在しなかったと推定して差支えないであろう。

 「私立法律学校特別監督条規」は、後述の如く、二十一年、「特別認可学校規則」により代替され、学苑を含む東京府下私立五大法律学校は帝国大学総長の特別監督を解かれて文部省の管轄下に入るのであるが、それに先立ち、二十年、徴兵猶予に関し東京府知事経由で文部省の調査が行われた。その前年十二月、『中央学術雑誌』(第四二号)は、

今度徴兵令の改正ありて、私立学校と雖ども文部大臣の認可を経るに於ては、猶予の部に入れらるることになりたるは近来の美事にして、文武両道これよりして均一の発達を為すに至る可きこと相違ある間敷、文運の為め実に賀す可きことなり。右に付き東京専門学校の当局者は、若し文部大臣の認可を得るが為に要する条件にして出来得可き丈の事なれば、頗る勉強して之を備へんと今より息き込み居らるる由なり。 (五五―五六頁)

と記したが、学苑は六月一日、「私立東京専門学校諸規程取調書」(東京都公文書館所蔵『明治二十年特別認可学校書類』所収)を、更に九月九日、「八月十三日御尋問ノ条々御答」(同書類所収)を、提出している。後者に添付された「課程表」は、文部省の要求を容れて修正した二十―二十一年度の学科配当表であるが、政・法両学部のそれは左の如くである。(英学部は第一年前・後期に代数学二時間を加えた外は、依然四年制であって、前年度と殆ど変化がないので、省略する。)

第四表 明治二十年九月課程表

政学部

法学部

すなわち、四年制は再び三年制の上に一年の高等科を置く旧制度に復帰したのである。第四年級と高等科とは、内容の上で格段の差があったとは思われないが、それを卒業の条件とするかしないかは、生徒の側からは大きな問題であったろう。新学科配当では高等科について、「政法二学部ニ於テハ更ニ高等科ヲ置キ一学年ノ間洋書ニ就テ講究セシメ且ツ高尚ナル邦語講義ヲナス。」と規定し、「高等科ヲ修メントスル者ハ政学部若クハ法学部ヲ卒業シ併セテ英学兼修科第三年ヲ卒ヘタル者ニ限ル。但シ本条相当ノ学力アル者校外ヨリ高等科ニ入ランコトヲ望ム時ハ試験ノ上之ヲ許ス。」と、入学資格を明らかにしている。なお、「取調書」には、「本校へ入学セント欲スル生徒ハ年齢満十五年以上ノ者ニ限ル」としてあったが、文部省から「専門科ニ入ル生徒ノ年齢ヲ十五年トシタルハ如何」との照会があった結果、「満十七年ト相改メ候」と回答している。尤も、二十二年の徴兵令改正により、学苑法律科の認可の生徒に徴兵制上の特典が賦与されたとすれば、その日時がいつであったかについては、資料が欠けている。

三 大学部の原型

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 明治二十一年五月五日、「文部省令第三号」を以て左に摘記する如き「特別認可学校規則」が公布され、帝国大学総長による特別監督学校はすべて特別認可学校に指定され、高等文官試補試験の受験資格と判任官見習への無試験任用の特典とが与えられた。

第一条 本令ニ於テ特別認可学校ト称スルハ明治二十年月七勅令第三十七号文官試験試補及見習規則第十七条第三項文部大臣ノ認可ヲ経タル学則ニ依リ法律学政治学又ハ理財学ヲ教授スル私立学校ヲ謂フ

第二条 特別認可学校ハ修業年限三箇年以上ニシテ法理学法学通論憲法行政法民法訴訟法刑法治罪法商法国際法財政学理財学統計学史学論理学等ノ諸学科中七科目以上ヲ学修スル為メ一定ノ課程ヲ設クルモノタルヘシ但法律学ヲ主トスル学校ニ於テハ擬律擬判ノ課ヲ設クルヲ要ス

第三条 特別認可学校ニ入学スルコトヲ得ヘキ者ハ年齢満十七年以上ニシテ尋常中学校卒業証書ヲ有スル者若クハ国語漢文外国語地理歴史数学ノ各科ニ就キ尋常中学科ノ程度ニ依リ試験ヲ経テ及第シタル者ニ限ル但数学中三角法ハ之ヲ除キ代数幾何ハ其初歩ニ止ムルコトヲ得

第四条 特別認可学校二年級以上ニ入学スルコトヲ得ヘキ者ハ前条ノ資格ヲ有シ且該級生徒ノ履修シタル各級諸科目ニ就キ試験ヲ経テ及第シタル者ニ限ル

第五条 特別認可学校ノ入学ハ予メ学則ニ於テ其期日ヲ定メ置クヘシ

入学試験ヲ行フトキハ試験期日三十日前ニ其科目及日限時間割ヲ該学校長ヨリ文部省ニ申報スヘシ

第六条 特別認可学校長ハ其入学ヲ許シタル生徒ノ族籍姓名年齢及試験答書並評点ヲ具シテ入学期日後二十日以内ニ文部省ニ申報スヘシ但尋常中学校ノ卒業証書ヲ有スル者ハ其校名及年月日ヲ記載スヘシ

第七条 特別認可学校ハ毎学年ノ終ニ学年試験ヲ行フヘシ其科目及日限時間割ハ試験期日三十日前ニ試験成績ハ試験後四十日以内ニ該学校長ヨリ文部省ニ申報スヘシ

第八条 特別認可学校ニ於テ最終ノ学年試験ニ及第シタル者ニハ……卒業証書ヲ授与シ其族籍姓名ハ授与ノ後十日以内ニ該学校長ヨリ文部省ニ申報スヘシ

第九条 文部大臣ハ特ニ委員ヲシテ特別認可学校ノ試験ニ臨監セシメ及管理授業等ノ実況ヲ視察セシムルコトアルヘシ

(中略)

第十三条 特別認可学校タルノ資格ヲ得タルモノト雖モ尚一般私立学校ノ例ニ依リ地方官ノ管理ヲ受クヘキモノトス

これに逸速く準拠した規則を、学苑は同年六月二十日に公表したが、その「第二章教旨教則」の第一条には、「本校ハ政治学、法律学、行政学、及ビ英学ヲ教授スル所トス」と規定され、次の課程表が掲げられている。

第五表 明治二十一年六月課程表

政治科課程表

法律科課程表

行政科課程表

英学科(本科)課程表

兼修英学科課程表

(『東京専門学校校則・学科配当資料』資料23)

すなわち、学部制は見合せとなり、法律科のほかに行政科を設置し、各科とも三年制として、高等科については記載を欠いている。なお、「本則中法律科即チ司法科ヲ第一法律科ト称シ又行政科ヲ第二法律科ト称ス」とする改正の付箋が貼付されており、「特別認可学校規則」第一条を窮屈に解釈した文部省の意向に従って、行政科の名称は、数年間表面に出すのを控えることになった。尤も、行政科すなわち第二法律科は、司法科すなわち第一法律科の配当科目中の若干に政治科の配当科目中の若干を組み合せただけで、すべて合併授業であったに違いなく、その設置のために特に学苑が講師その他について新しく配慮する必要はなかったものと考えられる。また、政治科は政府の干渉を受けるのを惧れて認可を申請しなかったが、その学科配当には、財政学が経済学より分離したことと並んで、経済史(尤も、その内容は、創立当時「設置願」に記載されながら、恐らく実施せられなかったと推定される経済沿革史、すなわち経済学史であり、二十五年には経済学史と引換えに、経済史は学科配当表から姿を消している。学苑に名実とも備わった経済史が登場するのは三十一年からである。)が新しく設置されたことが注目される。他方、両法律科にあっては、民法および商法の名称が、初めて学科配当に登場したこと、更に、卒業論文が学科配当から姿を消すに至ったことなどが、大きな変化であった。

 そのほか、「入退学規則」が文部省令に合致するよう改正され、その第二条に、

第一年前期へ入学セント欲スル者ハ、左ノ試験課目中其一種ヲ択ビテ試験ヲ請フ可シ。

○甲種入学試験課目

一 国語 一 漢文 一 外国語 一 地理

一 歴史 一 算術 一 代数 一 幾何

但シ、尋常中学校ノ卒業証書ヲ有スルモノハ試験ヲ要セズ。

○乙種入学試験課目

一 国語(漢字交リノ作文)

一 漢文(正文章軌範、日本政記ノ類講読)

但シ、英学本科ニ入ラントスル者ニシテ乙種課目ヲ択ブトキハ、国語漢文ノ外更ラニ左ノ課目ヲ以テ試験ス。

一 読方、書取(ニュー・ナショナル第三読本)

一 訳読(パーレー氏万国史、ニュー・ナショナル第四読本)

一 文法(田原氏英文指針) (『東京専門学校校則・学科配当資料』資料23)

と定められたが、この甲種合格のものが「認可ノ生徒」であった。また、「校外生規則」(六〇六-六〇七頁および六〇九―六一〇頁参照)が加えられたことも、この新規則の特徴の中に数えられよう。

 しかし、学苑当局は単に文部省令に順応することを以て足れりとするものではなく、学苑がかねてより念願していた計画の実施を着々と検討していたのであった。その計画は、二十一年の新学年開始までには間に合わず、甚だ異例にも新学年開講後発表され、同年十一月十日および十二月一日の二回に亘って新設諸科の入学生を募集したところ、応募者百五十八名中、英語政治科七名、英語司法科三名、英語行政科二名、英語普通科一年二十一名、同二年二十名、予科二級十三名、同一級十六名、計八十二名が合格した(同時に、邦語科入学試験も施行され、三十一名が追加入学を許可されている)。

 それら新設諸科の「規則要領」には、次の如く記されている。

本校今般予科ヲ新設シ、且従来ノ英学科ヲ改正シ、英語普通科、及ビ英語ヲ以テ教授スル政治・法律・行政ノ三科ヲ設ク。(中略)

予科教則

一、予科ハ本校政治科、第一・第二法律科、及ビ英語普通科ニ入ラント欲スル者ノ準備ノ為ニ之ヲ設ク。

一、予科ハ二ケ年ヲ以テ卒業スル者トス。

一、予科ニ入ラント欲スル者ハ、満十四年以上ニシテ、高等小学科卒業、若クハコレト同等ノ学力アルモノタルベシ。但シ試験ノ上学力相当ノ級ニ編入スルコトアルベシ。

英語普通科教則

一、英語普通科ハ本校英語専門科ニ入ラント欲スルモノ、若クハ英語ヲ専修セント欲スル者ノ為ニ設ク。

一、英語普通科ハ二ケ年ヲ以テ卒業スルモノトス。

一、英語普通科ニ入ラント欲スル者ハ、本校予科ヲ卒業シタル者、若クハコレト同等ノ学力アルモノタルベシ。但シ試験ノ上、学力相当ノ級ニ編入スルコトアルベシ。

英語専門科教則

一、英語専門科ハ英語ヲ以テ政治法律ニ関スル学科ヲ授クルガ為メニ設ク。

一、英語専門科ヲ分チテ、英語政治科、英語第一法律科(司法科)、及ビ英語第二法律科(行政科)ノ三科トス。

一、英語専門科ノ各科ハ三ケ年ヲ以テ卒業スルモノトス。

一、英語専門科ニ入ラント欲スル者ハ、本校英語普通科ヲ卒業シタル者、若クハコレト同等ノ学力アルモノタルベシ。

一、本校邦語専門科及ビ英語兼修科ヲ併セ卒業シタル者ハ、英語専門科ニ入ルヲ得ベシ。

一、予科、英語普通科、及ビ英語専門科ノ課程別表ノ如シ。

第六表 明治二十一年十月新設諸科課程表

英語政治科課程表

英語第一法律科(司法科)課程表

英語第二法律科(行政科)課程表

英語普通科課程表

予科課程表

(『東京専門学校校則・学科配当資料』資料22)

 この十月新学科配当の意義について、同年十一月の『専門学会雑誌』(第二号)は、次のような記事を掲載した。

東京専門学校にては今度予科を新設し、政法等の諸専門科を修むるに必要なる普通学の一般を教授し、他日同校邦語及び英語の諸専門科に入るの楷梯を設けられたり。今同校幹事の意見なりと云ふを聞くに、元来同校の教授方法は近時大に整頓し、各科専門の諸講師が欧米諸大家の書籍を跋渉し、欧米諸学派の論説を参酌し、其長を取り其短を捨て、之れに加ふるに各自の意見及び判断を以てせらるるものなれば、唯単に一の原書のみに由て教授するに比すれば、却て学生に稗益あるべき筈なれども、唯彼の大学の学生と異なるところは、本校生徒中には、多くは普通の智識を有せざるが故に、其れ丈の効績も顕はれざる次第なり。高尚なる専門学科を修むるには、先づ其土台として普通学を修めざる可らざることは、今日学者の輿論にして、本校とても疾くに之を悟らざるにあらざれども、従来は世人が速成を尊びたると、其他種々の事情ありて、之れを実行すること能はざりし。去りとて何時迄も改めざる訳にも行かざれば、愈此頃より漸次実行することとなり、即ち向后は可成的普通科の入学試験を経ざる可らざることとなせり。然るに彼の普通学を教授する中学は諸種万般の事業に向ふ者の未だ岐かれざるところなれば、勢ひ種々の学科を教へざる可らざるが故に、中には政治法律を学ぶには非常に縁遠く、恰んど不必要なる者なきにあらず。故に最初より政治法律を学ばんと志す者の為には、是れ等の者にのみ必要なる点を教授すべき場所必要なるに、本邦に於ては未だ此等の設なきは、甚だ遺憾とするところなり。是れ本校予科を新設したる所以にして、僅々二ケ月にして之れを卒業し得る所以も亦た専ら玆に存するものにして、敢て彼の中学より簡易なる次第にあらず。其政治法律に必要なる丈の普通学を修めしむればなり。故に此予科を学び卒へて本校専門科に入り学ぶときは、実地活用の人材を養成し得る点に於ては、敢て彼の大学に一歩を譲らざる覚悟なり云々。又同校にては英語科を改正し、其教科を高尚にし、普通二年、専門科三年、凡て五年にて卒業することとなり、普通科には予科を卒業したる者、及び之れと同等の学力ある者之れに入ることを許るし、此普通科を卒業したる者、及び之れと同等の学力ある者は、専門科に入ることを許るし、普通科にては十分に読むこと話すこと書くことに熟達せしむる由。又専門科を設けられたる趣旨は、従来の同校英学科は襷に長し、帯に短かしと云へる有様にて、只一般英語学の力ある故に少しは政治法律の思想あれども、去りとて之れを以て社会に立たんとするには寧ろ短かしと云はざるを得ず。因て今般断然改革を為し、年限を長くし、英語を以て政治法律行政の専門科を教授することとせり。此科は其科目組織に意を用ゐたること、其教科書を精撰したること、恐くは彼の大学に優るあるも劣ることなかるべしと思はる。又殊に注意を促す可きは、本校の英語専門科は世間の私立学校の原書科の如く、少しく英語を解することを得ば之れに入学を許るし、殆んど字句の解釈に終り、真の目的なる政治法律の意味は他の訳書に由て始めて之れを知ると云ふ如きことを避く可き事之れなり。本校英語専門科にては、英語にて諸専門科を教授する者故、普通一般の英語の解釈には毫も差閊へざる者に限り、始めて入学を許すべしと云ふ。 (五二―五四頁)

 一年制の予科または予備科が既に十六―十七年度にあって英学科以外に設置されたことは前述(五〇二―五〇三頁)したところであるが、恐らくそれが時機尚早であり、自然消滅に近い運命を辿ったのではあるまいかと推定されるのは、右の記事に予科が「新設」されることになったと記されているのによるものである。惟うに、徴兵猶予問題に関する調査に関連して、前年入学年齢を二年引き上げて満十七歳以上に改め、更にまたこの年制定されて準拠することになった「特別認可学校規則」も入学資格を同じく満十七歳以上と規定している結果、従来専門諸科に入学を許可せられていた満十五歳以上十七歳未満の少年に対する救済措置を講ずる必要を学苑当局が痛感し、ここに満十四歳を最年少とする二年制の予科が新設されるに至ったのであろう。そして、学科配当表を前回のものと比較してみれば、授業時間で、前回の下級十九時間、上級十八時間が、今回は第二級前期二十二時間、同後期二十四時間、第一級前期二十七時間、同後期二十八時間と著増しているのみならず、前回には見られなかった英習字、英会話、幾何、物理、化学が加えられたばかりか、前回は英語の教科書としてのみ教授された地理・歴史が英語から独立しているのであり、これに反して前回の配当表から省かれためぼしいものは、経済論一科目に過ぎないという充実ぶりである。なお、予科の学費は前期六円、後期五円と、他の諸科の十円、九円に比べて低廉に定められ、更に寄宿舎に特に「少年舎ヲ設ケ特別監理ノ法ヲ以テ本校ニ入学スル少年生ヲ薫陶セントス」と発表されていることからも、当局の意気込みが察知されるのである。

 この予科制度はその頃向学心に燃えている一般志望者にきわめて適当したものであった。当時まだ中学制度は甚だ不整頓で、県立が一県に僅か一、二校、中にはまだ一校もない県もあり、私立中学の数に至っては、微々として言うに足らぬものである。この時全国を平均して最も整備していたのは四年制の高等小学校で、ここでは相当の学力が養成され、上級学校を望む学問段階の中心をなしていた。それら高等小学卒業生の多くは手近かに中学を見出し得ないので、当時全国到る所にあった、漢学中心に英・数を配した私塾に学び、更に高度の教育を望む者は主として東京に遊学し、大阪・京都を志す者がこれに続いた。彼らは専門の教育を受けるには若干の学力未整備、殊に英語力に不足があるので、それらを補足して専門課程に入る予備力を養成するのが普通であった。新設予科はまさにこうした青年たちの渇望を充たそうとするものであったに違いない。

 しかし、十月新学科配当の真の重要性は、前掲記事には「英語科を改正」と記述されてある点にあったのである。後年、学苑当局はこれに関し、次の如く、その意義を明確にしている。

是レヨリ先キ本校ハ各専門科生ヲシテ更ラニ一層学術ノ蘊奥ヲ探ラシムルニハ邦語教授ノ外英語教授ノ必要ナルヲ感ジタリシガ、十月ニ至リ政治、法律、行政ノ三科ニ英語政治科、英語法律科、英語行政科ヲ設ケ(文学科ハ初メヨリ邦英両語ヲ以テ教授シ爾後変ゼズ)、是レヨリ英語、邦語ノ二様ノ教授並ビ行ハル。

(『早稲田学報』明治三十四年七月発行臨時増刊第五五号「早稲田大学規則一覧」 九頁)

すなわち、東京専門学校を大学の域にまで前進させようとする小野の理想は、小野の没後二年を経ずして、ここに実現の緒についたと言わなければならない。これまでしばしば説述したように、学苑は、専ら外国語を以て講述する東京大学を批判し、邦語を以て専門学を授けることを使命として誕生したのであったが、いささかたりとも外国語を蔑視することなく、専門学校を大学の地位にまで高めるためには、外国における研究成果を直接に原書について吸収する必要があるのを終始十二分に認識していた。創立以来六年余り、邦語による専門学の速成・普及に関しては、漸くその成果を自負しうるに至ったが、当局者の眼からは、前掲記事からもはっきり読み取れるように、最高教育機関として、「彼の大学」、すなわち帝国大学との間になおかなりの逕庭の存するのを否定できなかった。その最大の原因が、外国語の力の不足にあると認め、従来の邦語による政・法両学科のほかに、十分の語学力の習得を前提とする英語による政・法両学科を新設しようというのが、この改正である。しかも、新設科を英語政治科または英語第一・第二法律科と称することで、漸くドイツ的学風を濃厚に身につけてきた帝国大学に対し、学苑ではイギリス的学風によって独自の天地を開拓しようとの意思を標榜したものであると見るのは、果して僻目であろうか。何れにしても、この時以来、少くとも政治科に関する限りは、東京専門学校の残余の歴史すべてに亘り、邦語政治科と英語政治科の併置が定着するのである。そして、それが、早稲田大学を名告るようになると、一は専門部に、一は大学部へと発展することになる。学苑一世紀の星霜を顧みるとき、その中の殆ど六十年間に亘り、大雑把に言えば、専門部と大学部の二本立てが実情であったと言っても過言ではない。二本立てが学苑で正式に決議されるのは、後述するように明治三十三年七月であるが、事実上既にそれは二十一年十一月の時点に開始したのである。慶応義塾は、九五九頁に詳述する如く、形式的には学苑に先んじて、明治二十三年に大学部を設置しているが、それに先立つこと二年、学苑には既に実質的な大学部が呱々の声を挙げていたのである。学苑が二十三年十月、『郵便報知新聞』に掲載した学生募集広告に、「本校英語専門科(政治、司法、行政)は予科一ヶ年、普通科三ヶ年の課程を経たる者を教授する者にして、世に所謂大学科なる者なり。」(『東京専門学校校則・学科配当資料』資料28参照)と記したのは、決して強弁ではなく、当局の脳裡には満々たる自信が秘められていたに違いない。

 この時の大改正は、更に専門科以外についても英語科の性格を一変させることになった。すなわち、創立時に兼修科として誕生した英学科は、既述の如く、十八年に専修科と兼修科の両者を併置することとなり、やがて前者は英学本科と改称した。今、二十一年六月の「東京専門学校規則」の「附録得業生」の名簿を見ると、英学本科は明治十九年一名、二十年三月三名、二十年七月十九名の卒業生を出しているが、その最後の十九名の中、文科大学在学者二名、法科大学在学者二名、「法科大学撰科修業中」一名が発見され、「普通学」の教授を旨とするとは言いながら、帝国大学の予備校的な一面を露呈している。従って、今次の大改正により、学苑自身の内部に大学部的性格を持つ英語専門科が創設されたのであるから、その予備門である二年制の英語普通科に英学本科の低学年が衣更えするのは、寧ろ自然の成行きであったと察せられる。

 このようにして学苑は、明治二十一年十一月には、既に大学(英語普通科二年、英語専門科三年、合計五年間の就学を原則として必要とするわけであるが、新制度の英語専門科の第一回卒業生を出した二十四年に、鳩山校長は、予科の修業年限をも加えて、「此人達は前後七年間の星霜を経て卒業したのであります」(『同攻会雑誌』明治二十四年八月発行第六号五頁)と述べている。)の内容をその一部に保持するまでに飛躍した。翌二十二年の学科配当(『東京専門学校校則・学科配当資料』資料26参照)には、二年制予科が一年に短縮され、英語普通予科と英語兼修予科とに分れているが、その反面、英語普通科は三年に延長されたから、英語専門科が要求する準備過程には、実質的に変化が見られず、学苑の新体制は確立したものと察せられるのである。

四 担当講師の変遷

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 草創期の学苑の講師の顔触れは既述したところである(四四一頁および五〇一頁参照)が、その担当科目についての記録で現存している最古のものは、十七年八月二十九日号の『東京横浜毎日新聞』に掲載された十七―十八年度の次のような予定表である。

政治学科)

法律学科)

土木工学科)

右の外英学科は前記の諸講師にて担任教授し、又北畠治房、小野梓の両氏も古代法律、日本財政論等を臨時課外に講演せられ、且毎月一回諸名士を聘して学術上の講義を開かるると云ふ。

(『東京専門学校校則・学科配当資料』 資料10)

 この年度の講義の内容については、それを明らかにする史料に乏しいが、翌十八―十九年度に関しては、『中央学術雑誌』(明治十九年七月二十五日発行第三三号)に学年試験問題が掲げられているので、その一斑を窺うことができる。今、試みに政治学科についてそれを転載すれば左の如くである。

第一年級

経済原論(交易論之部) 講師 文学士 天野為之

第一、通貨無き時代の二大不便を詳悉せよ

第二、約束手形は如何にして通貨を代表するや

第三、外国貿易の行はるる場合と其行はれざる場合とを説明せよ

歴史(希臘史及仏国史) 講師 文学士 坪内雄蔵

第一、仏蘭西大革命の折柄に勢力を有したる政党幾何ありしや、其名幷に性質は如何、其の最も勢力ありしものは執れぞ

第二、「ドリヤン」人種南漸の結果及影響を問ふ

第三、「グリース」人をして(政治上の分離に係らず)合同一致せしめし者は何ぞ、之を説明せよ

立憲機関論 講師 文学士 高田早苗

第一、普通撰挙を用ひて害無からんことを欲せば如何なる方便に依るを適当とするか

第二、上院組織の最良法如何

第三、憲法とは何ぞや

英国憲法 講師 法学士 片山清太郎

第一、国王は正義の淵源たりとの意如何

第二、内閣とは何を云ふか

第三、裁判所の構成を略説すべし

第四、公判手続を指示すべし

第五、地方政務の要旨を問ふ

第六、国会議員たる資格無き者を列挙すべし

法学入門 講師 法学士 三宅恒徳

第一、人にして物及物にして人たる者は何ぞや

第二、権利の集合を認めて物件と為すの不可なる所以は何ぞや

第三、権利及義務は実際同名異物たる所以の理由を示せ

第四、行為を搆成する所の元素は何々なる乎

第二年級

租税論 講師 文学士 高田早苗

第一、農産物税と地料の関係如何

第二、賃銀税の影響は先づ労力者に及ぶか先づ資本家に及ぶ歟

第三、奢侈品に課税する最強理由如何

英国憲法史 講師 文学士 高田早苗

第一、内閣発達の沿革を問ふ

第二、コンベンシオン、コンボケエシオン、パアリヤメントの差別を問ふ

第三、撰挙法改正を必要ならしめたる所以を述べよ

外交学 講師 文学士 高田早苗

第一、メスエン条約とは何ぞ、及其性質如何

第二、ベルリン会議の成蹟を評せよ

第三、スレシユウヰツグ、ホルステイン問題を詳述せよ

第四、古来英国の外交に如何なる変遷ありたるや、併せて英国著名の外交家及其主義を問ふ

行政学 講師 文学士 天野為之

第一、商法会議所と政府との政治上の関係を述べよ

第二、英国中央政府の組織を説明せよ

第三、英国の国会は政府の行政に向ふて如何なる監督を為すや

貿易論 講師 文学士 天野為之

第一、一般の保護は保護の利ありて保護の害無しといふ議論を批評せよ

第二、自由貿易は果して産業上の異様を撲滅するや

第三、給料の高低と貿易の盛衰との関係を説明せよ

第三年級

哲学(以下七問の内適意の五問に答ふ可し) 講師 文学士 有賀長雄

第一、理学と哲学との差別を問ふ

第二、進化論の以て道徳の標準を定むるに足らざる所以を問ふ

第三、功利論の以て道徳の標準を定むるに足らざる所以を問ふ

第四、一の哲学系統を以て他の哲学系統を破ぶるに難き所以如何

第五、哲学に所謂数学法の義解とは何ぞや

第六、基督教の万有神教を敵視する所以如何

第七、実体学派の破るるに次で心理学派の起りし所以如何

米国憲法 講師 文学士 高田早苗

第一、合衆国の官吏任用法及其得失如何

第二、合衆国憲法にて所謂国事犯とは如何なる場合を指す歟

第三、合衆国の弾劾法及其制裁如何、併せて得失を問ふ

第四、左の箇条の正解を与へよ

元老院議官及下院代議士を撰挙する時、場所及方法は各州の立法部に於て定むるを得可し、国会は随時法律を以て之を定め若くは之を変換するを得、但し元老院議官を撰ぶの場所はこの限にあらず

第五、左の箇条の正解を与へよ

憲法を以て合衆国政府に委托せざる権力若くは各州に禁ぜられざる権力は各州にまで存す可し、即ち人民にまで存す可し

心理学 講師 文学士 坪内雄蔵

第一、純真心理学と徴験心理学との区別を説明せよ

第二、心理を講明するに三種の方法あり、其相異る所以を説明せよ

第三、外面の徴候に依りて他の感情を察し得可きや、若し果して察し得可きものならば試に一箇の人物を仮作し其外面の徴候を描写し而して之に依りて其感情の如何を推測せよ

為替論 講師 文学士 天野為之

第一、為替の道理を弁明せよ

第二、永期為替の相場と利息相場との関係を述べよ

第三、不換紙幣流行の国より金銀貨流行の国へ負債を返還せんとするに如何なる方法に依る可きや

法理学 講師 法学士 関直彦

第一、義務に二様の別あり如何、其各様を説明すべし

第二、仮人の種類如何

第三(甲)対人権及対世権の義解は如何、其両者の一二の例を挙げよ

(乙)対人権の目的は如何、対世権の目的は如何

(丙)主品無き対世権の二三の例を挙ぐ可し

第四、如何なる場合に於て我々は権利を有し得るや(オースチン氏の義解に随ふ)

第五、勢力、道徳上の権利及法律上の権利をホルランド氏の方法に依りて説明すべし

第六、インテンシヨン(企謀)とは如何

第七、罪の元素は如何

第八(甲)無罪の根拠を列挙すべし

(乙)法律の不知は何故無罪の根拠とせられざる歟

第九(甲)法律のコース(根拠)とソース(淵源)との区別如何

(乙)法律のコースとは何々なるや

第十(甲)司法上の意義を有する成文法不文法の別如何

(乙)司法上不文法の種類を列挙すべし

第十一(甲)人の法は如何、物の法は如何

(乙)身分とは何ぞや

(丙)憲法は何れの部類の法なるや

列国交渉法 講師 法学士 三宅恒徳

第一、甲国の国事犯亡命人乙国に滞留し甲国屡々引渡を請求したれども乙国は固く之を拒み彼に充分の保護を与へたり、其後乙国彼の滞留を認めて治安に妨害ありと為し彼に去国を命じたるに彼れ期に至り貧困にして去るを得ざる時は乙国当に彼を奈何す可き乎(彼固より乙国の犯罪人にあらず)

第二、明の遺臣鄭成功恢復を計り衆を率て台湾(当時無主の地にして和蘭人及日本人多く住したれども彼の為に逐出されたり)に拠りて交戦国の権を施したり、之を近時の公法に照さば海賊視するを得べき乎

第三、琉球若し恢復を計り示勢の為に朝鮮に乱入せば各国之を交戦国と為す可き乎

第四、国法上一個人自護の権利は公法上一国自護の権と何等の点に至りて比考を失ふ可き歟 (三九-四七頁)

 講師の新任および退任については、第二十二表に表示してあるが、各年度に如何なる科目を担任したかの資料は、不十分にしか残存していない。二十一年十一月に、学苑が大改革を実施したその最初の学年についても、僅かに『専門学会雑誌』に掲載された定期試験の出題者によって、各科目の担当者を知ることができるのみであるが、それも後期に関しては三年級のみしか知り得ないので、ここにはその前期の担任者を示しておこう。なお、この期に発足した英語政治科、英語第一・第二法律科に関しては、英学部の試験問題は「印刷の都合」上省くという従来の慣例を踏襲したためであろう、試験問題(英語で出題されたに違いない)が誌上に発見せられず、従って出題=担任者(邦語科と同一人でない場合があれば)の顔触れを明らかにすることができないのはきわめて遺憾である。

政治科 一年級)

政治科 二年級)

政治科 三年級)

第一法律科(司法科) 一年級)

第一法律科 二年級)

第一法律科 三年級)

第二法律科(行政科) 一年級)

第二法律科 二年級)

第二法律科 三年級)

(『専門学会雑誌』明治二十二年三月発行第六号 四六―五〇頁、同誌同年四月発行第七号 四五―五二頁参照)

右担当科目のうち、第二法律科の各科目は、すべて第一法律科または政治科の当該科目との合併授業であり、そのほかにも英国憲法は政治科二・三年と第一法律科一年、国家学は政治科二・三年、治罪法は政治科一・二年と第一法律科一・二・三年、法理学は政治科三年と第一法律科三年、判決例は第一法律科一・二年、証拠法は第一法律科二・三年、訴訟法は第一法律科二・三年、また政治科二年の行政法は第一法律科二年と、政治科三年の行政法は第一法律科三年と、それぞれ合併して実施されたものと推定される。

 最後に、大改正以前の英学科ないし英学部に関しては、十八―十九年度の予定担当表が、この時期について我々が手にすることのできる唯一のものであるので、それを、外国語表音については原文のまま、次に掲げておく。

予科下級)

予科上級)

第六級)

第五級)

第四級)

第三級)

第二級)

第一級)

(『中央学術雑誌』明治十八年九月二十五日発行第一四号 二七―二八頁)