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第六編 大学令下の早稲田大学

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第十七章 学生諸団体の解散

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一 社会科学研究会の解散

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 昭和二年十二月一日の『早稲田大学新聞』を開くと、大正十三年五月発足以来活躍してきた社会科学研究会に関し、「歴史空しく/社研遂に潰滅か/教室無断借用に端を発し/会長の日和見に憤激」という見出しの記事が目に入る。

ロシア革命記念研究会の教室使用問題〔十一月七日〕から端を発して、責任者西島君は除籍処分になつた事は既報の通りであるが、いま一人の責任者松原君の問題が残つてゐたが、去る二十八日学生課に出頭を命ぜられ、責任者の辞職届を差出さなければ相当の処分をすると、暗に辞任を強要された。そこで、会の方では会員総会を開いて、辞職届と一緒に新責任者の届出でを持つて行つたが、学校当局では松原君の辞任丈けを取り上げて、新責任者の届出は受理しなかつた。その結果、非公認の研究会は僅に責任者によつて部屋の使用を許されて居たのも、前記二名の責任者の除籍と辞職により自然消滅の形となつた。ここに早稲田名物の一として現代の無産解放戦に幾多の闘士を送つた社会科学研究会も遂に名実共に早稲田の学園から姿を消されんとしてゐるらしい。

 大山郁夫は学苑社会科学研究会の会長であったから、大山が学苑を去ることにより、社研は早急に新会長を迎えるのが必要となった。当時、学苑には科外教育審議会(大正十四年十二月一日設置)なるものがあり、その「科外教育審議会規則」第五条に、「総て本大学内に於て学会を設立せんとするときは科外教育審議会の決議を経ることを要す。学会を継続せんとするとき亦同じ」(『早稲田大学新聞』大正十四年十二月十七日号)との規定があった。また、これに関連して、「学生の指導誘掖をはじめ、学生の各種会合、風紀、保健及び宿舎に関する事項を掌る」ことを目的とした学監部を新設し、部長一名(坂本三郎の呼び声が高かった)および参与十名(各学部、専門部各科、高等師範部の教授会、および専門学校の講師会――専門学校で教授会が成立するのは昭和二年――において一名ずつ互選)の強力な機構によって対処しようとした計画は、大正十五年三月十五日の維持員会で可決、四月一日実施と一応決定されたにも拘らず、結局客観的事情が熟せず、実現には至らなかった。しかし、「学生ノ会ニ関スル規則」(大正十五年四月一日施行)第一条第一項に「学生ノ会ヲ設立セントスル者ハ一名又ハ数名ノ責任者ノ署名シタル願書ニ会則ヲ添へ総長ニ願出テ其許可ヲ経ルコトヲ要ス」、第五条に「学会ノ継続期間ハ一ケ年トス之ヲ継続セントスルトキハ第一条ニ依ル」(『早稲田学園』大正十五年二二四―二二五頁)との規定があって、公認の学生団体となるためには必ず教員を会長としなければならぬことになっていたからである。公認団体でなければ部屋や教室の利用もできず、その活動は事実上停止せざるを得なくなる。社研の幹部学生は後任に北沢新次郎を希望したが、社研をめぐる学苑内外の情勢は日々厳しさを増していたので、北沢もすぐには引き受けなかった。しかし、学生の懇望をむげに斥けることもまたできなかったので、実際運動はやらず、理論学習に専念するのを条件として、北沢は新会長に就くことになった。しかしこの約束は守られず、社研の幹部学生はいわゆる実践へと駆られ、北沢との意志の疎通もうまく計らなかった。

 二年の六月二十二日には大学擁護記念講演会が計画された。当日、三宅雪嶺大山郁夫が「大学の使命」、「大学擁護の記念日を迎ふ」との演題でそれぞれ熱弁を揮う筈であった。この講演会の主催者は雄弁会で、新聞学会後援という形をとったが、真の計画者が社会科学研究会であることは、誰の目にも明らかであった。勿論、大学当局はこの計画の実施を許さなかった。大学当局は社研の体質の変らないことを認識し、関係学生は当局の頑迷ぶりを再確認した。間に入った北沢は困惑し、やる気を失った。それでも北沢は社研の会長を正式に辞任はしなかったが、その気持は日増しに強くなったらしい。北沢はかねてから種々な理由で実際運動から身を引き、学究生活に沈潜する気になっていたのである。事実、後に北沢は十月初旬、日本農民党顧問などの地位を去った。『早稲田大学新聞』(昭和二年十月十三日号)は次のように報じている。

北沢教授実際運動を断念し/突如、日農党より退く/今回の選挙に痛感して/今後は只管研究に没頭

日本農民党顧問・日本農民組合会長の地位にあり、無産政党右翼の理論家として活動をなし来つた商学部教授北沢新次郎氏は果然政治運動引退を決意して、三日遂に日本農民党幹部に宛て辞表を提出するに至つた。

続いて同記事は、引退の理由として、北沢家に病人がいることを挙げているものの、真の理由は、実際運動があまりにも多くの物質的窮乏と精神的労苦を生み、且つ人間的にも政治運動に適せざることを痛感したためであろうと述べているが、理由についてのこの推測は恐らく正しいであろう。更に、次のような事情も恐らくかつて北沢の胸中に存したであろう。すなわち、社研を拠点とする政治活動が続けば、犠牲者も多くなるであろう。正義感に基づいた学生の行動は賞讃さるべきであるが、それを賞讃して、学生中からこれ以上の犠牲者が出るのを見ていることは許されない。寧ろ、社研の活動を停止させ、それでも行動に走らざるを得ないと考える学生は個人の責任でやらせるようにすべきなのではないか。

 こうした判断は大学当局のものでもあった。『早稲田大学新聞』(昭和二年十二月八日号)の「社会科学研究会/解散問題の本質」なる記事には、大学側は常に、社会科学研究そのものを禁止するのではない、団体を作って研究活動をすることに問題がある、「研究は個人でやれ、団体を作る必要はない」と言ったり、また「本校に社会科学研究会がないといふのは虚構だ。新稲会といふ立派な公認団体がある」と言うが、これは体制内労働組合を以て真の労働組合を潰そうという資本家の常套手段と揆を一にするものである、という意見が述べられている。新稲会についての報道は『早稲田大学新聞』(昭和二年六月二日号)にある。

社会問題研究の/新稲会生る/二木教授を会長に/研究雑誌も発行

思ひ出も深き大山教授事件以来、社会科学の研究はやや行き悩みの感を呈し、特に社会科学研究会の会長問題はまだ解決されず低迷してゐる現今、突如二木教授を会長として会員十五名を以て新学会の一として新稲会は先週水曜日設立された。この会は第二学院の出身者である大政一年の人達を中心として組織され、設立主旨とする所は一般社会問題に関する会員各自の研究発表討論及び雑誌の発行で、事業としては討論会を毎月開催し、二木教授が講評されるさうである。

 社会科学研究会に拠る学生達が北沢や大学当局の判断を是認するわけはなかった。彼らは事あるごとに政府の方針に迎合的な大学当局の弱腰を批判してやまなかった。社研を一気に消滅に追い込んだロシア革命記念研究会は、そんな状況の中で興った。学生達は十一月七日、ロシア十月革命を記念しての研究会を無断で開催した。教室の無断使用は固く禁じられていたから、大学当局は研究会の中心学生西島を手続不備の理由を以て除籍処分に付した。学生達は憤激した。彼らの主張によると、大学はこの処分を、予備通知も正式の通知も行わず、一方的に強行したことになっている。学生達は北沢に取りなし方を頼み込んだが、北沢は、「私が会長を引きうけた時は、実際運動はやらないといふ事で当校との折合もついた訳だが、過般の講演会問題も私は一寸も知らず、学校で会の存在を認めないといふ以上は、当然会長もない事になる」(同紙昭和二年十二月十五日号)と表明して、正式に社研から身を引いた。後任会長を引き受けようとする教員はいなかった。

 既述の如く、「科外教育審議会規則」および「学生ノ会ニ関スル規則」によって、会長のいない学生団体は公認団体とはなり得ない。更に、冒頭の記事にあるように、もう一人の責任者松原の辞職届が受理された後、後任の責任者の届出が受理されなかったから、社研には責任者もいなくなったわけである。大学当局は同会の否認を通告し、部屋も十二月一杯で明け渡すよう命じた。学生達は十二月一日、会員総会を開いて決議文を認め、総長と学生課に提出した。その模様を『早稲田大学新聞』(昭和二年十二月八日号)は、「解散命令に抗し/決議文を提出/孤城を死守する/社会科学研究会」という見出しで報じている。その時作成された決議文は、次の二条。

十二月末日までの会室取上の理由は断然不当なりと認め、来年三月末まで会室借用を要求す。

右決議す。

西島君の除籍及除籍〔解除〕願却下の理由は不当なりと認め、速時復籍を要求す。

右決議す。

二 新聞学会・雄弁会の解散

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 『早稲田大学新聞』の創刊は大正十一年十一月五日であり、東洋における学生新聞の嚆矢『三田新聞』に後れること五年四ヵ月であった。「吾人の叫び」と題する創刊の辞が載っているが、これは大正デモクラシーの渦中で産声をあげたものであり、東北地方出身の学生を中心とした「啄木を慕ふ会」の同人によるかねての努力が実ったものであった。最初の会員は、石川準十郎、服部敬雄、信夫韓一郎、西垣武一などであり、初代会長は田中穂積であった。創立委員の一人服部は「えつち生」の署名で、創刊一周年記念号たる大正十二年十一月十五日号に、その間の事情を次のように書いている。

早稲田の大伽藍には、四十余年の間培はれた早稲田宗ともいふべき伝統的な一大宗教があり、そこに二万の信徒ワセダマンを包んでいる。だが去年のけふまで、その宗旨を究め宣伝すべき何等の綜合的機関のなかつたことはなんといつても大きな矛盾であり、この布教に尊き一命を捧げた幾多の先輩殉教者への恥辱であらねばならない。この意味合ひから一年前のけふ漸く誕生したのが、この早稲田大学新聞である。半年越しに芽萌え育ぐくまれた発刊の機運はその三月やうやく具体的運動を促すやうになつた。先づ三月、わが同志と共に学校の理事当局に向つて、再三その必要を主張し力説したが、御座成りな一片の空言に見んごと突つ放しを喰つたのだつた。

しかしどうしても「やらなくては」ならないといふ堅い信念はそのままにしてはおかなかつた。「四十年以来の忍従の鉄鎖は君等によつて切られるのだ。嵐の如き熱情もて、炎の如く馳駆せよ」てな鼓舞の投書を受て、背後には味方が控へているといふやうな何がなし心強い気分をつよめた事もその頃だ。更にわれ等は第二の計画に移り、都下は勿論全国に散らばる新聞雑誌関係校友諸君の賛成の署名調印を得るために三ケ月の間、行脚して求めたのだつた。今だから言へるが、一方これで動かなかつた場合は雨か嵐か、一万の学生大会をさへ開いて、この金的を射落とすことに急がうと誓つたのだつた。だが幸ひにも第二案をもつて漸く当時園外にあつた高田先生の賛同を得るところとなり、更に数回の交渉に当局の容るところとなつたのであつた。

 既に大正九年十二月には『帝国大学新聞』が発行されており、京都帝国大学など、その他諸大学でも学生による新聞発行の気運が盛り上がっていた。こうした気運は確かに「大正デモクラシー」の産物なのであろう。言論の自由の要求はその実践を求める。実践とはそれぞれがそれぞれのマス・メディアを持つことから始まる。この必然性と必要性は学苑当局の方でも把握するところであった。同じ号の『早稲田大学新聞』で高田総長は次のように記している。

この新聞の発刊当時、私は当局者では無かつたが、田中理事が態々来られて、新聞発刊の計画の有ること、西洋にも日本にも、学園といふ学園には必ず新聞があるのであるから、早稲田に於て今日迄無かつたのは寧ろ不思議といふ可きである。殊に早稲田からは多数の新聞記者を出すのであるから、学生の希望に応じて発刊したいとの話であつたので、我輩は直に賛成の意を表したのである。

 創刊に努力して来た学生達は欣喜雀躍、紙面の作成と宣伝に走り回った。「先づ渋茶に半年の渇をいやし、九月から十月にかけて総出の宣伝をやり、運動会の当日には巾六尺に長さ三丈余の白布に『早稲田大学新聞生ル』と一升の墨汁で書きなぐつた」(同紙大正十二年十一月十五日号)と服部は回想している。運動会の行われた戸塚球場から、第二高等学院の窓に垂れさがったこの大ノボリを見て、新聞学会に入会した学生も多かった。後の『都新聞』記者青山与平もその一人であった。

 創設当時、彼らは自分達の団体を新聞学会と称した。単に新聞を作成、発行するだけではなく、ジャーナリズムの基本を学ぼうとした態度が、その名称に現れている。『朝日新聞』の美土路昌一・土岐善麿・原田譲二・名倉聞一・楚人冠杉村広太郎、『東京日日新聞』の小野賢一郎、『報知新聞』の太田正孝、『読売新聞』の千葉亀雄・安成二郎ら、錚々たる第一級記者が出講し、学生達を指導した。「綜合編集について(美土路)、政党機関紙とドイツの新聞(名倉)、新聞記事と文章(原田・杉村)、宮廷〈皇室・皇族〉記事の取材と取扱い(小野賢一郎)、文芸(千葉亀雄・安成二郎)など面白く聞いた。土岐さんは学芸部関係の話が多く、石川準十郎、平野長一ら新聞学会同人が三朝庵で開いた『啄木を慕う会』へ出席して『悲しき玩具』など、美しい声で詩の朗読をされた」(青山与平「五十年前への郷愁」『早稲田学報』昭和四十六年七月発行 第八一三号 三九頁)。

 しかし、『早稲田大学新聞』の前途は多難を極めた。既に創刊半年後に発行停止処分を受ける。第十二章で詳述した軍事研究団事件が大正十二年五月十日に起った。『早稲田大学新聞』は五月十六日発行の第一四号において報道記事とともに、大山郁夫の「一早稲田人の立場から――軍事研究団発団式に於ける騒擾事件の批判――」と青柳篤恒の「誤解せられた軍事研究団の団長として」の二つの意見を載せたが、これをめぐって紛糾が生じ、遂に二十五日発行予定の第一五号は学苑当局により発行停止を命じられた。今日の目からは紙面そのものに特に偏向は認められないが、当時の多くの人々は『早稲田大学新聞』が軍事研究団および大学当局に批判的姿勢を執っていると解した。新聞学会は文化同盟員と密接な関係にありとして、右翼的学生から睨まれていたのである。両者の関係は否定し得ないが、だからといって新聞学会そのものが左翼的になったわけではない。文化同盟による学生が『早稲田大学新聞』を自己の意見表明のメディアとして用いようとしただけである。尤も、新聞学会員の方にも文化同盟的意見を正論と考える傾向はあったに相違ない。何といっても『早稲田大学新聞』は大正デモクラシーの子として生れたのである。いずれにせよ、これらの諸条件が合するところ、『早稲田大学新聞』即左翼的新聞とのイメージが濃くなっていった。これはやむを得ないところであったが、『早稲田大学新聞』にとっては不幸であった。『早稲田大学新聞』は遂にこのイメージを打破できないままに、昭和三年六月の第一六一号を最後として一年ほど休刊に入るのである。この事情に触れる前に、成立後間もない新聞学会を襲ったもう一つの困難、関東大震災の影響について述べよう。

 第一五号の発行停止処分の解除を求めて、新聞学会の学生は学苑当局との交渉を続けた。高田総長も彼らの誠意を認め、夏期休暇に入ろうとする六月の一夕、服部、信夫、青山ら学会幹事九人を大隈会館に招いて、五来教授とともに会見した。その結果、新聞学会は大学の建学の教旨を守り、学内・外に対する妥当な基準に沿って新聞の編集・発行を行うことで意見一致し、具体的には夏休み明けの九月十日まで発刊を中止、それ以後適当な早い時期に再刊する旨の取決めがなされた。

 休暇が終りに近づき、新聞学会員達がそろそろ上京し、新聞の再刊に向けての活動を開始しようかと考え始めていた九月一日、関東大震災が発生した。前述の如く、学苑の被害は大きくはなかったが、罹災教職員・学生や学苑に避難した人々への対策で忙殺された。学生有志は自発的に救護団を結成し、罹災者への必要物資の供給、罹災状況の調査などに飛び回った。新聞学会の学生達も供出衣類などを載せた大八車を引いて本所・深川の罹災地域を回ったといわれる。一段落して、いよいよ新聞の再刊に踏み出したが、原稿は集まったものの、多くの印刷工場が焼失して印刷するすべがないので、移動編集というのが行われた。すなわち、印刷が可能なところを求めて頼み、学生達は泊り掛けで出張校正をするのである。初めは、服部の郷里の山形新聞社へ赴いた。それでは旅費・労力ともに多大なので八方奔走、前橋市の上毛新聞社に依頼し、ここで何号かの『早稲田大学新聞』を製作した。

 この頃、新聞学会では、従来の会長田中穂積、副会長五来欣造に代って、増田義一が会長に、喜多壮一郎が副会長に就任したが、新聞は順調に伸び、大正十三年四月二十八日刊行の第三〇号から、それまでの旬刊を改めて週刊とした。喜多はジャーナリズムを研究テーマとして大学より海外に派遣され、昭和二年帰国後は会長に就任、また政治経済学部講師として「新聞研究」という随意科目を担当した。しかし、『早稲田大学新聞』の発展は、新たな困難を呼び寄せる原因ともなった。発展する新聞はマス・メディアとしての利用価値の増大に他ならない。『早稲田大学新聞』を自己のメディアにしようとの思惑は、各所に働いた。前節で述べた如く、大正末期・昭和初期はマルクス主義の研究・実践団体たる、いわゆる「社研」の全盛期であった。社研関係者は大学新聞を自己の合法的メディアにしようと、各大学の新聞会に浸透した。事情は早稲田大学新聞学会の場合も同じであった。

 尤も、このような書き方は新聞学会の主体性を貶めることになるかもしれない。大正末期・昭和初期は、議会で普通選挙権が熾烈な議論の対象となり、また世界的に軍縮が進行し、軍国主義批判が強まった時代であった。普選の完全実施と軍国主義台頭の抑止とはマルクス主義運動のスローガンである以上に、一般大衆の願望であった。早稲田大学新聞学会がその編集・活動方針として普選の徹底と学校への軍事教練の導入反対を掲げたのは、社会一般の願望に沿うものであったのである。当時最も強硬に普選の徹底化要求と軍部批判を行ったのは、共産党と、その強い影響下にあった大学社研とであった。対応的に、政府はこの主張は革命的左翼の方針であるとのイメージを作り出した。この操作により、庶民は次第にそれらの主張をする人々を疑惑の目で見るようになっていった。分離工作を完成させたものが「治安維持法」であったのは言うまでもない。庶民は、さわらぬ神にたたりなしという処世の知恵を権力の脅しに対して発動させ、これらの主張者達を孤立に追いやっていった。そこで、『早稲田大学新聞』があくまでも当初の方針を貫いていこうとするならば、革命的左翼の御用新聞化したとの大方の見方を敢えて避けない覚悟が必要であったのである。

 大正十三年以降、早稲田大学新聞学会は他大学の新聞会と組んで、華々しく普選の徹底と軍事教練反対の活動を展開している。十三年一月二十五日には、早稲田大学を含む五大学新聞連盟の主催で「普選問題講演会」を開き、二月一日には、それを契機として「全国学生普選連盟」を結成した。また、同年、軍事教練が大学へ持ち込まれようとするや、新聞学会は各大学と歩調を合せて反対の烽火をあげ、早稲田大学・東京帝国大学・立教大学の三大学新聞による「軍事教練反対」の共同声明を発表し、更に十一月十日夜には、創刊二周年記念と銘打って、報知新聞社講堂で「軍事教育批判講演会」を開催した。講師は大山郁夫三宅雪嶺、長谷川如是閑であった。

 十四年に入ると、軍事教練の問題は急激に切迫したものになった。政府は各方面の反対を押し切って、四月十三日、勅令によって「陸軍現役将校学校配属令」を公布し、中等以上の公立学校における配属将校による軍事教練の実施を義務づけた。大学学部と私立学校とは申請制であったが、申請しないことは殆どできない状態であったのである。

 この配属令の政治的性格は十月十五日、小樽高等商業学校で実施された教練によって劇的に示されている。同日、同校の配属将校は次のような奇怪な想定のもとに野外演習を行った。世に小樽高商事件と言われるものの発端である。

(一) 十月十五日午前六時、天狗岳を中心とし俄然大地震あり。札幌及び小樽の家屋殆ど崩壊し、諸所に火災起り、折り柄の西風に火勢を強め、今や小樽市民は人心恟々として適従するところを知らず。

(二) 無政府主義者団は不逞朝鮮人を煽動し、此時機に於て札幌及び小樽を全滅せしめんと小樽公園において画策しつつあるを知つた小樽在郷軍人団は、忽ち奮起し、これと格闘の後東方に撃退したが、敵は汐見台高地の天険に拠り、頑強に反抗し肉飛び骨砕け鮮血に満山紅葉と化せしも、獅子奮迅一歩も退かず、ために進撃は一頓挫するに至れり。

(三) 小樽高等商業学校生徒隊に応急準備令下り、該隊は、午前九時校庭に集合し、隊を編成す。その任務は在郷軍人団と協力し敵を絶滅するにあり。 (『東京日日新聞』大正十四年十月二十日号)

この事実を知るや、全国諸大学の学生は一斉に立って、その非を鳴らした。十月二十一日、学連(日本学生社会科学連合会)は文部省当局に厳重に抗議するとともに、軍事教育の今後の方針について五十ヵ条の質問書を提出した。同月二十八日には、芝の協調会館において学連主催の反軍事教育演説会が開かれた。翌二十九日、学連の全国代表五十余名が再度文部省へ抗議のために押し掛けた。そして、十一月十三日には、早稲田大学新聞学会を含む三大学新聞会共同主催のもと、「学術研究擁護講演会」が開催され、大山郁夫、大森義太郎、長谷川如是閑、千葉亀雄、麻生久の面面が軍事教育排撃、学問研究の自由擁護について熱弁を揮ったのである。

 これより先、事件発生とともに、学苑内には活発な動きがあり、新聞学会、雄弁会、社会科学研究会、読書会、国際連盟学生支部、第一高等学院文化思想研究会、第二高等学院弁論部、同文化思潮研究会などの団体は集まって、全早稲田軍事教育反対同盟を組織し、十一月三日、軍事批判演説会でその第一声を挙げている。

 小樽高商社研会員は前述のような軍事教練を弾劾して、次の檄文を発しているが、恐らく、それは抗議に加わった全国学生の思想であり、心情であったであろう。

全国の学生諸君に檄す!

諸君!吾々は今、明白に軍事教育の何物であるかを知り得た。それは虐げられる同胞に対する虐げる同胞の威嚇の鞭の外に何物でもなかった。明日の新社会を建設すべき無産階級の台頭に対する、寄生享楽階級の巧妙にして惨酷なる、組織的弾圧以外の何物でもなかった。吾々は今、轟々たる軍教反対の世論を排し、在営期間短縮の好餌を掲げてまで、吾々真理の追求者たるべき青年学徒に、敢て銃剣を把らせたことの何のためであるかを知りて、全身の血の逆流するを覚える。

諸君!吾々は曾つて凡ゆるブルジョア学者の詭弁と欺罔を以て階級対立の事実に盲目である様に強ひられて来た。而も今や、ブルジョアの傀儡として、間断なき生活苦から踠き出でようとする同胞を敵視することを強ひられるのだ。震災のどさくさに紛れて、卑怯にも幾多の労働運動者及び朝鮮の同胞を屠った新武士道精神を学ぶことを強ひられるのだ。

諸君!諸君は之れに盲従するか?否!否!否!吾々はお互にかかる軍事教育を受けることの如何に良心に忍びざるところであり、如何に吾々の心を憤激せしめ、之と徹底的に抗争し闘撃することを誓はしめたか、を知ってゐる。吾々はお互の熱愛する学園に、自由と正義が吐息して倒れてゐるのを見て、尚起たざる程のお上品な偽善者でないことを知ってゐる。そして吾々の胸から流れる血潮が、吾々に何を叫ぶべきかを教へる。

軍事教育を葬れ!妥協は堕落である。偸安は裏切りである。無批判の看過は良心的不具者たることを意味する。

全国の学生諸君!内部から軍教に対する積極的反対運動を起せ。 (『大山郁夫伝』 一二四頁)

 大山郁夫も学苑内・外の要請に応えて、軍事教練排斥を訴えたが、批判の骨子は、軍事教育を当局が折にふれて言うような「国防上の必要」とすることはできない、それは無産階級と植民地人民の抑圧の必要物と考えられているのだ、というものであった(「軍事教育の階級性の発現」『中央公論』大正十四年十二月発行第四〇年一二月号)。

 こうした猛反対にも拘らず、軍事教練は定着・拡大していくとともに、反対に加わった学生諸団体は左翼とのレッテルをもう一枚貼られることになった。早稲田大学新聞学会も例外でなく、大学の存立を第一義とせざるを得ない当局にとり、次第に面倒な存在となっていった。新聞学会は政治動向を批判し続け、昭和二年の大山事件には、大山留任の線で大学当局を批判した。新聞学会創設以来、常にその方針を支持し、時には積極的に擁護してくれた大山を失うことは、何としても避けたかった。大山に対する親愛の情も、新聞学会の学生達には強かったであろう。

 昭和三年に入ると、三月十五日、三・一五事件と言われる共産党員の全国的大検挙があった。学内新聞といえども、「治安維持法」が発効され、関係学生が追及される恐れは十分にあった。刑事罰の軽重はともかく、検挙された学生を大学が放置しておくことは不可能であった。その結果、学苑当局と新聞学会幹事学生との関係は緊張した。新聞は学校行政を事あるごとに批判し、しばしば注意を受けた。大正十二年以来新聞学会のために努力を惜しまなかった喜多も、秋には、この調整に疲れて会長を辞任した。後任の会長を引き受ける者はいなかった。前節でも指摘した如く、学苑には「科外教育審議会規則」、「学生ノ会ニ関スル規則」というものがあって、公認団体となるためには必ず責任教員を会長としなければならなかった。社会科学研究会はこの規則の適用を受けて消滅したが、新聞学会も同じ運命に見舞われた。会長不在の理由で、新聞学会の存在が大学当局によって否認され、昭和三年六月、『早稲田大学新聞』は第一六一号を最後として、休刊に入らざるを得なくなった。

 新聞学会は、雄弁会、英語会、社会事業研究会、劇研究会、第一・第二高等学院両弁論部、読書会、文化思潮研究会などの諸団体の応援を求めて、その再建を計画した。十二月十一日から十五日までを雄弁会が主唱者となって「暴圧反対週間」とし、「大学新聞を即時発行せしめよ」「読書会を公認せよ」「思想善導ならびにいっさいの反動的教育反対」「学内に組織、宣伝の自由を与えよ」などのスローガンを掲げた。そして、十五日には「暴圧反対演説会」を開催した。しかし、それらはすべて空しく終った。

 昭和四年に入ると、学生の手によって、大学とは関係なく新聞を発行しようとの計画がもくろまれた。しかし、それが非合法なものになることを恐れて、新聞学会の幹部学生の多くは遠ざかっていき、実際の再刊運動は雄弁会を中心とする学生によって担われていった。雄弁会の幹事稲岡進は、大山事件で退学させられた先輩の一人大賀駿三に相談して、その斡旋で神田神保町のある高利貸から発行保証金を借りた。学生達はオーバーなどを質に入れて資金を作るとともに、絲屋寿雄、折戸一夫、門脇良雄などは先輩や名士を歴訪して、色紙や短冊の揮毫を乞い、それを売って資金を作った。秋田雨雀大山郁夫、久保田万太郎、岡本一平、同かの子、宮崎竜介、柳原白蓮、三上於菟吉、長谷川時雨、堺利彦、猪俣津南雄、林房雄、佐々木孝丸、村山知義、橋本英吉、吉井勇、直木三十五、菊池寛、馬場孤蝶、馬場恒吾、堀口大学、小川未明、葉山嘉樹などが彼らの需めに応じて、揮毫をした。こうして世に現れたのが、同年四月の初めに創刊された『早稲田学生新聞』である。

 発行名義人には先輩の大賀が当り、編集委員の中にも先輩真鍋一郎が入った。学生からは稲岡進、青木重円、絲屋寿雄、林利夫、宮川寅雄、山口幸一らが参加した。営業担当者は門脇良雄、錦光山雄二、折戸一夫らであった。印刷には毎夕、千代田、あけぼの、万朝などの印刷所を転々と依頼するなど、多大の労苦が要ったが、それでも二千部ないし三千部を発行し、早慶戦の際などには五千部以上も出たといわれる。こうして『早稲田学生新聞』は昭和六年の初め頃まで発行し続けられたのである(稲岡進・絲屋寿雄『日本の学生運動』一八六-一九〇頁)。

 雄弁会の歴史は古く、明治三十五年、永井柳太郎、井芹継志、菊地茂らの時代に、安部磯雄を会長として結成されたのであるが、時代とともにその性格も変った。大正末から昭和初期にかけての雄弁会には、既述したところに徴しても分るように、革命的な学生が集まった。建設者同盟、文化同盟、後には社会科学研究会の学生の多くは雄弁会と関係があり、新聞学会と雄弁会も時には表裏の如くであった。従って、それらの学生団体が辿った道を雄弁会もまた辿ることになった。大山が学苑を去った後、二木保幾が雄弁会会長の地位に就いたが、新聞学会会長の椅子から喜多が離れた頃より少し前、三年六月、彼も雄弁会会長を辞した。会は後任会長を得ることができなかった。事態の深刻さを憂えて、引き受けようとする者がいなかったのである。ために、翌昭和四年五月十日に至って、継続願出の期限も切れ、遂に雄弁会は自然消滅に帰した。

 雄弁会に拠る学生はこれを以て当局の弾圧なりとし、五月十一、十五の両日、学苑校庭に集まって、雄弁会解散反対、学生自治権の獲得、其の他のスローガンを掲げて気勢をあげた。十五日、これに反感を持つ学生との間に殴り合いを演じた。勢いに乗じて、彼らは集会を開催し、次のような決議を行った。

一、学生自治委員会の設立

一、言論、研究、出版、集会組織宣伝の完全なる自由獲得

一、社会科学研究会、文化思潮研究会、学生新聞、消費組合の公認

一、学会、学友会の教授会長制度の廃止

一、学生課、学生係の廃止

一、授業料三割値下げ

一、専制的反動理事会の解散

一、クラス大会、学生大会開催の自由 (『早稲田学報』昭和四年六月発行 第四一二号 七―八頁)

その後、彼らは隊伍を組んで、第一高等学院の校庭に行進し、これを制した学生係の講師松永仙吉を殴打して、頭部に三センチメートルの傷を負わせるという乱暴を敢えて行ったのである。各学部では五月二十二日ないし六月五日に教授会を開いて、この問題ならびに学生の思想問題全般について検討し、次のような申合せに達した。

近来学生の思想動もすれば詭激に趨るものあるは頗る遺憾とする所にして、吾人教育の任に在るものは、本大学建学の趣旨に基き此際一層協心戮力して指導訓育に尽し学生をしてその前途を誤まらざらしめんことを期す。 (同誌 同号 八頁)

やがて夏休みとなり、運動は自ずから終結した。夏休み後の学苑はしばし平穏のうちに推移した。

 学生諸団体の解散は、以上の社会科学研究会、新聞学会、雄弁会のみにとどまらなかった。昭和三年四月に第二高等学院の文化思潮研究会(創設年月不詳。大正十五年以前は第一、第二高等学院共通の会であったが、以後は双方に分かれた)解散問題が起り、九月に第一、第二高等学院双方の会の会長を兼務していた矢口達が会長を辞任している。なお高等学院には他に、大正十一年末に社会思想研究会が結成され、十三年五月より第一、第二高等学院に分かれて存続していたが、学部の社会科学研究会の解散と相前後して消滅したものと思われる。また、五年五月十二日の科外教育審議会においても近代文芸研究会(会長宮島新三郎)の継続が不許可となっている。後者を『早稲田大学新聞』五月二十二日号は「最後に残つた近代文芸/突如解散を命ぜらる/学園唯一の存在も/竟に消滅した?」との見出しで報道している。いずれにせよ、この時期に至って急進的な学生団体の存続は、公認の場から姿を消すようになった。こうした状況の中で、学生達の不満は底流としてそれ以後も続き、やがて半年後の秋季東京六大学野球リーグ戦の入場券分配問題を機として、地表にあふれ出たのである。