創立当時藩閥政府の色眼鏡を通じて治安上好ましからざる存在と見られていた学苑が、懸命の努力により偏見の排除に次第に成功するに至ったことは既述の如くである。尤も、大正デモクラシー運動の展開過程にあって、学苑の演じた役割を不快視した反動勢力の存在を否定はできないが、佐野学・猪俣津南雄が大正十二年学苑を逐われ、更に昭和二年に大山郁夫が教授辞任を余儀なくされると、大学における研究ならびに教育の自由に対する弾圧の矛先は、翌三年の河上肇・大森義太郎・石浜知行・佐佐弘雄・向坂逸郎の追放をはじめとして、同八年の滝川事件、同十年の天皇機関説事件、同十四年の河合栄治郎事件等、専ら官学に向けられたような観を呈した。しかし、仔細に検討すれば、同六年満州事変の勃発に伴い、「非常時」に名を借りる抑圧は学苑にも加えられなかったわけではないのである。
昭和九年、先ずその槍玉にあげられようとしたのは、政治経済学部教授・図書館長林癸未夫(明三八大法)であった。林は同七年『国家社会主義原理』を著した。愛弟子平田冨太郎(昭六政)の筆を以てすれば、
林は徹底した一元的国家論ないし全体主義的国家論の主張者であ〔り〕……国家社会主義は有産階級の独裁を否定すると同時に無産階級の独裁をも否定し、両者の衝突を解消し、真に全国民の融合と協働とを促進することのできる新政治形態を確立しようとするものである。 (『近代日本の社会科学と早稲田大学』 一九九―二〇〇頁)
しかし、「国家」が冠せられていようといまいと、「社会主義」に対してきわめて神経質であったのが、当時の一般情勢である。林の著書は代議士山枡儀重により議会で取り上げられ、私有財産制度の否認ではないかとの質問が行われて、「第二の滝川問題」に発展する可能性があると、新聞紙上で大々的に報ぜられた(昭和九年三月七日付『東京朝日新聞』)。司法省の見解は、林の理論を以て私有財産制度と相容れぬところがあるとしたが、文部省ではその疑いがないわけではないけれども、学問として研究する範囲内であれば処分には当らないと答弁し、林自身も、国家社会主義を大学で講義してはいないと弁明したので、結局この問題は小火以上に燃え上がることなく消し止められた。
すなわち、この時期までは、文部行政はその独自性を、内務省なり司法省なりに対して曲がりなりにも主張できたのであったが、翌十年の天皇機関説事件が発生すると、もはやそれは不可能となった。そもそも天皇は法人である国家の最高機関なりとする説は、大正初年以来学界の主流を制していた憲法理論であったが、この年二月貴族院で菊池武夫など在郷軍人系議員の攻撃するところとなり、「国体明徴運動」の波の高まりの中で、美濃部達吉の著書の発売禁止が閣議決定となった。美濃部は遂に九月、貴族院議員を辞職するに及んだが、それに先立って、前年より担当していた学苑の憲法の講義をも辞任している。文部省は更に、美濃部一人にとどまらず、天皇機関説支持者を全国の教育機関から排除せざるを得なくなった。十年十一月法制局長官を辞した金森徳次郎も機関説の支持者であったが、六年四月以降担当していた学苑専門学校の「憲法」講義を前年八月には辞任している。「国体」が絡んでいた機関説問題は次第に「魔女狩り」的様相を呈し、翌十一年四月には、機関説の「徹底的掃滅を期し」て、文部省は官公私大学に対し、憲法および国法学担当者の講義内容の報告を命じた。学苑では田中総長名で、教授中村弥三次(大一二大法)、同中野登美雄(大五大政)、兼任講師野村淳治(東京帝国大学教授)の講義について報告したが、中村は、
皇位即チ国家ノ法理コソ真ニ我ガ国体ノ本義タルモノト確信スルガ故ニ、我ガ大日本帝国統治ノ大権ハ、明カニ此ノ皇位即チ天皇位ニ帰属スル所以ノ法理ヲ説キ、極力、所謂機関説ノ誤謬ヲ指摘センコトヲ努メ〔ル〕
よう留意している旨特記され、また中野は、
機関説は精神科学的認識の本来の目的を無視し、法を其精神的淵源たる国民精神、国民道徳より不当に分離せしめ、形式論理を以て法の実体を曲歪するの誤りに陥れるものにして、機関説が其自身欧州の特殊なる社会的政治的背景の下に於て発生し、従つて其適用範囲の初めより限定せられたる概念なる事を忘れたるか、然らずんば特定の政党のイデオロギーを普遍化の論理主義的仮面の下に主張するものに外ならず。
と機関説を批判しているのが注目される。
さて満州事変が日中戦争に進展すると、象牙の塔の内部にまで監視の目を光らせて、瑕疵でも発見されればそれを摘発することにより、「国民精神総動員」の実をあげようとする風潮が高められ、学苑もまたその眼から逃れることはできなかった。学苑当局は夙に危険を察知して、例えば昭和十三年十月一日、田中総長は北沢新次郎(明四三大商)の商学部長就任に際して、
北沢新次郎君ヲ招致、其学説ニツキ質問シタルニ、「マルクス」主義ニハ絶対反対ナルコトヲ誓フ。尚ホ将来ニツキ充分訓戒ヲ与フ。
と、その日記に記しているような措置を講じている。すなわち、既述の如く、建設者同盟の指導者であり、またマルクスの讃美者であった北沢は、「ナチス・ドイツの経済統制の効果」(『早稲田商学』昭和十二年十月発行 第一三巻第三号)などに見られるように、既にマルクス主義から離れていたが、学苑当局はその確認を求めたのであった。しかし、そのような自己規制を学苑の隅々にまで徹底することは不可能であり、十五年には津田左右吉が、十六年には京口元吉(大一五文)が、官権の要求により学苑から追放されるという不幸な事件が発生している。津田事件は全国に大きな衝撃を与えた著名な事件であるから、次節にその経緯を詳記することとし、ここでは先ず京口事件を略述しよう。
当時第一高等学院教授兼文学部助教授であった京口自身の回顧するところによれば、学苑では津田の次は京口の番だと噂され、京口の「国史概説」などの講義に官憲がスパイを潜入させ、また学生の中にも意図的に講義内容をマルクス学説に基づくものと密告する者がいたばかりでなく、左傾容疑で検挙された学生中に、「京口教授の講義を聴いて飜然として赤化した」と手記する者さえいた(『早稲田大学新聞』昭和二十七年六月二十一日号)が、遂に十六年の学年末、警視庁は、「京口教授を反軍国的なマルキストなりとの調書を作り上げ、これを示して大学側に善処方を要請した」(同紙昭和二十七年十一月八日号)のであった。三月七日、田中総長は、京口の所属する文学部長日高只一と第一高等学院長原田実と協議し、京口に学生・生徒の成績表の至急提出を求めた上で、同月十日、「円満退職すれば検挙は免れるから、学苑の名声を保持するためにも善処してほしい」との総長の意向を伝達させた。京口は、当局が教授会に諮ることなく、抜き打ち的に辞任を求めるやり方に憤慨したが、「言い分はありますが、大学に迷惑をかけては相済まないからという理由だけで、辞表を出し」(同紙昭和二十七年六月二十一日号)、翌十一日、表面上は「一身上ノ都合ニ依リ退職」ではあったが、学苑の別の記録では、「講義内容ニ自由主義的容疑ニ依リ警視庁ヨリ本大学並ニ同人ニ対シ注意アリタルニ付引責辞職」させられたことになっており、同二十七日の理事会で可決を見たのであった。
京口に対する「自由主義的容疑」の具体的内容は明らかでないが、例えば、「国史」の講義に「皇紀」を用いず、西暦を使用し続けたこともその一つであろう。しかし、「皇紀」に対する疑問は既に学界で繰り返し提起されたところであり、京口の恩師の一人西村真次(明三八文)も夙に「近世の冷かな科学的研究は……それらを伝説であり、作偽であ」る(『国民の日本史大和時代』四八九頁)と断定している。それにも拘らず、京口が贖罪の山羊に選ばれたのは、京口独特の毒舌を駆使した講義が学生の人気を集め、大きな影響力を持つと治安当局によって判断されたからであろう。学苑を逐われてから数日後、警視庁に出頭した京口に対し、特高課長中島絹次郎が、「教授として学生への説得力の大きいのに感服している。このさい百八十度の転回をして国家に協力して下さるなら、本庁としても考えますが、如何ですか」と誘いの水を向けても、京口は毅然として拒否したという(『早稲田大学新聞』昭和二十七年六月二十一日号)が、その後僅かに執筆活動のみを黙認された京口が、『日本外交史話』(十八年四月刊)に「帝国二千六百年の外交史は、大和を中心として、電波のやうに皇威を八紘に輝き渡らせる歴史でした」(はしがき四頁)と記しているのを以て、「変節」と責めるのは酷に過ぎよう。学苑追放による浪人時代の京口を悩ませた経済的窮迫は、終戦後学苑復帰時の過労の遠因となり、定年後間もなくその寿命が絶たれるに至るのである。
「皇紀」問題のみならず、京口の講義には師西村の影が濃く染み込んでいた。西村の前述した『国民の日本史大和時代』については、京口自身、「文献史料よりも人類学・考古学・民俗学などによる古代日本の解明に主力をそそいだ新しい研究方法の成果であって、一般読者はいうに及ばず、専門史学者も瞠目したほどの快著であった」(『近代日本の社会科学と早稲田大学』四二二―四二三頁)と評しているところであり、第一高等学院の学生時代にこの著の出版に際会した京口の感激は絶大であり、日本史研究に生涯を捧げるよう京口に決意させるに至る大きな動機となったものと推測せられる。しかし、京口の挑発的態度に応戦した官憲は、京口一人に弾圧を加えることで満足し、前年の津田事件当時著書の一部に絶版処分を施した西村に対しては、恐らく、既に「前非」を認めて自粛しているものと判断してか、あらためて追及することがなかった。
そもそも、出版物の検閲は内務省の所管であったが、非常時の進展に伴い、文部省も大学その他における研究の動向につき、出版物を通じてその内容を把握するよう努め、その概況の報告を毎年の如く学校当局に命じたのみならず、西村の場合のように、処分の実施を教学局が強行する例さえ生れてきた。昭和六年より十八年に至るまでに、学苑教員で、その出版物の内容が新聞紙法、出版法の安寧秩序紊乱、風俗壊乱に触れると判断されて、発売禁止や一部削除等の処分を受けたものを表示したのが第四十七表であるが、その件数の一番多いのが帆足理一郎であり、津田と西村とがそれに次いでいる。
第四十七表 学苑教員発売禁止・削除著作一覧(昭和六―十八年)
出典 (l) 小田切秀雄・福岡井吉編『昭和書籍/雑誌/新聞発禁年表』
(2) 日本書籍出版協会編『日本出版百年史年表』
(3) 内務省警保局『禁止単行本目録』
(4) 国立国会図書館『国立国会図書館所蔵発禁図書目録――一九四五年以前――』
(5) 文部省教学局『文部省推薦並教学局選奨図書・思想関係発禁図書一覧』昭和一七年二月
(6) 早稲田大学調査課『早稲田大学学生運動年表』昭和九年
(7) 『田中穂積日記』
(8) 早稲田大学教務課保管書類
帆足は南カリフォルニア大学とシカゴ大学に学んだ哲学者で、第一次大戦中に帰国、大正七年以降、久しきに亘り講師(昭二四教授)として、学苑に哲学、宗教学などを講じてアメリカ的学風を伝えていたが、他方敬虔なキリスト教徒として、個人雑誌『人生』(昭和六年創刊)などで非戦論を説き、学外に多数の心服者を持っていた。従って、右翼にとり目障りでないわけはなく、昭和九年以降、帆足糾弾の『人生』発行停止運動が執拗に展開され、遂に十年七月、『人生』は廃刊の余儀なきに至った。その後もなお帆足は素志を貫く努力を継続したが、十四年になると、大正十二年以来洛陽の紙価を高からしめた『哲学概論』中の、
国家の利害が人道の利害と衝突する場合には、国家を犠牲にして人道の愛に殉ずべきことは当然の理である。されば、軍備、戦争、其他国際的の排他行為は、国家のためには忠節の表現であらうけれど、国家よりも大なる人道の敵として之を憎むべく、否認すべきものである。そして今日の高級なる道徳観念においては、一切の武力的な国際間の敵対を排し、斯る敵対を馴致し易い軍備を全廃し、国家的限界の撲滅に努力せねばならない。 (二二三頁)
との記述が、当局の忌諱に触れ、削除を命ぜられるに至ったので、翌十五年の同書四十七版では、
仁愛又は博愛を基調とした八紘一宇即ち人類一家族、又はクリスト教に所謂神を父とし人類を同胞兄弟と見る世界同胞主義の協同体を実現することが、道徳の理想であらねばならぬ。八紘一宇の仁義社会を建設するには、まづ現に存在するが如き国際間の不平等関係、即ち領土資源の偏在を是正すべきであらう。而して之を平和的手段によりて遂行するには、一面、政治的に、関税の障壁を撤廃し、国際通商及び移民の自由を認めねばならぬ。が、他面、その道徳的基礎として、人種的偏見を棄去り、国際善隣と信義を重んじ、以て国家的民族的対立の解消に努力せねばならない。 (二四六―二四七頁)
との、その持論である軍縮の強調に代えるのに、それと果して両立し得るか否か疑問である「八紘一宇」を以てする改訂が施されている。恐らく帆足としては、いたずらに官憲を刺戟して完全に筆を捨てるのを余儀なくされるよりは、全人類の平和という究極の目的達成のために「大東亜新秩序の建設」を利用する方途を模索することを選んだのであったろう。
昭和十六年、「時局」の圧力は、京口以外に、もう一人の犠牲者を学苑に強いている。同年二月五日、いわゆる「俳句事件」に連座し、治安維持法違反容疑で検挙された講師青峰島田賢平(明三六大文)がそれである。島田は反伝統・反ホトトギスの新興俳句運動の一翼を担い、社会主義リアリズムを標榜する俳句誌『土上』を主宰していたが、『土上』は、
其の傾向漸次共産主義の立場を採るに至り、反資本主義的、反戦的意識を強調せる俳句を機関紙に掲載発表し、以て大衆に対する共産主義意識の啓蒙高揚を図り来るものなり。 (内務省警保局『特高月報』昭和十六年二月分 一〇頁)
と判定され、早稲田署に留置された。しかし、肺患が再発、喀血したため、同月十七日夜仮釈放されたが、文部省教学局は、四月四日付で学苑当局にこの件に関して至急報告するよう求めてきた。日高文学部長は、十日、田中総長と打合せの上、十一日報告書を提出したが、学苑では、島田の俳句を「人生派」に属すると判断し、「偶々同雑誌掲載ノ投書家ノ中ニ左翼ノ疑ヲ受クル者アリタルタメニ生ジタル責任上ノ危禍ト認ムベキモノ」と看做し、島田に「厳重戒告ヲ与へ、将来再ビ斯ノ如キ不名誉ナル誤解ヲ受クルコトナキヨウ誓」わせたと記されている。また「学生ニ対シ特ニ左翼運動的働キ掛ケアリタリトハ認メズ、従テ其方面ノ影響ナシ」と強調され、検挙の故に直ちに解任することを回避した。島田は、『土上』を自発的に停刊し、他誌の俳句選者も辞退して、謹慎の意を表したが、健康は完全に回復することなく、文学部で担当していた「俳諧研究」も、十七年四月からは中村俊定と交替し、同年九月には講師を辞任した後、十九年五月三十一日不帰の客となったのである。
津田左右吉出版法違反事件は、津田の東京帝国大学法学部への出講が発端であった。津田の担当した講座は東洋政治思想史講座であった。これは、文部省が昭和十四年度から東京帝大法学部に、「今ヤ東亜新秩序建設ノ重大ナル時局ニ際会シ日本文化並ニ東洋文化ニ関スル学術的研究ヲ振興シ興亜ノ大使命遂行ヲ担当スベキ有為ノ人材養成ノ施設ヲ講ズルハ極メテ緊急ヲ要スルモノナリ」(『公文類聚』第六三編昭和十四年巻一五)との理由で、「政治学、政治学史第三講座」として新設したものである。すなわち東亜新秩序建設という時代的要請により増設されたので、法学部、特に教授南原繁は、「かねて〔津田〕博士の歴史に対する識見、学識を高く評価していたし、初めて講座を開くにはバックボーンをもった学者を、という願いがあったから……また日本だけでなく東洋全体を知っている学者、その上私学の学者を迎えたいという気持」(「津田左右吉博士のこと」『南原繁著作集』第九巻 三七四頁)から、津田を選んだのである。津田を訪問した南原の再三に亘る懇請に、津田は「私自身トシテハ実ハ希望シテ居ナカツタコトデアリマスガ、法学部ノ方カラ度々ニ亘ツテ依頼ガアリマシテ、ソレマデ依頼サレテ居ルノヲスゲナクオ断リスルコトモ私トシテモ亦学問ヲスル者トシテモ良クナカラウト思ヒマシテ」(『現代史資料』(42)「思想統制」九二六頁)出講要請を承諾した。しかし、津田に時間的余裕がないので「特別講義」となり、「先秦政治思想史」と題された講義は、十月三十日から十二月四日に至る六回で終った。その終講の時、津田が「これで私の講義を終ります」と言うや否や、教室のあちこちから質問が発せられた。彼らの質問は、講義を欠かさず聴講した助手丸山真男の記すところでは次の如くである。
先生の講義では、シナの儒教というものは中国古代のきわめて特殊な社会的、政治的条件の下に生れた一群の知識階級が勝手に希望を歴史に託して作り上げたいろいろな観念の集合体にすぎず、その思想はもともと当時の社会や政治に働きかける力はほとんどなかったし、いわんやシナの民衆の実生活とは当時だけでなく、その後の長い歴史を通じてほとんど没交渉だった、といいその価値を極力低く見られる。それだけでなく、儒教と日本文化とのつながりを全面的に否定し、日本とシナを通ずる「東洋文化」なるものは存在せずと断言される。いまや聖戦を通じて、多年アジアを毒して来た欧米自由主義、「デモクラ思想」や共産主義の迷夢からシナを目覚めさせ、日華提携して東洋の文化と伝統を回復すべき東亜新秩序創造のたたかいにわれわれ同胞が日々血を流している時に、先生のかかる論旨はこの聖戦の文化的意義を根本的に否認するものではないか……
(「ある日の津田博士と私」『図書』昭和三十八年十月発行 第一七〇号 八頁)
質問の中心は講義に対してよりは、前年刊行した『支那思想と日本』(岩波新書)の、東亜新秩序を否定する内容の非難にあった。津田は表情を変えもせず懇切に応答したが、間断なく続く学生の弾劾的質問に、丸山は、「今迄の質問をきいていると、まったく学問的な質問ではなくて、先生にたいする攻撃に終始している」と判断して質問を遮り、体を張って津田を防御して講師控室に戻った。学生は控室まで後を追って、一層熾烈な質問を浴せたが、津田は動ぜずに自己の見解を辛抱強く述べ続けた。丸山は埒があかないと判断して、津田の腕をつかまえ、「先生、こんなファナティックな……連中と話していてもきりがありません、行きましょう」と、毅然たる態度で連れ立って学外に出た。近くのレストランで、津田は丸山に向って、「ああいう連中がはびこるとそれこそ日本の皇室はあぶないですね」(同誌 同号 一〇頁)と嘆息した。なお、津田の自宅を訪れて詰問した法学部以外の東大学生もあった由である。
さて、津田を弾劾追及した学生を、丸山は「学生協会」(正式名称日本学生協会、昭和十三年九月田所広泰設立の東大文化科学研究会と昭和十三年六月小田村寅二郎設立の東大精神科学研究会とが十五年五月合併)、教授矢部貞治は「精神科学研究会」(『矢部貞治日記』銀杏の巻昭和十四年十二月十八日の条)と記しているが、彼らは蓑田胸喜が大正十四年に設立した右翼団体原理日本社系の組織に属していた学生であり、その母体の原理日本社は、国体明徴・教学刷新を唱え、帝国大学教授の思想糺明を主眼とし、帝大の学風革新を目的として、京都帝国大学の滝川幸辰事件をはじめ、美濃部達吉の天皇機関説事件、河合栄治郎事件など、自由主義者の圧迫、自由主義的著書の摘発を行った。特に彼らが狙っていたのは、「反国家思想の源窟」と看做した東京帝国大学法学部の教授達に致命的打撃を与える機会であった。その渦中に、蓑田がこの事件より約十ヵ月前に『支那思想と日本』を、「今次事変の根本原因たる支那の『抗日侮日』の思想行動が、我が国従来の一般学風思潮、即ち知識階級の支那思想、東洋文化また西洋文化に対する無批判追従の学術的誤謬と索聯するものなることを指摘警告してゐるのは、氏の以前の古事記、日本書紀また一般日本古代思想の研究に示した態度とは正反対の方向を示し、岩波氏の前記引用文〔「岩波新書を刊行するに際して」〕の思想趨向とは正面衝突するもの」(「知識階級再教育論」『原理日本』昭和十四年一月発行 第一五巻第一号 六〇頁)と出版者岩波茂雄がらみで槍玉にあげ、更に同人松田福松(大六大文中退)も「津田左右吉氏の東洋抹殺論批判=岩波茂雄氏に与ふ」(同誌 昭和十四年三、四月発行第一五巻第三、四号)で徹底的に攻撃していた、その津田が、東京帝国大学法学部の教壇に立ったのである。東大文化科学研究会は機関誌『学生生活』第二巻第一二号(昭和十四年十二月発行)で小特集「津田博士の凶逆思想を糾弾す」を編み、津田攻撃の尖兵となったが、蓑田は十二月九日に津田中傷非難の核となる帝大粛正期成同盟の世話人会を開き、小冊子『早稲田大学教授文学博士東京帝国大学法学部講師津田左右吉氏の大逆思想』を十五日付で発行し、十九日には麴町の宝亭で同盟の全体会議を開いた。その席上、「問題の重大性にかんがみ、大衆には呼びかけないで、当局をべんたつして善処を要望するとともに、有識者だけにうったえて問題を深く強く究明し、なるべく年内処理の方針で進むこと」(公安調査庁編『戦前における右翼団体の状況』下巻(二) 二〇四頁)を決定し、「早稲田大学教授・東京帝国大学講師文学博士津田左右吉氏の神代及上代抹殺論に就て」と題する声明書を作成した。この会議に出席し声明書に署名した者は百七名を数えるが、教授兼調査課長杉山謙治、教授五来欣造、同松永材(大三高師)、校友北昤吉(明四一大文)ら学苑関係者も含まれていた。原理日本社は、この声明書と蓑田の小冊子に同人三井甲之の「『原理日本』の学術的批判作業と津田左右吉氏の僣濫学説」を併せて、「『皇紀二千六百年』奉祝直前に/学界空前の不祥事件!/早稲田大学教授文学博士/東京帝国大学法学部講師/津田左右吉氏の大逆思想/神代史上代史の抹殺論の学術的批判」というセンセーショナルな表題を付した『原理日本』臨時増刊号を二十四日付で刊行した。世話人蓑田は、同じ世話人である貴族院議員井田磐楠らと、内相小原直、警保局長本間精らを訪ね、前記印刷物を手交し、「こういう不敬な書物を出しているのに、あなた方はなぜ起訴しないのか」とつめより、「もしこれを起訴しないというならば、あなた方も津田さんと同じような皇室に対する考えを持っているんだな」(海野普吉著、潮見俊隆編『ある弁護士の歩み』八八頁)とて、津田の日本古代史関係の著書を早急に発売頒布禁止処分に付すよう強要した。
原理日本社、特に蓑田胸喜の対津田攻撃の中心問題は、
津田氏は大正の末年より昭和の今日に至る過去数十年間に、……日本に関するもののみで、『古事記及日本書紀の研究』を始め『神代史の研究』『上代日本の社会及び思想』『日本上代史研究』の四巻菊版各六百頁乃至七百頁に亘る総計三千頁に近き著書を岩波書店より続刊せしめたが、かくの如き異常の継続的努力と熱意とを以つて津田氏が所期した一貫せる著作目的は何であつたか?曰く、『古事記』及び『日本書紀』の神代の巻全部並に 神武天皇より 仲哀天皇に至る人皇十四代の御記事は「全然後の修史家の虚構」であり「全部架空譚」であり「捏造」であるといふことを立証すること、換言すれば日本国体と惟神道とを根本的に滅却すること、即ち是であつた。 (『原理日本』第一五巻一一号 九二頁)
ということであり、津田の研究は、来年に差し迫った万世一系の国体を祝うべき皇紀二千六百年祝典の趣旨に反するというのであった。そもそも、津田の日本古代史研究すなわち合理主義的記紀批判研究の原点たる『神代史の新しい研究』(大正二年刊、同十三年『神代史の研究』と改題・補訂)は、記紀の神代史の記事が物語であって歴史的な事実の記載ではなく、皇室の由来を説明せんとする政治的意図に基づくものであることを明らかにしたもので、和辻哲郎は、早くも大正九年に著した『日本古代文化』で、津田の『神代史の新しい研究』の「古事記日本書紀の本文批判」の成果を学界の共有物と認めている(序二―三頁)。また、蓑田の指摘する四著作(戦後、津田自身の手で『日本古典の研究』全二巻に再編集された)については、東京文理科大学助教授肥後和男が、昭和十三年に刊行した『日本神話研究』で、
我上代の研究については自由なる立場と忌憚なき論評によって、前人未発の発明をせられた点は本居宣長以後に於ける第一人者と称するも不可ではない。「神代史の新しい研究」から始めて「古事記及び日本書紀の新研究」、それらの改訂版たる「神代史の研究」「古事記及日本書紀の研究」に加へて「日本上代史研究」「上代日本の社会及び思想」の諸雄篇は共に現代に於ける日本古代史研究の津梁として、何人と雖も一度はこれを通過しなければならぬところである。これらの諸篇に盛られた内容がいかなる学史的意義を将来に担ふかは遽かに予断することを許さないが、少くとも大正昭和に於けるこの分野の研究は、氏の研究の批判を以て、最初の出発点としなければならなかつたことは明瞭である。そしてこの状勢は、恐らく当分これを持続する外はないであらう。 (三五四―三五五頁)
と記していることによって、学界における評価を窺うに足りよう。
文部省は、昭和十二年より「日本文化講義実施ニ関スル件」で、「大学竝ニ直轄学校」に「日本文化講義」を行うよう指示した。
一、目的 大学竝ニ直轄諸学校ノ学生生徒ニ対シ広ク人文ノ各方面ヨリ日本文化ニ関スル講義ヲ課シ以テ国民的性格ノ涵養及日本精神ノ発揚ニ資スルト共ニ日本文化ニ関スル十分ナル理解体認ヲ得セシムルタメ権威アル学者等ニ委嘱シテ日本文化講義ヲ実施セントス
二、講師 人物学問本位ニ銓衡シ国体、日本精神ノ真義ヲ明ニシ教学刷新ノ目的ヲ達スルニ適当ナル人ヲ選ブコト 原則トシテ当該大学ノ教授職員ノ中ヨリ主トシテ人文諸学ノ講師ヲ選定スルコト
(『近代日本教育制度史料』第七巻 三二六―三二七頁)
学苑は文部省の指示に対し、十三年度の「日本文化講義」に、文学部第二学年必修科目である津田の「日本思想史」を充てているのであり、大学当局が津田の学問・思想を「国民的性格ノ涵養及日本精神ノ発揚ニ資スル」ものと考え、津田を「国体、日本精神ノ真義ヲ明ニシ教学刷新ノ目的ヲ達スルニ適当ナル」者と看做したことを示している。
昭和十五年十一月十日を期して祝う紀元二千六百年祭を盛り上げるため、国は国体明徴を図るべき諸事業を企画した。その中で、文部省は十四年九月六日、各学校に、「明年紀元二千六百年ニ際シ教育、学芸、宗教、其ノ他文化風教ノ為ニ貢献シ功績顕著ナル者ニ対シ行賞」されるので「貴学関係者ニ付厳選相成リ御内申相成度此段通牒」した。これに対し、大学当局は次の十六人を推薦した。
同大学理事、政治経済学部長、教授 塩沢昌貞 同大学教授 佐藤功一
同大学理事、理工学部長、教授 山本忠興 同大学教授、附属専門部工科長兼早稲田高等工学校長 内藤多仲
同大学教授、附属早稲田工手学校長 徳永重康 同大学教授 津田左右吉
同大学理事、文学部長、教授 吉江喬松 同大学庶務幹事 永井清志
同大学理事、法学部長、教授 寺尾元彦 同大学教務幹事兼講師 岡村千曳
同大学教授、附属第二早稲田高等学院長 杉森孝次郎 同大学庶務副幹事兼庶務課長 大島正一
同大学教授、附属第一早稲田高等学院長 野々村戒三 同大学校賓 各務幸一郎
この内申は、幹事と校賓を除き、明らかに、学問=「学芸」上の功績を踏まえた上で、学校行政=「教育」に携わった教授を推薦しているが、学校行政の肩書の記されていない浮田や佐藤も以前に維持員を務めているから、学内の要職についた経験のない点で津田のみが異色である。すなわち、津田は「教育」上の大学幹部に準じて、純然たる「学芸」的見地から推薦されたものと思われる。蓑田の非難した津田の日本古代史研究すなわち合理主義的記紀批判研究は、学界の評価がきわめて高く、学苑当局も文部省もそれを承認していたのであった。
ところで、田中総長が十一月二十一日、「蓑田胸喜ノ津田博士攻撃ニ関スル件」を、前記の杉山謙治に永井、岡村両幹事を加えて協議し(『田中穂積日記』)、相前後して岡村が津田を訪ねているところからすれば、丸山真男が十二月四日の「終講」まで「何事もなく講義がすすん」だと回想している如く、東京帝大での津田の講義が表面上平穏に進んでいた時点で、早稲田では総長を中心に津田問題の対応策を検討せざるを得なかったのであり、翌二十二日には田中総長は、津田の所属する文学部の吉江学部長と相談しているのである。この迅速な対応は、東京帝国大学法学部教授小野清一郎が、津田の出講と相前後して、津田の『支那思想と日本』への反論「東洋は存在しないか」を『中央公論』十一月号に発表したので、津田出講を快く思っていない人々が法学部教官中に存在することを総長が推察したか、または、総長の信任厚かった杉山謙治が、前記の帝大粛正期成同盟の全体会議に出席し、津田弾劾の「声明書」に署名している事実から判断して、杉山が極秘に蓑田から津田攻撃の情報を得て、それを総長に報告したからかであろうが、ともあれ、田中総長は事件の発覚以前にかなり的確な情報を入手していたに相違ないと思われる。津田に対する蓑田一派の迫害が社会に表面化して以後、特に帝大粛正期成同盟の全体会議が十九日に開催された翌十二月二十日からは、田中総長が連日学苑幹部と対策を協議していることが、『田中穂積日記』の左の如き記載から知り得られる。
〔二十日〕 九時登校、杉山謙治君ヲ招待シ前夜蓑田胸喜一派ガ麴町宝亭ニ於テ津田博士排撃ニ関スル会合ノ委曲ヲ聞ク。十一時吉江学部長及幹事諸君ト共ニ右対策協議……四時散会後〔文部省教学局〕安井〔章一〕企画部長ト津田博士ノ件ニツキ協議。
〔二十一日〕 十時登校、吉江学部長ヲ招致津田君ノ件ニツキ協議……五時大学ニ帰リ津田、吉江、関〔与三郎〕、福井〔康順〕四君ト面会、津田君ハ自発的ニ書物ヲ絶版トナシ、併セテ日本関係ノ講義ハ遠慮スルコトニ決シ六時散会退出。
〔二十二日〕 九時登校、大島及岡村君ニ前日夕刻津田君ニ面談ノ委曲報告。
〔二十三日〕 十一時登校、山本、吉江学部長来談(津田博士ニ関スル件)。
二十一日の条に見える絶版書とは、蓑田の追及した『神代史の研究』(大正十三年)、『古事記及日本書紀の研究』(同上)、『日本上代史研究』(昭和五年)、『上代日本の社会及び思想』(昭和八年)の四著作である。「自発的ニ」と記されてはいるが、津田は以前にも公判での答弁で、「大学ノ当局者ハナルベク事柄ガ世ノ中ニ大キクナツテ波瀾ヲ惹キ起サナイヤウニシタイカラ、問題ニナツテ居ル書物ヲ当分絶版ニシテ貰ヘナイカト云フ交渉ガ私ノ所ニアリマシタ。……交渉ト申シマシテモ、是非サウシテ呉レト云フノデナカツタノデアリマスガ、懇談的ニサウシタラドウカト云フヤウナ話ガ〔吉江ト岡村ヨリ)数回アリマシタ。……文部省ハドウ云フ意味デ云フカ知リマセヌケレドモ、ソレカラ何トカ云ハレタト云フコトデ」あった(『現代史資料』(42)「思想統制」九二七頁)と陳述している。この段階では、津田は学苑当局の絶版要求に対して、「其ノ書物ヲ絶版ニスル意味ガ分ラナイ、是レ等ノ書物ハ長イ間世間ニ行ハレテ居ル書物デアリマス、曾ツテサウ云フ非難ヲ聞イタコトモアリマセヌ、受ケタコトモアリマセヌ。……トコロガ突然学問上ノシツカリシタ理由モナシニ、唯ダ非常ナ誇張的ナ言葉ヲ連ネテ悪罵ヲ擅ニスルト云フヤウナコトニ対シテ私ガ自分ノ書物ヲ絶版ニスルトカ、発売ヲ差控ヘルト云フコトハ私トシテハ出来ナイコトデアリマス」(同書 同頁)と断固拒否していたが、「一度総長ニ会ツテ話ヲ聞カウ」として、十二月二十一日総長に会見を求めたのであった。その結果、
其ノ時ノ私ノ感ジデハ、総長ガ文部省ニ於テ何ヵ約諾ヲ与ヘタノデハナイカト云フ風ニ私ハ感ジマシタ。是レハ私ノ感ジデアリマスガ、ソコデ私ガ今マデノ態度ヲ何処マデモ堅持シテ居リマスト、学校ト正面衝突スルト云フコトニナリマス。マア私ハ別ニ学校ト衝突スルト云フコトハイケナイトモ考ヘマセヌ、学者トシテ立ツベキ所ニ立ツ為メニ衝突スルコトハ已ムヲ得ヌト思ヒマスガ、唯ダ衝突ト云フコトヨリモ寧ロ其ノ場合ニ於テハ学校ヲ気ノ毒ナ位置ニ立タセルト云フヤウナ感ジヲ起シマシタ。学校ニ於キマシテハドコマデモ私ニ学校ニ居ツテ働イテ貰ヒタイト云フコトヲ前提トシテ、サウシテ之レヲ余リ荒立テナイヤウニシタイ、斯ウ云フ考ヘラシイノデアリマス。私ガ今マデノ態度ヲドコマデモ維持シマスレバ、総長ヲ非常ナ窮地ニ陥レルヤウナ感ジガ致シマシタ。ソコデ私ハドウモ学者トシテサウ云フコトハ出来ナイノデアリマスケレドモ、併シ今マデ長イ間一緒ニ仕事ヲシテ居リマシタ人々、兎ニ角色々ナ世話ニナツテ居リマスル学校ニ対シテ、ソレヲ窮地ニ陥レルヤウナコトヲスルノハドウカト云フ感ジガ致シマシタ。殊ニ学校ガ私ニ何処マデモ学校ニ止マツテ居ツテ貰ヒタイト云フ希望ヲ私ニ云ヒマシタ。私ハ学校ニ止マルト云フコトガ是非共必要ダトハ私自身ニトツテハ考ヘマセヌケレドモ、学校ニ対スル長イ間ノ情誼ト云フモノモアリマスカラシテ、ソコデソレナラバ一ツ考ヘマセウト云フコトニシテ引下リマシタ。 (同書 九二七―九二八頁)
すなわち、総長が文部省から何か指示されているのを察知した津田が「自発的ニ」絶版に応じた形になったのである。
原理日本社=蓑田一派が帝国大学教授を攻撃する作戦は、『原理日本』、『帝国新報』等で攻撃の的に絞った人物の著書の片言隻語を全体の文脈を無視して恣意的に批判し、その思想を反国体思想ときめつけ辞職を強要する戦術と、内務省、文部省等に著書を発禁処分等に付すよう働きかけ、教授を公職から追放し、刑事訴追に持ち込み裁判所で有罪の裁決が下されるまで、鉄鎚を打ち続ける戦術とに大別される。前者の犠牲者は、田中耕太郎、横田喜三郎、宮沢俊義らで、後者の犠牲者は、滝川幸辰、美濃部達吉、河合栄治郎らである。学苑当局者は、『田中穂積日記』に窺われる限りでは、絶版処分と日本史関係の講義の中止とで、彼らのこのような攻撃から免れるものと思っていたようである。しかし、それは楽観に過ぎたと言わなければならなかった。
年が明けて一月九日、文部省から呼び出された学苑の教務課長小沢恒一と調査課長杉山は専門学務局長関口鯉吉の要求を聞いた。その報告を受けた理事会では、「各理事ヨリ夫々意見ノ交換アリ、可及的速ニ津田氏ノ善処ヲ求ムルコトニ一決シ」た。文部省の要求とは、理事会から数時間後、田中総長が、「吉江君同伴ニテ来談、津田君ヨリ辞任ヲ申出ヅ」(『田中穂積日記』昭和十五年一月十日)と記している如く、津田の辞任であった。この辞任も、津田に言わせれば、「私ガ責任ヲ負ツテヤメタ訳デハアリマセヌ。私自身ト致シマシテハ、是レモヤハリ学校ガ非常ニ窮地ニ陥ルト云フコトニ気付キマシタモノデスカラ、ソレハ私トシテ忍ビナイコトデアリマスカラ、私自身ガ身ヲ引イタ方ガヨカラウ、斯ウ云フノデ学校ヲ辞任シタ」(『現代史資料』(42)「思想統制」九二八頁)のであり、学苑当局からの要求であったことは明白である。津田が決然と辞職したのは、文部省の意向に従っている大学当局の方針を察知した上で、個人的には、「生活は岩波で心配してくれるし、大学をやめることは学問をやめることにならない」(杉森久英「津田左右吉先生訪問記」『新潮』昭和三十一年十二月発行 第五三巻第一二号 九五頁)という気持と、後述する如く、自己の記紀研究に対する自負心とからと思われる。
翌十一日、急遽開かれた文学部教授会は津田の辞任を承認したので、総長は小沢課長を文部省に派遣し、左の如き二通の書類を提出するとともに、津田の「解職」を報告した。
昭和十五年一月十一日 早稲田大学総長 田中穂積印
文部省専門学務局長 関口鯉吉殿
教員解職ニ関スル件
左記本大学教授今般病気ノ為辞任申出ニ附頭書ノ通解職致候間此段及御報告候也
記
昭和十五年一月十一日解任 教授津田左右吉
昭和十五年一月十一日 早稲田大学総長 田中穂積印
文部省専門学務局長 関口鯉吉殿
功績内申書異動ニ関スル件
昭和十四年九月六日附発専一九一号御通牒ニ依リ内申致置候功績者中左記ノ者頭書ノ通解任致候間同名簿中ヨリ削除相成度此
段及御報告候也
記
昭和十五年一月十一日解任 教授 津田左右吉
十五日の理事会で津田教授辞任の件が報告されたことにより、学苑当局は津田事件に関する一連の措置を終えた。学生は、掲示板や『早稲田大学新聞』等で事態を知らされたが、『早稲田大学新聞』は昭和十五年一月十七日号で、
学園文学部史学科教授文学博士津田左右吉氏は旧臘「健康勝れず」との理由で辞表を提出中であつたが、一月十一日附辞任となつた。津田博士は永年学園文学部に教鞭を執り「日本思想史」等の講座を担当、功績大なるものがあり、その辞任は各方面から惜まれる。
という記事を掲載した。当時、文学部三年生で津田の講義を聴講していた松島栄一(昭一五文、のち大東文化大学教授)は、津田辞任の日その「辞任の通知がのっていた」「文学部の掲示板」を見た時、「なぜ、いま辞めねばならないのか、という怒りと、またなんともいえない淋しさで胸が熱くなった」(『史観』昭和三十七年三月発行 第六三・六四冊 一三三頁)と回想している。また、松島が、「学生大会を開くという条件もなく、大会を開いても、津田を復帰させようとすることが成功できたかど、うか問題であるという状況であり、津田擁護の運動の展開の条件は少なかったし、さらに下手に動くと、かえって津田を、より窮地に追いこむことになるといわれると、どうしようもない状態であった。……わたし自身のみならず、わたしたちの無力さを身にしみて知らされた」(「学問・思想・研究の自由の歴史――近代日本の一面としての――」高橋磌一監修『歴史学入門』四七頁)と述懐していることから容易に察せられるように、時代は無気味な跫音をたてながら、学苑を呑み込み始めていたのである。
蓑田が糺弾した四著作の出版者岩波茂雄は、一月十三日内務省から当該日現在における津田の著書の印刷・製本状況の報告を命ぜられ、二十一日には東京刑事地方裁判所に召喚され、担当検事玉沢光三郎の尋問を受け、以後警視庁へ先の著書の在庫数を報告し、検事局へはその報告とともに始末書を提出した。そして二月十日内務省より、先の四著作のうち、『神代史の研究』、『古事記及日本書紀の研究』が発禁処分、『日本上代史研究』、『上代日本の社会及び思想』が一部削除処分を受けた。一方、津田は玉沢検事から二月五日から十五日にかけて七回に及ぶ訊問を受け、十二日に行われた六回目の訊問の際、「上申書」を提出した(国立国会図書館憲政資料室所蔵『海野普吉関係文書』)。三月八日、玉沢検事は津田と岩波を出版法違反に該当するものと判定し、東京刑事地方裁判所に予審請求書を提出し、翌九日両人に起訴を言い渡した。この時初めて、新聞は「津田博士起訴/出版法に触れた四著書/発行者岩波氏も同罪」(『東京朝日新聞』昭和十五年三月九日号)と三段抜きの見出しで報道したが、随筆家三田村鳶魚は日記に、「新聞にて津田氏起訴せらるる事あり、気の毒なれど拠なし、おのれは、愈々勉めて、君のため世のため励まざるべからず」(『三田村鳶魚全集』第二七巻 一七〇頁)と記している。岩波は津田に裁判その他の費用一切の負担を約束するとともに、予審に備えて弁護士選択に奔走し、その結果有馬忠三郎を主任弁護士に決定し、六月二十四日、有馬、貴族院議員・弁護士岩田宙造、津田門下の助教授福井康順(大一三文)、講師栗田直躬(昭四文)、書店幹部長田幹雄、小林勇らと対策を協議した(小林勇『惜櫟荘主人――一つの岩波茂雄伝――』二三九頁)。かくて、先の予審請求書に基づいて同裁判所で予審判事中村光三により、六月二十六日から翌十六年二月二十八日に至る間に津田へは二十九回、岩波へは三回の訊問が行われる一方、福井と長田が証人訊問を受けている。この予審の最中、岩波は西田幾多郎に相談を持ち込み、西田は幸田露伴と会い、津田事件のような学問上の問題を刑事問題とするのは不当であると司法大臣に申し立てることに一決した。しかし、露伴が病床に伏したため、西田一人が第二次近衛文麿内閣の司法相風見章と懇談し、風見はよく事情を呑み込んでくれたが、既に起訴された問題を大臣として上から命令できないと言ったという(向坂逸郎編著『嵐のなかの百年――学問弾圧小史――』七五頁)。西田は、同年三月十二日付山本良吉宛書簡に明らかなように、「蓑田一派の策動により司法権があすこまで動かされる様では国家の学問的研究といふもの〔を〕やめるより外ない」(『西田幾多郎全集』第一九巻 一〇六頁)との懸念にかられたのであった。この起訴当時の歴史学界では、歴史学研究会でも、「津田事件の場合は会はとりくまなかった。つまり会の方がね、同じ条件でね、にらまれてた。ですから、むしろしない方がいいという……歴研はおそらくやったら逆効果だった」(「座談会㈡戦中の『歴研』」歴史学研究会編『歴史学研究会四十年のあゆみ』一四八頁)と当時の会員金沢誠が語っている如く、沈黙に終始したのである。
結局、三月二十七日付の「予審終結」決定書を以て、両人とも「孰レモ皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル前掲四種ノ出版物ヲ各著作シ、……被告人両名ノ叙上ノ各所為ハ夫々出版法第二十六条ニ該当スル犯罪ニシテ之ヲ公判ニ付スル」(『現代史資料』(42)「思想統制」三六五―三六六頁)ことが決定した。すなわち、出版法第二十六条の「皇室ノ尊厳ヲ冒瀆シ、政体ヲ変革シ又ハ国憲ヲ紊乱セムトスル文書図画ヲ出版シタルトキハ著作者、発行者、印刷者ヲ二月以上二年以下ノ軽禁錮ニ処」すとの規定に抵触したのである。津田が公判に付されるについて、文部大臣橋田邦彦は三月三十日付を以て、「畢竟平素監督竝ニ訓育宜シキヲ得ザリシ結果ト認メラルルニ付向後一層教職員ノ指導監督、学生ノ錬成指導ニ力ヲ効シ、其職務遂行ニ遺憾ナキヲ期スベシ」との「戒告」を早稲田大学総長田中穂積に発した。
公判は東京刑事地方裁判所において十六年十一月一日から開始され、中西要一裁判長の下、山下朝一、荒川正三郎の各判事、検事として神保泰一、弁護士として有馬忠三郎、島田武夫、藤沢一郎の三名がそれぞれ当った。これは「安寧秩序ヲ害スル虞レアリ」として非公開とされたが、ただ本件と密接な関係のある本学苑の栗田と講師相良克明(昭四文、十七年三月一日応召)の二人と、書店員の渡部良吉他一人の四人が「特別傍聴人」として傍聴を許された。特に栗田は、公判中は学苑当局より休講の許可を得て裁判の準備に精力を傾け、よく津田を助けた(栗田直躬「津田先生と公判」『現代史資料』(42)「思想統制」付録一頁)。この公判で特に争われた点は、蓑田も最も強く攻撃した「神武天皇ヨリ仲哀天皇ニ至ル御歴代天皇ノ御存在ニ付疑惑ヲ抱カシムル」(同書 一〇二八頁)かどうかという第十四代仲哀天皇までの記事を、「事実の記録であるよりは、思想上の構成として見る」(『古事記及日本書紀の研究』四七五頁)津田の合理主義的記紀批判研究の成果に関わる古代史像をめぐる応酬であった。しかし、公判の中で判事が、『古事記及日本書紀の研究』の具体的な個所を示して、
問 是レ等ノ記事ニハ神武天皇カラ仲哀天皇マデノ御歴代ノ御存在ハ疑ハシイト云フヤウニ読者ヲシテ思ハシメルモノガアルト思フノデスガ、被告ハ是レ等ノ記事ヲ書イタ当時ニ、神武天皇カラ仲哀天皇マデノ御歴代ノ御存在ヲ疑ツテ居マシタカ。
答 疑ツテ居リマセヌ。
問 其ノ通リ信ジテ居タノデスカ。
答 サウデス。 (『現代史資料』(42)「思想統制」 六九一頁)
と追及した時には、津田の答弁に矛盾が生じた。判事から更に、
問 結局、神武天皇カラ仲哀天皇マデノ御歴代ノ御存在ハ疑ハシイト思フノダケレドモ、之レヲ反対スルヤウナ考ヘハナカツタト言フノデハナイカ。
答 私ノハサウ言フ意味デハナイノデアリマス。ソレハ学問上否定シタリ、疑ツタリスルコトガ出来ナイト言フ意味デアリマス。
問 疑ハシイト思ツテモ、ソレヲ学問上疑ハシイコトヲ立証出来ナイト云フ意味デスカ、立証ト言ヒマスカ、証拠立テ出来ナイト言フノデスカ。
答 疑ハシイケレドモ立証出来ナイト言フノデハナクテ、御存在ヲ否定スルコトガ出来ナイト言フコトデアリマス。
(同書 七〇九―七一〇頁)
と厳しい追及を受けた津田は、学問的範疇で答弁せざるを得なくなった。津田には、後述する如く、学問的研究により真実を明らかにすればするほど、皇室の尊厳が明らかになるとの尊皇心と、次のような前提があったのである。
所ガ歴史ト云フ言葉ガ種々ニ使ハレテ居リマシテ、サウ云フ資料、歴史ヲ知ル材料其ノモノガ歴史ダト云フ風ニ、何トナク考ヘル場合ガ通俗ニハアルノデアリマス。ソコデサウ云フ材料トシテノ、資料デアルベキ書物ニ書イテアルコトガ事実デナイ、斯ウ云フコトガ云ハレマスト、ソレハ歴史ヲ破壊スルモノデアル。斯ウ云フ風ニ考ヘル誤ツタ考へ方ガ通俗ニハ相当アル訳デアリマス。ケレドモ、ソレハ歴史ノ破壊デハナイノデアリマシテ、本当ノ歴史ヲ建設スルタメノ準備デアリマス。本当ノ事実トシテノ歴史ヲ知ルタメノ、即チ言葉ヲ換ヘテ申シマスレバ知識トシテノ歴史ノ正シイモノヲ作リ上ゲルタメ、建設スルタメノ準備デアリ方法デアリマス。歴史ノ学問ト云フモノノ性質ヲ知ツテ居ルモノナラバ、ソレハ明カナコトデアリマス。ケレドモ、歴史ノ学問ト云フモノノ意味、或ハ歴史ノ学問ノ方法ニ対スル知識ノナイ人々ハ、兎ニ角昔カラアツタ書物ニ書イテアルコトガ事実デナイトセラレレバ、ソレハ歴史ヲ破壊スルモノダト云フ風ニ簡単ニ考ヘテシマヒマス。ソレハ実ハ大イナル誤リデアラウト思ヒマス。資料ノ批判ハ、歴史ヲ破壊スルモノデハナクシテ、真ノ歴史ヲ建設スルタメノ仕事デアル、真ノ歴史ヲ建設スルタメノ基礎工事デアリマス。 (同書 五八六頁)
津田は戦後、歴史家大久保利謙に、「裁判所に対しては、学問の性質とその研究法とを、問題とせられたことがらについて、できるだけていねいに説明しようとしたので、私自身としては、教師が学生に話をしたりその質問に答へたりするやうな気分でゐた」(『嵐のなかの百年――学問弾圧小史――』六九頁)と語っているが、検事神保泰一は、
私モ被告人津田ガ「古事記及日本書紀の研究」ニ於テ積極的ニ仲哀天皇以前ノ御歴代天皇ノ御存在ヲ否定シ奉ル如キ記述ヲナシテ居ルモノト云フノデハアリマセヌガ、同被告人ガ同書ニ於テ仲哀天皇以後ノ御歴代ノ御事蹟ニ関スル記紀ノ事実ヲ史実ニアラズ後人ノ構想述作セラレタル物語ナリトナスノデアリマス。所ガ斯カル御事蹟ニ関スル記事ハ其ノ御事蹟ノ御主体デアラセラレル天皇ト一体不可分ノ関係ニアルコトハ当然ノコトデアリマスカラ、御事蹟ヲ史実ニアラズトナス記述ハ一面其ノ御事蹟ノ御主体デアラセラレル天皇ノ御存在ヲモ史実ニアラズト否定シ奉ルガ如キ印象ヲ与ヘルノミナラズ、尚ホ前述ノ如ク同被告人ガ御歴代天皇ノ御系譜ヲ其ノ一ツノ内容トスル帝紀ニ付イテ仲哀天皇以前ニハ信用スベキ記録其ノ他ノ資料ナカリシ趣旨ノ記述ヲ為シテ居リマス為メニ、之レ等ノ記述自体カラ申シマスト、他ニ積極的ニ御存在ヲ肯定スル記述ノナイ限リ仲哀天皇以前ノ御歴代ノ天皇ノ御存在ヲモ否定シ奉ルモノト解セザルヲ得ナイノデアリマス。
(『現代史資料』(42)「思想統制」 九五七―九五八頁)
と、津田の「陳弁ハ、何レモ弁解センガ為メノ詭弁ニ過ギナイ」と断定したのである。この時も津田は「上申書」を提出しているが、この「上申書」を執筆するに当って、津田は中国の農村慣行調査について指導を受けに来ていた東亜研究所幹事福島正夫に向い、「全くかなわない、学問の仕事でしたいことが一ぱいあるのに、自分の研究の意味を裁判所の判事にわかってもらうだけのため全精力を注いで上申書を書かなければならぬ、これを書く力を研究に向ければ何ぼか役に立つ仕事ができるのだ」(「―座談会―戦前日本の思想・学問の自由――尾崎行雄・河合栄治郎・津田左右吉の事件をめぐって――」『講座日本近代法発達史』第一〇巻 二○二頁)と、やりきれぬ心情を打ち明けたという。
岩波茂雄は一方で、「『世界文化』事件」(昭和十二年)で治安維持法の嫌疑にかけられていた哲学者久野収を擁護していたが、十六年、久野のところに予審調書を持参し、河合栄治郎を守るために元助手木村健康が「特別弁護人」を買ってでてどのように奮戦しているかを述べ、「津田さんには、学者としてえらいお弟子が幾人かおられるけれども、不幸にして木村さんのような人物がいない」(「座談会『世界』創刊のころ」『世界』昭和四十一年一月発行第二四二号一八二頁)と言って、津田の特別弁護人たり得る学者の選定を頼んだ。久野は歴史家羽仁五郎を推薦したが、羽仁は辞退したので、羽仁を交えた岩波、久野、津田の四人は軽井沢の山荘に会し、作戦を練った。この際羽仁は、津田の研究により我が国の国体が擁護されるのであるから、弁解は必要でなく、攻撃に出る必要があると強調したと伝えられる。津田を除く三人は特別弁護人に高坂正顕、天野貞祐を推したが、学問上において津田と反対の立場の人という配慮から東京帝大文学部教授和辻哲郎に決めた。和辻は、十二月二十日の第十二回公判で、津田の著作の意義を正しく理解するためには、人間生活における現実の問題と心情の問題を先ず明確に区別した上で、両者の関係をあらためて考える必要があると主張し、津田の学問こそ古典の理想を真に生かすものであると証言している。二十一回に及んだ公判は翌年一月十五日に終了し、判決を待つのみとなったが、その二日後に津田は重ねて自身の弁論を認め、裁判所べ提出した。
さて、津田事件惹起の張本人蓑田胸喜は、第一審の陪席判事山下朝一に、「津田が早稲田にいるならば何も問題にしなかったのだが、東大の法科の先生になったので許せなくなった」(松岡英夫『人権擁護六十年弁護士海野普吉』八七頁)と語っている。津田も戦後、「世間ではこの事件を官権の学問弾圧という風に言つているが、自分は少くともこれを官権の発意から出た弾圧とは思わない。事の起りは右翼といわれていた民間の一部の言論人の行動である。丁度この事件の起つたのが議会の開会中でもあつて、政府が右翼の言論を抑えることができなかつたことから起つたのである。結局官権が右翼者流の言論に引づられたので、彼等が斯様に官権を動かしたのもあの当時の時勢である」(『嵐のなかの百年――学問弾圧小史――』七六頁)と、官憲の学問弾圧でないのを強調したものの、十六年の『津田左右吉手帳』(早稲田大学庶務部所蔵)に、「由来ハ蓑田ノ策動、シカシカウナレバ学問ト右翼ヲ背景ニシタ官憲トノ闘デアル。コレハ学術史上ノ一大事件、殆ド最初ノ事件」と断言し、「僕一個ノ事件デナイ」と書き添えている。知識人中には、事件を国家の弾圧と見、津田支援に動いた人々がいた。津田に出講を懇請して告発の契機を作った南原繁は、丸山真男の語るところによれば、出廷する津田に毎回の如く付き添い助言を与えた由であるが、第一審判決を前にして中西要一裁判長宛に、「全生涯ヲ学問報国ノタメニ捧ゲ」ながら、「図ラズモ其ノ学問的著作ニ関シテ法ニ問ハ」れた「博士ノ無辜ヲ信ジ、何ヨリモ日本臣民トシ又学徒トシテ受ケタル最大ノ汚名ヨリ雪」ぐため、「謹シンデ公正明達ナル御審理ト御裁断トヲ冀フ」旨の無罪嘆願書たる「上申書」を起草した(『津田左右吉全集』第二四巻 付録七―八頁)。その意を承けた丸山真男、岩波書店員らが、主として大学教授の署名集めに奔走した。幸田露伴は書店員小林勇に、「もしも津田君や岩波君のためになにかすることがあつたら、わたしが第一番にやりたいからおぼえていてくれ」と頼んでいたが、実際「上申書」に第一番に署名し(『蝸牛庵訪問記――露伴先生の晩年――』二三九頁)、以下八十八名が支援趣旨に賛同し署名した。津田が幾編かの論文を寄稿していた『史苑』の発行者立教史学会は、「学問の自由と進歩の方向を守ってきた」ので、「津田を激励し、これを守る態度を持してきた。柴田〔亮〕、手塚〔隆義〕らは、津田を尋ねてその意を伝えた」(立教大学史学会編『立教大学史学会小史』六八頁)けれども、署名行動に出たのは、津田が終生学問の師と仰いだ白鳥庫吉の養嗣子白鳥清のみであったという一面も見られた。このように、内心では時代の犠牲者として津田に同情を寄せながらも、国家に抗議するような署名行動に躊躇する研究者も少くなかった。なお、署名者数を所属大学(関係者を含む)別に分ければ、東京帝大三十三名、本学苑十七名、東北帝大十五名、京都帝大九名等であり、本学苑の人数は必ずしも多くない。この数の少さが、津田を「私の先生」と尊敬し「上申書」に署名した東北帝大教授柳瀬良幹(行政法)をして、「私学というものは国家権力に対して如何にも弱いものだと思い、それには何か我々にはわからない隠れた事情があるのだろう」(『法書片言――心の影』二四一頁)と言わしめたのであろう。柳瀬の言う「隠れた事情」とは何か。津田自身が戦後、「僕は早稲田には縁がうすいし、学風も好きではないので、教授会にもあまり出ませんでした。教授会というものは退屈なものです。ちょうど吉江〔喬松〕君が文学部長をしていて、教授会を休むよと言うと、今日は顔だけ出してくれんと困ると、頼まれたものです。そんなわけで先生たちも、同じ時間に講義があつて、控室で顔を合わせる人とだけ知り合つたが、ほかの人は一向に知らない」(『新潮』第五三巻第一二号 九四―九五頁)と言っているように、ひたすら学問研究に没頭していて津田自身に人間的な繋がりが少かった上に、「私立大学をまるで目下のもののように見ておった」(『ある弁護士の歩み』八七頁)帝国大学に、それも法学部へ津田が出講したことへの羨望があったからであろうか。なお、矢部貞治が、「津田左右吉先生から懇書が来てゐて先日上申書に署名したことに対し礼が言つてある」(『矢部貞治日記』銀杏の巻昭和十七年二月三日の条)と記していることから、津田は署名者一人一人に礼状を出していることが分る。
無罪嘆願書の提出にも拘らず、十七年五月二十一日の判決で、津田に禁錮三ヵ月、岩波に禁錮二ヵ月、二人とも執行猶予二年が宣告された。そして判決では、第十四代仲哀天皇以前の存在を直接的に論じた『古事記及日本書紀の研究』のみが、「神武天皇ヨリ仲哀天皇ニ至ル御歴代天皇ノ御存在ニ付疑惑ヲ抱カシムルノ虞アル講説ヲ敢テシ奉リ、以テ皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル文書」(『現代史資料』(42)「思想統制」 一〇二八頁)として出版法第二十六条に抵触したと判断された。なお、検事論告要旨と判決文が、同年九月、司法省刑事局の部内極秘資料として、『思想資料パンフレツト特輯』第三五号に印刷されたのを付記しておく。
判決が下った二日後の二十三日、検事局は控訴し、これに即応して両被告とも控訴手続を執った。控訴審では、南原繁は弁護側強化のために、河合栄治郎事件の弁護に携わった海野普吉に弁護を依頼した。津田は海野の事務所に数回出向き、「私が起訴になったこの書物は、学問のために書いたものだ。学問のためにする著述が出版法に触れるならば、婦人科の医学の書物はどうしてわいせつ罪にならないか」と言ったところ、海野は、「先生、それはごもっともだ。私もそういう理論を初めて伺いました。先生、それでは学問とはどういうものか、それからこの著書は学問のために書いたんだということについて、お書きになってみたらどうですか。そしてそれを公判に先立って上申書に提出したらどうでしょうか」(『ある弁護士の歩み』九〇頁)と、津田に執筆を勧めた。津田は承知して、第一審でも強調した「学問的研究によつて真実を明かにすればするほど、皇室の尊厳は明かになるのでありまして、それは真の事実として皇室は尊厳であらせられる」(「上申書」『津田左右吉全集』第二四巻 五六八頁)という信条に基づいた原稿を約六ヵ月を費やして書き、それに海野が多少法律的に手を入れた「上申書」を控訴院へ提出した。これより一年以上のちの十九年十月七日に控訴院へ出頭せよとの通知が届き、藤井五一郎裁判長は海野に、この事件は一年以上公判を開いていないので出版法第三十三条により時効となったと伝え、更に翌十一月四日、控訴院において藤井裁判長から「時効完成により免訴」との宣告を受けた。免訴という意外な結果に終った大きな因由は、「すでに敗戦に向うコースにあった日本であることを考えれば、この事件を強く有罪にまで押切る力は、すでに日本の何処にもなかった」(『嵐のなかの百年――学問弾圧小史――』七四頁)との推察が真相に近いであろう。
前述の如く、津田には、歴史学界および本学苑などからの精力的な支援が得られたとは言えず、津田を支援した羽仁五郎は、「当時ほとんど孤立して苦闘していた津田左右吉のすがたが、いまもぼくの眼底に生きて」いる(「つださうきちの学問」『図書』昭和三十七年一月発行 第一四九号 三頁)と述べている。受難以後、十五年四月刊行の河合栄治郎編『学生と歴史』に収められる筈であった「日本歴史の特性」が削除されたのを皮切りに、津田は対社会的な発表の場を閉ざされた。ただ、『東洋思想研究』『東洋学報』等のような純然たる学術雑誌に若干発表することはできた。しかし、表面上は「孤立」のように見えた津田ではあるが、周囲にあまり知られることなく、人間的かつ精神的に交際した人物は皆無ではなかった。例えば、津田以前から思想弾圧に対する裁判闘争を続行していた河合栄治郎がそれである。河合の日記(『河合栄治郎全集』第二三巻)に、「津田、岩波二氏と星カ岡で中食」(昭和十五年五月三十日)、「夜は目黒で津田氏の為の会合があり、之も奇縁で他人の為に骨を折った一つのことだ。役に立ってよかった」(同十六年六月三十日)、「九時、津田、栗田〔直躬〕二氏来訪、裁判の話をし、白鳥博士のことは面白かった」(同十七年七月九日)と認められているから、裁判対策で会ったのであろう。また、西田幾多郎とも親密な関係を保っていた津田は、鎌倉の西田宅を何度か訪れており、時効免訴後、「無理解なる事に御久しく時日を費し心身を労せられました事誠に御気の毒の至りに存じます。明敏な正しき判決により無罪を天下に公表せられんこと最も望む所なりしも、とにかくそれにて事すみよかつたと存じます。どうか心静に御著述にいそしまれ後世にお残しの様いのり上げます」(十九年十一月八日付書簡『西田幾多郎全集』第一九巻)という慰労と激励の書簡を受け取っている。。のように周囲の人間に励まされながら東洋史会、東洋文庫、国民学術協会等で講演や研究発表を続け、自己の学問の弁明とも受け取れる面を持つ「白鳥博士小伝」(『東洋学報』昭和十九年一月発行 第二九巻第三・四号)、敗戦後の二十一年に刊行した『儒教と孔子の思想』(十八年の東洋文庫春期東洋学講座「論語のできたすじみち」と題する講演が契機となった)等の執筆に専念していた。特に『儒教と孔子の思想』の執筆には、津田自身の追放のあとで同じく早稲田から追放された京口元吉に宛てた書信で、「含に世に出るときが来るから、その準備に充分研究をして置くやう」(『早稲田大学新聞』昭和二十一年六月十五日号)と書いた心境が反映しているようである。これを端的に表したのが、十九年九月七日に栗田に与えた、「やみのよの何に光を求めむとないひそ 光はおのれかかぐべし」(『津田左右吉全集』別巻第二 付録四頁)の詠歌と思われる。
終りに、戦後の二十一年十一月に津田が大隈講堂で行った講演「学問の本質と現時の思想界」によって、津田自身の本学苑に対する見解を確かめてみたい。この講演は、これより前同年六月の最初の総長選挙で総長に選出され、学いう苑当局者は疎開先平泉まで赴き、津田に総長就任を再三懇望したが、津田は頑として固辞したため、それではと意味から、学苑は津田に講演を懇願して実現したものである。
私はこの学園に相当深い縁故のあるものであります。私は学園に七年前まで、二十余年間、奉職致してをりました。またこの学園の古い時代の卒業生でもあります。……私は昭和十五年のはじめに辞職を致しましたので、只今申しましたように、それから今日まで七年になりますが、それはつい近いころのことのやうに思はれます。けれどもそれと共に、この七年間は非常に長いやうでもあります。長いと申すのは、その間の時勢に大なる変化があつたためであります。……これは勿論、戦争のために起つたことでありますが、その戦争によつて、といふよりは戦争をするといふことによつて、日本が、あらゆる方面において、すつかりあらされてしまひました。さうしてその結果が敗戦となりました。敗戦の後の状態については、あらためて申すまでもありません。諸君が、今日、現に体験せられてゐるとほりであります。これは七年の前には予想せられなかつたことであります。このような大変化が、長い年月かかつてもかうは変化しさうもないほどな大変化が、短い七年の間に起つたのであります。七年が長かつたと申しましたのは、この意味からであります。しかし敗戦は事実であります。冷厳なる事実であります。われわれはこの事実の中に身を置き、その冷厳さを十分に体験し味得することによつて、あらされはてた日本、敗れた日本を、如何にして再建してゆくべきかを、考へねばなりません。冷静に、沈着に、深く思ひ、細かに考へねばなりません。ところが現実の状態は果してさうなつてをりませうか。私はそれに対して少からぬ疑ひをもつてをります。……ただこの敗戦のもたらしたいろいろのことがらのうちで、一つの喜ばしいこと愉快なことがあります。それは思想の自由、学問の自由、が得られたといふことであります。戦争中の、或はそれよりも前からの、権力による思想の束縛、学問の圧迫、これは諸君が十分知つてをられることと思ふが、この束縛と抑圧とが解けて、さうして思想と学問とが自由になつたといふことは、学問に従事するもののために、また学校に入つて学問の研究にこれから進まうとせられる諸君のために、大きくいふと日本の学問のため文化のために、何よりも幸福なことであります。しかし、この幸福が敗戦によつてもたらされたといふことに、非常な矛盾と申すか、或は皮肉と申すか、さういふ感じが伴ふのであります。或はまた、それは不思議なこととさへも感ぜられるのであります。 (『津田左右吉全集』第二一巻 八九―九一頁)
津田は、自分が辞職してからの七年間に時勢は大変化したが、それは敗戦によるもので、その敗戦は戦争中の権力による思想の束縛、学問の圧迫を解かせるという非常な矛盾ないし皮肉な現象を招来したと述べている。この当時、『世界』(昭和三十一年四月発行 第四号)に津田が発表した「建国の事情と万世一系の思想」をめぐって、津田の思想、殊に天皇観が変化したのではないかと知識人の間で盛んな論議を呼んでいた。津田自身は、変化したと一部の人々が認識することに対して、内心訝っていた。このような思想状況から判断すれば、この発言を、戦争中、権力による思想の束縛、学問の圧迫に屈服した大学によって辞職させられた自分が、その学問・思想上、変化していないにも拘らず、時勢の変化に応じた故か、早稲田大学が自分を総長に、また講演会に、懇請し、現に、自分がこの早大のシンボルとも言える大隈講堂の壇上に立っていること自体、不思議かつ愉快なことであると、婉曲的に表明したものと考えられないであろうか。この津田の心情を代弁していると思われるのが、先の柳瀬良幹の、「戦後になつて、その早稲田大学が平泉に疎開していた先生を総長か学長かに選んだという報道を聞いたときは驚いた。何ぼ何でも余りに恥知らずな御都合主義だと腹が立ち、恰度その時分河北新報の社説を担当していたので、憤慨の余り、『英雄首を回らせば即ち仙人』という言葉があるが、早稲田大学はそれだというような原稿を書いて渡した」(『法書片言――心の影』二四一頁)という一文ではあるまいか。
昭和十八年十月六日付の『早稲田大学新聞』は「銘せよ有史来最大の光栄/断乎米英撃滅へ!!!/文科系学生の入営は十二月一日」の見出しの下に、次のように報じている。
校門から営門へ――今こそ学徒進撃の至上命令は下つた。……学徒が熱魂火と燃えて仇敵米英討滅の熾烈なる決戦場にまつしぐらに突撃すべき光栄の日が来たのだ、学園に於て日々の学問に体錬に、真摯なる研鑽を続け、撓ゆまざる努力を重ねて来たのも今日を迎へんがためであつた……不壊の皇国体護持開顕こそみたみわれらに課せられたる光栄ある使命であり、而してその一億総突撃の先頭をきる栄誉の任務を持つものこそ学徒なのだ、日本男子の若き血に燃え、いざ征かん十二月一日、学徒に今こそ仇敵を撃砕すべき降魔の利剣は与へられたのだ。
学生に対する徴兵延期の特典の停止が報ぜられた九月二十一日以降、学苑内には緊迫感がみなぎり、静けさの中にも学生、教職員の慌しい動きが見られ、それは日がたつにつれて著しくなっていった。新学年の開始を目指して地方から上京してきた者も、多くは再び故郷に舞い戻っていった。既に長髪を五分刈りにしていた者も目立った。入隊のために授業料の一部返還が行われることになり、各学部事務所は所要の手続をする学生で溢れた。事務職員の態度には征く者に対する労りと激励とが現れ、雑踏する窓口にもうわついた雰囲気はなかった。中には日の丸の旗を携え、研究室で恩師に武運長久の寄せ書きを請う学生の姿もあった。総長田中穂積はそのような学生の乞いに応じて、終日総長室で揮毫の筆を執っていた。新学期が始まっても授業は形をなさなかった。といって師弟の間で、大学や学生が現に直面している事態について論議が行われるということもなかった。「君らが行くことによって日本の将来に明るさを覚える」と言う教授もいた。「ただ御苦労様としか言いようがない。それにしても身体だけは」と、激励とも労りともつかぬ言葉だけが沈んだ調子で与えられた。学生は数人寄れば、短かった学窓時代の回想に時を過した。一人友人の群を離れて書物に食い入るようにしている者もいた。
右の『早稲田大学新聞』はまた別に「学園を挙げての壮行会/来週早々に挙行か」の見出しの下に、次のような記事を掲げている。
五千八百の学徒を戦場に送る学園ではこれら学徒の壮途を祝福し、武運長久を祈るため学園を挙げて盛大なる壮行会を戸塚道場に挙行し、学業中途にして戦場に征く学徒を心から送ることとなり、これが実施について協議中であるが、今回の徴兵検査の性質上学徒は一旦帰郷せねばならず、また検査の判定後大部分は入営の準備又は親戚知人等への挨拶廻り等に忙殺されること及び乗車困難なる事情により再度の上京は相当に局限されることとなる模様であるため、壮行会は征く者一人も不参加を余儀なくされぬ様学徒の帰郷する以前の来週早々に挙行される模様である。
この大学主催の壮行会は十月十五日(『早稲田学報』に十一月と記されているのは誤植である)午前十時半から戸塚道場(現安部球場)で挙行された。各学部でも、クラス別なり学科或いは各専攻別なりの小規模な壮行会が行われ、例えば文学部史学科の壮行会では、西洋史の碩学煙山専太郎が、教員を代表しての、出陣学徒に対する送別の辞として、「軍隊という所は野蛮な所である。諸君の教養がこれをいくらかでもよくすることが出来ればと期待する。諸君決して死んではならない、血気にはやったり、変な責任感にとらわれて死を急いではならない。是非元気で帰ってきてほしい。古来、中国では人を送るに酒をもってするというが、今はそれがない。詩をもって送るを、次によいとするが私にはそれも作れない。ただ言葉をもって送るだけで、諸君には誠に相済まない」(木村時夫『酔眼炯々』一三四頁)と、当時においては異色の発言を行った。
さて、十月十五日挙行の壮行会について、一葉の写真が残されていて(『早稲田百年』編纂委員会編『早稲田百年』二七八頁)、しわぶき一つ聞えることのない悲壮とも言うべき当日の雰囲気が、半世紀近く後の現在でさえ、見る者の胸にひしひしと迫ってくる。これで見ると、球場一塁側中央に演壇が設けられ、壇上では田中総長が訓辞を述べているが、その右手に教職員、左手に学生吹奏楽団が整列し、演壇に面して出陣学徒が学部別に、そしてその左手、画面にはないが、恐らくは右手にも、送る側の在学生が整列している。いずれも制服制帽にゲートルを着けている。式は宮城遙拝、国歌斉唱等の国民儀礼に続き、当日病躯を押して出席した田中総長が次のような訓辞を行った。すなわち、
千二百年の昔、唐の野心に備へる為に、海岸の防備に就いた所謂防人、下野の住人、今奉部の与曾布が、今日よりはかへりみなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾はと詠った有名な古き歌があるが、今こそ諸君がペンを捨てて剣を取るべき時期が到来した。
に始まり、交戦各国における召集年齢が、アメリカを除いて二十歳を低下しつつある現状を列挙し、
今日迄国家の殊遇を受けて高等学府に学びつつあつた諸君の多数が相携へて第一線に活躍すると云ふ事実は、全軍の士気を鼓舞し、又銃後国民の総てに対し深き感銘を与ふるその効果は誠に計り知るべからざるものがある。……最高学府に学べる諸君がペンを捨てて銃を把る事実を目前に見る銃後の人々も亦此の一大刺戟によつて戦力増強の如きは一段の飛躍をなすことであらうと思ふ。
と述べ、また桶狭間の今川軍を急襲するため、「人間僅か五十年 下天の中を比ぶれば夢幻の如くなり 一度生を得て滅せぬもののあるべきか」と、敦盛の舞いを舞い終って出陣した若き日の織田信長の故事を引き、
我国は今正さに過去二年の連戦連勝に百尺竿頭一歩を進めて、恰も信長が桶狭間に義元を斃した如く一大強襲を加へて敵の心胆を奪ひ、その戦意を喪失せしむべき時期が近づきつつあることを思ふのであつて、必ず戦局は一大飛躍をなすに相違ないと確信する。
と述べ、その最後を次のように結んだ。
征け諸君!悠々限り無き時の流れの上から見れば誠に信長の歌つた通り、人間僅に五十年、百歳の長寿と雖、夢幻の如く儚なきが人間の一生であつて、一度生を享けて滅せぬもののあるべき筈はないのであるが、大君の御楯となつて、興亜の大業に参加し、その礎石となると云ふことは、誠に価値高く意義深き事柄であつて、私は諸君の勇戦奮闘、武運の長久を心から念願し、他日諸君が勝利の栄冠を戴いて再び学園に還る日を鶴首して待つものであるが、併し乍ら、勇士は出陣に当つて固より生還は期すべきでない、即ち身命を捧げて護国の神と為る。又男子の本懐たるを失はない。維新当時の有名なる俊傑佐久間象山は、折に会はば散るも目出度し山桜賞づるは花の盛りのみかは と詠つたのであるが、大観すれば生死一如、諸君は唯、尽忠報国、早稲田健児の面目発揮を以て念とすべきであつて、諸君と訣別に当つて私は只管、諸君の自重加餐を冀つて已まざるものである。 (『早稲田学報』昭和十九年一月発行 第五八一号 二四頁)
夏休み以来身体の不調を訴えていた田中総長には、思いなしか顔にやつれが見られ、それだけにその訓辞は一種の悲愴さをた、だよわせるものがあった。当時教員として送る側にいた入交好脩は後に、左の如く記している。
それは先生独特の名演説であったことは申すまでもありませんが、その中に悲壮・簡潔そういった感でこの御訓示を伺ったことを、今もありありと思い起すのでございます。……御逝去前年の秋のこの壮行会には、先生は珍しく草稿をお手にされておったと私は記憶いたします。それは当時、軍部は学者や教育者の片言隻語をとらえて、自由主義者であるとか、あるいは非国民呼ばわりをするという暗黒政治が戦局の悪化とともに強化されておりました。それに対して備えられたものかとも拝察いたします。 (「晩年の田中穂積先生」『早稲田大学史記要』昭和五十二年発行 第一〇巻 二三〇頁)
総長の訓辞に続いて在学生代表の送別の辞、これに応える出陣学徒代表の答辞があり、終って一同「海行かば」を斉唱し、次いで総長の発声で天皇陛下の万歳を三唱、最後に校歌を合唱して会を閉じた。壮行会終了後、出陣学徒は政・法・文・商の各学部ごとに道場から道路を横切り、報国碑まで行進した。報国碑への拝礼を終った一同はそれぞれに解散したが、文学部学生は大隈講堂前に集合して記念撮影をし、更に神楽坂を経て靖国神社、宮城に至り遙拝を行った。この日のために、当時文学部哲学科芸術学専攻に在学していた三浦瑪里他一名の女子学生は母の着物の胴裏をはがして幅一メートル、長さ三メートルの幟を作り、教授会津八一に懇望して「学徒出陣」の文字を記してもらい、行進の先頭に立った(『早稲田女子学生の記録1939~1948』二一頁、三四頁)。
壮行会の翌十六日、場所も同じ戸塚道場で、早慶壮行野球試合が行われた。同月十三日付の『早稲田大学新聞』は「出陣の学徒に贈る早慶戦/十六日一時から戸塚道場で開幕」の見出しで、次のように予告している。
多数の愛児を一挙に送り出す学校当局は本十五日の壮行会に引続き早慶野球出陣学徒壮行試合を以て出陣の餞とすることになつた。栄誉と伝統に燃え若き血を滾らした早慶戦も今春以来一時休止のやむなきに至り愛球家は勿論学生一般からも愛惜されてゐたところ、今回の画期的なる学徒動員を契機として田中総長、外岡野球部長等の尽力により、その開催の運びを見るに至つたのはまことに喜ばしいことであつた。征く者残る者すべて母校の旗の下に不滅の万感籠る校歌を高唱して訣別の一時を過ごすことになつたが、時局下濫りな興奮は固く戒められて居り学校当局も万全の準備を整へてゐる。試合日時は十六日(土)午後一時、雨天の場合は翌十七日(日)同時刻から場所は戸塚道場に決戦の火蓋は切られることになつてゐる。
しかし、このいわゆる最後の早慶戦開催には幾多の紆余曲折があった。当時慶応義塾の主将であった阪井盛一によれば、「校門より営門へという時代ではあっても、野球に打ち込んだ情熱は二十名足らずの選手間には益々熾烈で、銃をとる日まではボールを離さぬ強烈な愛着で一杯であった」(『慶応義塾野球部史』二一四頁)が、慶応義塾長小泉信三はこのような部員一同の熱誠に動かされ、伝統ある早慶戦こそ、出陣する学生たちへ、なによりのはなむけになるのではないかと考え、野球部長平井新を使者として、「勝敗は問う処に非ず、そして球場は全校学生が集り得る神宮球場」(『早稲田大学野球部五十年史』四六七頁)でと、旧知の学苑野球部顧問飛田穂洲にその意を通じ、飛田はこれも同じ思いの野球部長外岡茂十郎に慶応側の意向を伝えたという。学苑野球部(形式的には「特修体錬」野球班)員もその多くは約ひと月後の出陣を前にしながら帰郷もせず、いまひとたびの早慶戦の実現を心に描いて連日練習に余念がなかったので、飛田、外岡および野球部マネージャー相田暢一(法学部在学、昭二二卒)は揃って田中総長を訪れ、慶応側の意向を伝えるとともに学苑側の了承を求めた。しかし田中総長は難色を示し応諾を与えなかった。『早稲田大学野球部五十年史』は「慶応側の立派な意義ある申し出に、早大当局は応じ切れなかつたのである。即ち当時の社会状勢は、野球に対して、徐々に強圧を加えつつあつたので、この世論を押し切つて迄試合を実現するだけの肚がなかつた。軍部や文部省の御機嫌とりにばかり意をそそいで居たのである」(四六七頁)と記しているが、十月十二日の閣議決定による「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が学苑に与えた衝撃を考慮すれば、学苑当局者にそのような顧慮のあったことは否めまい。しかし後年相田が、「神宮は、大勢の観衆が集まるから、空襲でもあったら大変なことになると、まず反対された。慶応と相談して、早稲田の戸塚球場ならスタンドも狭いし、いいだろうと申し入れると、これも困ると言われまして、学校はあくまでやらせたくないのだ、とその時にわかったわけですよ」(読売新聞大阪本社社会部編『新聞記者が語りつぐ戦争9戦没野球人』二五六頁)と回想しているように、学苑当局者に空襲の場合を想定しての考慮もあったのである。事実、前年の四月十八日は東京大学野球リーグ戦開幕の日であったが、折からのドゥリトルB25の東京初空襲のため中止となり、一週間延期されたという先例もあった。難航する交渉の成行きに焦慮する慶応側の気持を阪井が、「たとえ、リーグ戦がなくとも、学徒の最後を飾る早慶戦だけには望みを捨てず、一度ならず二度三度学校当局へ、或は早稲田大学野球部へその機会を得るよう努力した」(『慶応義塾野球部史』三一四頁)と書いている。
しかし学苑当局も最終的には壮行試合の開催を黙認せざるを得なくなった。当局との交渉結果に業を煮やした外岡部長が、野球部の責任において、戸塚道場における試合決行を慶応側に連絡し、それが前述したような『早稲田大学新聞』の記事となって、世間の異常な関心を集めたからである。それでも学苑当局は不測の事態を考慮して、午後一時試合開始の予定に対し、同時刻までに試合を終了するよう野球部に通告してきた。後年外岡は、「午後一時、試合開始と決まっていた。なのに大学側が急に、それまでに試合を終えるよう命令してきた。多数の学生が集まっているところを爆撃でもされたら大変なことになるとのことだった。早大の一員として命令に従わないわけにはいかなかった」(『われら野球人』一二〇―一二一頁)と語っている。しかし当日はたまたま天皇が靖国神社に参拝される日であったから、両校選手は親拝時刻の午前十時十五分、道場に整列して黙禱し、終って練習に移り、試合開始は正午となった。当日学苑側では出場しない部員がゲートルを巻いて場内の整理に当り、押しかけてきた一般のファンを「学徒壮行のゲームなので」と断ったが、学生の思いを感じとってか、フアンは黙って立ち去っていったという。内野スタンドは早慶両校の黒い学生服で埋められ、柵のない外野にはロープが張りめぐらされ、臨時の立見席が作られ、学生が五重、六重に並んだ。そして道場外の二階建ての下宿屋の窓という窓は、学生で鈴なりであった。試合開始前、小泉塾長も道場に姿を現し「特別席へと案内したが応ぜず、『私は学生と一緒の方が楽しいのです』……と学生席に陣取」った(『早稲田大学野球部五十年史』四六八頁)。十六日付『朝日新聞』夕刊は、「名残りの白熱戦/早慶壮行野球試合」の見出しで、次のように伝えている。
この日正午早稲田戸塚球場には靖国の英魂の光栄に応へて我らもまた醜の御楯となり、先輩英霊の志を継がんと近く戦陣に出でたつ早慶両学園錬成部野球戦士らの壮行対校試合が開かれた。七十数会戦のうち早大六回勝越といふ両校戦績のあとを受けて早慶球史を飾るこの試合、嘗て満天下の人気をさらつたのは今は昔の想出となつた。……慶大先攻で試合は正午開始され第一回先づ早大一点をあげる。嘗て偉容を誇つた鉄の大スタンドも今は応召といふ形ばかりの球場ではあるが、両校学徒の征く先輩を激励する最後の応援歌は高く強く早稲田の杜をどよめかした。嘗て対校戦の気概を互ひに誇つた「若き血」「都の西北」ともに今は敵米英撃滅へ赴く学兄たちの惜別の情をこめたもの。続いて第二回慶大の選手は三塁より二塁打をかつ飛ばし堂々慶大一点をあげ、伝統の対校戦はいよいよ白熱化してゆく。征く者、残る者かくて若き出陣学徒の意気は前線に向ふその日を期して勝敗を越えて高潮させるのであつた。
早慶の均衡は三回までで、それ以後、学苑の一方的得点が続いた。「慶応は……帰郷していたものを呼び寄せたりして、その間練習に遠ざかっていた。逆に早大は今日あることを予期して練習を怠らなかったので、力倆の差は試合に現われた」(『慶応義塾野球部史』三一四頁)からであった。午後三時前、十対一の大差で、学苑勝利のうちに試合は終了した。両校選手はホーム・ベースをはさんで挨拶を交した。一塁側学苑、三塁側慶応のスタンドでは、事前の取り決め通り、学苑が慶応の「若き血」を、慶応が学苑の「都の西北」を歌った。エールの交換も行った。しかし選手もスタンドの学生も戸塚道場を立ち去ろうとせず、何回も何回も応援歌が歌われ、スタンドでは腕を組み肩を抱いて、一種の興奮状態が続いた。そして一瞬の空白の後「海行かば、水漬く屍……」のメロディが流れ、やがてそれが全員の合唱となり、暮れ方近い秋の早稲田の杜にこだました。この大合唱の音頭をとったのは相田で、思わず場内マイクを取って歌ったという。相田は当時を回顧して、「試合ができて、しかも無事に終わって本当によかった。そんな気持ちだけでした。早大当局は試合に反対していましたが、約束を破って午後一時にプレーボールし、そのうえ大勢の観衆を集めているのに、試合中一度も文句を言ってきませんでした。心の中では、試合をやらせたかったのでしょう」(『戦没野球人』二六七頁)と語っている。なお『早稲田大学野球部五十年史』によれば、「試合は早大の勝利となつたが、大学当局の仕打ち、学生の観戦態度、すべて慶応に一籌を輸した。試合が終了して引揚げる時、慶応の学徒は、下敷にした新聞紙を全部屑籠に納め、グラウンドを去るなど、実に敬服に値するものがあつた」(四六八頁)という。
壮行野球試合が行われた当日、学苑旧体育会所属九人の出陣学徒によって、もう一つの壮挙が行われた。漕艇班の九人が隅田川河畔の艇庫を出発して、東京湾縦断の途に上ったのである。学苑漕艇班はそれまで全日本学生競漕において二年連覇を成し遂げていたが、日頃の練習は河川に限られていた。海に漕ぎ出すことは長い間の夢であったが、学徒出陣という非常事態の下で、遂にその機会を得たのである。当日午前五時、艇庫において万全の準備艤装が行われた。固定席艇の両側には高い波除けが取り付けられ、真新しいユニフォームに、うしろ鉢巻をりりしく結んだ九名は、定刻七時三十分、先ずお台場を目指してオールを漕いだ。第一日目はお台場から羽田沖、横浜沖を経て横須賀沖に至り、途中遊泳訓練を行って再び横浜沖に戻り、午後四時横浜海洋道場到着、一泊して翌十七日は一日中東京湾を漕ぎ回って、午後四時向島艇庫に帰着の予定であった。「名残りの白熱戦」を報じた前記『朝日新聞』は同じ紙面に、「゛決戦の海に続く水”/先づ東京湾を征服/早大漕艇部の出陣学徒」との見出しで次のように報じている。
早稲田大学漕艇部がはかつた「東京湾縦断壮行遠漕」の第一陣がいよいよその纜を解くのだ。……河川の訓練に終始して今まで一度も海の訓練の機会を持たなかつたことを深く悔み出したが艇や人員の都合でこの゛海への進出”は中々容易ではなかつた。しかし遂にその実現の日が来た。……醜の御楯と征で立つ彼らの間には万難を排してもこの壮挙を決行すべきだと海国日本の青年の意力を高らかに示すと共に、学園に残る後輩らが一人残らず陸の訓練と並行して海の訓練を忘れずに、よりよき兵士としての素質を磨くやうにと起ち上つたのである。
九人の学徒の名は記されていない。しかし学徒出陣という、いわば生死の関頭に立つ日を月余の後に控えた彼らは、渾身の力をふりしぼって何事かに体当りすることにより自らの生の証しを得たかったのであろう。それはまた、短かった学生時代に有終の美をあらしめようとしたのでもあったろう。
学苑主催の出陣壮行会が行われてから六日目の十月二十一日、文部省学校報国団主催の「出陣学徒壮行会」が明治神宮外苑競技場において行われた。文部省学校報国団本部作成の「出陣学徒壮行会要領」によれば、「大東亜戦争決戦ニ当リ近ク入隊スベキ学徒ノ尽忠ノ至誠ヲ傾ケ其ノ決意ヲ昻揚スルト共ニ武運長久ヲ祈願スル」のを目的とし、参加学生は「東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県所在ノ男子官公私立大学、高等専門学校、師範学校学徒ニシテ本年度徴兵検査ヲ受クベキ者」と、これを歓送すべき「右学校学徒ニシテ本年度徴兵検査ヲ受ケザル者ノ中代表者」および「東京都内女子高等師範学校、女子専門学校、師範学校女子部学徒中代表者」等であった。出陣学徒は「制服ニ脚絆ヲ穿チ制帽ヲ用ヒ執銃帯剣(右方ニ弾薬入一個)トシ、水筒及昼食ヲ必ズ携行スルコト」とされていたので、学苑では掲示によって集合場所、時刻等細かい注意を指示するとともに、当該学生に対しては、その前日、銃と帯剣とを交付し、それぞれ自宅に持ち帰らせた。
当日は八時三十分集合完了、八時五十分分列行進開始、式は十時から次の如く進められた。
1 開式 2 宮城遙拝(喇叭「君が代」吹奏) 3 「君が代」奉唱(二小節前奏後一同奉唱) 4 明治神宮遙拝(喇叭「国ノ鎮メ」吹奏) 5 靖国神社遙拝(同右) 6 宣戦ノ詔書奉読(文部大臣) 7 祈念 8 内閣総理大臣訓辞 9 文部大臣訓辞 10 在学学徒代表壮行ノ辞 11 出陣学徒代表答辞 12 「海行かば」斉唱(二小節前奏後斉唱) 13 万歳奉唱 14 閉式
式終了後宮城遙拝ノタメノ行軍
二十一日付『朝日新聞』夕刊は、一、二面の大半を関係記事でうずめ、
九時二十分、戸山学校軍楽隊の指揮棒一閃、たちまち心も躍る観兵式行進曲の音律が湧き上つて「分列に前ヘツ」の号令が高らかに響いた、大地を踏みしめる波の様な歩調が聞える、このとき場内十万の声はひそと静まる、見よ、時計台の下、あの白い清楚な帝大の校旗が秋風を仰いで現れた、続く剣光帽影「ワアツ」といふ喚声、出陣学徒部隊いまぞ進む、……幾十、幾百、幾千の足が進んで来る、この足やがてジャングルを踏み、この脛やがて敵前渡河の水を走るのだ、拍手、拍手、歓声、歓声、十万の眼からみんな涙が流れた、涙を流しながら手を拍ち帽を振つた、女子学徒集団には真白なハンケチの波が霞のやうに、花のやうに飛んでゐる、学徒部隊はいつしか場内に溢れ、剣光はすすき原のやうに輝いた、十時十分、分列式は終る、津波の引いたあとのやうな静けさ。
と当日の模様を報じている。当日は朝からの冷雨で、時に激しい雨脚を見せ、雨水はスフの服を通して学生の身体の心まで達した。尤も、日米開戦以後気象通報が禁止されていたから、ラジオの実況放送も前記新聞も、雨のことにはふれていない。なお分列式の後、出陣学徒は二部隊に分かれて宮城前に行進したが、その際の情景を井出孫六は左の如く記している。
早大隊のなかからは「都の西北」の歌声がわきおこり、スタンドから女子学徒がなだれをうって隊列にかけよっていった光景は、なぜかその日の新聞には書きのこされてはいない。
(「学徒出陣――昭和18年10月21日」『エコノミスト』昭和六十一年四月二十二日号 八九頁)
五千人余の出陣学徒のいた学苑から、この壮行会に何人が参加したか、それを示す資料はない。所によっては二十五日から徴兵検査が開始されることになっていたから、遠隔地の者の一部は既に帰郷していたろう。また中には、それぞれの想いで自分だけの一日を過そうと思った者も多かったかもしれない。その一人であった守屋富生(昭一九文、のち教授)は後日、
学校から渡された銃は下宿の壁にかけたまま、午後から雨もあがったので、一人で浅草に行った。そして映画を一つか二つ見た。反戦などというものではない。ただ行く気がしなかったのだ。当時の思いつめた気持には文部省主催などという大げさな行事がそぐわなかったのだ。映画を見終って、暗くなった浅草公園を歩いたが、風に吹きつけられた新聞紙が一枚、足にからみついた。それをじっと見つめていた、虚しいというか、やるせないというか、あの時の気持は今も忘れられない。
と語った(直話)が、同じ想いを懐いた出陣学徒は必ずしも少くなかったと思われる。
出陣を前に、青春の最後を学問の世界に求めた一団のあったのは言うまでもない。学内事情のため延期されていた、文学部哲学科芸術学専攻恒例の教授会津八一による、奈良周辺における臨地講義に参加した出陣学徒は、自宅や帰郷先から指定日の十一月十日、それぞれ奈良に馳せ参じた。十日といえば出陣までに三週間、しかも講義終了の二十一日からは僅かに十日を余すのみの差し迫った日々である。それでも日頃慣れ親しんだ古都とその周辺をもう一度瞼の裏に刻み込み、親しく恩師の講筵に列し、ある者はそれを今生の思い出としたかったのであろう。当時六十三歳の会津にも、学生のそうした気持が強く胸を打ったに違いない。会津は、「十一日まづ東大寺に詣でまた春日野にいたる同行の学生にて近く入営せむとするもの多く感に堪へざるが如しすなはちそのこころを思ひて」と詞書きして、
いで たたむ いくひ の ひま を こぞり きて かすが の のべ に あそぶ けふ かな
うつしみ は いづく の はて に くさ むさむ かすが の のべ を おもひで に して
かすがの の こぬれ の もみぢ もえ いでよ また かへらじ と ひとの ゆく ひ を
(『会津八一全集』第四巻 一七八―一七九頁)
をはじめ計六首をその「春日野」に収めている。
この臨地講義は東大寺に始まり、法隆寺、法輪寺、法起寺、薬師寺、唐招提寺、秋篠寺等を経て、平城宮址、法華寺、浄瑠璃寺、聖林寺に至り、次いで室生寺に向った。会津の「霜葉」には「十七日桜井の聖林寺にいたりつぎに室生寺にいたる」と詞書きして、次の歌を収めている。すなわち、
いで たたむ わくご が とも と こえ くれば かはなみ しろし もみぢ ちり つつ
やまがは は しらなみ たてり あす の ごと いで たつ こら が うたの とよみ に
うみ ゆかば みづく かばね と やまがは の いはほ に たちて うたふ こら は も
(同書 同巻 一八五―一八六頁)
その夜の会津の講義は室生寺の本坊の大広間で行われたが、「雨戸をとじた真っ暗な部屋に、ぽつんと一つ電灯がともされた。防空電灯である。畳の上にえがき出された、まるく小さく弱い射光のもとに、皆は車座になって先生の講義に耳を傾けた。室生寺の創建問題に関するお話を、もの静かな語調で、じゅんじゅんと説き来り説き去って、二時間にも及んだであらうか」(『銅羅』昭和三十五年一月発行 第二号 二二頁)と、参加学徒の長島健(昭一九文、のち高等学院長)は回想している。九時過ぎ講義は終つたが、学生はその一夜を最後の思い出とするため、自前の壮行会を開くことにし、川を越えた向いの旅宿橋本屋に席を設え、会津および同行の教授坂崎坦(明四三大文)を招待した。既に床に入っていた会津は和服の上にオーバーを纏い、会場に出席した。会津には、同じ「霜葉」の中に、
さけ のむ と ひそかに いでし やまでら の かど の をばし に かぜ ひき に けむ
(『会津八一全集』第四巻 一八八頁)
の歌があるが、その風邪が原因で、その後五ヵ月余の大病に伏したという。
その旅は「山里の寺をまわれば柿、いちじくを背負籠いっぱい買って寺の門まで運び、先生と共にかぶりつき、飛鳥村では、村人からさつま芋をわけてもらって空腹をまぎらわしながら〔の〕古寺巡礼」(『早稲田女子学生の記録1939~1948』三五頁)であったが、出陣を前にした学徒の求真求美のさわやかな旅であった。
さて、征くべき者のすべて去った昭和十八年十二月一日以後の学苑の寂寥を、当時健康を害して学苑に留まらざるを得なかった武川忠一(当時国文科在学、のち教授)は、「学友は大方征きて冬雨のいてふ並木を師と歩み居り」(同書六七頁)と詠じ、女子学生宇津宮満枝(昭二一文)も、「征く人のゆき果てし校庭に音絶えて木の葉舞うなり黄にかがやきて/学園は今しづもりて空深く極まるときし学徒ら死にゆく」(同書 一七頁)と詠じている。
十月挙行の二つの出陣壮行会とは別に、年を越えて昭和十九年一月十七日、規模は小さいものであるが学苑で行われた、もう一つの出陣学徒壮行会について記しておかねばならない。それは、新設された陸海軍特別志願制に応じて出陣することになった、朝鮮および台湾出身の学苑学生の壮途を祝するものであった。政府はかねてから朝鮮においても昭和十九年度から徴兵制度を実施することにしていたが、それに先立って陸海軍特別志願制を新設し、朝鮮および台湾出身者で、現に大学や高等専門学校に学び、徴兵適齢もしくはこれを超える者を十一月二十日までに出願させ、昭和十九年一月二十日に入営させ、先に入営した学徒の後続隊としようとしたのである。十一月十七日付『早稲田大学新聞』は「内地学徒に続き/鮮、台学生陸続と蹶起」の見出しで、
十九年からの徴兵制施行を待つことなく米英撃滅の銃をとるべく陸海軍特別志願制の精神に即して続々と志願してゐるが、当局では学徒の凡てが志願し米英撃滅の聖鉾を執り、内、鮮、台学徒一致して大東亜戦を勝ち抜き大東亜共栄圏の建設に邁進することを熱望してゐる。
と報じている。
この志願制は建前は自主的志願であったが、当時文学部独逸文学専攻に在学していた松山振洛のように、本人にその意志がなかったにも拘らず、朝鮮在住の両親に対する憲兵の強制があり、やむなく志願した例も多くあったようである(舟木重信「ある出陣学生の手紙」『創立七十周年紀念早稲田大学アルバム』七一頁)。そのためか否か分らないが、学苑では二百名を超える志願者があり、これら学徒の壮行会が昭和十九年一月十七日午前十一時から鮮台学徒壮行会と銘打って、大隈講堂で挙行された。当日は既に病床に伏していた総長田中に代って、幹事大島正一が送別の辞を述べ、文学部三年の林光哲および商学部二年の古賀欽二が、それぞれ鮮台出陣学徒を代表して答辞を述べた。出陣学徒の一人、台湾出身の法学部一年の王博文は、『早稲田大学新聞』記者にその感想を次の如く語っている。
「懐しの早稲田の森」で勉学にいそしむ我等に特別志願兵の恩典は下り内地同胞学徒と手を携へて勇躍第一線に活躍するの秋は来ました。今や我等は父母兄弟を遙か幾千里の彼方にして住馴れた下宿先より征でて行く、望郷の悲哀一抹を感じます今日の壮行会に我等決然として征途に上り得ます。我等の征く後大早稲田あり、母校こそ偉大なる母だ、肉身の父母に会はずとて何の寂しさがあらう、皇国の弥栄と母校の永遠たらん事を祈りつつ早稲田学徒の誇りもて邁進せんのみです。
(昭和十九年一月二十日号)
さて、学徒出陣といって騒がれ、国を挙げて送られた多くの学徒は、その入隊を前に何を考えていたであろうか。
市島保男(昭和十八年十一月商学部仮卒業、翌月入隊、二十年四月二十九日特攻隊員として沖縄海上で戦死、享年二十三歳)は日記に次のように記している。
十月十九日 今、時此処に至つては吾らが御楯となるのは当然である。悲壮も興奮もない。若さと情熱を潜め己れの姿を視つめ、古の若武者が香を焚き出陣したやうに心静かに行きたい。征く者の気持は皆さうである。周囲が余り騒ぎすぎる。
(白鷗遺族会編『雲ながるる果てに――戦歿飛行予備学生の手記――』 一七九頁)
十一月二十一日 会えば別れねばならぬ。夢……そして虹のごとく美しすぎる愛の記録だ。しかし、すべてを去り、己を捨て、祖国に捧げよ。煩悩を絶ち、心しずかに征くべきである。
(日本戦没学生記念会(わだつみ会)編『戦没学生の遺書にみる15年戦争』 一八三頁)
出陣学徒は、兵営において、また戦場の第一戦において、何を考え、いかに生きたであろうか。学苑出身者の手記の一部を紹介して、それを偲ぶことにしよう。彼らはすべて学生であったが故に、常に批判力を失わず、しかもあくまでも理想に燃え、更に死に面しては静かな諦観に達し、しかも後に続く者の栄光を信じてやまなかったのである。
中島勝美 昭和十八年十二月、法学部在学中入隊。昭和二十年十一月八日フィリピン・ネグロス島にて戦病死。二十二歳。
四ヵ月余の生活をなした浜田の兵営、それは格子なき牢獄、いな、厳重に監視された牢舎にほかならなかった。……教養も何もすべて零なのが軍隊だ。それと今一つは軍隊に適した性格を持っていることであろう。形式的、表面的、要領の良いのが一番得だが、およそ自分にはできないことだ。まず軍隊は身体、つぎは要領か? (同書 一九三―一九五頁)
吉村友男 文学部国文科学生。〔昭和十八年十二月一日入営、〕十九年十月〔十八日〕比島西方海上にて戦死。二十二歳。
今の生活に都合が悪いからと云つて、批判をすてたなら、かへつて、ほんとうの幸福をうしなうことになると思ひます。それがわたしたちの教養とゆうものではないでせうか。大きく一国とか人類の立場からいえば、それは学問です。教養の無い国がどうして立派に幸福に、なれるでせうか。その学問が批判とゆうものでなければならないと、クロオチェは言つたのだと思ひます。教養が欲望にまけていて、わたしたちは立派になれることはないでせう。一国の場合でも同じことだと思ひます。 (日本戦歿学生手記編集委員会編『きけわだつみのこえ』 五―七頁)
市島保男〔前頁参照〕
昭和二十年四月二十日 心静かな一日であつた。家の者とは会はなかつたが懐しき人々とは存分語り合ひ、心楽しき時を過し得た。今日去れば再び相会ふ事は出来ぬ身なれど、毫しも悲しみや感傷に捉はれる事なく談笑の中に別れる事が出来たのは我ながら不思議な位である。俺にとつても自分が此処一週間の中に死ぬ身であると云ふ気は少しもせぬ。興奮や感傷も更に起らぬ。只静かに我が最後の一瞬を想像する時、すべてが夢の如き気がする。死する瞬間までかく心静かに居られる〔か)どうかは自分にも判らぬが、案外易い事の様にも思はれる。
四月二十四日 只命を待つだけの軽い気持である。……隣りの室では酒を飲んで騒いでゐるが、それも又よし。俺は死する迄静かな気持でゐたい。人間は死する迄精進しつづけるべきだ。……私は自己の人生は人間が歩み得る最も美しい道の一つを歩んで来たと信じてゐる。精神も肉体も父母から受けた儘で美しく生き抜けたのは神の大なる愛と私を囲んでゐた人々の美しい愛情の御蔭であつた。今限りなく美しい祖国に我が清き生命を捧げ得る事に大きな誇りと喜びを感ずる。
(同書 二三六―二三八頁)
学徒出陣こそは、学生が学業中途にしてペンを剣に替え、一切の選択を許されず時代の要請のまま死地に赴き、学生らしく誠実に生き、そうしてその多くが祖国に殉じたという、我が教育史上稀有なる事態として、長く記憶されなければならないであろう。
因に、昭和十八年十二月初旬、仮卒業のまま一斉に入営もしくは入団していった、いわゆる学徒出陣組中の最高学年在学生には、翌十九年九月二十五日付の卒業証書が授与された。しかし大多数はその式に参列できず、証書を実際手にした者も多くはなかった。幸いにして無事復員することのできた彼ら卒業生は、昭和四十九年九月二十二日「早稲田大学卒業三十周年記念集会」を催し、大隈講堂において総長村井資長からあらためて卒業証書を授与された。その証書は大学が保管していた原版により、昭和十九年九月二十五日の日付と、総長中野登美雄の署名のあるものであった。当日の実行委員長清水徳松(政)はその開催の趣旨を、
われら三年在学中に徴兵猶予の廃止で軍隊に赴いた者は、仮卒業ということでバラバラの終末で学校を去り、卒業生といっても気持は幻の卒業生、そこで三十年たった今、全員そろって亡き友に祈りをささげ、受けとれなかったか、戦災・引揚げで本人も見なかった卒業証書をいただき、これからの新たなエネルギーにしたい。
(『早稲田学報』昭和四十九年十一月発行 第八四六号 二一頁)
と述べた。当日参会した卒業生は三百三十二名。招待状に対する回答として、息子の戦死を報ずる母親からの手紙の何通かが、当日の会場である大隈講堂の壁間に掲示されていた。