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第六編 大学令下の早稲田大学

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第一章 大学令の実施

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一 「大学」名称の容認から公認へ

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 それまで大学と称してはいたものの、法制上は専門学校令による学校であり、ただ「大学」という名称の使用が許容されていたに過ぎなかった学苑が、大正七年の大学令の公布により、私立大学も官立大学と同等のものと法律的に認められて、正式に大学の地位を与えられたのが大正九年二月のことであったことは、同年の公文書を綴った『公文類聚』第四四編巻二四(国立公文書館所蔵)中の文書番号第二十三号「早稲田大学ヲ大学令ニ依リ設立スルノ件ヲ裁可セラル 二月二日 上奏」に示されている(因に同書の文書番号第二十四号は慶応義塾大学の裁可書類である)。

 この公文書は天皇の勅裁を請う文書であり、次のようにいかめしい手続と形とをとっている。

財団法人早稲田大学ニ於テ大学令ニ依リ早稲田大学ヲ設立スルノ件申請有之審査スル処規模設備大学トシテ適当ナリト認ム依テ之ヲ認可セントス玆ニ謹テ 宸裁ヲ仰ク

大正九年一月二十三日 文部大臣 中橋徳五郎印

大正九年一月二十七日 内閣総理大臣 内閣書記官長㊞ 内閣書記官印

別紙文部大臣上奏早稲田大学ヲ大学令ニ依リ設立スルノ件ハ相当ノ儀ト被認ニ付上裁ヲ経テ左ノ通指令相成然ルヘシ

指令案

早稲田大学ヲ大学令ニ依リ設立スルノ件上奏ノ通裁可ヲ経タリ

早稲田大学ヲ大学令ニ依リ設立スルノ件

右謹テ裁可ヲ仰ク

大正九年一月三十日 内閣総理大臣 原敬(花押)

 この公文書には「参考書」として大学令による早稲田大学の概要が添付されている。これは大学が文部省に提出した認可申請用に作成した簡潔なものであり、我が学苑の歴史にとっては記念すべきものなので、この部分を以下全文引用する(原文書にある教員氏名の肩書は略した)。

参考書

一、大学ノ名称

早稲田大学

二、学部ノ種類及名称

学部ノ種類 学部ノ名称

政治経済 政治経済学部

法学 法学部

文学 文学部

商学 商学部

理工学 理工学部

三、各学部ノ学科

政治経済学部

第一、政治学科

第二、経済学科

法学部

文学部

第一、哲学科

イ、東洋哲学専攻

ロ、西洋哲学専攻

ハ、社会哲学専攻

第二、文学科

イ、国文学専攻

ロ、支那文学専攻

ハ、英文学専攻

ニ、仏蘭西文学専攻

ホ、独逸文学専攻

へ、露西亜文学専攻

第三、史学科

商学部

理工学部

第一、機械工学科

第二、電気工学科

第三、採鉱冶金学科

第四、建築学科

第五、応用化学科

四、大学院及大学予科

大学院及大学予科ヲ設置ス

大学予科ハ早稲田大学高等学院ト称ス

五、入学資格、修学年限及学士称号

各学部入学資格

本大学予科ヲ修了シタル者、高等学校高等科ヲ卒リタル者又ハ之ト同等以上ノ学力アリト認メラレタル者

予科入学資格

中学校第四学年ヲ修了シタル者又ハ之ト同等以上ノ学力アリト認メラレタル者

修学年限

各学部 三年

予科 三年

学士称号

政学士

法学士

文学士

商学士

理学士又ハ工学士

六、位置及校地

各学部

東京府豊多摩郡戸塚町大字下戸塚六百四十七番地

面積一万九千五百十八坪余

高等学院

東京市牛込区下戸塚町四十一番地

面積四千九十六坪余

七、建築及設備

各学部教室延坪 三、二八二坪

高等学院教室延坪 一、八一〇

大正九年三月落成ノ分 九〇三

内未成ノ分 九〇七

高等学院教室数 五五室

蔵図書冊数 一八六、五四〇冊

機械標本類点数 一一、六五一点

八、各学部及予科在学者定数

政治経済学部 三二〇

法学部 一八〇

文学部 三〇〇

商学部 九〇〇

理工学部 六〇〇

計 二、三〇〇

高等学院 一、八〇〇

九、各学部及予科専任教員

政治経済学部 八名

浮田和民 副島義一 塩沢昌貞

平沼淑郎 安部磯雄 煙山専太郎

高橋清吾 五来欣造

法学部 四名

中村万吉 寺尾元彦 遊佐慶夫

杉田金之助

文学部 十七名

金子馬治 遠藤隆吉 杉森孝次郎

関与三郎 紀淑雄 帆足理一郎

五十嵐力 片上伸 松平康国

牧野謙次郎 横山有策 吉田源次郎

増田藤之助 吉江喬松 山岸光宣

津田左右吉 西村真次

商学部 十名

田中穂積 樋口清策 小林行昌

渡部明 神尾錠吉 高杉滝蔵

武信由太郎 勝俣銓吉郎 伊地知純正

杉山重義

理工学部 三十名

浅野応輔 渡部寅次郎 松本容吉

村田栄太郎 山ノ内弘 師岡秀麿

鈴木徳蔵 山本忠興 甲斐秀雄

堤秀夫 上田大助 大隅菊次郎

山本五郎 川原田政太郎 坪内信

徳永重康 野村堅 小室静夫

藤井鹿三郎 三宅当時 北沢武男

佐藤功一 岡田信一郎 吉田享二

内藤多仲 徳永庸 今和次郎

小林久平 富井六造 井上誠一

各学部 計 六十九名

高等学院 十八名

十、開設期日

各学部第一学年 高等学院第一学年

大正九年四月一日

十一、経費及維持ノ方法

維持ノ方法

本大学ハ財団法人早稲田大学ノ設立ニ係リ基本財産ヨリ生ズル収入、授業料、早稲田大学賛助会小口寄附金収入及其他ヲ以テ維持ス

基本財産供託ノ方法

基本財産金九十万円左記ノ通之ヲ六箇年ニ分割供託セシム

初年度 一五〇、〇〇〇円

二年度 一五〇、〇〇〇円

三年度 一五〇、〇〇〇円

四年度 一五〇、〇〇〇円

五年度 一五〇、〇〇〇円

六年度 一五〇、〇〇〇円

右ハ財団法人早稲田大学ガ現ニ所有シ早稲田大学ノ基本財産ニ充当シ得ベキ有価証券現金四十万七千百余円及大正八年度ヨリ五箇年ニ亘リ納入セラルベキ寄付金七十余万円ノ一部ヲ以テ之ニ充ツ

大正九年度収支予算

総収入 二七〇、五〇〇円

内訳

高等学院 六〇、〇〇〇円

各学部 二〇四、五〇〇円

基本金利息 六、〇〇〇円

総支出 二六六、七六二円

内訳

高等学院 六三、三六二円

各学部 二〇三、四〇〇円

完成年度収支予算

総収入 四七六、〇〇〇円

内訳

高等学院 一四五、六〇〇円

各学部 二九四、四〇〇円

基本金利息 三六、〇〇〇円

総支出 四七〇、九八五円

内訳

高等学院 一五七、三八五円

各学部 三一三、六〇〇円

 勅裁という形式をとる故に、これを表面的に見ると、恩恵的に早稲田大学が大学として認可されたように感じられるかもしれないが、その内実は寧ろ逆であったと理解すべきであろう。

 前二巻で詳述した如く、明治十五年開校以来学苑当局者の努力は目覚しいものであった。学苑が常に私立大学の向上発展の運動の先頭に立っていたことは特に注目すべきである。大正九年二月、大学令による認可の第一、第二号は慶応義塾大学と早稲田大学であった。法政大学、明治大学、中央大学、日本大学、国学院大学、同志社大学は若干遅れて同年四月に認可された。前巻第五編第二十三章に触れた大隈内閣における高田文相のいわゆる高田案に徴しても分るように、大学令の公布そのものにも学苑関係者の強い推進があったのである。

 我が学苑は明治三十五年に私学で初めて大学名称を冠したが、翌年公布の専門学校令は、見方によってはこれを追認するための法律のようなものであり、これ以後他の私立学校も次第に大学を名乗るようになったのである。また、第一巻に詳記したように、明治二十三年に慶応義塾が初めて学内に大学部を設けたが、我が学苑はこれより二年早く、大学部とも言うべき予科を持つ英語専門諸科を、邦語専門諸科とは別に新設している。私立大学の濫觴はここにあると見ることもできよう。

 日本の大学は大別すれば二つの道を辿って展開した。第一は「上から」創設された「帝国大学」の系譜であり、第二は「下から」発展を遂げた、私学を中心とする「専門学校」の系譜である。日本の大学の発展のリーダーシップを、この二つのいずれが握ってきたかは、見る人の関心によって異るだろう。しかし、いずれにせよ、この二つの系譜から構成される発展のダイナミクスを捉えることなしには、日本の大学の発展過程は正確に捉え難いと思われる。帝国大学は初めから「大学として」そこにあった。だがそれ以外の高等教育機関「専門学校」は、「大学となる」ために「大学を目指して」苦しい戦いを進めなければならなかった。大正七年の「大学令」は、その戦いの一つの到達点と見るべきである(天野郁夫「『高等教育』史研究の視点」『大学史研究通信』昭和四十六年発行第四号)。

 学苑の如き、大学と改称してから後、明治三十七年に商科を、四十二年に理工科を新設し、総合大学の実を示しながら、依然として専門学校令の支配を受け、官立の帝国大学以外には大学は存在しないという取扱いを多年に亘って受けてきたが、田中穂積はその理由を左の如く説明しているのである。

私立大学は何故に真の大学として取扱はざるかと云へば、完金なる大学教育は国家の力に俟たざれば到底達成し得らるるものでないと云ふ頑迷固陋の僻見に基づいて居るのであつて、此等の頑迷者流は多くは最近学術の著しき進歩を為せる独逸に一つの私立大学も存在せざる事実を目撃し、独逸の成功は一に官立大学の賚なりと軽断し、国家の重きに任ずる英才は国家自から之れを教育しなければならぬと云ふ謬見を抱いて居つた。然るに時の力は実に恐ろしいもので、さしも頑迷固陋の僻見も時勢の進歩と共に次第に其迷を解いて来たのみならず、最近欧洲大戦に於て官学万能の独墺同盟国は数年に亙る悪戦苦闘の末遂に其社稷を滅ぼし、ハプスブルグ家もホーヘンツォレルン家も砂上の楼閣の如く忽然として覆つたに反して、最後の勝利を贏ち得た聯合国の中堅たる英国に於ては一つの官立大学もなく、又米国に於て第一流の大学は孰れも皆な私立ならざるなき事実を目撃しては、如何なる頑迷者流も覚醒せざるを得ないのであつて、遂に一昨年末新大学令の発布を見るに至り、而して其結果我が学園が我邦最初の私立大学として最近に開始の日を迎ふるに至つたのは、思へば誠に永い間待遠いことであつたが、老総長によつて蒔かれた種子、名誉学長によつて耕され培はれた若芽が漸く成長し、葉が繁り枝が太つて、他年一日亭々雲表に聳ゆる準備は既に業に整つたやうな感なきを得ない。 (『早稲田学報』大正九年二月発行 第三〇〇号 二頁)

二 学苑の対応

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 さて、大正七年九月十一日挙行された始業式で、当時、大学令審議中の内閣の臨時教育会議委員であった学苑の代表者理事平沼淑郎は、前巻第五編九八六頁に引用した改定校規に触れるのに先立ち、委員の一人として私立大学に大学の資格を与えるよう議決するに至った経緯を明らかにしたが、更に同年十月二十六日、学長就任式では、真の大学たらんと挨拶し、続いて翌々二十八日、創立三十五周年を記念して開催された中央校友大会においては、大隈総長も左の如く演説した。

我が大学は今日の如く大をなしても、当局者はまだ専門学校令を以て之を遇して居る。専門学校令でも大学令でも問ふ所ではない、内容さへ宜ければ宜いやうなものであるけれども、俗世界に於ては何だか専門学校と云ふよりは大学と云つた方が宜い。早稲田大学も近来内容が充実したから文部省に於ても之を真の大学と認めて差支はない、名実共に大学の地位に達したと云ふことを当局者もまた臨時教育会議の委員も認められたと思ふ。今日はまだどうなるか解らぬが、早晩事実に現はれさうである。

(『早稲田学報』大正七年十一月発行 第二八五号 一九頁)

 大学令は大正七年十二月六日公布されたが、平沼学長は翌八年一月発行の『早稲田学報』(第二八七号)巻頭に寄せた一文において、学苑は今後研究機関の設備と学者の優遇との二点を考慮しなければならないが、更に目前にあって、多額の資金および予科の問題という二つの難関に遭遇していると訴えた。前年十月、大学経常費の不足を補充することを目的とする早稲田大学賛助会が発足し、四五頁に後述の如く八年一月より学費年額が五円増額せられ、また同月より科外講義や学苑の近況を収めた『早稲田叢誌』を刊行して協力者への配付を決定したのは、いずれも難局打開の一助と考えられたからであった。

 大正八年三月一日に開催された臨時評議員会後の総長邸での会合で、平沼学長は、大学令実施に関する学苑の事情を説明、田中理事は大学令発布後の幹部の活動を報告、次いで大隈総長より評議員の奮励努力を要請したが、評議員は全員邁往尽力する旨を決議し、即座に四万円に達する資金寄附申込みが数名の有志により行われた。

 かくて大隈総長は、同年四月十四日の始業式訓示で、本年中に学苑が大学令による大学となるに相違ないと信ずる旨を述べ、同年六月十日の定時維持員会において大学令実施準備委員会を新設し、左の十四名を委員として嘱任することに決定した(ただし『早稲田学報』(大正八年七月発行 第二九三号 二頁)に発表されたのは、昆田と氏家を除く十二名であった)。>高田早苗 松平康国 昆田文次郎 中村進午 金子馬治 中島半次郎 内ヶ崎作三郎

氏家謙曹 増子喜一郎 平沼淑郎 松平頼寿 浅野応輔 塩沢昌貞 田中穂積(主査)

更に同年七月六日の評議員会後の会合では、大隈総長の左の如き演説が行われた。

今や世界の戦乱は已に平和に帰したるも、物価は著しく騰貴し生活の困難是れに伴ふ。教職員諸君は国家の為めに努力せらるるも、之れが報酬は他の事業に比して甚少く、献身的に努力せらるるも到底之れに堪ふる能はず。我が大学も乍不十分昨年増俸を断行し、本年も亦更に多少の増額を為すの己むを得ざるに至れり。従来我が大学は、不完全ながらも大学たるの教育を施し其体面を維持せるにも拘はらず、形式上官立大学と同一の待遇を受くるを得ず。理由は別に是れあるに非らず、只官私の名に依りて然りしのみ。之れが為めに屢々之を論難したりしが、此度教育調査会に於て、条件を具備するものは官立大学と同一の待遇を与ふることに議決し、大学令を公布せらるるに至れり。教育上別に関係なきことなるも、我が大学の信用と体面上此の資格を得ざるべからず。而して是れが為めには設備の上に多額の資金を要し、学生の数にも自制限を加ふることとなる。即収入は減じて支出は増すこととなるなり。国家と雖増税又は公債によりて国費を補足する今日に於て、私立の大学が独力之れに当らんとするは固より至難の事に属す。乍去今は是非とも之を断行せざるべからず。元来学校は単に学費のみによりて経営を為すべきものにあらず。信用即国家に対して貢献すとの信用を得て大方の援助を受け之れが経営を為さざるべからず。既に校友の数も一万を超ゆ。校友諸君の協力により此の目的を達するは敢て難事にあらずと信ず。……本大学も已に三回の基金募集を為せり。此度は設備を完全にし教師を聘する為めに復た社会に愬へ其の力を仮らざるべからず。即諸君の協力に依らざるべからず。今回の金額は従来に比して頗る多額なるが如きも、教職員及校友諸君が学校と関係を有せる団体と協心戮力せば、是れを得ること不可能と云ふべからず。最早猶予すべきにあらず。今や我が大学は校友と学生とを合算せば優に二万以上に達すべし。互に戮力せば之れに応ずるの設備を為すを得べしと信ず。諸君の尽力を請ふ所以なり。余老たりと雖、必要に応じて地方にも出張して共に力を竭すべし。三十七、八年間互に努力して今日に至りたる我が早稲田大学が此際大学令に拠るを得ずとせば真に遺憾と云はざるべからず。十七、八年前に比すれば我が大学も拡大し、又社会に於ける地位も信用も多少高まりたりと信ず。金額は多きも之を往時に比すれば貨幣の価低きが故に、百五十万円は十四、五年前の五〇万位に過ぎざるべし。……偏に諸君の御尽力を望む云々。 (『早稲田学報』大正八年八月発行 第二九四号 三―四頁)

 大学令実施準備委員会の審議を中核として、大学令実施に対応する諸般の準備は大正八年夏までに着々として進捗し、七月十二日の中央校友大会で、平沼学長は、文部省への供託金は御大典記念事業資金を一時流用することとし、六ヵ年賦毎年十五万円は、国庫債券の購入によって十二万円で足りるから、準備は完了したと報告、九月八日の維持員会は、同月一日の大学令実施準備委員会で議了された議案につき主査田中穂積より説明を聴取した後、大学各学部開設期を大正九年四月一日とし、大学予科については「高等学院ノ名称ハ佳名ナキヲ以テ之ヲ改メザル事」と決定し、既述の如き内容を持つ大学設置申請の件を議決、同月十日、東京府庁を経て文部省への申請手続を完了した。翌十一日の始業式において、平沼学長は早速左の如き演説を行ったのであった。

新大学令の実施に就いては、大学令実施準備委員……の決定した成案を、去る八日の維持員会に提出して、その議決を経た。ここに大学設立の認可申請をするまでの手続が完備したのである。主務省はその申請書を審査して、これを臨時教育委員会の議に附するであらうと思ふ。主務省よりの認可がなければその内容を十分具体的に発表するを得ないのであるけれども、今日明言して差支ないことは、報告して置く。我が大学に於いて、新令の実施をするのは、来年の四月一日からである。さうして新令によつて、先づ第一に高等予科の改革を行はなければならぬ。例へば各学級の人員の如きも、今日に比較すれば、非常に制限をしなければならぬ。これがために高等予科の校舎を新築することに決定して、既にこれに着手してゐる。今学年中に、全部落成するのではない。継続事業として、工事を進行することになつてゐる。来年の四月に入学せられる人々に対しての設備は三月中には完成するはずである。……新令の実施に当つて、今日の私設学校中、大学の資格を得るものが幾何あるか。これは、今日なほ審かでない。申請の手続を了したるところの私設学校は、今日、我が大学と慶応義塾大学との二校のみである。この外の大学は、如何になるか。今日では、不明に属してゐる。 (同誌 大正八年十月発行 第二九六号 二頁)

 かくて、十二月二十五日、文部省専門学務局長松浦鎮次郎と第二課長沢田源一が学苑を訪れて実施調査が行われるまでには、大学令実施に対する学苑の対応は概ね完了したのであった。

 翌九年一月十五日の定時維持員会では、田中主査から、

一、二学年ノ課程ヲ以テ已ニ卒業シタル予科生及ビ卒業ス可キ予科生ハ新大学令ニ依リ大学部一年級ニ入学セシムル事二、右ニヨリ本年度ハ現制予科学生ヲ募集スル事

三、本年ヨリ新大学令ニ依ル大学各部一年ノ授業ヲ開始スル事

が報告・承認された。他方、同年二十日文部大臣官邸で開催された教育委員会は学苑に関する案件を審議し、満場一致で可決した。そこで、冒頭に引用した公文書のように、この書類は一月二十三日文部大臣から内閣へ送付され、三十日首相は裁可を仰ぐ書類を調整して二月二日上奏したのである。その結果、二月五日、文部省告示第三十六号により認可せられた。

財団法人早稲田大学ニ於テ大学令ニ依リ早稲田大学ヲ設立スルノ件大正九年二月五日認可セリ

大正九年二月六日 文部大臣 中橋徳五郎

 田中は学苑の公式発表として、二月発行の『早稲田学報』(第三〇〇号)に左の如く概略を示した。

大学の予備門は之れを早稲田高等学院と名付け、大学よりは二丁程を隔てた牛込区下戸塚町四十一番地即ち穴八幡下の土地八千数百坪〔大正八年十二月陸軍省より貸下げられた四千坪余を含む〕の地を相して敷地に充て、此処に二ヶ年継続事業で約二千四百坪の校舎其他附属建物を建設する計画で、其一半の工事は既に完成に近附きつつあるが、教室其他の設備は厳格に高等学校令に準拠して最も完全を期した。而して修業年限は中学四年以上の終了者を収容して三ヶ年とし、生徒の定員は差当り毎学年文科四百四十名、理科百六十名合せて六百名、即ち三ヶ年を通じて一千八百名を収容し、学科々程は大体に於て高等学校令に準拠することは勿論であるが、高等学院は早稲田大学の予備門たるが故に、科程に適切なる按排を加へて準備教育の徹底完成を期すると同時に、一面には早稲田大学の教旨に則り、自敬自修、実力を涵養し、徳器を造就し、健康を増進し、剛健快活の気象を養成して善美なる学風の発揚を計りたいと思ふ。次に大学の定員は各科三年を通じて二千三百名とし、高等学院の定員よりは毎年約二百名づつ多く収容し得る余地を存したのは、成るべく学生に対し其希望する学部選択の自由を与ふる便宜の為めと、又一つには他の官公私立の高等学校卒業生に対し早稲田大学の門戸を開放せんとする用意に出でたものであつて、最初は兎に角五年の後十年の後に於ては独り我が高等学院の卒業生のみに止まらず、他の高等学校出身者をも成る可く多数収容するやうにありたい希望である。而して大学の分科は従前の通り、政治経済学部、法学部、文学部、商学部、理工学部の五部に分ち、政治経済学部を第一部政治学専攻、第二部経済学専攻に細別し、文学部も哲学科と文学科とに分ち、更らに之れを細別し、理工学部に機械工学科、電気工学科、採鉱冶金学科、建築学科、応用化学科を置くが如きは従来の通りである。 (二頁)

 さて大学昇格の申請に当り、当然、学則の改正が必要となった。学苑では、二月六日大学認可がおりると即日それを申請し、三月三十一日付で認可された(このとき校規も改正されたが、これは第四章三に記述する)。新学則の要点を示せば、次の如くである。

第一章 総則

第一条 本大学ハ専門学術ノ教授及研究ヲ目的トス。

第二条 本大学ニ政治経済学部、法学部、文学部、商学部及

理工学部ヲ置ク。

第三条 本大学ニ附属早稲田高等学院ヲ置ク。

第四条 本大学各学部ニ研究科ヲ置キ之ヲ綜合シテ大学院ト

ス。第二章 学科課程

第一条 政治経済学部ニ左ノ二学科ヲ置ク。

第一 政治学科

第二 経済学科

第二条 文学部ニ左ノ三学科ヲ置ク。

第一 哲学科

第二 文学科

第三 史学科

第三条 理工学部ニ左ノ五学科ヲ置ク。

第一 機械工学科

第二 電気工学科

第三 採鉱冶金学科

第四 建築学科

第五 応用化学科

第四条 各学部ノ修学年限ハ之ヲ三学年トス。

第五条 授業科目ヲ分チテ必修科目、選択科目及随意科目トス。

第六条 必修科目ハ其全部ニツキ試験ヲ受クルコトヲ要ス。

第七条 選択科目ハ学生ヲシテ所定ノ標準ニ依リ選択受験セシム。

第八条 随意科目ハ試験ヲ行ハズ。

〔中略〕

第三章 学年学期及休業

第一条 学年ハ四月一日ニ始リ翌年三月三十一日ニ終ル。

第二条 夏季休業ハ七月十一日ヨリ九月十日ニ至リ、秋季休業ハ十月二十一日ヨリ同月二十七日ニ至リ、冬季休業ハ十二月二十五日ヨリ翌年一月七日ニ至ル。

第三条 日曜日、大祭日、祝日及本大学創立記念日(十月二十日)ハ休業トス。

第四条 休業中ト雖モ特ニ講義ヲ開キ実験実習ヲ課シ又ハ試験ヲ行フコトアルペシ。

第四章 入学、在学及退学

第一条 入学時期ハ毎学年ノ始トス。

第二条 附属高等学院又ハ大正八、九、十年及同十一年早稲田大学高等予科ヲ修了シタルモノハ其志望学科ノ属スル学部第一学年ニ入学スルコトヲ得。

第三条 前条ノ入学志望者ヲ入学セシメタル後尚欠員アル時ハ高等学校高等科ヲ卒業シタル者ノ入学ヲ許可スルコトアルベシ。

第四条 本大学卒業生ニシテ他ノ学科ヲ修メント欲シ更ニ同学部若クハ他ノ学部ニ入学ヲ請フトキ、又ハ中途退学シタル者ニシテ学年ノ初ヨリ更ニ原級以下ニ入学ヲ請フトキハ銓衡ノ上之ヲ許可スルコトアルベシ。

〔中略〕

第六章 試験

第一条 試験ハ毎学年ノ終ニ於テ之ヲ行フ。

但シ当該学部教授会ノ決議ニ依リ臨時ニ之ヲ行フコトヲ得。

第二条 試験ノ方法ハ筆記口述又ハ論文等ノ内当該教授会ノ決議ニ依リ之ヲ行フ。

第三条 左記ノ成績ヲ得タル者ニアラザレバ次学年ノ試験ヲ受ケルコトヲ得ズ。

一 第一学年ニ於テハ所定全科目中二分ノ一以上ノ試験ニ合格シタル者

二 第二学年ニ於テハ第一学年及第二学年ヲ通ジ所定全科目中二分ノ一以上ノ試験ニ合格シタル者

第四条 各学年所定全科目ノ試験ニ合格シタルモノヲ卒業トス。

第五条 試験ハ各科目ニツキ合格不合格ヲ定ム。

試験ノ成績ハ甲乙丙丁ノ四級ニ分チ甲乙丙ヲ合格トシ丁ヲ不合格トス。

第六条 休学シタル者ハ当該学年ニ於ケル試験ヲ受クルコトヲ得ズ。

第七条 在学七年ヲ超エ卒業セザル者ハ之ヲ除籍ス。

第七章 学士称号及卒業

〔中略〕

第二条 各学部卒業生ハ其卒業学部ニ依リ左ノ通学士ト称スルコトヲ得。

政治経済学部卒業生ハ 政学士

法学部卒業生ハ 法学士

文学部卒業生ハ 文学士

商学部卒業生ハ 商学士

理工学部卒業生ハ 理学士又ハ工学士

〔中略〕

第九章 学費

第一条 学生入学ノ節ハ入学金トシテ金五円ヲ納付スベシ。

第二条 学費ハ一学年金九十円トス。

第三条 学費ハ之ヲ三期ニ分チ毎期左ノ期日マデニ前納セシム。

第一期 四月十五日迄 金三十円

第二期 九月十五日迄 金三十円

第三期 一月十五日迄 金三十円

第四条 事故アリテ欠席スル者ト雖モ必ズ学費ヲ納付スベシ。

第五条 一旦納付シタル学費ハ之ヲ還付セズ。

第六条 学費納付ノ期日ニ違フ者ハ本人及其保証人ニ催告シ尚納付セザル者ハ之ヲ除籍ス。

第七条 理工学部実習費ハ別ニ之ヲ徴収ス。

 第四章第二条の入学資格のうち高等予科修了者については、後述七五―七六頁で触れることにする。

 第七章第二条の学士称号は、のち大正十五年三月三十日に一部改正があり、政治経済学部の場合、政治学専攻者は政治学士、経済学専攻者は経済学士の学士号を得ることとなった。

 次に第二章の学科課程中、各学部の授業科目と毎週授業時数を掲げてある第九条は、既に『半世紀の早稲田』三一三―三三一頁に課程表として掲載したので、紙幅の節約上、ここでは省略する。この条によると、文学部の哲学科が東洋哲学専攻、西洋哲学専攻、社会哲学専攻に、文学科が国文学専攻、支那文学専攻、英文学専攻、仏蘭西文学専攻、独逸文学専攻、露西亜文学専攻に、分れていることが分る。第五編第五章に既述したように、大学部文学科は旧学制の最後の年である大正八年に学科課程を大改正したが、このときの哲学専攻科と文学専攻科の中の各専攻はそのまま前記のように新学制に引き継がれた。ただし旧学制の大学部文学科史学専攻科は国史専攻、東洋史専攻、西洋史専攻の三専攻に分れていたが、大学令下のそれは文学部史学科とのみなっている。恐らく同科は当時在学生が少く、このため国史、東洋史、西洋史の各専攻を敢えて学制の上には置かなかったのだと思われる。

 学則第一章第四条に言う大学院は、田中穂積によれば、「従来我邦官私大学に於ける大学院若くは研究科なるものは、動もすれば形骸のみに過ぎざる嫌あるを免れなかつたから、大に此弊風を打破し、大学院の活躍に依つて真に学術の蘊奥を究め思想の淵源たる使命を全ふせしめたい希望であ」り(『早稲田学報』第三〇〇号 二頁)、学則第八章で次のような規則を与えられている。

第八章 大学院

〔中略〕

第二条 各学部卒業生ニシテ大学院ニ入学セント欲スル者ハ研究事項ヲ具シ本大学ニ願出ヅベシ。

前項ノ入学志望者ニ就テハ当該学部教授会ノ議ヲ経テ之ヲ許可ス。

第三条 本大学卒業生以外ニシテ大学院ニ入学セント欲スル者ハ当該学部教授会ノ検定ヲ経テ之ヲ許可ス。

前項ノ志望者ハ検定料金十円ヲ納ムベシ。

第四条 大学院学生ハ当該学部長之ヲ監督ス。

第五条 大学院学生ノ指導ハ当該学部教授会ノ議ヲ経テ選定シタル一名又ハ数名ノ教員之ヲ担任ス。

第六条 大学院学生ノ在学年限ハ一ケ年以上トス。

第七条 大学院学生ハ本大学ノ許可ヲ経テ各学部ノ講義又ハ実験等ニ出席スルコトヲ得。

第八条 大学院学生ハ時々其研究状況ヲ指導教員ヲ経テ当該学部長ニ報告スベシ。

第九条 大学院学生ハ他ノ業務ニ従事シ、若クハ東京市又ハ其附近以外ニ居住スルコトヲ得ズ。

但シ本大学又ハ本大学附属学校ノ教職ニ在ル者ハ此限リニアラズ。

第十条 大学院学生ニシテ学位ヲ得ント欲スル者ハ其研究事項ニ付論文ヲ学長ニ提出スベシ。

前項論文ノ審査ハ当該学部教授会ニ於テ之ヲ行ハシム。

〔以下略〕

 初代の学部長としては、「従来の……科部長を改めて学部長と称」する(「早稲田大学第三十七回報告」同誌 大正九年十月発行 第三一〇号付録 二頁)こととして、政治経済学部長に安部磯雄、文学部長に金子馬治、商学部長に田中穂積、理工学部長に浅野応輔が嘱任された。旧制度の法学科長であった中村進午は、この年、「本官」である東京高等商業学校が東京商科大学に昇格し、その教授に任官するとともに学苑の法学科長を辞任したから、法学部長は当分欠員とし、同学部教務主任寺尾元彦が学部長の事務を執ることになった。翌十年九月十七日、校規第六十七条第二項により開催された各学部教授会は、校規第四十三条、第五十一条に定められた学部長および学内選出評議員の改選を行った。その結果は次の通りである。

学部長)

評議員)

 この時期、法学部に重大な問題が生じた。それは、政治経済学部との合併問題である。寺尾元彦の回顧録「法科の過去及現在」(『早稲田法学』昭和八年五月発行 第一三巻)によれば、新学制の移行に際し、法学部を政治経済学部と合併してその中の一学科となし、これにより供託金も十万円を減ずる案があったということである。しかしこの案は、「性質と、歴史、伝統の異る二者を一学部に合すことは将来の発展上、種々なる障碍あるべき」(一一六頁)との法学科教員の主張に耳を傾けた高田の英断により、撤回された。

 次に、大正十三年度の各学部の学科配当表を掲載しておく。大正九年に大学令による大学が発足してから三年目の大正十一年度に一応三年制の学科課程は完成した。ただしこれは、高等予科の項(七五―七六頁)で説明する「別格」制が残存している複雑なものであった。そこで、翌大正十二年の学科配当を掲げる方が適当と考えられるが、同年の学科配当は印刷されることがなかったのではないかと推測される。そのため、大正十三年度を選んだのである。

第一表 大正十三年度学科配当表

政治経済学部政治学科(選択科目数ハ第二学年ハ四科目第三学年ハ三科目トス)

政治経済学部経済学科(選択科目数ハ第二、第三学年共三科目宛トス)

法学部

文学部哲学科

〈東洋哲学専攻〉

三学年間ニ必修スベキ科目

〈西洋哲学専攻〉

三学年間ニ必修スベキ科目

〈社会哲学専攻〉

三学年間ニ必修スベキ科目

文学部文学科

〈国文学専攻〉

〈支那文学専攻〉

〈英文学専攻〉

〈仏蘭西文学専攻〉

〈独逸文学専攻〉

〈露西亜文学専攻〉

各専攻共三学年間ニ必修スベキ科目(支那文学ハ国文学専攻ノ者ニ限リ支那哲学ハ支那文学専攻及国文学専攻ノ者ニ限リ必修セシム)

文学部史学科(第二学年ニ於ケル*印ノ科目ハ各専攻ニ従ツテ選ビ修メシム)

三学年間ニ必修スベキ科目

商学部(第三学年ニ於ケル特殊研究ハ一科目選択トス)

理工学部機械工学科(理工学部ニ於ケル外国語ハ英語、独語、仏語露語及支那語トシ其一又ハ二ヲ選択セシム)選択科目ハ各学期二科目ヲ選択必修セシム

理工学部電気工学科((電)ハ電気工学科(通)ハ電気通信科)

理工学部採鉱冶金学科((採)ハ採鉱部(冶)ハ冶金部)

理工学部建築学科

理工学部応用化学科

第二外国語〔政治経済学部および商学部にあっては、第一外国語は英語であり、第二外国語は全学部合併授業で実施された。〕

〈独語科〉

〈仏語科〉

〈露語科〉

〈希臘語科〉(文学部ニ限リ履修セシム)

〈拉典語科〉(文学部ニ限リ履修セシム)

〈梵語科〉(文学部ニ限リ履修セシム)

〈支那語科〉

 この学科課程の編成は官立大学などのそれと比べて非常に特色のあるものであった。この点につき田中穂積は次のように言っている。

素と素と大学教育の神髄は習ふと云ふよりは寧ろ知るにある。即ち伝習にあらずして自知自発でなければならぬことは論を俟たぬ。従て大学の教授は材料を提供し研究の指導をすると云ふことが本職であるから、従来我邦の官私大学に見るが如く一週二十余時間乃至三十余時間と云ふが如き、多くの授業をするのは甚しき間違であつて、独逸の大学の如く教授の自由、学修の自由、聴講の自由を特色として居る所に於て学生の聴講時間数の一般に極めて少きは勿論、英米の諸大学の如く各学年の学科科程の大体一定して居る所に於ても、一週間の授業の授業時間数は十二時間乃至十五時間を限度とする事実に顧み、将来我が早稲田大学に於ては成るべく授業時間数を減じて学生の自修を奨励促進する趣旨により、基本的の重要学科に力を入れ、特殊の細目に亙る学科の研究は学生の自由研究に委ねて多少之れを省略した。而して試験は之れを学年本位、即ち各学年の所定科目を毎学年末に試験し、これに合格せるものを進級せしむる従来の制度に依る可きか、或は又学科本位、即ち各科目を学年に分つことなく、単に一定の年限以上在学して一定の科目数を聴講受験して、合格したものに卒業証書を授与する新制度を採用す可きかと云ふことに就ては、最も慎重なる攻究を費したのであつて、理想として学科本位制度は学生各自の能力若くは其境遇に応じて、在学期間を伸縮し得べきが故に頗る結構のやうであるが、実行上に於て幾多の支障が予想せられ、殊に我邦現時の学生間に見るが如く動もすれば、実力よりも寧ろ卒業証書に齷齪する好ましからざる傾向の尚ほ未だ其跡を絶たざる場合にあつては、何としても其弊害が案ぜらるるのみならず、是れを米国などの各大学に就て視ても、一時は彼のエレクテーヴ・システムがエリオット博士等の熱心なる主張により盛に各大学に採用せられたに拘はらず、何分予想した如き好結果が得られない為めに、最近に於ては次第にグループ・システムが広く行はるる事実に徴しても、今日直ちに我が学園に於て純然たる学科本位制度を採用することは早計に失する嫌あるを免れない為めに、従来の学年本位制度と学科本位制度とを折衷したものを採用するに決した。即ち三年に亙つて各学年の科目を規定し、第一学年に於ては所定全科目中二分の一以上の試験に合格したものは進級せしめ、第二学年に於ては第一学年及び第二学年を通じ所定全科目中二分の一以上の試験に合格したものは進級せしめ、而して三学年の所定全科目及び第一学年と第二学年とに於て不合格になつた科目を全部試験して合格した者を卒業とする規定であるから、従て卒業には少くとも三ケ年在学することを必要条件とするのであつて、其以上四年でも五年でも差支ないが、在学七年を超へて卒業し得ない者は除籍することと〔する〕。 (『早稲田学報』第三〇〇号 二―三頁)

 かくて大学令による五つの学部は、我が学苑の中核として大正九年四月その巨歩の第一歩を踏み出した。

 尤も、大学令下の学部学生が果して学苑当局の期待を満足させたか否かには、若干の疑問もないわけではない。後年の政治経済学部教授酒枝義旗の想い出を左に引用してみよう。

政治経済学部に進学したら、安部磯雄先生にカーヴァー(Thomas Nixon Carver)の『経済学原理』講読の授業をうけることになった。

高傑な人格と透徹した理想家であり社会主義者である安部先生の名は、誰も知らぬ者がない。その安部先生の授業だと言うので、殆ど一人も欠席者はなかったと思う。皆が期待に胸をはずませて先生の第一声を待っていると、温厚そのものの先生は、静な落付いた調子で、「今まで高等予科では、一クラスの学生数が多く、且つ年限が一年半だったために、遺憾ながら英語の教育が、充分に徹底できなかった。然るに、このたび第一高等学院からは三年間、第二高等学院からは二年間、それぞれ少数単位のクラスで、みっしり英語教育をうけた諸君を迎えたわけである。今までは、学生諸君に当てるなり、私自身が訳すなりして、授業を進めてきたが、諸君のように、すでに充分の英語教育をうけてきた人に、そうした授業方法を繰り返す必要はないと思う。それで、これからは諸君が自宅で予習して来て、疑問の点があったら、それを、この教壇で遠慮なく質問して貰うことにする。一頁について三分間待ち、その間に質問がなければ、次の頁に進むことにします」と言うお話なのである。これには、学生一同、一寸度胆を抜かれたのであるが、まあどうにかなるだろうと言う気持で、次の時間に出席した。すると安部先生は言葉通りに、カーヴァーの本を開き、「第一頁、質問はありませんか」と問われ、じっと懐中時計を見ていられる。「三分すぎました。質問がなければ次の頁に移ります」と言う調子で、次々にと頁がめくられてゆく。しかし誰一人として、質問するものはない。

このようにして、第一回目にすでに二十頁ほどすすんでしまった。二回目、三回目も、その調子である。忽ちにして百頁ばかりすすんだ。安部先生も、多少不安になられたか、決して遠慮せずに質問するようにと言われるのだが、質問しようにも、大方が予習していないで漠然と出席しているのだから、質問の出ようがないのである。この調子で進んだら、さしも五百何十頁のカーヴァーの本も、全部すむことになって終う。一体どうなることか、誰か質問すればよいのにと、お互に他人に期待はするが、では自分が、一つ正確に予習して来て、いい質問をしようと言う有志はない。今にして顧れば、第二高等学院出身の諸君の中には長谷部忠君のような俊秀もいたことだし、第一高等学院出身の方にも、B組だけでも知久武雄君、大西邦敏君その他の勉強家がいたことだし、いわんや勉強ではB組よりも真面目だったA組には荒垣秀雄君はじめ勉強家が多かったのだから、決して全然予習をせずに出席している筈はなかったと思う。おそらく、第一学院と第二学院とが、初めて一緒になったことから来る控え目の気持があり、自分だけが予習して来ているように人から見られるのを、憚る気運があったのであろう。いずれにせよ、同輩を押しのけて、自分の存在をできるだけ大きく人々の前に映し出そうと言う気分は、当時の政経学部一年生の間には、概して弱かったようである。

そのうちに、誰かが高等予科出身の先輩から聞いて来た噂がクラスの中に弘まった。それは、安部先生は温厚だけれど謹厳そのものの先生だから、試験問題の出題範囲は、決してまけて呉れないぞとの、怖るべき噂だった。さァ大変なことになったと言うわけで、学級委員が、恐る恐るこの点について安部先生に質問した。先生はにこりともせず、丁寧に、今までに進んだ部分の金体から出題しますと答えられた。これには学友一同顔を見合わせた。この上は、何とかして先生のページめくりの進行度を喰い止めなければならない。しかし、すでに玆まで進んで来ているからには、今までに済んだ筈の分の内容を充分に理解していないと、滅多な質問なんかできる筈はない。勉強家の学友達とて、何分今まで質問していないのだから、たとえ予習はして来たにせよ、今更改まって質問すると言う工合にも、ゆきかねたらしい。

どうなることかと思っていたら、次の時間のとき、卒業後東京毎夕新聞の記者になった第二学院出身の某君が、この如何ともなしがたく見えた難問題を、ものの見事に解決したのであった。某君は、先生が「この頁に質問がありますか」と尋ねられるのを待ちかねて、「質問があります」と手を上げた。先生は驚き且つ喜んで、某君の方を向かれた。すると某君は、「先生その五行目のitは何をうけているのですか」と質問したのである。あまり突飛な質問なので、クスクスと忍び笑いする学友たちもあった。安部先生は例の謹厳な調子で、「ああそうですか、それはまことに意味深い質問です。いや、私がまちがっていました。そのitは、その次の段のthat以下の文章をうけるのです。諸君は、英文を読みこなす力を充分にもっているものと自分勝手に考えて、今まで進んできた私の誤りを、只今の質問は的確に指摘してくれました。今までそのことに気づかず、諸君が理解できたかどうかを考えずに進んできたことを、諸君にお詑びせねばなりません。それでは、第一頁にかえって、新らしく出直すことにしましょう」と言われたのである。

一同はホッと安堵の胸をなでおろすとともに、今更のように安部先生の真面目な人格に打たれたことであった。お詑びすべきは安部先生ではなく、安部先生の期待と信頼に答えることを怠った我々学生の側なのである。それを先生は、御自分の責任として認め、改めて、今度は、丁寧・懇切、一句をも忽にしない調子で、カーヴァーの経済原論の講読と説明を進められたのであった。 (『早稲田の森――生ける母校の姿――思い出……』 一二六―一二九頁)

三 大学基金問題

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 大正七年末いよいよ大学令が公布されたとき、これは私立大学撲滅策だとの声が私学関係者より挙がったという。大正六年当時大学と称していた私学は二十六校を数えたが、大学令の内容はこれら私学の実態から見たとき大変厳しいものであったからである。

 大学令においては「私立大学ハ財団法人タルコトヲ要」し、この「財団法人ハ大学ニ必要ナル設備又ハ之ニ要スル資金及少クトモ大学ヲ維持スルニ足ルヘキ収入ヲ生スル基本財産ヲ有スルコトヲ要ス、基本財産中前項ニ該当スルモノハ現金又ハ国債証券其ノ他文部大臣ノ定ムル有価証券トシ之ヲ供託スヘシ」(第七条)と規定し、次いでこの基本財産の件を大正八年四月文部省令第十五号で次のように定めた。

私立ノ大学及高等学校ノ基本財産供託ニ関スル件左ノ通定ム

第一条 財団法人ハ私立ノ大学……設立認可ノ指令ヲ受ケタル日ヨリ三週間以内ニ大学令第七条第二項……ノ規定ニ依リ供託ヲ為シタル旨ヲ文部大臣ニ届出ツヘシ

〔中略〕

第三条 財団法人ハ供託物取扱規程第七条第三項ノ規定ニ依リ有価証券ノ利札及同第十五条第二項ノ規定ニ準シ供託金ニ対スル利息ヲ請求スルコトヲ得

第四条 大学令第七条第二項……ノ有価証券左ノ如シ

地方債証券 勧業債券 興業債券 貯蓄債券 農工債券 北海道拓殖銀行ニ於テ発行スル債券 東洋拓殖債券 文部大臣ニ於テ特ニ認メタル株券

第五条 供託スル有価証券ハ券面額ニ依リ其ノ額ヲ算定ス但シ株券ニ在リテハ時価ノ十分ノ八ニ依リ之ヲ算定ス

〔以下略〕

この供託額は一大学五十万円のほか、一学部を増すごとに十万円を加えるものであり、これを大学の認可を受けてから三週間以内に供託しなければならぬというのであった。

 当時大半の私立大学は授業料収入を最大の財源とし、敷地、校舎等の不動産を除けば基本財産を殆ど持たなかったらしい。例えば法政大学の大正六年度の経常費は僅かに三万円だったと言われる程の実状を見ても、これは私立大学撲滅策だと言わざるを得なかったのである。そこで私立大学側ではこれに関する緩和策を講ずるよう運動し、政府も「不完全ナル大学ノ容易ニ設立セラルル」危険性に鑑みて、認可した各私立大学に二十五万円の補助金を十年割賦で補助することにした。また供託金も五年または六年の分割支払いを認めることにしたのである。

 このような状況の下にあって、我が学苑では基金供託の問題は果してどのように展開されたのであろうか。大正九年五月の『早稲田学報』(第三〇三号)が報じている「大学基金募集の経過」という一文は、この間の経緯を簡明に伝えて、これ自体すこぶる記念的な文章と思われるので、以下全文を引用しよう。

大学令の実施に当り是れに伴ふ基金の募集は最も緊要の事項にして、一昨年末新大学令の発布と共に本大学が改造の事業に着手するや、法令の規定による政府供託金九十万円、大学予備門即ち高等学院の新築及設備費六十万円、合計百五十万円の資金を要する見込なりしが、昨年一月以来田中理事専ら此局に当り、松平理事と共に先づ京浜有力者の間に勧説し、三月開催の臨時評議員会後大隈総長邸の茶話会席上、総長に次で田中理事より基金募集の着手以来の経過報告及将来の方針に関し評議員諸氏の奮励協力を要望したるに、即座に四万円の寄附申込ありたるを手始めに、有力なる校友諸氏より孰れも奮て多額の申込あり。同時に基金管理〔委〕員諸氏も亦渋沢委員長を初めとして率先之れに呼応せられたれば、始終一貫本大学に多大の同情を寄せらるる京浜有力者よりも次第に申込に接し、五月には既に申込確定額三十余万円に達する盛況を告げたり。然るに六月以来田中理事は高等学院の新築及大学認可申請の事務に忙殺せられたる為め、基金募集事務は已むを得ず暫らく停止の状態にありたるも、九月に入り学院の建築も漸く其緒に就き、大学の認可申請書も既に当局に提出したれば、再び捲土重来の勢にて基金募集に従事することとなり、十月には松平、田中両理事は相携へて阪神有力者の勧説に出張し、次で翌十一月より十二月に亙り田中理事は再び関西に出張し、斯くて昨年末の寄附申込額は八十有余万円に達したるが、本年に入りても依然として油断なく募集運動を継続し、二月中旬田中理事は九州各地に出張して有力者の勧説に努め、帰途重ねて阪神間に奔走したる結果申込額は愈々増加し、最近経済界の激変以前に於て既に一百万円を超過したるは、全く始終一貫渝らざる大方諸君子の深厚なる同情の賜にして、未だ予定金額の百五十万円に対しては四十余万円の不足なるも、政府の新予算が成立すると共に文部省が最近認可せられたる各私立大学の供託金に対し、二十五万円づつを補助するは殆んど既定の事実と見做すべければ、本大学が供託金として要する資金は額面百円に対する時価八十円内外の四分利公債を以てすれば、約五十万円にて足るべく、是れに高等学院の新築設備費六十万円を加算するも百十万円を出でざれば、此度の大学令実施に伴ひ目先き必要欠く可からざる資金だけは今日までの寄附申込額にて略ぼ調達し得たるものなり。尤も学園の面目一新の為めに要する資金は前途尚ほ数ふるに遑なければ、大学は予定の百五十万円に達するまでは飽迄基金募集の手を緩むることなく、経済界の波瀾の鎮静するを待ち更らに広く天下の同情者に訴ふる計画なるも、幸に大学の改造事業は既報の如く総て円満に進行し、去る二月を以て大学の設立を認可せられ、四月よりは新大学の開始と共に予備門たる高等学院も其新築校舎にて愈々授業を開始したれば、此際基金募集の経過の概要を報告すると同時に、今日までに確立せる寄附申込各位の芳名を録して深厚なる感謝の誠意を披瀝するものなり。

(一五頁)

若干の注釈を試みれば、当時学苑は御大典記念事業の資金も募集中であったが、これを一時中断して、大正八年に大学基金の募集を緊急に行うことにしたのである。目標額は百五十万円とし、その内訳は供託金九十万円(大学五十万円に、五学部あるため四学部分四十万円を加える)と高等学院新設費六十万円であった。当時学苑の常置機関であった基金管理委員会は、渋沢栄一委員長をはじめとし、応分の援助を惜しまなかったが、学苑当局者として、直接募金の衝に当ったのは田中穂積と松平頼寿の両理事であった。目標額の百五十万円は、前記した政府(文部省)補助金の方針が決まったのと、「供託スル有価証券ハ券面額ニ依リ其ノ額ヲ算定」するので安い時価で購入するため、差し当り約百十万円で足りることになり、しかも分割払いなので第一回供託金は十五万円で済むことになった。なお文部省の私立大学補助金の第一回分二万五千円は大正十年十二月二十八日に交付を受けた。

 先に引用した大正九年五月の『早稲田学報』は大学基金寄附者名簿も併せて掲載しているが、これによると百六件(延百二十八人と二法人)で、百一万八千九百八十円が集まっていることが分る。この名簿のうち一万円以上の寄附者名を挙げると次の通りである。

十万円 岩崎小弥太、三井八郎右衛門、古河虎之助

五万円 原富太郎、高取伊好

三万円 村井吉兵衛、山下亀三郎、松平頼寿、茂木惣兵衛

二万円 神田鐳蔵、山本条太郎、増田義一、藤田平太郎、渋沢栄一

一万五千円 前島弥

一万円 八馬兼介、服部金太郎、日清生命保険株式会社、杤木嘉郎・杤木寿夫、小倉常吉、大原孫三郎、大橋新太郎、勝田銀次郎、横山隆俊、横山章、田中四郎左衛門、内藤久寛、中村房次郎、浦辺襄夫、久原房之助、増田増蔵、小池国三、近藤廉平、昆田文次郎、安部幸之助、浅野総一郎、森田退蔵、森村開作、杉田駿、住友吉左衛門 (一五―一六頁)

大学令による学苑の申請は前述したように大正八年九月十日で、恐らくこの時点で資金計画の見通しもついていたのであろう。そして翌年五月には総額百万円以上になる具体的な寄附者名簿を公表できるまでになったのだから、学苑当局者の努力もさりながら、これは驚くべきスピードと言わねばなるまい。これには学苑の社会的評価に加えて、或いはいい意味での大隈のカリスマ性の発揮ということも認めていいかもしれない。九年四月二十五日、すなわち高等学院開院式の日、大隈は大学基金寄附者、基金管理委員、大学維持員、松浦専門学務局長ら、大学設立に尽力した人々を大隈邸に招き、自ら謝辞を述べて労をねぎらった。

第二表 大正後期の学費

 なお旧学制の時期ではあるが、大正七年十月に学苑は早稲田大学賛助会を発足させて、小口の寄附金を校友などより募集し、学苑財政の経常費の補充にした。しかし、これだけではなお十分でなかったから学費も次々と引き上げている。例えば旧制の大学部は大正七年に五十円(理工は六十円)であったのが、八年一月には五十五円(六十五円)となり、九年一月には更に七十五円(八十五円)となっている。前頁の第二表は、新制になってから大正十四年までの学費を示したものである。これを見ても分るように、学部の例では大正七年と十四年では三倍弱となっているのである。

四 学位令その他

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 大学は専門学術を教育する場であると同時に、それを究明する研究機関でなければならない。法律上で官立、私立の大学が対等になったなら、従来帝国大学が独占していた学位の授与も私立大学に解放し、私学の研究機能を法律的にも保証する必要がある。そこで大正九年、次のように学位令が改正されて、学位制度は根本的に変った。

第一条 学位ハ博士トス

第二条 学位ハ大学ニ於テ文部大臣ノ認可ヲ経テ之ヲ授与ス

第三条 博士ノ種類ハ大学ニ於テ之ヲ定メ文部大臣ノ認可ヲ受クヘシ

第四条 学位ヲ授与セラルヘキ者ハ大学学部研究科ニ於テ二年以上研究ニ従事シ論文ヲ提出シテ学部教員会ノ審査ニ合格シタル者又ハ論文ヲ提出シテ学位ヲ請求シ学部教員会ニ於テ之ト同等以上ノ学力アリト認メタル者トス

第五条 学部教員会ハ前条ノ論文審査ニ付其ノ提出者ニ対シ試間ヲ行フコトヲ得

第六条 大学ニ於テ学位授与ノ認可ヲ申請スルトキハ論文及其ノ審査ノ要旨ヲ添附スヘシ

〔中略〕

第九条 学部教員会ニ於ケル論文審査ノ手続其ノ他学位ニ関スル規程ハ大学ニ於テ之ヲ定メ文部大臣ノ認可ヲ受クヘシ

〔以下略〕

 旧令では、学位を授けられるのは、(一)帝国大学大学院に入り定規の試験を経たる者、または論文を提出して学位を請求し帝国大学分科大学教授会においてこれと同等以上の学力ありと認めたる者、(二)博士会において学位を授くべき学力ありと認めたる者、(三)帝国大学分科大学教授にして当該帝国大学総長の推薦に依る者であったが、改正後はかかる帝国大学偏重は一掃された。また旧令では文部大臣が学位を授与する形であったが、これを改めて学位は私立大学も含むすべての大学が文部大臣の認可を得て授与できることになり、大学が本来持つ学術研究機関としての性格が明確になった。

 前掲のように、学位に関する規定は各大学で定めて文部大臣の認可を受けるように学位令第九条は規定しているので、我が学苑も大正九年十月に学位規程審査委員会を設けて、同月十五日に第一回委員会を開いた。委員は安部磯雄、高橋清吾、塩沢昌貞(以上政)、寺尾元彦中村進午、遊佐慶夫(以上法)、金子馬治片上伸中島半次郎(以上文)、田中穂積小林行昌北沢新次郎(以上商)、浅野応輔、徳永重康、山本忠興(以上理)であり、各学部教授会より選出された者と学部長とで組織された。委員会は審議を重ねた上、九年十二月十三日申請手続をし、翌年八月十九日次のような規程の認可があった。

早稲田大学学位規程

第一条 本大学ニ於テ授与スル学位ハ左ノ五種トス。

政学博士 法学博士 文学博士 商学博士 工学博士

第二条 学位ハ本大学大学院学生ニシテ二年以上研究ニ従事シ論文ヲ提出シテ学部教授会ノ審査ニ合格シタル者、又ハ論文ヲ提出シテ学位ヲ請求シ学部教授会ニ於テ之ト同等以上ノ学力アリト認メタル者ニ之ヲ授与ス。

第三条 学位ヲ請求スル者ハ論文ニ履歴書及審査手数料金一百円ヲ添へ其論文ノ審査ヲ受クベキ学部教授会ヲ指定シテ之ヲ学長ニ提出スベシ。

第四条 論文ノ受理ハ前条ノ学部教授会二於テ之ヲ決定ス。

第五条 一旦受理シタル論文及其審査手数料ハ之ヲ返附セズ。

第六条 学部教授会ハ各学位請求者ノ論文ニ付二名以上ノ主査委員ヲ其学部ノ教員中ヨリ選出ス。

但シ必要ニ依リ他ノ学部ノ教員中ヨリ選出スルコトヲ得。

第七条 学部教授会ハ主査委員ヲシテ論文提出者ニ対シ試問ヲ行ハシムルコトヲ得。

第八条 主査委員ハ論文審査ノ要旨ニ意見ヲ附シ一箇年以内ニ之ヲ学部教授会ニ報告スベシ。

但シ学部教授会ノ決議ニ依リ其期間ヲ延長スルコトヲ得。

第九条 学部教授会ハ主査委員ノ報告ニ付無記名投票ニ依リ論文ノ合格不合格ヲ決定ス。

前項ノ教授会ノ開会ハ所属教授数ノ三分ノ二以上ノ出席ヲ要シ合格ノ決定ハ亦同数以上ノ得票ヲ要ス。

第十条 学位ヲ有スル者其栄誉ヲ汚辱スル行為アルトキハ学部教授会ノ決議及文部大臣ノ認可ヲ経テ其学位ノ授与ヲ取消スコトアルベシ。

前項ノ決議ニハ第九条第二項ノ規定ヲ準用ス。 (『早稲田学報』大正十年九月発行 第三一九号 七頁)

これに伴い、校規も一部改正して、校規第六章教授会規定第四十九条に第三項として学位に関する件を加えた。

 こうして大正十三年、理工学部の吉川岩喜、三菱の技師長日下部義太郎、翌年文学部の五十嵐力、法学部の遊佐慶夫が博士となったのを皮切りに、我が学苑が学位を授与した新博士が次々と誕生することになった。大正十五年にはこの規程を一部改正して、政学博士を廃して、政治学博士と経済学博士の学位を置くことにし、六種の学位を授与することとなったが、経済学博士の第一号は同年政治経済学部の阿部賢一(第八代総長)に、政治学博士の第一号は昭和二年高橋清吾に贈られた。

 なお、学位規程第二条では、学位請求者として先ず大学院学生を挙げているが、実際には学苑より学位を与えられたのは、いわゆる「論文博士」が主であった。当時の大学院は、戦後の新制大学院とは異り、カリキュラムは存在せず、指導教授による個人的指導が原則で、複数の大学院生を集めて集団指導を行うのは、寧ろ異例であった。従って、学苑では、大学院学生の納付する授業料の全額は、指導教員に与えられることになっていた。

 これまで新学制のあらましを説明してきたが、最後に教員資格と外国人学生と聴講生とにつき触れておく。

 大正十二年四月、学苑の学部卒業生と学院修了生に対し、高等学校および中学校の教員の無試験検定資格が付与された。これを報ずる『早稲田学報』(大正十二年五月発行 第三三九号)の記事を転載する。

本大学卒業生の高等学校高等科教員無試験検定資格

本年四月四日文部省告示〔第〕二百五十八号を以て、高等学校高等科教員無試験検定に関する指定ありたるが、其の中本大学卒業生に適用せらるる分左の如し。(左表中下記の学科目は其れぞれ教授し得る科目なり。)

文学部文学科卒業

国文学専攻 国語(支那哲学又ハ支那文学、教育学及教授法ヲ履修セシモノ)

支那文学専攻 漢文(国文学、教育学及教授法ヲ履修シタルモノ)

英文学専攻 英語(言語学、教育学及教授法ヲ履修セシモノ)

仏文学専攻 仏語(言語学、教育学及教授法ヲ履修セシモノ)

独文学専攻 独語(言語学、教育学及教授法ヲ履修セシモノ)

文学部哲学科卒業

東洋哲学専攻 哲学(宗教学若ハ印度哲学、教育学及教授法ヲ履修セシモノ)

西洋哲学専攻 哲学(宗教学若ハ印度哲学、教育学及教授法ヲ履修セシモノ)

法学部卒業 法制及経済(行政法及国際公法ヲ履修セシモノ)

〔政治学科ニオイテハ〕 〔経済学科ニオイテハ〕

政治経済学部卒業 法制及経済(民法ヲ履修セシモノ、行政法、民法及国際公法又ハ商法ヲ履修セシモノ)

理工学部

応用化学科卒業 化学

機械工学科卒業 図画

建築学科卒業 図画

本大学卒業生の中等教員無試験検定資格

本年四月五日文部省告示第二百六十二号を以て、中等教員無試験検定に関する指定ありたるが、其の内本大学卒業生に適用せらるる分左の如し。(左表中下記学科目は其れぞれ教授し得る科目なり。)

政治経済学部卒業 法制及経済

法学部卒業 法制及経済

文学部哲学科卒業 修身(教育学、教授法、実際教授ヲ必修セシ者ニ限ル)

教育(教育史、教育学及教授法ヲ必修セシ者ニ限ル)

同文学科卒業

国文学専攻 国語(教育学、教授法及実際教授ヲ必修セシ者ニ限ル)

支那文学同 漢文(同前)

英文学同 英語(同前)

仏蘭西文学同 仏語(同前)

独文学同 独語(同前)

同史学科卒業 歴史(同前)

商学部卒業 商業、簿記、法制及経済

理工学部機械工学科卒業 数学

同電気工学科同 数学、物理

同採鉱冶金学科同 鉱物

同建築学科同 鉛筆画用器画

同応用化学科同 化学

附属高等学院

第一高等学院文科修了 英語(英語ヲ以テ入学シ主トシテ英語ヲ修メ其ノ成績優等ナル者ニ限ル)

同 理科修了 英語(同前)

数学(第三学年ニ於テ数学毎週六時間修メ、且数学ノ成績優等ナル者ニ限ル)

第二高等学院文科修了 英語(第一学院英語ニ同ジ) (一三頁)

 なお大分後のことになるが、昭和五年に教員資格が一部改正されたので、これを報ずる記事もついでに記しておく。

高等学校修身科教員無試験検定有資格

従来文学部哲学科卒業者の高等教員無試験検〔定〕有資格は「哲学概説」のみであつたが、今年より文学部哲学科卒業生にして左の学科を選択履修したる者は「修身科」の無試験検定資格を得ることとなつた。

一、東洋哲学を専攻し、倫理学(東洋、西洋)(四)、支那哲学(一)、哲学(二)を選択履修したるもの。

一、西洋哲学、社会哲学を専攻し、倫理学(東洋、西洋)(四)、支那哲学(一)、印度哲学又は宗教学(一)を選択履修したるもの。

中等学校漢文科教員無試験検定有資格

従来文学部文学科卒業生にして国文学専攻者は国語科中等教員無試験検定有資格のみであつたが、今年より左の学科を必修したる者は漢文科中等教員無試験検定の資格を得ることとなつた。

一、支那哲学、支那文学(四)、教育学、教授法(二)を必修したるもの。 (同誌昭和五年十月発行 第四二八号 二二頁)

 外国人および植民地出身者の入学生取扱いに関しては、大正十年五月九日、文部省発専六十六号により通牒があった。これによると、外国人および植民地出身者が大学、大学予科、高等師範学校、女子高等師範学校、専門学校または高等学校に入学する資格は従来一定せず、別科、選科、または特科生として取り扱われてきたが、今後は入学試験を受けさせ、正科生として入学させても差支えないことになった。

 他方、学苑の聴講生規程審査委員会は大正十年一月に案を定めて手続したところ、同年三月十一日認可された。このとき定められた規程は次の通りである。

早稲田大学聴講生規程

第一条 各学部ノ学科々目ニ就キ聴講ヲ志望スル者アルトキハ各学部ニ於テ学力考査ノ上学生ノ学修ニ妨ナキ限リ聴講生トシテ之ヲ許可スルコトアルベシ。

第二条 聴講生ハ中学校、高等女学校卒業者、又ハ之ト同等以上ノ学力アリト認メタル満十九年以上ノ男女ニシテ志望学科ノ学修ニ必要ナル程度ノ学力考査ニ合格シタル者ニ限ル。

第三条 学力考査ニ関スル規定ハ各学部ニ於テ之ヲ定ム。

第四条 聴講生志望者ハ学年ノ初ニ於テ入学願書ニ聴講スベキ科目ヲ記載シ履歴書、手札形写真及考査料金五円ヲ添へ之ヲ差出スベシ。

第五条 聴講生ハ聴講ノ学科目ニ就キ試験ヲ受クルコトヲ得。

試験ニ合格シタル者ニハ願ニ依リ証明書ヲ授与ス。

第六条 学費其他ニ就テハ各学部ノ規定ヲ準用ス。 (同誌大正十年四月発行 第三一四号 七頁)

 大正十年四月には多数の聴講生が入学したが、右の規程が女子聴講生をも認めた結果、このとき文学部、商学部、理工学部に十余名の女子学生が我が学苑に初めて生れ、男子学生とともに熱心に教室で聴講する微笑ましい風景が見られるようになった。また早稲田大学出版部は大正十一年四月より通信講義録『高等女学講義』(修業年限一年半、毎月二回発行)を創刊したが、その優秀な卒業生には大学聴講生への受験資格を与えることにした。

五 学苑出身の新学長

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 大学令に基づく大学としての学苑は、平沼淑郎を学長として、着々として整備された。西村真次は、「平沼には一種不可思議の統制力があつて、沈黙の裡に事務を進めてゆく手腕を有つた」(『半世紀の早稲田』三三九頁)と記しているが、そもそも平沼は、「早稲田騒動」の際高田派にも天野派にも属さない中立の立場を堅持したのを買われ、騒動により荒廃した学苑に平和を招来することを無二の使命として学長に推されたのであったが、騒動以前には将来の学長との声が聞かれることは稀と言ってよく、学苑が沈静化すれば学長の地位を退くものと、自他ともに考えていたと言うべきであろう。

 従って大正十年十月の任期満了を前にして、平沼再任を希望する声は高く挙げられなかったが、それならば誰を新学長に推すべきかについては、塩沢昌貞を可とする者と田中穂積を可とする者と、学内は二つに分れた。塩沢はかつて天野の後任として、早稲田出身の初代学長との呼び声の高かった碩学である。学識に関しては、塩沢に一目置かぬ者は学内に存在しない。ただ、塩沢の経営手腕は必ずしも高く評価されず、塩沢の学長就任を寧ろ塩沢の履歴に傷を残しはせぬかと憂慮する者さえなくはなかった。これに反し、田中は、塩沢の後輩ではあるけれども、大学令下の早稲田の財政処理に関して発揮した敏腕はまさに非凡というほかなく、当面している難局の打開には、田中に縦横の手腕を揮わせることが必要であると認める者が少くなかった。殊に前々年、田中が不満を懐いて理事辞任を申し出た際、次期学長を内約して留任させたという裏面の経緯もあり、田中が次期学長を期待しても無理からぬ事情も存在した。しかし、大学としては「早稲田騒動」の轍を踏むことだけは何としても回避しなければならない。塩沢の任期を一年間に限定して、田中に交代させるという案も一時有力であったが、塩沢がそのような屈辱的な条件を承諾する筈もなく、有耶無耶の中に決定の日を迎えることとなった。結局、学内の人望において塩沢に劣った田中は、その年九月より翌年七月まで教育制度視察のため外遊することにより、失意を医さざるを得なくなり、十月四日の定時維持員会は、経営手腕に危惧の念を懐きながら、塩沢昌貞を次期学長に選出した。

 塩沢第四代学長就任式は、十一月三日校庭で挙行され、高田名誉学長の式辞、平沼前学長の挨拶に続き、塩沢新学長は、左の如き格調の高い就任の辞を述べた。

私は浅学菲才は勿論の事でありまするが、経営の才に至つては殊に乏しいと云ふことを自覚して居りますので、先般来維持員其他先輩諸君より学長の職に就くことに付いて御話を受けた際にも、私の如き者は寧ろ学窓にあつて教授に専ら当ることが適当と考へるのでありますから、其方は寧ろ御辞退申したいと云ふことを切に申上げて置いた次第であります。併ながら一同も皆後援をするし、早稲田大学の如き大なる機関の運転は独りで出来るものではない、各方面から助けるから兎に角職に就くやうにと切に御勧めを受けまして、さう云ふ訳でありまするなら暫くなりとも御受けを致しませうと、斯う云ふ次第で維持員会の御推挙に応じて御受けを致したのであります。

私は此学校で生れました者でありまして、早稲田大学は即ち私の家であるのであります。顧みますれば、私が早稲田大学の息子の一人となりましたのは、今から三十三年に当ります、早稲田を出ましてから丁度三十年になつて居ります。三十三年前から三十年前まで、諸君と同じ資格に於て、此学校に於て高田名誉学長を始め其他先輩諸君の教を受けて居つたのであります。私の入学当時に於ては所謂Brick Building、煉瓦の講堂もありませぬでしたが、卒業間近に是が出来上つたと云ふやうな次第であります。学生の数は、恐らく今日に於ける最大Classの一つ程もありませぬでした。さう云ふ時代から私は此早稲田に居りました。我大学の発展に付ては我々の尊敬する創立者大隈総長の賢明なる御指導は勿論のことでありまするが、実際其衝に当られました高田名誉学長を初めとして、先輩諸君の四十年間の非常なる奮闘に依つて微々たる専門学校より発達して今日は世界に認められたと申しても或る意味に於ては正当であらうと思ひまする。

諸君も御承知でありませうが、明治十五年に早稲田大学、即ち当時の東京専門学校が創立された時には、何を以て其標語とされたかと申すに、即ち学問の独立と云ふことであつたのであります。今日尚ほ然かりであります。明治十五年に創立者たる大隈総長又総長を助けて其実際の衝に当られた先輩諸君が此学問の独立と云ふことに付いてどれ丈けの深い意味を有つて考へられ工夫されたかと云ふことに付いては、諸君は早稲田大学の歴史をよく御研究なさると、そこに十分の深い意味が含まれて居ると云ふことを御諒解になるだらうと信ずるのであります。今後此早稲田大学の本領を全うするに付きましては早稲田大学の建学の趣旨を益々発揮するより外はないのであります。建学の趣旨は申す迄もなく学問の独立、即ち研究の自由、学問の活用及び模範国民の造就と云ふことにあるのであります。元来大学の本領は如何なるものであるか、私は此所に教場式の講釈は致しませぬが、詰り一方に於て研究である、Investigationである。同時に又教授である、Instructionである。研究し之を教へると云ふことは大学の主たる職分であります。早稲田大学は学問の研究、自主的研究と云ふことに付いては相当に力を致し多少其方に向ひつつありまするけれども、我々から見れば尚ほ以て満足の状態に達して居るとは考へないのであります。是れから尚一層其方面に向つて尽す必要があると思ひます。又教授の方法等に付きましても、前々代の学長以来色々御教訓もありました。自主的研究、学問の消化と云ふことに付いては尽力しつつありまするけれども是また未だ十分とは言難いと思ふのであります。之を十分に実現すると云ふことが早稲田大学の責任である、義務である。独り無形の方面に於て為すべき事があるばかりでなしに有形上の方面に於ても補うべき必要が幾多存在致して居るのであります。例を申上げますれば研究機関の設備も又不十分でありますから、一日も早く研究図書館を完成しまして是に依つて研究上の進歩に貢献したいと思ひます。其他教授諸君に対する設備、又学生諸君に対する設備、又大隈総長が兼々申されて居る所の大講堂の建設、是等の事も数へあげますれば沢山ありますが、併し唯無形的の努力のみでは之を実現することは六ケしい。物質的の要件が要るのでありまして仲々さう急にと云ふことは出来ぬが、其方に向つて機会があれば力を尽すやうに致したいと云ふことは、当局者一同の考へて居る所であります。大学は一方に於ては研究と云ふことを十分に進めなければならぬのでありまして、是に付いても種々な方法又機関も必要だらうと思ひますが、教授諸君及び学生諸君の研究を促し又其研究の結果によりて一般の文化に貢献すると云ふやうなOrganが必要であらうと思ひます。是等の事も今後着々講究致して見たいと思ふのであります。詰り研究発表の機関と云ふものも多年考へて居る所でありますが成る可く早く成立するやうに工夫して見たいと考へて居ります。

一体大学と申しますると何よりも研究が主でありまして、此大学と云ふものの起原はどう云ふものであるか。我国にも昔から大学がありました。王朝時代には重もに支那の制度に拠つた大学がありました。之れは純然たる政府の学問所とも言ふ可きでありませう。今日発達しました大学は多く欧羅巴に範を取つて居ります。欧羅巴では御承知の通り大学の一番早いのは伊太利の大学で、ボロニャ大学、それから相次いで巴里の大学であります。伊太利の大学は十二世紀頃に稍定まつた形式を具へました。巴里の大学は十三世紀でありまするが、それから相次いでオックスフォルド大学が十四世紀頃に整頓して参りました。尤も沿革から申しますると其起源はもつと古いのでありますけれども、大学の形を為しましたのは今申す通りであります。それから次いで独逸に大学が出来る。それから十八世紀の初には亜米利加のハーバード大学、(当時はハーバード・カレージと申して居りましたが、)が出来る、それから続いて諸方に沢山大学が出来るやうになりました。此大学Universityと云ふものは初めはどう云ふ意味であつたかといふと、後にはStudy of Universe宇宙の研究、即ち総ての宇宙の現象、有らゆる万有の事を研究する所と云ふ意義に成りましたけれども、最初の意味は学者の団体、即ち研究者の一団と云ふことでありまして、大学Universityは、其始めの意味は、研究者と云ふ人間の団体を称したものであります。始めは研究者の一団と云ふことであつたが、後に至つて研究をする場所、教授をする場所と云ふことに変化して参りました。此大学の意味は、矢張り今日に於ても生きて居る、苟くも大学である以上は、真理を研究し、社会を指導すると云ふ精神的源泉を供給する学者の集合団でなければならぬと思ふのであります。随つて是には研究と云ふことに全力を注がなければならない。教授諸君は高級の研究をする。さうして世界の文化に貢献する。学生諸君は又学生諸君の力に及ぶ丈けの研究をして自分の知識或は精神的人格の完成を計る、又是に依つて模範国民となつて国家社会を裨益する、斯う云ふ覚悟が必要であるのであります。是に付きましても、一方に於て如何に有形的の設備がありましても、此最初の精神的の要素、即ち学者の団体と云ふ研究の精神が欠けて唯学ぶ場所と云ふスペースの関係だけでは、大学は唯飾り物に過ぎないと思ふのであります。併しながら世界が進み種々の知識が進んで来ますれば、研究の機関に付いても昔の如く単純には往かない、随つて設備と云ふことに重きが置かれて参ります。目下の処では、兎に角建物のない所に建物を造ると云ふことが急なるを感じて居る。それから段々改善して行つても宜しいと思ふ状態であります。兎に角早稲田大学には為す可き事が多々あります。是等に付いては今後大いに当局の同僚並に校友諸氏と共に研究したいと思ふて居ります。今日に於ては次第に進歩しつつありまするけれども、まだまだ仲々満足し得る状態でないと云ふことは繰返して申し上げます。

世界は進みつつあります。早稲田が若し現状に満足して居りますれば、外が進んで行きますから、詰り退歩であります。早稲田大学の研究の趣旨から見ましても、常に進歩的進取的でなければならない、寸時も遅滞を許さないのであります。それで私は近来外国の大学教授其他の訪問者がありまする際に此現状を示しまして、早稲田は今建設中だ、Waseda in constructionと云ふて説明して居ります。又Waseda in progressだ、今進歩中の早稲田大学だから数年の後を見て呉れと云ふ意味で話をして居ります。之は唯一場の辞柄ではない。早稲田の人は総て此心掛けを以て進みたい、斯う考へて居ります。

殊に今日に於ては世界大戦の結果世界を通じて人心不安の状態に居る。極端な言葉を以て申しましたならば世界は大なる苦痛の下に呻吟しつつあると云ふても宜しいのでありまして、私共は之をWorld in agonyとも申したい。苦悶の世界とも申したいのであります。物質界に於ける苦悶は勿論、精神界に於ても幾多の苦悶に艱みつつある。大学はよく真理を研究して此世界の人心の苦悶を救ひ、真に人生を救う可き力を供給すべきものであらうと思ふのであります。此事に付きましては余程慎重に研究し、真に正しき道に人心を導き、又国民を導いてさうして堅実なる発達をするやうに、或る光明を此大学から発したいと思ふのであります。近来右に傾くとか左に傾くとか云ふ言葉が世界を通じて行はれます。私は此右に傾くとか左に傾くとか云ふことはどちらも正常でないと考へて居ります。一体傾くと云ふことは健全な進み方ではない。真理と云ふものは決して片寄つて居ないものである。真理は真直でありまして、真直な道は傾きやう筈はないのでありますから、傾いて居るとそこに何等かの欠点がある。よく新とか旧とか云ふことを学問上に付いて申しまするけれども真理には新旧はありませぬ。今日に於ては種々な議論、種々な思想が現はれて居ります、而して世界を動かしつつあります。此際に於ては所謂独立の研究と云ふ精神を正しく発揮することが非常に必要だらうと思ふのであります。極く露骨に申しますると、従来は兎角飜訳的の傾きが多くありました。私自身も是に付いては自から顧みて恥ぢることが多いのでありまするが、併し日本も最早独立的の研究を必要とする、唯飜訳的だけではいけない。もう一歩を進めて創造的の状態にならなければならないと信ずるのであります。

早稲田大学の今後に付きましては種々の問題に付いて夫々の機会に諸君の意見を伺ふことがありませうし又色々御話する機会もありませう。今日は大学と申しても何も狭苦しい少数の者の集まりではありませぬ。大学は一口に申しますると深くなりつつあると共に広くなりつつあると言ふても宜からうと思ふ。研究と云ふ点は益々深く進みつつありまするが、知識は又一面に於て益々広くなりつつある。民衆化すると云ふて宜しいか、デモクラティックに進みつつあると申して宜しいか、大学の知識と云ふものは少数者の壟断す可きものにあらずして、国民全体を通じて広くなる方に向つて居ります。我国に於きまして苟くも国家社会の上に立つて相当に貢献をするに付きましては、どうしても高等教育が必要であります。大学は、一面に於ては研究的学者を造出すと共に、一方に於て社会に優秀なる働きを為す可き有為の人才を供給する必要がある。随つて一方に於て学生を多く収容して高級知識を普及せしむることが必要であるのであります。出来得るならば日本国民全部を大学の学生にしたい。縦し全部を大学の学生にせずとも、少なくとも早稲田大学の精神が全部に行渡るやうにしたい。学問の独立と云ふ精神に基いて総ての人が此高等の知識を得るやうにしたいと思ふのであります。

それから又是と同時に大学も単調なものでなくて、色々複雑な組織に進みつつあると云ふことは、世界の状態に照して明白な現象であります。往時欧羅巴で大学と申しますると、四つのfacultyを持つて居つた。最初は文学と神学と医学と法学、此四つの教授団を持つて居るのが大学で、其外のものは大学とは申さなかったのであります。併ながら此の如き単調の制度は今日一変しつつあります。今日は同じ大学の中にも、国家社会の必要に応じて色々な種類のものが含まれて居ります。早稲田大学の如きも、大学令なる法令に依る大学があると同時に、専門部があり、又中等教員を供給する高等師範部がある。又其他種種な附属的のものが出来るかも知れませぬが、兎に角現在は極めて複雑であります。大学令に依る所の大学と是に附帯して国家社会に必要なる知識を供給する所の専門部・高等学院其他の組織があり、共に一団となつて、広義の早稲田大学なる学園が成立して居ります。是等の大学内の各部分も一方に於ては独立致して居るものの、其内容は相互に脈絡を通じて、純然たる有機的の組織を為して居るのであります。此早稲田大学は恰かも大木のやうなものであつて立派な根も生えて居る、早稲田大学の根は今日に於ては校友であります。一万五千有余の校友である。それから本幹には大学部があり枝には専門部がある、色々複雑になつて居りますけれども、それはチリチリバラバラとなつて居るのではなくして、ちやんと其処に統一があります。Varietyの内にunityがありまして早稲田大学は出来て居る、詰り有機的に統一があつて大学の真の使命を全うすることが出来るのであります。之と同じく私は学長の重責を負うて居りまするが、学長が何も一人で総ての事をするのではありませぬ。御承知の通り我々の同僚には学長の外に尚ほ四名の理事がありまして、理事会で相談致して万事を定めて居ります。是と同時に維持員会の決議を経て総ての事を実行する次第であります。それから又経営の事務の方に於ては幾多の部に分れて之を分掌して居りますが、大学の最も重大なる所の責任を負はれて居るのは即ち早稲田大学の教授団であります。教授諸君が先づ大学の先頭に立つて其大切なる職務を有つて居ることは申す迄もありませぬ。是と同時に学生諸君が此大学の存在の大部分の意味を占めて居るのであります。即ち教授団、学生及事務部が皆協力一致し其間に有機的関係があつて早稲田大学と云ふものが始めて完全に維持され又発展をなし得るのであります。早稲田大学の事業は公共的の事業であつて、其目的とする所は国家社会に貢献する、真理を研究して国家社会に貢献し、更に進んでは世界の文化に寄与し、世界人類を裨益する、斯う云ふのが早稲田大学の使命であります。甚だ大きなことを申しましたが、遠きに至るには先づ近きより始めなければなりませぬ。即ち前に申しました設備其他内容の充実が当面の問題であります。此の如き次第でありまして私が浅学不才の身を以て此重責を負ふことは甚だ恐縮に堪へないのでありまするが、責任を負ふて居る間は決して自から避けることは致しませぬ。一身を犠牲に致しましても誠心誠意其職を尽す考を有つて居りますから、どうか諸君に於かれても十分の御援助を願ひたいと思ふのであります。 (『早稲田学報』大正十年十一月発行 第三二一号 二―五頁)

 塩沢の学殖の深さは真に測り難いとは定評の存するところであり、しかも大隈総長の知恵袋と呼ばれて満幅の信頼を寄せられていたのであるから、多くの校友が、大学令下の学苑の前途に、塩沢学長時代を迎えて、大きな光明を期待したのは当然と言うべきであった。しかし、塩沢にとってはなはだ不幸なことには、学長に就任したその時既に、塩沢が敬愛して止まぬ老総長の健康は異常を呈し、二ヵ月余り後には幽明相隔てるに至った。しかも、大学令の定める条件を満足するためにきわめて窮屈となった学苑の財政は、大隈の歿後寄附せられた邸宅・庭園に対する謝礼支出の必要が加えられ、塩沢にきわめて重い負担を荷わせることとなったのである。