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第七編 戦争と学苑

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第十一章 太平洋戦争下の学苑

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一 決戦下の文教政策

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 昭和十六年十二月八日、日本は太平洋戦争に突入した。以後、二十年八月十五日の「終戦」詔書放送まで四年間、学苑はこの戦争下でさまざまな対応を余儀なくされ、種々の措置を採り続けることになった。この期間は教職員、学生生徒が一体となって国家の要請に応える方法を模索した時期であり、また、私学経営の面から見れば、戦時下の国家と社会に対し極度の緊張感を以て私学としての独自性の発揮に苦慮した時期であった。

 対米英宣戦の詔勅が渙発された後四日目の十二月十二日、政府はこの戦争を「支那事変」すなわち日中戦争をも含めて「大東亜戦争」と呼称することを決定し、即日この旨が内閣書記官長より文部次官に通牒された。従って戦時下の文教政策が大東亜の建設に一層邁進すべく方向づけられ、その具体的方針が検討されることになった。翌十七年二月二十一日、内閣総理大臣の監督下に設置された大東亜建設審議会は、文字通りこの戦時下の大東亜建設のための重要事項(軍事、外交関係を除く)に関する国策樹立機関となった。文教政策は、もはや、戦争の進展の中で、従来の教学刷新という段階に止まることを許されない情勢に至っており、総合的な文教政策の確立を迫られていたから、この会に課せられた任務は重大であった。その文教政策の基本方針は、同年五月二十一日に同審議会第三回総会が答申を決定した「大東亜建設に処する文教政策」に窺うことができる。この答申は後の政策に重要な意味を持つので、同日、情報局より発表された同会幹事長鈴木貞一(企画院総裁)の談話を次に掲げておく。

皇国民の教育錬成方策については国体の本義に則り教育に関する勅語を奉体し、大東亜建設の道義的使命を体得せしめ、大東亜における指導的国民たるの資質を錬成するをもつて根本義とし、

(一) 文武一如の精神を基とし剛健なる心身の錬成と高邁なる識見の長養とに努め、知行合一もつて雄渾なる気宇と強靱なる実践力とを養ひ、悠久なる民族発展を図る。

(二) 教育は原則として国家自らこれを運営すべき体制を整備し、もつて大東亜建設の経綸を具現すべき人材の育成に力む。

(三) 国防、産業、人口政策など各般の国策の綜合的要請に基き、一貫せる教育の国家計画を樹立し、学校、家庭および社会を一体として皇国民の錬成を行ふ教育体制を確立す。

(四) 学術を振興し創造的智能の啓培に力め科学、技術はもとより広く政治、経済、文化に亙り不断の創造進展を図る。

(五) 師道の昻揚を図るとともに教育者尊重の方途を講ず。

を基本方針としこれに則り歴史教育の刷新、敬神崇祖の実践、真の日本諸学に基く大学の改革、勤労青年教育の充実ならびに母性教育の徹底に重点を置く教育内容の刷新を図り、国家の必要とする人材の養成計画の設定、国土計画の見地よりする学校の地方分散、修学年限の短縮、大学院の整備拡充、私立学校教育の改善等教育制度の刷新を期し、その他軍教一致の徹底、教育者の養成、再教育および優遇、国家的育英制度、家庭教育および社会教育の振興、大東亜各地域に進出する人材の教育施設の整備拡充、大東亜研究調査機関の整備ならびに思想、学術、芸術、宗教等に関する方策を決定した。

また南方占領地の諸民族に対する文教政策については八紘為宇の大義に則り諸民族をして各々その分に応じそのところを得しむるを以て本旨とし、それぞれ教育、言語、宗教、文化および留日学生に関する方策を確立した。

(『近代日本教育制度史料』第一六巻 二二二―二二三頁)

 右の基本方針の中、「皇国民の教育錬成」の理念はもとより不変であるが、この後、これらの方針に基づいて推し進められた教育の諸様相は、一言で表現すれば、決戦下における全国民的な規模による動員体制の強化としての教育上の非常措置と言うことができる。すなわち、従来教育上の配慮から戦力の圏外に置かれていた学生・生徒は、ここに至り、最後の残された大きな戦力として、戦争遂行のために急速且つ全面的に動員体制に組み込まれていくことになる。また、学問研究も戦争遂行のために必要な分野が極端な形で優遇され、自然科学系部門の著しい充実と、他部門の質的低下がもたらされる状況が作り出された。高等教育の場に限定すれば、以下の措置を挙げることができる。

 先ず、学制上の重大な改革として、修業年限の短縮がある。在学・修業年限臨時短縮は、宣戦布告の少し前、十六年十月十六日に公布された「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」(勅令第九百二十四号)が発端であり、大学学部・同予科・高等学校高等科・専門学校・実業専門学校の在学修業年限は当分の間、六ヵ月以内短縮し得るとされた。これに基づき同日、「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和十六年度臨時短縮ニ関スル件」(文部省令第七十九号)が出され、十六年度は三ヵ月短縮卒業の措置を採った。この措置は兵役と密接に関連していたのであり、当時、徴兵検査は毎年十一月末日までに満二十歳に達する男子に対して春から夏にかけて実施され、当該年ないし翌年入営となっていたが、九七二―九七三頁に後述する在学徴集延期期間の短縮が同日に発布された結果、卒業時期の三ヵ月短縮により、十七年二月には入営が可能となるよう図ったのである。すなわち、この措置により、兵員の一年間繰上げ確保が可能になったのである。次いで、十一月一日に十七年度の在学修業年限短縮臨時措置を省令で定め、以後、毎年それぞれ短縮措置を採っていった。更に十七年八月、閣議は「中等学校、高等学校高等科及大学予科の修業年限に関する件」を決定して、在学修業年限短縮の臨時措置を明確に制度化するとともに、抜本的な教育改革を図ろうとした。この閣議決定は、やがて十八年一月二十一日に種々の勅令公布となって具体化された。すなわち、「中等学校令」(勅令第三十六号)で中等学校を四年制(従来五年制)とし、「高等学校令中改正」(勅令第三十八号)で高等学校高等科を二年制(従来三年制)とし、「大学令中改正」(勅令第四十号)で大学予科を二年制(従来三年または二年制)として、おのおの短縮し、十八年度より実施することにした。加えて同日公布の「専門学校令中改正」(勅令第三十九号)および三月八日公布の「師範教育令改正」(勅令第百九号)とともに、ここに中等学校より大学に至るまで全面的な改革が行われたわけである。この一月二十一日の勅令公布に当り、文部省総務局長藤野恵は、「学制改革の意義」として、この措置を次の如く意義づけている。

今回の教育改革による修業年限の短縮は昭和十六年以降実施し来つてゐる大学、高等専門学校等の卒業者に対する臨時措置が、当時の国家情勢に基く焦眉の急に応ずるため取敢ず年限のみの短縮を行つたものであるのと全然その趣旨を異にするといふことである。実は、年限短縮といふよりも新に四年制の中等学校教育、二年制の高等学校教育を打ち樹てたものともいふことが出来るのである。これによつて相当長期にわたるべき見通しの下に曠古の世局に対処すべき我国教育の体制を整へると共にまた教育の国防体制化を策したものともいふことが出来るであらう。さて、今回の学制改革の発足点は何よりも先づ曩に昭和十六年四月より実施せられた国民学校令によつて面目を一新せる初等教育を基礎として、その上に打ち樹てられる、中等並に高等専門の教育をして完きものたらしめたいといふところに在るのである。然して、その教育刷新の目標とするところは教育全般を通じ、「皇国の道に則る国民錬成」といふことを一貫不動の教育目的として明確ならしめた点にあるといふことが出来る。

(『朝日新聞』昭和十八年十月二十一日号)

 在学修業年限の短縮措置は、学徒をまとまった最後の戦力と看做し、半年でも早く軍隊へ或いは軍需関係の生産の現場へ戦時動員するために不可欠のものとして採られたのであった。兵役に関する在学徴集延期は、昭和二年四月の「兵役法」の制定に伴い、年齢最高二十七歳までとされ、次いで、日中戦争の拡大につれて、十四年三月九日、「兵役法中改正」(法律第一号)で、中学校または同等以上の学校に同年十二月一日現在で在学する者に二十七歳までの除外例を認めたが、それ以外の者については最高二十六歳までと短縮されていた。しかし、十六年十月十六日の前述の勅令第九百二十四号の公布に際し、同日公布の「兵役法中改正法律中改正」(勅令第九百二十三号)により、その除外例が削除されるとともに、更に同日の「在学徴集延期期間ノ短縮ニ関スル件」(陸軍・文部省令第二号)により、在学徴集延期期間を最高二十五歳に改正され、且つ最高学年在学者については年齢の如何に係わりなく卒業期日から八ヵ月遡った時点で徴集延期期間が終了したものと看做されるようになった。十六年度の段階では、徴集猶予制停止までには至らなかったが、遂に戦局が劣勢に赴く中で、十八年九月二十一日に「在学徴集延期臨時特例」が閣議で決定、十月二日に公布(勅令第七百五十五号)され、「在学ノ事由ニ因ル徴集ノ延期ハ之ヲ行ハズ」(『近代日本教育制度史料』第七巻 一七七頁)とされたのである。すなわち、中・高等教育機関に在学する学徒の徴兵猶予の特典が停止され、後述(一〇八七頁)する学徒出陣への道が一挙に開かれるに至った。ところで、学徒および大学院特別研究生の徴兵猶予の特典が廃止されたとはいえ、実際の入営実施に当っては、戦争遂行上きわめて重要な自然科学系部門の学徒に対しては、特別措置を講じて、その優遇に努めた。すなわち、十一月十三日に、「修学継続ノ為ノ入営延期等ニ関スル件」(陸軍省令第五十四号)を公布して、陸軍大臣の指定する学校および学科に在学する者に対しては期間を定めて入営延期を行う措置を採ったのである。その具体的実施に関しては、同日の陸軍省告示第五十四号で、大学の工・理・医学部、高等学校・大学予科の理科、各医科大学、各工業大学の予科、医学・薬学・農学等の専門学校が指定され、その学生・生徒は、大学院特別研究生とともに、徴兵検査を受けさせても召集を延期することにした。従って、大半の文科系学徒が学窓を離れる事態となっても、理科系の者は残留することになった。

 以上の如き在学修業年限短縮や在学徴集延期に関する学制上の戦時教育体制の強化は、他のさまざまな戦時動員措置の実施と相俟って、学校教育および大学での研究構造に急激な変化をもたらさずにはおかなかった。

 十八年三月二十九日、「戦時学徒体育訓練実施要綱」が定められ、平時に倍する体育訓練の成果を期すべき方策が採られ、この要綱に基づいて、十八年度、十九年度の具体的な実施方法が順次各学校長に通牒された。その実施の基本方針に「特二男子学徒ニ在リテハ卒業後其ノ総テガ直チニ将兵トシテ戦場ニ赴クベキヲ想ヒ、之ニ必要ナル資質ノ錬磨育成ニ力ムルコト……全学徒ヲシテ正課ヲ含ミ必ズ毎日一回以上適切ナル体育訓練ヲ実施セシムルコト」(昭和十八年三月二十九日、文部省体育局長通牒)とあるのを見ても、兵員確保のためのきわめて切迫した時勢の一端を看取できよう。加えて、学校体育とともに、本編第八章三に既述した如く、軍事教練が一段と強化された。

 学校機構を援用する形で、教育の場が軍隊的に組織され、学校国防体制が着々と整備されたことは、第八章一で概観したが、この時期に入ると、こうした戦時学校組織が一段と急速に整備されていった。このことは、実際の各種動員作業に伴い、学問研究の場と時間が著しく制限されていったことを意味する。既に十六年八月の時点で、各学校は報国隊の結成を命令され、その組織を確立していたが、やがて戦局の急迫は、この報国隊にそれぞれ学校防護の任務をも負わせるようになった。特に防空に関しては、十七年四月十八日の東京、名古屋、神戸等への空襲が決定的な意味を持ち、同年六月十日、「学校防空の強化徹底に関スル件」が通牒され、次いで十八年九月十七日に「学校防空指針」が発せられて、学校長の責任の下に教職員学徒および傭人全員が全能力を挙げて空襲による被害を最少限度にくい止めるよう、その任務が具体的に指示された。その際、特に「御真影、勅語謄本、詔書謄本ノ奉護」が第一の主眼とされていたことは、とりわけ、各学校長を著しく緊張させた。

 十八年六月二十五日、閣議は、以後の学生生活の在り方を大きく転換させ、方向づけた、「学徒戦時動員体制確立要綱」を決定した。この要綱は、学生・生徒の動員を「教育錬成の体系」の一環に位置づけたが、その実質は、要綱中の「要領」に示された「有事即応態勢ノ確立」「勤労動員ノ強化」を目指すもので、学徒に対して、「食料増産、国防施設建設、輸送力増強」(『近代日本教育制度史料』第七巻 二五頁)等の国家的緊要業務に従事せしめることを重点に置き、国防上の見地から生産・労働の組織化を意図したものであったのである。

 高等教育界もまたたく間に決戦態勢への道を辿り、教育と研究の場は破滅的な様相を呈するようになった。在学修業年限短縮、徴集猶予の特典停止と学徒出陣、勤労動員の常時化の中で、学び舎としての大学は、あたかも軍隊に類するが如き組織と化した。学徒出陣に端的に現れたように、大学教育を十分に修得し得ないうちに学生が学窓を離れることを余儀なくされ、遂に教育制度自体が崩壊してしまったのである。尤も、その反面、十八年秋に採られた一連の高等教育政策の如く、きわめて積極的に学術研究の刷新を図ろうとした努力もなかったわけではない。しかし、そうした刷新は、高等教育、とりわけ大学が未曾有の衝撃を与えられたことを意味した。

 先ず、高度の研究者を育成するために十八年九月二十九日、「大学院又は研究科ノ特別研究生ニ関スル件」(文部省令第七十四号)が公布された。その第一条には、「文部大臣ノ指定スル大学令ニ依ル大学ハ其ノ大学院又ハ研究科ニ入ルベキ者ノ中ヨリ本令ニ依リ特別研究生ヲ選定スベシ」(同書 第四巻 七八頁)と規定され、具体的には、選定された大学院特別研究生(研究年限は、第一期二年・第二期三年で、二課程)に対して徴集その他の動員を免除するとともに月額九十円以上の学資を支給し、国策遂行に直接結びつく研究に従事させた。この措置は、この年一月に公布された諸学校令による学制改革の一環として採られたもので、大学令に基づく既存の大学院を整備充実せしめて、学術の飛躍的振興を図るとともに優秀な研究者・技術者を多数養成しようとしたのである。しかし、その立案過程で、文部省はこれを官立大学だけに限定する意向を示したため、官私大学差別構想であるとして、私立大学側より猛反発が起った。この大学院特別研究生制度に対しては、次節に詳述する如く、私立大学の立場から、我が学苑と慶応義塾大学とは同一の歩調を執って対処した。その結果、特別研究生を置くことができる大学は、七帝国大学、東京商科・東京工業・東京文理科の三官立大学と早慶二大学の十二大学に限定され、明らかに大学格差を生んだのである。

 次いで、十月十二日に閣議決定された「教育ニ関スル戦時非常措置方策」は、とりわけ私立大学にとっては、その存立そのものに係わるものであった。この方策自体は、戦争遂行力の増強を図るために国民学校・青年学校・中等学校・高等学校・専門学校および大学の全教育過程に対して要請された非常措置であるが、その狙いの中には、主として高等教育の極端なまでの理工系中心再編成があった。理工系重視の教育政策は、既に満州事変以後、国家の政策と産業界の要請に従って徐々に進められ、日中戦争の拡大とともに一層加速されていたが、ここに至り、遂に極限に到達したと言える。従って、この措置が法文系中心の私立専門学校・大学に与えた衝撃は計り知れないものがあり、私学は興亡の危機に直面したのである。すなわち、この方策は、中等学校に対しては工業・農業の重視、女子に対しては商業の重視政策で、男子商業学校で十九年度に工業学校・農業学校・女子商業学校に転換しないものを整理縮小し、高等学校に対しては十九年度の文科の入学定員を全国を通じ従来の三分の一以内に制限して理科の拡充を図ろうとするものであり、大学・専門学校に対しては、理科系の拡充とともに文科系の理科系への転換を図り、特に私立に対しては、その教育内容を整備するとともに相当数の大学を専門学校に転換させ、また、専門学校の入学定員も従来の二分の一程度に止めようとしたもので、思い切った学校の統合整理が目指された。この方策に基づいて、「教育ニ関スル戦時非常措置ニ関スル件」(十八年十月二十三日)、「教育ニ関スル戦時非常措置方策ニ基ク学校整備要領」(十月)、「教育ニ関スル戦時非常措置方策ニ基ク中等学校教育内容措置要綱ニ関スル件」(十二月二十日)、「国民学校教育ニ関スル戦時非常措置ニ関スル件」(十九年一月十日)、「師範学校ニ於ケル戦時非常措置ニ関スル件」(二月八日)、「商業学校転換ニ伴フ工業学校ノ現場実習ニ関スル件」(三月十七日)等々が相次いで出され、それぞれ具体的な措置が指示された。この中、「教育ニ関スル戦時非常措置方策ニ基ク学校整備要領」に示された大学に関する整備拡充事項は次の如きものであった。

一、帝国大学及官公立大学

(一) 理科系大学及学部ノ整備拡充

理科系大学及学部ノ入学定員ハ高等学校理科卒業者数ノ増加ニ伴ヒ之ガ増員ヲ図ル。

(二) 商科大学ノ刷新整備

(イ) 商科大学ハ産業経営ヲ主眼トスル大学トシテ学部及予科ノ組織、教育内容等ニ根本的ナル刷新ヲ行フ。

(ロ) 商科大学学部及予科ノ入学定員ハ従来ノ入学定員ノ概ネ三分ノ一程度トス。

二、私立大学(大学専門部ヲ含ム)

(一) 理科系大学及専門部ノ整備拡充

理科系大学及専門部ニ付テハ可能ナル限リ之ガ整備拡充ヲ図ルモノトス。

(二) 文科系大学及専門部ニ関スル措置

(イ) 文科系大学及専門部ニ付テハ其ノ組織、教育内容等ニ付必要ナル刷新整備ヲ為スモノトス。

(ロ) 文科系大学ニシテ統合可能ノモノニ付テハ之ガ実現ヲ図ルモノトス。

(ハ) 文科系大学学部及予科ノ入学定員ハ従来ノ入学定員ノ概ネ三分ノ一程度トス。

文科系専門部ノ入学募集ヲ行ハザル大学及統合シタル大学ノ予科ノ入学定員ハ右ニ拘ラズ、従来ノ予科及専門部ノ入学定員ヲ勘案シ特別ノ考慮ヲ為スコトアルモノトス。

(ニ) 文科系専門部ノ入学定員ハ従来ノ入学定員ノ概ネ二分ノ一程度トス。

文科系予科ノ入学募集ヲ行ハザル大学ノ専門部及大学ヨリ転換シタル専門学校ノ入学定員ハ右ニ拘ラズ、従来ノ予科及専門部ノ入学定員ノ概ネ二分ノ一程度ト為スコトヲ得ルモノトス。

(ホ) 文科系大学及専門部ニシテ理科系専門学校へ転換可能ノモノニ付テハ之ガ実現ヲ図ルモノトス。

右ノ大学ニ付テハ現ニ在籍スル学生生徒ノ卒業スル迄ハ之ヲ存置スルモノトスルモ必要ニ応ジ其ノ学生生徒ノ教育ヲ他ノ大学ニ委託スルモノトス。

(へ) 文科系大学及専門部ノ学生生徒ノ教育ニ付テハ授業上ノ関係並ニ防空上ノ見地ニ基キ必要アルトキハ之ヲ他ノ大学及専門部ニ委託スルモノトス。 (『近代日本教育制度史料』第七巻 二三二―二三三頁)

 このように理工系を整備拡充させ、その反面文科系を軽視して、大学や専門部を統廃合するという措置は、文科系の学部や学科のみのいわゆる単科大学や文科系の学部を中心にして発展してきた私立大学には、死活問題となった。この年秋の「在学徴集延期臨時特例」により学生の徴集猶予が停止され、学徒出陣で学窓を離れていったのに加えて、入学定員を従来の三分の一或いは二分の一に大幅に削減されたのは、主として学生の授業料により経営されている以上、経営自体の危機を招来した。更に、私学の存廃に係わるこの措置による整理統合が、具体的な学校名の公表がなかったために、その実施対象校については推測の他なく、私大各校は非常に緊張した。文部省は、十一月に入ると具体的に各学校に対して、個別的に整理統合に着手した。しかし、私学側はこれに対して手を拱いていたわけではなく、実施の過程で反対行動を展開した。例えば、中央大学の場合、文部省学務局長より大学を専門学校に変更するようにとの意を伝えられたのに対して、十一月二十四日、急遽評議会を招集してその善後策を協議し、創立以来六十年の歴史を守るために断乎文部省と戦わねばならないとの決意を固めて、翌日より各方面に対し大々的に運動を展開している(『中央大学七十年史』一六三―一六七頁)。ところで、具体的に大学を整理統合するに当っては、「教育ニ関スル戦時非常措置方策」とこれに基づく学校整備要領等の実施に必要な法制的措置が十分に講ぜられていたわけではなかった。そのため、私学、特に長い歴史を有する各大学側は整理統合に強く抵抗し得たわけであるが、文部省はこれに鑑みて、広範な命令権を持つことができる法的整備を進め、「国民学校令等戦時特例勅令案」を作成した。この勅令案の中、特に第七条は、公立または私立の学校に対して監督官庁が必要ありと認める時は、学校の整理統合、学部・学科または課程の設置および廃止、学徒の定員変更および募集停止ならびに授業の停止、授業の委託および受託、校地および校舎の変更等に対して必要な命令権を行使できる、としていた。そしてこの勅令案は、この年十二月二十七日に枢密院の審議に付されたのである。

 以上の如き、学苑を取り囲む厳しい戦時の状況の中で、学苑は、具体的にはどのような対応を採ったであろうか。特に、理工系重視の学制改革、教育上の非常措置、勤労動員、学徒出陣に関しては本編に、また学苑の犠牲者、罹災等に関しては次編に、節を設けて詳述するが、以下、その概観に触れながら、その他の顕著な対応を取り扱うことにしたい。

二 学苑の対応と苦悩

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 十六年十二月八日、田中総長はこの日、朝九時半より開会予定の大政翼賛会に出席していたが、宣戦布告のため、開会は午後に延ばされた。この時、何が田中の脳裏を去来したか推察はできないが、学苑の最高責任者として強い決意と感慨を以て過したことは確かであろう。文部省は即日、各地方長官、直轄学校、公私立大学高等学校および専門学校各校長に対して、「米国並ニ英国ニ対シ宣戦ノ大詔渙発セラレタルニ付教育ニ従事スル者学徒ハ率先詔書ノ聖旨奉体方」(文部省訓令第三十一号)を左の如く訓令した。

本日米国並ニ英国ニ対シテ戦ヲ宣セラル。辱クモ大詔ヲ渙発シテ国民ノ嚮フベキ所ヲ昭示シ給フ。洵ニ恐懼感激ニ堪ヘズ。惟フニ今次征戦ハ皇国ノ隆替、東亜ノ興廃ノ懸ル所、全国民ハ愈々忠誠ノ精神ヲ励マシ総力ヲ挙ゲテ奉公ノ悃ヲ効シテ危局突破ニ邁進スベキノ秋ニシテ、国体ノ本義ニ徹シテ国本ニ培フノ要極メテ切ナリ。事ニ教育ニ従事スル者ハ其ノ責務ノ極メテ重大ナルヲ念ヒ思想ヲ純堅ニシ率先躬行師表タルノ実ヲ挙ゲテ其ノ任ヲ竭スベク、学徒タル者ハ光輝アル皇国ノ歴史的使命大東亜建設ノ雄深ナル意義ニ深ク思ヲ致シ、相共ニ克ク身心ヲ錬磨シ学業ヲ研鑚シテ負荷ノ大任ヲ全ウスルニ勗ムルト共ニ、質実剛健敏速果敢以テ軍国ノ要請ニ応へ其ノ本分ヲ格守センコトヲ期スベシ。 (『近代日本教育制度史料』第一巻 四六頁)

 田中総長は十二月十一日、東京放送局(JOAK)で午後六時三十分より五十分まで、恐らく学界教育界を代表する形で、「我等の決意」と題して放送し、「忍び難きを忍び、耐へ難きを耐へ、隠忍自重」していた状況の中で開戦に至った今、「宣戦布告の劈頭、先づ世界戦史に比類なき大勝を博したことは、弥が上にも国民の士気を鼓舞したのでありまして、我々国民は必ずや一億一心鉄石の覚悟を以て、最後の勝利を収むるまでは、一路邁進することを確信して疑はざるものであります」(『早稲田学報』昭和十七年一月発行 第五六三号 四頁)と、決意のほどを表明した。学徒錬成部教授今田竹千代は、「学徒錬成の本義」と題して、「私は学生に対し学徒錬成部に於て機会ある毎に、八紘一宇の精神を説き、肇国の大理想を説いて来たが、……学徒錬成の本義は世界維新戦争に敢然身を挺して『しこのみたて』となることにある」(同誌昭和十六年十二月発行 第五六二号 三頁)と記し、いよいよ「しこのみたて」となるべき「志士的学徒」の養成に邁進する覚悟を披瀝した。教授五十嵐力も、「宣戦の夜の感激」と題して、「日清の日露の後のかがやきをこの役の後にまた見るらんぞ」(『早稲田大学新聞』昭和十六年十二月十日号)と詠いあげた。

 こうした中から、学苑は、学制上の改正や戦時対応措置を次々に行っていったのである。特にこの時期には、国を挙げての科学技術振興の要請に応えて、一段と理工系部門の拡充に努めたのであった。すなわち、理工学部における電気通信学科、土木工学科、石油工学科、工業経営学科の新設または独立、専門部における工科の新設等がその最も顕著なものであるが、これらは九九〇頁以下に詳述することにする。また結局実現することなく終ったものに農学部なり専門部農科なりの新設計画があったが、これについては第四巻に譲る。更に、理工学研究所ならびに鋳物研究所を興亜経済研究所の如く大学直属に改めたのも戦時対応措置と認められるが、これに関しては既述(九二八頁)したところである。

 さて、昭和十八年秋に採られた高等教育政策の中で、大学院問題と学校整理統合問題が最も大きな出来事であったことは前に触れたが、その際、学苑はいかなる対応をしたか。これに言及する前に、学苑幹事で庶務部長の大島正一が十七年二月に、昭和十六年を回顧して次のように述べている個所を引用しておきたい。

教育界に於ても修業年限短縮、報国隊結成、学徒錬成強化、進学者推薦制度、学生定員問題、計画教育問題、私学国家管理論、外国語問題等幾多の画期的変革が行はれ計画せられ、又論議せられた年である。……昨今計画教育論が大分問題となつて論議されて来た、即ち現在の自由教育を改革して国家が必要とする学校教育の種類と量とを統制制限せんとする論である、彼の中等実業学校又は実業専門学校卒業生の上級学校への進学に対する制限即ち推薦制の如きもその現はれの一つと見る事が出来るが、現在問題となつて居ることは文科系統学生定員増加の抑制と私学に対する一種の国家管理論である。……少くとも理科六、文科四、又は更に理七文三の程度にまで改めんとするのである。これが為めには勢ひ私学の国家統制案が唱へられ国家全体として一元的に国民職能計画を基礎とし如何なる種類程度の学校に、幾何の学生を収容すべきかを定め、これに基いて或は入学志願を抑制し或は強制的に配当せんとする国家統制下の計画教育へ転換せしめんとするのである。文部当局が今回全国の各私立大学に対し学生定員の厳守を命じ又将来文科学生の定員増加を抑制せんとする方針に出でたのも其第一歩と見てよい。これと同時に今日の大学専門学校の大都市集中を改めて合理的計画的な分布配置を計るべきだと云ふのである。これに付随して学区制の問題があり、私大統合問題があり、奨学資金制度の問題、修学年限の問題等がある。

(同紙 昭和十七年二月二十五日号)

太平洋戦争に入ったこの十六年を、大島は語を続けて、「幾多の問題を将来の解決に残した年」としたのであった。そして、十八年は、こうした諸問題が戦時情勢に伴って急速に「解決」されなければならない年となり、その矢継ぎ早の措置が講じられた年であった。換言すれば、それだけ戦況の悪化が色濃く反映されていたわけである。大学院問題にせよ、学校整理統合問題にせよ、この十八年に突如として浮上したものではなく、大島の言にあるように、太平洋戦争突入を機として早晩然るべき措置が採られるであろうことが予想されていたのであった。

 さて、大学院問題は、十八年一月二十一日公布の「大学令中改正」その他の学制改革の一環として、文部省が大学院制度の改革を図ろうとした際に起ったものである。当初この改革案には、官私大学差別の意向が示されていたため、私立大学側が反発したことは前述(九七五頁)の通りである。学苑では私立大学の立場から、本改革案実施の暁には、将来官立大学院出身者による私学支配を懸念するとともに、単に私学の問題としてではなく、広く大学院の使命を考え、官私大学の公平を期するべきであるとの基本姿勢を以て、この問題に対処した。田中総長は十八年一月二十日、文部省をはじめ各関係方面に左の大学院に関する意見書を発表・配布するとともに、これを『早稲田学報』および『早稲田大学新聞』に掲載して、文部当局に強く善処を要望した。

国家興廃の岐るる非常時局に直面し、軍事上の必要より学制の改革、大学教育の年限短縮を断行せざるべからずとせば事情已むを得ざることを認め政府の方針に協力し、最善の努力を傾倒して大学卒業生の学力若くは人物錬成に遺憾なきを期すべきは素より論を俟たず。而して政府は年期短縮の結果大学卒業生の学力低下を防止すると同時に、更らに一歩を進め優秀なる学者を養成する目的を以て帝国大学の大学院を拡充整備し、年々全国官私大学の卒業者中より五百名を限り文部省に於て選抜試験を行ひ、之れを七帝国大学に配付して研究に従事せしめ、此種の学生に対しては年額一千円の奨学金を数年に亙りて支給し、同時に徴兵猶予の特典を与ふる計画ありと云ふ。該計画は率然として之を聞けば時宜に適せるが如きも、其実は官私大学を平等視せる三十年来の伝統を破壊し、官学万能の旧態を復活するのみならず、我邦文化の発展を根柢より阻礙するものにして、到底之を黙過すること能はず、即ち其理由を列挙すれば、

第一 官私大学が有する大学院の使命は一般学者の養成にあるも、最も重点を置く所のものは即ち其大学自体に於て将来教授たるべき人材の養成にあり。然るに政府案によれば例へば早稲田大学の教授たるべき人材の養成も、之れを帝国大学に托することとなり、我邦官私四十余校の大学の教授、助教授は挙げて帝国大学に於ける大学院の出身者のみを以てする結果を出現すべく、此の如きは官私大学各其特長を発揮して我邦文化の発展を促進する所以にあらず。

第二 元来大学院の整備拡充は年期短縮の結果大学卒業生の学力低下を防止すると同時に、更らに一歩を進め優秀なる学生を養成するにありとせば、官私を問はず大学院の整備拡充に思を致すべきに拘はらず、之れを七帝国大学院のみに限るは本末矛盾の非難を免れず。

第三 内に一億の国民を擁し外に幾億の大東亜民族を指導提撕すべき有史未曾有の重大使命を荷へる日本が、優秀卓抜なる学者の養成を僅かに五百名に限るが如きは、余りに其規模の小に失するものにして、須く官私大学の有する大学院の拡充整備に向つて邁進せざるべからず。

第四 政府は全国官私大学の卒業者中より五百名を募集する選抜試験は文部省に於て之れを行ふと云ふも、其試験委員を主として官立大学の教授中より任命するに於ては受験者にとり不公平を免れず、現に現行の国家試験に於ても此不公平あるが故に私学の秀才は国家試験を忌避する傾向あるは争ふべからず。

第五 加之唯一回の選抜試験に依りて其学生の天分才能を確認するが如きは至難の業にして、寧ろ官私大学々部の教授会をして大学院学生の詮衡に最善の方法を講ぜしむるの正確なるに如かず。

以上の理由により政府案は幾多の欠点を有し、之れを実行に移すに於ては我邦の大学教育を根柢より攪乱し、延て文化の頽廃を招致する重大なる結果を齎すべきは火を睹るよりも明かなるが故に、寧ろ政府は大学院の拡充整備に当つる金額を官私大学に公平に分配し、其使途を大学院学生の養成に限定し、少くとも毎年一回詳細なる報告書を文部省に提出せしむるの簡易にして適切妥当の方法に如かずと確信す。 (『早稲田学報』昭和十八年一月発行 第五七五号 八―九頁)

 また早稲田大学新聞研究会長工藤直太郎(第一高等学院教授)も『早稲田大学新聞』一月二十七日号に社説の形で「学制改革と大学院問題」と題し、文部省に再考を促し、田中の意見書と同様の見解を主張した。田中の意見書発表の翌二十一日に「大学令中改正」その他の勅令が公布され、在学修業年限の短縮措置が採られたが、大学院制度改革は、同日、文部省総務局長藤野恵が、「学制改革の意義」として、「学制改革と併行して大学院制度の画期的改革、大学における緊要なる講座の増設充実、研究機関の増設拡充、科学研究費および科学奨励金の増額ならびに海外文献の翻訳に関する機構の整備等各般の方策を講ずることとし既にこれに伴ふ予算その他必要なる準備はそれぞれとり進められてゐる」(『朝日新聞』昭和十八年一月二十一日号)と発言している如く、未だ準備段階で、具体的な成案ができ上がっていたのではなかったから、田中らの反対意見は、官学偏重の大学院構想が実施されないよう、その立案過程で私学の抵抗姿勢を示したものであった。田中総長はこの問題につき、慶応義塾長小泉信三に協力を求めた。小泉は、田中の没後に、「故橋田〔邦彦〕文相のとき、大学院に於ける特別研究生の制度新設につき帝国大学と私立大学との間に差別を置くやうな案が立てられたことがある。その時も田中氏は直ちに文部省に文相次官等を訪問して反対意見を述べ、多分その足で、慶応に私を尋ね、よかつたら賛成して協力してくれないかと言はれた。私は一議に及ばず賛成して文部省に意見書を提出し、また新聞に寄稿して所見を発表した。その為めかあらぬか、差別的取扱ひは遂に実現しなかつた。これも田中氏の活動の一である」(加藤中庸編『田中総長追想録』九六頁)と回顧している。すなわち、小泉塾長は、文部当局に対して「大学院問題所見」と題する意見書を提出するとともに、新聞や『三田評論』(昭和十八年二月発行第五四一号)誌上で官私の差別は容認できないと力説した。早慶両大学は、同一歩調を執ったわけである。

 文部省は六月二日この件に関して、各帝国大学総長、官立の文理科・商科・工業各大学長と、私立では早・慶両大学総長、塾長と、意見交換の協議会を開催した。その協議内容は、新制大学院と現行大学院との関連問題、新制大学院の年限問題、新制大学院の定員および収容力の問題、新制大学院の銓衡方法の問題(銓衡委員会の設置の問題、当該大学卒業生の推薦方法の問題、当該大学卒業生以外の候補者の推薦問題〈他の大学の卒業者、専門学校卒業者、一般実務に携われる者、軍部または各省よりの推薦者〉)、指導教官および研究施設の問題、新制大学院修了者に対する勤務命令の問題に関するものであったという(『慶応義塾百年史』中巻(後)八四五―八四六頁)。協議の結果、文部省は、この年は東京・京都・東北・九州・北海道・大阪・名古屋の七帝国大学と、東京商大・東京工大・東京文理科大の三官立大学と、私立では早・慶両大学のみを対象とする大学院改革の方針を採るに至り、九月二十九日に「大学院又ハ研究科ノ特別研究生ニ関スル件」(文部省令第七十四号)を公布し、十月一日より実施するとした。

 この新制度は、前述の如く、大学院に特別研究生(第一期課程二年間、第二期課程三年間)を置き、国家が研究補助金を与えて、少壮学究を責任養成しようとするものであった。しかし、そもそもこの新制度は大学令の抜本的改正によらなければならないのを、戦時を反映して省令で一時的に糊塗しようとした措置であり、このため、当分の間現行制度と新制度、すなわち一般研究生と特別研究生とが雑居する形となった。文部省は、新制度の趣旨に基づき各大学に在来の大学院を漸次縮小させ、近い将来に新制度へ一本化させることを目指していた。

 さて、特別研究生は、文部次官を会長とする特別研究生銓衡会で選ばれた。文部省からは総務・専門両局長、大学側からは特別研究生を置く七帝国大学と東京の三官立大学および早・慶両大学の各総長・学長、また関係官庁からは企画院第三部長、陸軍省兵務局長、海軍省人事局長が委員となり、九月二十八日に初銓衡会が開かれて、四百三十四名(定員四百六十九名)が初めての特別研究生に選定された。その六割は本年度の卒業生で、殆ど全員が二十代の新進学徒であった。銓衡の基準は、自然科学・人文科学を通じ戦争完遂に必要な事項の研究者に限定され、電波、航空、船舶、火薬などの部門に集中したが、人文系でも大東亜共栄圏建設に関する理念研究または戦争経済遂行に関する理論研究に従う者が主とされた。すなわち、選ばれたのは決戦下の戦力増強に直接関係ある者のみだったのである。

 田中総長は、省令の公布に際して、私立大学人としての自負と見識とを示した次の如き談話を発表している。

私学除外の文部省原案に反対した自分としては、今回早慶両大学にもこの制度が設置されたことを衷心から欣ぶものである。ただ官学に比して私大の大学院学生の割当人数が少かつたことは遺憾であるが、最初の文部省原案を覆して割込んだ形の私学としては、この際一応満足すべきであらう。われわれとしては選ばれた名誉とともに責任の重大さを十分に自覚して、国家の要請する学者の養成にひたすら全力を尽す覚悟である。ただ強調しておきたいのは、学問の研究は短時日で大成されるものでは決してないので、われわれが新制度に期待するところは、これによつてただちに戦争に役立つ学問の功績をあげようとするところにあるのではなく、求めるところは他日の大成にある。我が国の学者の最も大きな欠点としては、由来研究の領域があまりに狭い専門の立場に偏しすぎたことで、短時日の間に長足の進歩を遂げる国家の要請に応ずるためには、いままではこれもやむを得なかつたかも知れぬが、結局狭い地盤のうへには大きな金字塔は築けないのである。

(『朝日新聞』昭和十八年九月三十日号)

 なお、この省令の公布に先立ち、文部省は当該各大学に対して特別研究生の候補者推薦を照会しており、学苑は八月十九日付で文部大臣に対して「大学院特別研究生候補者推薦ニ関スル件」として、十七名を推薦している。八月二十三日と九月四日に二名の推薦変更があり、結局、大学院特別研究生の第一期課程に選定された者は、政治経済学部一名(多田幸二)、法学部一名(宮川澄)、文学部一名(丹野正)、商学部二名(矢島保男、原田俊夫)、理工学部十二名(伊藤鋭一、伊藤毅、椎橋隆太郎、森田豊夫、松井源吾、飯塚五郎蔵、多田長定、小林利定、石山四郎、神田芳郎、松浦佑次、雄谷重夫)の計十七名であり、彼らは十八年十月に入学した。因に、この年十八年四月現在の大学院在籍者数は、昭和十八年九月三日付「大学院学生調査ニ関スル件」によれば、政治経済学部十二名(うち他大学出身者――以下同様――六名)、法学部十三名(一名)、文学部十九名(二名)、商学部四名(一名)、理工学部十一名(零)の合計五十九名である。この五十九名の人名は判明しないが一年生より七年生までの全在籍者数で、一年生は二十八名である。特別研究生に選定された十七名中にはこの年九月の学部卒業者も含まれているが、いずれにせよ当時の大学院在籍者中およそ三割ほどに当る者が第一期生に選定されたのであった。ところで、戦時下にあって、こうした新制度の中で特別研究生に選ばれた者の中でも、当時政治経済学部教務主任であった小松芳喬が回顧して、「学生の間には、友人諸君が兵役に服するのに、独り免れて恬然としているのを潔しとしないという空気が強く、伊達邦春君などもそれに選ばれながら辞退したのを覚えています」(『雨のコツウォウルヅ』二一七頁)と述べているように、自己の学究生活と逼迫した戦時情況の狭間の中で苦悩する者は決して少くなかったと思われるのである。

 学校の整理統合問題に関しては、結論から言えば、学苑では統廃合そのものは行われなかった。しかし、政府の文教政策には従わざるを得ず、十八年十一月十二日の理事会は、学校整理統合を議題として取り上げ、政府の方針に従い善処することを決めている。もともと統廃合は理工系重視と文科系学生の動員政策を前提としていたため、この趣旨に副って、前述の如く種々の対応措置を採ったのであるが、その中で、商学部の名称変更問題が起った。これは、前述の十八年十月の文部省公表「教育ニ関スル戦時非常措置方策ニ基ク学校整備要領」中に官公立の商科大学の刷新整備が掲げられ、定員縮小とともに産業経営を主眼とする大学を目指すべき方針が採られたことに関連する。当時、これに基づき、東京商科大学と神戸商業大学が、十九年九月二十七日公布の「官立商業大学官制中改正」(勅令第五百五十八号)で、それぞれ東京産業大学、神戸経済大学と改称されたのは、その一例である。学苑では、十八年十二月九日の理事会で、商学部の経営学部改称案を審議し、今後の研究課題としている。商学部の名称変更については、当時の学部長北沢新次郎は大反対で、戦後に、「〔軍部は〕一億一心、挙国耐乏のさいに、営利を目的とする商業をやること自体がけしからん、と言いだした。……文部省までが、商業、商学と名のつく学校や学部にたいして、その改廃を訓示した。その結果、全国にわたって『商』の字を『経営』という字に改めた学校が多かった。……商学部は、物資の売買、配給、運輸、会計、保険などを研究する場で、これらは、戦時においても必要であるばかりでなく、戦争は無限につづくものではない。いずれ平時になれば外国貿易もおこなわれるのであるから、商学の研究は戦時にもやるべきである。したがって、商学部は改廃すべきでない、と主張して、商学部の名称を頑として変更しなかった」(『歴史の歯車』一九六―一九七頁)と回想している。しかし、この件は、二十年二月一日に至り、四月一日よりの実施を目指して産業経営学部と変更して、その学則認可を文部大臣に申請し、産業経営学部の名称での学科配当表も作成したが、すぐさま認可されることなく、やがて敗戦を迎えたため、学苑は九月十五日付で「都合ニ依リ」申請撤回を願い出て、十月二十四日付を以て書類は返戻された。認可が早急になされなかった理由は不明であるが、いずれにせよ商学部にとっては、実に幸いなことであった。他方、専門部の商科と専門学校の商科の場合は、遂に十九年四月にそれぞれ経営科と改称されたのであった。

 一方、こうした学制関係の改編措置と相俟って、学徒錬成部の機能も充実された。十六年の春から、体育会を学徒錬成部に統合する計画が進められ、既述(九六三頁)の如く、翌十七年十月二十二日体育会解散式を行い、学徒錬成部は一段と拡充された。またこの年一月十五日には、九六六―九六八頁に既述したように、高等師範部に修身および体錬科の中等教育養成のための国民体錬科の新設認可を申請し、三月二日に認可を得て、四月より開講している。国民体錬科は、単に学校教育に止まらず、広く会社・工場等の青少年を指導し、身心の錬成に当り得る人材の育成を目的とするものであった。

 学苑は、以上の如き研究・教育施設の拡充と並行する形で、その他種々の学苑運営に関する対応を講じた。先ず学生生徒の授業料を最大の経営財源とする私学として、在学修業年限短縮、卒業繰上げは、経営面からもきわめて重大な意味を持った。十六年秋、文部当局によりこの措置が採られると、十月二日、理事会は、卒業期繰上げに伴う翌年一月より三月に至る期間の教員給支給内規について検討し、それとともに学費値上げを計画せざるを得なくなった。翌十七年三月五日、教員の授業給についてはこの段階では全額を支給することとし、学費の徴収時期を現行の四月・九月・一月を四月・七月・一月(十月に学期開始の学部学生については十月・一月・四月)に改めた。三月二十四日には、卒業期の六ヵ月繰上げに伴い学費も六ヵ月分を免除することを決定したが、同時にこれに対処するため学費を値上げし、これを九月から実施することを三十日に決定したのである。この後更に翌十八年十二月二十三日には再び十九年度より値上げを決定し、翌十九年一月十四日その詳細を発表した。この時の値上げはきわめて大幅であり、在学生は四割増しで、新入生に対しては実に八割増しにせざるを得ない事態になっていたのである。また、教員に対する処遇の検討も迫られた。当時学苑には、十七年十二月現在で、専任・非常勤を合せて六百数十名の教員と、三百数十名の職員とで、合計約千人が在職していた。十八年十月七日、理事会は非常時対策として、十一月限りで兼任教員(現在の非常勤講師で、当時は臨時講師或いは時間講師などと呼ばれていた)の解任決定を余儀なくされた。その対象となった教員は、文科系の整備縮小に伴い、当然語学をはじめとする文科系教員が多かった。この時十八年十月三十一日付で一斉に解任となった教員は、内ヶ崎作三郎小汀利得、嘉治隆一、喜多壮一郎、金田一京助、桑木厳翼、村岡典嗣、坪内士行ら約百四十名で、文科系学部と専門学校の教員がその大半を占めていたが'十八年度中における教員の解任は、十九年十月二十三日付で文部大臣に提出した「昭和十八年度事業報告」によれば、教員全体の約二割にも達していたのである。学徒出陣、勤労動員、空襲などへの対策に加えて、教員に対するこのような非常措置の様子を、当時専門部法律科長であった中村宗雄は、後に述懐して、「学生が少なくなるとまず臨時講師が、つぎに専任の先生にもやめていただくという事態になっていった。学生数は減ったが、学科目は減らない。残ったわれわれは八宗兼学で、僕は民訴、民法の外、一時ではあるが法制史、法哲学などを受け持った」(『早稲田学報』昭和四十二年七月発行 第七七三号 一四頁)と述べている。また、当時政治経済学部経済学科教務主任であった小松芳喬も、政治学科教務主任の川原篤と手分けして、職務柄非常勤講師の解任を通告せざるを得ないことになり、「政治経済学部の場合、非常勤の講師は一〇〇パーセントおやめいただくことになり、私はそのお宅を一軒一軒まわって、それをお伝えして、低頭してお詑びを繰り返しました。大多数の先生方は、幸いにも大学当局のやむをえぬ措置をご理解下さいましたが、中には誤解された方もあり、喜多壮一郎先生などは後々までも、私に辞めさせられたとおっしゃるのが常でした。ともかくつらい役目で、貧乏籤を引いた思いがしました」(直話)と、その苦労の一端を述懐している。

 ところで、右の事情による教員の解任に関してせめてもの救いとなったのは、十八年より実施された教員停年制であった。教職員の停年制は、既に、昭和二年には体操および教練教師が満五十五歳を以て、また九年からは一般職員が満六十歳(副課長、副主事以上は六十五歳)を以て、それぞれ実施されたが、教員に関しては十二年十二月より十三年五月にかけて検討を重ね、十三年六月一日付で教員各人に対して満七十歳を以て停年とすることを報知するとともに、十八年四月一日より実施する旨が通知された。その実施最初の停年教員十七名の送別会は十七年十二月十一日に帝国ホテルで行われ、長年月に亘り母校に尽してきた最長老の教員については、この制度によって、無理なく退職が実現していたからである。因にこの第一回の停年教員は、伊東忠太、磯谷幸次郎、市村瓚次郎、大久保常正、大束直太郎、勝俣銓吉郎、佐伯美津留、塩沢昌貞信夫淳平高杉滝蔵、永井一孝、中桐確太郎、秦孝道、深沢由次郎、保科孝一、松平康国、牧野鑑造の十七名の教授・講師で、十八年四月一日付を以て一挙にこの錚々たる教授陣が退職していたのであった。

三 理工科系重視の学制改革

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 昭和七年の学制改革から十八年の学徒出陣へ至るまでの学苑のカリキュラム改革は、十年度の理工学部工業経営分科、十三年度の理工学部応用金属学科、十四年度の専門部工科(四学科)、十五年度の高等工学校応用化学科、十七年度の理工学部電気通信学科と高等師範部国民体錬科、十八年度の理工学部の石油工学科・土木工学科・工業経営学科、これらの増設と、十年度の商学部選択科目の七分科制から二部制への変更および十七年度の選択科目制廃止、文学部の十二―十五年度の基礎学科目設置ならびに若干の専攻の改編、十六年度の第一・第二高等学院特修科設置、十八年度の高等師範部英語科の生徒募集一時停止、そして工手学校と高等工学校の修業年限延長とが主なものである。従って、この時期の改革の流れは概ね理工系を重視する傾向にあったと言えよう。この間、戦争遂行という非情な国家体制の下で、十六年度以降になると在学・修業年限臨時短縮と繰上げ卒業を強いられ、軍事教練の強化と学徒勤労作業の導入により教室での勉学にも戦争の影響がひしひしと感じられ始めるようになる。

 昭和七年の改革が自学自習を目指して選択科目制を大幅に導入した点に特徴があり、この趣旨に沿って商学部では選択科目七分科制を採用したことは本編第五章一に記述したが、更に十年度には「学生ノ自発的研究ノ誘導ト個性発揮的教育方針ニ拠リ」この七分科制が廃せられて二部制が採用され、第二・三学年において第一部から二科目、第二部から一科目を選択させるよう改められた後、十七年度になると、昭和七年以降の改革は一応白紙還元せられ、「学生ヲシテ、基本的ナル主要学科ニ集中セシムル」ため、選択科目制の廃止に止まらず、従来随意科目であった外国語を選択必修に改めた。

 昭和十一年秋以来、文学部は吉江喬松学部長(昭和七年十月嘱任)を中心に、哲学・文学・史学を総合するような基礎学科目を置いて学生に広い展望と長期的視野を持たせようと計画し、同年十二月六日から教授会を三回重ね、同月二十日に独自の改革案を決定、翌年二月三日に文部省へ学則変更を申請し、三月十日に認可を得た。変更部分は、「学生ノ漸減並ニ適当ナル指導教員ヲ得難キ理由ヲ以テ」露西亜文学専攻を廃止することと、基礎学科目の設置とである。後者について申請書には次のように説明されている。

本大学文学部ハ過去約十五年間、哲学、文学、史学ノ三学科ノ各ニ於テ特殊専攻科ノ設立ニ努メ文化進展ノ方向ヲ明カニシ来レルガ、今回ソレ等ノモノヲ一応統制綜合ニ導ク精神ヲ以テ、文学部トシテ一段広キ共通基礎ニ立チ学生等ヲシテ遠キ展望ノ下ニ集注的研鑽を為サシムルタメ基礎根幹ノ必須学科ヲ確立シ、コノ根幹ヲ通シテ初メテ各専攻ヲ撰バシムル意図ノ下ニ学科制度ニ対シテ多少ノ改新ヲ加ヘタル次第ナリ、今回制度変更ハ要之学生ノ視野ヲ展キ深キ人格ノ涵養ニ資セシメンガタメニ他ナラザルナリ。

 昭和十二年度の学科配当表には、第一学年に、東洋哲学史(福井)・西洋哲学史(桑木)・文学汎論(吉江)・日本文化史(西村)・社会学(松田)、第二学年に、近代思潮(桑木)・美学(金子)が、いずれも二時間ずつ必修科目として掲げられているが、この改正により文学部の科目編成は、三学科共通の基礎学科目と、哲・文両学科における専攻共通科目(史学科のみは十三年度より専攻共通科目が発足した)と、各専攻の科目とに、三層構造化されたことになる。そして吉江は、「学生の視野を広く、且深い人格の涵養に資せんが為学科制度を改正したのだ。唯一専攻科目のみでは文学も語れないから人間性の機能を全的に解放して広い展望と視野とを以て基礎、根幹を修めその後に専攻に邁進するのが本道であると考える。必修科目が増加したからといって授業日数も増したわけではなく従来の選択科目が減つて居るから学生はその負担に苦しむ事はない。……今後も時勢に並行して改正すべき所は改正して行く」(『早稲田大学新聞』昭和十二年一月二十七日号)と語っている。吉江の語った通りに、翌年度は一段と科目が充実し、日本思想史(津田)・文芸学(山岸)・社会思想史(関)が第二学年に配当され、前年の近代思潮は近代哲学と名を変えた。そして十四年度からは第二学年に更に倫理学(杉森)が加えられた。しかし、こうして順調に船出した新学科目の行手は、吉江が十五年三月に病死するや早くも暗澹となった。すなわち十五年度は文学汎論が休講となり、基礎学科目はこの年度限りで廃止されたのである。そして十六年度からは、単なる各学科共通科目として人類思想史・日本文化史・東洋哲学史・文学汎論(本間)が第一学年に配当されるに過ぎなくなった。このように変遷を辿ると、基礎学科目制の生みの親であり育ての親であったのは、何といっても吉江喬松だと言わざるを得ない。彼は従来の近代日本芸術の大半を「根無し草」と批判し、本当の日本の芸術は何かを追求している。例えば「従来無自覚を強ひられてゐた大多数の日本人が、自己創造の芸術感を痛感するとき、ここに独特の新文明がこの島国に初めて開展し来るであらう」(『近代文明と芸術』二三頁)というように、芸術が国民大多数のものとならねば真の芸術とは言えず、また「移植の方に急であって……環境なき芸術、時代相なき文芸、民族性を欠いた文芸が作り出さ」れている限り、それは日本の芸術ではないと主張している(同書 二三頁)。そして文芸の民族性と国際性を、「土着性・郷土性」と「独立性・伸展性」で表現し、「生成」においては民族性の制限下にあるが、「発動」の次元では国際性・普遍性を持つべきだと説く。僅か四年間ではあったが、当時の英才を集めて形成された基礎学科目制の意義は、和漢洋統合で出発した文学科の伝統を復活させたものとも言えるし、大正デモクラシーの流れに逆行することのない自立的個人の形成を目指すものとも理解すべきであろうか。

 文学科の露西亜文学専攻が廃止のやむなきに至ったことは上述したが、このほかにも哲学科において、十三年度に芸術学専攻が新設され、翌十四年度には支那哲学専攻が支那学専攻と、西洋哲学専攻が哲学専攻と、それぞれ改称し、印度哲学専攻が廃止された。更に十六年度になると、支那学専攻が廃止される代りに東洋哲学専攻が復活し、哲学専攻も西洋哲学専攻の旧称に復したほか、教育学専攻を増設している。このように哲学科の構成は、どちらかと言えば時局の要請とは関係なく目まぐるしく変転し、東洋哲学・西洋哲学・心理学・倫理学・社会学・芸術学・教育学の七専攻編成となった。

 第一・第二高等学院の学制改革では、十六年度の特修科設置が注目される。すなわち「学校教練の強化、体錬、錬成、勤労作業」を主とし、学徒錬成部でこれらを行う錬成科と、従来の学友会に替えて、「科学、語学、芸術、国防、武道、競技」から選択必修させる特修科とを設置し、午前の国民科・自然科学科・外国語科、午後の錬成科・特修科の五体系に編成しようとするものであったが、このうち錬成科は実現に至らなかった。実施に移された特修科は、第一高等学院では語学・文化・科学・芸術・国防武道競技の五特修班に、第二高等学院では第一(哲学及科学)・第二(語学及芸術)・第三(国防・武道・競技)の三特修科に分け、それぞれの班ないし科から一科を選択せしめて、その授業を午後に行ったのである。国策の影響を直接受けたのは、十七年度、第二高等学院における三年制課程の併設であった。従来の二年制第二高等学院はこれまで通り五年制中学卒業者を受け入れるが、新設の三年制課程は、第一高等学院と同じく、中学四年修了以上を入学資格とした。三年制課程の設置は、近く高等学校において修業年限の半年短縮が実施されることが明白となり、これが実現すると、二年制課程の第二高等学院の修業年限が一年半へ更に短くなってしまうのを是正するためである。十七年度には第二高等学院定員の半数を二年制課程へ、残る半数を三年制課程へ入学させた。そして十八年度からは三年制課程のみに変更する予定であったが、十八年一月に改正された「高等学校令」および「大学令」では高等学校高等科および大学予科の修業年限が二年と定められたので、十八年度から第一・第二高等学院とも修業年限が二年に変更・短縮された。この経緯については一〇三一―一〇三三頁に譲る。

 さて、高等師範部は、九六六―九六八頁に説述した如く、十七年度より、修身科および体錬科の教員を養成するための国民体錬科を設け、国語漢文科、英語科と合せて三科編成となった。国民体錬科の設置は既に十六年二月二十五日に申請され、三月二日に認可を得ていたが、同月二十七日学苑は開講の一年延期を決定し、翌十七年一月十五日に再申請、三月二日に認可され、四月より実施に漕ぎ着けたのであった。しかし国民体錬科の生徒は体躯に恵まれていたため、全員が徴兵される運命にあった。他方、英語科は、十八年四月より生徒募集の一時停止に踏み切った。入学志願者が減少したのみならず、せっかく入学しても転科希望者が後を絶たず、加えて、英語科教員養成機関としては文学部の英文学専攻のみで十分であるとの判断が働いたためであった。こうして英語科は二年生以上が在籍するのみとなり、生徒募集が再開されて往年の活気を取り戻すのは、戦後、二十一年以後のことである。

 十八年度には専門学校でも若干の改革が施された。従来の第一・二学年の選択科目制は廃止され、第三学年において、二類に分けた選択科目群より各一科目を選択させることにしたのである。また商科は、専門部商科について既述(九〇頁、二五八頁)したように、実業学校教員資格を志望する者のための第一部と、それ以外の第二部とに分けた。これは十八年二月八日に申請され、三月十六日に認可されている。

 アジアで最初の産業革命を成就し、第一次世界大戦を経て世界列強の仲間入りを果した日本の最重要課題は、産業の重化学工業化であった。これは企業経営の大規模化を促さずにはおかず、十九世紀後期よりアメリカで盛んに話題となった科学的経営管理が、漸く日本でも論じられ始めるに至った。こうした動向を背景に、学苑理工学部のカリキュラム改革が始まった。

 昭和十年度、理工学部各学科に工業経営分科が新設された。十年四月開講を予定して文部省への認可申請は八年十二月二十六日、認可は翌九年四月十日であり、比較的長くかかって認可されたことになる。この間、山本学部長は説明のため文部省に殆ど日参したという(『山本忠興伝』一一一頁)。学生定員の変更を伴わないこの新分科設置の理由は次の通りである。

我国工業界ニ於テハ工学ニ関スル学理並ニ応用ノ学術ヲ修得シ併セテ監理的経営的業務ニ関スル智識ヲ有スル者ヲ要求スルヤ久シ、於是本大学ハ理工学部中ニ従来ノ機械工学科、電気工学科、採鉱冶金学科、建築学科及応用化学科ノ外ニ新ニ工業経営学科ヲ設ケ工学並ニ業務上緊要ナル学科目ヲ必修セシメ之ガ基礎的智識ヲ与フルト共ニ選択科目ニ於テ工学ニ関スル各種学科目ヲ選択修習セシメ更ニ広汎ナル工業智識ノ充実ヲ期シ以テ時代ノ要求ニ応ゼントス。

昭和十年四月二十四日付『早稲田大学新聞』は、「各大学のトツプ/経営の才ある技術者を養成/理工学部の誇り」という見出しの下に、「理工学部では今春新学期と共に、工業経営〔分〕科が新設され斬新な技術と経営二方面の総合教育を行ふことになつた。右は既に米国において好成績をあげてゐるが時代の要求に応じて円満な社会人として経営の才ある技術者を養成せんとするもので……学園は他校大学のトツプを切つて今学期から設けた」と報じ、電気工学科の堤秀夫の談話を載せている。それによれば、例えば「電気〔工学〕科では七十単位をとれば卒業となつていたが、工業経営〔分〕科に入ると、四十五単位を工業理論に二十五単位を経営学に振りむけられるものである……この試みは米国において所謂インダストリアル・アドミニストレーシヨン又はマネージメント……と呼ばれてゐるものに相当するもので米国では可成りの成功を収めてゐる、或意味において之は『文』・『理』の綜合である。」そして山本忠興学部長が分科教務主任を兼任し、上田輝雄(昭六理)が指導に当り、翌年度から上田が教務主任となった。

 各学科の工業経営分科に共通する経営学関連科目を、第一―三学年の全科目が完成した昭和十二年度の学科配当表から拾い出すと、経済原論(林癸未夫)、法学通論(寺尾元彦)、通信文演習(名取順一)、外国語演習(外人講師)、統計学(森数樹)、金融経済(出井盛之)、産業法制(同)、産業発達史(同)、工業管理A・B(波多野貞夫)、工業管理演習A・B(同)、会計学(長谷川安兵衛)、交通経済(島田孝一)、商業学(小林行昌上坂酉蔵)となる。

 では、田中総長と理工学部首脳は、何故にかような革新的学科設置に踏み切ったのであろうか。先ず昭和四年二月の『早稲田学報』(第四〇八号)に、理工学部助教授三宅当時は米国リーハイ大学留学の経験を生かし、「商学部の工業教育に就て」工業経営学科に相当する「商学部第二分科」案を左のように提唱している。

アメリカなどに於ては経済的智識の豊富な技術家の要求される事が非常に多いので、各工科大学には「Industrial Engineer-ing」なる科があつて、これには一般工学の外に多分の経済的学課を配し、その卒業生はアメリカ産業の発達に偉大なる貢献をして居る……我が早稲田大学理工学部にもこのやうな学科を増設すれば社会の要求も多いだらうし、又日本産業の発達に資する事も頗る多いとは思ふが、現在の高等学院理科の収容力及び理工学部の設備を以てすれば、多大の費用なしには実施する事は出来ない。併し乍ら……新たなる経費を要せずしてこれと殆んど同じ効果をあげ得る方法がある……現在の商学部を二つの分科に分ち、第一分科は現在の商学部の通りとし、第二分科には商業学課以外に多分の工業学課を配するのである。アメリカに於ては……工を主とし商を従として居るが、私の案は商を主とし工を従としやうとするのである……私は商学部及び理工学部を併有する我が大学こそ率先してこれの実現を期すべきであると信ずるのである。 (一〇―一二頁)

 次に当時の学部長山本忠興との関係であるが、『山本忠興伝』では山本を生みの親として記述している。すなわち、この計画は「当時では破天荒の試みで、世間の人々はその企画の大胆さに驚いたものである。……終戦後……この工業管理が急に認識され、新制大学の内にも八校程この科を設置したところがある。しかし……どこの学校でも早大を工業経営の大本山として立てて居る。二十年も前から今日あることを先見して居た山本の慧眼は、実に偉大なものである」と述べている。また、「学科内容を充実させるために海外の資料を集めて精密に検討」をしたのも山本であった(一一〇―一一一頁)。そしてこの資料収集に当ったのは主として名取順一であった。名取は学生時代から同じキリスト教徒として山本と親密な間柄にあり、昭和三年文学部を卒業後六年間米国に留学、シカゴ大学で神学博士の学位を得た。この間に各大学の関連学部・科の資料を集めたのである。では山本はアイデアをどこから得たか。これに関する彼自身の記述がないので推測の域を出ないが、当時の理化学研究所長大河内正敏との関係は見落せない。先ず、昭和十二年以降、山本や上田輝雄、伊原貞敏、石川登喜治らの理工学部メンバーのみならず、小汀利得林癸未夫西村真次らが大河内主宰の雑誌『科学主義工業』に執筆していることが注目される。財団法人理化学研究所は、大正五年、大隈首相の提唱により設立されたので、学苑にとって無縁の存在ではなかった。明治三十六年工科大学卒の大河内正敏は山本の二年先輩(科は別)で、大正十年より終戦時まで第三代所長を務め、「科学主義工業」を標榜したが、高度国防国家体制がほぼ完成した十七年には、大正十三年以来の「農業の工業化」による農村問題解決への志向は戦力増強のための工業の「科学的経営」論へと急転し、理研コンツェルンは興銀・旧財閥依存へと退行した。そして大河内は田中総長に許可を求め、これにより山本忠興は十八年四月理研評議員に委嘱された。

 かくして工業経営分科の誕生に当時の日本工業界の動向が強く係わっているのは、ほぼ確かなようだ。育ての親とも言うべき上田輝雄も言う如く、「経営に二つの型」があり、「研究を土台にして、熟慮慎重に智力を以て事業を推進せしめて行く型」に、「今日所謂科学的経営と云ふ」ものが属する(『早稲田学報』昭和十四年九月発行 第五三五号 六頁)。そして、技術の進展につれ生産規模も大型化し易く、且つ大量生産の有利さも確保されるにしても、企業が大規模になるに従って、人、物、金などの合理的組合せ(経営)が伴わなければ、企業目的は達せられなくなる。このような時代に工業経営関係の学科目を設置することは、工業化社会の進行が殆ど戦時、平時を問わず世界を貫徹するものである限り、先駆的な措置と言わねばなるまい。

 工業経営分科は昭和十八年十月五学科から分離独立・合併し、工業経営学科となった。この学則変更は同年七月二十日に申請、九月三十日に認可され、同時に応用化学科の石油分科が石油工学科として独立し、土木工学科も設置された。工業経営学科への変更の理由として申請書に記されたのは次の通りで、十月入学の新一年生から適用された。>理工学部ニ於テハ昭和十年四月機械工学科、電気工学科、採鉱冶金学科、建築学科及応用化学科ノ五学科ニ工業経営分科ヲ設置シ来ル九月ヲ以テ七回ニ亘リ卒業生二百四十余名ヲ出シタルガ、本分科卒業生ニ対スル社会ノ要求ハ益々増大シ且ツ其期待ノ愈々大ナルモノアルニ鑑ミ、各科ニ分属セシモノヲ一括シテ工業経営学科トシ更ニ内容ヲ充実シ、以テ技術者ニシテ且工業経営ノ任務ニ従事シ得ル人材ヲ養成シ国家ノ要請ニ副ハン事ヲ期スルモノナリ。

この時点でのカリキュラムは次のようなものである。

第四十一表 理工学部工業経営学科学科配当表(昭和十八年十月)

これと分科時代のカリキュラムとを比較すると、採鉱冶金学科の工業経営コースが消滅しているが、他学科系統の分科の科目は従来と同じであり、必修科目中の工業基礎科目的な科目は一ないし三学科の分科における必修科目か選択科目から選ばれたものが殆どで、学科演習だけが新設である。そして注目される点は、経営学分野における十年以降の進展を組み込んだ科目は、十九年の「産業経営学部案」に顔を出したまま姿を消し、戦後の新制大学設置後数年を経て、初めて実施されたことである。

 昭和十三年度には、第九章一に既述した鋳物研究所と密接不可分の形で、応用金属学科を増設した。この学科新設は十三年一月十八日の理事会で承認、三月十四日の維持員会で決議されている。新設の趣旨について教授雄谷重夫は、

石川登喜治は〕始めから研究の遂行と研究者や技術者の養成とを、車の両輪のように考えられておられた。従って国立大学の研究所では学生の教育をしない建て前であるが、早稲田では研究所内に始めから一学科を置いた。これが金属と機械の中間の応用金属学科である。この学科は工業を発展させるために機械を知っている金属技術者をなんとしても養成しなければならぬという石川先生の構想を実現したもので、わが国最初の新しい学科である。

(『早稲田学報』昭和四十三年十二月発行 第七八七号 二一―二二頁)

と述べているが、専任研究員を置く経済的余裕のなかった学苑当局が、新学科を増設して学生納付金の増額を図り、研究員を同学科の専任教員に委嘱すれば給与負担を免れることができると考えた苦肉の策でもあったろう。それはともかく、新学科増設に伴う学則変更と、学生生徒定員および教員数変更の認可申請は、昭和十二年十二月二十四日付で文部省に提出され(添付書類は十三年一月三十一日付提出)、翌十三年三月十二日付で認可を受け、四月一日開講、授業は主として鋳物研究所で行った。この申請書に記された理由と、添付書類にある「学生々徒定員変更」は次の通りであった。

理由

一、……当時是等〔金属材料の素材鋳造〕ノ実務ニ従事スル技術者ハ機械科又ハ冶金科出身者ナルモ大学出身者ハ多クハ設計室ニ入リ、現場ニ於テハ専門学校出身者以下ニ限ラルル傾アリ、従テ技術ノ基礎的進歩充分ナラザル憾アリ、玆ニ新ニ応用金属学科ヲ開設シ従来機械工学科及採鉱冶金学科ニ於テ試ミツツアリシ部分的研究及教授ヲ綜合シテ金属材料ノ本性ヲ究メ、ソノ製造、加工、並応用ニ関スル学術技能ヲ研鑽修得セシメ、以テ教育上ノ効果ヲ増大シ学的基礎アル技術者ヲ業界ニ送リ、以テ現下時局ニ際スル重工業ノ根本問題ニ対シ其指導精神ヲ確立セントスルモノナリ。

学生々徒定員変更

一、理工学部 百七十五名増加

二、第一高等学院理科 二百四十名増加

各学年学級数ハ学部一学級、高等学院二学級トス。

十三年四月入学の一年生が第三学年に進級した昭和十五年度の学科配当表は、左の通りである。

第四十二表 理工学部応用金属学科学科配当表(昭和十五年度)

 昭和十七年度の理工学部では電気通信学科の独立が見られた。そもそも、明治維新とともに海外技術の導入は急テンポになったが、有線通信では電信がアメリカに約三十年遅れて明治二年に、電話が十四年の遅れで明治二十三年に実用化された。無線通信はイタリアに十七年遅れて明治四十五年に開始された。しかしラジオ放送になるとアメリカに五年遅れの大正十四年に実用化され、かなり追いついたと言えるが、大正十年代は全体としては模索の時代と言ってよい。従って、大正十三年度に電気工学科の分科の形で電気通信科を学苑が設置したことは、まさに時代の尖端を行くものと言うべきだろう。昭和期に入ると自動電話交換機(二年)、NHK初の全国中継放送と高柳式テレヴィジョン公開実験(三年)、丹羽・小林式写真電送方式の工業化(四年)、日本放送協会の極超短波無線中継(七年)、海上の極超短波通信(八年)、内地と台湾・満州国間の無線電話開通(九年)、ベルリン・オリンピック写真無線電送(十一年)、日本放送協会のテレヴィジョン有線・無線放映公開(十四年)と長足の進歩を遂げたが、電波工学の分野の遅れは目立ち、既に昭和十年には英空軍、十一年には米海軍がレーダーの実験に成功し、米軍は十七年十月の海戦で使用して成功するに至ったにも拘らず、日独伊は立ち遅れて遠く及ばなかった。

 一方、学苑における電気通信の歴史は古い。大正十三年度の電気工学科学科配当表にこの名が現れる。「(通)ハ電気通信科」と注記されているのがそれである(本巻三二頁参照)。ただし大正十四年九月改正の学則では第二分科として、「動力及通信ヲ専攻セシム」とある。この電気通信科の発想を、堤秀夫山本忠興によるものとしているが、一般に言われるように、電気工学科志望者があふれたために「苦しまぎれに置いた」ものではなかった。学生が電気工学科二分を問題とするよりかなり前に、坪内信が逓信省工務局に実習に派遣され、無線の研究を積み、工務課長(後、初代局長)の稲田三之助と学苑の堤、坪内の三者が中心となって電気通信科の具体的な計画を練り、実施したのである。この科または専攻の発足は、東北帝国大学とともに学苑が我が国では一番早いと考えられている。

 電気工学科のカリキュラムの変遷を辿ると、大正十四年度は電気工学と電気通信の二分科制を採用しただけだが、翌十五年度には電気通信分野における科目が七科目に急増した。昭和七年度になると電力応用を専攻する第三分科が追加され、第二分科の電気通信の必修科目が電線路学、電信学、電話学、無線工学、電気信号、通信政策となり、選択科目という類別も設置された。十年度には工業経営分科が加わって四分科に分れるとともに、第二分科の科目は十年度および十五年度にまた若干変化する。更に昭和十六年度になると、申請書に見られる左の趣旨により電気工学・電気通信・工業経営の三分科制となった(十六年三月申請、四月五日認可)。

電気工学科ハ従来之ヲ四科ニ分チ第二分科ニ於テ動力及通信ヲ専攻セシメ居タルトコロ、今般逓信省ニ於テ高等通信技術者充実ノ為メ資格検定制度ヲ設定セラレタルニ付、之ガ第一種資格獲得ノ目的ヲ以テ第二分科ノ学科課程ヲ改正充実シ電気通信学ヲ専攻セシムルコトト為シ、又此機会ニ第一、第三分科ヲ合シ之ヲ第一分科トシテ学科目ヲ整理シ電気工学ヲ専攻セシムルコトト為シタリ。

そして十七年度、第二分科を独立させて電気通信学科を設けるに至ったのである(二月二十日申請、三月三十日認可)。「理工学部ニ於テハ昭和十五年三月三十日逓信省令第十三号電気通信技術者資格検定規則ニ依リ第一級検定資格ヲ得ンガ為電気工学科第二分科ヲ電気通信学科ト改称之ヲ独立セシメ電気通信学ヲ専攻セシメントス。随テ電気工学科現在ノ第一分科第二分科ノ名称ハ之ヲ廃止スルコトト為セリ」というのが、その理由であった。『早稲田大学新聞』は同学科の独立を「理工学部に時代の花形」の誕生として、次のように報じている。

世界情勢の進展、国内事情の発達に依る無線通信の長足な進歩は、学界学生に……通信工学に対する関心を増大〔させ〕……関係会社も日満支各方面に続々新設されるに至り、逓信省も……先般「電気通信技術者」なる資格を国家試験に依り付与する事に決定、之に依り大学専門学校出身者は当然右資格を無条件で獲得出来ることになった。学園〔は同学科独立を〕昨年頃から計画中の所、山本学部長、堤教授等の尽力に依り実現を見るに至り、逓信省工務局長松前重義氏の絶大なる賛同を受け今回認可を受くるに至つた……共栄圏内の運輸、交通、放送、航空無線等々同科卒業生活躍舞台は極めて広く、初代〔学〕科〔主任〕黒川〔兼三郎〕博士の下に同科の前途は明るい希望に満ち満ちて居る。尚通信工学科は現在阪大、東北大及浜松高工等に既設されてゐるものである。 (昭和十七年五月六日号)

新学科のカリキュラムは第一学年から施行されるので、三学年が揃う十八年十月開始年度の配当表を示そう。

第四十三表 理工学部電気通信学科学科配当表(昭和十八年十月)

 さて、日本の戦時経済は、鉄鉱石、ボーキサイト、石油等の資源拡大と、重化学工業の育成(工作機械の導入を含む)と、海上輸送力の拡大という我が国の基本的弱点の是正と、軍事力の向上という当面の計画達成とを、同時並行的に進めざるを得なかった。しかし経済の国際環境は予想以上に悪く、アメリカは大恐慌に続く一九三七―八年の恐慌に見舞われ、我が国は昭和十三年初頭米国への輸出が急減し、一月決定の物資動員計画は六月に早くも縮小せざるを得なくなり、生産力拡充計画にも狂いを生じた。他方、五月には一年前に実施に入った満州産業開発五ヵ年計画を二倍に拡大したが計画通りにいかず、十四年の大凶作は鉄鉱石等の輸入を大幅に減少させ、鉄鉱石の日・満・北支ブロック内生産実績は結局ピークの十八年で計画の六割に過ぎなかった。そして、十五年九月からのアメリカの屑鉄輸出禁止も打撃となった。かように経済の根幹を成す鉄鋼原料の確保に失敗しては、鉄鋼不足と船腹不足の相乗効果により、一時計画通りであったアルミニウム原料や石油の確保も至難となった。しかし、人、物などを総合する総力戦計画は進行し、十三年五月から「国家総動員法」、次いで物資動員計画が施行されるのを皮切りに、「国民徴用令」「価格統制令」(十四年)等の統制令の実施を経て、十五年七月、膠着状態にあった日中戦放棄、南方への武力進出、大東亜共栄圏的な広域自給圏の建設等の路線決定に至る。そして九月には三国同盟に調印し、「持たざる」後発資本主義国家の一つとして日本も武力による自給圏の確保に乗り出した。当然、技術者・技能者の不足は深刻化した。

 昭和十七年十月一日、理工学部は応用化学科の中に石油分科を設けた(九月一日申請、十一月六日認可)。採用人員は「当分毎学年十名内外トシ之ガ為……定員ヲ変更スルコトナ」く発足し、設備については「不取敢応用化学科ノ設備ヲ充当スルモ将来必要ニ応ジ適当ナル施設ヲ為ス予定」であった。この分科設置の理由は、「理工学部ニ於テハ現下ノ時局ニ即応シ内容ノ整備充実ニ不断ノ努力ヲ傾ケツツアルガ、大東亜戦争完遂ノタメ将又高度国防国家樹立ノタメ燃料国策ノ一日モ忽セニスベカラザルヲ認メ、今回応用化学科ノ中ニ新ニ石油分科ヲ設ケ斯学ノ発達ニ貢献スベキ有為ナル技術者ノ養成ヲ計ランコトヲ期ス」というものである。

 石油分科は発足一年後の十八年十月に応用化学科から独立し、石油工学科(教務主任は山本研一)となった。この改定は十八年七月二十日申請、九月三十日に認可され、これにより、前述の工業経営学科の独立と後述の土木工学科の新設と合せ、理工学部は十学科を擁するに至った。申請書には石油工学科独立の理由として次の通り記載されている。

応用化学科、石油分科ハ昭和十七年十月一日之ヲ開設シ燃料国策ニ貢献スベキ有為ナル技術者ノ養成ニ着手セルガ、熾烈ナル時局ノ要望ハ同分科ノ内容充実ニ一段ノ拍車ヲ加へ、研究実験ニ関スル設備ヲ更ニ強化シ、加フルニ直ニ利用シ得ベキ校地校舎ノ購入(昭和十八年六月十六日東専一三〇号認可、校地二千三百六十五坪、校舎延坪数九百七十二坪余)ヲ為スノ機ヲ得タルノ他、別ニ理工学部研究室並実験室増築ノ認可ヲ与ヘラレ資材配給ノ上ハ速カニ着工ノ状態ニ在リ、此ノ機会ニ於テ同分科ヲ石油工学科トシテ之ヲ独立ノ一学科タラシメントスルモノニシテ、今ヤ決戦段階ニ突入セル時局ニ於テ必勝ノ態勢ヲ確保センガ為石油工学ノ発達並ニ関係技術者ノ養成上大ナル寄与ヲ為シ得ベキヲ信ズ。

なお、今回の改正は三学科の設置のみでなく、選択科目制や単位制を廃止し、「現下ノ時局ニ対処シテ重点主議ニ依ル学問ノ簡素化並ニ統一アル知識ノ活用ヲ図リ以テ戦力増強ニ即応スベキ人材ヲ養成シ、国家非常時ノ要請ニ応ヘン」とする全般的改正でもあった。石油工学科の初年度のカリキュラムを第四十四表に示そう。因にこの年度においては、前年度に応用化学科石油分科に学んだのち新設学科の第二学年へ編入された者と、十八年九月に高等学院を修了して学部へ進学した新一年生とが在籍し、三年生はいない。

第四十四表 理工学部石油工学科学科配当表(昭和十八年十月)

 ここで注意されるべき点は、石油分科=石油工学科設置の歩みが応用化学そのものの発展でもあったことである。すなわち、昭和十二―十五年度の応用化学科のカリキュラムには殆ど変化がないが、十六、十七年度になると光化学、色素及染色化学、金属材料学大意、ゴム香料工業、コロイド化学等の新分野に関する科目が増加し、且つ化学平衡論、電気工学などの理論的科目も加わり、更に十八年度には人造石油が設けられている。そして十八年十月の石油工学科と十七年十月の応用化学科の学科配当を比較すると、前者の全必修科目四十四の中二十は両学科に共通する科目なのである。

 ところで、石油分科誕生の年は教育体制にも戦時色が一層濃くなり、大学の卒業も半年繰上げの九月末卒業となった。このような情勢下、「当時の日本石油社長、小倉房蔵〔明四一大商〕氏の熱心な働きかけと、当時の金で百万円という学苑創立以来の巨額の寄付により」、石油工学科は生れた(『早稲田大学応用化学半世紀の回顧』二三―二五頁)。この間の経緯について、当時専門部工科長だった内藤多仲は「事の起りは彫塑の武石弘三郎先生が、アトリエで小倉さんの胸像を作る際、小倉さんから何か学校の為に……とのヒントから私も小倉さんに紹介された……結局、大学に石油科を作るなら百万円出すといわれ、ビックリしてしまったのである」(『早稲田学報』昭和三十二年十月発行 第六七四号 三頁)と述べている。

 この寄附申し出は昭和十七年四月から八月までのことであり、東南アジアの石油資源開発を含む南方開発金庫が設立され、石油精製業が日本石油株式会社等七社中心の七ブロックへ統合された時期である。小倉は小倉石油株式会社社長から日石合併とともに日石の社長となり、自ら東南アジアを巡り熱心に石油問題に取り組んできた、いわば石油一筋の人物である。彼の母校愛が「石油への夢」と結合してこの「無名氏」よりの歴史的な大型寄附(応用化学科拡充費)となった。学苑は直ちに九月十八日の理事会で大理石の胸像製作を決めた。そして八月から十二月初めまでの間に石油工学科設立準備委員が田中総長から委嘱され(委員長小林久平名誉教授、委員小栗捨蔵応用化学科主任、山本研一、村井資長、桐山均一営繕課長)、十八年十月二十六日の第十七回委員会までの間、種々の立案、交渉を行い、十一月五日付の報告で委員の仕事は完了したのである。施設買収交渉はそれより前、当時の理事・理工学部長で同時に早稲田奉仕園の理事長でもあった山本忠興の尽力により円満に解決し、七五二頁に既述した如く十八年一月に四十万円で買収し、代償として早稲田奉仕園(契約の対象は日本バプテスト伝道社団)へ諏訪町の施設を十五万円で提供した。次いで国際学院現存建物の利用と研究室・実験室新築の統一的建設計画が進行し、四月の第六回委員会で新研究室を石油工学科(百五十坪)と土木工学科(三百五十坪)で共同使用すること、学科設置の申請を両科共同で行うことなどを決めた。そして学科配当案、担当教員の選定、設計図の確認、学生定員案の決定を経て、昭和十八年十月から石油工学科として発足するに至ったのである。

 昭和十八年十月一日から適用される一連の理工学部改編の中で、土木工学科のみは全くの新設であった。定員は一学年五十四名、校舎には差し当り現存の理工学部校舎を充て、既に認可済の新校舎竣功を予定して発足した。その新設の理由は、認可申請に際して次の如く記されている。

苛烈ヲ極メツツアル現戦局ヲ左右スベキ航空決戦ニ於テ基地建設ノ為メ土木技術ノ有スル任務ノ如何ニ重且大ナルカハ言ヲ俟タザルトコロニシテ、敵米国ノ侮リ難キ戦力ヲ徹底的ニ破摧センガ為ニハ高度ノ土木技術ヲ必要トスルコト固ヨリ論ヲ要セズ、又作戦ノ進捗ニ伴ヒ共栄圏建設ノ各方面ニ愈々多数ノ土木技術者ヲ要スルコト是又当然ノコトニシテ、如斯焦眉ノ急ニ応ゼンガ為本大学ニ於テハ理工学部ニ新ニ土木工学科ヲ置キ、今次戦争ノ教訓ニ照シ独創的ナル見解ノ下ニ優秀ナル斯学技術者ヲ多数育成シ以テ土木日本ノ急速ナル拡充強化ニ貢献セントス。

 設置の経緯について、山本学部長は「昨年学院修了生が少数であつたため一年待ち愈々今秋十月開設することになつたが、既に斯界の権威を動員、草間偉教授(東大名誉教授)に託してすべての準備を整へてゐる」(『早稲田大学新聞』昭和十八年六月十六日号)と語っている。しかし、実際の推進者は建築学の内藤多仲であり、彼も同科設置が「長い間の懸案で『人を得て後』というのであつたが幸い人格者の草間偉博士を御願いすることが出来、やっと出発し……た訳である」(『早稲田学報』第六七四号 二頁)と述べている。内藤は昭和十四年、開設時の専門部工科長であり、その後土木工学科の初代教務主任(兼任)となったが、四月に草間偉を学科教務主任に迎えた。人事面での準備は軌道に乗ったのである。次いで、先に述べた施設買収が実質的に終了した十八年一月二十七日の理事会で、土木工学科設置は本決まりとなり、第一高等学院理科の入学定員四百四十名を、石油工学科独立による増員をも見込んで十九年四月から五百二十名に増加することになった。十七年五月に学苑教授に就任し、次いで初代の土木工学科主任になった草間偉は、「決戦下の土木工学/期待す新入学徒の研鑽意欲」と題する左の如き一文を『早稲田大学新聞』(昭和十九年五月二十日号)に載せている。

早大理工学部に於て永く土木工学科を欠いて居つたことは誠に玉に瑕の感が有った。之は土木科の工学士は従来多数が官吏又は公吏となつたので私学としては官公吏養成の義務が無いと云ふ意見と、一は土木は建築学科の一部門と見做して可なりとの見方に起因して居つたと云ふ……。抑々土木工学とは人類の福利公益を増進する為め地球表面又は表面に近く施す工事の理論、設計及施工等を論究する学問である。……一般に平和の学問で有り人類の福祉増進を目的とするもので有るが戦時に於ても極めて緊要なることは……如何に多くの土木技術者が身を挺して満州、支那及び遠く南方に渡り或は極寒の広野に或は……密林に凡ゆる困苦と戦ひ乍ら土木報国の誠を尽くされて居るかを見る時自ら明で有る……大東亜共栄圏内枢要なる有能土木技術者を本学園より輩出せしむることを期する次第である。

在籍者は一年生のみであるが、十八年十月実施のカリキュラムを上に示しておく。

第四十五表 理工学部土木工学科学科配当表(昭和十八年十月)

 さて、学苑における専門部工科設置の動きは、初めは重化学工業の進展に即応する中級技術者養成機関に対する社会的需要の高まりに応じたものであったが、戦局の進展に従って国家政策との結びつきが強まり、高級技術者の不足に対応して学科構成が次第に拡張された。

 日中戦争の開始とともに軍需生産は拡大し、在学・修業年限臨時短縮と収容学徒増加が中心課題となり、技術者への需要は、機械(特に精密機械、工作機械)、電気、採鉱冶金、応用化学、通信、航空等の分野で強まった(十四年度は七高等工業学校が新設され、また十八校中十五校で二十二学科増設)。この技術者拡充計画は十三年五月五日施行の「国家総動員法」に連なるものである。同年八月二十四日に公布された勅令第五百九十九号「学校卒業者使用制限令」は技術系学生の雇用統制を眼目としていた。すなわち、技術教育を含め、技術者という人的資源の配分を国の労務計画の中に組み込もうとするものであった。技術者養成には実験設備等への膨大な投資が必要であるから、私学ではかなり困難であった。工業専門学校の増加を見ると、昭和四―十三年は十九校(国立十八、私立一)のままであったのが、十七年には三十一校(国立二十五、公立二、私立四)に急増した。高等工業学校や工業専門学校に相応する私大付設の専門部工科は、昭和四年に日本大学が四科で発足したのを嚆矢とする。上級技術者養成に対応する工学部の方を見ると、大学部理工科が大学令とともに理工学部となった学苑の対応が最初であり、次いで日大工学部の二年制予科の新設が昭和四年、更に、慶応義塾大学工学部(十九年発足)の前身である藤原工業大学の三年制予科設置は十四年であった。従って、米英等との開戦が政府・軍部の統一意思として決定する以前に学苑が専門部工科を設置したのは、英断であったと言わねばならない。

 昭和十四年四月一日、専門部に工科が新設された。申請は同年一月十六日、認可は同月二十四日であり、非常な速さで認可されたことが目を惹く。その設置理由は次の通りで、国家の需要に応ずる形を採っていた。

今ヤ東亜新建設ノ状勢ニ伴ヒ我ガ国工業ノ進展ヲ望ムコト益々切ニシテ就中中等工業技術者ノ需要急ヲ要スルモノアリ、本大学玆ニ観ルトコロアリ専門部ノ中ニ工科ヲ新設シ、機械工学科、電気工学科、建築学科、土木工学科ノ四分科ヲ設置セントス。追テ近キ将来ニ於テ鉱山学科、応用化学科ノ二科ヲ増設スル希望ヲ有ス。

工科の概要は次のようなものとして申請されている。

専門部工科設置ニ関スル事項

一、位置 東京市淀橋区戸塚町一丁目六百四十七番地早稲田大学内

二、生徒定員 八四〇名

内訳

機械工学科 二四〇名 電気工学科 二四〇名 建築学科 一八〇名 土木工学科 一八〇名

三、校舎及設備 校舎及設備ハ当分理工学部ノモノヲ共用シ将来時局之ヲ許スニ到ラバ独立ノ校舎ヲ建築スル予定ナリ。

科長には二月一日付で内藤多仲(高等工学校長)が兼任嘱任され、機械工学科主任に山ノ内弘、電気工学科主任に川原田政太郎、建築学科主任に吉田享二、土木工学科主任(兼)に内藤多仲が決定した。

 新設披露会は五月十九日午後五時半から東京会館で催され、我が国工業界・学界の名士多数が出席し、総数百五十四名の盛会であった。デザートに入って田中総長、内藤科長の挨拶、商工大臣八田嘉明、日本工業会理事長俵国一の祝辞があり、最後に東京電気の山口喜三郎社長の音頭で学苑の万歳を三唱、乾杯して散会した。田中総長はその挨拶の中で、「早稲田大学が三十余年前私学の乏しい財源を以て理工学部を……背水の陣を張つて創立……今日迄に五千一百人の学部卒業生を出したのであります。……所が最近内外の状勢は……非常に激変致しまして、物も足りないが、それと同時に人も足らない……状態になつて参りましたので、更に思い切つて此度び……専門部工科なるものを新設致しました。……年々一千人位づつ〔学苑の〕入学志望者の数が増加致して、昨年は一万六千人……一昨年に比べますれば二千人の増加でありましたが、今年は更に激増して……昨年と比較して一万人を増加したのでありまして、此の如き……激増は一面戦時景気もあるかと思ひますが、又他の一面に於ては天下の評価が之を然からしめたのではあるまいかと喜」び、「併ながら……如何に教授諸君が立派な方々を網羅して居りましても、余りに貧弱なる設備を以て立派な成績を挙ぐること〔は〕至難……であります。幸ひ此の度び専門部工科を新設するに当りまして、実に感激に堪へざる篤志家があつて〔絶対に名前を秘するならば十万円を寄附しようと申し出たので〕、工科の開設を断行した」と述べている。次いで内藤科長は、専門部工科は官立高等工業に相応するもので、昭和四年蔵前の東京高等工業学校が東京工業大学に昇格して以来東京で非常に要望されていたものであること、入学志望者が一学年の定員三百名(実は二百八十名)に対して新設にも拘らず三千三百名に上り、特に機械科では九十八点という成績で入学した者が多数いたこと、全体として八十六点以上が標準であったことを喜びとともに報告し、「或る篤志家」の寄附で四科のため実験設備を拡張したが、将来更に鉱山科、冶金科を増設したい、と抱負を披瀝した。八田商工相は、政府が日満支三国共同の下に昭和十三―十六年度総合的生産力拡充計画を立てたこと、その遂行の上で一番欠乏しているのが技術と技術者との問題であり、これの解決により、膨大な輸入に依存している資材を日本の勢力圏内の資源開発により自給自足可能となると説き、学苑が非常に経費の掛かる理工科の教育に敢えて取り組んできた上に専門部工科を新設した英断と努力を賞揚し、入学志望者が群がるということは「将来我国の此の方面に於ける所の教育の動向が斯る方向に流れつつあるかと云ふことを知りまして意を強うして居る」が、「僅かに優秀なる人のみが入学を許されて居ると云ふことは誠に遺憾なことである」(『早稲田学報』昭和十四年六月発行 第五三二号 五一―五五頁)と語った。

 工科開設の経緯については、内藤多仲は、

前〔昭和四年〕に小林久平先生(当時応用化学科主任)などの間で工業高等学校設立の構想があったが、収支および設備資金の面で実現に至らなかった。私は……専門部に文科系があるのと同じように、工科系のものをぜひつくったらということで、あまり設備のいらない、つまり学部の設備を共用する方法を考えた。主事の森本丈助君がわれわれの下で収支計算計画を立てたのです。しかし、いずれにしても金がなければはじまらない。ついては十万円だけ何とか作ろうじゃないか。そうすれば田中総長も設立に踏み切るだろう。十万円は私が工面したわけですけれども、それを表にしてはまずいから、陰から援助があったことにした。 (同誌昭和四十二年七月発行 第七七三号 一二頁)

と述べているが、理事の増田義一や監事の早川徳次が工科開設を支持し、田中総長も決意に至ったようである。なお、工科新設費として日本鋼管から五万円の寄附があったことが、十四年六月十五日の理事会で報告されている。かくして十四年十二月十六日、先ず実験室(電工科・延九十坪、機械科・延三十七坪)が約二万六千円(寄附)で、十五年七月十五日には教室(二階建延四百坪)が約十万円(寄附)で建設される運びとなった。

 次に、昭和十五年度の工科の学則の抜萃を挙げておく。

第一 総則

第一 専門部工科ハ各種工学ニ関スル専門学術ヲ授クルヲ以テ目的トス。

第二 専門部工科ヲ分チテ機械工学科、電気工学科、建築学科及土木工学科トス。

第三 学生ヲ第一第二ノ二種ニ分チ第一種ヲ本科生トシ第二種ヲ別科生トス。

第二 学科課程

第一 修業年限ハ三学年トス。

第二 各科ノ授業科目左ノ如シ。

〔中略〕

第四 入学在学及退学

第一 入学時期左ノ如シ。

一 第一学年ノ初(四月)

第二 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ第一種生トシテ入学スルコトヲ得。

一 中学校ヲ卒業シタル者

二 師範学校ヲ卒業シタル者

三 専門学校入学者検定規程ニ依ル試験検定ニ合格シタル者

四 同規程ニ依リ一般専門学校ノ入学ニ関シ無試験検定ノ指定ヲ受ケタル学校ヲ卒業シタル者

第三 左ノ科目ニ付中学校卒業程度ヲ以テ施行スル試験ニ合格シタル者ハ第二種生トシテ入学スルコトヲ得。但シ第二種生ハ兵役法ノ特典ニ与カルコトヲ得ズ。

倫理 国語 漢文 英語 歴史 地理 数学

第四 入学志望者ノ数各科予定ノ人員ニ超過スルトキハ学力考査ヲ行フ。

学力考査科目左ノ如シ。

国語漢文 英語 数学

〔以下略〕

学科課程は、発足当時のものと殆ど差がなく、担任者名も大部分が明白な、十八年度の配当表を左に示しておく。

第四十六表 専門部工科学科配当表(昭和十八年度)

機械工学科

電気工学科

建築学科

土木工学科

なお、担当教員は第三学年完成時の十六年度で見ると合計百二十名で、うち専任六十四名、兼任五十六名となっており、伝統ある理工学部を背景とする学苑らしい充実ぶりを示している。

 カリキュラムを理工学部と比較してみると、例えば機械工学科において、卒業論文がないことは予想される通りであるが、基礎的科目で電気理論、金属組織学が欠けている代りに、独逸語、英語、物理、化学があり、特に語学の時間が目立つ。他方、倫理および公民科は学部にはない。そして両者に同一または類似科目があるが、専門部の方が授業時数の少いものを挙げると、工学基礎実験、設計および製図、逆に専門部の方で時数の多いのは数学、実験および実習である。要するに専門部の方は語学、物理、化学、数学、実験ないし実習に力を入れ、学部の方は基礎工学的な設計、金属工学、流体力学、機械力学や学科演習、選択科目における各種機械の多面的な科目の用意(ただし航空機関係は専門部の方が多い)において、特徴を示している。

 かくして十四年四月から授業は始まった。最初の入学生は四百十一名で定員二百八十名を上回っていたが、卒業時は三百二十七名で、十六年度までの入学定員は三百二十名に増加しているから、結果的には適当な数だったとも言えよう。十五年度には予定通り実験室や教室も増設され、建築、土木の二科の入学定員もそれぞれ二十名増やされ、十七年からは更に各科百名で計四百名となった。入学志望者は十八年までの入学者の約八倍半(十五、十八年は五―六倍)で、卒業生は十七年以降、約三百三十―三百七十名と安定していた。

 早稲田工手学校とその兄弟校早稲田高等工学校との学制改革の基調も、理工学部および専門部工科のそれと殆ど同一である。もともとこの二つの付属夜間学校は、工業界の最前線で働く伍長・軍曹格の育成を目的にしているが、これまで述べてきた如き工業技術の高度化・多様化の要請に伴い、変容を余儀なくされた。その顕著な対応が、両校の修業年限延長であり、高等工学校における応用化学科増設であった。

 工手学校は十一年四月より予科の修業年限を二ヵ月延長して一年とし、従って、二月から八月まで、および九月から翌年二月までであった二年半制本科の学期開始期も、四月と十月とに変った。この変更により通算修業年限は三年半となり、同時に電工科の名称を電気科と改めた。次いで十五年、青年学校義務制が実施され、予科入学者が当然減少するので、この年は本科生のみを募集し、翌十六年四月、青年学校令に準拠して学科課程を修正し、入学資格を高等小学校卒業またはこれと同等以上へと引き上げ、一年制予科を正式に廃止するとともに予科・本科の区別をなくし、修業年限を半年延長して三年に改め、これを六期に分けた。この学則認可申請は、鉱山及金属科の採鉱冶金科への改称と併せて、十六年一月二十一日提出し、二月二十八日付で認可を受けた。また、四月一日に遡って青年学校と同等以上の学校として認定するよう、五月三十一日に東京府知事に申請し、十月三十日に認定されている。

 他方、高等工学校の修業年限は十年四月より半年延長して二年半となり、これを五期に分けた。この変更により入学時期は春秋二回となったが、十四年には更に半年の延長が実施されて三年制となったため、入学時期も年一回四月に戻されるとともに、五期に分けていた科目制が一年二学期の学年制へ改編された。そして翌十五年応用化学科が増設されて、高等工学校は五学科編成となり、工業界の需要の多様化に応えたのであった。

四 修業年限の短縮と在学徴集延期制の停止

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 戦時下における大学教育上の非常措置は、修業年限の短縮と在学徴集延期制の停止および学徒勤労動員強化の三点に集約できる。最後の勤労動員については次節に譲り、本節では前二者について記すことにする。

 昭和六年の満州事変の勃発以後、戦火の拡大と大陸での新事態の進展に伴い、教育の時局即応と思想の統制とを求め、教学刷新の必要が強く叫ばれるようになった。国民精神文化研究所(昭和七年)、文部省思想局(九年)、内閣審議会(十年)、教育刷新評議会(同年)等々の設置はそれを物語るものである。こうした傾向は日中戦争の勃発以後ますます強化促進され、思想局は文部省の外局として教学局と改称(十二年)、前記評議会は内閣直属の教育審議会に改組され、首相の監督下に教育の改革を推進することとなった(同年)。しかしこれらの会議における議論や答申を見る限りでは、日本的文化の探究とか、国体の本義を学術の中心とする教学一体化といったような、いわば教育内容に関する理念論だけで、少くとも高等学校・大学に関する限り、制度自体を改革しようとの志向は見られない。それは、十五年十二月に文部省が官公私立大学の長に宛てて発した訓令が、「抑々教ト学トハ本来一ニ帰スベキモノニシテ之ガ分離対立ハ諸弊ノ源由ヲ成スモノト謂フベシ。大学教授ハ須ク国体ノ本義ニ則リ教学一体ノ精神ニ徹シ愈々教育者タルノ自覚ヲ振起シ師弟同行ノ間ニ学生ヲ薫化啓導シ学徳一体ノ修練ヲ積マシメテ負荷ノ大任ニ堪フベキ指導的人材ヲ育成スルニ力ムベシ」(『日本近代教育百年史』第五巻 一二二三頁)とあるのでも分る。

 しかし、十六年十月十六日に公布された勅令第九百二十四号「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」により事態は一変する。十六年十月と言えば、既にその前月の九月六日、御前会議において「帝国国策遂行要領」が決定され、十月下旬を目途として対米英開戦の準備が進められていた時である。そして奇しくもその九月六日に、前記勅令の公布に先立ち、文部省専門学務局長から各官公私立大学および高等専門学校の長に宛てて「学生生徒卒業期繰上ニ関スル件」の通牒が発せられ、次のような一種の内報が行われている。

現下ノ緊迫セル時局ニ対処シ国家ノ人的資源ニ対スル最高度活用ノ要望ニ応ズル為学生々徒ノ在学、修業期間ヲ出来得ル限リ短縮シ速ニ国家ノ要請ニ即応スルノ措置ヲ講ズルハ喫緊ノ要務ト被存ニ付、之ガ具体的方策ニ関シ鋭意調査中ノ処差当リ本年度卒業者ヲ左記ノ通繰上卒業セシムルコトニ内定致シタルヲ以テ実施方内々御準備相成様致度此段及内報。

追而正式決定ノ上ハ詳細何分ノ通牒可有之ト被存ニ付御了知相成度。

昭和十六年度卒業者ハ其在学年限、修業年限ヲ三ケ月短縮シ昭和十六年十二月ニ卒業セシムルコト。

学苑はこの内報に基づき、九月十一日の理事会において、学部・専門部・専門学校に在籍する現三年生および高等師範部に在学する現四年生で明十七年三月卒業予定者の卒業期を、それぞれ本年十二月に繰り上げて卒業させることを決定した。次いで十月八日、専門学務局長は「卒業期繰上実施ニ関スル件」を通牒し、十六年度卒業式を十二月二十六日から同二十八日の間に実施し、十七年度入学試験を三月中に実施すべきことを指示するとともに、

(一) 専門学科目ニ付テハ本学年度ノ教授ヲ完結スル様努ムルコト

(二) 右実施ノ為第二学期(自九月至十二月)中ニ於ケル教授時数ヲ適当ニ増加スルコト

を併せて指示した。なお同日付で官公私立高等学校長宛にも「学生生徒卒業期繰上に関スル件」が通牒され、それには「九月六日附発専一七七号ヲ以テ標記ノ件ニ関シ内報致シタル処高等学校ニ就テハ昭和十六年度ニ於テハ右繰上ヲ行ハザルコトニ内定シタルニ付御諒知相成度」とあり、これによって学苑の両高等学院における繰上げ修了は実施されないことになった。

 このように学苑をはじめ、各大学および専門学校において、繰上げ卒業実施のための具体案が作成されつつあった時、前記勅令が公布されたわけで、その第一条には「大学学部ノ在学年限又ハ大学予科、高等学校高等科、専門学校若ハ実業専門学校ノ修業年限ハ当分ノ内夫々六月以内之ヲ短縮スルコトヲ得」とあり、同じく第二条には「前条第一項ノ規定ニ依ル在学年限又ハ修業年限ノ短縮ハ内地ニ在リテハ文部大臣……之ヲ行フ」(『近代日本教育制度史料』第七巻 一五一頁)とある。文部省はこの勅令に基づき、省令第七十九号により、同日「大学学部ノ在学年限並ニ専門学校及実業専門学校ノ修業年限ハ昭和十六年度ニ於テハ其ノ年度ニ卒業スベキ者ニ付夫々三月之ヲ短縮ス」(同書同巻一五二頁)と定めた。

 この勅令が公布された十月十六日、学苑では理事会が開かれ、「(一)学生生徒ノ定員ニ関スルコト、(二)学部編入試験ニ関スルコト、(三)第二高等学院二年制改正ニ関スルコト、(四)繰上卒業ト学費免除ニ関スルコト、(五)学費改正ニ関スルコト」等を協議した。在学・修業年限短縮と繰上げ卒業という異常事態が経営上の重要問題でもあり、特に第二高等学院について言えば、従来通り二年制を採る限り修業年限は一ヵ年半となり、そのまま学部に進学するとしても、その学力不足が憂慮されるという事情もあった。しかし、当日は結論を得ぬままに次回に持ち越された。十六日に続く二十日の理事会では、第二高等学院の二年制を三年制に改めることを決定し、十七年度の入学試験では二年制と三年制とを半数ずつ、すなわち各四百五十名、合計九百名を募集することを併せて決定したから、十八年度以降は全員三年制に入学となり、十八年九月を以て二年制は完全に廃止されることとなった。この改正申請書は十一月十五日に文部省に提出され、翌十七年三月二日に認可された。

 これら修業年限の短縮および卒業時期の繰上げという一連の措置により、学苑では両高等学院を除き、昭和十七年三月末日を以て卒業する予定であった学部・専門部・専門学校の三年生と高等師範部の四年生は、それぞれ勅令公布の二ヵ月後の十六年十二月には繰上げ卒業という形で世に出ることとなり、学生にとっては、卒業が社会人としての門出とはならず、兵営の門に直結することとなった。十月十六日付の陸軍・文部省令第二号「在学徴集延期期間ノ短縮ニ関スル件」が、従来の延期期間をそれぞれ一ヵ年短縮し、大学予科二十二歳(早生れの者は二十一歳、以下同じ)、専門学校二十三歳、大学学部二十四歳(医学部は二十五歳)までとするとともに、最高学年在学生は在学中に徴集せられることとしたからである。すなわち昭和十七年三月卒業予定者は昭和十六年十二月卒業となり、翌十七年二月には入営することと定められたのである。

 さて、前記勅令に関する枢密院における審議は昭和十六年十月六日、八日、九日の三日間に亘って行われた。冒頭における政府の勅令案説明要旨は、「枢密院審査委員会議録抄録」によれば、次の通りである。

此ノ臨時措置ヲ必要トスル理由ノ第一ハ軍事的理由デアリ、第二ハ労務対策上ノ理由デアル。……今日我国ノ兵力ハソレ等〔有事即応ノ態勢ノ急速ナル整備強化〕ノ為ニハ必ズシモ不足デハナイガ、将来ノ数ハ之ヲ急激ニ増加スル必要ガアル。然ルニ軍デハ将校デ第一線部隊ヲ指揮シ得ル程ノ者ハ既ニ殆ドスベテ召集シテ居リ、年々士官学校デ養成スル二、三千人ノ外ハ大部分幹部候補生ノ増加養成ニ俟ツノ外ハナイ。従テ十七年ノ所要数ヲ充足スル為ニハ本年三月専門学校以上ノ学校ヲ卒業シタ者ヲ第一次幹部候補生要員ト為ス外ニ、現ニ最高学年ニ在学スル者ハ在学中ニ徴兵検査ヲ終了シテ本年十二月卒業ト同時ニ入営サセタ上、第二次幹部候補生要員トシテ採用シ、更ニ明後年三月卒業予定ノ者ハ十七年度第三次要員トシテ採用スルコトガ必要デアツテ、コノ事ハ作戦ノ準備上全ク猶予ノキカナイ且不可欠ノ事項デアル。……軍需ノ充足並ニ生産ノ増強ヲ期スルコトハ現下焦眉ノ急務デアルニモ拘ラズ、近年労務ノ給源ハ著シク逼迫シ各種計画産業ニ於ケル要員ノ充足ハ誠ニ容易ナラヌモノガアル。加之応召者ノ補充モ亦緊急ヲ要スルノデ、学生生徒ノ卒業期ヲ繰上ゲ上級進学者以外ハスベテ国民皆労ノ一翼トシテ技術、事務及労務ノ大量需要ヲ一日モ早ク充足シ時局ノ要請ニ応ヘネバナラヌ事態ニ立至ツテ居ル。

(福間敏矩『学徒動員・学徒出陣――制度と背景――』 一一三―一一四頁)

 これに対し顧問官清水澄は、「(一)在学又ハ修業年限短縮ノ継続期間及(二)本案ニ因ル学力低下ノ防止法……(三)在学徴集延期制度ノ廃止」について質問したが、(一)については陸相東条英機より、「作戦並ニ士官学校ニ於ケル生徒養成ノ関係上軍幹部要員ノ不足最モ顕著ナルハ昭和十七年下半期ヨリ同十八年上半期ニ亘ル期間ニシテ従テ本案ハ此ノ期間ヲ当面ノ目標トシ其ヨリ以後ニ付テハ情勢ノ推移ト照応シ本案運用ノ如何ヲ決定スベキ旨」の答弁があり、(二)については文相橋田邦彦が「休業期間ノ減廃、授業時間ノ増加、学科目ノ整理、講義内容ノ重点主義ニ依リ学力低下ヲ防止セントスル旨」を答弁し、(三)については再び東条が、「目下考究シツツアルモ未ダ実行ノ如何ハ確言スルニ至ラザル旨」の答弁を行った。次いで顧問官二上兵治は、「学問ハ国防上ノ見地ヨリスルモ忽ニスベカラズ、従テ本案ノ目的ハ徴集猶予ニ対スル変革ノミヲ以テ之ヲ果シ軍ノ必要止ミタル後ハ再ビ学校ニ還リ従前ノ在学期間ヲ経テ卒業セシメテハ如何」と質問したが、東条はこれに対し、「徴兵猶予ノ制限ノミヲ以テシテハ労務上ノ需要ヲ充スニ足ラザルノミナラズ卒業ニ至ラズシテ戦死スル者ノ父兄ノ心情ニ察シ徴集猶予ノ制限ト共ニ卒業期ノ繰上ヲ為サントスル旨」の答弁を行った。なお顧問官南弘は、「在学年限ノ短縮ハ動モスレバ『学而不思』ノ徒ヲ卒業セシムルコトト為リ思想上注意ヲ要スルコトナキカ」と質問したが、これへの答弁は記されていない(同書 一〇七―一〇九頁)。

 この委員会の記録を読むと、教育上の非常措置が全く軍事的見地と労務対策上の必要とから行われたことが明らかである。しかし軍事的見地といっても、軍部の疎漏と無計画とから生じた下級将校不足の充足を、高等専門学校、大学の学生に求めたことや、それまでの犠牲を強制せざるを得ない準備不足のまま、戦争に突入しようとする軍部の態度は非難されるべきである。また卒業繰上げの理由を陸相に答弁させる文相のあり方も、当時巷間で言われた「陸軍省文部局」の俗称を裏付けるものであろう。顧問官の質疑の内容には正理を含みながら、それが何の迫力も持たず、結果として政府案に同調するあたりも、時代の趨勢と言うよりほかあるまい。

 繰上げ卒業が決まった時、学苑においては教育の場にふさわしい場面が展開されていた。すなわち当時法学部教授であった大浜信泉は卒業していく学生に向って、一日、教室で、「諸君は今学業を打ち切って学園を離れることを決して喜んではならない。その僅かな短縮が、諸君の将来の評価に大きな影響を与えるのではないかと私は心配している。前年の卒業生も完全に学業を了えている、又後に続く者もちゃんと学び了えて来た、ということであれば、実力が足りないのは諸君だけだということになる。その足りない部分を自分の力で補うのには大変な努力が要る」(『早稲田女子学生の記録1939~1948』二八頁)と諭したという。また繰上げ卒業生に対する卒業試験は「大学は、軍部から『学生を残してはならない』と申し渡されたのであろう、同じ学科を何度も追試験をして、すべての学生の追い出しにかかった。とにかく、答案用紙を白紙で出すことは絶対に許されない、と申し渡した先生もあったようである。名前だけでも書かなければいけないのである。三十課目も残してあると豪語していた学生もあったが、彼も終には卒業の憂き目にあった事であろう。卒業は、この年に限り、確かに楽なものであった」(同書 同頁)と、女子学生ではあったが繰上げ卒業となった今北静子は回想している。この回想を裏付ける資料として、前記勅令と同日付で専門学務局長から各官公私立大学(総)長宛に発せられた「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ短縮ニ関スル件」に、次のような事項がある。

(三) 病気其ノ他ノ事故ニ依リ卒業試験ヲ受クルコト能ハザル学生ハ事前ニ届出デシメ其ノ病気ノ場合ハ校医又ハ学校指定ノ医師ノ診断書ヲ其ノ他ノ場合ハ詳細ナル事由書ヲ添付セシムルコト

(四) 前号ノ学生及受験セルモ不合格トナリタルモノニ対シテハ十七年一月中ニ於テ追試験ヲ行フコト

(五) 第三号ノ手続ヲ為サズ卒業試験ニ欠席シタル学生ニ対シテハ情状ヲ精査シ事情ニ依リテハ厳重ナル処分ヲ為スコト

(六) 単位制ヲ採ル学部(又ハ学科)ニ在リテハ最少在学年数ヲ超工在学スル学生ニ対シ積極的ニ卒業試験ヲ受験セシメ必ズ本年度卒業スル様勧奨スルコト (『学徒動員・学徒出陣――制度と背景――』資料編四四頁)

これによれば、前記通牒の背後に軍部の強い意向のあったことは間違いないであろう。

 さて在学・修業年限の臨時短縮に伴い、昭和十七年度以降における授業日数の増加、そしてそのための夏季・秋季・冬季・春季の各休業期間の短縮が当面の問題となった。学苑においては十一月八日の理事会で、「学期初メニ於テ二週間繰上開始(四月初メヨリ開講)及秋季休業ノ廃止ニヨリ計三週間補講トナリ、更ニ夏季休業ヲ七月二十六日ヨリ八月十日迄ノ十六日間トシ、八月十一日ヨリ九月十日迄ハ半日授業(午前中)トス」と決定、翌々十日の学部長会議において、春季休業を三月六日-四月一日、夏季休業を七月二十六日―八月一〇日、秋季休業を中止、冬季休業を十二月二十五日―一月七日とし、実質年間六十日の授業日数増加を決定した。

 文部省専門学務局が授業日数の増加について具体的に通牒を発したのは、学苑が右のような正式決定を行った日よりも遅く、十二月一日、「在学年限短縮ニ伴フ臨時措置ニ関スル件」(通牒)を全国大学予科、高等学校長宛に発し、大学もこれに準じて処理するよう指示した。それによると、

一、授業開始

昭和十七年度以降ノ授業開始ハ四月一日トス但シ現在ノ第一、第二学年ニ在リテハ「三月十六日」ヨリ同月末日マデ補講授業ヲ行フモノトス

二、学年及学期

昭和十七年度以降ニ於テハ第一、二学年ハ夫々四月一日ニ始マリ三月三十一日ニ終ルモノトシ第三学年ハ四月一日ニ始マリ同年九月三十日ニ終ルモノトス

昭和十七年度以降ニ於テハ学期ハ二学期制トシ四月一日ヨリ九月三十日マデヲ第一学期、十月一日ヨリ翌年三月三十日マデヲ第二学期トス

三、休業

㈠ 冬期休業 十二月二十五日ヨリ一月五日マデ(十二日間)

㈡ 春季休業 二月二十四日ヨリ三月十五日マデ(二十日間)

㈢ 夏季休業 七月二十一日ヨリ八月十九日マデ(三十日間)

(『近代日本教育制度史料』第七巻 一六三-一六四頁)

とあった。なお本通牒の第四項に、「本件ニ関シテハ貴校限リ臨時学則ヲ定メテ実施シ別ニ本省ノ認可ヲ受クルヲ要セザルモ右制定ノ上ハ直ニ本省ニ開申スベキモノトス」とあったので、学苑は前記の大学暦を改めるところはなかった。ただこの通牒によって両高等学院は二学期制を採ることとされた。そのため各学期ごとに全科目の試験を行っていた第二高等学院では第二学期試験が中止されたが、第一高等学院では、従来とも全科目の試験は第一学期と第三学期とに限られ、第二学期は文科組については語学、理科組については数学と語学のみの試験が行われていたので、実質的には大きな変化はなかった。

 なお両高等学院に関連して、十一月十八日付で文部省専門学務局長名で「高等学校高等科ニ関スル臨時措置ニ関スル件」という通牒が出され、十六年度高等科第二学年の教授時間および教授科目に対する臨時措置として、

一、自今卒業ニ至ルマデ毎週教授時数ハ文科理科ヲ通ジ三十六時マデ増加シ得ルコト

二、文科ニ於ケル自然科学、理科ニ於ケル国語及漢文、心理ノ教授ハ本年十一月末日ヲ以テ打切ルコト

三、文科及理科ニ於ケル外国語(第一外国語及第二外国語ヲ含ム)ノ毎週教授時数ハ本年十二月一日以後四時間以内之ヲ減ジ得ルコト

四、一及二ノ措置ニ依リ新ニ生ズル教授時数ハ適宜若干ノ学科目ニ配分スルコト

五、第二学年ノ学科課程ハ成ル可ク速ニ之ヲ了リ第三学年ノ課程ノ一部ヲ第二学年ニ於テ教授スルコト

六、各学科目ヲ通ジ新ニ予定スベキ教授時数ノ範囲内ニ於テ教授要目ノ趣旨ノ実現ニ努ムルコト

之ガ為教授スル者ニ於テ教材ノ取捨繁簡宜シキヲ得ルヤウ工夫ヲ加フルコト

が指示された。すなわち、修業年限の短縮に伴い、文科、理科における不要不急な科目を削減するとともに、両科を通じ外国語の教授時数を削減し、それによって生じた時間を適宜他の科目に変更し得ることになった。

 第一・第二高等学院はこの通牒が発せられる以前、すなわちこの年の四月から学科配当を改正し、特修科という新科目を設置していた。それは各担当教員がその専攻分野で特定の課題を設定し、学生をして随意三科目以内を選択受講させるもので、国語について言えば修辞論や音韻論が取り上げられ、外国語においては西欧文芸思潮、歴史においては原書によって史学史を研究するといった風であった。また第二外国語の他に更にもう一つの外国語を履修することも可能となった。加えて哲学、科学、史学、自然科学、語学、芸術の他、国防、武道運動競技に関する科目も新設された。生徒は従来の科目の枠を越えた授業内容の新鮮さを喜び、一般に好評であった。この年十一月二十九日、第二高等学院は特修科第一回研究発表会を大隈講堂において行っている。昭和十六年十二月三日付『早稲田大学新聞』は、「去る二十九日第二学院特修科の成果を問ふべき第一回特修科研究発表会が大隈大講堂、小講堂、講堂前広場と一斉に発表陣が展開され理想教育の成果に見る者をして驚異の眼を瞠らせ、特に広場に並べられた鹵獲のソ聯戦車、それも実際に学生の手で運転される有様に場内へは入場を謝絶された子供部隊も大満悦」と報じている。

 さて十二月二十日には、高等学校に対するのとほぼ同じ内容の「昭和十七年度修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」という通牒が、文部省専門学務局長から、早稲田大学専門部長宛に発せられている。それは卒業時期や各休業期間の短縮および毎週時間数の増加に対する指示において、学部および高等学校に対する通牒と同内容であるが、学期制についても、「十七年度以降ニ於ケル学年ハ従前ノ通ナルモ学期ハ二学期制トシ四月乃至九月ヲ第一学期、十月乃至三月ヲ第二学期トナスヲ得ルコト」を指示しているので、専門部各科および高等師範部も二学期制を採ることとなった。

 昭和十六年十二月二十五日、午前十時から、異例とも言うべき第五十九回卒業証書授与式が大隈講堂において挙行された。卒業生は大学学部、専門部、高等師範部および専門学校各科合計四千百五十七名の多数に上った。十二月二十五日と言えば、既にその月の八日には米・英に対する宣戦が行われ、未曾有の大戦に突入していたのである。総長田中の告辞もそれだけに緊迫したものであった。田中は先ず、

之が平時でありますならば、諸君は小学以来十有余年若くは二十年近く学業を積まれ、愈々蛍雪の功成つて社会人として活躍さるると云ふ訳でありますから、歓喜に酔うて校門を出らるるのであります。然るに今日の日本は曠古の非常時であつて、国運興廃の岐れる関頭に立つて居るのであります。玆に於て授業を繰上げ卒業期を早めまして、諸君が卒業試験を受けるや否や慌だしく徴兵検査を受けて一、二ケ月の後には多数の諸君は入営さるるのであります。而して近き将来入営の予定されない諸君と雖も命令一下直ちに軍国の務に従はなければならないのでありますから、恐らく諸君も歓喜に酔うて居る遑はない、定めて手に唾して蹶起しやうと云ふ衝天の意気正さに抑へ難きものがあるだらうと私は存じます。

(『早稲田学報』昭和十七年一月発行 第五六三号 七頁)

と述べ、次いで戦争における知識人の役割に言及し、

偉大なる国民とは如何なる国民であるかと云えば、其の武力に於て世界無敵であると同時に其の文化に於て世界の先駆をなすものでなければならぬ、而して更に其の上に、国民の徳性に於て又他の民族の信頼を博するものでなければならないのであります。幸に忠勇無双の我が皇軍の活躍は真に鬼神の如くでありますが、併ながら昔から言ふ通り馬上天下を取ることは出来ても馬上天下を治むることは出来ないのであります。即ち大東亜共栄圏の基礎は勇敢なる将兵諸君の力に依つて据えらるるのでありますが、其の土台の上に如何なる建物を建てるかと云ふことは平和の選手の努力に俟たなければならないのでありまして、若し平和の選手の努力にして陸海将兵諸君に劣りますならば所謂千仭の功を一簣に欠く恨みなきを得ないのであります。随つて私は卒業生諸君に望む、諸君は学園を離れたからと云ふて、自己修養を怠つてはならない。寧ろ愈々益々自己修養に努力して天晴れ東亜共栄圏の先達として恥かしからざる立派な者にならなければならないのであります。 (同誌 同号 八頁)

と言い、「日本の歴史、否、世界の歴史に於て特筆大書すべき二六〇一年極月二十五日、此の記念すべき時に当りまして学園を出らるる四一五七名の諸君の前途に対して、永遠無窮の祝福あれと祈りまして私の訣別の辞と致します」(同誌 同号 八頁)と結んだ。

 相次ぐ在学・修業年限短縮の臨時措置が行われている一方において、戦局はますます苛烈の度を加え、学生生徒をして一刻も早く社会に送り出し、生産増強の一翼を担わせるとともに、戦列に参加せしむることはもはや焦眉の急となった。十七年八月二十一日、政府は中等学校の修業年限五年を四年に、高等学校高等科および大学予科の三年を二年に、それぞれ短縮することを閣議決定し、同日、左の如く、情報局発表の形でこれを公表した。

一、方針

学校教育を簡素にしてその充実を図り訓育錬成を完からしめ、もつて学徒の実務に従事するの期を早からしむると共に、学術文化の進展を図るは国家不断の要請にして、大東亜戦争の完遂、大東亜建設の実行に伴ひ愈切実なるものあり、よつて教育の画期的刷新充実を図り、これと不離一聯の関係において中等学校および高等学校の修業年限短縮を実行せんとす。

二、要領

㈠ 教育の根本的刷新充実を図り中等学校の修業年限は四年とし高等学校(大学予科を含む)の修業年限は二年とす。

㈡ 右年限短縮は昭和十八年度入学者よりこれを適用す。

〔中略〕

㈣ 学術文化の高度の進展を図るため最高の学術研究制度の画期的刷新等必要なる指導を講ずることとし、その具体的方策について別途これを決定す……。 (『朝日新聞』昭和十七年八月二十二日号)

文部次官菊池豊三郎は、同年九月一日の放送により、それらの措置が「昨年秋以来実施して居る大学高等専門学校等の修業期間の臨時短縮の事情に鑑みまして其の必要が感ぜられ、更に大東亜戦争の勃発に伴ひまして曩に大東亜建設審議会に於ても修学期間の短縮の議が決せられ、遂に今回の決定を見るに至つたものであります」(『文部時報』昭和十七年九月発行 第七七〇号 八頁)と言っているが、「これは行政的には、高等学校と大学でそれぞれ半年間づつ短縮することを廃し、高等学校で一年短縮することにより大学入試期日を正常化しようとする含みだと説明されたが、『最後の戦力』としての学生―青年を一年でも早く学窓から兵役あるいは軍事生産の場へと動員しようとする政策のあらわれにほかならなかった」(『日本近代教育百年史』第五巻一二二六頁)。この決定の結果、翌十八年一月に「高等学校令」および「大学令」が改正され、高等学校と大学予科の修業年限は正式に二ヵ年となり、十八年四月の入学者から適用すると定めたのである。この結果、前述したように、既に学苑は第二高等学院の修業年限を三年に改め、十七年三月の入試において三年制の学生を定員の半数だけ募集していたので、同学院の三年制学生はこの改正によってこの時の四百五十名だけとなるわけである。

 さて、第二次繰上げ卒業とも言うべき第六十回卒業証書授与式は、十七年九月二十七日、大隈講堂において挙行された。総長田中は先に四千余名を送り出してから一年にも満たぬ九ヵ月後に、再び多数の卒業生を送り出さねばならぬ事態に、深い感慨を抱いたのであろう、当日の告辞において、先ず、

昨年十二月二十五日各学部卒業生一千五百二十数名に対して卒業証書を授与致しましたが、此の非常時に際会して授業繰上〔げ〕従つて卒業繰上げの結果、僅かに九ヵ月にして再び一千六百有余名の各学部卒業生諸君に卒業証書を授与して之等の諸君を社会の第一線に送り出すに当り玆に卒業式を挙げて、有史以来未だ曾つてないこの非常時局に直面して、諸君の活動すべき舞台が弥が上にも拡大しその驥足を伸ぶるに遺憾のない情勢を前にして、諸君の前途を祝福し諸君の健闘を祈る為に玆に諸君に対して訣別の辞を陳べますことは私の最も欣快とする所であります。

(『早稲田学報』昭和十七年十月発行 第五七二号 二頁)

と述べた。しかしこの年四月十八日には、アメリカ空軍による本土初空襲が行われ、学苑の周辺も被災し死傷者すら出て、人々は漸く緒戦の戦勝の酔いから醒め、戦争を身近に感じ始めていた。今にして思えばその六月にはミッドウェーの海戦において、我が海軍力は致命的敗北を喫し、戦局は我に非に転じつつあったのである。田中も戦局の推移について憂うるところがあったのであろう、

彼等の戦意は日に月に鞏固となり準備成つた暁、即ち一九四三年若くは四四年に於ては大挙して日本に進撃し来ると云ふことは火を睹るよりも明かなる所でありまして、戦争は愈々之れからであると云ふことを我々は覚悟致さなければならないのであります。……亜米利加と云ひ英吉利と云ひ勝利の獲得は之れからであると彼等は信じて居るのでありまして、我々は緒戦に於て世界を驚倒する大きな勝利を占めたからと云ふて、決して油断をしてはならないのであります。……前途を想望すれば波瀾重畳、容易に楽観を許さないのであります。 (同誌 同号 三―四頁)

と前途の楽観を戒め、卒業生の決意を促してその告辞を結んだ。因にこの時の卒業生は各学部以下専門学校に至るまで、総計四千五百七名であった。

 在学・修業年限の臨時短縮措置は十八年度に執られたので、学苑では戦争勃発以後第三回目の繰上げ卒業式が、十八年九月二十六日、午前、午後の二回に分けて大隈講堂で挙行された。午前九時から開始された専門部、高等師範部、専門学校の部においては、各科卒業生二千八百四十八名に対して卒業証書が授与され、午後二時からの各学部の部では、千六百五十五名の卒業生に対し同じく証書が授与された。総長田中はこの年暑中休暇前から健康を害し療養中であったが、壇上に立って「卒業諸子に与ふ」という告辞を述べた。その冒頭に、「日に月に戦闘は激烈となり、皇国の興廃は正に此一戦に繋つてゐるのでありまして、我々は何物を犠牲とするも、誓つて最終の勝利を獲得しなければならないのであります」(同誌昭和十八年十月発行 第五八〇号 二頁)と述べている背後には、敗色覆いがたい、我が国をめぐる戦局の推移があったのである。すなわち頼む盟邦ドイツの緒戦における破竹のような攻勢も、スターリングラードの攻防戦で頓挫し、この年二月にはソ連軍に撃退されていた。そして他の盟邦イタリアにおいては七月にムッソリーニが失脚し、これに代ったバドリオ内閣は九月初旬連合国に対し無条件降伏をしていたのである。一方、我が軍は二月にはガダルカナル島を撤退したばかりでなく、五月にはアッツ島守備隊が全滅し、米軍の本格的攻撃が次第にその速度を速めつつあった。そして国内においては軍需物資の欠乏が重大問題化しつつあったのである。田中はそれを意識してであろう、また、「人類の歴史を顧て、戦の勝敗が物資の多少によつて決したといふ事実を知らないのであります。勿論物資の大切なることは論ずるまでもないのでありますが、然しながら物資は死物であり、之を有効に活用するや否やは人の精神力によつて決するのであります」(同誌 同号 三頁)と言い、古くは元寇の役から日露戦争に至るまでの事例を引いて精神力の重要性を強調した。そして「此戦を闘ひ抜き、而して人類の歴史に未だ曾てなき偉大なる事業の建設は、即ち諸君の双肩に繋つてゐるのでありまして、諸君は何たる幸運に恵まれて生れ出でたか」(同誌同号四頁)と卒業生を激励して言葉を結んだ。

 しかし学苑が右の卒業式を挙行した時点において、既に政府は教育上の超非常措置とも言うべき、学生の徴兵猶予の特典停止の方針を決定していたのである。それまでの非常措置は在学または修業年限の短縮によって繰上げ卒業を推進してきただけで、最高学年在学生以外については在学中の徴集延期の制度は存続されていた。先にも記した(一〇二五頁参照)ように、十六年十月の段階では、枢密院において清水顧問官が在学徴集延期制度の廃止について質問した時、東条陸相は「目下考究シツツアルモ未ダ実行如何ハ確信スルニ至ラザル旨」を答弁したのであるが、約二年後の十八年九月にはその停止が日程に上り、二十一日、政府は「現情勢下ニ於ケル国政運営要綱」を閣議決定した。その中で「国内態勢強化ノ為ニ特ニ執ルベキ方途」として、「行政運営ノ決戦化」に次いで「国民動員ノ徹底」を挙げ、「之ガ為」として「一般徴集猶予ヲ停止シ理工科系統ノ学生ニ対シ、入営延期ノ制ヲ設ク。理工科系統ノ学校ノ整備拡充ヲ図ルト共ニ法文科系統ノ大学、専門学校ノ統合整理ヲ行フ」(『学徒動員・学徒出陣――制度と背景――』資料編八一―八二頁)等の事項を挙げた。「国政運営要綱」の内容は翌二十二日午後七時に内閣情報局から公表され、また同日同時刻、首相東条英機が放送によって直接国民に訴えるところがあった。翌二十三日の新聞は、「国内必勝態勢を強化」「女子動員、男子に代替」「学生の徴兵猶予停止」「理工系学生は入営延期」「法文系教育は停止、学校を統合」等の大見出しを以てこの非常措置を報道した。それによれば東条は前日の放送の中で、「予てより殉国の至誠抑へ難き青年学徒の念願に応へ、政府は此の際此等学徒をして、直接戦争遂行に参与せしむることに方針を決定したのである。……学徒諸君、征くものも、又残るものも、克く、国家の要求に徹し、それぞれの分野において戦争完遂に渾身の力を致し以て決戦下帝国青年の意気とその実力とを、遺憾無く示して戴き度いのである」(『朝日新聞』昭和十八年九月二十三日号)と述べているし、文部省は当局談として、

一、一般適齢に達した学生の徴集猶予はこれを停止し理、工、医および農科の所謂理工系統の学生については国の要員養成の建前から新に入営延期の制を設け勉学を継続せしむること

二、理、工、医、農等のいはゆる理工系統の学科は更に整備拡充を行ふとともに法、経、文等の大学においては将来教員たるべき者などのための教育をのぞきこれを停止すること (同紙 同日号)

等を発表している。

 右の政府の基本方針に基づいて、必要な具体的措置が次々に講ぜられた。すなわち十月二日には勅令第七百五十五号「在学徴集延期臨時特例」が公布され、それには「兵役法第四十一条第四項ノ規定ニ依リ当分ノ内在学ノ事由ニ由ル徴集ノ延期ハ之ヲ行ハズ」(『近代日本教育制度史料』第七巻 一七七頁)とある。兵役法第四十一条第四項(昭和十四年三月二十五日勅令第七十五号)に「戦時又ハ事変ニ際シ特ニ必要アル場合ニ於テハ勅令ノ定ムル所ニヨリ徴集ヲ延期セサルコトヲ得」とあるので、これを援用して在学生の徴集延期制を停止したわけである。また同日文部次官から各大学・専門学校長宛に発せられた「在学徴集延期停止ニ関スル件」は、臨時徴兵検査規則により、現に徴集延期中の者はすべてその本籍地において来る十月二十五日から同年十一月五日までに徴兵検査を受けるようにと指示した。

 次いで同年十月十九日、文部次官から各大学、高等専門学校長宛に発せられた「昭和十八年臨時徴兵検査ヲ受クベキ学生生徒ノ取扱ニ関スル件」(訓令第二百四十一号)は、いわゆる出陣学徒に対する仮卒業の取扱いを指示している。すなわち、

一、入営又ハ入団ニ至ル迄ハ本人ノ便宜ヲ特ニ考慮ノ上重点的ニ教育ヲ為スコト

二、入営又ハ入団ノ学生生徒ニ対シテハ服役期間中休学ノ取扱ヲナシ其ノ学年修了、卒業、復学ニ関シテハ左ニ依ルコト

(イ) 大学、大学予科、高等学校、専門学校(之ニ準ズベキ学校ヲ含ム)ノ学生生徒ニシテ明年九月卒業ノ見込アリト認メラルル者ニ付テハ本年十一月ニ於テ仮卒業証書又ハ仮修了証書等ヲ授与シ明年九月ニ於テ卒業又ハ修了セシムルコト

(『学徒動員・学徒出陣――制度と背景――』 資料編八七頁)

 日中戦争の長期化に伴う、いわゆる臨戦体制下において、徐々に強化されてきた教育上の非常措置は、昭和十八年九月末から十月初旬にかけての一連の措置により、その行くべき所に行き着いた。すなわち在学修業年限の短縮に加うるに、在学徴集延期制の停止により、一部の例外を除いて、教育そのものが停止されたのである。一部例外といっても、学徒動員体制の強化により実際には例外をなさなかったと言えよう。

 学徒出陣をめぐる学苑の動きは次章三に記すが、九月末から十月にかけて学苑はもとより他大学および専門学校がただならぬ慌しさの中にあった時、十月十二日、政府は更に「教育ニ関スル戦時非常措置方策」を閣議決定した。この閣議決定に基づき文部省が十月二十三日以降発した一連の措置は大学・高等・専門学校の存立意義を根本から改正しようとしたもので、特にそれが私立の文科系大学や専門学校に与えた影響は甚大であった。それは一言にして言えば、理科系の大学および専門学校の拡充を計るため、文科系大学および専門学校を理科系に転換させるとともに、相当数の大学を専門学校に格下げし、しかもその統合を進め、文科系大学学部および予科の定員を三分の一、同専門部のそれを二分の一に減じようとするものであった。世間ではこれを私学撲滅案とも称し、この当局案に従って改組するもの、また断乎反対して当局と熾烈な折衝を試みるものなど、その反応はさまざまであったが、それらについては既に本章一において述べているので、ここでは触れない。また、この間、第一高等学院の文科と第二高等学院では文科第二部を設置し、在校生に対して希望者に限り選考の上理工学部へ進学し得る新たな道を拓いた。これは理工学部進学のための予備補修教育を行うもので、募集定員百名の口頭試問を十八年十二月十九日に実施した。

五 学徒勤労動員

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 昭和六年の満州事変勃発以降、とりわけ十二年からの日中戦争突入以降、戦時体制化を推し進める政府は、膨大な人的資源を必要とする軍部・産業界からその対応を迫られた。かかる動向の下で、第一次近衛文麿内閣は、十二年十月十二日「国民精神総動員運動」の推進を明らかにし、更に翌十三年四月一日実質的に「人的及物質的資源」を動員する「国家総動員法」を公布し、ここに、精神・物質の両面からの「報国」のための動員体制が打ち出された。この動員体制の一環として、十三年六月九日付の「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」を以て、学徒もその対象に繰り込まれた。以後、戦争の進展は、学徒勤労作業の強化を促し、遂に十九年二月二十五日の「決戦非常措置要綱」で、中・高等教育の学校における授業を全面中断する「通年動員体制」をもたらしたが、それから約一年半後、二十年八月十五日の敗戦を迎え、実質的には学徒勤労動員も終止符を打った。

 政府が動員体制を表明するや、学生に対して勤労を要求する声が挙がった。例えば、講師喜多壮一郎が『改造』(昭和十三年四月発行第二〇巻第四号)で、「大学生に、今日の時代が課役すべきものであらうところのつぎのものは何か。曰く『学生集団勤行』、またの名称が『学生愛国労働奉仕』」と学生の労働に具体的な名称まで挙げ、更に「ナチス青年が、一九三〇年以来『ヒツトラ・ユーゲント指導部』のもとで、学生集団勤行運動の狼火を掲げて、国民教育の一翼化してきたことは、今日のわが国に移して直ちに成功するかどうか大に疑惑を抱く。だが、今日の大学生が、よく自ら理解して、『何がわれらの求むべきものか』と根基を把握するやうにまで学生集団勤行の真意義を与へることが緊喫事であると信ずる」(二一二―二一三頁)と述べている如く、ドイツの青年教育としての、十八歳以上二十五歳未満の青少年に六ヵ月労働奉仕を義務づけた「アルバイツ・ディーンスト」等を、我が国に採用せよとの声がかなり聞かれた。

 このような声を背景にして、前述の如く十三年六月九日に、学徒勤労作業規定の嚆矢たる「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」が発せられた。これは、岡田怡川が十三年七月発行の『集団勤労の本質及方策』で「全日本の学生生徒が勤労奉仕を通して国策の線に沿ひ、国民精神総動員体制へと融け込むことになつた」(四頁)と表現しているように、国民精神総動員運動に連なり、学生を「実践的精神教育実施ノ一方法トシテ」休暇中に五日間ほど「集団的勤労作業ヲ実施セシメ之力教育的効果ヲ十分ニ収メシムル」(『近代日本教育制度史料』第七巻 一八頁)ためのものであった。しかし、これに対しては、ドイツから帰国した助教授大西邦敏が十三年八月発行の『中央公論』(第五三年八月号)誌上で、「僅々五日間の労働奉仕で目的が達成せられると考へるが如きは笑ふべきドン・キホーテである」(三〇三頁)と一段と労働期間を延長するよう主張している如く、生ぬるい労働作業でしかないとの反論が生じた。

 さて、先の通牒が発せられた八日後の六月十七日、第一高等学院では「本年夏休ノ勤労作業実施如何ニ関スル協議会」が開かれたが、「多数学生ヲ擁スル本学院ニ於テハ予算モナク具体案モ発見シ得ズ」と判断して、何ら勤労作業を実施する具体的な計画を立てる意志表示をしていない。第一高等学院の方針は、七月七日付で大学当局が文部省へ提出した左の書類から判断して、学苑全体に連なるものと思われる。

昭和十三年七月七日 早稲田大学総長 田中穂積

文部次官 伊東延吉殿

集団的勤労作業運動実施ニ関スル件

客月九日附発普八五号ヲ以テ御通牒相成候標記ノ件ニ関シ本大学ニ於テハ現下之レヲ学生ニ強制スルハ大ニ考慮ヲ要スルモノ可有之、尤モ自発的ノ希望者ニ対シテハ便宜ヲ供シテ奨励スル方針ニ致シ居候条此段及御回答候也。

追テ本大学ニ於テハ時局ニ鑑ミ学校教練ノ徹底ヲ期シ銃器ソノ他一般設備ヲ充実シ、且軽井沢ニ於テ本大学専用ノ廠舎ヲ建築セシメ従来高等学院、専門部、高等師範部各学年ニ於テ野営教練ヲ実施シ来レルガ、本学年度ヨリ更ニ大学各学部第二学年ノ外第一学年ニ於テモ之ヲ実施スルコトトセリ。尚学生ノ勤労作業ニ属スルモノヲ挙グレバ次ノ如シ。

すなわち、大学当局は文部省の学徒勤労作業方針に全面的には従い得ないとしながらも、「自発的ノ希望者ニ対シテハ便宜ヲ供シテ奨励」し、海洋航空団等の国策推進サークルを以て帳尻を合せている。文部省は早稲田に見られるような状況を打開するためか、また学生が最も多い東京でデモンストレーションを行うためか、通牒から約一ヵ月経た七月十三日に「帝都青年集団勤労奉仕二関スル件」を発して、東京市内の学校に、通牒の意図する「運動ノ連絡統制ヲ図ル為」にオリンピック競技場建設等に三日ないし五日の勤労を指令した。更に、文部省は翌十四年三月三十一日「集団勤労作業実施ニ関スル件」で、前述の集団的勤労作業の「漸次恒久化ヲ図リ」、「夏季又ハ冬季ノ休業ノミニ限ラズ随時之ヲ行ヒ出欠点検ヲ為ス等正科ニ準ジテ」(『近代日本教育制度史料』第七巻 二〇頁)取り扱うよう指示して、学徒勤労作業を定着させようと意図した。

 こうした学校組織を勤労作業に組み込む形の路線とは別に、文部省は学校の選抜人選による全国的規模でさまざまな海外への勤労作業を強化した。その中で注目すべき事例として、「興亜」理念に基づく派遣政策が挙げられる。すなわち、文部省は、日中戦争が予想に反して長期化の様相を呈してくると、軍部と共同で日本の生命線たる満州国および交戦国たる中国に青年を「派遣シ現地ニ於ケル国防建設文化工作並ニ内地ニ於ケル農業生産拡充計画遂行上必要ナル飼料ノ生産等ヲ行」わせることにより「集団的勤労訓練ヲ通ジテ興亜ノ精神ヲ体得セシ」める「興亜青年勤労報国隊」を組織した(『興亜青年勤労報国隊学生隊報告竝感想文集』三頁)。これは、文部省が金国の大学、高等学校等から身体壮健、精神健全な学生を選抜し、「陸軍省ニ於テ銓衡ノ上文部省ヨリ嘱託シタル配属将校ヲ以テ編成」(同書 同頁)し、学生を茨城県東茨城郡内原にある満蒙開拓青少年義勇軍訓練所で準備訓練した後、「満州班」と「北支及蒙疆班」とに分けた派遣隊である。本学苑では、満州班へ専門部、高等師範部、第一・第二高等学院生から百二十五名が応募し、そのうち十五名が満州に渡っている。学部生は、応募者百三十一名中のうち選抜された五十名が北支班に参加した。合計六十五名の参加者のために大学当局は、六月二十七日大隈講堂で「支那事変勃発二周年記念勅語捧読式並興亜青年勤労報国隊壮行会」を催し、田中総長は興亜青年勤労報国隊が「正さに画時代的の壮挙」であるので、「諸君は夢寐にも大国民たるの襟度と確信とを失はれないやうに、而して諸君の一人々々が大にしては日本帝国を代表する矜持を以て立派に活躍」(『早稲田学報』昭和十四年七月発行 第五三三号 八―一二頁)するよう要望した。そして、隊が帰国すると、学苑当局は九月十日大隈講堂で科外講義として報告講演会、二十六日以後各学部・各部ごとに報告会を開き、一般学生に興亜意識を昻揚させるとともに、戦況を学生の口から語らせ戦意の昻揚を図った。大学が熱心な歓送迎会を催した意図は、田中総長が隊について、「色々な問題もあつたらしいが、早稲田の学生が模範的であつたのは喜ばしい」(『早稲田大学新聞』昭和十四年九月二十日号)と端的に揚言している如く、学生を「模範国民」化しようとする意識からではないかと推測され、十一月十四日、隊は文部省より賞状を授与されている。興亜青年勤労報国隊は、翌十五年に「興亜学生勤労報国隊」と名称を変更され、十六年まで続いた。

 なお、休暇を利用しての海外への勤労作業は、この興亜青年勤労報国隊を以て開始したのではない。それ以前に財団法人学徒至誠会という団体が、軍部の協力を得て大学生等を「学徒研究団員」として、昭和八年より満州、十年より南洋、十一年より「北支」へ、「建国工作」および「踏査研究」等を目的として派遣していた。本学苑からは、昭和十一年度を例にとれば、満州へは三十二名、北支へは三名、南洋へは三名が参加し、それに配属将校も付き添っている。また、他にも大陸へ勤労報国隊として渡った団体が幾つかある。代表的な団体には、海軍軍事普及部主催による都下学生国防研究会連盟の勤労報国隊海軍班があり、本学苑からは十四年に五名が参加している。このように十四年の夏期休暇には、軍部の協力を得た海外での報国勤労作業を通しての興亜意識が昻揚し、『早稲田大学新聞』には、「聖戦三年目の夏は鍛錬の夏、勤労の夏であつた――動く学生は消極的な態度を捨て、積極的に興亜の聖業に参画し、新しい東亜の秩序の中に自らの理想を織込まうとしてゐる」(昭和十四年九月十三日号)と報ぜられている。

 しかし、このような学苑の動きは、他大学の動きと殆ど変るところがなかったものの如くであり、この頃の本学苑の勤労作業を特徴づける制度は、寧ろ新設の学徒錬成部で指導したものであろう。これについては既に前章に詳述したが、ここでは、勤労作業と密接不可分の関係にある科目「労作体錬」について触れる。労作体錬は主として、農作業と道普請がその根基である。前者の農作業は、

播種、除草、中耕、植付、施肥、収穫、下肥汲み、堆肥作り、伐木、根起し、薪作り等季節に応じ、凡そ農に必要な仕事は何でも実施する。 (早稲田大学『学徒錬成』 一一九頁)

ことを内容とし、後者の道普請は、次の如き学生の体験録に見られるものであった。

私達は錬成道場の近傍を走る道路工作に主力を注いだ。鍬を持つ者、シヤベル、ツルハシを持つ者、モツコを担ぐ者、車を挽く者、総ての者が各々道具を手に手に取つて労作に向ふ。一組を二班に分ける。各班毎に持場が定められ約三時間、十五分の中休をおいて汗の奉仕が開始される。太陽はまだ燃える様に輝いて暑い光を投げかける。栗や松の木が立ち並び、雑草が生ひ繁つてゐる中を進む。指導者の方が荒縄を引いて道路のアウトラインを着けて呉れた。私達は盲目的に、縄の線に沿つて立木と雑草の除去に拍車をかけた。土を掘る者、木の根を鋸で挽き切る者、根を持ち上げる者、その根を運び去る者、皆塵埃と汗にまみれ働く。根の掘り出された凹地には直ちに土が運ばれてならされた。作業は三日間行はれて略道路を完成した。

(早稲田大学学徒錬成部編『学徒錬成――大東亜建設と教育革新――』 八六頁)

 これらの作業は、先の通牒「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」における「作業種目」の「校庭、農場、農園、演習林等学校設備ニ関スル手入其ノ他ノ作業」と、「道路改修、埋立其ノ他土木ニ関スル簡易ナル作業」(『近代日本教育制度史料』第七巻 一九頁)に該当するもので、通牒はこれらの作業を五日と規定していた。他方、学徒錬成部の生活錬成期間は四泊五日であったことから、学徒錬成部は一面右の通牒に従う勤労作業内容をも満たすように創設されたとも考えられる。このことは、東伏見の体錬道場における訓練状況について学苑が文部省に提出した「昭和十五年度集団勤労作業実施報告書」からも窺うことができよう。

一、作業事項)

二、実施方法

〔中略〕

⑶ 指導方法

班別組織ニ記載セル如ク第一大隊ト第二大隊トノ二個大隊ニ大別シ作業実施ニ当リテハ大隊単位ニ指導ス。即チ学徒錬成部ノ錬成目標ノ一項目トシテ集団勤労作業ガ挙ゲラレ其指導精神ハアクマデモ学生ノ実践ヲ通シテノ汗ノ体験ニ依リ非常時国家ノ高度国防ノ見地ニ立脚シ、規律統制アル行動ト崇高ナル勤労精神ノ体得ヲ主眼トシタ。先ヅ第一、第二大隊共ニ開墾体錬道場ノ清掃作業ニ当リ「我等ガ道場ノ建設」ニ力ヲ注イダ。先ヅ第一大隊四百名ガ二ケ小隊ヲ併合シテ一班トナシ、鍬、鎌、シヤベル、鋤簾、箒等ノ農具ヲ使用シテ体錬道場ノ荒地ノ作業ニ従事ス。此ノ間第二大隊ハ集団競技、球技ヲナシ指導者ノ合図ニ依リ第一大隊ト交代シテ集団勤労作業ニ移ル。

 学徒錬成部は本編第十章で述べた如く勤労作業を進める一方において、「錬成ノ本義」、「世界観」、「肇国精神」を学ぶことにより、「国体ノ本義ニ基キ皇運扶翼ノ確固不抜ナル精神ヲ体得」する教育機関であり、知育を通して国家目的に適うよう学生を理念的ないし精神的に教育する目的をも持つ。これは、大学が学徒錬成部らしきものを初めて公言した十五年九月十四日の田中総長の訓示「教職員各位に訴ふ」から三日後の十七日、橋田邦彦文相が「報国団」の設置を指示した事項「修練組織強化ニ関スル件」の、

今ヤ興亜ノ聖業日ニ進ミ皇国ノ使命益々重大ヲ加フルノ秋高等諸学校教育ヲ刷新シテ以テ負荷ノ大任ニ堪フベキ人物ヲ錬成スルコトハ現下喫緊ノ要務ナリ。抑々教育ノ道ハ学行一如ノ理想ノ下ニ師ハ先達トシテ後進タル生徒ニ道ヲ示シ生徒ハ師ニ信倚シテ道ニ随ヒ師弟相携ヘテ倶学倶進スルニ在リ。今日苟モ高等諸学校教育ニ携ハル者ハ斉シク斯ノ精神ニ徴シ師弟同行愈々薫化ノ実ヲ挙グルヲ以テ第一義トセザルベカラズ。即チ之ガ為ニハ学校ガ教学ノ本義ニ基ク修練道場タルノ体制ヲ確立シ学校長以下教職員一体トナリ生徒ノ全生活ヲ通ジテ其ノ教導ノ任ニ当リ教育ノ全一的効果ヲ期スベキナリ。

(『近代日本教育制度史料』第七巻 一九一頁)

に拠ったものと思われる。すなわち、ここに言う「学行一如ノ」「教学ノ本義ニ基ク修錬道場」はまさに学徒錬成部に当るものであろう。具体的に言えば、「修練組織強化ニ関スル件」に規定する「組織」の一つ「鍛錬部」は「勤労奉仕作業、剛健旅行、合宿訓練等」を行うものであり、これは学徒錬成部の勤労作業、四泊五日の合宿に合致している。そもそも、「修練組織強化ニ関スル件」は、「在来ノ校友会其ノ他ノ校内団体ヲ再組織シテ現下重要ナル諸種ノ修練施設ヲ加へ学校長ヲ中心トシ教職員生徒ヲ打ツテ一丸トスル団体」を組織し、その名称を「例ヘバ報国団ノ如シ」(同書 同巻 一九一―一九二頁)と規定したものである。これに対して、大半の大学は、学友会、体育会等を護国会、修練組織協議会、報国団(隊)等に変更した。しかし、かかる動向に対して、本学苑は報国団らしきものを創設することなく、「修練組織強化ニ関スル件」で文部省の指示にストレートに応ずるのではなく、実体においては「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」に合致させ、理念的には「修練組織強化ニ関スル件」の主旨に合致させて、独自な学徒錬成部を創設したのであった。このような本学苑の勤労作業方針の基本的な姿勢が、田中総長の次の発言となって現れたのであろう。

我学園建学の本旨は創立者たる大隈老侯によつて宣明された、「模範国民の造就」にあつて、これが永久不磨のものたることは素より論を俟たぬが、所謂模範国民の意義たる頗る広汎であつて、教育上其中の如何なる所に重点を措て力説すべきかは、時代々々によつて自から異るべきが故に、錬成部の目的に於て、「偉大なる国民の先達たるべき智、徳、体兼備の人材」と述べたのであるが、飽まで建学の本旨に副ふが為に、綱領の第一に於て、「奉公の大義の為めに率先躬行、国民の模範たらしむ」と述べた。 (『早稲田学報』昭和十五年十一月発行 第五四九号 六―七頁)

 翻って、学徒錬成部の勤労作業に対する学生の反応はどうであろうか。専門部政治経済科生久保田忠雄は、「久留米道場錬成生活記」と題する感想文で、

健全なる精神を養ふ為に健全なる運動を行ふ。暑い暑い午後の日射しに、松林の中の蟬の声が汗をしぼる様だ。夫夫伐採、運搬、道造り、橋懸けと別れてその与へられた仕事に熱中する。素裸になる者もある。「辛い」と思ふのも束の間、少し経つと休憩になる、思ふ存分、我が心と体を山の中に休めるのだ、此んな快よさは此の時が始めてであつた様だ。

(『稲政』昭和十六年十二月発行 第九号 八四頁)

と、身体全体で勤労作業を謳歌している。一方、ある第一高等学院生は、「学校当局も小姑的に学生を扱はず学生の労働が如何に実社会に貢献する所大なるか、学生をして分らしめる如くに鍛錬されたい。日数は問題外だ」(『学友会雑誌』昭和十六年三月発行 第四三号 八二頁)と、その勤労作業の効果に懐疑的である。当然のことながら、学生の間には、学徒錬成部の勤労作業に対して、賛否両論が存在したのである。

 ところで、十六年段階になると食糧飼料等の増産が緊急不可欠となり、二月八日の文部・農林次官通牒「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施ニ関スル件」は、「最重要国策タル食糧ノ確保増進」を目指し、学生をして「一学年ヲ通ジ三十日以内ノ日数ハ授業ヲ廃シ勤労作業ニ振リ替」えるものとした。この通牒は、これまで労働期間が五日間であったのを、三十日以内と幅を持たせた上に、それを授業日数に振り替える規定で、以後暫くの間基本的な規定となった。このように、学徒の勤労が教育行政の一部となったので、文部省はこれより一ヵ月前に体育局を新設した時、初めて勤労を同局訓練課の所掌事項にした。

 さて、既に触れた如く、十五年九月十七日の「修練組織強化ニ関スル件」にも拘らず、本学苑は別段行動を起さなかったが、文部省は他の大半の大学が学友会等を、護国会、修練組織協議会、報国団(隊)等に名称変更したのを見届けて、翌十六年七月三十日、「官公私立大学及び専門学校の総長、学長、校長七十名」を「召集」して、報国団編成を「示達」(田中穂積「早稲田大学報国隊編成に就て」『早稲田学報』昭和十六年八月発行 第五五八号 二頁)した後、八月八日「学校報国団確立方」、いわゆる「八・八訓令」を発した。これによって、文部省は先の「修練組織強化ニ関スル件」の如く幅を持たせた規定ではなく、各校に「学徒ノ修練」、「集団勤労ノ訓練」、「国家奉仕の労務」を目的として活動する報国隊の設立を義務づけ、「克ク団結ノ威力を発揮シテ其ノ責務ヲ果ス」よう訓令した。そして、訓令号外で、文部省は学校報国隊本部を文部省に、地方部を東京等十ヵ所に置き、その地方部を通して全国の諸学校の報国隊を統一的に把握できるよう企画した。ここにおいて、諸学校は全国統一的に「適時出動要務」体制に繰り込まれることになった(『近代日本教育制度史料』第七巻 一九四―一九八頁)。報国隊は必ずしも勤労出動のみに活動する機関ではなく、多方面に亘って機能する機関であったが、しかし、これ以後の学徒勤労動員は報国隊を基本単位として実施されたので、ここで勤労動員を主としつつ、同隊を概観することにする。

 早稲田大学では、その編隊組織を統率する責任者の姓名を八月一日までに、また組織内容の詳細を遅くとも八月十日までに、文部省専門学務局へ報告すべしとの示達を受けたので、取敢えず七月三十日付で、「時局に関連し総長より大至急示達致度件有之候間、来八月一日(金曜日)午前九時大隈講堂へ参集相成度候也」という召集状を在京学生に出した。大学は召集に応じた学生に申告票を配布し、八月一日発会式に「健康状態」、「暑中休暇中ノ非常招集ニ差支アル期間」を届けさせ、また隊本部直属の特技隊を編成するため、参加希望を調査した。引き続き、田中総長(隊長)は三千数百名の学生を前にして、「早稲田大学報国隊編成に就て」と題して、「模範国民の造就を使命とする我が早稲田の健児にあつては、挺身して国民の先駆を為さなければならない」(『早稲田学報』第五五八号 五頁)と、模範国民として国民の先駆者となるよう要請するとともに、学徒錬成部が教育界から注目かつ賞讃されているので、「天下環視の中心たる我早稲田健児の動静は我教育界に重大なる影響を及ぼすことを覚悟しなければならない」(同誌 同書 六頁)と揚言し、学生に対し使命感を以て活動するよう要望した。

 なお、「学校報国団ノ隊組織確立竝其ノ活動ニ関スル件」には「学校報国団ノ隊組織ノ呼称ハ何学校報国隊トス」と規定してあるが、早稲田大学では、発足当初は「義勇団」であったようである。しかし、すぐさま「報国隊」と改称し、九月十二日に学苑当局は「今般曩ニ結成致候『早稲田大学義勇団』ヲ『早稲田大学報国隊』と改称」する旨の周知徹底を図ったが、暫くの間名称の混乱があったもののようである。

 さて、早稲田大学報国隊の組織は、

一、早稲田大学内ニ有事即応ノ体制ヲ確立スル為報国隊を設ク。

二、早稲田大学報国隊ハ教職員、学生生徒全員ヲ以テ組織シ、之ヲ本隊ト称ス。

三、本隊中特殊ノ技能ヲ有スル者ヲ以テ特技隊ヲ組織シ之ヲ工作隊、消防隊、自動車隊、乗馬隊ニ分ツ。

本隊中ヨリ非常時ニ於ル特別警備ノ任ニ当ルガ為、特別警備隊ヲ組織ス。

四、報国隊長ハ早稲田大学総長之ニ当リ全員ヲ統督ス。

五、報国隊ニ本部ヲ設ケ幕僚若干名、本部附若干名ヲ置ク。

幕僚ハ教職員及配属将校中ヨリ報国隊長之ヲ命ジ、本部附ハ大学本部職員ヲ以テ之ニ充ツ。

六、本隊ハ各学部附属学校別ニ部隊ヲ設ケ各部隊ヲ更ニ大隊及小隊ニ分ツ。

部隊、大隊、小隊ニ各長ヲ置ク。

部隊長ハ当該各学部附属学校長之ニ当リ大隊長ハ教職員中ヨリ報国隊長之ヲ命ジ、小隊長ハ学生生徒中ヨリ部隊長之ヲ命ズ。

特技隊、特別警備隊ハ本部ニ属シ、之ヲ大隊、小隊若クハ班ニ分ツ。

七、各部隊ニ若干名ノ幕僚及部隊附ヲ置ク。

幕僚ハ当該学部附属学校教職員及配属将校中ヨリ部隊長之ヲ命ジ、部隊附ハ当該教職員ヲ以テ之ニ充ツ。

八、以上ノ外必要アル事項ハ其都度報国隊長之ヲ定ム。

九、報国隊編成表ハ別表ノ通リトス。

となっている。編成表に目を移すと、右のうち第三項の工作隊は理工学部生と専門部工科生で組織し、専攻に応じて、それぞれ六小隊で構成される建築班、電気班、機械班、土木班、化学班に分れる。消防隊には商学部生が、特別警備隊には政治経済学部生と法学部生が当てられ、自動車隊と乗馬隊は希望者で組織された。第六項の本隊は、各学部で構成する第一―五部隊と、専門部各科で構成する第六―九部隊と、高等師範部で構成する第十部隊と、第一・第二高等学院で構成する第十一・十二部隊とで編成され、これらの部隊が更に学年単位の第一―三大隊に分割される。ただし、生徒数の少い第十部隊は、国語漢文科全学年生の第一大隊と英語科全学年生の第二大隊に分けられた。そして以上の各大隊が、一個五十人を基準単位とする幾つかの小隊に細分されるのである。また、この時点で編成されなかった夜間部は、漸次第十三部隊(専門学校)、第十四部隊(高等工学校)、第十五部隊(工手学校)と翌年の一月までに編成を終えた。

 かくして、八月一日に実施した学生の参加希望調査に基づいて、学苑は、八月一日以降の四十日間を四期に分けた「一般奉仕予定表」を作成した。そして、すぐさま報国隊は第一期(八月三日―十二日)の第十二部隊(第二高等学院)三百名を東京兵器補給廠(十条および赤羽)に派遣したのを皮切りに活動を開始した。当然のことながら、本部=大学当局は教職員を派遣して作業中の学生を激励および監督に当らせた。報国隊発足の報道を聞いた慶応義塾大学教授小泉丹は、『改造』(昭和十六年九月発行第二三巻第一七号)誌上で「学生報国団の活動が期待されるほどの時になつたのである。わが国の学生にとつて最初の仕事が課せらんとしてゐる」と祝福し、「報国団は新しい型の学徒出陣である」(一五〇頁)とまで述べたが、太平洋戦争突入直前の十一月二十二日、「国家総動員法」第五条に基づく「国民勤労報国協力令」(勅令第九百九十五号)が出て、国民皆働が謳われ、その趣旨の下で学徒も労働力の一翼を担うことになった。

 各校が報国隊を結成すると、文部省は先述の十三年の「帝都青年集団勤労奉仕ニ関スル件」の場合と同様に一層の進展を図るため、各ブロックごとに一堂に集めて統制を強化するとともに、各校の対抗心を煽ったようである。東京を例にとれば、明治神宮外苑陸上競技場での第二回大詔奉戴日を期して、十七年二月八日、「学校報国隊ヲシテ真剣撥刺タル士気ヲ昻揚セシメ、特ニ団体的訓練ノ徹底ヲ期シ之ガ戦時下ニ於ケル覚悟ヲ堅持セシム」るため、「帝都ニ於ケル学校報国隊聯合大会」が挙行され、全参加者五万名を数え、本学苑からも八百名が参加した。

 ここで、十七年の夏期休暇に早稲田大学報国隊が勤労動員として貨物積卸しのため日本通運株式会社に赴いた際の書面上の動きを、一つの具体例として掲げよう。先ず、文部省および厚生省の指令に基づき、同社東京支社業務部長より六月二十四日付で早稲田大学報国隊に対し「勤労報国隊協力依頼ノ件」という書類に付されて次の如き「要綱」が通知された。>要綱

一、協力ヲ受ケル支店名及責任者 日本通運株式会社東京支社志村支店 支店長 沢田清一

一、協力ノ場所 西立川日本通運株式会社立川支店

一、協力依頼期日 昭和十七年自七月一五日至七月二四日

一、協力依頼人員 一五〇名

一、作業時間 自前八時至後四時(御希望ニヨリ考慮ス)

一、作業ノ概要 素人ニテ出来得ル貨物自動車積卸ノ手伝

一、謝礼関係 時給二十銭也(但シ若干手当アリ)

一、交通費関係 当社負担

一、食事関係 営養食堂アリ(但自弁)

次いで、七月二十九日付で文部大臣および厚生大臣より早稲田大学総長宛に左の「学校報国隊出動令書」が、更に八月十五日付で文部省体育局長と厚生省職業局長より総長宛に措置依頼「学校報国隊出動令書発令ニ関スル件」が出された。

学校報国隊出動令書

早稲田大学総長

右ノ者左ノ事項ニヨリ学校報国隊ヲ出動シ之ニ依ル協力ニ関シ必要ナル措置ヲ為スベシ

昭和十七年七月二十九日 文部大臣 印

厚生大臣 印

地体六〇三号 昭和十七年八月十五日 文部省体育局長 印

厚生省職業局長 印

早稲田大学総長殿

学校報国隊出動令書発令ニ関スル件

標記ノ件ニ関シ別紙ノ通学校報国隊出動令書発令相成タルニ付御措置相成度

そして作業が終了すると、八月三十一日付で日本通運西立川支店長倉片耕治より総長宛に「貴校勤労報国隊へ感謝挨拶ノ件」という感謝状が送付された。

 なお、この時期の勤労作業がすべて報国隊を通したのではないことを付け加えておく。例えば、十八年の「春休み勤労鍛錬計画」(『早稲田大学新聞』昭和十八年二月十七日号)は自主的なものであった。これは、学生の間に「学の精神的改革」を標榜する「日本学生道」ないし「新学生道」樹立運動が起り、これに共鳴した文化団体・体育会・学生委員有志が、その一里塚として春季休暇を返上して、「海軍当局並びに感謝をこめた学校当局の援助のもとに」、「千葉県八重原海軍○○土木工事」に三月五日より二十日まで、自主的な従軍計画を立てた(同紙昭和十八年二月二十四日号)結果である。この計画に定員五百名を超えた学生が応募し、三月五日の結成式で、田中総長と「此壮挙に感激した文部省小笠原〔道生〕体育局長より激励の辞を受けた」(『早稲田学報』昭和十八年三月発行 第五七七号 一九頁)。大塚芳忠学生課副課長は、「これは単に早稲田大学の学生道の問題ばかりではなく、日本全学生道の問題」(『早稲田大学新聞』昭和十八年二月二十四日号)であると、学生に使命感を抱かせるように鼓舞したが、現実に各方面に影響を及ぼし、幹事田島某は、「われわれの成果が各方面に大なる影響を及ぼしたことは同慶に堪へぬ。……弘前の国民学校では、われわれの勤労の新聞記事を切取つて教材」にした(同紙昭和十八年四月二十一日号)と誇らしげに報告している。

 先に早稲田大学報国隊の組織で消防隊の存在を示したが、これは勤労作業の対象の一つである学校防空に含まれるものである。これに関しては、太平洋戦争開戦直後の十六年十二月十五日、文部省が「学校報国隊防空補助員ノ運用ニ関スル件」で「防空勤務員ノ補助隊トシテ学校報国隊防空補助員」の「組織編成ヲ急遠ニ促進シ且積極的ニ其ノ活用ヲ図ルコト」(福間敏矩『学徒動員・学徒出陣――制度と背景――』資料編六〇頁)を促し、予測できぬ空襲に備えて報国隊の運用を図った。そして、十七年四月十八日の本土初空襲に際して、本学苑では、『早稲田大学新聞』が「屋根の上に火をはく焼夷弾を認めてスルスルとはしごを上り、見る見る中に消しとめる消防班、着剣して要所を守る警備隊、今日が日の為に黙々としてつんだ平時の訓練は見事に物を云って、整然たる中にも颯爽たる学徒報国隊の瞳は強く輝いてゐる」(昭和十七年四月二十二日号)と報じている。この初空襲の経験に鑑みて、文部省は六月十日、「学校防空計画ニ検討ヲ加へ教育訓練ヲ徹底シ施設ノ整備ニ努メシメ」る「学校防空ノ強化徹底ニ関スル件」(次官通牒)を発し、「学校報国隊長其ノ他防空主任者ノ指揮命令ハ適確ナラシメ且連絡ヲ考究スルノ要アリ」(『近代日本教育制度史料』第七巻一九九―二〇一頁)と、防空の面での報国隊の活用を更に説いた。

 十七年六月ミッドウェー海戦の惨敗を転機として、戦局が次第に悪化するにつれ、国家は大量の青壮年男子労働力を軍隊に徴用せざるを得なくなったが、その補充は困難を極めた。十一月、前述の訓練課は文部省体育局勤労課と改称、加えて政府は同月中国人強制連行の方策を閣議決定し、翌十八年五月には国内の未婚女性の女子勤労報国隊を編成した。このような労働力の「根こそぎ動員体制」の一環として、六月二十五日、「教育錬成内容ノ一環トシテ学徒ノ戦時動員体制ヲ確立」するために「有事即応態制ノ確立」と「勤労動員ノ強化」(同書 同巻 二四―二六頁)とを目指した「学徒戦時動員体制確立要綱」の閣議決定を見た。「勤労動員ノ強化」については、「従来兎角その目標の明確ならざるものがあつたが今回重点を食糧増産、国防施設、緊要物資増産、輸送力増強」(同書 同巻 二三頁)に置き、特に「国防施設」が明記されたことにより、軍需工場へ優先して動員し得る体制が確立した。この「学徒戦時動員体制確立要綱」が発表されるや『早稲田大学新聞』は、学徒錬成部の創設をはじめ大学当局が独自の「教育体系」を確立した実績を評価した上で、「学園では既にこの体制を完備、過去に於て多々その成果を揚げて来たが、更にこの要綱により正に凄愴極まるこの現段階に処し銃後の『学生兵』として前進することとなつた」(昭和十八年六月三十日号)と当局の自負を代弁し、その自負を更に推進することを学生に要請した。当局はこの要綱に応じて夏季休暇における勤労の大要を発表し、その中で通常の動員計画に加えて、「更にこの外要綱に基き文部省の指示あり次第毎日五百名、情勢に応じては千人の動員をなされる様その態勢を完備」(同紙同日号)したと報ぜられている。

 しかし、大学の準備態勢を現実に動かすためには、計画の発表だけでは不十分であり、学徒を観念的に納得させる必要があった。その故か、『早稲田大学新聞』は、昭和十八年七月七日号の第二面すべてを、教授今田竹千代の「論説・学徒と勤労」、助教授平田冨太郎の「決戦下学徒の真使命――学徒勤労の特異性――」、校友広崎真八郎(昭六高師、昭一〇専校政)の「学徒勤労動員の真義」、慶応義塾大学教授藤林敬三の「皇国勤労観の性格」、前台北帝国大学教授後藤清の「皇国勤労観の要請するもの」に充て、この時期における学徒勤労動員を正当化ないし促進化する論説で埋めている。

 さて、先の「学徒戦時動員体制確立要綱」で、政府は「期間ガ相当……長期ニ亘ル」ことを考慮はしていたが、基本的には十六年二月の「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施ニ関スル件」での三十日間を遵守していたので、十八年十月二日在学生の徴用を閣議決定したのに対応し、同月十二日「当面ノ戦争遂行力ノ増強ヲ図ルノ一事ニ集中スル」ことを目標とした閣議決定「教育ニ関スル戦時非常措置方策」で「教育実践ノ一環トシテ学徒ノ戦時勤労動員ヲ高度ニ強化シ在学期間中一年ニ付概ネ三分ノ一相当期間ニ於テ之ヲ実施ス」と規定し、動員期間を従来の三十日から、一挙に四倍の百二十日に延長させた(『近代日本教育制度史料』第七巻 二二二―二二四頁)。なお、これに合せて、前述した文部省体育局勤労課は、十一月一日、同局学徒動員課と改称、機構を拡充させた。