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第七編 戦争と学苑

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第五章 カリキュラムとキャンパスの整備

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一 昭和初期の学制改革

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 昭和七年四月、田中穂積新総長の下に学制改革が実施され、学苑の教育内容は一段と充実することになった。『半世紀の早稲田』は、この改革断行の由来について、学苑は創立以来学問の独立、研究の自由と実質的原理の体得を通じて社会に役立つ指導者を造就することを誇りとし、伝統として努めた結果、内包的充実と外延的拡張とを見た反面、硬化作用、形式化作用も生じて「学園の空気をいくらか鈍重ならしめ、動々もすれば沈滞せしめて、学園が当初以来標榜し来つた日本文化建設運動が、其展開の過程に於いて中断の虞れなきやを疑はしめる状態にすらあることを俊敏なる学園関係者は認識してゐた」(四一三頁)ためであると指摘しているが、実はこの改革の行われた昭和初年には、大学卒業者の就職困難な状況と、試験教育と詰込教育に毒され、記憶一点張りで、真の研究理解を欠く大学卒業生の多いこととを挙げて、大学教育の行き詰まりを論ずる声が高かったのである。塩沢昌貞が昭和五年六月発行の『早稲田学報』(第四二四号)に寄せた「大学教育行詰りに対する所感」は、そのような批判に対する感想を述べたものであるが、就職問題に対しては、大学は元来知的人格の完成を目的とし、教育と就職とは別問題であると反論したが、大学教育の方法については、教授の増員と待遇の改善、施設の整備とともに、大学の教授方法を改むべきであるとし、

学科の整備とか按配とかに就ては、外面上は整つてをるが、教授、指導方法に就ては、実は率直にいふと、我国の大学教育はなつてゐないといはれても、致し方がないのである。研究とか指導とかの方法が未だ充実して居ない。……早稲田大学に於ては、自修的研究といふことが教授上のモツトーとしてあるが、此点が未だ充分に実現出来ない感がないでもない。之等に就ては当校の当事者も一層奮発をしなければならぬが、一方学生側の心理状態も変へて行かねばならぬ。 (四頁)

と述べている。このような世評と学苑当局者の反省が、学制改革に踏み切る大きな動機になったのであろう。

 因にこの頃殆どの私立大学は大学令による大学としての体制を漸く整える段階にあったようであり、官立大学にしても東京帝国大学経済学部の場合は「学科課程は基本的には大正八年独立当時のものを踏襲しつづけた」(『東京大学経済学部五十年史』三二頁)という状態であった。他方慶応義塾大学は、『慶応義塾百年史』によれば、昭和三年文学部、経済学部および法学部の学科目等につき、「学生をして専攻せんとする学科の徹底的研究を期せしめんが為に其の自由選択の範囲を大にし、兼て独立研究の風を起さん」(中巻(後)四八頁)との趣旨に基づき相当大幅に改廃を行い、次いで六年には医学部で厳格な学年制と卒業論文の廃止等の大改正を行い、更に九年には大学予科でも、「政治学通論」等の学科目の追加、語学教育の強化等の改正をしている。

 学苑では大正九年大学令による大学に昇格して以来、国で定めた規定に準拠した学科課程により学生の教育に当ってきたが、同十年将来の大計を立てるために、欧米大学教育視察を目的として田中理事を海外に派遣したことから推察できるように、平沼学長以下の首脳は、あてがいぶちの学科課程に不満で、近い将来の改造を考えていたようである。しかし、事は重大で慎重に運ばねばならなかったことと、大隈重信の逝去等々学苑が多事であったことによって、その計画は容易に進まなかったが、高田総長が学制改革に熱意を持っていたことは、創立四十五周年に当り昭和二年十月二十四日に開かれた温交会の席上、

昔私が西洋から帰つて少し後に学校に紛擾が起つた。……私は再び学長にならうなぞとは当時夢にも考へなかつたが、併ながら多少考へる所があつて学制改革の調査委員長位になつて学制の改革を企てたいと思つたのである。……其後私が総長になつてから又学制改革に手を着けたいと思つたが、一方には教授会と云ふものも出来て居るし、もう老骨私の如き者が彼是れ云ふべき場合ではない。 (『早稲田学報』昭和二年十二月発行 第三九四号 一三頁)

と述べたことや、後に引用する昭和六年二月十八日付岡村千曳宛高田早苗書簡に「文部省の関係なぞ一々顧慮すること無く、立案の後同省と折衝し、意見の貫徹を計るべき事」(『早稲田大学史記要』昭和五十二年三月発行 第一〇巻 資料三九頁)と記していることや、同年六月総長辞任に当り臨時維持員会に送った覚書(手記)で新理事会に要望したことは、「新総長推薦後ノ理事会ハ諸般ノ改革殊ニ学制改革ヲ標榜シ実行サレン事ヲ切望ス」(『早稲田学報』昭和六年七月発行第四三七号 一七頁参照)との一事のみであったことからも明らかである。

 高田の意欲を受け継いで改革を進めたのは、当初は常務理事として、また昭和六年六月以降は総長として事に当った田中穂積であり、その意気込みは高田に劣らなかった。田中は前述の如く大正十年大学教育視察のため欧米に派遣されたが、帰国後、大正十三年一月発行の『早稲田学報』(第三四七号)に寄せた「大学の学風」に、英・独・仏の大学の長所と短所を指摘し、「先づ善良なれ而して智者たれ」をモットーとする英国教育を賞揚して、

我邦大学の学風も戦前に於ける独逸の顰に傚ひて智的方面に偏傾し、大学を以て単純なる学術の需給機関の如く見做すことの、重大なる誤りであることは明かであつて、矢張英国に於けるが如くキヤラクターの修養に努力しなければならぬ、即ち日本の運命は国民の智識よりも寧ろ其キヤラクターに依つて決すとせば、国民の先駆となり中堅となる人材の養成を目的とする所の大学の学風は、特に此点に思を致さざるを得ないと信ずる。 (四―五頁)

と述べている。約七ヵ月半に及ぶ外遊により、田中が抱くに至ったこのような信念が、六八二頁に示す「学制改革綱要」第二項にある「『学問の独立』の教旨に依り特に学生の自修的研究(自由研究包含)を眼目とし詰込主義を断乎排除すること」とともに、学制改革の基調になったのである。

 ところで学制改革の行われた昭和初年は、一面では大正期に芽生えたデモクラティックな風潮の昻揚期であったが、他面ファシズムへの傾斜を示し始めた時期でもあった。従ってこの改革が「自由主義華カナリシ時代ノ所産」であったとの後年の理解は必ずしも正しいとは言えないが、こうした誤解の原因が、この学制改革が英国風の人格陶冶と自学自習を基調としたために持っていた自由主義的な性格にあったとすれば、寧ろそのような誤解を通して、右旋回を始めた世相に迎合したのではない、学問・教育上の信念に基づく改革であったのが立証されていると言えよう。そして次第にファッショ化し、自由が失われていった当時の日本にあって、太平洋戦争直前まで自由な学風を我が学苑が誇り得たのは、こうした基調に貫かれた改革により作り出された学制によることが多いのを考えれば、この改革の意義は非常に大きなものであったと言えよう。

 さて以上の如き強い信念を持つ高田―田中ラインによる全学的学制改革の立案最中に、学制の一部手直しが学部、付属学校等で独自に行われた。その中で先ず大きな改革を行ったのは商学部で、昭和三年、新たに選択科目を設け、六分科制を実施した。その趣旨は、昭和二年十二月二十四日付文部大臣宛「認可申請」の理由書に、

商学部ニ於テハ全科目ヲ必修トセル関係上経済学及商業学ノ特殊学科ヲ十分研究セシムル能ハザルノ傾向アリ、是等ノ欠陥ヲ補ヒ時代ノ趨勢ニ応ゼシメンガ為、必修科目ノ外新ニ選択科目ヲ設ケ之ヲ経済〔第一分科〕、貿易〔第二分科〕、金融〔第三分科〕、会計〔第四分科〕、保険〔第五分科〕、及交通〔第六分科〕ノ六科ニ分チ、第二学年以上ノ学生ニ一科ヲ選択必修セシム。必修科目ニ於テハ経済学及商業学ノ基礎学科ノ研究、方法論、法学及語学ノ研究ヲ目的トシ選択科目ニ於テハ経済学及商業学ノ特殊学科ノ研究ヲ目的トス。而シテ選択科目ノ研究ガ専門ニ偏スルノ虞レアルヲ以テ各分科ニ共通科目ヲ配当シテ之ガ緩和ヲ計レリ。

と述べられている。前述した昭和二年十月の温交会における高田総長の演説の一節に、「早稲田大学は専門的智識と教養的能力とを併せ有つて身を立て国家に尽し、而して世界を愛し、而して有趣味であり上品である人間〔高田は教旨にいう「模範国民」をこのような人と考えていた〕を造らねばならぬ」と考え、そのためには現在の学制は不十分であるから改革せねばならないが、「それが一日も早ければ結局早稲田大学の勝利となり、日本の教育の短所を補ふ有意義の結果をもたらすと思ふが……改革をやるとやらざるとは諸君御自身又教授会の選択に任せるより外に仕方がないのでありませうが篤と御勘考だけは是非願いたいと思ふ」(『早稲田学報』第三九四号 一三頁)とあり、商学部の改正の眼目が専門教育の充実にあった点は、高田の趣旨と必ずしも一致しないには違いないが、それがこの演説と全く無関係だったとは言い得ないのである。

 他方、昭和五年の法学部の改正は相当大規模であった。この改革については、昭和五年三月発行の『早稲田学報』(第四二一号)に寄せられた法学部長寺尾元彦の「法学部の学制改革に就て」に、その趣旨、経緯、内容等が詳しく述べられている。すなわち、先ず「法学は社会科学の一種として他の学問と非常に密接な交渉を有つものである。真に能く法律を理解し運用せんとすれば経済及社会の諸学問、延いて哲学の造詣を必要とする」とする基本的認識に立ってみると、近時「法律を学ぶ者が法文の研究のみに満足せず、法律と最交渉深き経済、政治、社会に関する諸学科の原理原則を会得せんと欲するのは実に内的欲求に基く」ものであり、「最近改正せられた高等試験令の如きも……此の時勢の要求に刺激せられて生じたものである。」しかも「法学部を卒業レて後、純粋の法律家として身を立てることが最順当であり、有利であり、望ましいことには相違」なく、「近年学園より高等試験に合格する人の数は年々増加して」いるが、他面「広く法学部在学生諸君を観察すると法律的素養を有しながら、各自の性質、才能、嗜好、一身の都合、家庭の事情等に因り、純法律家として立たず他の職業に従事する人も亦相当の数に上ることを看取する」ので、「法学部としては是等の人々の為めにも忠実親切に考慮する必要に迫られて居た」上に、「我が学園には斯の如き法律を基本として幾分他の基礎学、補助学を加味した学科が未だ存在しなかつたことは学園としても是非補完せらるべき欠陥であり、而して之れは法学部の担当すべき責務であることを痛感」していたことが、改革を企図した趣旨であった(三頁)と述べられている。

 この寺尾の趣旨説明の中にある高等試験令の改正というのは、昭和四年三月二十八日に公布された「高等試験令」(勅令第十五号)の全文改正を指しており、法科万能主義の打破による人材擢用を主たる目的とし、また試験委員に官吏以外民間人(私立大学の教授等)の任命ができるようにするなどの諸点を改めたものである。法科万能主義に対する批判から行われた高等試験令の改正は、昭和二年四月組閣の田中義一内閣が当初より重要政策として掲げ、改正に反対する枢密院と長年月に亘る紆余曲折を経て互譲妥協の結果成立したと言われているが、さしもの枢密院が結局これを認めざるを得なかったのは、時勢の変移に伴う世論の動向を無視できなかったためであろう。従って我が法学部における学制改革の直接の一因としては、改正された高等試験令に相応することを挙げられようが、同時にそれは昭和初年における時流の動きに応ずるものでもあったと考えられる。

 改革は、大正十四年以来、寺尾法学部長が中村宗雄教務主任とともに各大学の規則書、学科配当等の資料を蒐集し準備した上で、昭和三年から寺尾、中村、大浜信泉の三教授が起草委員となり原案を作成し、法学部学制改革委員会で審議の上作成した成案を法学部教授会に諮り、三年十二月開催の教授会で可決されたのであった。新しい学制の内容は、「従来殆んど法律一点張ともいふべき科目編成であつたのを稍門戸を拡めて新に科目を追加し、類別を設けたのである。新に追加せられた科目は政治学原理・貨幣銀行論・社会学・社会政策・商業経済・会計学・原価会計学・会計監査・商業簿記・銀行簿記・経済原書研究(英書)の十一科目である。是等を従来の約三十三科目と適宜配合して三類に分ち、之を類別選択制度とし、尚ほ個別選択科目を之に配したのである。類別選択と名づけたのは所定の数科目を一組として選択せしめ、各自が随意に其の中の或る科目を抜き差しすることを許さないものをいふ。個別選択と名づけたのは二学年三学年を通じて二科目以上を各自が随意に撰び得るものをいふ」(『早稲田学報』第四二一号 四―五頁)と説明されている。寺尾学部長により、要は「三年三類三段の六字に尽きて居る」(同誌 同号 六頁)(三学年の間、第一類(法律)、第二類(行政)、第三類(経理)の何れか一を選んで学び、その内容科目が共通必修科目と類別選択科目と個別選択科目と三段に分けてある)と表現されたこの改革は、法学部の教育内容を拡大充実し、純法律家志望でない学生の教育に幅を持たせると同時に、法律の知識以外に広く経済学等の教養を持つ人士を望む社会の要請に応えるものであった。当時は不況の嵐が吹き荒れ、就職難が叫ばれていたのを考えてみると、法学部卒業生の就職難緩和も視野に入れた改革であったと言えよう。

第二十二表 卒業に必要な必修・選択科目数増減表(学部)(大正11―昭和5年度)

 商学部と法学部以外にも、この頃学制の一部手直しを行った学部があり、いずれも総長の意向を受けて行われたものと思われる。その結果については、大正十一年、昭和五年、同七年の科目数を比較した後掲(七三四―七三五頁)の第二十四表「卒業に必要な科目数新旧対照表」に示すに止め、一部を除き詳述しないが、昭和初頭には各学部を通じ、第二十二表に見られるように、概ね科目数が増加している。これは学問の進歩に伴い、専門分化が進んだ結果に即応したからであったろう。

 学部以外では、昭和五年における高等師範部の改革が注目される。その趣旨は、同五年一月二十五日付で文部大臣に提出された「認可申請」に付せられた理由書に、「高等師範部ニ於テハ学生ヲシテ其ノ主要科目ノ攻究ニ力ヲ集注シ而シテ自習自学ノ習慣ヲ一層鞏固ナラシメンガ為ニ主要科目以外ノ学科目ニ改廃ヲ行ヒ本科第一、第二学年ニ選択必修科目ヲ設ケ、各学年ニ亘リ授業時数ヲ減シ以テ学生負担ノ軽減ヲ図レリ」と述べられている。自学自習と、選択科目の新設と、授業時数の減少を三本柱とするこの改革が、総長の意向に副ったものであったのは言うまでもない。

 このように、各学部等で工夫を凝らし、学制の改善を行ったが、高田総長ら学苑の幹部は、なお徹底した改革を全学的に行う決意を固め、創立五十周年に当る昭和七年実施を目途に計画を立てた。それは、昭和四年十一月十一日、大隈小講堂に高等師範部学生全員を集めて行った高田総長の訓示「高等師範部の使命」に、「早稲田大学自身も徒に教旨を掲げて居るのみでは所謂羊頭を掲げて狗肉を売ると云ふ事になるのであるから、五十年の祝典を挙げる当時迄には相当教育上の改革を行つて、愈々益々此教旨を徹底せしめたい、斯う思つて居ります」(『早稲田学園』昭和五年二〇三頁)とあったのや、その第一着手として、同じ頃第一・第二両高等学院の教頭岡村千曳と定金右源二が学制改革調査のために一ヵ年間の予定で欧米に派遣されたのに示されている。

 岡村、定金両教頭は、翌五年末に帰国し、総長に諸外国の学制に関し詳細に報告した。両教頭の報告の内容は、後に両人が『早稲田学報』に寄せた欧米見聞記によりその一斑を窺うことができる。同誌昭和六年三月、四月発行の第四三三号、第四三四号に連載された定金右源二「欧州の教育暼見」には、英・仏・伊・独・露の各国教育について、

英の人格教育、仏の天才教育は概して旧型に属するけれども、各々捨て難い長所を持つて居り、殊に諸事外形よりも内容に留意し、当座に間に合ふ職業人よりも、永い将来に大成すべき真の人物の養成に着眼し、独特の理想と確乎たる方針に基き、急がず、騒がず、着々真摯な研究と不退転の努力とを続けてゐることは艶羨に価すると思ふのである。(第四三三号 六頁)

伊・独の教育は何れも、概して従来の中央集権的、階級的旧套を脱して、分権的、平等的、自由的、機会均等の制度に改められ、又能才や秀才の選養主義を適当に加味し、国民的乃至民族的の美点を長養しながら、一方教育の実際化、社会化を成るべく徹底的に行つてゐる処に特色がある。而して之を更に独断的、排他的、自己陶酔的、宣伝的な露西亜の教育と対比して頗る対照の妙味あるを発見する。 (第四三四号 八頁)

とあり、また昭和六年二月発行第四三二号に載せられた岡村千曳「アメリカ所感」には、アメリカでは教育は各州の自治に任せ、画一的ではないが、一応エレメンタリー・スクール六年、ジュニア・ハイスクール三年、シニア・ハイスクール三年、カレッジ四年という六・三・三・四制に変ってきていること、入学試験では、重要十七科目中より受験者に四科目を選択して受験させた結果や、一種のメンタル・テストの成績等が、中学校在学中の成績とともに銓衡の材料とされていること、各大学とも図書館、博物館、運動設備が整えられていることが指摘されている。

 このような報告を受けて、学制改革はいよいよ本格化した。先ず昭和五年末には職制が改められ、金子馬治田中穂積と並んで常務理事となり、岡村が教務幹事に就任したが、総長、常務理事、教務幹事等が、岡村・定金報告を参考資料として、鋭意学制改革に取り組んだ結果、翌年二月初めには、改革方針、調査順序につき成案を得、昭和六年二月十八日付岡村千曳宛高田早苗書簡(『早稲田大学史記要』第一〇巻 資料三六―三九頁)という形で示された。本書簡は、学制改革大体方針(案)と、学制改革調査順序と、追加事項の三部より成っているが、先ず、学制改革の大方針は教旨の徹底を計るにあることが示され、そのため(一)大学院の組織、研究方針、指導方法に工夫すべきこと、(二)自修を重んじ、授業時間を減少させること、(三)教養教育を重んじること、(四)一層実際的・応用的教育を施すべきこと、(五)大学部・専門部中の専門的科目を減少する一方、篤志者の大学院入学を奨励する方針を採るべきことが挙げられ、更に大学部・高等学院につき右の方針に副った詳細な改革案が次の如き総長案として示されている。

大学部

一 各大学部一年級に教養課目を増加する事。教養課目は史学、哲学、文学に重きを置く事。若し一年級のみに加ふること不可能ならば、二年級に渉るも差支無き事。

一 政経学部に歴史の外、文学的科目を教養科目として増加する事。法学部にも歴史的、文学的科目必要の事。文学部には史学以外、政治学的学科を教養課目として増加する事。

一 商学部の課目は余りに職業的分課に過ぎたりと思ふが故にこれを整理し、同時に商科的枝葉の学課目を減じ、歴史、政治学、哲学等の教養的学課目を増加する事。

一 文学部の学科が英仏独魯に分かるるは絶対的には不可ならざるも、大体に於て大学院的の事に属する様考へらる。就ては三学年位にて少々区別し、其先は大学院に譲る事(語学は一年位より少々学ばするも可なるべし。文学部教師養成に就ては大いに研究を要す)。

一 理工科に於ても出来得る限教養的学課目を加へたき事。

一 高等師範部の方針は先頃演説し、「早稲田学園」中に掲載しあり。同部に於ける師範教育は、一層特色あらしむると同時に時代順応を主眼として、大に改善を計る必要あるを思考ある事(其案は適当なる機会に提出すべし)。

一 専門部も固より教養課目を増加する必要あり(其案も追て提出すべし)。夜学専門学校、其他は其後の事としたき事。

一 学問の活用なる教旨を徹底せしむる為に、左の施設をなしたき事。

一 各学部に於ける特別講義の制度を拡大し、其学部関係の実際問題発生したる場合は時機を失はず其事に通暁したる人物を招聘し、一回乃至数回の講義を是非為さしむる事。

一 各学部に関係ある実際問題発生したる場合は、其問題に関係近き学科を受持つ所の教授、主任となり、必ず研究会を開き、其指導の下に学生をして討議研究せしむる事。

一 大学院を効果あらしめ、学問の独立なる教旨を徹底せしむる為には、結局、

教授待遇の改善

恩給制度の設置

必要なる事。

高等学院

一 高等学院の抱負、特色、使命は「早稲田学園」と称する小冊子中に余の管見を掲載しある事。

一 高等学院の主要課目と然らざるものとを内定し置く事。余の管見によれば、主要課目は英、数、史、漢文、国語及歴史等なるべき事(理科志望は尚ほ別に主要学科あるべし)。

一 主要課目には必ず主任教授を置き、主任教授には絶対他の学院其他の教授を兼ねしめざる事。主任教授の在任期限を定むべき事。主任教授、主催して受持会議を開くべき事。

一 一学院の教授は他学院の教授を兼ねざる方針を採るべき事(不得止ば漸次)。之を兼ねしむる場合は講師として兼ねしめ、主客の別を明にする事。大学教授で高等学院を教ゆる場合も同様なるべき事。各年に受持主任を設くる事。

一 高等学院卒業後大学にて修むべき学科の選択は二年級の末に於て為さしめ、その準備に必要なる学課は三年級に於て為さしめたき事。高等学院の区別は断然文理二科となすべき事(商科の如き特に文科と区別する必要なし)。

一 教科書(講義の方針も)は、旧を先にし新を後にすべき事(総長就任式演説参考、「早稲田学園」にあり)。外、国訳英書を成るべく採用せざる事。担任者は成るべく先輩をして下級を受持たせたき事。

一 英語英文は勿論、其他歴史、地理等に於ても、可成英文教科書を採用し、又講義は自由講義とし、全部に渉り講義を筆記せしめず要点のみを筆記せしめ、試験は其要点と教科書のみの責任を負はしめたき事。

一 各学科に渉り科語は英語は勿論、独逸語、仏蘭西語と雖も教へ置きたき事。日本科語は勿論の事。

一 教科書、殊に文科的教科書は、可成種類を尠くする事。然らざれば教養に資せざる事。

一 教授会、主任教授会、其他には院長、教頭、其他努めて出席されたき事。総長、理事、大学学部長、其他も場合により自由に出席する事。 (同誌 同巻 資料三七―三八頁)

 因に、高田は大正十三年に両高等学院生を集めて長時間に亘り、その創設の由来、特色、生徒の心掛くべき点等について訓示したが、のちこれが「高等学院と高等学院生」という標題で、『早稲田学園』(大正十四年)に掲載された。第一条にいうところはこれを指していると思われるが、その中で、学院の特色は「自修自敬」であり、また、

其学ぶことが大学に行く手段などと云ふ低い考へで学ばないで、其学ぶ所のものから直接に知識を得、直接に修養を得、直接に又趣味を養ふと云ふことになるといふ、此広いゆるやかな考へで何時迄も子供たることを忘れずに、成る可く子供気分を保存して勉強して行かれたならば我高等学院は蓋し全国にある他の高等学校を遙に凌駕して其教育の効果が光明を放つに至るであらう。 (同書 五一―五二頁)

と述べている。

 次に学制改革調査順序としては、学制改革実施に至る手続と、草案作成の方法について次のように記されている。

学制改革調査順序

一 当局者(総長、常務理事)に於て先づ学制改革の大体方針を立案し、理事会の賛同を求め、然る上に学部長、附属学校長会を開き、右大体方針を評議決定し、大学部、高等学院、高等師範部、専門部の教授全部を召集し、総長より改革の必要と其大体方針を説明し、各学部其他に於て教授会より各別に数名の委員を挙げしめ(委員中に学部長、教務主任を加ふ)、各別に調査会を開き、巨細に渉りて審議し、其学部又は附属学校の新学制を作成せしめ、更に教授会の議を経て其結果を各部長、附属学校長より総長に報告し、総長は理事会を開いて之を審議し、必要の場合には修正を行ひ、最後に維持員会を開いて其決議を求め、之を実施す。

一 当局者立案の準備として、金子常務理事主宰の下に別紙総長案(他に案あらば併せて参考とすべし)を参考とし、岡村、定金二氏を委員として当局者の立案すべき大体方針案の下案を作らしむる事。

(『早稲田大学史記要』第一〇巻 資料三八―三九頁)

 追加事項は十項より成るが、(一)学課は必修、選択両制度混用のこと、(二)試験制度改善のこと、(三)学院、大学部に社会科学の一科を置くこと、(四)趣味の涵養を計るために施設をなし、学生に活動を促すこと、(五)調査は昭和六年中に終り、八年四月より行われ易きことを漸次実行すること(改革の発表は五十周年祝典のとき行う)、(六)理事会では一、二ヵ月間に方針を定め、教授全部にこれを示して改革の空気を作りたいことなどの他に、次のような重要な意見を掲げている。

一 学制改革は大体に於て現在政府の定めたる学制の範囲内に於て為す可き事。

一 右の範囲内に於ては可成独自的工夫を為し、帝大、其他の模倣を為さざる事。

一 文部省の関係なぞ一々顧慮すること無く、立案の後同省と折衝し、意見の貫徹を計るべき事。

(同誌 同巻 資料三九頁)

 昭和六年六月、田中穂積が新総長として登場したが、その翌年一月に入ると学部、専門部、高等師範部、学院で一斉に学制改革を取り上げて教授会、教授講師会の重要議題としたことが『早稲田学報』第四四四号(昭和七年二月発行)に記載されている。以下各個所の学制改革に対する取組み方を検討しよう。

 法学部と専門部法律科の学制改革については、『早稲田大学法学会誌』第一号(昭和八年二月発行)によると、昭和六年十二月二十四日に開かれた学部長・科長・教務主任会議において本部から「学制改革綱要」が提示され、本格的な準備作業が開始された。このとき提示された本部案は、(一)「早稲田大学の学制改革」と(二)「学制改革綱要」の二部から成っていた。前文に当る(一)の方には、

この大改革は従来我邦の高等教育界において徒らに多数の学科目を配列し専ら学生の記憶力に訴ふる注入主義の弊風を根本的に一掃し学生の自発的研究を誘導し其個性を発展せしめ教育の真目的を達成するにあつて改革の要旨を指摘すれば、……

(四〇九―四一〇頁)

とあって、大要次の如く述べている。

(一) 注入主義を避けるため少数の基本学科目に限り精確に徹底的に学習せしむること。

(二) 学部、専門部共に多数の選択科目を置くこと。

(三) 適当の教科書および参考書を指定し学生に予習せしめ講義は要領を尽すだけにすること。

(四) 予習、討議、演習に重きを置き教授と学生との接触を密にすること。

(五) 学外より専門家または実際家を招聘し、短期講義を頻繁に行うこと。

(六) 記憶力にのみ訴うる試験制度の弊を矯め其実力を発揮せしむること。

 ここに示された改革の要点は、前述した高田総長の岡村宛書簡の趣旨と一致し、またこの年四月三日に開かれた春季校友大会での田中穂積会長代理(高田会長病気欠席)の挨拶に、

日本では官私大学を問はず何れの学校に於ても……学問は記憶にばかり訴へて消化をしない、詰込主義の教育が行はれると云ふことは必然の勢でありまして、何時迄も斯う云ふ他国に例のない不完全なる教育をやつて居るべきものではない。……此教育の根本的改革を断行するのでなければ時代の要求に応ずることは出来ないと深く信ずるのでありまして是れから着々其方向に向ひ、根本的の改革を致して見たいのであります。 (『早稲田学報』第四三四号 四一頁)

とあるのにも一致しているから、田中新総長により提示された改革の大方針は、高田前総長の意向に副って作成されたものであったのが分る。後に高田が『早稲田学報』に乞われて述べた所感の中で、「総長、理事及教授諸君が『自修』の二字を根本義として、学制改革の実現に向つて奮闘してをらるるのを見ると、私は実に限りなき満足を感ずるのである」(同誌昭和八年四月発行 第四五八号 五頁)と言っているのも、それを証していると言えよう。

 次に、学苑当局が示した「学制改革綱要」は左の如きものであった。

一、学制改革の大方針は特に時代に順応して解釈せられたる本大学教旨の実現を期するにあること。

二、「学問の独立」の教旨に依り特に学生の自修的研究(自由研究包含)を眼目とし詰込主義を断乎排除すること。

三、「学問の活用」及「模範国民の造就」の教旨により学生の個性に応じて実力ある有為の人物養成を眼目とすること。

四、第二項及第三項の趣旨に基づき大学各部に於ては従来の学年制を改めて学科目制とし、一部分の必修科目と定めたるもの以外は学生をして自由に学科を選択せしむること。

学生の個性を発揮せしむるための新工夫を各学部に於て案出すること

学生の学科目選択に関しては適当なる指導法を案出すること

各学部各科は最少数の必修科目を定め置くこと

学生は所属各科の必修及選択科目の外他学部又は他科の学科をも選択するを得ること

五、学生の自修的研究を実行せしむるため講義時間を減少し成るべく教科書参考書を用ひて研究討論を行はしむること。

学生をして自習準備に力めしむる工夫を講ずること

講義は成るべく簡単にし其の内容をセミナリー式に討論研究せしむる工夫を講ずること

六、自習的研究の趣旨を実現するため学生各自の必修及選択学科目数を減少すること。

三ケ年以上の間に於て必修及選択学科を合せ二十科目の試験に及第したる者を卒業とすること。

七、実力ある有為の人物養成を目的とするため各学部に於て短期間の特別講義を行ふ外、特に各種の実習見学を行はしむること。

八、試験の方法に根本的改善を施す工夫を講ずること。

九、学科目及授業時間の増減は現在の経費内に於て之を実行すること。

 この「綱要」中に「従来の学年制を改めて学科目制と」するとあるのは、重要な改革方針なので一言触れておく。東京帝国大学法科大学や同文科大学のように明治二十年代ないし三十年代から、学科目本位制或いは単位制を採るところもあったが、大正初期までは学年本位制を布く官立大学が多かった(国立教育研究所編『日本近代教育百年史』第四巻一三一〇頁)。しかるに大正七年六月二十二日に臨時教育会議の答申が出され、「受動的学習ノ風ヲ改新シ学生ヲシテ教授指導ノ下ニ自ラ学術ヲ研究セシメルノ方針ヲ取リ大学ノ学風ヲ一新セムコト」が期待された結果、教育課程の柔軟化が促進されることとなり、学生各自の能力・興味に応ずる学科目本位制も多くの大学で採用された。しかし学力よりも卒業証書を第一に考える学生の好ましくない傾向により、多くの弊害を生むことを恐れたより多くの大学では、学年本位制と学科目本位制を折衷した方式が採られていたのである(同書 第五巻 四七四頁)。我が学苑が大学令による大学に昇格したのは、ちょうどその時期に当っていたが、学苑でも、「今日直ちに我が学園に於て純然たる学科本位制度を採用することは早計に失する嫌」いがある(田中穂積「新大学の開始」『早稲田学報』大正九年二月発行 第三〇〇号三頁)との判断から、他の多くの大学と同様、学年本位制と学科目本位制を折衷した形を採った。しかし右の田中の意見にも窺えるように、いずれは学科目本位制に切り換えることを考えていたのであり、右の「綱要」は、この時漸くその期に至ったとの田中総長以下の判断を示したものと理解されるのである。

 法学部ではこのような「綱要」の提示に対し、「法学部学制改革要旨」を作成して応えているが、この「要旨」ができるまでの経緯は公表されていない。その点第二高等学院の場合は珍しく当時の記録が残っているので、各個所の対応の一例として、その動きを示しておくことにする。

 第二高等学院では、昭和六年末に提示された本部案が、所属教員に郵送されており、同七年一月十一日に開かれた教授講師会では「大体論ハ尽キタルモノトシ」て、「実行方法ヲ如何ニスルヤノ点ニ眼目ヲ置キ審議」することが院長宇都宮鼎から提案され、更に綱要の第三、四、五および第九項に重点を置いて審議したい旨の希望が述べられた。次いで教頭定金右源二から改革案につき詳細に説明があった。これに対し教授繁野政瑠より各学科を主とし、且つまた全体の研究のため、科目主任を委員として審議すべきであるとの提案があり、これを承けて学制改革委員会を設置し、委員は院長指名とすることを決定した。この結果、岩本堅一、竹野長次、近藤潤治郎、矢口達、中村仲、河面仙四郎、神部孝、稲毛金七、赤松保羅、川辺喜三郎の十名と、院長、教頭、学生係主任杉山謙治、主事南晴耕を以て同委員会を構成することになった。次いで一月十五日委員会を開き、大体の方針を決し、なお各学科別講師会を催すこととなり、十六日国語会、十八日漢文会、十九日英語、歴史会、二十一日修身、心理、論理、哲学会を順次開いて、意見を出しあった。かくて二十二日には再び学制改革委員会を開き、それらの意見の取捨按配を行って、大略の成案を得ることができた。また、自然科学の会は遅れて二十六日に開かれた。そこで二月二日に教授講師会を開き、教頭より経過と変更の要点が説明され、必修の講義と演習のほかに選択科目を加えて、

一年講義一八時間 演習一二―一四時間

二年講義一八時間 演習一一―一四時間

選択科目共一年合計最少三〇時間最多三九時間

二年合計最少二九時間最多三八時間

という骨組からなる草案を承認した。この間自然科学系の教員から数学を新設すべきではないかとの意見も出されたが、総授業時数が多いため実現不可能であるとして斥けられている。なお学制改革委員会委員は実施方法の研究等のため引続きその労に当ることになった。

 以上が第二高等学院における学制改革審議の経過であるが、重要な問題にも拘らず、短時日に意見が纏っているのが一見奇異の感を与える。しかし、改革の根本方針は既定のものとして論議を省略したこと、主として講義方法(教授法)と学科編成の改善が議題となったこと、理想的な改革は費用の点で実現不可能として問題にならなかったこと、教頭の定金が前述のように早くから学制改革に取り組み、総長等本部の意向を最も良く知り得る立場にあり、従って恐らく教頭が中心になり作成したと思われる第二高等学院学制改革案は妥当性に富むと見られたであろうことなどを考えてみると、その辺の事情が納得できるようである。なおその陰で、一月八日に両学院の首脳(第一高等学院側からは野々村院長ほか佐久間原、氏家謙曹、吉川秀雄、中谷博、本間誠、小沢恒一、第二高等学院側からは定金右源二、杉山謙治、南晴耕)が「両学院学制改革打合会」を開き、円滑に事が運ぶよう努力したことも見逃せない。

 他の学部、専門部、学校等に関してはこれほど詳細な記録が残ってないので、審議の経過は詳らかでないが、商学部の場合は、三月三日の教授会で「学制改革ニ関スル件」が決定したとあり(『早稲田学報』昭和七年四月発行第四四六号 一五頁)、恐らく他の学部等も三月の教授会で決定したのであろうから、第二高等学院ほど速成ではないにしろ、約三ヵ月の間に審議を終了したと見られる。尤もあまり短時日で仕上げたため、商学部の如く、四月の教授会で「学制改革案修正の件」が議せられ(同誌昭和七年五月発行 第四四七号 一二頁)、更に七月の教授会で「新学制学科配当追加並修正ノ件」が議せられている(同誌昭和七年八月発行 第四五〇号 二〇頁)例や、第一・第二両学院の幹部が十二月の打合せ会で「学制改革ニ伴フ学科演習ニ関スル件」を取り上げている例の如く(同誌昭和七年十二月発行第四五四号七〇頁)、早速手直しが必要になった場合もあるが、ともかく本部作成の綱要には反対もなく、綱要に副った形で、スムーズに各個所で改革方針が決められたのであった。

 さて法学部の場合も、「綱要」に副って「法学部学制改革要旨」が作成されているが、その内容は第一に一般事項、第二に講義方法の刷新、第三に特殊研究の三点から成り、学科配当表を付している。一般事項としては十二項目を挙げているが、その大要は次のとおりであった。

(一) 学年制を廃し、学科目制とする。

(二) 法学部では学科の性質上自由選択の範囲は狭いが、十七科目あった共通必修科目中、国際公法、行政法、経済学は類別選択科目に編入する。

(三) 類別選択制は従来通りとするが、個別選択科目は類別選択科目中に編入し、一部は他の類から選択できるようにする。

(四) 第一学年の学科目を減少する。

(五) 第三学年では外国語一科目を特殊研究科目とする。

(六) 講義時間の減少は困難で、商法、民事訴訟法各一時間を減ずるに止める。

(七) 講義以外に特殊研究科目をおきセミナリーに代える。民事法、刑事法の各実習は特殊研究科目に編入する。

(八) 特別講義、実習、見学は随時行う。

(九) 試験方法改善については検討中であるが、未了試験は廃止する。

第二の講義方法の刷新については、

(一) 自習の成果が挙がるよう一層努力する。

(二) 講義は当該年度内に完結する。

(三) 講義は他の講義殊に当該特殊研究科目との連絡を図る。

(四) 外国法の講義、試験に付いては時々担任教員の打合せ会を開き協議すること。此協議には必要ある場合には学院における外国法担任教員をも加えること。

としている。第三の特殊研究は、今回の改正に当って、法学部が最も力を入れたと見られるもので、これに関する要綱が細かく決められている。左にその全文を掲げておく。

学制改革の一端として各学年に「特殊研究」科を新設し、学生をして毎学年其の孰れかを選択せしめ、約五十名を一組とし正規の講義と関聯して学生の自修的研究を促すこととなれり。指導に関する詳細は今後実施の結果に徴し時々指導教員の打合会を開き協議決定すべきものなるも予め其の大綱を次の如く定めんとす。

甲 指導方針

一 重要事項に付き講義の及ばざる所を補充敷衍すること。

二 主要なる題目を捉へて徹底的研究を為さしむること。

三 特殊研究と講義との聯絡に留意し、又学科相互の関聯統一に力むること。

四 特殊研究は成るべく具体的事実に即して法規の運用並に法理の闡明に力むること。

五 特殊研究に於ては学生の学力並に才能に適応する指導を為すことに力むべく従つて第一学年に於けると第二、第三学年に於けると指導の方法自ら異なるべきこと。

乙 指導方法

一 判例其の他に現れたる時事法律問題を教材とすること。

二 特定題目を中心とする質疑応答。

三 宿題を与へ学生をして其の研究を発表せしめ又之に対する質問若くは批評を為さしむること。

四 答案練習並に之に対する批評。

五 学生の論文若くは特殊研究の発表。

六 名著研究。

七 見学。

八 法律実務演習。

其の他。

特殊研究要目は予め学生に示して予習の機会を与へ、毎回出欠を点呼し、尚ほ研究室の整理と担任教員との連絡を図らしむる為め各組に組委員三名を設くること。

丙 成績考査方法

一 特殊研究には学年試験を行はず、次の諸点を斟酌して成績概評を附するものとす(甲、乙、を合格とし、丙を不合格とす)。

1. 出席状況

2. 研究の進度並に状況(質問応答、研究発表の結果等)

3. 答案練習の成績

4. 臨時筆記若くは口述試験

其の他。

二 卒業口述試験科目は一科目とし、三学年間に於て特殊研究の成績概評不合格二科目に及ぶときは卒業口述試験一科目を増加し、三科目全部合格なるときは口述試験を免除す。 (『早稲田大学法学会誌』第一号 四一二―四一三頁)

 次に専門部法律科の場合についてみると、本部は専門部各科に対し、専門部学制改革要旨を提示しているが、その大部分は前掲学部の場合と同文である。ただ異るところもあるので、その部分だけ次に掲げる。

第四 専門部は大学各部に比し修業年限短きが故に今日の学年制を保存するも、第二項及第三項の趣旨に基き各学年所定の必修科目数を定むると同時に学生の個性を発揮せしむる為め若干の選択科目を置き、学生をして任意にこれを選択せしむること。

第五 学生の自修的研究を実行せしむる為め教科書又は注釈書によりて自修せしむる工夫を講ずること。

第六 自修的研究の趣旨を実現する為め学生各自の必修及選択科目数を減少すること。

専門部三学年間の必修及選択科目を合せ大体二十五科目とすること。

第十 教科書及参考書の撰定は学制改革の達成に重大なる関係があるが故に特に適切なる考慮を要すること。

(同誌 同号 四一六頁)

これに対して作成された「専門部法律科学制改革要綱」は、第一に学科編成表、第二に授業方法、第三に教室、第四に聴講制度、第五に研究科の五点より成っている。授業方法については次の七点の改善を考えている。

(一) 一般の学科においても学生に質問或いは意見を述べる機会を与える。

(二) なるべく教科書を定め、予習、復習の資料とさせる。

(三) 実習の学科では、口答試問、質問討議、意見の発表、答案論文の練習および講評を試み、学理の咀嚼応用、法規の理解運用を向上させる。

(四) 実習等の学科では平常点、出席点により成績を出す。

(五) 英作文文法のクラスは数組に分ける。

(六) 一年の法学実習は五十人を定員とする。

(七) 英語の学科では専門書をテキストとする場合も語学本位とする。

次に教室については、清潔にすることと、実習に新館専門部研究室を充てることを定めている。第四の聴講制度については、「綜合大学の特色を発揮する為め各学生に其所属外の学部又は科の学科目を選択聴講し得るの便宜を開くこと」(同誌 同号 四一九頁)を定め、試験を受けることができること、合格者は証明書の下付を求めることができること、特別の場合を除き聴講料を徴収しないこと等の細則を設けている。第五の研究科については、研究科規則を掲げるに止まっているが、その規則には、研究科は専門部、高等師範部と、専門学校(この改正時に新設)に置き、それぞれの卒業生(または本大学以外の卒業生でそれぞれの個所の入学試験に合格した者)の希望により銓衡の上入学を許可すること、研究期間は一年間で、当該部・科教授会の議を経て選定された一名ないし数名の教員(専門学校の場合は校長の選定した教員)が研究指導に当ること、研究科学生は時々研究状況を報告すべきこと、また許可なく他の業務に従事することを禁ずることなどが定められている。

 他方、第一高等学院が作成した昭和七年二月付の「学制改革答申案綴」により、同学院の学制改革を見ると、先ず本部から学院に対し、学制改革綱要と高等学院学制改革要旨が示された。前者は学部と共通であるが、後者は左の十一項からなっていた。

第一、高等学院学制改革は早稲田大学々制改革の大方針に則る。但し教旨実現の為め別に学院程度の学生に適切なる細則を定むること。

第二、大学々制改革綱要第二、第三及第五項の趣旨に基き講義時間を減じ(凡そ毎週十八時間以内)、自習時間(凡そ毎週十二時間以上)を設けて教師指導の下に自学自習せしむること。

自習は教科書又は参考書を用ひ(多少設備ある)校内自習室に於て為すを原則とするも、特に指導教師の許可を得て図書館又は自宅に於て之を為すことを得しむ。

第三、学科目制を加味して或科目成績不良なるときは当該科目のみ一学期又は一学年間再修せしむ。

之により従来の如く成績不良のもの数科目ある為に一学年間全科目を反覆(元級)せしむるの弊を除く。

第四、選択科目を設け必修科目を修得して余力あるものは之を兼修し得るのみならず、下級に在る者も時間の許す限り上級の科目を兼修することを得せしめ以て個性発揮の余地あらしめること。

第五、大学々制改革綱要第三項及第七項の趣旨に基き科外講義に出席せしめ、又実習見学を励行すること。

第六、成績考査は平常点に重きを置き適宜新試験法を採用すること。

第七、学科単位を定めこれを標準として修了(又は進級)を決定すること。

第八、奨学制度を設けて学業勤勉、品行方正なるものに特典を附与すること。

第九、級制、級主任、級委員は従来の儘とするも、級主任は学生係と協力して一層学生々活に緊切なる配慮をなすこと。

第十、教科書及参考書の選定は学制改革の達成に重大なる関係あるが故に、特に適切なる考慮を要すること。

第十一、学制改革は大体現在の経費内に於て之を実行すること。

これに対し学院長野々村戒三は二月四日付で、「学制改革実施案」を総長に答申したが、その前文には、二十名の学制調査委員と学院当局者が約二週間の間に十回の会合を開いて慎重に討議して原案を作成し、一月三十日の教授講師会で満場一致決定したこと、本答申案は高等学校令に準拠するとともに経費・諸設備につき本学苑の現状に照らし実行可能の範囲で作成したため、理想案ではないこと、改革は一部分の改正に止まったこと、改革の眼目である自学自修は画一的に実施できないので、各科でそれぞれ適宜の方法を講じ、設備の完成と相俟って実効を挙げることを考えていること、演習実施に要する教室の設備、図書購入費等に相当の経費増額を必要とすることが記されている。次に本文を見ると、前掲の高等学院学制改革要旨の各項に副って実施大綱を次のように述べている。

一、第一項について、細則は必要と認めるが、追て決定する。

二、第二項について、講義時間、演習時間の配当を定める。学科課程にも多少の変更を加えた。

三、第三項について、不合格者に対しては再試験または追試験を課し、元級学生でも特定の学科に甲(八十点以上)を取っている者にはその学科については聴講、試験を免除することができることにした。

四、第四項について、選択科目を置く余地はない。

五、第五項について、従来から学友会学芸部を通じ科外講義、実習見学を実行している。大学の催す科外講義は努めて聴講するよう奨励する。

六、第六項について、平常点による採点の徹底を図る。試験方法の改正は追て審議する。

七、第七項について、学科単位制は採らない。

八、第八項について、趣旨は賛成だが実施には考慮の余地がある。

九、第九項について、趣旨の励行に努める。ただし教員の専属制度の確立に多少困難な事情があるので、漸次実現を期する。

十、第十項について、演習時間の実施に伴い、特に適切な考慮を払う。

十一、第十一項について、十分に考慮して本案を作成したが、授業時数の増加、設備の改善等に若干の経費増額を必要とする。

これを見ると、第一高等学院の場合全体を通じて大きな変化はなく、学科編成等に多少の改善が試みられた他は、本部から示された「要旨」を努力目標とすることにしたに過ぎないように思われる。二月十四日付で野々村院長が学制改革私案を総長に提出していることからも明らかなように、それは学院自体納得できるような内容を持った「改革実施案」ではなかったのである。

 以上に摘記した以外の学部や学校については、資料が残されていないので学制改革の実状を詳述できない。ただ学部について改革の結果を第二十四表「卒業に必要な科目数新旧対照表」(七三四―七三五頁)に記すに止めるが、高等師範部はこのとき修業年限を改めていることが注目される。『早稲田学報』によると、高等師範部教授会で学制改革を取り上げて協議したのは昭和七年一月二十一日(第四四四号 九頁)と同年二月十二日(第四四五号 一一頁)のことであった。その結果、修業年限を従来の本科三年・予科一年制から、予科を廃止して本科のみの四年制に改めたのである。その理由が「自学自習」を目標とするものであったことは、左の文部省への報告により明らかである。

高等師範部修業年限本科三年予科一年ヲ本科四年ニ改メタルハ、中等教育完了ノ誇ヲ善導シテ研学ノ理想ニ直進セシメ、且学習時間ノ余裕ヲ作リ、上学年ニ於テ自学自修実習見学等ノ機会ヲ与ヘントス〔ルニアリ〕。

 さて以上述べたように、学部以下各機関の協力により学制改革は円滑に進行し、本部の予定よりも一年早く昭和七年四月から新学制を実施できることになった。この新学制は戦前を通じて学苑教育の根幹となったものであるから、次に新制度第一年度における学科配当表を掲げておく。

第二十三表 昭和七年度学科配当表

政治経済学部政治学科(選択科目数ハ第一学年ハ二科目第二、三学年ハ各三科目トシ演習ハ各学年各一科目ヲ選択セシム)

政治経済学部経済学科(選択科目数ハ各学年三科目トス)

法学部(第一学年ハ新制、第二、三学年ハ旧制トス、選択科目ハ第二、三学年ニ於テハ一類ヲ選択必修セシメ新制ニ於テハ三学年ヲ通ジ八科目以上トス、外国法ハ独法、英法及仏法中其一ヲ選択セシム)

個別選択科目(第二、三学年ヲ通ジ二科目以上ヲ選択セシム、但シ類別選択科目中法律実習、民事訴訟法、外国法及経済書研究ヲ除キ他類ニ属スル選択科目ヲ選択スルヲ妨ゲズ)

特殊研究(特殊研究ハ第一学年ハ必ズ一科目ヲ選択セシメ第二、三学年ハ随意トス)

文学部哲学科

〈各専攻共通〉

〈支那哲学専攻〉(*印ノ科目ハ二科目ヲ選修セシム)

〈印度哲学専攻〉

〈西洋哲学専攻〉

〈心理学専攻〉

〈倫理学専攻〉(*印ノ科目ハ一科目ヲ選修セシム)

〈社会学専攻〉

〈選択及随意科目〉

一、哲学科ニ於テハ各専攻ヲ通シ共通必修科目、専攻必修科目及選択科目ヲ合シテ二十二科目ヲ必修セシム、但シ教員志望者ニアラザルモノハ教育学及教授法ノ二科目ヲ必修セザルコトヲ得

一、専攻必修科目ハ之ヲ専攻セザルモノニアリテハ選択科目トス

一、各専攻共第一、二学年ニ於テハ各七科目以上ヲ必修セシム

文学部文学科

〈国文学専攻〉

〈英文学専攻〉

〈仏蘭西文学専攻〉

〈独逸文学専攻〉

〈露西亜文学専攻〉

〈外国文学各専攻共通選択科目〉(選択科目数ハ四科目トス)

〈教員資格希望者必修科目〉

一、文学科各専攻ニ於テ必修スベキ科目ハ二十一科目乃至二十八科目トス

一、第一学年及第二学年ニ於テ各専攻科目ノ三分ノ二以上ヲ必修セシム

文学部史学科

〈国史専攻〉

〈東洋史専攻〉

〈西洋史専攻〉

史学科三学年間ニ必修スベキ科目(○印ハ各学年、*印ハ第三学年ニ配当ス)

史学科随意科目

一、史学科各専攻ニ於テ必修スペキ科目ハ二十三科目乃至二十五科目トス

一、第一学年及第二学年ニ於テハ各専攻科目ノ三分ノ二以上ヲ必修セシム

一、専攻必修科目ハ之ヲ専攻セザルモノニアリテハ選択科目トス

商学部(第二、三学年ニ於ケル選択六分科ノ科目ハ「グループ・システム」トシテ一旦選択シタル所属分科ヲ中途変更スルヲ得ザルモノトス)

理工学部機械工学科(理工学部ニ於ケル第二外国語ハ独語トス)

理工学部電気工学科(⑴ハ第一分科、⑵ハ第二分科、⑶ハ第三分科)

理工学部採鉱冶金学科(採ハ採鉱専攻、冶ハ冶金専攻)

理工学部建築学科(第三学年ニ於テハ(甲)(乙)ノ中一ヲ選ビ、他ニ選択科目中三科目ヲ選択必修セシム)

理工学部応用化学科

専門部政治経済科(選択科目数ハ第一学年ハ三科目、第二学年ハ五科目、第三学年ハ七科目トス)

専門部法律科(選択科目数ハ第二、三学年ヲ通ジ二科目トス、但シ本学年度第三学年ニ限リ一科目トス)

専門部商科(選択科目数ハ第一学年二科目トス、*印ム第一都ニノミ課ス)

高等師範部国語漢文科(選択科目数ハ第二学年及第三学年○印、*印中各一科目特殊研究ハ各二科目トス)

高等師範部英語科(選択科目数ハ各学年一科目トス)

専門学校政治経済科(第一学年ニ於ル選択科目数ハ二科目トス)

専門学校法律科

専門学校商科(第一学年ニ於ル選択科目数ハ一科目トス)

第二外国語

〈仏語科〉

〈独語科〉

〈露語科〉

〈希臘語科〉(文学部ニ限り履修セシム)

〈拉典語科〉(文学部ニ限リ履修セシム)

〈梵語科〉(文学部ニ限リ履修セシム)

〈支那語科〉

第一高等学院文科

第一高等学院理科

第二高等学院

〈政治経済学部志望〉

〈法学部志望〉

〈文学部志望〉

〈商学部志望〉

〈第二外国語〉(各組共通)

 以上のような学制改革は、学則の変更として文部省に申請され、昭和七年四月九日付で認可された。この認可に当って、文部省は特に次のような通牒を付してきた。

昭和七年四月九日 文部省専門学術局長 赤間信義〓

早稲田大学総長 田中穂積殿

昭和七年二月二十九日申請学則変更ノ件ハ本日付認可相成リタル処付属高等学院学科課程中各学科ニアリテハ講義ト演習トハ密接ナル関係ヲ有スルヲ以テ其ノ取扱ニ関シテハ慎重ナル注意ヲ要スルコトト思料セラルルニ付特ニ御考慮相成度此段通牒ス

 こうしていよいよ昭和七年四月より新学制が発足するのであるが、田中総長は四月発行の『早稲田学報』(第四四六号)に一文を寄せ、その大綱について、「第一に授業時間数を減じて、学生が自主的に研究すべき時間の余裕を与へる、……第二に各部各科の学生が其専門に従て必修すべき学科目の数を減少し……根幹となるべき学科目を系統的に学修せしめ、徹底的に学問を体得玩味せしめんと企てた。第三は必修科目以外に選択科目を設け一定の制限の下に自由に学生の個性に従て選択履修せしむることとした。……第四に演習討論に重きを措き、……学生同志の間に自由討究の学風を助長し、反省、批判、推理の力を養成し、学問を咀

第二十四表 卒業に必要な科目数新旧対照表(学部)(大正11―昭和7年度)

嚼してこれを体得せしむることに力を致す。第五に試験勉強の弊を矯めて出来得るだけ平常の成績に依つて、学力の優劣を判断する。第六に講義の筆記に精力を渇尽する従来の弊を出来得るだけ除く為めに適当なる教科書を用ゆるか、然らざれば講義の梗概をプリントに付して代用する」(六頁)と説明し、「年来計画せる学制改革が慎重なる調査研究の結果漸く其成案を得て、愈愈此四月の新学期から各学部各付属学校に亘つて一斉に断行の機運を迎へ得たことは、私の衷心より欣快に堪へざる所であつて、学園の将来は此成案の着々実行せらるると共に必ず刮目して見るべきものがあることを確信する」(二頁)と述べた。ところで右の大綱中、四以下は教授法の改革であって、一概に成果を記すことはできないので省略し、一―三について見ると、新しい学科配当表に現れているとおり、この学制改革は政府の定めた学制(大学令、高等学校令、専門学校令)の枠を大きくはみ出ることができなかったこと、十分の施設を用意することができなかったこと、経費の点で制限があったこと等のため、不十分に終ったところもあり、特に高等学院の場合は前記のように文部省からの干渉もあって、院長自ら認めているように不本意な改革に終っている。

第二十五表 卒業に必要な必修

・選択科目数増減表(学部)(昭和5―7年度))

 しかし第二十四表「卒業に必要な科目数新旧対照表」に見る如く、学部に関しては、多数科目の廃止、新設、必修科目から選択科目への移行が行われた大改革であり、また昭和五年と同七年の学則を比較すると、第二十五表「卒業に必要な必修・選択科目数増減表」に明らかな如く、理工学部応用化学科を除けば、総長が示した「学制改革綱要」の第一ないし第三の改革の骨子は計画通り貫徹されたのである。しかも応用化学科はその広範な専門分野をカヴァーする必要があって科目編成が行われたと見られるから、これを例外とすれば、各学部を通じて学苑当局の方針にそのまま従ったものでなくとも、今回の大改革の趣旨には副ったものと言えよう。従って少くとも学部に関して言えば、この学制改革は相当徹底したものであり、大きな教育効果を期待し得るものであったと言えよう。更にこの改革が、大学令の改正というような他律的要因により行われたのでなく、教育内容の整備と充実とを目指す学苑の自発的な意図に基づくものであったのに大きな意義を見出すことができるし、また創立以来常に重視されてきた自学自習の学風の強化の工夫が盛り込まれている点でも、十分な意味を持っていたと評価できる。

第二十六表 卒業に必要な科目数新旧対照表(高等師範部)(昭和7―8年度)

 なお高等師範部と商学部は、この改革直後、新制度を再検討した結果、更に修正を加えていることを付記しておく。高等師範部の修正は昭和八年、各学年割当の必修科目数と選択科目数を第二十六表のように改めたものである。このときの改正理由は、文部省への説明によれば、この改正は昭和七年度における学制改革に則ったもので、自学自習を勧めるため授業時数を若干削減するとともに、自学自習的研究の方向を正常に導くための工夫をなし、選択科目と特殊研究を上級生に課し、個性に基づく特殊的研究を指導奨励するとともに、教師学生間の親密を深めることにあった。

 商学部でも昭和七年の改訂に不満な点があり、六八六頁に既述した如く早くも同年中に教授会で「学制改革案修正の件」が取り上げられたが、昭和十年に至り再度大改革が行われた。このとき商学部が文部省に提出した学則認可申請書(昭和十年二月五日付)は、「商学部ニ於テハ学生ノ自発的研究ノ誘導ト個性発揮的教育方針ニ拠リ分科制ヲ廃シ、類別選択科目並ニ個別選択科目ヲ改メテ単ニ選択科目トシ、第二学年及第三学年必修科目中ニ指導演習ヲ加へ学級ヲ細別シ指導教員数ヲ増加シ、学生ニ直接個人的誘掖ノ機会ヲ多カラシメ、以テ大学教育ヲ一層効果アラシメントス」と、その理由を説明している。改訂の目的は昭和七年に大学の掲げたものと変らないが、同年制定の学科課程を不満として再度改訂を施した結果、選択科目七分科制は廃止され、必修科目数は一年八、二年八、三年五、計二十一科目となり三科目増加し、選択科目は二、三年を通じて一部二部に分けられたそれぞれ十九、二十科目中より四科目と二科目計六科目を選択必修することになり一科目減少(全体として二科目増加)したのである。

 右のような昭和七年の学制大改革の成果が戦前における我が学苑の教育効果を高める上に大いに役立ったのであるが、その後教育方針の再検討の結果や時勢の推移に応じて、何回かの改訂が部分的に行われた。特に日中戦争が泥沼化し、英・米との衝突も避けられないような情勢が生れてくると、それらの状況を無視して学苑独自の方針を貫いていくのは困難となり、国策に協力するとの名目の下に、外部からの影響を強く受け、他律的な学科課程の改訂を繰り返した。そして昭和十八年に至り、在学年限および修業年限の臨時短縮の趣旨に副って、大学に留年学生を残さないために、遂に学科目本位制を廃し、学年制に切り換えざるを得ない状況に追い込まれた。昭和七年の学制改革により生れた新学制は、こうして消えていったのである。

二 海外派遣留学生

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 学苑で海外留学生の派遣が初めて試みられたのは明治三十三年であったが、東京専門学校時代に校友が、自費または他よりの奨学金により海外に渡航した例は、必ずしも稀有とは言えず、それらを含めて、初期の留学生の名簿は、本書第一巻九三〇―九三三頁に掲載され、更に早稲田大学と改称後、専門学校令下の大学時代の学苑派遣留学生に関しては、第二巻七〇八―七〇九頁に表示されてある。次表は、それに続き、大正九年四月より第二次世界大戦勃発に至るまでの時期に、学苑が海外に派遣した留学生の名簿である。

第二十七表 早稲田大学派遣留学生表(大正九年四月―昭和十四年十二月)

 右表に掲げられた九十五名につき、派遣当時ならびに帰国後の活動に基づき分類を試みれば、政治経済学部関係十一、法学部関係十二、文学部関係十五、商学部関係十五、理工学部関係二十六、高等学院関係四で、残る十二は本部その他の役職者が、大学行政に関する視察を主たる目的として派遣されている。なお、九十五名中三名は、この期間に再度海外に渡航しているのであり、文学部関係、理工学部関係、ならびに役職者がそれぞれ一名ずつ発見される。留学生が理工学部関係に多いことは、大正九年六月の維持員会において、「従来理工科ニハ留学生ヲ出スコト幾ンド之ナキニヨリ、自今一両年中ニ該科各科ヨリ一名ヅツ、即チ五名ヲ留学セシメ、一名ニ付金四千円(留学費ノ約半額)ヲ支給シ、其余ハ寄附ヲ受クルノ方法ニ依リテ之ヲ派遣セシムル事」と決議されているのにより明らかな如く、理工学部が設立後未だ日が浅く、その充実に当局が腐心していた実状を反映している。なお、右の四千円は翌七月五千円に、更に同年十二月八千円に増額されているが、翌十年七月の維持員会は、留学生すべてに対し、「留学費ハ従来二ケ年八千円ナリシモ爾今一ケ年八千円(内規)トスル事」と、経済状況の変動に対応する改定を決議している。また大正十五年六月の維持員会では、「校友板谷宮吉氏ヨリ本大学留学生派遣資金トシテ板谷宮吉奨学会ノ名称ノ下ニ五月十三日付ヲ以テ樺太銀行定期預金十万円証書ノ寄贈ヲ受ケタリ」と報告されているが、右資金は商学部先輩教授の短期留学費として使用するとの諒解が存在していたものの如く、北沢、小林行昌、伊地知、小林新、高杉、島田はこれにより派遣され、商学部関係留学生数の増大の結果を生んでいる。

 そもそも学苑の留学生には、留学費全額自己負担の者(第二十七表にあっては、浅見登郎、森口多里、松田治一郎、吉田忠輔、永雄節郎)を除き、全額学苑負担と一部学苑負担と二つの場合があったが、前者に関して大学より支出された金額は、箇々の場合につき若干の差が発見され、右の大正十年の維持員会決議は、融通性のある「内規」に過ぎなかったと思われる。しかし恐らく、大正末期から昭和初期にかけての全額学苑負担の留学生は、期間二年八千五百円が基準であったものの如く、それが一万円に増額された後、昭和八年二月二日の理事会において、「為替暴落ニ付、当分の間留学費ヲ左記ノ通改定シ、且派遣期間ヲ一ケ年半トス」として、全額支給を一万三千円、補助費支給を四千五百円(昭和十一年四月に六千五百円以内と改められる)と決定されたのであった。

 この間にあって、これまで慣習に従って海外に派遣されていた留学生について、左の如き「外国留学生ニ関スル規程」が昭和二年に制定された。

第一条 本大学ハ学術ノ研究ヲ為サシムル為メニ留学生ヲ外国ニ派遣ス。

第二条 外国留学生ハ大学之ヲ命ズ。

第三条 大学ハ外国留学生候補者ノ選定ニ付教授会ニ諮問ス。

第四条 外国留学生ノ研究事項、在留国、在留期間其他必要ナル事項ハ大学之ヲ決定ス。

第五条 外国留学生ニ対スル給費ニ就テハ維持員会ノ決議ヲ経テ之ヲ定ム。

第六条 外国留学生ニハ、其出発ノ翌月ヨリ帰朝ノ前月マデ俸給其他ノ支給ヲ停止ス。但シ其家族ニ対シテハ、本人ノ受ケタル年俸額ノ二分ノ一ヲ超エザル範囲ニ於テ手当ヲ支給スルコトヲ得。

第七条 外国留学生ヲ命ゼラレタル者ハ本規定ヲ遵奉スル旨ノ誓約書ヲ大学ニ提出スルコトヲ要ス。

第八条 外国留学生ハ帰朝後大学ノ命ズル職務ニ従事スル義務ヲ負フモノトス。

第九条 外国留学生ガ大学ノ命令ニ服セズ又ハ病気其他ノ事由ニ因リ大学ニ於テ不適任ト認メタルトキハ之ヲ免ズ。

第十条 外国留学生ガ第八条ノ義務ニ違背シタルトキ又ハ第九条に依リ外国留学生ヲ免ゼラレタルトキハ、留学中ノ給費額ヲ賠償セシムルコトアルベシ。

第十一条 外国留学生ハ其研究ニ関スル報告ヲ毎年一回以上大学ニ提出スルコトヲ要ス。

第十二条 外国留学生ハ其留学期間満了マデニ帰朝スベキモノトス。若シ病気其他已ムヲ得ザル事由ニ因リ留学期間満了マデニ帰朝シ難キトキハ、予メ事由ヲ具シテ大学ニ願出テ其許可ヲ受クルコトヲ要ス。

附則

本規定ハ昭和二年四月一日ヨリ施行ス。 (『早稲田学報』昭和二年四月発行 第三八六号 一七―一八頁)

更に、留学生選定に関して、前記昭和八年二月二日理事会は、「大学卒業後七、八年ヲ経過シ、相当ノ業績ヲ顕ハシタルモノノ中ヨリ選定スルコト」を「標準内規」として決定し、学苑の海外派遣留学生制度は整備されるに至ったが、数年後には日中戦争が勃発し、学苑では政府の方針に則り、ほぼ十年に亘り、中断を余儀なくされた。せっかく、留学費の少くとも一部の自己調達に苦慮せずとも、研究に専念さえすれば、近い将来の海外留学を期待できるようになったのも束の間、その希望を何年か先の不確定な時期まで断念せざるを得なくなった新進学徒の落胆がいかに大きかったかは、特に説明を必要としないであろう。学苑当局は、そうした鬱屈した空気を解消する一助にもと、例えば昭和十三年十二月―十四年一月には、「各部少壮教員をして親しく支那各地を視察」(同誌昭和十四年一月発行第五二七号一四頁)せしめるため、内田繁隆(政)、一又正雄(法)、出石誠彦(文)、上坂酉蔵(商)、藤井鹿三郎(理)、天川信雄(専政)、藤井新一(専法)、末高信(専商)、増田綱(高師)、野村猛(第一学院)、竹野長次(第二学院)、出井盛之(科外講演部)をそれぞれ四週間前後、大陸に派遣しているが、窮余の一策が果してどれだけ裏面に秘められた目的を達成したか、疑問と言うべきであろう。そして、次回よりは人選に際して、一層留学生候補教員に重点を置くよう配慮されたが、結局第二回(十四年夏季休暇)は、関係当局の意向を体して、実現を見なかった。

三 耐久校舎の建設

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 学苑は、昭和六年から敗戦までの十五年間に、建設と被災という二つの相反する大きな変貌に直面した。

 昭和六年六月、田中穂積が第四代総長に就任してから、主として本部キャンパスの明治期の木造校舎が次々と半永久的鉄筋校舎に建て替えられていった。その中心をなすものは、何といっても、既述の創立五十周年記念事業で、昭和七年から十三年までに、現在の本部キャンパスはその基本的構図ができ上がったのである。

 尤も、学苑キャンパスの変貌は、田中の総長就任以前に開始していた。すなわち、大正十一年三月の第二高等学院竣工に始まり、昭和六年五月の文学部校舎(現八号館)竣工に至る一連の鉄筋不燃建物の完成は、高田総長の下で常務理事として活躍していた田中が、関東大震災を経験した後、耐火耐震の建築に力を注いだ結果である。しかし、本部キャンパスの一部に手はつけられたとはいえ、その全面的改造までには至らず、田中の総長就任の頃の校舎の大半は、過去の老兵とも言える木造建築だったのである。

 大学心臓部の耐火耐震構造による全面的大改造は、総長田中の悲願であった。田中は総長として昭和八年三月を期して発足した創立五十周年記念事業の采配を自ら揮い、かねてからの念願の実現に全力を傾けた。その結果、昭和七年から十三年までの間に増改築を含めた九件の大建築が本部および周辺キャンパスに出現した。この間の至難な資金繰りを、絶妙な手腕と決断を以て乗り切った田中の財政的手腕の片鱗を窺うよすがとして、次の第二十八表「創立五十周年記念事業その他主要建造物一覧」には、維持員会記録から資金関係を抜き出して摘要欄に記しておいた。これによれば、十数万円から二十万円に近い借入金が逐年行われており、田中の驚異的な財政手腕が躍如としているのである。

第二十八表 創立五十周年記念事業その他主要建造物一覧

 昭和十七年時点の姿を第八図に示そう。ただし、各務幸一郎の篤志による鋳物研究所と、五十周年記念事業の一部の理工学研究所の建物は、本部キャンパス外に建てられたので、本図には示されていない。右表に示したものは戦前における鉄筋の大建築で、中で教室はいずれも地階を含めて五階という堂々たる建物である。これら教室は、昭和六年五月竣工の教室と形式を同じくし、屋上の甍は校歌に表された「聳ゆる甍」を象徴し、色彩も文学部校舎に倣って

第八図 校舎配置図(昭和十七年)

1 学生ホール

2 専門部・高等師範部・専門学校

3 製図教室

4 政・法学部

5 本部

6 演劇博物館

7 応用化学実験室

8 理工学部実験室

9 実験室

10 恩賜記念館

11 文学部

12 専門部工科・高等工学校

13 第二高等学院

14 理工学部研究室

15 理工学部

16 商学部

17 電気・機械実験室

18 実験室

19 実験室

20 実習場

21 鋳物工場

22 相撲道場

23 武道館

24 プール

25 本館

26 雨天体操場

27 銃器庫

28 教室

29 教室

30 教室

31 実験室

32 実験室

33 学生会館

34 柔剣道場

淡いクリーム色で統一された。この結果昔日の面影は一変し、近代的な学苑の様相に変貌したのである。武道館と鋳物研究所は、その使途が異るから新教室の形式には倣わず、武道館は学苑キャンパスの西北端に、鋳物研究所は本部やキャンパスからやや離れた戸塚町一丁目五百番地の荒井山に建設された。

 なお、創立五十周年記念事業として、理工学部中央研究所の設立が加えられたことは前述したが、現在の理工学研究所の前身をなすものがこれである。この建設の必要性が公に訴えられたのは、既述(六一八頁)の如く黒川兼三郎の昭和七年三月の一文である。以来そのプランは、時局の変転により、大幅の変更を見ながら、時期的には日中戦争突入以後の昭和十五年に至り牛込区喜久井町の地をトして実現することとなる。その設置経過、土地・建物の取得等一切は、本編第九章二に譲る。また鋳物研究所についても、同章一に譲ることとする。

 本部キャンパスの近代化が進むにつれ、木造校舎が殆ど姿を消した中で、生き残った建物が幾つかあった。鉄筋政法教室の敷地にあった木造校舎二棟のうち、一つは第二高等学院の北側に、もう一つは第一高等学院の校舎として戸山町に移築された。両者はいずれも、戦中の疎開または戦災により、取毀しや焼失という数寄な運命を辿ることとなる。また旧商学部の木造校舎の一棟は早稲田国際学院に無償で払下げられた。昭和十八年から理工学部石油工学科がここを使用したが、この建物は、戦災をうけて焼失したのであった。

 ところで、現在本部キャンパスの大部分を占め、現代早稲田の顔となっている、田中の手で建設された建物は、戦災を蒙ってなお生き残り、一部の被害は補修され、その傷跡は、今日の建物からは全く感じられない。時子山常三郎(第九代総長)は、田中の功績を高く評価し、「生前たいへんな苦心をしてコンクリート建てに努力された亡き田中総長に感謝の気持でいっぱいになった」(『早稲田生活半世紀』一三九頁)と記している。田中の英断は、戦災による学苑の全面的壊滅を救う結果となったのであった。

 右の鉄筋大建築のうち、商学部校舎は同学部出身者たちの寄附金によって建設された。すなわち昭和九年同学部校舎の老朽化と狭隘にその不備を感じた校友中、大学部商科ならびに商学部出身者は、昭和十年に有志が発起人となり、「早稲田大学商学部校舎改築促進会」の名称の下に、金三十万円(一口三十円、五ヵ年賦)の金額を募集することに意見の一致を見た。これらの人々による募金を以て完成したのが同校舎である。しかし大学も、本校舎建築について全く無為だったわけではない。昭和十二年七月十五日の維持員会で、「商学部校舎新築費一部立替ノコト」として次のような決議を行っている。

商学部校舎改築促進会ノ寄附建築ニ係ル商学部校舎新築工費概算金三十万円(建築費金二十六万円、設備費金四万円)ノ処、寄附金未収入分ニ対シ最高金二十万円ノ限度ニ於テ立替ヲナスコト。

勿論これは、後に寄附金を以て償却されたのであろうが、大学の力も与っていたことを付言しておく。また鋳物研究所についても、第二十八表の摘要欄(七四八頁)に示したように、建築費こそ各務家の寄附によったとはいえ、機械設備費に関しては別途の財政措置がとられている。

 既述の如く、学苑キャンパスの不燃建築による近代化は、大正十一年三月の第二高等学院の建設に開始し、図書館、観音寺裏手の製図教室、旧大隈邸の学生ホールと続き、水力実験室、電気・建築両科実験室、大隈講堂、第二高等学院増築、演劇博物館、そして文学部校舎という順序で昭和六年までに総床面積二万四千百平方メートル強に達している。更に総長就任後の田中によって完成せられた鉄筋コンクリート建築の全床面積は実に三万四千四百平方メートル強、寄附で建てた分を除いても二万五千平方メートル強となり、田中の功績を数字が実証している。

 学苑の建設工事中には、右の期間中、鉄筋の大建築ばかりでなく、鉄骨を主として組み立てられたテレヴィジョン研究所があり、延二百十坪二階建、現在の西門のすぐ北側に、昭和八年三月四日の基礎工事から四月三十日の完成に至るまで約六十日というスピードで完成された。鉄骨の上に現場で乾材を貼り付けるという建築学上斬新の工法で、軽量、移動可能、耐火耐震に威力を発揮するものであった。

 昭和十二年、日中全面戦争に突入してからは、極度な資材入手難と物価高騰との結果、不燃大校舎の建築は不可能となり、木造建築が必要に応じて若干竣成したのにとどまったが、これらの建物は、現在の早稲田には一つも残っていない。すなわち、本部キャンパスには、専門部工科の木造校舎、建坪二百坪、総二階延四百坪が、旧テニスコートの跡地(第二高等学院北側)に昭和十五年十二月起工され、十六年四月竣工している。この建物は戦災で焼失した。

 次に、昭和十六年二月、西武線東小平駅(現在の西武新宿線花小金井駅と小平駅のほぼ中間にあった)から北方二キロメートルの地に、久留米錬成道場が起工された。木造平屋建延四百三十三坪、講堂を中心として左右に二棟ずつの寮が並び、これらは渡廊下で結ばれて中庭を形成し、中庭を挟んで講堂と対して門が設けられ、その左右に食堂と事務所等の棟があった。十六年五月に一部、同年九月に全部が竣工した。これは専ら学徒錬成部の集団訓練の場であったが、戦後、この建物の一部が戸山町に移築され、現在の文学部校舎の落成するまで、高等学院(旧制第一高等学院、後に新制高等学院)の校舎として使用された。

 なお、昭和十七年十月、理工学部応用化学科内に石油分科が設けられ、越えて十八年十月には、分科は独立し石油工学科となったが、石油分科が新設された十七年十月には、早くもその敷地として早稲田奉仕園の買収が理事会の議題に上り、翌十八年一月十五日の維持員会で、淀橋区戸塚町一丁目五百五十番地所在日本バプテスト伝道団所有の土地二千三百六十五坪、建物四棟九百十三坪の買収が決定されている。戦後これは早稲田奉仕園に返還されているが、当時の買収代金は四十万円、その財源は寄附金によった。維持員会記録によると、早稲田奉仕園の土地を手に入れるため、淀橋区諏訪町所在の約千二百坪の土地を大学が購入し、これを日本バプテスト伝道団に売却している。大学施設部保管の青写真(昭和十八年三月二十六日の日付がある)によると、新しく入手した土地には五棟の建物が画かれており、その一棟(五号館)は新築建物と表示され、建坪四百九十九平方メートルの数字が書き込まれている。それ以外の四棟は次のようである。

一号館 煉瓦造地階及二階建

建坪 三八一平方メートル

延坪 一、一五八平方メートル

二号館 煉瓦造地階及二階建

建坪 二四一平方メートル

延坪 八〇四平方メートル

三号館 木造二階建リシン仕上

建坪 一二二平方メートル

延坪 三〇六平方メートル

四号館 木造二階建リシン仕上

建坪 四八四平方メートル

延坪 九四七平方メートル

総計、建坪千二百二十七平方メートル、延坪三千二百十五平方メートル

 次頁の第二十九表は、田中総長時代から敗戦までの間の学苑所有地の増減一覧表である。すなわち、昭和十三年三月三十日、相馬邸買収土地の移転登記が完了し、甘泉園が早稲田大学の所有となり、東伏見プールの所在地も、従来借地であった二千坪を西武鉄道株式会社から買収し(昭和十三年七月十四日維持員会決議)、牛込区喜久井町十七番地の現理工学研究所の土地が増え(昭和十五年三月十五日維持員会決議)、埼玉県戸田村艇庫用地(昭和十五年七月十五日維持員会決議)、甘泉園接続土地(昭和十五年十二月十四日維持員会決議)、久留米錬成道場用土地および隣接地(昭和十六年四月二十四日理事会決議、昭和十七年九月十五日維持員会決議)などが、早稲田大学の財産に加えられた。また、理工学部石油工学科の新設に伴う土地建物として早稲田奉仕園を買収したのは、既述したとおりである。右のうち甘泉園は、『江戸名所図会』に記された「山吹の里」の一つとして太田道灌の故事にゆかりの地で、都内有数の名園である。初めは芸州侯の下屋敷であったが、後、徳川御三卿の一つ、清水家の下屋敷となり、明治三十四年に相馬永胤(専修大学の創始者、横浜正金銀行頭取)の所有となった。高田馬場の堀部安兵衛仇討の場所としても著名で、現在でもその碑が残っている。戦後(昭和四十二年)キャンパス整備の必要上、大蔵省、東京都、水稲荷神社に譲渡、早稲田の所有から離れたが、かつては学生の遊歩憩いの場所であった。

第二十九表 校地増減一覧(昭和六―二十年)

 更に、施設については、左の三件が特に注目される。

昭和八年七月十日 戸塚球場の夜間照明設備完成、開場式。

昭和十一年四月九日 東伏見プール起工、十一年四月三十日竣工。

昭和十二年十一月三日 国旗掲揚場と建学之碑完成、国旗掲揚式と碑の除幕式執行。

右の中で、戸塚球場における夜間照明設備の完成は、我が国における嚆矢として画期的な意義を持っている。この数年前から水泳プールのような規則的な形のものには夜間照明設備が設けられてきたが、不規則な形の戸塚球場のような広場に、その機能に適するための完全照明を行った例は、それ以前には見られなかった。そもそもこの案が出たのは昭和七年の十二月頃で、理工学部の山本忠興および照明知識普及委員会の発議で、地上百尺の位置にいかにこれを装置するかという問題に技師桐山均一が取り組むことになった。当時山本の提唱で、数年前から神宮球場或いは横浜の野球場にこれを実現させようとの話もあり、設計もし努力もしたが、結局費用その他の点で実現しなかったという経過もある。それだけに、鉄塔を設計した桐山には相当な苦心と努力とが要求された。また、建設費用は、照明学会照明知識普及委員会の尽力による寄附金と、向う三―五ヵ年に亘る運動場の夜間使用料で充当された。この完成により、体育の普及・進歩に資するのは言うに及ばず、我が国照明工学躍進にも大いに貢献するところがあり、九千平方メートルの球場は照明工学の一大研究所の観を呈した。

 また、学苑の道路は昭和九年四月頃、すなわち政法新教室ができ上がる頃、南門から演劇博物館までの間、図書館と本部の間、および本部と政法新教室の間の舗装が完成した。なお、大学の正面入口から門柱や門扉が追放され、門のない自由な学苑の象徴として誇られるようになったのは、専門部・高等師範部校舎が竣工した後の昭和十年九月末から十月にかけての頃である。それまでの正門は、現在よりもやや西南に四本の柱と鉄柵状の扉で作られていた。従前の門や塀の撤去と、間口の広い石階構築の竣工の日時は、遺憾ながら正確な記録を欠いているが、清水組と工事契約を結ぶよう決したのは昭和十年七月十五日であった。なお、商学部周辺が舗装されたのは同校舎が完成してからであり、今日ある碁盤目の道が走るようになったのも本部キャンパスの近代化が完成した後である。

 さて早稲田が旧木造校舎から近代的な建築に建て変っていく間に、一つのロマンが生れた。現本部の北側の空地、今は殆ど誰の目にもつかないひっそりとした所に、尖がり屋根の四角い小さな鳩小屋が円い柱の上に古風におさまっている。ここは高木神社の跡で、東門を入って本部を左手に見る奥の場所である。今ではこの空地の西側に学苑の水源として、何の変哲もない四角いポンプ小屋が建っていて、その周りに金網が巡らされ、その奥にこの鳩小屋を垣間見る状態となったが、このポンプ小屋が建てられる前には、鳩小屋は今よりも人の目につく場所にあったのである。これが奥に移されたのは昭和五十年七月であった。かつて木造校舎が立ち並ぶ学苑は、その軒先が恰好の鳩の住家であり、鳩はここをよき塒として雑司ヶ谷の森や近所の樹々に群れ飛んでいた。校舎建替えに伴い軒を追われた鳩たちの行先を憂えた早稲田人は、軒先の代りに、昭和十年九月、この小さな鳩小屋を作った。しかし鳩たちはこの新しい小屋が気に入らなかったのか、また、コンクリート校舎は勝手が違ったのか、恩賜館の屋根に群がるようになり、やがてそこからもいつしか姿を消した。たとい塒の主は帰らずとも、この小さな鳩小屋を永遠に早稲田に残しておきたいと願うのは、あまりにも感傷にすぎるであろうか。

 さて学苑には、戦前、総合キャンパス建設構想が存在していた。こうした計画は一回にとどまらなかったが、いずれもその設計図通りに完成しなかったのが惜しまれる。そもそも早稲田大学が、総合大学として校舎を統一し、同一形式の建物をキャンパスに出現させようと試みた第一回は、東京専門学校が早稲田大学に脱皮した第一期拡張時である。当時の図書館、高等予科教室、大学部商科教室と形式手法を同一に採り、建築の統合を計り、将来機の熟するのを待って中央講堂を構内中央の大敷地に建設し、全校舎の整頓を期する(『第廿一回自明治三十五年九月至明治三十六年八月早稲田大学報告』四頁)というこの計画は現実には実施されなかったが、常にかような構想が早稲田人の心の中にあったのである。木造校舎が姿を消し、鉄筋の大校舎が林立した今日を見ても、旧文学部校舎(現八号館)に倣った建物が軒を連ね、キャンパスの様相は統一を保っている。校舎は、授業の場としての機能を果すばかりでなく、学苑の理想を象徴し、教育研究活動を十分に遂行しうる雰囲気と環境とを必要とする。田中による学苑不燃化計画の基本にこうした意識が潜在していたことは、一歩足を早稲田に踏み入れれば何人にも直ちに理解されるであろう。

 田中自身は、その脳裡に描かれていた学苑キャンパスの統合計画の具体像を、はっきりと文字には残していない。しかし、昭和十三年旧相馬邸が早稲田の所有となり、大学もその校地を拡張するに及んで、かねてからの懸案であった理工学部中央研究所の建設とからめて、学苑キャンパスの統合計画が調査研究されたことは、同十五年二月二十一日付の『早稲田大学新聞』に現れた営繕課長桐山均一の談話に徴して明らかである。すなわち「希望の殿堂も建設/緑滴る学園都市/営繕課の描く学園未来図」と題する一文がそれである。尤もこの時期は、戦争も次第にたけなわとなり、資材入手もままならぬ時代で、単なる一つの理想図にすぎなかったとはいえ、「新国家体制整備の基礎条件として国土計画確立の要望が熾烈となつてゐる折柄、学園では大学教育の万全を期する独自の立場から学園都市の設計を目論」んだのであり、物資統制が解けた暁の夢の構想であるにしても、真剣に大学がこれを考えていたことが分る。すなわち、桐山課長の私案ではあるが、

一、第二高等学院は甘泉園の中に建設される。

一、第一高等学院は、現在の校舎敷地を運動場とし、校舎は現在の運動場に建てる。

一、理工学部諸教授の研究室として総合的な科学研究所を作る。

一、専門部工科物理実験室を恒久的な鉄筋とする。

一、早稲田会館の建設。

一、学生寮、それに希望の殿堂。

因に「希望の殿堂」とはヨーロッパの大学のチャペルに範を仰いだもので、心の灯を体現する建物を心中に描いた。そして将来は大隈庭園、第一高等学院、鋳物研究所、甘泉園、本部を結ぶ敷地を大学の構内とし、ここに一大緑地を出現し、その中心に、大学の心の象徴たる大建築を構築するという雄大なものである。

 右の構想がその基本になったのか否かは不明であるが、理工学部中央研究所は当初、第二高等学院を甘泉園に移した後に第二高等学院とテニス・コートとの跡地に建てられる予定であった。しかし時局柄、新建築が不可能となったので、日本夜光塗料株式会社研究所であった喜久井町の建物を土地とともに購入し、これを中央研究所に充てたという経緯がある。昭和十五年、大学は戸塚球場と甘泉園の間に介在する土地約六千坪を入手し、やがては両者を結ぶ一大キャンパスへの足掛りにしようと考えていたようであるが、時局の進展によりその実現は不可能に終った。否、新計画の実施はおろか、戦局の熾烈化とともに、既設の建物も一部軍用に供され、或いは軍部の使用する所となり、建設とは程遠い戦争の流れの中にその運命を委ねることとなった。また物資不足の折柄、戸塚道場(十六年改称)のスタンド、照明塔なども鉄材として軍部に供出されることとなり、大隈・高田の両像は別として、その他の銅像は取り外され室内に保管され、銀牌などは全部供出するという事態となった。昭和十八年五月二十三日、スタンドの献納式とともに送別野球戦が催された後、スタンドは数次に亘って取り毀されていった。また理工学部屋上のアンテナも二十年三月の理事会で取毀しが決定されている。尤も取り毀したという報告は、理事会の記録にも維持員会の記録にも発見できない。