本書前編第二十二章において、オリンピック大会における学苑選手の健闘、早慶戦復活前後の野球部の活躍、および野球部以外の体育各部の動向について記したが、本節ではこれに引続き「スポーツ王国」の各部のその後の消長を概観する。
大正十年に十二の部を以て発足した体育会は、昭和七年になると十九の部を擁し、この年四月、「智育徳育と共に体育の陶冶を計る目的を以て……体育会規則を改正し、各体育部の組織を充実」(『早稲田学報』昭和七年七月発行 第四四九号 六八頁)させた。
我が国では昭和の初頭以来幾度か運動場の夜間照明施設建設の話が出ていたが、費用等に問題があり、実現に至らなかった。ところが、昭和七年秋学苑においてこの話が具体化し、翌八年三月戸塚球場で工事が始まり、七月完成した。同月十日総長田中穂積、体育会長山本忠興、文部大臣鳩山一郎らの出席の下、体育会主催の夜間運動場開場式が挙行され、その夜鳩山の始球によって日本最初の夜間野球試合が行われた。しかし、せっかく建設された施設ではあったが、完成後九年を経た昭和十七年五月十一日、理事会において「金属類特別回収ノ国策ニ応ズル様文部省ヨリノ訓令ニ依リ戸塚運動場ノ……照明塔ヲ取毀献納ノコト」が決議され、翌十八年六月に取り毀された。
戸塚球場の夜間照明施設が衆目の的となったのと同じ八年、武道館もまた新たに建設されたが、そのきっかけは六年の剣道部の渡米であった。すなわち、この時剣道部員らはアメリカの体育施設に必ず衛生施設や観覧席が備えられていることに注目し、学苑内にもそのような施設が必要であるのを痛感した。そこで、剣道部員らが学苑当局に働き掛けた結果、昭和八年一月十四日の臨時維持員会において「武道館建設ノコト」が決議され、柔道場、剣道場、弓道場、更衣室、浴室、観覧席等を完備した武道館が建設された。その開館式は文部大臣鳩山一郎、陸軍大臣荒木貞夫らを招いて、十一月三日挙行された。
大正十四年に学苑の一部となった東伏見のグラウンドは、創設当時は電燈も脱衣所もない状態であったが、昭和六年、文学部新校舎完成に伴い学苑創立以来の由緒ある旧校舎が当地に合宿所として移築(グリーンハウスの名称で現存)されてから、グラウンドは体育各部の練習場として使用されるようになり、十一年には体育会の施設として競泳用と飛込用の二つのプールが建設された。競泳用プールは五月十五日竣工、七月五日から八月末日まで一般に公開された。因にプール利用の料金は大人二十銭、小人十銭であった。
野球部 昭和初頭我が国野球界は一大興隆期を迎えたが、その中心に位置していたのは早慶戦であった。前編で詳述した如く、その歴史には多くの名プレーが鏤められ、早慶両校の学生は勿論、多数の一般好球家も選手の一投一打に陶酔して拍手喝采を送った。しかし、熱烈な声援は一部に異常な過熱をも生み出すことになった。東京六大学リーグ戦に幾つかの不快な出来事が偶発したのはこのような状況下においてであり、文部省が野球統制に乗り出したのもこの時期であった。すなわち、「野球ヲ行フ者又ハ野球ヲ観ル者ノ熱狂ノ余常規ヲ逸シ正道ヲ離ルル」(『近代日本教育制度史料』第六巻 一九八頁)傾向を是正する目的で、文部省は昭和七年訓令第四号「野球ノ統制並施行ニ関スル件」を発し、四月一日からこれを施行したのである。他面、時局の重大化とともに野球はやがて「敵性スポーツ」と看做されるに至り、野球統制令と俗称されたこの訓令は、野球に対する政府の干渉・弾圧の武器となり、六大学リーグの活動範囲は徐々に狭められざるを得なくなった。
昭和七年五月十日、春季リーグ戦の最中、学苑野球部は突如東京六大学野球連盟脱退を声明した。これより先、同連盟は理事会で、中等学校有名選手争奪の弊害を防ぐためにその前年に「新人選手をリーグ戦一ケ年間出場禁止する件」を定めていたのだが、野球統制令により文部省が争奪の監視に当ることになったとして、七年五月一日に連盟理事会は先の決定を覆した。学苑の監督大下常吉(大一二専商)はこの日、「新人選手争奪の弊害を認め連盟が自主的に決定したものの、未だ実効があがっていないのに、これを廃止することは朝令暮改と受けとれるので存続すべき」ことを主張し、「自説を固執して譲らなかった」(峰正太郎『野球一徹回想の大下常吉』一一三頁)ことが脱退の直接の原因であった。また六日の理事会では、大下は入場料の無料化、指定席の撤廃を主張したが、これも他校理事の同意を得られなかった。大下の申入れは、連盟当局の興行化した態度、顔による無料入場を取り締るために特に腕力の強い整理員を配置し、これに黒の服装を着せて従来のカーキ色の整理員と区別したこと、連盟収入金の不明瞭な分配問題、学生の自治的運営を奪った連盟役員の横暴、課税問題、寄附問題等に対し、早大選手がかねてから抱いていた不満を代弁したものであった。三原修(昭九商中退)は、当時の部員の不満を次のように述べている。
リーグ戦が次第に隆盛に赴くに従つてリーグの運営も複雑になり、ここに専門の管理者を必要とする様になつた。ところが更に益々リーグ戦が、一般フアンの人気に投じて、異常な発達をとげ、聯盟当局の力は次第に増大し、各大学の野球部は聯盟の組織の中に隷属する様な、錯覚を起し始めた。 (『私の野球生活』 七九頁)
かくて積年醞醸されてきた忿懣が突如として爆発し、連盟脱退声明となった。これに対し十日午後大隈会館学生ホールに集まった体育会十五部三十二名の代表委員は、佐伯喜三郎(昭八商、昭一四戦死)主将、小野寺省蔵マネージャーから事の真相を聞き、野球部が執った処置のやむを得ないのを認めた。野球部選手の先輩で結成する稲門倶楽部はこれを等閑視するわけにはいかず、翌十一日丸ノ内会館に集合し、十二名の委員を挙げて連盟と野球部との調停に当ることにし、連日精力的に活動し、更に応援部とも提携し問題解決に邁進した。しかし十四日夜東京会館で開かれた連盟理事および評議員連合委員会の席上、早大を代表して出席した押川清が遂に「野球部脱退の真相につき探求した結果、野球部の真情を諒とせざるを得ぬ事情を発見したから、現リーグが解消し、新な組織の下に立たぬ以上、早大野球部とリーグの間に立つて調停することは出来ぬ。リーグが学生によつて新しくやり直されん事を熱望する」(『早稲田大学野球部五十年史』三三五頁)と述べたので、同委員会は早大の退場を求め、審議を重ねた結果、「東京大学野球連盟」と改称し、次の如き声明を発表した。
我東京大学野球聯盟は、ここに早稲田大学野球部の脱退を承認するのやむなきに到りたることを遺憾とす。本聯盟は今後一層の結束と努力とを以て、学生スポーツの精神を高調し、本聯盟の健全なる発達にまい進せん事を期す。早稲田大学野球部が本聯盟に対する誤解を去り、将来その復帰を望むにおいては、本聯盟はこれを迎ふるにやぶさかならざるものなり。
東京大学野球聯盟
(『東京朝日新聞』昭和七年五月十五日号号外)
しかし早大の連盟からの脱落は、連盟自体の価値を下げるのみか、連盟の意味を喪失せしめることになる。従って、各方面から学苑の連盟復帰運動が起り、東京運動記者クラブの熱心な斡旋により、八月下旬から数次に亘り学苑と連盟との折衝が行われ、その結果「双方共に一切条件を付せず、現状により白紙にて握手すること」(『東京朝日新聞』昭和七年九月八日号)が九月七日の連盟理事会で決定、野球部の無条件連盟復帰が実現し、好球家の愁眉を開いた。
昭和七年秋のリーグ戦終了後、六大学当局は、春には各校第一回戦のみ計五試合を行い、秋に第二、第三回戦計十試合を戦って、春秋合計十五試合の通算勝率で優勝を争う一年一シーズン制を提唱した。この制度では春のリーグ戦が中途半端なものとなってしまうため、各大学OBが強く反対したが、一シーズン制提唱は野球統制令の影響と見られ、文部省もこれに賛成し、結局八年から実施されることになった。
その八年春、学苑野球部はリーグ戦四勝一敗で好成績を収めたが、秋のリーグ戦で再び不快な出来事が起った。すなわち、早立戦の「宵越試合」と早慶戦の「リンゴ事件」である。宵越試合とは、十月一日の早立第三回戦で、四対十一で立教リードのまま九回を迎え、この回早大が一挙に五点を入れ、二死満塁で当日の当り屋長野茂をバッター・ボックスに迎えたが、暮色蒼然、試合続行が不可能になったため、森田球審は塁審を集め協議した結果、翌二日に試合続行と定め、両校の監督および主将の了解を得た。翌二日、前日の形のまま試合を再開したが、長野は三球目でピッチャー・ゴロに終り、僅か三分で終了した。こうした変態試合に激昻した学苑応援団は大挙して早大合宿を訪れ、大下監督に釈明を求めたが、納得する回答が得られず、爾後の野球試合には絶対に応援せずと宣言して引き揚げた。
越えて十月二十二日、早慶第三回戦にいわゆるリンゴ事件が起きた。春の第一回戦は慶応先勝、十月二十一日の第二回戦は早大の勝利、第三回戦はこれを承けて天下分け目の戦いになった。しかも第三回戦は接戦を演じ、観衆の熱狂は興奮の坩堝と化した。そして、八回裏慶応攻撃の時一塁走者岡泰蔵が盗塁を企て、二塁々上でタッチ・アウトとなったが、これを不満とする慶応選手は塁審に詰め寄り、「就中水原〔茂〕選手は強硬に……難詰的態度に出」た(『東京朝日新聞』昭和八年十月二十三日号)。これが第一のトラブルであった。更に、九回表水原が三塁の守備についた時、水原の態度に「早大側は……憤慨……水原選手目がけて早大側スタンドからりんごを投じたものがあり、同選手は……件のりんごを早大側応援団中に投げたので、早大側一時どよめいた」(同紙同日号)。水原自身の回想によれば、
私は最後の守備につくと、紙きれや果物の食いさしらしいものや、何かの切れっ端が盛んに私の周囲に飛んで来た。……その中、何か大きい果物の嚙いかけが足元に転んで来た。私はそれを拾って、守備している姿勢のまま手を逆に壁の方へ投げ棄てたのだ。……後で「林檎事件」と騒がれたのを思うと、林檎の食いさしのシンであったように記憶している。……偶々その日の早大応援団は三塁側に陣取っていたから、私には最も近く、従ってものをぶっつけられ、それを整理したのも私ということになった。そしてその林檎が早大スタンドに入ったのかどうか知らぬが、恰も私が故意に投込んだということにされたのである。 (『慶応義塾野球部史』 二二六頁)
このリンゴの投げ合いが第二のトラブルであり、試合終了直後大きな事件を生んだのである。すなわち、八対七、学苑一点リードで迎えた九回裏、慶応は学苑投手若原正蔵を打ち込み、二点を取り、慶応の逆転サヨナラ勝ちとなったが、興奮した早大応援団が納まる筈はなかった。試合終了のサイレンが鳴り終ると二、三名の者がグラウンドに飛び降りた。学苑の小野寺マネージャーはこれを制止し、この間に慶応選手はベンチに引き上げたが、続いて数十名がグラウンドに入り、慶応応援席に殺到して、指揮棒を奪うという不祥事を引き起した。慶応は指揮棒の返還を迫り、我が方は水原の謝罪を要求して、二百名ほどの警官隊の出動となり、午後七時まで互いに球場に立て籠って険悪な空気に包まれた。
球場から引き上げた学苑の応援部の幹部は、早大正門前のライオンベーカリーで対策協議の結果、午後十時五十分に至り、あくまで水原選手の非を糾弾した声明文を公表した。これに対し慶応応援部でも「早稲田大学去らしむべし」との声明を発し、事態は野球部の確執よりも応援部の対立となったが、慶応はこの問題は両大学当局が善処すべきものとして応援部同士の交渉打切りを通告してきた。二十五日以降は両大学当局も局面打開を計り、一方連盟理事会も解決案を審議し、十一月七日これを両大学に伝えた。
一、早稲田大学野球部は去る十月二十二日早慶野球試合後、早稲田大学応援団が球場に侵入し、慶応応援団に対してなしたる行為につき、深甚なる遺憾の意を表し、今後かかる事件を再びひき起さざるべく努力することを誓言すること。
二、早稲田大学野球部長並に野球部監督は右事件につき引責すること。
三、慶応義塾大学野球部は、去る十月二十二日早慶野球試合において慶応義塾大学選手が審判員並に早稲田大学応援団に対してとりたる態度につき、遺憾の意を表すること。
四、慶応野球部は右試合における一、二選手の行為につき適当なる処置をとること。
(『早稲田大学野球部五十年史』 三五五―三五六頁)
しかし、稲門倶楽部が一歩譲ってこの勧告案を受理し円満解決を求めたにも拘らず、学苑野球部ならびに応援部は承引せず、しかも、この年三月に部長高杉滝蔵の辞任に伴い部長代理に就任した寺沢信計(昭三理)が、十一月十日にひそかに辞表を提出し、同月十八日に受理されていたことが野球部に知れ、野球部では大学当局が寺沢に詰腹を切らせたと解釈して、大学不信任さえ可決するに至った。結局、十九日夜、山本忠興体育会長、寺沢、大下監督、松木賀雄主将、小野寺マネージャー、押川清先輩、応援部幹部らが協議を重ねた結果、連盟の勧告案を多少修正して、次の如き回答文を全会一致で可決し、二十日連盟の平沼亮三会長に手交した。すなわちその回答文は、
一、寺沢野球部長はリーグ勧告案を発する以前、自発的に辞意を洩して居り、早大当局はこれを受理したるを以て、これを諒とせられたい。
一、大下監督については不問に附されたい。
一、野球部は紛擾の件につき、遺憾の意を表し、深甚の陳謝をなす。 (同書 三五七頁)
というものであった。しかし慶応がこれを承服しなかったので、連盟は二十一日夜東京会館で協議を行い、山本体育会長が次の如き添書を示したことにより、二十二日未明漸く解決を見た。
応援団の行為に対し寺沢野球部長は御勧告に従い全責任を一身に引受け、自発的に辞任致し候。……今回の責任は右寺沢部長の辞任に留め、大下監督引責の儀は御免除なし下され度候。
十一月二十一日 山本忠興
東京大学野球連盟御中 (同書 三五八頁)
この問題で終始強硬な態度を執った大下監督は、解決の条件として慶大側から再三辞任を求められたが、山本体育会長は最後まで彼の引責退任の宥恕を乞うて譲らず、遂にはこれが認められた。しかしこの年秋には三ヵ年の契約期限が切れるので、表面上は一応平穏裡に引退し、九年春、大下の後を継いで久保田禎(大一二商)が監督に就任した。
さて、昭和八年に採用された一年一シーズン制は反対が多く、九年十二月東京大学野球連盟は二シーズン制復活を声明して、文部省との折衝に入った。これに対して文部省は、入場料の各校への配分金最高額の制限や選手争奪の弊害除去等の条件を示したが、入揚料の配分金を以て野球部のみならず体育会の運営費にも充当していた学苑にとっては、配分金額の制限は重大な問題であった。従って体育会は反対声明を発表し、総長田中穂積も自ら文部省との交渉に当った。しかし文部省の態度は硬く、また、文部省の意向を容れて二シーズン制を復活しようとする連盟内部においても、学苑は孤立してしまった。結局、十年四月二日連盟理事会は学苑を除く五校の賛成を以て、入場料の引下げと配分金を一校六万円に制限することを決定、同日文部省もこれを承認し、一年を春秋二シーズンに分け、各シーズンに各校それぞれ二試合ずつを行い、その勝率で優勝を争うという制度が十年の春から実現した。
二シーズン制復活は、学苑にとっては喜ばしいことであった。けれども、十年春のシーズンを前にもう一つの出来事が起った。それは、久保田監督の辞任による無監督・選手合議制の実施である。無監督という思想は、三原修によれば、七年の連盟脱退問題に関連する「一連の思想的波紋であつた」。三原は、次のように回想している。
従来の監督は学校との連継が充分でなかつた為、学業と野球を調節する事が出来なかつた。ここに職業監督の行き過ぎがあつた。選手争奪の主役も亦職業監督であつた。当時の早大監督大下常吉氏は人格、識見、力量共に申し分のない人であつたが、選手の一部に湧き上がつて来たこの思想に共鳴し、率先して学生の自主的行動を是認する態度に出た。間もなく大下氏辞任し、後任として久保田氏の就任を見たが、職業監督反対の底流は依然として部内に残り、これが後に色々な形となつて表面に現はれて来た。……一時無監督合議制が採用されたが、これはその一つの現はれである。 (『私の野球生活』 八七頁)
こうした野球部の雰囲気の中で、九年春に監督に就任した「久保田の監督でき得る場所は、練習場に限定された。試合場のベンチへは入れなかった。関西、藤井寺球場の冬季練習には、久保田の姿があったが、神宮球場はおろか、遠征同行も拒否され」た(大和球士『真説日本野球史』昭和篇その二 一六九頁)。十年春久保田は辞任し、野球部は名実ともに無監督となり、選手合議制を実施することとなった。これが選手の気分を新たにしたものか、春は、明、立、東、慶を破り、法には一勝一敗後破れてはいるが、九勝二敗の成績を収めた。また秋季リーグ戦では、東、法、明に完勝し、立には一勝一敗、慶には一敗一引分の成績を残して、通算七勝二敗一引分で優勝の座を占めた。またこの間エール大学と対戦し、四勝一敗でこれを破った。一方春以来建築中であった合宿の建物は、九月に落成し、居室十余、優に三十名前後の部員を収容することができ、部員を結束させるための一威力となった。
十一年五月第六回アメリカ遠征を試み、影山千万樹教授引率の下に、総勢十六名の精鋭は、約一ヵ月半各地に転戦の後、十五勝七敗の成績を収めて帰国した。この渡米試合の経験は、秋季リーグ戦にも好影響を及ぼし、立、明を攻略し、東とは一勝一引分、法、慶とは一勝一敗、結局七勝二敗一引分で首位の座を守った。十二年二月、かつて在学中にベーブ田中の偉名を轟かせた田中勝雄(大一二商)が選ばれて監督になり、二年間の無監督・選手合議制が解消した。
十四年春のリーグ戦は、早慶両校が優勝を争い、しかも早慶戦は一勝一敗で勝負がつかず、優勝決定戦が行われるという十一年振りの好展開になった。学苑野球部は晴れの舞台で見事に戦い、覇権を獲得した。ところがリーグ戦終了後、「〔優勝決定戦〕当日午前中から多数応援団が繰り込み学業に支障を来してゐるが如き観があつたのは事変下すこぶる遺憾」(『東京日日新聞』昭和十四年六月十三日付夕刊)であり、各校の試合を一試合ずつ、合計五試合に減少して、週末のみに行うべしとの見解が文部省から連盟に示された。このいわゆる「一本勝負論」に対して連盟は無論反対の立場を表明したが、文部省は強圧的態度を崩さず、執拗にこれを主張した。すなわち、十四年秋のリーグ戦は、「十五年度以降……文部省としては大学野球の実情に鑑み根本的刷新を加へん」(『東京朝日新聞』昭和十四年八月二十日号)ことを条件に一応二回戦が認められたものの、十二月二十二日文部省は連盟に対して連盟機構の改革を公式に厳命した。連盟側も文部省の意向に従って機構改革を断行し、春季は二回戦、秋季は一回戦とすること等を決定した。
十五年春、田中勝雄が家事の都合で辞任したので、その後を襲って伊丹安広(昭五商)が野球部監督に就任した。この年春は四位、秋は三位。十六年の春は七勝三敗で第二位に上昇し、秋は四勝一敗で優勝。ところで秋のリーグ戦開始に魁けて、八月二十九日に文部省体育局長小笠原道生から、時局に対処する心構えとして、六大学の指導者に対して、「学生野球は観衆を喜ばせるためのものでもなければ金を儲けるためのものでもない、実に学徒自身の訓練のためといふ本義に徹することが肝要で、この見地から再出発、旧来の因習を一擲して極めて勇敢に最も適切な方策を考へられた」き旨(『東京日日新聞』昭和十六年八月三十日号)要望されたので、土曜日の試合が中止され、試合は休日のみに限定され、しかも一日三試合挙行となったのみならず、一般観覧席の縮小、入場券の当日売中止等の措置も採られた。また早慶戦の挙行に先立ち、教務課長小沢恒一は全学生に対し、時局下の早大生の心構えと、その在り方につき、次のような訓示を行った。
一、現下の非常時局を認識して、率先自粛自戒を要す。学園は今春、全国の大学に魁けて、現下非常時局に対応すべく、学園新体制を完成、此度報国隊の結成を見、切迫し来る時局下、国家緊急に応ぜんとしている際であるから、早慶戦当日は宜しく学校当局の真剣なる主旨を体し、時局学生として自粛自戒、厳乎たる態度を以て臨むこと。
一、早慶戦終了後、盛り場への出入は禁止、発見しだい処分すること。
(『早稲田大学野球部五十年史』 四四八―四四九頁)
翌十七年には、監督制を廃止して顧問制を採ることにし、飛田忠順、伊丹安広がその任に当った。春季リーグ戦の成績は芳しからず、六勝四敗第三位に低落したが、秋のリーグ戦では三勝一敗一引分の成績で優勝したものの、十八年に入ると文部省の野球に対する態度は一段と高圧的になり、四月六日文部省は次の覚書を連盟代表に手交して、連盟の解散を命じた。
(一) 戦時学徒体育訓練実施要綱の趣旨に基づきリーグ戦形式による試合は自今これを取りやめること。
(二) 従つて東京大学野球聯盟はこれを解散することとし、残務処理に関する委員会を置き残務処理終了の上はその経過を文部省に報告し、これを解散すること。
(三) 摂政賜杯については目下宮内省当局の指図を願ひ出でたるをもつて何分の指図あるまではこれを残務処理委員会において従前通り保管の任に当ること。 (『毎日新聞』昭和十八年四月七日号)
このような事態の推移にも拘らず、野球部はその活動を継続し、他校との連合練習や練習試合を行った。この年に入部した石井藤吉郎(昭二六法中退)は当時を「六大学のリーグ戦は、もう中止になっていた。それでも練習だけはやった。最後の一人になっても、ボールを離すまいというのが、ボクらの気持だった。グラウンドは、教練の演習によく使われたが、ダイヤモンドだけは入らせなかった。塁間にロープを張り、軍靴で踏みにじられることだけは防いだ」(『われら野球人』 一一七頁)と回顧している。尤も、こうした努力さえも十九年に入ると不可能となったが、野球部は遂に解散することなく、終戦を迎えた。
柔道部 大正十一年に専門部政治経済科を卒業、同十三年に渡仏、ヨーロッパで柔道の普及に努めていた先輩石黒敬七は、昭和七年九月にはロンドンに赴き、「テレヴィジヨンを通じて英国のジヨージ陛下に柔道を御紹介申上げた」(『早稲田学報』昭和八年七月発行 第四六一号 五八頁)。昭和八年十一月以後連続して開催された都下大学専門学校柔道対抗試合には、十四年に至る七回の対戦で、専門部が四回優勝を占めた。また八年以降六回の段別選士権大会には、第一回の二段戦および五段戦、第二回の五段戦、第三回の四段戦、第四回の三段戦、第六回の初段戦に学苑がそれぞれ優勝の栄誉に輝いた。高等学院については、十年十一月にジュニア早慶戦が小石川講道館で行われ、その二十四組の試合では不戦者三人を残して優勝の花を飾った。その他、七年六月と十年六月と十三年六月の三回に亘って台湾遠征を行い、また翌十四年六月には北海道方面に歩を伸ばし、他流試合に技を錬った。
剣道部 剣道部では、昭和八年、九年、十年、十二年に東京帝国大学主催の全国高等専門学校剣道優勝大会で優勝し、十年の東北帝国大学主催全国高等専門学校剣道大会でも勝利を収めるなど、昭和十年前後に専門部の活躍が目立っている。この他部全体としては、十二年の第十回全国大学高等専門学校剣道大会に優勝を果した。その他、地方遠征を見れば、十一年六月十日から十八日間、精鋭十七名を四国、九州の各地に送って連戦した。また、「外務省では昭和十三年三月、当時ヨーロッパにおける盟邦ドイツ及びイタリアに親善のための学生武道使節団を派遣した〔が〕……全国の大学、高等専門学校から選抜された剣道六名」(庄子宗光『剣道百年』 一六三頁)の内に、学苑からは星名孝平(政)が選ばれた。更に同年六月から八月にかけて高野佐三郎師範引率の下に九名の選手が渡来し、翌十四年八月全日本学生選抜軍に我が部から二名の選手が抜擢されて満州遠征に参加した。
弓道部 昭和七年五月慶応チームを学苑の道場に迎えて第六回早慶戦を行い、六十九対五十九の十点差でこれを降し、同年六月明大軍を学苑道場に招いて第六回早明戦を催し、これまた百五十三対百二十四の大差で攻略した。早慶ならびに早明対抗戦は定期的に行われ、十三年までの七年間については、残っている記録によると慶大軍との間に行った五試合の成績は三勝二敗で、にわかに両者の優劣を決し難いものがあった。その他、十二年と十三年の弓道リーグ戦および十四年の第九回日本学生弓道選手権大会でそれぞれ優勝し、特に十二年のリーグ戦では三百七十三本的中の大偉業を立てた。
庭球部 安部民雄、佐藤次郎の非凡な技倆は、学苑のみならず我が国の名を国際場裏に宣揚し、欧米の強豪とデビス・カップ戦で覇を競って一躍斯界の寵児となり、昭和初期の学苑黄金時代を作り上げた。佐藤は七年、デビス・カップ・ヨーロッパ・ゾーンに出場し、更に全英ウィンブルドン戦で前年の覇者アメリカのウッドを破り名声を博した。また八年にも、佐藤は神戸高商の布井良助とともに欧州に渡り、デ杯ヨーロッパ・ゾーンに出場し、「英の批評家マイヤーズの権威ある世界庭球ランクの第三位となる名誉を得た」(『早稲田大学庭球部創立七十周年誌』 二八頁)。しかし、翌九年、デ杯戦に出発した佐藤(政治経済学部在学)は、乗船箱根丸がマラッカ海峡を航行中の四月五日、原因不明の投身自殺をして、世人をいたく驚かせた。
翌十年、既にOBの安部民雄(昭二文)、川地実(昭八法)は稲門クラブ員として、関東庭球選手権大会、東日トーナメント、明治神宮体育大会で三つの優勝を獲得した。十一年には、新人三浦明正(商)が関東学生庭球選手権大会と全日本学生選手権大会とで学生のチャンピオンになった。十二年にはダブルスで田中圭司(経)・高尾正徳(商)組が新人ながら東海大会と明治神宮体育大会で優勝した。そして十三年にも、田中・高尾組は東日トーナメントで慶応の鶴田・鍵富組を押えて初優勝を遂げた。十四年、日中戦争の影響によりボールの入手に支障を来たし、このため東西学生大会、東西学生対抗等が中止されたが、学苑では明治神宮国民体育大会で木村靖(経)がシングルスに、木村・種田鉏(商)組がダブルスに優勝した。また十五年には、この木村・種田組が関東大会で優勝し、更に木村・中原資捷組が東日トーナメントと明治神宮国民体育大会に優勝した。十六年には戦争の激化のために、更に全日本大会と全日本学生大会の二大大会が中止となったが、明治神宮国民体育大会は開催され、種田がシングルスで優勝した。翌十七年には全日本大会が明治神宮国民体育大会と合併という形で開催され、鷲見保(政)が優勝を果したが、時勢の推移に伴い十八年以降は見るべき戦績も残されていないのである。
端艇部 我がクルーは、昭和七年の第十回ロサンぜルス・オリンピック大会と十一年の第十一回ベルリン・オリンピック大会の代表に選ばれ、また十年九月荒川尾久コースで挙行された第十五回全日本学生選手権競漕において第一位となった。しかし、その後「墨堤の王者となることが出来ず、学生選手権競漕はいたずらに商大、帝大、一高等に名を成させるのみであった」(『半世紀の早稲田体育』 一九一頁)が、十七、十八年には学生選手権を連覇し、漸く愁眉を開くことができた。なお、「端艇」の名称は十七年「漕艇」と改められた。
相撲部 昭和七年十一月神宮相撲場で挙行された第一回関東学生相撲連盟選抜対校大会の選抜戦で東京医専、慶大、立大、日大、専大、日本医大を一蹴して、決勝戦では明大に対したが、五対六の僅差で惜敗した。翌八年の第十五回全国学生相撲選手権大会では貝藤勝美(専政)が個人優勝を果した。その後不断の精進は、十三年の同大会の団体試合では三位、個人戦では小林達也(専政)が準優勝、翌十四年の東日本学生相撲選手権大会では同じく小林が個人優勝、翌十五年には全国大会の団体戦で準優勝の成績を収めた。
水泳部 昭和初期黄金時代を現出した水泳部は、昭和七年以降も、全国学生水上競技大会で七年の第十一回大会以降第十二、十三、十四、十六、十九回大会に第一位の戦績を残している。また、七年のロサンゼルス、十一年のベルリンの両オリンピック大会水上競技に多数の選手を派遣し、前者では横山隆志、入江稔夫らの活躍があり、後者では牧野正蔵(商)、吉田喜一(専政)などが健闘した。この他高等学院も、七年七月二十五日、二十六日京都帝大プールで開かれた第八回全国高等専門学校水上競技大会に出場し、清政武夫らの精鋭は各種目に第一位を占めて優勝した。
競走部 先ず日本学生陸上対抗選手権争奪大会の戦果に目を注ぐと、昭和七年五月の第五回大会では、トラックに首位を占めることはできなかったが、フィールドでは、走幅跳と棒高跳で西田修平(理)、三段跳で山県勝(商)、槍投で住吉耕作(理)が一位を獲得し、これを皮切りにして、殆ど毎年の大会で好成績を残し、殊に十年の第八回大会と翌十一年の第九回大会では総合優勝を果した。また、関東学生対校陸上選手権大会においては、例えば昭和十二年の第十九回大会でトラック、フィールドの全種目に一位を占めた如く、他校を全く寄せつけず、大正十三年以来昭和十二年まで実に十三連覇を成し遂げた。この他、恒例の早慶戦も毎年圧勝し、十七年に至るまで通算十八連勝を遂げた。高等学院もこれに刺激され、対一高戦、対全仙台学生軍戦等で殆どすべての種目において一位を占めた。最後に国際場裏の活躍振りを一瞥すると、十年にブダペストで開催された第六回国際学生陸上競技大会に西田、村上正、田中弘の三選手が出場し、ドイツ、ハンガリアに次いで第三位の成績を収めるのに貢献した。また、七年のロサンゼルス、十一年のベルリン両オリンピック大会には、これまでにない多数の選手を送り、南部忠平、西田らが大活躍したが、これについては既述(五一三―五一六頁)したのでここでは割愛する。
ラグビー蹴球部 昭和七年は、学苑の伝統的戦法となったいわゆるゆさぶり戦法が大きな成果をもたらした年で、この年に監督に就任した西尾重喜(昭五商)を中心にこの戦法を大成し、十一月から十二月にかけて東都五大学リーグ戦に全勝優勝を果した。そして翌八年一月西下し、関西の覇者同志社を二十七対三で破り、創部以来初めての全国優勝を成就した。その後、八、十一、十二、十六、十七年の各年度に全国の覇を握り、戦前の黄金期を実現した。この他、七年にはカナダ選抜チームを神宮競技場に迎えて十三対二十九で敗退、九年オーストラリア選抜学生軍と相見えては六対二十一、十一年ニュージーランド学生軍には七対二十二で破れたが、これらの戦いでは学ぶところが多く、他日天下に覇をなす機運はこの時既に培われたと言っても過言ではなかろう。また海外に遠征しての対戦数も多く、例えば、八年中国上海のカニドロームで同地のクラブと戦い、また十一年の満州遠征の際には、新京競技場で全満州代表と戦って五十対三の大差で勝利を収める等、その実力を彼の地に示した。
ア式蹴球部 昭和八年東京カレッジ・リーグは東京学生蹴球連盟と改称したが、先輩工藤孝一(昭八商)を監督に迎えたア式蹴球部は、同連盟のリーグ戦に五戦全勝し、実に八年振りにリーグ優勝を果した。更に十二月十日には関西の覇者京都帝大と対戦、五対二で破り、初の学生の王座に輝いた。九年には、リーグ戦で四大学を一方的に破ったが、慶応とは再度戦うも勝敗が決せず、第一位を両校で分けた後、東西学生対抗戦には、日程の関係で学苑が推薦され、前年に続いて京都帝大と対戦、またもや圧勝して連続学生王座に着いた。十年、東京学生蹴球連盟は関東大学蹴球連盟と関東高専蹴球連盟の二連盟に分れたが、学苑は前者に加盟し(『早稲田大学ア式蹴球部50年史』 九九頁)、この年と翌十一年リーグ優勝を遂げた上、両年ともに全国の覇を握り、八年以来四年連続学生日本一の偉業を達成した。また、十三年には第十八回全日本選手権大会に出場、決勝戦で慶応大学を四対一で破り、本大会二回目の優勝を遂げた。十年七月から八月にかけて日満交歓試合が満州各地で行われ、日本代表に推された我が部は、大連・奉天・新京で、それぞれの代表団と戦い七戦全勝の成績を挙げた。十一年ベルリン・オリンピック大会には、学苑を主体とするチームが結成されて八月の戦いに参加し、優勝候補と目されたスウェーデンを破って奇蹟的な大番狂わせに全世界を驚嘆させたが、第二回戦ではイタリアに零対八と惨敗を喫した。この他単独遠征では十二年に上海に渡り各種の代表団と戦い三勝一敗一引分、十四年には朝鮮で全普成と全延禧軍と戦い一勝五敗で朝鮮軍に名をなさしめた。
山岳部 昭和二年十二月北アルプスの雪崩事故に四名の生命が奪われてから暫くの間、冬山登攀は中止されたが、六年頃から積雪期登攀訓練を始め、先ず穂高に全力を集中した。しかし目指すところはヒマラヤ征服であったから、一歩を伸ばして剣岳へ、更に十二年一月にはヒマラヤ連峰と相似の朝鮮の冠帽峰にアタックして登頂に成功した。またこれより先十一年五月ヒマラヤ研究会を発足させ、装備、食糧、地質、気象、測量、文献、写真、医学、人文地理、編集の十部門を設け、それぞれに部員を配属して専門的に研究を進めた。また実技訓練としては、十二年十二月に隊員二十名を以て台湾の新高山征服を敢行し、十五年十二月には再度朝鮮の冠帽峰アタックに挑戦して一層技を磨いた。しかし最終目的たるヒマラヤ登攀は、太平洋戦争勃発のため遂に実行に至らなかった。他方第二早稲田高等学院山岳部も十四年夏に蒙古の夏山登山を企て、先輩を凌駕する意気を示した。
スキー部 当部の誕生は大正末期であったから、歴史は新しいが、多数の新人精鋭を集めて精進した結果、昭和の初期には相当の成績を挙げた。昭和八年の全日本学生選手権大会で三度目の優勝を遂げた当部は、翌九年一月の大会では、総合で二連勝、五種目制では合計五十四点の大量得点を挙げて、新記録を作った。この時の主将兼マネージャー兼監督であった出野久満治(文)は、技能の訓練よりも体力の増進に力を入れ、選手を楽しませて努力させるという方法を採ったという(『早稲田大学スキー部五十年史』 一六一頁)。十年も同大会で三連覇、五度目の、十三年には六度目の、優勝を成し遂げた。冬季オリンピック大会は、昭和七年アメリカのレーク・プラシッドで、また十一年にはドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンで開催され、当部からは坪川武光、竜田峻次(専商)らが参加したが、成績はいずれも振わなかった。この他九年のスイスのウェンゲンの国際学生大会では一六キロメートルで清水麟一(商)が四位、複合では栗山魏(商)もまた四位、またサンモリッツの万国スキー大会では一八キロメートルに出場した清水、栗山が二、四位を占め、引続いて同地で行われた日独学生対抗では百六十五対三十一の差で破れたが、日本代表の面目は十分に果せたのであった。
馬術部 昭和十年の全日本学生選手権大会には竜村徳(理)が、また十三年の同会には藤井昇平(経)が個人優勝し、十七年には団体優勝した。七年には早慶東三大学定期リーグ戦が、十三年には八大学純馬術競技大会が開始し、後者で十五、十六の両年連覇を遂げ、十七年には山本錬太郎(商)が個人で第一位となった。また、十四年には海外遠征を試み、朝鮮、満州に駒を進めて鎧袖一触、殆ど無人の境を行く有様であった。しかし自馬を持つことなく、これらの成績はすべて陸軍騎兵隊の軍馬を借りて得たものであったので、十三年頃から自馬繋留の案を立て、資金の獲得に努力したが、戦局の拡大につれて馬匹の徴用も多くなり、困難は重畳した。しかし五年の歳月を経過した十八年、主将猪木圀臣(政)らの努力が実を結び、校友、先輩、部員らの寄附ならびに馬事会からの助成金もあって、九頭の馬匹を購入し、別に先輩寄贈の一頭を加えて十頭を得、久留米村の大学農場の一角に建設された厩舎に繋留することができたが、学徒出陣により、主力部員は優秀な兵力として入隊し、残存部員も勤労動員に狩り出されるなどして、せっかく馬匹を獲得しながら利用の機会もなく、十九年に入ると食料事情の悪化により自馬が次々と斃れる状態となった。
籠球部 昭和七年一月、第十一回全日本籠球選手権大会決勝戦で立大と対戦して三十九対三十八の一点差でこれを破り、黄金期を迎えた。同年四月には朝鮮に渡り、各地の代表軍と争って六勝三敗の成績を収め、翌八年四月、来日のハワイ大学と戦って三十一対二十五で勝利を得た。十一年十月に関東大学選手権大会で十戦全勝を果し、十一月に東西学生籠球優勝校対抗戦で関西大学を一蹴し、更に十二年一月には全日本男子籠球綜合選手権大会で優勝し、「すべてのタイトルを無敗全勝で勝ち、国内試合のカップを独占するという快挙を成し遂げた」(早稲田大学バスケットボール部60年史編集委員会編『RDR60』 四二頁)。十二年二月アメリカ選抜学生軍を破り、十二月マニラでフィリピン軍を五勝四敗で降すなど、外国勢との試合でも破竹の勢いであった。十五年六月の第一回早慶戦でも勝利に輝いた。しかし翌十六年以後の各種戦績は低落し、戦争激化に伴い十八年十二月遂に部活動は休止に追い込まれた。
スケート部 大正十二年にスケート・ホッケー部が正式に発足したが、昭和七年スケート部と陸上ホッケーを行うホッケー部とに分離したことは、既述(五四七頁)の如くである。そこで昭和七年以降スケート部が行う競技はスピード・スケートとアイス・ホッケー、それにフィギュア・スケートとなった。スピード・スケートでは、石原省三、李聖徳、山下勝久らが活躍した。石原は、学苑入学前、既に五年以後の全日本氷上競技選手権大会、六年の世界選手権大会、七年の冬季オリンピック大会等に出場した経験を持ち、入学後は十年から十二年にかけて全日本氷上競技選手権大会と日本学生氷上競技選手権大会の五〇〇メートルで一位を占めた。更に、五一六頁に記した如く、十一年には冬季オリンピック大会に再度出場し、五〇〇メートルで四四秒一の日本新記録を出し、冬季大会で日本人として初めて四位入賞を果した。李も石原同様、専門部政治経済科入学前から活躍し、八年には全日本選手権をも獲得していた。入学後は、日本学生氷上競技選手権大会で、十年の第十一回大会一五〇〇メートルと十二年の第十三回大会一万メートルに一位となった。十二年三月に石原、李が揃って卒業したため、十三年には各競技会に優勝者は出なかったが、この年一月に始められた早慶スピード競技会では一五〇〇メートル以外の各種目に勝利を収め、総合得点八十九対六十四で優勝した。十三年四月山下が専門部法律科に入学し、日本学生氷上競技選手権大会では、十四年以降戦前最後の大会となった十七年の第十八回大会まで、五〇〇メートルに四連覇を成就するという、その後四十年以上に亘って破られることのない大記録を樹立した。また、山下は十六年の第十七回大会のスピード部門優勝にも大いに貢献したが、十八年九月法学部卒業と同時に海軍第十三期飛行専修予備学生となり、二十年五月十一日南西諸島において戦死した。他方、アイス・ホッケーの活躍も目覚しく、七年には第一回早慶戦が行われて三対二で勝利を収め、更に八年の第四回全日本氷上競技選手権大会、十年の五大学氷上ホッケー・リーグ戦、十一年の第十一回全国学生氷上競技選手権大会、第七回全日本氷上競技選手権大会、第八回明治神宮体育大会、十三年の第十三回全国学生氷上競技選手権大会、第九回全日本氷上競技選手権大会で次々と優勝した。この他、九年と十三年とに満州遠征を試み、殊に十三年の遠征では満州各地で連戦連勝の好成績を収めた。ただし、フィギュア競技にはあまり見るべき成果はなかった。
ホッケー部 昭和七年に独立したホッケー部は、同年オリンピック大会に小西健一(昭七政)らOB・在学生四名の選手を送る等、種々の試合に参加し、漸く実力を蓄えて、十一年、関東学生選手権を獲得し、次いで関西の覇者京都帝大を七対零で破り、全日本選手権を握った。翌十二年一月には香港に遠征し、七試合を行った。また、この年五月全国高専ホッケー選手権大会の決勝に高等学院チームが出場し、山口高商を六対一で降して優勝した。更に、十六年の関東高専リーグ戦で高等学院チームが、また十七年の関東大学リーグ戦で大学チームが優勝した。
卓球部 昭和七年五月に第一回早慶戦を催し、十一対五の大差で緒戦に勝利を飾った頃から、中学卓球界の俊鋭が学苑卓球部の名声を慕って入部し、やがて十一年より十五年にかけて黄金時代を現出し、須山末吉(専法)らの名手を得て向うところ敵なき有様であった。すなわち、十一年七月、関西学院との第一回定期戦には九対六の成績で楽勝した。十二年には、全日本学生卓球連盟はすべての試合を硬式に切り替えるよう決定するという、日本の卓球を国際的水準にまで引き上げる上で重要な決断が見られた。翌十三年には、「欧洲の一流選手としてつとに評判高いプレヤーであった」(財団法人日本体育協会編『日本スポーツ百年』 四七三頁)ハンガリアのサバドスとケレンの両選手を日本に招き、ヨーロッパ選手との初めての試合が実現した。この時、学苑の今孝(昭一三専商、昭一六商)はシングルスで、また関学の渡辺重五と組みダブルスで、よくハンガリアの両選手と戦い、日本の技術水準の高さを示した。十五年、国際卓球連盟はネットの高さを低くして攻撃力を養成するルール改正を行い、日本も同年度よりこれを採用し、当部では中田鉄士(商)に続いて今もその十二月からラバー張りラケット使用に転向し、我が球界の用具改革に魁けた。
拳闘部 昭和七年初頭、当部は、同年初めて開催された東京八大学リーグ戦に参加した。この第一回リーグ戦は日比谷公会堂で開催され、超満員の盛況裏に明治大学が優勝した。ただし当日の記録不備のため、当部の成績は不明である。ところが八年のリーグ戦で早明戦に審判問題が起り、我が主張に与した専修・法政の二大学とともに連盟を脱退し、翌九年には脱退組の三大学でリーグ戦を行い、法政に名をなさしめたが、このリーグ戦は一回切りで解散してしまった。そこで、十年には新たに慶応・明治とともに三大学リーグを結成し、以後毎年春秋二回リーグ戦を行うようになった。慶応との対戦復活については明確な記録が欠けているが、十年五月に復活第二回戦を行っており、この時は五・五対四・五で辛勝。なお練習場には、最初第一高等学院雨天体操場を当てたが、八年には東伏見、九年には大隈講堂裏の先輩多賀安郎(昭五専法)寄贈の建物、十四年には大隈会館裏に新築したものが使用せられた。
応援部 早慶野球戦復活の大正末期から昭和の初期にかけて、応援もやや秩序だち、怒号や罵声の代りに校歌や「見よや早稲田」や「敵塁如何に」などが斉唱され、「プリンス・エール」も起り、ハンカチを握っての「栄光の早稲田」の応援や、「サイレント・モーション」、「ワセダ・ウェーブ」、「Wの人文字」などが、観覧席の人垣を飾り、一般見物人の目を奪った。一方、昭和の初め頃から、流行歌氾濫の波に乗り、応援歌の新作も次々に現れ、観衆の耳をも楽しませた。先ず昭和二年に第一応援歌として五十嵐力詞山田耕筰曲の「競技の使命」が発表され、翌三年には第二応援歌三上於菟吉詞近衛秀磨曲「早稲田応援歌」、第三応援歌西条八十詞中山晋平曲「天に二つの日あるなし」などが次々に登場した。ところが四年慶応が名曲「若き血」を発表して、満都の好球児に愛誦せられたのに刺戟された我が学苑も、六年には後世不朽の名作と言われた住治男詞古関裕而曲「紺碧の空」により敵の心胆を寒からしめた。以後、七年には牛腸仁一郎詞早大応援部曲「玲瓏の天」、九年には長田幹彦詞杉山長谷雄曲「仰げよ荘厳」、長田幹彦詞細田義勝曲「勝てよ早稲田」等がこれらに続き、六大学野球戦応援に不可欠の要素となった。昭和六年春、応援部は学苑当局により公認せられ、教授中村万吉が部長に就任した。ところが、中村が「応援と似て非なるものに弥次といふものがあつて、往々応援と弥次とが混同される遺憾があるのであります」(『早稲田学報』昭和六年十月発行第四四〇号二頁)と述べている如く、応援が「余りに暴力化して来た」(『半世紀の早稲田体育』 一九三頁)ため、八年のリンゴ事件を契機に学苑当局は応援部の解散を計り、九年に入りこれが実現した。しかし、応援の必要を痛感した体育会学生委員会は十一年応援団の組織を正常化し、応援技術員を設けて、応援の統制に乗り出し、遂に十五年に至り体育会に応援技術部が設立された。しかし、戦争の激化に伴い十七年十月体育会が学徒錬成部に吸収されたため、応援技術部は錬成部の特別指揮隊に衣更えすることになった。
レスリング部 「日本のレスリングは、一九三一年(昭和六)早稲田大学に初めてレスリング=クラブが誕生したことに始まる」(小学館発行『大日本百科事典』第一八巻 四七〇頁)のである。すなわち、昭和四年米国遠征の学苑柔道部がレスリングを習得して帰国し、一行中の八田一朗(政)五段はこの競技が日本人に好適であるのに着目し、六年五月体育会にレスリング部を新設、翌七年のロサンぜルスのオリンピック大会に備えるとともに、六年十二月十八日日比谷公会堂、翌七年一月七日名古屋市公会堂、同一月十四日日比谷公会堂、同十五日横浜開港記念会館に、フィリピンの選手を招いて四回の試合を行った。しかし、七年のロサンぜルス・オリンピック大会では、この年卒業した八田五段と宮崎米一(高師)三段をはじめ、明治、立教、講道館の選手達は、不覚にもレスリングに金敗の憂き目をみた。そこで、八田その他の柔道部員とレスリングに専念する第一号の第一高等学院生西出武とが本格的なレスリングの練習を始めたが、一般の後援熱も冷め、柔道界には白眼視され、せっかく借用した柔道場からも放逐されて、マットを担いで町の道場を流浪する羽目となった。これを見兼ねた佐藤竹二(商)部員の姉が出資し、鶴巻町のテニス・コート側にささやかな専門練習場を設えたので、七年十二月には、漸く練習に専念できるようになった。その一年後、昭和八年十一月末にハワイのアマチュア・アスレチック・ユニオンから大日本アマチュア・レスリング協会に招聘状が届いたので、十二月八田監督と学苑レスリング部の四名の選手がハワイに赴いた。
昭和九年六月初めて開催された全日本アマチュア・レスリング選手権大会には、学苑から、バンタム、フェザー、ライト、ウェルターの各級に出場し、惜しくもバンタム級は失ったが、他の三級では選手権を掌中に収めた。また、同年十一月には早・慶・明リーグ戦が開始され、大隈講堂で行われた早明戦、早慶戦に勝利を収めた。更に十年、八田監督以下小玉正己(商)、丹波幸次郎(専政)、風間栄一(昭一一専商、昭一四商)に慶応の菊間虎雄を加えた早慶連合軍は、長駆して欧州遠征を企て、十一年のベルリン・オリンピック大会には、学苑からの丹波、風間、増富省一(政)が主力となり、明大から選ばれた二選手を加えて参加、風間が五位に入賞した。翌十二年にはアメリカのチームを招いて第一回日米対抗試合を開き、西出武(法)、風間、丹波、林政時(理)らが参加、十三年には再度米国チームを迎え、風間以下太田哲二(商)、道明晃(商)、林ら本大学の選手が中心になり、善戦の結果、遠来のチームを一蹴した。また同年十一月には風間を中心に太田、林、道明、楠林栄(専法)、それに慶応の二選手を加えた七名が渡米し、十勝二敗の好成績を収めた。このアメリカ遠征と時を同じくしてフィリピン遠征も行われ、学苑からは今井晃(専政)が参加した。
空手部 学苑に空手がはっきりと姿を現したのは昭和六年九月で、当時柔道部に籍を置いていた高等学院生野口宏が、松濤館流の始祖船越義珍を師範に招き、空手研究会を創設したに始まる。会長には教授大浜信泉が就任し、八年体育会加入が認められて空手部となり、大浜がそのまま部長となった(『早稲田大学空手部の五十年』 一二七頁)。大浜は沖縄県石垣島の出身で、古来琉球の国技とされた空手にも経験があり、自ら部長の最適任者を以て任じていた。師範に、また部長に人を得て、部員の練習にも熱がこもり、厳しいものがあった。野口宏(昭一一政)は、当時の状況を回想して、学業を拋ち終日道場に立て籠って練習したが、体力保持のため、三度の食事を十分に取り、その上生卵二十個を丼に入れ、サイダーでかきまぜて一気に飲み干したという(『半世紀の早稲田体育』 九二頁)。初め部員の稽古には第一高等学院の柔剣道場を借りたが、後に学生ホールの裏に空手道場が新築され、二十年五月二十五日の戦災で焼失するまで、そこを使用していた。このように厳しい鍛錬の結果、創設以来数年の歳月しか閲しないにも拘らず、百五十名余の部員を抱え、その技術と闘志とは常に他大学をリードした。新興空手道の普及と、各大学相互の技術的研究促進のため、早、慶、拓、商、法、一高の六部が連合して大日本学生空手道連盟を組織し、貴族院議員西郷吉之助を選んで会長とし、十一年十一月七日、青山会館で結成式を挙げた。式後第一回公開演武大会を開き、学苑からも横山二雄(政)主将以下十五名が参加して、名技を披露した。
大日本学生空手道連盟所属の各大学空手部は、その真摯な練習と熱心な普及活動により、漸く真価が認められてきたが、それでもなお、世上ややもすれば空手術は危険なもの、野蛮なものと曲解するむきもあるので、これを遺憾とした学苑の空手部は、十三年五月二十八日大隈小講堂で空手道紹介演技会を行った。実技として、型、板割、組手型、取手型等を演じ、元来地味な武道であるため一般にはよく知られていないいろいろな特徴を説明して、参会者を十分に納得させることができた。この企画は予期以上の成功を収めたので、十五年六月十三日にも再び大隈小講堂で空手紹介演武が行われ、五月に台湾遠征を行い新知織を会得した上田正敏(商)らが説明付きで、型、組手、試突き、捕手を演じた。また同月十六日には大日本学生空手道連盟春季大会が学苑の武道館で盛大に挙行された。しかし戦局が苛烈になるに従い、部員も空手の稽古に専念することが許されず、部の活動も不活発にならざるを得なかった。
体操部 体操部の母体たるマルン・ジムナスティクス・クラブ(MGC)が設立されたのは昭和三年であり、翌四年には第一高等学院にこのクラブの分身である器械体操部が生れ、選手の養成に努めた結果、七年のロサンぜルス・オリンピック大会には日本代表選手六名中に芳賀真人(理)を送り込むことができた。オリンピック終了後の七年十一月にMGCは体操会と改称され、更に翌年体育会入会が認められて、体操部となった。体操部は、毎年全国学生競技大会に参加し、特に個人選手権で活躍して、八年の大会では、ロサンゼルス・オリンピックに出場した後専門部法律科に入学した近藤天が平行棒、鞍馬等五種目に一位を占め、また金田正二(一院)も棍棒に優勝した。また九年の大会でも七種目を制覇した。尤も、団体では必ずしも好成績を収め得ず、常に二位以下に甘んじた。
自動車部 昭和五年池内真次と鈴木英一の両名により学苑に早稲田自動車協会が創立された。この協会は、訓練生活を通じて人格の陶冶を計り、自動車の使命と必要性の認識を深めることを目的とし、会長に教授喜多壮一郎を戴いた。協会は運転技術の向上に努め、また早・慶・明三大学により学生自動車連盟を組織する等の活動を続けた。また、自動車協会とは別に、七年早稲田モーター研究会が生れた。九年、この両者は合併して正式に体育会に加入が認められ、自動車部となった。この頃漸く我が国でも自動車の台数が増加し、中古車も氾濫して、部員たちの練習に事欠かぬようになったので、各大学間の対抗競技が盛んになり、スピード・レースやフィギュア・レース等が行われたが、年をおうて学苑自動車部は力を蓄え、特に年中行事となった早慶両大学の東京箱根間の駅伝レースには、数ヵ月に亘って練習を重ね、常に優勢裏に試合を進めた。しかし太平洋戦争勃発後は「ガソリンの一滴は血の一滴」とまで言われて、ガソリンの消費が極度に規制され、一般には自動車の使用が殆ど不可能になり、部所属の乗用車やトラックさえ軍に巻き上げられ、僅かにフォードとシボレーの二台のみが車庫に放置される有様となった。やがて自動車部の活動は学徒錬成部に移行し、機甲班と改められて、学生スポーツの片鱗さえも留めなくなった。
排球部 昭和六年、広島二中出身で極東オリンピック大会に出場した赤城功が中心となり、学苑に排球クラブを結成したが、当時選手らしいのは赤城一人であった。しかし、八年には精鋭が入学したので、漸く軌道に乗り、陣容も強化された結果、全国高等専門学校大会に学院および専門部連合チームとして出場し、優勝を遂げた。そこで彼らは初めて国内遠征を行い、各地に転戦し六勝一敗一引分の好成績を挙げた。九年、排球クラブは排球部として体育会に正式入会を許された。この年フィリピンの極東オリンピック大会に、日本代表選手として出場した山口祚一郎、長崎重芳らが入部、一段とチームが強化され、春には関東学生リーグ戦に優勝、引続き高専大会、関東選手権兼全日本予選大会にも優勝した。部は、翌十年から十七年に至る八年間、関東大学リーグ戦で、春か秋、またはその双方に優勝を続け、黄金時代の名をほしいままにした。また十年から早慶定期戦が行われたが、十八、十九年の出陣学徒壮行早慶戦を含めて、終戦後の二十三年に至るまで、都合十四回の早慶戦に連戦連勝の好成績を挙げた。部は十一年最初の海外遠征を行い、満州、朝鮮に赴き、更に十二年には朝鮮に、続いて十三年にも満州、朝鮮遠征を行った。十年に引続き十四年に全日本選手権大会に、十五年には明治神宮国民体育大会にそれぞれ優勝する等の活躍を部は示したが、十六年に入り時局柄全日本選手権大会は中止となり、十八年以降は殆ど試合もなくなってしまった(稲門バレーボール倶楽部50年史編纂委員会編『集り散じて五十年の歩み』 一二―六一頁)。
米式蹴球部 米式蹴球部の前身である稲二会が同好者により組織されたのは昭和九年であったが、翌十年にはフットボール・クラブと改称、十一年には東京学生米式蹴球リーグ戦で優勝、十二年と十四年にもリーグ戦で一位を占め、十四年に米式蹴球部として体育会に入会した。しかし、太平洋戦争の開戦とともに敵性スポーツとして槍玉にあげられ、十七年廃止に追い込まれた。米式蹴球部の代表委員であった梅田二郎(昭一八商)は、廃止前後の模様を次のように回想している。
私自身も恥しながら代表委員としても当時の状況下においては致し方なし〔と〕……この処置を傍観の体で見守る以外に方法はなかつたのであつた。そうしたある一日柔道部、剣道部の代表委員諸君の来訪を受けた。彼等はいうのであつた。何故君はだまつているのだ、こういう弾圧に伝統と歴史に輝く体育会が、このような薄弱な理由で弾圧されるとはどうしても納得が行かぬではないか、全代表委員の賛同を得たからこれから団結して錬成部長の反省をうながそうというのである。私は内心驚いた、彼等は軍国主義万能時代の華形なのだ、彼等こそ我々の廃止を力説しても当時の状況としては決しておかしくない話しなのだ。私達代表委員は弓道部の道場で連判状を作り、署名して全員退学をも辞せずと錬成部長に進言したのであつた。かくして、結果はとりあえず社会状況から休止として双方の歩み寄りで解決したのであつた。
(『半世紀の早稲田体育』 七四―七五頁)
ヨット部 学苑にヨット同好者の組織が誕生したのは昭和九年で、小沢信三郎(商)の提唱により少数の人々がヨット・クラブを作り、初めて第二回全日本インターカレッジに出場したが、初陣の悲しさは得点十七点第七位に留まった。しかしこの成績は良薬となり、勇を鼓して慶応に挑戦し、十年第一回早慶対抗レースが行われた。その後、関東インターカレッジや全日本インターカレッジに出場、しばしば優勝した後、昭和十四年には体育会に加入し、十五、十六年頃には黄金時代と称せられるようになった。
送球部 学苑にハンドボールが行われ始めたのは昭和十三年の春で、十五年には慶応とともに朝鮮に遠征し、ハンドボールの普及と技術の向上に努めた。十六年には初めて関東選手権に優勝し、十七年体育会公認の部となった。また、この年には春秋二度リーグ戦に優勝し、更に日本在住のドイツ人チームとも戦い、十対十の引分という好成績を残した。
以上において体育会傘下各部の動向を見てきたが、この他昭和初期に誕生したゴルフ倶楽部とサイクル・クラブについて一言しておこう。昭和九年春、二十名ほどの学生によりゴルフ倶楽部が組織され、十一月には早くも第一回の早明戦が行われ、十二月には第一回早慶戦も実施された。そして十年二月には関東学生ゴルフ連盟が結成され、リーグ戦、関東学生選手権大会等が行われたが、学苑ゴルフ倶楽部も小川浩正らの選手を各種大会に送り、東京帝大や慶応と覇を争った。しかし、時局の緊迫化とともにゴルフへの風当りが強くなり、十五年八月以後一切の学生ゴルフ競技は中止となり、我がゴルフ倶楽部も全く逼塞状態に陥った。他方、学苑に自転車を導入したのはスケート部員であり、昭和十三年にスケート部め有志が補助訓練として自転車を採用し、サイクル・クラブを創設、十一年に結成された関東学生自転車競技連盟のリーグ戦に参加し、十三年から三年連覇の偉業を成就した。
前節で見た如く、昭和の初期学苑のスポーツは黄金期を謳歌していた。しかし、日中戦争の拡大に伴い、学生の体育活動もまたその影響を免れることはできなかった。更に太平洋戦争開戦の前後ともなると、学生の個々の体育活動だけでなく、体育会全体のあり方やカリキュラムにも時局の影響が看取されるようになった。本節では、先ず戦争の拡大という時局を象徴しているような学生の体育活動の一、二の具体例を取り上げ、次に昭和十五年以降における、体育会のあり方やカリキュラムの内容にまで及ぶ学苑体育の変容について、簡単に触れてみたい。
射撃部 昭和九年四月の『早稲田大学年鑑』には部長沖巌、部員数九十名として射撃部の記事が掲載されている(二九六頁)が、七年七月発行の『早稲田学報』(第四四九号)の「早稲田大学体育会々報」には射撃部の名は見当らない(六八頁)から、七年後半から九年初頭までの間に射撃部が体育会に正式に加入したのは明らかである。
さて、昭和十二年十月に行われた早慶明帝四大学射撃リーグ戦において射撃部は全勝優勝を果し、また個人では小栗祥(政)、小川勁二(専商)の両選手が一、二位を占めた。更に同月開催の同四大学のクレー銃選手権大会においても、初優勝を果した。次いで十三年一月二十七日に陸軍幼年学校射場で行われた試射には、学部、第二高等学院、専門部の各有志が多年宿望の拳銃射撃に参加して、弾丸が僅少な上希望者多数のため十分な練習が行われなかったにも拘らず、所期以上の成績を収めた。しかし、射撃部の活動はその性質上、時局の影響を強く受けざるを得ず、部員もまた時局的な要請に副って行動した。すなわち十四年七月二十四日から六日間、部員二十六名は千葉の河合部隊に入隊し、高射砲射撃の実習に参加、この訓練により会得した知識と技術とを以て十月二十八、二十九、三十日の東部防空演習に右二十六名が出動し、折柄飛来した六十機に砲弾を浴びせ撃退したが、これは学生体育界未曾有の壮挙として高く評価された。この他、部員の全員が「バス代、煙草代等を節約し、東京朝日新聞社主催の高射砲献納基金として……二十一円十一銭を献金し」(『早稲田大学新聞』昭和十四年十二月六日号)たりした。
航空研究会 学苑に飛行機の操縦を目的とする航空研究会が誕生したのは、昭和五年三月であった。本研究会は戦前は体育会加盟の部ではなかったが、全国規模の競技大会に参加し、好成績を残している。例えば、十年十月の第二回日本学生航空選手権大会には十一名の選手が参加し、山内正一(理)が制限地着陸競技で一位となった。また、翌十一年の第三回大会では、各種目で健闘して優勝杯を手にした。しかし、本研究会の活動もまた、射撃部と同様その性質上時局の影響を色濃くしていった。右の第三回大会で活躍した金井哲夫(理)は、十二年十月日本学生航空連盟の推薦により、広瀬清太郎(一院)および他校の三名とともに「学生荒鷲」として北支戦線に参加し、徳川部隊本部に所属、実戦に参加した。彼が実家の両親へ送った手紙の一節には、「日本軍の将兵一人を斃すと支那人は百円貰うそうで、軍属は五十円、飛行士となるとずっと高く一千円の懸賞附だそうです。吾々五人は日本を離れて初めて命に千円と云ふ相場が附けられた次第です。……出立の際や平素の父母の訓戒、田中総長の激励の御言葉など心の中に湧き立ちます。御心配下さいますな、哲夫は男子です、広瀬と共に早稲田を代表する日本学生です、名誉にかけて頑張ります」(『早稲田大学新聞』昭和十三年二月二日号)と記されている。金井と広瀬とが帰還したのは十三年八月の中旬で、金井は、航空研究会は「将来を飛行機に捧げる真剣な人々を養成するのであるから、入会者は軍隊式の厳とした銓衡によつて許可し、学生の飛行機はスポーツでないといふ事を認識せしめる必要がある」(同紙昭和十三年九月十四日号)と語った。また、早稲田大学新聞社は本会と共同して九月二十九日午後三時大隈講堂で「学生鳥人歓迎の会」を開いたが、金井、広瀬の両鳥人は立って交々実戦談を詳細に語り、満堂の会衆に深い感銘を与えた。
また、飛行機とは別に、グライダーの操縦を目指すグライダー倶楽部が昭和九年十二月航空研究会内に創設された。同倶楽部は操縦技術だけでなく構造や気象の研究にも従事し、自らグライダーの設計・製造にも当ったが、昭和十六年十二月から翌年一月にかけて大日本飛行協会主催の下に大阪の生駒山で行われた滑翔研究において、中川徹男(理)は滞空六時間、前田稔(理)は五時間五一分の日本記録を樹立した。これを報じた昭和十七年一月二十一日付『早稲田大学新聞』は、「同部には……二名の一級滑空士の外に八名の二級滑空士を控へ、四月からは学校当局と連絡をとつて錬成科に繰入れ、碧空に飛躍する滑空士を養成せんと意気込んでゐる」と伝えているが、ここで言う「錬成科」とは、後述の如く、正しくは学徒錬成部管轄下の特修体錬であり、学苑の時局的体育教育の一翼を担うものであった。
既に九四六頁以降に説述した如く、昭和十五年九月十四日田中総長は、「学園新体制〔ヲ〕……宜言スル」ため教職員八百名を大隈講堂に集めて演説を行った。田中は、「東亜新秩序の偉業は……次の時代を荷うて起つ現在の青年学徒に俟つ所寧ろ多きに居ることは明白でありますから、……今にして青年学徒が……正確に時局を認識して、自己修養の為めに敢然として覚醒するにあらざれば国家の前途危しと私は憂ふるのであります。……私は我が学園こそ正に陳勝呉広を以て任すべき時機であると思ふのであります」との認識を示し、これに基づいて「普通教育を智育、徳育、体育と分けるのでありますが、〔我が学苑の青年学徒は〕其智育に於て欧米の青年学徒に対して聊か遜色がない、……徳性其のものの本質に於て日本の青年学徒が欧米の青年学徒に劣つて居るとは私は思はない。……併ながら更らに進んで体力の一点になりますれば、……体力其のものが彼等よりも劣つて居ると云ふことは残念ながら明白な事実であります」とし、「そこで体位の向上を通じて……天晴れ世界を股にかけて活動し得る有為の人材を造り上げなければならぬ」(『早稲田学報』昭和十五年九月発行 第五四七号 八―九頁、一四頁)と主張して、以後学苑が進むべき「体育中心の新方針」(『早稲田大学新聞』昭和十五年九月十八日号)を宣言した。すなわち、「東亜新秩序建設」という時局的要請に学苑全体で応えていくことが宜言され、その中心に体育が位置づけられたのである。本編第十章で述べた通り、この新方針は学徒錬成部設置という形で早速具体化され、昭和初期の華やかな早稲田体育は大きな変容を余儀なくされる端緒が開かれた。
その後、右の新方針の具体化は学徒錬成部の設置に留まらず、錬成部の活動領域拡大という形で、第一・第二高等学院、専門部、高等師範部のカリキュラムや体育会のあり方にも及んだ。カリキュラムについて見ると、昭和十六年四月、前年度まで「体操」と呼ばれていた両学院、専門部、高等師範部学科配当中の体育課目が「体錬」と改称され、錬成部がこれを担当することになった。更にこれとともに、十六年度に両学院に設けられた特修科中の「体育ニ関スル科目ハ凡テ本大学ニ特設セラレタル学徒錬成部……ノ統轄指導下ニ置」かれることになった。そして翌十七年度からは、学院等のカリキュラム中の体錬は「基本体錬」と、また学院特修科中の体育関係課目は「特修体錬」と呼称せられるに至り、後者は、随意選択科目としてではあるが、高等学院だけでなく、学部、専門部、高等師範部の学生をも対象とするに至ったのである。昭和十七年四月実施の「早稲田大学体育要綱」によれば、九六三頁に掲げた如く、特修体錬の内容は次の通りである。
特修体錬国防訓練部銃剣道班 航空班(グライダー、飛行機) 馬術班 射撃班 歩兵砲班
野砲班 高射砲班 自動車班(自動車、自動自転車、自転車、戦車)
武道部柔道班 剣道班 弓道班 空手班
競技部野球班 庭球班 競走班 ラ式蹴球班 ア式蹴球班 籠球班 排球班
卓球班 ホツケー班 氷上班 スキー班 水泳班 端艇班 ヨツト班
体操班 鎧球班 拳闘班 相撲班 レスリング班 山岳班 送球班
これにより明らかな如く、特修体錬の具体的内容は、体育会傘下の体育各部の活動と殆ど同じである。すなわち、体育会がその独自性を失い、錬成部の下に包摂されるようになったと見て差支えない。昭和十六年十二月三日付『早稲田大学新聞』は「体育会の解消決定」を、「体育会は愈々明年四月特修体錬の意義を果すべく、学徒錬成部に包摂のため……活躍の歴史を閉ぢることとなつた。今年四月、学徒錬成部に包摂さるることと決定以降一ケ年の準備期間をおいてその解組を見ることとなり、現在着々とその改造要綱案が練られてゐる」と報じている。
体育会は、右の記事の通り、十七年四月から秋にかけて徐々に錬成部に合流し、遂に十月二十二日大隈講堂で解散式を挙行してその歴史に終止符を打った。これまた田中により宣言せられた新方針に基づく「超非常時局」(『早稲田学報』昭和十七年十一月発行 第五七三号 一一頁)への対応であり、学苑スポーツの変容は決定的となった。その後、十八年度に入り、十八年三月二十九日付文部省通牒「戦時学徒体育訓練実施要綱」に基づいて、学苑は「全学徒ニ対シ基本体錬ノ普及徹底ヲ図ルト倶ニ、一方学徒錬成部特修体錬科目ノ改廃ヲ……断行」したが、この措置もまた「聖戦目的ノ完遂ヲ期セントスルモノ」にほかならなかった。こうして、時局の重大化に伴い、学苑におけるスポーツは、正課としての体育にせよ、体育会傘下各部の活動にせよ、大きな変容を余儀なくされ、その本来の姿からは大きく異ってしまったのである。