大正九年の大学令により各私立大学は法的に大学となったが、それ以前の専門学校令下では、早稲田や慶応や明治のように、創立当時から昼間の授業を主としたものもあったけれども、多くの大学は、教員を得るためにパート・タイム制を採らざるを得なかった関係から、やむを得ず夜間授業に重点を置いたようである。例えば、『法政大学八十年史』の「大学令による法政大学時代」という章に、大正九年財団法人法政大学が大学として認可を受けた時の「重要な特徴」として、新しい「教育組織がその発足の時から昼間の授業を基調としてできていることである。言い換えれば、これまで夜間の学校であった法政大学が、今度は昼間の大学を基礎に夜間の学校も併置する法政大学に変ったということである」(二五五頁)点が指摘されている。また、『日本大学九十年史』は、「創立以来、あるいは日本大学と改称後も、授業開始時間は午後五時半であって、世にいう夜間大学であった。……本学附属中学校から進学する生徒の収容、市内私立中等学校の増設に伴う入学希望者の増加するにかんがみ、わが大学当局も従来の経営方針を変更して、昼間、夜間授業の二本建に機構を改訂したのである」(上巻 四九〇―四九一頁)と記し、更に『日本大学七十年略史』の「各科の現勢(大正六―七年)」では、「授業上に就きては各科とも(予備校を除く)特に良好なる教授講師を得んが為、夜間(自五時半至九時半)教授を為す」(一六〇頁)と述べ、講師の獲得に意を用いたことを明らかにしている。このように講師の確保は創立期の各校に共通した大問題で、これを如実に物語っている『中央大学七十年史』には次のように記されている。
英吉利法律学校時代の授業は、ほとんど午後三時ごろから始まったという。しかし、そうだからといって英吉利法律学校が夜学校であったというのではない。そのころの講師の大部分は創立者の兼任で、かれらは、少壮官吏とし、ある者は大学の教授とし、在野の代言人としての本務の余暇を、全くの無報酬で教授に従っていたのであるから、そんな結果になったのである。だから時としては、また人によっては、午前中早くからの講義もあったのである。その後はおいおい社会のようすもかわり、学校の組織もまた整うにつれて、昼間勤労に服さなければならぬ生徒は夜間の講義を、しからざる者は昼間のそれを主として受講するようになって、昼夜の二部制が漸次確立されたのである。 (一三七―一三八頁)
関西地方でも、宗教教育を目的として設立された学校は別として、夜間教育を主とする学校は、教員の嘱任に同じ悩みを持っていた。立命館大学や関西大学の歴史を見ても、このことが推測される。立命館が専門学校令下の大学から大学令による大学への昇格運動を展開していた頃の夜学生の就学状況について語った、同校友大阪朝日新聞社記者宇佐見兼丸の「思い出」話を、『立命館創立五十年史』から摘記してみよう。
校舎は昼間は予科に、夜は専門部に使つた。予科といつても当時は高等学校受験のものが多く学部生というものは殆んどなかつた。たとえ学部へ進んでも、専門部生と共に夜、聴講する外なかつた。従つて言ふまでもなく、学校の中心は専門部であり夜学であつた。……大正七年に入学して出席しているものは三百名ほどだつた。その三百名が年毎に激減して、卒業したのは、……合計六十名に足りなかつた。そんなに減るといふ事実は進級試験で落されるばかりでなく、働きながら通学することの如何に困難であるかを雄弁に語つてゐるが、殊に冬の夜の寒さは閉口だつた。学生に与えられた火といふものは、全校内を通じて、入口の受付と下足棚との間に置かれた四角の大火鉢一ツだつた。……しかもその火鉢たるや火のない時の方が多かつた。……先生方は無理に頼んであつたと見えてよく講義を休まれた(勿論精励して下さった先生方も多かつたが)。突然休講の際には夏ならばまだ陽が高いので御所の草むらに寝そべつてノートを読むことも出来たが、冬は教室に空しく二時間を震へてゐるか、木枯にそよぐ窓外のポプラを眺めてゐる他はなかつた。 (二〇八―二〇九頁)
大阪は東京や京都とはその趣を異にし、商業都市として発達していたので、商人の徒弟の便益を計る夜間学校が多く設立されていた。例えば関西大学の如きも、昭和五年三月に昼間専門部を設置するまでは、「専門部は本学にとつては創立以来の主流たる夜間学生を主体としている」(『関西大学七十年史』三四七頁)と記されているように夜間の授業を主体としており、昼間部新設以降においても尚且つ夜間部を第二部と称して夜間授業を存続させた。
さて、創立以来昼間の授業を行ってきた我が学苑に目を転じると、専門部の夜間部たる早稲田専門学校の創設を予告する記事「夜間部(専門部)の新設」が『早稲田学報』第三四八号(大正十三年二月発行)に見える。
本大学にては近来入学志望者年と共に激増し来り、殊に専門部への入学志望者著しく増加し、昼間のみにては到底これに応ずる能はざるを遺憾とし、予てこれが対策として夜学部を新設すべく種々調査研究中なりし処、今回愈々議熟し、一月二十九日臨時維持員会を開会し、審議の結果、来る四月の新学期より新設することに決したり。其学科は昼間と同じく政治経済科、法律科及商科の三科にして修業年限、入学期、入学資格、及学科課程等も昼間同様にして教授も大体昼間部の教授なるが、目下学則その他の編成中にして近く入学志望者の募集を発表する予定なり。 (八頁)
これによれば、早稲田専門学校の新設は、専門部入学希望者の著増という事態への対応であった。けれども、それが大正十三年初頭に具体化されたことは、やはり前年の大震災の影響と言わなければならない。夜間専門学校を設ける計画は、高等教育の普及、夜間の大学施設の活用などの見地から、かねてより高田総長以下当局者によって抱かれていた。この計画の具体化が大震災を機として急速に進み、大正十三年四月には開設の運びとなった理由は、神田地区の私立大学が大被害を受け、勤労学生の向学心の満足に甚だしく支障を来たす事態となったことである。高田が「夜学専門学校の設立と学園の教育方針」と題して、
想ふに、日本国民は好学の民として他の国民に一歩も後れざるのみならず、或は他の国民よりも一層に学を好み進んで教育を受けんとする国民といつても差閊あるまい。然るに日本に於ける教育上の建築物は、他国に比してその数が少いのみならず、不幸にして教育の中心地たる大東京が震災の襲ふ所となりその教育設備が更に減少した際であるから、我が早稲田大学の如き東京市内に於ても最も多き最も宏き建築物を有する学園の一つであるものが、天佑に依て幸に焼け残つた以上、これを博く開放してその利用の途を充分に講じないのは、啻に教育上に於ける世界的趨勢に反するのみならず、さし向き我が日本に於ける教育の普及に貢献する所以でないと考へる、其結果として従来早稲田工手学校の夜学に使用せしむる以外の場所を教室に充てて早稲田専門学校を起し、その学業を開始することとなつた次第である。(同誌大正十三年四月発行 第三五〇号 三頁)
と述べている通り、他の私立諸大学が震災により大きな被害を蒙ったため、就学の機会を失った多くの勤労学生を救済する意味で、学苑が専門学校の開設に踏み切ったのであった。専門部は大学令ではなく専門学校令に基づく学校であったが、一個の高等教育機関としての実質を具えたものであった。早稲田専門学校の創設は、単なる専門学校の増設ではなく、「大学教育」の拡充・普及という意義を有するものと、高田ら大学当局者は理解していたのである。
学園の天職、及び世間の必要といふ上から考慮すると、今日の場合内容の改善と同時に、大学教育の普及といふ事にも一層力を用ゐなければならぬことを切に感ずる。今や我日本は国民全体の自覚を促す必要が刻々に迫つてゐる時勢である。殊に、その国民が普通選挙制の下に何人に限らず貴重なる選挙を行使すべき時期が近よりつつあるのであるから、この大切な時機に於て国民をして正当なる自覚を為さしめ、国民をして公権を行使する場合に必要なる品性及智能を養はしむる道が、大学教育の普及に俟つことは論をまたぬ。されば、今の時代は世界を通じて識者は皆眼をこの点に注ぎ、その方法を研究し実行しつつある秋である。随つてかかる要求を実現する有力なる一方法として教育的建築物の利用といふことが、教育上の一大問題となつて来たのである。即ち、教育上の建築物を単に昼間のみ用ゐずして夜間にもこれを利用し、学問と教育との普及の便に供するは昨今に於ける一般的趨勢といつてよい。我が早稲田大学が内容の充実を図ると倶に、夜間に於ける早稲田専門学校を設立して新たに学生を募集するのは、この趨勢に後れざるための一計画である。 (同誌 同号 三頁)
夜間から昼間へ転換を計った他の私立大学と対照的に、学苑は創立後四十二年近く経過した後に初めて高等教育における夜学を創設したのである。
学苑における大正から昭和にかけての夜間教育の拡充・強化は早稲田専門学校にとどまるものではなかった。明治四十四年三月、夜学の工手学校が開校したことは前巻三二四―三三六頁に説述したところであるが、大正九年二月には修業年限が二ヵ年半から二ヵ年十ヵ月へ、更に大正十一年四月には修業年限六ヵ月の高等科を増設して三ヵ年に延長された。しかし昭和三年二月には、入学資格を尋常小学校卒から高等小学校卒に引き上げるとともに高等科を廃止し、修業年限が再び二ヵ年半に短縮された。昭和六年九月には採鉱冶金科が鉱山及金属科と改称された。また昭和七年四月からは、十ヵ月の予科が新設されて尋常小学校卒業生を収容し、高等小学校卒業生と予科修了生を収容する従来の課程が本科となった。夜学である工手学校生徒の生活は、昼間学生のそれに比べて、大変辛いものだったようである。大正十五年七月に工手学校主事に就任した丹尾磯之助(大六専政)は当時を顧みて次のように語っている。
日が暮れる頃からここに学ぶ生徒、即ち十五、六歳から十七、八歳の遊びたい盛りの青年が、ぞくぞくと集って来る。しかもそれが大部分は昼何処かで働いて、恐らくは夕食もろくに食べる時間もなくやって来る人々である。毎日毎日夕方になると、斯様な好学・向上の精神に燃えている三千人以上の青年を眼の前に見て、私には歴史・書物の上に存在していた二宮金次郎という模範少年を現実に見る気がし、又わが国の生んだ世界的科学者野口英世博士の卵がこの中にいるだろうと思って、深く心を打たれ、言い難い頼母しさ、力強さを覚えたのである。それは実に、それ迄の大学の学生ののんびりした生活を見ていた私には、一つの大きな驚きであった。 (早稲田大学工業高等学校・早稲田稲友会編『創立五十周年記念誌』 二一頁)
高橋勇(昭一一鉱山)は工手学校での授業内容をこう回想している。
選鉱学の北沢武男先生は黒板に全部横文字で書くんです。英語のよくわからない生徒は呑み込めません。「先生、英語ばっかりじゃなく、日本語で書いてください」と言うのもいます。すると、「君らの先輩たちはこれをみんなこなしてきたんだ。君らは勉強が足らない」と逆にしかられました。とったノートを卒業後に読み返しますと、いいことばっかり書いてありましたね。ずいぶん参考になりました。実社会での応用問題に対しては卒業後も勉強しなければなりません。工手学校で学んだ基礎的な学問の内容は、非常に程度が高かった。しかしその当時は呑み込めなかった。それが、やがて現場に出て勉強して、咀嚼して初めて理解できた。だから、講義の内容は大学とほとんど変りないです。
(「早稲田工手学校―勤労と向学と」『早稲田大学史記要』昭和六十年一月発行 第一七巻 一九四頁)
この厳しい姿勢の由来を津田清一(大一三機械)はこう述べている。
中に、すごい質問をする生徒がいます。そうしたら先生いわく、「お前たちは、理工学部を卒業した人に使われるんだから、同じことを覚えていなけりゃならん。技師の言うことをお前たちがわからないんじゃ、だめじゃないか」と。だから、難しいのはあたりまえだ、もっと勉強しろってことなんですね。ははあっということになっちゃうわけです。
(同誌 同巻 一九四―一九五頁)
このように厳しい状態の中で学んだ工手学校生徒の多くは中堅の技術者・職工となって巣立っていった。一般社会も彼らを歓迎した。高田早苗によれば、「年二回の卒業式には、数百名の卒業生を出すのであるが、是等卒業生に対する世間の需要も年を逐うて増加するので、殆んど一人の未就職者がないといふ状態」(『半峰昔ばなし』四七四頁)であり、これらの中には、自ら会社・工場の経営者となった者も少くなく、「京浜地区のみに於いて三百に余る企業主を生んだ(この数は理工学部出身者よりも多い)」(帆足竹治「創立五十周年に際し」『創立五十周年記念誌』四頁)と言われる。卒業生の活躍は必ずしも工業界のみに限られず、学界や政界に進出した者も見られた。
工手学校の発展を承けて、学苑は工手学校の上級学校を創設した。すなわち、昭和二年五月九日の維持員会で、「早稲田工手学校高等科ヲ廃シ早稲田高等工科学校新設ノコト」が協議され、同年七月には早稲田高等工科学校開設準備委員会が設置されて、昭和三年四月早稲田高等工学校が開校した。これは、実験実習設備は理工学部のものを、校舎は第二高等学院のそれを共用して夜間授業を行うものであった。その学科は、工手学校に置いていた採鉱冶金科を省き、機械工学科、電気工学科、建築学科、土木工学科の四科とし、修業年限二ヵ年、入学資格を中学校・工業学校・工手学校卒業生および同資格者と定めた。
工手学校・高等工学校という理工系夜学の強化は、「吾国工業の急激なる進歩発展は益々優秀なる技術者を要求するの傾向を来し、工手学校、工業学校並に中学卒業者にして専門学校程度の工業教育を受けんとする者激増するに至った」(『早稲田大学附属早稲田高等工学校要覧』昭和十三年 一頁)と言われる如く、第一次世界大戦後における日本経済の重化学工業化の結果であったと言い得るであろう。例えば職工五人以上の民営工場従業員数を見るならば、大正三年を一〇○として大正八年と昭和九年を比較すると、金属工業では三九一だったのが九一三、機械器具工業では三四一が五三七、化学工業では二五七が四二六となっているのである。
早稲田専門学校および早稲田高等工学校の新設に関しては、そのそれぞれについて次にもう少し詳述することにしよう。
既設の専門部に見合う夜学の専門部を造りたいという動きは先述の如く以前からあったらしいが、震災により実現が早まり、早稲田専門学校の新設となったのである。
すなわち、大正十三年一月二十九日の臨時維持員会で三年制の夜間専門学校の新設を決議し、申請手続を行った結果、文部省より四月十九日認可された。その学則要項の主要部分を示せば次の通りである。
附属早稲田専門学校学則要項
目的及学科
一、本校は政治学、経済学、法律学及商業学等各種の専門学術を授くるを以て目的とす。
二、本校に政治経済科、法律科及商科を置く。
三、学生を第一第二の二種に分ち第一種を本科生とし第二種を別科生とす。
授業時間
自午後五時三十分至午後九時三十分
学科課程
一、各科の修業年限を三学年とす。
〔中略〕
学年及入学
〔中略〕
三、左の各号の一に該当する者は第一種生として入学することを得。
イ、中学校を卒業したる者 ロ、専門学校入学者検定規程に依る試験検定に合格したる者 ハ、同規程に依り一般専門学校の入学に関し無試験検定の指定を受けたる者
四、左の試験を経て中学校卒業者と同等の学力ありと認めたる者及教員検定に関する規程第五条第五号乃至第八号の資格を有し、本項に依り英語の試験に合格したる者は第二種生として入学することを得。
倫理、国語、漢文、英語、歴史、地理、数学
但し第二種生は徴兵令の特典に与かることを得ず。
五、入学志望者の数各科予定の人員に超過するときは学力考査を行ふ。
学費
一、学生入学の節は入学金として金五円を納付すべし。
二、学費は一学年金八十円とす。 (『早稲田学報』大正十三年四月発行 第三五〇号 四―五頁)
専門学校長は専門部長坂本三郎の兼任とし、教務主任には助教授高井忠夫が嘱任された。
開校式は四月十九日午後五時より第二十教室で行われ、坂本校長の式辞、田中穂積常務理事の挨拶があった。総長は静養中であったため常務理事が代行したのである。授業は同日の第二時間目より開始された。坂本校長はこの年十二月に『早稲田学報』(第三五八号)に「専門学校に就て」という次のような一文を寄せて、その抱負を述べている。
我が学園も時代の趨勢に応じて従来の専門部以外に、今春更に専門学校を創設することとなつた。さて此の専門学校の設けらるるに到つた主旨に就ては、人々により観方も異るであらうが、自分の一私見から言へば、凡専門学校も学校である以上、徳育即ち人格教育と、智育たる学問とを兼修せしめねばならぬことは言ふまでもない。乍併専門学校に於ては学問を学問として研究するといふよりも、学問を実際化する方に主たる力を注ぎ、随つて学者を造るを念とせずして、直ちに実社会に活動し得る人物を養成することに重きを置くのが、その本来の一使命ではあるまいかと思ふ。……聞く所に拠ると、最近米ではケース・システムといふ教育方法を採用し、教場の講義と実地見学とを適度に施して、学生をして学術の研究と倶に実務を習修せしめて、校門を出でれば直ちに実地に役立つ人物を作らんとしてゐるとのことである。想ふに、専門学校に於て僅か三ケ年の間に相当の徳育、即ち人格教育をも授けながら、学問と其の実際化の方面を充分に行はれ得るや否やは問題であるが、しかも此の種の教育方法も慥に一考に価するものであると思ふ。かくの如くに専門学校が科学の実際化に重きを置く結果、其の卒業生が実際界に入るに便なる一方法として、文官高等試験の予備試験免除を得るとか、中等教員の資格を受ける如きことも必要ではあるが、それがために、活社会に適する人物を造ることを閑却するのは固より不可である。……人生の永い道程に於ては、科学を科学として深くやつた人が最終の勝利を得ることは自然の帰趨である。この点に於て専門学校の教育を受ける人々は、一段の覚悟と努力とを要することを忘れてはならぬ。故に若し専門部や専門学校の出身者が校門を出でた後、実務に従事する傍、恒に自己の足らざる基礎的学問や専門的研究を懈らずに断えず奮闘して、人生六十年の競争に後れをとらぬやうにすることが肝要であつて、かくするときは、更に進んで国力の伸張乃至人類の進化に寄与することも出来るのである。 (二頁)
大正十五年三月末日現在の学生統計によると、初年度に入学し二年生に進級した者は一八五人(政六九、法四二、商七四)で、次年度の入学生は二八四人(政一一八、法五四、商一一二)となっている。
それにしても、専門部第二部、或いは夜間専門部としないで、何故に専門学校として開設されたのであろうか。実は大正十三年二月二日、田中理事は専門部各科委員を集めて、夜間専門部設置計画について説明したところ、同五日専門部各科の学生大会が開かれ、「専門部の社会的地位の失墜」を招くこと必至であるから、「現在専門部の内容充実を図らずして、徒にその拡張をなす」ことに対し真っ向から反対が表明せられた。当局は、「既成専門部に影響を及ぼさぬ」よう確約することにより、学生の反対の鎮静化に努めるほかなく、それが夜間部に対しては「専門部」の名称を使用せず、「専門学校」という名称の採用に帰着したのであった。すなわち、高田が「大体に於て私並に他の当局者は大学教育の普及を望むと同時に、早稲田大学をしてマーケツト・スクールたらしめざることに深く留意」したと述べ(同誌大正十三年四月発行第三五〇号三頁)、更に新設の意図を左の如く説明した裏には、田中による昼間部学生説得の、ある意味では「苦肉の策」が秘められていたのである。
専門部教育専門学校教育なるものは、この場合大いに改善を加ふべき時機に逼つてゐる。微弱なる中学教育の上に専門知識のみをつめ込むといふ従来の教育方針は、過去の人物速成を必要とした時代には相当役に立つたに相違ないが、畢竟完全なものと言ひ得るかは問題である。殊に教育の問題としても、専門教育のみが必要でなく、少なくとも同じ程度に於て「教養教育」が必要である。一個の人間には専門教育が必要と同時に、謂はゆるcultureが欠くべからざるものである。随つて教養教育が適当に加へられcultureなるものが相当に培かはれてはじめて専門教育なるものも生きて来ると私は信ずる。……今度の夜間早稲田専門学校はその教科目の編成、教育の方針等に是等の点に就て考慮を払ひ多少実験をしてみたいといふ考へから出来てゐる。その結果が果して良好であれば、私は昼間に於ける専門部にも適当なる改善を施して宜しからうと思ふ。それも実験の上となれば益々専門部教育の効果が現はれる次第である。 (同誌 同号 四頁)
ところが、入学してきた夜間専門学校の学生は、こうした経緯を知る由もなく、ひたすら専門学校の名称を嫌い、専門部への改称を要求した。この動きは根強く続き、昭和二年十二月、突如、学生大会で名称変更の要求が決議され、容れられない場合にはストライキに入るという騒ぎとなり、更に昭和五年十月―十一月の早慶野球戦切符事件に際して再燃した。専門学校の学生代表は、「同盟休校経過報告」(十一月五日付全早稲田連合学生委員会ビラ)で、「吾ら学園の一隅に階級的にみじめな名を冠せられて日陰者の憂き目を見るものに夜専あり。内容は専門部とすこしも変らず。正義に進む早稲田学園の兄弟に訴ふ、決議の一項に夜専の改称の要求を入らしめよ」と呼び掛けている。新設に当っての高田らの抱負を必ずしも学生達は納得していなかったのである。
早稲田専門学校は大正十四年八月、文部省告示第三百十九号により、大正七年文部省令第三号第二条第四号に基づき、高等学校・大学予科と同等以上の資格を持つものと指定されている。
専門学校は大正十五年、三年目を迎えて学科課程を完成させた。その年の学科配当は左の如くであった。
政治経済科
法律科
商科
昭和三年四月、学苑は工手学校の上級校に夜間授業の各種学校として早稲田高等工学校を新設した。工手学校は、大正十五年に挙行された第十五周年記念式典に際し、女子に門戸を開放するとともに、夜間に高等工学校を設置する具体案め検討を開始したが、それが結実し、大正十一年より設けていた修業年限半ヵ年の工手学校高等科を廃止して、独立した学校を新構想のもとに出発させたのである。
高等工学校は次に掲げる設立趣旨に述べられているように、工手学校・工業学校・中学校の卒業者の要望に応じ、専門教育を施し、大学と工手学校との中間の学力・技術を有するエンジニアの養成を目的としており、修業年限は二年とされた。昭和初期の経済不況下にあっても、社会は中級技術者の養成を望んでいたので、その要望に応ずる意味もあったのである。
早稲田大学は明治四十一年時勢に鑑る所あり、吾国工業界に活動する優秀なる模範的技術者を養成する目的を以て理工科(後理工学部と改称)を創設せり。続いて同四十四年附属工手学校を創設し夜間授業を以て比較的短期間に工業教育を施し、直ちに実務に従事し得る技術者の養成に力め、前者は既に卒業生を出す事三千名、後者は約一万名に達せんとし、夫々工業界各方面に活動しつつあり。然るに其後に於ける吾国工業の急激なる進歩発展は工手学校、工業学校竝に中学卒業者にして専門学校程度の工業教育を受けんとする者頗る多きに至りたるに拘らず、之に応ずる適当なる教育機関の極めて乏しきは国家の為め深く遺憾とする処なり。玆に於て早稲田大学はこの時勢の要求に応ぜんが為め、大学理工学部の諸設備を利用し夜間授業による高等工学校を設立し機械工学、電気工学、建築学、土木工学の四科を置きて専門学校程度の教育を施し、以て大学卒業生と工手学校卒業生との中間に位する学理と実際とに通ずる技術者を養成し、益々吾国産業の発達に貢献せん事を期するものなり。
(『早稲田大学附属早稲田高等工学校学則』昭和七年 一頁)
開設準備委員会の第一回会合は昭和二年六月二十九日に開かれ、準備段階では早稲田高等工科学校という名称を考えていたらしいが、七月二十日の会議で早稲田高等工学校の名称による原案を決し、申請手続をしたところ、翌年三月十六日東京府より認可があった。第一回入学試験は四月六、七日に行われ、始業式は四月十六日午後五時三十分より大隈小講堂で挙行された。初代校長には徳永重康が就任し、沖巌が機械工学科の、密田良太郎が電気工学科の、佐藤功一が建築学科の、山田胖が土木工学科の、岡村千曳と藤井鹿三郎が共通学科の教務主任に、また井上秀二、山本忠興、徳永重康、松縄信太、沖巌、小林久平、吉川岩喜、佐藤功一が協議員に嘱任された。校舎は第二早稲田高等学院校舎を共用し、実験実習は理工学部の諸設備を活用することにした。当時の工手学校は機械科、電工科、建築科、土木科、採鉱冶金科の五科よりなっていたが、高等工学校には機械工学、電気工学、建築学、土木工学の四科のみが置かれた。開校記念式は五月十三日午後一時より大隈講堂で挙行され、徳永校長の挨拶、田中常務理事(総長代理)の式辞、来賓加茂正雄工学博士の講演、平塚広義東京府知事の祝辞があった。初年度の生徒は、機械工学科一六三名、電気工学科二六九名、建築学科二五四名、土木工学科三二五名で、総数一、〇一一名であった。
初期の学校規則を左に抜萃しておく。
早稲田高等工学校規則
第一章 総則
第一条 本校ハ工業ニ関スル専門ノ学理及応用ヲ教授シ兼テ徳性ヲ涵養スルヲ以テ目的トス
第二条 本校ニ機械工学科、電気工学科、建築学科、土木工学科ヲ置ク
第二章 学科課程
第三条 各学科ノ修業年限ハ二箇年トシ之ヲ四学期ニ分ツ
第四条 各学科ノ授業科目及毎週授業時数左ノ如シ
第五条 授業ハ毎日午後六時ヨリ開始ス
第三章 学期及休業
第六条 一学期ハ四月一日ヨリ十月三十一日マデ竝ニ十一月一日ヨリ翌年三月三十一日迄トス
第七条 夏季休業ハ七月十六日ヨリ八月三十一日ニ至リ冬季休業ハ十二月二十五日ヨリ翌年一月七日ニ至ル
〔中略〕
第九条 休業中ニテモ特ニ実験実習ヲ課シ又ハ試験ヲ行フコトアルベシ
第四章 入学、在学、退学及懲戒
第十条 入学時期ハ毎学期ノ始トス
第十一条 中学校、工業学校、早稲田工手学校卒業者又ハ之ト同等以上ノ学力アリト認メタルモノヲ検定ノ上第一学期ニ入学セシム
第十二条 入学検定料ハ金三円トス
第十三条 入学志願者ハ志望学科ヲ明記シタル入学願書ニ検定料最近撮影ノ手札形写真及左ノ書類ヲ添へ之ヲ差出スベシ
但シ一旦納付シタル検定料ハ返還セズ
一、学業履歴書
二、第十一条ノ資格ヲ証明スベキ卒業証明書又ハ試験合格証明書
〔中略〕
第六章 聴講生
第二十四条 各学科中ノ一学科又ハ一学科目若シクハ数学科目ノ講義ヲ聴カント欲スル者ハ銓衡ノ上聴講生トシテ之ヲ許可スルコトアルベシ
第二十五条 聴講生ハ中学校、工業学校、早稲田工手学校卒業者又ハ之ト同等以上ノ学力アリト認メタル者ニ限ル
第二十六条 聴講生志望者ハ学期ノ初ニ於テ入学願書ニ聴講スベキ学科又ハ学科目ヲ記載シ履歴書竝ニ第二十五条ノ資格証明書及手札形写真ヲ添ヘテ願出ヅベシ
第二十七条 聴講生ニハ試験ヲ行ハズ
第二十八条 聴講生ノ学費及学費納付ノ手続其他ニ就テハ本規則ヲ準用ス
第七章 学費、実習費及教材費
第二十九条 入学ノ際ハ登録料金五円ヲ納付スベシ
第三十条 学費ハ一学期金四十円トシ毎学期ノ初ニ納付スベシ
第三十一条 前条ノ学費ヲ前納シ得ザル者ハ八月及十月ヲ除キ金八円宛毎月十日限リ分納スルコトヲ得 但シ一月ハ十五日限リトス
第三十二条 実習費ハ実習ヲ行フ学期ニ限リ次ノ通リ学費ト共ニ前納スベシ
一、機械実習費金十円
二、測量実習費金五円
教材費ハ別ニ実費ヲ徴収スルモノトス
第三十三条 学費及実習費ハ欠席中ト雖モ之ヲ納付スベシ
第三十四条 一旦納付シタル学費等ハ之ヲ返還セズ (『早稲田大学附属早稲田高等工学校学則』昭和七年 二―七頁)
なお、工手学校生と校友は稲友会という親睦の会を作り、『稲友会雑誌』という機関誌を明治四十五年より発行していたが、早稲田高等工学校も、親睦会として稲工会を組織し、昭和三年には『稲工会雑誌』第一号を出している。