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第六編 大学令下の早稲田大学

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第五章 故総長大隈侯爵記念事業

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一 故総長夫人の死

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 顧みれば大正十一年は早稲田学苑にとって多事な年であった。一月に創立者大隈重信を失い、三月には記念事業計画を纏め、二百万円の資金募集を定め、四月には大隈家から正式に邸宅・敷地の寄附を受けた。

 大隈信常は同年十一月二十二日、早稲田邸から青山南町の新邸に移ったが、綾子夫人は長女熊子とともに、旧邸の一部に居住を続けた。夫人は前年既に病床にあり、殆ど床を払うことがなかった上、故総長の逝去により甚だしく落胆したためと、十一年冬が数十年来の酷寒であったために、十二年春には、食欲減退し、肉も落ち、衰弱日に加わり、室内の歩行すら容易ならぬ有様になった。夫人は嘉永三年十月旗本三枝七四郎頼永の二女として生れ、明治二年大隈重信夫人となったが、塩沢昌貞は夫入を評して、「寡黙で、しかも、言は実に道理に叶つて居り、いざといふ時には、実に果断で少しも躊躇することなく、また、極く優やかな中に、動かすべからざる気性を具へて、大事の場合に曾つて周章されたことはない。その沈着に毅然として、事に処するところは、男子も及ばぬほどであつた」(『早稲田学報』大正十二年六月発行 第三四〇号 五頁)と述べ、また故総長の関係した内外の事を真に理解し、心身を尽して多大の援助をしたこと、慈愛の念が深かったこと、公私の区別を明らかにしたことなどを美徳として挙げている。『大隈侯八十五年史』に記されている逸話中に、大正二年故総長と九州を旅行し、夫君の留守に来島恒喜の弟が突然訪ねて来たとき、周囲の者は面会を避けるよう望んだが、夫人は端然と坐し、平生と変らぬ態度で接したという。この時の訪問は、夫人が来島の菩提寺に寄附したのを謝するためであったのがあとで分ったが、周囲の周章ぶりに較べ、夫人の沈着さが際立ち、塩沢の評が過褒でなかったことが分る。しかも夫人は学苑の発展のため、故総長を助け、終始心配もし、援助も与えたのであった。高田早苗の思い出によると、大学創立当時、評議員会、卒業式などの折には何くれとなく世話をやき、一方ならず尽したというし、また学生を深く愛し、優秀な者には特に賞品を送ることを三十年以上に亘り続けたという(『早稲田学報』第三四〇号 四頁)。従って大隈にとり稀に見る賢夫人であったとともに、学苑にとりかけがえのない慈母だったと言えよう。かつて学苑ではキャンパス内に夫人の銅像を建てるのに反対して騒動が起ったことがあったが、それは当時の天野学長以下幹部に対する反感と、銅像建立についての手続の不備と、男尊女卑の遺風とによるもので、必ずしも夫人への反感が昻じたものではなかった(第二巻 八四八―八五一頁)。しかしいかに傑れた人格を持つ人も、病魔に冒され、寿命の尽きるときは如何ともし難い。十二年四月五日、宿痾の慢性気管支カタルは急に悪化し、風邪も併発して、十四日には脈搏百二十を数え、重症に陥った。その後一旦落ち着き、二十日、故総長大隈侯爵記念事業に対して天皇より下賜金と沙汰書を賜ったことを塩沢学長が報告したときは、病床に端然正坐して感泣したと伝えられ、また二十二日には護国寺墓前および大学における故総長一周年追悼会の模様を熊子刀自より聞いて衷心喜んだという。ところが二十三日になると、意識は明瞭だが衰弱は刻々加わり、二十五日以後容態はますます悪化し、二十七日には衰弱極点に達し、危篤状態となり、二十八日午後一時三十分眠るが如く七十二年余の生涯を閉じたのであった。

 病床の夫人には天皇、皇后より見舞品の下賜があったが、大学代表者や校友会代表者らも見舞いに駆け付けている。また五月四日の葬儀には、有栖川宮家をはじめ皇族方の弔問・代拝があり、朝野を挙げて盛大な告別の式典が執行された。大学は悲報に接すると、直ちに緊急理事会等を開き、これを校友や関係者に伝えるとともに、準校葬の礼を以て葬送すること、霊前に玉串料(三千円)を捧げることなどを決めている。葬儀当日は臨時休校として敬弔の意を示し、教職員・校友および政治経済学部以下各学部・専門部学生、付属学校生徒ら約二万が鶴巻町より音羽護国寺に至る沿道に堵列して、一般民衆とともに惜別の情を示した。

 故総長まず去り、次いで夫人を失った早稲田の旧邸には、長女熊子がひとり淋しく残り、亡き父母の冥福を祈る日日を送っていた。熊子は故あって大隈に離別された先妻美登(江副廉造の姉)の子で、一旦南部(大隈)英麿に嫁したが、のち離別の余儀なきに至った。二万円以上に上る他人の借財に英麿が調印したのが原因であるが、「当時大隈は藩閥より糧道を絶たれ最も困窮の際であつた」ため、遂に破鏡の嘆を見たのであった。尤も、その当時「熊子も全く一生涯の別れとは思はず、一時を処理するため寧ろ勤めて別居せしめたことは、生前英麿自身われ等に語つたこともある」と市島は『壬戌漫録』一に記している。その後熊子は父母の下にあって良く孝養を尽した。特に父は隻脚で日常生活にも不自由が多かったので、その面倒を見るのに後半生を捧げたと言ってもよい。また烈しい気性の継母綾子にも、実母と変らぬ敬愛の情を持ち、常に温顔を持して仕えたのである。

 熊子については堀部久太郎編『大隈熊子夫人言行録』という小冊子が追悼の意味を籠めて残されているが、その最大の美点は謙譲の美徳にあったようで、封建的な遺風の強かった当時にあっても、召使などに進んで挨拶し、優しい言葉を掛けたという思い出が多くの人々により語られている。綾子夫人には近寄り難い感を持っていたらしい早稲田の学生も、熊子には親近感を抱いていたと伝えられている。熊子はその後もずっと早稲田邸に隠棲していたが、昭和八年五月十七日に逝去した。享年六十九歳であった。

二 大隈邸と庭園の受贈

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 もう一度話を大正十一年に戻すと、老侯の葬儀後、月が改まる頃には嗣子信常は早稲田邸以外に居を定めるよう決意したが、それと並行して、大隈邸および庭園の学苑への寄附問題が議せられることとなった。同年二月二十日に開かれた臨時維持員会の記録に、

学長ヨリ臨時会開会ノ趣旨ヲ述ベタル要旨ニ曰ク、此ハ直ニ決議ヲ乞フ為ニアラズ、又之ヲ公ニスルヲ得ザル秘密ノ件ニシテ、内々御相談ヲ乞フ事項ナリ。即大隈家ガ現在ノ邸宅ヲ侯爵ノ御遺志ニ基キ、本大学ニ寄附サルル御希望アリテ、之ヲ引受クルヤ否ト云フ件ニシテ、高田名誉学長ニ対シ、大隈家財政顧問武富、町田両氏ヨリ御話アリタル趣ナリ。本大学ハ右御寄附ニ対シ相当ノ金額ヲ謝礼トシテ差出シ、総長ノ遺跡ヲ保存セント欲ス。本会ニ於テ其大体ノ可否ヲ定メ置キタシ云々。

高田維持員、右ニ関スル大体ノ経過ヲ述べ、且総長邸ノ坪数及其評価々格ニ付キテ意見ヲ述べ、本大学財政上ノ現況ヲモ概説シ、之ヲ譲受クルノ必要ナルコトヲ述ブ。

右ニ付キ、高田、市島、昆田、増田ノ四氏ヲ委員トシ、学長ト倶ニ本会ニ代リテ其交渉及ビ協議ヲ遂グルコトヲ委嘱スルコトトシ、満場異議ナク可決。

とある。大隈邸と庭園の学苑への寄附について、学苑の対応を示す最初の史料である。

 市島の手記には、

此の会に先立ち高田と余と学長並に昆田一日学校に会して準備的に原案を作る。昨日の維持員会は此の原案を附議せし也。結局原案に決す。但し此原案は大隈家と交渉を開くに方り学校側の冀望と云ふに外ならず。其の要領左の如し。

一、大隈邸有形の儘総坪数一万千九百余坪。

一、右の価格を百万円と見積ること。

普通売買価格は百万円を超ゆべきも好意的に低価となすこと。

一、大隈侯の遺旨に基き遺族より表面学校へ寄附の形となすこと。

一、学校より二十五万円乃至三十万円を借り受け差当り新侯爵に納付し、何れかに家を営む費に充ること。

一、残額は寄附金の集まるに応じ追々納付のこと。但し毎年利子は納付すべきこと。

一、学校の経済は甚だ逼迫なれども、毎年の下賜金二万五千円並に賛助会収入は未だ使途定まらずあり。当分之を以つて利子に充るを得べし。

一、侯の旧邸購入の資金は寄附金募集に依るの外なし。然れども此の募集のみを標榜する時は、他の事業のために要する資金募集は当分見合するの外なく、為めに事業に阻滞を生ずるに付、右邸宅購入と併せて大講堂建設費をも募集すべきこと。但し双方にて金額二百万円のこと。大講堂建築は総長生前の宿題につき、遺旨なることを標榜すべし。

一、邸宅総坪を永遠に所持するは大に過ぐ。二千坪或は四千坪を放して売却する敢て不可とせざれども、当分は保留するを要す。譲り受けと共に切売を為すごときは体裁よろしからざるのみならず、経済上不利もあり。寧ろ持堪へ、或る適当の機を見て売却すべきこと。

大要右の如し。ただ幾許の価を以つて譲り受け得るやが問題なり。百万円は価廉なるごとき観あるも、之れを購入するの費用、租税、其他利子、墻塀整理等の費用をも積算すれば、約二十万円を要す。百万円一概に廉と云ふ可らず。況んや好意を以つて寄附的精神に学校へ譲与すと云ふに於てをや。 (『壬戌漫録』 一)

と、この間の裏面の事情が記述されている。

 四月十四日に開かれた校友大会において高田は、大隈家でその邸宅と庭園を学苑に寄附することに決めた理由は、第一に故大隈重信の遺志であったことによるが、同時に、大隈家の財政顧問であった武富時敏(第二次大隈内閣の大蔵大臣)、町田忠治(憲政会所属衆議院議員、もと銀行家として関西財界の重鎮であった)の両名が、「大隈家が侯爵在世の当時と同じ場所に居て同じ有様でやつて行くことは不得策である。このままでは思ひ切つて改革が出来悪い」と考えたことにもよると説明している。この武富、町田の意見は嗣子信常、故侯爵夫人の同意を得た上で高田に伝えられたので、高田から学長らに連絡したのであるが、高田はその時、「大隈家の財政状態、今あすこに居ると云ふことが財政上如何であらうと云ふ御話を承はつて見れば、有難うございますと言つて御礼を申して引下がると云ふ訳もいかぬ……学校としては貴とい侯爵の遺跡を頂戴する訳で結構なことであるけれども、又夫れに付いて負担も増す訳である。容易なことではないが、併し是は御辞退致す可きではない」と考え、また、「大隈侯の邸宅が学校のものになつたと云ふことは、創立者大恩人の記念遺跡を学校が御守りをすると云ふ方針を以て、其志を達するばかりでなく、之を実用的に考へても確に早稲田大学に取つて誠に結構な事である」(『早稲田学報』大正十一年五月発行 第三二七号 二-三頁)とも考え、これらの意見が維持員らに伝えられて、前述のような維持員会の決議となったのであった。

 さてこのようにして大隈家より寄附を受けることに決まったので、その条件等について学苑では高田らが大隈家との折衝に当ったが、大正十一年三月二十日の維持員会の記録にはその結果が、

学長、故総長御寄附受領ニ付、本大学ヨリ申出タル条件ニ付テハ異議ナク御承諾アリシモ、御後室ガ邸内別ニ一千坪計リノ地ヲトシテ御住宅ヲ定メタキ御希望アリ、委員等ハ協議ノ結果御用意申上ゲタリ、本会ニ於テモ御承認アリタシト述べ、高田維持員亦覚書ヲ提出シテ、御同意ヲ得タル顚末ヲ述べ、全員異議ナク可決。

と記されている。「本大学ヨリ申出タル条件」の内容は明記されていないが、前回の臨時維持員会における議決「相当ノ金額ヲ謝礼トシテ差出シ、総長ノ遺跡ヲ保存セント欲ス」が条件の主たるものであったにちがいない。ところで「相当の金額」の内容であるが、同日の維持員会の記録には、

高田維持員ヨリ故総長邸ノ寄附ニ対スル謝礼トシテ百万円、之ニ紀念大講堂ヲ建設スル為メ百万円、計二百万円ヲ要スルニヨリ、之ヲ募集スル方法等ヲ概説シテ、広ク維持員、評議員、校友会幹事、教授、講師等ヲ委員トシテ寄附金ヲ募集セザル可ラザルコトヲ説キシニ、渋沢維持員ノ発議ニヨリ、高田維持員ヲ右募集委員長ニ推スコトニ決議シ、維持員全部之ヲ輔クルコトヲ議定シタリ。

とあって、募金方法が検討されているが、謝礼の金額については、募金目標額の半分に当る「百万円」が既定の事実であったのである。尤もこの金額については、六月の維持員会で、山田英太郎維持員から、募金の半額を謝礼とするのは多きに過ぎて背任の非難を受けることはないか、謝礼があまりに多額で寄附というより売買とならないか、相続税を免れる手段と非難されないかという三点について疑義が出されたが、これについて当局者は原嘉道弁護士に意見を聴き、また鑑定書を求め、それらの心配は全く杞憂で問題はなく、登録は贈与とすべきであるという回答を得たことを、七月十七日の維持員会で報告した。従ってこの時「百万円」という謝礼の予定額が確定したと言えよう(昭和二年十月二十日の創立四十五年記念式典で、田中理事は大隈家への納付金六十七万円、講堂建設費六十六万二千余円と報告している。更に、同四年十二月二十一日の臨時維持員会では、大隈家へ残額皆済することが決議されている)。

 さて、大隈家よりの邸宅・庭園の寄附受入れの条件が整ったので、四月十日の維持員会で、受領のために、坂本三郎維持員を委員長とし、前田多蔵幹事・土屋啓造副幹事・増子喜一郎を委員とする委員会を設けることと、第一回の謝礼金を二十五万円とし、これを戸塚運動場を抵当として日清生命保険株式会社より借り入れることとを決めた。

 こうして大隈邸と庭園の受入れ態勢が徐々に整えられたが、九月に至って、故総長の祠堂と、後室綾子のための新邸が完成したので、三十日綾子は娘熊子とともにここに移り、またその後赤坂区青山南町六丁目百十五番地に新邸が完成して信常一家が移居したので、十一月二十二日、学苑からは塩沢学長と溝口直枝会計課主任心得が出向し、大隈信常および同夫人から、土地、建物、什器、文書等の寄贈目録について詳細な説明を受けた上で、正式に財産の引き継ぎを終った。これらのうち、大隈重信関係文書は、その後昭和二十四年および同五十一年に寄贈を受けたものと合せ計一万数千点に達する膨大なもので、「近代日本建設の経緯とその真相を語る重要資料」(『大隈文書』第一巻序文三頁)である。なお『大隈文書』中に収められている昭和二十四年六月受贈の書簡は、焼却の運命の寸前にあったもので、市島謙吉は後年『自娯耄録』六に、その運命を免れさせた経緯を左の如く記している。

大隈老侯の薨後夫人は自分を呼んで語らるるのに、自分は維新後から屋敷に寄せて来る各所からの書簡を心がけて保存し、ある時代のものは執事に命じて多少の整理をさせてある。折角保存したものでもあるが、これが自然に世間に散ずることがあると面白くない。いつそのこと焼却して仕舞ふかと云はるるので、自分は保存論者でもあり、恰かも其時老侯の伝記編纂を思ひ立つた頃でもあつたので驚ろいて推し止め、自分が引受けて整理をし、巻に装潢して一紙も散佚しないやうにするから、私にお任かせなさいと云ふて、其翌日持出された手紙を見ると、実に其の分量の大なるに驚ろいた。明治十三、四年頃までの書簡は、三条、岩倉、大久保、木戸と云ふ人別に分けられてそれぞれ袋に入つて居り、歴史中の人物の書簡のみが大支那カバンに四つも五つもあつて、未整理の各年の来簡は大風呂敷に包まれてそれが幾十の多きに及んで、二十畳もある大きな室が充塞の有様であるのに一驚を喫した。自分も可なり手紙を寄せ集める道楽をやつたものだが、こんな手紙の海に漂ふたことはないので、整理の容易でないことを思ふと共に、一種云ふ可らざる愉快を覚へた。それから二週間余にわたり毎日点検・取捨して多くの書簡に濡つたが、維新風雲俊豪の手紙が十の八、九を占めてゐるので、それを読むと宛がら己れも歴史中の人と成り化したごとき感があつて、毎日長時間にわたる労を全然忘れて頗る興味を感じた。それが一ト通り整理されてそれぞれ巻に表装されたのは一、二年の後であるが、四、五百巻の風雲書簡の大隈家に立派に存してゐるのは此の次第に依るのである。

(昭和七年六月十三日稿)

 さて学苑当局は、取敢えず二名の職員を派遣して、邸宅・庭園の管理・保全に当らせたが、それらの利用法については、受入れが決定した時点で既に、欧米各国における偉人の旧跡保存の美風に倣い、なるべく現形のまま保存すること、書院、食堂等は諸学会、教職員クラブ、迎賓所として利用するが、庭園とともになるべく一般の観覧・使用に供することという方針が定められていた。管理運営法も当然この線に副ったものになるわけで、成案を得て大正十二年三月二十日の維持員会に承認を求め、可決されたものは次のとおりであった。

大隈会館要領

一、名称 大隈会館

一、区分 本館、別館及書斎

一、特別室 故侯御居間、書斎及御夫人応接室

一、会員 教職員、校友、寄附者及関係者より募集し、一ケ年金十二円を納むる事。

一、温交会員 温交会員は当然会員の資格を有す。

一、別館は、当分の内学生の公的集会の使用を許す。

一、本館及び別館の一部を会員の使用に供し、校友関係者並に一般の集会・宴会・園遊会等に提供す。

一、特別室は、特別の場合の外使用せず。侯爵御居間は全然使用を禁ず。

一、一般観覧希望者よりは入園料〔金二十銭〕を徴す。但し室内の出入を許さず。

一、使用規定は別に定むる所に依る。 (『早稲田学報』大正十二年四月発行 第三三八号 四頁)

 この決定により、旧大隈邸・庭園は大隈会館と呼ばれることになり、遺跡保存とともに、高田らが念願とした、教職員の懇親の場として、また学会・小集会の場としての教職員のクラブとして利用されるほか、学生の集会場として、また来賓との会食場として用いられ、更に一般にも公開される道が開かれたのである。なお学苑は一般向けに、高須梅渓編の『大隈会館之栞』という小冊子を作っている(大正十三年三月刊)。開館日は大正十二年四月一日であったが、その前日の三月三十一日には正午から学校関係者を会館書院に招いて「早稲田ランチ」の試食会を開いた。開館当日は学外者にも開放したので、かねがね東京の一名所に数えられるくらい評判の高かった邸宅・庭園であったから見物人が蝟集し、故総長の真赤なガウンや遭難当時の血痕の残るフロックコートなどを物珍しそうに眺めていたという。「爾後日々来観者少からず。多く来りたる日は千二、三百を数ふ。団体の多く東京に集まる日は入園者数千を数ふるに至らん」と市島謙吉は『小精廬雑載』三に記している。勿論、学苑学生には、学生証を呈示すれば庭園は無料で公開されていた。教授菊池晩香は「大隈会館」と題する七言律一首を作り、感慨を述べたが、その詩は『早稲田学報』

第一図 大隈会館平面図

(『大隈会館之栞』 四五頁)

(大正十二年五月発行 第三三九号)に掲載されている。

有山有水有林園 室美殿洪軒接軒 盛暑午炎風自冷 厳寒夜雪気猶温

好邀名士揮雄弁 或許詩筵倒緑樽 長記老侯遺愛跡 一堂宛見大乾坤 (二一頁)

 また大隈会館の内部を説明しながら往時の追憶を語った市島謙吉の「学園漫歩」と題する文章が『随筆早稲田』に収録されているので、その一部を左に掲げておこう。

先づ会館の門を通りかかつて思ひ出すのは、此門が会堂の出来た為め元の位置を変じ、今はハスカヒになつてゐることである。扨て玄関に入つて何人も見のがし得ないのは大なる二王尊像が左右に立つてゐることである。これはもと岡山県の某寺にあつたもので、作者は不明だが丈余の楠の一本彫りで、霊妙な鑿の冴えは決して凡作でない。其の逞しい左右の腕をひろげ巨眼を輝かしてゐる雄姿は如何にも侯にふさはしい玄関番で、往年〔明治三十四年三月十四日〕大隈邸が火災に罹つた時少しの破損もなく此の巨像が救はれたのは、早稲田中学の若い学徒が、其の軟かい手でいたはりながら搬出したからであつた。火後侯は涙ながらに学生達の働きを喜ばれた。老侯は骨董などを玩ぶ人でなかつたが図ぬけて大なるものを喜ばれた。二王もそれだが、同じ玄関に青銅の毘沙門天が手に正義の剣を提げ、威容を示してゐる。これも丈余の大像で、某商工会社が米国の博覧会に出品したものだが、これも侯の趣味に適つてゐると思ふのは、其偉大さと、正義の為めには万難を辞せざる所に、侯と一脈相通ずる所があるからである。尚ほ玄関に入ると右手の壁に長さ六尺許の大杓子が掲げてある。これは侯が安芸の宮島へ赴かれた折、同処の校友が侯に献じたもので、侯は之れを受けて莞爾として語られた、「杓子は飯を掬ふものだが、斯の如く大なるものは天下を済ふことが出来る」と、自分などは此杓子を見る毎に侯一流の諧謔を追憶せずには居られない。尚玄関入口の左方に高く掲げてある額面は渺茫たる大氷洋の写真であるが、これは侯が南極探検の壮挙を助けて苦心された記念品で、これも大を語るの骨董たるを失はぬ。玄関に斯るものが集まつてゐるのは、侯の趣味を現はす為め、態と後日工夫したのでなく、侯在世の時のそのままであつて、偶然にも、此入口は侯の人格を語るものが幾多あるから、忽卒に過ぐ可らざる所である。

私は会館中のどの室にも多少の思ひ出があるが、最も思ひ出の多い処は書斎である。侯は朝客が来ると書斎に出で応接せられ、追々来る幾人の客を此室に引き入れて、談笑半日を費さるるが常であり、多くの場合侯自身談ぜらるることが多かつたので、自分など多少の用があつて伺つても、いつも来客が室に充てゐて、なかなか用が弁じないので、ツイ侯の談論を半日も傍聴することがあり、その談論に陶酔して時刻の移るを覚えなかつたこともあつた。侯に依つて吾等が啓発を受けたことが今考へると実に少なくない。……侯が総理大臣として議会を解散され総選挙を行ふに当り〔大正四年〕、自分は自ら揣らず大隈侯後援会の会長となつて、逐鹿戦に馳駆したが、味方に栄冠を与へる手段として最も大切であつたのは、侯が出陣されて候補者の為演説さるることであつたが、なかなか全国に渉つて侯が出馬さるる訳に行かず、そこで案じたのは、侯の演説を蓄音機のレコードに納め、それを各地に回すことであつた。侯は最初此案を聴き入れられなかつたが。夫人の後援を得てやつと承諾され、高輪の某蓄音機会社〔日本蓄音器商会〕が頗る重量ある大機械を早稲田まで運び、それを取りつけたのは、書斎に隣る応接室の中間に戸のある所で、ラツパをここに取りつけ、侯はそれに吹きこまれたのが、「〔憲政に於ける〕輿論の勢力」と云ふ演説で、それは確か四枚ほどのレコードで完結したと思ふが、侯は例のごとく原稿なくして淀みなく堂々と陳べられた。此の吹込の場合にも、侯は初めての事であるので躊躇され、私に向つて君先づ前座をやれと云はるるので、老侯を紹介する簡単な言葉を陳べた。実は政治家が蓄音機で自家の演説を吹込んだのは日本ではこれが初めてであるのだ。……

書斎を出て廊下伝ひに行くと大書院に入る、ここが会館の中枢で、二間続きの尤も大きな座敷である。此の建築が侯自身の意匠に成つたもので、寺の大書院とも見らるべきものだが、寺の書院は多く日光が遮られて、内部が暗く陰気であるが、これは多くの高窓のある為極めて陽気に出来てゐる。そこに侯の工夫があつて、庭園の全貌は居ながら見ることが出来る。此の広間は極めて歴史に富んでゐる。大正天皇が東宮にあらせられた時台臨の御座所もここであつたし、大正三年大隈侯首相時代、対独開戦の閣議を半夜開いたのも此処であるし、侯が天盃を賜はり、其の祝宴を催して旧君鍋島侯御一家を招待になり、吾等迄末席を汚して御流れを頂戴したのも此席であり、侯が多数の人を招いて各種の会を催された処も亦此席である。今は早稲田の宴席場に充てられてゐる……。

此大書院の一隅から畳廊下伝ひに侯の居室に通ずる。此所は十五畳敷南北の二室で、南側の室に侯は婦人と席を並べ、床を背にし庭に面して居られたのだ。ここは侯を偲ぶ最も大切な部屋で、生前用ひられた蒲団も煙草盆も脇息も書籍も、在せる時の如くそつくり其儘になつてゐる。婦人の坐辺も調度も亦同様である。侯夫婦の寝室は別に、洋館で畳を敷こんだ処があるが、大正十年九月侯が病に罹られてから、居室が病室となり、自分なども御臨終少し前、お招きにより拝顔を得たのも此室であつたが、終に此室で薨去になつた。斯る来歴があるから此室は末長く保護を要する。隣室には侯の早大総長の赤色の式服と遭難当時の衣服其他が陳列してあるのは、来観者に老侯を偲ばせる用意に出たもので、いつも此室に入る毎に、吾等は万感交々到つて胸の塞がるを覚える。

歩を庭園に移して逍遙すると、一木一石侯を偲ぶの記念でないものはない。侯は毎朝例として庭内を散策せられ樹石に親しまれたが、実は樹石や仏像や燈籠など、或は自から購ひ或は他より寄せられたものが多く、皆それぞれの歴史がある。のみならず庭園全部が侯の趣味で作られたものであるから、侯の趣味の現はれとも云ふべきものである。此庭園はもと松平頼寿伯前代の下屋敷であつたので、多少其頃の趣も存してゐるかも知れんが、侯の趣味で大いに改造されたことは事実である。明治以前には諸侯の旧庭園は皆和様四条家風の作庭であつたのが、東京に始めて文人風の作庭を試みたのは実に侯から始まるのである。明治の初年に大阪に鈴木柯村と云ふ文人風の作庭に長じた人がゐた。侯は旧式の作庭を厭ひ此人に嘱して庭を改造せしめられた。それを助けたものには、図案を作るに崋山の門人である渡辺崋石が参加し、園芸家の香樹園主人も亦与つた。香樹園主人は柯村に学ぶ為浪花へ特に赴いたこともあつた。斯くして出来た庭園は東京に於ける文人風の作庭の初めで、爾来これに倣ふものが出来た。渋沢子の飛鳥山邸の庭園や、九段招魂社内の庭園の如きは皆柯村の意匠で出来たものである。文人風の作庭術は自然の趣を本意とするもので、旧式の作庭術が陰陽説に拘泥して万遍一律の形式に泥むものとは甚しく異なるものである。侯の庭園が自然に適ひ一樹一石按排宜しきを得て居るのは此故であつて、東都の名園と称せらるるのは決して偶然でない。此園は老侯の遺作とも云ふべきものであるから、飽までも原状の儘保護せねばならぬ。幸に庭は些しも旧観を改めてゐない。唯だ多少変じた所を挙げて云へば大温室が取払はれ、大隈講堂が庭園に其の一面を現はし、山上には老侯夫人の銅像が立ち、紅葉山には招魂殿が設けられたが、……招魂殿はもと庭内の天神山に菅公と老侯の北堂の崇信された肥前鹿島の裕徳稲荷を合祀した其の祠堂が不用となり、天神山の地形も変ぜんとするので、同じ地形である紅葉山に移したもので、故侯夫婦を始め開校以来学校に功労ある物故者の霊を祀ることになつたので、紅葉山はこれが為めに神聖の処となり、風致も一段加はり、夫人の銅像と云ひ、招魂殿と云ひ、共に庭内の名所が出来たのであるから、吾等は甚だ慶びに堪へない。俗悪のものを置き清地を汚すのとは同日に語るべきでない。 (九〇-九八頁)

 このとき寄附を受けた大隈会館の敷地は、記録によりその数字に大きな差が見られる。大学には当時の贈与目録があった筈であるが、現在では確認できない。昭和五年一月二十八日に東京区裁判所淀橋出張所に土地所有権移転登記がなされており、「大正拾一年一月十日死因贈与ニ因ル」と原因と日付が記され、登記義務者は大隈重信となっている。これに添付された目録が大学に贈られた土地の坪数を示すものであり、地目別に記された宅地、田地、原野を総計すると、九、〇五五坪三合四勺となる。右の書類は調度部管財課に現在保存されている。

 しかし邸宅・庭園の寄附の意味は単にそのような数量的なものに止まるものではなく、学苑創立者の偉大な遺跡を得て、朝夕その遺徳を仰ぐことができるのは、学苑の人たちにとり心情的に大きな意味があり、また学苑キャンパスに隣接して広大な庭園を利用し得る会館を与えられたことは幸いであった。それを最もよく理解するためには、もしこの庭園と邸宅が他人の手に渡ったならばどうなったであろうかと仮想してみるがよかろう。

 また次のようなことも考えてみるべきであろう。我が学苑は創立以来常に偉大な大隈重信の保護の下で成長してきた。勿論小野梓高田早苗らをはじめとする学苑当局者以下教職員一同の、力を合せての努力が大きかったことは言うまでもないが、それでも陰に陽に大隈から与えられた庇護がなかったら、これまでに発展することができたか否か疑問なきを得ない。しかし創立四十年を経、大学令による大学に成長した学苑は、常に「学問の独立」を謳っているとおり、実はその保護者の手からも、そろそろ独立すべき時機にさしかかっていたのではないか。大隈を父として生れた早稲田大学も、大隈との心の結び付きは切れないが、今や誰からも独立した「自由な学苑」に脱皮すべき時を迎えていたのである。

 第二巻に詳述した「早稲田騒動」は複雑な動機を持っていたが、これに係わった学苑関係者の動きの中に、大隈家からの独立を願ったのではないかと見られるものがあったのは、既に学苑の中にそのような考え方が醸成されつつあったのを示していると言えよう。学苑の空気がこのようになってきたとき、大隈が逝去し、その旧邸・旧庭園が学苑に寄附されたのは、学苑が大隈の翼下から離れ、大隈家との係わり合いも変ってくることを意味し、学苑の大隈家からの独立―完全な意味での学苑の独立―の第一歩となったのであって、大学史の上から見れば、この点こそ、大隈邸・庭園の学苑への寄附の持つ最大の意義であったと考えられるのである。かつて大隈重信は、傍らにいた高田早苗を顧みて、庭園から見える学苑の甍を指しつつ、「あれもやがてここまで出張つて来るやうにならなくてはならぬ」と言った(『半世紀の早稲田』三四八頁)ことがあったが、今やその言葉は実現したのであった。

三 記念事業の成功

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 大講堂の建設等を目的とする故総長大隈侯爵記念事業の計画が公表され、募金への協力が呼び掛けられたのは大正十一年四月以降であったが、前述の如く、三月二十日の維持員会で、一応の計画の承認と、高田維持員を委員長とし、維持員全員がこれを輔けることが議決されている。ところが既に一月二十七日、学苑は大隈信常高田早苗市島謙吉坪内雄蔵を委員とし、難波理一郎を幹事とする内容充実方針委員会を置き、第一に故総長記念事業の調査をし、なるべく追悼会席上で発表できるよう求めているのであるから、記念事業計画は大隈の死後間もなく準備されていたのであって、邸宅と庭園の寄附はそれを具体化するきっかけになったのであった。

 記念事業資金募集委員長高田は、四月十四日の校友大会において、資金募集に関する第一声を放ち、「此場合に於て諸君に〔募金運動に協力する〕御決議を願ひたい」と言い、大要次の如き発言をなした。すなわち侯爵の死に当って、高田らは何らかの記念事業を行うべきものと考え、大講堂建設、学苑の内容充実、邸宅・庭園の寄附に対する謝礼の大隈家への贈呈とそのために必要な二百万円の寄附金募集を維持員会に諮ったところ、満場一致で承認された。大講堂は生前侯爵が強く希望されたところであるし、また訓育上欠くことのできぬものである。内容充実は大学として当然努力せねばならぬものである。旧大隈邸や庭園は、故侯爵の遺徳を偲ぶためにも、利用価値の大なる面からも、是非学苑が所有せねばならぬものである。従って校友諸君は、この三計画の趣旨を了解されてどうか募金運動に協力願いたい。募金方法については、渋沢子爵を会長とする記念事業後援会を設け、故侯爵との関係者らの援助を願うことも考えているが、何と言っても校友会そのものがこの事業の主体となって推進してもらいたい。そのためには中央、地方の校友会幹事諸君は勿論だが、そのほか学科別、学級別に二、三人位の方に委員となって働いていただきたい。今度の募金は不景気の時節に行うので、少数の人に大なる寄附を望むのは無理だから、「国民募集」を考え、広く天下に訴えて、多数の方から一円でも五十銭でも醵金していただこうと思う。それには先ず維持員・評議員から始めるが、次いで世間の人にお願いする前に先ず校友諸君に先んじて応募願い、次に学生の父兄諸君にお願いするつもりである。それについて、この席において、「必らず実行を期すると云ふ熱烈なる御同情を有つての決議」をお願いする(『早稲田学報』大正十一年五月発行 第三二七号 二-四頁)というのである。

 校友会は異議なく賛成し、直ちに「故大隈総長記念事業の趣旨に賛同し、極力之を援助し、其の必成を期す」(同誌同号 一五頁)との決議を行い、中央ならびに地方支部、学年別、クラス別等に記念事業委員会を設けて、協力態勢を整えることになった。中央校友会では、四月十四日の決議に基づき設けられた記念事業中央委員会を五月八日永楽倶楽部で開き、夜半まで論議を尽して、左の如き具体的方法を立案した。

一、本会故総長記念事業部本部を永楽倶楽部に特設して、該事業援助上の便宜を図り、併せて各地方校友会及び各種校友団体間の連絡及び統一を期する事。

一、各地方校友の協心戮力を期するため特に本会より依頼する事。

一、中央校友会委員の資金募集範囲及び予定額に関する件。

一、本会新旧幹事は固より、更に、左の諸方面より選べる数百名を加へて記念事業校友会東京委員を置き、以て直ちに資金募集其他の活動を開始する事。

(一) 東京府下各新聞社、官公衙、会社銀行等特に十名以上の校友ある処より各若干名。

(二) 各学年級会其他校友の諸団体より各若干名。

一、猶ほ、中央在住の校友は其の故郷、若くは諸方面の知人に対して能ふ限り個人的勧説方法を講ずる事。

一、国民的募集方法等に関する件其他。 (同誌大正十一年六月発行 第三二八号 一九頁)

この原案は、五月十二日同所で開かれた新旧幹事の相談会で更に逐条審議を行い、各員の隔意ない意見交換、討議の末、大体原案どおり承認され、早速この方針に副って活動を始めた。

 こうして、維持員、評議員、中央・地方校友会幹事、全教職員を委員とする記念事業資金募集の大委員会を結成し、恩賜館二階の一室にその本部を定めたのち、次のような趣旨書と募集規定を作成して各方面に配布し、また広告研究会に依頼して募金宣伝用ポスターを製作させた。

故総長大隈侯爵記念事業趣旨

世界的偉人として認められし我が早稲田学園の創始者故総長大隈老侯逝いて玆に三閲月、而も哀悼追慕の念昨尚ほ今の如く、痛惜の情益々新たなるものあるを覚ゆるは、これ独り事に学園に従ふもののみの感に非ざるべきを信ず。然れども今に於て尚ほ徒らに故総長を哀悼し痛惜するは決して故侯の意に副ふ所以に非らず。蓋し我が早稲田大学は故総長が四十年間心血を濺ぎて拮据経営せし苦心の結晶にして、曩に九旬の病床に在りて夢寐尚ほ念頭を離る能はざりしもの也。総長今や幽界に在りと雖も、一念尚ほ儼として学園の上に存し、英霊永へに其発達を希ふを疑はず。乃ち故侯の素志に酬ゆるの途は唯一其遺業たる学園を恢弘し其権威を発揚するに努むるに在るのみ。

玆に於て局に学園の事に当るものは、故総長の記念事業として、其生前の宿望たりし大講堂の建設を始とし、研究機関の整備、教授団の充実等、学園の内容外観に一大改善を施し、以て総長の英霊を慰めんと決意し、既に委員を選びて鋭意調査研究の歩を進めつつありしに際し、恰も侯爵家より老侯の遺志に基き、宏大なる邸宅を挙げて之を学園に寄与せらるるの一大福音に接したるを以て、玆に愈々該事業を急速断行する心を固ふし、即ち故侯遺愛の庭園及建築物を学園に編入し、老侯が四十年間起臥せられて広く交りを内外の人士と結び、且之を指導せられたる旧蹟を保存し、以て高風を永へに後昆に伝ふると同時に、此処に大講堂を建設して学徒訓育の上に更に一段の意義あらしめ、且つ之を公開して以て社会奉仕の一端に供せんとするに至れり。然れども其之を行ふに要する資金は固より少小ならず。大講堂の建設の如き常に万余の学徒を擁する学園としては其規模固より広大ならざるべからず。而して之が建築費は如何に節約を旨とするも約百万円を要すべく、更に新侯爵破格の厚意に対しても唯之を受くるのみにして何等報謝の挙に出でざるは固より当然の事に非らず。況んや故侯の一世は始終一貫社会奉仕に急にして為に財を費すこと尠からず、随て必ずしも多く児孫の為に美田を購ふの遑あらざりしが如くなるおや。乃ち大講堂の建設、侯爵家に対する報謝、其他当面忽にす可らざる学園の内容充実に要する諸費を数ふる時は、尠くとも二百万円の資源を備へざる可らず、而も我が早稲田学園現在の財政は僅に経常の費用を償ふに足るに過ぎず、決して斯る巨額の支出に堪ゆ能はざるの状態に在り。即ち玆に重ねて江湖篤志諸君子の懇情に愬へ、其義捐に俟ち此目的を達する外他に方策無きを如何せん。惟ふに我が早稲田学園今日の隆運あるは、之れ偏に其創業以来優渥なる皇室の恩寵と江湖諸賢数次の殊遇に浴したるに依るものなること固より論を俟たず。故に従来と雖も日夕之に酬ゆるの途を講じ敢て或は怠ることなしと雖も、学徒の来り集まるもの逐年激増したるが為に、資金を挙げて纔かに教室の増築其他応急の設備に費し、内容充実の目的未だ多く達せられず、大講堂の如き学徒の品性陶冶上必須にして一日も欠くべからざる緊要の機関さへ、未だ之を備ふるの遑あらざりし也。而も輓近世界思潮の動揺に鑑みる時は、重きを訓育に置くの愈々益々切実なるものあると同時に、其建設が故総長積年の祈願なりしを思へば、玆に重ねて資を大方の諸君子に仰ぐの一事衷心誠に忍び難しと雖も、而も亦止むを得ざるの必要に出でたるものにして、深く江湖諸君子の諒察と同情とを希はざる可らず。

蓋し我早稲田学園が過去四十年間に於て既に一万六千の卒業生を出し聊国家教育に貢献したる事実は、満天下の認識せらるる所なり。加ふるに故侯生前の交遊は真に天下に普く、故侯に対する深厚なる同情は社会の各方面に横溢し、決て独り我学園に関係を有するもののみに止まらざるは、其国民葬の未曾有の盛観なりしに徴しても略ぼ之を察するを得べし。而して是等の諸君子が幸に故侯唯一の大遺業たる我早稲田学園の此挙を賛せられ、此記念事業に対して深甚なる同感を懐き、資の多少に論なく、寄与せらるるに吝ならざる可きは吾人の深く期待する所なり。仰ぎ希くは大方の諸君子、早稲田老偉人の生前に於ける切望を容れ、此企図を翼賛し此事業を完成せしめられんことを。

大正十一年四月

募集規定

一 早稲田大学は故大隈総長記念事業完成の為寄附金二百万円を募集す。

一 大隈侯爵記念事業資金として募集したる寄附金は主として左の目的に使用す。

一 大講堂建築費 一 大学の内容改善に関する応急経費 一 侯爵邸の寄附に対し侯爵家への謝礼

一 本記念事業資金の募集は故侯一周忌(大正十二年一月十日)を以て締切るものとす。

一 寄附金額は制限を設けず。

一 寄附金の払込は一時及年賦(三ケ年以内)の二種とす。

一 寄附者は寄附申込証に金額及寄附方法を記し署名捺印して申込まれたし。但即時寄附は必ずしも此形式に依るを要せず。

一 寄附者に対しては早稲田大学学長及同基金管理委員長連署の領収証を送附す。

一 寄附者の芳名は本学報、報知、読売の二新聞及各地方の新聞に掲載す。

一 寄附金は本大学又は本大学指定の銀行に払込れたし。

一 寄附金は早稲田大学基金管理委員之を管理し、其決議を以て確実なる銀行に預け入るるものとす。

(同誌 第三二七号 四―六頁)

 ところで、校友会等の精力的な募金活動には期待できるとしても、今度の大事業の成功には政・財界の協力が必要不可欠であると考えた高田らは、前述の演説中にも触れられているように、記念事業後援会の組織にも努力し、四月中に先ず関係方面に募金の趣旨書を配布し、六月には渋沢栄一を会長として政・財・官界および軍部の有力者三十七人からなる後援会が生れた。また記念事業計画が発表されると、一万有余の在校生は、本事業の達成には学生として極力協力すべきことを誓い、直ちに委員を選出して実行方法の協議に入った。学部・高等学院・工手学校の各委員は再三会合し、応分の寄与をなすため協議を重ねた結果、学部・高等学院生は該事業資金の十分の一に当る二十万円を向う三年に亘り学生一人当り年六円の割で醵出することと、工手学校生も総額四万円を醵出することを定め、九月より実施することとなった。また夏季休暇を利用し、記念事業部および各地校友と提携して募金に尽力することとし、全国各府県に亘り、出身学生中より十五名ないし三十余名の委員を選出して、準備を進めた。

 こうして、大正十四年の六月末に至るまでの三年間に亘る長い困難な募金運動が始められたのであるが、次に各グループごとに活動状況を概略記しておこう。

(一) 高田早苗委員長

 高田は募金委員長就任についての感想を、十一年四月十四日の校友大会で次のように述べた。

渋沢子爵其他の諸君、詰り維持員諸君残らずが私に向つて、此場合であるからお前が一つ傍に居て此仕事の世話を焼くやうにしたらどうだ、又して貰はなければ困ると云ふ懇ろなる御話があつた。私も実は諸君の御承知の通りあの学校を大学にします当時から、又理工科を造る際に於ても、屢々基金募集と云ふことには其局に当り奔走をしまして、仲々是が難事であると云ふことは人より多く承知して居ります。学長を止めました当時最早斯う云ふ仕事をやらずに済むと云ふことは、何よりの重荷を下した感じが致した訳であるのに、今更又再び此仕事に従事すると云ふことは、第一昔と違つて段々年を取つて来まするし其仕事に堪へるや否や覚束ないのみならず、余りに責任の大なるを考へて躊躇したのでありますけれども、場合が場合であるから辞する訳にも行きませず、兎に角塩沢学長が元帥となつて活動されるならば、其後ろに立つて参謀長位は務めなければなるまいと云ふので、御受けを致した訳であります。 (同誌 同号 三頁)

 確かに齢還暦を過ぎ、しかも前年末には胆石を病んで国府津の別邸で静養を余儀なくされ、老侯国民葬の前日医師の制止を無視して上京、強いて葬列に参加したほどであった名誉学長としては、今度の大役を引き受けるには多少の躊躇はあったろうと思われる。しかし他方、創立以来責任者として育て上げて来た学苑が一大飛躍をしようとするとき、乃公出でずんばとの気概はあったろう。特に従来の募金運動は、大隈という大看板の力で目的を達したような節もあったが、この度はその看板が外れてしまっている。看板なしでは金が集まらないというのでは、早稲田大学の沽券に係わるという意地もあったろう。高田は委員長を引き受けることになったが、一旦その職に就くと、東京は勿論、関西、北陸、山陰、九州の各地に東奔西走し、塩沢学長、田中理事以下本部役員とともに、殆ど寝食を忘れて活躍したのであった。

(二) 記念事業後援会

 六月六日の発起人会以後、財界各方面に募金協力方を呼び掛けたが、特に十月には後援会会長渋沢栄一は八十歳を超える老齢の身で、高田委員長以下を帯同して下阪し、大阪の官民有力者八十四名を二十四日午後五時より大阪ホテルに招待して、国家の最高教育に貢献する意味を以て、記念事業に賛同し、且つ他に向っても極力勧説に努めるよう懇請した。これに対し井上孝哉大阪府知事は答辞を述べ、十二分に援助することを誓った。なおこの募金に当って三井、三菱をはじめ古河虎之助、中島久万吉、藤山雷太、浅野総一郎、山本達雄、内田康哉、徳川家達、近衛文麿らの政・財界人から多額の醵金があったのは、主として後援会の働きによるものであった。

(三) 校友会

 四月十四日校友大会で記念事業に協力を誓う決議を行った校友会会員は、各地において熱心な活動を続け、高田が望んだ如く、記念事業の中核となって成果を挙げた。東京市内では十三ヵ所に記念事業校友会が結成され、校友への勧誘ばかりではなく、各町を戸別的に訪問して、一般募集にも努力した。地方の校友会の活動も活発で、内地は勿論のこと遠く朝鮮、満州にも及んだ。このような地域別の動きとは別に、中央校友会の方針に従って東京所在の官庁、会社、銀行、新聞社、商店等の在勤者が、その勤め先単位に寄附を纏める動きがあり、また卒業年度或いはクラスを同じくする者が、グループごとに記念事業援助に乗り出した例も少くなかった。

(四) 教職員

 十一年六月二十六日午後一時から教授・講師三十四名を、また二十九日午後一時から地方派遣の職員一同を会して、高田委員長から記念事業に関して、地方講演その他を懇請したが、この記念事業を達成するには「洽く各地の人士に愬へて、其の賛同を得るの要切なるものあるを以て、今夏季を期して、内地は固より満鮮方面に到るまで、本大学教職員出張して講演会を開設し、各地在留の校友学生と呼応して、以て、各地の文化啓発に資すると同時に、江湖諸君子の賛助を請ふ事」(『早稲田学報』大正十一年八月発行 第三三〇号 一〇頁)が望ましいとして、七月二十一日より一ヵ月間に亘り、全国四十四府県をはじめ台湾、朝鮮、満州の各地に百余名に上る教職員が手分けして講演に赴いている。

 教職員の協力の例としてはこのほかに、文学部出身者が文壇に活躍する有志を糾合し、自ら選ぶところの文章を集めた『早稲田文芸大観』という叢書を出版し、その益金四六五円を寄附した。因に第一巻・小説集の扉には「大隈侯記念事業を援助するため」と銘記されている。文学部教授五十嵐力がその著書『国歌の胎生と発達』(学位論文)の印税(五〇〇円)を同じく寄附したことなどもあった。

(五) 在校生

 在校生が欣然として記念事業に協力したことは既述の如くであるが、夏季休暇に入ると、それぞれ郷里で、映画会、音楽会、文化講演会などを催して収入を挙げ、記念事業資金として寄附している。中でも、野球部が部活動を通して、四回に亘り、計一六、七七五円八八銭を寄せたことは特筆せらるべきであろう。学生達のこのような自発的且つ積極的努力が高田ら募金委員の大きな励ましになったことは、言うまでもあるまい。

(六) 地域の人々

 学苑で記念事業が計画され、募金が開始されると、学苑周辺の地域住民間にも、学苑の要請に応じ、協力する動きが現れた。十一年七月九日に高田委員長は恩賜館に牛込区内の名誉職および有志の人々を招き、協力を懇請したところ、列席者(三十四名)全員の賛同を得、募金活動を開始することになった。また府下戸塚町にも後援会結成の機運があり、九月二十一日名誉職諸氏が大学に参集し、この件について申し合せたが、十月二十七日発起人三十九人が戸塚町役場で発起人会を開き、後援会趣意書の議定、委員長(町助役荒井銀次郎)、常任委員の選任、事務所の設定(荒井氏方)を行い、活動に着手した。このような地域の人々の厚意に満ちた働きによって集めることができた多額の資金の中で、府下二区二郡下下宿業組合の一〇、六七七円、早稲田下宿業組合の五、二六五円、牛込区飲食店組合の二、六五〇円、牛込区洋服業組合の一、五四五円、牛込区書籍商組合の一、三七五円、牛込区鶴巻町鶴正会員の七四〇円、東京洗濯業組合牛込支部の一一八円が目立っている。

(七) 展覧会等の開催

 以上のような一般の募金運動のほかにも、学苑当局は各方面の援助を得てさまざまな催し物を開き、極力資金募集に努めた。すなわち十二年四月二十―二十七日、川合玉堂、下村観山、黒田清輝らの賛同を得て諸大家の筆になる日本画六十四点、西洋画六十点、書・和歌・俳句三十三点の展覧即売会を大隈会館に開催して純益三〇、九三八円四二銭の寄附を得たのを皮切りに、翌十三年三月三十日には高橋栄清、尾上菊五郎らによる箏曲・清元・歌沢・常磐津・舞踊の会を、四月十八―二十一日には横山大観らの日本画二百二十三点の展覧会を、同月二十六―二十八日には学苑劇術会員や元帝劇女優らの出演で逍遙坪内雄蔵作の児童劇と「法難」「二葉の楠」の演劇会を、いずれも大隈会館で催し、これらの入場料収入等七、一一一円五八銭が寄附せられた。秋に入り十月三十一日から十一月三日にかけて大隈会館で沢田正二郎一座が戸外劇を、劇術会がぺージェントを演じて、入場料一、一六〇円八二銭が、十一月三十日には九段能楽堂において宝生流楽師の能が上演されて一、四三四円九九銭が、更に翌十四年五月十五―十九日には京都名匠会の協力を得て陶・銅・漆・竹・木器名品展示即売会を大隈会館で開いて純益三六五円二〇銭が、寄附された。

 記念事業資金募集は、以上の如く大規模な組織作りに成功し、また多数の人々の厚意によって支持されたが、それでも容易にその目的を達することはできなかった。『早稲田学報』(大正十二年二月発行 第三三六号)には、「寄附御申込の受納に就て」として、「乍遺憾未だ予定の金額に達し不申……来る三月末迄に一般の申込を受け度存候」(二一頁)云云と、二月十日締切の予定延期の広告が出ているが、その後毎号募金に早く応ずるよう催促の広告が掲載され、その間に締切は四月に延ばされ、更に無期限になっている。これは募金がいかに困難であったかを示すものと言えよう。目標額の二百万円を突破するには、遂に三年以上の日数を要したのであった。

 募金がこのように難渋した理由の第一として、目標額が巨大であったことが挙げられよう。それは学苑経常費のほぼ二年分に相当したのである。

 次に大隈前総長を欠いた募金だったことを挙げねばならない。このハンディキャップを埋めるために、高田委員長以下が必死に努力したのは前述のとおりであり、それはそれで相当の効果を挙げたことは認めねばならないが、この種の事業を遂行していく上で、やはり大看板の有無は、相当大きな影響力を持っていたように思われる。

 第三には、もっと大きな理由として、漸く寄附申込み金額が二百万円を超したとき、「故大隈総長の記念事業について」という広告(『早稲田学報』大正十四年七月発行 第三六五号)中に、「去る大正十一年四月その計画を発表し江湖の高援を願ひました以来、玆に三星霜、其間或は財界の不況に、或は稀有の大震火災に遭遇せしにも拘らず、幸に予定の申込額に達することを得ました」(二一頁)云々と記されている如く、不景気と関東大震災の影響が挙げられる。募金開始の大正十一年は、大正九年以降の慢性的不況の真只中にあった。九年三月の東京株式取引所の株価大暴落に端を発し、株式取引所・商品取引所の一時閉鎖、百六十九行に及ぶ銀行の取付け騒ぎ、或いは二十一の銀行の休業等の続いた恐慌状態の中で、重要商品の価格は殆ど半値以下(特に生糸は四分の一、綿糸は三分の一)となり、倒産二百八十五件というような非常事態が、その後少しも緩和されず、翌年のワシントン軍縮会議や十一年の石井定七商店の破産を契機として起った全国的な銀行取付け騒ぎ等が、更に不況を酷くし募金を困難にしたのである。その上大正十二年九月の関東大震災は首都東京をはじめ、神奈川、千葉両県に甚大な損害を与えた。この一府二県は、記念事業資金申込み額で断然他を引き離し、最終的統計を見れば総額の九〇パーセント近くを占めた地方であったから、忽ちその影響が現れ、大正十二年以降の伸び悩みとなったのである。

 しかしこのような困難があったにも拘らず、ともかく募金は予定額を超える成功に終り、昭和二年十月に刊行された『故総長大隈侯爵記念事業報告書』によれば、同年九月二十日時点の寄附申込み金額は二、〇三九、二九〇円二五銭、払込み完了額は一、五六七、九七四円六九銭、未収額四七一、三一五円五六銭であった。

 募金に成功したのは高田委員長以下の努力の賜物であるけれども、大正十二年四月二十日天皇より、

早稲田大学

今般其ノ大学ニ於テ故大隈侯爵記念事業ノ計画有之趣被聞食思召ヲ以テ金五千円下賜候事

大正十二年四月二十日 宮内省

(『早稲田学報』大正十二年五月発行 第三三九号 三頁)

との沙汰書とともに下賜された金五千円が、当時の国民感情を考えると、募金事業に大きなプラスになったのは争えない。しかも、恐らく学苑と何らか特別の関係が存在したとは推定できない千葉県勝浦警察署員一同、群馬県磯部尋常高等小学校職員一同、福島県湊屋旅館女中一同、長野県上郷村村吏一同というような人々から寄せられた浄財があったことも、特筆せらるべきであった。高田の報告によると、応募者総数は五四、四九〇名に達し、大は五万円から小は十銭と、その個人別寄附金額は多様で、国民の広い層の支持が示されている。高田の言う「国民募集」はまさに成功を博したと言えるであろう。