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第六編 大学令下の早稲田大学

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第二十一章 科外講義と講義録の最盛期

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一 内ヶ崎時代の科外講義と科外講義専任講師の出現

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 学苑においては、創立時以来、科外講義の充実に力を用い、国憲汎論を講じた小野梓をはじめ幾多の名講義が学生を魅了したことは既述の如くであるが、大正後期および昭和初期にあってもそれは変らなかった。大正九年四月以降十一ヵ年間に実施された科外講義を第十八表として左に掲げておく。

第十八表 科外講義(大正九年四月―昭和六年三月)

 科外講義の会場は、関東大震災以前には、主として旧大講堂が使用され、また聴衆が多数の場合には銅像前の広庭で挙行されている。科外講義は科外講演と呼ばれた場合もあり、校庭使用の際には寧ろ講演の方がふさわしい名称のように感ぜられるが、現実にはこの両語は無差別に使用されていた。旧大講堂倒壊後は第二十教室が専ら科外講義会場に充てられたが、昭和二年秋以降は大隈講堂で開催されるようになり、最初は小講堂が使用されたけれども、新渡戸稲造の科外講義が開始され、聴衆の数が増加するのに伴い、大講堂使用が常例となった。科外講義はそもそも全学苑の学生を対象とするものであったが、一般人の聴講黙認も慣例化されていた。ところが、会場が大隈講堂になると、公道に接し、立看板も人目につきやすいので、学生以外の聴衆も増加する傾向を見せ、早稲田の科外講義の名声を一般人の間に高くしたのであった。

 右表の科外講義中には特別講義と銘打ったものが若干ある。外国の名士などを講師とした場合が多いが、全学生を対象とするものに関する限り、特別講義と一般の科外講義とは、はっきりとは区別しにくい。なお、右表に加えるのは避けたが、全学生に対して開かれた坪内逍遙の最終講義は、一種の科外講義であって、特別講義に属するものとも見られよう。『早稲田学報』第三九五号(昭和三年一月発行)は、それについて左の如く報じている。

昭和二年十二月十五、十六の両日午後三時から、大隈講堂に於て坪内博士最後の沙翁講義(リヤ王)が開かれた。両日共に吾学園の学生及教職員竝に他学校の学生其他有志各新聞記者多数出席して、流石広い大講堂もフローアに迄、立たなければならぬ盛況であつた。第一日は坪内博士より沙翁講義に対する自身の態度を述べられて講義に入り、松竹キネマの校友森岡格雄氏の肝煎にて、博士の講義振をフイルムに修め長く坪内博士記念演劇博物館に保存することとなつた。越えて第二日も前日に優る盛会にて目出度くキング・リアの講義を了し、最後に博士は立つて「沙翁は五十一歳にしてストラツトフオードに引退された、私は六十一歳の折に教壇から引退する心算であつたが、学校の慫慂によつて六十九歳の今日迄若い人々に取巻かれて講義を続けて来た。沙翁の様な偉人でも引退後は全く何もされなかつたらしい、況んや私の様な者は教壇から遠ざかつたならば無為に終つて了ふであらう。然し沙翁全集だけは完訳して了ひ度いと希つて居る」と述べ、沙翁最後の作と言はれてゐる『テムペスト』のプロスペロが述べる閉場詞を引いて、教壇から引退の辞とされ、五十嵐文学部長は聴講者一同に替り、坪内博士に対して年来の師恩を謝し、今後も特殊の御研究が了した等の場合は三回なりとも二回なりとも、是非御講演を拝聴させて頂き度い、と御頼みして劇的な中に此記念すべき講義を終了した。 (六―七頁)

この最終講義を聴講した青柳教授は、同誌上に次のようにその印象を語っている。

教職員席は、われらの同僚の来ない前に婦人席から溢れ出る潮の如き娘子軍によつて、占領されてしまつた。私は正に万紅叢中緑一点。多勢をたのむ娘子軍は、われら同僚の教職員席を横暴にも占領したとも気附かずに、女ばかりの群の中にタツタひとりポツネンと腰かけてゐる私を、迂散臭さうな眼附きで見つめてゐた。正三時から始まつた博士の講義は、既に予定の五時を過ぎた。博士は、鄭寧にも、「御都合のある方々はお構ひなく……」と言はれたが、満堂数千の男女は、誰れ一人として動かうとするものはなかつた。それから更に一時間、前後三時間に亘れる大講演は、丁度六時を以て終つた。その間、博士は、一滴の水に咽喉を湿ほさることもなかつた。博士が、「お粗末ながら講義はこれで終つたが……」とて、やをら椅子から身を起され、「顧みれば早稲田の四十五ケ年、朝夕青年諸君のインフルエンスに触れて若々しさを保ち得た私も、今度この学園を去つて隠栖の身となつたならば……」と惜別の辞をのべられた時には、壇上右端の中桐教授、宮田監事、金子博士、五十嵐博士の諸君が、いづれも申し合はせたやうに両腕を固く組み、下俯向いて、面をあぐるものもなかつたのを、私は見た。講堂に溢るる数千の学生たちは、多くは簡易な弁当腹で、昼からこの時刻に及んだので、さだめしひもじい腹をかかへてゐたことであらう。これがいつもの講演会であつたなら、講義のすむやすまぬに、我れ勝ちにドヤドヤと退散したでもあらう。しかも、博士のお別れの辞の後を承けて五十嵐文学部長の謝辞をのべられたあひだ、誰れ一人、身動きひとつする者もなかつた。

(三九頁)

 この時代にはまだ今日のように誰も彼も最終講義を行う慣習がなく、坪内のこの挙は天下の視聴を集めたと言っても過言ではなかった。なお、特別科外講義という名称は、多くの場合、学部・高等学院等学苑の一部の機関が、所属学生を対象として実施した科外講義を意味する名称として使用されるのが常であった。しかし、それらをすべてここに記載するにはあまりにも多くの紙面を必要とするので、省略せざるを得なかった。

 科外講義の講師選定その他を主要任務とする部局は創立以来学苑には存在しなかったが、大正七年十一月、編集及講演部が新設され、その部長に内ヶ崎作三郎が任ぜられた。内ヶ崎は宮城県出身、明治三十四年東京帝国大学文科大学英文科卒業、翌年より学苑の教壇に立ち、最初は文学科・高等予科・高等師範部で英語・英文学を担当したが、次第にその重点を、政治経済科の文明史と、高等予科の国民科、更には高等学院の修身とに移した。「早稲田騒動」直後の一年間、理事として「終戦処理」に当ったが、七年十月新理事にバトンを譲り、同年設立の賛助会(第二巻一〇〇四―一〇〇五頁、一〇九四頁参照)会員との連絡用の『早稲田叢誌』の編集と科外講義の企画・実施とに専ら力を注ぐことになったのである。内ヶ崎は大正十三年には衆議院議員に当選して、その活動の比重を教育界より政界に移したが、専任教員についての考え方が厳格でなかった時代のこととて、教授の身分は依然として保持し、編集及講演部長――『早稲田叢誌』は大正八年三月、同年十二月、および九年七月に刊行された後、休刊となったので、昭和に入ってからは役職名も講演部長と改められた――として活躍すること前後十一年、昭和四年十月、内務参与官に任ぜられたのを機として、教授を辞して講師となり、講演部長を喜多壮一郎に譲った。内ヶ崎は、各般に亘る広汎な知識により、講義の主題よりも寧ろ肥軀に絶えず笑みを浮べつついつ終るとも知れぬ強度の東北弁による「脱線」によって学生を魅了し、「ホラガサキフキサブロウ」の渾名を奉られていた。しかし、講演部長としては、その顔の広さを十分に利用して、各界の泰斗を学苑に招き、科外講義の魅力を一層大きくした。内ヶ崎は科外講義に際して、講師を紹介し、また講師への謝辞を常に述べたが、講師の講義最中には演壇でしばしば居眠りしながら、謝辞に講義の要点を巧妙に取り入れる至芸の持主であった。尤も、政界における内ヶ崎の地位が高まるのに伴い、科外講義に割愛できる時間が乏しくなるのは免れず、学生間に科外講義への不満の声が聞かれ始めたのは、例えば昭和二年四月二十八日付『早稲田大学新聞』に「科外講義の更新」と題する論説が掲げられているのによっても察知できよう。

科外講義の名によつて吾々に意味されるものは、まづ学園外の大学諸教授による蘊蓄の披瀝であらねばならぬ。交換教授の制なき日本の大学に於ては、是こそ唯一の与へられたる活路である。……然るに事実科外講義は果してどんなものであつたらう。その殆ど大部分は校友代議士によつてなされる時事講演に過ぎないではないか。然もその中の諸氏は既成政党の中の或る一派に偏倚したものでさへもあつた。その他も比較的手近かな人の講演に過ぎない。吾々は校友諸氏を毛頭侮辱する積りで此の言をなしてゐるものではない。然しながら、科外講義は之れ自らの性質を今少し意義あるものにする必要はないか。成る程講演する校友諸氏は以て実務家であり、経験家である。けれども吾々の望むところは、単に、科学上の発見を開く機会もあれば、マルキシズムの理論を学ぶことも出来、同時に人生の問題、文学上の諸問題をも聞くことを得たかつた。然も軍縮問題、金融問題、支那問題を知る場所ともしたかつたのである。

科外講義の制度そのものは、現在の学制を改めない以上、自由攻学の唯一の機関でもあると考へられる。さればその運用の如何は重大なる使命を有してゐる。新学年に当つて、当局に於ても此の点に着眼し、之を活用して、学生の満足を得ることを計る必要ありと信ずる。

 しかし、内ヶ崎を政界から学苑に引き戻すことは不可能である。ところが幸いにして、学苑の科外講義の価値を一挙に高める異色ある講師が出現した。新渡戸稲造がその人である。

 新渡戸稲造は岩手県人で、札幌農学校卒業後、同校教授、台湾総督府殖産局長兼糖務局長、京都帝国大学教授、第一高等学校長、東京帝国大学教授、東京女子大学長等を経て、国際連盟事務局次長として八年の長きに及び活躍した国際人であり、その著Bushido(1901)はシオドー・ローズヴェルト(Theodore Roosevelt)に愛読せられたと伝えられている。高田早苗は、東京大学入学直前、東京英語学校生徒として、二歳あまり年少の新渡戸とは旧知の仲であり、新渡戸の親友、東京大学の小野塚喜平次に乞われて、ジュネーヴより帰国する新渡戸の生活費――新渡戸夫人はアメリカ人であり、生活費の膨脹は免れなかった――の面倒を早稲田で見ることを考えていたらしい。喜多壮一郎著『母校早稲田』によれば、大隈大講堂で新渡戸に科外講演を行わせ、その講演料によって新渡戸の帰国後の活動に後顧の憂いを絶つとともに、アカデミックな講演の場として大講堂の特色を確立するようにとの使命を高田から託せられて、かつて五年間に亘り『実業之日本』の編集顧問に新渡戸を戴いていた増田義一に説いて、科外講義の速記を実業之日本社より出版することを承諾させ、科外講演料と印税とで、相当額の収入を新渡戸に確保させるよう斡旋をしたのが喜多であるという。喜多壮一郎(大六大法)は高等学院で「法制」を担任し、また後には政治経済学部に「新聞研究」を講じたが、昭和二年以降、断続的ではあるが新聞学会長または新聞研究会長として『早稲田大学新聞』の編集を指導していた。従って、『早稲田大学新聞』を通じて科外講演を学生にPRするのには適任者であったが、科外講演部長に就任したのは先述の如く昭和四年秋であり、新渡戸が「辞令なんかぬきで〔科外講義〕専任講師」(『母校早稲田』三五一頁)となり、第一回の科外講義を実施したのは三年一月である。二年に近いこの期間、内ヶ崎は既に部長としての実務を喜多に委譲していたのであろうか、それを裏書する資料は残っていない。

 学苑百年の歴史において、科外講義専任講師の存在は空前絶後であったが、新渡戸の科外講義は学苑の科外講義の声価を内外に高めることになった。後年の教授入交好脩は次の如く記している。

幸運なことは、私の最も尊敬する故新渡戸稲造先生の連続講演が、私の高等学院一年の三学期に当る昭和三年一月に始まり、商学部三年の二学期末の昭和六年十二月に終るまで前後満四ケ年の長期間に亘って継続して設置せられていた。私のひそかに誇りとすることは、私がこの新渡戸先生の講演に完全出席しているということである。あるいは、人はそのことを不自然に感じるかも知れないが、私は、この講演を優先して、他の集会のすべてを犠牲にしたからである。この「科外講演」における新渡戸先生の感化と影響とは、私の若き日の人間形成の上に強烈な作用を及ぼしたものと信ずる。事実、私は、前に新渡戸先生との、後に平沼先生とのいわゆる「出会い」がなかったならば、終生を「経済史学徒」として学究道に進むことはなかったであろうとさえ感じている。卒業以来、既に三十五年の歳月の経過した今日においても、この学恩は銘記して夢寐の間にも忘れることは出来ないものがある。当時の「科外講演」は、大隈記念大講堂で、午後三時以後に開かれるのが原則で、講師としての新渡戸先生は、壇上の大テーブルの前側に、身体を斜に凭せかけるようにされて何時も時計の金鎖を弄りながら、「我輩は」のお言葉を連発されながら、独特の温顔をもって親しく学生に語りかけておられた。 (『先師景仰』 一一六頁)

 新渡戸の科外講義の一斑は実業之日本社から刊行された『内観外望』により知り得られるが、『東西相触れて』および『偉人群像』に収められているところも、科外講義で講ぜられたものが多いと推定される。新渡戸の講義ぶりは、喜多の次のような感想によって窺うことができよう。

新渡戸の講演は、いつも哲理観と歴史観の根基に立つ。しかして、かれの主観とその客観との比較考察とが、交錯されている。バラバラに分離されていなかった。だから、聴いているものは、肯定せざるを得なかった。その引例は豊富。つかう比喩の表現は、適正高格なのと、また奇想天外なのとある。おもわず「ヨク聴かせる」と、司会者として、わたくしは、膝がしらをたたいたこと、たびたび。 (『母校早稲田』 三五七頁)

二 出版部の黄金時代

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 明治末に経営の危機に瀕した早稲田大学出版部が、学苑から分離・独立した匿名組合として経営の再建に成功したところ、それが却って「早稲田騒動」の際、反高田派に高田攻撃の好個の材料を与える結果を生んだので、誤解一掃のため、資本金十万円の株式組織として再出発することとし、大正八年一月に開業したことは、前編第十八章に説述した如くである。

 株式会社早稲田大学出版部の出足は、種村宗八が左のように記した如く、きわめて好調であった。

株式会社になつてから新に発表された予約書には、史記国字解全書(八冊)、国民の日本史(十二冊、昭和六年再募集の際には東京時代を追加して十四冊とした)、万葉集代匠記(六冊)等があつたが、其結果は思はしくなかつた。けれども漢籍国字解全書は其後数回の予約募集を試みたにも拘らず、毎回相当の収益を挙げ、尚ほ日本時代史、通俗世界全史、物語日本史大系(通俗日本全史)なども、募集の度毎に多数の予約者を得た。

単行本は政治、経済、文芸、哲学、歴史、工業、家庭等各方面に亘つて無数の発行を見たが、坪内博士の沙翁全集(四十冊)は原作の微妙な調子や匂ひや味ひや風韵まで移植されたもので、現代の飜訳書中に其類例を見ない良書として好評を博してゐる。尚ほ横山又次郎博士の地学全書(十二冊)も好著として社会の歓迎を受けたものの一つである。

講義録は従来政、法、文、中、商の五科目であつたが、会社組織になつてから、高等女学、電気工学、電気工学予備、建築の四講義が加はつた。中学講義は大正二年より、又商業講義は大正七年より春秋二回募集の制度であつたが、政、法、文の三講義は年一回募集の制であつたのを、会社組織となると間もなく、即ち大正八年の春から、各講義とも凡て之を毎年春秋二回募集のことに改めた。所が其結果は非常に良好で、春秋二回とも大差なき成績を挙げ得ることが判つたので、爾来今日〔昭和七年〕に至る迄春秋二回募集の制度を維持している。 (『早稲田大学出版部の沿革と早稲田大学との関係』 一九―二〇頁)

 株式会社発足当時の取締役主幹市島謙吉はその手記『清暇録』七に、大正十年七月、

早稲田の出版部もなかなか大なる利益を産む様になつた。此の半季の純益が七、八万円に上る。株主と云ふても十人もない程であるから、此の全部を配当するとあつては余りに目立つことになる。且つ大なる課税の負担もある所から、兼て現在の十万円の会社を二十万円に増資すべしと云ふ案を実行するは此秋であると内部に協議が起つた。

と記しているが、結局、同年十二月七日、資本金は従前の三倍に当る三十万円に増加――新株払込金は一般株主には賞与金を充当、早稲田大学には相当額を寄附――されている。しかも、市島が、主幹を辞するに至った昭和八年一月に『惜陰耄録』一に記しているところによれば、その配当は、左の如く四ヵ年に亘って三割を続けるという黄金時代を現出したのであった。

なお、出版部雇用の人員を見ても、株式会社発足前夜の三十六名が、後には八十九名と大膨脹したのであった。

 株式会社設立当時は、高田早苗が取締役部長として出版部の最高責任者であったが、大正十二年五月高田は早稲田大学総長に就任したので相談役に退き、市島主幹が社務を総理することとなり、新たに常務理事が置かれて種村宗八がこれに当り、大正十年に歿した田中唯一郎監査役の後は男爵前島弥が継いだ。また小久江成一監査役が代理部(大正十一年九月創設)経営の必要から監査役より取締役に転じたので、坂本三郎が監査役に挙げられた。また相談役は、既に大正九年塩沢昌貞が加えられていたので、大隈信常平沼淑郎田中穂積に、高田と塩沢の計五名となり、編集顧問には坪内雄蔵のほか、金子馬治も嘱任された。

 出版部は、匿名組合時代の十二年間に、契約金(第二巻 五一三頁参照)として四三、三二二円六六銭のほか、基金募集費や留学生費や三十年祝典費など二二、〇○〇円の契約外金を学苑に納付しているが、株式会社に組織替の後には、大正十三年六月に種村宗八が記録した時期までに、利益配当金として五〇、二一三円五〇銭のほか、株式払込資金や故総長記念事業費や総長用自動車(寄附)購入費など九三、四二五円七〇銭を大学に提供している。またその後においても、大正十四年以降学生に対して出版部奨学金を与え、更に昭和十一年には教職員退職金に加給される金額の元本としての出版部基金を学苑に寄附している。右の記録(この部分未公刊)の筆者種村が、

若しも出版部が財団法人早稲田大学の一部の事業であつたならば今日の発展は見られなかつたであらうと思ふ。……出版部は……急速に発展して来た為に大学の収め得る利益も急速に増加して、学校直営時代に幾倍するやうになつた。大学は毫も経営上の危険を冒さないで、直営よりも遙に大なる利益を収めるやうになつたのは、出版部が大学の直営を離れた為に、急速に発展した結果に外ならぬ。……出版部の事業が近時著しく発展した一つの原因は、旭日沖天の盛名ある早稲田大学を背景としてゐる為の賜である。随つて早稲田大学の盛衰が、直ちに出版部の盛衰に影響するものである事は言ふに及ばぬ。出版部の当事者が衷心から早稲田大学の繁栄を祈つて、献身的に努力してゐるのは当然の帰結である。……大学の盛衰が直ちに出版部の事業に影響する如く、出版部の盛衰も、少くとも大学の財政上に影響する。大学の幹部は言ふに及ばず、高級の職員も善く此事を認めてゐるので、大学に差支なき限りは、出版部に便宜を与へてゐる。

と自負しているのは、理由のないことではなかったのである。勿論、早稲田大学の財政規模と比較すれば、出版部の寄与ははなはだ些細なものと見えようが、当時の大学当局が窮屈な予算にいくらかでも余裕を持たせる可能性を出版部の寄附に求めたことは、大正十二年、五千円を上回る総長の乗用車購入費が出版部で賄われた一事でも明らかであろう。市島は、出版部を去るに際して、

出版部の黄金時代に策した一事は、大学の功労ある老教授に株を持せて毎年の利益金を以て払込に宛て、結局それを養老の資に充てんとすることであつたが、これも黄金時代がいつまでも続くものと夢想した立案で、払込に充る利益がないとすると空案となるのである。今となると見込が違つた。 (『惜陰耄録』 一)

と、年金制度確立以前における教員に対する老後の保証まで出版部が念頭に置いていたことを記しているが、出版部の株主の中には、出版部の役員として前頁にその名を挙げた者の外、青柳篤恒五十嵐力浮田和民、岡村千曳、北沢新次郎杉森孝次郎寺尾元彦、徳永重康、中島半次郎、野々村戒三、山本忠興吉江喬松などの教授名が発見される。出版部の株主は、すべて早稲田大学なり、出版部なりと密接な関係を有する者であったが、大学と出版部との関係を円滑に保つためには、株式が大学関係者以外の手に譲渡せられることを防止することが必要と考えられ、大正十二年左の如き協定書が作成・捺印され、その後の新株主もこれに同意している。

協定書

早稲田大学出版部ノ事業ハ早稲田大学ト密接ナル関係ヲ有スルヲ以テ其株主ハ善ク早稲田大学ヲ諒解シ相互援助ノ誠意アル者タルコトヲ要ス然ルニ現在株主漸次ニ死亡シ其相続人ノ多数ガ早稲田大学ト関係少キニ至ルトキハ大学ト出版部トノ間ニ意思ノ疎通ヲ欠キ随テ双方ノ不利ヲ来シ結局事業ノ衰頽ヲ来ス虞ナシトセズ

且ツ大学所有以外ノ出版部株式ハ成ルベク新陳代謝シテ永久ニ大学功労者関係者ノ所有ニ帰セシメ幾分カ其利益ヨリ常収入ヲ得シムルコト功労者優遇ノ趣旨ニ適ヒ間接ニ大学其モノノ利益ナラン

故ニ現在株主ハ其死後ニ於テ相続人ヲシテ相当価額ヲ以テ其株式ヲ大学ニ功労又ハ関係アル者ニ譲渡セシメ以テ永ク事業ノ繁栄ヲ図ルノ方針ヲ取ルベシ

右ノ方針ヲ貫徹スルガ為ニ早稲田大学以外ノ現在株主ハ玆ニ左ノ申合セヲ為ス

第一、早稲田大学以外ノ出版部株主死亡スルトキハ其相続人ハ出版部ノ指定ニ従ヒ其所有株式ノ一部又ハ全部ヲ売渡スベキモノトス

現在株主ガ生前其株式ヲ売却セントシ死後其相続人ガ残留ノ株式ヲ売却セントスルニ当リテモ本申合ノ精神ヲ尊重シ予メ出版部ノ承認ヲ求ムベキモノトス

第二、現在株主ノ死後其相続人ガ出版部ノ指定ニヨリ株式ヲ売渡ス場合ニ於テハ株式ノ価格ハ凡ソ左ノ標準ニ随ヒ重役会ノ定ムル所ニ随フベキモノトス

最近三年間ノ株主配当平均率ガ年一割五分ニ当ル場合ニハ額面価格ヲ以テ売買スルヲ標準トシ平均配当率ノ高下ニ応ジテ価格ヲ上下シ且ツ積立金ヲ考慮スベシ

第三、現在株主死亡シ出版部ノ指定ニ従ヒ其株式ヲ売渡ス場合ニ於テハ出版部ハ其方針ニ適合スル新株主ヲ求ムルヲ要シ且ツ買受人ニ必要アルニ於テハ成ルベク間接直接ニ金融ノ便ヲ図ルベシ

右ハ株主一致ノ意見ニ基キ申合ヲ為シタルニ由リ本書二十一通ヲ作リテ各自一通ヲ所持シ且ツ大学及ビ出版部ニ一通宛ヲ供託スルモノ也

大正十二年十月十五日

 種村手記の草稿には、

議義録の読者中より幾多の名士を出して、其中には現に大学の幹部になつてゐる者〔例、田中穂積〕、現に大学に教鞭を執つてゐる者〔例、津田左右吉〕、政界・実業界に嶄然頭角を顕してゐる者の尠からぬ事などは、殆んど知れてゐないと思ふ。特に講義録の読者が山間僻地にまで行渡つてゐて、それが大学の大声援者であつて、大学の為にもなるといふ事などは心附かぬものが多いであらう。近時常に十余万を算する校外生の大多数は、中等教育をも、専門教育をも、正式に受ける事の出来ない不幸の者であるが、曩の〔大隈老侯〕記念事業費募集の事あるや、其豊かならざるポケツトから六千九百四十五円五十四銭(十二年三月三十一日締切)を寄附して其人数は無慮一万人に上つてゐる。しかも之は講義録上の記事を読んで自発的に寄附して来たのであつて、勧誘された結果ではない。のみならず彼等は各地に在つて、大学の募集事業に応援して其努力を惜まぬものも尠くはなかつた。校外生中には大学を母校と仰いで衷心から其繁栄を祈つてゐる者の少くない事は、是等の事実に徴して疑ふの余地はない。無慮幾十万の早稲田大学渇仰者が各地に在る事は、大学の一大声援であらねばならぬ。而して彼等と本大学との連鎖となるものは、実に出版部発行の講義録である事を忘れてはならぬ。

と、軒昂たる意気が見られるが、黄金時代の出版部の業績があってこその自賛と見ることができよう。

 さて、出版部はその黄金時代に、倉庫ならびに事務所を新築した。すなわち、大正九年には二一、五〇〇円余を投じて鉄筋コンクリート・ブロック三階建倉庫(三三七平方メートル余)を設け、次いで大正十三年には六二、二〇〇円の総工費で中村式鉄筋コンクリート・ブロック三階建倉庫(九五二平方メートル)その他を建築し、更に昭和二年には、一一五、六六〇円を投じて鉄筋コンクリート三階建事務所(一、〇四五平方メートル)を建造した。

 出版部は多年に亘り健全財政を誇ってきたが、右の事務所建築のために初めて借入を余儀なくされ、やがて不況の悪影響が加わって、昭和六年三月の決算では四九五円二九銭の赤字を初めて出し、市島退陣の時期には、負債は二十四、五万円に達し、昭和七年には総人員も六十五名に減少を余儀なくされ、黄金時代は去ったのであった。市島は出版部がその繁栄を維持できなかった主因として、株式会社に改組後も匿名組合時代の精神的残滓を払拭することができず、高田の要請に従って「種々の名目で学校のために出金することも多〔く〕……株式会社としては不似合の事も少からずあって放漫に流れたことは事実である」(『惜陰耄録』一)と告白している。

 尤も、最盛期の出版部でも、失敗の苦い経験を味わわされた事業がないわけではなかった。学苑の学生全般に利便を与えようとして開始されながら、その前途に見切りをつけて早期に撤退を決断することにより、損害を最小限度にとどめたものに、大正十年、今日の正門の筋向いに当る牛込区早稲田鶴巻町四百四十番地の家屋を買収し、十月二日に開店した代理部があった。種村は、

学生の必需品を仕入れて廉価に供給したならば、校内生の為にも校外生の為にも便利であらうし、経営の上からも有利であらうと考へたのが、代理部経営の原因である。

と記しているが、銀座伊東屋の前支配人野島常次郎を顧問とし、通信販売を学ぶこと在米七年に及んだ鈴木富蔵を主任として発足した代理部は、書籍、文房具、運動具、雑貨等多種の品目を取り扱ったけれども、予期の成績を上げるに至らず、奇しくも関東大震災の日より、代理部開設の首唱者小久江成一を無限責任社員とする資本金四五、〇○○円の合資会社を組織して、出版部より分離、背水の陣を張って業績向上に努めることになった。しかし、小久江の必死の努力を以てしても、結局、代理部は武士の商法の域を越えることができず、大正十四年三月、丸善株式会社と特約店契約を結び、翌十五年十月には、出版部は代理部の家屋を一八、〇○〇円で、また代理部は店舗の営業権ならびに商品、什器、造作等、を一四、〇〇〇円で丸善株式会社に譲渡し、以後昭和二十年五月の空襲により焼失するまで丸善早稲田出張所として営業が継承されることになったのである。市島は大正十二年に、

折角起した事業を中絶するなどは大なる失態で、附近の商家の嘲笑を博するばかりか、之れを中止するとありては、今後出版部の新事業を経営する妨げともなる。是非ともやり出したことはやり遂げねばならぬ。 (『小精廬雑載』七)

と記したが、両三年の後君子豹変したのは、寧ろ賢明であったと言うべきであろう。

 もう一度市島謙吉の『惜陰耄録』一より引用すれば、

出版部事業の中堅は勿論講義録であるが其の最盛の時と最悪の時はどうかと見ると左の如くである。

最盛時 大正十三年十月より同十四年三月に至る 売上高金四十六万四千五百円

最悪時 昭和六年十月より同七年三月に至る 売上高金十六万八千六百四十六円

其差金三十万五千五百円

但し最悪時に於ても各科多少の利益あり。全体に於て損失なし。最盛時には中学講義のみにて金十万円内外の利益を生じたることあり。

 市島は出版部の経営者としての立場から、講義録の売上高の数字を示しているが、講義録は学苑が我が国においてその先覚者たることを誇る校外教育中の通信教育の手段であり、その購読者を校外生として種々の便宜を提供してきたことは、前巻ならびに前々巻に詳述した如くである。明治二十三年以降大正八年に至る各科別校外生の数的増加については、第一巻一〇二九―一〇三〇頁および第二巻一一八二頁に表示したところであるが、大正九年以後同十二年まではそれ以前と同じく「大学報告」に記載されており、それによれば、大正十二年の校外生総数は一三六、二二〇名と最高記録を示し、その中で最多数を占めているのは中学科の五七、一八〇名である。

 なお、『中学講義』以外に、『高等女学講義』が大正十一年に創刊されたことは八〇〇―八〇一頁に後述するが、その第一年度の受講者は一七、八一〇名、その後その数は更に増加を見せたのであった。また、昭和に入ってからは、『電気工学講義』(昭和二年十二月創刊)、『電気工学予科講義』(昭和三年十月創刊、五年に『最新電気講義』と、六年に『電気工学予備講義』と改称)、『建築講義』(昭和四年十月創刊)が、前二者は山本忠興を、後者は内藤多仲・伊東忠太・佐藤功一を監修者として発足した。学苑の理工学部の整備に伴い、校外教育にも進出するに至ったのは慶賀すべきであったが、そのため雇用人員が膨脹するとともに、校正室の新設なども行われた結果、出版部の財政負担が大きくなったことも否定できなかった。

 なおこの時期の出版部の事業として忘れることのできないものに、中等学校教科書の編纂・出版がある。高田早苗は中等教科書の教育上の重要性と事業としての収益性に着目し、その編纂に周到な準備を行わせていたところ、企画が漸く結実し、昭和四年十二月十六日には五十嵐力編纂『純正国語読本』全十巻、同六年一月九日には伊地知純正編纂『スプリング・リーダー』全五巻、同年十二月十六日には牧野謙次郎編纂『模範漢文選』全四巻に検定認可が与えられた。これら三種類の教科書の質的優秀性は識者の三嘆するところであり、出版部の名を高からしめたが、中等教育界に活躍中の学苑出身者の数は多くなく、採用数は予期を下回り、出版部の収支面への貢献を誇ることはできなかった。

三 校外教育の推移

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 明治四十二年に校外教育部が学苑に設置された際には、巡回教育と通信教育とが学苑の校外教育であると規定しながら、校外教育部は専ら巡回教育を担当するものであることがその規則によって知り得られる(第二巻 四九八頁参照)が、この点は例えば明治四十三年以降の『早稲田大学規則便覧』中に、

校外教育部。 遠隔ノ地ニアリ若クハ一定ノ職業ヲ有シ親ク登校シテ聴講スル能ハサル者ノ為メ本部ヲ設ケ各地講習会ノ聘ニ応シテ講師ヲ特派シ五日間乃至十日間或ハ政治、経済、法律、文学、商業、理工ノ一般的講座ヲ編制シ或ハ各地ノ情況ニ拠リ其内一、二科目ニ就テ特殊ノ講座ヲ組織シ以テ大学教育ノ効果ヲ普及セシメントス

と記されていることにより、一層明白にされている。しかし、実際問題としては、校外教育部は出版部内に事務所が置かれ、出版部の編集長である青柳篤恒を幹事(大正十一年より部長)として運営されたのであるから、講義録とは不即不離の関係にあったと見ることができよう。大正年間の毎年の「大学報告」には、校外教育部の活発な足跡が記録されているのが例であるが、そのすべてを掲げることは繁雑に過ぎるので、ここには、試みに、関東大震災の前年、大正十一年の中央および地方の講習会の開催状況を記すにとどめよう。

中央夏期講習会〈第一高等学院〉(七月二一―三〇日)

一、優生学と結婚制度 東京府立第一高等女学校長 市川源三

二、生活改善の諸問題 帆足理一郎

三、国民主義と国際主義 法学博士 岡実

四、近代文学に現れたる婦人問題 本大学教授 横山有策

五、道徳と経済の調和 第一生命保険相互会社々長 矢野恒太

六、法律に於ける具体的妥当性 法学博士 牧野英一

七、支那史上の社会政策 本大学講師 清水泰次

地方講習会(開催予定)

⑴ 高知県高岡郡教育会主催(七月二九―三一日)

演題未定 本大学教授 志賀重昻

⑵ 青森市十日会主催(八月一―五日)

一、家族制度の延長

二、巨石文化日本

三、人類の進化

本大学講師 西村真次

⑶ 京都府何鹿郡教育会主催(八月三―七日)

近世社会思想史論 本大学教授 北沢新次郎

⑷ 山口県女子師範学校主催(八月中旬)

極東外交を中心とせる列強大勢 本大学教授 青柳篤恒

⑸ 埼玉県入間郡教育会主催(八月四―五日)

大戦後の世界文化の趨勢 本大学教授 内ヶ崎作三郎

教育の革新 本大学講師 帆足理一郎

⑹ 福井県大野郡教育会主催(八月五―九日)

文章論 本大学教授 五十嵐力

⑺ 岡山県浅口郡教友会主催(八月七―八日)

演題未定 本大学教授 内ヶ崎作三郎

⑻ 朝鮮大邱府朝鮮民報社主催(八月七―九日)

教育の革新 本大学講師 帆足理一郎

⑼ 鳥取県西伯郡教育会主催(八月一三―一五日)

現今の思想問題(その本質及び価値) 本大学教授 杉森孝次郎

⑽ 鳥取県八頭郡教育会主催(八月一六―一八日)

現今社会問題の原則的考察 本大学教授 杉森孝次郎

⑾ 宇都宮市野州新聞社主催(日光夏期大学八月二〇日)

地方自治政策 本大学教授 高橋清吾

⑿ 広島県山県郡小学校教員年次練習会主催(八月二三―二七日)

演題未定 本大学教授 内ヶ崎作三郎

⒀ 秋田県鹿角郡教育会主催(八月二六―三一日)

社会倫理の基礎 本大学教授 大山郁夫

現今社会問題の原則的考察 本大学教授 杉森孝次郎

 大正後期における中央および地方講習会の開催の情況は、毎年ほぼ同様であったが、大正十四年には地方講習会の開催は七ヵ所に減少している。大正十五年以後は、その理由は明らかでないが、それらの記事は『早稲田学報』から姿を消している。しかし、たとい盛時に比べて数は減少したにせよ、昭和に入ってもなお引続き実施されていたことは、『早稲田大学新聞』昭和五年七月三日号の左の記事により明らかである。

財界を風靡した不況風は余力をかつて文教界をも席巻せんとする猖獗振りだが、お陰で吾が学園校外教育部の本年度の不振は空前の甚だしさである。高田総長の創意――大学の民衆化、機会均等主義によつて斯界の嚆矢となり、多大の貢献を致した明治末年以来連綿二十年の歴史を有する同部も根強い時代のバツクをもつた不景気風の猛威の前には敵すべくもな〔かつた〕。