新学制はその実施以後軌道に乗って充実を重ねたが、部分的に手直しされたところもあった。
大正十二年四月、政治経済学部と専門部政治経済科は安部磯雄学部長の提案によって三学期制を改め、前期は四月より十月半ばまで、後期は十月半ばより三月までの二学期とし、講義は学期ごとに結了することを原則とした。『早稲田大学新聞』(大正十二年四月二十五日号)はこれに関して左の如き記事を掲載している。
従来の試験制度に就ては教授も学生も等しく其の不徹底と弊害を認め其の改善に注視してゐたが、今般安部教授が米国の試験制度に倣ひ、教授上の充実及能率増進を期し、且我々学生の研究上にも能率及び便宜を与ふる事尠からずとの確信の下に当局に二学期制なるものを提案した処、学校当局も此れに賛し、先づ試験的に政経学部・専門部政経科に此の制度の施行を許される事になつた。此れによると……前学期に開講せられたる学科目の講義は其の学期に終へ、後学期には更に新なる学科目に就て開講せられ、学科目も従来必修・随意・選択の三つに分れてゐたのを今度は必修と随意に分ち、必修科目にのみ試験を行ひ、随意科目には聴講しても試験は行はぬ事となり、試験は各学期末に於てそれぞれ其の学期中に講了したる学科目を口述に由り且つ教員は自己の教へたものは自己が後仕末をするといふ主旨より自ら其の試験を行ふ様になつたのである。……併し乍ら自由思想の奔溢する早稲田に於て、試験制度全廃をさへ考へられつつある現在に於て新制度に対し一部学生間には猛烈なる反対の声がある。急激なる者は或る種の運動をさへ起さんとしてゐる。
学年制度の学期制度への移行は、第二巻七二七頁に記した如く、大正三―四年度の大学部商科に既に試みられている。しかし、学生にとっては、一学年に二回の試験を実施するという点で、なかなかこの制度には馴染めなかった。今般の試みも、結局それが支障となり、早くも同十三年七月二日号の同新聞は、
政治経済学部及び専門部政治経済科の試験制度は、先学年度にあつては所謂二学期制であつたが、本学年度に於ても該制度に依るものであるか、或は該制度以前の制度に依るものか、其の間の事情は全然明確を欠いて居た。為めに同学部に属する学生は一般に疑問を抱き且つ其の真相如何を知らんとして居た所である。二学期制度に関しては、其の実施の第一歩たる昨年の十二月頃より既に教授側に於てのみならず、学生間よりも非難多く、早くも廃止・変更の声が挙がつた始末であつた。此の間の消息に就て同学部の意嚮を伺へば、左の如く語る。「別段に改正したと言ふ訳ではないが、昨年の成績に依るに其の結果が余り思はしくない故、本学年は該制度に依りたくないと思ふ。十月に一学期の試験を施行するか否かは其の講座の担任教授及び講師の意志に一任して居る事になつて居るが、然し各教授共あの制度の不備・欠陥を強く感じて居られるし、且つ亦学生間の意嚮も察して居られるから、多分十月の試験は無いだらうと観られる」と。故に事実上は二学期制は結局実施せられず、試験は全部三月にのみ行はれるものと観察して大過なき見込みである。
と記し、更に同年九月十九日号には、「制度の上から二期制は全然廃止された」と報じたのであった。一学科目の講義を一学期で終了するというこの制度の主眼点が教員側の事情からなかなか実施困難であることが判明し、試験回数の増加という学生としては歓迎しかねる結果のみが残ったのであるから、せっかくの改革案が挫折の運命を辿ることもやむを得なかったのである。
なお念のため一言しておくと、大正十五年度以降両高等学院が三学期制から二学期制に移行しているが、これは従来各学年三回試験を施行していたのを二回に改めたのであり、前述の二学期制移行問題とは性質を異にしていたので、学生や教員の反対は見られなかった。ただし第二高等学院は昭和十一年度より三学期制に復旧している。
専門部商科は大正十二年度から、実業学校教員志望者を第一部に入学させ、他は第二部とした。そしてこの実業学校教員無試験検定資格は、大正十三年二月二日付で認可されることになり、商事要項、簿記、商業算術、商業英語の科目につき第一部卒業生がこの特典を受けることになった。
大正十四年二月の維持員会は英語専攻科を新設することにした。これは非常に特異な科であって、寧ろ講習会とも言えるものであった。田中穂積は「学園の近況」という一文で次のように説明した。
此英語専攻科と云ふのは学園に一つの部若くは一つの科が出来たと云ふ訳ではないのでありまして、英語専攻科と称しますが実は早稲田大学の直営の学会であります。之に英語専攻科と云ふ名称を付して学園に居られる学生諸君は其部其の科の如何を問はず、又校友諸君にして英語を専攻したいと希望せられる諸君の為めに、特に一の学園直営の学会を設けて二ケ年制度、一学級の学生数四十人以内と制限しまして、理想的の語学教授を此四月から開始致したいと考へて居ります。……従来の如く大学各学部専門部高等師範部等に於きまして、語学に一層の力を注ぎますと同時に更に、此英語専攻科なるものを新設しまして宜きが上にも宜く、語学の力を養ひたいと考へて居ります。随つて之は大学直営の学会でありますから、希望の諸君は其科其部の如何を問はず、之に入学されて其力を十分に養はれたいと、斯う考へて居ります。
(『早稲田学報』大正十四年五月発行 第三六三号 四頁)
こうした趣旨に基づき制定された規則は次の通りである。
英語専攻科規則
一、英語力ヲ充実シ以テ新時代ノ要求ニ順応シ、併テ英語国民ノ生活及思想ニ対スル理解力ヲ涵養スルヲ目的トス。
二、修業年限ハ二学年トシ一学年ヲ二学期ニ分ツ。
三、第一学期ハ四月ヨリ九月トシ第二学期ハ十月ヨリ翌年二月マデトス。
四、学科課程左ノ如シ
第一学年
第一学期
発音、音読(詩) 二
解釈(小説、劇、論文、時文) 六
作文文法 二
会話 二
第二学期
音読 二
解釈(小説、劇、論文、時文) 六
作文文法 二
会話 二
第二学年
第一学期
発音、音読(諳誦及デクラメーシヨン) 二
解釈、翻訳(小説、劇、論文、時文) 六
自由作文 二
会話 二
第二学期
発音、音読(オラトリー) 二
解釈、翻訳(小説、劇、論文、時文) 六
自由作文 二
会話 二
五、一学級ノ定員ハ約四十名トス。
六、本大学ノ各部科学生及卒業生ハ学力考査ノ上相当学期ニ入学セシム。
第一学期入学考査ハ附属高等学院最高学年ノ英語程度トス。
七、所定ノ課程ヲ修了シタル者ニハ証明書ヲ授与ス。
八、考査料ハ金三円トス。
九、科費ハ一学期金二十五円トス。
但シ一ケ月金五円ヅツ分納スルコトヲ得。
十、其他ハ専門部ノ規定ヲ準用ス。
(同誌大正十四年三月発行 第三六一号 五―六頁)
授業は五月より翌年一月まで毎日午後三時より五時までとし、同年五月初旬より開講せられた。しかし、十月には、欠員十四、五名の補欠入学者が募集せられるなど、脱落者は既に予想を上回ったものと推察される。第一年度の経験にかんがみ、第二年度は学費を半額に低減したが、大正十五年六月の記録では第一学年四十九名、第二学年十四名が在学しており、講師には伊地知純正、大束直太郎、勝俣銓吉郎、E・S・ケート、高杉滝蔵、日高只一、山崎貞が嘱任されている。翌昭和二年三月には、第一学年十六名(政三、専政四、法一、専法六、専商二)中、進級者十三名、仮進級者二名、第二学年六名(政一、専政一、専法三、商一)全員進級が報告されている。英語専攻科についての記録はこれを以て後を絶っているが、必ずしも当初の目的が十分達成されているとは言い得ないと当局が判断し、その存続への方策を講ずることがなかったものと推察されるのである。
大正期に造られた主要な建築物と諸施設については、既に若干触れるところがあったが、ここに一括して述べることにする。校舎・諸施設の整備は学苑発展の姿を象徴すると思われるからである。
大正初期の分は暫く措き、大学令実施後を一瞥しても、馬場下の大学用地に高等学院校舎の建設があり、また御大典記念事業の一環として新図書館が生れた。大隈記念講堂の竣工は昭和に入ってからであるが、大正末年には地鎮祭が行われ、建設の準備が着々進められていた。大正初期には未だ飛地であった戸塚運動場と学苑キャンパスとの間の土地は漸次学苑用地として買収され、そこには応用化学実験室、第二高等学院、新製図教室等が建設された。旧大隈邸の内に学生ホールが生れたのも大正末年のことであった。スポーツ施設についても、この頃第一高等学院の運動場用地が拡大されたほか、新プール、硬式テニス・コート、相撲道場が新設され、また戸塚運動場も整備され、スタンドを持つ野球場として偉容を示すようになった。
そのほか大正の後半から昭和初頭にかけて整備された校舎・諸施設のうち主要なものを第九表に掲げておく。なおこの表にはないが、『早稲田大学主事会記録 大正十二年以降』によると、十二年十一月、防火および風致のため構内に約四百本の植樹が決められている。これは関東大震災の教訓によるものと思われるが、キャンパスの周囲には椎を、また建物に沿っては銀杏を植えたのであり、今日ではこれにより僅かに「早稲田の杜」の面影が保たれているのである。
大正十五年四月に刊行された『早稲田学園』の折込みに掲載された校舎配置図は、このように発展し整備された校舎・諸施設の状況をよく示しているので、次頁に転載して当時を偲ぶよすがにしよう。
また、学苑の施設ではないが、後年――特に旧大講堂が関東大震災で崩壊してから現大隈講堂が竣工するまでの間――学苑生が集会にしばしば利用した赤煉瓦建の学生会館スコット・ホールが、カリフォルニアのスコット夫人の寄附をもとに大正十一年一月、豊多摩郡戸塚町下戸塚五百五十番地に開設された。明治四十年に来日したバプティスト教会宣教師(翌年から昭和初年まで学苑講師兼務)ハリー・バクスター・ベニンホフが安部磯雄の紹介で大隈総長に会ったとき、総長から、早稲田の学生が楽しく意義ある学生生活を過ごせるような機会と設備を作ってもらいたいとの依頼を受け、翌四十一年十一月牛込鶴巻町に友愛学舎を設立、四十四年六月には同弁天町にその新家屋を建築移転したが、大正五年には友愛学舎舎生二名により戸塚町に信愛学舎(早稲田大学基督教青年会自治寮)が開設され、更に同十一年、カリフォルニアのエドマンズ夫人その他の寄附を亨けて高等学院生のための早稲田協愛学舎が落成した。その後大正十三、四年には、関東大震災による被災教会復興の資金獲得のため弁天町友愛学舎を売却、早稲田協愛学舎を友愛学舎と改称するというような変遷はあったが、スコット・ホールはキリスト教学生事業早稲田奉仕園の外部に対する顔とでも言うべき役割を演じたのである。奉仕園の理事長は、初代安部磯雄、次いで山本忠興であった。
次に、キャンパスを利用した教員ならびに学生に目を転じると、大正初年の教授・講師・助教の人数は百六十五名(「早稲田大学第二十九回報告」『早稲田学報』大正元年十月発行第二一二号附録五―六頁)であったが、同十五年には、第十
1 学生ホール
2 高等師範部教室
3 専門学校事務所
4 商教室
5 商教室
6 製図教室
7 政・法教室
8 学生控所
9 本部
10 図書閲覧室
11 書庫
12 階段教室
13 冶金実験室
14 応用化学教室
15 採鉱実験室
16 恩賜記念館
17 製図室
18 文教室
19 商教室
20 柔剣道場
21 第二高等学院
22 水力・電気・建築実験室
23 理教室
24 商・理教室
25 製図室
26 電気・機械実験室
27 木工場
28 鋳物工場
29 弓術場
30 相撲道場
31 プール
32 本館
33 学生控所
34 銃器庫
35 一号校舎
36 二号校舎
37 三号校舎
38 四号校舎
39 柔道道場
40 弓術場
(「早稲田大学第四十三回報告」『早稲田学報』大正15年6月発行 第376号附録7-11頁)
(「学事報告(第四十四回)」『早稲田学報』昭和2年7月発行 第389号 62頁)
表の如く、教授・助教授・講師を合せて三百六十五名(約二・二倍)に増加した。この大増加は、新制学部の新設と、第一・第二高等学院、専門部、高等師範部および専門学校等の付属学校の併設というような学苑の規模の拡大によるところが多いが、教員一人に対する学生数が三五・一八人から三八・四二人に増加しているのを見ると、これで十分であったとは言い難い。大正十五年度の資料(第十一表)によると、教員の延人員は八百十名に達しているが、一人の教員が平均二つ以上の学部等を兼担していたことになる。適当な人材が容易に得られなかったということもあろうが、他面私立大学の台所の苦しさを示しているとも言えよう。なお、大正十五年度末における職員の員数と配置は第十二表(数字は原資料のまま)の通りであった。
(『早稲田学報』第389号 63頁)
大正後期の在学生総数の推移は、いま大正元年と大学令施行の九年とを比較すれば、後者にあっては二倍を超し、専門学校が開設された十三年には約二・三倍以上、十五年には約二・四倍であって、好況時は言うまでもなく、慢性的不況下にあった大正末期においてさえ、在学生数は着実に増加したことが分る(関東大震災の影響で大正十三年にはやや減少した)。大正十五年度末の学生・生徒数の所属別分布を見ると、大学院・学部・学院生が約六千人に対して、研究科・専門部・高等師範部・専門学校・工手学校在籍者は約八千人であって、早稲田大学の根幹をなす学部・学院生は全体の半数に満たず、学苑の経済が付属学校の多数の学生・生徒に支えられて成立していた事情がよく窺えるのである。
なお大正末年の在学生の出身地を、『早稲田学報』(第三八九号)の「現在学生府県別統計表(工手学校ヲ除ク)」(六六頁)によって見ると、全府県にまたがっているが、東京府の一、六〇一人が断然多く、以下福岡県四四二人、新潟県三三二人、愛知県三二三人、大阪府三一八人が続いている。最も少いのは宮崎県五七人、沖縄県四三人であった。また台湾(三八人)、朝鮮(二五七人)、樺太(五人)および中華民国(六〇人)、ソヴィエト連邦(一人)というように海外からの留学生も相当数在学していたことが示されている。
創立以来明治末年までに一万名を超す卒業生(初期には得業生と呼んだ)を世に送り出した我が学苑は、大正七年以後は毎年一、〇〇〇名(工手学校を除く)を超す多数の人材を社会に送ることになった。大正十五年六月発行の『早稲田学報』(第三七六号)に発表された「校友職業別一覧」によると、銀行・会社員八、八一六人、教員一、九二〇人、商業従事者一、五二八人、官吏一、三四四人、新聞・雑誌記者一、〇五一人、農業従事者五三五人、公吏三八〇人、僧侶一八九人、弁護士一七六人などが目立つ(三〇頁)。大正十四年三月刊行の吉川兼光(大九専政入学、後年の社会党代議士)著『西北の黎明』には、当時の卒業生について、志を天下に抱き政党に入った者はその数百を超え、総務、幹事長等の役についている者も少くなく、新聞記者に至っては早稲田の独り舞台で、大は東京・大阪の一流新聞から小は各府県の小新聞に至るまで、社長・主筆・編集長等の要職にあるのは早稲田出が圧倒的に多い、文芸、教育、会社・銀行等における校友の活躍もまた然り、以て社会に期すべきものである云々(二三八―二四二頁)というようなことが記されている。著者の吉川は政治経済科の学生だったから詳しくは触れていないのであろうが、大正期には、文壇においても、論壇においても、我が学苑の出身者は常に先頭に立って各界をリードしていたし、また優れた学問的業績も残しているのである。後年文化勲章の栄に浴した、我が国歴史学界の第一人者津田左右吉が、日本古代史研究に新分野を開き、科学的研究法を初めて確立した『神代史の新しい研究』、『古事記及び日本書紀の新研究』、および日本思想史研究における画期的業績である『文学に現はれたる我が国民思想の研究』を著したのも、大正期であった。そのほか学苑出身者の大正期に刊行した主要な著書としては、中島半次郎『人格的教育学の思潮』(三年)・『教育思潮大観』(十年)、田中穂積『国民経済概論』(六年)、金子馬治『欧州思想大観』(九年)、西村真次『国民の日本史第一篇大和時代』(十一年)・『文化人類学』(十三年)、大山郁夫『政治の社会的基礎』(十二年)、五十嵐力『国歌の胎生及び発達』(十三年)、遊佐慶夫『信託法制論評』(十三年)、信夫淳平『国際政治の進化及現勢』(十四年)、中村万吉『労働協約の法学的構成』(十五年)、林癸未夫『社会政策新原理』(十五年)などが直ちに思い浮かぶ。その他各専門分野について見ればなお多数の業績を数えられるし、理工学方面にも瞠目すべき研究が多々あるが、ここでは省略に従うほかはない。
卒業生の活躍などにより学苑の声望が高まり、また教授陣の充実、校舎・諸施設の整備が進むと、自然学苑への入学を望む者が多くなった。専門部・専門学校等への入学はそれでもさして難関とはならなかったが、高等学院の入学試験は、毎年多数の志願者を迎えて、相当狭き門となっていた。二つの高等学院が整備された大正十一年以後の両学院の入学試験競争率は、第十三表の如くである(大正十一年度は七三頁に示したが、ここに再掲する)。
第十三表 第一・第二高等学院入学試験競争倍率(大正11-14年度)
(『早稲田学報』大正11年5月発行 第327号 13頁,大正12年5月発行 第399号 15頁,大正13年5月発行第351号 15頁,大正14年5月発行 第363号 8頁)
入学試験競争倍率は、年度や科によって増減があったが、大体三倍ないし六倍ぐらいの入学出願者が常時あったことが分る。大正十四年における第一高等学院の志願者が文科、理科ともに突然増加した理由は判然しないが、概して大正十一年度の競争倍率が高く、以後下降している一つの原因は、入学試験が、競争倍率の上でも、また試験問題の程度においても、意外に受験者を苦しめたためではなかったかと思われる。前掲の『西北の黎明』には、大正十二、十三年度の入学試験問題が掲げられている。その中で、例えば第二高等学院の大正十二年度漢文試験は三題出題されていて、その一番は『後漢書』「胡広伝」の引用で、書き下し文に書き改めることと、「達練」「朝章」「謇直」の三語の意を解釈することを求めている。「達練」「朝章」はともかく、「謇直」などというのは余程大きな辞書でなければ出ていない語で、『後漢書』のこのくだりを習った者でないと解答は容易でないと思われる。従って倍率は年々やや下がっているようであるが、受験者の質は揃っていて、競争は数に現れているほどには易しくなかったと言えるのではあるまいか。入学試験が難しく、早稲田を志望する者を迎え入れられないのは、決して望ましい状態とは言えまいが、反面このようにして質の良い生徒を迎えて、程度の高い教育を施し、学識優秀な卒業生を学部から社会へ送り出すことで、大学の声価は大いに高まったと言えよう。
第十四表 専門部・高等師範部入学試験競争倍率(大正14年度)
(『早稲田学報』第363号 8頁)
なお専門部と高等師範部の入学試験競争倍率に関しては、大正十四年度しか明らかでないが、第十四表に示しておく。