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第七編 戦争と学苑

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第九章 付属研究所の設置

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一 鋳物研究所

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 我が学苑は昭和十三年理工学部付属鋳物研究所を創設した。当時私立大学でこれほどの規模を備えた理工系の研究所を持つものは皆無であった。学苑が他大学に先駆けてこのような研究所を持つことができた理由は、一篤志家から多額の寄附を仰ぐことができたこと、研究所の責任者として当時最高の権威を迎えたことなどを数えられるが、その頃の財政規模にあってはかなり重い負担になる筈の支出を覚悟して、創設に踏み切った総長田中穂積の英断を忘れることはできない。

 昭和十二年六月発行の『早稲田学報』(第五〇八号)に寄せた「鋳物研究所の設立に就て」という一文の中で、理工学部長山本忠興は次のように述べている。

五年前の事理工学部教員と卒業者の議熟して中央研究所設立を計画し、已に十万円余の募金が予約された。是には原田積善会の好意が有り近々に着工の運びと成る事となつて居る。中央研究所は主として綜合的なアカデミツクの研究を目標とするもので、必しも応用のみの目的に捉はれてはならぬ。軈ては理学の尖端に出でても苦しくない使命を持つて居る。是に対して火山の外輪山の如く幾個かの応用中心の実験室が附属して工学の本山たる面目を完ふする訳で、斯かるヴヰジヨンが描かれて我理工学部の進むべき途は歴然たるものがあつた。鋳物研究所は此種の応用中心の研究所の一つで、天与の幸運に恵まれて多年計画の中央研究所に先んじて建設し得る事となつた。是は研究所長たるべき海軍中将工学博士石川登喜治氏が我大学の教授として来任された事と、研究所創立費三十万円の巨費を実業家各務幸一郎氏が寄附を約せられた事との為で感謝に堪へぬ処である。 (二―三頁)

 ここに明らかにされているように、学苑は創立五十周年を期し中央研究所(後の理工学研究所)の設立を計画したのであるが、資金難等のため実現が遅れている間に、形式的には理工学部付属研究所として、鋳物研究所が一歩先に設立される運びになったのである。昭和十三年十月二十一日に行われた開所式で述べた田中総長の式辞には、

早稲田大学が私学の乏しき財源を以て三十余年の昔理工学部を創設致しましたのは、殆んど無謀に近き企てであつた……が、我々大学の当事者は常に背水の陣を布て今日に至つたのでありまして、日本の工業の進歩の為めにどうしても斯う云ふものがなければならぬ……と云ふ覚悟をもつて出発したのであります。……然るに工業界の進歩は幸に日進月歩止まる所を知らないのでありまして、此の時代の趨勢に遅れざるが為め更らに昨年一月斯界の権威であります石川博士を招聘したのであります。即ち招聘は致しましたが、偖て又ここに一苦労を加へたのでありまして、此の如き斯界の権威を招聘致してその驥足を伸して頂くには先立つものは研究所でありますが、如何にして此の研究所を設くべきかと云ふことに就ては当時未だ当てがあつた訳ではないのであります。……各務幸一郎翁は昨年は丁度七十七歳の御高齢になられまして、其の記念の為めに何か然るべき公共事業に寄附したいと云ふ思召のあることを承はりまして、早稲田大学は背水の陣を張つて此の如き計画を持つて居るのでありまして、これは日本工業の進歩の為めに大切な基礎となる極めて有意義な事業であると心得て居りますので、此計画に対して御援助を願はれまいかと云ふことを御相談申上げました所が、夫れこそ誠に自分の記念事業として絶好のものであると確信するから御助けしやうと、斯う云ふことになりまして此の立派な研究所が落成するに至つたのであります。

(同誌 昭和十三年十一月発行 第五二五号 六三―六四頁)

と、石川登喜治を招聘したのち、鋳物研究所設立を計画したように説明されている。この点は昭和十二年四月十四日発行の『早稲田大学新聞』に、石川が理工学部長山本に研究所の設立を勧め、それが稔って実現したように報道されているのと軌を一にしている。しかし『山本忠興伝』には、

機械工業の進歩には、機械を作る金属工業の進歩が必要であつたが、日本においては金属方面の研究が非常におくれて居た。……山本は早くからこの点に着眼し、早大に鋳物科を設けて専門的にみつちりと勉強させ、なお机上の学問だけでなく鋳物の工場を設けて実際に実物を作つて種種検討させて、卒業後は熟練工に数等まさる鋳物専門の技師となる人間を作らなければならぬと考えた。 (一一一―一一二頁)

とあり、その希望実現のために、資金の心配をし、山本の友人牟田鋳工所社長牟田易太郎を介して、石川を招聘したように記されている。いずれが真実であるかを断定する資料は欠けているけれども、石川招聘立案の時点では、鋳物すなわち工業用金属の研究を理工学部で進めたいとの学部長としての山本の希望があったのは確実であろう。ただその希望が鋳物研究所設立計画にまで及んでいたか否かは不明である。もしその計画があれば当然総長とも話し合っている筈であるが、『田中穂積日記』には記載がなく、そのほか何の証跡も残っていない。しかし石川招聘後、急速に研究所設立の話が進んだのは、後述の如く十二年二月には早くも営繕課長桐山均一らによる研究所建設の検討が始められたことで明らかである。しかしこの時点では資金計画は立っていなかったらしく、桐山らの作業は、研究所建設予算算定が目的だったのであろう。従ってこれ以後総長や山本による資金獲得の努力が続けられた結果、山本のかつての弟子で、当時小松製作所取締役で東京支店長でもあった真野官一(大二大理)の斡旋により、同社相談役各務幸一郎の寄附を仰ぐことになったのであろう。尤もこの間にあって、寄附実現に努めた、各務幸一郎の養嗣子良幸の厚意を忘れることはできない。良幸は当時鉱山事業に関係していたので、学苑の採鉱冶金学科の諸教授と接する機会が多く、学苑に深い関心を持っていたようで、幸一郎の喜寿記念に、適当の所に寄金をしたいとの本人の希望に副う宛先として、学苑を選び、養父に勧め、決定してくれたのである。なお『早稲田学報』(昭和十二年六月発行 第五〇八号 三頁)によれば、寄附が確定したのは昭和十二年三月三十一日であった。

 三〇〇、〇〇〇円の巨費を学苑に寄附した各務幸一郎は文久元年(一八六一)十月二十四日江戸に生れ、一橋大学前身の商法講習所に学び、のち日本郵船、東邦電力、富士瓦斯紡績などの経営に参加し、また愛知銀行取締役、小松製作所相談役なども務めて巨富を蓄えた人物である。元来学苑とは無関係だったが、右のような事情で浄財を寄せてくれたのである。しかも当初は匿名を希望したが、新聞の素っ破抜きがあったためやむなく氏名を公表したのであった。学苑は昭和十三年三月十四日の臨時維持員会でその功績を讃え、校賓に推薦した。

 石川登喜治は、明治三十七年東京帝国大学工科大学卒業後海軍に入り、諸工廠にあって鋳造技術と金属材料の実際に精通した学界の第一人者で、昭和六年海軍技術研究所科学部長を最後に軍籍を離れ、当時は住友金属工業株式会社の顧問であった。石川は、輸入品の錫を含有する青銅の代替として、その性能を上回る銅、亜鉛、珪素系の銅合金(シルジン青銅)を開発した業績を持つが、経営の才もあり、また理工学部教授雄谷重夫(昭一七理)が、鋳物研究所の「運営費の大部分は、先生個人の力により、各務良幸氏を始めとする学外からの援助に依存していた」と記し、更に、

晩年先生は、「もし自分自身にその気があったならば金持ちにも、あるいはどのような贅沢もできたであろう。しかし自分は研究所を育てることによって、金持ち以上の喜びを味わったので、じゅうぶん満足している」と話され暗々裏にわれわれをもさとされておられました。事実昭和二十一年に大学を去られたとき、研究、技術の両面で内外に有名であった先生は、ご自分の家さえ持っておられませんでした。 (同誌 昭和四十三年十二月発行 第七八七号 二一頁)

と述べているような人格者でもあったから、研究所の発展に果した役割は量り知れないものがあったのである。

 前掲の山本忠興「鋳物研究所の設立に就て」によると、十二年四月から同研究所創設に着手し、石川、山本のほかに小林久平(化学)、山内弘(機械)、塩沢正一(採鉱)各教授、大隅菊次郎(電気)助教授と桐山技師が参画したとある。しかし実際には桐山の「鋳物研究所新築概要」(同誌 第五二五号 七四頁)に記されているように、同年二月から建設の準備は始められていたらしい。

 研究所の敷地としては淀橋区戸塚町一丁目五百番地、通称荒井山が予定され、第一期工事として本館三階建一部四階、地下一階、総面積三、一四六平方メートル、実習場一階建一部中二階付総面積七八四平方メートルの鉄筋コンクリート建築の見積用製図が仕上がり、費用の概算もできたところで、鋳物研究所設立の件が七月八日理事会、同月十五日維持員会に諮られ、「工費概算金三十万円也。右財源ハ各務幸一郎氏ノ寄附金ヲ以テ之ニ充ツ。同機械設備費金五万円也。右財源ハ借入金ニ依ル」と議決された。予算措置も終ったので、工事の入札があり、清水組が請負うこととなって、十月十二日午前十時地鎮祭を執行し直ちに工事に着手した。しかし戦時統制、物価高騰、雨天等の障碍により工事は遅延し、翌十三年八月漸く最後の工事であった塀・門ができ、その後機械等の据付があって、開所式は前述の如く同年十月二十一日に行われた。尤も、七月七日に理事会を通過し、同月十四日の維持員会で承認された左の如き鋳物研究所規程は、所長の嘱任のあった四月一日に遡って実施されている。

鋳物研究所規程

第一条 本大学理工学部附属鋳物研究所ハ工業用金属ノ本性ヲ究メ其製造加工並ニ応用ニ関スル研究ヲ目的トス。

第二条 本所ニ左ノ職員ヲ置ク。

所長/所員/主事/書記、書記補/技手、技手補/職工、雇員

第三条 所長ハ本大学教授中ヨリ維持員会ノ同意ヲ経テ大学之ヲ嘱任シ、理工学部長監督ノ下ニ於テ事務ヲ掌理ス。

第四条 所長ノ任期ハ三年トス。

第五条 所員ハ本大学ノ教授、助教授、講師其他ヨリ総長之ヲ嘱任シ所長監督ノ下ニ研究ニ当ル。

第六条 所員研究ノ成果及特許権ハ本所ニ帰属ス。

第七条 本所ニ協議員若干名ヲ置クコトヲ得。

第八条 協議員ハ所長ノ推挙ニ依リ大学之ヲ嘱託シ諮問事項ヲ協議ス。

 なおここで鋳物研究所が、右の規程に明らかなように、そもそも理工学部付属の形で誕生したことに注意しておきたい。これが大学直轄の研究所となるのは、昭和十八年四月一日より実施された早稲田大学付属研究所規程(九二七―九二八頁参照)による研究所とされた時からであり、後述する理工学研究所と同時であった。ただし、この研究所の所長人事が維持員会で議事となり承認されていることは、学部所属の個所長としては異例であり、また昭和十三年度以降大学予算の「経常勘定」のうちに「鋳物研究所費」の項がたてられ、十三年度二五、八〇〇円、十四年度二〇、〇〇〇円、十五年度八七、八〇〇円、十六年度四五、〇〇〇円、十七年度一五、〇〇〇円、十八年度一五、○○○円、十九年度二〇、〇〇〇円、二十年度一〇〇、〇〇〇円の予算が組まれているのも、十七年度までについて言えば異例であって、規程はともかく、寧ろ大学直轄に近い取扱いを受けていたと見られるのである。

 ところで、この年四月に正式に鋳物研究所長に嘱任された石川登喜治は、直ちに『早稲田学報』(昭和十三年五月発行第五一九号)に「鋳物研究所の使命」なる一文を寄せ、

工業の興隆に依て国を富ましめ国力を培養し国防の安全を来すには、先づ以て金属材料を進歩発達せしめ、第一要件の特殊材料の使用を拡張する為に、廉く容易に入手し得る様に進み、第二要件の諸外国の追従を許さぬ様に、一歩先に優越純国産材料を造り出すことが最も必要であると同時に、第三要件鋳物技術を向上し、現在の製品を一層廉く早く供給する改善策も焦眉の急である。……然るに此度早稲田大学に於ては、国家的時代の要求に応じ此の難事を解決せんと、断然期する処ありて鋳物研究所を設立し、此難問題を学術的に解決せんとするものである。即ち金属材料の本質を研究調査し、其鋳造法を実験研究に依て探知して、優秀なる材料を最も経済的に製出する迄の研究を完成し、優秀材料を出現せしむると同時に、鋳造に関する学術技芸を確立し、斯業の進歩発達を計ることが本研究所の真の使命である。 (五―六頁)

と所懐を述べているが、開所式の挨拶では、具体的に研究所、実習場の役割と設備について、

研究室に於ては勿論一般金属材料の科学的研究を致しますが、殊に鋳物の欠陥の起因及び其の除去策の研究と鋳造性のよい優秀なる金属材料の探求並に其の鋳造法は如何にす可きやを研究するのであります。其の為に研究室にも試験物の出来る位の熔解炉や鋳造場及鋳型の研究室を有して居ります。即ち研究所本屋研究室は地下一階地上三階で、地階は熔解実験室、耐火物鋳物砂の研究室と金属の腐触其他実用試験室、地上一階は機械的試験室、工作室、講演室、事務室等、二階は重に物理的研究室、三階は重に化学的研究室に充てる積りであります。……〔実習場は〕工場式平屋建にて熔銑炉、合金熔解炉、起重機等がありまして、相当大きな鋳物を造ることが出来る実演場で、以上の諸炉及び送風機等は、完全なる防煙、防音装置を施し、防空設備に対しても完全を期して居ります。此処では科学的の研究を加味したる合理的の鋳造法をとり行ひまして、工員に其れに対する知識と熟練とを与へ其れに依つて金属材料殊に鋳物の実地製造の研究を達成する場所となるのであります。

(同誌 第五二五号 六五頁)

と説明し、更に実習場の運営について、

此の鋳物製造の試験、実験をなすには、相当よい工員を要するのでありますが、今日の場合に於てはそんな熟練工を入手することは到底出来ないので、見習生と申しますか、鋳造研究生と申しますか、将来鋳物を合理的に造る適当なる工員の養成を先づなすことに致しました。右の見習生は熟練工三名と技師技手格の職員が親しく実地指導に当つておりますので、入所後僅か三ケ月に足りないのでありますが、最早や相当の実用品を製造し得る様になりましたので、是非共実用品を造らせて精神的にも真剣味を以て仕事をさせたいと考へて居ります。 (六五―六六頁)

と述べている。この研究所の設備資金は大学の醵出した五〇、〇〇〇円では勿論不足であり、翌年石川の斡旋で住友金属工業株式会社から一〇〇、〇〇〇万円を寄附してもらったことなどで漸く整えられたような状態で、人件費、研究費等も十分な支給は望めなかったから、石川は実習場の鋳物生産により幾分でも大学の負担を軽くしようと考えていたらしく、右の挨拶には、経営を念頭に置いての宣伝も含まれていたように思う。

 翌十四年にはこの実習場に海軍工廠や民間企業から若干の経験ある青年達が実習生として派遣され、次第に人手が揃い、石川所長の関係で横須賀海軍工廠から指定発注という形で鋳物部品の注文を請け、資材も手に入ったので、技術も進歩し、十六年には約五〇名の人員を擁して活発に活動するようになった。また研究の面でも十六年十二月に『早稲田大学鋳研報告』第一号を刊行、七編の論文が発表されている。報告書は戦争の影響を受けて翌十七年十二月刊行の第二号で休刊の余儀なきに至ったが、研究費も資材も乏しい戦時下としては期待に応えたものと評価できよう。

 この間にあって昭和十六年学苑は研究所隣接の私立日本美術学校の敷地約四五〇坪を七四、〇〇〇円で買収し、ここに木造二階建、総延坪三三六坪の実習場を増設することになり、清水組と契約した。この建物は翌十七年末多少規模を縮小して完成したが、予算総額は敷地共一九一、七四〇円で、またもや各務幸一郎の養嗣子良幸の指定寄附三〇〇、〇〇〇円で賄ったのである。学苑は各務家の重ねての好意に対し、各務良幸を校賓に推し謝意を表した。実は、前掲の山本忠興「鋳物研究所の設立に就て」には、第一期工事に次いで第二期工事を行う予定に関して、「第二期鍛造工場を追加すれば金属材料研究施設が完成する」(『早稲田学報』第五〇八号 四頁)と記されていて、この建物を鍛造工場として増設することは最初のプランに既に盛り込まれていたのであるが、漸くその実現を見た時期には、鍛造工場に必要な機材の整備が戦時中のため不可能となり、やむなく鋳物生産の場として利用されたのである。

二 理工学研究所

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 明治三十九年七月十六日開催の校友大会で総長大隈重信が訴えた理工科再建の希望は、翌四十年早稲田大学第二期計画に組み込まれ、四十一年四月より理工科の予科の授業が開始された。この年新学科増設資金として金三〇、〇〇〇円の恩賜があり、これを記念して恩賜記念館が建設された(第二巻第四編第十五章参照)。恩賜金の趣旨から見て理工科系の充実に用いらるべきものであり、この恩賜記念館も当初は理工科系教室を主体とする計画だったようであるが、結局は文科系の諸研究室もここに置かれることとなったので、理工科系の施設としては一階に設置された第一、第二の両物理実験室と二階の階段教室がその主たるものとなってしまった。

 その後大正九年大学令による学制改革があり、同十一年三月高等予科が廃止された後、同予科生が使用していた恩賜館内の物理実験室が第一高等学院に移され、そのあとに基礎工学実験室が置かれることになった。このとき、助教授黒川兼三郎以下教務補助宮部宏(大一二電気)、同広田友義(同)らが箒と雑巾とバケツを持って乗り込み部屋を掃除したというような牧歌的光景も見られたようである(『早稲田大学理工学研究所報』昭和四十六年十月発行 第二号 一一頁)。同実験室が「中央研究所基礎工学実験室」と名乗るようになったのは、大正十二年であった。同年七月発行の『早稲田学報』(第三四一号)には、「従来理工学部に於ては、工学の基礎たるべき標準測定の設備を欠如したりしが、同部各学科に於て研究の結果を確実化し、且つ最近工学の進運に適応するため、同部に中央研究所を設くるに決し、先づ、恩賜館物理教室を基礎工学実験室に充て、これを理工学部中央研究所基礎工学実験室として、根柢ある工学の攻究を進むることとなりたり」(五頁)と記されている。なお同実験室設置の承認とともに設備費として七、五〇〇円の計上が、六月十一日の維持員会で決議されている。また宮部は「基礎工学実験室の予算ですけれども、これは大正十二年の第一年度のとき五〇〇〇円だったかな、それからその次の年から一万円です。そして実験実習費が二〇〇〇円で、そのほかに図書費が五〇〇円じゃなかったかな。ですからその時分としたら多かったですよ」(『早稲田大学理工学研究所報』昭和四十七年一月発行 第三号 六頁)と述べているから、設備費のほかに、当時としては相当多額の経常費が同実験室に割かれていたようである。大正十三年度には大学全体の実験実習費予算が三九、八六八円であったから、宮部の記憶に誤りがなければ、同実験室はその五パーセントを割り当てられていたことになる。ところで基礎工学実験というのは、当時の助教授伊原貞敏の思い出によると、単純な物理実験ではなく、今日言うところのエンジニアリング・サイエンスに当るもので、「測定をしたらすぐ計算がついて、レポートをすぐその場で書いて出すといったようなやり方をやったわけです。これが当時としてはほかの学校でやっていないやり方で新しい問題提起をした形となりました。これはずいぶん世の中にアピールしたようです。学生自身にはたいへん役に立ったようです」(同誌 第二号 一一頁)とあるが、そういう当時としてはユニークな実験を行った実験室を持つ理工学部中央研究所なる施設が、後年の理工学研究所の前身としてここに誕生したのである。

 しかし理工学部関係者がこうした素朴で小規模な研究所に満足する筈はなく、既設或いは新設予定の東京帝国大学の航空研究所、地震研究所および同大学に近い関係にある理化学研究所、東北帝国大学の金属材料研究所、電気通信研究所、東京工業大学の建築材料研究所等官立大学の付属研究所を範として、学苑にも一大研究所を設けるよう強い要望が出されることになった。『早稲田学報』第四四五号(昭和七年三月発行)に掲載された教授黒川兼三郎の「五十年紀念事業は斯くあるべきか――理工学部は科学研究所を――」は、それを代表するものと言えようが、

理工学部に〔工業〕経営科が出来、応用化学のバラツクが改築されたとて、それが五十年紀念事業であると云ふて満足は出来ない。……自然科学を対象とする人々によつて現在学園に必要欠くべからずと考へられてゐるものは科学研究所の設立である。……昔の理工科に実験室が必要であつた如く、今日の理工学部は研究所を必要とするのである。……尚近頃の傾向として……大学が大学として存立するためには今一段と優れた或る物を持たなければならないと云ふ事情にある。……今後各大学の優劣は夫々の研究所乃至大学院の業績の如何によつて決せらるべき形勢にあつて、各大学は争つて研究所の完成と大学院制度の確立と云ふ方面に向つてゐる……早稲田大学が大学として、理工学部が学部として存在する以上、其の存立の必要条件として、科学研究所を最も近き将来に於て持たなければならない……而して其の必要さから云ふも、事業の大さから云ふも、体育館などと共に早稲田大学の五十年紀念事業として、科学研究所は最も適当のものではあるまいかと考へられる。 (五―七頁)

と述べ、募金額は五十万円とし、大学内に鉄筋コンクリート三、四階建の建物を用意すべきであるとしている。

 この頃黒川とともに研究所設置に最も熱意を持った伊原の述べるところによると、この両人は当時の山本理工学部長に研究所設置を何度も進言したが、埒があかないので、田中穂積常務理事(昭和六年以後は総長)に直談判をし、何回も叱られながらも、段々話を進め、田中総長から、

考えはいいけれども、とうてい現在の財政力では骨の折れることだから、もう少し忍んでやってくれ。しかし君たちが言うことはもっともだからこれには反対しない。それから校友の間でどういう意見なのか、それも聞かなくちゃいけない。もし校友が何がしかの金を集めて、……見せ金というものがあるならば、それはまたどうもわれわれとしても放てきしたり、拒否するわけにはいかないんだから、まずそれから始めたらどうだ。 (『早稲田大学理工学研究所報』第二号 九頁)

との提言を引き出した。前掲の黒川の主張はこうした田中総長の意見を踏まえたものだったであろう。

 ところで財政的な理由で研究所設立の企画を抑えていた田中総長も、理工学の研究を発展させるために研究所を持たねばならぬのは当然承知していたし、また黒川ら関係者の熱意もよく分っていたから、恐らく機の熟するのを待っていたのであろう。果して昭和八年に至り、創立五十周年祝賀記念事業の計画に当って、理工学研究所の創設が取り上げられ、木造校舎から鉄筋校舎への改築とともに、これが記念事業の眼目の一つとされたのである。

 すなわちその計画では、既述(六二〇頁)の如く、百万円を募金し、木造校舎改築に五〇〇、○○○円、研究所設立に五〇〇、〇〇〇円を充てることとし、五ヵ年継続で完成を期することになった。この計画に対し、原田積善会(実業家原田二郎が学術研究の補助や慈善事業を目的に私財一千万円を投じて設立した財団法人)から早速一〇〇、〇〇〇円の寄附があったが、昭和十二年六月発行の『早稲田学報』(第五〇八号)に載せられた前掲(九〇八-九〇九頁)の山本忠興の「鋳物研究所の設立に就て」という一文に見られる如く、この寄附金は研究所設立資金用であったと思われる。

 外部からのこのような応援とは別に、理工学部校友ならびに関係者は、該研究所建設の所要資金の一部を調達するため「理工学部中央研究所後援会」を組織し、協力することになった。研究所設置に要する費用は、建築費(鉄筋コンクリート地下室とも四層建延坪一、五〇〇坪)二五〇、〇〇〇円、設備費(機械、電気、採鉱冶金、建築、応用化学各学科ならびに共通学科関係第一期研究設備)二五〇、〇〇〇円計五〇〇、〇〇〇円であるが、後援会はそのうち一〇〇、〇〇〇円を醵出する予定をたて、一口五〇円、五ヵ年払いの方法で募金をしようとした。後援会の会長は早稲田理工学会長としての山本忠興で、以下副会長(五名)、顧問(二名)、幹事(二一名)、評議員(三八〇名)を以て役員を組織して活動した結果、十年五月には応募者一、二二三名、応募口数一、九四一・三、総計九七、〇六五円に達した。この中には、五ヵ年間に亘り毎月一日分の給与を寄附することを申し出た理工学部専任教員の予約額一六、〇〇〇円余が含まれていた。尤も現金の払込みは遅れたが、昭和十六年初めには申込み金額一〇八、七〇〇円余に対し漸く約九〇、〇〇〇円余に達したので、諸費用を差し引いた八六、○○○円を大学に贈ることとなり、同年二月十五日大隈会館で贈呈式を開き、後援会幹事黒川兼三郎の経過報告、小松製作所取締役真野官一の校友を代表しての挨拶の後、山本後援会会長より田中総長へ目録を贈呈した。総長はこれに対し深甚の謝意を述べて式を終ったが、この時大学は既に牛込区喜久井町に研究所の土地・建物を購入し、設備工事を進めていた。従って後援会の集めた資金は、研究所建設の呼び水にはならなかったわけである。あとから計画された鋳物研究所が、各務幸一郎の厚意による多額の寄附を得て、一歩先に十三年十月設立された理由の一つは、そこにあったのであろう。

 学苑が当初計画した研究所の規模は、理工学部中央研究所後援会発足に当って示された右の如きものであったが、翌九年になると計画は更に具体化し、敷地と規模について次のような発表があった。

敷地は大学グラウンドと第二高等学院との中間、現在のテニスコート並に旧道場跡〔現在一五号館所在地〕でプランはE字型、鉄筋コンクリート地階共で五階建、延坪九、五四三平方米(約二、八九二坪)と云ふ相当厖大なものであるが、明年第一期工事として内五、二八〇平方米(約一、六〇〇坪)を建設する予定である。 (『早稲田学報』昭和九年六月発行 第四七二号 三六頁)

 しかし、翌十年六月発行の『早稲田学報』(第四八四号)に「応用化学の教室は現在の建物の北側、第二学院と演博との中間に間もなく着工致します。従つて中央研究所の本秋の着工と云ふのが幾分延ばされるのですが、何分御諒承を願ひます」(七三頁)とある如く、十年中には着工できなかった。翌十一年十一月十一日付『早稲田大学新聞』の「かねてより斯界〔理工学研究所関係〕の動向調査を依嘱してゐた電気黒川兼三郎、機械山ノ内弘、建築川島定雄の三教授の詳細なる報告書も近日総長の許に提出される模様でここに全く準備の大綱は完了し近く起工されることになつた」との報道が正しければ、十年着工の計画には不十分なところがあり、そのままの着工に不満があったのであろう。

 ところが十二年には日中戦争が勃発し、十三年には国家総動員法が公布され、更に物資総動員計画基本原則が発表されるなどで国民生活は次第に圧迫され、大規模な建設事業は困難になった。しかも十二年には商学部鉄筋校舎と鋳物研究所の建設に着手し、工事は翌十三年までかかっているので、中央研究所の創設が漸く具体的に計画され、動き出したのは、十五年であった。理工学部関係者の熱意が大学当局を動かした結果であるが、後援会の募金がほぼ一〇〇、〇〇〇円に達したことと、文部省、日本学術振興会、その他の公共機関および王子製紙株式会社等の民間企業から昭和十四、十五両年度に約三〇〇、〇〇〇円を超える研究費の補助があったこと(『早稲田機友会誌』昭和十五年七月発行 第三三号 六八―六九頁)、および理工学研究に対する国家的要請が日中戦争の長期化に伴い強まったことなどが、その原因として数えられる。しかし、当時行われていた建築材料の統制により、当初企画した鉄筋コンクリートの建物の新築は到底できない状況にあったので、既成の建物を物色して利用することになり、喜久井町にあった日本夜光塗料株式会社の研究所(旭硝子株式会社から同社所有の研究所を譲り受けたもの)に目をつけ、これを買収し利用することになった。すなわち、十五年三月十五日に開かれた定時維持員会は牛込区喜久井町十七番地所在の藤木顕文所有の土地(一、九一八坪二合)と建物(延坪五二四坪)を剰余金一九〇、〇〇〇円で購入し、中央研究所に充てることを決定したのである。因に、海老沢了之介『新編若葉の梢』によれば、この土地は江戸時代には美作国津山の城主であった松平氏の下屋敷の一部に当っていたという(一〇九頁)。このとき購入した建物とその坪数の詳細は、施設部保管の実測図には左の如く記載されていて、維持員会の記録に比べて五六・五五二坪不足しているが、その理由は明らかでない。

一 煉瓦造一部木造平家建屋根瓦葺 二〇〇・〇〇坪

内 煉瓦造 一三三・〇〇坪 木造 六七・〇〇坪

二 鉄筋コンクリート煉瓦造二階建陸屋根 五四・〇〇坪

三 鉄筋コンクリート造平家建屋根スレート葺 三五・五三坪

四 鉄筋コンクリート造一部木造平家建屋根スレート葺 四四・九〇坪

五 木造一部鉄骨造平家建屋根亜鉛板葺 三四・八〇坪

内 木造 二三・二〇坪 鉄骨 一一・六〇坪

六 木造平家建屋根亜鉛板葺 四三・二〇坪

七 鉄骨造平家建屋根亜鉛板葺 九・〇二八坪

八 木造平家建屋根スレート葺 一四・〇七坪

九 木造平家建屋根瓦葺 二三・三〇坪

十 その他施設 八・六二坪

計 四六七・四四八坪(一、五四三平方メートル)

更に同年五月十五日の維持員会で、隣地である牛込区早稲田町二十七番地所在田中善次郎所有地二四・九二八坪を剰余金五、○○○円で購入することが認められたので、研究所の敷地は計一、九四三坪余になった。「昭和十五年度事業報告」付載の財産目録には「理工学部研究所敷地 一、九三九坪」とあるが、これは登記簿上の面積であろう。

 いずれにしても、建物延坪数で当初計画の一六パーセント強に縮小した上に、当初予算二五〇、〇〇〇円の鉄筋コンクリート造地下室とも五階の堂々たる建物ではなく、散在する鉄筋、鉄骨、木造、煉瓦造の数棟より成る評価額六八、五九八円一〇銭(「昭和十五年度事業報告」の財産目録による)の一群の建物が、研究所施設として誕生した。しかし、同年五月一日付『早稲田大学新聞』が、

喜久井町の高台に中央研究所を訪へば……門から本館に至る十数間の松並木の下道はきれいに清掃され忘れな草やたんぽぽの顔も見え如何にも世離れのした研究所らしい静かな所である。前身が研究所であるだけに事務所兼応接に用ひられた本館から赤レンガの研究室、倉庫、図書館、それから、ボイラー室やら車庫まで研究所に必要な建物が数棟調和よく立並び、道具さへ持込めば、そして研究者さへ乗込めばいつからでも開業ができそうである。

と記したように、あまり手数をかけないで利用できる長所があって、この点では、研究所の開設を一日千秋の如く待ち望んでいた理工学部の研究者達の期待に副えたのであった。

 なお、研究所建設を予定されていた旧テニス・コート跡には、十五年七月十五日の維持員会で、専門部工科(十四年四月創設)校舎建設が決定されたのであった。

 さて、同年十月十五日の理事会で理工学部研究所の動力用配電設備を増設するため寄附金のうちから三〇、〇〇〇円を支出することが、また同年十二月十四日理事会で水道工事のために同じく寄附金のうちから一〇、〇〇〇円を支出することが承認され、この水道工事は翌年まで続いたが、この間に初代研究所長に山本忠興(理工学部長と兼任)が就任し、研究業務が始められた。しかし、その正確な日時は不詳である。研究所創設が決定したときから、所長人事は恐らく内定していたのであろうが、前掲の五月一日付『早稲田大学新聞』に山本の「初代所長ですか?まだ決つてゐませんよ。兎も角理工学部の所属ですね。最初のプランとは随分違ひますが、多年懸案の中央研究所がその名に於てスタートを切ることが出来るのは非常によろこばしく思ひます」との談話が載っているのを見れば、その正式決定は五月以降だったようである。

 ところで、右の談話に「中央研究所がその名に於てスタートを切る」とある点は、その後変更になった。この研究所に新しい看板ができたことを報じた同年七月三日付『早稲田大学新聞』は「愈々看板も出た/中央研究所改め゛理工学部研究所”」という見出しを掲げ、看板の写真を示している。この記事では名称変更の理由を「早稲田の『中央研究所』と云ふには二千余坪のこの研究所でもまだ小さすぎると云ふので『理工学部研究所』とその名もあらため中央研究所の揺籃としてスタートを切る」と説明しているが、「中央研究所」という構想には後述するようにいろいろ問題があったから改称はやむを得なかったと思われる。ただし伊原が、研究所がスタートしたときは大学の直轄になっていた筈で、理工学部関係者には大学はそのように説明していたのに、学内処理は学部の研究所という扱いであったと言っている(『早稲田大学理工学研究所報』第三号 二頁)のは、思い違いのようである。前掲の山本の談話にあるように、最初から理工学部付属であるのははっきりしていた筈で、この点は「理工学部研究所」との名称から見ても間違いの起る余地はなかったと思われる。ただし九一三頁にも記したように、鋳物研究所に対しては、大学本部は規程に係わりなく大学直轄に近い扱いをしていたから、もし誤解があったとすれば、この辺に原因があったのであろう。また伊原が、「鋳物研究所は大学直轄の研究所です、あそこには政府の補助金が出ました、理工学研究所から出した申請にはつかなかったのです」(同前)と述べているのは、鋳物研究所については事実と相違するが、理工学研究所が大学直轄でなかったために、政府の補助金を受け難かったというのは、事実であろう。それに大学の配分する予算も、直轄の場合と否とでは当然相違し、昭和十九年度予算までは理工学研究所費の項は立てられていなかった。そこで関係者は研究所を大学直轄に格上げするために奔走し、「早稲田大学中央研究所設置要綱(案)」を昭和十七年十二月十五日付で作成し、その実現に努力した。

 『早稲田大学理工学研究所報』第三号に参考資料として付載されている「早稲田大学中央研究所設置要綱(案)」を見ると、二案あった。一は大学直属機関とするもの(以下甲という)、他は財団法人として「大学ト密接不可分ナル関聯」を有する独立機関とするもの(以下乙という)である。甲乙はその基本的性格が異るから、人員の構成、経費の出所が相違する(例えば最高責任者は甲では所長=大学総長であり、乙では理事長=大学総長であるし、また甲では経費の基本は大学支弁であり、乙では基金利子、寄附金、補助金である)が、事業や措置はほぼ同じで、その内容は左の通りである。

事業

本研究所ハ其目的達成ノタメ下ノ事業ヲ行フ。

(ア) 学術ノ専門別研究及コレニ関スル事項。

(イ) 専門別研究結果ノ具体化ノ指導ニ関スル事項。

(ウ) 研究発表、講演会並ニ講習会開催ニ関スル事項。

(エ) 研究報告発刊ニ関スル事項。

措置

(ア) 本研究所設置並ニ運用ニ関シテハ文部省並ニ技術院ト協議ヲ遂ゲ適当ナル措置ヲ講ズルコト。

(イ) 本研究所設置並ニ運用ニ関シテハ日本学術振興会、日本科学動員協会等ニ対シ協力ヲ得ル様予メ措置スルコト。

(ウ) 本研究所設置ニ伴フ第一段ノ措置トシテ先ヅ専門別研究所ハ学内ノ既設研究所及既計画ヲ改組シ以テ之ニ当ツルモノトス。

(エ) 本研究所ニ於ケル渉外事項中研究ニ関スル事項ニ就テハ其事項ノ専門種類ニ従ヒ夫々ノ専門別研究所長又ハ其代理ヲ以テ接渉シ中央研究所ニ報告シ其ノ決裁ヲ請フモノトス。

(オ) 本研究所ト大学院及学部トハ横及縦ノ連絡ヲ充分ニトルモノトス。 (一六頁)

この中央研究所の構想については、伊原が、

とにかく早稲田大学の中にいろんな研究所が今後はできるであろう。それがバラバラでやっていってはいかんから、中央研究所というノミナルなものをつくろうじゃないか。その中央研究所の内容は、大学の中にできた各研究所長及びそれに一、二の方を付けた人たちでもつ、デスクだけでいいから、そういうものをつくって、そこで各研究所間の意思の疎通をやり、無駄金を使わないような形で全学的に協力して、あるテーマを盛り上げていくという形にまずもっていこうじゃないか。まずそういうものの構想を立てる。それからその傘下にどんな研究所をこしらえたらいいだろうかという立場でいこうじゃないかというようなことでフローシートとか、スケルトンなんかを書きました。又この考へ方で行けば大学各学部を抱括した研究体勢となるから、この中央研究所は早稲田大学と深い関係をもつ独立した法人格とするか大学の直轄とするかの二途がありますので夫夫の設立主意要綱書なども作りました。 (同誌 第二号 八頁)

と述べ、「中央研究所は大学直轄のノミナルなものにしておいて、実働部隊はそれぞれ早稲田大学中央研究所の下部組織としての自然、人文、社会の各分野の専門研究所を当てる事にした構想でした」(同誌 第三号 一頁)とも述べているが、「早稲田大学中央研究所設置要綱(案)」添付の付図を見ると、中央研究所傘下の専門別研究所の例として鋳物研究所とともに興亜経済研究所も挙げられており、全学的規模の中央研究所が構想されていたようである。しかし、このような大規模な構想が一朝一夕に関係者の合意を得られるものでないことは明らかである。伊原は「末っ子が……嫡子に向って何を言うか、失礼きわまる」(同誌 同号 二頁)と他学部から反対されて実現できなかったと言っているが、そういう感情的なものばかりではなく、学問や研究に対する基本的な考え方や、方法論の相違等いろいろ困難な問題が多過ぎて、全学的な検討を行うこともなく廃案となったのであろう。

 ところでこの間にあって、同十五年十一月二十七日付で作成された山本理工学部長名の「施設ヲ必要トスル事由書」(理工学研究所所蔵文書)には、

当大学理工学部ノ研究施設ハ年々逐次増強セラレタルモ未ダ充分ナラズ、殊ニ近年非常時ニ対処スルタメノ諸研究ノ進度ガ加速度的ニ増大スルニ及ビテ益々不足ヲ告ゲ、在来ノ施設ノミヲ以テシテハ到底ソノ研究使命ヲ達成スル能ハザルニ至リシ為、応急ノ処置トシテ本年四月牛込区喜久井町十七番地ニ研究所トシテ土地及ビ建造物ヲ購入シ、コレニ適当ナル施設ヲ整備シ主トシテ文部省委嘱ノ科学研究及ビ日本学術振興会其ノ他ヨリ援助セラルル諸研究ヲ実施セントスルモノナリ……

と述べられているが、当初は産業界との関係は発想になく、「全くアカデミックな立場で研究所は成立してそれに学生が触れていく」(『早稲田大学理工学研究所報』第三号 五頁)という建前だったらしく、利用方法は、

実際にできあがったときは、どういう工合にやろうかということになった。テーマを持ち寄るということもいいけれども、一人の人が長く使うということでは困るんじゃないか。だから交替制ということにしようじゃないか、ということで、テーマがあって、それが完結したならばかわろう。しかしそれは一年や半年では決まらない、まず二年というメドをつけて二年以上になるときにはその理由をはっきりして継続しようという形にしていこうじゃないか。そのときもし継続しないならば無条件ですべての施設を撤去して、次のテーマの方にそれを譲ろう、こういうことになったわけです。 (同誌 同号 三頁)

と伊原により説明されている。

 こうして一応研究所の使用方法が定まり、研究業務も発足した。昭和十五年七月発行『早稲田機友会誌』(第三三号)に掲載された伊原貞敏「理工学部研究所出現の記」によれば、当初の研究員は、

機械工学科 教授伊原貞敏 電気工学科 同 黒川兼三郎 建築工学科 同 吉田享二

採鉱冶金学科 同 米沢治太郎 応用化学科 同 山本研一

で、幹事は宮部宏、川島定雄両助教授であり、また最初に研究所施設を使用して研究を進めたのは、

機械工学科 教授渡部寅次郎 同 伊原貞敏 助教授白川稔 同 中野実

電気工学科 教授帆足竹治 助教授門倉則之 同 埴野一郎 同 岩片秀雄 同 田中末雄

建築工学科 教授内藤多仲 同 吉田享二 同 佐藤功一 助教授十代田三郎 同 川島定雄

同 鶴田明

採鉱冶金学科 教授米沢治太郎

応用化学科 教授山本研一 助教授秋山桂一

基礎工学 助教授宮部宏 (六八―六九頁)

であり、遠大な抱負を持って研究業務に精励したことと思われるが、戦災で多くの資料を焼失したので研究成果の詳細は不明である。因に、文部省への報告書によると、昭和十七年度決算額と十八年度予算額は次の通りであった。

その後大学でも付属研究所の扱いについて検討するところがあり、十八年一月十五日の維持員会で左記のような規程が決議され、施行されることになった。

早稲田大学附属研究所規程

第一条 本大学ニ特殊事項ノ学理及応用ヲ研究スル為メ維持員会ノ同意ヲ経テ研究所ヲ設置ス。

第二条 研究所ニ特殊事項ノ名称ヲ冠シテ其所名トス。

第三条 研究所ニ左ノ職員ヲ置ク。

所長/所員/助手、助手補、技手、技手補/主事/書記、書記補/雇員、工員

第四条 所長ハ本大学教授中ヨリ維持員会ノ同意ヲ経テ之ヲ嘱任シ総長監督ノ下ニ於テ事務ヲ掌理ス。

第五条 所長ノ任期ハ三年トス。

第六条 所員ハ本大学ノ教授、助教授、講師其他ヨリ総長之ヲ嘱任シ所長監督ノ下ニ於テ研究ニ従事ス。

第七条 助手、助手補、技手、技手補ハ上司ノ指揮ヲ承ケ研究ニ従事ス。

第八条 主事ハ所長ノ監督ノ下ニ於テ事務ヲ掌理シ、書記、書記補ハ主事ノ指揮ヲ承ケ事務ニ従事ス。

第九条 研究所ニ協議員若干名ヲ置ク。

第十条 協議員ハ大学之ヲ嘱任シ其任期ヲ三年トス。

但当該学科ノ属スル学部長ハ職務上当然協議員会々長タル資格ヲ有スルモノトス。

第十一条 協議員会ハ当該研究所ニ関スル重要事項ヲ協議ス。

第十二条 所員研究ノ成果及専売特許権ハ大学ニ帰属ス。

第十三条 専売特許権出願ノ可否及当該発明者ニ対スル報酬ハ大学ガ之ニ依テ得ル収入金額ノ二分ノ一以内ノ範囲ニ於テ協議員会ノ答申ニ基キ大学之ヲ決定ス。

 理工学部研究所は鋳物研究所とともに第一条にいう研究所に該当することになり、ここにおいて両研究所は理工学部から独立し、大学直属の機関に昇格したのである。またこの年五月には、この規程に従い維持員会の承認を得て山本理工学部長が理工学研究所長を兼任することになり、規程第九条の協議員には、山本忠興、沖巌、堤秀夫黒川兼三郎、米沢治太郎、吉田享二、小栗捨蔵(以上理工学部教授)、永井清志(幹事、経理部長)の八名が選ばれた。更に「理工学研究所内規」も作られて次第に整備されたが、翌十九年に山本が勇退したため、三月七日の理事会で理工学部長に嘱任されることが決まった教授内藤多仲が四月二十日、理工学研究所長を兼任することになった。またこの頃宮部宏が幹事となり、研究所の運営に当ったが、この年三月十日『早稲田大学理工学研究所報告』第一輯が発行され、宮部の「材料の湿気的性能」という長文の論文が掲載された。当時研究所では一三の研究室を使用し、一八名の研究員が、研究補助員八五名、職員五名の補助を受けて、一六のテーマに分れて研究を続けていたから、機関誌の発行が続けられていれば次々と優秀な研究成果が発表されたと思われるが、残念ながら戦局の苛烈化に伴い戦前にはこの第一輯が刊行されただけに終ってしまった。しかも空襲を避けるために、研究を中断して、一部の設備を長野、茨城、静岡の各県に疎開しなければならなくなり、果ては二十年五月二十五日の東京大空襲により、すべての建物が全焼の厄にあった。研究設備や研究成果の一部は疎開してその難を免れたが、岩片、川島、埴野、伊原、渡部、宮部の各研究室、および鎔接研究室の什器、標本等の大部分は焼失してしまった。そのために、この年せっかく大学から五〇、〇〇〇円の研究所予算の割当てを受けていながら、僅かに七、〇三六円を遣った段階で、研究所の機能は麻痺してしまったのである。しかもこの空襲で、付近住民とともに数名の研究補助員が所内防空壕で殉職するというまことに痛恨極まりない悲惨な出来事もあった。

 理工学部誕生以来、関係者の念願であった理工学研究所は、戦前には遂に十分な業績を挙げ得ないままに壊滅し、その再建と捲土重来の活躍は戦後を俟たなければならなかった。しかし私学としては他大学に率先して、鋳物研究所に続き、多大の犠牲を忍んで理工学研究所を創設し、斯学の発展に貢献するとともに、戦後における理工学研究発展の基礎を築いた学苑当局者と、理工学部関係者の先見と英断、或いはこれに協力した校友の芳情は、高く評価されるべきであろう。

三 興亜経済研究所

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 昭和十五年は、正月三が日の橿原神宮参拝者が前年の約二〇倍、一二五万人に達したと報ぜられた(『東京朝日新聞』昭和十五年一月四日号)ように、紀元二千六百年奉祝の明るい気分が横溢したように見える年であったが、しかしそれは上辺だけのことで、昭和十二年以来解決の曙光さえ見ることなく続いている日中間の紛争がますます国民生活に重圧を加え、日本をのっぴきならぬ深みにひきずり込んでいく結果になった暗い年であった。

 年頭の一月十六日に米内光政内閣が成立したが、英国軍艦が浅間丸を臨検してドイツ人船客二一人を引致するという衝撃的な事件が同月二十一日に勃発し、次いで二月二日の衆議院本会議における支那事変処理に関する質問演説が戦争政策を不当に批判したとして斎藤隆夫が同院を除名されるという事件が起った。しかも、本来民主的であるべき社会大衆党がこれに同調し、除名に反対して同月七日の同院本会議に欠席した党員一〇名のうち、正党員でなかった松本治一郎を除く、片山哲以下八名の党籍を削っている。党首安部磯雄も反対した一人で、このとき離党し、同党にとり自ら首を締める結果になったが、当時いかに政党人の視野が狭く、また「バスに乗り遅れるな」と時局に便乗しようとする風潮が強かったかを示す事件であった。

 次いで七月十六日には辞職した陸相畑俊六の後任を得られず米内内閣が倒れ、あとを承けた第二次近衛文麿内閣は、平和回復の期待を受けて国民から支持されていたにも拘らず、二十七日に大本営政府連絡会議で、武力行使を含む南進政策が決められ、九月二十三日には日本軍は北部「仏印」に進駐している。また軍部の専横を抑えるために作られた大政翼賛会は十月十二日に発足したが、結果的には失敗で、何の働きも示せなかった。外交面でも九月二十七日には日独伊三国同盟を締結して英米との溝を深くし、中国国民の支持を得ることのない汪兆銘の南京国民政府と日華基本条約を十一月三十日に調印して、重慶政府および中国民衆の侮蔑と反感を買う結果になった。

 「贅沢は敵だ」との標語が、国民精神総動員本部の手で東京市内に掲出され(八月)、敵性文化として東京のダンス・ホールが閉鎖され(十月)、タバコの名称が「ゴールデン・バット」から「金鵄」に、「チェリー」から「桜」に改められた(同月)のもこの年で、軍部の跋扈と政治の失敗の付けが国民に回され、国民生活は暗く重苦しくなるのみであった。しかし大多数の国民は、この年六月二十四日近衛が提唱した「新体制」に、「新体制になれば生活もある程度まで保障され、多少いろんなことが楽になりはしないか」(原田熊雄『西園寺公と政局』第八巻 三二四頁)との期待を抱き、泥沼化した日中戦争は東洋永遠平和のための聖戦であると信じて、黙々とその重圧に耐えていたのである。

 興亜経済研究所が我が学苑に生れたのはこのような年であった。当時企画院直属の財団法人として東亜研究所(昭和十三年九月一日開所)があり、南満州鉄道株式会社の調査部、三菱社の三菱経済研究所等と並んで研究を進めていたが、我が興亜経済研究所もそれらとともに、東亜に新秩序を建設し、共栄圏を確立するとの当時の国策に則って創設されたことになっている。この建前だけを見ると、いかにも時局に便乗している如くに見えるが、後に掲げるように田中総長らの設立趣意はもっと真面目で学問的な意味を持っていたのであった。

 興亜経済研究所新設の構想は、のちに同研究所の理事長に就任した商学部教授北沢新次郎が昭和十五年十二月発行の『早稲田学報』(第五五〇号)に寄せた「興亜経済研究所の創設に就いて」に、「最初は商学部内の経済学、商業学を専攻する教員諸氏が、大学当局の許可を得て、興亜経済研究所を夏直前に設立したのであつた」(三頁)と記しているように、先ず商学部から生れた。『早稲田学報』(昭和十五年七月発行第五四五号)によれば、同年七月二日の商学部教授会で「興亜経済研究所ニ関スル件」(一三頁)が協議されているが、北沢は同じ文章の中でその設立の趣旨について次のように述べている。

須く我等は真剣に時局を認識し内は政治並経済新体制に関して検討を行ひ、以て国策の樹立遂行に寄与すると共に、外は東亜広域経済圏の確立に就いて攻究を試み、国運の発展飛躍に貢献すべきであると信ずる。そして、其の為めには、理論的の思索討究に併行して、実証的の現在把握を行ふのでなければ、到底指導的立場を為し得ない事は、自明の理なので、此時機に於いて有力なる政治経済研究機関を設立する必要を痛感した。 (三頁)

北沢は冒頭に「東亜新秩序」確立の意義を説き、次いで興亜経済研究所設立の趣旨を述べているが、歴史的変革期に際して、何らかの適切な国策を樹立遂行するために寄与したい旨を述べているのは、抑圧されていた言論や研究の自由を、このような目的を掲げることによって、幾らかでも回復したいと望んだ心の現れだったと言えよう。それは、戦後に出版された『歴史の歯車』中に北沢が、

きびしい言論・研究の統制で手も足も出ない現状を打破するために、満鉄の調査部のような研究機関をつくってはどうだろうということで準備が進められ、先輩校友板谷宮吉氏から五万円を寄附してもらったのをはじめ、大阪の紡績会社などから寄付を集めて、純然たる民間の研究機関として、政府や軍部とはなんらの関係もなく、その研究資金もすべて民間の篤志家から集めた。 (一八八頁)

と、同研究所の設立に意義を認めていることから明らかである。設立者達は、軍や政府の意向に縛られずに、自由に研究を進め、学問的に正しい結論を出して、とかく暴走しがちであった国策を是正したいとの意図を持っていたのであった。

 北沢は設立趣旨の中で「実証的の現在把握」が「理論的の思索討究」と並んで重要なことを述べているが、我が学苑では、学生等に対し「現在把握」が正しくできるように、前述(八三八頁)の如く、昭和十三年四月から特設東亜専攻科を設置し、次いで同年商学部校舎新築落成を期に、同学部内に東亜経済資料室を設けた。魯大公司顧問朝鮮電力専務取締役の校友市吉崇浩(明三七英語政治科)が、昭和十四年一月発行の『早稲田学報』(第五二七号)に寄せた「東亜経済資料室の新設に就いて」によると、前年から田中総長の依嘱により特設東亜専攻科で「支那経済事情の講義」を担当した結果、「学生でも卒業生でも、過去のことは良く知つて居るが現在のことは余り知らぬ。理論は良く弁へて居るが実際は余り弁へぬ」ことを痛感して、経済資料室の必要を学苑当局者に説いたため、その新設が決定され、経済資料蒐集のスタートが切られることになったようである。そして、「最初から余り多くを求むることは、却つて当面所要の資料を得ることが出来ず、徒らに望洋の憾みを残す恐れがあるから、先づ現代日本の立場として、最も密接なる関係にある東亜の各地より始むることとし」たい(三〇頁)との市吉の考えで、東亜経済資料室が発足したというのである。市吉はこの資料室に蒐集すべきものとして、

一、内外の中央並に地方官庁にて刊行せらるる経済関係の調査、統計、報告類。

二、商工会議所、経済協会、同業組合等の各種実業団体にて刊行せらるる調査、研究、統計、報告類。

三、有力なる銀行会社、又は経済研究所等にて刊行せらるる調査報告類。

四、その他学者及び篤志家の経済に関する調査報告又は意見発表のパンフレツト等。 (三〇頁)

を挙げているが、大学は同十三年七月五日付で関係機関に対し、

一、貴所発刊ノ各種経済報告書並ニ統計表

一、貴所発刊ノ月報並ニ年報類

一、貴地方特産物ニシテ参考トナル商品見本

一、其他右研究上参考トナルベキモノ

の寄贈を依頼し、更に同日付で校友会支部に対し、右への協力方を要請した。

 東亜経済資料室の設置と整備は、市吉独自の構想のように見えるが、特設東亜専攻科との関連を無視できないであろう。そして興亜経済研究所は、恐らくこのような構想と資料の整備から生れ出たものであろう。

 さて前述のように昭和十五年七月商学部内に設置された興亜経済研究所は、北沢によると、設立発起人たる教員が「斯くの如き研究機関は、其の本質上全学園的のものでなければならない」(同誌 第五五〇号 三頁)と考え、政治経済学部と法学部の教員が賛成すれば、全学的規模の研究機関を新設し、現研究所は発展的に解消してもよいとして、善処方を北沢と小林新とに一任したので、両教授が田中総長と協議したところ、その共鳴と鞭韃を得た。田中総長がこの新しい機関に寄せていた期待は、この研究所から十六年四月に発刊された『興亜政治経済研究』第一輯の巻頭に寄せた一文により明らかである。

最近、米国の国務卿コーデル・ハルは、極東問題講演会にメツセージを送り、社会・文化・政治・経済の各領域に亘り、広汎にして冷静なる理性的の研究は、米国と極東諸国との友交関係を深むるに、大なる効果のあることを確信する、と陳べたと伝へらるるが、私の切に望むところは、この広汎にして冷静なる理性的の研究である。欧米孰れの人と雖も、幸に其人が聡明にして公平、真に虚心坦懐、極東問題の科学的研究に耳を傾くる余裕を有するならば、必ずや援蔣政策の重大なる過失たることを自覚し、日本と共に平和の維持に協力し、斯くて、太平洋の海面は、初めて其名の如く太平なるを得べしと確信する。即ち、私は、教授諸君が其力を傾倒し、一面に於いては、国策の線に副ふて東亜共栄圏の確立に協力せらるると同時に、他の一面に於いては、真理の探究によって、東亜の事情に通ぜず、若くは故らにこれを曲解する聵々者流の啓蒙の為めに、益々その健闘を祈つて已まざるものである。 (二―三頁)

すなわち、総長の考え方は、次のように述べる北沢のそれと全く一致していた。

顧るに、従来の支那研究のうちで、真に科学的なる分析を加えたる諸労作は、多く、欧米の大学教授並にその指導下にある中華民国の若き学徒の手に成るものであることは、新興アジアの指導者たるべき日本の立場から観て、かへすがへすも遺憾に堪へないことである。かかる現状を一刻も速かに打破し、日本人の手によつて、彼等の水準を遙かに凌駕する如き各種研究の相継いで発表されることが、如何に焦眉の急務であるかを痛感せざるを得ない。かかる暁にいたつて、真によく、日本が、完全に新中華民国の民衆を文化的に指導し得るのである。 (同誌 昭和十七年一月発行 第二輯 四―五頁)

 こうして総長の賛同を得たので、北沢と小林新とは、塩沢政治経済学部長、寺尾法学部長、山本理工学部長および各学部長老・中堅教授と諮り合意を得た上で、同十五年九月二十一日政経、法、商三学部の諸教授からなる研究所設立準備委員会を開き、定款、役員、研究員、賛助員を議決して、ここに全学的規模を持つ大学直轄の機関、早稲田大学興亜経済研究所が創設されたのである。このとき定められた「早稲田大学興亜経済研究所定款」は十二条から成っているが、その主要な点は次の通りである。

第一条 本研究所ハ之ヲ早稲田大学興亜経済研究所ト称ス。

第二条 本研究所ハ興亜経済ニ関スル調査及ビ研究ヲ行ヒ其ノ成果ノ活用ヲ図リ、国策ニ寄与スルヲ以テ目的トス。

第三条 本研究所ハ前条ノ目的ヲ達成スル為メ左ノ事業ヲ行フ。

一、興亜経済ニ関スル資料及ビ図書類ヲ蒐集整備スルコト。

二、興亜経済ニ関スル調査及ビ研究ヲ実施スルコト。

三、興亜経済ニ関スル調査及ビ研究ノ成果ヲ発表スルコト。

四、興亜経済ニ関スル調査及ビ研究ニ付キ調査員ヲ派遣シ又ハ学識経験アル者ニ之ヲ委託スルコト。

五、興亜経済ニ関スル講演会ノ開催。

六、前各号ノ外理事会ノ決議ニヨリ必要ト認メタル事項。

〔中略〕

第十条 本研究所ニ研究員及ビ賛助員若千名ヲ置ク。

研究員ハ早稲田大学教員中ヨリ理事長之ヲ委嘱ス。

研究員ハ本研究所ノ施設ヲ利用シテ所定ノ調査及ビ研究ヲ担当ス。

賛助員ハ本研究所ニ対スル特別関係者中ヨリ理事長之ヲ推挙ス。

(『早稲田学報』昭和十五年十月発行 第五四八号 八頁)

このほか定款には役員として「本研究所ヲ代表シ所務ヲ統轄」するため理事長を置き、そのほか若干名の理事と顧問を置くことが第五条と第七条に定められている。その規定により任命された役員および第十条による研究員、賛助員は次の通りであった。

顧問 田中穂積 塩沢昌貞

理事長 北沢新次郎

常任理事 小林新

理事 寺尾元彦 北沢新次郎 小林行昌 中野登美雄 久保田明光 島田孝一 小林新

研究員 入交好脩 以下四十九名

賛助員 阿部賢一 以下十七名

また定款には規定がないが、左の如く部長と協議委員が決められていた。

部長 研究第一部長(政治) 中野登美雄 研究第二部長(経済) 久保田明光 研究第三部長(法律) 大浜信泉 資料部長 時子山常三郎 編輯部長 上坂酉蔵

協議委員 林癸未夫 以下三十名

学苑の社会科学系教員の総力を結集した機関であったことが、この顔触れからも窺え、北沢が、前掲の『早稲田学報』(第五五〇号)への寄稿の中で、「思ふに、興亜経済に関する研究機関は、必ずしも他に類例がなくはない。しかし、政治、経済並びに法律に関するかくの如き豊富な専攻学徒を包容し、しかも数万人の校友及学生の支持を持つ学園を背景とするは、我が興亜経済研究所に及ぶものはない事を確信するものである」(五頁)と自信を示したのも当然と言えよう。研究所開所式は十五年十一月一日に行われた。

 興亜経済研究所は創設後約半年間は準備研究に充てられた。昭和十六年一月十八日に顧問理事部長会が開かれ、共同研究会設置と興亜政治経済研究叢書第一輯発刊が議せられた。このとき定まった共同研究会は左の通りであった。

一、興亜経済基本理念研究会(研究員十八名)

二、政治新体制ニ関スル研究会(同十四名)

三、日満支財政通貨ニ関スル研究会(同九名)

四、東亜経済法制ニ関スル研究会(同十二名)

五、新秩序下ニ於ケル経営ニ関スル研究会(同九名)

六、興亜経済圏ノ物資交流ニ関スル研究会(同十二名)

七、満州朝鮮内地ニ於ケル農業問題ニ関スル研究会(同六名) (同誌 昭和十六年二月発行 第五五二号 九頁)

 次いで五月には、定款の一部を改正して、理事八名を増員し内田繁隆、大浜信泉上坂酉蔵、末高信、時子山常三郎、中村佐一、中村宗雄、長谷川安兵衛を新たに任命し、業務分担を左のように改めた。

政治関係研究部 中野登美雄 内田繁隆

経済関係研究部 久保田明光 中村佐一

商業関係研究部 小林行昌 島田孝一

法律関係研究部 中村宗雄 大浜信泉

編輯部 上坂酉蔵 中野登美雄 久保田明光 大浜信泉 末高信

図書資料部 小林新 内田繁隆 時子山常三郎 中村宗雄 長谷川安兵衛

そして政治、経済、商業、法律の四部門には、それぞれいくつかの共同研究部門を設け、毎月所属研究員の研究発表を行い、その中から研究報告に掲載することになった。また図書資料の購入にも本腰を入れ、助手・書記補の採用と図書資料室(恩賜記念館二階)の設置も決められている。研究員に課題を指定して研究助成金を与えることもあり、南方諸地域の研究調査現状についての文部省照会には昭和十七年十二月十七日付で左の如く回答している。

特ニ泰又ハ仏印ニ関シ為シツツアル事業

左記ノ三研究員ニ対シ特ニ研究助成金ヲ交付シソノ研究ヲ依嘱セリ。

1 泰米ノ生産及ビ流通 杉山清

2 東亜共栄圏ト財政問題 主トシテ仏印ヲ中心トシテ 林容吉

3 華僑ノ研究 呉主恵

 興亜経済研究所の運営資金は学苑の予算と寄附金により賄われたようである。昭和十五年九月二十五日付『早稲田大学新聞』によると、初年度の事業資金には学苑の醵出金五、〇〇〇円と板谷宮吉の寄附金三、〇〇〇円が充てられたとある。また文部省へ提出した報告書によると、昭和十七年度の決算額は二五、二八〇円三五銭、十八年度予算額は三〇、〇〇〇円となっている(十六年度分は不明)が、学苑の予・決算書には同研究所に関する項目が立てられておらず、学苑の醵出金額は勿論、醵出の有無も不明である。『昭和十八年四月起文部省関係書類』には本研究所の基金として一〇〇、〇〇〇円が記録されているが、これには校友等からの寄附金の一部が充てられたようである。なお、各学部(理工学部を除く)研究費の年間予算は、昭和十八年度において、政治経済学部二七、九八六円、法学部三二、六四七円、文学部二〇、〇八三円、商学部三二、七六九円であったから、この研究所は予算面においても学部なみに重視されていたことが分る。

 興亜経済研究所では、北沢理事長以下の努力により、校友や業界よりの篤志寄附を仰いで、国家権力からの制約を受けることなく自由に研究を推進したのであったが、受領した寄附金の総額については明らかでないけれども、五、〇〇〇円以上の高額寄附者としては、校友板谷宮吉(明四二大商)の五三、○○○円を筆頭に、大日本紡績株式会社および東洋紡績株式会社の各二〇、〇〇〇円、石田武亥(明二九邦語政治科)、岩本信一郎(昭五商)、早稲田大学出版部の各五、〇〇〇円が記録されている。寄附金は、板谷と石田の寄附金のように研究所の図書資料蒐集に充当されたものもあり、或いはトヨタ自動車工業株式会社社長豊田利三郎の三、○○○円、東京衡機製作所取締役竹崎瑞夫の三、〇〇〇円、北辰電機製作所社長清水荘平の二、〇〇〇円のように、それぞれの名を冠した研究助成金として、研究員に対して数百円ずつ配分されたものもあった。後掲の本研究所の研究成果刊行物に発表された論稿の多くが、これらの助成金に負うところが多かったことは、特に記す必要もないであろう。

 本研究所は、十五年十一月一日創立記念講演会を開催した。当日は大政翼賛会事務総長有馬頼寧が「大政翼賛運動について」、中外商業新報編集局長小汀利得が「三国同盟と英米依存経済体制の打開」という演題で熱弁を振い、そのあと田中総長の講演があって盛会裏に幕を閉じた。翌十六年、理事長北沢新次郎は研究員入交好脩を伴い八月二十一日より九月十九日に亘り北京、天津、済南、南京、上海の各地に赴き、各種研究機関と連絡し、資料を蒐集した。また外務省南洋局および海軍省の依嘱を受けて本研究所研究員杉山清が同年九月十六日より十一月一日までタイ、仏印に出張し視察と資料蒐集に努めたが、その成果は後に『興亜政治経済研究』(昭和十七年十一月発行)第三輯に発表され、著書『泰国経済の分析』(昭和二十年二月刊)としてまとめられている。

 本研究所には上海に支部設置の計画もあった。すなわち、十六年九月訪中した北沢理事長と上海在留の校友との間で、「中支における経済事情の急激なる変化の複雑性と重大性に対して上海に興研支部を是非置くことの必要性について」意見が一致した結果、校友小川愛次郎(明三三邦語政治科)を組織準備委員会長とし、「興亜経済の諸問題に亘り調査研究、共栄圏経済の進展に貢献」することを目的として、十八年四月に久保田明光、中村宗雄両教授を迎え開所式を行う旨が、十八年一月十三日付『早稲田大学新聞』に報ぜられている。この支部の開所準備は着々進められ、同年二月十七日付同紙に、同支部の小林重平(大三大商)、守分巌(大九大商)両幹事が同月十三日学苑に来て、理事長と支部における仕事の打合せを行い、且つ上海の経済事情について談話を行ったことが記載されている。しかし以後の経過については全く資料が欠けており、この年一月『華中早稲田報』が同支部機関誌として創刊されたという記録(『早稲田大学新聞』昭和十八年一月二十日号)が残っているだけである。また同年八月中旬、小樽の板谷宮吉の招聘で、北海道において本研究所の研究員による左の如き講演会が開かれた。

北中支の農業と物価 久保田明光 法制上より見たる満蒙北中支の物価統制と治外法権撤廃問題 中村宗雄

日米両国の戦力と吾等の覚悟 小林新 決戦下に於ける学徒の使命(興亜経済研究所の設立過程) 北沢新次郎

(同紙昭和十八年九月一日号)

 しかし何といっても、研究所の業績が最もよく示されたのは、『興亜政治経済研究』(千倉書房)四冊と『興亜経済研究所紀要』(早稲田大学出版部)一冊の刊行であった。なお『興亜政治経済研究』第四輯は発行が遅れ、研究所名が興亜人文科学研究所に変ったのち、旧研究所名で発行されている。戦況の激化とともに印刷事情が悪化し、それらの継続刊行が不可能に終ってしまったのは残念であったが、北沢理事長が「早稲田大学興亜経済研究所の使命」と題して、「幸にして、内外の支持と激励に依り、聊か時局の要請に沿ふを得たことは、創立に参画せる者の一人として衷心より歓喜に堪へないものである」(『興亜経済研究所紀要』第一輯 四頁)と述べたように、一応の研究成果があったことは認められよう。右に挙げた五冊の目次を列記すれば次の如くである。

『興亜政治経済研究』第一輯 昭和十六年四月発行

巻頭言 田中穂積

東亜協同体の政治学的考察 内田繁隆

新経済秩序の世界史的解明と新経済理念の構想序説 時子山常三郎

北支に於ける配給機構の研究――「民船」及「船行」の商機能を主としたる―― 上坂酉蔵

資料 「山東苦力」に関する調査資料

同 第二輯 昭和十七年一月発行

巻頭言 北沢新次郎

東亜資源の開発と交通事業の経営 島田孝一

旧法幣の貨幣的性格 中村佐一

広域経済に於ける貿易決済機構 中島正信

大東亜共栄圏に於ける法系樹立の基本理論――それの参考案としての独逸に於ける法律同化の問題―― 長場正利

同 第三輯 昭和十七年十一月発行

占領地経済政策序説 北村正次

支那金融機構の歴史的性格 呉主恵

泰国農業に於ける土地問題 杉山清

中国に於ける損害保険の諸問題 葛城照三

同 第四輯 昭和十九年九月発行

北支に於ける「民船」並に「船行」(続篇) 上坂酉蔵

製品標準化と作業組織 池田英次郎

工業会計標準勘定組織論 佐藤孝一

『興亜経済研究所紀要』第一輯 昭和十八年八月発行

早稲田大学興亜経済研究所の使命 北沢新次郎

近世安南に於ける公田制 久保田明光

明初の版籍の研究 清水泰次

東亜貨幣政策序説 中村佐一

大東亜共栄圏と保護領制度――特に英国の保護領を中心として―― 一又正雄

華僑の性格的研究 呉主恵

以上の論文題目を見ると、清水泰次の研究を最たるものとして、時局とは直接関係のない純学問的な性格の強い論文も収録されていることに気付く。これは北沢理事長以下関係者がこの機関を単なる時局便乗のものに終らせたくないとの意図を持ち、高大な視野の下に運営していたことの現れであろうと思われる。

 興亜経済研究所に文、理工両学部が参加し、五学部協力の体制を執ることになった経過や日時ははっきりしないが、昭和十七年十一月十四日の同研究所理事会では、

一、顧問に山本忠興(理工)、日高只一(文)、遊佐慶夫(法)を加え、従来の田中穂積(総長、商)、塩沢昌貞(政経)とともに五学部代表を揃える。

二、常任理事に中村宗雄、久保田明光を加え、小林新とともに三名とする。

ことを決定して、新しい体制に則した組織を整えた。またこのとき、「大阪ニ於ケル新賛助員」に竹崎瑞夫ら七人を嘱任している(『早稲田学報』昭和十七年十二月発行 第五七四号 一四頁)。

 この後、戦局はますます苛烈となり、刊行物の印刷は勿論、研究室における研究さえ困難な情況に陥り、研究所の使命を十分に果すことが難しくなった。それにも拘らず、北沢理事長がのちに『歴史の歯車』の中で、「結果的にみると、私たちが努力した割に時局の進展に寄与したことはきわめて少なく、むしろ無駄骨を折ったというほうが正しいようである。いいかえれば、今日考えると私は、時局の認識が甘すぎたことを後悔している」(一八八頁)と述懐したように、本研究所はその設立の目的を十分達成したとは言えないが、学苑に初めて設置された社会科学系の研究機関として、恵まれぬ環境の中で一応の業績を挙げたことは、それなりに評価すべきであろう。

 昭和十七年十一月に、南方諸地域に関し研究または調査を実施或いは計画中のものの有無につき、文部省が学苑に報告を求めてきた際、学苑当局は、興亜経済研究所の他に、大東亜芸能文化協会、早稲田大学東亜法制研究所、南洋研究会、南太平洋研究会、稲門図南会、亜細亜研究会、興亜研究会、東亜協会、地政学会、新東洋学会の一〇関係団体名を報告している。これら諸団体すべての詳述は省略して、ここには早稲田大学東亜法制研究所についてだけ簡単に触れておくことにする。

 昭和十六年二月五日付の『早稲田大学新聞』は、新秩序の基調たるべき法理の大系を樹立せんために法学部に設けられていた東亜法制研究室が、時勢の進展とともに従来の機構では不十分になったので、同室に代り法学部研究室内に東亜法制研究所を設置したと報じている。昭和十五年十月発行『早稲田学報』(第五四八号)には、九月十九日開催の法学部教授会で「東洋法政研究室」(一一頁)改組の件が協議されたこと、また翌月発行の同誌第五四九号には、十月二十四日の教授会で「東亜法制研究」(二五頁)の件が協議されたことが報ぜられているから、恐らくこのころ東亜法制研究所の設立が教授会で承認されたのであろう。しかも従来の東亜法制研究室の費用は法学部研究室予算で賄われていたのに対し、新研究所のそれは大学の予算に組み込まれ、一部は出版部の寄附を受けることに変った(中村宗雄「法科最近十ケ年の回顧」『早稲田法学』昭和十六年七月発行 第二〇巻 一五頁)と言われている。新研究所はこのとき組織的には大学の一機関として誕生したのである。なお同研究所の予算規模は三、○○○円程度であった。

 新研究所設立の趣意の要点は、「早稲田大学東亜法制研究所設立趣意書」によれば次の如きものであった。

大東亜新秩序の建設、それは帝国当面の国是にして、日本民族の歴史的使命である。而してこの新秩序は、亜細亜諸民族の自主性と共存共栄とを理想とするものであり、従つてそれは東洋独自の道義観と法理念の上に打建てらるべく、単なる欧米模倣に陥ってはならない。それ故にこの新しき角度より亜細亜諸民族の法律制度を再検討し、新秩序の基調たるべき法理の体系を樹立することが刻下の急務であり、これこそは吾等法律学徒に課せられた時代的役割でなければならぬ。……依つてこれ〔東亜法制研究室〕を改組強化の上、東亜法制研究所と改称し、更に広く資材を蒐集し、これが研究の成果を収め、以て新秩序建設の大業に寄与すると同時に、東洋法学独自なる法的理念の把握並にこれが実践の指針確立に資せんとするものである。

(同誌 同巻 一六頁)

その目的と事業は、「早稲田大学東亜法制研究所規程」に左のように定められている。

第二条 本研究所ハ興亜体制ニ即シタル法制改革ノ指針ノ確立並ニ東亜独自ノ法律学体系ノ樹立ヲ目的トス。

第三条 本研究所ハ前条ノ目的ヲ達成スルタメ左ノ事業ヲ行フ。

一、東亜諸国ノ法律制度及ビ法律思想等ニ関スル資料ノ蒐集

二、東亜法制ニ関スル実地調査

三、東亜法制ニ於ケル固有法理ノ研究

四、興亜体制ニ関スル立法政策上ノ諸問題ノ考究並ニ立案

五、資料、調査報告及ビ研究結果ノ刊行

六、興亜体制ニ関スル法制上ノ知識拡布ノタメ随時講演会ヲ開催シ且ツ年次科外講義ノ形式ヲ以テ学内学生ニ対シ啓発講演ヲ行フコト

七、其ノ他理事会ニ於テ必要ト認メタル事項 (同誌 同巻 一七頁)

またこのとき就任した役員等は左の如くであった。

顧問 田中穂積 松平頼寿 井野英一(満州国最高法院長)

理事長 寺尾元彦 常務理事 大浜信泉 理事 寺尾元彦 以下八名

総務部長 中村宗雄 資料部長 高井忠夫 調査部長 外岡茂十郎

研究員 寺尾元彦 以下二十三名 賛助員 東清重 以下十七名

研究員の大多数は法学部または専門部法律科の教員であるが、満州国法官の千種達夫(司法部参事官、大一五法)・野村佐太男(検察官、昭二法)・宇田川潤四郎(新京地方法院、昭四法)の三名が名を連ねているのは、井野英一を顧問に迎えたことと相俟って、本研究所が満州国に関する法学的研究を重視していたのを示している。昭和十八年二月刊行の『早稲田法学』第二一巻が「満州国法制研究」を特集しているのは、その成果の一端であろう。

 本研究所は『新立法の動向』第一輯、第二輯の二冊を、「学内の学生に配布することを主眼とし」て(第一輯「序」四頁)、昭和十六年と十七年に刊行している。この二冊は、「本大学においては、数年来、毎議会を通過した数多くの法律の中から、とくに時代的意義の重大なるものを取り上げ、その都度、科外講義の形式を以て解説を試み、学生をして、一面、時局に対する認識を深めしめ、他面、新立法の動向を理解せしむることに努め来たつた……ここに、これをとりまとめ且つ体系を整へた上で刊行することにした」(同頁)ものである。次に両輯の目次を掲げるが、その表紙を見ると第一輯の書名は右書きで「1941」と西暦年号を用い、第二輯の書名は左書きで「2602」と皇紀を用いて統一を欠くのは、当時の混乱した世相を反映していて興味深い。

『新立法の動向』第一輯 一九四一年発行第一講 新立法の動向 中村弥三次

第ニ講 改正民事立法 中村宗雄

第三講 国家総動員体制の強化 中村弥三次

第四講 刑法の改正 斉藤金作

第五講 国防保安法 江家義男

第六講 改正治安維持法 江家義男

第七講 三特殊会社法 長場正利

第八講 営団立法 大浜信泉

第九講 住宅組合法 大浜信泉

第十講 国民更生金庫法 長場正利

第十一講 農地開発法 中村宗雄

同 第二輯 二六〇二年発行

第一講 戦時立法の特質 和田小次郎

第二講 裁判所構成法戦時特例・戦時民事特別法 中村宗雄

第三講 民法中改正法律 外岡茂十郎

第四講 戦時刑事特別法 斉藤金作

第五講 言論・出版・集会・結社等臨時取締法 江家義男

第六講 国家総動員法中改正法律・食糧管理法・国民医療法 中村弥三次

第七講 産業設備営団法・重要物資管理営団法 有倉遼吉

第八講 日本銀行法其の他の金融統制立法 大浜信泉

第九講 戦時国家保障制として観たる空襲保険法並に戦時災害保護法 長場正利

第十講 税務代理士法・不動産登記法中改正法律 星川長七

第十一講 世界戦争と立法の動向 遊佐慶夫

附録 第七十九議会新法律一斑

十八年以降この出版は杜絶した。しかし研究所が活動を続けていたことは、本研究所が後に興亜人文科学研究所に統合されたところから推察できる。