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第六編 大学令下の早稲田大学

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第十五章 不況の深刻化と学生生活

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一 卒業生の就職難

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 第一次世界大戦中異常な好景気に湧いた日本経済は、平和の到来とともに一転して激しい反動恐慌に見舞われた。大正九年四月十五日の株式相場の大暴落がその幕開きであった。瓦落という言葉が事態を正確に示しているように、あらゆる価格が一斉に崩落したのである。第二の痛打は関東大震災であった。政府はすべての支払いを三十日間延期する「モラトリアム」を施行し、震災手形決済のため四億円を超える特別融資を決定した。この緊急措置は局面の糊塗とはなったが、不良企業の救済により、他日の大規模な信用破綻の種を蒔くことになった。その刈取りが昭和二年の金融恐慌であった。同年三月十五日、東京の渡辺銀行の支払い停止をきっかけに、不安にかられた民衆の銀行取付けが頻発した。華族銀行として明治初期からその大を誇った第十五銀行も、この恐慌の嵐の中で店を閉じた。三月二十二、三日の両日、東京、大阪の銀行は一斉に休業した。その最中に成立した田中義一内閣は三週間の「モラトリアム」を布き、五億円の損失を保証して、日本銀行に特別融資を行わせることとし、漸く混乱を鎮めることができたのである。

 このように、大戦終結以来事態の対応に追いまくられていた政府も、次第に抜本的な対策を講じなければならなくなった。最大の問題は金解禁とそれに耐えられる経済・産業態勢の整備であった。第一次大戦中停止されていた金本位制への復帰は世界の大勢で、アメリカ合衆国は早くも大正九年、ドイツは大正十三年、イギリスはその翌年、遅れてフランスも昭和三年には、金本位制に復帰した。日本も可及的速かにこうした趨勢への同調が必要であったが、それに踏み切るには、国内物価を引き下げねばならなかった。大戦前の日本の対米為替平価は一〇〇円につき四九ドル八五セントであったが、昭和四年頃には一〇〇円につき四五ドル前後と、円が約一〇パーセント安くなっていた。従って、旧平価で金本位制に戻れば、為替レートを一挙に約一〇パーセント引き上げることになる。輸入価格はより安く、輸出価格はより高くなるから、国内物価体系が不変とすれば、貿易バランスの大幅悪化は避けられなかった。こうして、国内物価水準の引下げがどうしても必要となったのである。その手段として採られたのは財政緊縮と産業の合理化であった。政府は大正十三年暮に四万人を超える大量の行政整理を断行したが、その後も官吏の減員に努めた。産業の合理化も結局は人減らしとなった。悪いことには、この金解禁が世界恐慌の発端と重なった。金解禁が行われたのは昭和五年一月であるが、その前年十月にはニューヨーク株式市場の大暴落が発生した。アメリカ合衆国の不況は世界の不況である。日本経済は金解禁と世界恐慌とのダブル・パンチを受けて、まさに気息奄々となった。

 民衆にとり、それは失業・生活難という形で現れた。政府発表では、昭和五年五月の失業者は三七八、五一五人、失業率五・三パーセントとなっているが、これは全くの、作為的とも言うべき過小評価である。『エコノミスト』誌の推計では、昭和三年末まで既に八三万人の失業者が堆積していた筈であるが、これに更に、昭和四年には二二・五万人の新規労働力供給が吸収されずに残っただけでなく、逆に一万人が雇用から投げ出され、また昭和五年上半期には新規供給一二万人が吸収されず、逆に一〇万人が失職したのであるから、失業者数は合せて一二〇―一三〇万になるとせられている。しかし、この数字でさえ過少で、妥当なところは三〇〇万人前後であろうとの推定もある。

 高等教育を受けた者の失業は全体の中では勿論少数であったが、その挫折感は最も大きかった。労働者は一定の技術も持ち、何としても食わねばならないとの気構えもあったが、大学出の失業者は木から落ちた猿同様に再就職の道は容易ではなかった。彼らにとり何よりも辛かったのはエリートを自任してきた気位の根拠の喪失であった。明治末以来、新中間層として急速に出現した大学出のサラリーマン階層はこうして、早くも深い挫折感を味わわされたのであった。彼らは「洋服細民」とか「腰弁」とか呼ばれ、自らもそう感じていた一方で、「高等遊民」などとも呼ばれ、また自称もした。「腰弁」と「高等遊民」という二つの言葉は昭和初期の大学卒業者の置かれた社会的位置の矛盾を端的に示しているように思われる。かかる矛盾から脱却するために社会主義の実現が求められたとしても、当時の状況下では不思議でなかった。それは当時の吹きすさぶ北風の冷たさとインテリが共通して味わった幻滅感とを表現するものであったのである。青野季吉はその著『サラリーマン恐怖時代』の中で、次のように述べている。

サラリーマンの没落は、これを根本的に言えば、一方では資本主義が最早や行詰つてしまつて、これ以上、発展の見込がなく、従つて、諸種の被使用人の生活を引上げることも、否寧ろこれを現状に維持することも出来なくなつたからであり、他方ではそれの直接の反映として、資本家国家が最早やその内政、外政、軍備及び国家企業において、積極的・放慢的な政策を維持することが出来ず、従つて官吏の大群の生活を引き上げることは愚か、それを員数においても報酬においても、これまで通りに維持することすら不可能となつたからに外ならないのである。 (一四二頁)

 失業問題は卒業生の就職難問題として大学を悩ませた。明治期から大正期にかけて大学・専門学校の数は増加し、その学生数も、明治三十三年を基準とする時、大正十四年に六・五倍、昭和五年には七・六倍と著増している。増大の原因は言うまでもなく実業界が大学・専門学校出を大量に需要したからである。明治十七年の会社数は二、三九二社、その資本金額は約一億円であったが、大正九年には、それぞれ二九、九一七社、一〇一億五千万円余と、実に百倍を超す資本の急成長を成就した。年々より多くの大学・専門学校卒業生が会社の幹部候補生として迎えられ、特に世界大戦中には月給の他に多額の賞与を受け取った。大学出が現世的な幸福を約束された人々と同義のようになったのは不思議ではない。若者は大学・専門学校の門に殺到した。既存の大学は設備を拡充して入学者を増し、また新しい学校が造られたが、入学志望者の増大には追い付かず、入学難・試験地獄が現出したのである。林毅陸の「大学教育万能の弊」によれば、「大学万能主義に至りては、殆ど全教育界を圧し居るかの感がある。大学教育を受けたる者に非ざれば人でなきかの如く、とに角学問を為すと云へば皆競ふて大学に入らんとつとめる」(『中央公論』昭和二年八月発行 第四二年八月号 八六頁)という状況の展開に併行して、安部磯雄が述べている如く、「学問を学問の為にする学生は殆んど稀であり、多数は皆卒業証書を目的に勉強するといふ現象を呈する。要するに学生の目的は卒業証書を貰ふことであり、学士号は学生にとつて重要な問題となる。而も今日世間一般がさういふ傾向を助長して居るのであつて、中学を卒業した者と大学を卒業した者との間には会社・役所に傭はれる場合に最初から区別があり」(「卒業証書を全廃せよ」同誌 同号 七九頁)というあり方もまた進んだのである。

 大学のかかる大衆化と実用化に含まれる問題は、卒業生に対する社会的需要が引続き増大しているうちは潜在していたが、大戦後の不況がもたらした就職難は徐々に、しかし確実に、それを露呈させていったのである。戦争の終結とともに大学・専門学校卒業生の売れ口はガクンと減り、以後減少の一途を辿った。昭和二年の状況は第十五表の如くである。法・経・文の大学・専門学校卒業生七、六五二人中、就職決定者は四、〇四四人、僅か五三パーセントに過ぎない。私立大学・専門学校だけをとると、状況は更に深刻である。三、六二八人中、就職の決まった者は一、四七五人、漸く四一パーセントであった。これに対して、理工科系統は良く、全体で八〇パーセント、自営者も含めると八三パーセントという高さであった。理工科系の唯一の私立大学は早稲田大学であるが、帝大系と全く遜色のなかったことが知られる。

第十五表 昭和初期の大学・専門学校等の就職状況

(前田一『サラリマン物語』 36頁折込)

 昭和五年ともなると、大量の離職者との競合もあり、就職難は一層深刻となった。同年の就職状態を内務省社会局調によって見ると、官公私立大学三十八校の法・経・文科卒業生五、四八〇人中、就職者は三一・八パーセントに過ぎない。理工科系も六八・七パーセントに下がっている。官公立と私立との別は、この年度については判明しないが、私立の法・経・文系の就職決定者の比率が全体でとった比率を大きく下回ったのは明白である。恐らく二〇パーセントそこそこだったろう。「大学は出たけれど」の嘆きは十中七、八の大学卒業生の胸奥から洩れ出たのである。

 大学は学問をするところで、就職の面倒をみるところではないと建前としては言い得ても、大部分の学生が就職を求めていながら、その殆どが希望を達し得ないでいる現実を前にして、大学はできるだけのことをしなければならなかった。学苑においても、既に大正十年以来、臨時人事係(卒業の前後三、四ヵ月設けられる)を置いて、学生の就職斡旋を取り扱わせていたが、同十二年にはそれを常設して人事係と改称し、更に十四年には課に昇格して充実を図るなど、不況の深刻化、就職難の進行を前にして、それ相応の対策に努力している。人事課常設に関連して、田中穂積常務理事は十四年三月の卒業式当日の報告「学園の近況」において、次のように述べている。

もう一つ学生諸君の為めに申上げますことは人事課の常設と云ふことであります。即ち新しく学園を卒業して活舞台に出られる人々の為めに適当なる職業を斡旋すると云ふことである。之は我早稲田学園は決して過去に於て等閑に付して居つたことではないのであります。十数年来相当に努力を払つて来たことでありますが、段々学園卒業の諸君の数も殖へて来るのみならず、又同じ程度の他の学校の卒業生の数も多くなるのに、反比例して世間の景気は益々悪い。斯う云ふやうな事態に鑑みまして過去数年間人事課と云ふものを卒業期の前後臨時に設けて、新卒業生諸君の就職幹旋を致したのであります。併ながら卒業される諸君を前に控へて数ヵ月の幹旋と云ふことでありましては何分靴を隔て痒きを搔くやうな憾みがありますので、此四月から常住不断の常設に致しまして、学園の嘱託である評議員副会長の坪谷〔善四郎〕君、又従来此局に当つて居つた蠣崎〔敏雄〕主事が専ら努力しまして年が年中の仕事として卒業生の為めに社会的の進路を開きたいと、斯う考へて居ります。

(『早稲田学報』大正十四年五月発行 第三六三号 五頁)

 学苑はその後も就職難打開に一層努力するところがあった。中等教員紹介係の新設はその一つの現れである。すなわち、十五年九月、人事課内にこの係を設け、教授中島半次郎を主任として、全国中等学校に奉職している二千余名の校友との間に組織的な連絡を取りつつ、文学部・高等師範部卒業生の教員としての地位獲得に努めたのである。

 また、不況の打撃を受けたのは新しく卒業していく者だけではない。校友の多くも失業の苦汁をなめなければならなかった。そこで十三年、校友会内に「職業相談部」が設けられ、これらの校友のための職業斡旋が始められている。

 なお、このような就職難に際して就職案内の手引き書が数多く発行された。先の田中穂積の報告に出てくる人事嘱託坪谷善四郎が昭和四年に早稲田大学出版部より刊行した『知識階級と就職』も、その中の一冊である。

二 学生生活の逼迫

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 不況の風は在学生にも容赦なく吹きつけた。昭和四年を基準として名目賃金の動きを見ると、昭和六年下半期には一五・五パーセント低下した。尤も、その間小売物価はそれ以上に低下したから、職を持つ父兄が不況のため学費の支出に特に困ることはなかったと思われるが、父兄が小売商や農業従事者の場合には、その困難は確実に増した。家計の中心者が失職すれば、子弟は退学にさえ追い込まれた。事実、学苑でも、大正十三年頃から退学者数は次第に増えていった。昭和三年以降の『早稲田大学新聞』には学生生活の困難化を報じる記事が頻出する。

 ところで、当時の学生の生活費はいくばくであったろうか。『早稲田学報』には昭和四年三月発行の第四〇九号から七月発行の第四一三号にかけて「本大学学生生計調査」という興味ある調査が連載されている。これは教授林癸未夫を会長とする「早大社会福利事業研究会」による前年の調査結果で、「収入学費金額統計」「学資金支給者別統計」「経常費総額居所別統計」等々、十七種の統計表よりなる。これによって我が学苑の学生生活費を窺ってみよう。先ず、学費の支出者は、調査対象総数一、一〇四人のうち七七パーセントに上る八四八人までが、実家となっている。自力で学費を作っていた学生は僅かに九九人、しかもその大部分は一部自力であって、全額というのは二七人、比率にして二・四パーセントに過ぎなかった。尤も、夜間の専門学校が調査対象に入っていないことが、自力部分を過度に小さくしている原因となっていた。

 一ヵ月に要する生活費は勿論、自宅通学か下宿かによって大きく異る。居所別の平均的な経費は左の如くである。

この経費の項目別内訳は、およそ次の金額の範囲に集中している。

大体において三〇円から七〇円が当時の学生の一ヵ月の経費であったと言ってよかろう。その七〇―八〇パーセントが室料と食費に充てられていた。また、交際費、娯楽費も全体の一〇―一五パーセント近くを占めていたのである。

 学生の負担としては、これに授業料が加わる。学苑の授業料は、第二表に示した如く、大正十四年四月から、それまでの約一六パーセント増となった。各部・学校別の新授業料年額は次の通りであった。

(『早稲田学報』大正十四年二月発行 第三六〇号 四頁)

月額にすると八円―一一円であったから、授業料は必要費用中の約三〇パーセント以下しか占めていなかった。問題は必要費用中の生活費部分の大きさであった。当時、学苑卒業生の初任給は給与の高い財閥系企業でも六五円前後であった。下宿から通う学生の生活費を六〇円程度と見るならば、生活のあり方において、両者の間にはあまり大きな差はなかった。つまり、平均的な学生は一流企業の新入会社員なみの暮しをしていたわけである。

 不況により最小限の学費の捻出にも困窮した学生も少くなかった。大学生は学生街の飲食店に値下げ交渉をし、二銭、三銭の値引きを行わせた。早稲田周辺でも、蕎麦代、ライスカレー代、ミルク代の値引き運動が行われた。昭和四年十一月二十八日の『早稲田大学新聞』には「時流に抗し難く/ホールも一割引き/主任泣き言を吐く」との見出しで記事が載り、「実に目下の所苦しいです。経営者も欠損の為やめて、その後を私が引受けてから五年になります。今までも少しももうかつては居ませんでしたが、兎に角物価が将来下るといふ見通しの下に今度の値下げをやつたもので、これでもし失敗すれば、私としてはやめて仕舞ふまでです」という学生ホール主任の談が出ている。また「附近の蕎麦屋も/愈々値下げ?/大いに喜ぶ/学園のソバ党」の見出しで、遠のいた学生の足を引き寄せるべく学苑周辺の蕎麦屋が二割の値引きを決めたと報じ、「私が当家に来た明治三十年頃はそばも一杯二銭でした。ところが大戦からこつちは十銭になりました。近頃のようにお客様が減つてはどうにもならないので、組合の方で値段を下げることになりましたが、さうなれば矢張り多少質をおとすより外どうにもなりません」との三朝庵女将の談を載せている。

 食費とともに大きな比重を持った室料の値下げをめぐっても、いろいろな動きがあったが、ここでは昭和三年二月二日付の『早稲田大学新聞』によって、諸大学共済部連盟の適正室料運動というものを紹介しておこう。

ブラックリストで/悪下宿の征伐/各大学連盟の共済部/徹底的調査に着手す

都下大学・専門学校の共済部の連盟発会式は去月二十七日神田大常盤にて早・帝・慶・明の四大学、高工・日医大の六校が参加して盛大に行はれた。当日は連盟より声明書を出し、今問題になつている下宿屋征伐の件に付き協議したが、この問題に対して帝大では昨年十月頃より本郷付近の下宿屋の調査に着手し、その結果下宿屋の営業振りが意外に暴利を貪り、また風紀を乱してゐるもののあるのに驚き、これが徹底的対策を講ずる必要を痛感し、各大学・専門学校の共済部にはかつて一致行動を取る事になつたのである。その方法として先づ各校は所在地付近の下宿屋の調査をし、暴利を貪り風紀を乱してゐるものには連盟の名で警告をし、それでもあらためぬものには連盟でブラックリストをつくって連盟各校にて発表し、学生の不良下宿にかからぬ様注意することは既報せられた通りであるが、学園の社会福利事業研究会もこの挙に賛成してゐるが、設立後日浅く、同会中の共済部が今直ちに参加活動することは困難な事情があるので、新学期を期して活動に入ることになるだらうとのことである。

この連盟の母胎である大学共済部は、右によると前掲の学費調査を行った「社会福利事業研究会」の一部門であったように読めるが、明らかではない。しかし「学生消費組合」とは別個のものであろう。「消費組合連盟」は大正十一年に結成され、同十五年には「関東消費組合連盟」に改組された。これは賀川豊彦、安部磯雄らの提唱により設立されたもので、初代組合長には有馬頼寧が就任した。同年五月、早稲田大学学生消費組合は東京学生消費組合の最初の支部として正門前に店開きし、昭和四年頃には組合員一、五〇〇人以上を数えた。組合員たるには一円の入会金を払うだけでよく、それも卒業、或いは退学の際に返却された。取扱い品には洋服、靴、文房具、化粧品、洋品等があり、価格も市価の約三割安く、制服などは直営工場で作られ、市価四〇円のものが二八円ぐらいで販売されたという。

 学苑も手を拱いていたわけではなく、健全な学生生活の維持のために、いろいろな措置を採った。十四年四月から発足した奨学金給与制度はその筆頭に挙げられるべきものであろう。同規則は次の如きものである。

奨学金給与規則

第一条 本大学ハ学術奨励ノ為メ本大学(大学院、大学各学部、高等師範部、専門部、専門学校及高等学院)学生ニ対シ本規則ニ拠リ特志家ノ寄附ニ依ル奨学金ヲ給与ス。

第二条 奨学金ニハ寄附者ノ名称ヲ冠ス。

但寄附者ノ希望ニ依リ之ヲ省クコトヲ得。

第三条 奨学金ヲ受クベキ者ハ教授会又ハ講師会ノ推薦シタル候補者ノ中ヨリ大学之ヲ決定ス。

第四条 大学ハ毎学年奨学金ヲ受クベキ候補者ノ推薦ヲ教授会又ハ講師会ニ委嘱シ、教授会又ハ講師会ハ左ノ条件ヲ具備スル者ノ中ヨリ之ヲ選定シテ本大学ニ推薦スルモノトス。

一、一学年以上本大学ニ在学セル者

二、学術優秀ナル者

三、品行方正、思想堅実ナル者

四、身体壮健ナル者

五、学費ニ乏シキ者

第五条 奨学金ハ一学年金百五十円以内トシ当該学年間之ヲ給与ス。

但休学シタルトキハ之ヲ停止シ、又ハ取消ス。

第六条 奨学金ヲ受クル者ニシテ学則ニ違反シ、又ハ教授会若クハ講師会推薦ノ趣旨ニ悖ルモノト認ムルトキハ奨学金ノ給与ヲ取消スコトアルベシ。

附則

第七条 本規則ハ大正十四年四月一日ヨリ之ヲ施行ス。 (『早稲田学報』大正十四年四月発行 第三六二号 四―五頁)

 第一、第二条によって知られる如く、この奨学金は大学が社会の寄附を募り、それを基金として支給された。従って、奨学金は早稲田大学出版部奨学金とか日清生命保険奨学金とかと呼ばれている。奨学金である以上、単なる学費の調達困難という理由だけで支給を受けることはできなかったが、真摯な学生にとって、これが大きな支えの一つとなったことは明らかである。学苑が行った措置として挙げるべきもう一つは健康相談所の開設である。同所は大正十四年五月二十七日を期して医学博士前田実を所長として、大隈会館内に設けられた。業務の中心は勿論、保健上の相談を受け、治療の必要がある場合には、学生当人の近所の良い医者を紹介したり、入院の斡旋をしたりすることであるが、その他に休学、退学、結婚、運動など一身上の問題にも相談に乗り、アドヴァイスを与えたのである。当初は無料であったが、冷やかし気分をなくするために、後に五〇銭の料金を取ることにした。この程度の施設でも当時の大学・専門学校には見られず、学苑の健康相談所は草分け的な存在であったのである。

 しかし、学生の値下げ運動の対象の一つとして授業料が問題とされたのは、余儀ない次第であった。当初は一般論として議論に上る程度であったが、徐々に本格化していった。東京学生消費組合などは授業料引下げ運動の母胎の一つであったように思われる。同組合は前述の事業を行いながら、学費の低減と消費組合の教育宣伝活動にも身を入れていた。とにかく、昭和四、五の両年、多くの大学で学生によるいわゆる学校騒動が起り、その中で学生はさまざまな要求を大学当局に提出したが、大抵の場合、その一つとして授業料三割引下げの要求があった。学苑に起った昭和四年の雄弁会解散反対運動の際にも、またその翌年の十月半ばから十一月半ばに及んだ早慶野球戦切符事件の際にも、この要求が掲げられたのである。かれこれ考え合せると、授業料引下げ要求は一般学生の直情要求というよりは、もう少し組織的な動きの中から出されたものであったことが知られるのである。

 学生にとっては授業料は安いにこしたことはないし、蕎麦やミルクやコーヒーが安ければ安いほどよいわけであった。否、一部の学生にとっては、このことは死活の問題であった。しかし、前段でも述べた如く、大部分の学生にとって、支出の大きな部分を占めたのは授業料や蕎麦代ではなく、会社員なみの生活費であったのであり、従って彼らにとって問題であったのは、膨張した学費という名の生活費が従来のように安定的に得られるものではないとの認識と、大学生活はそのような膨大な学費を投じて続けていくに値するものであるのかどうかの疑問であったのである。

 不況の進行とともに、学費の高さが世間の注目を集め始めた。大正十四年七月発行『改造』(第七巻第八号)に掲載された堀江帰一の「経済上から見た高等教育並に教育機関」は、学費問題のよって来たるところを的確に示している。堀江は学費高騰の原因として、世間一般の生活程度が向上して生活費が増大したこと、学生とか書生とかいう形での生活態度はもはや全然なくなり、学生が下級紳士と異らなくなったこと、学生の趣味が多方面に亘り、趣味に適する生活を営むためには大きな費用が要ること、を挙げている(一一九頁)。

 大震災後、生活形態は一変し、欧米の享楽的な都会風俗が急速に拡がっていった。職を失った人、職を得られない人の多くはサービス部門に流れ込んだ。不況と第三次産業人口の増大の併進は普遍的な現象である。これが享楽的な都会風俗の拡大に拍車をかけたのは言うまでもない。「パウリスタ」や「プランタン」を魁とするカフェーは銀座に興って、東京全体に拡がった。特にそれは学生生活と切っても切れない密接な関係を持つに至った。大正十四年七月の『中央公論』(第四〇年七月号)では「学生のカフエー入りとカフエー女給の研究」という特集まで組まれ、宇野浩二、小川未明谷崎精二、長田秀雄、豊島与志雄などが学生とカフェーとの関係を論じている。「都市の学生から、カフエイを奪つて何が残されてあると云ふのだ」(千葉亀雄「学生気風論」『改造』第七巻第八号 一二七頁)と言われるような状況が現れたのである。二七七頁以下に引用した今和次郎の早稲田界隈飲食店分布状態調査によると、大正十五年の半ば頃、学苑の周辺には七軒のカフェーと十六軒の喫茶店があった。いずれにしても、カフェーと学生生活との間に見られるような現象、つまり学生生活の都市化・享楽化が、学費増大の元凶であるとの認識が、当時一般的に存在したのである。

 従って、学費問題の解決策は大学を都会から切り離し、学生が運動や文化活動を展開するに足る十分のスペースを確保すること、つまり大学の移転であるとされた。大正十五年四月の『改造』(第八巻第四号)は「学費低廉の方策と学生の生活態度批判」というアンケート結果を掲げている。それは、「一、学生の学費を如何にして低廉ならしむるか。二、現下学生、生活態度の欠陥に対する意見。三、現時の学生に対する希望及び忠言」(一二〇頁)の三項目について意見を問うものであった。意見は大体右に見たところと同様である。すなわち、二については、学生の世俗化、彼らが持つ物質文明に対する強い憧れが大方の意見として挙げられ、三については、学生がもっと精神的に気位を持ち、学問研究に熱心であって欲しい、熱心であるべきだとの希望の表明となる。従って、一については、多くの人々が大学の郊外移転、寄宿舎の設立・整備を述べている。このアンケートに対する吉野作造の意見は好意的な方に属するが、それだけに当時の学生のあり方を示している。代表的な意見として、左に紹介しておこう。

一、イ 寄宿舎の設立

ロ 消費組合の設立

右の二方法に依て学費の三分の一は優に節約し得ると思ひます。但しその遣り方は大に問題です。学生の自営は無論いけず、生中の監督も駄目。とにかく大に慎重に考究するを要します。……

二、自分の学生時代の経験から推して現時の学生を評するわけには参りますまいが、学生達の親切な友達たらんことを心掛けて居る私共の、現時の学生に対しての大なる不満は、彼等が更に私達を利用しないことです。否、利用はしますが、私共の最も不得手な方面(例へば就職、学資補助の如き)に利用しやうとするもの徒らに多く、研学上修養上の方面では私共と全然没交渉であることです。学生の生活がモ少し私共の生活と有機的関係に在つたら自他共に利益する所が多からうと思ひます。

三、何よりも第一に現時の学生に対して希望したきは、真理に対する従順な態度です。真理を求めて之を我が主張とし我が主義とせんとする熱情はなかなか旺です。併し一旦何物かを真理と思ひ込んだが最後、彼等は直に盲目となるのが常です。故に外により正しいものがあると教ふるものがあつても之に耳を傾けません。学生は真理探究の態度は多情でなくてはなりません。或る意味に於ては無節操でなくてはなりません。無節操と云ては誤解を招くかも知れませんが、常により正しからんとして何時でも態度を改め得る様に用意してゐなくてはなりません。斯は何人にも必要なことですが、殊に修養を専一とする学生にこの態度は最も必要とします。早くから操持の確立するなんといふことは一見偉らさうですが、斯んなのが所謂小さく出来上つた人物となるのです。此点に於て現時の学生の多くが皆偉くなり方が早過ぎると思ひます。モ少し気長くのんびりと自らを自由に養へないものでせうか。 (同誌 同号 一二四頁)

 しかし、そう言われても、昭和初期の学生は資本主義発展と都市化進行の過程の中から生れたのであった。大学・専門学校自体がその過程の所産であった。学生の大半の希望は、よき就職口を見つけて、生活の安定と将来の地位の保証を獲得することであった。それは彼らに都市文明・物質文明の享受を永続的に約束するものであったが故に、絶対に必要なことであり、大部分の学生はたとえカフェー文化と悪口されようとも、現在の生活を変えようとも変えたいとも考えなかった。それだけに、現在の学生生活を続けていく学費調達の困難化は深刻なものと映った。更に深刻な問題は、卒業後に待ち構えている運命であった。就職難・失業は学生生活を根底から無意味ならしめるものと考えられたから、学生の関心は学生生活のあり方の改良変化の方向にではなく、大学の存在意義そのもの、更には資本主義社会としての日本の社会の運命の検討へと向うことになった。それは結局、自己の運命の中に大学や社会の運命を見ようとする態度であったと言ってよい。勿論、かかる関心を持ち、それを深めていった学生は全体の中では少数であったが、大正末から昭和初期にかけての大学の動向のもう一つの面は、そうした学生達によって担われたのである。森戸辰男が『改造』第一一巻第九号(昭和四年九月発行)に発表した「大学の顚落」は、彼らの思想・心情を代弁するものの一つであった。その一節を左に掲げておこう。

現在における大学生の大多数は小市民層の子弟であり、さうして彼等は自家の経済が資本主義の圧迫の下に漸次窮乏に陥りつつあることを親しく見聞することによつて、益々多く有意識又は無意識の反資本主義者と化し、従つてまた無産階級的思惟並に実践の受容に向つて準備されつつある。だが此の点について最も注意すべきものは、数年来著しくなつた大学卒業生の販路の梗塞である。即ち、我国の国民経済と国家とはも早年と共に愈々多く大量的に市場に投げ出される大学卒業生に対して、彼等の希望に応ずる地位はもちろん、その生産費を償ふるに足る地位をも、否、屢々少からぬ人々には一般になんらの地位をも供与しえない現状にある。かくて、未就職者の数は逐年に逓増して所謂知識階級失業問題を重大化し、生活に対する資本主義の圧迫は容赦なく所謂学問の聖境に潜入しつつある。さうしてこのことのさしあたりの結果が必然的に学生大衆をして反資本主義へ、そして無産階級的思惟へ、接近せしめるのはもちろんである。 (森戸辰男『大学の顚落』 四一頁)