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第二編 東京専門学校時代前期

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第十章 東京専門学校創設

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一 私立学校開設願い

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 大隈重信を有力な後援者とし、大隈英麿を盟主と仰ぎ、小野梓および鷗渡会七人組を中核とする東京専門学校は、明治十五年、いよいよその開設の第一歩に乗り出した。そこで先ず、「改正教育令」(明治十三年十二月二十八日付「太政官布告第五十九号」)第十九、二十一条に則り、左の如く「私塾設置願」を南豊島郡長を経て東京府知事に提出した。

私塾設置願

今般東京府下南豊島郡下戸塚村六百四拾七番地エ私塾開業仕度候ニ付本年府甲第五拾号御達ニ照準別紙之通設置仕候也

明治十五年九月 麴町区飯田町壱丁目壱番地寄留

長崎県士族 大隈英麿

東京府知事芳川顕正殿

(『東京専門学校校則・学科配当資料』 資料2)

 これに対し、郡長梅田義信は次の通り至急認可方を申達した。

甲第千弐百四拾八号

南豊島郡下戸塚村六百四拾七番地へ私塾開業致度旨別紙之通長崎県士族大隈英麿より申出候条至急御認可相成候様致度此段及

上申候也

明治十五年九月十一日 東多摩南豊島郡長 梅田義信印

東京府知事芳川顕正殿

(『東京専門学校校則・学科配当資料』 資料2)

 ここで「私塾」の設置を願い出ているが、当時「私塾」とは「私立学校」の意味であった。なおこの「私塾設置願」には、設置の目的、学科配当、参考教科書を添付しているが、これらは創立当初の意図を明確に示唆するものがあるから、左に摘記しておこう。

第一 設置ノ目的

本校ハ政治経済学科法律学科及ビ物理学科ヲ以テ目的ト為シ傍ラ英語学科ヲ設置ス

但シ物理学科々目ハ追テ認可ヲ経ル

第二 名称及位置

本校ハ東京専門学校ト称シ位置ハ東京府下南豊島郡下戸塚村六百四拾七番地トス

第三 学科課程表ハ別紙ニ具ス

第四 学期授業時間及日限

学期ハ満三年トス

授業時間ハ一日六時間トス則チ一週三十六時〔間〕トシ毎日午前八時ニ初リ午後五時ニ終ル日限ハ各級一年ヲ以テ一級ノ課程ヲ終ルモノトス

但日曜日及ビ大祭日ハ休業トス

第五 生徒定員及ビ入学生徒ノ学力

生徒ノ数三百名入学生徒ノ資格ハ略々和漢ノ学ニ通ズルモノトス

第六 試業及休日

試業ハ一年二回第二月及ビ第六月ニ於テ之ヲ施行シ各科目六十点以上ヲ得ル者ハ及第セシム

休日ハ日曜日及ビ大祭日トス

第七 入学退学寄宿舎規則

入学スル者ハ東京府十五区ノ内ニ住居スルモノヲ保証人ニ立テシメ学力ヲ試験シテ相当ノ級ニ編入ス

退学セントスル者ハ保証人連署ヲ以テ其旨ヲ届出サシム

寄宿舎規則左ノ如シ

一 在塾生ハ総テ補幹ノ節度ヲ受クベシ

一 在塾生ハ毎朝各室ヲ掃除シ其清潔ヲ勉ムベシ

一 補幹ハ毎朝学生ヲ講堂ニ整列セシメ之ヲ検点ス但不在ノ学生アラバ其旨ヲ幹事ニ申報スベシ

一 毎朝整列ノ時刻ハ夏日ニ在テハ午前六時トシ冬日ニ在テハ午前第七時トス

一 在塾生疾病事故アリテ欠課セントスル時ハ予メ之ヲ補幹ニ届出テ其許可ヲ受クベシ

一 在塾生外出ヲ為ストキハ其名札ヲ塾門ノ番人ニ交付シ帰塾ノ時之ヲ携去スベシ

一 在塾生ハ疾病或ハ不得止事故アルニアラザレバ一切外泊ヲ許サズ若シ其事情アツテ外泊スルトキハ保証人ノ証書ヲ持シ之ヲ補幹ニ出シ補幹ハ之ヲ幹事ニ申報スベシ

一 外出門限ハ午後五時ヨリ同九時限トス

但日曜日其他休業日ハ午前六時ヨリ午後十時迄外出ヲ許ス

一 臨時外出ヲ要スル者ハ証人ノ証書ヲ以テ願出ヅベシ

但急遽ノ際証人ノ証書ヲ得ル能ハザルモノハ事情ニ依リ補幹之ヲ許スコトアルベシ

一 在塾生ニシテ悪疾其他大患ニ罹リタル者ハ勿論微恙ニ罹ル者ト雖モ本校ノ都合ニ依リ直ニ退塾セシムルコトアルベシ

一 他人来訪ノ時ハ其公私ヲ論ゼズ総テ応接所ニ於テ面接スベシ

一 塾中ノ禁誡ヲ申厳スル如左

一 発声読ヲ得ズ但昼間ニ在テ英語ヲ誦習スルハ其限ニ在ラズ

一 争論ヲ禁ズ

一 食時外ニ在テ飲食ヲ為スヲ禁ズ

一 放歌ヲ禁ズ

一 金‥銭ノ貸借ヲ禁ズ

一 午後十一時後ハ点燈炉火ヲ禁ズ

一 庭内ノ竹木ノ毀折汚辱ノ行為ヲ禁ズ

一 凡塾舎等ノ窓戸障子及ビ牆壁等ヲ毀壊スルモノハ各自之ヲ修補セシム

第八 教員員数学力職務心得及其俸額

教員ハ定数ナシ法理ノ学士及ビ其他専門学者ヲ以テ之ニ充ツ

職務心得ハ本校ニ於テ特ニ定メタル規則ナシ教員俸額一定セズ

第九 生徒訓戒及破毀物償還規則

生徒ハ前ニ掲ゲタル塾則ヲ以テ之ヲ訓戒シ犯ス者ハ禁足拘留退塾退校ノ四種ノ罰ヲ科ス

物品ヲ破毀スルモノハ時価ヲ以テ之ヲ償ハシム

第十 敷地及建物

敷地千五百坪

建物四百六拾坪 内二階二百坪

第十一 授業料

一ケ月金壱円

第十二 経費収入支出

入額

一 金四千円 学校維持元資金年額

一 金弐千四百円 授業料

〆金六千四百円

出額

一金五千五百円諸給料

一金六百円諸雑費

一金三百円予備金

〆金六千四百円

ここで注意すべきは、第七の入学退学に対する規則が僅かに二行を以て記載されているのに対し、寄宿舎規則は実に十三項目にのぼり、特に詳細を極めている点である。これは言うまでもなく都心から離れた郊外に学校を建設する以上、寄宿舎の演ずる役割がきわめて大きいからである。次に「設置願」に添付された別紙に目を転じよう。

第一表 東京専門学校設置願添付課程表ならびに教科書参考書表

東京専門学校学科課程表政治学科

東京専門学校学科課程表法律学科

東京専門学校英学科課程表

英学教科書表〔著訳者名は原文のまま〕

参考書表〔著訳者名は原文のまま〕

法律学科ノ部

政治学〔科〕ノ部

(『東京専門学校校則・学科配当資料』 資料2)

提出された願書は、東京府学務課六等属植原和三郎の担当で、次の如く知事の認可を求める運びとなった。

明治十五年九月廿七日出 六等属 植原和三郎

私学設置之件

大隈英麿

右私学設置之儀別紙之通願出篤ト御調査候得共不都合之廉モ無之被存候条御認可相成可然哉御指令案共相伺候也

御指令案

書面学校設置之儀認可候事

但開業之期ハ更ニ可届出事

年 月 日  (同書 同資料)

 本願書を審査答申した月日は、右の文書にもある通り、明治十五年九月二十七日、認可を得たのは翌二十八日のことであった。しかるにこれより先、同年九月二十二日の立憲改進党系機関紙『郵便報知新聞』附録には、この願書を要約したものが載せられている。

東京専門学校開設広告

今般東京専門学校ヲ開設シ、請願許可ノ上左ノ要目ニ拠テ、広ク所在ノ子弟ヲ教授ス、都鄙ノ有志来学セヨ。

一、本校ハ修業ノ速成ヲ旨トシ、政治、経済学、法律学、理学及ビ英語ヲ教授ス。

一、政治、経済、法律及ビ理学ノ教授ハ専ラ邦語講義ヲ以テシ、学生ヲシテ之ヲ筆受セシム。

一、修業ノ制限ヲ三周年トシ、毎周年二学期ヲ設ケ、等級ヲ分ツ。三等各一周年ヲ費ス者トス。

但シ、理学修業ノ期限ハ四ケ年トス。

一、時々科外講義ヲ設ケ、諸名士ノ講演ヲ請ヒ、一般ノ学生ヲシテ之ヲ聴聞セシム。

一、正則三学科及ビ英語学科ノ課程ハ左ノ如シ。(中略)

一、入学ヲ許ス者ハ年齢十六歳ニ満チ、普通ノ教育ヲ受ケ、略々和漢ノ学ニ通ズル者ニ限ル。

但シ、入学ヲ請フ者ハ来ル十月十日迄ニ之ヲ申入レ、修学履歴ヲ出スベシ。

一、政治、法律ノ二科ハ第一年生及ビ第二年生ヲ募リ、理学科ハ第一年生ノミヲ募ル。但来十月十一日ヨリ五日間南豊島郡下戸塚村東京専門学校ニ於テ之ヲ試験ス。其科目ハ左ノ如シ。(中略)

一、入学ノ人員ハ制限ヲ立テズ、入塾ハ一百二十人ヲ限ル。

一、入学金ハ金一円、受業料ハ毎月金一円、月俸ハ毎月三円五十銭トス。

一、開校ハ凡ソ来十月十五日前後ヲ期シ、其典ヲ挙グベシ。

但シ、目今請願中ニ係ルヲ以テ其期日ヲ確言セズ。

一、此外仔細ノ事目ハ東京麴町区飯田町一丁目一番地東京専門学校事務所ニ就テ之ヲ尋問スベシ。

(『東京専門学校校則・学科配当資料』 資料1)

 思うにこの開設広告は、東京専門学校設立の認可の感触が得られたので、急遽公募する必要があったためであろう。この広告には政治経済学科、法律学科、英語学科および理学科の学科配当表が載せられているが、英・理両学科以外は、概ね願書に添付した第一表配当表通りである。そして、校務担当者として、校長大隈英麿のほか、議員(後の評議員)に鳩山和夫小野梓矢野文雄島田三郎、幹事に秀島家良、講師に岡山兼吉山田喜之助砂川雄峻高田早苗山田一郎天野為之、田中館愛橘、石川千代松田原栄が、それぞれ名を連ねている。

 理学科については、当初「物理学科」として設置を期していたが、他の諸学科にやや遅れて名称を確定し、その科目の申請をした。「南豊島郡大隈英麿専門学校学科増設」の次のような願書が、前掲の「私塾設置願」と同様、東京都公文書館所蔵の『私立各種学校書類』中に綴られている。

願書

今般当校理学科課程及教科書別表之通相定候ニ付御許可被成下度此段奉願候也

但シ表式教科機械表之儀ハ追テ整頓之上奉懇願候

明治十五年十月

麴町区飯田町壱丁目壱番地寄留

長崎県士族

東京専門学校長 大隈英麿

東京府知事芳川顕正殿

前書出願ニ付奥印候也

学務委員 比田重正印

戸長 中村亀太郎印

第二表 理学科設置願添付課程表ならびに教科書参考書表

東京専門学校理学科課程表

教科書及参考書表〔著訳者名は原文のまま〕

理学科

(『東京専門学校校則・学科配当資料』 資料2)

これに対し、郡長は次の通り至急認可方を進達した。

甲第千四百二十三号

南豊島郡下戸塚村私立東京専門学校ヨリ別紙之通リ申出候条至急御認可相成候様致度此段及上申候也

十五年十月十日

東多摩南豊島郡長 梅田義信〓

東京府知事芳川顕正殿

府知事の認可は左の通りである。ただし、原本は伝わらず、これは学務課の「案」文である。

明治十五年十月十三日出 六等属 植原和三郎

私学々科設置之件

大隈英麿

右者曩日私学設置之願書御認可相済候処尚又別紙之通理学課程表及上申取調候処不都合之廉モ無之被存候条御認可相成可然哉御指令案共相伺候也

書面之趣認可候事

年 月 日

大隈重信が東京専門学校を開こうとしたそもそもの動機は、養子英麿の才能を生かして理科の学校を創立することにあった。高田早苗の記すところが事実であるとすれば、鷗渡会員が二度目に大隈に面晤した時、「自分は早稲田に別邸を有つて居る。今回養子英麿が米国で天文学を研究して帰り、理科の学校を開かうといふので、それが為に別邸内に建築した小さい校舎を充てようと思つて居た。」(『半峰昔ばなし』九七頁)と言ったことに始まる。大隈は国土開発や鉄道敷設等に並々ならぬ関心を寄せていたから、大隈自身も理科系の学校を開設しようと熱望していた。そのことは、学科配当の中に、英麿の専攻であった星学以外に地質学や測量術を加えている点からも想像がつく。然らは、なぜ理科の設置願が遅れてなされたのだろうか。ここで思い当るのは、東京専門学校草創当時の功労者田原栄のことである。

 田原は広島県の生れで、明治九年選ばれて東京開成学校(現東京大学)に入学し、専ら化学を修めたが、十四年病を得て帰郷した。同県人の理学博士吉田彦六郎の言うところによると、「慥か明治十四五年の頃と記憶して居るが、私は君から自活就職の希望に就いて相談を受けたことがある。恰も好し、其の当時今の早稲田大学の前身たる東京専門学校の創立に際し、教職員を要するとの事であつたから、高田、天野、坪内諸氏と協議の上、創立者たる大隈侯に採用を願つたのである。」(『田原栄君紀念録』一七頁)とされている。そして田原は大隈の要請により、広島から上京して本学苑の講師に就任することになったのである。彼が上京した月日は定かではないが、恐らく第一次の私塾設置願と、開校広告との間でなかったかと思われる。つまり理科の学科目設定について、大隈英麿は、高田の同級生であった旧南部藩士田中館愛橘のほかに、田原の理学に関する知識を必要としたと見るべきであろう。

 さてここで、前記数種の願書に記された英麿の住所および開校広告に書かれた事務所が、東京麴町区飯田町一丁目一番地となっていることについて一言触れておこう。この地名は、大隈父子が居た通称雉子橋の邸のあった所である。今は区町名も変って千代田区九段南一丁目となっているが、九段会館の先に当る関東公安調査局、日産プリンス東京販売株式会社九段営業所一帯の区域を指し、かつてフランス大使館があった所である。小野が大隈を指して「雉橋老」と言ったのも、この雉子橋邸の古老を略したもので、『慶長年間江戸図考』には、慶長十七年四月に朝鮮から国使が来たので、これをもてなすため、諸国から雑子を集め、この流れの水上に鳥屋を設けたところから、橋の名ができたと伝えられる。また英麿の族籍が「長崎県士族」なのは、佐賀は当時長崎県だったからである。

 ところで新校舎は建築中であり、また早稲田の別邸で生徒募集の事務を執るのでは、応募者も少かろうという配慮もあり、雉子橋邸内の長屋の一隅を臨時の事務所にし、高田らがこれにつめかけて、入学の問合せや申込みに応じていたが、九月末に校舎も落成したのでこれに移り、本格的な開設準備のため忙殺されるようになった。

二 新校舎

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 さて、新築落成した新校舎については、『半世紀の早稲田』には左の如く記述されている。

新校舎は大隈が寄附したもので、ざつと一万円ぐらゐかかつたらうといはれる。一棟は講堂で元の文学部の教室がそれに当るが、初めは半分しかなかつたものである。屋根の上には露台のやうなものがあつて、そこに望遠鏡を据附ける仕掛けになつてゐた。他の二棟は寄宿舎で、いつれも木造の二階建で、当時にあつては素晴らしい洋風建築であつた。それが稲田の前、丘陵の下、緑色濃やかなる濶葉樹林の問に見えたのだから、どれだけ若い人々の心を牽きつけたか知れやしない。これら新校舎の設計は誰れがしたか不明であるが、新人であつたと見えて、換気、採光などには格別の注意を払つたらしい。 (三三頁)

 ところが、市島の懐古談によると、

其の時の学校の建物は、今の正門〔今日の南門〕から右に突きあたつた木造二階建ての一棟と、其の裏の長屋建ての一棟とでありまして、長屋の方は専ら寄宿舎に充て、表の一棟は教場でもあり、事務室でもあり、図書室やら教員室やらであつたのです。此の時に集まつた生徒は八十人ばかりでありまして、それを四つの教場で教へたのですが、寄宿舎は凡そ百人ばかりも這入れるやうになつてゐたのです。当時の学校の規模は誠に小さいものでして、上陳の四室を教場に充て、まだ明間があつたのですから、二階の講堂の一つに畳を敷き、これを高田君、田原君の宿所に充て、其の隣りを書籍閲覧室に充てたのです。

(『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』 三一二―三一三頁)

ということである。この「木造二階建ての一棟」は、三九二頁に引用した高田の講演中の、アメリカで理学を専攻した養子英麿のために大隈が「一つ学校でも始めようといふので、何となく今の文科の建物の半ばを造つて置」いたその校舎であったに違いない。『半峰昔ばなし』の中にも、高田は、

今度学校が開かれるといふので行つて見ると、今の早大敷地の前の処即ち今の新築図書館辺に小さい建物が只一棟あつて、其後は小丘で、丘の上は全部茶畑であり、左右は早稲田名物の茗荷畑になつて居た。其中に少し米田が散在するといふ光景で、私は始めて早稲田へ行つて東京の近所にこんな処があるかとびつくりした位であつた。東京専門学校の最初の建物は、現今の早大文学部の教室の半分だけのものであつた。 (一〇三―一〇四頁)

と記しているが、ともかく明治十五年夏までに、「此教室の半ばだけの建物が前から出来て居た」ことは間違いなく、それに急遽「長屋建ての一棟」の寄宿舎を建増して、九月末に落成したものであろう。そしてそれらが、「大隈が寄附したもの」ではなく、後年には家賃が学苑から大隈に支払われていたのは、四二七頁に指摘した如くである。

 前節に掲げた「私塾設置願」には、「建物四百六拾坪 内二階二百坪」と記されてある。学苑に現存する建物の図面で、最も古いものは、明治十九年三月に、市島・高田・天野・田原・坪内・三宅六名連名で大隈に提出した「東京専門学校改革考案」に添付された「附図」(「春城雑纂」十四所収)であるが、それには、「講堂」一棟のほか、「甲塾」、「乙塾」、「丙塾」の寄宿舎三棟が記載されている。この図面には、それぞれの面積は記載されてないが、四二六頁に引用した明治二十年六月一日付の「私立東京専門学校諸規程取調書」に添付された図面(第一図)は、建物の配置が前

第一図 東京専門学校建物配置図(明治二十年六月)

年と殆ど同一であって、各棟につき面積が明記されている。ただそれを計算してみると、平坪面積合計が記載の数字よりも四坪少く、廊下面積合計も三坪五合少く、それぞれ、三九六・七五坪、二三・二五坪であるが、それに二階二三九坪を加えると建坪合計六五九坪となり、建坪合計は記載と一致するから、平坪合計と廊下合計とが恐らく誤記なのであろう。そこで、単純な計算の上では、創立後五年間に一九九坪が増築されたという結果になるが、それならば、創立時の建物はその中のどれであったろうか。

 本書に収載した写真第二集20は、参謀本部陸軍部測量局作成の東京北西部(牛込および小日向)の五千分の一の地図の一部であり、明治十六年測量に基づく東京専門学校の校舎の配列を識別することができるが、それには、「講堂」のほか、第一図の「甲号寄宿舎」ならびに「乙号寄宿舎」および「賄所」と推定せられるものが確認せられる。ところが、そこに見られる「講堂」の図形には、第一図に見られるものの東部約三分の一が欠如しているが、この欠けている部分が、『留客斎日記』に記載されている、明治十六年夏の増築分と察せられる。市島が、

翌十六年の春学校設立の事が大評判になつたので、生徒がズンズン殖える、講堂が不足になる、増築といふことが焼眉の急務となつて来た。そこで其の方法を大隈伯の処で協議した事があります。然るに其の頃は高田君も田原君も其他もホンの書生あがりの事ですから、家の建築などの事については一向に承知がない。僅かに三十坪ばかりの建て増しを協議するのに、百坪も二百坪も無ければ足らないやうな色々の注文を口々に持ち出すので、伯も一笑を漏らされたといふ奇談があります。さて此の増築も其の年の秋に出来上りまして、学校は年一年に盛になつたのです。

(『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』 三一四―三一五頁)

と記しているところから見れば、この増築分はほぼ三〇坪ばかりらしいが、これは平坪のことであったに違いなく、二階を加えると六〇坪ほどを第一図に記載された面積から控除したものが、創立時の「講堂」であったろうと推定される。

 仮に、その面積を一四〇坪とすると、「甲号寄宿舎」一九〇・五坪を加えただけでは、「賄所」、「廊下」、「雪隠」等等を算入しても、「設置願」の四六〇坪(内二階二〇〇坪)には遠く及ばない。とすると、市島の記憶に反し、開校時既に、「木造二階建ての一棟と、其の裏の長屋建ての一棟」以外に、例えば「乙号寄宿舎」でも建築されていたのであろうか。それとも、前田多蔵編の『早稲田大学沿革略』第一の明治十五年九月の項には、「是月校舎三棟(二階建)新築落成ス」と記載されており、前掲の『半世紀の早稲田』も、「講堂」のほか、「いづれも木造の二階建」の寄宿舎二棟の存在を指摘しているから、平家の「乙号寄宿舎」ではなく、二階建の「丙号寄宿舎」が創立時に完成していたのであろうか。しかし、この推定は、単に命名の前後ばかりでなく、十六年測量の前記参謀本部五千分の一の地図の記載と矛盾するように思われる。

 そこで、きわめて大胆な想像を試みれば、東京専門学校開校時に完成していたのは、「講堂」の約三分の二のほかは、後に「甲号寄宿舎」と呼ばれたものとせいぜい「賄所」くらいで、それに、恐らく寄宿舎の増築予定面積の概算を加えた大まかな坪数を、「設置願」に記したのではなかろうか。そして、『舎務日誌』十六年十月三十日の項に、「大隈公来校新築之寄宿舎其他巡視セラル」とあるのは、「乙号寄宿舎」か、「丙号寄宿舎」か、それともその両者であるかは不明であるけれども、『沿革略』や『半世紀の早稲田』の筆者に必ずしも正確でない記述を行わせたほど速かに、開校以後に増築が実現したのではなかろうか。何れにしても、開校の時点では、二階建三棟の建築物の存在を確認することは困難であると言わざるを得ないのである。

三 創立準備書類

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 本学苑に『明治十五年創立準備書類』なるものが残されている。それは青磁色の巻紙に毛筆で書かれた二通のほぼ同文の書類である。筆致から判断すると、小野梓が記したものではなかろうかとも考えられるが、一通はやや書体が乱れ、あるものは抹消されている点から、下書きと思しく、従って他の一本は正本であろう。学者の商法ではないが、家庭における什器や台所用品の名称に疎いのは当然で、そのため誤字や当て字が多いのもまたやむを得ない。今は正本をそのままに転載しておく。

明治十五年創立準備書類

学校用品目録

書籍箱並ニ書籍室用椅子・卓子

講堂用椅子・卓子

講堂用黒塗版四枚並白墨

役員室用椅子・卓子並硯箱・筆紙墨

専任教員室畳

食堂用食卓・椅子

生徒膳椀上ゲ棚

掛ケ時計三個

但シ役員室用壱個、補幹室用壱個、賄方用壱個

日課及整列時刻ヲ報ズル鐘壱個、就食時刻等ヲ報ズル拍子壱個

賄方台所用具壱式

釣りランプ三個

但シ役員室用壱個、賄方用二個

行燈若干

生徒等級分ケ掛ケ札五百枚

会計出納帳簿甲乙二冊

補幹室付属生徒名簿壱冊

講堂役員室・補幹室・会計・賄方所用書類入レ小簞笥四個

賄方所用生徒へ売掛ケ代金記入帳簿若干

賄方器具壱式

一、壱斗焚鍋 三個

一、湯釜 壱個

一、鉄大鍋 三個

一、米揚籠 大三個 小三個

一、米洗桶 二佃

一、飯鉢 大三個 小二十個

一、宮島杓〔子〕 大二本 中四本 小二十本

一、半台 大五個

一、香物鉢 二十個

一、土瓶 二十個

一、摺鉢 二個

一、味噌漉 二個

一、中血 百五十個

一、片口 大三個

一、房丁 五本

一、出馬房丁 二本

一、樫節カンナ 一本

一、鉄球 二本

一、箸類 一式

一、火箸 二組

一、茶碗籠 三枚

一、手桶 三個

一、小桶 中小五個

一、爼 三枚

一、米箱 二個

一、壱升枡 二個

一、壺 二個

一、汁手桶 二十個

一、玉杓子 二十個

一、炭箱 五箱

 この『創立準備書類』は、一見して分る通り、創設に当って購入すべき最少限の什器備品を掲げたもので、「学校用品目録」中の「賄方台所用具壱式」の明細が更に「賄方器具壱式」として別記されているのは、地方から上京して入学する者が多く、従ってその学生の大半を収容する学生寮の設備を特に完備する必要があると判断されたからであろう。ところで当事者が最初に予定した入学生数は五百名であったのかもしれない。下書きの第十三項に「生徒等級分ケ掛ケ札五百枚」とある記事から、そう判定することもできるが、正本ではこの数が「三百枚」に減じられている。また「賄方台所用具」の明細書に関しても、下書きの「飯茶碗百五十、椀百五十」は棒引きによって抹消され、正本には全然載せられていない。思うに、当初の計画では五百名が入学するものと考え、そのおよそ三分の一に相当する百五十名が入寮するものと判断していたのであろう。この数字は前掲の飯茶碗の数からでも推測できるが、生徒募集広告中第八項「入学ノ人員ハ制限ヲ立テズ、入塾ハ一百二十人ヲ限ル。」とあるのにほぼ暗合する。しかしこの計画は次第に縮小され、庶務日誌または教務日誌と思われる『早稲田大学沿革略』第一、明治十五年十月十一日の条には「寄宿舎ヲ開ク。凡ソ百人ヲ容ルルヲ得。」とある。もし当初の予測通り百五十名の入寮希望者があったならば、大変なことになったろうが、実際には、次項で述べるように五十余名に止まったのである。

四 生徒募集

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 学校開設広告は、前掲の『郵便報知新聞』九月二十二日号の附録の他に、同紙十月二日、四日、五日号に、単に「開校広告」として四行の開校の報知をなし、七日、九日号に「広告」として三行の入学試験日の広告を掲げ、十日号には「開校広告」と「広告」を同時に掲げた。同様の広告は、「開校広告」は、『朝野新聞』十月四日―七日、十日、十一日号、『東京横浜毎日新聞』十月三日―八日、十日号、『時事新報』十月五日―七日、九日―十二日号に、「広告」は、『朝野新聞』十月七日、十日号、『東京横浜毎日新聞』十月七日、八日、十日号にそれぞれ同文のものが掲載されている。左は『朝野新聞』十月七日号に掲載されたものである。

開校広告 

今般東京府の認可を得来十月二十一日開校す但地方入学志願者ハ臨時試験すべし 

右広告候也 

東京専門学校

広告

来る十一日より入学試験施行す

南豊島郡下戸塚村

東京専門学校

 九月中頃より十月中頃までの他の有力な新聞を見てみても、帝政党系の『東京日日新聞』『明治日報』、自由党系の『自由新聞』、各紙には何ら広告は載せられていない。以上のことから、広告はほぼ改進党系の新聞に限って掲載されたものと思われる。

 このようにして、新聞紙上に初めて広告されてから一ヵ月もたたないうちに、東京専門学校の最初の入学試験が、下戸塚村の新校舎で行われることになった。『留客斎日記』の十月十一日の条に、小野梓が、「此日試東京専門学校入学生之学業。及第者無慮七十余人云。」と感慨を込めて記しているのは既述したところであるが、この入学試験を受験した山沢(旧姓楢崎)俊夫は、二十年後にその思い出を左の如く語っている。

私は明治十五年の夏、友人の書生八人連れで出京し、芝に下宿して居つたが、此年は虎列刺病が猖獗を極め、同行した友人中に脚気に罹つた者も二三人出来たので、一同日光へ逃げ込んだ。秋風のそよぐ頃になつて病人も快くなり、疫病も下火になつたから帰京すると、東京専門学校設立の噂がある。そこで広島県の森田卓爾君と相談して、入学の問合に出掛やうと思つて居つた。折から新聞に広告が出た。其の広告がすばらしいもので、報知と毎日と朝野とに新聞半頁大の附録となつて挿入してあつた。それも四号活字で、裏面とも印刷したものであつた様に記憶して居る。広告に従つて雉子橋の大隈邸の南門に在る東京専門学校仮事務所へ出かけた。其の時は未だ知人でなかつたが、当時の幹事秀島家良君や、講師田原栄君などが居つて、田原君から入学手続の説明があつた。そこで二年級の試験を受けて見ては何うかと注意を受けたから、下宿に帰つて試験の準備に取掛つたが、一年級のは気にかかる程でもなかつたけれども、二年級の試験科目中で経済学は是迄少しも知らない事だから、急に二三種の翻訳書を購ひ来て読んで見たが、十分には解らない。彼是する中に一年級の入学試験の日が来た(十月十七日?)。そこで森田君と二人で出かけたが、当時の一番広い教場にざつと一杯で六七十人もあつたらうと思ふ。大隈伯も参観して居られた。科目は支那歴史に文章などであつたが、文題は「干渉教育の利弊を論ず」「司法官の独立を論ず」といふ当時の大問題であつた。さて翌日に至り二人共及第の通知があつた。そこで学校へ出かけて見ると、試験成績順に名札がかかつて居つたが、私は漸く中程より少し上位であつた。其の時の首席が岡本金太郎君であつた。其の翌日二年級の試験を受けた。其の時の経済学の問題は「火事は江戸の花なりといふ諺あり、此の諺を批評せよ」「青砥藤綱の落せし銭を拾ひしは経済の理に適ひしや否や」と云ふ様な問題であつた。覚束ない答案を出して帰つたが、其の夜二年級及第の通知があつた。辛うじて及第した事であらうと思ひながら、学校へ出て名札のかかつて居るのを下の方から順に見て行つたが、私の名がない。段々見て行くと、豈に図らん第二番にかかつて居つた。実に予想外であつた。 (『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』 三三一―三三三頁)

 山沢は、十七年に卒業後暫く母校に職を奉じ、校友会の初代幹事としても活躍したが、学苑を去ってから後も、財政困難に悩む東京専門学校が、山沢の創立・経営した大日本女学会(通信教育『女学講義』の発行所)からの一時の融通により、急場を凌ぐことが何度かあったとの市島の記述(『随筆早稲田』二一一―二一二頁)によっても明らかなように、学苑発展の陰の功労者の一人であった。さて、山沢が右の文中に、入学試験日を「十月十七日?」と語っているのは、記憶違いなのであろうか。ところが、『早稲田大学沿革略』第一には、十月十七日の条に、「政治科、法律科、理化学科、各初年級ノ入学試験ヲ行フ。大隈重信之ニ臨ム。」とあり、更に、十九日の条にも、「各科第二年級編入試験」を行った旨の記載がある。『沿革略』には時に誤記が絶無とは言えないが、山沢の「十七日?」と一致し、しかも大隈が参観した点まで山沢の談話を裏書きしているので、この際は無下に斥けてしまうのも如何かと思われる。と言って、小野の日記の信懸性を疑うべき確たる理由もなく、また「開設広告」(四四〇頁)には、入学試験期日を「十月十一日ヨリ五日間」と明記してあり、その上、十月七日の「広告」(四五四頁)にも「来る十一日より」とあるではないか。草創期の学苑では、入学試験を、同一年度にあって何回も繰り返して行っているのは事実であるが、『沿革略』の記事を第二回以後のものと解するのは牽強付会であろうし、また、山沢の受験したのが第一回の入学試験ではなかったと見るのも困難であり、いよいよもって不可解と言わざるを得ない。何れにしても、大隈が入学試験場に臨んだことは、「大隈侯八十五年史年表」(『大隈侯八十五年史』第三巻八一四頁)にも記載されていて、晴れの開校式にさえ、江湖の誤解を惧れて出席を見合せた(四六六頁)ほどの大隈が、入学試験には顔を見せずにはいられなかったという事実は、自己の創設した学校への最初の応募者を自身の眼で確かめてみたいという、大隈の胸裡を去来した期待の中に若干の不安が入り雑った心情を物語るものとして、津々たる興味を覚えさせられるのである。

 『東京専門学校人名簿』(明治二十二年十月調)と『東京専門学校校友会名簿』(同年十二月調)とを対比しながら、入学当時の学生出身地を逆算してみると、開校時の入学者は、北海道、沖縄その他数府県を除き、程度の差こそあれ、ほぼ全国各地より集まって来ていたことが分る。

 さて、新入生に関して西村真次は、十月十八日に手続を完了した進栄之助、林繁樹、和知(斎藤)和太郎、小野友次郎、大瀬与四郎、鈴木安民、国府田金十郎、太神寿吉、河部慶吉、井上良、大倉信太郎の十一名をはじめとして、入学金を納めた順序で左の如き人数を挙げている。

十月十八日 十一名 二十三日 十一名 二十七日 二名

十九日 十二名 二十四日 四名 三十日 二名

二十日 七名 二十五日 八名 三十一日 二名

二十一日 十四名 二十六日 五名 合計 七十八名 (『半世紀の早稲田』 四六頁)

しかしこの資料となった入学金納付の書類は、何れに格納されているのか、現在のところでは不明である。

 高田早苗の『半峰昔ばなし』によると、「早稲田に設ける東京専門学校への入学生を募集したところ、忽ち七八十名の申込があつた。」(九八頁)とあり、これを全部入学せしめたとすればおよそ八十名の新入学生を得たことになる。この点、『早稲田大学沿革略』第一の十月二十一日の条、開校式の記録中に記されている学生八十名と一応符合する。国学院大学図書館蔵の「梧陰文庫」には、文部省用箋に墨書された東京専門学校生徒数の増減表が収められてあるが、それによれば、明治十五年十月には、「傍聴」二人を別として、寄宿五十七人、通学二十三人の計八十人と記録され、内訳は政治科二十九人、法律科四十六人、理学科三人、英学科六十人となっている。(すなわち、英学科の生徒全部が必ずしも「正則三学科」の生徒であったと断定できないのではないかと考えられる。)この八十人の年齢は、「十四歳以上二十歳以下」が六十四人、「二十歳以上三十歳以下」が十六人であり、また族籍は、士族三十二人、平民農四十人、平民商八人であった。

五 開校式

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 明治十五年十月二十一日。

 当日午後一時、校長大隈英麿は講師・来賓とともに講堂に入り、新入学生を前に先ず「開校の詞」を朗読した。すなわち、

天下更始、新主義ノ学方サニ起ル。都鄙ノ子弟争テ之ヲ講ジ、早ク之ヲ実際ニ応用セント欲ス。速成ノ教授甚今日ニ切ナルガ如シ。而シテ深ク〔其〕蘊奥ヲ極メ、詳カニ其細故ヲ尽サント欲セバ、勢ヒ又原書自独ノ力ニ依ラザルヲ得ズ。是レ本校正科ノ速成ヲ期シ、並ニ英語科ヲ設クル所以ニシテ、其意之ヲ以テ目下ノ需用ニ供シ、以テ我国ニ学問ヲ独立セシムルノ地歩ヲ為サント欲スルニ在リ。今ヤ此開校式ヲ行フノ故ニ聊カ其目的ヲ述べ以テ諸君ニ告グ。

(『内外政党事情』明治十五年十月二十二日号)

 この英麿の詞はまことに短いものであったが、本学苑設立の趣旨を簡潔適切に言い表した名文と見てよかろう。恐らくは小野・高田らが想を練り、詳細は小野の熱弁に委ねて、開校に至る実質的な功労者である小野に花を持たそうとした英麿の考えが、大きく反映して生れた詞であったであろうが、それにしても、後に教旨が定められるまでの校是・憲法としては実に立派なものであると言わなければならない。

 小野の日記によると、これに続いて講師天野為之が登壇して一場の演説を行い、次いで東京専門学校議員の成島柳北が祝文を朗読している。右の校長の詞と同じく、これらは何れも『内外政党事情』に掲載されているので、ここに順次引用しておく。ただし注意すべきは、天野の祝辞は内外政党事情社社員としてのものであり、講師としてではない点である。

余ヤ今日此開校ノ典ニ与ルヲ得テ、喜悦禁ズル能ハズ。聊カ蕪言ヲ呈シ、以テ祝詞ニ充ルアラントス。諸君ハ知ルヤ否、余ハ曾テ教ヲ大学ニ受ケタル者ニシテ、其恩誼ヲ忘ルル能ハザルナリ。在学ノトキ一首ノ詩ヲ賦シテ法理文三学部ヲ称揚セリ。曰ク、書山重畳和洋漢、学海蒼茫法理文、堪喜年々出名士、扶桑教化奏ニ奇勲。当時思フ、余ヤ幸ニシテ舟ヲ法理文ノ学海ニ泛ブルノ快ヲ得ルト雖、世間之ヲ思フテ到ル能ハザル者亦尠シトセザルベシ。学海怒濤ノ洶湧スルナシト雖、路程ノ長ヲ如何セン。恰カモ騒容韻士ガ嵐山芳野ヲ憶フテ見ル能ハズ、眷恋ノ情ニ耐ヘザルニ似タリ。嗚呼、有力者ナキカ。若シ之レアリ、縮地ノ術ヲ施シ、容易ニ之ニ入ルヲ得セシムルニ於テハ、其人々ノ為シテ天下ノ為ニ益スル幾許ゾヤ。我邦境大ナラズ、財力富マズト雖、或ハ此事ニ堪ユルノ士ナカランヤト。当時ノ想像如此。然レドモ我身神ニ非ズ、焉ゾ今日アルヲ期センヤ。焉ゾ書山重畳ノ詩ヲ借リ来リテ此専門学校ヲ賀スルノ快アルヲ期センヤ。又タ焉ゾ在朝在野ノ諸紳士、我日本ノ教育ニ熱中ナルノ余リ奮テ此場ニ雲集スルヲ期センヤ。況ンヤ海外万里ノ諸客心ヲ我ガ高等教育ニ尽スニ於テハ、余ハ余ガ眉ヲ開テ鬱ヲ伸ブルニ止マラズ、天下ノ為ニ意外ノ幸福ヲ祝セント欲スルナリ。然リト雖、学校ノ徳ハ顕レ難ク、晦レ易シ。猶ホ慈母ノ其児ヲ養フガ如シ。時ノ今古、国ノ大小、隣ヲ選ブ何ゾ孟母ニ限ラン。望ヲ遠大ニ持シ、志ヲ凋残ニ養ヒ、衣食ヲ減ジテ学資ニ供シ、以テ児ノ業成ルヲ期スルニ於テハ、飢寒水火厭フコトヲナサザルノ慈親少シトセズ。諸君必ズ余ガ言ノ誣ヒザルヲ知ラン。然リ而シテ千載ノ下、孟母ヲシテ其名声ヲ擅ニセシムルモノハ何ゾヤ。他ナシ、孟軻ナキノミ。名ヲ揚ゲ父母ヲ顕スハ、孝子ノ為ス如何ニヨレリ。今夫レ学校ノ如キモ、亦タ然リ。校長、議員、講師各其人ヲ得、海内外ノ有力者之ヲ助ケテ教導スルモ、子弟ニシテ其実成ラズ、其名顕ハレズンバ、其黌モ亦タ堙滅シテ聞フルナキニ至ラン。苦心惨憺、有力者ニシテ此辛苦ヲ遷シ来リテ之ヲ外交ノ談判ニ用ヒ、之ヲ筆頭ニ施シテ文章ヲ草シ、之ヲ舌端ニ注テ時事ヲ談ゼバ、其ノ功名ヲ博スルハ疑フベキニ非ズ。而シテ之ヲ之レ為スコトヲセズ、却テ天下ニ嚚々セザルノ学事ニ満身ヲ擲テ着手スルモノハ何ゾヤ。只ダ只ダ高等教育ノ必須欠ク可ラザルヲ信ズレバナリ。此ノ者ノ苦心ヲ見テ、而シテ螢雪ノ労ヲ親ラスルヲ意トセバ、博ク天下ノ大業ヲ計リテ其名ヲ揚ゲ、延テ学校ニ及スコトヲナサズンバ、学生ノ中心安ンズルヲ得ザルベシ。余ノ我大学ニ於ケル此情ノ已ム能ハザルモノアリキ。学生諸君ノ我専門学校ニ於ケルモ、亦タ同感ナラン。而シテ余ハ諸君ノ重任ニ膺テ充分ナルヲ信ズルナリ。学海ニ身ヲ投ズル者二種ノ別アリ。自ラ青雲紅塵ノ外ニ放ニシテ、世上ノ風濤ハ耳アリテ聞カズ、目アリテ見ズ、真理是レ窮ムル者、其一ナリ。修ムル所ヲ以テ世ニ施シ、学問ヲ舟トシ、才識ヲ楫トシ、山ヲナスノ激浪奮フテ之ニ浮ビ、民ヲ陥溺ニ援ケントスル者、其二ナリ。甲ヤ固ト欠ク可ラザルモノナリト雖、乙ヤ今日ノ国状ニ照シテ又タ必須ナルニ非ズヤ。法律ノ景況ヲ見ヨ。其法ハ是レ西洋ノ諸邦ニ折衷シテ金科玉条ヲ得タルモノナルモ、夫ノ善良ナル代言人、夫ノ善良ナル裁判官全国ニ通ジテ落々晨星ノ如クナルニ非ザルカ。此際法律ノ真理ヲ知了スル者簇々出ルアラズンバ、我ガ三千余万ノ性命、財産、栄誉ヲ挙テ如何ガセント欲スルゾ。理学ノ景況ヲ見ヨ。九曲ノ青渓事ヲ運ラスニ足ルノ地ニ於テ価連城ノ汽器ヲ舶載シ来リテ顧ザルガ如キ数条ノ避陽鍼之ヲ不適当ナル角度ニ植立シテ以テ計ヲ得ルトナスガ如キ一斑全貌、地方到ル処トシテ之ヲ見ルニ非ズヤ。若シ理学ノ蘊奥ヲ窮ムル者、人間ニ落チ来リテ其頑愚ヲ諭サバ、国ノ大幸ナラン。政治ノ景況ヲ見ヨ。理財ノ道、施治ノ法、其ノ之ヲ謬ラザル者、真ニ秋柳ノ疎々タルニハ非ザルカ。此時ニ当リ政治ノ理ヲ知ル者出ルアリ。野ニアリテハ一枝ノ筆、三寸ノ舌、人民ノ迷夢ヲ驚破シ、朝ニ立テハ其学ブ所ヲ以テ政ヲ施スアル。其ノ国運ノ長足ヲ致ス幾許ゾヤ。是レハ之レ余ガ我ガ国情ヲ縷述シタルノ婆心ナリ。諸君ノ第一第二其何レヲ取ルハ、之レヲ諸君ノ意ニ任シテ可ナリ。期スル所ハ諸君功業ノミ。余ノ大学ニ在ルャ、書山学海ノ句ヲ得タル、偶然ニハ非ザルベシ。余ハ尚ホ諸君ニ告グベキモノアリ。余ノ本年某月大学ヲ出ルヤ、既往ヲ追懐シテ将来ニ及ボシ、感慨止ム能ハザル、亦タ一詩ヲ得タリ。曰ク、翼成群鶴気豪然、脱却籠樊向九天、従此東西南北散、声々鳴破世人眼。嗚呼、余ハ幸ニ書山重畳ノ句ヲ借リテ、我専門学校ヲ評スルヲ得タリ。請フ、更ニ声々鳴破ノ句ヲ以テ学生諸君ノ卒業ヲ祝スルノ快ヲ得ン。謹祝。 (『内外政党事情』明治十五年十月二十四日号)

祝 文

苟モ無学無識ニシテ国家ニ利シ、人民ニ益スル者ハ、未曾テアラザル也。劉項元来不読書トハ野蛮世界ノ口実ナルノミ。況ンヤ方今我邦ニ於テハ政体一変之時期既ニ近キニ在リ。青年ノ士、宜シク奮励興起シテ以テ学ニ就キ、業ヲ成ス可キノ秋ナリ。噫嘻、此黌建築新ニ成ヲ告テ、本日開校ノ典ヲ行ナハル。苟モ偏固娼嫉ノ人ニアラザルヨリハ誰力此挙ヲ賛美セザルモノアランヤ。柳北幸ニ席末ニ陪スルノ栄ヲ荷フ。安ンゾ一篇ノ祝辞ヲ捧ゲザルヲ得ン。抑モ将来ニ於テ上ハ皇室ヲ不朽ニ安ンジ、下ハ国民ヲ永世ニ利スルノ士ハ、必ズ此校ニ出ヅ可シ。古今ノ治乱ヲ鑑ミ、施政ノ要務ヲ知ルノ士モ、亦此ノ校ニ出ヅ可シ。自治ノ精神ヲ興起シ、改進ノ勢力ヲ熾ンナラシムルノ士モ、亦此ノ黌ニ出ヅ可シ。我ガ正理ヲ天下ニ明カニシ、以テ卑劣頑陋ノ小人ヲ悔悟セシムルノ士モ、亦此ノ黌ニ出ヅベシ。今日ノ創業ニ於テ、他日ノ成功ヲ想像スレバ、寔ニ欣抃喜躍ノ至リニ堪ヘザル者アル也。恭ク蕘言ヲ陳べテ以テ校長大隈君ニ謝シ、併セテ生徒諸彦ノ前途ヲ祝スト云爾。

 明治十五年十月二十一日 成島柳北謹言 (同紙明治十五年十月二十二日号)

 これに続いて小野自身が「祝開校」と題して演説をなし、これを以て開校式が終っている(『留客斎日記』明治十五年十月二十一日)が、小野の演説は、大隈英麿の開校の詞を更に敷衍した歴史的な名文であるから、ここに全文を『内外政党事情』から転載しておく。

本校ノ恩人大隈公、敬賓及ビ本校諸君、余ノ不学短識ヲ以テ職ニ本校ノ議員ニ列シ其員ニ加ハルハ甚ダ僭越ノ事ナリ。然リト雖ドモ本校ノ恩人大隈公ハ余ヲ許シテ其末ニ加ハラシメ、校長、議員、幹事、講師諸君モ亦甚ダ余ヲ擯斥セザルモノノ如シ。是ヲ以テ余ハ自カラ吾ガ不学短識ヲ忘レ妄リニ其員ニ具ハレリ。唯余ヤ不学短識本校ニ補フ所ナカルベシ。(否々)然レドモ既ニ大隈公ノ知ヲ蒙リ、又諸君ノ許ス所トナル。余ヤ唯我ガ勉強ト熱心トヲ以テ力ヲ此校ニ竭シ、ソノ及バン限リハ隈公ノ知ニ酬ヒ諸君ノ望ミニ対フベシ。(拍手)願クハ、本校ノ恩人及ビ諸君ハ余ノ不学短識ヲ捨テテ其熱心ヲ取リ、余ヲシテ知己ノ人ニ酬ユルノ一端ヲ得セシメヨ。(喝采)余ガ本校ノ議員ニ列シ、熱心ト勉強トヲ以テ事ニ玆ニ従ハント欲セシ者ハ、唯リ隈公ト諸君トノ知遇ニ感ゼシノミニアラズ。蓋シ又別ニ自カラ奮フ所アリテ然ルナリ。余ハ従来一佃ノ冀望ヲ抱ケリ。ソノ冀望トハ他ナシ。余ハ生前ニ在テ吾ガ微力ヲ尽シテ成立セシ一個ノ大学校ヲ建テ、之ヲ後世ニ遺シ、私ニ後人ヲ利スルアラント欲スル是也。コノ冀望タル、余ガ年来ノ志望ニシテ毎ニ用意セシ所ナリト雖モ、其事ノ大ニシテ且難キヤ、未ダ之ヲ全フスルノ歩ヲ始ムルヲ得ズ、荏苒今日ニ至レリ。然ルニ今ヤ隈公ガ天下後進ヲ利済スルノ仁アルニ遇ヒ、我東京専門学校ノ起ルニ及ブ。余豈ニ微力ヲ此間ニ尽シ平生ノ冀望ヲ全フスルノ歩ヲ始メザルヲ得ンヤ。顧フニ、若シ隈公ニシテ余ノ之ニ与カルヲ許サズ、諸君ニシテ余ヲ擯斥スルアルモ、余ハ尚ホ自カラ請フテ此事ニ従ヒ、微力ナガラモ余ガ力ヲ尽シ、余ガ平生ノ冀望ヲ全フスルノ途ニ就クナルベシ。然ルヲ況ンヤ、今隈公ハ余ノ之ニ与カルヲ許シ、諸君ハ甚ダ之ヲ擯斥セズ。余豈ニ微力ヲ此間ニ尽サザルヲ得ンヤ。(喝采)夫レ一滴ノ雨水モ聚マレバ大洋ヲ成シ、一粒ノ土砂モ合スレバ地球ヲ為ス。余ガ力微々ナリト雖ドモ、熱心シテ之ヲ久シキニ用フレバ、又或ハ積デ世ニ利益スル所アラン乎。(謹聴喝采)余ガ本校ニ尽サント欲スルノ心情実ニ此ノ如シ。而シテ余ガ本校ニ望ム所又随テ大ナリ。余ハ本校ニ向テ望ム。十数年ノ後チ漸クコノ専門学校ヲ改良前進シテ、邦語ヲ以テ我ガ子弟ヲ教授スル大学ノ位置ニ進メ、我邦学問ノ独立ヲ助クルアランコトヲ。(謹聴謹聴大喝采)顧シテ看レバ、一国ノ独立ハ国民ノ独立ニ基ヒシ、国民ノ独立ハ其精神ノ独立ニ根ザス。(謹聴謹聴拍手)而シテ国民精神ノ独立ハ実ニ学問ノ独立ニ由ルモノナレバ、其国ヲ独立セシメント欲セバ、必ラズ先ヅ其民ヲ独立セシメザルヲ得ズ。(大喝采)其民ヲ独立セシメント欲セバ、必ラズ先ヅ其精神ヲ独立セシメザルヲ得ズ。而シテ其精神ヲ独立セシメント欲セバ、必ラズ先ヅ其学問ヲ独立セシメザルヲ得ズ。(大喝采)是レ数ノ天然ニ出ヅルモノニシテ勢ノ必至ナルモノナリ。(謹聴謹聴)今ノ時ニ当テ、紅海以東独立国ノ体面ヲ全フシ、自国ノ旗章ヲ揚グルモノハ寥々トシテ暁天ノ星ノ如シ。(謹聴)印度ハ既ニ亡ビテ英国ニ属シ、瓜哇ハ其制ヲ荷蘭ニ受ケ、暹羅ハ其命ヲ英国ニ聞キ、近時安南モ亦タ疲レテ仏蘭西ニ帰スル等、漠々タル亜細亜大陸ノ広キ能ク独立ノ体面ヲ全フシ自国ノ旗章ヲ翻スモノ、唯我ト支那トアルノミ。(謹聴謹聴)我ト支那ト其立ツ所既ニ此ノ如シ。其勢決シテ処シ易キニアラズ。況ンヤ我邦ノ如キハ現時条約ノ改正スベキアリ、日清韓ノ関係ヲ正スベキアリ、強国土壌ヲ接シテ我ガ隙ヲ窺フアリ、富土海城ヲ浮ベテ我ガ利ヲ攘マント欲スルモノアリ、其国勢ノ切迫スル決シテ安静ノ時ニ非ラザルナリ。(謹聴喝采)惟フニ此間ニ処シテ独立ノ体面ヲ全フスル事甚ダ容易ナラズ。苟クモ我国民ノ元気ヲ養ヒ其独立ノ精神ヲ発達シ、之ヲ以テ之ガ衝ニ当ルニ非ラザレバ、帝国ノ独立誠ニ期シ難シ。(謹聴謹聴)夫レ国民ノ元気ヲ養ヒ其精神ヲ独立セシムルノ術頗ル少ナカラズ。然レドモ其永遠ノ基ヲ開キ久耐ノ礎ヲ建ツルモノニ至テハ、唯ダ学問ヲ独立セシムルニ在ルノミ。(大喝采)我邦学問ノ独立セザル久シ。王仁儒学ヲ伝ヘテヨリ以来、今日ニ至ル迄デ凡ソ二千余年ノ間、未ダ曾テ所謂ル独立ノ学問ナルモノアリテ我ガ子弟ヲ教授セシヲ見ズ。(謹聴)或ハ直ニ漢土ノ文字ヲ学ビ、或ハ直チニ英米ノ学制ニ摸シ、或ハ直ニ仏蘭西ノ学風ニ似セ、今ヤ又独逸ノ学ヲ引テ之ヲ子弟ニ授ケント欲スルノ傾キアリ。(苦笑拍手謹聴)其外国ニ依頼シテ而モ変転自カラ操ル所ナキ、此ノ如シ。顧フニ是レ学問ヲ独立セシムルノ妙術ナル乎。余ハ断ジテ其然ラザルヲ知ルナリ。(謹聴喝采)抑モ学問ヲ独立セシムルノ要術甚ダ多シ。然レドモ今日ノ事タル、勉メテ学者ヲシテ講学ノ便宜ヲ得セシメ、勉メテ其講学ノ障礙ヲ蠲クヨリ切ナルハナシ。(謹聴拍手)隈公嘗テ梓ニ語テ云ヘルアリ。曰ク、我邦学問ノ独立セザル久シ。而シテ其未ダ独立セザルモノハ職トシテ学者ニ与フルニ名誉ト利益トヲ以テセザルニ因ル。是ヲ以テ今ノ時ニ当テ我政府ハ森林ヲ択デ之ヲ皇家ノ有ニ帰シ、皇家ハ其収益ヲ散ジテ之ヲ天下ノ学者ニ与へ、之ヲシテ終世学問ノ蘊奥ヲ講求セシムルノ便ヲ得セシメ、以テ学問ヲ独立セシメザルベカラズ、ト。公ノ言フ所実ニ善シ。天下ノ学者宜シク公ヲ徳トスベシ。(大喝采)而シテ余ヲ以テ之ヲ見レバ、夫ノ外国ノ文書言語ニ依テ我子弟ヲ教授シ、之レニ依ルニアラザレバ高尚ノ学科ヲ教授スルコト能ハザルガ如キ、又是レ学者講学ノ障礙ヲ為スモノニシテ、学問ノ独立ヲ謀ル所以ノ道ニアラザルヲ知ルナリ。(拍手)夫レ人類ノ力バ限リアリ。万象ノ学ハ窮マリナシ。限リアルノ力ヲ以テ窮マリナキノ学ヲ講ズ。終始之ニ従事スルモ、猶ホ且ツ足ラザルヲ覚ユ。然ルヲ今外国ノ言語文書ニ依テ之ヲ教授セバ、之レガ子弟タルモノ勢ヒ学問ノ実体ヲ講ズルノ力ヲ分テ之ヲ外語ノ修習ニ用ヰ、以テ大ニ有用ノ時ヲ耗ヒ、為メニ講学ノ勢力ヲ途中ニ疲ラシ、所謂ル諸学ノ蘊奥ヲ極ムルノ便利ヲ阻碍スルニ至ラン。是レ堂ニ学問ノ独立ヲ謀ル所以ノ道ナラン哉。(謹聴喝采)顧フニ皇家ヲ輔ケ天下ノ学者ヲ優待スルハ、内閣諸君ノ責ナリ。唯ダ其障礙ヲ蠲キ学者ヲシテ学問ノ実体ヲ講ズルノ力ヲ寛ナラシムルモノニ至テハ、在野ノ人ト雖モ亦タ其責ヲ分タザルヲ得ズ。(謹聴喝采)而シテ本校ノ邦語ヲ以テ専門ノ学科ヲ教授シ、漸ク子弟講学ノ便ヲ得セシメント欲スルガ如キ、蓋シ其責ヲ尽スノ一ナラン。(拍手)惟フニ本校ニシテ其操ル所ヲ誤マラズ、忍耐勉強シテ之レガ改良前進ニ従事シ、十数年ノ後之ヲ進メテ大学ノ位置ニ致スヲセバ、余ハ其学問ヲ独立セシムルノ道ニ於テ裨補少ナカラザルヲ信ズルナリ。(大喝采)是レ余ガ本校ニ向テ冀望スル所以ノ首要ニシテ、微々ナガラモ、余ノ力ヲ出シ之ヲ玆ニ用ヰント欲スル所ナリ。校長、議員、幹事、講師及ビ学生諸君ハ、必ラズ余ノ冀望ヲ嘉ミシ、共ニ其力ヲ出シテ以〔テ〕本校ノ隆盛ヲ謀リ、恩人隈公ガ万余ノ義金ヲ捐テテ此校ヲ建テ、年々数千ノ公資ヲ擲テ此校ヲ維持セラルルノ盛意ニ背クナキヲ信ズルナリ。(拍手大喝采)余ガ本校ノ将来ニ冀望スルコト、此ノ如ク夫レ大ナリ。然レドモ天下ノ事物ハ緩急順序アリ。苟クモ其緩ト急トヲ択バズ、其順序ヲ失スルアラバ、一身ノ細事猶ホ且ツ挙ラズ。況ンヤ天下大事ノ一タル子弟教育ノ事ニ於テヲヤ。(謹聴謹聴)校長君ハ開校ノ詞ヲ述べテ曰ヘラク、天下更始、新主義ノ学起ル。都鄙ノ子弟争テ之ヲ講ジ、早ク之ヲ実際ニ応用セント欲ス。速成ノ教授今日ニ切ナルガ如シ、ト。本邦今日ノ事情実ニ此ノ如シ。而シテ特ニ政治、法律ノ二学ノ如キハ、最モ今日ニ速成ヲ要スルガ如シ。論ズル者、或ハ都鄙政談ノ囂々タルヲ憂ヒ、天下子弟ノ法律、政治ノ学ニ流レテ理学ヲ修メザルヲ咎ムト雖モ、是レ未ダ今日ノ実情ヲ究メザルノ罪ナリ。抑モ天下ノ子弟タルモノ理学ヲ修ムルヲ捨テテ政治、法律ノ修業ニノミ之レ走ルハ、国家ノ美事ト謂フベカラズ。然レドモ今日ノ子弟ニシテ政治、法律ノ二学ニ赴キ、滔々トシテ所在皆ナ是レナルハ、決シテ偶然ニ出ルニアラザルナリ。(喝采拍手)凡ソ事物ノ供給ハ皆其需用アルニ根ザス。苟モ其需用ニシテ存スル勿カラシメン乎。供給決シテ之ニ応ズルコトアラザルナリ。惟フニ、今ノ子弟タルモノ相率テ政治、法律ノ学ニ赴キ、滔々トシテ所在皆ナ是レナルモノハ、政学、法学ノ今本邦ニ需用アリテ之ニ応ゼント欲スルモノニアラザルナキヲ得ンヤ。(大喝采)今余ヲ以テ之ヲ観ルニ、本邦政治ノ改良スベキモノ、法律ノ前進スベキモノ、一ニシテ足ラズ、殆ンド皆ナ之ヲ更始スベキガ如シ。(大喝采)是レ所謂政学、法学ニ需用アルモノニシテ、子弟ノ相率ヰテ此二学ニ赴クハ、蓋シ此需用ニ応ゼント欲スルモノナルノミ。(謹聴謹聴拍手喝采)然ルヲ論者其本ヲ極メズ、一概ニ其末ヲ取テ咎ヲ今日ノ子弟ニ帰ス。余未ダ其可ナル所以ヲ知ラザルナリ。(大喝采)惟フニ、此勢ヲ一転シ天下ノ子弟ヲシテ其学歩ヲ理学ノ域ニ取ラシメント欲セバ、早ク天下ノ政治ヲ改良シ、其法律ヲ前進セシメザルベカラズ。(大喝采)苟モ之ヲ改良前進セズシテ子弟ノ法政ノ学ニ赴クナカランコトヲ冀フハ、抑モ是レ誤マレリ。(謹聴大喝采)今ヤ本校ノ政治、法律ヲ先ニシ、而シテ理学ニ及ボスモノハ、其意敢テ理学ヲ軽ジテ之ヲ後ニセシモノニアラザルベシ。唯ダ今ノ時ニ当テ政治ヲ改良シ、法律ヲ前進スルニアラザレバ、天下ノ子弟ヲ導テ其歩ヲ理学ノ域ニ進マシムルニ便ナラズ。故ニ先ヅ夫ノ二学ヲ盛ニシ、其得業学生ノ力ニ依テコノ政治ヲ改良シ、コノ法律ヲ前進シ、(謹聴謹聴)以テ大ニ形体ノ学ヲ進ムルノ地歩ヲ為サント欲スルモノナラン。(喝采)是レ実ニ事理ノ緩急順序ヲ得ルモノニシテ、余ノ深ク賛成スル所ナリ。但ダ理学ヤ尊トシ。大ニ之ヲ勧ムルニアラザレバ、国土ノ実利遂ニ収ムベカラズ。(謹聴謹聴)蓋シ是レ本校ノ世好ニ拘ハラズ、夫ノ理学ノ一科ヲ設ケ、数年ノ後チ大ニ之ヲ勧ムルノ地歩ヲ為サント欲スルモノ乎。余其用意ノ疎ナラザルヲ賀スルナリ。(喝采)而シテ本校ノ学生諸君ニシテ学ニ理学ニ従ハント欲スルモノハ、宜シク益々其志想ヲ堅クシ、今日ノ風潮以外ニ立チ異日ノ好果ヲ収ムベシ。是レ余ガ諸君ニ至嘱スル所ナリ。(大喝采)又タ正科ノ外別ニ英語ノ一科ヲ設ケ、子弟ヲシテ深ク新主義ノ蘊奥ニ入リ、詳ニ其細故ヲ講ズルノ便ヲ得セシメント欲スルハ、全ク諸君ト共ニ賛スル所ナリ。惟フニ、新主義ノ学ヲ講ズル、唯リ其通般ノ事ヲ知ルニ止ルベカラズ、必ラズヤ其蘊奥ヲ極メ、又タ事ニ触レ勢ニ応ジテコレガ細故ヲ講究スベキノ事多フシ。然ルニ若シ子弟ヲシテ自カラ原書ヲ読ムノ力ヲ備ヘシメズ、直ニ海外ノ事ヲ究ムルノ便ヲ欠クアラシメバ、時ニ臨ミ事ニ触レ許多ノ遺憾ヲ抱クアラシメン。況ンヤ且ツ本邦ノ学問ヲシテ其独立ヲ全クセシメント欲セバ、勢ヒ深ク欧米ノ新義ヲ講ジ大ニ其基ヲ堅クセザルベカラズ。(謹聴謹聴)本校蓋シ玆ニ見ルアリ。故ニ英学ノ一科ヲ設ケ、我学生ヲシテ大ニ原書ヲ自読スルノ力ヲ養ハシメント欲ス。余輩豈ニ之ヲ賛成セザルヲ得ンヤ。而シテ其原書ヲ授クルヤ、コレヲ独逸ニ取ラズ、之ヲ仏蘭西ニ取ラズ、却テ之ヲ英語ニ取ルモノハ、抑モ是レ偶然ノ事ニアラザルベシ。(拍手)顧フニ、独逸ノ学其邃ヲ極メザルニアラズ、仏蘭西ノ教其汎ヲ尽サザルニアラズ。然レドモ人民自治ノ精神ヲ涵養シ其活潑ノ気象ヲ発揚スルモノニ至テハ、勢ヒ英国人種ノ気風ヲ推サザルヲ得ズ。(大喝采)是レ本校ガ独語ニ取ラズ、仏語ニ取ラズ、故ラニ之ヲ英語ニ取リ、以テ之ヲ子弟ニ授クルモノ乎。(謹聴)其用意又密ナリト謂ツベシ。論者間々或ハ少年子弟ノ自治ノ精神ヲ涵養シ、其活溌ノ気象ヲ発揚スルヲ喜ビズ、強テ夫ノ輩ヲ駆テ之ヲ或ル狭隘ナル範囲内ニ入レ、其精神ヲ抑へ、其気象ヲ制セント欲スル者アリ。然レドモ是レ国ヲ誤マルノ蠧虫ナリ。(拍手喝采)諸君ハ夫ノ宋儒ノ学問ガ支那ト我邦ノ元気ヲ遅鈍ニシ、為メニ一国ノ衰弊ヲ致セシヲ知ルナラン。彼レ宋儒ハ人民精神ノ発達ヲ忌デ之ヲ希ハズ、寧ロ之ヲ或ル範囲内ニ入レ、其自主ヲ失ナハシメ、唯ダ少年ノ子弟ヲシテ徒ラニ依頼心ヲ増長セシメ、其極ヤ卑屈自カラ愧ヂズ、終ニ一国ノ衰弊ヲ致シタルニアラズヤ。(大喝采)然ルヲ論者之ヲ察セズ、漸ク活溌ニ赴クノ気象ヲ抑ヘテ之ニ赴カシメズ、将ニ自治ニ入ラント欲スルノ精神ヲ制シテ之レニ入ルナカラシメントス。是レ豈ニ宋儒ノ陋轍ニ倣フモノニアラザランヤ。(謹聴)今ヤ国家事多フシ。宜シク少年ノ子弟ヲシテ益々自治ノ精神ヲ涵養シ、愈々活溌ノ気象ヲ発揚セシムベシ。豈ニ敢テ之ヲ抑制シ、以テ漸ク将ニ復セント欲スルノ元気ヲ再衰セシムルヲ得ンヤ。(大喝采)而シテ之ヲ涵養シ之ヲ発揚スルノ要ニ至テハ、勢ヒ英国人種ノ跡ニ述べ従ヒ、以テ人生自主ノ中庸ヲ得セシメザルベカラズ。(喝采)況ンヤ理学ノ如キモ、近時ニ及ンデ米洲別ニ一軌軸ヲ出シ、将ニ宇内ニ冠タラントスルノ望ミアリ。蓄音ノ器、伝話ノ機等、近時ノ新発明ニ係ルモノ殆ド皆米人ノ手ニナラザルハナク、英国人種ノ学問ニ富ム、又決シテ政治ノ上ニ止マラザル也。(謹聴)本校蓋シ此ニ見ルアリ。故ニ独逸ヲ捨テテ取ラズ、仏蘭西ヲ措テ顧ミズ、即チ英書ヲ取テ之ヲ我学生ニ授ケ、以テ大ニ新主義ノ蘊奥ヲ極ムルノ利ヲ与へ、以テ詳ニ其細故ヲ講ズルノ便ヲ得セシメ、往々学問ノ独立ヲ謀ラント欲スルモノナラン。其意誠ニ偶然ニアラザルヲ知ルナリ。(拍手喝采)最後ニ、余ハ一ノ冀望ヲ表シ、之ヲ本校ノ諸君ニ求メ、天下ノ人衆ヲシテ本校ノ公明正大ナルヲ知ラシメント欲スルモノアリ。是レ他ナシ。本校ヲシテ本校ノ本校タラシメント欲スル、是レナリ。今マ之ヲ再言スレバ、東京専門学校ヲシテ政党以外ニ在テ独立セシメント欲スル、是レナリ。(大喝采)余ハ本校ノ議員ニシテ立憲改進党員ナリ。今マ党員タルノ位地ヨリシテ之ヲ言ヘバ、本校ノ学生諸君ヲシテ咸ク改進ノ主義ニ遵ハシメ、皆ナ其旗下ニ属セシメントスルハ固ヨリ其所ナリ。(大喝采)然ドモ余ガ議員タルノ位置ヨリシテ之レヲ言ヘバ、暗々裏々学生諸君ヲ誘導シテ之ヲ我党ニ入ルルガ如キ卑怯ノ挙動アルヲ恥ヅ。(大喝采)惟フニ、本校ノ大目的タル学生諸君ヲシテ速ニ真正ノ学問ヲ得セシメ、早ク之ヲ実際ニ応用セシメント欲スルニ在ルノミ。(謹聴拍手)故ニ諸君ニシテ真正ノ学識ヲ積ムアラン乎、本校ノ意足レリ。本校又別ニ求ムル所アラザルベシ。(謹聴拍手)而〔シテ〕異日学生諸君ガ卒業ノ後政党ニ入加セント欲セバ、一ニ皆ナ諸君ガ本校ニ得タル真正ノ学識ニ依テ自カラ之ヲ決ス。(謹聴大喝采)本校ハ決シテ諸君ガ改進党ニ入ルト自由党ニ入ルト、乃至帝政党ニ入〔ル〕トヲ問テ、其親疎ヲ別タザル也。(大喝采)惟フニ是レ余一人ノ冀望ナルニ止ラズ、恩人隈公、校長、議員、幹事及ビ講師諸君亦タ均シク斯冀望ヲ抱キ、共ニ本校ノ独立ヲ冀ヒ、共ニ他ノ干渉ヲ受ケザルヲ望ムナラン。然ルヲ世ノ通ぜザル者間々之ヲ疑フアリ。蓋シ又陋シト謂フベシ。(謹聴謹聴)而シテ余ガ此冀望タルヤ、独リ之ヲ我東京専門学校ニ求ムルノミナラズ、又広ク之ヲ官私ノ学校ニ求メ、之ヲシテ各々政党ノ以外ニ独立セシメ、以テ学校ノ学校タル本ヲ全フセシメンコトヲ望ムナリ。(拍手大喝采)今ヤ此開校ノ期ニ遇ヒ、親シク其式ニ与カル。故ニ聊カ余ガ心情ト冀望トヲ述へ、以テ此開校ヲ祝スルノ詞ト為ス。惟フニ、恩人隈公及其他ノ諸君ハ余ガ説ヲ容ルルヤ否。(拍手喝采) (『内外政党事情』明治十五年十月二十六日号-同年十一月一日号)

 この日、来賓として、東京大学からテリー、モールス(モース)、ハウスの三外人をはじめ、外山正一、菊池大麓、慶応義塾からは福沢諭吉、小幡篤次郎、政界から河野敏鎌、前島密、北畠治房ら数十名が招かれたが、入学試験にさえ顔を出した大隈は、この開校式に列していなかった。大隈に対する政治的反対派の風当りが強く、そのために学校の経営に支障を来たすようなことがあってはという心遣いがそうさせたのである。その大隈の鬱屈を自らの心情に相乗させてのことであったろう、小野の「演説は舌端火を吐き、口角沫を飛ばし、聞くものをして切歯扼腕せしめ」「学生は勿論来賓中にも手に汗を握つたものが多かつた」(『半世紀の早稲田』三七、三九頁)という。

 さて、小野の演説に集約表明せられた東京専門学校の建学の理念・指標は、「それまで『速成変則』とされてきた日本語による教育に積極的な意義を認め、また発足当初から『大学』への発展を射程のうちにおいた点で、わが国の私立大学の成立史のなかで独自の位置をしめている。」(『日本近代教育百年史』第三巻一二六九頁)と特筆され、その意義が評価されるものであった。更に、ここに鮮明に宣言せられた「学問の独立」の意義内容については、以下の如き事柄が理解の一助となろう。すなわち、小野梓は、「勧学の二急」なる一文で、「始めて洋学の東漸するや、……泰西自学の気風を併せて輸入すべきを信じ」ていたが、その眼に映る「当今泰西の学に従事する者」は、「往々泰西人の言論に酣酔し、全然其奴隷となりて自から暁らざる者多く、其弊や儒家の泥古と一般」という有様以外のものではなかった。のみならず、「海内の学者幾百各其門戸を張り、互に其帳帷を垂れ、後進を教授すと雖も、其見る所頗る陋く、其任ずる所甚だ軽く、未だ永遠の如何を究め、大に之に任ずる者」がなく、ために「其所為往々漢学者流の謬轍を踏み、英なり仏なり独逸なり何なり彼なり、各其知る所に就いて直に其言語文字を用ひ、其弟徒を教へ、未だ曾て其所得の学識を以て自ら有用の書を著はし、弘く後学を利する者あらざる」状態に停滞する他なからしめられていた。かくの如く泰西の学に従事する者にして「自学の気風」なく、しかも「今日の盛時に当てすら、原書に依るに非らざれば諸生曾て上等の学を講ずる能はざ」る環境下では、「後進の少年は之に依て充分なる学識を脳漿に点印するに由な」いばかりでなく、「又之に因て自学の精神を発起するに暇あらざる」ことをもたらす筈であった。そして小野にあっては、「後進の自学は実に本邦の学問を進行する者」であるとの認識から、「自学の精神」を欠落した洋語による教育は、泰西の精神的奴隷の再生産装置と同義であり、それは、「先進の学者は其著作を励み、以て後進をして容易に修学の機会を得せしめ」る以外にはその解消の方途を求め得ないというのである(『小野梓全集』下巻八九―九一頁)。こうした泰西の精神的奴隷状況を揚棄せんとする小野は、立憲改進党の綱領たる「施政の要義」において、「我邦学問の独立せざるや久し、而して其然る所以のものは、教育の基礎未だ立たざるに由る。惟ふに学問の独立は一国独立の根本なり。」として、その止揚による「学問の独立」こそが日本の国家独立を保障する要件であると認識するに及び、それが「故に我党は文部の全力を竭くして之を帝国の大学に用い、以て学士をして名誉と実益とを併有するを得しめ、終生身を学科に委し、所謂日本帝国の学問なるものを興起するを得しめんことを期す」る旨を明らかにしたのであった(同書同巻三〇一頁)。ここに、「祝開校」の熱詞の原型を見出すことができるであろう。更に、先に掲げた「勧学の二急」が明治八年初春の成稿に係わるものでありながら、篋底に蔵していたものを、東京専門学校開校の翌年九月発行の『明治協会雑誌』(第二四号)に、「また甚だ今日に切なる者あるを覚」えた故に掲載したことを勘案すれば、「学問の独立」とは、要するに学問する主体における「自学の精神」の確立の謂に他ならず、その確立如何に密接して達成される国民の独立・国家の独立を約束する鍵鑰であったとされよう。邦語による教育は、そうした「自学の精神」に自ずから根ざし、導かれる、主体的な教育態度であった。更に、「本邦ノ学問ヲシテ其独立ヲ全クセシメント欲セバ、勢ヒ深ク欧米ノ新義ヲ講ジ大ニ其基ヲ堅クセザルベカラズ。」と述べていることから、「自学の精神」を礎定した上で「子弟ヲシテ深ク新主義ノ蘊奥ニ入〔ル〕ノ便ヲ得セシメン」ことが、「学問の独立」に寄せられた主要関心であったことが分る。これが英学科を設けた所以である。「自学の精神」は、欧米日新の学術を自得するのに、「速成ノ教授今日ニ切ナルガ」故に訴えられ、また、日本の国家独立の要請と表裏する提示であったとされよう。

 ところで、政府の圧力を尻目に、敢えて政治経済学科を設けたのと相並んで、たとえ英麿のためとはいえ理学科を設けたのは、何と言っても大隈の炯眼と言わなければならない。これについて大隈は、後述(五三九頁)の如く、十五周年祝典の演説で、「理科、物理学は、私はどうしても学問の土台となるものと考へたんだ。」と述べ、経営の困難からこれを一時廃止した点に言及し、「此理科の失敗は千歳の遺憾である。」と結んでいる。大隈がこれまでとって来た態度なり、主義なり、政策なりは、実に進歩的で、そのため世情がこれに伴わず、失敗した憾みがある。例えば明治初年、鉄道を敷く時に当っても、世論を退けてイギリスからの借款により、断乎これを実現したが如きは、小野梓が書いた『大隈公政略記』(草稿)第七回「俗説を排きて鉄道を開くの議を持し、陋説を抑へて電信を通ずる説を持す」一章中によく示されている。最初の学科配当の中に、数学や物理、化学などは別として、地質学、幾何図法、測量術などを加えたのは、将来を予見した大隈の示唆によるものとも考えられるが、不幸にしてこの科を志望する学生が少かったため、遂に廃科のやむなきに至るのである。何れにせよ「理学科の設置」は、「邦語による授業」、「政治経済学科の設置」とともに、我が東京専門学校の船出を飾った異色ある金看板であったわけである。