Top > 第三巻 > 第七編 第十章

第七編 戦争と学苑

ページ画像

第十章 戦時下の徒花

ページ画像

一 学徒錬成部の設置

ページ画像

 戦時下の一時期、学徒錬成部なる組織が生れたことは八三二頁に先述したところである。それは昭和十五年十一月に活動を始め、二十年五月に廃止されたきわめて短命の部であったが、昭和十七年一月二十四日に文部省に設立された国民錬成所などの魁をなすものでもあり、当時は、諸方から注目され、脚光を浴びたものであった。

 昭和十五年九月十四日田中総長は、暑中休暇明けの学苑全教職員を大隈講堂に集め、「教職員各位に訴ふ」と題して一時間半に亘る所信表明を行った。その内容の一端は九〇一―九〇二頁に既述したところであるが、政局の不安定を愁え、強大な軍事力を持つ米ソ両国に挟まれた日本の苦境を説き、「支那事変」の処理、「東亜新秩序建設」の容易ならざるを力説して、

東亜新秩序建設の偉業は数十年の長きに亘り、次の時代を荷うて起つ現在の青年学徒に俟つ所寧ろ多きに居ることは明白でありますから、現に諸君が今日手しほにかけて指導して居つて下さる青年学徒の教育こそ大切であつて、今にして青年学徒が旧套を脱して心的革命を起し、正確に時局を認識して、自己修養の為めに敢然として覚醒するにあらざれば国家の前途危しと私は憂ふるのであります。 (『早稲田学報』昭和十五年九月発行 第五四七号 八頁)

と述べ、更に青年学徒を奮起させるために、

我々は先づ他に率先して、時勢に適切なる方策を講じて、青年学徒をして此時難に処して立派に其使命を果し得る資格を養成して行かなければならぬ。それには如何にすべきか、今日我邦の青年学徒を欧米学徒に比較して最大の弱点が体力の孱弱にあると云ふことは明白である。そこで体位の向上を通じて明朗濶達、剛健質実、堅忍持久、勇往敢為の精神を昻揚し、天晴れ世界を股にかけて活動し得る有為の人材を造り上げなければならぬ。 (一四頁)

と強調し、その方法を研究中であり、具体的な案ができた上で教職員に諮り、手を携えて学苑教育の「革新」のために邁進したいというものであった。田中総長が体力増強を目下の急務と確信し、教育の革新を決心した所以は、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という一般的な命題は別としても、徴兵検査の結果に現れている壮丁の体位低下を欧米と比較して、我が国の教育に最も欠けているのは体育であると痛感したこと、ドイツ、イタリアの復興は体育に力を注いだ結果であると判断したこと、またフランス敗北の原因につきペタン元帥が「国民を挙げて余りに個人主義となり、享楽的となり、真剣な努力が影を潜めた結果」(同誌 同号 一五頁)であると放送したこと等にあることが、この演説に述べられているが、同時にこの年七月二十二日成立した第二次近衛文麿内閣が同二十六日基本国策要綱を閣議決定し、大東亜新秩序、国防国家の建設方針を打ち出したことの影響も大きかったであろう。当時「バスに乗り遅れるな」という語が流行ったが、田中総長の脳裏に一種の焦燥感のようなものが宿ったとも考えられる。

 そしてこの段階では未決定とされた「具体的の案」(同誌 同号 一五頁)が、間もなく学徒錬成部の設置となり、学生を錬成するとの形をとって実施されることになったのである。「錬成」とは耳馴れぬ語であるが、諸橋轍次『大漢和辞典』によれば、李白の「露墟山詩」に「伏錬九丹成、方随五雲去」とあるように、元来は薬などを練って作りあげる意であったが、のち文章や人物などにも用いるようになったという。命名者が誰であるかは不明であるが、新構想により学生を鍛え直すことを考えた場合、最もふさわしい名称と考えられたのであろう。この語は、時局に適切なものであったらしく、翌十六年三月一日公布の「国民学校令」第一条には「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲナスヲ以テ目的トス」(『近代日本教育制度史料』第二巻 二一九頁)と謳われ、また前述のように文部省に国民錬成所が設置されている。学苑の錬成教育は、内容ばかりでなく、言葉の面でも文部省等に先んずるところがあったのである。

 のちに田中総長は「学徒錬成部創設の趣旨」について、

我が早稲田大学が他の官公私立の学園に率先して、支那事変の三周年を迎へたる昭和十五年秋、新たに学徒錬成部なるものを創設した所以のものは此の切迫せる時代の要求に対応し、聊か教育界の陳勝呉広を以て任ずる意図に出でたものであつて、……我が邦の現代が最も痛切に要求するのは、道義の人実用の人であることは明らかであるが、兎角此の要求に合し難き憾ある所以のものは、畢竟教育上理論と実践とが分離して別々に取扱はれ、知を体得し知に徹底せざるがためであつて、……即ち実践こそが人生のアルフアであると同時に又オメガでなければならぬ。これが現代の教育に最も欠けてゐることは、恐らく具眼の教育者にあつては異論をさし挿む余地なき所であつて、其欠点を補充する所のものは即ち錬成部の新設を措いて他に道なしと考へた。 (早稲田大学学徒錬成部編『学徒錬成――大東亜建設と教育革新――』 四―五頁)

と述べ、また錬成部新設・運営につき総長の最高のブレーンであった杉山謙治は、

我国の今日以後の亜細亜に対するその指導的責任と、世界新秩序建設に一路邁進すべき学徒の使命を静かに思ふとき愈々益々その責務の重きを加ふるを痛感するに至つた。……国体の本義に基づき皇運扶翼の確固不抜なる精神を体得し、偉大なる国民の先達たるべき智徳体兼備の人材錬成を〔学徒錬成部が〕目的としてゐることは、寔に此の意味からに外ならない。即ち如何に智育秀でたりと雖も又如何に志や旺んなりと雖も、智徳体兼備の人材に非ざれば此の肇国以来の民族的大使命を敢行することは断じて不可能なのである。 (『早稲田大学新聞』昭和十五年十月二十三日号)

と記している。両者の言うところはややニュアンスは異るが、いずれにしても理論と実践の融合、智徳体兼備の人材養成が、学徒錬成部創設の目的であったことが分る。なお「学生錬成部」と言わず「学徒錬成部」と命名したことについての総長の説明は、左の如くである。

教育のことたる云ふまでもなく、教職員と学生とが情意共に投合して同心協力するにあらざれば、生命ある教育の成果挙らざる事は論を俟たざる所であつて、相倶に手を携へて革新途上を一路邁進しようと云ふ趣旨に外ならぬ。

(『早稲田学報』昭和十五年十一月発行 第五四九号 七頁)

 総長は、学徒錬成部の創設に至る間に、準備委員会を設けて討議をし、その道の権威者に教えを請い、人を各地に派して実地を見学させる等の準備を整えた上で、理事会で会を重ねて慎重審議の上で成案をまとめ、維持員会の承認を得、更に学部長付属学校長会議に公表して同心戮力を求め、全学結束して起つに至ったものであると言っている(同誌 同号 五頁)。しかし、準備委員会については全く資料が欠けており、総長が相談した「権威者」というのは厚生省体育官野津謙、古屋芳雄、三橋体育研究所長三橋喜久雄らであった(早稲田大学『学徒錬成』五七頁)が、この問題が理事会の正式議題として記録されているのは二回だけである。しかも九月二十七日の臨時理事会に「学徒錬成部(仮称)新設ノコト」と同時に「学徒錬成道場建設ノコト、土地 約九千坪(北多摩郡久留米村)、建物木造平家建三百坪(収容人員二百人)、経費概算金十三万円也、右財源ハ寄附金ニ依ル」という議題が提案され、可決されていること、更に前日の九月二十六日に総長が永井清志幹事らと「修練道場敷地検分」(『田中穂積日記』)に赴いていること、および前述の如く、維持員会承認後、学部長等に公表していることなどから見ると、学徒錬成部の創設が手続を踏んで討議される以前に、最高幹部の間では既に「既定の事実」とされていたことが分る。従ってこの部は学内の総意を結集する手続を経ずに創設されたものであって、幹部の独断的判断から生れたと見るほかはなく、総長の熱意にも拘らず、必ずしも多数の教職員の心からなる協力は得られなかったのであった。

 学徒錬成部の目的・綱領・組織は次の如く起案され、十月七日の臨時理事会と同日の臨時維持員会で承認された。>学徒錬成部

目的

国体ノ本義ニ基キ皇運扶翼ノ確固不抜ナル精神ヲ体得シ、偉大ナル国民ノ先達タルベキ智徳体兼備ノ人材錬成ヲ目的トス。

綱領

一、国是即応

東亜及世界ニ於ケル吾国ノ使命並其当面スル内外ノ情勢ニ関シ、正確ナル認識ヲ把握セシメ、奉公ノ大義ノ為メニ率先躬行、国民ノ模範タラシム。

二、体力錬磨

体力ヲ錬磨シ、体位ノ向上ヲ通ジテ質実剛健、明朗濶達ノ気尚ヲ涵養シ強固ナル意志、熱烈ナル責任感ヲ以テ職務ノ遂行ニ努力セシム。

三、集団訓練

規律節制ヲ重ジ、寛裕ノ度量ト、謙譲ナル内省ト、崇高ナル犠牲心トニ依リ集団的活動ヲ修錬体認セシム。

組織

一、本部 二、錬成道場 三、体錬道場 四、健康相談所

この臨時維持員会で、東京府北多摩郡久留米村に錬成道場を設けるための予算支出(十三万円)と、教職員任免規程中一部改正(錬成部教職員任免規程挿入)と、学徒錬成部長(田中総長の兼任)・同副部長(錬成部教授杉山謙治)の嘱任が決議承認された。杉山はこのとき第二高等学院教授・教務主任から錬成部教授に転じたのである。錬成部長兼任について、田中総長は「私自から画期的の革新を企てたのであるから、曾て学内他の職務を兼役した例はないが、自から進んで部長の任に当ることに決した」(『早稲田学報』第五四九号 七頁)と説明しているが、前述のような事情で生れたこの部に対し、全学的な支援体制を確立する必要が、総長にこの決意を促したのであろう。

 その後、三橋喜久雄を錬成部教授、坂田伊勢生、中村基を同講師に迎え、ほぼ陣容が整ったので、十一月一日大隈講堂に学生を集めて、田中総長、三橋教授が錬成の目的等についての講話を行い、午後は東伏見の体錬道場において第一回の錬成を実施した。

 このときまでに計画された錬成の規模と実行方法について、田中総長は、

両高等学院、専門部各科、高等師範部各一学年の新入学生は、其年齢に於ても将た又教育の過程に於ても、最も陶冶の行はれ易き時代であるから、此第一学年生合計四千数百人から着手することに決定した。即ち十数年前から設置した現在の健康相談所を充実して、先づ此新入学生四千数百名の体力を精密に検査して、道場に於ける心身の鍛錬に耐ゆるや否やを検査し、其合格者を五班に分ち毎週一回午後の時間全部を之れに当て、東伏見の体錬道場に引率し、此処で三橋教授及其部下の指導の下に体力の錬磨をする、……而して這般革新の核心を為す事業は即ち錬成道場の創立であるが、……〔久留米村に〕土地一万坪を新たに購入した、……此中央に清浄簡素の道場約四百坪を新築する計画であつて、講堂以外に一時に百五十名の学生を収容し得る、東西両寮を設け、指導者自から寝食を倶にし、行住坐臥周到厳密なる監督指導によつて、智、徳、体の錬磨を実行し学生生活を根本から革正したい心算である、而して其収容期間は一週間以内で順次交替し、一学年三十週間を以て一学年の新入生全部を一巡し、他の二十余週間は二学年以上の上級学生中の有志に及ぼすべき予定である。 (同誌 同号 八頁)

と述べている。すなわち錬成の内容は、第一・第二高等学院、専門部、高等師範部新入生各人に対する毎週一回の東伏見における錬成と、年間一回の久留米村における「生活錬成」と呼ばれた合宿訓練より成るものであった。錬成の核心である生活錬成が学生各人にとり年間僅かに一週間に過ぎない点について、総長は「私も最初は一週間以内の陶冶の効果に就ては疑問を懐いたが、段々各方面の実蹟に徴すれば、立派な指導者其人を得る限り、充分の成果を挙ぐる確信を得るに至つた」(同誌 同号 八―九頁)と言っているが、せっかくの企ても形式的な錬成に終る恐れが内蔵されていたようである。

 右の計画の実施には、十分な施設を持つ道場の新設と陣容整備とが肝要であったが、前述の如く道場については田中総長は早くから久留米村の敷地獲得に乗り出し、九月二十七日の臨時理事会で予算十三万円の承認を受けた(この予算は十二月十四日の臨時理事会および定時維持員会で五万円の追加が認められた)ので、土地の買収整地を進め、十六年二月十二日地鎮祭を挙行し、戸田組が工事を請負い道場宿舎の建設に取り掛かった。約四百三十坪のこの建物は、四月の新学期に間に合うよう予定されていたが、材料不足等のため竣工が遅れ、漸く九月に完成した。

 この間にあって錬成部は、建物の完成を待ち切れず、五月から既に施設の一部を利用していたが、七月五日午後三時文部大臣その他の来賓を迎えて未完成のまま開所式を行った。式は宮城遙拝、国歌斉唱、戦歿将士の英霊に対する黙禱および出征将兵の武運を祈念の後、杉山錬成部副部長の報告、田中総長(同部長)の式辞、来賓の祝辞の順序に行われ、一同聖寿万歳を奉唱して終った。この日文部大臣代理として来所した永井浩専門学務局長は、行き詰まれる我が国の高等専門教育に革新の烽火を挙げたものはこの久留米道場であり、早稲田大学こそ時代の急先鋒であると礼讃した。

 次いで九月に建物が完成すると、田中総長は二十七日に教職員を招待し、披露した。桐山営繕課長の報告によると、この新施設は木造平家建で、講堂五十六坪、寮百六十六坪、事務所五十坪、食堂並炊事場五十五坪、浴室三十一坪、廊下並門七十六坪の規模を持ち(同誌昭和十六年十一月発行 第五六一号 一五頁)、門には「浄心」という額が掛かっていた。敷地は約九千坪であったが、更に勤労耕作用地として畑地約一町歩の買収が昭和十六年四月二十四日の定時理事会で決定され、また隣接地一万三千三十一坪を五万八千余円で買収することが十七年九月十日の持回り理事会で決定されたので、久留米道場は二万五千余坪(約八二、六五〇平方メートル)の広大な敷地を持つに至ったのである。

 なお十六年四月から、これまで小平錬成道場と呼んでいたのを久留米道揚に改称すると同時に、左の通り各施設の名称を変更した。

東伏見道場 (旧東伏見体錬道場) 戸塚道場 (旧戸塚グラウンド) 戸山道場 (旧第一学院運動場)

甘泉園道場 (旧甘泉園内広場) 体育館 (旧第一学院雨天体操場)

 錬成部の陣容整備も着々進められ、十六年二月第二高等学院教授・学生係主任今田竹千代が錬成部教授(兼任)兼主事となり、副部長以下三教授が揃った。十七年八月の時点では、三教授のほか講師八名、教務補助八名を有し、その他健康相談所医師四名、書記五名、助手一名、嘱託二名、警手一名が属していた(『学徒錬成――大東亜建設と教育革新――』一五一―一五四頁)。

二 錬成の実施

ページ画像

 さて、実際に各道場でどのようなことが計画され、実施されたのであろうか。先ず毎週の錬成の内容であるが、『早稲田大学新聞』昭和十五年十月二十三日号には概ね次の通り記されている。

(一) 体操 早稲田式体操を創造し、これを中心とし基礎として次の体錬に発展する。

(二) 競技 一人も洩さずすべての種目に参加させる。記録向上も考慮するが、たとい百米二十秒掛かっても不参は許さない。

(三) 国防的体錬 体錬と実戦を主とした重量、障害等に対する修錬を図る。

(四) 集団労作 学生の自発的勤労に誘導し、肉体を通して知る真の喜びに浸らせ、霊肉一如の悟得にまで人間を鍛える。暫くは運動場の整備に奉仕させる。

(五) 総合訓練 教錬的な集団運動、錬成綱領の高唱、校歌の合唱、精神訓話等を行う。

学生が錬成を受ける場合の服装も定められていた。それは白色の野球帽、胸にWのマークのついた白色のランニング・シャツ、白色のランニング・パンツ、国防色のズック靴であり、当時これを「錬成スタイル」と呼んでいた。また、空閑地利用、食糧増産を目的とする農林・文部両省次官連名の通牒「青少年学徒食糧飼料増産運動実施ニ関スル件」(十六年二月八日付、各地方長官宛)を受けたとき、錬成の一環「集団労作」を通じて実施する方針を打ち出して、主体的に処理することができたこともあった。この側面は学徒勤労動員に関する事項なので、詳細は次章五に譲る。

第三十七表 学徒錬成部体錬出欠席者数(昭和15年11月)

 錬成が開始された当初の「昭和十五年十一月実施体錬出欠者調(学徒錬成部)」(当編集所所蔵『学徒錬成部資料昭十五年至十九年』)を第三十七表に転載して、これにより学生の対応を窺おう。全体として七八パーセント弱の出席率であり、しかも欠席者の六〇パーセント強が無届であったのは、当時錬成に無関心或いは批判的であった者が多数いたことを示しており、せっかく始めた錬成が多難であったのが分る。昭和十六年六月十八日条の『田中穂積日記』に、総長が杉山や三幹事と錬成欠席について相談したことが記されているが、首脳部もこの問題には頭を悩ませていたのである。

 久留米道場での生活錬成の五日に及ぶ時間割は、第三十八表のように編成されていた。国旗の掲揚・降納などは言うまでもなく、朝夜の神拝も義務づけられていることにしても、当時にあっては必ずしも異とすべきではなかったが、この時間割により実施された錬成の詳細は、一九〇頁に亘って詳しく記載されている早稲田大学『学徒錬成』に譲ることにする。

第三十八表 久留米道場生活錬成時間割(昭和十七年度)

(早稲田大学『学徒錬成』 七八頁)

 早稲田大学学徒錬成部編『学徒錬成―――大東亜建設と教育革新――』には多数学生の生活錬成体験記録が掲載されているが、「毎朝の各教授の講義、知行合一の実生活に根を下したものだけに空に趨らず心を打つものが多かつた。杉山教授の『愛の鞭を加へて行く教育』に就ての講義は涙の出た程強い感銘をうけた〔第一学院生〕」(九一頁)とか、「兎も角も、昨日までの自分は不健康であつた、そして今日は此の上もなく健康である。精神的にも、肉体的にも。その原因を追求して、その源泉を求めて見ると、それはとりもなほさず全く過ぎにし四日間の錬成の規則正しい生活に外ならない〔高等師範部生〕」(一〇一頁)といったものが多い。しかし、例えば、第一高等学院で野木昭作という生徒が二百余名の理科系生徒に行ったアンケートに対する幾つかの回答が「錬成部へ」として、「近時新体制とか云ふものが起り、之に総べて迎合せんとする傾向に対し大いに不満を感ず」「早稲田大学をほんとの大学らしい大学にし度い」(第一早稲田高等学院学友会『学友会雑誌』昭和十六年三月発行 第四三号 八二頁)と厳しく批判しているのと比較すれば、果して迎合的な作文でないと断言できるものがどれだけあるか、疑問を懐かざるを得ない。寧ろ、十七年十一月十二日田中総長が久留米道場に視察に赴いて「今日は一つ諸君に問題を提供しやう、……何が人類の使命ぞや、何が価値高き人生ぞや、人生において何をなすべきやを解いてもらひたい」云々と訓示した時、これを聞いたある第二高等学院生が、「今まで余りに抽象的な教訓のみきかされて来たのに、今日あのやうな深い意味のある訓話をきいて感激しました。錬成の感激ですか、規律ある生活は教練とまた違つた味があり、まこと錬成即生活、生活即錬成といふ言葉が一番ぴつたりします、なほ唯猛烈に眠いのと腹の空くのには弱りますね」(『早稲田大学新聞』昭和十七年十一月十八日号)と語っている方が、「錬成即生活」云々は杉山の標語に追従している嫌いがあるにせよ、多少なりとも真実に近い感想であろう。錬成部に教務補助として就任した河野宥(後年の高等学院教諭)は、後年、「学生に接してみると、学生と心のつながりがなく寂しかった。白眼視されているような毎日が堪えられなくて、辞めようと思ったことが再三あった」(『早稲田学報』昭和五十四年三月発行 第八八九号 三六頁)と思い出を語っているが、多くの学生の錬成に対する気持には、長いものには巻かれておこうといったところがあったのではなかろうか。

 学徒錬成部の行った事業は、右のほかにも幾つかあるので、以下に列記しよう。

 第一は体力章検定の実施である。

 第一次世界大戦後、青少年の体力向上を目的として欧米各国で実施された例に倣い、昭和十四年八月一日厚生省が「体力章検定実施要綱」を定め、我が国でも行われるようになった。上野徳太郎(大一三政)著『男子体力章検定の鍛錬』には、

国民の優れた立派な体力、一人前とみることが出来る円満に発達した綜合体力に対して、国家は一定の標準をつくつて置いて、この標準に達した者を合格とし、その優秀な体力を証明し表彰するために一定の徽章を授与する。この証明の徽章が「体力章」である。そして国家の誰れ彼れが一人前の綜合体力を持つてゐるかどうかを規定の標準を尺度として実際に調べることが「体力章検定」である。 (一―二頁)

と説明されている。検定種目は基礎種目=走(百米疾走、二千米走)、跳(走幅跳)、投(手榴弾投)、運搬(重量物運び)、懸垂(鉄棒、横木による屈臂)と、特殊種目=水泳、行軍で、基礎検定ではそれぞれ規準により合格を上・中・初級に分け、特殊検定は合否のみを定めることになっていた。体力章検定は法的強制力を持たなかったから、希望者に対し行われた。十四年十月三日付で実施の有無につき文部省から問い合せがあったのに対し、実施する旨、学苑は返事したが、実際には学徒錬成部創設後、その手により実施されたのである。因に、昭和十五年十二月二日より六日までの間に行われた体力章検定の結果は、第三十九表の通りであった。

 この検定を担当した学徒錬成部職員松本厚志は、他の種目に比し二千米走の成績が悪く、他種目で好成績を収めながら級が下がったり、失格したのを惜しんでいる(『早稲田大学新聞』昭和十五年十二月十八日号)。翌昭和十六年二月十七日、大隈講堂において、厚生省より届けられた体力章の伝達式が挙行された。

第三十九表 体力章検定成績(昭和15年12月)

 第二回の検定会は翌十六年十一月初旬に行われたが、卒業の繰上げや早稲田大学報国隊の活躍等のため参加人員が激減して淋しいものになった。それでも受験者の殆ど全員が合格し、上級十五名、中級六十六名、初級二百七十名、級外甲百十七名という結果を得た。第三回以降も実施されたか否か、資料を欠いて不明である。

 第二は体力検査の実施である。昭和十五年四月八日「国民体力法」が公布され、同年九月二十六日施行された。これは国民体力の向上を図り、政府が国民の体力を管理する(体力を検査し、その向上につき指導その他必要なる措置をする)ことを目的とし、現役軍人等を除く未成年者を対象としたものである。この法の制定により、毎年十一月三十日現在二十歳未満の者は体力検査を受けるよう義務づけられ、在学中の未成年者に対する体力検査は当該学校長が行うことになったので、学苑でも学徒錬成部がこれを担当・実施した。すなわち、第一回の検査は昭和十五年十二月十二日より二十三日までの間、第二回は十六年五月七日より六月十九日までの間、第三回は十七年六月六日より七月十七日までの間に行われ、第三回の実施に当っては厚生省から長井保属、石垣純二技師が視察に来たということである(『早稲田学報』昭和十七年七月発行第五六九号一二頁)。検査の細目は不明であるが、十七年に作成された「国民体力法及学校身体検査実施要項」(『学徒錬成部資料昭十五年至十九年』)によると、ツベルクリン皮内反応検査が行われたことが分るし、この国民体力法が終戦後も「結核ニ重点ヲ置ク疾病異常検診(ツベルクリン反応BCG注射ヲ含ム)」(『近代日本教育制度史料』第二六巻 四頁)のみの実施を義務づけたことからみても、体力検査の目的の一つは結核予防にあり、結核の早期発見が重視されていたのであろうと思われる。

 第三は食糧増産である。学生・生徒を総動員して空閑地の利用、食糧の増産に勤労させるようとの農林・文部両省の通牒に対し、学苑は錬成の一環として行う方針を打ち出し、既述(九五二頁)の如く久留米道場近傍に耕作用地一町歩を買収したが、次第に増産のための作業が本格化し、道場用地一万三千余坪も農地に転用することになった。十八年十一月三十日に行われた報告では次のように述べられている。

新農場については入所生の食糧の自給自足は勿論学園全体の食糧をも解決すべく鋭意努力中にて既に麦を四町五反歩蒔き終り来夏の収穫には二百五十俵を期待してゐるが更に馬鈴薯二千貫、甘薯二万貫をも収穫する意気込みである。家畜は豚、兎、山羊、鶏等を飼ひ養鯉も行ふ予定である。 (『早稲田大学新聞』昭和十八年十二月五日号)

この食糧増産に対する報償か否か明らかではないが、錬成活動に対しては、特に米や甘い物の特配があった。

 第四は健民修錬であり、学徒錬成部の指導下に健民修錬所が設けられた。その設置の経緯、日付等詳細は不明だが、「筋骨薄弱者」(『早稲田学園彙報』昭和十九年十月二十五日号)と呼ばれた体力の乏しい学生を鍛えて、徴兵検査に合格させるのを目的としたようである。ここでは「疲れさせろ、而れども過労になるな」(『早稲田大学新聞』昭和十八年十一月二十四日号)を標語として大隈会館裏手の別館や久留米道場に合宿させて指導に当り、一日当り玄米三合と肉、野菜等を当時としては比較的潤沢に用意した。入所生の日課は、六時起床、三橋式体操ののち朝会、登校し、午後は専ら体を鍛えるための錬成を行い、夜自習して終るというものであった。修錬所の報告によれば、入所生は一週目は若干体重は減るが、その後はぐんぐんと増えて、一ヵ月の修錬を終る頃は平均六キログラムは確実に増加し、目的を達成したという。

 このようにして学内における学徒錬成部の重要性は次第に高められたが、更に音楽団体や体育会まで統合せられた上、報国隊、勤労動員関係の事務まで移管されるに至った。

 戦時下にあっていろいろな制約を受け、活動が困難であった学苑の音楽諸団体(管絃楽団、吹奏楽団、声楽団、シンフォニック・コーラス、マンドリン楽団、ハモニカ・ソサイテイ)は、既述(七七六―七七七頁)の如く、昭和十五年十一月、健全な音楽の研究と団員の品性向上を図ると同時に、愛好者に健全な音楽を提供するとの趣旨で、音楽協会を結成していたが、更に十六年四月二十八日と五月七日の二回に亘り学徒錬成部と話し合い、ハモニカ・ソサイテイを除く諸団体は学徒錬成部音楽隊として発展的に解消することになった。それは、この話合いを斡旋した今田の「体育が従来の体操に非ずして身体を以て表現する自己生命のリズムであるといふことになれば、音の表現によつて自己の生命を表す音楽とは本来一体のものである」(『早稲田大学新聞』昭和十六年五月七日号)との考え方に応じたもので、錬成教育の一手段として、音楽を錬成に組み込むのに賛成した結果である。そこで、同年十一月八日大隈講堂で学徒錬成部音楽隊の結成式と結成記念演奏会が開かれ、錬成部講師に就任した第二高等学院教授小森三好が音楽隊長として、「正しい音楽の正しい理解と、体得によつて、智育と体育を併せ備へた優秀な人物として、将来国民の指導に当るべきものを作りあげること」(『学徒錬成――大東亜建設と教育革新――』一三六頁)を目的として指導することになった。また、十六年十一月一日付で叶田義雄(昭五法)、平山英三郎(昭七専政、昭一〇政)を嘱託として技術の向上を図ることになったが、十八年七月以降は、海軍軍楽隊長内藤清五の推薦した宮下豊次を錬成部講師に迎えている。

 この音楽隊は、十六年十二月五日に大隈講堂で科外講義として内藤清五「吹奏楽に就て」等の講演会を開いたことと、十八年三月二十日に『早稲田大学学生歌曲集』を出版したことが記録に残っている。この歌曲集は殆ど日本とドイツの歌曲で占められ、日本の軍歌やナチスやファシストの歌など戦時色豊かなものであるが、スコットランド民謡「美しき我子や何処(四部)」が含まれているのが、せめてもの救いであった。

 次に、学徒錬成部による体育会の吸収は、そもそも十六年四月、第一・第二高等学院に特修科を設置してその中の体育に関するものとして包含された国防、武道ならびに運動競技を錬成部が担当し、また両高等学院、専門部各科および高等師範部の体錬(従来の体操を改称)をも錬成部が担当することになった時に、一年の準備期間後に実施するよう決定されたのであった(『早稲田大学新聞』昭和十六年十二月三日号)。次いで同年十二月十三日第一回臨時体育行政審議会が開催され、厚生・文部両省の体育方面機構改革の方針と歩調を合せ、従来の記録中心を離れ厚生体育の一翼とするように体育会を改組する案が検討されたが、翌十七年九月十八日の第二回審議会で決定案を得、理事会に答申されたので、同年十月九日の臨時理事会で「体育会ヲ解散シ錬成部ニ統合スルコト」が可決され、学部長付属学校長会議に報告された。この決定は、学徒錬成部の錬成と体育会で訓練してきた各種運動競技とを完全に結びつけ、学生体育として必要な諸活動を最も教育的に実践させることは急務であるが、学徒錬成部および体育会創設の精神を生かすためには、体育会を解散し、学苑教育組織中に完全に吸収させ、智育、徳育、体育の三教育活動を一体化して、学徒錬成部活動の一環として活発な展開を開始することが最も当を得たものであるとの考え方に基づいて成されたものである(同紙昭和十七年十月二十一日号)。

 この間十六年十二月に大日本学徒体育振興会が設立され、この会が文部大臣を会長とする「文部省の外廓団体であり、本部、地方支部、道、府県支部、専門部、女子部などの組織をもち」(今村嘉雄『日本体育史』六〇八頁)、各学校における体育訓練活動の全国的統轄機関であったために、同会と体育会との関係などを考慮し、十七年三月二十四日大学本部各幹事、両高等学院当事者、体育会および学徒錬成部当事者が体育会の学徒錬成部への合流につき協議し、体錬の実施期日、特修体錬入班希望者の扱い、特修体錬科目の種類、成績の決定法、費用等の細目について打ち合せたが、この席上、早稲田大学体育会は学徒錬成部へ四月一日を以て合流すること、早稲田大学体育会ならびにこれに準ずる団体の学徒錬成部への完全な統合は九月末日を以て完了することなど、重要な申合せを行った。そこで四月一日から体育会の学徒錬成部への合流が開始することになったが、同月八日開催の体育会部長会に杉山学徒錬成部副部長が出席して、今後の方針を説明し、体育会各部の協力を要請した。更に翌九日学生ホールで開かれた体育会代表委員会にも杉山は出席して、同様に委員の全面的協力を要望した。この間大学では、すべての体育の指導と実施を受け持つことになった学徒錬成部のため新規則を作ることになり、次のような「早稲田大学体育要綱」を制定し、十七年四月より実施した。

早稲田大学体育要綱

一、総則

早稲田大学ハ学徒錬成部ヲシテ学徒錬成ノ本義ニ基キ、本大学ニ於ケル体育ノ指導並其実施ニ当ラシム。

二、実施方法

一、体育ヲ分テ体錬及保健指導ノ二トス。

二、体錬ハ基本体錬、特修体錬ノ二部ニ分チ必修、選択、及随意ノ三トス。

三、第一、第二両高等学院、専門部並高等師範部ノ学生ニ対シ体錬ヲ実施ス。

四、第一、第二両高等学院、各第一学年ニハ基本体錬ヲ必修セシメ、各第二学年以上ニハ特修体錬ヲ選択必修セシム。

五、専門部及高等師範部ノ各第一学年ニハ基本体錬ヲ必修セシメ、各第二学年以上ニハ特修体錬ヲ随意選択セシム。

六、前二項ノ各第一学年ハ基本体錬ノ外ニ特修体錬ヲ選択スルコトヲ得。

七、各学部所属ノ学生ハ特修体錬ヲ随意選択スルコトヲ得。

八、特修体錬ヲ左ノ如ク分ツ。

特修体錬国防訓練部銃剣道班 航空班(グライダー、飛行機) 馬術班 射撃班 歩兵砲班

野砲班 高射砲班 自動車班(自動車、自動自転車、自転車、戦車)

武道部柔道班 剣道班 弓道班 空手班

競技部野球班 庭球班 競走班 ラ式蹴球班 ア式蹴球班 籠球班 排球班

卓球班 ホツケー班 氷上班 スキー班 水泳班 端艇班 ヨツト班

体操班 鎧球班 拳闘班 相撲班 レスリング班 山岳班 送球班

九、専門学校、高等工学校及工手学校ニ付テハ別ニ之ヲ定ム。

 こうして体育会の学徒錬成部への合流は着々と進み、遂に当時の言葉でいう「発展的解消」を見たので、昭和十七年十月二十二日大隈講堂において体育会解散式が挙行され、明治三十年「東京専門学校体育部規則」制定以来四十五年に亘る輝やかしい歴史を持つ体育会が、一時学苑から姿を消すことになった。この式では田中総長が、錬成教育が軌道に乗ってきたので「この度従来の体育会を更に向上発展せしむるために、その組織を改め、体育会を発展的に解消したのでありまして、文部雀や厚生省の事業に一歩を先んじたのであります」(『早稲田学報』昭和十七年十一月発行第五七三号 一一頁)と説明したあと、これまで多年に亘り体育会長として尽力してきた山本忠興が、左の如き感懐を述べた。

年来体育を教育組織中に入れるべしと考へを致してゐた我が学園当事者によつて今ここに体育会を錬成部の中に入れる事になつたといふことは実に私の希望を全く入れたものである。……今日こそ我学園の体育も一大飛躍の時なのである。どうか過去数十年来の美しい伝統をもち、益々発展するものに誠意を尽して戴きたい。 (同誌 同号 一〇頁)

 その後暫くの間は、早稲田大学体育要綱に従って、体育の指導と実践が続けられたが、十八年三月二十九日付の文部省通牒で「戦時学徒体育訓練実施要綱」が示されたので、学苑でも体育要綱を改める必要が生じ、四月十四日早稲田大学戦時学徒体育基本要綱を発表した。これには「従来実施シ来リタル基本方針ヲ愈充実シ、全学徒ニ対シ基本体錬ノ普及徹底ヲ図ルト倶ニ、一方学徒錬成部特修体錬科種目ノ改廃ヲ左ノ如ク断行シ以テ聖戦目的ノ完遂ヲ期セントスルモノナリ」と記されているが、要するに青年学徒の体育訓練の目標を「端的明快ニ戦力増強ノ一点ニ集中」するために、左の如き一層戦時色濃厚な措置が執られたのである。

一、戦技訓練部門(合計八隊)

射撃隊 機甲隊 航空隊 高射砲隊 野砲隊 歩兵砲隊 騎兵隊 軍用鳩隊

二、特技訓練部門(合計十七部)

剣道部 柔道部(空手班、体技班) 騎道部 銃剣道部 海洋部(水泳班、漕艇班、帆漕班) 角道部 競走部 山岳部 雪滑部 機械体操部 野球部 庭球部(軟式庭球班) 闘球部 蹴球部 籠球部 送球部 排球部

三、昭和十八年度休止スベキ訓練部門(合計六部)

弓道部 卓球部 鎧球部 杖球部 氷上部 拳闘部 (『学徒錬成部資料 昭十五年至十九年』)

 伝統を誇る体育会の解散、学徒錬成部への統合は、学苑史上重大事件には相違ないが、時局は学生がスポーツを楽しむのを許さず、機材不足や勤労動員等により体育会活動は有名無実化していたから、解散・統合も支障なく行われたし、またその統合が華々しく喧伝されたにも拘らず、殆ど実効を挙げ得なかったのであろう。

 さて、学徒錬成部の基礎がほぼ固まり軌道に乗ったと見た田中総長は、あとは専門家に委せた方がよいと考えて、昭和十八年六月任期満了を待たず兼職の錬成部長を辞任して杉山謙治副部長を昇格させることとし、七月十五日維持員会で可決された。なお杉山の任期はこの年十月七日満了となったが、同日付で再任された。杉山部長は十一月十三日と三十日の二回に亘り、実情視察のため学苑の幹部を久留米道場に招待し、総長の激励を受けつつ、従来の経過と今後の抱負を語った。杉山の報告によると、生活錬成はこれまで七十一回に亘り実施し、入所生一万一千四百八十六名、指導者延人員五百十七名に上り、「修身正心、同時に剛健なる手足にものを言はせて一旦緩急の場合の心身一如の生活錬成の意義を体得し皇国民としての本然の姿に立返へらせると云ふ立派な実を結んで来た」(『早稲田大学新聞』昭和十八年十二月五日号)という。しかし今後の抱負として語られているのは、専ら既述(九五九頁)の如き食糧増産計画に過ぎなかった。

 学徒錬成部の遠大な理想を直ちに実現することは、特に戦時下にあっては困難であったが、全国に魁て実施した時局適合の計画であったから、諸方から注目を浴び、見学者等も多数あった。今その主なものを挙げると、先ず昭和十六年十月十四日賀陽宮恒憲王が久留米、東伏見両道場を視察された。これは前年十二月第一高等学院軍事教練査閲官として来校の際、田中総長から学徒錬成に関する説明を受けて興味を持たれたためである。宮は約四時間に亘り、久留米道場における開墾と耕作、東伏見道場における体錬とラグビー、サッカーなどの練習を視察された。次に十七年六月十八日には文部省体育局長小笠原道生、十月二十九日には大政翼賛会調査会第二委員会委員長香坂昌康、東京農業教育専門学校長上原種美、前東京府立第一中学校長西村房太郎、青山師範学校長三国谷三四郎らが両道場を視察し、特に香坂らは、万端に亘る施設と徹底した指導員の指導振りや学生の積極的行動に感激し、後日田中総長に対し、視察員一同の名で「過日の見学が調査会の使命に稗益するところ少からず、時局下青年学徒喫緊の錬成に益々留意され、一段の御健闘と御発展を祈る」(同紙 昭和十七年十一月十一日号)旨の丁重な書簡を寄せた。また、教育審議会の役員が、同年十月三十日開催された教育勅語渙発五十二周年ならびに学制頒布七十年記念式典の会場であった東京帝国大学安田講堂の控室で、田中総長に「これ〔錬成〕こそ今後教育界の進むべき道であり、実に早稲田大学は全国に範を垂れてゐるものである……錬成部の役割こそ今日以後大東亜戦争完遂のためにも単に学校方面のみならずあらゆる方面から極めて重要視されてゐる」(同紙同日号)と語ったという。

 このように、錬成教育は外部からも注目されるようになったが、学苑の関係者の間にも「錬成教育」に対する大きな自信が、この頃になると湧いてきたようである。昭和十八年五月六日の理事会に、早稲田大学が作成した『学徒錬成』を天皇に献上した旨、田中総長から報告されているのは、その一つの現れと見られる。

 ところでこれより少し前、昭和十七年四月に、高等師範部に、錬成指導者育成を目的とする国民体錬科が設置されている。この国民体錬科の設置が錬成部と深い関係にあったことは、昭和十七年一月発行『早稲田学報』(第五六三号)に掲げられた、新設の趣旨説明の冒頭に、

本大学は大東亜共栄圏建設の新日本の歴史的使命に鑑み、偉大なる国民の先達たるべき智徳体兼備の人材錬成を目的として、昭和十五年九月学徒錬成部を創設したが、更に其趣旨を拡充し、本年四月より高等師範部内に国民体錬科を設置することとなつた。 (一一頁)

とあるので明らかである。そしてこの科の教育内容については、前文に続いて次のように説明されている。

本国民体錬科は中等学校卒業者並に国民学校訓導を収容し、四箇年の専門教育を施し、卒業後は中等教員として修身科及体錬科の無試験検定資格を有し、学校教育以外にも広く会社、工場等の青少年を指導し、身心の錬成に当り得る人材を養成せんとするもので、従て其学科課程、学科担任者、並に其施設につき特に多大の顧慮を払つた。思想方面の学科としては日本国体論、現代政治地理、政治経済概説、東亜研究の如きものを加へ、体錬方面に於ては体育発達史、体育原論、体錬組織学、生化学、栄養学、予防医学、民族衛生学、音楽等の学科を課し、体錬、競技、作業、国防訓練等の実習を行はしめ、選択必須として、武道又は特殊競技を専修せしめ其方面の指導者たることを得る途をも開いた。即ち大東亜共栄圏に活躍すべき我が国青年の指導者たるに相応せる教養を与へ、以て我が国現時の学校並に社会の要求を充たさんとするものである。 (一一頁)

 このような性格を持つ国民体錬科新設の構想は、幹部の間には早くからあって、実は錬成教育が開始された直後から課題とされていたのである。すなわち昭和十五年十一月二十八日の定時理事会において、「高師部ノ将来ニ付種々検討ノ結果錬成指導者ノ教育機関トスルノ方針ノ下ニ(公民、修身、歴史、地理、国防、鍛錬)今後充分研究スルコト」が決定され、翌十六年二月二十日の定時理事会で「高等師範部ニ国民錬成科設置ノコト」が承認された。しかし翌三月二十七日の定時理事会では、開設準備が遅れたためか、一年延期と決定されている。新しい科のために学生募集が行われたのは翌十七年であった。この年一月発行の『早稲田学報』(第五六三号)の冒頭にその募集広告が掲載されているが、科の名称は「国民体錬科」である。改名の時期は不詳であるが、これ以後この名称が用いられた。思うに、前述(九六一頁)の如く既に十五年頃より従来の「体操」の代りに「体錬」という語が用いられ始め、十六年三月一日公布の「国民学校令」では「体錬」が従来の「体操」に代っており、学苑でも十六年度の学科配当表以後「体錬」の名称が用いられるようになったための改名であろう。またこの科の教育内容の検討や人事も進められ、教務主任には錬成部教授今田竹千代が嘱任され、第一学年の学科課程と科目担任者が次のように発表された。

第四十表 高等師範部国民体錬科学科配当予定表(昭和十七年度)

(同誌 昭和十七年五月発行 第五六七号 二〇頁)

 十七年三月十八日大隈会館で国民体錬科の第一回教員懇談会が、田中総長をはじめ勝俣銓吉郎高等師範部長、大島正一・岡村千曳両幹事、小沢恒一副幹事、杉山学徒錬成部副部長、伊藤康安高等師範部教務主任、今田国民体錬科教務主任以下教職員出席の下に開かれ、総長から教育の根本方針に関し指示があり、激励の辞が述べられた。三月二十一日から二十六日までに亘り入学試験が行われ、志願者百五十二名中六十四名の合格が決定したので、四月二日、入学式に続き勝俣高等師範部長および伊藤・今田両教務主任が訓辞を行い'次いでこの日から八日までを訓練週間と銘打って、敬礼、歩調、礼法、演習、教練素養検査等とともに大隈重信の墓所参拝と明治神宮参拝を行い、九日から授業を開始した。