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第七編 戦争と学苑

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第四章 顕彰と喪葬

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一 故大隈総長生誕百年記念祭

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 田中総長は、昭和十二年四月発行の『早稲田学報』(第五〇六号)に「皇紀二千六百年創立六十周年記念事業に就て」と題する一文を寄せ、その中で、「今年は恰も我が学園の創立者たる大隈老侯の生誕百年に当るが故に、今秋十月二十五日を期して其記念式を挙ぐる予定である」(六頁)旨を発表した。しかし満州事変に端を発した日中の確執は、我が国の不拡大方針の宣言にも拘らず、十二年七月には日中戦争の勃発となり、やがては中国全土に両者が干戈を交えるに至ったため、この秋十月二十五日に執行予定の大隈老侯生誕百年記念祭も、「一時延期スルコト(伝記出版モ其時迄延期スルコト)」が九月九日の定時理事会で決定された。ところが既に同年八月二十四日「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、国体尊厳の明徴が高揚されていたから、これを表象する国旗の適時掲揚が求められた。そこで「大隈老侯生誕百年祭の記念事業の一つとして」(『早稲田大学新聞』昭和十二年十月二十七日号)、掲揚場の新設と、教旨を掲げた建学之碑の設置とが決まり、この二基を十二年中に正門奥の植樹三角地帯内に設けることとした。その中で建学之碑は、田中穂積総長の筆になる教旨を、高さ三尺(九〇・九センチメートル)、幅七尺(二・一メートル)の真鋳製板に鋳出し、稲田産花崗岩(高さ六尺五寸〈二・〇メートル〉、幅十一尺〈三・三メートル〉、厚さ二尺二寸〈六六・七センチメートル〉)に嵌込んだ。この国旗掲揚場はかろうじて式典の前日に、また建学之碑はその当日に竣成したので、十一月三日の明治節を期し、教職員一同ならびに学生代表参列のうえ、国旗掲揚式並建学之碑除幕式を挙行した。その際の総長の訓話の要点は次の通りである。

我国は世界に於ける最も古き国柄であるに拘はらず、東亜細亜の海上に僻在して居ります為めに、国家を象徴する国旗の制定は比較的新しいのでありまして、明治三年一月二十七日太政官令に依つて始めて日の丸と決定致したのであります。爾来今日に至る迄未だ七十年に満たざるに拘はらず、国運は躍進又躍進、単り東亜細亜の安定勢力たるのみならず、世界の一等国として人も許し我れも許す位地に進みましたことは、是は畏れ多くも陛下の御稜威は申すに及ばず、国民の努力に依つて今日の隆運を迎へたことは諸君と共に慶賀に堪へざる所であります。……而して我早稲田学園に於ては二十五年の昔創立三十周年の記念式を挙ぐるに当りまして、大隈老侯は此の碑に掲げた教旨を確立されて、模範国民の造就を以て本大学の使命なりと天下に声明されたのであります。随つて我々早稲田学園に身を置きます者は老侯の教旨に従つて模範国民として社会の儀表となるべき義務を荷うて居るのであります。即ち 明治大帝が勅語に仰せられた天壌無窮の皇運扶翼の為めに、我々は国民の先頭に立つて働くべき義務を有するのであります。時偶々未曾有の国難に遭遇した今日、玆に教職員諸君、学生の代表者諸君と共に国旗掲揚式と同時に他の官公私立の大学になくして独り我学園のみが彼の偉大なる創立者に依つて与へられた教旨建碑の除幕式を挙げますことは、寔に意義深き事柄でありまして、私は諸君と共に同心協力、更に一段の奮闘に依つて之を契機として学園の使命に向つて一大躍進を致したいと云ふことを切に願うて已まざるものであります。

(『早稲田学報』昭和十二年十一月発行 第五一三号 一五―一六頁)

 さて、先に大隈老侯生誕百年記念祭の一時延期を決定し、その後の事態の推移を静観してきた学苑当局も、十三年に入ると、日中戦争がいよいよ長期戦化の様相を呈するとともに、万国博覧会の開催や国際オリンピック東京大会挙行の見通しも明らかになってきたので、十三年三月七日の臨時理事会で、「老侯生誕百年祭ヲ今秋挙行ノコト幷老侯伝出版ノコト」が決議された。そして六月二日の定時理事会で、その挙行を十月二十五日と定め、次いで六月二十三日の定時理事会では、「老侯百年祭に於ケルプログラムニ付首相、貴衆両院議長、外交団代表(白国大使バッソンピール氏)、大隈侯爵、東大総長、慶大塾長、校友代表(永井逓相)、文相ノ祝辞ヲ乞フコト」との大綱を定め、それぞれ部署を分って手順を整え、式典挙行の準備を始めた。

 ところでこれに先立ち、文明協会は、その創立三十周年記念と創立者大隈重信の生誕百年記念を兼ねて、六月十日午後三時から大隈会館で式典を開いた。この式場は、明治四十一年四月三日、協会の創立者大隈重信が、東西文明の調和を目的とし、人類の幸福と世界の平和に貢献せんために、この会を起し、その発会式を行った記念の場所であった。招待された名士ならびに学苑関係者はおよそ百六十名で、石井菊次郎、永井松三、高木陸郎、山本英輔、市島謙吉名取夏司浮田和民松波仁一郎増田義一内ヶ崎作三郎、中野邦一、鶴見左吉雄などの顔も見えた。式典は協会の常任理事戸田伝四郎の司会で始まり、大隈信常の式辞に次いで、塩沢昌貞が会歴ならびに今日『財団法人文明協会三十年誌』刊行までの事業報告を行った後、近衛文麿首相をはじめ、松平恒雄宮相、宇垣一成外相、末次信正内相、荒木貞夫文相の祝辞や、九州旅行中の田中総長に代っての寺尾元彦理事の祝辞が述べられ、石井菊次郎が興味深い回想談を行って一同に感銘を与えた。なお、別室には故人の遺品を陳列して参会者の便覧に供したが、なかでも珍品中の珍は、八太郎を称した時期の大隈が自ら書した

幾歳同遊伴水宮 厘江一別失西東

得趨邊塞今晨発 他日期君第一功

の色紙(本書第一巻写真第一集5)で、大隈が幼時書を習っていたある日、物にならずと師に笑われた故、生涯筆を執らなかったとの逸話があるが、この詩は、市島謙吉によれば、「〔大隈〕十六歳の時、槍の師範役村岡五郎太夫に送るため作られた」のであり、「洋水宮」を「伴水宮」とした誤り等が見られるという(『大隈侯一言一行』一一二―一一三頁)。

 これから四ヵ月を経た十月二十五日に、周到に準備された学苑主催の大隈老侯生誕百年記念祭が行われた。当日は記念祭に先立ち、午前八時三十分から、護国寺境内の墓所で、大隈侯爵家ならびに学苑の教職員参列のうえ墓前祭を執行した後、一同は大隈会館庭園に歩を移し、招魂殿に跪いて学苑関係物故者に慰霊の誠を捧げた。また一般の祭典に先立ち、同日午前十一時から学生のための祭典が戸塚球場で執行され、教職員、全学生、付属学校生徒、早中、早実両校の生徒が参列し、さしもに広い球場も二万有余の会衆に埋め尽されたが、田中総長は熱弁を以て創立者大隈の遺徳を讃え、左の如く青年学徒の奮起を促した。

静かに歴史の推移を回顧すれば、天下太平無事の日に英雄の起ると云ふことは極めて稀れでありますが、狂瀾怒濤の逆巻く多事の際には自から俊傑雲の如く輩出するものであります。……我が大隈老侯は即ち此の国家極めて多事の際に人となられたのでありまして、一躍して台閣の中心人物となり、而かも中道にして一旦台閣を退かれたのでありますが、併ながら八十五年の長き生涯を通じて新日本建設の為めに国民の先駆となり、日本の運命を指導する中心人物中の最も有力なる中心人物であつたのであります。……我大隈老侯は沙翁の所謂天成の偉人であつたと同時に、又た努力の偉人でもあつたのであります。……

併ながら我々が最も老侯に傾倒する所以のものは、其の裕かなる天分よりも寧ろ老侯自から切磋琢磨の結果大成されたその立派な性格であります。裕かなる天分は神の与へた恩恵であつて是は人力の如何ともすることの出来ないものでありますが、併ながら性格は自己の砥礪自己の反省に依つて大成すべき可能性を有するものであります。即ち老侯の不屈不擁、鋼鉄の如き強靱なる勇気と、倦むことを知らざる不断の努力に至りましては之を仰げば愈々高きを覚ゆるのであります。波瀾重畳せる老侯八十五年の生涯とても、勿論人間の生涯でありますから、必らずしも失敗がなかつた訳ではないのであります。即ち幾度か失敗の苦杯を嘗められたのであります。殊に明治十四年薩長藩閥の挟撃の為めに台閣を退かれましたのは、老侯実に四十三歳の壮齢でありまして、此の失脚は老侯としては余程大きな打撃であつたのであります。而して其後半生に於ては幾度か逆運に悩まされたのでありますが、老侯は逆運に処すれば処する程愈々不退転の勇気を起されたのでありまして、逆境に処して愈々万丈の光彩を発揮された其の烈々たる意気は洵に歎賞に値するものと私は確信するのであります。

老侯が政治生活六十年の中、朝に立たれたのが三分の一、約二十年、野にあつて活動されたのが其の二倍即ち四十年の長きでありましたが在朝在野を問はず新日本建設の為めに常に全力を傾倒され、苟くも天下に大事の起る毎に国民は老侯の言論を聴いて其の向ふ所を定むる有様は恰も泰山北斗を望むが如くであつたのであります。……即ち八十五年の生涯を通じて日本の国威国力を発揚するが為めに、一日も寧日なく老いて益々其の意気の盛んであつた老侯は我々後進殊に青年学徒に対して偉大なる教訓を垂るるものでありまして、斯の如き偉人によつて我学園が創立されたと云ふことは諸君と共に我々が最も誇りとする所であります。 (『早稲田学報』昭和十三年十一月発行 第五二五号「大隈老侯生誕百年記念号」 三〇―三一頁)

式後各学部科の学生代表は教員に引率され、また一般学生は個々に、護国寺塋域内の大隈の墓に参詣した。

 さて公式の記念祭は同日午後二時から大隈講堂で行われた。来賓、教職員、学生代表参列の中で、司会者塩沢昌貞理事の開式の辞に続き、一同起立して国歌斉唱後、戦歿将士の慰霊、出征将兵の武運長久のため一分間の黙禱を捧げ、次いで田中総長はこの朝全学生に対して述べたものとあまり変ることがない内容の式辞を述べた。その後近衛首相、荒木文相、グルー米国大使、松平頼寿貴族院議長、小山松寿衆議院議長、長与又郎東京帝大総長、小泉信三慶応義塾長、校友代表永井柳太郎逓相の祝辞があった。この中松平、小山、永井の三人は校友であったが、永井は校友代表という肩書であったから自由に話ができたが、他はみな官職にあったので、形式的な文句に終始した。しかし、私学の雄として学苑とともに斯界に覇を唱える慶応義塾長小泉信三の祝辞は、次に見られるように、さすがに群を抜き白眉をなすものであった。

今日この盛大なる式典に列して一言祝辞を申述べる機会を与へられましたことは、私の最も栄誉とするところであります。ただ今この式場に臨んで私の感じて、申したいと思ひますることはただ一語に尽くすことが出来ます。大隈侯爵は今も常に吾々の間に生きて居られると申すことこれであります。凡そ国運の発展に貢献し、歴史に大なる足跡を印した偉人が永く国民の記憶の中に生きることは申す迄もないことでありますが、大隈老侯に至つては啻に過去に大なる足跡を残されたといふ意味で、人々の記憶の中に生きてゐられる許りでなく、実に現在目のあたり吾々の間に活きて居られると申しても差支ないやうに感ぜられるものがあるのであります。申す迄もなくそれは実に侯の分身なる早稲田大学を起して之を遺されたことに依つてであります。

凡そ政治家の行動は常に批判を免れません。維新前後以来輩出した多くの偉大なる政治家に対して吾々はその功労には充分感謝しながら、而かもこれに対する褒貶の議論は常に跡を絶たないのであります。大隈老侯の識見と気力と手腕とを以てしてすら恐らく此例外たることは出来ぬと思ひます。然るにただひとり教育者として、早稲田大学創立者としての老侯に対しましては世論は全く一つに帰して居ります。侯が全く官府の力をからず、独力を以てこの大学を起されたことに対しまして、而して日本の為め斯くも多数の人材を養成せられましたことに対しまして、今日に於ては官と民とを問はず、人々はただ国の為めに感謝するといふ外に言葉はない筈であります。此一点に於ては世間にまた一の異論があることを聞かないのであります。

老侯は嘗て長寿の説を唱へられたときいて居ります。また実際に侯爵は長命で、天寿を全うせられた方であります。しかし侯はその自ら唱へられたと違つた意味に於ても長く生きて現に吾々に今尚ほ影響を与へて居られるのであります。老侯は青年を愛する人でありました。その老侯に於かれましては、今日早稲田大学数万の学生と校友殆ど合せて十万人の一大家族がその活きた記念碑となり、これ等の人々によつて日常敬愛の念を以て其名が口にせられますことは、蓋し満足に感じられることであらうと存じます。これは老侯と或は協力し、或時は対抗した幾多の政治家の中他の人々には絶えて無くしてただ一人大隈侯にのみ許された特権であり、侯のみ能く享けらるる幸福であります。

しかしながら早稲田大学の現状を見てその過去を顧みれば誠に感慨に堪へぬことのみであります。凡そ我国の私立大学で甚しい欠乏と困難とを凌いで始めて発達して来たのでないものは一もないと存じますが、早稲田大学の如きは就中その困難と障害とに会ふことの最も甚しかつたものの一つであらうと思ひます。老侯も屢々談話の中に漏らされましたやうに、往年東京専門学校創立の始めの頃は独り様々の欠乏に悩まされたことの外、政治上の理由から意外の妨害を蒙り、教員の招聘をすら妨げられたことがあつたと承知して居ります。而かもそれ等の一切の困難あるにも拘らず、大学の校運は老侯の生前年を逐ふて隆盛に赴き、大正十一年老侯薨去の後その発展の勢は一層加はつたやうに見えますことは実に会心の次第であります。これは固より侯爵の勢望と遺徳とに由るものでありますが、併しその蔭に大学当事者の創立以来多年に亘る惨憺たる苦心の隠されてゐることを見逃してはならぬと存じます。私はその苦心の今日酬ひられましたことを我国の文運のために喜ぶと共に、斯の如き隆盛の状態を以て創立者生誕百年祭を催すことは大学当局者として誠に面目ある事であらうと御推察致して、自ら大学教育の事に携はる者の一人として、玆に総長始め早稲田大学教職員の方々に対して謹んで衷心より御祝ひの意を表するものであります。終りに学生諸君に向つて一言致します。明日の我国の国運が諸君肩上に担はれると同様に、早稲田大学の将来は諸君の努力奈何に由て左右せらるるのであります。今日偉大なる創立者の記念祭に会ひ、また多年に亘る大学当局苦心のあとを御考へになりますれば諸君は更に新たに感ぜらるる所が深いと思ひます。私は諸君が我国の前途に対すると共に又母校の将来に対して自ら期するところがあることを確信して居ります。終りに臨んで私は私自身の言葉をくり返したいと思ひます。大隈老侯は常に吾々の間に活きて居られる。将来も必ずさうあらねばならぬ。これが私の学生諸君に呈する言葉であります。

(同誌 同号 一八―二〇頁)

 最後に大隈信常名誉総長は懇篤な挨拶を行い、校歌斉唱を以て式を閉じ、参列者一同は案内されて大隈会館庭園に設けられた大天幕内に入り、茶菓が供せられ、来賓には記念品として、大隈生誕百年を記念して出版された教授五来欣造執筆の『人間大隈重信』と学苑の絵葉書一組とが贈られた。

 同日午後六時から、老侯生誕百年記念秋季校友大会が上野精養軒で行われた。大隈歿後その邸宅が学苑に寄贈され、大隈会館と改名されて以来、家族同伴の校友会が大隈会館で開催されてきたが、昭和十二年は時局に鑑み中止していた。しかるに本年はたまたま大隈生誕百年に当り、母校でも記念祭が催されることになったので、校友会もこれに従って大会を開き、在りし日の故総長の面影を偲び、その偉業を回想して、決意を新たにせんものとの意気込みがはっきりと窺われるのであった。果せるかな定刻には、出席者数殆ど三百五十名に及んだ。先ず校友会常任幹事大島正一が開会の挨拶を述べ、次いで戦歿将士の慰霊ならびに出征勇士の武運長久を祈って一分間の黙禱を捧げ、老侯が「憲政に於ける輿論の勢力」という題で吹きこんだレコードの演説を聞く。正面壇上に安置された肖像の側に設けられた拡声器から流れ出るその声は、あたかも画面に写された故総長の口唇を通して出てくるようで、聞く人々に深い感銘を与えた。この日はまた田中総長が愛宕山の東京放送局のマイクの前に立ち、「故大隈老侯を偲ぶ」と題して全国に向って放送するという記念すべき日で、大隈のレコードが終って間もなく、午後六時二十五分に総長の名講演が拡声器を通じて流れた。総長は午前、午後の二回式辞を述べたから、この放送は三回目に相当し、同工異曲であったが、初めてその謦咳に接する人たちは名調子に魅了された。次いで主賓の大隈名誉総長を中央に、老いも若きも食卓につき、且つ食い且つ飲むさまは、宛然一大家族の会食風景であった。デザートに入ると、放送を終えた田中総長が、会場に駆けつけ、校友会長としてではあるが、この日四度目の挨拶を述べた。彼は、大隈が祖先と言っていた菅原道真の叡知について語り、「一代の思想家であると同時に一代の政治家であつた人は之を古へにしては菅原道真公、近くは我大隈老侯」(『早稲田学報』第五二五号 三六頁)であると論じ、我が学苑の先祖は大隈であり、早稲田学苑から生れ出たものは皆大隈の子であり、孫であり、曾孫であるから、大隈の衣鉢を継ぎ、学苑の先祖を辱しめないように自己修養のため努力し、国のため社会のために貢献しなければならないと結んだ。大隈信常はこれを承けて謝辞を述べ、小山松寿の発声で乾杯し、大隈の発声で校友会万歳を、田中の音頭で大隈家万歳を、それぞれ三唱し、最後に校歌斉唱で午後九時会を閉じた。

 なお生誕百年記念祭に関連して維新志士遺墨展覧会、理工学部付属鋳物研究所の公開、明治演劇展覧会、甘泉園の公開が行われた。先ず維新志士遺墨展覧会は、十月二十五、二十六の両日図書館で開催された。第一室に当てられた二階閲覧室には大隈関係図書その他が展覧され、また第二室の大閲覧室および第三室の階下閲覧室には、伯爵田中光顕より寄贈されたものと新たに図書館により収集された維新志士の遺墨が展観されたが、「時局柄両日共観覧者踵を接する大盛況であつた」(同誌 同号 五三頁)。また、第九章一で詳述するように、昭和十三年七月に竣成した理工学部付属鋳物研究所は、老侯生誕百年記念祭の四日前、すなわち十月二十一日に開所式を挙行したばかりであったが、学苑は記念祭の好機を利用して、十月二十五、二十六の両日、我が国最初の画期的な諸施設を一般に公開した。更に早稲田大学坪内博士記念演劇博物館も、この年が開館十周年に当るので、これを記念するとともに、大隈生誕百年祭に因み明治演劇展覧会を催し、十月二十五日を招待日とし、翌二十六日から十一月三十日まで一般に公開した。第一室すなわち二階大陳列室には、錦絵、写真、脚本、模型、絵看板、番付その他、第二室は「早稲田学園と劇壇」と称し、第一に大隈重信と演劇、第二に坪内雄蔵の業績、第三に学苑関係者の業績に分類して、それぞれの資料を展示した。これらの展示品のうち特に人目を引いたのは、江見水蔭が文士劇のために書いた「増補太平記」の稿本で、尾崎紅葉が筆を加えたもの、また伊原青々園の「日本演劇史」の稿本、坪内のイブセン研究講義ノート、文芸協会の諸記録などの珍しい品々であった。最後に、戸塚球場西側の丘陵にある甘泉園は、元芸州侯の下屋敷であったのが徳川御三卿の一の清水家の屋敷になり、後再転して相馬永胤の所有に帰した庭園である。これを学苑が相馬家より購入したのは昭和十三年三月で、庭園を殆ど持たない都内の諸大学のうちにあって、学苑は大隈会館と甘泉園の二名園を持ち、天下に誇示するようになった。そこで生誕百年記念祭に際し、二十五、二十六の両日一般に開放したのである。

二 小野梓賞と優等賞の制定

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 我が学苑創立当初を考える時、大隈英麿やいわゆる鷗渡会七人組である高田早苗天野為之砂川雄峻岡山兼吉山田喜之助山田一郎市島謙吉らの名を忘れることはできないが、創立者たる大隈重信と並んで、校長であった大隈英麿を実質的に助け、学制を整え、教育の大本を確立した小野梓の功績を等閑に付することは絶対にできない。

 小野の短い生涯については本書第一巻第二編に既に詳述したが、教授西村真次は『小野梓伝』(昭和十年十一月)を著し、『小野梓全集』上下二巻(十一年五月)が冨山房から出版されている。学苑で、創立百年記念出版物の一つとして『小野梓全集』全五巻(付別冊)を発刊(昭和五十三年六月―五十七年三月)したのも、その学識、人となりを慕うのみではなく、彼の功績を永遠に追懐する記念碑たらしめんとするためである。

 ところで西村に依頼して『小野梓伝』を出版した冨山房主で校賓の坂本嘉治馬は、これに先立ち小野梓記念として金一万円を本大学に寄贈した。その日付は明らかではないが、昭和十年十一月十五日の定時維持員会でこのことが報告されているから、これに先立つ頃には間違いない。坂本は、小野の歿後、幾度か学苑の財政に寄与するところがあったが、今回特に小野梓記念として寄附を行ったことについて次のように語っている。

小野さんの奨励金とし基金一万円を寄附しましたが、利子で勉学されるとせば差当り小額なれどこうやつて寄附して置けば、いづれ後々寄附者が出やうと思つてゐます。小野先生は政治、経済、財政或ひは文化、哲学、宗教に至る迄研究し広い意味での大教育家であり政治家であつた故に先生の研究科目を特に研究する学生諸君の研究の一部のたしになればと思へば地下の先生も満足されやうと思ひます。 (『早稲田大学新聞』昭和十年十一月二十七日号)

 昭和十年十一月二十一日の定時理事会は、「校賓坂本嘉治馬氏ヨリ小野梓先生記念トシテ金一万円寄附アリタルニ付左記基金設定ノコト。小野奨学基金」の決議を行った。そして更に翌十一年三月十八日の臨時理事会では、「利子ヲ大学五学部、専門部三科及高等師範部、専門学校ノ十部ニ等分分配シ、其給与方法ハ各部ニ一任スルコト。但シ案ヲ提出セシメ理事会ニ於テ審議決定スルコト」が決定され、五月から七月にかけて各学部等から基金の使用方法案が教務課宛提出された。一例として、政治経済学部の案を見てみよう。

小野奨学資金トシテ本学部へ割当テラレタル金額年五十円也ハ、学部優等卒業生八名並ニ外国留学生中本学部ヲ比較的優秀ノ成績ヲ以テ卒業シタルモノ二名、即チ満州国人一名、中華民国人一名、合計十名ヲ表彰スル為メニ使用スルコトニ教授会ノ議ヲ経、決定致候ニ付右及御報告候也。追テ表彰スベキ賞品ハ更ニ協議決定ノ筈ニ候。

 こうして十一月三十日、基金を配分された各学部、専門部各科、高等師範部、専門学校の「小野奨学金使途方案」が正式に定められた。政経学部以外の各学部等の基金使用方法は、教務課の記録によれば、次の通りである。

 右の決定に基づく表彰・賞品授与は昭和十一年度から法学部、専門学校を皮切りに始められた。法学部では、右の案にも拘らず、実際には三年生を含む緑川良平、佐藤恒雄ら五名が表彰を受けた。専門学校は十一月の決定通り、千田真清、近藤一夫、高橋省吾ら十名が受賞した。文学部は「当分預金シ置ク」となっており、その後の経緯は未詳であるが、昭和十八年頃には授賞が行われていた。かくして毎年五十名前後の全学の学生・生徒に対して小野梓賞が授与されるようになったのである。なお、右の小野奨学基金による小野梓賞は、昭和三十三年に設けられた「小野梓記念賞」とは別個のもので、戦前期の小野梓賞の授与は、「本年度秋季卒業生ニ対シテハ小野梓賞……ノ授与ヲ行ハザルコト」という昭和二十年九月二十日の定時理事会決議を以て取止めとなり、残存した小野奨学基金は、昭和三十三年の「小野梓記念賞規程」による基金に繰り入れられた。

 さて、坂本は金一万円の寄附と前後して、小野梓の胸像建設をも学苑に申し出たが、それにはそれなりの意味があったのである。彼が同郷土佐宿毛から単身上京して小野に会ったのは、小野が神田小川町に東洋館書店を開いた翌年、明治十七年一月で、彼は初対面の挨拶を述べた後、教導団に入りたいとの希望を語った。ところが小野は商人になることを勧め、東洋館に勤めたなら、働きながら多少の勉強もさせてやると言うので、思い切ってその言葉に従うことにした。しかし明治十九年一月十一日に小野が長逝すると同時に東洋館も廃絶の運命を辿ることになったが、坂本は小野の命により、終生書房と生命を共にする決心であったから、小野の義兄である小野義真に事情を話し、その了解を得て書店の再興に乗り出した。後の冨山房がそれで、明治十九年三月のことであった。すなわち、小野によって一生を開眼された坂本が胸像や金一封を学苑に寄贈したのは、「本年は小野梓先生が御亡くなりになられてから、丁度五十年に当」る(『早稲田学報』昭和十年十二月発行第四九〇号「小野梓先生記念号」七頁)のを記念してであった。こうした申し出を快く受けた学苑は、本山白雲製作の胸像を大隈会館庭園内の招魂殿の前に建立し、昭和十年十一月二十三日新嘗祭を除幕式の日と定め、午後一時半から式を挙げた。参会するものは、小野の次女安子をはじめその縁故者、教職員一千余名で、先ず曾孫兼松節子が幕を除き、これに続いて坂本嘉治馬の挨拶があり、田中穂積高田早苗、松田源治文相が祝辞を述べて閉式し、式後庭園内において立食の饗応があった。なお、この小野の胸像は、現在は小野記念講堂(七号館内)に安置されている。

 一方この二十三日は大隈会館の大書院内で、二十七日には図書館大広間において、遺墨展覧会を開催し、十数点の遺墨ならびに著書、草稿、写真、油絵等を展示して故人を偲んだ。また二十七日午後二時から、大隈講堂で小野梓先生記念講演会を開き、左の如き講演があって、聞く人に新たな肝銘を与えた。

このうち田中は小野の三つの事業すなわち教育、政治、出版について、坂本は東洋館の存在と意義を、高田は開校前後における小野の活動を述べたが、ここでは、最後に立った金子の小野の学識についての解説から数節を摘記しておこう。彼は開校時の小野の演説を引用し、彼が言う学問の独立の意義を三段に分けて言う。

其の第一は国士たる小野先生は学問の目的及び本質を如何やうに考へられたかを示すものであります。即ち一国の独立、日本国家の独立といふことが学問の窮極目的と考へられてゐたのであります。一国の独立を図らんとすれば先づ其の国民精神の独立を図らなければならぬ、而して其国民精神の独立を図らんとすれば先づ学問の独立を図るより外に途はないと、斯う云ふのであります。私は此の一項目の大きな高遠の理想の中に更に細かい三つの重要な意味が含まれてゐることを見のがすことは出来ないのであります。其の一は、当時の学問といふものは全く外国の学問、外国人の学問であつた訳であります。東京大学の学問はすべて外国人が来て外国語で教へたのであります。日本人の日本の学問ではなかつたのであります。みんな英語で講義がされた、英語でなければならぬと考へられた、全く外国の学問であつたのです。それではどうも困る、本当に日本人の力で出来た本当の学問でなければ、大学で教ふべきものではない、外国の学問ではどうしても国の独立は出来ないと考へられたのであります。そこで東京専門学校開校の当時に於ては、学問は日本語を以て教へられねばならぬと考へられたのであります。此の邦語で学問を教へるといふことは、後には外国語を学ばずして速成的に学問をするやうにも解釈されたのであるが、小野先生の如きは、決して左様な卑近の考へではなかつたと私は確信するのであります。本当の学問は、学問に国境なしなどいふが然らず、其の国の特殊の精神が這入らなければならないのであります。小野先生はどう云ふ風に此の点を考へられてゐたか、『国憲汎論』が我々にそれを具体的に示すのであつて、兎に角西洋流の学問を唯其の儘鵜呑にするといふ如きは、断じて大学教育の目的に反する、本当の学問、日本人の血液の注がれた学問が大学の学問でなければならぬといふのが其の本旨であります。第一項中のも一つの意味は、小野先生は学問と精神とを竝べて考へられてゐたことであります。一国の精神の独立を図る為めには、学問の独立を図らなければならぬ。学問と精神とが竝べられて一体であるやうに考へられて居りました。東洋の学問、支那の学問と云ふものは、すべて精神的な人間修養に関する学問であります。人物人品の修養を離れた学問は、小野先生に取つては全く無意味であつたらうと考へられます。精神のない学問が何になるか。学問は人物練磨の為めではないか。学問即ち人物練磨、是が小野先生の大学教育に関する根本であつたと考へる。更に一項目の中の三の意味に移ります。大学教育、学問の独立の窮極の目的は国家にある、国家を離して小野先生に取つては学問は全く無意味であつたと考へられる。即ち唯今述べた三つの細目を持つて居るのが此の学問の独立のもつてゐる第一項であります。玆に私は老侯の懐かれて居られた所謂高遠の理想、早稲田大学が万年の後迄もつて行くべき高遠の理想が此の一項の中に含まれて居ることを疑はないのであります。学問の独立の第二の意義は、是はもう此の学園に学んだ諸君はすべてよく知つて居られる事であります。即ち学問の尊厳といふことであります。学問はそれみづからで尊いものであつて、他の手段方便とされてはならないものである。随つて学問は、他の例へば政党とか学問以外の力とかといふやうなものの束縛を受けてはならない、飽く迄他の力から独立した最高の地位を持つてゐなければならないといふことであります。小野先生は東京専門学校開校の演説の中に学問は決して政党の道具となつてはならない、政党の為めに左右されてはならないと云ふことを力を入れて語られてゐます。今日の時代に於ても、先生の語られた学問の独立の意味は、如何にも不徹底に不十分にしか実現されて居ないと思ふ。言ふまでもなく、国家は学問の窮極の目的であります。国家以外の何物の為めにも学問は犠牲にされ束縛されてはならないものであります。例へば、今日で言ふならば学問は仕事を我々に教へる、世の中に出て仕事をすることを我々に教へる、其の仕事には幾何か報酬が伴ふ、学問は仕事が目的で報酬が其の目的ではないのであります。報酬は唯仕事に伴ふ結果に過ぎないのであります。然るに今日は、其の尊厳なるべき学問が、其の結果である報酬を得る方便のやうな風に考へられてゐる。小野先生の学問の独立の意味から言へば、学問は学問として熱愛さるべきものであります。学問を本当に熱愛すれば、そこに報酬といふ結果が伴ふのであるが、其の報酬の為めの学問であつてはならないのであります。大隈老侯は小野先生と同じく或はそれ以上に学問に対して熱愛、学問に対して深い深い熱愛を持つて居られた方であります。之はどうしても早稲田大学の学問の指導方針の重い点にならなければならないと考へるのであります。

最後に学問の独立の第三の意義こそ、我々学園に居る者に取つて、最も実際的な、又最も切実な指導方針であると考へられる。即ち先刻来述べました小野先生の殆ど人間業とも思はれないやうな精神力、努力奮闘、これは実に非常なものであつたと思ふが、此の大勇猛心――他力に頼らない大努力!大根気――此の独立の気象が本大学指導精神の中心であります。小野先生が病の床に就かれて、もう大分重くなつて来た時のこと、肺病だと言つて心配させまいと思つて、先生を診て居つた医者は、それは決して肺病ではない、喀かれた血は咽喉の辺から出たものだ、気管支あたりから出たものだ、決して肺病ではないと言つて慰めて居たさうであります。小野先生はそれを知つて居られたか知つて居られなかつたか、我輩は肺病患者ではない、こんなことで死んでたまるものか、自分は日本宰相の印璽を帯びなければ決して死なない。其抱負は遉がに国士たる面目が現れて居る。此の精神あれば病は我輩の身体を侵す力をもたないといふ日記の一節があります。此の驚くべき精神力、勇往邁進の意気、即ち小野先生が東京専門学校開設に於て英吉利国民の独立の気象を採つて、我学園に於ては英吉利流の独立自治の国民が養成されねばならぬと、斯様に述べられて居るのであります。申す迄もなく、大隈老侯は精神の力の人でありました。如何なる事があつても勇往邁進、それも唯空元気ではあつてはならぬ、本当の学問をやつて所謂早稲田魂を養成する、それが老侯と小野先生から直接に示された本領であります。其の早稲田魂――目的貫徹のためには精魂を尽して奮闘努力する、根気で進む、意気で行く。血を喀きながら先生は『国憲汎論』の述作に従事されたのであります。此の独立の大気象こそ小野先生が教へられた学問独立の中心で、我々学園に学ぶ者に取つて最も切実な一点であると信ずるのであります。小野先生は生れながら天才秀才でありながら、尚奮闘努力、精神、気魄、根気に於て類稀な人物で全く老侯と一身同体の人傑であつたといふこと、これが今日の早稲田大学の学問の独立の具体的な標本であつたと私は信ずるのであります。

(『早稲田学報』第四九〇号 二五―二七頁)

 次に、ここで昭和八年に設けられた優等賞について述べよう。優等賞は、本節で見た小野梓賞や前章で述べた恩賜記念賞、教職員賞とほぼ同時期に、同様の目的の下に創設されたものだからである。

 学苑では、東京専門学校の第一回得業式以来成績優秀者に対する表彰が行われていたが、大正八年六月十三日に開かれた各科連合教授会において、「優等卒業生に対する授賞及特待生規定は之を廃止す」と決定、七月三日の定時維持員会で承認されたので、以後優等賞ないしこれに類する制度は本学苑では、後述の如く工手学校を除いては、見られなくなった。

 ところが、前述の如く、創立五十周年に際して、昭和七年十一月九日臨時維持員会は恩賜記念賞の創設を決議し、成績優秀者表彰制度復活の嚆矢となった。更に学苑は、翌八年一月二十日の臨時理事会において、「各学部、附属学校(高等工学校、工手学校ヲ除ク)優等卒業生ニ賞品ヲ授与スルコト。右昭和八年四月ヨリ実施スルコト」との決議を行い、恩賜記念賞と同時に優等賞をも設定したのである。これについて田中穂積総長は次のように語っている。

此制度〔恩賜記念賞制度〕は今年度から実施するのであるが、これと同時に愈が上にも学術奨励の気風を宣揚し、真に我学園をして文化の淵叢たらしむる機運を醸成するが為めに、学業成績の優秀なる学生に対し、其卒業若くは終了に際し過去の成績を考査して優等賞を授与することに定め、これ又今春から実施することを玆に公表することは、私の欣快禁ぜざる所である。思ふに近時デモクラシーの高調せらるる結果、動もすればエクヲリチーと、ユニフヲーミチーの混同せらるる惧れがある。即ち万衆に対して同一の人格的尊厳を認むるは素より至当のことであるが、併しながら人格其のものの大小が人によつて異ることは論を俟たざる所であつて、天稟ある個性が誤られたる平等主義、群集主義の犠牲となることは、飽までこれを防衛し、天稟の豊富なる人々をして充分に其驥足を伸さしむるにあらざれば、人類の文化は退化死滅の淵に転落することを免れない。即ち優れたる個性、豊かなる天稟を尊敬し、これを表彰すると云ふことは文化向上の第一義であつて、我が学園が此度び恩賜記念賞の制度と共に此優等賞の制度を新設する所以のものは、畢竟大学の本領を発揮し其使命の達成を促進しやうと云ふ希望に外ならぬ。 (『早稲田学報』昭和八年二月発行 第四五六号 五頁)

 一月二十日の決定に続いて、二月十六日の定時理事会において各学部、専門部、高等師範部、専門学校の優等生に授与される賞品を銀時計一個とすることが決議された。この決定は四月三日に挙行された第五十回卒業式において早速実施に移され、政治経済学部卒業生林周盛はじめ二十二名の優等卒業生に対し銀時計が授与された。また翌九年の第五十一回卒業式においても二十三名の卒業生に優等賞が授与された。けれども正式な「優等賞規程」の制定は同年五月七日の臨時理事会においてであった。それは左の通りである。

優等賞規程

第一条 大学各学部、専門部、高等師範部及専門学校卒業生中学業操行共ニ優良ナル者ニ対シ優等賞ヲ授ク。

第二条 学部長、科長、部長及校長ハ受賞候補者若干名ヲ銓衡シ之ヲ総長ニ申請スベシ。

第三条 総長ハ前条ノ受賞候補者ニ付理事会ニ諮リ受賞者ヲ決定ス。

昭和八年一月における理事会の優等賞制定決議から規程制定が一年以上も遅滞した理由は詳らかではないが、いずれにせよ右の規程に則って毎年卒業式において二十数名の卒業生に優等賞が与えられることとなったのである。ただし、賞品に関しては変更があり、同十二年四月三日の第五十四回卒業式から、「賞品ハ学部ハ従来通リ銀時計、専門部、高等師範部、専門学校ハ腕時計」となった。

 右の優等賞規程は、第一条から分るように第一・第二高等学院および工手学校、高等工学校には適用されていないが、このうち工手学校は以前から成績優秀者に対する表彰制度を設けていたのであり、他方第一・第二高等学院と高等工学校は今回の優等賞制定を契機としてそれぞれ独自の優等賞規程を創設した。

 先ず、独自な動きを見せた工手学校について見ると、同校では大正二年二月九日の第一回卒業式以来各科の首席卒業生には大隈重信夫人綾子寄贈の賞品が、また首席在学生には特待生証書が授与されていたが、同八年に成績優秀者表彰制度が全学的に廃止された以後においても、従来通りの形の授賞が続けられてきた。そして、大正十二年四月二十八日に綾子夫人が死去した後は、工手学校より首席卒業生に賞品が授与されるようになり、更に昭和二年二月十一日の第二十九回卒業式からは、新たに徳永校長奨学賞が設けられ、授与されるようになった。この奨学賞は、

創立十五周年紀念祝典〔大正十五年十月十七日〕に際し卒業生有志より徳永〔重康〕校長に謝恩紀念として金一封を贈呈したるに校長は年々其利子を寄贈せらるる事となり玆に「徳永校長奨学賞」を新に設け予科各期特待生に次ぐ優等生二名宛に授与する事となり第二十九回卒業式より実行することとせり。 (同誌 昭和二年七月発行 第三八九号 七一頁)

というものであった。このように工手学校では早くから成績優秀者に対する表彰制度が整えられていたため、昭和八年の時点で新たに制度を設ける必要はなかったものと思われる。

 これに対して、高等工学校では昭和八年三月新たに、「大学が今回新設したる制度に準じて」(同誌昭和八年五月発行第四五九号 一五頁)次のような「優等賞規程」が定められた。

優等賞規程

一、優等賞ハ卒業成績最モ優等ナル者各科一名ニ授与ス。

二、優等賞受賞者ハ各科教務主任ノ推薦シタル候補者ノ内校長之ヲ決定ス。但シ適当ナル候補者ナキ場合ハ授与セズ。

三、優等賞々品ハ懐中時計トシ、其価格金十円乃至十三円程度トス。

本規程ハ昭和八年四月一日ヨリ施行ス。

これに従って高等工学校では昭和八年四月五日の第七回卒業式において、徳永重康校長が機械工学科斎藤守をはじめとして各科一名の卒業生に優等賞を授与した。

 第一・第二高等学院でも、全学的な優等賞新設の動きに合せて、優等生の推薦が昭和八年一月三十一日の両学院打合せ会の議題となったが、暫く中断の後同年十月頃に至り漸く両学院の教授会等において優等賞についての話合いが行われるようになった。そして、同九年一月三十日第一高等学院の優等賞規程起草委員会で優等賞規程の原案が作成され、更に三月一日の定時理事会の席上左の如き「早稲田高等学院優等賞規程」の制定が決議された。

早稲田高等学院優等賞規程

第一条 早稲田高等学院ハ毎年其修了者中学業操行共ニ優良ナル者ニ対シ優等賞ヲ授ク。

第二条 受賞者ノ数ハ両学院文科ニアリテハ政、法、文、商各科一名トシ理科ニアリテハ二名トス。

第三条 学院長ハ受賞候補者銓衡ノ為メソノ都度銓衡委員若干名ヲ委嘱ス。

第四条 銓衡委員会ハ受賞候補者若干名ヲ選定ス。

第五条 学院長ハ銓衡委員会ノ推薦セル受賞候補者ニ付教員会ニ諮リ受賞者ヲ決定ス。

附則

本規程ハ昭和九年三月一日ヨリ之ヲ施行ス。 (同誌昭和九年三月発行 第四六九号 一五―一六頁)

こうして学部、専門部等から一年遅れて、右の規程に基づいた優等生銓衡委員会が、第一学院では九年三月二十四日に、第二学院では四月六日に開かれ、それぞれ六名と四名の受賞者を銓衡した。第一学院の修了式は四月十八日に、第二学院のそれは翌十九日に挙行され、その十名に優等賞が与えられた。

 なおこれとは別に、学術奨励を目的として優等賞制度に類する制度をそれぞれ独自に設けた学部等がある。例えば政治経済学部では昭和八年度より、「教授会の決議に依り卒業生中在学三ケ年間の学業成績特に優秀なりしものを表彰することとなり」(同誌昭和九年四月発行 第四七〇号 一九頁)、昭和九年三月から実施された。また専門部政治経済科にも政治経済学部と同様の表彰制度が二つあった。その第一は、昭和八年六月に制定された英語優等賞である。これは、「専門部政治経済科内容充実ノ一助トシテ語学ヲ奨励スル為メ各学年学生中夫々特ニ英語ニ優秀ナル成績ヲ挙ゲタル者数名ニ英語優秀賞ヲ授与スル」というもので、昭和八年度より実施された。専門部政治経済科の表彰制度の第二は、「昭和十年度より本大学優等賞授与の推薦に値する優秀なる成績を挙げたるも不幸其選に洩れたる者に対し優等賞状を交附する」(同誌昭和十一年五月発行 第四九五号 二六頁)というものである。すなわち、独自の賞状を授与することにより、卒業生中優等賞受賞者に次ぐ成績の者を表彰したものと思われる。第二高等学院では昭和十六年四月十二日の修了式の席上、優等生四名の他に、ドイツ語成績優秀生二名、後文学部教授となった川原栄峰と、鈴木弘道がドイツ大使賞を受けた。この賞はこの年限りであった模様である。

 以上のように昭和八年以来成績優秀者に対して優等賞やそれに類する賞が与えられてきたが、先に述べた小野梓賞と同様、これらの賞の授与は昭和二十年九月中止せられた。すなわち、九月六日の定時理事会において、「本年九月卒業ノ学生ニ対シテハ優等賞ノ授与ヲナサザルコト」が決議され、更に同月二十日付で総長より「各学部附属学校ニ於テ授与スベキ……其他ノ授賞……モ右〔優等賞授与中止〕ニ準ジ御取扱相成度」旨の通達が行われた。

三 功労者の逝去

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 大隈の私学校と目された微々たる東京専門学校から、数万の校友と学生を擁する総合大学に発展し、私学の雄として天下に重きを成すに至った学苑の半世紀を越える歴史は、艱難の多い茨の道でもあった。この間にあって、よく針路を誤らず、学苑を育て上げた創立者大隈重信、学祖小野梓をはじめ、薄給に甘んじて努力を惜しまなかった教職員の功績は大なるものであったが、中でも「早稲田騒動」以後三尊と呼ばれた高田早苗坪内雄蔵市島謙吉の学苑行政、学術発展、図書館充実等に果した役割は特筆すべきであろう。しかし初めて東京専門学校に関与したときは未だ二十歳台の白面の書生であったこの人々も、学苑とともに歳を加え、今や古稀を越える老翁となった。後述する高田、坪内、市島、浮田四先生古稀祝賀会で大隈信常名誉総長が、「今後共に益々御健康を保たれて幾久しく春秋を重ね、八十、九十、否、百二十五迄も其齢を重ねられまして、今後益々我学園の為めに我国家の為めに御尽瘁あらんことを私は満堂の諸君と共に祈つて已まぬ次第であります」(『早稲田学報』昭和四年十一月発行 第四一七号 六頁)と祝辞を結んだように、学苑関係者はこの人達の更なる長寿を祈念して止まなかったのであるが、昭和十年代に入ると、その願いも空しく、学苑は次々とこれら功労者達の訃報に接しなければならなかった。その悲しみの記録を綴る前に、少し遡って高田、坪内、市島および浮田和民の古稀祝賀のことから記すことにしよう。

 安政七年三月出生の高田早苗は昭和四年に数え年七十歳に達したので、校友間の意向を承けて、松平頼寿、斎藤和太郎、黒田善太郎の三名の連名で、母校維持員、評議員および校友会幹事全員に高田先生古稀祝賀会の発起人になるよう呼び掛け、同年七月十二日大隈会館に開かれた第一回発起人会で、三十名の実行委員を選出、計画万端を一任することになった。次いで、七月十九日偕楽園で開かれた第一回実行委員会で、委員長(松平頼寿)、会計監督(田中穂積)、常任委員(七名)を委嘱するとともに、次のような申合せをした。

一、高田先生古稀祝賀ノ為メ基金三十五万円以上ヲ校友ヨリ募集シ、其利子中ノ一部ヲ母校教職員ノ死亡又ハ退職ノ場合母校ヨリ贈与スル弔慰金又ハ退職手当金ニ加ヘテ贈与スルコト。

〔中略〕

十一、右基金募集ノ外市島名誉理事、坪内名誉教授幷ニ浮田教授ノ三氏何レモ古稀ノ高齢ニ達セラレタルヲ以テ、本年十月二十日母校創立記念日ノ当日高田先生ト共ニ前記三氏ヲ招待シテ一大祝賀会ヲ催フシ四氏ニ記念品ヲ贈呈スルコト、其記念品ニ要スル金員ハ別ニ支出ノ途ヲ講ズルコト。 (同誌昭和四年十月発行 第四一六号 二五頁)

 右の申合せで、高田の古稀記念事業として母校教職員の弔慰金・退職手当金の基金募集が取り上げられたのは、高田自らの申し出に基づいている。すなわち、古稀祝賀会当日の高田の謝辞には、前年に坪内の古稀記念に演劇博物館ができたことに言及した後に、「本年又私が七十になりました為めに、お前の為めにも何かやらうと云ふことで、前以て御話もありましたから、私からも御願をしまして、教職員の退職資金を御集めを願へれば此上もないと云ふ申出をしました所が、幸御同意下さいまして、今日御報告のありましたやうに三十五万円を募集すると定り……私としますれば此上もなく有難さを感ずる訳であります」(同誌 第四一七号 八頁)と、その経緯が明らかにされている。

 高田が早くから「教職員の老後の安心」に心を用いたことは、薄田貞敬著『高田半峰片影』に見られる、創立以来永年勤続の事務員二名のために、両人名儀で、本人達には知らさず毎月五円ずつを特別に貯金しておき、退職のときにこれを贈与したという逸話(三四七頁)からも窺うことができる。しかし一種の美談として伝えられたこの話は、我が学苑に、草創期の財政状態ではやむを得なかったとはいえ、長い間年金、退職手当等の制度が整えられていず、経営者高田としてはそれを放置できなかったことを示している。そこで学苑財政が多少とも好転してくると高田は率先して退職資金の積立等に尽力することとなり、やがて年金制度、退職手当制度等の整備に努力するようになったのである。

 高田は、その古稀祝賀会の謝辞で、明治三十五年に早稲田大学と改称したときに、「既に大学にすると云ふことが或る意味から云ふと無鉄砲な話で、自分でも聊か不安に思つたし、世間でもさう思つたやうな訳であります。迚も教職員の退職資金を造るなどと云ふことは思ひも依らぬ訳でありました。併し勘定すれば足りなくなるのは知れて居る、勘定しないで以て此大学総収入の百分の一を其儘積むことにしやうと云ふ考を起しまして、幸に大隈老侯の御同意を得まして、今日迄それを積立つております」(『早稲田学報』第四一七号 八―九頁)と述べているが、このような当時学監であった高田の決断と大隈の支持とによって、明治三十六年に左のような「教職員年金規定」が定められた。なお高田は「年金」のための積立を右の謝辞で「退職資金」のそれと誤っているが、それは後述する如く年金制度の実施は困難で、現実には退職金の支給でそれに代えていたためであろうと思われる。

教職員年金規定

第一条 本校ノ教職員ニシテ満二十年以上勤続シ専ラ本校ノ教務又ハ事務ヲ担当シ左ノ二項ニ該当シタルトキハ年金ヲ給与ス。

一 老衰疾病又ハ已ムヲ得ザル事故ニ因リ辞職シタル者

二 死亡

第二条 前条教職員ニ給与スベキ年金ハ左ノ標準ニ依ル。

満二十年以上勤続ノ者

一 辞職ノ場合ニ於テハ本人ノ其当時受ケタル俸給ヲ標準トシ生涯其五分ノ一以上二分ノ一以下ヲ給ス。

一 在職中死亡ノ場合ニ於テ相続人未丁年ナルハ丁年ニ達スルマデ其ノ寡婦又ハ相続人ニ六分ノ一以上四分ノ一以下ヲ給ス。

一 辞職後死亡ノ場合ニ於テ前項ト同一ノ事情アルトキハ前項ノ半額ヲ給ス。

一 在職中又ハ辞職後死亡シタルモノニシテ相続人丁年以上ニ達シタルモノト雖モ、前項ヲ参酌シ相当ノ給与ヲ為スコトアル可シ。

第三条 前条ノ年限ニ達セザルモノト雖ドモ、特ニ功労アルモノハ此規則ヲ適用スルコトアルベシ。

第四条 本規定ニ依リ給与スベキ年金ハ毎年本校収入総額(基金ヲ除ク)百分ノ一ヲ積立テ其元利ヲ以テ之ニ宛テ、不足ノ場合ニハ経常費ヲ以テ補フモノトス。

第五条 本規定ノ適用ハ社員会ノ決議ニ拠ル。

 なお右の規定のうち第五条は、明治四十年四月二十八日の維持員会において社団法人から財団法人への移行に伴い、「本規定ノ適用ハ維持員会ノ決議ニ拠ル」と決められた。また同四十四年六月七日の維持員会で、この規定は内規とすることが決定されている。しかるにこの年金制度は、当時の学苑の財政規模にあっては積立額を十分に整えることができず、その実施は困難であった。昭和二年十月二十三日に開かれた創立四十五周年を慶祝する校友大会における謝辞の中で田中穂積常務理事は、

今日より二十年前、高田総長が学長時代でありました時に、学園の経常経済の百分の一を割いて段々積んで行つたら其内には恩給制度と云ふものが立ちはしないかと云ふ所から積立てました金が両三年前に凡十一万円になつたのであります。併ながら八百の教職員を包容して居る早稲田大学が恩給制度を実行するには、如何に少くとも百万円の基金がなければならないのであります。二十年掛つて十一万円の金を積んだと云ふやうな牛の歩みで百万円以上の基金を積立て得るのは果して何れの時であるか分らないさう云ふ遠き将来は迚も待つては居られないのであります。(同誌昭和二年一月発行 第三九三号 五五頁)

と述べている。そこで年金制度に代るものとして考案され、実行されたのが、教職員退職手当の制定、生命保険による遺族慰藉、教職員積立金制度の施行および出版部基金の設定であった。

 職員退職手当に関する規定が確立したのは大正十年二月八日の定時維持員会においてであったが、それ以前から何らかの形で退職手当が支給されていた節はある。それはこの維持員会で田中穂積理事が、「職員退職手当規定案」の提案理由の説明に立って、「従来内規様ノモノアルモ其金額極メテ少ク又簡単ナルヲ以テ公平ヲ欠クノ恐アリ」と述べたところから窺われるが、詳細は不明である。大正十年に制定された「職員退職手当規定」は次のようなものであった。

職員退職手当規定

第一条 職員ニハ本規定ニ依リ退職手当ヲ給与ス。

第二条 退職手当ハ本人若クハ其遺族ニ之ヲ給与スルモノトス。

第三条 遺族ニ退職手当ヲ給与スル場合ハ左ノ順序ニ依ル。

寡婦、無能力者タル子女、父、母、能力者タル子女、祖父、祖母、子女数人アルトキハ家名相続人ニ給与ス。其他ハ男子ヲ先ニシ女ヲ後ニシ順次年長者ニ及ブ。

第四条 勤続満二箇年以上ノ者ニシテ左ノ各号ノ一ニ該当スル場合ニハ本規定ニ依リテ退職手当ヲ給与ス。

一、本大学ノ都合ニ依リ解職シタルトキ

二、老衰、疾病、兵役其他已ムヲ得ザル事由ニ因リ許可ヲ得テ辞職シタルトキ

三、在職中死亡シタルトキ

第五条 退職手当ハ左ノ各号ノ一ニ該当スルトキハ之ヲ給与セズ。

一、懲戒処分ニ依リ解職セラレタルトキ

二、許可ヲ俟タズ強テ辞職シタルトキ

第六条 退職手当ハ左ノ割合ヲ以テ之ヲ給与ス。

一、勤続満二箇年以上五箇年未満ノ者ハ一箇月分ノ俸給ノ四分ノ二ニ勤続年数ヲ乗ジタル額

二、勤続満五箇年以上十箇年未満ノ者ハ一箇月分ノ俸給ノ四分ノ三ニ勤続年数ヲ乗ジタル額

三、勤続満十箇年以上十五箇年未満ノ者ハ一箇月分ノ俸給ニ勤続年数ヲ乗ジタル額

四、勤続満十五箇年以上二十箇年未満ノ者ハ俸給一箇月分ト四分ノ一ニ勤続年数ヲ乗ジタル額

第七条 前条ノ俸給ハ退職又ハ死亡ノ当時ニ於ケル給与額ニ依リ日給ハ之ヲ三十倍シタルモノヲ俸給月額ト見做ス。但シ其俸給中ニハ臨時手当其他特別勤務ニ依ル手当ヲ加算セズ。

第八条 勤続年数ノ計算ハ就職ノ月ニ起リ退職ノ月ニ終ル。

一箇年未満ノ端数ヲ生ジタルトキハ八箇月未満ハ切捨テ八箇月以上ハ之ヲ切上ゲ計算ス。

傭トシテノ勤務期間ハ勤続年数中ニ通算ス。

第九条 休職期間ハ之ヲ勤続年数ヨリ控除スルモノトス。

第十条 一旦辞職シテ再ビ就職シタル者前在職ノ際退職手当ヲ受ケザルトキハ前在職中ノ勤続年数ハ之ヲ通算スルモノトス。

第十一条 退職手当算出額ニ円未満ノ端数ヲ生ジタルトキハ之ヲ円位ニ切上グルモノトス。

第十二条 退職手当ハ一時ニ之ヲ給与スルモノトス。但シ受給者ノ希望ニ依リテハ数回ニ分チ之ヲ給与ス。

第十三条 在職中特別功労アリタル者及直接校務ニ基ク負傷又ハ疾病ノ為メ職務ニ堪ヘザルニ因リ、退職ヲ許サレ若クハ職務執行ノ為メ死亡シタル者ニ対シテハ第六条ノ退職手当ノ外維持員会ノ決議ヲ以テ特別慰労金若クハ祭祀料ヲ給与スルコトアルベシ。

第十四条 職工、小使及給仕ニハ本規定ヲ準用シ職員ニ給与スベキ算出額ノ三分ノ二ヲ給与スルモノトス。

第十五条 職工、小使及給仕ヨリ職員ニ昇級シタル者ノ退職手当ハ職員トシテ受クベキ分ト職工、小使若クハ給仕トシテ受クベキ分トノ合計額ヲ給与ス。

職員トシテ勤続年数二箇年ニ満タザルモ職工、小使、給仕トシテ就職ノ時ヨリ通算シテ二箇年以上トナルトキハ第十四条ノ規定ヲ準用ス。

 この規定では教員に関するものが欠けている。その理由は、右の維持員会で田中が述べた「先ヅ之ヲ職員ニ実行シ、教師ハ其勤労平等ナラザルニヨリ俄ニ一律ニ定メ難ケレバ、当分ノ内其都度協議ノ上本会ノ決議ヲ経テ支給スルコトトシタシ」という説明で明らかである。後に「退職教員慰労金算出基標」が制定された模様であるが、その詳細は不明である。ともかく右規定で退職手当支給の規準が定まり、該制度は初めて軌道に乗ったのであるが、右案審議の席上維持員渋沢栄一から「本案ヲ見ルニ支給金額猶ホ多シト云フ可ラズ、之ヲ倍額ニ改ムルハ如何」という提案があり、渡辺亨、増田義一両維持員の賛成にも拘らず、「尚ホ追テ年金規定ヲ設クルノ必要アリテ、此際之ヲ多額トナシ置クトキハ右規定ヲ設クルニ方リ実行上困難ナルベク、且目今永年勤続者モ亦少カラザレバ財政上或ハ実施ニ苦ムベキカ等ノ理由ニヨリ原案ヲ可決」したようなわけで、とても十分なものと言えるようなものではなかったのである。

 右のようにせっかく退職手当規定は作ったものの、その金額がきわめて少く、不十分であったため、それを補う目的で、勤続十年以上の専任教職員に対し、大学が契約者となって生命保険を掛け、万一の場合には遺族を慰藉する方法を考案し、大正十四年二月十日の定時維持員会に「生命保険ニ依ル遺族慰藉規則案」を諮り、その承認を得た。その規則は次の如くであった。

生命保険ニ依ル遺族慰藉規則

第一条 本大学ハ在職満十年ヲ超ヱタル専任教員並ニ書記以上ノ職員ニ対シ其希望ニ依リ生命保険契約ニ依リ遺族慰藉金ヲ与フ。

第二条 本保険契約ハ本大学ヲ契約者トシ前条教職員ヲ被保険者トシ被保険者ノ配偶者又ハ家督相続人ヲ保険金受取人トス。

第三条 本保険契約ハ二十年払込終身保険トシ保険金額ヲ一名ニ付金一千円トス。

第四条 保険料ハ本大学之ヲ負担ス。

第五条 本保険契約ハ被保険者ガ在職十五年未満ニシテ退職シタルトキ又ハ懲戒ニ拠リ退職シタルトキハ之ヲ解除ス。

但被保険者ニ於テ将来ノ保険料ヲ負担シ之ヲ継承スルコトヲ得。

第六条 在職年数ハ月ヲ以テ計算シ教員ニ在テハ専任トナリタルトキ職員ニ在リテハ年俸又ハ月俸ヲ受クルニ至リタルトキヨリ之ヲ起算ス。

一旦退職シタル者再ビ嘱任セラレタルトキハ前後ノ在職年数ヲ通算ス。

第七条 本大学ハ毎年六月其前月マデニ在職満十年ニ達シタル者ニ之ヲ通知ス。

第八条 本保険契約ヲ為スベキ保険会社ノ選定及契約ノ手続ハ本大学之ヲ行フ。

第九条 第一条ニ相当スルモ年齢又ハ其ノ他ノ事由ニ依リ保険会社ニ於テ保険契約ヲ為サザル教職員ニシテ在職満十五年ヲ超ヱテ死亡シタルトキハ本大学ハ其配偶者又ハ家督相続人ニ保険代償トシテ金一千円ヲ贈与ス。

附則

第十条 本規則ハ大正十四年四月一日ヨリ之ヲ施行ス。

 しかし保険金額千円は当時の貨幣価値から見ても十分でなかったから、その後何回か手直しがあった。その第一は創立四十五周年を記念し、校友会よりの一万円を筆頭に日清生命保険株式会社より三千円、出版部および日清印刷株式会社より各千五百円、計一万六千円の寄附を得て行ったもので、昭和二年十月四日の臨時維持員会で規則第三、七、九条を左記の如く改正し、勤続年数を加味して保険金額を増額することとして、翌三年四月一日より施行した。

第三条ヲ左ノ如ク改ム。

「本保険契約ハ、二十年払込終身保険トシ、保険金額ヲ一名ニ付左ノ通リ定ム。

一、在職満十年ヲ超ヱタル者、金一千円

一、在職満二十年ヲ超ヱタル者、金二千円」

第七条ヲ左ノ如ク改ム。

「本大学ハ毎年四月其前月マデニ第三条所定ノ年数ニ達シタル者ニ之ヲ通知ス」

第九条ヲ左ノ如ク改ム。

「第一条ニ相当スルモ年齢又ハ其他ノ事由ニ因リ保険会社ニ於テ保険契約ヲナサザル教職員ニシテ死亡シタルトキハ本大学ハ其配偶者又ハ家督相続人ニ保険代償トシテ左ノ金額ヲ贈与ス。

一、在職満十年ヲ超ヱタル者、金一千円

一、在職満二十年ヲ超ヱタル者、金二千円」

 次に三年三月十四日の定時維持員会では、四月一日以前の退職者には規則第三条および第九条の各第二号(保険金額の規則)を適用しないことを定め、八年三月十三日の臨時維持員会および十六年十月二十九日の維持員会で、それぞれ保険金額の改定(前者にあっては最高額を満二十五年以上勤続者につき二千五百円、後者にあっては最高額を満三十年以上勤続者につき五千円とすることを含む)を行った。

 他方、教職員積立金制度の施行と出版部基金の設定とは、後述する高田基金設定以後なお不足していた退職手当基金を補充するために行われたものである。「教職員積立金制度制定ノコト」が承認されたのは、昭和十年三月十五日の維持員会においてであるが、このとき可決された「教職員積立金規程」は次の如くであった。

教職員積立金規程

第一条 本大学専任教職員ハ本規程所定ノ積立金ヲナスモノトス。

第二条 積立金ハ毎月年俸月割額又ハ月俸ノ百分ノ一ヲ積立テ退職又ハ死亡ノ際之ヲ払戻スモノトス。

第三条 本大学ハ専任教職員ニ対シ前条所定ノ積立金ト同率ノ積立金ヲナシ退職又ハ死亡ノ際之ヲ給与ス。

但懲戒処分ニ依リ解職セラレタル者ハ此ノ限リニ在ラズ。

第四条 第二条及第三条ノ積立金ニ対シテハ利子ヲ附シ毎年三月三十一日之ヲ元本ニ加算ス。

前項ノ利率ハ其都度之ヲ定ム。

附則

第五条 本規程ハ昭和十年四月一日ヨリ之ヲ施行ス。

また十五年一月二十五日の定時理事会で「出版部ヨリノ指定寄附金九万九千五百円ヲ以テ基本勘定ニ出版部基金ノ項目ヲ設クルコト」および「出版部基金規程ヲ定ムルコト」が承認された。その規程は次の如くである。

出版部基金規程

第一条 早稲田大学出版部ノ指定寄附金ヲ以テ出版部基金ヲ設ク。

第二条 出版部基金ハ本大学教職員ノ退職又ハ死亡ノ場合本大学ガ従来支給スルモノノ外別ニ左ノ率ニ依リ退職慰労金又ハ弔慰金ヲ支給ス。但教職員ニシテ年俸又ハ月俸ヲ受クル者ヲ第一種トシ其他ノ者ヲ第二種トス。

(第一種) (第二種)

一、在職満五年以上十年未満 年俸月割額又ハ月俸ノ 百分ノ六 上記ノ三分ノ二

一、在職満十年以上十五年未満 同前 百分ノ九 同前

一、在職満十五年以上 同前 百分ノ十二 同前

右率ヲ在職年数ニ乗ズルコト

第三条 在職年数ハ月ヲ以テ計算シ端数八ケ月以上ハ之ヲ一年ニ繰上ゲ八ケ月未満ハ之ヲ加算セズ。

時間給ヲ受クル者ニ対シテハ時間給一時間ニ三十二週ヲ乗ジ之ヲ十二分シタルモノヲ月俸相当額ト計算ス。

第四条 退職慰労金ハ之ヲ本人ニ交付シ弔慰金ハ之ヲ其配偶者又ハ家督相続人ニ交付ス。但場合ニ依リテハ本大学ノ適当ト認ムル者ニ交付スルコトアルベシ。

第五条 懲戒ニ依ル退職其他特殊ノ事由ニ依ル退職死亡ノ場合ニハ理事会ノ決議ニ依リ本規程ヲ適用セザルコトアルベシ。

附則

本規程ハ収支ノ状況ニ依リ理事会ノ決議ヲ経テ改正スルコトヲ得。

本規程ハ昭和十五年四月一日ヨリ之ヲ施行ス。

これらはいずれも退職慰労金または弔慰金に当てられるもので、高田基金設定後もなお十分とは言えなかった退職金等の乏しきを補う目的を持っていたのである。

 さて昭和初頭にあっては、高田をはじめ大学当局の努力にも拘らず、退職手当等を十分に支給するに足る基金を得ることができない状態が続いたから、高田としてはその古稀記念事業に退職手当等の基金募集を依頼するに至ったのであり、祝賀会はそれを承けて、「先生の高寿祝賀の方法として先生宿年の希望たる母校教職員の養老、弔慰の基金を募り・先生の名を以てこれを母校に寄与し、依て以て先生の意を安んじ、併せて母校の急に応ずるは蓋し最も意義あり、また先生の最も欣快とせらるべきを信じます」(『早稲田学報』第四一六号 三八頁)と「高田先生記念基金募集の趣旨」を闡明したのであった。記念事業の運営については、その後昭和四年九月十日と十六日に開かれた常任実行委員会と実行委員会で、校友に配布する「高田先生記念基金募集の趣旨」と「基金募集略則」が定められ、祝賀方法が議せられた。「趣旨」についてはこれまで既に述べたとおりなので引用は省略するが、「基金募集略則」の要点は、

一、本基金の募集額は金三十五万円といたします。

二、本基金は永久に据置、其利子中より母校教職員の死亡又は退職の場合遺族又は本人に贈与いたします。

三、本基金の管理及び贈与に関する規程は高田先生の意見に基き別にこれを定めます。 (同誌 同号 三八頁)

というものであった。

 祝賀方法については、高田とともに古稀に達する坪内、市島、浮田の四人を合せて祝賀することとなり、九月二十七日に大隈会館で開かれた校友会の幹事会で正式決定を見た。その内容は大要次のとおりであった。

一、高田、坪内、市島、浮田先生本年古稀の年齢に達せられたるに依り校友全体より記念品を贈呈する事、其為校友会経常費より総額三千円程度支出する事

一、前記四先生祝賀会は来る十月二十日(母校創立記念日)大隈講堂にて挙行予定に付校友会秋季大会も同日合併開催し一層盛大ならしむる事 (同誌 同号 三七頁)

なお記念品代については、大学よりも一千円を贈呈することが十月八日の維持員会で決議され、合計四千円となった。

 さて高田、坪内、市島、浮田四先生古稀祝賀会は十月二十日大隈講堂において左記順序により催された。

一、祝辞及報告 発起人総代 松平頼寿

一、記念品贈呈

一、祝辞 名誉総長 大隈信常 校友総代 斎藤和太郎 文部大臣 小橋一太

一、謝辞 高田早苗 坪内雄蔵 市島謙吉 浮田和民

一、挨拶 松平頼寿

万歳三唱

これらの祝辞、謝辞のすべてを引用するのはあまり繁雑なので省略する(全文は『早稲田学報』第四一七号に掲載されている)が、校友総代斎藤和太郎が、「四先生ノ如キハ当時ノ俊材トシテ志ヲ何レノ方面ニ立テラレンニモ咸ナ大ニ其驥足ヲ伸べ名ヲ挙ゲ産ヲ就サレシコト毫モ疑ヲ容レザリシニ拘ラズ、毅然トシテ一身ノ得喪ヲ顧ミズ専念教育ノ大業ニ精進セラレ克ク故侯ヲ輔ケテ其発達隆昌ヲ企図シ、遂ニ今日ノ大早稲田学園ヲ現出セラレタル其高志努力ハ私共三万ノ校友ノミナラズ満天下ノ均シク認識シ景仰スル所デアリマス」(六―七頁)と述べ、文部大臣小橋一太が「此ノ際黙セント欲シテ黙スベカラザルハ四氏ガ前後数十年ノ久シキ終始一貫早稲田学園ノタメニ心血ヲ注ガレタルノ一事ナリトス。是蓋シ故大隈侯爵ト意気相投ジ肝胆相照シタルニ由ルベシト雖モ、其ノ心事ノ高潔ニシテ操守ノ鞏固ナル実ニ一世ノ亀鑑ニシテ……」(七頁)云々と述べているのは、よく四氏の徳と学苑に対する功労を讃えて正鵠を得ていると言えよう。高田らの謝辞を見ると・高田は基金募集への謝辞と、謡曲「隅田川」の中の「思へば限りなく遠くも来ぬるものかな」という句を引用して感慨を述べ、「生きて居る以上余命のあらん限りは微力なりと雖も此学園の為めに尽すことを怠らない積りである」(一〇頁)と結び、坪内は「ほんの第一戦線に立つて唯もう兵隊役を勤めたと云ふだけのことでした」(一一頁)と謙遜し、市島は「早稲田は自由の天地で私ごとき我儘ものを包擁して毫も羈束する所がありません」(一二頁)と言い、浮田は「今日頂戴しまする所の校友会の御好意は私に向つて其研究を継続せよと云ふ御奨励を賜はつたこと、自分勝手な解釈でありまするが、さう解釈致します」(一三頁)と言っているが、いずれも余命を大学に捧げて努力することを誓っている。こうして五百三十九名の校友と同伴者五百六十名の出席を得た古稀祝賀会は盛会裏に幕を閉じたのである。

 ところで高田記念基金の募集は、大不況下にも拘らず順調に進み、昭和五年末までに払込額十六万円余を得たので、高田総長は左の寄附書とともに、諸経費を差し引いた十五万三百十二円九十四銭に及ぶ基金現在高全部を第一回分として、学苑へ寄附した。

寄附書

老生古稀記念トシテ校友並其他ノ諸君ヨリ寄贈セラレタル基金第一回分別紙基金規程並計算書相添へ寄附致候也。

昭和六年三月五日 高田早苗

早稲田大学御中 (同誌 昭和六年三月発行 第四三三号 七頁)

 右の寄附書に見える基金規程は、松平委員長から委嘱を受けた常任実行委員会で審議決定し、高田の承認を受けたもので、次の如くである。

高田基金規程

第一条 本大学ハ高田早苗先生ヲ永遠ニ記念スル為メ古稀記念トシテ寄附セラレタル金員ヲ高田基金ト名ク。

第二条 高田基金ハ其利子ヲ以テ本大学教職員ノ退職又ハ死亡ノ場合本大学ガ従来支給スルモノノ外別ニ左ノ率ニ依リ退職慰労金又ハ弔慰金ヲ支給ス。但教職員ニシテ年俸又ハ月俸ヲ受クル者ヲ第一種トシ其他ノ者ヲ第二種トス。

(第一種) (第二種)

一、在職満五年以上十年未満 年俸月割額又ハ月俸ノ 百分ノ二十 上記ノ三分ノ二

一、在職満十年以上十五年未満 同前 百分ノ二十五 同前

一、在職満十五年以上 同前 百分ノ三十 同前

右率ヲ在職年数ニ乗ズルコト。

第三条 在職年数ハ月ヲ以テ計算シ端数八ケ月以上ハ之ヲ一年ニ繰上ゲ八ケ月未満ハ之ヲ加算セズ。

時間給ヲ受クル者ニ対シテハ時間給一時間ニ三十二週ヲ乗ジ、之ヲ十二分シタルモノヲ月俸相当額ト計算ス。

第四条 退職慰労金ハ之ヲ本人ニ交付シ、弔慰金ハ之ヲ其配偶者又ハ家督相続人ニ交付ス。但場合ニ依リテハ本大学ノ適当ト認ムル者ニ交付スルコトアルベシ。

第五条 懲戒ニ依ル退職其他特殊ノ事由ニ依ル退職死亡ノ場合ニハ理事会ノ決議ニ依リ本規程ヲ適用セザルコトアルベシ。

附則

本規程ハ収支ノ状況ニ依リ理事会ノ決議ヲ経テ改正スルコトヲ得。

本規程ハ昭和六年四月一日ヨリ之ヲ施行ス。 (同誌 同号 七―八頁)

 かくて高田の念願はかない、退職慰労金・弔慰金制度はほぼ形を成すに至った。最終的には寄附金総額は二十二万三千百五十五円八十七銭(諸経費を差し引いた額)に及んだが、このほかに、高田の逝去に当って贈られた香奠五千円が、高田の遺言によってこの基金に加えられている。

 また、高田基金規程はその後数回に亘って改定されたので、次に支給率の変化を表示しておく。

第二十一表 高田基金支給率

 高田、坪内、市島、浮田四先生古稀祝賀会の謝辞で、高田は諧謔を交えながら、「今日御祝を戴く四人の中では……最年長者は此所に居られる坪内博士であります」(同誌 第四一七号 八頁)と述べているが、その坪内雄蔵は盟友を残して、昭和十年二月二十八日午前十時三十分忽焉として逝去した。坪内は前年肺炎を患い、一時憂慮すべき状態にあったが、幸い秋には快癒した。しかし、一月初旬から気管支炎で咳に苦しむようになり、下旬には時折発熱を伴い、以来病勢は思わしくなく、老齢による衰弱も加わって、遂に帰らぬ人になったのである。享年七十五歳。

 三月二日熱海双柿舎において仮葬儀が行われ、次いで四日青山斎場において葬儀ならびに告別式が執行された。導師は堀日正、葬儀委員長は金子馬治であった。会葬者は、文学部学生全員と早稲田中学校生徒を含めて、約四千と言われた。田中穂積総長、内閣を代表する松田源治文部大臣、議会を代表する浜田国松衆議院議長をはじめ英国大使(代理)、慶応義塾長小泉信三、文芸家協会代表沖野岩三郎、日本沙翁協会長市河三喜、早稲田大学文学部長吉江喬松、国劇向上会長長谷川誠也らがそれぞれ弔辞を述べ故人の遺徳を偲び、讃えた。特に注意すべきは、衆議院が、

衆議院ハ我ガ国文化ノ発達ニ貢献セラレタル文学博士坪内雄蔵君ノ長逝ヲ哀悼シ恭シク弔辞ヲ呈ス。

昭和十年三月二日 (同誌 昭和十年三月発行 第四八一号 一二頁)

との弔辞を贈っていることである。当時文人の社会的地位はなお低く、衆議院の弔辞は「芸術家に対しては今度が始めて」(『東京朝日新聞』昭和十年三月二日付夕刊)であったから、坪内の社会的評価がいかに高かったかが、如実にここに示されているのである。また吉江文学部長の弔辞に、

先生ノ御論議ニ由ツテ初メテ我ガ若キ日本ノ新文芸ハ指導原理ヲ与ヘラレ先生ノ御述作ニ由ツテ初メテ明治ノ新文芸ハソノ発露ノ途ヲ求メ得タノデ御座居マス。……先生ノ御生涯ハソノ御述作トソノ御生存トニ置キマシテ万人ノ信頼ト万人ヘノ教化トニ不断ノ光ヲ放ツテ居ラレマス。日本文化全面ノ高揚ハマサニ先生ノ御力ニイカバカリ負フテ居ル事デ御座イマセウ。……〔先生ハ〕尽ク厳父ノ如キ教エト慈母ノ如キ愛トヲモツテ私共ヲ啓導セラレマシタ……先生ハ御永眠ノ近ヅクマデ一路ノ創造ノ過程ヲ辿ラレマシタオ姿ヲ拝シマスレバ、正シク充実セラレタル御生涯何人ガソノ七十七年ノ瞬時モ小止ミナキ長キ歳月ニ眼ヲ走ラセテ嘆美ト発奮トヲ覚エナイモノガ御座イマセウ。 (『早稲田学報』第四八一号 一四―一五頁)

とあるのは、さすがに坪内の業績と遺徳を最もよく言い得て妙である。

 坪内の学問や諸業績、或いは学苑に対する功績等については、今更述べるまでもないが、その死後贈られた言葉のうちから二、三を拾い上げれば、田中総長は「逍遙先生を追慕す」の中で、先生は、金剛不壊の勇気、偉大な思想家でしかも同時に卓越した実行家であるという傑れた資質、弟子たちに対し切々偲々の愛撫・指導・提撕を惜しまぬ、素行の立派さの四点を兼ね備えていた(同誌 同号 三―四頁)と述べ、市島謙吉は「君は文藻を以つて衆と争ふとはせず、どこまでも案内を以つて任じ、瑣事には頓着せず、ヅンヅン進んで尖端を切つた。……君は精励の人であり克己の人であつた」(同誌 同号 二三頁)と評し、金子馬治は「我早稲田文学科が少くとも日本に於ける一方の文化的淵源の形にまで発達したことは、主として坪内先生努力の賜物であつたと言はなければならぬ。……日本文化の最大指導者といふのが坪内先生の文勲的位置であると考へられる」(同誌 同号 二九頁)と讃えた。なお坪内が最後の病床にあっても学問的情熱を失わず、三十七、八度、時には三十九度の発熱を冒して『新修沙翁全集』の補筆を続け、遂に全巻の訂正を終えることができたということ、或いは勲章(勲三等)の授与や学士院会員への推挙を固辞し、一介の文人として終始したことなどは、坪内を考える場合忘れることのできぬ逸話であろう。坪内の遺骨は六月二日百ヵ日を期して熱海の双柿舎に近い海蔵寺に葬られた。のち十月二十八日には銅像が歌舞伎座に、また十一月十七日には頌徳碑が海蔵寺に建てられている。

 「長き旅の重荷おろして昼寝哉」(『早稲田学報』昭和六年七月発行 第四三七号 四二頁)という一句を残して昭和六年六月に早稲田大学総長を辞任し、十月には維持員もやめ、貴族院議員および帝国学士院会員を除く一切の劇職から退いて悠々自適の生活に入った高田早苗は、漸く神経衰弱からも解放され、老来ますます矍鑠たるものがあった。昭和八年には吉野に遊び、九年には夫人同伴で紀州を巡覧した。しかし、この年愛婿政治経済学部教授二木保幾に先立たれ、翌十年には老友坪内を失って、無常を感じたのであろう、芝増上寺大島徹水師につき、在俗の僧として浄土宗に帰依した。十一年の四月には早稲田中学校四十周年式典に臨み、かつて創立に尽力した日を偲びながら来賓として祝辞を述べ、暮には外遊から帰った尾崎行雄を主賓に、加藤政之助・大竹貫一・市島謙吉を国府津香実荘に招いて、改進党以来の旧交を温めた。次いで十二年も無事に過ぎたが、十三年に入り、一月に感冒に侵されて以来回復が遅々とした上に、また神経衰弱に悩まされるようになった。この頃になると、「飲食を厭ふの症状で、僅に酒で栄養を取つたやうな仕末」であったと市島謙吉が言っている(同誌昭和十三年十二月発行 第五二六号 一九頁)。こうして病床を離れられなくなった高田は、時に大衆小説を楽しみ、或いは渡辺幾治郎の質問に答えて日本憲政史についての回顧談を試みていたが、十一月二十三日に至って病状は急変し、遂に十二月三日午前二時四十分逝去したのであった。享年七十八歳。

 これより先、高田前総長の病状急変の報を受けると、早稲田大学では十一月三十日に急遽臨時維持員会を開いて、

一、前総長高田早苗先生重態二付万一ノ場合ハ左ノ処置ヲ採ルコト。

(一) 葬儀ハ大学葬トシ大隈講堂ニ於テ執行スルコト。葬儀委員長ハ総長トス。

(二) 当日ノ授業ハ臨時休業シ学生ハ葬儀ニ参列スルコト。

を定め、万一に備えたが、悲報を受けて十二月五日に大学葬を行うこととなった。

 三日、四日の通夜には、勅使徳川義寛侍従の差遣をはじめ、近衛文麿首相(代理)、木戸幸一厚相、徳川家達、平沼騏一郎、尾崎行雄らの政界の名士をはじめ、島田墨仙、小室翠雲らの画壇の重鎮、教育界・財界の知名人、或いは教え子の弔問が引きも切らず、生前の幅広い活躍の跡が偲ばれた。五日は鶴巻町通り、馬場下町、戸塚町一帯が半旗を掲げて弔意を捧げる中で大隈講堂において大島徹水を導師として葬儀が執行され、次いで告別式に移り約三千の焼香者を迎えた。この間早稲田大学総長をはじめ、文部大臣荒木貞夫、貴族院、帝国学士院等弔辞を寄せる者多数に及んだ。午後三時学苑の全学生・生徒をはじめ、早稲田中学校、早稲田実業学校生徒の見送りをうけて霊柩は落合火葬場に向い、荼毘に付せられた。遺骨は翌六日東京染井墓地の高田家塋域に納められた。

 『早稲田学報』第五二六号は「高田早苗先生追悼号」として特集されているが、田中総長の「学園の至宝高田先生を追憶して」(大学葬弔辞)には、

回顧すれば其人や資性豊かなる天分に恵まれ、聡明頴智群を抜き、温厚篤実にして、至正至平、而かも滾々として尽きざる創造力に加ふるにこれを実現する実行力と執着力とを兼備したるが故に、往くとして可ならざるなく、短日月にして蕞爾な学園を興して、今日の隆運を迎へ得たる所以のもの決して怪むに足らず。即ち我が学園は創立者大隈老侯不磨の記念碑たると同時に、又高田先生全生涯の心血を傾注せる不滅の遺産にして、此等巨人の踏める苦心の足跡に想到すれば、我等後進にありては一日と雖も晏如たること能はず。 (四頁)

とある。市島謙吉も「高田博士を悼む」という一文を草し、「稀有の教育行政家」(一八頁)であったと言い、更に、

終始〔我が学苑の〕事実上校長であつた。東京専門学校時代には、或る勢力の圧迫が激しかつたので、それと闘うて屈しなかつたのも主として君であつた。後に学校を大学の位置に進め理科を開くに至つたことを初め、燦然たる諸学科を整備し、大学の面目を保たしめたのも皆君の企画に係るものである。……君の実行力は実に盛んで一事を成し終れば更に第二事に移り、常に仕事を進めて行き少しも倦むことなく、その積年の努力の効が、早大今日の隆盛を生んだのである。 (一九頁)

と述べた。また教え子の一人塩沢昌貞は、「学園育ての親高田先生」の中で、

先生は生ツ粋の江戸ツ児であつた。その聡明とか先見の明とかの天分を持つて居られたことは余りに知り切つたことであるが、非常に責任感の強かつた人で、何かにつけて苟もしない人であつた。……それから後進を引立てるとかいふ事に就ても非常に親切な人で、又一度用ひた人は容易に捨てない。……それから先生は江戸ツ児の持ち前のきかぬ気の人であつた。権門の前に膝を屈し頭を下げることが大嫌ひであつた。 (二二頁)

と記しているが、高田もかつて自ら「私は江戸つ児であると同時に、江戸の町人の子孫である。其故であるか否かは知らないが、極めて窮屈なことを嫌う」(「早稲田大学生活/五十年間の思ひ出」『実業之日本』昭和六年八月発行 第三四巻第一六号 五頁)と述べて、江戸っ児であることを誇らかに自任しているのである。

 また、創立以来の功労者で、三尊と並んで活躍した天野為之、また「早稲田騒動」の直後学長に就任し、よく事件を収拾した平沼淑郎も、三尊と前後して鬼籍に入っているので、この人達についても触れておかねばならない。

 高田早苗と並ぶ学苑創立の功労者天野為之は、「早稲田騒動」の結果学苑を去り、早稲田実業学校長として、余生を実用的な商業教育の推進に打ち込んだ。かつては代議士に打って出、政治家として働いたこともあり、東京専門学校・東京高等商業学校の講壇に立ち、また『経済原論』をはじめ幾多の名著を出して、教育者・経済学者として活躍し、更に東洋経済新報社を主宰して優れた評論を次々と公表した一流の経済評論家でもあった天野が、一中等学校の校長に満足しているのを冷笑する者、惜しいと評する者もいたが、天野自らは、

私は早稲田大学の総長をして居るのも、実業学校の校長をして居るのも、小学校の校長をして居るのも同じだと思ふ、又銀行の頭取にならうが、宰相にならうが、大金持ちにならうが、総て同じである、即ち世の中の職業に貴賤尊卑の差別はない、総理大臣も早稲田実業学校長も、世に尽す点に於ては同じである。故に私には少しも不平がない。愉快に此学校に来て、諸君のやうな若い人を相手に話をして居る。 (『大成』昭和六年七月発行 第二四号 七頁)

と達観していた。このような天野の心は、学長を辞めて大正七年十二月早稲田実業学校長に再任した前後に作詩した左記の「大正七年四月偶作」にもよく示されている。

人生如一夢 嗟咜何足哀 貴賤賢不肖 須叟皆塵灰 所以明哲士 作善為至楽

死生与窮通 一斉附碧落 思之独微笑 胸中自清平 茫々三千界 忽化喜見城

(『天野為之先生生誕百年記念展のしおり』一四頁。なおこの詩は昭和十二年に改作されている)

 しかるに昭和八年頃から高血圧に悩まされるようになり体力が衰え始めたが、たまたま十三年三月腸チフスに感染し、同月二十六日午前三時四十五分永眠した。享年七十七歳。葬儀は三月二十九日早稲田実業学校剣道場において校葬の儀を以て行われ、遺骨は多摩墓地に葬られた。大正六年以来、学苑を去り、殆ど無縁の状態になったが、学苑の創立と発展、特に経済教育の充実に尽力した功労はこれを没することができない。昭和三十六年十一月に早稲田大学が天野為之先生生誕百年記念展を開催し、その遺業を偲んだのは、蓋し当を得た企画と言えよう。

 平沼淑郎は美作国津山城下(岡山県津山市)に晋の長男として生れ、東京大学文学部政治学及理財学科を明治十七年に卒業後、市立大阪商業学校長、大阪市助役、市立大阪高等商業学校長などを歴任した後、明治三十七年に学苑に迎えられ商科に出講、四十四年教授となり、大正六年に理事、同十二年商学部長、昭和三年早稲田専門学校長に選任され、逝去するまで商学部長の職にあっただけでなく、大正七―十年には学長の大任を果している。天野為之横井時冬田中穂積らと並んで、早稲田大学商学部の創設、発展に尽した功は大である。また経済史学者としても、昭和五年創立の社会経済史学会の代表理事を逝去まで続けたほか、著書・論文も多く、特にその歿後、昭和三十二年早稲田大学出版部から刊行された『近世寺院門前町の研究』(人交好脩編)は、実証的な都市研究に先鞭をつけた業績として著名である。平沼は、昭和九年に軽微な脳溢血を病みはしたが、その後も理事・商学部長の劇職にあって活躍を続け、昭和十年に結成された早稲田大学商学部校舎改築促進会の会長としても所期の目的達成のため邁進した。しかし平沼も病には勝てず、昭和十三年八月十四日午後二時四十五分脳溢血のため急逝した。享年七十四歳。後の総理大臣平沼騏一郎はその弟である。葬儀は寺尾元彦葬儀委員長以下約二千名の参列者を得て小石川伝通院において厳かに執行され、遺骨は郷里の安国寺と東京染井墓地に納められた。『早稲田学報』第五二三号(昭和十三年九月発行)には、諸家の追想文が掲載されているが、田中穂積総長は、「大学は学術研究の府であると同時に教育の府である。従て大学教授は此二つの資格を備ふべきである。……我が平沼博士は此等の両資格を具備した、理想的の人であつた」(一四頁、一六頁)と讃えている。商学部新校舎建設のための寄附申込額が、予定を五万円も超過して三十五万円の巨費に達したのは、校友の熱意によるとはいえ、これを推進した平沼の功は大なるものがあった。校舎の竣功は平沼歿後であったが、大学はその功を讃え胸像一基を造り、新校舎(現一一号館)玄関正面に安置したのである。