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第六編 大学令下の早稲田大学

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第二十二章 スポーツ王国の実現

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 本書第二巻第四編第十九章ならびに第五編第二十章において体育各部の活動状況を記したが、本巻においては、本章三ならびに第七編第十四章に、大正七年から昭和二十年までの体育各部の活躍振りを述べることにした。しかし、それのみではいささか不十分の感を免れない。というのは、織田幹雄らオリンピックのメダリストを輩出したのに見られる如く、この時期、早稲田スポーツはその全盛期を迎え、また、野球部にあっては、明治三十九年以来中止されていた早慶戦が復活されるなど、一個の画期が到来したからである。従って本章において、オリンピックにおける学苑選手の大活躍ならびに野球部につき、それぞれ一節を設けて詳述することにしよう。

一 オリンピックと学苑

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 早稲田大学はオリンピック競技に対して、どこの大学よりも顕著な功績を残している。そもそも、ヨーロッパ人の体格を標準にして競技法を決めたので、日本人ではオリンピックに入賞は困難であり、まして金メダルを獲得するのは不可能に近いと考えられがちであった。それを破って、昭和三年の第九回のアムステルダム大会で、商学部一年織田幹雄は三段跳で優勝して、東洋人で初の金メダルを獲得し、主柱に日章旗を揚げ、国歌が吹奏せられ、また商学部二年高石勝男も水泳一〇〇メートル自由形に三位に入賞し、更に水泳八〇〇メートル・リレーでも高石を主とするチームが二位を得て、傍柱ではあっても日章旗を揚げたのはまさに快事であった。爾来、いつのオリンピック大会でも、日本人の優勝の難しさを憂うるものはもはやなく、今や寧ろ何個の金また銀、銅のメダルを獲得するかが問題になるようになったのは、実に早稲田大学選手が先鞭をつけたのだと、誇りと自信とを以て言い得る。

 ただに実際の競技ばかりではない。その前奏曲をなすオリンピック紹介の文献においても、先鞭をつけたのは早稲田の校友である。しかしそれを述べる前に、日本とオリンピックとの不思議な因縁から述べてかかる必要を覚える。

 遡って明治二十四年、ロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィッチが、甥なるギリシアのジョルジュ親王とともに来遊して、奇禍にあった時から、実は日本はまだ形もなさぬオリンピックの因縁にまつわってくる。あの時一刀を額に受けて、ニコライ皇太子が車上から転落した時、犯人の津田三蔵が馳せ寄って更に止めを刺そうとしたのを、警備の警官も軍隊も、咄嗟の事に度を失って遮る者がない。まさに危機一髪の瞬間、後の車に乗っていたギリシア親王が飛び降りて、京都の勧工場で買った竹の杖で兇漢を打ち倒し、それから初めて我が警備陣が気付いて駆け寄って津田を取り押さえた。もし親王のこの機転の処置がなかったら、ロシア皇太子はこの時生涯を閉じ、さなきだに問題の多かった日露関係は紛糾して重大事態を招いたに違いない。明治天皇は、これまさに救国の大恩人として感謝し、愛蔵していた馬の等身像をはじめ、数々の品を贈った。この時ギリシア親王は二十一歳の青年ながら、白刃を手にして荒れ狂う兇漢を恐れず立ち向った。その勇気は内外の賞讃するところとなって、他日必ず成すあると期待せぬ者はなかった。

 それから五年、日清戦争終結の翌一八九六(明治二十九)年、アテネで第一回オリンピック大会が開かれ、ジョルジュ皇帝が総裁、ジョルジュ親王が審判長で、すべて大会の進行を宰領して、一糸乱れぬ美事さであった。ギリシアは本来スポーツの国と言われながら、この時各競技種目の金メダルはすべてアメリカその他外国勢に占められ、最も望みを懸けた円盤投げもまたアメリカに及ばず、彼らが平日の練習ぶりを聞いて、それはアマチュアではないとケチをつける声が高かった。しかるにこの大会の華なるマラソンとなると、その岩道に欧米の選手はみな参って遅れた中に、ギリシアの羊飼いルイスは毎日この路を歩いているので、馴れきった足取りで悠々と優勝した。ジョルジュ親王は喜びのあまり審判長席を飛び降りて、コースの最後をルイスと一緒に力走して、その天晴れな振舞に大会はやんやの喊声と賞讃でどよめいた。この親王の名はどのオリンピック史にもジョルジュ親王とあり、日本に来遊したのもそのジョルジュ親王だから、或いは大津事件の恩人と同一人ではないかという連想が起る。しかしこの興味ある疑問は謎のままに持ち越され、何人も解こうとする者がなかった。

 事件から六十六年たってピエール・ジョルジュは死亡し、更に三年たってその妃マリー・ボナパルト・ジョルジュが大津に来遊して、滋賀県当局を煩わして大津事件の遺物を縦覧したとき、P・Gと縫い取りのある血染めのハンカチを見て、自分の結婚前のことで、話にのみ聞いていた事実の証拠を目の当りにして、ひどく感動した。彼女はその後東京に向い(昭和三十五年四月二十七日)帝国ホテルに止宿したのを、早稲田大学明治文化研究グループが知り、代表が親しく訪ねて、第一回オリンピック大会を宰領運営したのは、日本に来遊したジョルジュ親王(ピエール)に間違いないことを確認した。ナポレオン家の直統である妃はその時はまだ結婚せず、パリの女学生だったが、よく話に聞いていて、知っていると言った。

 オリンピックについては、第一回開催の前後から一、二の雑誌にその簡単な報道が散見され、『少年世界』(明治二十九年八月発行第二巻第一六号)にはその情景の銅版画まで載っている。しかし日本全体から言えば、全く無関心・無知であって、特に反応と見らるべきものは発見できない。

 四年を経て世は一九〇〇年となったので、逝く十九世紀を送り、来たる二十世紀を迎える意味で、今度はヨーーロッパの中心のパリで、万国博覧会が開かれるとともに第二回のオリンピック大会が郊外のボア・ド・ブーローニュに開催せられた。しかし当時滞仏中の多くの文化人、例えば竹越三叉も、姉崎嘲風も、酒井雄三郎も、その通信を見るに、全くこの催しに気付いておらず、大橋乙羽は「欧米見聞録」で「ボアードブーロンの公園に遊びぬ」と当地までは行っている(『太陽』明治三十三年十一月発行 第六巻第一四号 一〇四頁)が、オリンピックのオの字にも気付いていない。ただ政府の発行した『千九百年巴里万国博覧会・臨時博覧会事務報告』に、「七月十五日及ビ二十二日ニハ世界ノチャンピオン並ビニ嗜好家ノ徒歩競走アリ」(『明治文化資料叢書』第一〇巻 三八四頁)の一句が見えるのみである。

 そのように幼稚な、無知識の状態だったが、三年後の明治三十六年十一月発行の『中学世界』(第六巻第一四号)には「体育界の偉人クベルタン」なる評伝が現れ、『ラ・ルヴュ・オランピック』などをクーベルタンが創始した功績を述べ、彼が信条とした「アマチュアリズム」の訳語には窮して「娯楽的競技」としている。これこそオリンピックについて羽翼悉くを伝えた日本最初の文献で、筆者は人物評論の第一人者鳥谷部銑太郎、すなわち東京専門学校英語普通科卒業生(明二三)である。かくて早稲田は先ず、その記事において、メイン・マストに日章旗を掲げたほどの顕著な功績を残した。

 第三回大会は明治三十七年アメリカのセント・ルイスで開かれたが、依然、日本は関心がなく、正式競技の他に「人類学的競技デー」という催しがあり、日本からはアイヌ人が参加しているのに、我が報告書に記述を欠く。

 しかしながらオリンピックは招く。日露戦争勝利の翌明治三十九年二月発行の雑誌『体育』(第一四七号)に次の記事を見出す。

万国体育聯合常設委員クリサフイス(Chrissaphis)先生のすすめに依り、来る一九〇六年四月二十二日より同年五月二日迄パナテイク競走所にて催す亜典Jeux Olympiquesに日本国の武術及体操家の協同出席の為め委員会を創立致さるる様、尊殿に希臘S、A、R、親王殿下より御依頼これあり候につき、小生より通知仕候て筋書一冊送付致候。就ては前記の任を御承諾の上御選定相成候上は人名簿御伝送奉願上候。先はJeux Olympiques委員会長S、A、R、親王殿下の御命令に依り一書を呈す。何卒予等の意を御嘉納下され度候也。

一九〇五年十一月二十四日 亜典にて 秘書官 SPYR. P. Lambros

万国体育常設委員・警視庁第三部長・日本体育会監事 山根〔正次〕ドクトル殿 (四七―四八頁)

これは明治三十九年アテネで開催された中間大会への参加を促す招待状である。恐らく、日露戦争の勝利により初めて日本の存在に目を留め、呼び掛けてきたのであろう。これ、日本がオリンピックへの招待を受けた初めである。しかし日本がどう反応したのか、記録の探るべき物が何一つ残っていない。

 明治四十一年の第四回ロンドン大会になると、日本は正確にオリンピックを把握する段階に漸く達している。すなわち同年九月発行の『冒険世界』(第一巻第九号)にアメリカから送られた「オリンピヤン大競技」なる一文は、

世界に於ける運動家の粋を蒐めたる第四回オリンピヤン大競技は、去る七月十四日より十日間英京ロンドンの近郊シエパード・ブツシユに於て開催せられた。……流石は運動好きの亜米利加丈けあつて、当場選手の総数五百十三人とは莫迦に出たものだ。御祭好きの仏蘭西も負けぬ気で二百十九人を送り、北欧尚武の国として気位高き瑞典よりは百六十九人の選手が繰込んで来た。而も其総督としては皇太子自ら運動服を着用して競技場に立ち、楽隊の真先きに濶歩して選手の士気を鼓舞したと云ふに至つては、彼等が吐牛の意気も大方察せられるではないか。大競技の第一日には英国皇帝エドワード陛下及び女皇アレキサンドリヤ、皇女ヴイクトリヤ殿下を初めとして、宮中の高官悉く御陪従を仰せ付けられ、白紗金簪花の如くスタンドを満した。煙花一発轟然として鳴り渡るや、数十の音楽隊を従へたる各国の選手は、各自の国旗を真先に飜えして場内に進み入り、数万の観客が拍手に連れて両陛下の前を通過し、直ちに競技の序幕を開いた。 (一一七頁)

とその状況を書いている。そして、

第五回のオリンピヤン競技は何国で開催せらるるであらうか未定の問題ではあるが、新進気鋭の日本国民が之の盛典に参加して、天晴日東男子の技量を世界に示すの時機は決して遠い将来ではあるまい。現に四十五年の大博覧会などに此種の大競技を結び付けて、世界の人気を惹くのは頗る当を得た計画ではあるまいか。 (一一八頁)

と、選手派遣の可能性ばかりか、オリンピック日本招致の夢まで説いている。スポーツの玄人の筆と思われるが、それもその筈、早慶野球戦のヒーローで早稲田の主将だった橋戸信が、卒業後カリフォルニアに渡り、農業労働に従事しながら勉強中に送った通信である。ここにおいてまた早稲田はオリンピックに関し、飛躍的貢献をしたことになる。橋戸は、肝腎のロンドン大会の実況は見ていないが、慶応義塾出身の高石真五郎が、大阪毎日新聞社特派員としてロンドンに駐在し、マラソンを見て壮快禁ずる能わず、帰国後翌四十二年三月、神戸から大阪までのマラソンを大阪毎日新聞社主催で挙行した。これ、オリンピックの一部をまねた競技が日本で実施された最初である。これで見ても、日本のオリンピック前史は早稲田、慶応の両大学出身者によって開拓の緒についていることは、争われない。

 以上を我が国との関連におけるオリンピック前史とする。その本史は明治四十三年から始まると見るべきであろう。フランスの駐日大使ジェラールから、日本もオリンピックに参加してはどうかとの勧誘が、嘉納治五郎に対してあった。古来の柔術を柔道に昇華させた嘉納をその方の代表と見たのであろう。しかし彼は、洋式スポーツについては知識を持たないので、安部磯雄に相談した。安部はアメリカ留学中ハートフォード神学校においてテニスのビッグ・ファイヴの一人であり、帰来後、母校の同志社でボート部長を務め、早稲田に転じて、庭球部、野球部の部長、更には体育部全体の部長も経験したので、各般の事情に詳しかったからである。そして大日本体育協会の誕生が明治四十四年の七月である。羽田の運動場で十三種の競技を行い、短距離の三島弥彦(東京帝国大学)とマラソンの金栗四三(東京高等師範学校)の二人が選ばれて、翌年ストックホルムで開かれた第五回大会に派遣せられたが、三島は予選であきらめ、金栗はマラソン・コース途中で調子を崩し落伍した。

 第六回大会はベルリンに予定されていたが、第一次世界大戦のために流れ、平和回復後、ベルギーが小国ながら大戦中けなげな行動を執ったのを慰藉するため、第七回大会が大正九年にアントワープで開催された。日本は役員・監督等三名、選手十五名を送った。早稲田からは卒業生三浦弥平(大八専政)がマラソンに出場したが、健闘空しく二四位に終った。

 大正十三年の第八回パリ大会で早稲田勢は初めて鋒鋩を現した。水上では、第一高等学院一年生の高石勝男が自由形の一〇〇メートルと一五〇〇メートルで五位を占めて計四点を稼ぎ、高石を主力とする八〇〇メートル・リレーでは四位に入り三点を取った。陸上では、広島第一中学校出身で後に早稲田に入学した織田幹雄が三段跳で六位に入って貴重な一点を稼いだ。更に、渡米中の内藤克俊がレスリングのフリー・スタイル、フェザー級で銅メダルを獲得し、水上一〇〇メートル背泳で立教の斎藤巍洋が六位となった。この大会における日本の総得点は一三点で、そのうち七点までは正しく早稲田の功績である。なお、選手団帰国後、学苑では九月二十日高石選手歓迎会が、翌二十一日には高石の歓迎を兼ねた水泳部祝勝会が開かれたが、この席上高石の功績を記念する早稲田プールの建設が提案された。このプールは大正十四年十月に完成し、「高石記念プール」(現在、文学部構内)と呼ばれるようになった。

 第九回大会は、昭和三年、アムステルダムで開かれた。大戦中オランダが最後まで中立を堅持してドイツに誘われず、終戦後平和の促進回復に努力した功に報いる意味からであった。日本からの参加選手は四十三名。日本もスポーツに対し呉下の旧阿蒙でなく、オランダから最も遠い距離に離れながら、この大選手団を組織・派遣した。しかし日本に全く優勝の望みなしとはロンドン『タイムズ』も予報したところであり、オランダ駐在の日本大使館でも「また負けに来るのだろう」と準備に冷淡を極めて、漸く北に離れたザーンダムという田舎町に用意した選手の宿舎にも皆に宛てるだけの寝台の数がなく、床敷に毛布をのべて寝て、明日出場する選手のみが辛うじて寝台に眠るという状態であった。ただ人見絹枝のみは有望で、男子選手は女子に頭が上がらないと言う向きもあった。しかし役員の一人であった山本忠興(理工学部長)は希望を捨てず、もし優勝した選手があったら日章旗を肩からかけて包んで祝ってやろうと考えて、特別に大きな寸法の旗をひそかに携行していた。

 七月二十八日開会。そして八月二日である。この日、陸上女子八〇〇メートルがあり、人見絹枝は一等と自他共に望みを懸けていたのに、肩一つの差で二位に落ちて、これで日本が金メダル獲得の望みは途絶えたかと見えた。やがて男子の三段跳が始まる。商学部一年織田幹雄、専門部商科三年南部忠平は、不幸にも決勝ではファウルばかりであったが、予選で織田が一五メートル二一、南部が一五メートル〇一を出していたので、遂に第一位の栄冠が織田の頭上に輝いたのである。メイン・マストには規制寸法外の大きな旗がひらめき揚がったのだが、その経緯は次の如くだった。

山本は、日本が優勝したら一つ華やかに喜ぼうと企て、特大の日の丸を人見絹枝に預け、「万一織田幹雄が優勝したら日の丸で彼の体を包んでくれ。そうすればスタンドの日本人達が多勢走つて来て彼を舁いで一周するから」と言つた。オリンピツクの優勝者を同じ国の人人が胴上げして練り歩くと言う習慣は前からあつた。山本は是非それをして見たかつたのだ。人見絹枝は、自分が持つて居ても仕方がないというわけで、南部忠平に手渡しした。わけを言つて渡したのだが、昻奮して居る南部は上の空でそれを受け取つた。いよいよ織田は優勝したのだが、南部は日の丸をどうすればよいのか判らない。それでそれを国旗掲揚場に持つて行つた。君ケ代の国歌につれてするする昇つたのは、山本の持参した並外れて大きな国旗だつた。

(『山本忠興伝』 二〇二―二〇三頁)

また国歌の吹奏に楽隊は「君が代」が初めてなので、「さざれ石」から吹奏して、日本人見物客を呆気にとらせたが、満場の観衆は矮小な体軀の日本人の優勝に惜しみない拍手を送った。南部も四位に入賞し、今後に期待をかけしめた。まるで早稲田デーだった。

 水泳の商学部二年高石勝男は、この時既に世界に聞えた名選手で、彼の活躍には大いに期待がかけられていたのに、一〇〇メートル自由形で三位に落ちたのは寧ろ番狂わせで意外だったが、その代り八〇〇メーートル・リレーでは、第一高等学院二年米山弘、専門部政治経済科二年新井信男、佐田徳平(明治大学)に高石勝男が最後の締め括りをして二位を占めた。一〇〇メートル背泳に四位に入った入江稔夫は、この時はまだ茨木中学校の生徒だったが、のち、早稲田水泳部に入った。また、アムステルダム大会に先立つ昭和三年二月にスイスのサン・モリッツで第二回冬季大会が開かれ、日本から初めてスキー選手が出場した。成績はいずれも良くはなかったが、後述(五四四―五四五頁)の如く、派遣選手六名中、商学部二年竹節作太、高橋昻(大一五商)ら早稲田の学生・OBが五名を占めた。

 アメリカは、第一次大戦後、平和が回復するとすぐオリンピックを開催したいとの意向を示したが、なにしろ遠隔の地で、戦争に疲弊困憊したヨーロッパ諸国には多数の選手を送れぬ心配があって、どこの国も乗り気でなかった。実際に、戦後十四年も経過した昭和七年ロサンゼルスで開かれた第十回大会でさえ、参加国や選手数は意外に少かった。しかし日本にとっては、太平洋を隔てる対岸の地だから、遠いヨーロッパへ遠征するのと違い、有望な選手は例外なく、殆ど皆派遣し得る便宜がある。参加はすべてで三十八ヵ国、選手千四百八人、女子参加は十七ヵ国、百二十七人。そのうち日本選手は男子百十五人、女子十六人であった。これを、かつてストックホルム大会に僅か二人しか送れなかったのに比すれば、二十年の間に何という長足の進歩を見たものか。しかもアメリカが誇る水泳王国の自信に一敗を喫せしむる期待が、日本の水泳陣にかけられていた。カリフォルニアでの西部農業の発達と沿岸漁業との大半は日本人の功に負うという自信を持っている日本移民は、祖国から日本人が来て、アメリカ人の鼻をあかしてくれるぞとの期待に、手に手に日章旗を打ち振って熱狂的な応援をした。殊にカリフォルニアの早稲田大学校友会は、日露戦争の時の野球団の渡米以来順調な団結・発達を示し、今度派遣せられてくる選手団の、主力とまではいかぬが最大多数の、そして最も有望な選手を構成している母校の学生を迎える興奮と緊張とが、在米同胞全体に波及して応援の気勢をいよいよ盛り上げた。早稲田派遣の入賞者を左に示そう。

南部は、前回も三段跳で好記録を示し、織田に伯仲する伎倆の持主であったが、この日一五メートル七二の世界新記録で遂に宿願の金メダルをかち得て、在米同胞の鼻を高くさせた。各国のメダル数を表示すれば、一〇位まで左の通りである。

すなわち日本は、参加出場五回にしてビッグ・ファイヴに加わるという格段の進出で、七個の金メダルを獲得したが、そのうち一個と四分の一は早稲田勢によっていたのである。

 ロサンゼルス大会が開かれた昭和七年の二月、アメリカのレーク・プラシッドで第三回冬季大会が開催された。サン・モリッツ大会と比べて、日本からの派遣選手団員数は大幅に増加し、スキーは監督・選手十二名、スケートは十名であった。早稲田勢は専門部商科三年スキー選手坪川武光ら四名が参加したが、成績は、一八キロと複合で坪川がそれぞれ一五位となったのが最高で、いずれも振わなかった。

 昭和十一年の第十一回大会をベルリンで開くことは既に昭和六年のオリンピック委員会で決定していたのだが、ヒトラーが参加を決定すると、画期的な速さで準備を遂行し、総統の号令一下、ベルリンの中心部から地下鉄で十五分、一三二アールの面積に十万人の観衆を収容する壮麗な設備を作った。宿舎も、アメリカがオリンピック村を新設したのに倣い、競技場から一四キロ離れた森の近くに壮麗な平家建百五十戸を作り、大会後も恒久的に生かして使用した。学苑からは役員六名、選手四十七名の多数が派遣され、殊に初出場のア式蹴球は団長、コーチを含む十二名の学苑選手が主体で、強豪スウェーデンに苦杯を喫せしめるという偉功を挙げはしたが、日本選手が実に六個の金メダルを得たのに、早稲田勢が左の入賞しか挙げられなかったのは、遺憾であった。

しかし一面から言えば、心慰むものがなかったわけではない。実にオリンピックに備えての選手強化のため、昭和六年に学苑を出た織田幹雄とその助手は陸上競技に、昭和五年に卒業した高石勝男とその助手は水上競技に、日本全国を熱心にコーチして回って、優秀選手の発見・育成に努力したればこそ、その弟子たちが好成績を収めたので、まさに「栄光は早稲田より」と言っても多くの支障はない。大正九年、野球部長安部磯雄は、早稲田チームのために招いたアメリカ人コーチが非常に優秀なる結果を挙げたので、宿敵慶応にも同じくコーチを受けるように勧めたが、自チームの独占的強化よりも、友校も、否全日本を強くしたいとの念願が、早稲田スピリットというものだ。

 第四回冬季大会は、昭和十一年二月ドイツ南端バイエルンのガルミッシュ・パルテンキルヘンで開催された。ヒトラーは、ベルリン大会と同じように、これにも多大の力を注いで、競技場を建設した。早稲田勢は役員・選手九名を派遣したが、その一人専門部法律科二年石原省三は、スピード・スケート五〇〇メートルで四四秒一の日本新記録を出して、日本の冬季大会参加史上初めて四位に入賞した。

 第十二回大会は、「建国二千六百年」を飾るため、昭和十五年、東京に開催せられることになっていたが、日中戦争拡大によって返上を申し出て、更に続く第二次世界大戦で暫く中絶となった。

二 早慶野球戦の復活前後

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 大正九年、シカゴ大学が三回目の来日をなし、早稲田は二勝四敗一分の戦績ながらこの強豪に初勝利を記録した。そして学苑野球部には、このシカゴ大学の来日とともに語らねばならぬ重大変化が起っていた。それは、大正八年十二月下旬より行われた奈良冬期練習から初めて専任監督を置くことになり、飛田忠順(穂洲、大二専法)が就任したことである。それまで早稲田には決まった監督はなかった。野球部費は選手の持寄りその他で辛うじて賄っていたのだから、専任監督を置こうにも月給の出所がない。そこで手のあいている先輩が、交代で運動場に来て、ノックするので、一定の方針も秩序もなかった。初期の早慶戦の名投手河野安通志(明四〇大商)が、高等予科で簿記の講師をしていた数年は、授業が終るとグラウンドに来て指導するので、この間は専任監督がいた形だったが、河野が「早稲田騒動」で学校を辞職すると、後釜がなく、今更のように専任監督の必要が感ぜられた。

 安部磯雄部長と押川清先輩(明四〇専法)が折々協議していたが、問題は月給の捻出方法である。最低限月五十円は出さぬと来手がない。この頃では物価が騰貴して、五十円は学校出たての新任サラリーマンでも最低である。それさえ当てがないので、卒業生で組織している稲門倶楽部から会費を徴収する案を相談してみると、幸い皆の賛成を得た。そこで、低報酬でも来てくれそうな旧選手を物色していると、飛田忠順が「それを僕にやらしてくれんだろうか」と志願してきた。彼は在学中は報知新聞社、卒業後読売新聞社などの記者をして、安定したサラリーマンだったのである。「だって君、報酬が今の月給の三分の二ぐらいに減るぜ」と押川が注意しても、「それは覚悟の前だ」と言う。「妻君にもよく相談せねば苦情が出るよ」と更に念を押したが、飛田は「その方は任せておけ」と言うので、それを断る理由はない。

 しかしそう決めたと報告すると、最古参の橋戸信(頑鉄、明三九大文)が、「飛田君か」と頭を傾けて、二つ返事で快諾はしなかった。明治四十三年シカゴ大学野球団が来日した時の早稲田チームのキャプテンが飛田だった。この時早稲田は一切の試合に惨めな敗北を蒙ったのだ。慶応は小山万吉、菅瀬一馬の二投手を擁して、同じ負けでも四分六には戦って名声を持続したのに比して、早稲田は大井斉(大二大商)、伊勢田剛(明四四大商)、深堀政信(明四五大商)、飛田などの済々たる名選手を擁しながら、「赤児の如く」(『早稲田大学野球部五十年史』一〇〇頁)惨敗したばかりか、関西で行われた試合の帰りに第三高等学校にも負け、愛知第一中学校にまで一敗するに及んで、早稲田びいきの好球家(この頃から世間一般のファンの七割まではそうであったと言われる)は黙っておらず、憤慨し、怒号し、冷嘲して、その責任が問われるに及んで、キャプテン飛田は勿論、伊勢田や小川重吉(明四四大商)などまで、退部せねばならぬ羽目になった経緯がある。そこで飛田と言えば、一般世間の早稲田びいきの中に幾らか悪い印象が残っており、橋戸も飛田の専任監督就任を芳しいとは受け取らなかったのである。しかし就任してみると、そうしたことは杞憂で、従来のフェア・プレーを信条とした安部野球に出身地の水戸学の精神を交えて、学生野球を単なる技術上に止まらず、武道と同じく、根性を鍛え魂を修錬する道場に作り直した。それと言うのも、飛田が特に収入の激減をも意とせずこの任に就いたのは、自分の養成した選手を率いて、いずれの日にか宿敵シカゴ大学チームに一矢を報い、往年の屈辱を雪がんと心ひそかに念願したのが、主動機であったからである。

 飛田野球は約一年間のコーチで実り、大正十年には、慶応に比していささか久しく南風競わぬ観のあった早稲田に黄金時代を招来し、その新鋭チームをひっさげて渡米した。

 先ず招待主のシカゴ大学から、ノースウェスタン、パーデュー、バットラー、インディアナ、シカゴ(第二回戦)、イリノイ、サンガモと、五月十日から十三日間に八回の試合を敢行するという強行軍であったが、学生野球史上、稀代の名投手谷口五郎、名捕手久慈次郎(都市対抗野球大会の久慈賞として名を残す)のバッテリーに、のち日本で初めて本塁打王の名を博した田中勝雄など、さすがに黄金時代だけあって、明治三十八年の初渡米以来初めて互角以上の勝負を収め得た勢いに乗じ、五月二十四日ボストンに入って、実に多年宿望の東部の諸大学と初めて相見ゆるを得た。

 ハーヴァードとは、旅の疲れを休める暇もなく五月二十六日の初手合せに、共に好打、好守のシーソー・ゲームで、五対五の延長十回、敵は窮余の一策にホーム・スチールを試み、谷口投手僅かに投球を誤って、惜しいところで一点の負けとなった。この緊迫した面白さには、アメリカ諸新聞記者も、日本のカレッジ野球侮るべからずと声を揃えて驚歎の讃辞を送った。左に『ニューヨーク・タイムズ』の記事を掲げる。

彼等の守備は宛もメイヂァ・リーグのそれの如く水際立つている。打撃もハ大学の七に対し十の安打を放ち、殊に頭脳にあつては、米国第一流大学に比し、優るとも劣る処がない。殊に珍らしく感じたのは、サインを用いる事なしに、自由に其の国語を使用して、合図をなすチーム・プレーの鮮やかさである。 (『早稲田大学野球部五十年史』 一六八頁)

次いで二十七日エール大学と対戦し、谷口投手は四回まで完封したが、連日の疲労で後半乱れて、一対五の敗北を喫した。更にニューヨーク、ペンシルバニア両大学と戦い、シカゴに引き返して、第三回戦の後、デトロイト、アルビオン、オベリン、ウィルバーフォース諸大学と戦って、ミシガンに足を伸ばした。

 ミシガン大学は、前々年と前年と、二年続けざまに十大学戦のペナントを得た優勝大学である。二回手合せをして、第一回戦は有田富士夫、谷口の継投で一対二で敗れたものの、これなら勝てるとの自信を得た。この大学を破ればアメリカ中部の王者に土をつけた記録が作れるので、第二回戦には初めから谷口を立てて必勝を期すると、敵もまたこの遠征日本軍の侮り難き実力を知ってリバランスを投手に立てての陣容を組んで対抗した。八回を終るも両軍得点なく、最終回に入って、敵はキャプテンで強打者のバンポベンに打順が回ってきて、谷口の第二球が肩から入ってくるのを無茶苦茶に振り回したのが幸運な左翼線上のホームランとなって、遂に長蛇を逸した。しかし、安打数早稲田四、敵五、走者を出すこと両軍各五、共に無失策、四球は敵が一、谷口は一つの四球も出さず、強打のミシガンから三振六を奪った。谷口一代の戦歴のなかでも最も輝やかしいものである。

 帰途はシアトルに向い、途中ワシントン大学と五回対戦をして二勝三敗。それは連日の疲れで早稲田は選手が手不足になったためもあるが、ワシントンは近年になき最強チームで、三人の同じ力倆を有する投手を持つ強みで、彼らの力倆はどれも谷口には及ばなかったものの、数を揃えている点が有利であった。

 大正十一年は、春のリーグ戦には明治、法政共に力を強化して、しばしば我が軍に肉迫したが、秋のリーグ戦では谷口の怪腕いよいよ冴え、また好打者を揃えて、陣容ますます充実し、初期早慶戦以来の黄金時代に入って、リーグ戦に全勝の成績を残した。すなわち全六試合に、総得点二九、敵に与えた点は僅かに五、そのうち法と明の第一回戦、立教大学の第二回戦は零敗せしめ、明、立は二回戦を通じて得点僅かに一、法はややよいと言っても三点に過ぎない。谷口の投手力によることながら、打も大いに揮い、田中はこのシーズン本塁打三を放つ記録を作って、初めてホームラン王の名を博した。

 なお大学野球ではないが、三田稲門戦に谷口は、史上に有名な逆ワインド・アップという手を新工夫した。投球前、腕を右から左へ回転さすのが普通であるのを、谷口は逆に左から右に回転して、法政第一回戦に使用して、この時は何の故障も出なかった。しかし十月一日行われた三田稲門第一回戦に用いると、ボークだとの抗議が申し出られたが、審判芦田公平はボークに非ずと判定して、ともかく無事に終了した。その後、ボーク説を主張する三田派は、言論戦を展開して、漸く谷口の人身攻撃に亘り、これには温厚な彼も腹に据えかねていた。十月九日第二回戦に当り、三田側からあらかじめその中止を申し込んできたが、人身攻撃に憤慨している谷口は断然拒否し、「審判者がボークと認むるならば知らず、ボークに非らざるものを廃止せよとの要求には応じ難い」(『早稲田大学野球部五十年史』二〇〇頁)として、対戦の始めからこれを使用した。たまたま高浜茂がバッターとして打席に入ると、谷口の方を向いて舌をぺロリと出し、しかめっ面をして侮蔑を示すという非紳士的な行動に出たので、若き谷口は興奮し、投じた球が高浜の内腹に当る死球となったから、高浜は真剣に怒り出し、谷口目がけてバットを投げつけた。谷口もまたこれに応じて、グラブを地面に叩きつけてベンチに引き揚げた。実に「不愉快な出来事」として永く球史に汚点を留めている。安部部長は、曲はいずれにあれ、非礼に非礼を以て報いるはスポーツ精神が許さぬ所として、直ちに谷口に十月一杯の謹慎を命じた。この問題は球界に大なる疑問を残し、たまたま大リーグの審判モリアリテイが来たので、安部部長は慶応の当事者の立ち合いを求めた上、規則上の解釈を説明してもらったところ、言下に「ボークにあらず」と答え、また「走者なき場合には如何なるワインドアップを用うるも自由なり」(同書 二〇一頁)と言ったので、事理明快、谷口の勝利となって、その後あれほど喧しかった非難者も矛をおさめた。それにしても、そういう問題になる手を工夫した一事だけでも、彼が不世出の投手であったことが分る。

 その谷口に匹敵する大投手が明治に登場した。湯浅禎夫である。大震災の前後に亘って早稲田が第二黄金時代を築いている時、明治はそれと対等の強チームを作って、再三に亘り早稲田の陣容を脅かし、三田の小野三千麿と谷口の投げ合いに代って、ここに谷口、湯浅の鉄腕くらべの時代が来て、好球児に固唾を呑ませた。

 前巻に述べた通り、早・慶・明・法の四大学リーグに、大正十二年立教が加盟し、更に十四年には帝大が加わって、ここに「東京六大学野球連盟」が成立した。これより以前、十三年春、明治と法政から、早慶不戦のリーグ戦でははたが迷惑を蒙るので早慶戦を復活せよとの強い要求があったが、慶応からは三度延期が要求された。慶応があくまで復活に反対した理由について、飛田は次のように言っている。

どうしてかう慶応が頑強であったかは、慶応方の当事者に告白して貰はなければ真相はわからないけれども、こんなに長引いたところから推せば此の中止申込みは応援問題ばかりではなかったに違ひない。応援問題なら五年か十年過ぎれば自然解消する筈ではないか、それを飽まで拒んだには何か他に理由があらう。……東京運動記者倶楽部のあっせんも、故嘉納治五郎氏の奔走もたうとう慶応には通じなく、サヂを投げられたまま二十年といふ月日が流れていった。

飛田穂洲『球道半世記』 二〇五二―〇六頁)

このように事態が一向に好転しないので、業を煮やした明治の野球部長内海弘蔵は、「我々は先輩ティムに敬意を表していままで我慢に我慢をしてゐたが、此の上なほも片輪リーグを存続するわけにはいかぬから、此の問題は一応打切り、早慶両ティムを除いた三ティム……で協議したいから遠慮してほしい」(同書 二一四頁)と提案し、ここにリーグは解散の瀬戸際に立たされた。慶応からは、加盟せずとも新リーグとの試合はできるかとの質問があり、内海はそれは絶対不可能と答えたため、慶応は絶体絶命の窮地に陥った。そこで遂に、足掛け二十年の封呪を打破して十四年秋から早慶戦は復活すとのニュースが満都の好球家の間に電撃的衝動を起した。慶応は、最盛期を通り越して斜陽期に向いつつあった上に、主力選手が偶然にも言い合せたようにこの春卒業して弱体チームになっていたおり、それで晴れの復活早慶戦に臨まねばならぬ羽目になったのは、実は気の毒であった。

 大正十四年十月十九日、戸塚球場に、二十年待望の早慶復活戦が実現する。この年、戸塚球場はスタンドの新築をみて、当時の球界に異彩を放つものとなっており、復活早慶戦を行うにふさわしかった。この日秋天、青き宝石を敷きつめた如くに晴れ、大気は明澄にして凜然、これまた水晶のように透き通っていた。主審は一世一代の思い出として明治の湯浅がこれに当り、よく研究して誤審なく、音吐朗々、満場に響きわたる模範的審判であった。

 一回両軍零、二回慶応零、早稲田はこの回先頭打者の猛打者井口新次郎が遊撃手の右をライナーで抜く二塁打を放ち、河合君次また安打で井口三進、氷室武夫(後に芥田と改姓、近鉄の監督)も安打で井口生還、安田俊信のバントで走者二、三進、投手竹内愛一の四球で満塁、瀬木嘉一郎のテキサスで河合生還、山崎武彦の四球に氷室生還、根本行都四球に竹内も押し出され、慶応はここに投手を浜崎真二(後に阪急、高橋等の監督)から浜井武雄に代える。水原義雄は三振して退いたが、この回二度目の打席に入った井口は四球で瀬木生還、河合の二塁飛球で終る。しかし一挙五点、大勢はこの一回で決した。実は慶応は、大岡山に合宿所があったが、先輩その他の慰問が多くてうるさいので、若き選手をあがらせぬため京橋の旅館に止宿したが、更に箱根に清遊を試みたところ、浜崎は喘息持ちで、気候の急変から病を発し、この日は吸入器持参で球場に来ている窮状を、早稲田では知らなかった。最終回、慶応の三谷八郎が唯一のヒットを飛ばして出塁、目覚しく二、三塁を連盗した。しかしその後の打者が揮わず、この歴史的試合は十一対零で早稲田の大勝するところとなった。竹内は谷口の後を継いで、早稲田の全盛期を盤石の安きに置いた殊勲者だが、誰でも打てそうな軟投型で、「平凡な非凡投手」と言われ、剽軽なのんき者で通っていた。

 第二回戦は十月二十日、同じく戸塚球場。早稲田は谷口、竹内に次いで三代目の名投手藤本定義(後に巨人、阪神等の監督)、慶応は永井武雄が投手だった。慶応は藤本をよく打ち七安打を飛ばしながら得点は一、早稲田は安打八ながら七点を収めて楽勝した。実はこの早慶戦は復活最初だから、独立した戦いとして取り扱い、リーグ戦の中には数えぬことになっている。

 早明第一回戦は十月二十五日、明大駒沢野球場で行われた。一回に早稲田幸運の一点をあげたものの、その後、湯浅、竹内の両投手、互角に投げ合って譲らず、文字通りの白熱戦となり、六回になって明治は二塁に走者を置いて一・二塁間を破る安打を放った。全観衆総立ちになった。ところが右翼手河合の投げた返球は糸を引くが如く奇蹟的に捕手のミットに収まって、走者はタッチ・アウト。八回にも走者を三塁に置いて、今度は左翼手瀬木が好プレイを見せて、早稲田は辛勝した。多分、両軍互いに死力を尽したこれほど美事な一戦は史上でも稀で、「勝って誉れあり、負けて悔いなき戦い」と評された。第二回戦は、早稲田は藤本を立てたのに対し、明治は湯浅の連投である。早稲田は二回に四点を取ったが、明治は七回に二点、九回には大量五点を獲得し、前日の雪辱をなした。第三回戦の早稲田の投手は竹内、明治はリーグ戦始まって以来の湯浅の三連投。この頃の早明戦は竹内、湯浅の投げ合いの他に、湯浅、井口の対決が見ものとなっていた。初め井口によく痛打された湯浅は、自から凝らした仔細な研究と工夫によって、完全に井口の鬼棒を封じていたのである。ただこの日は連投のため、僅かに一球が少しコースを外れたのを、走者を一、三塁に置いて井口がねらい打ち、痛烈な二塁打とした。その後安田も満塁の好機に安打を放ち、四対零で快勝した。このシーズン、早稲田は十勝一敗の強みを誇った。

 大正十四年の秋には、早慶戦の復活と歴史に残る好ゲームが展開された早明戦のほかに、シカゴ大学の来征があった。飛田はその著『熱球三十年』に左の如く記している。

私からするならば、早慶戦や早明戦ではない。敵は実に本能寺のシカゴにある。シカゴがいかに精鋭を尽して来たにもせよ、今度こそ逃すものかと決死の覚悟であった。しかるにその秋は、最初ティーム全体の力が出ず、シカゴの第一戦を敗れ、関西では大毎にしてやられる有様。引分け戦をくり返したのち、やっとシカゴと一勝一敗になって、この試合を中断し、ただちに早慶試合を迎えた。早明……第三回戦を四対○に快勝すると間もなく朝鮮遠征にいやが上にも自信をつけたシカゴが帰京して、いよいよ最後の決戦を行なうこととなった。大正十四年十一月九日、……四対○とリードされて絶望と思われたとき、……安田俊信が開運の安打を飛ばして、形勢が一変した。真に天祐というのは、こんなことであろう。……その夜、心ひそかに引退を決した。もう自分のなすべき仕事は終った。不満足ではあるが、高恩の早稲田野球部や、恩師安部先生にもいささか報ゆるところがあったと思われる。翌日、……口頭で辞任を申し出た。 (三〇七―三〇八頁)

 昭和四十年、飛田が七十八歳の生涯を終えた時、小泉信三は次のような弔辞を述べたのであった。

飛田君の一生は、実に一すじに貫くところある生涯でありました。野球は一の外来競技にすぎませんが、これを日本に於いて野球道といふ一の道に高めたものは誰々であるかと問へば、何人も飛田君の名を逸することは出来ません。

(弓削徳介他編『飛田穂洲』 弔辞)

 学苑の野球部にあって名監督と称せられた者は飛田一人にとどまらないが、スポーツマンというよりは寧ろ求道者を以て自他ともに許すところがあった飛田ほど、在任中もまたその後にあっても、世人の注目を浴びた監督はなかったと言ってもよいのではなかろうか。芥田武夫は「日本武士道をとり入れた一高野球を踏襲してこれを完成したのが穂洲野球である」と評している。

 飛田の後任には、市岡忠男(大九大商)が就任した。大正十五年春の早慶戦は、大投手竹内を送り出しながら強打者連は残っており、藤本投手よく投げて、第一回戦は二対零で勝ち、第二回戦は三対二で再勝したが、六大学リーグ戦はこの時から早慶戦も独立をやめてその一環に組み込まれることになり、早稲田は明、立に敗れ、覇を慶応に譲った。秋になると慶応は、この春監督に招き、後に日本のマグローと言われた腰本寿のノックに鍛えられて、満々たる自信を以て臨んできたが、早稲田は黄金時代の名残りをまだ留めて、第一回戦六対四で勝った。零対二で慶応の勝利となった第二回戦の後、第三回戦は追いつ追われつの好ゲームとなり、二対二の同点で九回に入った。暮色漸く迫るうちに、早稲田の打ち上げた平凡な飛球を二塁手本郷基幸がポトリと落し、この間に走者はホーム・インして一点を拾った。あとで分ったのだが、蚋が本郷の目に入って目測を誤まらせたためで、ために球界では、元寇の「神風」に対して、「神虫」と言われた。尤も、本郷自身は「ブヨと云うのは当時周囲がそうしてしまったんであれは砂なのだ」(『慶応義塾野球部史』一五六頁)と語っている。

 大正掉尾の野球界で記録すべきは、明治神宮外苑球場の完成である。これは東京六大学野球連盟の熱意が盛り上がって完成したも同じで、連盟の働きかけがなかったら、神宮球場は実現していないのだ。思えば大正十三年、第一回「明治神宮競技大会」が開かれた時、全国中等学校代表チーム勝抜戦が行われたが、中央野球場がないので、戸塚球場をはじめ各大学グラウンドに分散して施行せられたため、さっぱり球趣が盛り上がらなかった。そこで神宮外苑の空地に神宮球場設立の件を内務省に迫り、官僚には昔から野球に反対の伝統があるが、帝大の芦田公平、明大の内海弘蔵、法大の武満国雄、学苑の飛田忠順の四者が中心となり熱心な運動を展開すると、神宮奉讃会の理事長阪谷芳郎は大いに理解があり、その斡旋・尽力の結果大正十四年十一月起工、まる一年後の大正十五年十月に竣工、十月二十三日の奉納式には、摂政宮(今上天皇)の台臨を仰ぎ、早稲田の安部磯雄部長が野球関係者を代表して祝辞を述べた。式後、六大学の紅白試合があり、安部の説明で観戦せられた摂政宮から、摂政宮杯の下賜の沙汰あって、安部がリーグを代表して目録を受けた。以後の六大学野球戦は、この摂政宮杯の争奪となるので、野球嫌いの文部省も、第二次世界大戦中まで、威圧の手が出せなくなったのである。

 昭和二年一月四日、合宿の「おばあさん」として選手皆から慕われていた近藤鶴が七十七歳の老齢で、郷里岩手県一関で死亡した。家庭的に薄幸な彼女は、縁あって明治四十一年から大正十四年に及ぶ足掛け十八年、七十二の年まで合宿の炊事方を務めた。ひどい東北訛で選手を悩ませたが、台所は上手に切り回し、食い気ざかりの選手に胃の腑の大満足を与えた。出陣に当っては、敵に勝つと縁起を祝って必ずカツレツを食卓に上すのも彼女の考案で、野球については何も知らないのに、精進潔斎して神仏に祈念を凝らし、選手達から親身の祖母のように慕われた。勤続十年の時、稲門倶楽部が主になり、現役選手も加わって醵出して一時金を呈し、老齢で退職しても、安部部長の計らいで、倶楽部から扶助料を贈られていた。

 昭和二年一月十五日、政界進出を決めた安部磯雄が教授を辞し講師となったが、前年二月安部は野球部長を辞任していた。一時の中断をはさみつつも部長を務めること実に二十五年の長きに亘ったのであった。そのあとは高杉滝蔵が昭和八年三月まで務めた。

 昭和二年、学苑野球部は第五回アメリカ遠征のため春期六大学リーグ戦には参加しなかった。アメリカでの成績は二十二勝十二敗、二十二年前の日露戦争中の最初の渡米に七勝十九敗したのに比すれば、早稲田も強くなり、日本学生野球の力も今やアメリカを凌駕せんまでに強化せられてきたことを慶賀し、且つ驚かずにはおられない。一方、留守チームはこの春、東・明・法・立との対抗戦で六戦三勝三敗勝率五割の好成績を残した。

 同年九月二十二日、安部磯雄の胸像除幕ならびに同体育奨励基金伝達式があった。この人のため、この球場に、この記念像の建つのは、最もふさわしいこととして、何人も心から納得するだろう。安部前部長は「本日は私の生涯に於て最も記憶すべき出来事の一つである」(『早稲田学報』昭和二年十月発行 第三九二号 一八頁)と言い、野球が盛大を極めるに至ったのは、学校当局が一切を信じて、私の自由裁量に任されたことによるとして、往昔を偲んだ中で、次の一節は来会者の耳に深く残った。

未だ曾つて学校から干渉を受けたことはない。若し干渉を受けたことがあるならば、それは学校の当局者でなくして、学生の間から起つた事で、今に一つの余り心持の快くない記憶として私の頭に残つて居ることがある。それは何であるかといふと、私は深く信ずる所があつて野球の入場料を取ることを発起して、学校の当局者も之に賛成された。所が一部の学生は盛に入場料を取ることに反対して、私が十分さういふ人々に説明したのですが、遂にその後其の勢力が強くして入場料を取ることをやめたのであります。当時高田総長は欧米漫遊の途に上ぼられて居りました。さうしてシカゴ大学に行かれると、曾つて早稲田の招聘に応じて参りました野球団の有名なるピッチャーで、その時分野球のコーチをして居つたページといふ人が、何を措いても一番先に高田総長を運動場に案内した。さうして運動場の壮大なスタンドを御目に懸けて、是は全部野球の収入と卒業生の寄附金で出来たのであると説明した。高田総長はその壮大なる運動設備を見て、心密に期して御帰朝になつた。その時、能く記憶しませぬが或る大きな仕合があつて、どうしても吾々は入場料を取らなければならぬといふ考を持つて居りました。

(一八―一九頁)

そこで欧米旅行から帰国した高田学長は、アメリカの諸大学はどこでも入場料を取って各種の運動設備をしているので、問題はあるまいと強力な支援を与えたが、明治以降外来チームとの対戦、また南極探険隊応援など、きわめて稀な場合以外、入場料を徴収することなく、膨大な経費はみんな選手もち、学校もちであったから、入場料徴収に対しては一部学生から反対が起り、野球嫌いな教育界や官界が、その尻馬に乗って、問題を紛糾させたこともあった。しかしそれに断固たる決着をつけて、六大学野球の入場料を取ることを決めた発案者・実行者が安部磯雄だったのだ。この収入で野球部費一切が賄えるようになってから、どんなに学生野球が飛躍的に改善され、発展して行ったことか。そして安部は、

自分が二十七、八年間愛着心を持つて居りましたこのグラウンド、私は天気の日ならば必ず学校の課業が終れば練習を見に来ました。雨が降ると練習はないが、私はどうしても一度はこの運動場を見ねば心に済まないといふ愛着心があつた。

(二〇頁)

と述べ、万感胸に迫って暫く絶句し、参列した新旧選手は皆涙を呑んだ。安部が壇を降りると、期せずして参列者一同に、万雷の拍手が起り、都の西北の合唱が始まった。

 昭和二年の秋期、学苑野球部の成績は良くなかった。すなわち昨年の王者は明治に連敗し、慶応にも連敗、しかも零敗で恥辱この上ない。この時の早慶第一回戦における慶応の投手は浜崎だった。早慶戦復活の日、早稲田に痛打されてから二年、往年の敗戦投手は生れ変ったようにコントロールよく、水原義明(義雄の弟)、井口など健在で強打者揃いの早稲田が手も足も出なかった。第二回戦になると永く球史に残る剛球投手宮武三郎が早慶戦に初登板した。彼は中等野球でも夙にその好打、好守、好投を以て傑出した麒麟児であった。しかも六番を打って、健棒山下実、猛打福島鐐そして宮武と続くと、必ず点を入れると恐れられたものだ。更に昭和三年には、慶応に俊敏軽捷の水原茂(後に巨人、東映等の監督)が加わり、まさに慶応の黄金時代で、リーグ戦一シーズン全戦全勝の記録を作ったことさえある。

 他方、学苑野球部は沈滞時代を迎え、ファンを切歯扼腕させた。この早稲田の球運を打開したのは、昭和四年、和歌山中学校から投手として加わった小川正太郎である。彼は夙に甲子園に名声を馳せた偉才で、この春の早慶第一回戦で輿望を担って投手板上に立つや、慶応の猛打者も鉄棍に響きなく、早稲田は大正十五年秋以来の久々の勝利を得、鬱積を晴らした。ただし、体力に恵まれず、殊に病後で、第二回戦は疲れを生じて打たれ、四対五で敗れた。第三回戦も三日連投の結果七対十で惜敗した。かくて球界は、いわゆる宮武、小川の華々しい対峙時代に入る。

 昭和四年秋は、六シーズン振りで優勝した。両校、土つかずで勝ち進み、久し振りで早慶戦に優勝を賭けることになり、好球家の満足この上もなかった。第一回戦は、三対零で先勝、第二回戦は零対七で完敗。第三回戦が決勝戦となるので、興味は白熱せざるを得ぬ。世評では、慶応にいささか分ありと予測する人が多かった。

 慶応は最初から小川の球をよく打ち一回と三回に早くも一点ずつ入れた。四回になって早稲田は漸く一点を返したが、七回慶応は一点を追加した。早稲田は八回にまた一点を入れ、これで二対三であるが、連敗の早稲田の劣勢は掩えなかったところ、最終回、代打に立った後年の英雄伊達正男が中堅前に安打して出で、小川のバントを名手水原茂拾って暴投、伊達の代走佐伯喜三郎、小川それぞれ三、二塁に進む。次の打者佐藤茂美は猛打者ではあるが、器用さはない。長打か、危うくすれば三振である。敵は巧者老獪無比の水原である。ひねられると思った者が多かったろう。ウェイスト二球、三球目のアウト・カーブを打つとファウルになった。次も同じ球筋のアウト・カーブだったので、猛打者佐藤なんじょうこれを見すごすべき、鉄腕にバットを振れば打球はライナーとなって中堅の左に飛び、差し出されたグラブの下をくぐって地に落ちて転がり、塀に達して右に弾き返った。佐伯、小川、相次いでホーム・インし、更に巨漢佐藤は三塁で止まるのかと思ったら、意外にも力走を続け、珍しくランニング・ホームランとなった。これで五対三、しかも早稲田は攻撃の手をゆるめず、富永時夫は三塁ゴロに終ったが、先頭打者水原義明右翼手またもや中前安打、腰本監督は水原投手を宮武に代えて守備の万全を期したが、弘世正方四球に歩き、伊丹安広(後に監督、明治神宮外苑長)が中堅に痛打して、水原生還。計六点を占めた。その裏、慶応は無得点、まことに感激的な幕切れとなった。

 昭和四年十一月一日、第五回「明治神宮体育大会」に天覧試合を行う。相撲天覧の前例もあるので、早慶応援団が観覧席を埋め、歓呼の怒濤の起ること、殆どリーグ戦と変らなかった。試合は慶応の一方的優勢のうちに八回を終って十二対零、暮色迫ってコールド・ゲームとなった。けだし早慶戦史上、早稲田の蒙った最大屈辱である。慶応の腰本監督は、これが現在の早慶の真の実力だと公言したが、新聞批評は、早稲田はリーグ戦終了後試合が全くなく、練習から離れていたのに反し、慶応は多くの他流試合を約束していて、練習はおろか、実戦を積んでいたのが、この思わぬ結果として点差が開いたと言っている。

 この天覧試合の不面目を、一遍に抹消して早稲田沖天の意気を示したのは、昭和六年春のゲームである。

 実はこの頃の早慶戦は、宮武、小川が対戦し、伎倆伯仲したが、小川投手は酷使のため肩を痛めて使いものにならず、あたら天才を失ったので、非常な投手弱勢となり、昭和五年には春秋四戦連敗したのである。

 翌昭和六年、個人、団体思い思いの弥次を許すは、ゲームを汚し、支障を来たすことも間々あるので、学生バンドの音楽付き応援としては如何と、慶応に提案し、慶応もまた直ちに名案として賛成し、ここに現在の整然たる応援形式の端緒が芽ばえる。その洋々たる楽声に送られて春期戦開始、早慶第一回戦は、捕手伊達が前年秋に続いて再び投手板を踏み、その剛球はよく慶応の巧獪の打棒を封じたが、名遊撃手三原修(後に巨人、西鉄等の監督)のエラーにより一対二で惜敗した。第二回戦もまた伊達の連投、息もつがせぬ白熱の接戦で展開され、七回、三塁にあった三原が果敢な本盗を試みて一挙に大勢を盛り立て、六対三で快勝した。

 余勢に乗って早稲田は第三回戦も伊達が投手を勤めた。これより前、三日連投の記録は明治の湯浅と小川が残している。しかし大豪湯浅を以てしても前述の如く、第三回戦は疲労のためだろう、宿敵井口の猛打で惜しくも敗戦した。伊達は急な変成投手で湯浅ほどの安定感がなく、盛名の歴史もない。満場、不安と好奇の期待を以てこれを眺めた。この日早稲田は幸先よく四回に四点を入れ、勝敗を決めたかに見えたが、慶応は五回に一点を返し、七回にはさすがの伊達も疲労の色漸く表に現れて四球二を出し、その上に安打を浴びて二点を加えられ四対三、しかし最終回、早稲田は一点を入れて五対三として安堵できたかに見えたが、慶応も一点を入れて二死ながら走者二、三塁、そして伊達のカーブを川瀬進叩いて遊撃ゴロとなり、遊撃手の投球がやや低かったが、一塁手は危うく地上寸前で捕球した。史上初の三連投の勝利。満場はもう勝敗にはこだわらない、ただ、驚異と、興奮と、感激の渦であった。感激した窪田通治は、「三日間連投しける投手伊達友は泣き止めど猶泣きゐると」(『窪田空穂全集』第二巻 一八六頁)など数首の歌を発表して伊達を讃えた。

 佐藤の本塁打、三原の本盗、伊達の三日連投――この三英雄的快プレーは、昭和初頭の早稲田球史に不滅の記録を残している。

三 体育部の動向

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 ここでは、大正前半期以前に創立された各部については略述にとどめ、大正後半期以降創設された各部に重点を置くこととする。

 なお、明治三十五年以来体育各部は早稲田大学体育部の下に鳩合されていたが、各部の発展・増加と、大学の支出する体育部費だけでは不足するため、大正十年四月新たに早稲田大学体育会が組織されて、「早稲田大学体育会規則」(『早稲田学報』大正十年四月発行 第三一四号 七―八頁)が制定された。この規則に基づき、大学は年額一万円ずつを資金に積み置き、また学生より体育部費として毎年三円ずつ徴収することとなった。

 柔道部 氏家謙曹が部長に就任、師範宮川一貫(明四四大政)とともに部員の指導に当り、特に旅行好きの氏家は毎年二回くらい各地に遠征し、各地の諸学校と対抗試合を行い好成績を収めた。大正十二年三月には、学苑の提案により東京学生柔道連合会が結成され、先輩高広三郎(大九大政)が理事長に選ばれて、大いに活躍した。

 年来宿願としていた朝鮮・満州・中国遠征は、大正十三年、南満州鉄道株式会社の厚意により実現した。三月十五日、氏家部長、徳三宝師範引率の下に、鷹崎正見(商)四段ら一行十二名は、午後三時東京駅発列車で壮途に上った。一行は朝鮮半島経由で満州各地に転戦し、踵を返して天津、北京、上海にまで足を延ばした。この間満州各地では満鉄チームと行を共にして模範試合を行い、或いは古式に則った型を披露し、特に天津では、日中はじめ欧米諸国など二千人の会衆の前で、妙技を示して大喝采を博した。

 この頃柔道に対する欧米の関心が漸く高まり、講道館に入館して技を学ぶ外国人が多くなったが、学苑柔道部も昭和四年渡米し、柔道の海外普及に寄与した。すなわち、氏家部長引率の下に、諏訪章(専法)ら七選手が、ワシントン大学はじめ西海岸諸大学との試合のため、四月十八日、横浜から遠征の途についたが、我が国の特技を海外に周知せしめた功績は、高く評価されるべきであろう。

 剣道部 大正九年高等学院創設後、学院生で剣道に志すものは大学の道場に通って技を磨いたが、大正十年九月には、第一高等学院校舎敷地の上段の丘上に設けられた運動場の一隅に、平家建八四・五坪の柔剣道場が新築され、学院生は主としてここで練習を開始した。

 この頃、特に慶応とは春秋二回の交歓稽古を行ってきたが、大正十四年十月早慶野球戦が再開された機会に、同月八日陸軍戸山学校で二十人勝抜試合を行い、主将以下六名の不戦者を残して大勝した。

 ところで明治四十二年結成の東京学生剣道連合会は数年来会長空席のままであったが、大正十四年学苑は帝大、高師等と諮り、福田雅太郎陸軍大将を会長に迎え、その再興第一回大会を十一月十五日陸軍戸山学校に開き、三組の選抜三本勝負で伊東祐蔵が勝利を得た。次いで本連合会は京都学生剣道連盟と交歓稽古を企て、十一月二十一日福田会長引率の下に各校の部員十二名が西下し、京都および大阪に転戦して、交歓の実を挙げた。

 前述の大正十四年挙行の早慶戦は、のち公式にはこれを第一回戦と呼称することにし、爾今毎年定期戦を行い、昭和十八年九月学徒体育大会禁止の布告が出されるまで、十九回の定期戦が行われた。昭和三年十一月、東京、京都その他の大学の剣道部を結合して全日本学生剣道連盟が創設され、先の伊東祐蔵(大一五政)が幹事に選任された。

 ここで特筆すべきは、本部の米国遠征である。既に笹森順造(明四三大政)が明治四十五年に渡米して剣道大会を開き、更に大正八年と昭和三年にロサンゼルスやデンバーを訪ねて斯道の普及に努めたため、米国各地に道場さえ設置されていた。そこで既に柔道部渡米のこともあり、かの地の受入態勢ができていたから、昭和六年師範高野佐三郎、範士南里三省(明四三専政)を監督とし、和田金次(政)以下九名が米国遠征を決行した。七月二日秩父丸に乗船、途中ハワイで稽古試合を披露し、二十九日にサンフランシスコに上陸、直ちに金門学院で日系二世に稽古をつけ、サンノゼで講習会を開き、サリナスで模範試合を、ワッソンビルでは、南北両部カリフォルニア州選出少年剣士および北部カリフォルニア州有段者連合軍と対抗試合を行って大勝した。またモントレーとガダルプで稽古や講演を行い、更にロサンゼルスのアスレチック・クラブで大会を催したなど多大の成果を収め九月八日に帰京した。

 弓道部 『半世紀の早稲田体育』の「憶いでの数々」の欄で、弓道部の先輩村井五郎(明四一大商)が、「部は大正十三年頃満州に遠征など試みて、今も健在である田中郡二〔大一三商〕君が学生を引きつれてこれを行つた」(一〇八頁)と記しているが、詳細は不明である。しかし『早稲田学報』(大正十三年九月発行第三五五号)には、同年五月二十六日以降の関西遠征の記事が詳しく掲載されている。すなわち派遣選手は総数九名、宮本春一(大一三商)監督引率の下に西下し、二十七日の対第八高等学校戦では九十中対七十六中で吾に凱歌が挙がり、二十八日の対同志社大学戦では三十八本の差で勝ち、二十九日の対第三高等学校戦では十七本の差、三十日の対京都帝国大学戦では十八本の差で、それぞれ勝利を収めた。次いで三十一日には大阪高等商業学校と対戦し、七十九中対五十六中で勝ったが、この頃から連日の試合に漸く疲労の色が濃くなり、六月一日の対神戸高等商業学校戦では九本の差、同二日の対関西学院戦では一本差で辛勝するという有様であったが、成果は全戦全勝で、学苑弓道部の名声を大いに挙げた。

 庭球部 大正九年は「日本における真の意味の庭球史の第一頁」(財団法人日本体育協会編『日本スポーツ百年』二七五頁)を記録する年であった。すなわち、この年夏東京商科大学が硬球採用を声明、これを契機として早稲田も秋に硬球を採用し、日本庭球界は硬球時代に入ったのである。日本における最初の硬球トーナメントたる第一回大阪朝日新聞社主催全国硬式庭球大会がこの年早速開催され、早稲田は単複共に二位となった。翌十年には、第一回都下専門学校硬球連盟リーグ戦、第一回大阪毎日新聞社主催トーナメント等が行われ、早稲田は前者シングルスで二位、後者では単複共に二位の成績であった。翌年第二回関東都下専門学校硬球連盟リーグ戦で、高師と決勝戦で対戦、これに快勝した。この年、特に記念すべき試合としては、六月十一日、芝浦のコートで、折柄来日し連戦連勝を誇っていたカリフォルニア大学と対戦し、二対一のスコアでこれを一蹴し、早稲田大学庭球部の存在を知らしめ、また九月九日、帝大コートにおける日本庭球協会主催の第一回全日本庭球選手権大会では、川妻柳三(専商)・安部民雄(文)組がダブルス選手権保持者として摂政宮杯を、また福田雅之助(大八大商)はシングルスの選手権を獲得して、ニューヨーク・カップを受けた。因にこのカップは、大正十年熊谷一弥(慶応)・清水善造(東京高商)組がチャレンジ・ラウンドに出場した記念に、ニューヨーク在住邦人が一千ドルを集めて造った大銀杯で、ビール一ダースが入り、「さすがのポプラの天狗連も、両手で持ち上げてグッと飲むものは一人もいなかった」と福田が驚嘆したほど豪華なものであった(『早稲田大学庭球部創立七十周年誌』一四頁)。

 大正十二年五月、大阪で第六回極東選手権競技大会が開かれたが、これに川妻、安部が出場した。対フィリピン戦ではシングルスで四勝し、対中国戦においてはダブルスに三勝した。

 日本がデビス・カップ戦に最初に参加したのは大正十年で、本学苑関係者がこれに進出したのは、二年後の大正十二年福田が渡米したことに始まる。彼は四月に故国を発ち、彼の地で練習を重ね、七月二十六日より行われたアメリカ・ゾーンに出場し、第一回戦の対カナダ戦に全勝したが、対オーストラリア戦には惜しくも勝を譲った。

 大正十三年から昭和六年頃までは、学苑の選手ならびに先輩が大いに活躍した時代で、安部、請川卓(政)、相沢久孝(政)、河尻慎(商)、佐藤次郎(政)、川地実(法)ら多数の名手が輩出した。殊に十四年渡米してワシントンのチュービーチェーズ・クラブの大会に出場した福田は、イースタン・グリップの妙技に初めて接し、これを日本の庭球界に紹介し、殊に早稲田がこれを採用した結果、大いに技術の向上を見るに至った。

 学苑野球部の父安部磯雄はテニスをも好んだが、その息民雄(のち教授)は庭球に長じ、昭和三年、四年にはデビス・カップ戦アメリカ・ゾーンに、昭和五年にはヨーロッパ・ゾーンに出場して、大いに気を吐き、また佐藤は、昭和五年全日本大会に優勝して名声を挙げ、ついでフィリピンに、翌六年にはハワイ等にも遠征して声価を高め、極東選手権大会、関東学生選手権、全日本学生選手権、東日トーナメント、全日本選手権の各試合に覇権を握り、安部に続いて六年のデビス・カップ戦に選ばれて活躍した。川地もまた佐藤のパートナーとなり、デビス・カップ戦に出場した。これら先輩の活動に刺戟された後輩選手も続々名乗りを挙げ、昭和初期に庭球部の黄金時代を現出したのであった。

 端艇部 大正九年端艇部は京都帝大とともに日本漕艇協会設立に努力し、各校を勧誘し、十月第一回学生選手権競漕会を両国橋―向島間で挙行した。この時の使用艇は八人漕滑席艇であったため、未だこのような新式のものを建造していなかった高師および東京外国語学校は参加しなかったが、既にこれを採用し、練習していた帝大、商大、明大、東京高等工業学校ならびに本学苑の五校が輸贏を競った結果、一日の長ある帝大に優勝をさらわれた。しかし捲土重来を期した早稲田は、大正十一年十月向島で行われた第三回学生選手権競漕会に、決勝戦で東京外語を破り、初めて選手権を獲得した。しかし震災後の四年間は、常に斯界の話題の的となりながらも、勝利を得ることなく苦杯をなめてきた。たまたま昭和三年、アムステルダムで第九回オリンピックが行われた際、日本漕艇協会がこれに参加して舵付フォアを派遣したが、この時政治経済学部の高島勇が選ばれ、二番手として活躍した。またこの年の九月には第八回学生選手権大会があり、本学苑は慶応を退け関東で優勝して、西下し、関西代表の京都帝国大学と宇治川コースで戦い、これも降して学生日本一となった。昭和五年、野球の余波で中止を余儀なくされていた早慶対抗ボート・レースが復活し、接戦の末早稲田の勝利に帰して満都注目の的となり、爾来英国におけるオックスフォード、ケンブリッジ競漕に匹敵するものと看做されるようになった。そして、昭和六年には大型クルーをつくり上げ、ロサンゼルス・オリンピック代表選考大会に優勝し、翌年の挑戦競漕には商大を退けて、正式に日本エイト代表の栄冠を獲得した。しかし八月ロサンゼルス・ロングビーチで開催された第十回オリンピックでは、イタリアおよび英国に破れて涙を呑んだ。尤も同年四月の第四回早慶対抗レースには留守チームが慶応を破り、国内での名声を保持できたのはせめてもの慰めであった。こうした既往の成果は大学当局の関心を高め、墨田川畔に新艇庫の建設を促し、モダンな外観と最新の設備とは端艇部の光栄ある歴史の象徴となった。

 相撲部 本部は大正の中期に再建された後でも正規の部員は少く、柔道部員で相撲好きな者が集まって土俵を賑わしていた程度であったが、浅岡信夫(大一二商)が海城中学から学苑に入学して活躍するに及び、俄然光彩を放つようになった。すなわち日本相撲連盟・大阪毎日新聞社共催の大正九、十年の第二、三回の全国学生相撲大会の団体競技に優勝し、第二回の個人戦では浅岡は第三位に、第三回大会には準優勝を獲ち得た。また関東学生相撲連盟の第二回および第四回大会にも優勝して、部の存在を江湖に示した。相撲に専念する部員も年ごとに増加し、浅岡や浅沼稲次郎(大一二政、後の日本社会党委員長)らの指導も宜しきを得、昭和の初期にかけての黄金時代を現出し、昭和二年の第四回明治神宮体育大会の優勝を皮切りに、翌年の第九回関東大会に引続き、第十、十一回の同大会と、三連覇の偉業を成し遂げた。殊に四年の全国大会に個人優勝を獲得した豊平勇三(高師)は、我が学生相撲界のべーブ・ルースとまで言われ、第十一代学生相撲の横綱の称号を得、我が学苑の名声を天下に轟かせた。彼は常に、「一、仕切の間に於ける精神の結集 一、立合に於ける心術上の駆引き又は巧妙なる技術の訓練 一、戦闘上の技術又は勘の養成 一、土俵際の心得等々」(豊平悠三「土俵円」『半世紀の早稲田体育』八六頁)について研究精進した。こうした成果は学生相撲界を刺激し、昭和五年、全日本学生選抜軍の第一回ハワイ遠征を実現せしめ、豊平は選ばれてその代表となり、この競技を海外に紹介・披露した。相撲部の名声が斯界に喧伝されると角界の声援・援助も高まり、大錦、能登海らが我が道場を訪れて稽古をつけてくれた。また「インテリ関取」と言われた秀ノ山(元関脇笠置山)勝一(本名仲村勘治)は、昭和四年第一高等学院に入学し、翌年専門部政治経済科に転じて、卒業するまでの四年間、教室と道場とで心身の修業を重ねた。彼が書いた「学生相撲の思い出」の中から、次に一部を摘記しておこう。

当時二十五貫もあつた私としては、体格に於てはそれほど引け目を感じなかつたし、道場の立派さも、出羽海部屋に起居していた関係で驚きもしなかつたが、道場の留守番をしていた婆さんと、絣の着物に黒袴、一寸した明治時代の壮士風な姿には面喰つた。当時の学生は早稲田に限らず、方々の大学生にもそんな蛮風が残つていたのであ〔り〕……現在のような神経質な学生は少なく、当時最も左翼学生の多かつた早稲田であつたが、その連中に利用されて対社会的に大騒ぎすることは少なかつた。……第一学院に入学して時折は学院の道場で稽古はしたが、学院での部員が少なかつた関係から殆んど大学の道場に通つていた。流石に全国で覇を競つている早大相撲部の稽古は激しかつた。春夏の本場所前の朝稽古や、夏休みの地方巡業に加つて稽古していた私には特に激しいとは思わなかつたが、……殆んど力士に近い稽古振りであつた。午前中でも落着いて教室にいることができない程であつた。今日の単位制では相撲部だけでなく、恐らく全選手は満足に卒業できなかつたことであろう。

(『半世紀の早稲田体育』 五一頁)

 水泳部 先に第二巻で触れたように、大正五年頃には、主として海浜を道場として夏期の合宿訓練が行われ、競泳という言葉もなく、速泳と呼ばれていた。これがプールを使用し、各校との対抗競技が行われ、競泳と言われるようになったのは、大正十年からで、万朝報社は、各大学、専門学校、高等学校等の水泳部を勧請し、同年九月十、十一日の両日、第一回全国各大学専門学校対抗競泳大会を神奈川県生麦の三笠園の池で行った。一〇〇メートル自由形、二〇〇メートル平泳、一〇〇メートル背泳、四〇〇メートル・リレー等に、学苑から鴨下義夫、五味金司、小高賀茂らが出場して力闘したが、総合得点では第二位に止まった。しかし、大正十一年の第二回大会、十三年の第三回大会には連勝した。

 大正十三年中等学校水泳界の雄、茨木中学校の高石勝男が第一高等学院に入学すると、水泳部は一段と光彩を増し、この年七月パリで開かれた第八回オリンピック大会に高石は選ばれて我が代表となり、自由形の一〇〇メートルと一五〇〇メートルとにそれぞれ五位となり、名声を挙げた。帰国後高等学院では既述の如く高石記念プール建設を決議したが、更に木村象雷(商)、入江稔夫(理)などの好選手を得、大正十四年以後昭和の初期にかけて黄金時代を現出した。大正十五年十二月から翌昭和二年一月にかけてオーストラリア水泳連盟招待試合が開催されたが、これに出場した高石は、自由形一〇〇メートルに一分〇秒二、同二〇〇メートルに二分二三秒六のオーストラリア記録を樹立して一位に輝き、更にオーストラリア選手権の一〇〇ヤード自由形にこれまたオーストラリア記録の五四秒四で一位となった。昭和二年十月東京で開かれた汎太平洋水上競技大会では、高石が自由形の一〇〇メートルに五九秒六、四〇〇メートルに五分五秒〇でそれぞれ一位となり、入江が二〇〇メートル背泳で二分五〇秒二の日本新記録で一位に入った。昭和五年五月東京で第九回極東選手権競技大会が開催されたが、高橋成夫は五〇ヤード自由形で二六秒八の日本タイ記録で、また一〇〇ヤード自由形では高石が一分〇秒八の極東新記録でそれぞれ一位を占めた。昭和六年八月東京で開催された日米大会では、横山隆志(商)が八〇〇メートル自由形で一〇分二五秒二の日本国際新記録で一位となった。なお第九回以後のオリンピック大会での活躍は五一三頁以降に譲る。

 競走部 大正九年二月十四、五両日に開催された報知新聞社主催の第一回東都大学専門学校東京箱根間往復一三〇マイル駅伝競走に参加した学校は、僅かに高師、慶応、明治、早稲田の四校で、学苑から出場した選手は三浦弥平、高木武範(商)、河野一郎らであったが、勝を高師に譲り、第三位に止まった。河野一郎(第二巻 一〇七七頁参照)は、後に政界に活躍するに至ったが、駅伝には爾来四回出場しているけれども、いつも平塚―小田原間を走り、「だから、――あいつは、その当時から、選挙区を意識して走っていた――と、よくいわれる」(河野謙三『スポーツと人生』四八頁)と弟謙三(大一二専商)が記している。後に参議院議長となった謙三は在学中は兄一郎とともに長距離に活躍し、三回に亘り兄弟揃って駅伝に出場して、大正十一年一月の第三回駅伝に早稲田は初優勝した。

 大正十年五月上海で開催された第五回極東選手権競技大会に、早稲田から相撲部でも大活躍した浅岡信夫が槍投げに出場し、第一位を占めた。大正十二年になると、早慶両大学の競走部間に、毎年一回対抗競技を行うという話合いがまとまったが、七月の第一回は学苑の敗北に終った。十四年マニラで行われた第七回極東選手権競技大会には早稲田からも多数の選手を送ったが、審判問題で日本選手団が総退場、帰国するという事件が起った。競走部長山本忠興はこの年推されて日本陸上競技連盟の副会長に就任したが、早慶第三回戦に必勝を期し、マニラからの帰国後直ちに練習を開始した選手達を督励するため、連日グラウンドに姿を見せた。部員はこれに感激し奮起した結果、勝利の栄冠は初めて学苑に輝いた。

 これに力を得た競走部は、更に精進を重ね、また多くの優秀な中学校卒業選手も入学してきたため、昭和初期には全盛期を実現した。すなわち昭和三年、山本部長は英国のオックスフォード大学やケンブリッジ大学に試合を申し込み、六月十六日、山本部長引率の下に、沖田芳夫(商)、織田幹雄、南部忠平ら総勢二十二名は、東京駅を出発して遠征の途に上った。かくて七月十日、両大学連合軍からなるアキレス・クラブとスタンフォード・ブリッジで戦った。その結果は三一対三四の僅差で我が部の敗北に帰したが、十一種目のうち、四四〇ヤード・リレー一着、走幅跳では織田、南部が一、二位を、走高跳では木村一夫が第一位を、棒高跳では西田修平(一院)、笠原寛(専法)が同記録で第一位を、円盤投では古山一郎(専法)が第一位を、槍投では住吉耕作(一院)が第一位を獲得し大いに気を吐いた。第九回オリンピック大会での成果は既述(五一二頁)の如くであり、次いで八月十四日、パリで開かれた第三回国際学生大会にも我が部は出場したが、度重なる試合で選手たちも疲労していたせいもあって、第三位に終った。更に、昭和五年八月、ドイツのダルムシュタットで行われた第四回国際学生競技大会にも参加し、優勝はドイツに譲ったが第二位を獲得し、全世界の競技会に早稲田大学競走部の侮り難い存在を誇示するようになった。

 ラグビー蹴球部 前巻に述べた如く、学苑にア式蹴球が導入されるまでは、ラ式蹴球のみが蹴球部として公認されていた。東都においてラグビーが行われていた大学は、先輩格の慶応と学苑の二校だけであったが、明治三十九年の早慶野球戦中止のあおりを食って相見えることがなかった。しかし大正十一年に至り、早慶ラグビー部の先輩や部外愛好者の斡旋によって、初めて早慶戦が行われるようになった。ただし関係者一同は大事をとり、拍手以外の応援厳禁、学生は制服制帽のこと、和服の者は袴をはくことなど厳重な入場規定を定め、観衆の自粛を促した。こうして十一月二十三日、三田綱町のグラウンドで早慶対抗第一回戦が行われた。その結果は、一日の長ある慶応の快勝に終ったが、早稲田も善戦して○対一四の開きに止めたのは、上出来であったと言わなければならないだろう。

 これに力を得て、十二年五月の第六回極東選手権競技大会のオープン競技に参加し、初日には大阪高等学校を三九対三、第二日目には関西大学を五八対○の大差でそれぞれを降し、決勝戦は慶応と対戦して、六対一一の接戦で勝を譲った。

 大正十四年に入ると、創立当初の選手たちは殆ど卒業し、新しく高等学院に入学した選手たちがこれに代って大いに活躍し、全盛時代を現出する原動力となった。そのうちの一人、本領信治郎(後年の高等学院教授)は、昭和二年推されて主将となるや途方もない計画を立てた。すなわちニュージーランドおよびオーストラリアへの遠征である。これに要する費用は部費では到底賄えないので、大阪毎日新聞社に交渉してその後援を得、また日本郵船との交渉で船賃の半額割引にも功を奏した。引率教授に喜多壮一郎を、監督に木村文一を得、選手十八名を以て遠征団を組織し、昭和二年七月十一日東京駅を発って壮途に着いた。この計画は費用の点でオーストラリアだけにしぼり、途中マニラで戦って敗れ、オーストラリアでは五戦五敗と完敗したが、帰途マニラと香港で漸く勝利を収めた。二ヵ月余の大遠征後、九月二十二日神戸に帰着し、豊島園における全関東OBとの歓迎試合に、五九対○のスコアで大勝して面目を施し、次いで年末の早慶戦には八対六で初めて勝利の栄冠を得た。ところが翌年一月早々京都帝大に破れ、また同年明大にも初めて破られ、せっかく本場のオーストラリアで体得した技術も十分に発揮できず、却って不振状態に入った。

 ア式蹴球部 ア式蹴球部が大学体育会で正式に認められたのは大正十三年四月で、島田孝一を部長に戴き、活動を開始したが、実は既に大正九年高等学院が創立されて間もなく、その学友会の一部として発足し、更に翌十年に高等学院第二部が創設されて部が設けられたから、これと協同し、水戸高校、高等師範、豊島師範、青山師範等と対抗試合を行い相当の成績を挙げ、大正十二年正月には東京帝大主催の第一回全国高等学校大会に優勝し俄然頭角を現した。尤も正式に大学から認められるまでは「全早高」または「W・M・W」の名で各校と対抗試合を行ったのであるが、十三年一月初めて戸塚球場で慶応と相見えてこれに勝ち、不動の地位を確保した。かくてこの年都下の大学、専門学校等に呼び掛けて「東京カレッヂ・リーグ」を結成し、これを一部と二部とに分け、学苑は、慶大、帝大、法大、東京農大、高師とともに一部にランクされ、秋のリーグ戦では四勝一敗の成績で優勝した。高等学院からそれぞれの学部へ進学した選手達は、大正十五年三月、社会に送り出されたが、彼らは円球に深い愛着を持っていたから、稲門クラブを組織し、学院、大学、OBが一体となって「W・M・Wクラブ」と称して斯界に雄飛した。その結果、昭和二年日本選手権を握ったW・M・Wは、日本の代表選手となり、同年八月上海で行われた第八回極東選手権競技大会に出場し、中国には敗れたが、フィリピンには三対○で勝ち、早稲田ア式蹴球部の存在を東洋に知らしめた。更に、昭和五年五月東京で開催された第九回極東選手権競技大会では、W・M・Wから三名の選手が選ばれてこれに出場し、第一位の戦績を得るのに貢献した。

 山岳部 大正七、八年頃、井上寿三を中心として、土屋由郎、会田次郎らが「登山会」という小組織を起し、登山愛好者を集めて、日本アルプスの縦走などを楽しんでいた。彼らは山岳部の設立運動を始めたが、登山は勝敗を争うスポーツではないので、既設の体育各部のように大学当局公認の新しい部を作ることはスムーズに運ばなかった。他方、同じ頃霜鳥啓樹、東条義人、小川勝次らのスキー同好者が「越佐クラブ」という組織を作り、スキー部創立を目指していたので、山岳関係者は、スキー関係者に「共に山を相手とし、縁の深いお互いだ、一緒になって運動を展開しよう」(『早稲田大学スキー部五十年史』三六頁)と話を持ち掛け、協力して部創立に邁進することになった結果、学校当局、既設各部の了解を得て大正九年十月、「山岳スキー部」が発足したのであった。

 部は妙高山麓関温泉に合宿し、スキーー関係者はスキーの滑降に、山岳関係者は登山訓練に、それぞれ技を練ったが、やがて学苑当局は「登山はスポーツである」と認めるに至り、大正十二年十月、スキーと分離して山岳部と呼称するようになった。

 これより先、大正十一年六月、部の機関誌『リュックサック』が創刊されたが、その創刊号に東条義人(政)は「乗鞍岳スキー登山」と題し、大正十一年三月に乗鞍岳の信州側からのスキー登山に初めて成功した時の紀行文を寄せている。東条は当時斯界において非常に高く評価されたその時の感動を、「雪深き山に入つて半月、遂に我が望みは達せられた。最早や思ひ残す所はない。胸も裂けよと心行くまで高らかに歌ひ続けた」(三六頁)と書き残している。

 部設立の頃は未だ「ワンダラーとしての登山」という考えが大勢を占めていたが、漸次「スポーツとしての登山」という考え方が部の空気を支配するようになり、単に山に入った時ばかりではなく、東京にある時でも、トレーニングを行うようになり、科学的な登攀法を背景として積雪期の登山に全力を注ぐようになった。本邦山岳界は昭和初年以降積雪期登山に本格的に取り組むようになったが、それと並行して遭難事故が急増し、早稲田からも尊い犠牲者が出た。すなわち、第四回大沢小舎訓練の際、昭和二年十二月三十日針ノ木岳籠川谷に起った雪崩のため、一瞬にして参加者十一名中山本勘二、家村貞治、関七郎、上原武夫ら四名の学生の生命が奪われ、社会全般に大きな不安と混乱を巻き起した。この事件により部は活動を暫く休止したが、漸く昭和五年頃から立ち直り、昭和六年四月には奥穂高岳川谷積雪期登攀に初めて成功し、学習院に次ぐ第二回目の記録を樹立して愁眉を開いた。

 スキー部 山岳部の項で記した通り大正九年十月スキーと登山の同好者が相集まり「山岳スキー部」を設立したが、大正十二年十月この二つがそれぞれ独立し、正式に体育会加入が認められ、スキー部が誕生した。発足当時、選手達の大半は、雪国、特に信越地方の学生であった。当時は地の利を得た北海道帝国大学スキー部が断然他を圧していたため、学苑はこれの一蹴を悲願とし、妙高高原関温泉や福島県沼尻高原に合宿地を定めて、ディスタンス・レースの練習を重ねた。

 東京スキー・クラブが、東京朝日新聞社の後援により、第一回関東スキー大会を山形県五色温泉を中心として開催したのが大正十二年一月、大日本体育協会が第一回全日本スキー選手権大会を小樽に開いたのが同年二月であるが、大正十四年二月には、全国の同好者を集めて全日本スキー連盟が結成され、更に昭和二年十一月には、全国に散在する学生スキー団体を打って一丸とする全日本学生スキー連盟が誕生した。翌三年一月、早稲田、北大、法政、明治、専修、弘前高校、日大、小樽高商の精鋭を青森県大鰐スキー場に集め、第一回全日本学生スキー選手権大会が開催されたが、学苑は三〇キロレースに、一、二、三および六位、一五キロレースに一、六位を獲得し大いに名声を挙げた。こめ年の二月、スイスのサン・モリッツで開催された第二回オリンピック冬季大会には六名の日本代表選手が送られたが、その中の五名は本学苑現役・OBから選出された高橋昻、麻生武治、矢沢武雄(一院)、竹節作太、永田実(商)で、北欧の新知識を我が国にもたらし、斯界に貢献したのみか、学苑の後進を誘掖する上に多大の業績を残した。

 本部は距離競技において黄金時代を築いたのみならず、昭和五年の第三回全日本学生スキー選手権大会のジャンプで遂に宿敵北大を降し、宿願を達した。

 学苑は第四回全日本学生スキー選手権大会にも総合優勝し、また前述(五一五頁、五一六頁)の如く第三回以降の冬季オリンピック大会に、更に昭和九年の万国学生スキー選手権大会に主力選手を送った。

 馬術部 大正十年、植田弘(大商)、牧弘(大商)、今井史郎(理)の三名が発起して乗馬練習を始め、習志野の野砲兵第一連隊等の馬場と軍馬とを借り受けるのに成功したので、同好者を募集し、同年五月早稲田大学馬術会を設立した。翌十一年総員十名が全国乗馬大会に参加し、既設の稲門乗馬会と合併して早稲田大学馬術部と改称、責任者も初代会長ヘンリー・コックスから部長浅井郁太郎講師に代った。更に十三年には理事松平頼寿が特に選ばれて部長に就任した結果、部員の数も百五十余名の多数に増大した。尤も陸軍省ならびに農林省の強大な後援にも拘らず、未だ専用馬を持つに至らず、軍馬を借用して練習を続けるような有様であったが、その熱意が稔り、昭和二年には体育会加入が許され、馬術部として公認された。これには、大正十五年早帝定期戦の開始以後、優秀な成績を挙げたのが与って力があった。また昭和三年以降昭和六年まで、各種の対抗試合、或いは関東、関西、東北等の各地で催された地域大会、或いは全国大会などに、代表選手を送り、殊に全日本選手権獲得者を三回まで出すほどの活躍振りであった。

 籠球部 この部の創始は、大正九年早稲田高等学院に入学した浅野延秋(大一五商)に負うところが多い。浅野は同好者を集め、時々バスケットボールの練習を行っていたが、大正十年、高等学院講師H・G・スペンサーのコーチを受け、頭角を現した。たまたま大正十一年の春全日本選手権大会が開催された時、同志を集めて出場し、当時の強豪大阪YMCAと対戦して惜敗した。しかしこれに奮起して、立大、商大に呼び掛けて全日本学生籠球連合を組織し、その秋から早・立・商三大学リーグ戦を開始した。この時の順位は立に次いで二位を占めたので、部の存在が学内に認められ、入部者数を増した。更にシカゴ大学バスケット部のノーグレン監督やワイス主将の来日を機会に、これらのコーチを受けて、ゾーン・ディフェンスを会得し、立大を破り覇権を握った。この結果翌十二年には正式に体育会に加入が認められ、十三年秋の第一回明治神宮競技大会に出場したのを手始めに、関西に遠征して好成績を挙げ、昭和二年にはアメリカに遠征して恥ずかしからぬ成績を収めた。この時体得した本場の技術により、第八回全日本選手権大会および東都大学リーグ戦などに出場して優勝の栄冠を獲得した。しかし五年東京で開催された第九回極東選手権競技大会には、大庭哲夫(理)ら五名が選抜されて出場しながら、中国に二勝、フィリピンに一勝二敗の成績で、第二位にとどまらざるを得なかった。

 スケート・ホッケー部 留学から帰国した喜多壮一郎は、遊学中、専門の学科を勉学する以外に、あらゆる競技種目にも興味を持ち、殊にスケートやアイス・ホッケーに多大の関心を持っていたから、若い学生から大いに歓迎されたが、大正十一年に同好の士を集めてスケート・クラブを結成し、十二月には早くも長野県諏訪に合宿し、諏訪湖上で練習を開始した。翌十二年二月に日本スケート会が同地に大会を始めたのでこれに参加し、二十五名の会員中の一人、小口孫六(商)が、一五〇〇メートルで八位に入った。この当時、会員中にはアイス・ホッケーの練習を試みた者もあり、大正十三年一月、第二回諏訪湖合宿において、日本最初の公式アイス・ホッケー試合を松本高等学校と行い、これを「八対一で打ち破つて先づ新年劈頭大気炎を揚げ」た(『早稲田学報』大正十三年三月発行 第三四九号 二〇頁)。そこで大学当局の公認を得るため体育会への加入運動を熱心に進めたが、容易に初志を貫徹できなかった。漸く大正十二年四月、補助金を受けぬという条件で、スケート・ホッケー部として加入が認められ、十三年の秋には帝大、慶大、松本高校等とともに、学苑もこれに加わって日本学生氷上競技連盟の創立に成功し、翌年一月第一回日本学生氷上競技選手権大会を松本市外六助池に開催し、学苑はアイス・ホッケーに初優勝を遂げた。これに刺戟された後輩たちは、天然氷上の練習ばかりでなく、こうした気運に動かされて新設された数個所の室内リンクをも利用した結果、昭和四年には初めての満州遠征を果すことができた。すなわち同年一月鴨緑江上で挙行された全日本選手権大会への参加を兼ねて渡満し、満州諸チームと戦い、アイス・ホッケーでは十勝一敗の大勝を博したが、スピード競技では不幸にも連敗を喫したものの、大いに啓蒙されるところがあった。

 この間我が部員たちはアイス・ホッケーに通ずる競技として陸上ホッケーを行うようになった。大正十二年からは陸軍戸山学校、明治、慶応などと対戦を開始し、大正十三年の学生リーグに三位、全日本選手権大会に二位となった。昭和二年には、上海、香港に遠征を敢行、四勝四敗の成績を収めたが、陸上ホッケーは、その発展とともにアイス・ホッケーから分離していき、遂に昭和七年独立した。

 卓球部 卓球の同好者が早稲田クラブを結成し、東京卓球クラブ・リーグ戦に加盟し、実業団クラブと対抗戦を開始したのは、大正十二年であった。この時は未だ練習場を持たず、第一高等学院の雨天体操場の一部を借りて練習していたのであり、右が授業に使用される時には全く練習ができず、放課後に急遽卓球台を組み立てて練習するほかなかった。しかし漸次志望者が増え、卓抜な技術者も輩出したので、十三年十一月前記の早稲田クラブを解散して卓球部を創立し、学生卓球連盟に加入し、当時の実力者農大や、東京歯科医学専門学校等と伍して覇を競った。卓球部が実力を認められたのは大正十四年の秋季リーグ戦に初優勝を遂げてからで、翌十五年には春季、秋季共に優勝したのを機会に、第一回関西遠征を企て、十三戦して九勝四敗の成績を収めた。正式に体育会に加盟した昭和三年以後数年間は春秋のリーグ戦に優勝し、部は黄金時代を完成し、不朽の金字塔を樹立した。

 拳闘部 我が国にボクシングが伝えられたのは明治年間で、拳闘技と称し、スポーツというよりも寧ろ見世物であった。それが学生競技に取り入れられ、スポーツとして一般化したのは、大正の末期で、神田の殖民貿易語学校の拳闘部が学校から公認されたのが、大正十二年のことであった。続いて明大、安田保善学校等にボクシング部が設けられ、学苑でもこの頃一部有志によるクラブが誕生して練習を行った。しかし未だ専用の道場を持たなかったから、第一高等学院の雨天体操場を利用するか、各教室を転々としてサンドバッグ等をかついで廻るという有様で、その練習も容易ではなかった。そのうち、この競技に対する関心も漸く各学校間に高まり、慶応、東洋商業学校、慶応義塾商工学校等に相次いでボクシング・クラブが設立され、大正十四年春には早くも第一回学生拳闘選手権大会が、またその秋には第二回大会が、九段靖国神社相撲場に開かれた。このときには各学校のクラブは日本拳闘倶楽部の傘下にあった。その後東京、京都をはじめ、その他の地方の学生間にも行われるようになり、また学生以外のアマチュア選手も急増するようになったので、統制機関としての組織を持つ必要に迫られた。そこで大正十五年七月、全国学生拳闘連盟と全日本アマチュア拳闘連盟の二つが同時に結成され、学苑の拳闘クラブをはじめ既設の三大学および七中等学校の計十部が前者に、同時に日本拳闘倶楽部、大森拳闘倶楽部、京都同志社倶楽部の三団体とともに右の十校もまた後者に加盟するようになり、ここに強力な体制が確立された。

 学苑の選手が最初に選手権を取ったのは昭和三年春の第二回全日本拳闘選手権大会であり、多賀安郎(専法)が四年秋の第四回大会までミドル級の連続チャンピオンとなった。彼の活躍が認められて昭和四年体育会加入が実現し、正式に拳闘部として発足した。これを記念して同年十月、両校学生で超満員の大隈講堂において第一回早慶対抗戦を開催したが、我に利あらず、三・五対四で惜敗した。なお、そのひと月後の第四回全日本拳闘選手権大会では、初代拳闘部主将となった先の多賀のほか牟田季彦(専政)もフライ級で優勝を果たし、アマチュア拳闘界に頭角を現した。