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第七編 戦争と学苑

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第六章 学生研究会の興亡

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 大学開校以後の学生研究会の活動については、第四編第十八章ならびに第五編第十九章に既述したところであるが、大学令下においても、その数は増加の一途をたどり、大正九―十年度にあっては、学生の会の数は五十四に達している。これらの会の多くは、学生により自主的に設立・運営されたものであったが、前年の軍事研究団事件の苦い経験に鑑みて、当苑当局は大正十三年六月、左の如き「学生ノ会ニ関スル内規」を制定した。

学生ノ会ニ関スル内規

第一条 新ニ学生ノ会ヲ設立セントスル者ハ会長(副会長ヲ置クトキハ副会長)及幹事二名以上ノ連署シタル届書ニ会則ヲ添へ学生課ヲ経テ本部ニ届出テ其承認ヲ経ルコトヲ要ス。其届出事項ヲ変更シタルトキ亦同ジ

前項ノ届書ハ左ノ書式ニ依ルベキモノトス

何々会設立届

一、名称

一、趣旨及目的

一、指導教授ノ氏名

右設立ノ上ハ自分等ニ於テ本会ニ関スル一切ノ貴任ヲ負担可致候間御承認相成度候也

 年 月 日 会長 何某印

(副会長) 何某印

何学部(部、科、校)何学年何組

幹事 何某印

同 何某印

同 何某印

総長殿

第二条 学術ノ研究ヲ目的トスル会ハ一名又ハ数名ノ指導教授ヲ選定スベキモノトス

第三条 会長(副会長)及指導教授ハ之ヲ本大学教職員中ヨリ選定シ幹事ハ学生中ヨリ之ヲ選定スベキモノトス

第四条 運動競技ヲ目的トスル会ハ指導教授ヲ置カザルコトヲ得

第五条 娯楽又ハ親睦ヲ目的トスル会ハ会則ノ制定ヲ必要トセズ。又会長(副会長)ヲ置カザルコトヲ得

第六条 学術ノ研究ヲ目的トスル会ニシテ宣伝又ハ実行運動ニ渉ル虞アルトキハ其承認ヲ取消スコトアルベシ

第七条 会合ノ為メニ教室ヲ使用セントスル場合ハ会長ヨリ予メ左ノ事項ヲ記シタル書面ヲ学生課ヲ経テ教務課ニ提出シ承認ヲ受クベキモノトス

一、日時

一、使用ノ目的

一、講演会ノ場合ハ講師ノ氏名及演題

第八条 大隈会館内別館ヲ使用セントスルトキハ本部学生課ヲ経テ会館主事ニ申込ムベキモノトス

第九条 会ノ継続期間ハ一ケ年トス。之ヲ継続セントスルトキハ本内規ニ依リ更ニ学生課ヲ経テ本部ニ届出デ其承認ヲ受クベキモノトス。其承認ナキモノハ継続セザルモノト見做ス

第十条 設立又ハ継続ノ承認ヲ経ザル会ニ対シテハ教室又ハ大隈会館内別館ノ使用ヲ拒絶シ校内ノ掲示ヲ承認セザルコトアルベシ

附則

第十一条 本内規ハ大正十三年六月五日ヨリ之ヲ施行ス

 更に翌十四年十一月二十六日の理事会において、右の内規に定められた学生の会の新設・継続の審査・承認に関して総長の諮問機関として「科外教育審議会」を十二月一日付を以て設置することが決定され、五十嵐力・徳永重康・中桐確太郎など十八名が委員に嘱任され、坂本三郎が委員長に互選された。なお、「内規」は十五年三月末日を以て廃止されて、四月一日よりは、「内規」と殆ど同一内容の「学生ノ会ニ関スル規則」が施行され、昭和二年四月および六年四月の二回に亘る改正を経て、二十年十二月まで存続したが、科外教育審議会の機能はそれが廃止された六年四月以降、学部長会議に引き継がれることになった。

 学生の会を「早稲田大学報告」に列挙・公表する慣例は、大正十―十一年度に六十九の会が挙げられているのを最後とするが、それ以後についても、例えば学苑の準公認刊行物『早稲田大学年鑑』昭和十一年版に、スポーツ同好会的性格のものをも含めて百二の会を表示してある(二一三―二一九頁)のを見れば、年とともにいよいよ隆昌に向ったことが知り得られる。尤も、昭和十二年に勃発した日中戦争が、同十六年太平洋戦争に発展すると、学生の研究活動にも制約が増大したが、それでもなお、同十七年六月には六十一の学生研究会が存在した記録が残っている。それらの中の半数以上は、昭和十一年にも活動していた会であり、誇るべき実績を有すると認められるので、その代表的なものを次に若干取り上げて粗描してみよう。

一 部・科単位の研究会

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 既述(一六五頁)の如く、大正後期以降、各学部・科の主として教員の研究業績を発表する機関誌の刊行を可能にするために、所属教員および学生全員を以て組織する早稲田法学会、早稲田大学政治経済学会、早稲田商学同攷会等の活動が顕著になったが、これらは本来の意味での学生研究会とは言い難い。しかし、それとは別に、各学部・科別に学生を中心とする――必ずしも他学部・科の学生を排除するものではない――有志の研究会も組織せられていた。

 政治学会については、第四編第十八章に明治四十四年の新発足を記述したが、大正十年五月二十一日には創立十周年紀念大講演会を二十番教室に開催、「政治的常識ノ要義」(杉山重義)、「近世代議制度ノ起原ニ就テ」(高橋清吾)、「団体自決意識ト直接行動」(大山郁夫)その他の講演が行われ、「未曾有の盛会にて、聴衆堂に溢る」(『早稲田学報』大正十一年八月発行 第三三〇号 二一頁)と記録されている。しかし、その後活動が鈍ったものと見え、同十二年春には新しく会則を定め、毎週一回の研究会、毎月一回の研究報告会、毎年二回の講演会開催をその事業として明記した(同誌大正十二年八月発行 第三四二号 二三頁)。十三年にはこの新会則により、六月に社会科学研究会と合同で、長谷川如是閑を招き、「国家心と社会心」と題する研究講演会を開催し、更に十月に、報知新聞社の後援を得て、学外の人々に開放した「政治経済講座」を二十日より二十六日まで開講した。その講師には学内の高橋清吾(二十二日、「近代国家の起源及び其の発達」)、大山郁夫(二十五日、「現代日本の政治過程」)、五来欣造(二十六日、「マルキシズムの二種の修正派」)のほか、慶応義塾大学より高橋誠一郎(二十日、「効用価値学史大要」)、占部百太郎(二十四日、「国会の起源と選挙権に就いて」)、東京帝国大学より大内兵衛(二十一日、「欧洲政局の経済的考察」)、土方成美(二十三日、「経済生活と財政」)が名を連ねている。

 ところが、この時期の政治経済学部では、政治学科の学生数に比べて経済学科のそれが圧倒的に多数であったから、学会名に経済を加えるべきであるとの要望が強くなり、大正十五年春、政治学会は政治経済攻究会と改称して、経済学の研究がその活動の一部であることを闡明するに至り、六月二日、その第一回会員研究報告会には、経済学科三年望月威が「貨幣数量説の理論的根拠としての交換方程式」を報告した。しかし、政治経済攻究会の活動が経済学偏重の傾向があるのを不満とする政治学科の学生は、昭和十年四月、浮田和民を会長とする政治学会を新設、爾来、政治経済学部を母体とする学生研究会には、政治経済攻究会と政治学会と二つが数えられて今日に及んでいる。

 法学会は、大正中期、事実上活動停止の状態に陥っていたが、十一年十月十三日開催の法科学生大会の席上、「早稲田法学会ヲ復活スルコト」(『早稲田学報』大正十一年十一月発行 第三三三号 二三頁)が決議され、学苑創立四十周年記念日に当る十月二十日、復活第一回の法学会大会が開かれた。しかし、この復活法学会は、学生研究会というよりも寧ろ教員を中心とした法学部の公的研究機関であり、法学部における学生研究会としては、法科同志会・独法会・仏法学会・東亜法栄会などを挙げるべきであろうが、その詳細は明らかでない。

 大正七年一月、大学部文学科の教員・校友・学生有志により組織された文芸会は、九年秋に組織改革を行い、教授片上伸・講師日高只一指導の下に、文学部文学科学生全員を会員とすることとし、名称も文学会と改め、十月九日山岸光宣と吉江喬松とを講師として第一回公開講演会を大講堂で開催した。この他、文学科の学生を中心とする研究会としては、国文学会、英文学会、ドイツ文学会、フランス文学会、露西亜学会等が専攻ごとに組織されたが、これらの消長には、必ずしも同日に論ずることのできないものがあった。

 哲学科学生による哲学会は、大正九年以降少くとも昭和十五年暮頃まではその活動を推測でき、例えば大正十三年四月十九日には、カント生誕二百年記念祭を主催している。

 史学科の史学会も、定期的な例会や講演会・史蹟踏査などの活動を継続した。例えば、大正十年五月七日開催の奈翁百年記念大講演会には、総長大隈重信も「予のナポレオン観」と題して一場の演説を試みている。また本書一六七頁に示した如く、昭和六年十一月には機関誌『史観』を創刊した。

 商学部学生を中心とする経済学会は、大正九年頃一頓挫を来たしたので、十年の新学期、学生有志が再興に乗り出し、自らの手で研究計画を立案、精力的に実行した結果、会員数も鰻上りに増加し、十一年の夏には三百名を数えるまでになった。昭和に入ると経済学会の活動は一段と活発となり、二年二月には機関誌『稲門経済』の発刊を見るに至った。会長田中穂積は、その「巻頭の辞」において、

学生諸君の自主的研究機関たる経済学会が、会員各自の研究の結果を発表するに至つた事は、一面に於て我大学教育の進化が具体化した事を裏書するものとして、私は満足を禁ぜざるものである。……学問に卒業と云ふことはあり得ない、大学三年の課程は三年経てば終るが、それは唯三年の課程が終つたと云ふだけのことであつて、学問の薀奥を極め尽して卒業して仕舞つたと云ふ訳ではない。……大学三年の課程を終つたからと云ふて断じて研究を廃してはならぬ。飽く迄不断の精進を継続しなければならぬのであるが、如何なる態度で学問を研究すべきか、先づ其の研究態度を在学中に於て会得することが最も肝要であるが、私は我経済学会々員諸君の冷静にして真摯なる態度に対して深く満足するのであつて、……益々健闘を冀望するものである。

と述べ、機関誌の創刊を祝うとともに、学生の一層の精進を促した。かくして六年には、隆盛の裡に創立十五周年を迎え、併せてOB組織たる稲門経済倶楽部の結成をも見たので、本書第二巻一〇四二―一〇四三頁に掲げた会則の手直しが必要となり、九年四月には新会則が制定されたが、その中の組織・事業・会費に関する部分は左の如くであった。

第四条 本会ハ左ノ組織ヲ以テナル

一、会長 本大学教授一名ヲ推戴シ本会ヲ総理セシム

会長 法学博士 平沼淑郎先生

一、副会長 賛助員中ヨリ二名ヲ推戴シ会長ヲ助ケシム

副会長 商学博士 小林行昌先生

同  島田孝一先生

一、顧問 顧問 法学博士 田中穂積先生

一、賛助員 本大学教授講師並ニ稲門経済倶楽部員

一、会友 本会先輩

一、幹事 会員中ヨリ若干名ヲ挙ゲ専ラ会務ヲ処理セシム

一、会員 本大学学生ニシテ正規ノ手続ヲ経テ本会ニ入会シタルモノ

第六条 本会ハ其ノ目的ヲ遂行スル為ニ左ノ事業ヲ行フ

一、研究講座 時事経済、経済理論ノ二大部門ニ分チ諸講座ヲ設ケ本大学教授講師及ビ学界ノ諸権威指導ノ下ニ攻究スルモノトス

二、講演会

三、座談会 随時学界並ビニ財界ノ名士ヲ招聘シ講演会並ビニ座談会ヲ開催ス

四、見学 実社会ノ状態ニ通暁センガ為各種産業機関ノ見学ヲ行フ

五、実習 春、夏ノ休暇ヲ利用シ事務実習ヲ行フ

六、図書 図書、雑誌ヲ備へ会員自由研究ノ資料ニ供ス

七、機関雑誌 会員ヲ中心トセル研究発表ノ為ニ機関雑誌稲門経済ヲ発行ス

第八条 本会ハ本会維持ノ為会員ノ会費ヲ左ノ如ク定ム

入会金 一円

会費(年額) 二円 (『早稲田学報』昭和九年五月発行 第四七一号 六九頁)

 大正九年四月当時、理工学部には、機械工学・電気工学・採鉱冶金・建築・応用化学の五学科が設置されていたが、応用化学科を除く各科には教員・学生の研究・親睦会が存在していた。十一年秋、応用化学科にも応用化学会が創設されると、全学科に研究・親睦会ができたので、これらを統一するために理工学会が設けられることとなり、十四年十一月十六日大隈会館に開催された創立委員会の席上、「早稲田理工学会々則」が定められた。尤も、その主要部分を見れば、

一、本会ハ早稲田機友会、早稲田電気工学会、早稲田採冶会、早苗会及早稲田応用化学会ノ五分会ヨリナル

一、本会ハ各分会ノ聯絡ヲ図リ各分会ニ共通ナル事項ヲ処理シ之ニ必要ナル事業ヲ行フモノトス

一、各分会ヨリ三名ノ協議員ヲ選出シ協議員会ヲ組織シ本会ノ決議機関トス。但シ協議員選出方法及其任期ハ各分会之ヲ定ム

一、協議員会ハ時宜ニ之ヲ開キ内一回ヲ定期協議員会トシテ毎年五月中之ヲ開ク

一、定期協議員会ニ於テ会長一名、副会長一名、幹事五名ヲ選出シ其任期ヲ二ケ年トス。但シ幹事ハ各分会協議員中ヨリ一名宛互選ス

一、本会経常費ハ各分会ノ分担ト寄附金其他ノ収入ニ依テ支弁ス (同誌 大正十四年十二月発行 第三七〇号 一七頁)

と規定されているのであるから、厳密な意味での学生研究会とは言い難いかもしれない。

 大学令下の学苑には大学院が設置され、第一回学部卒業生を出した大正十二年四月から実質的に発足したが、大学院在籍の学生数は比較的少数にとどまり、指導教授による個人的指導と、図書館を利用しての自主的研究以外に、特に大学院在学生が研究会を組織してその存在を明らかにすることはなかった。ところが、昭和八年に至り、図書館長林癸未夫の斡旋により、大学院学生の研究発表会として明志会が誕生し、六月十七日第一回研究会を図書館で田中総長列席の下に開催し、以後ほぼ毎月継続した。明志会は翌九年四月、大学院同攻会と改称、左の如き会則を制定した。

第一条 本会ハ大学院同攻会ト称ス

第二条 本会ハ会員各自ノ学術的研究ノ発表ト其ノ相互批判ヲ目的トス

第三条 本会ハ左ノ会員ヲ以テ組織ス

一、正会員 早稲田大学大学院学生ニシテ会長ノ入会許可ヲ得タルモノ

二、賛助会員 早稲田大学教員ニシテ会長ノ推薦シタルモノ

第四条 本会ニ左ノ役員ヲ置ク

一、会長 早稲田大学総長ヲ以テ会長トス

二、副会長 会長ノ推薦シタル早稲田大学教授ヲ以テ副会長トス

三、幹事 幹事ハ会員中ヨリ互選シ其ノ任期ヲ一年トス

第五条 本会ハ毎月一回以上研究会合ヲ開ク

会員ニシテ前項ノ会合ニ引続キ三回無届欠席シタルモノハ退会ト看做ス

第六条 本会ノ事務所ハ早稲田大学図書館内ニ置ク (同誌 昭和九年六月発行 第四七二号 三〇頁)

本会の正会員は専ら法文系の大学院学生であり、理工系や外国より留学中の大学院学生の入会は例外であった。研究会は毎月一回開催され、会長たる総長もしばしば列席し、大学院学生とともに少壮教員も研究報告を行った。また、時には討論会も開催され、例えば十年三月二十五日には、「自由主義と統制主義」を論題として、総長や林副会長はじめ教員・大学院学生十四名が出席、活発な討論が展開されている。しかし、時局の進展は本会の寿命に悪影響を及ぼしたものと推定され、『早稲田学報』に記録されている本会の活動は、十一年十月二十四日開催の第三十五回研究会を以て終っている。

二 支那協会・新聞研究会・英語会・音楽会

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 この時期に社会主義的な思想・運動に従事した雄弁会等に関しては、既に前編第十七章に詳述したので、ここで再び取り上げることは省き、先ず講義に、研究会に、講演会に、機関誌発行に、きわめて精力的に活動した支那協会を一瞥してみよう。

 支那協会は数多くの講演会を開催したが、例えば大正十年六月二十五日には、「十年後の支那」をテーマとして、「吾人は何故に十年後の支那をトせんとするや」(会長青柳篤恒)、「政治上より見たる十年後の支那」(顧問清水泰次)、「経済上より見たる十年後の支那」(慶応義塾大学教授及川恒忠)、「思想上より見たる十年後の支那」(陸軍大学校教授稲葉君山)の四講演を行い、中で青柳は、「邦人の多くは隣国なる支那をば正しく了解して居らぬ。仮令知る者があつても、多くは明治二十七、八年以前の古い支那で、新支那を知らぬ又我国人が彼等を軽侮し、彼が有する幾多の長処を見逃し居る……。我国が明治二十七、八年戦捷記念を今尚誇りげに各地に保存することが、彼等に如何なる感じを与へつつあるか、又これが如何に日支親善の上に障害となるか」(『早稲田学報』大正十年七月発行 第三一七号 一四頁)と、世論の覚醒を促した。更に右の青柳の主張は、同年夏季休暇中の会員二十二名による一ヵ月に亘る中国旅行を実現させ、七月二十五日下関から釜山に渡り、以後、朝鮮半島を経由して満州に入り、奉天・撫順・旅順・大連の各地を訪れ、更に天津・北京から漢口・南京・上海等を巡って、八月二十七日神戸に帰着した。また翌十一年には、「関東州租借地還附問題」(青柳)、「最近支那事情」(副会長渡俊治)の講義が実施されている。

 大正十五年、校賓望月軍四郎による「日支親善研究費トシテ十ケ年賦金五万円ノ寄附」という大きな福音が本協会にもたらされた。学苑当局は、この望月の篤志による寄附金の使途につき協議を行った結果、責任者に青柳を当て、本協会内に望月氏支那経済講座を設けることを決定したが、その内容は左の如きものであった。

一、「望月氏支那経済講座」を早稲田大学支那協会内に置く

二、左記の一に該当する者は本講座に入ることを得

(一) 早稲田大学支那協会員にして第一第二学院に於て一学年間支那語を修行せる者

(二) 早稲田大学支那協会員にして支那語或は英語の考査に合格せる者

三、講座別凡そ左の如し

毎月科目毎年一回乃至十回講義とす。但し語学及商業用文は別に之を定む

支那貿易大勢

支那金融機関

支那社会組織

公所館及買弁

支那商品

支那商業地理

支那税関及関税

華僑

支那鉱業

支那最近政治史

支那租税

支那労働問題

支那農業

支那財政

支那借款

支那語

支那商業習慣

列国対支利権

支那船舶業

支那商業用文

支那貨幣

支那政治組織

支那紡績業

実際英語

修学旅行

四、本講座を卒はりたる者の中より毎年一回早稲田大学夏期休業或は冬期休業中支那各地へ修学旅行を行はしむ

五、人数は毎年五名とす

奨学金

六、早大在学中の中華民国学生及本講座に加はれる者の中より希望により学術優秀品行方正且つ学資欠乏せる者に銓衡の上奨学金を給す

七、人数は五名とし給費額は所属各学部規定の学費に拠る

留学生

八、本講座に加はれる者の中より最適当なりと認むる者を慎重銓衡の上一個年乃至二個年間支那に留学せしむ

九、人数は一名とす (同誌 大正十五年五月発行 第三七五号 一〇―一一頁)

本協会では、五月から取敢えず支那商業地理など四講座を開設することとし、二十六日大隈講堂において、青柳・望月の他、高田総長・田中常務理事ら出席の下に開講式を挙行した。この講座に対しては、一般学生中にも関心を抱く者が少くなく、講座聴講のため入会した者もあり、開講当初の受講生は百名を超え、更に翌昭和二年の新学期には会員は二百名を数えるほどになった。また、昭和二年三月には第一回の支那見学旅行が実施され、中国の商業慣習、労働者の生活状態、関税制度等を見学する目的で、商学部二年の山田亀之助ら五名の学生が、約一ヵ月間、上海・青島・北京等を巡遊した。

 しかし、このように支那協会の活動が高まりを見せた大正・昭和の交より日中関係は次第に緊張の度を加えるようになり、本協会もその性格上、時局の影響を強く受けざるを得なかった。昭和六年に創立三十周年を迎えた支那協会が、会名を日華協会と改め、更に翌七年秋に東亜協会と再改称したことは、その一つの現れであったと言えよう。しかも、こうした会名変更は、会員の姿勢や会の活動内容の微妙な変化を象徴するものであった。八年度の新学期に際して、『早稲田学報』(昭和八年五月発行第四五九号)に掲載された「東亜協会便り」には、「満洲国の承認に次ぐ光栄ある外交の孤立、東亜モンロー主義の旗印の下に、黄色人種が実際に提携しなければならぬ秋が参りました。隣邦満洲国の発達を心から援助すると共に、更に一歩友邦支那の覚醒を促すことこそ、我々日本青年の任務であると堅く信じて居ります」(六九―七〇頁)と記されている。そして、右のような「日本青年の任務」の自覚が、具体的には「満蒙開拓」を志向したことも、時局の然らしむるところと言う他なかろう。例えば、十三年の夏季休暇に、中国視察に赴いた商学部三年藤田貴一郎は、帰国の後、「我々の同胞は今支那全土に戦つて是を確守してゐる。その後に来る建設にはあくまで移民が必要である。労働力の移民でなく智力の移民である。是の必要を充す為に青年は東亜百年の計を考へ大いに勉強し永住の決心で大陸に進出する事は、引いては東亜の平和を確立する所以ではあるまいか」(『早稲田大学新聞』昭和十三年九月十四日号)と語っている。また、十五年には、研究授業科目に大陸殖民政策が加えられ、十六年には、「日支一体、東亜共栄圏建設の大理想への挺身隊たるべく、会員有志の内ケ原訓練所合宿、見学鍛練行」(同紙昭和十六年五月二十八日号)まで実施されたのである。

 なお、本協会は、大正十五年十月、機関誌『東華』を創刊したが、昭和六年には『東華評論』と改題され、その後更に『東亜評論』と改められている。

 雄弁会や支那協会と並んで、学生研究会として古い歴史を誇る新聞研究会は、大正十一年から昭和三年までは新聞学会の名称の下に『早稲田大学新聞』を刊行したが、昭和三年、既述の如く、左翼的な社会運動との関連が学苑当局の忌諱に触れ、公認の学生研究会としての地位を失った。こうして一度中断された歴史が再び蘇ったのは、恐らく昭和八年であり、新聞研究会は喜多壮一郎を会長として再興され、翌九年には本格的活動を開始した。すなわち、「何よりも再組織されたる現在の組織基礎を確立し、諸般の事務を整理して新しき再出発の首途を力強き巨歩を以て踏み出す事」(『早稲田学報』昭和九年七月発行 第四七三号 五三頁)を当面の任務と定め、その具体策として講演会・座談会・時局問題研究会などを企図したが、十年に入るとこうした努力が実を結び、二月七日の定時理事会において「早稲田大学新聞発行ニ関スルコト」が決議され、『早稲田大学新聞』が復刊される運びとなった。四月二十四日付の同紙復刊第一号に、田中総長は「大学教育と大学新聞」と題する一文を寄せ、次のように『早稲田大学新聞』に対する期待を表明した。

学園内の衆力を綜合統一するの捷径は即ち大学新聞の力に俟たねばならぬ。……即ち学園関係者が学園の事情に精通することなく風馬牛相関せざる状態において衆力の綜合統一は絶対に不可能事であつて、殊に我が学園の如く四万数千校友と、二万に近き学徒を擁する大学園にあつては大学新聞の力を藉るの必要は愈々切なるを感ぜざるを得ない。即ちこの意義において吾輩は這般大学新聞の創刊を心より歓迎し最高学府の新聞たるに値ひする内容実質を備へ、その健実なる発展に依て以て教育機関としての機能を充分に発揮せんことを衷心祈つて已まざるものである。

 こうして復刊した『早稲田大学新聞』は、当初四頁の紙面構成であったが、早くも五月二十二日付の第五号から八頁の紙面となった。内容的にも、学内のニュースはもとより、学芸・スポーツ・校友欄など、より充実したものとなったが、大正末・昭和初頭に見られたような特定の立場からする主義主張の展開は、完全に影を潜めていた。新聞研究会の学内における評価も次第に高まり、例えば、十二年四月二十三日に学苑の科外教育の一環として、「ニユース映画による世界情勢の把握、文化映画による科学、文芸の基礎的知識の普及、レコード音楽による情操教育を目指」す(『早稲田大学新聞』昭和十二年四月十四日号)映画と音楽の会が、演劇博物館と早稲田大学新聞社の共催によって開催され、十七年まで年中行事化したことなどは、本会の安定的発展を示すものと言えよう。

 復刊『早稲田大学新聞』は、左翼的主張を展開する新聞ではなく、また時局柄それは不可能であったが、それは必ずしも本会が時局迎合的姿勢を執ったことを意味するわけではない。けれども、十二年七月の蘆溝橋事件以後になると、さすがにその影響を否定できないようになった。試みに同年九月十五日号を見ると、「空への関心」が特集され、田中穂積は「総長時局談」において学生に「自粛自戒」を呼び掛け、スポーツ欄では飛田忠順が「事変とリーグ戦/技倆よりも精神で/学生野球の真髄を/独自の使命を期待」との見出しの下に一文を草している。「学園関係出征者」の欄が設けられたのも、この号からであった。尤も、紙面のすべてが戦時色一色に塗り潰されてしまったわけではなかった。例えば、横浜出航二日目に日米通商航海条約の廃棄通告の報に接し、また滞米中に第二次大戦の勃発に遭遇しつつ、第六回日米学生会議に出席した商学部三年の鈴木万之助が、優秀なアメリカの自動車と自動車路とに「さすが持てる国アメリカの印象を深める」とともに、「合理的であり科学的である彼等の家庭生活は、自分自分の生活を豊富に楽しくする為に子供も親も自分の時間を楽しんでゐる」とのアメリカ認識を示した帰国談が、昭和十四年十月十一日号に掲載されている。しかし、他方、同じ年の夏季休暇には、「大陸認識の一助」(同紙昭和十四年七月五日号)として、政治経済学部三年相沢早苗・専門部政治経済科三年小林忠司ら五名を満州・北支・中支・台湾へ特派している。翌十五年十月二日号からは、紙面の八頁より四頁への半減を余儀なくされたが、その後太平洋戦争に入っても新聞発行は継続され、紙面の体裁は維持され続けた。しかし、敗色濃い十九年五月二十日に発行された第三二四号に、「決戦的趨勢愈々苛烈を極むるの秋、本紙は出版整備方針に順応して当号を以て廃刊致すこととなりました」との「社告」が掲載され、遂に廃刊のやむなきに至った。

 古い歴史を誇る学生研究会の中で、恐らく、会員数と毎週の講座数とが最も多く、更に年次大会が早稲田の名を全市に高からしめたのは英語会であった。例えば、昭和十一年に実施された毎週のレッスンは、左の如く豊富な内容を示している。

月 (十二―一)英書研究(中島正信講師) (一―三)討論会 (三―四)初等会話(ナール氏)

火 (十二―一)初等会話(北島〔リリアン〕夫人) (三―四)相互研究 (四―五)初等会話(べーカー氏)

水 (三―五)演説並発音練習(野口勇講師)

木 (十二―一)英字新聞解説(中島講師) (三―四)初等会話(ミス・ケネデイ)(四―五)初等会話(キース氏)

金 (十二―一)英字新聞解説(中島講師) (三―五)英作文、英文法、書取(野口講師)

(『早稲田大学新聞』昭和十一年五月二十日号)

また月例会は「会員に暗誦及び演説を練習さして、それを……同好の士に公開する」(『早稲田学報』大正九年十月発行 第三〇八号 一六頁)ものであった。更に毎年秋に開催された大会は、こうした日頃の学習成果の集大成で、英語劇と英語演説が行われるのを常とした。

 英語会の上演する英語劇は、東京外国語学校の外国語劇と並んで、大正時代、帝都における学生英語劇の代表的なものであった。ただし、大正十二年には、大地震の結果、大会開催が見送られ、英語劇上演の機会に恵まれず、また翌十三年秋には、文部大臣岡田良平の学校劇禁止の指示により、十四年にかけて公演が不可能となったから、都合三ヵ年に亘り英語劇は中断された。しかし、十五年十一月の大会からは英語劇の上演が復活し、その第一回の演物は次の如くであった。

喜劇「心にもなき悲劇役者」アントン・チエホフ作

イワン・イワノウイツチ・トルカチョフ 平岡弘男

アレクセー・アレクセエウイツチ・ムラアシユキン 島崎俊之

舞台装置 永山進吉、久保田博

照明 俵田竜夫、平井忠一

演出 神谷勝太郎

喜劇「まだ済まんぞ」カール・グリツク作

詩人 潮田定一

警官 山口道三

スミス氏 王変瑚

舞台装置 座間一郎

照明 俵田竜夫、平井忠一

演出 神谷勝太郎

(同誌大正十五年十二月発行 第三八二号 五二頁)

 昭和に入ると、「この頃文学生劇が流行して来た折柄、日々新聞主催のもとに、大学専門学校英語劇競演大会」(『早稲田大学新聞』昭和二年十二月八日号)が二年十二月八日に催され、英語会もこれに参加し、ジョン・リード作「自由」を上演した。また五年六月二十日には、時事新報社主催の日米交歓英語大会が開催され、英語会はイザベラ・グレゴリーの「月の出」を演物とした。こうした英語劇の興隆を背景として、五年に早稲田・慶応・東京商大三校対抗の英語劇大会が行われ、以後毎年開催されることとなったが、後には立教もこれに参加した。

 英語劇と並んで、英語演説も、本会の重要な活動の一環であった。殊に大正十三―四年の学校劇禁止に際しては、「如何にして我等の英語力を社会に発表すべきかを種々研究した結果、英語演説旅行を以つて劇大会に代へる事に決し」(『早稲田学報』大正十四年十二月発行 第三七〇号 二〇頁)、十四年十月、名古屋・大阪方面への演説旅行を決行、会長高杉滝蔵引率の下、商学部三年飯田要三、同唐沢金四郎ら五名が、愛知県の半田中学校・名古屋中学校、および大阪毎日新聞社において、英語演説を試みた。全国大学高専英語演説大会にもしばしば会員を送り、昭和に入ってからは学内においても、毎年秋の大会とは別に、英語演説大会が開かれた。

 英語会も、中国大陸における戦火の拡大と無縁ではありえず、昭和十三年六月二十九日付の『早稲田大学新聞』には、次のような記事が発見される。

英国の経済的勢力の浸透せる大陸に新しき政策を樹立せん為には、英国の経済力の実情を詳細に研究する必要ありといふ見解の下に、英語会では梶貞夫、蛯子凞、堀光の三君を代表として大連、新京、哈爾賓に送り、七月十日出発約半ケ月に亘つて得意の英語を以て各地の英人と面談、その真意を叩き併せて経済状態を視察して帰る予定である。

また、太平洋戦争開戦後の十七年秋、日本放送協会から学苑に「学生の立場より米国民に告ぐ」と題する対米放送用英文原稿を依頼された時、全学で二十三名の学生が原稿募集に応じたが、草野博ら三名の英語会会員の原稿が採用せられている。

 大正後期、学苑の音楽会は日本で最も精力的な活動を展開した楽団の一つであり、学校行事での演奏はもとより、定期演奏会や全国各地への演奏旅行を実施した。例えば大正九年六月十七日、来日したカリフォルニア大学ジャズ・バンドを学苑に招き、合同演奏会を催したのは、本会として初めての外国楽団との接触であったが、日米学生のささやかではあるが友好に満ちた触れ合いであり、カリフォルニア大学のジャズメン達は、「彼等の故郷に起れる忌むべき排日熱を憂ひ、我等青年が相互に了解し、以て斯る政治上の問題に迄で及さんと力説」(『早稲田学報』大正九年十一月発行 第三〇九号 一七頁)したのであった。

 大正十一年四月、故総長大隈侯爵記念事業のための募金が開始すると、これに協力するため音楽会は自ら演奏会を主催し、また各地に赴き、募金活動を盛り上げるための演奏を行った。本会主催の募金音楽会の第一回は十一年十一月二十三日に開催された。この日会場の神田青年館は、「自動車を横着ける盛装の婦人、マンドリンを持つ学生、さては着初めの青や、赤、緑、純白のシヨールを地を払う迄にたらした女学生等……その様な花の群れで」(『早稲田大学新聞』大正十一年十一月二十五日号)超満員に膨れ上がり、千五百円を記念事業に寄附することができた。他方、全国各地に開かれた講演会や音楽会のために演奏旅行はしばしば行われたが、「地方ではオーケストラなど見た事のないのが当然で、コントラバスや各種管楽器など珍らしく、ティンパニーなどは陸海軍軍楽隊以外ワセダのみという情況であった」(米田秀次郎「洋楽の夜明け」『早稲田大学交響楽団史』一〇五頁)という。

 音楽会には、管絃楽部、マンドリン部、声楽部の三部があった。例えば、後年「赤城の子守唄」「麦と兵隊」等数多くのヒット曲を遺した東海林太郎(大一二商)は、声楽部員であった。尤も、大正十一―二年頃までは、一人が二部または三部を兼ねることも珍しくなく、こうした会員が地方への演奏旅行などでは重宝がられた。しかし、音楽会の質的向上に伴い、各部の独自性が強められ、殊に、管絃楽部とマンドリン部とは、相互に独立して行動するようになった。例えば、十三年六月十五日に早稲田奉仕園スコット・ホールで開かれた大隈記念事業のための演奏会は、マンドリン部が独自に開催したものであった。十四年には各部の独立運動が起り、学苑当局もその公認に傾いた。各部の独自性は昭和に入るとますます高められ、同じく音楽会とはいえ、実質的には殆ど別個の組織となり、名称も、部よりは寧ろ団と呼ばれることが多くなった。

 昭和五年、管絃楽団内にブラスバンド部が新設された。この吹奏楽団は創設時既に五十五名の大編成で、六年から早慶野球戦に応援団の一翼として加わり、レガッタ、ラグビー、サッカー等でも、学苑選手の応援に活躍した。

 昭和十五年十一月、管絃楽・吹奏楽・マンドリン・声楽各部の他、本会とは別個のシンフォニック・コーラスとハモニカ・ソサイテイを鳩合して、教授西条八十を会長とする音楽協会が創設された。この協会の意図は、「従来まちまちであつた演奏会、練習会、会員親睦、学園当局との連絡等を一元化し、協力して学園学生に健全な音楽を提供しようと」(『早稲田大学新聞』昭和十五年十一月六日号)するにあったが、実際には、時局柄学苑当局が音楽団体の統制を図ったものであり、音楽団体側でも、活動の維持には相互協力が不可欠となったので、大正以来の音楽会各部の順調な発展が暗礁に乗り上げたことは否めない。そして、十六年に至ると、後述(九六〇頁)の如く、音楽団体は学徒錬成部に統合されて、十一月八日正式に学徒錬成部音楽隊結成式が挙行され、音楽会各部の独自な活動は殆ど不可能となったのである。

三 劇術会・演劇研究会

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 「逍遙略年譜」の大正九年の項には、「七月金子・五十嵐・片上・吉江らを説いて文化事業研究会を起し、十月発会式を行ひ、これより毎週六時間講話す」(河竹繁俊柳田泉坪内逍遙』八四三頁)と記されているが、この文化事業研究会は、「早稲田大学とは直接の関係のないものとし、文学科内に事務所を置くこととなつた。会長には金子馬治、常任幹事には横山有策片上伸の両者が就任した。逍遙はこの事業を援助することによつて、正式の出講に代へようとしたのであつた」(同書 六一三頁)。「一種公開的な男女共学の大学講座」(同書 六一四頁)であったこの会の事業としては、ペーヂェントと児童劇とが最も世に聞えているが、その他に、主にシェイクスピア作品の上演を目標とする、劇の実地研究に熱心な二十名ばかりのグループがあり、劇術会と命名されて、十年二月二十五日、古川利隆(大九大文)を中心とする第一回練習総会が、丸ノ内の鉄道協会で左の如きプログラムで開催された。

一、文芸協会時代の想ひ出(講話) 本会幹事 河竹繁俊

一、沙翁作『ヴエニスの商人』法廷の場(立稽古)

一、チエホフ作『犬』(朗読)

一、吉井勇作『銀行頭取の娘』(立稽古) (『早稲田学報』大正十年四月発行 第三一四号 一七頁)

古川はその後入営したが、その留守中は弟古川義治(大一五文、芸名清川義民)その他により定期的にシェイクスピア劇公演が継続された。劇術会は古川利隆の除隊後、大正十三年五月、帝劇女優七期生の助演の下に、渋谷聚楽座の柿落しに逍遙の「法難」を上演、更に「ハムレット」、或いは池田大伍作「西郷と豚姫」などと演目を改めて、計、約一ヵ月に亘る公演を行ったが、長期公演には会員の多くが学生であるために無理があり、やがてその歴史を閉じるの余儀なきに至った。

 他方、既に教壇を退いていたとはいえ、学苑文学部の象徴的存在である坪内の指導下にあった劇術会の行き方に満足できなかった学生は、大正九年十二月、演劇研究会を、学苑講師であり、また文芸協会や芸術座や新国劇などで活動し、イプセン研究家としても知られた中村吉蔵(明三六大文)を会長に戴いて結成した。東京帝国大学生を中心とする互葉会(大正八年創設)や慶応義塾大学の劇研究会(同九年創設)と並んで、学苑にあっては演劇研究会を以て学生劇団の嚆矢と見るものがあるのは、一時期の劇術会にはあまりにも坪内劇団の俤が濃く窺えたからであろう。本会は設立当初から会員数が四百を超していたと言われるが、直ちに本格的な演劇公演を行うことはできず、講演会・連続講座・見学・観劇を中心に、時に野外劇などに参加していた。会員自身による本格的な演劇公演が可能になったのは十三年であるが、この年にも、水谷武(竹紫、明三九大文)の「お国歌舞伎」、藤井真澄(大二専政)の「演劇と社会」、川村久輔(花菱、明四三大文)の「日本映画の行くべき道」等の講演や、岡本綺堂の連続講座「明治劇壇史」や、松竹蒲田撮影所の見学、水谷八重子がチルチルを演じた芸術座公演「青い鳥」の観劇などが行われている。

 さてこの十三年には、一月三十、三十一日の両日、早稲田劇場で、ゴーリキー作「どん底」、中村吉蔵作「剃刀」、仲木貞一作「柿実村」、坪内士行作「浮き雲」を上演し、六月には、女優の共演をえて、藤井真澄作「カフェー女物語」、中村吉蔵作「帽子ピン」などを四谷の三和会館で上演して、学生劇団としての存在を明らかにしたが、秋になると岡田文相の学校劇禁止にあい、やむなく卒業生と提携して、「対社会的に新劇運動を起すため、学校関係を離れて稲門舞台座なる新劇団を組織」(『早稲田大学新聞』大正十三年十二月三日号)、形式的には学外の劇団として、十四年一月三十、三十一日に、渋谷の聚楽座で公演するに至った。

 しかし、十五年になると文部省の規制も緩み、再び学生劇団としての活動が可能になったが、一年余に亘り活動が制約されていたので、手初めとして脚本朗読会を開くこととし、六月十九日にその第一回を催し、十一月からは毎月一回ずつ実施した。かくて昭和二年、会員中の有志が劇団「原始座」を結成、十二月四日、築地小劇場で試演会を開催、武者小路実篤作「桃源にて」、中村吉蔵作「剃刀」などを上演するに至った。演劇研究会として、近代劇の再吟味を目的として、大隈講堂で公演会を開催する運びとなったのは四年六月二十三―四日で、水谷武ら多数の演劇関係者・愛好家が来場し、盛況裡に、チェーホフ作「街頭」、中村吉蔵作「剃刀」、シング作「西の人気者」を上演したが、殊の外喝采を博したのは「西の人気者」であった。また、この頃、東京・大阪・名古屋・広島等のラジオ放送にもしばしば出演した。

 昭和十一年、教授西条八十が中村の後を襲って会長に就任した後、十四年、本会は創立二十周年を迎え、十一月二十五日、芝の飛行館で記念公演会を開催した。しかし既にこの頃、戦争の暗雲が演劇界をも覆いつつあった。大正九年に高等学院を中退し、築地小劇場・築地座等で活躍した伴田五郎(友田恭助)が、昭和十二年十月六日に上海郊外で戦死したのは、演劇関係者に否応なく事態の緊迫化を知らしめるものであった。こうした事態の中で催された、演劇研究会には久し振りの舞台であった記念公演会が、満員の観衆を集めつつも、他方において、「劇研の秋季公演は二十年の伝統を誇る早稲田演劇史に残るべき何らの爪跡も持つまい」(同紙昭和十四年十一月二十九日号)との手厳しい批評を受けたのは、無理からぬことであったかもしれない。その後、十五年八月には新築地・新協の両劇団に解散命令が下り、十六年六月には日本移動演劇連盟が設立されるというように、演劇界全体の状況が悪化していく中では、本会がその活動を殆ど休止するに至ったのも、誠にやむを得ぬことと認むべきであろう。本会の実質的な活動は、ほぼ十五年春頃までで終ったと推測される。

 なお、同じく中村吉蔵を会長として昭和八年創設されたものに、自作自演を旨とする実験劇場的性格の劇団、劇芸術研究会がある。本会は、六月二十四日に第一回の試演会を催し、以後、蘆溝橋事件勃発直前の十二年六月まで、都合十回の公演会を重ねた。また、日中戦争勃発に伴い公演会を自主的に中止してからは、陸軍病院への慰問公演などを行っている。

四 仏教青年会・カトリック研究会

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 学苑には、精神的な人間形成を目的とする宗教的サークルも数多く存在した。仏教関係では、仏教青年会・坐禅会・興道会、キリスト教関係では、基督教青年会・カトリック研究会・基督教共助会などがそれである。本節では、これらの中から、仏教青年会とカトリック研究会について、その活動を略述しよう。

 仏教青年会とは恐らく大正十一年に命名された会名であるが、本会の歴史は東京専門学校時代にまで遡ることができる。本会は大正四年四月十七日に創立三十年記念大演説会を開催しているので、逆算すれば明治十八年創立である。当時の会名は「教友会」であり、長くこの名称が踏襲されたが、大正五年四月、「早稲田大学仏教々友会」と改称、更に、本会が大日本仏教青年会に加盟している「聯合上の便宜に依」り(『早稲田学報』大正八年九月発行第二九五号一七頁)、八年、青年の二字を加えて「仏教青年教友会」と名乗った後、十一年に「仏教青年会」となったのである。

 仏教青年会は、仏教思想の体認と普及を目指すサークルで、特定の宗派に偏る傾向はなく、仏教を信仰するか、或いは関心を有する者の連合体のようなものであった。その主要活動は、会員による研究会と一般学生をも対象とした講演会とであった。研究会は、毎回学内外から招いた講師の講義を聞いて、会員の研鑽の一助とした。例えば、大正十四年には、駒沢大学教授兼第一高等学院教授立花俊道と学苑教授・仏教青年会理事武田豊四郎とが、それぞれ「原始仏教と禅に関する研究」、「東洋民族の文化的使命」と題して、学生を指導している。また、十五年には、教授野々村戒三が聖書の奇蹟に関する講義を行い、同じく二木保幾は「仏教の教義及実際と経済生活」と題する講話を試みている。更に、昭和二年には、教授会津八一が奈良の仏教美術を講じている。講演会もしばしば行われ、例えば、大正十四年十月二十八日に開催された講演会では、後年『敵中横断三百里』等の小説を著した山中峯太郎が、「我が魂の現実」と題して、約三百名の聴衆を前に熱弁を振っている。

 恐らく昭和五、六年頃と思われるが、仏教青年会は、参禅会・済蔭団・勝友会という三つの仏教関係サークルをその傘下に統合した。尤も、これらの三サークルは、それぞれ曹洞・臨済・浄土真宗と宗派を異にしていたから、統合後も独自な行動を続けた。なお、勝友会は、昭和七年に親鸞聖人讃仰会と会名を変更している。その後、戦争の激化に伴って、仏教青年会の活動にも影響は必至であった。十六年秋本会に入会した白上英三(昭二一文)は当時を回想して、

昭和十七年八月一日から五日間位、〔円覚寺の〕居士林に行った。しかし一方では戦争を反映して、このような時坐禅をして何になるのか!それより一粒の米でも多く生産すべく農民の中に入るべきである、という風潮があった。そこで私も七月二十日から十日間位、八ケ岳の中腹にある修練農場へ行き、全国各地から集まった学生や農村青年達と共に火山灰地を開墾した。この為接心には若干遅れたことを記憶している。当時は慶応、一橋、早稲田の学生が主で、三、四十人位だったと思う。……この当時坐禅をする学生の心構えは、学校を出る時は死ぬ時である。それ故全能力を発揮して淡々と死ぬことができる様に坐るという考えだった。 (早稲田大学済蔭団編『済蔭早稲田大学済蔭団創立四十五周年記念誌』 九〇頁)

と記しているが、本会の活動も昭和十七年ごろには弱体化せざるを得なかったと考えられる。

 「カトリツクは実に今日の文明の最大の元勲者庇護者であつた。今も猶同一の信仰に生きる三億余の信徒は、世界のあらゆる方面に光となり塩となつてゐる」(『早稲田大学新聞』大正十一年十二月十五日号)との認識の下に、カトリック研究会が発会式を挙行したのは大正十一年十二月六日であった。会長には教授中桐確太郎を推輓し、また、「今後斯道の講師を聘して研究講座を開き時々講演集会を催す」(同紙同号)との活動方針を定めた。やや時期は後になるが、例えば昭和十年六月二十八日には、東京帝大講師吉満義彦と東京商大教授上田辰之助がそれぞれ「カトリック哲学の概念」、「中世スコラ社会思想に於ける秩序と進歩」をテーマとして講演を行っている。

 しかし、昭和初期から終戦に至る時期は、キリスト教関係者にとっては息苦しい時代であり、本会もまた、陰に陽にその活動を制約されたに違いない。それにも拘らず、本会は昭和十七年末までその組織的活動を継続できた。すなわち、同年十二月二、三の両日、図書館ホールにおいて、中世の壁画を中心としたカトリック芸術展覧会を開催し、「連日満員の盛況」(同紙昭和十七年十二月九日号)と言われるほどの成功を収めるとともに、三日には講演会も開かれ、「中世文化の教会精神」などにつき、教授今井兼次・助教授佐藤輝夫・第二学院講師荒川竜彦らの講演が行われた。しかし、十八年に入ると、会として纏まった行動を執ることは、もはや不可能となったもののようである。

五 広告研究会・エスペラント会・速記研究会・婦人問題研究会

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 本巻で説述した時期に創立せられた学生の研究会は多数存在するが、その中で最も注目すべきものとして、エスペラント会と速記研究会と婦人問題研究会とを挙げることができる。この三研究会と、既に前巻に創立以来の概況を記したが大正末―昭和初期の活動を一言すべきと考えられる広告研究会に関して、以下若干の紙幅を割くことにしよう。

 広告研究会は、大正八年、不幸にも盗難の被害に遇い、「一時殆ど滅亡に迄衰微した」(『早稲田学報』大正十年二月発行 第三一二号 一三頁)が、秋には会則や会員証の改正を行う等の再建策を講じ、九年四月には活動再開に漕ぎ着けた。

 既記(第二巻 一〇五八頁)の如く学苑創立三十周年記念祝典の約三ヵ月の後、大正三年に創設された広告研究会は、創立四十周年の大正十一年には未だ九年弱の歴史を有するに過ぎなかったが、本会創立十周年と銘打って、十月十七日から二十日まで広告文化展覧会を開催し、日頃の研究成果を陳列発表したところ、きわめて盛況で、当初の三日間の予定を一日延長するほどであった。またこの時、広告心理学の実践として、一般参観者に質問紙による質問を行い、心理統計の作成を試みた。この展覧会で発表された研究成果は一冊の本にまとめられ、『統計的広告研究』と題して上梓された。また、十八日には、教授小林行昌・東京美術学校嘱託斎藤佳三・陸軍少将河野恒吉の三名により、それぞれ「物価と広告」、「表現主義は完全なる自家広告なり」、「世界戦争と宣伝戦」と題する記念講演が行われた。

 本会は大正十一年機関誌『広告研究』を創刊したが、定期的に刊行されるには至らず、また十五年六月に創刊された『広告学研究』は本会ではなく、OB組織の早稲田広告学会(第二巻 一〇五九頁)が刊行したものであった。本会が年三回定期刊行の『広友』を創刊したのは昭和五年であり、初めは謄写版刷りであったが八年からは活版に改められた。誌名の命名者伊勢丹宣伝課長小沼昇(大一二商)の記すところによれば、

帝大の経済学部に「経友」と云ふ雑誌のあることから思ひ付いて、早大広告研究会々員の友と云ふ意味と併せて、これが将来印刷にでもなつて広く社会的にも公にされる時が来たならば、学内の広告研究者許りでなく広く広告を研究される人々の友ともなれよと云ふ考へから、此の雑誌の将来性とその発展とを念願して「広友」と乞はれる儘に命名した。

(『広友』昭和八年十二月発行 創刊号 一〇頁)

という。しかし、『広友』と『広告学研究』とは目的が同一で、重複の嫌いのあるのを免れぬところから、昭和十一年十一月からは、両者を合併して、『早稲田広告学研究』の名で刊行することに改められた。

 それより以前、昭和七年十月五日には、国民新聞社講堂で、本会は記念講演会を開催、その成果を『創立二十年記念講演と沿革』として公刊し、またこれに先立つ九月二十日には、副会長小林行昌が、「広告の統制」と題してJOAKより記念放送を行った。

 昭和十六年、太平洋戦争開戦の直前、本会が宣伝文化研究会と改名することになったのは、時局の圧力によるものであった。同時に本会の方針も、「宣伝文化を啓蒙し併せて……思想宣伝をもつて敵性国を圧倒せんため……宣伝科学の樹立へと邁進する」(『早稲田大学新聞』昭和十七年四月十五日号)と定められ、その手初めとして、十七年五月四日から一週間、情報局・大政翼賛会・枢軸各国大使館の後援の下に、戦時国際宣伝文化展覧会を開催した。また十八年二月には、南方研究会と共催で南方生活展覧会を催し、併せて座談会も開いた。しかし、戦局の悪化とともにこうした活動すら困難となり、遂に十八年、学徒出陣により会員の大部分が入隊することとなったため、研究会活動の継続は全く不可能となったので、同年十月、宣伝文化研究会は、大正初年以来収集した六千部を上回る書籍・雑誌・パンフレット等を学苑図書館ならびに関係諸団体に寄贈し、正式に組織を解消した。

 学苑におけるエスペラント会の生誕は大正九年であったと推定される。エスペラントとは、「人類が平和な社会をいとなむのに必要なひとつの条件―国際的に共通なことば―の問題を解決するために、はじめられた〔国際的な〕運動」(エドモンド・プリバー著、大島義夫・朝比賀昇訳『エスペラントの歴史』一頁)である。この運動が日本で組織的に開始したのは明治三十九年で、学苑にはそれから十年後の大正五年に入ってきた。日本エスペラント運動50周年記念行事委員会編『日本エスペラント運動史料』によれば、この年「秋田指導」の下に「小石川河合譲方で毎火曜、早稲田大学生に対し講習会」(Ⅰ 三〇頁)が開かれたのである。秋田徳三(雨雀、明四〇大文)は同年十月十七日の日記に、「夜、河合君のところで早稲田エスペラント会があった。エスペラントの大体について説明した。哲学科の人が二人きた。たいへん興味をもっていた」(尾崎宏次編『秋田雨雀日記』第一巻 七五頁)と書き残しているが、このエスペラント会は、恐らく河合譲(大七大文)を中心としたごく少人数のグループであり、学内で組織的活動を繰り広げるには至らなかったらしく、河合が卒業するとやがて自然消滅になったようである。

 学苑に学生研究会としての実体を具えたエスペランチストの組織が作られたのは、『早稲田大学新聞』昭和十年九月十八日号に「十月二十日は早大エスペラント研究会が誕生して以来十五年になる」との記事が掲載されていることから推して、大正九年秋と考えられる。秋田日記の同年十一月二十日の条にも、「午後一時から早稲田大学エスペラント学会へ出席。一場の感想を述べた。法学士某、小坂〔狷二〕工学士、成田重郎君らの講演、朗読があり、エロシェンコ君の独唱があった。会長勝俣氏の感想もあった」(『秋田雨雀日記』第一巻 二三三頁)と記されてある。会長には、秋田の日記通り、教授勝俣銓吉郎が就任した。

 しかし、この会も常に活発な活動を行ったわけではなく、例えば後年エスペラント運動家として活躍した大島義夫の在学中、すなわち第二高等学院入学の大正十三年から政治経済学部卒業の昭和四年までの時期には活発であったにしても、大島が卒業すると、沈滞の季節が訪れたのであった。尤も、昭和五年の新学期には、大島指導の下に再建工作が開始され、同年末には本会の活動は漸く本格化し、六年になると、東京学生エスペラント連盟に加盟、五月十六日に同連盟の総会を大隈会館に開催し、その後、日本学生エスペラント連盟にも加わった。学内では、十一月二、三の両日、第一高等学院学芸会に際し、同学院のエスペラント会(会長影山千万樹)を後援して、第一回のエスペラント展覧会を催した。また同月九日、大隈講堂で最初の講演会を開催、大島義夫が「エスペラント入門」、小坂狷二が「欧米のエスペラント運動」、秋田雨雀が「ソヴエートロシヤのエス運動」を講じた。更にこの月中旬には、機関誌『アンタウエン』を創刊――誌名が他の団体の機関誌と重複していることが判明したため廃刊、翌七年一月『ラ・スツデント・ヴエルダ』をあらためて創刊――、同月二十八日には総会を開催、「各学期適当ノ時期ニ初等中等講義、会話研究、雑誌発行、講演会、展覧会等ヲ催シ、エスペラントノ普及ヲ計ル」(『早稲田学報』昭和七年一月発行 第四四三号 五五頁)と事業を明記した新会則を決定した。こうして七年から八年にかけて本会の活動は戦前における最盛期を迎え、七年には第二高等学院にもエスペラント会(会長京口元吉)が生誕したから、会員数は、両学院を含めて六十名を超えた。

 しかし、時局の非常時化は、一種の国際主義・平和主義の理念に基づくエスペラント運動にとって快いものではなかったであろう。事実、「時勢の推移によって世のESP熱にも消長があり、誤解による圧迫や世界戦争による打撃をも蒙った」(『日本エスペラント運動史料』Ⅰ 六四頁)のであり、これに抗して本会がその活動を継続するのは、困難であったに相違ない。本会は、九年以後次第に活動の縮小を余儀なくされ、恐らく十一年末には、その活動を停止するのやむなきに至ったもののように思われる。

 速記研究会が学苑に創設されたのは大正の末期、すなわち我が国で速記が提唱された明治十五年より半世紀近くの後であった。本会は、既成の速記法の単なる学習には満足せず、従来の速記法の長所短所を吟味し、独自の速記法の案出に努めた結果、昭和三、四年頃、最初の単画記音式速記法を編成するに至った。しかし、実際に使用した結果、欠点が明らかとなったので、更に他方式の長所を採用し、早稲田式速記法と言われた一言一字一画の音標文字兼速記文字を完成、七年五月十日、教授稲毛金七を会長として、正式に学生研究会として公認されるに至ったのである。本会は、

一、速記とは発言を正確超速度に筆記する法則を定めたる学なり。

一、早稲田式音標文字兼一言一字一劃の速記文字の民衆化。

一、日本速記界の統一。

一、速記報国。

一、十分間の速度三千五百文字以上。 (『早稲田学報』昭和八年二月発行 第四五六号 三八頁)

の五ヵ条をモットーとして掲げ、講習会を通じて会員自身が「学」としての速記の理論と技術とを体得することと、早稲田式速記法を社会一般に普及し、旧来の速記を改革することとに努めた。会員の指導には、早稲田式速記法を生み出す上で中心的役割を演じた大嶋武次(昭八法)が当り、年度末には試験を実施、合格者には免状が与えられた。早稲田式の普及には、講演会の開催、速記教材の頒布、各地への速記普及行脚が行われ、例えば、七年の夏季休暇には、大嶋、川口渉(昭一〇法)ら四名が七週間に亘り東北・北海道を巡り、各地で講演会や講習会を開き早稲田式の普及に努めた結果、例えば仙台では三十名ほどの仙台支部の設置に成功した。会員の熱意は、この年秋には各方面から速記の依頼を受けるというような十分な成果を獲得している。

 しかし、本会もまた日中戦争の影響を受けずにはいられなかった。十三年になると、「支那における速記を研究して将来の日支提携の一助になさんとする趣旨のもとに」(『早稲田大学新聞』昭和十三年六月二十九日号)上海に会員派遣が計画され、翌十四年七月、佃元治(昭一六政)が上海を訪れている。更に戦争が拡大すると、一般人を対象とした活動は次第に不可能となり、会員のみの活動も沈滞の余儀なきに至るのであった。

 婦人問題研究会は、昭和八年一月十八日、「婦人の教育職業自由権利及向上等を対象とせる社会問題を研究する」(『早稲田学報』昭和八年八月発行 第四六二号 三九頁)ことを目的として設立された。会長は浮田和民、顧問は田中総長をはじめ、中桐確太郎、吉村正、伊藤道機(当時学生課職員)であった。当時、学苑には未だ正規の女子学生は入学しておらず、この段階で婦人問題研究会が設立され、「他の男子大学に率先して男子の側から真摯に女性を対象として研究の歩を進めやうとし」た(同誌 同号 三一頁)ことは、まさに「異色ある」(『早稲田大学新聞』昭和十年五月二十二日号)試みであったろう。本会の最初の事業は八年六月二十一日に大隈講堂で開催した講演会であり、講師として日本労働総同盟の赤松常子と婦選獲得同盟の金子(旧姓山高)しげりが来校、それぞれ「婦人と労働問題」、「婦人問題の現況を読め」と題して講演を行った。また、同月二十九日には、結婚相談所や中央公論社等の見学が行われた。

 十年および十一年の本会の活動についてはかなり詳しく知り得られるが、試みに十年について見れば、座談会八回、講演会二回、ゼミナール一回が数えられ、座談会のうち半数は婦人同志会その他との合同であり、座談会講師には神近市子が四回、吉岡弥生が二回招かれているのが注目される。十年の夏季休暇の会員各自の研究テーマは、近代の婦人観、近代の恋愛観、民法改正、参政権問題、公娼問題、学園女子部の設立、婦人の社会的進出と多岐に亘っていた。またこの年十月十八日から五日間、伊豆大島に合宿して、同島の自由結婚制度の実態調査を実施した。更に、翌十一年十月四日、日本基督教婦人矯風会青年部長島津とし子の斡旋により、学外の女子学生と黎明会を結成、ピクニックを実行したが、これは「全国最初の試み」(同紙昭和十一年九月三十日号)と言われている。

 学苑各学部に正規の女子学生が入学したのは、次章に述べる如く十四年四月であるが、本会はそれに先立ち、左の如き声明を発表して、満腔の賛意を表した。

学園当局が綜合大学として初めて女性に最高学府に研鑽する機会を与へんとする意図に対しては、衷心敬意を表すると共に、日本の教育史上、一歩大いなる前進を記録することに依つて、早稲田の伝統に更に光輝ある歴史を加へるであらうことを思ふ。……我が国女子教育の貧困は、寧ろ惨憺たるものがあり、所謂良妻賢母主義を一歩も出ない女子中等教育の低調さと形式化は既に定評のあるところであるが、大学令に拠る女子大学の一校もないなどは文明国として恥ずべき事ではないか。……女性と共学共働することに依つて男子の品性が洗錬され、所謂紳士としての礼節、或は健全なる社会的正義感、若しくは男女観が育成されるならば、それは一歩文化の理想に近づくものである。かく観じつつ尚我等は今回のことが男女綜合教育体系建設への一段階に過ぎないことを思はずにはゐられない。……何れにもせよ、女子教育界自身また官学の為さうとして為し得なかつた飛躍を敢行したものは我が早稲田である。学園のこの高邁なる識見を心より支持すると共に、この試金石をして有終の美を収めしめ、更に明日への発展のために協力することは、我等一万早大学徒の義務である。

(同紙 昭和十四年一月二十五日号)

また、女子学生入学後の六月十五日、文化学院の河崎なつを大隈講堂に招き、「男女共学の体験」をテーマとする講演会を開催した。

 しかし、本会もまた時局と無関係ではあり得なかった。同じ年の十月、本会は、「従来稍もすれば誤解され勝ちな会の性質認識を是正し外来思想を排撃する意味を含む論文」(同紙昭和十四年十月四日号)を懸賞募集したが、この年あたりから、本会々員は、「飽くまでも国体観念に立脚して国家総力戦の一基石である日本婦人の立場を闡明せんと精進」(同紙同号)せざるを得なくなったのであり、一種の変質を余儀なくせられたのを立証するものと言えよう。『早稲田大学新聞』昭和十六年九月二十四日号には、「来る十月十七日……大隈会館にて婦人問題研究会十週年記念座談会開催の予定、村岡花子、吉屋信子、吉岡弥生、室富子氏に交渉中」との記事が見られるが、この座談会が実現したか否かについては、遺憾ながら記録が残っていない。