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第六編 大学令下の早稲田大学

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第二章 付属学校の新設ならびに再編成

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一 第一高等学院

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 官・私大学平等の原則に立脚した大学令には、高等学校令に準拠する大学予科の設置が私立大学に要請されていた。しかしこの要請に応えるのは、当時の私立大学には容易ならぬことであった。専門学校令の下に設けられた一年半の予科の実態は、大学によっては、専任教員が殆どいなかったり、または夜間授業が多かったり、更には官立校へ進む希望者の予備校も兼ねる予科などであったりしたらしい。それを三年制に延長し、専任を置き、昼間授業とし、施設・設備を高等学校なみにするとなると、抜本的な改革を意味するのであった。

 右の状況下で独り我が学苑のみは専任教員、昼間授業はもとよりのこと、修業年限も大正六年に一年半より二年に延長するなど高等予科が充実していたので、右の要請に応えるのは他の私立大学よりも遙かに容易であった。そこで、こうした素地の上に理想的な大学予科=高等学校を新設しようとの抱負を学苑当局は懐いたのである。

 大学令第十四条は「大学予科ノ設備、編制、教員及教科書ニ付テハ高等学校高等科ニ関スル規定ヲ準用ス」とあり、その高等学校令は、大学令公布と同じ年月に全面改正されたので、大学予科はこれを準用したのである。

 早稲田大学付属早稲田高等学院学則は、既述の大学学則の一部に含まれて認可された。なお学苑の高等学院は三年制私立大学予科としては慶応義塾とともに我が国で初めて認可されたものであった。次にこの学則の要点を引用する。

第一章 総則

第一条 本学院ハ高等普通教育ヲ授クルヲ以テ目的トス。

第二条 本学院ニ文科及理科ヲ置ク。

第三条 文科ヲ終リタル者ハ早稲田大学政治経済学部、法学部、文学部及商学部ニ、理科ヲ終リタル者ハ同大学理工学部ニ入学スルノ資格ヲ有ス。

第二章 学科課程

第一条 各科ノ修業年限ハ之ヲ三学年トス。

第二条 各科ノ学科課程ハ大正八年文部省令第八号高等学校高等科学科課程ニ拠ル。

〔中略〕

第四章 入学、在学、退学及懲戒

第二条 左ノ各号ノ一ニ該当シ且体格検査ヲ受ケ之ニ合格シタルモノハ本学院ニ入学スルコトヲ得。

一、中学校第四学年ヲ修了シタル者

二、高等学校尋常科ヲ修了シタル者

三、高等学校高等科入学資格試験ニ合格シタル者

四、専門学校入学者検定規定ニ依リ試験検定ニ合格シタル者

五、高等学校高等科入学ニ関シ指定ヲ受ケタル者

六、文部大臣ニ於テ一般ノ専門学校ノ入学ニ関シ中学校卒業者ト同等以上ノ学力アリト指定シタル者

七、甲種商業学校卒業者ニシテ早稲田大学商学部ニ、又工業学校卒業者ニシテ同大学理工学部ニ進入ノ志望ヲ有スル者

〔中略〕

第七章 学費

第一条 生徒入学ノ節ハ入学金トシテ金五円ヲ納付スベシ。

第二条 学費ハ一学年金七十円トス。

〔以下略〕

 学科課程は、学則第二章第二条にあるように、高等学校令の施行規則である文部省令第八号高等学校規程によったが、必ずしもこれに忠実なものではなかった。寧ろ学科配当などにも特色を加え、我が学苑の教育方針である自由と自治と自学自習の重視を貫こうとした。校名を高等学校とせず高等学院とした由来もここにあったのである。平沼学長は次のように言っている。

何故に高等学校といふ名称を下さなかつたのであるかといふ疑問が屢々起る。高等学院は大体に於いて高等学校令に準拠するものであることは勿論であります。しかし高等学院は早稲田大学の附属であつて、其予備教育を施すところである。ここに於いてか、我が早稲田大学に適応するために学科の配当その他に於いて、聊か斟酌を加ふるだけの権利を保留してゐるのであります。高等学校といふと全然高等学校令の命ずるところに従はなければならぬ。そこで校の一字を変へて院としたのであります。 (『早稲田学報』大正九年八月発行 第三〇六号 六―七頁)

 当時維持員であったが大学令実施時の最高当局者でなかった高田早苗も、大正十三年に高等学院生に行った訓示の中で同主旨のことを述べ、更に「私は今でも記憶して居る。其当時学校の人が文部省へ行つて高等学院と名を付けると話した所が、文部省の当局者も中々分つたことを言つたそうである。それも宜からう。同じやうなものが幾つも出来るのは面白くない。矢張りいろいろ特色がなければならぬから高等学院極めて賛成である」(同誌大正十三年三月発行 第三四九号 四頁)と付言している。こうして高等学院誕生に当り、既設の官立高等学校とは自ずから異る校風を興さんとした学苑当局者の識見と意気は、次々と入学してくる学院健児らにより具体化されたのである。

 高等学院の敷地は、明治四十一年一月東海銀行〔旧〕を通じて堀江ハツより購入、下戸塚町の穴八幡下に大学が所有していた四千九十六坪余を選定し、建築は大正八年八月着工、第一学年を収容できる第一期工事は翌年三月に竣工した。なお八年十二月に隣接の土地四千四十八坪二合六勺(九年一月十五日維持員会記録による。なお八年九月八日維持員会記録には三千八百坪と記載されている)を陸軍省より借り受け、これを運動場とした。

 初代の高等学院長には学苑の高等師範部長であった教育学者中島半次郎が嘱任され、教頭には第三高等学校庶務課長や関西学院高等学部長などを歴任した歴史学者野々村戒三を迎えた。野々村は学苑教授内ヶ崎作三郎の義弟で、その勧誘に応じたと噂されていたが、実は中島院長の知己であった京都帝国大学教授藤井健治郎の推薦により迎えられたと言われている。これを補佐する事務主任は定金右源二で、学生主任には松永材が委嘱された。

 なお、「高等学院教員ノ選定」は九年三月十八日の定時維持員会の決議事項であったが、その際提出された「別表」は、左の如くであり、新任予定者には年俸額まで記入されている。

高等学院教師

修身 院長 中島半次郎

歴史 教頭 文学士 野々村戒三

国語 二、六〇〇 文学士 吉川秀雄

同 一、五〇〇 五十嵐力

漢文 一、五〇〇 川合孝太郎

国語 山口剛

漢文 前橋孝義

同 菊池三九郎

同 牧野謙次郎

英語 一、五〇〇 文学士 松永材

同 文学士 山崎貞

同 日高只一

同 文学士 梅若誠太郎

同 一、五〇〇 会津常治

同 中桐確太郎

同 勝俣銓吉郎

同 八〇〇 文学士 石井信二

同 マスター・オヴ・アーツ 高谷実太郎

同 二、四〇〇 ピー・ピー・ジーマン

数学 一、八〇〇 秦孝道

同 八〇〇 文学士理学士 梶島二郎

同 理学士 富田逸二郎

同 藤野了祐

同 文学士理学士 本田親二

同 崎田喜太郎

地理 一、五〇〇 中城陟

法制 法学士 中村万吉

経済 ドクトル・オヴ・ヒロソフィー 北沢新次郎

鉱物、地質 二、〇〇〇 理学士 松島鉦四郎

動物、植物 一、三〇〇 農学士 香川冬夫

図画 工学士 民野雄平

独語 文学士 山岸光宣

露語 片上伸

支那語 青柳篤恒

仏語 法学士 五来欣造

 また九年五月八日の定時維持員会では「高等学院教授規程」が左の如く定められている。

専任教授ハ凡テ之ヲ高等学院教授トナス事

但シ授業時間ノ少キモノ又ハ短期間嘱任スベキモノハ専任者ト雖モ講師トナス事

外国教師ト雖モ教授トナス事

体操教師ハ之ヲ講師トナス事

 最初の入学試験は四月一日より三日間に亘り行われたが、このときの応募者は二、二四八人で約四倍の競争率であった。なお、新しく大学令による私立大学に脱皮する学苑に官公私立の他校を中途退学して入学し直すことを希望する青年さえその数が少くなく、一三、〇〇〇部用意した応募規則書が旬日にしてなくなったと言われるほど反響があった。入学生定員六〇〇人の内訳は、文科四四〇人、理科一六〇人で、文科の内訳は政経八〇、法四〇、文八〇、商二四〇であった。また応募者の学歴は次の如くである。

(文科)

一、中学卒業者 七三六名

一、同四年終了者 五二二名

一、専門学校入学資格検定試験合格者 二名

一、商業学校卒業者 四八名

合計 一、三〇八名

(理科)

一、中学卒業者 六九二名

一、同四年終了者 一八九名

一、専門学校入学資格検定試験合格者 一名

一、高等学校入学資格試験合格者 二名

一、工業学校卒業者 五二名

一、工芸学校卒業者 四名

合計 九四〇名

総計 二、二四八名

(『早稲田学報』大正九年五月発行 第三〇三号 五頁)

この六〇〇人という定員は、高等学校令第十三条に高等科のみを置く高等学校の生徒定数は「六百人以内トス」とあるのに準じたものと思われる。しかし大学令第十五条は「大学予科ノ生徒定教ハ毎年ノ予科修了者ノ員数カ其ノ年当該大学ニ収容シ得ル員数ヲ超過セサル程度ニ於テ之ヲ定ムヘシ」とあって、六〇〇人にとらわれなくてもいいのであるが、一三頁に引用した田中穂積の言からも窺われるように、高等学院の出発に当り学生数の上からも理想的な高等学校にしようとする気持が学苑にあったのだと思われる。因に学部定員二、三〇〇名の内訳は、政経三二〇、法一八〇、文三〇〇、商九〇〇、理工六〇〇であり、一学年の数は約八〇〇名を考えていたのである。しかし旧制度の学生数はこれより多く、また後述のように新制度発足時は高等予科生を収容したので、新制度になっても当初は学部学生数はこれより多数であった(なお、田中の発言にある、二〇〇名は他校の生徒に開放するという方針は、間もなく変更されて、後述の如く第二高等学院の設立となっている)。

 四月十六日、入学式を行い、十九日の月曜日より授業を開始したが、次の日曜日である四月二十五日に、内外の校友名士を招いて盛大な開院式を挙行した。式は中島院長の報告、平沼学長の式辞、大隈総長の式辞と続き、最後に来賓の松浦専門学務局長の祝辞を以て閉会した。中島院長はこの中で次のように言っている。

今後の大学予科はすべて高等学校に準じて組織編成をして行かなければならぬと云ふことになつて居ります。此点から言へば高等学院は言はば一種の私立の高等学校でありまして何処迄も高等普通教育を授け、併せて国民道徳の充実を計るのでありますが、夫れに合せまして早稲田大学が建学の旨趣として居りまする点を酌みまして教育を致して参ると云ふことを務めまする。一方には後に大学に進みまする時の基礎教育を与へると云ふ考を持ちまして幾分の変更を致したい考から、第一学年の学科にも多少高等学校とは違ひます点を有して置きました。尚ほ第二学年第三学年と進みまする際には、猶幾分違ひました組織編成を試みたいと考へて居ります。……其如く致しまして一面には何処迄も高等普通教育を授けると云ふ精神を有ちながら、一面に於て十分の大学の基礎教育を授けると云ふ考を持ちまして、動もすれば此高等普通教育を与へると云ふ事と大学の準備教育を与へると云ふことは趣意が幾らか違ひ、随つて其間に多少の衝突が起り易いと云ふ傾がありまするに拘はらず、此学院に於きましては出来る丈け夫を調和して行きたいと云ふ考を有つて居ります。高等普通教育を完成すると言ひますると之は人として国民としての資格を造ることに重きを置くことになり、大学の予科と言ひますると専門の学に進むことを目的にして早く専門化に傾き人を機械的に造ることに流るると云ふ弊が起り易いやうであります。併し之は其弊でありまして、教育上から申しますれば高等普通教育を与へながら夫と同時に後に専門学に進む基礎を与へると云ふことが出来得ることだらうと考へられるのであります、現に欧米各国の教育制度を調べて見ましても何れの国に於きましても中学校から直ちに進んで大学に入りますので、我国の如く高等学校と大学予科と両立して居るといふ事は無く、其中学校は無論夫々の国民養成、夫々の人格の養成を主としながら、一面には矢張り大学に行く準備教育をして居りまして其間に両者の懸隔する事はないのであります。此二つを如何にして調和して行くかといふことは私共が余程努力しなければならぬ点であらうと考へて居ります。さう云ふ次第で此第一学年の課程に於きましては外国語に致しましても高等学校令に規定せられて居りまする外の外国語、例へば露西亜語でありますとか支那語でありますとか云ふものを課するやうに致して居ります。

(同誌 大正九年五月発行 第三〇三号 九―一〇頁)

 第一回入学生中西敬二郎は、

開院式を行う場所はまだ出来ていなかったので、雨天体操場を開院式の式場に当てましたが、雨天体操場ですから、人はあまりたくさん入りません。新入した者六百人、その父兄と関係者の校友などいっぱいでした。壇も小さな壇で、たくさんの教授連中はみんな下に座っておりまして、壇上に並んだのは来賓および名のある教授連中だけであります。その時に、大隈さんが緋のガウンを着て、久松という家扶が片腕を支えて出てまいりました。非常に背の高い人でびっくりしたんです。私は大隈さんというのはそんなに大きな人じゃないと思ったんですけれども、実に堂々たる人でして、その大隈さんが壇上に登って式辞を述べられたんですが、この式辞の最初の言葉が非常に印象的でした。松葉杖を演壇の上にガチャンと叩きつけて、それからおもむろに「汝等、小僧が……」と口火を切られた。私、いまだに、あの時に「汝等、小僧が」と言われたかどうかということを非常に不思議に思っていたんです。あるいは「君たち、青年が」とおっしゃったのではないかと思ったんですけれども、どうも私の印象では「汝等、小僧たちが」と言ってカラカラと笑われたことが非常に記憶にあります。先だって、お孫さんの信幸さんにちょっと聞いてみましたら「いや、いや、おじいさんは私たちのことを小僧、小僧と言われていた、だから、あなた方は孫のように見えたので小僧と言われるのはあたりまえでしょう」とおっしゃいました。

(同誌 昭和五十七年九月発行 第九二四号 一〇頁)

と六十余年後に想い出を語っている。

 同期の酒枝義旗によれば、

〔開校当時の〕高等学院の校舎は淡緑色に塗られた木造二階建て二棟で、小さい方の階下が院長室・教員室・事務室など、二階に比較的広い共通教室が二つあり、大きい方の校舎は、凡て四十人単位の教室十五、六に分けられていた。各クラスは、それぞれの教室を与えられており、ただ合同の講義の時だけ、共通教室に行くのであった。この自分たちの教室をもったと言うことは、私たちの学生々活にとって、まことに意義ふかいことであった。お昼の時間は勿論のこと、たまに休講などのときにも、その時間をクラス全体として用いることができた。……このように、クラスの人数を四十人にし、各クラスに自分の室を与えると言うことは、当時の早稲田の世帯としては、実に思い切った理想の実践であった。それだけに、新設の高等学院の院長となられた中島半次郎先生の責任は、実に重大であり、先生と先生を補佐される諸先生の心労はさぞ大きかったことと察せられる。……ともあれ創立当時の早稲田高等学院は、清新・闊達な気分に充ち溢れていた。その環境も、それにふさわしくあった。銃声のひびきわたる時はあっても、戸山ヶ原は緑の若草に蓋われていた。近衛騎兵聯隊・中央幼年学校・陸軍戸山学校・歩兵学校などをその中に包む深い原生林は、春の蒼空高く、新緑したたる姿をくっきりと示し、その林の端に当る上の校庭の叢には、雉や山鳩がすんでいた。友人たちと何かを語り合って叢むらに腰を下すと、けたたましい鳴声をあげて雉が飛び立つことも再々であった。戸山学校との境界の金網をくぐってゆくと、繁り立つ巨木の枝から枝へ伝ってゆく猿の群れの姿が散見するのであった。上の校庭(現在の文学部校舎の立つところ)と下の校庭(今の共通講堂の立つところ)との境目に、繁り合う木々の下を清冽な小川〔かに川〕の水が流れていた。 (『早稲田の森――生ける母校の姿――思い出……』 七―一〇頁)

 酒枝は、右の如き「当時の早稲田としては思い切った理想的措置も、我々学生の側の勉強の成績や学修の態度の上に、そうした理想にふさわしいだけの反応が示されず、何もそれほどまで苦心する必要もないではないかと言う意見が行われたのではなかったか」と反省している。

 また同じく第一回生の尾崎一雄(昭二文、芸術院会員)の記すところによれば、

友田〔恭助、本名伴田五郎、大九中退〕は予科に居て、坪内逍遙博士の指導のもとに、われわれ学院生の有志を集め、演劇朗読研究会といふのを主宰して居た。一週に一回くらゐ、〔高等〕学院の第二教室といふ大きい部屋に集まり、坪内さんから脚本朗読の指導を受けた。その時分はもう学校の先生ではなかつたが、特別講義といふ名で、たまに大学で講義をした。朗読研究会の結成も正式なものではなく、演劇好きの坪内さんが、若い者を演劇に近づかせたい、といふ気持の現れだつたのだらう。……同じ部屋で、文学部志望者のため、たまに特別講義(又は講演)があつた。出て来る講師は、ふだん学院生が余り接しない学部の方の先生方だつた。例へば五十嵐力横山有策、中村吉蔵、吉江喬松諸教授などである。

その集りに、あるとき片上伸教授が出てきた。……どういふ話だつたか全く覚えてゐないが、忘れぬことが一つある。話を終つた片上氏が、教室を出ようとして、最前列に居た京口元吉〔大一五文、のち教授〕の持つてゐた『極光』〔回覧雑誌〕に目をつけた。これは?と訊かれて、京口が説明した。すると片上氏は「僕に貸したまへ。読んで批評をしてあげる」と言ふなり、それを持つてさつさと出ていつた。否も応もなかつた。……それから何日か経つて、放課後高田牧舎に集まれといふ片上教授の指令が、岡沢〔秀虎、大一五文、のち教授〕を通して届いた。われわれはびくつきながら高田牧舎の二階に集まつた。……待つ間もなく片上氏が現れ、『極光』の原稿を片つぱしから批評していつた。……散々悪口を言つたあとで、「しかし――」と片上氏は言つた。――諸君の中のある人々には、未熟ながら才能の片鱗の認められるところがある、諸君は若いのだから、勉強次第でそれをいくらでも延ばすことができる、諸君の先輩も皆さうして一人前になつたのだから、悪口を言はれたからとて悲観することはない、この回覧雑誌は毎月出るさうだが、僕は毎号必らず読むから持つて来たまへ――極めて平凡なことを片上氏は言つたわけだが、みんなは感激した。……片上教授に洋食の夕飯を御馳走になつて解散した。戻つてきた『極光』を見ると、青鉛筆の太い字で、誤字はもとより仮名遣ひの間違ひも直してあり、ところどころ文章の添削さへしてあつた。よくやつてくれたものだ、と本気で感心した。

これは後年考へたことだが、学院発足の頃は、大学当局も大いに意気込んでゐたのではないだらうか。追ひつき追ひ越せ、なぞといふ言葉は当時勿論無かつたが、官立大学に対してそれに似た意欲を燃やしてゐたのかも知れない。他の科のことは判らぬが、文科に関して言へば、あの演劇朗読研究会に於ける坪内博士と言ひ、この『極光』批評会での片上氏と言ひ、まことに見上げた熱心さであつた。 (『あの日この日』上 二〇頁、三一―三二頁)

 なお、右に記された朗読研究会は、高等学院教授日高只一が中島院長と相談して坪内に懇請したもので、大正九年十月十九および二十五の両日、『ジュリアス・シーザー』の朗読指導を行ったのであると、河竹繁俊柳田泉著『坪内逍遙』に記述されている(六一五頁)。いずれにしても、従来の予科とは異った雰囲気が当時の高等学院を支配していたのは、酒枝や尾崎のクラスのみにとどまらなかったと見て誤りないであろう。ところが、同年秋には、高等学院に同盟休校に発展しかねない不穏な空気が醸成されるに至った。

二 第二高等学院

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 それは二年制高等学院併置問題であった。酒枝の筆を再び借りれば、

大正九年も、そろそろ暮れに近づいた頃、今まで平穏だった早稲田高等学院に、一大事件が持ち上がった。翌十年の四月から、今までの高等学院のほかに、二年制で文科系だけの高等学院を別につくると言う情報が聞えて来たのである。……あるクラスから委員が来て、学校当局は、最初、現在の高等学院以外に、これに類するものはつくらないと言ったのに、その約束を破ったことを責め、且つまた、二年制の文科系(政・文・法・商)の学校をつくるならば、それだけ卒業生が多くなり、就職にも不利となることを指摘し、何としてもこの案に反対しなければならない、ついては、反対運動のために大に活躍して貰いたいと申し込んだ。その人が立ち去ってからクラス会が開かれ、この問題が討議された。いろいろな発言があったが、結局、彼の言う第二の点は、我々としては問題にすべきでないことに一決した。ただ第一の点は重大であるが、学校当局が、彼の言った通りのことを明言したかどうかについては、はっきりしなかった。開院式に出席して中島院長の式辞を聞いた学友達も、その中にあのようなことが明言されたようには思わなかったと言う人が多数だった。しかし、あるいは他のクラスの誰彼が、中島先生に直接に会って、そうした言質を得ているのかも知れないし、中には、そう言われてみると、中島院長の式辞の中には、そのようにとれる文句があったと言う発言もあった。そこで、とにかく学校当局の食言と、何故、第二の高等学院をつくるかの理由とに集中して、この問題に当ることになった。

暗い寒い晩秋の日の夕方から、高等学院はじまって以来、最初の学生大会が本部の二階の大教室で開かれた。原則として夜間は使用しない建て前なので、照明の設備もなく、仄暗い教室には、ただならぬ空気が漂っていた。ただ教壇の周辺だけには臨時に照明の設備がなされ、中島先生はじめ諸先生の真剣な表情の顔が浮び出て見えた。皆が何かしらがやがや喋り合いながら待っていると、やがて理事田中穂積先生の姿が壇上に現れた。後日、田中先生の雄弁は定評のあることを知ったのであるが、その夜も先生は一大雄弁を振って、第二高等学院〔=第二部〕設立の意義を説かれた。

過ぐる世界大戦は官立大学万能の国ドイツと、私立大学の優越する国イギリス及び米国の戦いであった。そのドイツが敗れたと言うことは、教育における官学は、結局、私学に及ばないことを立証するものと言わねばならぬ。これから日本は、この歴史の教訓にかんがみ、私立大学の振興によって、世界の進運に寄与せねばならない。それには、できるだけ多数の優秀な私学の卒業生を世に送り出し、私学そのものの勢力を伸張させることが急務である。さらにまた、このことは現在在学する諸君が、社会に出て活躍するためにも、重要な条件である。早稲田大学の出身者が、その質においては勿論のこと、数においても、社会的に一大勢力を醸成するにあらずんば、卒業生のために、就職の門戸の広く開かれるを期待し得ざるは、明々白々の事理である。

最後に、目下教育界には、大学課程の準備としての高等学校の教育を、中学四年修了による三年制にすべきか、中学卒業による二年制にすべきかの問題について、議論が闘わされている。その何れの議論にも、それぞれの論拠があり、ただ議論だけでは、いずれが是、いずれが非と決しがたい実状である。これを究極的に決し得るのは、教育における実験の成果のみである。

しかるに官立の高等学校は勿論のこと、他の私立諸大学と雖も、あえてこの難問題を実験して、その成果を問うことは不可能である。ただ、わが早稲田大学のみは、多大の犠牲と困難を覚悟の上で、私立としては不可能とされていた三年制高等学校の課程を創始し、教職員諸氏と学生諸君の懸命の努力によって、着々、美事な成果をあげつつある。この上は、さらに二年制の第二高等学院を創設し、高等学校教育における二年制か三年制かの問題を、教育の実際に照らして解決する先駆的役割を果し、日本の教育界に早稲田ならではできない貢献を致したいと念願する次第である。

この三つの大なる理想のために、早稲田大学は重き財政的負担にもかかわらず、あえて二年制高等学院の開設を決定した。大学は、諸君から、学費として年間七十五円の納入をうけている。しかるに、諸君一人当りの経費は、年間尠くとも百円を要する。一人について年間二十五円を大学は負担するのである。ゆえに第二高等学院を開設すれば、その学生数だけ、大学の財政的負担は加重するわけである。かかる負担にもかかわらず、あえて新しき学院を開設せんとするのは、以上明らかにした三つの理想のために他ならぬ。私は、早稲田大学の理事会の一員として、聡明な諸君がよく這般の道理を理解し、すすんで学校当局の決意の実現に協力されることを堅く期待して疑わないものである。――勿論、その言辞は違っていても、その時の田中先生のお話の趣旨は、大体以上の通りであった。

田中先生の説明は、その筋道も表現も、実に堂々たるものであった。新しい学院ができると、卒業生の数が多くなるから、就職に困るなどと言うケチ臭い反対論など、木葉微塵に紛砕される観があった。また学校当局は、第二高等学院を開設し、学生を多数とることによって、財政的に収入を多くしようとし、最初の約束を破ったなどと言う反対論も、その根拠を失ったわけである。不穏に包まれていた学生大会の空気も、田中先生の明快な説明で、完全に一掃されたかのように見えた。田中先生が退席されてから、教壇にのぼられた中島先生の顔から、先刻までの沈鬱さが消え、いつもながらの明るい温厚さになっているのが、印象的であった。中島先生は、今度のことについて田中先生から、あのような明快な説明があったのだから、諸君の今までに抱いて来た疑問は全て氷解したと信ずる。諸君がこの学生大会を開いたのも、学院を愛すればこそである。どうか、その熱心と意気をもって、早稲田高等学院の名声を重からしめるために、一層勉強に運動に励んで貰いたいと言う意味の訓辞をされた。 (『早稲田の森』 四一―四五頁)

 学生大会は更に翌日開催されたが、一時は同盟休校にまで発展を懸念されたこの問題が、結局鎮静への途を辿ったのは、田中穂積の説明に説得力があったからであった。田中は「高等学院第二部の新設」と題する一文において、自身その設立の理由を明確に説述しているので、重複を厭わず、左に転載しておこう。

年々収容する六百名の入学生は、高等学院の修業年限三ケ年の間には病気其他種々の故障の為めに段々減少することを免れないから、将来大学に進み得る学生数は約五百名位になるものと見なければならぬ。然るに我が早稲田大学は従来とても大学部各科に年々一千二、三百名乃至一千五百名の学生を収容したのであつて、夫れだけの教育設備があるに拘はらず、僅かに其三分の一に過ぎざる五百名位の少数の収容を以て満足することは何としても出来ない訳である。そこで其欠を補うが為めに企てた所のものが即ち這般の高等学院第二部の新設であつて、昨年秋文部省に出願して最近其認可を得、愈々来る四月から之れを開設する運びとなつたに就ては、其内容並びに之れが抱負に就て聊か所見を陳べて置きたい。

即ち新たに開設する高等学院第二部も亦た勿論徹頭徹尾新高等学校令に準拠し、一学級の生徒定員から、学科目、其程度、設備、編制、総て既設の第一部と異る所はないが、唯其相違する点は既設の高等学院第一部は中学四年の修了者若くは之と同等以上の学力あるものを収容して、其修業年限が三ケ年であるに対して、新たに開設せんとする学院の第二部は中学五年の卒業者若くは之れ以上の学力あるもののみを収容して、其修業年限を二ケ年とした点である。即ち新大学令に於ては修業年限三ケ年の大学予科と共に、修業年限二ケ年の大学予科も亦之れを認めて居るのであつて、前者の規定に依つたものが既設の高等学院第一部であり、後者の規定に依つたものが新設せんとする学院第二部である。

而して新大学令が何故に斯の如く三ケ年制度の大学予科と同時に二ケ年制度のものも亦之れを認めたかと云ふに、是れは畢竟従来行はれた大学卒業に至るまでの年限が長きに失し可惜青春の時期を学校教育の為めのみに費すと云ふ世論の攻撃に顧みて、せめて一ケ年其年限を短縮せんとする希望に出でたものに外ならぬ。即ち従来は大学へ入るに中学に五ケ年、次で高等学校に三ケ年、合せて八ケ年を費したものが、新令によれば中学四年終了後更らに三ケ年の課程を経ても、或は又中学卒業後大学予科二ケ年の課程を経ても、共に七ケ年にして大学へ入ることが出来るやうになつたのであるが、此改正は一面修学年限を短縮する効果があつたと同時に、他の一面に於ては偶然にも中学教育を甚しく攪乱する弊害を醸成したのである。何となれば従来中学卒業生のみを高等学校に収容した時代に於ても、中学の生徒は第五学年になれば最早高等学校其他の入学受験準備に忙殺されて他を顧みる遑がないと云ふ有様であつたが、新令発布以来は第四学年の生徒から此入学受験準備に熱中して中学所定の学科は手に着かぬと云ふ有様になつて来た。そこで現に昨年春東京で開かれた中学校長会議に於ては中学の修業年限を総て四ケ年に短縮するか、然らざれば大学予科若くは高等学校の入学資格を復旧して従来の通り中学卒業以上とするにあらざれば、此混乱を救済するに由なしと云ふ議論頗る喧しかつた。併しながら朝令暮改の軽挙を避くるが為めには、此処数年間之を実験に徴して徐ろに新令の可否を決しなければならぬ。

そこで我が学園既設の高等学院の如く中学四年の修了者若くは之と同等以上の学力あるものを収容して、之れに三ケ年の高等普通教育を授くると、中学五年の卒業者若くは之と同等以上の学力あるものを収容して之れに二ケ年の高等普通教育を授くると、孰れが大学の基礎教育として其完全を望み得べきかと云ふことが自から眼頭に横はる重大問題となつて来るのであるが、修業年限は孰れにしても共に七ケ年であつて其間に長短の別はないのであるから、此問題は到底議論によつて其可否の決せらるべき筈なく、是非共実験に徴して其成績を見るより外に名案はないのである、而して之れを実験に徴して其優劣を判断すると云ふには、同一の学園に於て之れを試むるにあらざれば、実験の正確を期する所以でないことは素より論を俟たぬ、是れが即ち我が学園が此度び既設の高等学院第一部の外に、二ケ年制度の第二部を新設するに至つた所以であつて、依て以て一面に於ては大学各学部の学生数を増加し従来の教育設備を十分に活用すると同時に、他の一面に於ては庶幾くは以て我が教育界の大なる謎である此難問題を実験に徴して解決せんとする希望に外ならぬ。

(『早稲田学報』大正十年二月発行 第三一二号 二頁)

 第二部は二年制で中学卒業者の収容を予定し、文科のみであり、中学四年修了者を入学せしめる既設のものを第一部とし、校舎も、院長・教頭も、一、二部共通であった。なお第二部に理科を置かなかったのは、恐らく学部定員(理工は三年を通じて六〇〇)と第一部の定員(理二四〇)とがほぼ見合っていたためと思われる。

 大正十年二月に発表した学生募集広告によれば、一部の入学試験は四月一―四日で、試験科目は、文科は国語(解釈作文)、漢文(解釈)、地歴(日本史外国地理)、英語(和文英訳英文和訳)、数学(代数幾何)、理科は国語及漢文(解釈)、数学(代数幾何)、物理(力学、弾性体ノ振動及波動マデ)、化学(硼素及其化合物マデ)、英語(和文英訳英文和訳)であり、二部は同一―五日で、科目は国語(解釈、作文、文法)、漢文(解釈)、歴史(日本史)、地理(外国)、数学(代数、幾何―平面及立体―三角)、博物(動物植物)、英語(英文和訳和文英訳)であった。参考までに、これを専門部(政治経済科、法律科、商科)、および高等師範部(国語漢文科、英語科)―いずれも中学卒業または同等以上が入学資格―と比較すると、専門部政治経済科および商科は四月六日より、前者は国語漢文(作文)、英語(英文和訳)、数学(算術)につき、後者は国語漢文(作文)、英語(英文和訳)和文英訳、数学(算術、代数―但甲種商業学校卒業者に対しては代数の代りに簿記)について試験が行われ、専門部法律科と高等師範部とは「四月中無試験(但満員の節は謝絶す)」であった(同誌 同号 二一頁)。

 大正十年四月十日発行の『早稲田学報』(第三一四号)は、第一部文科一、九八五人、理科一、四七七人、第二部六八五人が応募していると報じた(九頁)が、合格者数は、第一部は政治経済学部志望八〇、法学部志望四〇、文学部志望八〇、商学部志望一六〇、理工学部志望二四〇で合計六〇〇人、第二部は政治経済学部志望八〇、法学部志望四〇、文学部志望四〇、商学部志望一二〇で合計二八〇人であった(同誌大正十年五月発行 第三一五号 一一頁)。

 しかし第一部は三年制、第二部は二年制であるから、科目編成や時間配当が異らねばならなかったので、翌大正十一年四月よりは両部併置を改めて、第二部を組織上独立した学校として、名称も第二高等学院とし、従って第一部は第一高等学院となった。そして校舎も第二高等学院は大学構内に移したから、これより次第に両校はそれぞれの校風を持つようになってくる。なお第二高等学院の初代院長には、早稲田実業学校長の経験のある商学部教授杉山重義が就任した。因に第二高等学院に教頭が置かれたのは大正十三年四月からで、このとき定金右源二が嘱任されている。また高等学院の襟章(写真第7集47参照)も、第一はP、第二はSの文字で区別した。大正十一年四月の入学状況は第三表の通りで、第二高等学院には四〇〇名が入学した。

第三表 第一・第二高等学院入学志願者(大正11年度)

(『早稲田学報』第327号 13頁)

 田中穂積は、前述の如く、第二高等学院の設置を以て、高等普通教育の三ヵ年制と二ヵ年制との優劣を判断するための比較研究の実施であると声明したが、その実験はいかなる結論を生んだであろうか。三度酒枝に語らせることにしよう。

第二高等学院の学生諸君としては、その創立の問題に関して、去年の秋に、かなり猛烈な反対運動があったことを、いつの間にか聞いている。第一高等学院の二年生の中には、今年一年に入りながら、大学に進級するときには同じになる第二高等学院の一年生に対して、何とはなしに差別感を抱こうとする空気があり、それに対して、第二高等学院としては、高等学院の課程は一年分すくなくとも、実力では決して第一高等学院の二年生の連中にひけは取らないぞと言う気構えが感ぜられた。こうした気構えから起る積極的・現実的な態度が、第二高等学院の一年生の間に一般的にみられるのと対照的に、第一高等学院の方は、何となく呑気で観念的な風格をかもし出していた。勿論、多くの学生のことだから、一概には言えないけれども、第一高等学院の学生が、第二高等学院の学生にくらべて、何となく呑気で、多少ぬけているような気分があったことは争えないと思う。しかし、それだけにまた、どこか鷹揚な感じもないではなかった。……

もとの高等学院出身で政界で盛んに活躍しているのは、大体において第二高等学院出身者が多い。これはおそらく実業界などについても、ある程度言えるのではなかろうか。ただ、余り活動的でなくとも、いな寧ろ、活動的でなければこそ、かえってそれに打ちこんでゆける学問的研究の方は、比較的第一高等学院出身の人々が多いように思われる。前にも述べたように、第二高等学院の創設問題が紛糾したとき、田中先生は、大学への準備としての高等学校教育において、三年制と二年制の何れが適当であるかと言う問題への答えを、実際の教育経験に当って見出そうというのが、第二高等学院を開設する理由の一つだと言われた。この田中先生の意見は、そのままではないにせよ、たしかに或る程度、事実的に証明されたと言える。たしかに二年制の第二高等学院と三年制の第一高等学院とは、ただ一年多いか尠いかと言うだけのことでなく、意味ぶかい学風と教育効果の対照を生み出したからである。 (『早稲田の森』 七七―七九頁)

 第一高等学院と第二高等学院とが、それぞれ独自の学風を樹立し、しかも容易に優劣をつけ難い教育効果を挙げ得たのは、優秀な教員を多数集めるのに成功したのによるところが大きいが、中でも中島半次郎杉山重義という、一は学苑出身、他は慶応義塾中退の卓偉の人材をそれぞれの院長に選んだ学苑首脳部の炯眼は称揚せらるべきであろう。

 「最も高い意味における真の自由主義者であり、徹底した人格主義者であった」とは、酒枝の中島観である(同書六一頁)が、第一高等学院で修身を担任した中島は、毎学期の終りの試験の答案を精読し、次学期の最初の時間に、最高点を与えた答案を読み上げるのが常であった。国士肌の杉山に対しては、「天性善人で悪い事が出来ないし、又悪い事をしようといふ心が起らない人であ」り、「西へ向けても北を指す磁石のやうに、邪の方へ向けても、君の心は悪を嫌つて善の方のみへ向つておつた」と綱島佳吉が回想している(『早稲田学報』昭和二年二月発行 第三八四号 三九頁)

が、杉山もまた第二高等学院で担任した修身の試験の答案を一々詳細に眼を通すので有名であった。両院長が、きわめて多数に上る合併授業の修身の答案を一枚一枚苟もないがしろにすることなく、その中から学生一人一人の声を汲み取ろうとした努力には、頭を下げざるを得ないのである。

 最後に新学制発足当時の過渡期の経過措置について一瞥する。大正九年度は高等学院一年生のみしかいないから、この年に学部の一年に入学したのは、大正七年高等予科に入学した学生であった。翌大正十年に学部に入学したのは大正八年高等予科入学生であり、大正十一年の学部一年生は大正九年高等予科入学生なのである。このように新学制になった大正九年四月には、新設の高等学院と同時に高等予科も学生を募集したのであった。因にこのとき高等予科の入学志願者は三、四一七人で、一、〇〇六人が入学している。そして次の大正十二年四月に第一・第二両高等学院の修了者が学部に初めて入学したのである。高等予科は大正十一年三月を以て廃止されることになるが、修了生を新制度の大学学部へ進学させる関係上、高等学院と同程度の教育内容が要請されたので、二年間限りではあったが第一―五部の高等予科各部に教務主任を置き、従来以上の力を入れている。

 次に「別格」制度について説明を加えておこう。大正七、八、九年に入学した高等予科生も大学令による大学予科生として遇されるべきとの了解を、大正八年の新学制申請のときに文部省から取り付けていた。文部省がこれを認めたのは、専門学校令により設けられた高等予科ではあったが、修業年限が二年であったことに由来すると思われる。

ところが高等予科が一年半より二年に延長したのは大正六年からであって、大正九年四月にはこの学生は大学部二年生になっていたのである。そこでこの学生は卒業を一年延期すれば大学令による大学卒業者と看做されることになった。これが別格制度である。なお大学部は、最後の残留学生が卒業した大正十四年三月を以て廃止された。

大正九年二月愈本大学の新大学令に依る大学の設立認可せらるるや、其新令の適用を受くるは特に当時予科在学(一、二年)の者よりする事に決せられたり。然るに吾大学に於ては是より三年前即大正六年度に於て、従来修業年限一ケ年四ケ月なりし予科を延長して満二ケ年修了としたる結果、大正八年四月大学部各学部第一学年へ進級せる者(右認可当時大学部各学部第一学年に在学中)は、何れも新令適用を受くる予科修了生と全然同一課程を試みたるものなり。然るに大学部卒業の暁に於て一方は大学卒業の称号を有し、従て社会に於ても相当の待遇を受くべきに対し、他方は全然同等の課程を修めたるに拘らず此等の特典なきは甚だ遺憾なるを以て、玆に各部当局と交渉の結果其諒解の下に特例を設け、当時大学部一学年生にして卒業の上称号希望の者は、其卒業年期を特に一年延長することとし、大学は其の為に特別設備を設くこととし、即之れを同学年の右称号を必要とせざる者(即順調に進みて大正十一年三月限り卒業する者)に対し、区別して別格第一学年と称せり。即ち此の結果当時大学部第一学年在学生は名称上単に大学部第一学年と称するもの(専門学校令に依る)、別格第一学年と称するもの(新大学令に依る)とに区別せり。尤も学科は別項学科課程に見る如く同一学課を修むるものなれ共、過渡時の特例として已むを得ざるものなり。尚ほ右は只此の際に限りしものなるを以て、大正十年度に於ては別格第二学年と称し、同十一年度に於ては別格第三学年と称し、大正十二年三月限りを以て前後とも消滅すべき特例たるなり。

(「早稲田大学第卅九回報告」『早稲田学報』大正十一年十二月発行 第三三四号附録 三頁)

 こうして誕生した二つの高等学院の大正十一年度の学科配当を次に示そう。この年は第一高等学院が三年目、第二高等学院が二年目に当り、ともに学科課程が完成した年である。なお、左表に掲げられた教科書は当初の予定であり、実施に際しては、かなりの変更があったことを付言しておく。更に、外国語の教科書については、事務所よりの報告に不正確な点が幾多発見されたので、明らかな誤りはできるだけ訂正するよう努めたが、訂正が困難な例も少くなく、その際には、やむを得ずそのまま放置しておいた場合もあるのを了承せられたい。また、高等学院は新任の教員を擁しているので、「早稲田大学第四十回報告」(同誌大正十二年十二月発行 第三四六号附録 一〇―一一頁)より大正十二年度の教員名簿も転載しておく。

第四表 第一・第二高等学院学科配当表(大正十一年度)

第一高等学院文科

〈政治経済学部志望〉

〈法学部志望〉(Aハ英法、Bハ独法、Cハ仏法志望者ニ之ヲ課ス)

〈文学部志望〉(Aハ英文学、Bハ独文学、Cハ仏文学、Dハ露文学志望者ニ之ヲ課ス)

〈商学部志望〉

第一高等学院理科

〈理工学部志望〉

〈第二外国語〉

第二高等学院

〈政治経済学部志望〉

〈法学部志望〉(Aハ英法、Bハ独法、Cハ仏法志望者ニ之ヲ課ス)

〈文学部志望〉(Aハ英文学、Bハ独文学、Cハ仏文学、Dハ露文学志望者ニ之ヲ課ス)

〈商学部志望〉

〈第二外国語〉

教授

講師

 大正九年四月に初入学した高等学院生は、六年のちの大正十五年三月学部を終えて晴れの学士となったが、初代院長であった中島はこの年に長逝している。第一学院の二代目院長には野々村戒三が就任した。

三 専門部と高等師範部

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 学苑の新学制採用に際し、専門部と高等師範部とにはどのような動きがあったろうか。右両部は専門学校令によった旧学制の下に設置され、大正九年以後も同じ専門学校令により設置されたのであるから、基本的には変化はなかった。しかし学苑全体が再編・整備されたこのとき、無影響ではあり得なかったのである。中でも大きな変革は、組織上付属学校となった専門部の講義の独立であった。従来、学科配当表の上では分離独立していた大学部と専門部との講義は、実際にはその多くを合併して行ってきたが、九年四月より新制学部と専門部との講義は分離して別々に行われた。経費も教員の負担も旧に倍したわけであるが、学部と専門部との教育上の特色が明確になった点で、画期的な改革と言えよう。また、旧制時代の専門部各科の科長は大学部の各科長の兼任であったが、付属校となったのを契機に科長制は廃止され、各科に教務主任を置くことになり、政治経済科は五来欣造が、法律科は遊佐慶夫が、商科は小林行昌が、高等師範科は宮井安吉が嘱任された。なお専門部長が置かれるのは大正十三年のことである。

 大正九年、従来の高等師範部は生徒募集を中止し、新たに専門部に高等師範科(国語漢文科、英語科)を設置した。またこれに伴って、予科一年・本科三年の旧高等師範部の予科が廃止され、新制の高等師範科の修業年限は四年に改正された。ただしこの時点では、旧高等師範部には、予科を終えて本科に進んだ一年生と、二・三年生とが在籍中であった。更にこのとき専門部に三年制の商科を新設したので、従来の政治経済科、法律科(いずれも三年制)と合せて四科が置かれたことになる。以上の内容を含む専門部学則は大正九年七月二十九日に認可された。しかし翌大正十年には再び高等師範部を独立させた。学科の組織や教授の方針などが専門部他科とは自ずから異り、運営上不便であったためであると当局は説明している。高等師範部は四年制の付属学校となり、大正十年三月三十一日に認可されている。このとき専門部高等師範科第一学年を終えた生徒は、旧高等師範部在籍中の生徒とともに、一学年ずつ進級して、再設置の高等師範部に編入された。その後、大正十三年四月より同部は再び予科を設けて、予科一年・本科三年に改正され、学科課程の全面改正も行われた。

 ここで『大正九年四月改正 早稲田大学規則便覧』から学苑全体の卒業生の資格について引用しておこう。尤もこの時点では新制の学部卒業生はいないので、ここに大学部とあるのは旧制のものである。

中学校卒業生又は専門学校入学者検定規程に依り、検定若は指定せられたる者にして大学部法学科、専門部法律科に入学し、所定の年限間在学の上卒業したる者は、明治三十一年司法省令第十六号判検事登用試験規則により其試験を受るの資格を有す。中学校、師範学校の卒業生又は専門学校入学者検定規程に依り、検定若は指定せられたる者又は小学校本科正教員の免許状を有し、左記の学科を卒業したるものは、明治三十二年四月文部省令第二十五号により、中学校、師範学校及高等女学校教員の無試験検定を受る資格を許与せらる。其科目は左の如し。

大学部文学科哲学科に於ては 修身、教育

同 英文学科に於ては 英語

同 史学及社会学科に於ては 歴史

専門部国語漢文科に於ては 国語及漢文

同 英語科に於ては 英語

大学部政治経済学科、法学科、商科、専門部政治経済科、法律科及商科を卒業したるものは、大正二年七月勅令第二百六十一号文官任用令第六条第三項に依り、判任文官に任用せらるるの資格を有す。理工科電気工学科を卒業したるものは、明治四十五年七月逓信省令第三十六号電気事業主任技術者資格検定規則第四条に依り三級電気事業主任技術者たるの資格を有す。

(三―四頁)

 なお新設の専門部商科は、大正十二年度より、実業学校教員志望者を入学させる第一部と、それ以外の者を入学させる第二部とに分けた。そして商事要項・簿記・商業算術・商業英語の四科目に関する実業学校教員無試験検定資格は十三年二月二日付で文部大臣より認可され、同年三月以降の第一部卒業生に適用された。

 この頃から専門部と高等師範部も入学試験を実施した。その口火を切ったのは新設の商科で、大正九年五月発行の『早稲田学報』(第三〇三号)は「新設せる専門部商科入学の応募者は、其数一千二百名の多きに達せるを以て、已むを得ず学力考査を行うこととした」(一四頁)と記している。同年の大学報告によれば、

商科に於ては一千二百名に対し競争試験の結果六百五十五名合格入学せしめ、高等師範科は詮考の上一百名を入学許可せり。其他政治経済科五百九名、法律科三百三名を入学許可したりしが、何れも入学志願受付開始後数日にして右定員に充ち受付の打切をなせり。 (同誌大正九年十二月発行 第三一〇号 四頁)

 しかし翌大正十年には左のように更に事情が変った。すなわち、当初、

専門部入学試験科目

政治経済科 国語漢文(作文) 英語(英文和訳) 数学(算術)

商科 国語漢文(作文) 英語(英文和訳・和文英訳)

数学(算術代数)(但甲種商業学校卒業生に対しては代数の代りに簿記を課す。)

法律科 四月中無試験入学を許可す。但満員の節は謝絶す。

高等師範部

四月中無試験入学を許可す。但満員の際は謝絶す。 (同誌 大正十年二月発行 第三一二号 五―六頁)

と発表したのであったが、結果は、

本年度専門部及高等師範部、各科入学志望者は非常の多数に上り、専門部に於ては法律科を除ては、夫々所定の試験を施行し、又高等師範部に於ては、人物考査を行ひて入学を許可せり。尚高等師範部に於ては英語科及国語漢文科とも従来一組宛なりしを本年度は二組宛募集する事となせり。専門部及び高等師範部の入学志望者並に入学許可数を左に掲ぐ。

専門部

政治経済科

志望者―七三三

合格者―三七一

法律科―合格者―四〇〇

商科

志望者―一、三五七

合格者―五八一

高等師範部

国語漢文科

志望者―一三三

合格者―九三

英語科

志望者―二〇三

合格者―一一三

(同誌 大正十年五月発行 第三一五号 一一頁)

と報告されているように、法律科のみは応募者が定員を超えず無試験であったらしいが、他は志望者が多数で、試験や人物考査を経て入学を許可しており、高等師範部は増員しているのである。

 こうして学苑は学部および高等学院、専門部、高等師範部の三系統の学制を採用した。後二者は中学を卒業してすぐ専門教育或いは師範教育を受け、社会に出ようとする者のために設けられたのであるが、学苑は総合大学であるため、学部の教授がこれらに出講して講義をすることが多く、充実した教育が行われた。大正十三年に初代専門部長に就任した坂本三郎は、その年十二月発行の『早稲田学報』(第三五八号)に寄せた「専門学校に就て」の中で、「今、一、二の実例に徴して、大学部出身者と専門部の得業者とを比較するに、最近数年間の弁護士、判検事試験の成績に依れば、その登第の栄誉を担へる者は概ね専門部の卒業者である。先頃催した専門部の学生と大学部の学生との討論会の結果を見るに、各教授合議の上決したる採点に拠れば、一、二等は多く専門部の学生の得るところとなり、大学部の学生は二、三等に下るといふ現象を呈したのである」(二頁)と述べている。

 更に大正十一年十二月開催の「研究科に関する委員会」で、専門部と高等師範部の各研究科は従来どおり存続することに決定している。

 また専門部と高等師範部は大正十三年五月二十日付文部省告示第二百九十号により、高等学校および大学予科と同等以上の資格を持つものと指定され、両部の卒業生は文官高等試験予備試験を免除されるとともに、学部進学への道が開かれることになった。

 以下に、専門部については大正十三年の、高等師範部については昭和二年の、学科配当を示しておこう。専門部につき大正十三年の学科配当を掲げる理由は、一九頁に前述した学部に関するものと同様であり、高等師範部については大正十三年開始の新制度(八九頁参照)の完成年度であるため昭和二年の学科配当を選んだのである。

第五表 専門部学科配当表(大正十三年度)

政治経済科(第二学年及第三学年ニ於テハ*印ヲ必修科目トシ其他ノ科目中ヨリ第二学年ハ三科目、第三学年ハ二科目選択必修ノコト)

法律科

商科(特別英語及商業通信ハ第一部ニノミ課ス)

第六表 高等師範部学科配当表(昭和二年度)

国語漢文科

英語科