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第六編 大学令下の早稲田大学

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第三章 巨星墜つ

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一 大隈の逝去

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 大正十一年(一九二二)一月十日、学苑は偉大な創立者大隈重信を失った。大隈は常々人寿百二十五歳説を唱え、長寿の秘訣として「やはり物質的の衛生論のみではいけない。精神と肉体と相俟たねばならぬ。殊に気力が主となつて、快活な精神が肉体を支配することによつて、はじめて不老長生を得る」(『大隈侯八十五年史』第三巻 七〇一頁)と説き、長生法五ヵ条として(一)怒るな、(二)愚痴をこぼすな、(三)過去を顧みるな、(四)望みを将来に置け、(五)人のために善をなせ、との教訓を案出・実行した。大隈が朗らかな大楽天家であったのは万人が認めていたが、それは生得のものであったとともに、努力の賜でもあったようである。明治十四年の政変以来の幾多の試練を乗り越え、あまつさえ隻脚の不自由な体で、八十四年に近い生涯を常に明るく生き通すためには、肉体そのものの健康管理にも非常に注意深かったらしい。毎日体温を計り、体重を調べ、時に大小便を検査し、隻脚故に不足になりがちなのを補うために、毎日規則だった運動を心掛け、また食事に注意して十分栄養を摂るよう努めたと伝えられている。その甲斐があって、宿痾となった胆石病を除けば、健康状態は常に優良で、自他ともに長寿を全うすることを疑わなかったから、突然の発病・逝去は、多くの人々を驚かせ、深く嘆かせたのであった。

 大隈は大正五年七十八歳で二度目の総理大臣の職を退いたが、その後も決して隠棲するような人物ではなかった。次節に詳述するように著作、講演、図書出版等の文化活動に寧日なき活動を続け、その上明治末年以来その席にあった同仁会会長、日印協会(大正五年日蘭協会を併合)会長、帝国軍人後援会会長、大日本平和協会会長、大日本青年修養団団長、維新史料編纂会顧問、飛行協会会長などの多数の重職を兼任し、しかも単に名誉的位置に留まるのではなく、積極的にそれぞれの事業を推進した。たとえば日印協会についてみると、明治三十九年六月以来、懇請されてその会長になっていたが、明治四十三年フランス前外相エミル・フルランらによって協会がインドの独立を煽動するかのような政治的野心を持つものと曲解されたとき、大隈は『日印協会会報』第三号に「日印協会に対する欧米の誤解に就て」という論説を発表して誤解の一掃に努めた。その論文の一節を次に引用してみよう。

歴史あつて以来、印度は自国民に依て統一された時代の誠に少い国である。それが今英国皇帝陛下に統一せられ、而も英国は現代の世界列強の中に於て最も文明の高度に達した国で、自由と正義と人道を愛する国柄である。この下に印度国民が従来統一の害をなしつつあつたところの色々の悪習慣、悪風俗を改良するといふことは印度国民のため非常に幸福である。このことは幾度かわが輩が印度の朋友諸君に対して云つてゐる所で、毫も政治上何等煽動的の意なきは、わが輩の言論を仔細に読み、或は聞いてゐる人の悉く承認する所である。わが輩は日印協会の会頭たる外、平和協会の会長として人種的区別、宗教的区別を眼中に置かず、唯人道の観察点から人類を平等に見て、公平なる判断を下してゐるばかりである。……凡そ世界列国の平和を破るものは何であるかといふに、各民族の間に文明程度の懸隔が甚しいといふことが一番の大原因である。過日も前米国大統領ロオズヹルト氏は合衆国が強大になつた為め、英国との間に於ける種々の困難を解き去ることを得たと云つてをる如く、すべて国と国との文明の程度の懸隔の少いやうに、それが一様になるやうにせねば世界に於ける大平和の到来を望むことが出来ない。玆に於て東洋文明を進めて、東西の文明を相調和したならば、必ず世界的の大平和が来る。故に人道の上から不幸な国民、憫むべき国民に対して早くこれを文明の域に進ませるやうにしたいといふのは、平和を望む者の同情心から是非起らねばならぬことである。再びわが輩は繰返す。人類の同等であるといふことは動かすべからざる真理である。アジヤ人もヨオロッパ人もこの点に於て同一であると云つたことを以て、誤解の起るべき余地はない。これを曲解する人士あらば、それは多分何等か為めにするところあるものと信ずる。 (『大隈侯八十五年史』第三巻 六八四―六八六頁)

その後大隈は、総会の席上で、日印貿易について左の如く日印協会員の活躍に期待するところがあった。

今日は日本が商業上、盛んに印度、南洋方面に於て活動してゐる。実にどうかすると、商業上、イギリスその他の国でこれを喜ばぬ人があるかも知れぬ。併し乍ら商業上では同国人さへ競争するのである。……全体、商業は競争に依て発達するもので、競争は商業の母である。が、日本今日の貧弱な工業は未だ英国の精巧なものと競争は出来ない。前途甚だ遼遠である。今日は先づドイツ、オオスタリイと競争する、これで沢山だ。この両国が印度に向つて輸出する位なものは日本が代つて取るやうにする。さうすれば、日本の輸出が殖え、兎角印度からの輸入が多くて片貿易であつたバランスを十分保つことが出来る。

(同書 同巻 六八六―六八七頁)

そして明治三十五年以後、大正十年まで、たびたびインドの来賓を自邸に招いて交歓したが、多くの政治家・学者などが、いずれも大隈の意見を傾聴し、一応の満足を得たもののようであった。たとえば、未だ首相在任中であったが、大正五年六月、詩聖といわれたタゴールが来邸し、ヨーロッパの知的物質文明は早晩滅亡するであろうと述べたのに対し、大隈は「西洋文明とても、一概に排斥し去るべきではない。わが日本は東西両文明の調和、融合を為すべき使命を帯びてゐる」と主張、タゴールもこの説に首肯するとともに、「日本が東西文明の融合を計るのみでなく、進んで西洋文明に向つて教訓を与へられんこと」(同書 同巻 六八八頁)を大隈に望んだことがあった。また同九年ベンガル州知事ダットが来邸したときには、インド文明の優秀なことを賞揚し、日印関係が更に親密を加えることを望み、次いでインド民族が自治を急ぐ前に、先ず内部の実力を豊富にすべきことを次のように忠告した。

今後はイギリスも印度に完全な自治を与へるかも知れんが、自治といつても急激なやり方はいかん。教育の普及によつて徐々内部から教化してゆくやうにしなければならぬ。日本最近の進歩もだ、ヨオロッパ人から認められたのは教育の普及が本ぢや。印度で一番大切なことは今後、その教育を進めるにある。それには手間がかかる。かかるが、それが最も確実な自治に達する道だ。 (同書 同巻 四九〇頁)

 このように広く各方面に活躍して多忙であったが、その間大隈は実に多くの外人客を自邸に招いて歓待した。五来欣造『人間大隈重信』によると、それら諸外国人が大隈邸を訪れた最大の目的は、大隈を通して日本の輿論を聞き、日本知識人の意見を確かめるためであったが、彼らは皆満足して帰ったという。世界のジャーナリズムが大隈に注目するようになったのは、日清戦争後、彼が日本・東洋・西洋の時事問題に関する意見を世界に向って堂々と発表して以来のことであった(柳田泉『明治文明史における大隈重信』参照)が、首相挂冠後の主要な訪問客を拾っただけでも次に見る如く盛況を呈し、まさに五来の言う如く大隈邸は「私設外務省」だったのである。

大正六年二月一〇日 メキシコ公使ロメーロと懇談。

大正七年四月 中華民国唐紹儀夫妻と懇談。同国人医師姜文照と懇談。カナダ・メソジスト教会のインヂカ博士と懇談。

四月二六日 『北京新聞』記者団と懇談。

春 『アウトルック』記者メエソンと懇談。

五月一三日 『パシフィック・ビュウロウ』記者バートン・ナイスレイと懇談。

六月一〇日 ロシア財界人バトーソンと懇談。

九月 シベリア政府代表者ペトルと懇談。

一〇月 米国人ファーガッソンと懇談。

一一月 『ジャパン・アドヴァタイザー』社長フライシャー同伴の米国ミズリー大学新聞科長ウィリアムズと懇談。

一二月 ロシア人女性革命家プレシュコフスカヤと懇談。

大正八年二月 米国銀行家アボットと懇談。

四月一〇日 シャム王族ユガラの宮、蒙古の宗教家ザイヤンシャリと懇談。

一〇月二四日 米国ロースター・セミナリー教授クロッス博士と懇談。

大正九年四月 米国実業家ヴァンダリップ一行と懇談。

七月一三日 エドワード・コンと懇談。

七月三〇日 ジョンソンと懇談。

八月七日 米国準備銀行頭取ストロング父子、日曜学校大会幹事マクラレンおよびブラウンと懇談。

八月一二日 インド人アチニダーと懇談。

九月四日 米国上下両院議員および家族百三十名と茶話会を開く。

九月一九日 ドイツ人グセルと懇談。

一〇月二日 日曜学校世界大会委員会に出席。ドイツ大使ゾルフと懇談。

一〇月二三日 米国人音楽家スミス夫妻と懇談。

一一月九日 米国地質学者コップ教授と懇談。移民協会日米問題会に出席。

一一月一四日 ハワイ銀行総裁サイクレハと懇談。

二月二九日 ロシア人ロイマノフ中将と懇談。

三月五日 米国人フランシス夫妻と懇談。

三月一〇日 米国人オットヒーと懇談。

三月一八日 英国人ブラックモアー来訪。

大正一〇年一月二八日 ポーランド公使夫妻と懇談。

二月三日 ドイツ人アリア女史らと懇談。

三月三〇日 英国人ダコー夫妻と懇談。

四月二日 アラビア侯爵ティリー少将と懇談。

四月七日 万国連合通信社代表ラッセルと懇談。

四月二九日 シアトル、タコマ両市連合商業会議所議員二十余名と懇談。

六月二日 チリ公使と懇談。

六月六日 英国人ソマートンと懇談。

六月二五日 オランダ人ビーツと懇談。

六月二八日 米国人ビゲローと懇談。

初夏 ロシア反革命派アルナチイフおよびプラトノフと懇談。

七月二八日 フィリピン上院議長ケソンと懇談。

七月三〇日 米国人ジョン・アンドリースと懇談。

八月二五日 ハーヴァード大学総長エリオットと懇談。

九月五日 フォステック博士夫妻と懇談。

九月三日 ワシントン、早稲田両大学野球部選手と懇談。

 これらの人々と大隈との意見交換の詳細は『大隈侯八十五年史』および雑誌『新日本』『大観』等掲載の論説に譲るが、たとえば第一次世界大戦中に訪れた外人客に対して「独墺の敗亡は唯時の問題だ」と断言し、その理由として「今やデモクラシイの潮流が全欧を風靡して、これに従ふものは勝ち、これに背くものは敗れる時に当り、カイゼルが如何に勇なりとも、その専制主義を固執する以上は敗亡するほかはない」(『大隈侯八十五年史』第三巻 四七〇頁)と述べたこと、国際連盟に賛同して、「すべてこれ迄も世界の平和を説いて来たが、その説き方が唯抽象的であった。如何に平和を宗教的に説いても、人間の利己心を制する力がない以上は致方ない……今やドイツは遂に敗れて降を請ふに至つたが、将来かかる兇暴な平和の攪乱者を制するために、玆に国際聯盟の必要が存する。いかに国際法が進んだといつても、これを無視する兇暴な一国が現はれた時は、これを防ぐ力は聯盟の外にはない」(同書同巻四七六―四七七頁)と述べたこと、また戦争の結果、民族主義が興り、国際連盟の成立を促す機運が起ったのであるから、戦争にも一面の存在価値があるとの意見に対して、「戦争がさうした結果をもたらすとしても、これを繰返す事は最早いけぬ。大なる罪悪である。人類の進化は自然淘汰に依るんだが、戦争はこの自然淘汰の理法に逆行し、最も強いもの、若いもの、生産能力の盛なるものを亡してゆくのだから、その淘汰には反対である」(同書 同巻 四七八頁)と主張したことなどは、その識見を窺うに足るものであろう。なお大正九年秋、百三、四十名に上るアメリカ上下両院議員団が中国視察後日本に立ち寄った機会を捉え、これを早稲田の自邸に招いて、「日本を誘導して文明的国際関係へ引き入れたアメリカが、近来その態度を一変して、日本を排する風があるのは当を得ない」(同書 同巻 四九二頁)とカリフォルニア州に起った排日運動(州法により日本人から既得の土地所有権を剝奪しようとした)を非難し、今後は互いに正確な事実の上に立って、一切の誤解を排し、正義の心を以て穏やかに商議すべきことを提唱したことなどは、野にあってなお日本の国際的立場を憂うる心の現れであった。なお大隈は常にこのような政治・外交についてのみ語ったわけではなく、相手次第で学問や趣味のことなども喜んで話題にした。また婦人客を迎えると季節に応じて丹精の花を切って贈り、子供には玩具を与えるなど、訪客の接待に努めるところが多大であったのである。

 総長としての大隈が学生に対して行った演説の最後は大正十年四月十六日、強風のため式場を校庭から高等学院雨天体操場に移して挙行された始業式におけるものであった。大隈の面目躍如たるものがあるから、左にその全文を掲げておこう。

漸次増加する所の早稲田学園の学生諸君、もはや斯くの如く群衆する所の多数の学生を容るる家のないと云ふことは諸君に対しで甚だ申訳のないことである。しかしながら物は必要から生ずるのである。学生の数が増すと、余儀なくされて家が出来て来るのである。私は実際学校の事務には与かつて居ない。そこで能くは存ぜぬが、今や学長が述べられた種々な事柄の中に、一つ大切なるものが落ちて居つたではないかと思ふ。それは何であるかと云ふと、即ち家のことである。人を容るる家がないと云ふことは頗る遺憾である。此の学校は、来年を以て創立第四十年の祝典を挙げるのであつて、既に一万四、五千の卒業生を出して居る。今一万以上の学生が集つて居るのに、大なる講堂を有たぬと云ふは実に遺憾である。寺には必らず堂がある。堂がなければ御経が読めぬと云ふ訳ではないが、少しく物足らぬやうに思ふ。学校の講堂もさうである。此の事に就いては学長始め必らず苦心惨憺たるものがあるであらうが、玆に之れを明言するだけの成算が未だ立つて居らないのであらうかと思ふのである。学長其の他当事者に於いて今一層の奮発を以て家を造つて御貰ひしたいと思ふ。近来世上の事業が漸次膨脹するに従つて、国家も社会も金が足らぬ足らぬと云つて居る。ところがよくしたもので、之れを救ふ為に借欵と云ふことが近来流行する。社会は何万と云ふ学生を見殺しにはせぬと思ふ。からして家を造る為に借欵を起すことは出来得るであらう。諸君は此の学校を出た後には相当の地位を占められるに相違ない。多数の力は実に大なるものである。此の学校を維持するものは此の学校から出た所の多数の卒業生であつて、此の人々は疑ひもなく学校を維持することが出来るのである。そこで諸君を引当てに借欵を起されたら宜くはないかと、先刻学長に勧告したのである。是れは決して冗談ではない。此の学校は天幕を有つて居つて、何か事のあるときには、校庭に之れを張つて集会の場処を作るのであるけれども、天幕では十分の役をしない。どうしても講堂を建つることが必要である。しかして是れが実に学校経営の基礎をなすものである。

冒頭に私が斯く論ずるのは何の為であるか。家を造ると云つたのは決して無意味ではない。家がなくても、御堂がなくても、御経は読めぬことはない。大道に於いてでも御経は読める。野外に於いても研究は出来る。しかしながら多数の人はどうしても集合しなければならぬ。此の集合の力が実は恐るべく偉大なものである。此の集合がないと、人の力は散漫に流れるのである。どうしても力は集合しなくてはならぬ。人類は社会的に生存をなすべきものである。人類は国家的の動物である。是れは集合と云ふことを意味して居る。国家が成立すれば、其の国家を統一する所の機関がなければならぬ。さう云ふ訳で、人類は何としても共同しなければならぬ。しかして共同するには共同の機関が必要である。組織が必要である。又人類は共同の性質を有つて居る。規律的に活動する知能を有つて居る。しかし之れを共同させて、規律的に活動をする中心の機関がなければならぬ。学校と云ふ共同体の中心は講堂である。さう云ふやうな訳で、総て物には中心がなくてはならぬ、センターがなくてはならぬ。此のセンターがあつて、それからして科を分つて行かねばならぬ。実を言ふと近来は分科が過ぎて居るやうである。専門が分れ過ぎて居るやうである。しかして之れを綜合し之れを統一する所の力を失つて居るやうに思ふのである。生理学上から云ふと、人間の神経は実に鋭敏なものであつて、是れが各方面に触れて働いて居る。直覚的に外部から受くる所のあらゆる感覚を綜合統一する所の神経がなければ、人は馬鹿になつてしまふ。どうかすると気狂ひになる。現に国際平和を破つて戦争をするものがある。是れは気がふれて居るのである。畢竟するに、是れは中心がないからのことである。かう云ふ訳で、多数の学生も共同して研究しなければならぬ。共同して知識を発達させて行かなければならぬ。所が共同して集まる場所がないと、それが行はれない。漸次学問は複雑になつて、専門が分れて来て居るが、如何に専門が分れやうとも、国民としては各人同一である。また人間活動の根本は強健なる身体にあるが、之を統一する所のものは道徳である。是れが人間の基礎である。此の基礎を失ふと如何なる学者も其の身を誤まる。社会に害をなすに至る。社会共同の力と云ふものは大切なもので、之れを失つたのが近来の社会問題・労働問題の根源であるのだ。世界に卓越した英国も今や之れが為に非常に苦んで居る。一歩誤らば、アングロ・サクソン人は滅亡に垂んとして来るかも知れぬ、一歩を誤まれば羅馬の末路のやうになるかも知れぬと思はれるのである。是は何故に然かるかと云ふと、即ち共同の精神が薄弱になつた為である。中心を失つて居るからである。分業は漸次盛んになるが、如何に分業が盛んに行はれやうとも、其中心を失ふと大変だ。センターを失ふと遂に蹉跌する、実に注意しなければならぬことである。

今回の大戦以後世界の動揺は、或る点から云へば、現代文明の弊が与つて力ありとも言へるであらうと思ふ。是に於いて吾人は四十年前来学問の独立を高唱して、優等の国民、即ち模範国民の養成に努力した。是れが総ての人類の標準となつて、複雑なる社会を統一し、指導して行くべきものであるが、此の力を失つたのが即ち今日の禍を招いた所以である。今日欧羅巴には天才が欠けて居る。少くとも、天才が少い。英国も仏蘭西も独逸も亜米利加も天才が少いやうである。天才が少いと云ふことは統一の首脳を失つたと云ふことに帰着する。首脳が失せると、思想が混沌たる状態に陥つて来るのである。それが為に人が思想の独立を失ふ。陳腐な学説に拘束されずして真理に依つて働くと云ふ思想が薄弱になつて来るのである。今日どうかすると己は文学者である、己は医者である、己は工学者であると言つて、人類共同の動作の上には力を尽さぬと云ふが如き弱点が少くないやうに思ふ。凡て人類の基礎は共同生活・共同生存に在る。是れが人間生存の根柢である。此の偉大なる思想は、儒教に依つて現はされた所の仁義である。人の為に働くと云ふことである。社会の為に働くと云ふことである。之れを基督は愛と云つて、愛を以て人類のあらゆる弱点を調和して行かうと云ふことに努めたのである。仁義も愛も要するに同じことになるのだ。所が現在の卑近なる文明は絶対の利己主義に陥つた。それも従来或る場合までは社会の制裁を加へて居たが、どうも十分ではない。国際間に於いては、獣類と何等択ぶ所のないやうな喧嘩をして居る。始終相搏噬して居る。陽には文明を誇つて居るが、どうです、此のたびの戦争の状態を見なさい。実に驚くべきものである。野蛮時代と異なる所はない。祖先以来辛苦経営して蓄積した所の富を僅々四年の間に失つてしまつた。二千万人の血を流し屍を積んだのである。しかして文明・文化を誇ると云ふのは何事ぞ。其の文明・文化は人殺しをやつた。祖先以来蓄積した所の富を破壊した。其の跡に何物が残つて居るか。唯禍の波が漂つて居るのである。人心は非常に危惧を感じて、思想界は混沌として帰着する所を知らざるに至つたのである。政治上にも、経済上にも、何事も総て行詰つて、人類は今や苦悶して居るではないか。

凡そ現代の文明は学芸復興以来約四百年を費して成就したものである。其の淵源は希臘に在るか、羅馬に在るか知らぬが、とにかく近い処から論ずれば、四百年を経過したものであつて、其の間には非常な辛苦艱難を嘗めて、屢々革命までも起して、さうして僅かに今日の程度まで達したのである。此所まで登るには随分長い年月を費したのである。富士山へ登るよりも困難であつた。しかして此所まで登ったものを一朝にして破壊した。僅々四年の間に山を下つてしまつたのである。

軽薄なる世人は一時独逸の文化を非常に崇拝した。然るに近来は独逸の文化を非常に罵詈する。いかにも軽薄に見える。独逸の文化は善であるか悪であるか。それはもう少し時日を経過しなければ解らぬ。今は人心が興奮して居る。まだ是れが鎮静しない以上は善悪を判断することは困難である。とにかく独逸の文化を罵るものが多くなつて来た。早稲田大学で四十年来学問の独立を唱へて居るのは、さう云ふ軽薄な風潮に眩惑されないやうにしたいと云ふのが本旨である。今日に至つて、愈々学問独立の必要を切実に感ずるのである。凡そ一国の文化・文明と云ふものは、個人の力を以てしては到底成就し能はぬものである。国民共同の力に依るにあらずんば、為し能はぬのである。所が多数の人を悉皆賢者にする、悉皆物識りにすると云ふことは不可能である。玆に指導者が必要になる。指導をするものが即ち模範的国民である。諸君の如きが此の指導の任に当るものにならなければならぬ。是れは極く平凡なことではあるが、吾人が四十年以来高唱し来つたものである。是れは決して誤つて居ない。私は愈々其の信念を固くする訳である。

今学長の健康論があつた。あれには大いに敬服した。吾輩は比較的健康な方である。どうも西洋人は健康だが、日本人は意気地がないやうである。しかし吾輩個人としては、西洋人には負けぬ。西洋から種々なお爺さんが訪ねて来るが、其の人々はなかなか強い。身体が強い、脳力も強い、想像力も思考力も記憶力も強いが、吾輩は此れ等のお爺さんたちに較べて見て、さまで遜色がない。抑々日本人は弱いのであるかと云ふと、さうではない。是れはみづから怠つて弱くなるのである。気象が乏しい、競争心が少い。世人は或る意味からして、此くの如き人を善良なる人と云ふ。善良なる人と云ふと、大いに宜しいやうでもあるが、実は其の人々は競争心を失つて居るのである。此くの如き善良人ならば、それは国家に有害なものである。所が競争心が強いと、時々競争が極点に達して、心得違ひにも、喧嘩をしたり殴り合ひをする。是れは褒めたことではないが、しかしながらそれぐらゐの気象がなければならぬ。国際間の道徳の如きはなほ甚だ幼稚である。向ふから喧嘩を吹掛けて来れば、止むを得ず之に応じなければならぬ。所がどうかすると、所謂善良なる人は更に抵抗しない。抵抗力を貯へて居つて、さうして抵抗しないと言ふならばとにかくであるが、実はそれは噓であつて、抵抗力がなくなつて居るからして、そんなことを言ふのだ。宗教家などにはさう云ふ噓を吐く人が往々ある。是れは空念仏と云つて吾輩の取らざる所のものである。何としても競争は必要だ。敵が圧迫して来れば何時でも相手になる。こつちから喧嘩を吹掛けるのは宜しくないが、吹掛けて来れば相手になる。偉大漢でも相手にする。意を決すれば、偉大漢にでも飛掛つて咽喉口へでも喰ひ付く、決して負けることはない。斯う云ふ気象が国を盛んにする。斯う云ふ気象があつて、学問も本当に出来る。諸君の勉強する所以は何だ。畢竟競争だ。人に負けぬやうにやらうと云ふに在るのだ。吾輩も今日まで競争を継続して来た。競争が盛んだと、俗人は野心があるとか、覇気があるとか云ふ。何のことだ。吾輩は死ぬまで覇気を失はない。野心がなくなつた時は死ぬのだ。そこで一生自己の力のあらん限り勉強を続けて行かなければならぬ。勉強を続けて行くと、初めは一向出来ないものも、大器晩成で進んで行くのである。吾輩は何だか段々進むやうだ。昨年の大隈より今年の大隈の方が物識りになつて居る。然らば来年は又一層物識りになるであらう。全体学問と云ふものは一生涯の事業である。そこでそれをなすには、学長の御話の如く、身体が弱くてはいかぬ。弱い身体は自己の独立を保つことが出来ぬのみならず、家族の厄介になる。国の厄介になる。さう云ふ者の多い社会は発達しない。さう云ふ社会は必らず衰へる。さう云ふ国家は或は亡びる。それで何でも自然に備へた本能的の力を強壮にする、此の力を鍛へ上げるのが体育である。体育は知識を得るより難い。先生の講義を聴いて書物を読むと、或る程度まで知識は得られる。然るに体育はさうはいかぬ、田中先生の御議論はまだ拝聴しないが、議論はさう六ケしくはない。ないが実際完全に人間の身体を鍛へると云ふことは余程六ケしい。是れは知識を得るより余程難い。其の難きを忍んで、常に鍛錬しなければならぬ。鍛錬をしない人間は駄目だ。人間は元来動物で、野性を具て居るものである。家の内に居ることを少くして、外を駆ける、野外に出て勉強をする、始終大気に触れる。さうすると、非常に健康を増進する。皮膚が強壮になると、風を引くとか、其の他外部の圧迫に冒されることが少くなる。そこで成る可く野外の生活をやる、野外の運動をやらなければならぬ。国民兵などと力瘤を入れるけれども、必ずしも兵営生活をするものが国民兵と云ふ訳ではない。国民が身体を丈夫にして、どう云ふ困難にも勝つ、どう云ふ寒暑にも堪へるやうに身体を鍛錬してさへ居るならば、何時でも事変が起れば皆兵になれる。是れが真の国民兵である。其の証拠には英人を御覧なさい。英国は今度の大戦の始まる時には、三十万の兵を有つて居つたが、四年の後には八百五十万の兵を戦場へ出すまでになつた。是れは国民が平生身体を鍛錬して居るからである。英国では、老人でも子供でも皆野外の運動を盛んにやる。是れは世界に冠たるものである。此の点になると、亜米利加は英国に及ばない。況んや大陸になると、ズツト落る。独逸人は全国兵などと言つて威張つて居つたが、事実は自から進んで兵になるものは甚だ乏しく、皆強制して兵にするより外なかつた。要するに身体が悪いからである。余り野外の生活を好まない。所が英人は皆野外の生活を喜ぶ。それが殆んど国風をなして居る。そこで健康を保つ。是れほど大なる社会の力はない。又個人としても健康ほど必要なものはない。健康さへ宜ければ、まずい物を食べてもうまい。しかしまずい物ばかり沢山食ふのは宜しくない。まずい物ばかり食つて居ると、好い智慧も出ぬやうになる。皮膚の光沢も悪くなる。何だか機械に油が欠けたやうになる。少しは脂肪分も摂取しなければならぬ。さう年中牛肉ばかり食はぬでも宜い。豚でも構はぬ。時々油を注ぎさへすれば宜い。それも多く食ふ必要はない。大抵は水でも飲んで裸足になつて外を駆廻るのが一番だ。吾輩は実は長寿法の研究者である。其の研究の開山である。非常に慾張つた爺さんで、百二十までも三十までも生きようとして居るのである。此の慾望は個入的の慾望から出て居るのではない。国家を益々盛んにし、世界の競争場裡に優等の地位を占めようと云ふ大なる慾望から出て居るのである。此くの如き大なる慾望は健康な身体でなければ到底遂げられない。此の健康を保つと云ふことに就いては種々な方法がある。近来は是れが頗る進歩した。総ての筋肉を動かす所の体操の如きも大いに進歩して居る。大いに研究されて居る。所が少し本を読む人は体操を軽蔑する。あれは甚だ宜しくない、何でも一日の中に一時間か二時間は無邪気に盛んに運動するが宜い。其の方が勉強しても早く理解する。矢鱈に本を見てもどうかすると理解が出来ぬ。是れは懶惰な勉強をしない人の口実にする所であるが、しかし其の中にも一分の真理はある。身体さへ強くなつて居れば、読んだものを直ぐ消化する、直ぐ理解する。さうして記憶力が盛んになる。此くの如き勉強法は何時までも継続する。弱い身体の付け元気は永持がしない。此の学校に於いて体育を奨励する、其の方法は今研究中で、早晩之を発表されると云ふことを聞いて大いに我が意を得たるものであると喜びに堪へぬ。玆に私は反覆して御話をする。どうしても数が多いと合理的に規律的に組織的に事を行はなければならぬ。家などはどうでも宜かりさうなものだが。実際家も要る。大きな講堂も要るのである。吾輩でも大きな講堂で五千人、六千人集まつた所で時々御話して見たいと思ふ。是れは諸君の力に俟つこと大なりと思ふ。英気勃々たる諸君の顔色に触れて見ると、さう云ふ勇気を持つて居るのに相違ないと確く信ずる。今日は諸君が勉強をする所の始めの日である。言換へれば勇者が剣を提げて敵に向つて出陣する日である。どうぞ中途にして挫折することなく、十分健康を保つて勉強せんことを希望する。

(『早稲田学報』大正十年五月発行 第三一五号 二―四頁)

 大隈が安静を必要として病褥に入ったのは、大正十年九月二十六日であった。この年は春以来しばしば風邪をひき、医師から活動を控え、来客の応接も三分の一くらいに減少されたいとの注意を受けていたが、この注意は守られず、却って一日四箇所で雄弁を揮うというようなこともあった。そして八月二十六日には老軀をおして日光の御用邸に天機を奉伺したが、一日のうちに東京―日光間を往復したことが健康に大きな影響を与え、帰京後発熱し、数日間面会を断って静養に努めなければならなかった。この感冒は間もなく良くなったが、その後膀胱カタルを起し、また夜になると発熱し、下腹部が痛むという症状が続いた。しかし気丈な大隈はその間にあっても、九月二十一日にはワシントン大学と早稲田大学の野球選手を招いて挨拶し、一緒に記念撮影をし、二十三日には報知新聞社記者松枝保二(大七専政)を呼んで『大隈侯昔日譚』の話を続けている。ところがその後間もなく血尿を排出、絶対安静を要するようになり、九月三十日から十月三日にかけては、夜間催尿が激しく、睡眠困難の状態が続いた。幸いに四日から一時快方に向ったが、十二日ごろから衰弱が目立ち、十七日以後一層悪化したので、この日重患であることが発表された。しかし二十一日ごろから元気づき、二十四日夕方には稲田竜吉博士ら医師団から危険区域を脱した旨の発表が行われ、夫人はじめ周囲の者一同は愁眉を開くことができた。しかしこれも一時の小康状態に過ぎなかった。十二月二日には血尿を排出し、二十三日より病状は更に悪化し、二十九日頃から血尿の色は薄くなったが、混濁し、摂護腺癌の破裂と診断されるに至った。その後多少食欲も増したが、十一年一月二日になると、再び食欲減退し、病状も頓に悪化した。そこで医師団は五日以後容態書を発表することになった。

容態書 大正十一年一月五日午后三時

稲田、林両主治医、三浦、土肥、岡田各博士、佐谷(右吉)、石川(武雄)、坂本(稔)各学士及松田、田原両家庭医協議ノ結果左ノ如ク発表セラル。

昨年十月二十四日危険状態ヲ脱シ従来漸次恢復ニ向ヒツツアリシニ、去月初旬以来病勢再増進ノ兆アリ、同二十三日俄然激シキ膀胱出血ヲ来シ、数日ニシテ止ミタルモ、高齢ノ為メ衰弱頓ニ加バリ、殊ニ数日来食欲極メテ不良、今朝ニ至リ階眠状態ニ陥入リ警戒中、

脈摶 八八 体温 三六・九 呼吸 二一

食餌 牛乳、重湯、スープ今朝来合計百五十瓦

以後連日発表された容態書によると、病勢は一進一退しつつも最悪の方向へ向い、七日以後衰弱は増進し、八日には心臓も衰弱した。そして十日早朝には遂に昏睡状態に陥ったことが次のように発表された。

一月十日早朝発表

体温 三六・二

脈搏 一五〇余

呼吸 三八乃至四四

浅表にして不整

一、昨夜稲田博士報告の通り午后六時二十分よりカンフル、ヂガーレン、ヂキホリンを交互に注射せり

以上の症状なれども何等の苦痛なく午前四時半頃より全く昏睡状態に陥入れり

かくて、大正十一年一月十日午前四時三十分、大隈は苦痛の影を残さず、唇頭に柔かい笑みを浮べたまま、八十三歳十ヵ月弱の生涯を終えた。この日、大正天皇は大隈を従一位に叙し、大勲位菊花章頸飾を加授して、多年の功労に報いた。

 大隈が重患に陥ったと報ぜられると、天皇、皇后、皇太子から見舞品を賜り、また侍医の差遣があった。皇室に対する忠誠心の厚かった大隈が、これらの恩情に感激したのは言うまでもなかった。また大隈を父と仰ぐ学苑関係者はもとより、政・財・官・言論界等の名士の見舞は枚挙に暇なかったが、特に無名の老若男女が一千通を超す見舞電報を寄せ、また見舞品や書状を送って、快癒を祈ったのは、一生を藩閥と戦い、在野精神を貫くと同時に、偉大な民衆文化・国民教育の指導者を以て任じていた大隈にとり、最も満足すべきことだったのではなかろうか。

 ところで重症のうちにも本来の陽気な気性を失わなかった大隈は、十二月十九日に訪れた高田早苗に「高田君、先頃は我輩も大分怪しかつた。事に依ると死ぬるかとも思った。今日の処、小康を得て居るが、さて死ぬ日が近づくと死の研究をしなければならぬ。少しでも病気が良くなつたら死の研究を始めやう」(高田早苗『半峰昔ばなし』六四九頁)と半ば戯言のように述べ、高田の賛成を得て満足したとの逸話が伝えられているが、死の床にあった大隈にとり、常に心中を去らぬものは、早稲田大学と、文明協会と、遺著になった『東西文明之調和』出版に関することであった。遺書出版については次節で触れることにするが、自分なきあとの早稲田大学の前途については、十二月十九日に面会謝絶をおして病床を見舞った高田に後事を託したようである。『半峰昔ばなし』には次のように記されている。

其時侯爵は私を見て大いに喜ばれ、早稲田学園の前途に就いていろいろと語られたから、私は是に答へて「学園の前途は決して御心配には及ばないと存じます。今や当局者其人を得て、前途に対する内容充実の方針も略々立つて居る様でありますから、唯其の方針に向つて進み、其の実行を図る丈けの事であります」と申した処、侯は頗る安堵された容子に見えて「何事でも前に理想を掲げて勇往邁進するのでなければ成就せぬ。それは誠に結構な事である」と言はれた。 (六四八―六四九頁)

大隈は学苑の前途、特に自分亡きあとの経営について一抹の危惧を抱き、その点を高田に質したのであるが、それに対して高田が自信ある態度で、抱負と経営方針を答えたので、初めて前途の光明を確認し、満足したのであったろうと思う。大隈は市島謙吉に対して学苑の将来については楽観しているように述べた(市島謙吉『大隈侯一言一行』四一七―四一八頁)というが、これまでの学苑が、確かに大隈あっての早稲田大学という面を持っていたし、近き過去に「早稲田騒動」のような紛擾を起してもいるので、全く何の心配もなかったとは言えないであろう。

 東京専門学校創立以来四十年、その間常に肝胆を砕いてその発展に尽し、また最期の病床にあってさえこのように学苑を思った総長は、学苑にとり誠に慈父と言うべきであった。その慈父の重患を知り、十年十月十八日鈴木佐平次が校友会を代表し、また二十一日評議員会会長松平頼寿が評議員を代表して見舞に駆け付けたのをはじめ、二十二日校友会幹事会を代表して幹事十七名が、十一月初めには学長塩沢昌貞が見舞い、また翌年一月八日の維持員会では塩沢学長、坪内雄蔵維持員が大学を代表して見舞うことを決議した。これらは勿論公的なもののみであるが、多数の教職員・校友が続々と詰めかけたのは言うまでもない。その中には前記の市島をはじめ高田、増田義一久米邦武らがあった。また一月八日約一千名の早稲田大学学生有志が穴八幡神社で総長の平癒祈願を行い、その後勢揃いして大隈邸裏門に赴き、守札を大隈信常に手渡した。この守札が信常から大隈に渡され、更に信常から学生の真心が伝えられると、瀕死の床にあった大隈が感動し、誰にもはっきりとは聞えなかったが、何事か感謝の言葉を洩らしたという。

 しかし学苑関係者をはじめ多数の人々の熱誠を籠めた祈願にも拘らず、大隈の容態は悪化し、遂に回復は絶望と見られるに至ったので、学苑では、一月八日臨時維持員会を開き、次のことを満場一致議決した。

一、万々一の場合、如何なる形式を以て葬儀を営まるるとも、本大学は校葬の礼を以て之に参加する希望なること。

一、右につき葬儀費中に一万円を納めたきこと。

(二十七日の維持員会で、右の一万円は玉串料とし、更に一万円を御葬費中に献納することを事後承認した。)

一、本大学の費用として一万円以内の支出をなすこと。もし必要の場合生じたるときは右の金額以上の支出をもなすことを当局に一任ありたきこと。

(大正十年経常部決算によると、故総長葬送費中、学苑の支出額の合計は三一、九八〇円六七銭、そのほか追悼会費二、一四八円二〇銭で、この年の総支出額の三・五パーセントを占めた。なお、葬儀費用総額は八五、八六五円六一銭であり、市島は「聞くが如くんば山県公〔同年二月一日没〕の国葬費は八万と云ふ。而して其の重なる費用は委員の手当なり。老侯の葬費はこれよりも多くして委員などの手当は素よりあることなし。以って両者の規模の大小を判ずべし」と『壬戌漫録』一に記している。)

 一月十日逝去のあと、大隈家では発喪とともに、親戚・政界・財界・教育界・言論界・軍部等に亘り、約五百名の葬儀委員を委嘱し、葬儀万端を一任した。元司法相・宮相波多野敬直を委員長とする委員会は十七日を葬儀日とし、東京市より無償で提供された日比谷公園を式場と定め、直ちに式場総務等の役務分担を定めた。このとき波多野委員長らは国葬を主張したが、国葬が在官中の重臣に限ると解釈されて、実現が困難になったためと、英国ではグラッドストンが死んだとき、ウェストミンスター寺院にその遺骸を安置し、二日間一般国民に自由に参拝させた例―これを市島の耳に入れたのは加藤高明であった―にならい、窮屈で官僚的な国葬より、万人に解放された葬儀が故人に最も相応しいと葬儀委員の市島らが提案したために、我が国最初の「国民葬」の形式が採られるに至ったのである。こうして十二日午後一時から早稲田大学講堂で開かれた委員総会では、葬儀の順序が左の如く定まった。

一、帰幽奏上祭 十三日午前十時(出雲大社教分祠に於て執行)

一、移霊祭 十三日午後六時

一、棺前祭 十四、十五、十六日各午前十時(於自邸)

一、告別祭 十七日午前七時(於自邸)

一、午前九時三十分自邸発柩日比谷に向ふ

一、告別式 十七日正午より午後三時まで(日比谷の斎場に於て)

一、式後日比谷式場発柩音羽護国寺に向ふ

一、埋棺 十七日午後五時着手

一、墓前祭 十七日午後七時より

 学苑では既に校葬とする方針が打ち出されていたので、訃報に接すると同時に十日より十九日まで故総長の喪に服するため臨時休業とすることを発表し、塩沢学長を委員長とする葬儀委員および役務分担を維持員会・評議員会・教員会に諮って決定し(校友会でも幹事会を開いて同調している)、大隈家側の委員と相協調して準備を進め、万遺漏なきを期した。この日大学は校賓・基金寄附者・賛助員および教職員・校友・学生に葬儀の案内状を発した。なお日比谷の告別斎場の建設は教授佐藤功一を主任として進められ、昼夜兼行の努力で十六日までに「間口八間半、奥行四間の柿板葺」(『大隈侯八十五年史』第三巻 六三四頁)の斎殿が完成した。

 十七日の自邸における告別祭には、天皇、皇后、皇太子の代拝があり、真榊等を賜ったほか、大隈家側から願い出たわけでもないのに、特旨を以て一個旅団の儀仗兵が派遣されたのは、大隈の余栄と言うべきであった。次いで行われた日比谷における告別式は、一ヵ月後に行われた山県有朋の実質的には軍葬だと言われた形式的で寂しい国葬とは異り、実に二十万とも三十万とも言われた会葬者が参集し、「国民と交渉の深かつた点に於て明治元老中侯の右に出づる者はない」(『大阪毎日新聞』大正十一年一月十一日号夕刊)と言われた大隈の葬式らしい、「一面厳粛であると同時に、一面陽気で……何となく祭礼のやうな感じ」(『大隈侯一言一行』四二七頁)の盛儀になったのである。その詳細については『早稲田学報』第三二五・三二六号「故総長大隈侯追悼号」等に譲るが、校旗を先頭に、塩沢学長以下理事、評議員、教員団、次いで早稲田大学各学部、専門部各科、高等師範部、高等予科、高等学院、工手学校、早稲田中学校、早稲田高等予備校、早稲田実業学校および日本女子大学校の二万に及ぶ学生、生徒および校友団、稲友会、職員団、救護団は牛ヶ淵公園前から、飯田町、牛込津久土町、肴町、矢来町、山吹町、鶴巻町通りを経て大隈邸横まで一里余に亘って堵列して葬列を送り、次いで全員葬列に従い日比谷に至って告別式に列した。この行進は終始駆け足となったが、一糸乱れず行動し、一人の落伍者もなく、当日儀仗兵の司令官であった堀内文次郎陸軍中将から絶賛された。

 病中の高田早苗に代って葬儀の事実上の責任者となった市島謙吉は、このような葬儀の執行につき、大隈綾子未亡人の承諾が得られるや否や、また身分の差を問わず多数の参拝者を迎えるという前例のない告別式を無事に終ることができるや否やについて大いに苦労したが、幸いに未亡人は快諾せられ、群集の整理も、参拝者各自の良識ある行動により、予想以上にうまくいったので、葬儀を無事終ることができた、と言っている。更に警察、青年団員などとともに、本学苑学生・生徒が献身的に参拝者の誘導・整理に当った努力(それに対して、塩沢学長は、一月二十三日校庭に学生を集めて、謝辞を述べた)に関し、左の如く特筆している。

彼等は皆学校の制服を着けて公衆に対し、穏かに指図をしたり礼を陳べたりしたので、如何なるものもそれに争ふものは無く、静粛なるを得た。これが官僚を笠にきる涙も情もない警官などであつたら、混雑の際反感を生じ、それが動機となつて飛んだことが起つたかも知れないのである。此際の学生委員の働きは非凡のものであつた。 (市島謙吉『壬戌漫録』 一)

 告別式のあと、護国寺において埋棺式、墓前祭が行われ、普通の順序で行えば二日は要すると思われた葬儀一切が、委員らの周到な用意(たとえば、一月十三日と十五日の両日に亘り、大学が臨時学生委員会を召集し、葬送の打合せを行い、且つ当日の心得を諭す等の準備をしている)と、手際良き執行により、予定通り一日の中に無事終了した。

 その後、大阪、京都、名古屋等の各都市、および中国、朝鮮の各地とアメリカのシアトル等で、主として地方校友会主催の遙拝式・追悼会が開かれ、中でも大隈の故郷佐賀では盛大な県民葬が行われた。大学も二月十九日墓前で四十一日の祭式を挙行したあと、午後一時から校庭に学生を集めて追悼会を開いた。塩沢学長、高田名誉学長が故人の徳を偲び、功績を讃え、更に総長亡きあとの当局者の責任と決意を述べたあと、基金管理委員長・維持員の渋沢栄一は総長を失った早稲田学苑は、一段の力闘を以て学苑の充実発展を図るべく、渋沢もまた一臂の労を吝しまざる旨を付言した。かくて悲しみのうちに大隈を送った早稲田学苑は、巨大な支柱を失った痛みを改めて感じながらも、新しい前途に向って、その第一歩を力強く踏み出すことになったのである。

 告別祭の前夜天皇より贈られた誄詞、および当日早稲田大学学長の捧げた弔詞を掲げて、亡き大隈の偉業を偲ぶよすがとする。

維新ノ際ヨリ翊賛ノ功ヲ致シ、力ヲ邦交ニ宣べ、労ヲ財務ニ效シ、鈞ヲ秉リ国ニ当リテ宏才能ク政機ヲ運シ、学ヲ建テ、英ヲ育ヒテ、遠識以テ文化ヲ裨ク。誉ハ中外ニ隆ク、望ハ邇遐ニ重カリシニ、遽ニ永逝ヲ聞ク。軫悼曷ゾ任ヘム。玆ニ侍臣ヲ遣シ、賻ヲ齎シテ臨ミ弔セシム。 (大学史編集所保管「大隈家寄贈文書」)

弔詞

維レ大正十一年一月十七日早稲田大学学長塩沢昌貞謹デ総長大隈侯ノ霊ニ告グ。

嗚呼、侯ハ国家ノ元勲国民ノ師表、豊功丕績両朝ニ著ハレ、卓識偉論一世ヲ動カシ、器宇ハ則チ雄大、理想ハ則チ高遠、知識ハ則チ該博、弁説ハ則チ踔厲、之ニ加フルニ宏量雅懐、歯徳並ビ高キヲ以テス。退キテ野ニ在リト雖モ、或ハ憲政ヲ扶植シ、或ハ教化ヲ皷吹シ、凡ソ社会文明ノ事業幾ンド侯ノ与ラザルモノナシ。而シテ其ノ眼光ノ注グ所常ニ世界ノ大勢ニ在リ、慨然身ヲ以テ国民外交ノ事ニ任ジ、内ハ闔国ノ輿論ヲ導キ、外ハ列強ノ猜疑ヲ釈キ、粋乎タル平和ノ大精神ハ彼我ヲ一貫シ恩讎ヲ同化シ、談笑ノ間ニ禍機ヲ遏メ、隠然トシテ帝国ノ重キヲナスモノ前後数十年、上下ノ倚信スル所、中外ノ愛敬スル所、誠ニ天成ノ国宝、昭代ノ人瑞ナリト謂フベシ。豈ニ我ガ早稲田大学ノ独リ私スベキモノナランヤ。

然レドモ我ガ早稲田大学ハ侯之ヲ創立シ、侯之ヲ覆育シ、侯之ヲ誘掖シ、躬之ガ総長トナリ以テ薨ズルノ日ニ迨ブ。侯ノ大学ヲ視ルコト家庭ノ如ク、大学ノ侯ヲ仰グコト父師ノ如シ。愛慕ノ深キ、尊崇ノ篤キ、固ヨリ他人ノ比ニ非ズ。侯ノ康寧ト寿考トハ昌貞等ノ日夜窃ニ祝禱セシ所ナリ。然ルニ昊天無情、憗ニ一老ヲ遺サズ。侯病ヲ獲、溘焉トシテ薨ズ。九重震悼人ヲ失フノ嘆アリ。国民識ルト識ラザルト皆哀痛悲傷其色ニ見ハレ、或ハ市ヲ罷メ楽ヲ撤スルニ至リ、列国ノ使節若シクハ在留外人ノ如キモ、亦深ク帝国ノ為ニ惋惜シテ已マズ。公ニ私ニ弔意ヲ表セザルハナシ。況ヤ我ガ早稲田大学ニ於テハ、終天ノ恨罔極ノ哀、宛モ父母ヲ喪ヒタルガ如シ。之ヲ奈何ンゾ、天ニ働シ地ニ哭セザルヲ得ンヤ。

抑モ侯年ヲ享クルコト八十有五、常人ニ在リテハ亦寿ナラズト謂フベカラズ。然レドモ侯平生百二十五歳ヲ以テ自ラ期セリ。而シテ其体質ノ強固ナル、保摂ノ周到ナル、昌貞等ト雖モ、侯ノ言ヲ聞キテ且ツ信ジ且ツ冀ヒタルニ、何ゾ図ラン。二豎崇ヲナシ、未ダ期頤ノ齢ニモ達セズシテ一朝永訣ノ悲ヲ見ントハ。侯ノ往時ヲ顧ミルニ、屢バ危難ニ遭ヒテ善ク免レ、曾テ大患ニ罹リテ輙チ癒エ、殆ンド天祐ノ其身ニ在ルガ如シ。故ニ今次ノ病ニ於テモ当時ヲ追憶シテ自ラ意ヲ強クスル所アリシナリ。嗚呼、恃ムベカラザルヲ恃ミ、戒心ノ聊カ欠クル所アリシバ今ニ及ンデ之ヲ悔ユルモ何ンゾ及バン。且ツ侯ノ病革ルヤ、我ガ早稲田大学ノ子弟ハ痛心苦慮、安ンジテ業ニ就ク能ハズ。相率ヰテ神明ニ禱ル者其ノ幾千ナルヲ知ラズ。至誠ノ凝ル所当ニ感応アルベクシテ、乃チ其験ナク、万事全ク休ミタルモノハ何ゾヤ。豈ニ死生命アリ、天地鬼神ト雖モ復タ之ヲ奈何トモスル能ハザルカ。嗚呼、悲シイカナ。

夫レ世界ノ大学数フルニ暇アラズト雖モ、侯ノ如キ曠世ノ偉人ヲ総長ニ戴クモノ他ニ其比ヲ見ズ。此レ我ガ早稲田大学ノ常ニ光栄トセシ所ナリ。曾チ幾何ノ時ゾ、山壊レ梁摧ケ温容慈眼復タ見ルベカラズ。雄弁閎辞復タ聞クベカラズ。学園主ナク桃李空シク存ス。春回ツテ花ヲ着クルモ孰レカ之ヲ賞スルモノゾ。秋来ツテ実ヲ結ブモ孰レカ之ヲ採ル者ゾ。雪ハ瑟々トシテ宵寂ニ、雨ハ瀟々トシテ暁寒ク、湯薬烟断エ幽明長ク隔タル。嗚呼、又何ヲカ言ハンヤ。

今ヤ国歩艱難内外憂多ク積弊百出民心動揺、其禍将ニ測ラレザラントス。此時ニ方リ綱紀ヲ弛解ニ張リ、思想ヲ紛乱ニ拯ヒ、憲政ノ美ヲ済シ、文化ノ光ヲ磨キ、上ハ宸憂ヲ舒メ、下ハ民生ヲ安ンジ、以テ国祚ヲ無窮ニ延ブルハ偏ニ偉人ノ力ニ待ツ。而シテ天忽チ我侯ヲ奪フ。国家ノ不幸此レヨリ大ナルハナシ。豈ニ特ダ我ガ早稲田大学ノ為ニ悲ムノミナランヤ。然レドモ侯已ニ天ニ昇ル。呼べドモ返ラズ、惜シメドモ及バズ。後生ノ務ムベキ所ハ唯ダ侯ノ遺霊ヲ慰ムルニ在リ。而シテ其遺霊ヲ慰ムル道ハ其遺志ヲ継イデ之ヲ成スニ在ルノミ。

顧フニ国民教育ハ侯ノ精神ノ注グ所、早稲田大学ハ侯ノ事業ノ存スル所、早稲田大学ニシテ廃レザレバ侯ノ生命ハ未ダ曾テ息マザルナリ。而シテ我ガ大学ハ基礎已ニ固ク、規模益々煕マリ将ニ悠久ニ亘ツテ替レザラントス。則チ侯ハ死シテ死セズ、長ク天壌ノ間ニ存スト謂フベシ。豈ニ止ダ百二十五歳ノミナランヤ。昌貞等ハ駑鈍ナリト雖モ、今ヨリ以往益ス奮ツテ校運ノ隆昌ヲ謀リ、英才ヲ育シ、治化ヲ補ヒ進ンデ世界ノ文明ニ裨益スル所アリ、以テ侯ノ未了ノ志ヲ成サント欲ス。若シ夫レ侯ノ遺徳ニ頼リ済々タル多士此ノ学園ヨリ出ヅルアランカ、其間王佐ノ才、棟梁ノ器克ク大任ニ膺リテ国運ヲ振フモノ、豈ニ復タ是レナシトセンヤ。此ノ如クニシテ始メテ侯ノ期待ニ負カザルベシ。嗚呼、侯ノ大学ニ眷々タルヤ、英魂毅魄、其レ長ク早稲田ノ畔、戸山ノ麓ニ在ラン。玆ニ恭シク校葬ノ礼ヲ以テ霊柩ヲ日比谷ニ送リ、公衆ト共ニ永訣ノ式ヲ挙グ。昌貞誄ニ臨ミ涕泣シテ言ヲ尽ス能ハズ、侯ノ英霊庶幾クハ之ヲ鑒センコトヲ。

大正十一年一月十七日 早稲田大学学長 法学博士 塩沢昌貞

(『早稲田学報』大正十一年四月発行 第三二五・三二六号 一―六頁)

二 文明史上の大隈

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 大隈が死ぬと、その死を悼んで各方面からいろいろな言葉が寄せられたが、中で『時事新報』(大正十一年一月十一日号)は「明治維新は今既に五十余年、而して侯はその間に於て、啻に政治上のみならず、教育並に文化の方面に常に偉大なる力を致し、他の元老諸氏が単に政治上に勤労したるに比して、その国家社会に対する功績の記す可きものが甚だ多」いと述べている。これは大隈の死に当り天皇より贈られた前述の誄に、維新以来の外交・財政面での活躍と、宰相としての手腕を讃えられるとともに、その文明史上の功業を認められているのと並んで、大隈に対する最も当を得た評価であったと言えよう。

 政治家大隈の手腕・功業については周知のところであり、本書にも詳しく既述したので、もはや付加すべきものは殆どない。しかし自ら「民衆文化・国民教育の指導者である」と信じ、事実広義の教育者として、福沢諭吉、新島襄などに較べても、優るとも劣らない活躍をした大隈の業績が、早稲田大学の創立を除き、今日ややもすれば忘れられ勝ちなのは、残念なことである。そこで以下に明治―大正文明史上における大隈の活躍を素描しておきたい。

 大隈の文明史上における活躍を概観すると、一、学校の創立、或いは学校教育の発展に対する尽力、二、著作活動、三、研究会、講演会等の精力的な推進、四、一般国民に対する教化活動と、四方面に分けることができる。

 学校教育については、早稲田大学の創立と、その発展に対する尽力が第一に挙げられるが、これは早稲田中学校、早稲田実業学校に関することとともに省略する。また若き頃蘭学を修めて、蘭学寮が昇格して藩校弘道館と合併されたとき、そこの指南役として教鞭をとったこと、フルベッキを迎えて長崎に佐賀藩の英学校致遠館を建て、自らも教壇に立ったことなどは、福沢諭吉の依頼を受けて慶応義塾への政府からの財政援助の実現に努力し(これは成功しなかった)、同志社の創立に当っては、新島襄の熱意に動かされ、物心両面より深く協力し、しかも新島歿後もその厚意は変らなかったこと、またこれらのことから、慶応からは矢野文雄、藤田茂吉、犬養毅、箕浦勝人、加藤政之助、森下岩楠、尾崎行雄らが大隈の傘下に参じ、また同志社からは大西祝浮田和民安部磯雄らが早稲田大学の発展に尽すことになったこととともに、既述されている。

 更に大隈は、

従来、日本は敢て女子を無視したと云ふわけではないが、確に女子軽賤の傾が強かつた。封建時代は或はそれでもよかつたであらう。けれども今日は男女複本位でなければ、社会の進歩、文化の向上を望むことが出来ない。……由来、日本では女子の高等教育は全く閑却せられ、寧ろ無用だと見られてゐる。それが為、女子は天性相当に優れた能力を持つてゐ乍らも、不幸にして教育の機会を十分与へられない。従つてその本来持つ美点・長所を思ふやうに発揮することが出来なかつた。その結果、わが国の力は半ば減殺せられたも同様になつてゐる。日本の人口は四千万と云ふが、実はその中から女子を除いた残余のもの―二千万人の力が国運発展に資してゐるわけだ。それは能率上の大損失である。故に今後は女子にも、進んで高等教育を与へ、真に四千万人の力を正当に伸びさせねばならぬ。 (『大隈侯八十五年史』第二巻 六九八―六九九頁)

との主張から、女子教育を重視し、また創立者成瀬仁蔵の人格にも惚れ込んで、日本女子大学校の創立委員長となり、渋沢栄一、森村市左衛門、岩崎弥之助らの財界人の協力を得て明治三十四年その開校を実現したが、その後も永く、発展を期待して常に暖かい眼で成長を見守ったのである。

 早慶両校は勿論、早稲田中学校、早稲田実業学校、同志社大学、日本女子大学校のその後の発展と、各校が多数有為の人材を世に送り日本の政治、社会、経済、文化等の諸分野に大きな寄与をして来たことを思えば、大隈のこのような努力が文明史の上で大きな役割を果したことを、誰人も否定できないのである。

 大隈は書を残さなかった人である。その署名すら、詔書に副署したものや裁判所に提出したもののほか、真筆と確認できるものは殆どない。しかし大隈にはその名を冠して発表された著書・編著・論説は実に多い。大隈は自ら筆を執ることはなかったが、柳田泉によると、「大隈自身が筆をとって書かなかった以上、何人かの代筆なり口授筆記なりになったものであるにちがいないが、それ等の代筆なり筆記なりについては、案外細心な用心をし、決して漫然とした語り放し、話し放しということはなかった。自分で再三訂正したことは勿論、聞くべき人の意見は必ず聞いたもので、従って筆記は筆記でも、出来たものは、やはり堂々とした大隈のものとなっている」(『明治文明史における大隈重信』三九四頁)のであり、単に名義だけのものではなかった。

 論説の発表は国内にとどまらず、広く外国の諸雑誌にも及んだ。大隈の論説を掲載した外国の雑誌は、『アウトルック』『インディペンデント』『コスモポリタン』等々十五、六に亘っているが、当時の日本人、特に政治家としては、このような活躍は異例に属するので、特筆に値しよう。大隈が死んだ時、ロンドン『タイムズ』、『アウトルック』、『クリスチャン・エンデヴァー・ワールド』等々の海外の新聞・雑誌に追悼記事が載せられ、またその後幾多の欧米人により大隈研究の論著が出されたのも、このような国際的活躍によるところが大きいと思われる。

 国内での論説の発表は、早くは『報知新聞』『立憲改進党党報』等から『東洋経済新報』『太陽』などにも見られる。特に当時の大雑誌『太陽』には名誉賛成員として、また常寄稿家として、国家社会の大問題、外交、財政、世界の大勢などから学芸、趣味、社交、生活などに至るまで、多数の論説・随筆を寄せ、述べて可ならざるはなかった。更に驚くべきは、「将来の日本は外国思潮との接触が愈々急を加へる事と思はれる、従つて今日に於て博く精確な世界的知識を養ふと共に、国民としての自覚を明かにし、何者に触れても惑はない根柢を養ふことが必要だ。私が今回の雑誌発行は自分一個の機関とするのではない。国民一般のため、その代弁者たるべき機関を提供せんとするのである」(『大隈侯八十五年史』第二巻 六五九頁)との趣旨で、明治四十四年四月雑誌『新日本』を創刊し、大正六年に重患のためその手から離れるまで、首相在任中の劇務の間にも、一回も休まず、雑誌の顔とも言うべき巻頭を飾る論説を載せたことであり、その後『新日本』に次いで発行された『大観』にも同様、最後まで毎号論説を掲載していることである。しかもこの間、校友増田義一の主宰する『実業之日本』や、『早稲田学報』『教育時論』『成功』等にも次々と論説を発表している。これらの論説は、警世的なものが多く、時局の要求に応じていつも新装をつけて現れたが、その目的は、世界の永遠の平和にあり、その骨格は、東洋ないし日本に昔から伝えられた道義的精神にあったと柳田泉は述べているが、大隈が念願とした国民教育・民衆教化に役立つところが多かったと言えよう。

 次に主要な著書としては、『菅公談』『開国五十年史』『国民読本』『開国大勢史』『東西文明之調和』などが挙げられる。

 小冊子『菅公談』は最初の著書であり、菅原道真の後裔を以て任じた大隈が蘊蓄を傾けた史論で、政治家としての経験を生かし、道真の政治的業績の伝わらぬこと、一言の抗弁も無く流罪に甘んじたことなどが、藤原氏に対する消極的な抵抗であり、皇室の権威を藤原氏から護る目的に副ったものである等のユニークな意見を開陳している。

 『開国五十年史』と『開国大勢史』とは、『菅公談』に示された大隈の歴史に対する興味と洞察力が深化されたもので、明治四十年刊行の前者編纂の目的は大隈自ら述べているように「我日本が二百年間に於ける暖かき鎖国の夢を破りて、初めて文明の新空気に触れたその当時の人々で、尚ほ今日の世に活動せる者、殊に大政維新に関係した人々を成るべく多く集め、其人々の最も主動せし其事業を、其人自身に説述著作」(『早稲田学報』明治三十九年十月発行 第一四〇号 一頁)させることであり、徳川慶喜、伊藤博文、松方正義、山県有朋その他政界、官界、学界、経済界、軍部等各界の有力者が執筆している。本書は資料集としては見るべきものがあったが、歴史書としては羅列的で深みのない、纏まり不足の憾みが残った。その点を補うために煙山専太郎の筆を煩わせて大正二年に刊行されたのが後者で、大隈は「外力の圧迫といふこと、これ維新開国の符語呪文であつて、日本の開国は外交の為めである。如何に外力の圧迫に応ぜんか、国を開くより外に道なしと云ふ機運に因つて開国せらるるに至つたのである。されば日本の開国は……全く大勢の致す所であると云ふ事が余の持論であるが、此の大勢を詳にし、その因つて来る所を尋ね、その趨く所を察し、以て国運の隆昌、国勢の発達、国力の発展に聊かにても貢献補益することを得ば、これ聖明の優渥に奉答する所以であるとの微衷から、老来の精力を駆つて此の著を為したのである」(『早稲田学報』大正二年五月発行 第二一九号 一九―二〇頁)と述べている。本書は(序)「世界の大勢」、(一)「西洋人の日本発見」以下(四二)「大政維新と我国外交の大勢」に終る雄大な歴史書で、当時日本史学研究の第一人者であった黒板勝美も「大隈伯の新著『開国大勢史』を読む」で、日本近世史の原動力を世界というものの上に見、大隈の史的識見が秀れていて過去を叙するにも常に現在を忘れておらず、観察の範囲が広く、東洋と西洋の関係を明確にして断案を下し、開国の大勢が日本を圧迫した有様を最も具体的に叙しており、開国攘夷論について公平に裁断したことなどを挙げて推奨している(『実業之日本』大正二年六月発行 第一六巻第一三号 七四―七五頁)。大隈はこの書の結論で、世界は未だ人種的偏見を棄てられないでいる、従って我が国の外交の局に当る者は、かつての攘夷から愛国に変った「国民の熱誠を利用して、列国融和の動機と為し、世界に残留せる此の最後の障害を苅除して、以て真正の世界平和を確実にすることに力めざるべからず」(『開国大勢史』一二二八―一二二九頁)と述べているが、この意見から、東西文明の調和の理想が生れるのである。

 『東西文明之調和』の著述は大隈の思想家的活動の最後となったもので、死の床にあって増田義一に対して「自分は一大使命を持つて居る。それは東西文明の調和である。之を実現するが為めに大に努力せねばならぬ」(『実業之日本』大正十一年二月発行 第二五巻第三号「大隈侯哀悼号」三一頁)と語り、また市島謙吉に「『東西文明之調和』は何とか早く版にしたいから、宜しく心配して貰ひ」たい(同誌 同号 一三二頁)と遺言しているほど、大隈が力を入れたものであった。東西文明の調和は早くからの念願であり、かつその実現を大隈は信じて疑わなかった。『大観』第三巻第五号(大正九年五月発行)の巻頭論文「教化的国家を論ず」の第一節に「東西文明調和の機熟す」として、「凡そ世界の文明は東・西洋の二つに分つ可く、即ち欧米の文明と印度・支那の文明とのそれである。我輩は此両文明が当に日本に於て合流し、調和すべきであると考へ、夙に之を唱へて又其気運の促進に、聊か乍ら微力を尽して来て居る。……今や欧洲大戦の後を受けて、其両文明調和の機運は日本を其場所として熟しつつあるを知らねばならぬ」(三頁)と大隈は述べている。この著述を助けた金子馬治は「思想家としての大隈侯」で、

斯やうな〔侯の〕理想的傾向と、現実的傾向と、如何なるさまに調和されてゐたかは、頗る困難であるが、兎もかく此の二の傾向が侯の人格に於て統一され調和されてゐたことだけは疑ひない。侯は晩年に於て――或はずつと早くから絶えず東西文明の調和といふ事を主張された。侯が後世に残された東西文明の比較論は暫く別として、東西文明の調和といふ事は、実は侯が侯みづからの人格の中に発見した二の傾向の調和又は統一ではなかつたか。西洋文明は侯に取つては科学的な現実的な功利的〔な〕知識〔的〕なものであり、これに反して東洋文明は一種理想的な道徳的な仁愛的な者に考へられた。一方は飽まで現実的なものであつて、他方は飽まで理想的なものに考へられた。言はば欧洲文明は覇道が主であり、東洋文明は王道を理想とすると考へられた。故にそこに必然的に両文明の調和が無くてはならないと。然かも斯やうな統一や調和は、直に、侯の思想生活の中に見出されたもので、自家の思想生活の拡充が即ち東西文明の調和として現はれた所以ではなかつたか。

(『大観』大正十一年二月発行 第五巻第二号 三五頁)

と説いているが、恐らくその通りであろうと思われる。ともかく金子も言うように、「大陽気な大楽天的な傾向」(同誌 同号 二七頁)を持った大隈の性格がよく現れたものと言えよう。

 大隈は塩沢昌貞の勧めもあり、日頃懐いていた東西文明の調和という信念の学問的実証のために、金子馬治牧野謙次郎松平康国の協力を得て、毎週一回(初め土曜日、のち金曜日)、半日を費やして、大隈のアイデア提出をもとに自由検討を行い、一応結論を得た上で、金子らが文章にするという方法を採った。大隈は中国・インド・ギリシア思想の比較検討を望んだが、インド思想の研究は大隈の死により遂に果せず、またいかに東洋・西洋の文明を調和すべきかという最重要の論点に進むこともできないで大正十二年に刊行されたため、いわば未完成に終ったが、柳田泉が評価しているように、西洋思想史と対照した中国思想史として一新生面を開いたと言えよう。

 なお時子山常三郎は、「近代思想家としての大隈侯に及ぼしたアダム・ファーガスンの影響」(『早稲田政治経済学雑誌』昭和三十七年十月発行 第一七七号)において、『東西文明之調和』に、

先づ一切文化の因つて発現した事実に就いて考察するに、彼の凡百の学術、芸術、宗教等一切の文化は、本来人類の実際生活を離れて発現し若くは発達するものでなく、孰れも人類の実際生活を根拠とし、又は之を完成せんが為に発現し発達するものに外ならない。人類の実際生活が無ければ、凡百の科学もなく、宗教もなく、又芸術も発生する根拠がない。実際生活が先づ存して、然る後に其処に宗教、芸術、学術等、文化の百華は咲き出づる所以で、実際生活は地盤であつて文化は其の上に築かれる楼閣に外ならない。 (四―五頁)

とある一節を引用し、「実際生活は地盤であつて文化は其の上に築かれる楼閣に外ならない」というのは、金子馬治を通してアダム・ファーガスンの思想の影響を受けているのを指摘している。牧野謙次郎の「漢学者としての大隈侯」(『大観』第五巻第二号)によると、大隈は諸子の説のうち管子にのみ興味を示し、特に管子が学問はもとより尊ぶべきことながら生活問題が急務であり、「生活ありて万事あり」、「衣食足則知栄辱」と説いたあたりに最も共感していたとあるから、ファーガスンの主張は、管子の説を通して、大隈の同感を得易かったのであろう。

 最後に、明治四十三年に刊行された『国民読本』は、『開国五十年史』の序論と結論とを要約したと見られるところもあり、『開国五十年史』の副産物と評した者もあったが、「国民読本は、大日本の国体と国民性とを闡明し、現時の法治国に於ける国家組織の綱領と国民の責任とを概説し、また忠君愛国の新意義を指示し、兼て日本国民の理想を顕明」(『国民読本』自序一頁)するのを目的としたと自序に述べられている。これは、大隈が「旧時代的伝染病」(『教育時論』明治四十四年一月発行 第九二六号)と評した固陋な忠孝主義(古来の忠孝を回復して、以て世道人心を救わねばならぬという考え方)の復活を非とした立場から発した考えで、『新公論』(明治四十二年八月発行 第二四年第八号)掲載の論文「余は完全なる一の国民読本を編纂せんとす」の中で、

総て、国民は世界文明の潮流に乗じて競争に適応したものが盛になり、之に適応しないものが衰へる。何としても我国民は大国民たる位置に進むが為に、世界的思想を根本として、立憲国民たり、法治国民たる素養を作らねばならぬ。又道徳の方面より見るも我国民は自ら反省して、改めなければならぬ欠点が多い。則ち前に陳べた変に処するの忠孝はあるが平和時代の忠孝が少い、社会に対する所の公の道徳が発達して居ない。国民は平等に国家に対する権利義務を持つ事になつたのである。如何なる階級のものも国家に対する義務は同一である。貴族も憲法に依つて、貴族院議員となるの特権を除く外、何等の区別する事ない。此際国民一般が今日の憲法、総ての法理、或は地方制度、自治制、兵役に就て、納税について、選挙に就て、議会に就て、其他種々立憲治下の国民として是非知らねばならぬことを、今日の国民教育に教へられてあるか。今日は憲法上国民が、監督権を持つて居る。即ち選挙権を持つて居る。憲法の自由とは何を指すか、行政法とは如何なるものぞ、其他総て、世界的国民としての常識の修養が欠けては居ないか。突然日本が日清、日露の両戦役を経て、強大国となつた為に、其心持のみは、大国民の積りでは居るが、静に反省して見ると、他の文明国民に比較して、是等の智識及び徳義心が低いのである。これを教へなければ国家は健全に発達はしない。教へざる国民を以つて、教へられ、訓練されたる国民と競争をしようと云ふのは無理である。是れ果して国民の誤りか、当局者の怠慢か、吾輩は之を当局者の怠慢或は僻見と云ふ。今の文部省又は文部大臣は果してかかる事に注意せるや否や、殆んど国民合体のボイコツトを受けてすら尚ほ鎖国時代の名残りたる頑固党の怨霊を慰ぐさめん為めに愚劣の仕事に汲々たるは何事ぞ。 (三頁)

と痛烈に文部省の指導を攻撃している。それというのも大隈は、一方においては臣民の義務を守ると同時に、一方には新権利を賦与した天皇の志を奉戴し、この新権利を尊重し、更にこの権利を完全に行使して国家の隆昌を図り、相互の慶福を進め、ひいて国威を中外に宣揚するのが、今日我らの則るべき忠君愛国の第一義、と考えていたためである。

 大隈はこの著を刊行するに当り、数人の学者の意見を聞き、慎重に事に当ったが、でき上がったものには自信があったらしく、天皇・皇后に献上し、かつ朝野の名士を自邸に会して披露会を開いている。この書は評判が高く印行部数は約四十万にも及んだ。更に大正二年改訂版が作られたが、改訂版といっても新たに稿を起したと同様に努力し、訂正を加えたのであって、項目の順序を変え、また旧版に対する内外の批判を容れ、内容・字句に厳密な修正を施した。新版で特に注目すべき点は、当時関心の高かった個人主義、家族主義、社会主義、国家主義、世界主義の関連を、旧版より一層明らかにしたところにあったと言えよう。なお『国民読本』が小学校卒業者を対象としたのに対し、小学校低学年在校生に向けて、同じ趣旨を平易に叙述した『国民小読本』を大正三年に公刊している。

 大隈は精力的に、東京は勿論地方の各都市においても、しばしば講演会を開き、大衆の啓蒙に当ったが、それらの記録はすべて省略する。また大日本文明協会(明治四十一年四月設立)の発展に尽し、新時代に適切な知識・教養の糧を一般人士に与えることを目的として欧米著書の翻訳・刊行事業を推進したのは、その着眼といい、実行力といい、大隈ならではの観があるが、既に第二巻第四編第二十章中に詳述したので、ここでは省略する。

 『国民読本』の刊行や、全国の師範学校長、中学校長、工業学校長らを招いての講演など、早くから大隈は国民の教化活動に熱意を示したが、第一次世界大戦の結果、一切の旧物・伝統を否定する破壊的な動きが西欧に現れ、その影響で、階級闘争を認め、社会主義・無政府主義を是とする思想が日本に滔々と流入し、社会改造の要求が澎湃として興ったこと、また大正六年ロシアに革命が起り、ロマノフ王朝が倒れ、皇帝ニコライ二世らが死刑に処せられる事態が起り、しかもその影響が我が国にも及ぼうとしたことは、大隈に激烈なショックを与え、この危機を乗り越える方法の発見が重大関心事となった。その解決法を模索して得た解答が、雑誌『大観』誌上に発表された一連の「教化的国家論」であった。大隈は文明の根本を教育に見ていたから、社会改造の根本は教育改造だと考えた。志半ばで倒れたため、実行に至らず、理想論として残されたが、従来西洋文明の輸入に努めて来た大隈にとり、世界大戦およびその影響として現れた社会改造論は西欧文明の欠点の露呈と解されたから、改めて日本古来の美点を涵養し、これを土台として西洋文化の採るべきは採るのが必要であると反省し、そのために教育制度の改革を試み、教育の社会化を実現して、すべての人々に教育上の機会均等を与え、能う限り社会の質的平等主義の実現を図る、それが正当な社会改造の根本策であるとし、一、新教育制度の実現について、問題の徳教の中心を我が日本本来の道徳の美点におく、二、小学校の内容を拡充して、地方文化の開展、民衆道徳の振作に関与させる、三、政府をして積極的に社会上・教育上の機会均等を図らせる等のことを、「教化的国家論」として主張したのである。その中には少くとも中等教育(今日の中・高等学校教育に当る)までを義務教育年限とし、教育費を国家が負担すべきこと、またその費用捻出のため陸軍は機械化して常備兵を減じ、海軍は巨艦主義をやめて潜航艇等を主力とし、また海陸ともに空軍を用いて、軍備費を縮小すべきことを唱えるなど、今日にも通ずる卓見が見られた。

 以上四分野に分けて大隈の活躍のあとを辿り、どの分野でも大変精力的に、しかも年齢の割には柔軟な頭脳を駆使して、的確に対処しているのを見て来た。しかし学問や思想は時とともに進化し変化するから、今日から見れば物足りない点や、無条件には首肯し難い点なしとは言い難い。しかし、彼の生きた時代や、置かれた環境を考えてみると、やはりその傑出したところを認めざるを得ないのではないか。今日では、大隈の文明史上の業績は、早稲田大学創立等の学校教育の面を除くと、その著書・論説などは殆ど忘れられてしまい、教化的国家論なども、いわゆる大正デモクラシーの勃興とともに起った社会主義運動の抑圧策であった如くに批判されることもある。ただ大隈は本来現実的な政治家であったから、その観察・意見は常に現実に即し、対症療法的な性格を持っていた。従って歴史の発展とともに、社会、経済、文化等の事情が変化すると、その観察・意見は色褪せて見えることは避け難いものだったと言えよう。

 世間では、大隈は、午前には禁酒を奨める演説をし、その舌の根も乾かぬ午後には酒造業者に向って、酒を礼讃する演説をするような人物であったと悪口を言ったが、そのように伝説化された大隈の融通性のある言行は、彼の長所でもあり、また短所でもあったと思われる。ただ、西欧の進んだ文明を我が国に取り入れ、遅れている日本文化の水準を西欧並みに高めること、しかも「学問の独立」を主張して、外国の学術の研究は、すべて日本国の興隆と我が民族の発展を目的とし、そのために利用し、応用することを素願とする(「早稲田大学とカイゼル主義」『早稲田叢誌』大正八年三月発行 第一号)ということ、更に「東西文明の調和」の可能性を信じてその実現に努力したことは、大隈の終生変らぬところであった。「東西文明の調和」が近き将来日本で実現するであろうとの観察は、あまりに楽天的であった大隈の妄想だったかもしれぬが、明治以後西欧文化を取り入れ、近代化を進めた日本の発展を考えてみると、右に述べたような理念を持ち、その実現に努めた大隈の努力は十分に稔ったと評価できよう。つまり著述家・思想家としては大隈は忘れられてしまったが、その理想としたところは、現実的に実現されて残ったと言えるのではないか。