昭和五年十月、東京六大学野球リーグ戦の掉尾を飾る早慶戦の開幕を前にして、我が学苑には大きな紛擾が起った。世にこれを切符事件という。明治三十九年に中止された早慶野球戦が大正十四年に復活すると、その人気は圧倒的となり、全国津々浦々が早慶野球試合に注目し、当日ともなれば数万の群集が神宮球場に押し掛けて大変な騒ぎになった。
はじめ早慶両大学の学生入場券は当日球場の窓口で販売されていたが、混雑緩和のため、その分は他の方法で学生に配布してもらいたいとかねてより警察から野球連盟に申し入れられていた。連盟ではいろいろな案が考えられたが、結局、早慶野球部に委任され、学苑では事務所を通して配布することになった。学苑の切符配布は十月十四、十五の両日に行われたが、俄然、学生の不満がふくれ上がった。大学側の説明では、後述の如く、分配する入場券は、学生に分配するもの二日分合せて一三、八〇〇枚で、慶応に比べて学生数の多い学苑では、一、二回戦とも応援したいと熱望する学生の手に入るのは一枚きりであったからであり、その上、どのような事情に基づいてか、その一枚すら得られなかった学生が若干ではあるが存在したからである。分配に不正があるとの噂がどこからともなく流れ、不満を煽った。騒動の火の手は高等師範部からあがった。大学から同部事務所に配布された枚数より学生に配られた枚数が七一枚少く、それが事務所の引出しにしまってあることが、学生の追及の結果、判明したのである。激昻した学生達の前に呼び出された事務主事は、七一枚は欠席常習者に配るのを保留した分だと釈明したが、学生達は聞き入れなかった。全学の学生委員は教室に集まって今後の対策を協議し、翌十六日の正午から校庭中央で学生大会の開催を決めた。この頃から連合学生委員会という名が出てくる。二〇五―二〇七頁に既述した如く、学苑には関東大震災の年十一月に「学生委員会規則」が施行され、学生五〇人につき一人の学生委員が選ばれ、各個所別に学校と学生との連絡役を務めていたが、早慶野球戦の切符の配布の不公正が問題にされるに及んでは、当局への抗議の中心に立たざるを得ない。こうして、全早稲田連合学生委員会が出現したものと考えられる。
十六日正午からの学生大会は大荒れに荒れ、事は切符問題を離れて、大学のあり方全般に、更に大学当局の弾劾にまで及んだといわれる。大学が十七日に新聞に発表した「声明書」には、四五九頁に後記する如く、「不法にも校庭に集合し入場券不買同盟、学生の自治権獲得、授業料三割値下、野球部応援拒絶、選手出場禁止等の決議を為し、計画的に恩賜記念館に闖入して狼藉するの醜態を演じた」とある。
しかし、この段階では、議論はまだ切符配分方法の不公正の追及にとどまっていたのが真相のようであり、いわゆる恩賜館事件も誇大に歪曲されて世間に伝えられているふしがある。すなわち、切符配分についての当局としての考えを述べてもらおうと、再三に亘り担当幹事・主事の出席を要請したが、応じられないので、業を煮やした一部の学生が無理矢理連れ出そうとして館内に入り、揉み合いになったというのが事実のようである。従って、当日の大会で、理事者の弾劾、授業料の三割値下げ、自治権獲得などが決議されたというのも、事実かどうか疑わしい。大会終了後、連合委員会が作成し、翌日の新聞に掲載された「声明書」は次の如くである。
今回早慶野球戦入場券配布方法につき、学校当局は前シーズンに比して入場券の増加を見たるにもかかはらず、我々の期待を裏切りたる不公平なる処置に出でたるため、全早稲田聯合学生委員会の名において再三再四その折衝を重ねたるも、当局は言を左右にして我々の要求を一蹴し、何等の誠意を示さざるため、ここに全早稲田聯合学生委員会の決議に基き、不買同盟を決行するものなり。然れどもわれわれはタダ学校当局の誠意なきを責むるものにして、早慶野球戦の挙行に対しては何等の悪意を有するものに非ず。……なほ本問題の解決を見ざる場合、学生は平常通り登校し授業を受くるものとす。
(『東京日日新聞』昭和五年十月十七日号)
学生は切符の不買を決議したが、早慶戦の挙行そのものには反対していない。「本問題の解決を見ざる場合、学生は平常通り登校し授業を受くる」との表現の中には早慶戦の無視、つまり応援を拒否するとの意志表示が含まれているが、それも積極的なものではない。応援したい学生は各自で行ったらよいだろうという面もある。しかし、不買の決議は大部分の学生によって守られ、やむなく大学は一万枚以上の切符を野球部に返還している。大学当局に対する学生の不信感の根深さを、この事実は示しているように思われる。
事態を一挙に悪化させたのは、その夜および翌十七日にとられた当局の対応措置である。当時、高田早苗総長は塩沢昌貞らを伴って台湾旅行中であった。大学の運営はすべて田中穂積常務理事に委ねられてはいたが、総長不在が学生への対応に適切さを欠く原因となったのは否めない。はじめ学生の追及をただ突っぱねていた当局も、十六日の夜になって、緊急理事会を開いた。大隈会館でのその会議は翌朝の二時にまで及んだという。議論の内容は勿論不明であるが、おおよそのところは翌十七日発行の夕刊に発表された「声明書」によって察しがつく。
今般の出来事は遺憾至極なるも、元来現在の神宮外苑野球場は狭隘にして一般の希望を充たす能はず。早慶野球入場券の分配は昨年警察署が販売監督を持て余し、今春又野球聯盟においては名案なき結果、最後の窮策として今回限り早慶両大学野球部に折半し、大学はその依頼により分配の任に当りたるものにして、両野球部に聯盟より交付したるものは一、二回を通じ、内野券七千八百枚外野券一万六千八百枚にして、その中応援団及び体育各部に交付すべき内野券三千八百枚を差引きたる残り四千枚を野球部及び稲門クラブと大学とに折半し、外野券の中学生券一万枚を差引きたる残り六千八百枚もまた野球部及び稲門クラブと大学とに相半したるものなり。即ち学生に分配せらるるものは一、二回を通じ内野券三千八百枚外野券一万枚にして本大学は慶応義塾に比し学生数多数なるも、尚且つ一枚づつは充分に普及すべき筈にして、また大学の受取り分内野券二千枚外野券三千四百枚合計五千四百枚はこれを八百余名の教職員、校賓、維持員、評議員、校友会幹事、関係官庁及学校体育部先輩、地元関係者並に在京一万数千の校友中の熱心なる希望者に可及的分配するは、その不足に苦しむも断じて過大といふべからず。然るに危険的思想系統に属する一部の徒は内外策応して盛んに流言蜚語を放ちて学生を煽動し、不法にも校庭に集合し入場券不買同盟、学生の自治権獲得、授業料三割値下、野球部応援拒絶、選手出場禁止等の決議を為し、計画的に恩賜記念館に闖入して狼藉するの醜態を演じたるは遺憾の極みにして、大学は特に一般学生に対し十七日は公休日なれば十六日の午後事務所閉鎖時刻までに受取方を勧むる告知を発したるも、不買同盟に背く学生には制裁を加へると称して脅迫したるがため希望者の申出なかりしが故に大学は遺憾ながらすでに発売済となりたる残部一万余枚の入場券は挙げてこれを野球部に全部返還するのやむなきにいたれり。
十月十七日 早稲田大学
(『東京日日新聞』昭和五年十月十八日号)
これによると、大学当局がとった切符配分方法とは次の如くであった。すなわち、野球連盟から大学に交付された切符総数は内野券七、八〇〇枚、外野券一六、八〇〇枚、計二四、六〇〇枚。このうち、大学は内野券四、○○〇枚、外野券六、八〇〇枚、計一〇、八〇〇枚を控除して、残る一三、八〇〇枚(内野券三、八〇〇枚、外野券一〇、〇〇〇枚)を学生に配分した。一回につき六、九〇〇枚である。大学が控除した一〇、八〇〇枚は大学当局と野球部、稲門倶楽部とで折半されたが、教職員と校友、大学および運動部関係者――その中には関係官庁や地元関係者まで含まれている――の希望に応えるには、このくらいの枚数の留保が必要であり、大学の措置は当然だと言っている。大学当局の立場からすれば、事情はその通りであったろう。しかし、この説明は学生達を納得せしめるものではなかった。早慶野球戦が大学の行事ならば、早稲田・慶応の学生の参加・応援が第一に考えられねばならず、一般の人々への配慮は第二、第三の問題である。当時、学苑には昼間の学生だけでも一万三千余人、これに夜間の専門学校、工手学校、高等工学校の学生を合せれば、更に多数が在学した。また学生が一、二回戦の切符を希望するなら、この倍の数が必要となり、これだけの数の切符は学生のために確保されて然るべきであると学生が考えたとしても無理はない。二四、六〇〇枚の半分に近いものを学生以外に配布して当然だとの態度は、学生不在の大学運営、学生野球の興業物化の現れに他ならないとして、「声明書」は逆に学生の大きな反発を誘ったのである。
学生を反発させたもう一つは、十五日以来の動きを「危険的思想系統に属する一部の徒」による煽動の結果と断じた箇所である。それはある意味で事実には相違なかったが、この段階でそうきめつけたのは当を得た策ではなかったと言わねばならない。この段階では、学生は切符配分の不公正に関して、当局の姿勢を追及していたのである。前述の如く、学生自治権の要求とか反動当局の排撃とかが一部学生により提案されていたらしいが、大会決議にはなっていなかった。それだけに、かかるきめつけ方は、日頃「危険的思想系統に属する」学生達の言う大学批判、すなわち、大学当局は自らの不手際を毫も反省せず、学生の動きを常に色眼鏡で見て、その真意を理解しようとしないとの批判の正しさを裏付けるものと見られた。また、一般の学生達を付和雷同の徒と罵るものとも受け取られたのである。
こうして、十七日の大学声明は学生を失望させ怒らせる一方、世間に対しては事件を誇大に印象づけ、学生の動きを却って政治的な方向にエスカレードさせるきっかけとなったのであるが、そこにもう一つの問題が付け加わった。それは臨時休業措置である。十七日は神嘗祭で大学は休みであったが、学生は午前十時から学生ホールで連合学生委員会を開いた。新聞で大学声明を読んで駆けつけた一般学生も多数加わり、会議のヴォルテージは次第に高まった。夜に入ると会場には不穏な空気さえ流れたという。戸塚署の警官数十名が付近の警戒に当ったところから推すと、恐らく相当に険悪な状況もあったのであろう。当夜は、警察署長の説得などもあり、午後十一時頃一応何事もなく解散とはなったものの、明日の早慶戦当日にはどのような不測の事態が現れるであろうかとの危懼は、当然各方面で持たれた。その点を最も心配したのは言うまでもなく大学当局であった。種々検討の結果、明十八日を臨時休業とするのがよいとの結論に達した。この措置は当局の立場に立てば、やむを得ないところであったと思われる。
しかし、十八日、平常通り授業を受けるとの盟約を守って登校し、臨時休業の掲示を見た学生達は、全く違う受け取り方をした。彼らは前夜の雰囲気を全く知らない。また、仮にそれを知っていたとしても、だから臨時休業もやむを得ないとは考えなかったであろう。学生にとっては意図とか心情が重要なので、起るかもしれない結果は考慮条件には入らない。つまり、大学当局が臨時休業に踏み切らざるを得なかった事情を理解する条件を、学生達は全く欠いていたのである。従って、この措置は学生の真摯な行動を頭から抑え込もうとする一方的な休業であると受け取られた。こうした情勢ギャップと観点の相違は大学と学生との間に常に存在するものなのかもしれない。
いずれにしても、学生達はいやが上にもいきり立ち、午前十時頃から各所に会合を持ち、侃々諤々の議論を行った。そして、午前十一時、前日に引き続いて学生ホールで連合委員会による大会が開かれた。会議は午後に入り、更に夕刻に入り、午後六時頃に漸く大会決議がなされた。決議は次の五項目からなる。
一、全早稲田聯合学生委員会を公認せよ
一、体育会を否認し且即時解散を命ぜよ
一、今回の問題につき当局の陳謝を求む
一、本日(十八日)の臨時休業の理由を明かにせよ
一、不当処分を絶対反対す
全早稲田連合学生委員会を公認せよとは、自治権を持つ委員会すなわち学生自治委員会を公認せよということであろう。前述の如く、大震災の年の十二月に学苑では学生委員会が上からのお声がかりで設立されたが、第七条に「各学部科ノ委員会ハ毎月一回開会シ、当該学部長又ハ教務主任議事ヲ整理ス」(二〇六頁参照)とあるのみで、委員会そのものの権利・義務・職能についての規定はない。ということは、学部長・教務主任の諮問に応えたり、学部の教務事務の伝達の補佐をする程度のものであったのを意味する。従って、委員会を自治会にせよ、否、すべきであるとの要求はいろいろな機会に当然起った。大正デモクラシーの思想と心情は金体的には退潮しかかっていたが、大学ではなお生々と息づいていたのである。前年の雄弁会解散に反対した運動の中でも、学生自治会設立は目標の第一に掲げられていた。第二の体育会の即時否認、解散要求が決議となった経緯の一つには、当時行われていたいわゆるスポーツ阿片論があったろう。スポーツは学生の精力を消耗させ、またそれが持つ厳しい団体的規律により自我や批判的精神を眠らせる。だから、スポーツを排撃しなければならないというのである。この論には大学スポーツの興業化なる議論が伴う。大量の切符を大学が付き合いの道具に使おうとしたとの指摘は学生達にこの議論の正しさを立証したに相違ない。しかし、右の決議が出てくる直接の原因は早慶戦の取扱いに関する連合学生委員会と体育会との態度の相違、従って両者の対立であったと考えられる。体育会としては、連合学生委員会の決議だからといって、早慶戦の応援をボイコットするわけにはいかなかった。
形勢のあまりの重大化に驚いた野球部は十六日午後五時、体育会各部委員を大隈会館に招集して協議会を開いた。協議の結果、体育会としてはあくまでも早慶戦を充実した形で行いたい、ついては、大学当局に残っている入場券をも全部、応援団幹部の手から学生に渡すように取り計ろうということになった。この結論を携えて、野球部幹部が連合委員会に諮ったが、この提案は拒否された。そこで体育会関係者は再度相談し、一般学生の応援団の代りに各体育部員を入場させ、野球選手を激励することを決めた。稲門倶楽部もこの決定を支持したので、連合学生委員会の開かれた十八日、体育会関係の学生数百人は神宮球場に赴き、応援を行った。この決定と行動は連合学生委員会をいたく刺戟し、体育会の即時解散という過激な要求となっていった。体育会は大学当局と学生と更に慶応野球部との三者の間にあって、二重、三重の板挟みになったわけで、その苦衷は察するに余りある。野球部・体育会としては試合の相手校を裏切るのは何としても避けねばならなかった。しかし、連合委員会の学生はもとより、一般学生の大半も体育会の置かれた苦しい立場を理解しようとはしなかった。一番気の毒なのは試合に臨んだ野球選手達であった。彼らは精一杯のプレイをしたが、結果は四対六で敗れた。翌十九日の試合も四対五の惜敗であった。悪化の一途を辿っていく学苑の騒動が選手達の心を暗くし、それが敗因の一つとなったのは確かであろう。
十九日正午、連合学生委員会の代表は前日の五項目決議を理事会に提出し、午後七時半には質問書を田中常務理事に突きつけた。これより先大学当局は、午前九時第一高等学院に学部長と付属学校長を集めて事態の説明をし、今後の対策を諮った。学生の要求はすべて到底応ずることのできないものなので、先ず極力学生を説得しようというのが、結論であったようである。教職員にも広く理解と協力とを求めようということにもなった。そこで、翌二十日は当時創立記念日として休日であったが、各学部で教授会が開かれた。しかし、教授会メンバーのこの問題に対する反応は概して冷やかであった。それは学生と大学事務当局との問題であって、我々教授会の関知するところではないとの空気が支配的であったからである。後年この事件回顧の座談会に出席した阿部賢一(第八代総長)は「僕は政経学部の教授だったけれども、教授会でこれが問題になったという記憶がないな。切符問題など我々は無関心だったような気がするね」(『早稲田大学史記要』昭和五十二年三月発行 第一〇巻 二一七頁)と発言している。
次に掲げる一文は、この学苑の騒動を学生の教師に対する争議と見て、愛情と尊敬を軸にすべき師弟の関係が力による労資の関係と同じようなものになってしまったことを嘆じる『東京日日新聞』の論説に反論する投書であるが、当時の学生の気持の一斑をよく示しているように思われる。
貴紙十九日の社説(早稲田大学の紛擾)には、首肯さるべきところも多々ありましたが、またその観察の当を失してゐやしないかと思はれるところもあります。第一、今回の事件は普通の学生騒動とは全然その性質を異にし、事件の起りは、当局にゐる事務員の失態に端を発してゐるやうに思はれます。吾々早稲田の学生は、吾々の恩師には何の怨みもなく、また全然この事件に関係してゐません。いはば今回の事件は、学生と学校を管理してゐる事務員との関係であつて、教師の与り知らぬところであります。しかもこの事務員たるや、常に学生を猜疑の眼を以て見、或はその欠点をとらへるを知つて、これを導くことを知らぬスパイみたやうなものであり、圧迫をこれこととする頑固爺であります。学生がかれ等に対し常に大きな不満を持つてゐるのは隠れなき事実であり、それが情勢をかくならしめた一つの原因でもありませう。また学生聯合委員会を設置し学校当局と善意の存在の下に、益々よりよき学園を形造つて行かうとする学生の行動の、どこに非難さるべき点がありませうか。恩賜館事件にしろ、学生は決して恩賜館といふ意識の下に故意に動いたのではなく、〔関係〕主事が恩賜館にをられて、どうしても出て来て弁明してくれないので、ああした事件が起つたまでのこと、暴行の事実は悪いに違ひないが、偶然、今回の中心事務所が恩賜館の中にあつたといふことを考ふべきだと思ひます。 (一早稲田学生)
(『東京日日新聞』昭和五年十月二十二日号)
しかし、これが学生の気持のすべてではない。あくまでも一斑であった。これに対して、切符問題、つまり当局の態度・姿勢の問題は現象に過ぎない、問題の本質は大学のあり方そのもののうちに存在するとの考えを持つ学生も多かったのである。こうした相違は授業拒否・同盟休校が議論され始めるや急速に顕在化し、学生側の足並は乱れた。
二十日の午後になると、学生達は五項目決議に対する大学側の回答をしきりに督促した。回答が得られない場合には同盟休校に入ろうとの計画が、この頃から連合学生委員の間で話し合われたらしい。二十一日、学生が登校してくると、授業拒否・同盟休業を以て大学当局に立ち向おうとの呼び掛けがなされ、午前十時頃から、その可否を問うクラス会が持たれた。新聞報道によると、討議の結果は次のようであった。
盟休即時決行――九十六クラス、当局の回答あるまで授業拒否を続け回答の結果によつて盟休に入るといふもの二十四クラス、回答を待つて態度を決するもの九クラス、大勢順応二十九クラス、盟休絶対反対ではないが即時には反対しただ時期を見るといふもの二十八クラス。 (『東京朝日新聞』昭和五年十月二十二日号)
一八六クラス中一二〇クラスは盟休、或いはサボタージュを支持したことになっているが、反対を表明したクラスも多く、特に商学部学生は明確に盟休反対の立場を執った。入交好脩は前述の座談会で次の如く言っている。
私は昭和七年卒業でございますから、当時は二年生でした。商学部では各学年でクラス委員を選出しておりまして、二年生では私が委員を勤めていました。私はこのような重大な事態には私の指導教授であられた平沼淑郎学部長の許可を得たうえで、合法的な学生大会を開いておりました。このときには平沼先生は細かいことはおっしゃらずに、「うん、よかろう」と許可してくださいました。ところが、無理もないことですが三年生委員は就職活動で忙しく出席できないので、二年生と一年生とで学生大会を開きました。商学部全学生九百人中百五十人ぐらいが集まりました。当時の商学部は非常に穏健でして、理事が早慶戦の切符を山のように隠していたことに対してはけしからぬと激昻しておりましたが、ストライキ可否の学生大会を開きますと、スト決行賛成者は三パーセント、すなわち九七パーセントが穏健派でございました。
(『早稲田大学史記要』第一〇巻 二一五頁)
こうして同学部学生委員は次のような脱退声明書を作り、連合委員会に発したと当時の新聞は報じている。
我々は今日まで全早稲田聯合学生委員会と行動を共にせしが、不幸にして見解の相違を来し、ここに全早稲田聯合学生委員会と別れ、別行動をとるのやむなきに至れり、右声明す。 (『東京日日新聞』昭和五年十月二十三日号)
理工学部および法学部学生の多くも反対、或いは消極論をとり、決行論は政経学部、文学部、特に第一・第二高等学院の学生の間に強かった。午後から商学部、専門部商科、および理工学部の大部分の学科では授業が開始されたが、その他は終日、休講状態であった。午後三時から、商学部委員を除く連合学生委員会が開かれ、同盟休校が協議された。大学当局はもはや観望しているわけにはいかなかった。午後五時、田中常務理事は十一名の学生代表を大隈会館に呼び、「入場券問題でこんな大きな問題を引き起した事は学校としても遺憾にたへない。学校が学生を怒らせた事は誠に相すまぬが自分に免じて許してくれ、水に流して静かに授業をうける様」(『東京朝日新聞』昭和五年十月二十二日号)にと陳謝し、説得した。この田中理事の率直な態度は学生にかなりの感銘を与えたが、弾みのついた勢いはとどめられなかった。それでも、田中はなお諦めず、午後七時には、学部長・学校長を同道して学生ホールに赴き、連合学生委員会に陳謝と説得を繰り返した。だが、狂瀾を既倒に廻らすことはできなかった。
連合学生委員会は取敢えず明二十二日の授業をサボタージュすること、運動の指令部として統制部を設けることなどを決めた。統制委員長には専門部政治経済科の藤井丙午(後年の参議院議員)が選ばれた。前記の座談会において、藤井は当時を回想して次のように述べている。
各学部では賛否が分かれ、商学部や法学部は比較的反対が多かったのですが、全体会議になると、政経学部や文学部や専門部のラディカルな意見に牽引されていきました。そこで各学部から統制委員が数名ずつ集まりまして、全体で三十五、六名の統制委員会――今でいう闘争執行委員会――ができたんです。私は旧制高校の受験に四回も落第したあと専門部へ入学したのですが、専門部よりも政経学部の諸君と接触が多く、政治経済攻究会や雄弁会にも顔を出し、早稲田模擬国会を開いて副議長を務めたり、右翼が独占していた応援団を改革したりして、全学に顔を知られていたものですから、結局私が統制委員長になったんです。……私と近藤鷹敏〔政治経済学部〕と迫田義雄〔専門部法律科〕と大久保猛〔専門部政治経済科〕との四人が常任委員でしたが、当時は共産党が非合法で、ストライキをやればその幹部は警視庁に検束される懸念があったので、私たちは地下へ潜りました。何と、そのアジトに選んだのが、今はもうありませんが、神楽坂の「瓢」という待合なんですよ(笑)。この待合から指令を出しておったんですが、金がかかるものですから、今度はもっと安い、東横沿線の綱島温泉にある「入舟亭」ヘアジトを移しまして、作戦を凝らしたあとは、田舎のほっぺたの赤い芸者衆――我々は草餅芸者と呼んでいたんですが――を呼びまして(笑)、酒宴を開いたものでした。今の学生運動とはまるきり時代が違います。そうこうするうちに、警視庁にいろいろ探りを入れた結果、検挙される恐れのないことがわかりましたから、表面に出てきて、高田牧舎を借り切って統制委員会の本部を置き、持久戦に入りました。 (『早稲田大学史記要』第一〇巻 二〇九―二一〇頁)
この二十一日のサボタージュに始まる紛擾の本舞台に最終的な幕がおりるのは、翌月の十七日である。その間、新聞は殆ど連日、学苑の騒動を大見出しで報道した。既に商学部・理工学部では平常通り授業が行われ、これに倣おうとする箇所も次第に増えていたから、学苑内部に身を置けば、混乱という事態はそれほど目に入らなくなった。しかし、外部の人々には、紛擾は泥沼化していくように見えた。新聞は正常な部分はあまり報道せず、異常な部分のみを取り上げるものだからである。尤も、確かにこの頃から紛擾はその性格を変えるとともに、ある意味で深刻さを増していった。学生の動きそのものが、規模の上では縮小しながら、否、縮小したが故に、質的には却って闘争的に尖鋭化していったが、そこに学生以外の要素が加わり、それぞれの大学批判・当局批判を切符問題にからませたので、尖鋭化に拍車がかかる傾向があった。極端な言い方をすると、切符問題はそっちのけとなり、或いは単なる口実となったのである。大学当局と対立関係にあった勢力が紛擾をそれぞれの日頃の目的を実現する絶好の手段ないしは場面として捉え、紛擾の継続・激化を願ったことが、切符事件の解決に意外に日数を要した原因であると思われる。十月二十三日の『東京朝日新聞』は、「世相を反映するか/学校騒動時代の現出/僅か一年間に三十校の紛擾/被処分者実に六百名」という見出しのもとに、次のような記事を載せている。
早大では依然盟休騒ぎを続け、目白女子大では校規改正に反対して断然盟休、又東京女子歯科医専のゴタゴタもいつ解決するかわからない有様で世間の視聴を集めてゐるが、最近殊に学校騒動が非常に殖え、あたかも学校騒動時代が出現したかの奇観がある。これは注目すべき全国的現象で昨年高等学校だけでも十一校の盟休騒ぎがあり、今年に入つては富山、浦和、松山、三高、台北、佐賀等引続き盟休を繰返し、一方同志社、立正大学、日本大学、関西大学、大谷大学でもかなり深刻な騒動が展開されたが、昨年来騒いだ学校は実に三十校に上り、その結果学生で譴責以上の処分をうけた者は六百名を越えてゐる。もちろんこの中には共産党事件に関連して処分された者もあるが、もつともひどかつたのは三高で除名及び停学四十一名、譴責三百九十三名に上つてゐる。
この記事は更に「表から裏から/その原因は複雑/学校が悪いか学生が非か」との小見出しつきで、学校騒動時代出現の原因を次のように記している。後半は学苑の紛擾に係わるものなので、やや長文に亘るが引用しておく。
近来の学校騒動の原因については学生の就職難――つまりそれが学生の将来を極度に不安に陥らせる結果、学生が多くは神経質となりイライラした絶望的な気持ちから、事毎に雷同性を多分に持つやうになつたためであるといふものもあるが、騒動の実際の原因について見るときは、校友会の自主化とか、寄宿寮自治の要求、検束学生の処分緩和請願、選手制度の廃止、共済部設立要求など様々で、一面には学校当局者の学生に対する統率力が乏しくなつたこと、私立学校では学校経営の経済的根拠が薄弱で、中には学校営業化の観を多分〔に〕持つてゐるやうなのもあり、学生等から内かぶとを見すかされ、その結果昔の師弟関係の美風が地を払ふやうになつたこと、学生の左傾思想が原因となり、時には校外と連絡を取ることもある等が主要な原因で、それがため一度騒動が起ると表面以上に複雑な事態となり容易に解決を見ない傾向にあるものと見られてゐる。即ち早大の紛擾事件の如きも一般に知られてゐる原因とするところは早慶戦入場券分配の問題であるが、その裏面には同学園内に長くわだかまつてゐる現学校当事者と旧勢力暗闘の現れがあり、この紛擾に乗じて学生等の糸を引きその結果事態を混乱せしめてゐるともいはれてゐる。また一方にはいはゆる急進的思想の学生等は平素常に学校当事者に対し反抗的な態度にあつたので、今回の入場券問題を利用して学校当局に反抗の挙に出でようとする形があり、これに大多数の学生等は血気にまかせて騒ぎだした傾きのある事は否み得ないといはれてゐる。
この意見は学苑の紛擾の性格づけとして、大体において妥当である。これから十一月十七日の解決式に向けての動きは三部分からなっていた。すなわち、第一は学生の動きである。この動きの性格は切符の不公正な分配に憤り、そのような不公正な分配を行わせる当局の姿勢に猛省を迫らねばならぬとするものである。当局が反省を求められた事柄の一つには、討論・研究の自由、なかんずく社会科学研究の自由を制限、或いは禁止しようとする文部省の方針に大学が追従しすぎるということがあった。そういう当局の姿勢は改められるべきであるとの気持を持つ学生は少くなかったのである。第二の動きは政治的・政党的な動きである。その主体も学生、或いは元学生達であったから、これも学生の動きに他ならないとも考えられるが、事態の理解のためには、区別した方がよい。勿論、両者は重なり合う部分を持った。討論・研究の自由、社会科学研究の自由の主張・要求は共有部分の中心であった。また、学生自治会の大学による公認の要求も共有されていた。前掲の投書にもあるように、学生が自治会を作り、よりよい大学や学生生活のあり方について考えるのは学生の行うべき当然の行為、むしろ義務ではないかと、多くの学生はナイーヴに考えていたのである。一方、政治的・政党的な動きは、大学運営に学生が大きな決定権をもって加わるべきだとの主張・要求に基づいている。具体的には、総長・学部長は学生の投票により選任されるべきであるというのである。しかし、とにかく、自治会公認という建前論では両者は一致するのであった。
運動の主導権は一貫して第一の動き、つまり学生の動きの代表達が握っていたと思われる。そう断定する理由の一つは、文部省のみならず警視庁も、学苑の紛擾を政治的な結社の操るところとは見ず、権力の干渉が行われなかったという事実である。理由の二つは、授業料引下げ要求は遂に最後まで学生の決議とはならなかったこと、従って、授業料不納同盟なるものは一度も組織的には呼び掛けられたことがないという事実である。
紛擾の第三の動きは、教授・役員の一部と校友の一部とによる策動であった。十月二十七日、校友団有志・教授団有志・評議員有志という三者の連名で、次のような文書が配布されている。
拝啓。秋冷の候益々御清祥之段大慶至極に存じます。扨て今回の早稲田大学々生の同盟休校の儀につきましては、多分新聞紙上にて御覧になり、或は御令息よりの御通知でありませうが、一万数千の全校学生が総員盟休を実行するに至つたことは、学校騒動史上の一大事件であります。斯くの如き実行至難のことが容易く実行されたことは、それ自体が学生側に盟休の止むを得ざる理由があることを証拠立てるのであります。学校当局は自己の責任を回避せんため、学生が赤化運動に煽動されたるものの如く悪宣伝して居りますけれども、断じて事実無根です。さればこそ警察も干渉の手を下さず、新聞の如きも学生側に同情して居ます。吾等有志はこの機会に於て当局の積悪を摘発して、神聖なる学園の革正を期すべく蹶起しました。……尚ほ現学校幹事の不正事件は今や法律問題化せんとしてゐます。現幹部は或は不日刑事被告人となるかも知れません。従つて学校当局の引責辞職となるは疑ひないことと信ぜられますから、御安心下さるやうお願ひ申します。
まさに怪文書である。このようなものが大量にばらまかれる原因の根はきわめて深く、大正六年の「早稲田騒動」にまでつながっていたと言ってもよい。そして、大学と大隈家との関係の問題が通奏低音とでも言うべきものとして、そこに一貫して流れていた。大隈重信逝去後、名誉総長の地位にあった大隈家の養嗣子大隈信常自身、大学に対するより大きな発言権を持って然るべしと考えていたようであるが、それ以上に問題なのは信常をかつごうとする動きが強かったことである。組織内に対立・反目が生じるのは、人間の集団にあって殆ど免れ難いところであろう。学苑においても、多年に亘って最高責任の座にある高田総長・田中常務理事に批判的な人々があった。そうした人々が信常との接近を図ったのは当然とも言える。
学苑内のこうした勢力関係は昭和四年の校規改正を機として、次第に顕在化し且つエスカレートした。この改正案は、三年から四年にかけて審議され、その結果、維持員(今日の評議員に当る。従って維持員会は最高決議機関である)の定員が二五人から三五人に増員された。維持員は功労維持員と選出維持員の二者からなり、前者は維持員会で選出し、後者は評議員会(今日の商議員会に当る諮問機関)の選出にかかる。改正により増えた一〇名(うち功労維持員は二名)の維持員の選出は昭和四年六月に行われることになっていたが、名誉総長は、二名の功労維持員の選出は暫く見合せ空席としておくよう要望した。高田総長はその提案を受け入れて、暫くこれを空席とし、四年六月には評議員会選出の維持員のみを選挙した。そして名誉総長の指名を待ったが、その後何の連絡もなく、昭和五年九月の総改選期を迎えた。そこで、高田総長はやむなく全員について選出を行い、定員を埋めたが、この挙は約束を踏みにじる背信行為として激しく責められることとなった。この間の事情は、切符事件の幕切れに近い十一月九日、高田総長が教職員、維持員、評議員、校友会幹事などを大隈小講堂に招致して行った「騒擾の真相及経過」と題する報告・説明の中で詳しく語られているので、重複を厭わず、左にそれを引用しておく。
一昨年でしたか学校は維持員の数を増しました。前は維持員が二十五名であつたものを三十五人に増しました。是は維持員会の同意を経て増したのであります。……何故増す必要があるかと言へば、古い維持員は皆老功の人で其地位に永く居て貰はなければなりませぬ。所が段段新進気鋭の人が出来て来ます。私共老人から見るとまだ若いと思ふがもう鬚髪霜を戴いて居り、経験もあり、立派な人が評議員として沢山居られます。さういふ人々を少し加へなければ維持員会の空気なるものは新らしくなりませぬ。老功者も必要だが新進の人も必要でありますから、そこで相談の結果三十五人といふものに増しました。所がそれに対して大隈侯爵は当初は余り賛成して居られませんでした。段々話をして賛成をされたのであるが、此維持員が二種類に分れて居ります。功労維持員といふものと、評議員選出の維持員といふものと二つに分れる。功労維持員といふ者は維持員会で選挙する。此功労維持員といふ者が二人だけ欠員があつた。其当時は二人でありましたが、其後退いた人があり三人となりましたが、それを保留して置きたい。斯ういふ事が大隈侯の御希望でありました。私は既に増すといふ以上はそればかり保留しても仕方がない。それだけ矢張り新らしく出て来る人の進路を塞ぐことになるからと申しましたが、頻りに希望されましたからそれに同意しました。すると……今度は総改選の時が此間来ました。それは評議員選出も、維持員選出も、所謂功労維持員も、普通の維持員も、総改選をやる時期であります。其時に大隈侯爵から……其保留を続けたいから承知して呉れうといふことでありました。その時私の申すのにそれはいけますまい、保留するといふことは其期間に留まることであつて、総てがもう維持員でなくなるのだから、それに前の保留を其儘継続するといふことはどうしても法理上出来ないことである。……けれども大隈侯が提議なさるのは別だが、私はお奨めはしない。どうも維持員会は容れまいと思ひます。……それよりも誰か意中の人がおありになるならば、其人を出したいといふお考があるならば、其人が人格のある人で適当な人と認められれば、私は大いに努力しませう。さうすれば必ずどうかなるだらうと思ひます。其名前を承りたい、と斯う使ではありましたが申しました所、それに対して別段御返事がない。此処に於て保留せずに総て決めまし〔た〕……所が之に付て今尚ほ私は非難を受けつつあるのです。 (『早稲田学報』昭和五年十一月発行第四二九号 〔二一―二三頁〕)
維持員選出についての名誉総長の意向がどのようなものであり、何を目的としていたのかは明らかではないが、高田総長・田中常務理事等に対抗する勢力の拡大に資するものとして考えられていたことだけはほぼ確実である。従って、昭和五年九月の維持員総改選の後には、当局への妨害・中傷的行動が活発となった。高田総長がかねがね「学校第一、大隈家第二」と言っているのを悪意にとり、故老侯への忘恩・背信行為であると宣伝された。また、田中常務理事に対しては、会計紊乱を引き起し、記念講堂建設、東伏見の運動場設置に当って不正を働いたと中傷する大量のパンフレットがばらまかれたりした。前掲の怪文書の末尾はこの中傷を繰り返している。切符配分をめぐって不公正ありとの叫びがあがる四、五日前、十月十日には、校友の一部が玉川付近に会合して大学改革を決議し、当時監事の地位にあった坂本三郎専門部長が文部省に出頭し、役員選挙の不公正につき、一種の告発を行っている。なお、坂本三郎は事件解決の見込みがつき始めた十一月四日夜、突如として総長に辞表を提出して学苑を去った。これらを考え合せると、切符配分方法を学生に知らせ、騒動をたきつけたのも一部の学内者、或いは校友であったふしは大いにあり得る。紛擾となった後にも、これらの勢力は陰に陽にそれを煽った。紛擾の拡大は大学当局者の失態を学内外に印象づけ、当局を窮地に追い込む絶好の手段と思われたからである。しかし、この煽動が大きな効果を上げたとするわけにはいかない。効果が全くなかったというのは明らかに言い過ぎであるが、少くとも連合学生委員会、統制委員会に集まる学生達は右の中傷的な暴露文書により影響を受けることはいささかもなかったのである。
切符事件と言われる紛擾は、三つの動きの合成という性格を持っていたが、紛擾の主流は学生達の担うところであり、他の二者は紛擾を複雑化・長期化させる副次的な効果を持ったに過ぎなかったと判断して誤りなかろう。
ここで視点を紛擾の経過に戻せば、二十一日以後、学苑の三分の二近くは休講状態で、その間、幾つかの妥協案が出されて否決されたり、大学当局の煮え切らぬ態度に業を煮やした一部の学生が総退学を提案して、学生に退学届を書かせるなどの動きがあった。また、校友有志と称する人々により大量の怪文書が校庭で撒布される騒ぎもあった。
十月二十五日に至って、当局は学部長・学校長を恩賜館に集めて会議を開き、十八日の学生の決議に対する回答書の交付と、二十七日から十一月五日までの十日間、学苑全体の休業とを決定した。回答書は次の如くである。
目下台湾旅行中の高田総長より学園の時局に対し一切を代行し善処すべき旨急報ありたるが故に、在京理事は学部長及附属学校長と共に慎重審議の結果正式理事会を開催し、学生の決議文に対し回答すること左の如し。
一、「全早稲田聯合学生委員会ヲ公認セヨ」と云ふ決議事項に対しては、早稲田学園は十数の学校の綜合にして各部学生の年齢及学科程度を異にし、従て全学生委員を打て一団となすが如きは教育上妥当ならざるが故に、大学各部若くは専門部各科に限り適当なる方法により代表委員聯合会を開催するが如きは相当考慮の余地あるも、決議事項は教育の本旨に照らし乍遺憾承認すること能はず。
二、「体育会ヲ否認シ即時解散ヲ命ゼヨ」と云ふ決議事項に対しては、抑も事は早慶野球仕合入場券の分配に発し、学生委員多数と体育会各部との間に意見の相違を来したる結果と認むるものにして、本大学の方針として体育会の健全なる発達は寧ろ奨励すべきものと認む。
三、「今回ノ問題ニ付学校当局ノ陳謝ヲ求ム」と云ふ決議事項に対しては、当局者も事務上多少の手違ひありたること認めたるが故に、既に去二十一日午後五時学生委員の代表者十一名を招致して懇切に釈明をなし、更に同日午後七時在京理事全部及学部長、附属学校長其他も列席し、学生委員多数の集会に臨みて陳謝の意を表し、学業に精励すべき旨を懇切に勧説したるが故に、此事項は大学に於て既に容認したるものなり。
四、「去十八日臨時休業ノ理由ヲ明ニセヨ」と云ふ決議事項に対しては、前夜学生委員の集会に対しては警察官憲の派遣警戒を見るに至り、事態重大なりと認めたるが故に、従来の慣行に従ひ深夜理事会に於て之を決し、一般に通知を発する時間なき為め掲示を為したるものなり。
五、「不当処分絶対反対ス」と云ふ決議事項に対しては、教育の府たる学園は勿論不当処分をなすべきものに非ず。飽迄学生の不穏当なる言動に対し懇切に訓戒を加へて其反省悔悟を促すべきものなるも、不幸にして一般純良なる学生に悪影響を与ふる危険ありて黙過し難き場合、相当の処分を行ふは已むを得ざるものなり。
昭和五年十月二十六日 早稲田大学
学生達は大学当局の回答内容にも十日間の休業措置にも不満であったが、一般学生が学苑から遠ざかった結果として、暫時休戦のような形になった。大学当局としては、世間の非難を浴びても冷却期間を作り出し、その間に出張中の高田総長を迎え、解決に向けて最終的な態勢を整えようとしたのである。
台湾での日程を打ち切って、高田総長は十月三十一日午後四時五十五分東京駅に着いたが、二度に亘り迷惑な出迎えを受けた。はじめは特急富士の車中で、突然、校友有志と称する五、六人の男が高田の乗る一等展望車に入って来て、辞職勧告書を突きつけたのである。理由は、大隈家に対する日頃の忘恩行為と今度の紛擾事件との双方の責任を取れというのであった。押し問答最中に列車は東京駅に着いたが、そこにも校友と称する男達を主に、若干の学生らしい者も交えた百人ばかりが待ち受けていて、高田総長に辞職要請を迫ろうとした。ところが、同乗していた牧野伸顕内大臣を総長と誤認して、牧野を取り囲んだので高田は救われた。辞職勧告という重大な使命を帯びた人々が当の総長の顔も知らないというのは何とも妙な話である。大隈家に対する恩義とか愛校心とかを振りかざしていた人々の実態をはしなくも暴露した一幕と言えるであろう。
連合学生委員会では総長の帰京の知らせを受けて、三十一日午後二時から学外で会合、対策を協議した結果、翌十一月一日に同委員会は高田総長へあらためて要求書を提出した。内容は十月十八日の決議から臨時休業の理由説明の項を除き、代りに警察権の学内侵入絶対反対と試験・レポート期日の延期の二項目を加えるというもので、大体においては同一であった。サボタージュの始まった日から既に二週間近くが経過しようとしていた。この辺で抗議運動を終息すべきだとの意見も次第に強まり、十一月二日には法学部が脱退を声明した。しかし、当局から反省の実を引き出すまで運動を続けるべきだとの声もあり、その声は運動の担い手の縮小に応じて逆に一層高くなっていった。
一方、高田総長を迎えて、大学当局側の姿勢も硬化した。高田帰京の翌十一月一日、午前十一時半より理事会が、午後一時より臨時維持員会が、いずれも恩賜館で開催された。高田は紛擾の経過と当局の措置を維持員会に説明したが、出席維持員はそれを是認し、将来についても一任を議決した。これを背景に、三日の理事会は一日提出の学生の新決議への回答を決めた。回答の趣旨は前回とほぼ同様であるが、この骨子は、昭和五年十一月二日発行の『東京日日新聞』によると、(一)全早稲田連合学生委員会は認めない、(二)警察が警察権を以て学内に立ち入るのは拒めない、(三)第一・第二高等学院と専門部で行う予定であった試験は、既発表の通り、無期延期とする、(四)裁判で有罪となった場合を除き、学生の処分は行わない、(五)体育会の問題は体育部員の決定すべきことで、外部のとやかく干渉すべきことではない、(六)陳謝の問題は既に田中常務理事がしているので、済んだことではあるが、総長としてあらためて陳謝する、というものであった。高田総長は午後一時、統制委員の学生八名を招致し、右の回答書を交付するとともに、一日も早く学業に戻るよう訓諭した。
十一月六日は十日間の臨時休業期間が終り、授業開始の日である。商学部、理工学部、法学部および専門部商・法各科では授業が行われ、他の学部・学科でも授業を受けようとする学生が少くなかった。拒否組の学生達は当然これを黙過せず、教室に押し掛け、説得或いは力により出席の学生を退出させたり、授業妨害を行ったりして、キャンパスは一日中騒然とした。
翌七日になると状況は更に悪化した。政治経済学部、文学部などの学生数百名が構内をデモし、一般学生の教室へ入るのを妨害したり、授業そのものを妨害する程度も強まった。これに対し大学当局はもはや断乎たる処置をとるの外なしとの判断に達し、取敢えず次の掲示を行った。
今回の事件につき本大学は極めて寛大の態度に出でたるも、六日開校以後なほ学園の平和を紊す者に対しては断乎たる処置をとるの外なく、この段念のため掲示候也。 (『東京日日新聞』昭和五年十一月八日号)
紛擾は明らかに大詰めに近づいていたが、事態にはなお予断を許さないものがあった。大学当局、学生の双方に焦り、怖れなどの感情の高まりがあったし、少しでも自己の立場の正当性を貫く形で終結させたいとの面子の問題もあったからである。しかも、愛校心を振りかざして紛擾に介入する一部校友は、前述のように、紛擾を一層煽りたてるかに見え、紛擾は幕切れを間近にしながら、危険な様相を漂わせ始めた。しかし、学苑はここで中野正剛(明四二大政)というよき調停者を得て、危機を回避し大団円を迎える運びとなった。
六日以降の学苑の動きを心配する校友は大勢いた。緒方竹虎(明四四専政)もその一人であった。藤井丙午は前述の座談会で、「朝日新聞主筆の緒方竹虎さんが交詢社に私ども幹部を呼んで、早急に収束しなさいとアドバイスがあり、逓信政務次官の中野正剛先生が調停に乗り出してきて、『とにかく俺に任せろ』と先生一流の強烈な調子で説得されるんです」(『早稲田大学史記要』第一〇号 二一一頁)と回想している。緒方も中野も福岡県出身で、相前後して学苑を卒業し、ともに朝日新聞に入った。中野は大正九年衆議院議員に当選し、朝日を去ったが、二人は親友であった。学苑の事態を見かねて、二人で相談し、中野の出馬となったものと推測される。
十一月八日、中野正剛は千人を超す大デモの喚声が響く学苑に来て、午後一時から実に二時間半に亘り、高田総長と統制委員の学生達との間を往復して、懸命に調停に努力した。その結果、総長と統制委員たる学生との間に調停案に関する合意がなされ、午後五時、中野の立合いのもとに左の覚書が交換された。
第一条 高田総長(理事会)も中野正剛も今回の問題は何等思想的背景、もしくは陰謀を蔵するものと認めず、単なる切符問題に関聯する学生不満の勃発として虚心坦懐に取り扱ひ、而して高田総長は事件勃発の当初において学校当局者の不行届を認め、重ねて遺憾の意を表す。
第二条 今日までの経過に関する学生の行動については国法に触るるもののほか処罰者を出さず。
第三条 大学部、専門部、高等師範部、第一学院、第二学院、専門学校、右各部の代表委員会を公認す。但し常設にあらず。
第四条 (一)委員会の意見は学部長において意見を付し、もしくは付せずして、必らず理事会に申達し理事会の審議を求む。理事会は申達を受理してこれを審議す。(二)学部長および付属学校長は教務に関しては教授会に諮り理事会に申達す。(三)学部長および付属学校長は事務に関しては理事会に申達す。
第五条 各部代表委員は相互間の会合を催すことあるも学校はコレを承認せず、且つ相手にせず、但し今回の如く現実の存在となつて不穏の形勢となりたる時は干渉す。
最後の条項は学校理事者と中野正剛との黙諾に止まり成文として記載せず。
統制委員は右条項を承認す。
昭和五年十一月八日 (『東京日日新聞』昭和五年十一月九日号)
この調停案は大学当局と学生との両者の側に問題を投げ掛けるものであった。大学当局は、これまで事あるごとに、今回の紛擾は左翼系統の煽動の結果であると内外に強調してきたにも拘らず、この調停案で、総長自らさに非ずと断言したのであるから、総長留守中の当局は事態を根本的に見誤ったか、故意に事実を歪曲したかのどちらかになる。一方、統制委員である学生達は連合学生委員会の代表なのであり、彼らにできるのは右の調停案を連合学生委員会に取り次ぐことだけで、かかる重大な取極めは彼らの一存で行えるところではないから、重大な越権行為・背信行為を行ったとの非難を浴びることになった。
高田総長も統制委員達も当初は、これらの点に十分気付いていたに相違ない。それにも拘らず右の如き調停案がその日のうちに覚書交換という形で決まったのは、中野の気魄に押し切られたのであろう。中野は国士の気概をもつ情熱家であった。第二次世界大戦末期に危険をかえりみずに東条内閣打倒計画を進め、事露われて昭和十八年十月二十六日、日本刀で自刃するという壮烈な最期によっても、それは裏書されている。
果して、調停案の妥結のニュースが伝わると、統制委員に対する非難が湧き起り、藤井達の苦悩は深かった。調停案受諾の可否を問う十日の大会では、この越権行為の問題から取り上げられるだろうと言われた。そこで統制委員は覚書交換が内諾を意味するのでなく、連合委員会への取次を約するものであるのを証明する必要に迫られた。
十一月八日、全早稲田聯合学生委員会統制委員と大隈会館に会合して調停条項の決定記名を了したる時、委員諸君は統制委員として此案を承認し、責任を以て学生聯合委員会の承認を求むるものと明言せられたり、随て余は、此の調停案は学生聯合委員会の決定をまちて始めて其の効力を発生するものなることを了解せり。右の通りに候也。
昭和五年十一月十日 中野正剛MN
(『早稲田大学史記要』第一〇巻 二一三頁)
この文書は前記座談会に藤井が披露したものである。藤井は明言しなかったが、恐らく十日、午後三時開始予定の調停案審議のための連合学生委員会に備え、藤井が中野に願って書いてもらったものであろう。
十一月十日は一日中大荒れに荒れた。午前中のクラス会決議を持ち寄って、午後一時からスコット・ホールで開催された連合委員会では、統制委員の頭ごし交渉の不当を鳴らす声のみ高く、藤井達の苦心と配慮は大方の理解を得るところにはならなかった。そして勢いの赴くところ、大会は折角の中野調停案を否決したのである。委員会での論争が白熱する頃、校友有志と称する十六人の男が現れ、校庭中央において、中野調停案絶対反対、高田総長・田中理事・難波理一郎幹事の引責辞職を叫んで激越な演説を行った。演説後、彼らは袖を連ねて本部に乗り込み、総長に面会を強要し、それを押しとどめる職員との間に揉み合いを繰り返し、結局、駆けつけた警官に全員検束された。
当然、中野正剛は大いに怒り、自分の熱誠を真面目に取り上げようとしない学生達を叱るとともに、一部の校友の行動にも不愉快さを隠さなかった。十日の調停案否決は一部校友の仕組んだ筋書きに学生達が乗せられた結果であると、中野は考えたようである。恐らくこれは中野の考え過ぎであろう。一部校友による煽動があったのは事実であるが、学生達はそれに乗って軽挙盲動したわけではない。運動の主体である全早稲田連合学生委員会を無視して調停が進められたことが、学生の正義感・潔癖感を逆撫でしたこと、これが否決の原因である。
しかし、事態はもうギリギリのところに来ていた。一時の興奮から醒めて、調停案を冷静に読む学生の多くは、それが概ね妥当なものであるのに気付いた。二日おいた十三日、再度調停案受諾の可否をめぐってクラス会が開かれたが、雰囲気は二日前とは一変していた。大部分のクラス会での議論は受諾の線で行われたのである。午後一時から、学生ホールで最後の連合学生委員会が開かれた。出席委員二百五十余名。会議は半ば儀礼的に、これまで何回となく繰り返してきた議論をまた繰り返す形で始まった。大会の帰趨を心配した中野正剛は午後三時頃、大隈会館にやって来て、そこから大会を見守った。議論は終り、いよいよ採決に入った。開票の結果、賛成五、反対二の割合で、絶対多数で調停案受諾と決まった。一瞬、学生ホールには静寂が支配し、やがて「都の西北」の大合唱となった。歌う学生の顔には涙が流れていた。一ヵ月の間、彼らが敢えて学苑を紛擾に巻き込んだのは、よき早稲田を願うからであった。今、過去の反省の上に、よき早稲田へと向う新しい出発点が画された。学生達は万感胸に去来する中で、早稲田の学生であることの自覚をこの時ほど強く抱いたことはなかったであろう。
紛擾解決の報を受けた中野は、その旨をすぐ高田に伝えた。老齢の高田は帰京以来の心身の疲労が重なり自宅に静養していたが、中野からの連絡に接するや直ちに大隈会館に駆けつけた。高田が中野の待つ部屋に入るのと、大会を終えた統制委員十九名が調停案受諾の正式報告に訪れたのと、殆ど同時であった。総長と中野と学生代表とがはからずも一堂に会したのである。高田は中野の手を固く握って、「ありがとう、ありがとう」を繰り返したという。それから、高田は学生代表に向い、学生の動きを暴走から守って責任ある解決に導いた努力に謝意を表するとともに、これまでのわだかまりを一切水に流し、教職員、学生一体となって学苑の発展に力を尽そうではないかと呼び掛けた。中野正剛の喜びも勿論大きかったが、彼としては手放しで喜ぶわけにもいかない心境であった。短期間ではあるが大学というものの現状に親しく接して、中野はそこにある問題をも正確に認識していたからである。
私は学校行政についてはあまり関心をもつてゐぬ。いはゆる愛校心の発露といふ名目のもとにいろいろ口を出してゐる人とは全く別個の立場に居り、現代日本の学生に対する諒解と愛情とを基礎としてこの調停に乗出したのである。幸ひに学校当局者と学生諸君との理解を得て一人の責任者をも出さず、早稲田の新紀元を画すべき大方針の基礎を設定し得ることを欣快とする自分は、学生の憤激を利用して学生を犠牲にし学校行政に関与せんとするものには絶対反対である。しかし、この騒動の勃発するゆゑんは深くかつ遠い。理事会といふものが営業部のやうな外観を呈し、教授連中の権威があまりに失はれてゐた。この大騒動を起し二万の子弟を預かつてゐる学校側において、一人の教授も裸になつて学生に赤心を吐露する人もなければ、面を犯して理事会の反省を促すものもない。これは明白に学校精神の腐敗である。自分は熱誠のほとばしるところ学生に向つては随分手きびしく当つた。騒動解決すれば同じ熱誠を披瀝して学校当局の反省を促すつもりである。
(『報知新聞』昭和五年十一月十四日号)
これは調停案の受諾が決まった十三日夜、新聞記者に求められて述べた中野の感想であるが、今日読む我々の胸にもずっしりとこたえる言葉である。
十七日午後一時、大隈講堂で、中野の報告と高田の挨拶とが、講堂を埋め尽した学生に対して行われ、一ヵ月余のいわゆる「切符騒動」は漸く完全に終止符が打たれたのである。