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第六編 大学令下の早稲田大学

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第十九章 理工学部の充実

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一 理工学部の特色

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 明治十八年に廃止のやむなきに至った理学科の理念を継承して、明治四十一年に再興された理工科は、その後幾多の試練に耐え、また困難な状況を切り抜けつつ、内容を充実し、内外の声価を高めていった。明治三十年、「理科にはどうも余まり社会が注意して呉れぬ。……此理科の失敗は千歳の遺憾である」(第一巻 七三一頁)と歎いた大隈総長が、十数年後には、「然し幸にして早稲田大学が理工科を新設した時は、世人がこの方面に注意するやうになつた、恰度其好時期であつた」(第二巻 三二一頁)と述懐したような社会情勢の変化と、大学当局ならびに教職員の苦心と、学生の研鑽努力とがうまく嚙み合って、時に多少の消長はあったにしても、ほぼ順調に理工科は発展したのであった。大正九年四月、大学令による大学昇格とともに、大学部理工科は理工学部と装いを新たにしたが、参考までに理工科(旧制度)の学科別卒業生数の推移を次頁に表示しよう(第二巻一一八〇頁第五十一表の得業生数と若干相違するのは、本表に追加卒業生が加算されているためである)。

 旧制理工科時代には官学との間に差別待遇を受け、修業年限も予科一年半(大正六年より二年となる)・本科三年と、高等工業よりも長いが帝国大学よりは短く、教育内容も理論より実学に重きを置く方針だったようである。しかしそれでも、千二百五十一名の理工科(旧制度)の得業生のうちには、機械の前川喜作(大正九年卒、前川製作所会長)、電気の島田兵蔵(同四年卒、中国電力社長)、建築の村野藤吾(同七年卒、文化勲章受章)らをはじめ、後に理工学部教授として優秀な研究成果を挙げ、また後進の指導に大きな業績を残した機械の伊原貞敏(同八年卒)、電気の堤秀夫(同二年卒)・川原田政太郎(同四年卒)・黒川兼三郎(同五年卒)・帆足竹治(同九年卒)、採鉱冶金の塩沢正一(同五年卒)、建築の今井兼次(同八年卒)・木村幸一郎(同八年卒)などが輩出し、早稲田の理工科が応用面は勿論、理論面においても、官立の大学に決してひけをとるものではないのを立証したのであった。

第十六表 理工科学科別卒業生数(明治45―大正14年)

(『早稲田大学理工学部一覧(昭和九年度)』 44頁)

 大正九年、大学令による大学に昇格すると、修業年限は高等学院三年を合せて通計六年になり、当時の帝大と全く同じ資格を有することになった。その後、大正十年より昭和十九年まで二十三年の長きに亘り学部長の重責を果した山本忠興の指導の下に、基礎的・理論的方面では少々官学に劣るが如き風評もないではなかったが、特に応用面に力点を置いた教育が行われ、有為の人材が巣立った。この教育方針は、学問の活用と模範国民の造就を、学問の独立とともに建学の教旨とする学苑の教育理念に沿うものであったと同時に、第一次世界大戦後の我が国の経済的発展、特に工業の進展に伴う人材要望の声に応えるものであったから、竹中工務店会長竹中錬一(昭八建築)が、

当時〔昭和初期〕の早稲田の理工学部建築〔学〕科は、他の商学部とか、政経などに比較して非常に高く買われていましたね。事実、教授スタッフが揃つておりました。例えば伊東忠太先生、佐藤功一先生、内藤多仲先生、これらの人々は皆東大出身の方方ですが、こういう人達を早稲田が招聘して、それは実に立派な建築〔学〕科でした。それに私の将来のこともあつて、当時親爺としては、随分と学校を選択したのですよ。その結果早稲田が一番良いということでしたから……。実際世間でもそのように認めておりましたね。その時の一つの理由は、東大は余り理論偏重で、早稲田の方が融通がきくという事でしたね。

(『早稲田学報』昭和二十七年十月発行 第六二四号 九六頁)

と語っているように、社会から注目され、期待もされていたのである。事実、

元来早稲田は政治科のワセダ、文科のワセダ、代議士と文士のワセダだつた。そして理工科は傍系に過ぎなかつたのがメキメキと大きく育つてきた。……スポーツを除いて理工科が早稲田の近代的宣伝価値百パーセントを占めてゐる。「理工科華かなる早稲田」の時代だ。学校では理工科はちつともまうからない。採鉱冶金科などは毎年学生はたつた一人か二人で、これに二十数人のプロフエサーが代る代る教へてゐる有様で、これでは学校経営も近代企業として成り立たないわけだ。……この投資事業が「理工科華やかなる新早稲田」の新しい看板にならうとしてゐるのだ。(『東京朝日新聞』昭和五年十月二十日号)

といった、いささか穿ち過ぎと言えなくもない論評を下した新聞もあった。ともあれ、次頁に掲げる昭和初期までの理工学部学科別卒業生数に見られるように、年度により多少の増減こそあれ、不況期にあっても比較的安定した数の卒業生を毎年送り出しているのは、そのような評価なり期待なりを裏書するものと言えよう。大学令により大学へ昇格した私立大学中、東京慈恵会医科大学(大正十年昇格)、東京農業大学(大正十四年昇格)、日本医科大学(大正十五年昇格)の三単科大学を別とすれば、理科系の学部科を有する総合大学は、大正六年に医学科予科を開設していた慶応義塾大学と、昭和三年に工学部予科を新設した日本大学と、我が理工学部とを数えるのみで、圧倒的な官学指向の日本科学界にあって、まことにユニークな存在を主張していたのである。

第十七表 理工学部学科別卒業生数(大正12―昭和9年)

(『早稲田大学理工学部一覧(昭和九年度)』 44―45頁)

 昭和三年十月十四日より四日間に亘って理工学部創立二十周年記念祭が開催された。この年の三月、理工科創立の恩人、理工学部商議員竹内明太郎を失ったのは最大の痛恨事であったが、学部長山本忠興の左の式辞に見られるように、この時点においては、我が理工学部は満々たる自信を内外に示すことができたのである。

創立満二十年、よき地に落ちた種の如くに成長し、思想・経済の風波も易々踏破して堅固な地盤に立てる今日を欣び、幾多の奉仕者の功績を記憶して感謝の意を表したい。昭和の聖代今上陛下御即位の大典も近き際、明治維新の昔と続く国運発展の時代を追想するに、今と昔と帰趣は異るも精神は同じく、即ち理工に志す学徒は自然界の有形無形の宝庫を拓き、発見発明人生の効用を創造すべきで、希望を前途に嘱する大なる次第である。

(『早稲田学報』昭和三年十一月発行 第四〇五号 五八頁)

 この自信の裏付けとなる理工学部の充実ぶりは、左に示す施設拡充の状況によっても垣間見ることができる。

大正十一年七月 機械工学科水力実験室竣成。

大正十二年四月 中央研究所基礎工学実験室第一期設備着工。

大正十三年八月 前年九月の関東大震災により全失した応用化学実験室の仮建築竣成。

大正十四年十月 図書館および製図教室竣成。

大正十五年九月 電気工学科高圧実験室、研究室、および建築学科図書室、標本室、研究室ならびに音響実験室に充てる建築竣成。

二 早稲田式テレヴィジョンの発明・開発

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 理工学部の名を一躍ポピュラーにし、国民の間にその名を宣伝した契機は、いわゆる早稲田式テレヴィジョンの発明・開発にあると言えよう。『早稲田大学八十年誌』はそのことについて、

昭和の初期の数年は、……国内の状勢は暗澹たるものがあり、密雲深く垂れ込めて、希望の光何処にかあるという有様であったが、わが学園の活動は、いろいろな方面で、国民の気分を明るくした。殊に、本当の意味で「風雲を割く」光を与えたのもわが学園で、これを為し遂げた理工科の功績は、わが校史はおろか、日本近代文化史に、燦として輝く金字塔をうち建てたものと言っても、敢て過言ではなかろう。即ち、その光とは早大式テレビジョンの発明である。 (二二八頁)

と記しているが、まことに早稲田式テレヴィジョンの発明・開発は、世界的な意義を持つものであった。後に述べるように、昭和五年三月十七日、東京朝日新聞社大講堂で五尺(一・五メートル)四方の大きさに放映することに成功したが、テレヴィジョンの研究では当時世界で最も進んでいたアメリカでさえ、二ヵ月後の五月二十二日に、ジェネラル・エレクトリック社のアレクサンダーソンが初めて六×七フィート(一・八×二・一メートル)の画像を結ばせるのに成功する(Electronics, June 1930, p. 147)のであるから、アメリカ人が日本での研究の進歩に目を見張ったとしても、何ら不思議ではなかった。また山本忠興によると、その頃ドイツでもイギリスでもテレヴィジョンの研究は進められていたが、その進展の度合は日本と大差なかったようである(山本忠興「テレヴイジョンの現状と将来並に夜間競技と其照明(下)」『マツダ新報』昭和七年九月発行第一九巻第九号六頁)。先進の欧米文明に追いつくことを目標に努力を重ねていた当時の我が国の文化水準にあって、欧米の方式を参考にしたところはあっても、殆ど独自の研究によって、先進諸国の研究段階をまさに凌駕しようとする勢いのあった早稲田式テレヴィジョンの研究が、国民から驚嘆の眼を以て迎えられたのは、蓋し当然だったのである。

 学苑で初めて無線電信電話の研究に着手したのは、理工科助教授坪内信(大正三年電気工学科卒、坪内逍遙の甥)で、大正七年、校庭に木柱を三、四本つなぎ合せたアンテナを建て、この装置を用いる無線電信局は翌八年四月十八日に認可された(「早稲田大学第卅六回報告」『早稲田学報』大正八年十一月発行 第二九七号附録 三頁)。我が国ではこれより先、明治三十年十一月、逓信省電気試験所技師松代松之助が無線電信の実地試験に初めて成功し、同四十五年二月には同省電気試験所技師鳥潟右一らによりTVK型無線電話装置が造られて、翌年、航行中の汽船との通話に成功している。このときの同試験所所長が、大正五年九月に理工科科長に就任した浅野応輔であったから、坪内の研究にも浅野の助言があったかもしれないが、ともかく民間の無線研究としては、坪内のそれは最も早かったものの一つではないかと思われる。しかし、せっかく緒についた研究も、坪内の急逝(大正十五年)により中断のやむなきに至った。

 その間に一九二〇年代に入ると世界的にラジオ放送が開拓され、次第に普及してradio, broadcast, Rundfunk等の語がアメリカ、イギリス、ドイツで「放送」の意味に用いられるようになった。日本でも、アメリカのピッツバーグ放送局による世界最初の放送(一九二〇年十一月)に遅れること四年四ヵ月で、大正十四年三月一日、社団法人東京放送局の芝浦仮送信所から、初めて試験放送を行った。仮放送(逓信省の施設許可の面から見れば、今日で言う本免許)の第一波が発せられたのは同年三月二十二日のことで、我が国では、愛宕山から発信された本放送開始日の同年七月十二日ではなく、この日が放送記念日となっている。因にこの発信用鉄塔の製作者は学苑教授内藤多仲で、内藤はこれを第一号として、北は札幌から南は長崎まで、ラジオ塔を約六十基手掛けている。

 ところで「放送」という日本語の起源には二説ある。その一は、第一次大戦中、インド洋を航行中の三島丸の無線電信局長であった葛原顕が、ドイツ仮装巡洋艦の警戒を呼び掛けた無線通信を傍受したとき、それの発信地が不明で送り放しであったため、「放送」と報告したという逸話を採る説である。海岸局から各艦船に発信していた気象通報を大正八年に同時一斉に送信するよう改めて、これを逓信省が「放送ス」と規定したのは、葛原の新造語に倣ったものと言えよう(日本放送協会放送史編修室編『日本放送史』上巻一三―一四頁)。しかしこの場合の「放送」は、後年のラジオ放送とは少々範疇を異にするところがある。

 その二は工学博士箕原勉の説で、彼は文献学的に「放送」の使用例を遡り、

明白な文献資料としての最初のものは、一九二二年(大正十一年)に早大出版部から発刊された『無線電話』と称する書籍で、これは当時幼稚だった電波科学が、将来マスコミの大立て物となることを予言した、わが国最初の技術書である。その自序の中で「放送」という文字を用いている。当時十九歳の早大理工学部予科生であった著者、安藤博は、発明の天才として世の注目するところとなった。これ以前に「放送」という字句を使った文献が見当たらぬので、安藤氏が「放送」という字句を創始したというべきであろう。 (『朝日新聞』昭和三十五年三月一日号)

と述べている。この『無線電話』は鳥潟右一の閲と箕原勉の序を得た啓蒙書であるが、今日的意味を持つ「放送」なる語の使用は、箕原の指摘する如く、これを以て嚆矢とすると言えよう。その後安藤は、民間私設実験無線電信と無線電話局第一号(コールサインJFWA)を認可されて四谷北伊賀町から実験放送を行い、東京放送局創設の機運を作ったのみならず、貴重な技術資料を提供して自らその設立発起人の一人となった。また、多極真空管、写真電送、テレヴィジョンなど無数の発明に功績があり、藍綬褒章を得ている。学苑の若き学徒が炯眼にもラジオ放送の持つ大きな力とその将来性を見抜き、関東大震災の苦い経験に基づく放送事業開始要求の声と並行して、本書の他にも『実用無線電話』(大正十三年刊)、『無線電話之研究』(大正十四年刊)、『放送ラヂオ』(同年刊)を矢継ぎ早に続刊し、放送知識の普及に努めたことは、放送文化の歴史を考える上で逸することのできぬ重要性を持っている。

 こうして我が学苑は、エレクトロニクスの新分野開拓に小さからぬ貢献を行ったが、それは独りハードウェアの面だけではなかった。ソフトウェアの面でも我が学苑の総長自ら先鞭をつけた。というのは、東京で初めてラジオ放送が実施されて間もない頃、高田早苗が「古いと新しい」と題して我が国最初のラジオ講演を行っているのである。続いて昭和二年五月には大阪放送局で「右と左」の題で、更にその一ヵ月後には名古屋放送局で「今と昔」の題で、高田は目に見えぬ不特定多数の聴衆を相手に弁舌を揮った。

 一方、テレヴィジョンの研究はいつ始まったのであろうか。山本忠興によると、それは十九世紀末期以降のことで、工部大学校教授として来日し、日本に電気工学導入の先鞭をつけたエアトン(William Edward Ayrton)およびペリー(John Perry)が一八八〇年に考案した装置が、やや形をなした第一器であったようである(山本忠興「テレヴィジョンと其将来」『早稲田学報』昭和五年四月発行 第四二二号 二頁)。その頃テレヴィジョンは欧米ではelectro-telescope(電気望遠鏡)などと呼ばれたこともあったが、その後着々と研究が進められ、アメリカのベル式、ジェンキンス氏型、アレクサンダーソン氏型、ウェスチングハウス社型、イギリスのベアード式、ドイツのテレフンケン社型などが生れた。しかし昭和初年には未だ幼稚の段階を脱することができなかった。

 その間、日本における研究の進展を顧みると、

わが国でのテレビジョンの研究もかなり早くから始められている。わが国でテレビジョンに関心が持たれるようになったのは大正十二年ごろからといわれ、浜松高等工業学校や早稲田大学では大正十三―四年ごろに研究に着手した。とくに浜松高工の高柳健次郎教授は、送像側にニポー〔ニプコー〕円板、受像側にブラウン管を使った方式の装置を試作し、大正十五年末にわが国最初の映像を得、昭和三年五月、電気学会で実験を公表した。これがわが国のテレビジョンの起源である。早稲田大学も昭和三年から実験を進め、昭和五年三月―四月に東京日比谷の市政会館で催されたラジオ展覧会には、浜松高工・早稲田大学両校の装置が出品されて実験が公開された。浜松高工のものは、走査線数四〇本、毎秒像数一四で、受像機はブラウン管式、早大のものは走査線数六〇本、受像側はケル=セルと単鏡車を使って一・五メートル四方に投与し、さらに東京中央放送局(愛宕山演奏所)から会場への無線送信(短波)も試みられた。その後、両校ともさらに研究と改善を進め、浜松高工は走査線数を一〇〇本とし、また昭和八―九年には送信機をつくって超短波による送受信試験をおこない、また、早大は戸塚球場から野球実況の中継を試みた。 (『日本放送史』上巻 二五七―二五八頁)

 「電視」と訳されたこともあるテレヴィジョンに世間が殆ど関心を寄せず、東京高等工芸学校教授兼学苑講師鎌田弥寿治の昭和二年発行の小冊子『テレビジョン講話』が僅か三部しか売れなかった(日本無線史編纂委員会編『日本無線史』第三巻二五七頁)時代であったから、高柳と川原田の研究は、先駆的業績として賞讃に値するものであった。当時の方式は、送像側にはいずれもニプコー円板を用い、受像側には、高柳の浜工式では電気式のブラウン管を、川原田の早稲田式では機械式のワイラー鏡車やニプコー円板などを用いるものであった。一九三三年(昭和八)に電気式のアイコノスコープがアメリカで開発されて、送像側の機械式ニプコー円板にとって代ると、結局浜工式が現在のテレヴィジョン受像器の原型になるのであるが、昭和初年には早稲田式の方が技術的に一歩先んじていただけでなく、この方式だと大きな画像を得るのが容易で、一時に大勢の人々に見物させられたから、大評判をかち得たのである。

 川原田政太郎が初めてテレヴィジョンの研究を志したのは、まだ三十歳台の大正十一年十月から十四年六月までの二ヵ年半余りイギリスとフランスに留学し、その間、ロンドン大学でその実験を目撃して異常なほどの感動を覚えた時であった。その時彼が見たのは、郵便切手ほどの大きさに「A」とか「B」とかの文字が現れるに過ぎないものであったが、「このテレビジョンの可能を確認した私は、非常に勇気づけられ、将来機会を得てぜひともこの研究をやって見たいと深く決心した」(川原田政太郎「理工学部私設放送局」谷崎精二編『都の西北こだまする森』一二〇頁)のであった。そして大正十三年、第一回万国動力会議(ロンドン)に出席した山本忠興に随伴してヨーロッパ各地を旅行した時、各国のテレヴィジョン研究の概況を山本に説明し、日本でも是非研究を進めるべきだと力説して、山本の賛同を得た(同書 一二〇―一二一頁)。尤も山本の記憶によると、川原田を留学させた時、「今後はテレヴイジョンが問題になるだらうから気を付けて呉れ給へ」とあらかじめ示唆した(山本忠興「テレヴイジョンの現状と将来並に夜間競技と其照明(上)」『マツダ新報』昭和七年八月発行 第一九巻第八号 九頁)というから、山本も早くからこの方面に興味を持っていたらしい。いずれにせよ川原田の意見は容易に山本の採用するところとなり、山本の帰国後も、川原田はヨーロッパで鋭意テレヴィジョン研究の調査を続行したのである。

 川原田は、多数の調査資料を携えて大正十四年に帰国すると、早速研究に着手した。しかし当初は研究費に欠乏して苦しんだが、東京地下鉄道専務早川徳次(明四一大法)がその研究の重要さを見抜き、ポケット・マネー二千円を寄附してくれたので、漸く山本をキャップに、島庄一郎と早川幸吉を助手にして、研究を進めることができるようになった。そして半年後には、模型のような装置ではあったが、一応送・受像が可能になったので、今後本格的に仕事を進めれば相当の結果を得られるとの確信を抱いた。そこで、「テレヴィジョンのような大がかりな研究は放送局でやるべき事業だ」と主張する早川らの運動もあって、将来の事業に利用することを目的に、日本放送協会(東京放送局の後身)から最初十五万円を得、継続的に毎年数万円もの研究補助費が出ることになった。こうして漸く資金の裏付けができ、最大の障碍が取り除かれたので、新たに助手俵田竜夫をはじめ電気工学科新卒業生十数人をスタッフに加え、送像機、受像機、その他必要な機械・器具を試作し、大規模な研究に取り掛かった。

 早稲田式の特徴は、明暗の差を電流の強弱として感じる受光素子ケル・セルを用いて、明るく大きな画像を得ることにあった。昭和三年十二月に、幻燈器を通して絵を送像し、螺旋状走査孔三十箇のアルミニウム製ニプコー円板をモーターで高速回転させ、ネオン・ランプの光をその回転する孔に通して像を結ばせる実験を開始し、翌四年一月、一応の成果を得たので、二月以降はレンズ円板とケル・セルの使用を試み、幻燈画の代りに実像を送れる程度に進んだ。そしてこの年七月には、鮮明度を高めるために、孔のあいたニプコー円板に代えて六十片の鏡片を有する鏡車を採用し、これを回転させるために、小穴製作所長小穴秀一、山本、および川原田の共同開発になるOYK誘導同期電動機を用い、画像の精度を上げる実験に成功し、早稲田式テレヴィジョンの基本方式が決定されたのである。

 その後も絶え間なく改良の努力が傾注され、一メートル四方の大きさに送・受像が可能になった記念すべき昭和五年を迎えた。この年三月、日比谷市政会館で二十二日より一ヵ月開催される予定の放送開始五周年記念展覧会への出品勧誘を受けた。たまたまその下見に来た東京朝日新聞社の記者が、タバコの煙が実験中の画面にくっきりと映るのを見てすっかり感心し、これなら大丈夫と言うので、展覧会出品に先立って同社の大講堂で公開実験を行うことになった。同紙はこのとき「テレヴイジョン実験を公開す/十七日本社大講堂で/世界に輝やく試み」との見出しで四段抜きの広告を紙上に載せているが、この実験に寄せる期待がいかに大きかったかは、その本文から読み取れよう。

大自然のあるがまま、動くものは快速に動けるままに、その姿を放送する、テレヴイジョンは遂に我日本において世界的記録を印し、テレヴイジョン時代は我日本から更に力強き歩みを踏みだす事となつた。本社は特にその発明指導者たる早大理工学部長山本忠興博士、発明に苦心惨憺の努力を捧げた同教授川原田政太郎氏、助手俵田竜夫氏、島庄一郎氏、早川幸吉氏並に東京中央放送局の好意ある諒解を得、十七日午後二時より本社大講堂で千数百名の面前に左のプログラムによつて世界で曾て試みられた事のない公開実験をなし、同時にこの名誉ある発明者諸氏の講演を聴く事となつた。尚この大成功に敬意を表するため特に小泉逓相も出席祝詞を述べる。本社はこの世界最初の記録にして全日本人の誇りとすべき科学者の華華しき成功を祝しかつは世界最初のテレヴイジョン実験公開を記念するため当日の入場者には美しきカードを記念券として交付する。尚場内整理のため入場料五十銭としその収入は挙げて早大テレヴイジョン研究費中に寄贈する。

一、開会辞 本社副社長 下村宏氏

一、祝辞 逓信大臣 小泉又次郎氏

一、講演 早大理工学部長 工学博士 山本忠興

一、同 早大教授 川原田政太郎

一、同 日本放送協会嘱託 苦米地貢氏

一、実験=【閉会】

(入場料五十銭、切符は十六日より本社受付にて取扱ふ) 主催 東京朝日新聞社

(『東京朝日新聞』昭和五年三月十六日号)

このとき五十銭の入場料をとったのは、無料では八百長と思われるのがシャクだからだったと川原田は言っているが、それでも東久邇宮、小泉逓信大臣はじめ千五百人を超す入場者があり、この大観客の面前で、見事五尺(一・五メートル)四方のスクリーンに、殆ど映画と同様の鮮明度で送・受像することに成功したのである。この実験に押し寄せた観衆はホーッとため息をつき、入れ代り立ち代り画面に登場する人物の仕草を見て、口々に大成功と叫んで拍手が鳴り止まなかったという。時の首相浜口雄幸も「祝世界的大成功」と自筆の書を贈って祝賀の意を表した。

 この成功には実は裏話があって、公開実験当日までに一メートル四方の放映には成功していたが、東京朝日新聞記者に一・五メートル四方と宣伝されてしまったため、急遽その実現に悪戦苦闘する羽目に陥ったのだ。画面を大きくすれば光量が減ってボンヤリとしか映らない。研究スタッフは一同前日の晩まで焦慮を重ね、夕食も喉を通らない状態であったが、朝日講堂の映写技師の発案で講堂備付けの映写機からアーク燈を取り外し、これを利用してかろうじて間に合せたのであった。しかしこうしたハプニングも山本や川原田には研究進展の自信につながったようで、公開実験の翌日、山本は「金を余計出す人がありましたら、秋の早慶戦をテレヴイジョンで見せて上げます」(『マツダ新報』第一九巻第九号 四頁)と快気焰をあげた。後日、これは言い過ぎだったと後悔したが、一旦口外した以上、その実現の責任は山本らの肩にかかってくる。たまたま一万円を寄附してくれる人も現れたので、この年の冬休みに戸塚の球場のネット裏に小屋を建てて、野球実況中継の研究に取り掛かった。

 従来の如く室内で送・受像を行う場合は強力な人工光線の使用が可能であるが、屋外では自然光線に頼らざるを得ない。更には球場近くの道路を走る自動車のイグニッション・ノイズに悩まされ、送像器の改良は予想以上に難航した。また長距離の有線だと画面が揺れるので、無線の方が好結果が得られそうなことも分ってきた。堅忍不抜の研究精神を以てこうした難問題を一つずつ解決し、いよいよ昭和六年六月三十日午後二時半から、戸塚球場一塁側の臨時実験室と理工学部高圧実験室との間で、世界最初の屋外実況中継が開始された。放送局の幹部約十名だけを招待する予定が、当日は約三百名もの参観者が押しかけ、両実験室とも立錐の余地もなかった。野球部選手による紅白試合の中継は、「画面一杯に雨のやうなむらが見えるのが気になるが、被写体のモーシヨンやボールの行方まではつきりと見えて、まづ十年前の活動写真といふところ」と、翌日の新聞は伝えている(『東京朝日新聞』昭和六年七月一日号)。翌春、上野で開催の第四回発明博覧会に出品したときは、戸塚の球場から上野の会場までは無線で、会場内は有線で送像したが、投手がボールを投げ、打者が打つところや、走者がホーム・ベースに滑り込み、それに捕手がタッチする有様など、選手が誰かを識別できる程度に鮮明な画像を、二メートル四方近くのスクリーンに映し出すことができた。これに気をよくして名古屋、仙台、札幌などでも日本放送協会主催の公開実験を行い、翌八年には三月から五月までの間、万国婦人子供博覧会にも受像器を出品して大好評を博した。この年、理工学部研究室西側に、スタジオおよび送像・受像室等を含む延坪二百十坪の二階建テレヴィジョン研究室が建設され、昭和十一年には山本・川原田の共編になる技術的啓蒙書『テレビジョン』の刊行を見たが、これが早稲田式テレヴィジョンの絶頂期であった。

 この頃まで日本で最も先進的な研究を続け、一応の成功を収めていた早稲田式テレヴィジョンの構造および方式について、川原田は次のように技術的解説を加えている。

甲図

乙図

丙図

最も簡単なテレヴィジョン 甲図に示しましたのはニポウ〔ニプコー〕板と名付けられて居ります板でありますが、これは今送らんとする像を細かに切る役目をするものであります。此板にはh1h2h3‥hnの如く多数の細孔が段々と中心迄の距離が違つて居ります様に開けられて居りまして、これは一つの電動機で廻転せられるのであります。今Oを以て示しますものを送るとしますると、Kなる写真器に依つて板上にO'の如き像を結びます。板が矢の方向に廻るとしますと、其孔を通過する光は、像の明暗の部分に依り或点では強く或点では弱くなります。そこで乙図に示します様に其後方にCなる光電池を置きますと、前に申上げましたわけで、此光電池からは入り来る光の強弱に依り流るる電流に強弱が生じます。此電流をATなる増幅器(これはラヂオに用ひて居ります増幅器と同じものでありまして、真空球を用ひまして幾段にも拡大して居ります)で拡大し、有線或は無線で之を遠方へ送ります。この辺はラヂオと全く同じであります。

乙図は最も簡単なテレヴィジョン方式を示す略図であります。此右方は受像部でありますが、受けました電流はRAで再び増幅せられまして、Lなるネオンラムプを点じます。此ラムプの前にはD2なるニポウ板がありまして、同じく電動機で廻転せられて居りますが、其孔の数や回転数は送像部のニポウ板D1と全く同じでありますのみならず、其角度迄も全く同じであります。これには同期電動機と名付けられて居ります電動機を用ゆれば宜しいのでありまして、私共の方式では、私と山本先生との共同発明になつて居りますOYK電動機と云ふのを使用して居ります。此電動機は数年前に特許を得ましたものでありまして、テレヴィジョンのために考案したものでは無いのでありますが、テレヴィジョンに用ひまするのに御誂ひの特性を持つて居るのであります。斯くの如くにして送受しますと、Mなる眼にはOなるものを見る事が出来得るのであります。これは送像部でO'なる像を細かく切り、或瞬間には唯一点の明暗を送り、受像部では之を受けて居るのでありますが、順次斯くの如く全ての点が送られ、且つ受像部では再び之を元の通りに配列することになります。而して一方吾々の眼は或時間の間眼の中に其像を残して居る所謂残像の現象がありますから、吾々の眼は之を一枚の絵として全体の像を見ることになるのであります。

一秒間に送ります絵の枚数は普通活動写真と同様に十五、六枚と致して置きますと、活動して居るものでもよく之を見る事が出来るのであります。私共の今試作して居りますものでは孔の数が六十でありまして、一分間の廻転数が一千回転、即ち一秒間に十六枚余りとなつて居ります。

私共の方式 以上述べました方式は誠に簡単でありまして、全く誰にも出来るものでありますが、何分受けた像の大さが一寸平方とか二寸平方とかより大きくする事は甚だ困難なのであります。そこで私共は丙図に示します様な別の方式を作りまして、専ら受けた映像を大きくすることに努力して見ました。其結果去る三月十七日の朝日講堂での試験では五尺平方の映像をスクリーンの上に現はし、約千五百人の観衆が一度に之を見ることが出来ました。此五尺平方の映像の大さと及び千五百人の観衆と云ふことは、今日迄未だ外国にも無かつた記録であると私は信じて居ります。

丙図は私共の方式の受像部を示すものでありますが(送像部は大体乙図に示すものと同様であります)、受けた電流が拡大せられてからMDなる光の変調器に入ります。此光の変調器と申しますものは、Sなる極めて強い光源からの光をTなるレンズで集めたものを、此電流で其強さを制御するものであります。此変調せられた光はWなる鏡車に当つて反射し、Pなるスクリーンの上に像Qを映出するものであります。此方式の特長は、受けた電流でラムプを点ずるものでは無く、別な極めて強力なる光源からの光を此電流で制御するものでありますから、映像は非常に明るくする事が出来る。従てそれを大きくしても宜しい事になるのであります。 (『早稲田学報』昭和五年四月発行 第四二二号 六―一〇頁)

 このような方式は一般に機械式テレヴィジョンと呼ばれている。昭和七年、山本は、「私のやつた経験では相当の費用と相当の設備をすれば十分にエンターテインメントになるといふ気もするのであります」が、「現在の活動写真そつくりといふことは出来ませぬでせうが、余りフイルムを透さずに現場から――余り夕方では駄目でせうが、相当明るい範囲に於ては――放送が出来るやうな感じがするのであります」と述べたものの、「ホトセルも巧く出来ない、平面鏡も平たいのが出来ない。銀座でも平たい平面鏡を売つて居るのは一軒しかない、他から買つたのは平面鏡が平面でない。ミラー・ホヰールにも苦労して居るといふ訳で、兎角日本ではさういふ簡単なものを作り上げてやつて見たいと思つても困難があります」(『マツダ新報』第一九巻第九号 六―七頁)と山本を嘆かせたような当時の工業技術では、この方式を採用する場合、一応の限界があったようである。その上、元来機械式テレヴィジョンは光能率が悪く、走査線を多くして解像度を高めるのは非常に困難で、川原田らは走査線を六十本から倍の百二十本以上に増やす実験を幾度も繰り返したが、この方式は行き詰まってしまった。他方、太平洋の彼方では映像管アイコノスコープが発明された。これは、無線電信における真空管の出現の如く、送像側の待望久しき電子化を可能にし、受像側のブラウン管と組み合せてテレヴィジョンの全電子化の布石を布いたのであり、その結果、受像側にブラウン管を当初から採用していた浜工式が一躍脚光を浴びることになったのである。電気式テレヴィジョンは数百本もの走査線が可能であるため、電気回路全般に亘る膨大な研究を要求され、研究の規模も資金も著しく膨脹せざるを得ない。日本放送協会は、昭和十五年開催予定の東京オリンピック実況中継を目指して、昭和十一年以降三顧の礼を以て浜松高工の高柳健次郎以下十数名の研究者を迎え入れ、ここに日本におけるテレヴィジョン研究の中心は日本放送協会へ移ると同時に、学苑は遂に機械式テレヴィジョンの研究を中止してしまった。

 こうして早稲田式テレヴィジョンは大成することなくして終り、しかも長い戦争を迎えたため国民大衆から忘れられてしまったが、日本におけるテレヴィジョンの発達を考えるとき、逸することのできない大きな役割を果している。特に大正末から昭和初期にかけて、堂々と世界の研究水準に伍して立派な成果を挙げたことは、当時の我が国における学術、殊に自然科学の分野における学問発達の程度を振り返ると、驚嘆に値すると言えよう。戦後、昭和二十六年六月三日、東京三越本店で「伸び行く電波展覧会」が開かれたとき、日本放送協会のテレヴィジョン・カメラがマイクロウェーヴを利用して後楽園球場から会場に野球を実験送像した。これは、戸塚球場と理工学部高圧実験室との間を送・受像してから、実に二十年ぶりの野球実況放送だったのである。

 またテレヴィジョンのような大型の研究から生れる副産物についても、高木純一が左のように記している如く、忘れるべきではないであろう。

光の強弱をコントロールするケルセルの研究から堤秀夫の「偏光静電法」という電界観測の撮影手法が生まれたし、当時学生だった井深大の論文は「光線電話」であった。また高木は電界計算に関連して多媒質問題の理論を考えたりした。今のテレビジョンからみれば「つわものどもの夢のあと」であるが、大学での研究というものは、その活気ある雰囲気の中から生まれる数々の思索や発想に価値があるのであって、大きな研究所の生みだす金のかかった成果と太刀打ちするような性質のものではない。 (旺文社編『早稲田大学一世紀の足跡』 四二頁)