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第七編 戦争と学苑

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第七章 女子学生への門戸開放

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一 男女共学実現への準備時代

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 早稲田大学が女子の学部入学を許可した最初は昭和十四年である。しかし、女子の聴講や付属工手学校への入学は既に大正十年代より実施していたのであった。

 私立大学として先駆的役割を演じてきた我が学苑が、女子高等教育に対しても先導的立場を執るよう努力してきたことは、夙に明治二十三年十一月十六日、東京専門学校大演説討論会において、五百名の参加者を得て「男女混合教育ノ可否」を論じているのによっても知り得られよう(第一巻第三編第十章二参照)。大隈重信自身も女子教育への理解を早くから示し、明治三十年三月の日本女子大学校創立祝賀会の際、日本女子大学校創立委員長として、「男女複本位論」を開陳している。大隈は「今日は男女複本位でなければ、社会の進歩、文化の向上を望むことが出来ない」と認識し、「日本の人口は四千万と云ふが、実はその中から女子を除いた残余のもの――二千万人の力が国運発展に資してゐるわけだ。それは能率上の大損失である。故に今後は女子にも、進んで高等教育を与へ、真に四千万の力を正当に伸びさせ」ねばならない(『大隈侯八十五年史』第二巻 六九八―六九九頁)と力説したのである。大隈のこの男女複本位論は、欧米の個人主義に対する我が国の家族主義に裏付けられたものとはいえ、形態から見ればまさに「天の半分」論として時期的にも注目されよう。こうした大隈らの女子高等教育論は必ずしも直線的な前進を遂げるものではなかったが、大正期の大学令公布後も、我が学苑は逸速く大学における女子入学問題について時代を先導する方向に動いていく。

 大正七年十二月六日公布の大学令により、私立で最も早く「大学令」に依る大学となったのは、既述の如く、我が学苑と慶応義塾大学で、設立許可日は共に大正九年二月五日であった。しかし、大学令は女子の高等教育に対しては定見を持たずに実施された。「大学教育と女子との関係に就ては、元来政府は音楽学校の如き特殊のものを除くの外高等普通教育以上の学校に対しては男女混合教育を認めず」という方向であり、議論が百出した中で、「要するに臨時教育会議の主張する所は、女子にして大学程度の専門教育を受けんとする者は便宜之を男子の大学に収容すれば可なり」と、大学側の自由に任せた形を執りつつ、「文部省も亦爾来同一の主張を持して今日に及んで居る」(『明治以降教育制度発達史』第五巻 四九一―四九二頁)というのが実状であった。

 女子高等教育についての認識は、大学令以前から複雑な動向を示している。当時文部大臣であった高田早苗は、「大学令要項」、いわゆる高田案を大正四年に提出しているが、その主要点として、第三項「私人ハ大学ヲ設立スルコトヲ得ルコト」、第八項「大学ニ入学スルコトヲ得ル者ハ中学校若ハ修業年限五箇年ノ高等女学校ヲ卒業シタル者、又ハ文部大臣ニ於テ之ト同等以上ノ学力ヲ有スルモノト指定シタル者タルコト」(教育調査会『学制問題に関する議事経過』一五六―一五七頁)等の内容を持っていた。この高田案は、教育調査会の多数の賛成者を得て作成されたにも拘らず、「貴族院側から出た少数の会員」の「強烈な反対」に遭遇した。彼らは、「高田案のやうな低級大学」(『明治以降教育制度発達史』第五巻 一一九〇―一一九二頁)構想を、帝国大学と同一に論ずるわけにはいかないとする偏見さえ抱いていたのであった。高田案に対し、枢密顧問官らの意見は大学改革の基本に賛意を表しながらも、女子高等教育に対しては、「大学に於ける男女の混合教育を排し、他面に於ては又た女子の独立大学を排する」(「枢府女子大学観」『教育時論』大正四年十二月五日発行 第一一〇三号 一四頁)ものであった。高田自らもこの間の事情を察知し、自案提出の翌年には、女子高等教育の緊要を訴えながらも、「去れど物には一定の順序あり、従つて今日我が女子教育を以て、直ちに男子と同様にすべしと云ふならば、そは時勢に適せざるの言なりと云はざるを得ず」(「文相女子教育談」同誌大正五年四月五日発行 第一一一五号 一七頁)とやや後退した主張をしている。

 臨時教育会議における女子教育改善に関する主審会においては幾度か意見が交されたにも拘らず、女子高等教育については十分な合意に達しなかった。七年九月段階にあっても、「(一)今日の女子教育は未だ十分に家庭主義徹底し居らず。(二)今日の女子は一層高き教育を必要とす。(三)女子の大学教育には尚ほ慎重考慮すべきものあり。(四)女子職業教育の途を開くべし」(「女子教育改善審議」同誌大正七年十月五日発行 第一二〇五号 一三頁)等の矛盾した論議が列記されるに止まっていた。女子高等教育について未整理のまま、結局、臨時教育会議の諮問第六号答申の第四項「高等女学校卒業後更ニ高等ナル教育ヲ受ケムトスル者ノ為ニハ専攻科ノ施設ヲ完備シ又必要ニ応ジテ高等科ヲ設置スルヲ得シムルコト」(『臨時教育会議要覧』一三五頁)に見られる如く、女子高等教育の専攻科、高等科を設置する程度の認識でしかなく、大学令はそれらを背景に公布されたのであった。

 女子高等教育について賛否両論渦巻く中で、学苑では学長平沼淑郎が大学令公布の翌八年『教育時論』に一文を寄せ、「今日女子の為めに大学開放の論を聞いても、敢て事新しき感じはせぬ。寧ろ却つて其遅きを憾む次第である」と前置きし、「我が早稲田大学に於ても、既に此の議は維持員会に於て上下されて居るから、遠からざる将来に於て、これが実行に向つて進行する時機が出現するであらう」との確信を披瀝し、「我輩は早晩大学が女子の為めに開放せられることを予期して居る」(「女子の高等教育と大学開放問題」同誌大正八年四月二十五日発行 第一二二五号 三―五頁)と言い切っているのが注目される。学苑では平沼学長の提言を受ける形で、八年六月に定時維持員会の議決により、大学令実施準備委員を平沼、高田、松平頼寿ら十四名に嘱任した。大学令実施準備委員会は翌々月の九月に大学令実施に関する議案を議了し、定時維持員会を経て、東京府知事を通して文部大臣宛に認可を申請した。「早稲田大学設立認可申請」の学則第四章第二条は、入学規定について、「附属高等学院ヲ修了シタルモノハ其志望学科ノ属スル学部第一学年ニ入学スルコトヲ得」と先ず定め、第三条の入学規定は更に、

第三条 前条ノ入学志望者ヲ入学セシメタル後尚欠員アル時ハ左ノ資格ヲ有スル者ノ入学ヲ許可スルコトアルベシ

一 高等学校高等科ヲ卒業シタル者

二 専門学校卒業者ニシテ銓衡ニ依リ試験ヲ行ヒ附属高等学院修了生ト同等以上ノ学力アリト認メタル者

(東京都公文書館所蔵『大正八年学事私立学校第一種』冊ノ五九)

と定めている。第二項で示されている専門学校には女子の専門学校も含まれているので、世間では女子学生の入学も許可されたものと受け取ったようである。すなわち、逸速く七月十四日の新聞は、「早稲田、慶応の両私立大学は夫夫新大学令に依る大学建設に苦心しつつあるが、就中早稲田大学は学問の独立と自由を標榜して東洋第一の模範私立大学たらんことを期し……特に大学部文学科を開放して女子学生をも入学せしむる」(『東京朝日新聞』大正八年七月十四日号)との記事を期待をこめて掲げている。『教育時論』(大正八年十月十五日発行 第一二四二号)誌上においても、早稲田大学が「試験的に文科だけ女学生の入学を許可する方針」(一四頁)であるとの論評が行われていた。

 しかし、大学当局案や世論のこのような賛同にも拘らず、男女共学に対する文部省側の対応には依然として、大学令制定時からの消極性が残っていた。先の『教育時論』も「近来文部省に於て、青年男女の共学に就き反対意見盛んなり」(同頁)と報じているし、新聞論調も、「私立大学の女学生歓迎は/文部省が反対/新計画も握潰しか」の見出しで、中橋徳五郎文部大臣や松浦鎮次郎専門学務局長らの「飽迄反対」の理由を載せている(『東京朝日新聞』大正八年十月三日号)。このような状況を反映して、大学令に伴う早稲田大学発足の大正九年二月決定の「早稲田大学学則」の第四章は、第二条に付属高等学院からの入学を定めたのち、既述(一五頁)の如く、第三条は、

前条ノ入学志望者ヲ入学セシメタル後尚欠員アル時ハ高等学校高等科ヲ卒業シタル者ノ入学ヲ許可スルコトアルベシ。

と原案が改められて、九年の時点では、女子の学部入学許可、すなわち男女共学の道は、実施の段階で閉ざされてしまった。ひとり教育界のみならず、社会全般に少からぬ注目を浴びた男女共学の論争と制度化の過程の中で、大学令下における新早稲田大学は学部女子入学案を一応棚上げにして発足することになったのである。

 敢えて直截的に言えば、学苑は大学令による学則改正の過程において、女子学生の学部への入学を積極的に発案しながらも、結局は文部省側の固い壁を崩せず、男女共学を断念せざるを得なかった。しかしこの屈折過程の一つの有効な出口として、女子学生の聴講生制度への取組が見られることとなった。すなわち、大正八年十一月の定時維持員会で学則改正等の議が諮られ、田中穂積理事は主審委員として「専門部学則改正ノ件」を提案したが、第七章の聴講生に関する原案は以下の通りであった。

第一条 篤学生ニシテ各学科中ノ一学科又ハ一学科目若クハ数学科目ノ講義ヲ聴カント欲スル者ハ銓衡ノ上聴講生トシテ之ヲ許可スルコトアルベシ。

第二条 聴講生志望者ハ学年ノ初ニ於テ入学願書ニ聴講スベキ学科又ハ学科目ヲ記載シ履歴書ヲ添ヘテ差出スベシ。

第三条 聴講生ハ聴講ノ学科目ニツキ本科生ト同一ノ試験ヲ受クルコトヲ得。

前項ノ試験ニ合格シタル者ハ願ニ依リ証明書ヲ授与ス。

この田中提案に基づき、専門部のみならず、学部にも拡大せられた聴講生規程の審査委員会が組織され、十年一月には同委員会の平沼学長以下十名の委員により該規程に関する決議がなされ、同年二月八日の定時維持員会は「聴講生規程」を可決した。同委員会の成案は直ちに文部省に申請され、十年三月十一日付を以て認可された(ただし三月十六日の維持員会例会の議事録には、「聴講生、特科生規定本月十日ヲ以テ文部省ヨリ認可ヲ得タル事」と記されている)。こうして聴講生制度の改善は、田中提案から一年半ほどを経過して漸く文部省の認可を取得したのであった。

 成案なった「早稲田大学聴講生規程」は既述(五一頁)の如く六ヵ条から成るものであるが、その第二条には、「聴講生ハ中学校、高等女学校卒業者、又ハ之ト同等以上ノ学力アリト認メタル満十九年以上ノ男女ニシテ志望学科ノ学修ニ必要ナル程度ノ学力考査ニ合格シタル者ニ限ル」と規定されている。時は大正十年。ここに、大学令を機とした女子学生の学部正規入学の構想が断念されてから一年後に、女子の聴講生入学制度が成立した。聴講生という形であったとはいえ、学苑が東京専門学校として国民の高等教育を担って以来四十年にして初めて、女子に門戸が開放されたのである。大正二年既に東北帝国大学に初の正規の女子学生の誕生を見たが、その年度のみのいわば例外に止まった。次いで同六年の東京帝国大学の場合は、公開講義における女子聴講生の許可であった。続いて同八年から十年にかけて、東京帝国大学文学部および経済学部の女子聴講生許可の外は、大阪医科大学、日本大学専門部(夜間)・法文学部美学科のように、比較的特殊な部門に正規入学が許可されているに止まっていたのが大勢であった。

 さて、学苑は「多数の聴講生を収容せるが、内に文学部、商学部及理工学部に十余名の女子聴講生の入学を許可」した(「早稲田大学第卅八回報告」『早稲田学報』大正十年十二月発行 第三二二号付録 五頁)と記録している。この間の事情を、平沼淑郎学長は十年四月の春季校友大会で、「聴講生に就いては、従来も聴講生規則と云ふものはありましたが、今回のはこれと異つて、大学各部に聴講生を置き、その聴講生たるものは男女を問はないと云ふことにした。これは或る方面から急進に過ぎはせぬかと云ふ御非難があつたやうに承つて居りますが、翻つて考へますと、時勢の進歩と共に女子の好学心は頗る盛んになり来つて居るから、これを容れると云ふことに何等の不思議はないと考へます」と、田中原案による聴講生規程の改善の因由と女子教育への姿勢を述べ、続いて女子聴講生の実態に触れて、「しかし唯今入学して居るものは少数であります。最も多いのが文学部の入学志望者でありまして、約八名ある。その外に理工学部と商学部とに各一名あります」(同誌大正十年五月発行 第三一五号 一六頁)と報告している。平沼は同年七月の得業証書授与式においては、女子聴講生の先の数字を訂正して、「聴講生が三十九名内女子が十二名」(同誌 大正十年八月発行第三一八号 八頁)と説明している。数のみを問題とするならば、大正十年の十二名の女子聴講生は、一万を超す当時の学苑学生・生徒数から見て微々たるものに過ぎないであろう。しかしこの女子聴講生入学許可の一灯が、女子中等教育としては画期的とも言える通信講義録『高等女学講義』を生み、工手学校における女子入学の門戸を開放し、やがて学部における男女共学へと昇華していく道筋を拓く一石となったことは、否定できない。

 とはいえ、この一灯も大正十年以降、決して順調な展開を見せていない。翌十一年度、露西亜文学専攻に聴講入学した網野菊は、「女の聴講生は法科に一、二人、文科では国文、英文、露文を通して十人もゐたであらうか」(『早稲田大学新聞』昭和十八年六月二十三日号)と回想しているものの、十三年度の新規女子聴講生は二名であり、以後漸減の傾向を示した。この年、英文学専攻に聴講入学した石垣(旧姓田中)綾子も、「埃っぽい学生服に交じって女子聴講生は三人、学生たちは慣れぬ若い女性を遠巻きにしてろくに話しかけてもこない」(『我が愛流れと足跡』五四頁)と回顧している。減少の理由として『早稲田大学新聞』は、「日本の女子教育では婦人が男子に並んで学んでゆくことは、無理らしい。それで一時の流行に追はれて入つた人々も次第に減じてゆくのである。ほんとに覚醒した女子聴講生は真にこれから以後に於て輩出するであらう」(大正十三年三月二十五日号)と論じている。しかし、この評者の議論には首肯し難い点が多々ある。例えば、女子高等教育の問題は一時の流行ではなかったし、覚醒せる婦人を将来にまつ必要もなかったのである。聴講生制度そのものに由来する制約も考慮しなければならないし、教育制度全般に亘る検討も必要であろう。その一つの証左として、大正十年度十二名入学者のうち理工学部応用化学科聴講生田代美代子は、足掛け三年の在学の経験から見て、次のような感想を発表している。

婦人の頭は依然として学問的には進まず而もその啓発の為には幾多の難関が横はつてきます。然るに時代の声として婦人の学問的向上が識者間に唱へられて来ました折柄早大に於て旧来の陋習を破り非常なる英断の下に婦人に大学開放の扉を開かれしことは私共にとりまして涙ぐましい程嬉しかつたのであります。さて喜ばしくも早大が婦人の為に解放されましたが過渡期のことで止むを得ざることながら矛盾を生じてゐます。学校当局者としては困難なる立場に在るものと考へられますが此上の英断を以て一層徹底の解放をお願ひしたいのでございます。それは高等学院の解放であります。……順序として何故に高等学院が大学より先に解放されないのでありませうか。 (同紙 大正十二年十二月五日号)

彼女のこの発言は、基礎科目における女子学生の学力不足は大学予備教育を受ける機会の不備に起因するものと見、高等学院の女子への開放により、一貫した女子教育の保障を求めたものであった。時あたかも大正十三年、日本大学女子聴講生の正規学生への昇格運動は東洋大学夜間部の女子学生を動かし、女子学生連盟の組織化を促し、「機会均等を標榜し/女大学生の奮起/火蓋は日大に切られ波紋は/本学聴講生にも波及」(同紙大正十三年十二月三日号)する状況を見せていた時期でもあった。

 大正十年度の十二名の女子聴講生入学以後、その数は漸減の傾向にありながらも、越えて昭和三年には、再び「杜に咲いた紅い花十輪」と形容されているように、十名の女子聴講生を迎えている。内訳は外国人三名を含み、政治経済学部四名、法学部二名、文学部英文学専攻一名、国文学専攻三名で、外国人学生は上海南方大学政治科二年修了、上海法政大学経済科二年修了等の履歴を持ち、ほかには東京女子大学出身、神戸女子商業学校専修科高等部から大阪古屋女子英学塾を経た者、女子英学塾選科出、帝国女子専門学校出身者など高い学歴を持っていた(同紙昭和三年四月二十六日号)。この昭和三年度女子聴講生の数は他年度に比して多い。この後、十四年に正規の女子入学が許可され、従来聴講のみに甘んじていなければならなかった女子に学部の門戸が開放され、以後の女子聴講生の位置づけは異るものがあるとはいうものの、例えば、十四年四月より十九年九月まで断続して聴講し、「キリスト教の中国化に関する研究」により文学博士の学位を昭和三十五年に学苑から授けられた山本澄子(東洋史専攻)のように、勉学を熱望する聴講生は必ずしも少くなかった。正規入学許可後も、早稲田の名声と自由な雰囲気を求める女子聴講生は、ほぼ絶えることがなかったわけであるが、女子聴講生への高等教育の開放は学部入学許可へ直接にはつながらず、工手学校への女子の正規受入れおよび選科制度などと一つ一つ乗り越えながらの男女共学への道程を辿ったのである。

 そこで次に、工手学校における女子入学者の推移に眼を転じよう。大正十一年三月二十日の定時維持員会の席上、「工手学校ニ女子ヲ入学セシムル事」が決議された。しかし、実際の入学はやや遅れ、十五年九月に初めて二名の女子生徒が予科に入学を許可されている(『早稲田学報』昭和二年七月発行 第三八九号 七一頁)。工手学校は、「太陽の輝く間額に汗して働き得た尊い学費で勉学し様と向学心に燃える人達の群が学園目ざして」参集したので、背広服の会社員、給仕、八十の手習いの老生徒、あるいは印半纏、腹掛けの労働者らが入学していた。これらの生徒に混じって、昭和四年入学者の中に、「文学部教室の二階では熱心に聴いてゐる二人の女性」(『早稲田大学新聞』昭和四年六月二十七日号)があった。この二名は、神田の中央工学校卒業の那須野金子と吉田文子で、ともに女性建築士を目指して建築科に在学していた。工手学校での女子入学者については、昭和十年に工手学校主事丹尾磯之助は、「近代社会情勢に鑑み昭和二年に女子を許されて以来もう既に三名の女性を社会に送り出しました」(同紙昭和十年五月十五日号)と述べているが、「既に三名」という表現によって如実に知り得られるように、きわめて寥々たるものに止まった。なお、この年の女子生徒は熊谷高女出身の高橋きわで、文字通り紅一点として婦人建築技師を目標としていた。

 男女共学実現への階梯としては、女子聴講生、工手学校女子生徒に引続き、「選科」問題に触れなければならない。大正十二年二月、「予て本大学に選科設置の議あり先づ其の準備として選科規定に関する審査委員会を設くるの必要」から、政治経済学部、法学部、文学部、商学部、理工学部の五学部より各二名ずつの選科規定審査委員会が新設された(「早稲田大学第四十回報告」『早稲田学報』大正十二年十二月発行 第三四六号附録 二頁)。二月に発足した同委員会は直ちに数回の会を持ち、三月の文学部教授会では「文学部選科生に関する細則設定の件」(同誌 大正十二年四月発行 第三三八号 五頁)につき協議している。三月十五日の『早稲田大学新聞』は逸速く「自由の学園早稲田では/専門部卒業生も学士になれる/女の学士が早大に選科制度新設」の見出しで歓迎し、「選科の制度は従来各官立大学にあつて私立大学にない。近頃我が塩沢学長は頻りに文部当局に此制度を早大にも許可して呉れと談じ込んで居る」と報じ、更に、「此選科の他の特長は女子の入学生を許してゐることで、其結果は女が初めて学士となる特典を得ること」になろうと記している。しかし、選科の入試や学士になるための単位修得後の試験等の条件から、「恐らく、高等女学校の先生達が、入学し得る位の者で、入学試験が困難だらう、余程入る人の数は少いであらう」と判断しているが、結局、選科制度は実現を見ず、自由の学苑に、選科制度という新しい枝に女子学生の花を咲かせることはできなかった。

 このように、学苑における女子の高等教育に関しては、その実績を誇りうるまでには多くの日時を必要としたのであるが、その間にあって女子の中等教育について、早稲田大学講義録の一つ『高等女学講義』が刊行されたことを一言しておこう。講義録を通じての学苑の校外教育は明治十九年以来の伝統を持つものであるが、『高等女学講義』は、政治経済科、法律科、文学科、中学科、商業科に次ぐ六番目の講義録で、大正十一年四月創刊である。創刊に先立ち、十一年二月十六日の学苑の定時維持員会には、「女学講義録ヲ本大学出版部ニ於テ発行スルニ付キ優良ナル卒業生ニ対シ特別ノ待遇ヲ与へ本大学内聴講生タル受験資格ヲ有セシムル事」が報告承認され、『高等女学講義』の刊行と、校外生出身の聴講生との関係が明確化されているのである。

 「今や社会は女子に対しても種々の職業を要求して居る。将来の婦人は、只単に家政上の革新に対して重大責務を有して居る許りでなく、同時にまた人間として生存のための闘士でなければならない」との判断に立つ校外教育部は、「ここに於てか吾々は学校教育拡張の必要を痛切に感」じて(『早稲田学報』大正十一年一月発行 第三二三号 二三頁)、『高等女学講義』の出版を企てたのであったが、講義録の特色および講師、科外講師陣を左に抄録しておこう。

講義録の特色

一、早稲田高等女学講義は、各特色ある高等女学校二十余校の代表的女子教育家が、実地経験によれる忠実なる執筆にして、事実に於て早稲田大学を背景とする一大高等女学校を現出したるかの観がある。

一、講義に趣味を多からしむるために、各科とも記述に細心の注意を加へ、これを渾然統合したる編輯ぶりは、蓋し講義録界に於ても新記録をなすものだらう。

一、現に教鞭をとりつつある実際家の、親切にして平明なる講義であるから、小学校程度の学力ある女子にとつて最も適当なる教科書であるとともに、高等女学校の学生にとりても、座右に備へて信頼し得る立派な参考書である。

〔中略〕

早稲田高等女学講義講師

東京府立第一高等女学校長・市川源三 青山女子学院・磯貝房子 横浜英和女学校・石山玉子 頌栄高等女学校長・沼田笠峰 女子学習院・岡野栄 東京府立第五高等女学校・奥野秋子 東京府立第二高等女学校・高木みつ子 淑徳高等女学校・永地待枝 双葉高等女学校・宇野たか子 淑徳高等女学校・野生司香雪 実践高等女学校・野田つな 女子美術学校・赤沼八重子 跡見高等女学校・指原乙子 成女高等女学校長・宮田脩 大阪府立夕陽丘高等女学校・三浦圭三ら二十五名。

科外講師

巌谷小波 文学博士・坪内逍遙 早稲田大学高等学院長・中島半次郎 文部省社会教育課長・乗杉嘉寿 山脇高等女学校長・山脇房子 女子学院学監・三谷民子 文学博士・下田次郎ら十一名。 (同誌 同号 二三頁)

本講義録は修了年限一年半で、前述のように、優良な卒業生には大学聴講生の受験資格を付与した。

 さて、昭和九年一月十一日の定時理事会は、「文学部男女共学ニ関スルコト時期尚早ニ付延期」を決定している。このことは、これ以前に男女共学がある程度論じられていたことを推測させる。すなわち、大正十三年には聴講生間の女子学生昇格運動があり(『早稲田大学新聞』大正十三年十二月三日号)、また昭和初期の婦人問題研究会の各種の動向は識者の眼をひらかせるのに十分であったろう。いずれにしても、その後、昭和十三年四月十八日の臨時理事会において、田中穂積総長より「女子ノ編入資格(中等学校免許状ヲ有スル女子)ニ付門戸開放方針」が打ち出され、理事会名において男女共学の実現を目途として研究するよう指示があった。田中指示は直ちに実行に移され、男女共学のための条件が着々整備された。十月二十七日に開催の学部長会では「各学部へ女子入学ノ件」(『田中穂積日記』)が付議され、十二月十二日の理事会で、「本大学々則中一部改正ノコト。本大学々則第四章第三条ニ別紙ノ通リ第四項、第五項ヲ追加挿入ノコト并右第五項ニ関スル内規制定ノコト」が決議された後、翌十四年一月十四日の定時維持員会で、従来の第四章第三条第三項の高等予科修了条項が削除され、改定項目は繰り上がって、「新ニ第三項、第四項挿入ノコト幷右第四項ニ関スル内規制定ノコト」が決議された。すなわち、入学資格者中に新しく改定挿入された第三条の第三項と第四項は次の通りである。

三、女子高等師範学校本科卒業者、官公立女子専門学校本科卒業者及修業年限三年以上ノ官立教員養成所女子修了者

四、前項以外ノ女子専門学校本科卒業者ニツキ本大学内規ニ拠リ銓衡ヲ行ヒ付属高等学院修了ト同等以上ノ学力アリト認メタル者

女子の学部学生入学の件を中心とした学則改正は、翌月の二月十五日に文部省より認可を得た。こうして昭和十四年四月の新学期より、「政治経済学部、法学部、文学部、商学部、理工学部の各学部に女子の入学を許可」(『早稲田学報』昭和十四年三月発行 第五二九号 一四頁)することが実現したのである。

 女子の正科生入学が決まりかけていた十四年一月から四月前後に至る学内世論も賛成論者が圧倒的であった。学苑における各種学生の会中、唯一の女性問題研究機関である婦人問題研究会は、七八九頁に既述した如く、学苑が総合大学として最初に女子に門戸を開放したことに対し、「日本の教育史上、一歩大いなる前進を記録することに依つて、早稲田の伝統に更に光輝ある歴史を加へるであらう」と高く評価している。その背景には、「我が国女子教育の貧困は、寧ろ惨憺たるものがあり、所謂良妻賢母主義を一歩も出ない女子高等教育の低調さと形式化は既に定評」となっていることへの批判も存在しているのであった。同研究会はこの認識のもとに、「学園のこの高邁なる識見を心より支持すると共に、この試金石をして有終の美を収めしめ、更に明日への発展のために協力することは我等一万早大学徒の義務である」と論じたのであった。

 後の総長大浜信泉も、この時、「学問は、男がこれを独占すべきものでなく、又学問には本来性別のあるものでもない。一国文化の興隆といふ観点から云へば、女も陸続大学に来り学び、あらゆる部門でその才幹を伸ばし、男と協力することが望ましい。而して大学の過程に於ては、最早強ひて分離教育の必要はない。元来大学は教育施設としては、最終の段階であるから、そこでは男にせよ女にせよ、人格の完成を目標とし、紳士淑女として仕上げられねばならぬ」(『早稲田大学新聞』昭和十四年二月一日号)と男女共学移行措置を歓迎している。高等師範部長で教育学者の原田実も、「今日の生活においては、……単純なる『内の生活』『外の生活』という二大差別を許容し得なくなつた」にも拘らず、「女の持つそれらの様々なる可能性に対しては、なほ殆ど、少なくとも高等にそして専門的には、教育はその営みを実行してはをらない。ここに女子の高等教育乃至大学教育の特に要望されねばならない理由が当然に把握」されるべきであると指摘し、「今回早稲田大学が、正科生として女子を入学せしめることに相成つたのは、深く慶すべきである。有為の女子が進んで来たり学んで、その実績を一日も速く天下に示し、女子の高等教育の有意義にして且つ切要なる所以を教育行政家に対つてもまた一般社会に対つても明白に実証するやうにあつて欲しい」(『早稲田学報』昭和十四年四月発行 第五三〇号 二―八頁)と訴えている。

 十四年一月一日号の『早稲田大学新聞』も、「英断“男女共学”へ/女子の入学許可制」の見出しを以て、学部正科生への女子入学を報じた。しかし、四月からは「知識欲に燃ゆる熱心な女性群の進出に男子学生がタヂタヂとなる風景も予想され、女人禁制と謳はれた早稲田の森に女子大学生の姿が時ならぬ花を咲かせる日も遠くはない」という華々しさの反面、男女共学制の実施が、我が国の大陸進攻への暗い歴史を背負いながら登場してくる重い歩みを感じないわけにはいかない。そして、女子学生が初めて学部を卒業したのは、繰上げ卒業第一回たる十六年十二月挙行の「大東亜戦時下の歴史的卒業式」(『早稲田学報』昭和十七年一月発行 第五六三号 七頁)においてであったのである。

二 昭和十四年四月

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 昭和十四年四月、満天下の期待を担って、学苑は女子を学部入学生として迎えた。十四年より二十年までの学部・専攻別入学者数と聴講者数とは、早稲田大学校友女子同好会編『早稲田女子学生の記録1939~1948』巻末の「名簿」によれば、次の通りである。

十四年四月 法一(英法一)、文三(国文二・英文一)、聴講一(文一)

十五年四月 法三(英法三)、文二(英文二)、聴講五(文五)

十六年四月 文六(国文二・心理一・社会一・英文一・東洋史一)、聴講二(政一、文一)

十七年四月 文四(国文二・国史一・芸術一)、聴講三(文三)

十七年十月 文五(西哲一・国文一・仏文一・国史一・東洋史一)、聴講一(文一)

十八年十月 文一四(国文三・西洋史三・国史二・英文二・社会一・教育一・仏文一・東洋史一)、聴講六(文六)

十九年十月 政一、文一四(国文四・国史四・西哲三・西洋史一・英文一・仏文一)

二十年四月 文三(国文二・西哲一)、聴講二(文二)

 これらのうち、若干を点描してみよう。第一期の女子学生入学者は、文学部国文学専攻に織本良子と中沢(旧姓足助)政子、英文学専攻に岡野(旧姓小林)恵子、法学部に今北(旧姓古田)静子の計四名であった。織本と今北は共に東京女子大学の卒業生であり、岡野は聖心女学院高等専門学校卒業、中沢は帝国女子専門学校卒業というように、当時の女子としては高い学歴を持つ者であった。学苑当局も、「他の官私立大学に率先して昨年度から各学部とも女性に門戸を開放することにしたが、選ばれたる少数の女学生達が皆真面目に専門の研究に従事」しているのを誇りとしている。それは入学条件において、「文部当局と再三折衝して、我が国の官公私立の女子専門学校の中で、一週三時間以上外国語を課し、三箇年間に高等学校の学科目四科以上を学修せしむる学校の卒業生を銓衡の上学部に編入」(『早稲田大学新聞』昭和十五年六月十二日号)させるという厳しい内容を伴っていたからにほかならなかった。昭和十五年四月の第二期女子入学者は五名で、文学部英文学専攻に松宮(旧姓清水)澪子と山脇(旧姓横山)百合子の二名、法学部英法科に伊藤きよ、渡辺道子、園田(旧姓松谷)天光光の三名であった。第二期生の学歴も山脇、渡辺、園田が東京女子大学卒業、松宮は実践女子専門学校卒業、伊藤は明治大学商学部卒業であった。やがて女子学生中にも異色が見られるようになり、例えば十八年十月文学部史学科に入学した川本(旧姓野谷)静子は、職業に従事しながら高等女学校から専門学校へと進み、学苑に入学した時には三十四歳であった(『早稲田学報』昭和五十一年九月発行 第八六四号 四六頁)。

 一方、彼女らの入学目的を列挙してみると、織本は学者、渡辺は弁護士・免囚保護事業、園田は男性と同等の勉強、山脇は英文学を挙げている(同誌昭和五十年四月発行 第八五〇号 一六―一七頁)。また、大塚野百合(十八年十月西洋史入学)は、西洋史を学ぶことにより確かなものを学び、当時のナショナリズムに溺れている我が国を批判する視点をつかみたい(同誌 昭和五十一年四月発行 第八六〇号 四二頁)と抱負を語り、夏堀(旧姓須藤)寿緒(十九年十月国文入学)は小説家(同誌昭和五十一年十月発行 第八六五号 二四頁)、西見〓緯子(西哲聴講生)は既成の声楽理論分野を切り開き、自己独自の学説を完成すること(同誌昭和五十一年十一月発行 第八六六号 三八頁)を目指したいと記している。すなわち、女子学生はかなりはつきりした入学目的を持つ者が多く、男子学生一般に比べて強い方向性ないし実践性を持っていた点に特徴があろう。入学後の学習成績も優秀であり、例えば太平洋戦争突入下十七年の繰上げ九月卒業式において、学部卒業生で優等の栄冠を得たいわゆる銀時計組に、法学部では渡辺道子が、文学部では横山百合子が名を連ねている。すなわち、男子卒業生で優等賞を授与されたのは、約千六百名中二十六名に過ぎなかったのに対し、女子卒業生は総数五名中二名を数えているのであるから、まさに特筆に値しよう。田中穂積総長もその送別祝辞の中に、女子学生が「五人中二人の優等生を出したことは邦家の為に欣快である」(『早稲田大学新聞』昭和十七年九月三十日号)と強調しているほどである。

 この時期の女子学生は、入学試験には口頭試問の比重が大きかったかの如き印象を懐いているようであるが、勿論特に女子学生について口頭試問を重要視する如きことはあり得ない。ただ、何分にも女子学生の受験は面接教員にとっては珍しかったから、男子学生よりも若干念入りに試問が行われたのは怪しむに足りないであろう。例えば、十七年十月文学部に入学した小杉(旧姓三浦)瑪理は入試について、「残暑の教室で大男の会津先生の面接にけんめいになって答えたのを思い出す。『飛鳥がすきか』と鋭い目で一言」と、それが会津八一との出会いであったと語っている(『早稲田学報』昭和五十一年三月発行 第八五九号 二二頁)。先述した織本良子は、「昭和十四年三月、早稲田大学が女子学生への門戸開放を発表した。伝統ある文学部に入れることに私は雀躍した」と述べ、「余りにも有名な国文学の泰斗、五十嵐力先生の口頭試問で『これを読んでごらんなさい』と言われたのはちょうど私の一番好きな古事記神代の巻のあの『八雲立つ』というすさのおの命の歌だった」ことを追憶しているが、「あなたは早大に入るのに親の許可を得ているのですか」と聞かれているのは、この時代をいかにも反映していると言えよう(同誌昭和五十一年六月発行第八六二号 四〇―四一頁)。織本と同じく西見〓緯子も、「受験にはご両親の許可がおありですか」と問われ、西見は「余りにも意外な質問に瞬間呆気に取られたが、何しろ両親には内密に、父の印鑑を無断で使用して入学願書を作成した」にも拘らず、「はい」と答えてしまったと打ち明けている(同誌 第八六六号 四〇頁)。

 女子学生の入学承認に踏み切ったものの、大学側の施設等の受入れ体制は必ずしも十分ではなかった。第一期生の「修学既に一ケ月」の感想では、授業等の満足感の反面、女子学生なるがゆえに、「ただ不便に感じるのはお昼飯をいただく適当な場所のないことです」と訴え、「教室の壁に絵のないのも女の学校から来て淋しいやうな気がします」(『早稲田大学新聞』昭和十四年五月十日号)と女性ならではの発言をしている。また他の一期生は、「私たち早稲田に入って、とても困ったのは女性専用のトイレがないこと。これには困りました。それから、お昼のお弁当を食べるところがないことでした。しょうがないから、お弁当は文学部の地下室の小使いさんの部屋を借りて食べていたんです」(『早稲田学報』第八五〇号 一八頁)と苦労話を述べている。これらの悩みは、聴講生以外には女子を許可しなかった時代以来継続していたのであり、いずれにせよ、戦前・戦中の学苑では女子学生は特異な眼で見られており、他方女子学生一般には「寄らば切るぞ」(同誌 第八五五号 四六頁)の身構えも強く作用していたのであった。

 ところで、女子学生の服装はどうであったろうか。十四年第一期生の入学から二ヵ月後、「流石地味な女子学生」と評価される一方で、「断然華やかなのは何と言つても女子学生の自由な服装であるが、これも将来取上げられる問題」(『早稲田大学新聞』昭和十四年六月二十八日号)であるとし、自由な服装から制服への移行を示唆している。第一期生織本はこの経緯を、「文学部の女子学生金員(といっても英文三、国文二の五名くらいだったが)に制服を着せようと思い立たれたのは西条八十先生であったらしい」と推測し、「私達はある日揃って目黒のドレメに行き、杉野女史デザインの制服の仮縫をした」(『早稲田学報』第八六二号 四一―四二頁)と想起している。しかしこの制服制度が何年に、またどの学部にまで実施されたかは定かでない。例えば、同じ一期生で法学部入学の今北静子は、「女子学生は、はじめてなので目立たぬようにして来るように、と注意されたので、早速紺の上衣に男子学生と同じ金ボタンをつけたものをつくって着」ていたという(同誌昭和五十年十二月発行 第八五七号 三六頁)。十七年春には、女子学生は聴講生を含めて二十五名を数えるが、この年、「服装の華美を中心に純朴早稲田の醇風の汚されるのを慨嘆、切々たる」投書が舞い込んでいる。それは「ハリウッドの大部屋の女優の扮装をそのままに」仏文科に学ぶ一聴講生への非難であった(『早稲田大学新聞』昭和十七年六月二十四日号)。これに対し、中島太郎学生課長は制服着用こそが解決への鍵であると述べている。けれども、男子学生でも、軍事教練以外に制服着用の強制が困難であった時代であるから、女子学生のみに制服着用を強制できたか否かは疑問であると言わざるを得ない。

 第一期入学生から二、三年後までの女子学生は、かなり強烈な学究的雰囲気に包まれていたようである。なによりも、学苑入学そのものが婦人の地位向上への指標となりうるとの自信を持ち、自らの学習に「一生を捧げてもいい」(同紙昭和十四年五月十日号)とまでの心構えを持っていたし、同時にそれが許容された時代でもあった。ところが四年後の十八年文学部入学の吉田(旧姓福井)秀子になると、「私の大学一年生は楽しい講義の雰囲気になれたと思ったとたんに終り、銃後の一員として戦争に加わることになってしまった」(『早稲田学報』昭和五十年十一月発行 第八五六号 三一頁)と述懐しているように、戦争はせっかく定着し始めた女子学生の向学心を摘み去っていった。当時の女子学生が、「私たちの学生生活というものは戦争と切り離して考えられない」(同誌 第八五〇号 二一頁)状況に追いやられていたと回想するのは当然と言えよう。川本静子も、「当時、日本人なら誰もが戦争に協力せざるを得ない体制下」(同誌昭和五十一年九月発行 第八六四号 四七頁)であった事情を悔やんでいる。それゆえ、第一回入学生で十六年に学士として巣立っていった織本は、「文学部に吾々三人の女子学生が入学した時は既に支那事変は年月を経てゐた」し、「宣戦の大詔が下つて」、その下で卒業するのであるから、「あらゆる仮面を剝ぎ矛盾と躊躇とを捨て去つて、赤裸々に全力を集中して……日本民族の日本国家の為」に、「大君の為に、祖国の為」にすべてを捧げる決意を語っている(『早稲田大学新聞』昭和十六年十二月十日号)。

 戦争の泥沼化につれ、女子学生の戦意もある面では昻揚していった。とはいえ、時代の制圧を受けながらも、感受性の強い女子学生にとって、戦争への悩みは彼女らの胸に重くのしかかっていたことも事実である。女子学生数が二十五名に達した十七年五月には、山脇百合子、園田天光光、長沼(旧姓橿淵)多磨子(十九年十月国文入学)を幹事とし、杉森孝次郎教授を会長とする早稲田女子学生会が結成された。女子学生会は「新日本の女性道」を標榜したが(同紙昭和十七年六月二十四日号)、懇親会的性格も併せ持っていて、戦時下にも拘らずしばしば会合が開かれた。山本澄子はこの会合で、「むしろ非常時だからこそ、私たちは勉強しなければいけないのだ」と考え、「このことは女子学生会の会合のときにも取上げられ、みな同様の感覚をもって相互に励ましあった」(『早稲田学報』第八六三号 四一頁)と記している。当時の「ナショナリズムに溺れている日本を批判する視点をつかまえたいというせっぱつまった思い」で入学した大塚野百合は、祖国のため、大東亜建設のための大義名分はまやかしにすぎない点を理解していた。「若者は、いったい何のためにその尊い生命を犠牲にしているのかわからない、その死は犬死で、すべて無意味ではないか、という思いがわたしたちの心の奥にひそんでいたからです。いったい日本は、何のために戦っているのか、この問いは、わたしの心をさいなみました」(同誌 第八六〇号 四二―四三頁)という大塚の心情は、反戦とキリスト者の苦悩の青春の一ページであった。川本静子も、「ヒューマニズムを標榜し、学業の研鑽に余念のなかったこの学徒たちが、幾日かの後、非人間性のきわまりない戦場で、どのような姿になっているのであろうかと想像して、涙がこみ上げて」(同誌第八六四号 四七頁)きたと回想している。十九年に他の女子学生とともに日本鋼管鶴見製鉄所に勤労動員をした関(旧姓宇佐見)とも(十八年国史入学)は、戦争のみでなく、勤労動員についても、「是非動員を取止めていただき、授業をつづけていただきたい」(同誌昭和五十一年一月発行 第八五八号 四四頁)という女子学生の申し出の可否が時局との関連で論議された事情を述べている。時既に敗戦の暗影が忍び寄ってくる頃においても、夏堀寿緒は、「自由のためにという言葉は、ほんの僅かな人々のなかで、抵抗といった形でしか生きのびることができなかったのだろう。私はそのささやかな抵抗の姿勢を一部の学生たちのなかに見いだした」(同誌 第八六五号 二六頁)と述べているが、女子学生もまた悩みつつ学んでいたのであった。

 戦時下に学苑に入学して、勉学に、勤労動員にと余念なき日々を送った草創期女子学生は、右にしばしば引用してきた『早稲田学報』掲載の回想録を、早稲田大学校友女子同好会編『早稲田女子学生の記録1939~1948』と題して刊行している。ここに我々は、彼女達の青春の証しを垣間見ることができるのである。