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第六編 大学令下の早稲田大学

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第十八章 演劇博物館

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一 異様なエリザベス朝建築

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 もし試みに上空から、飛行機或いはヘリコプターに搭じて、早稲田キャンパスを俯瞰したならどうであろう。大地は巨大なる敷物の背走するが如き景観を呈して動き、緑は流れ、白は溶け、或いは蕩漾として、ちょっと何物とも弁識し難いかもしれない。断るまでもなく緑は葉の生い繁った庭樹で、白は鉄筋コンクリートの校舎である。明治から大正にかけて、特殊な木造洋館の学校建築様式ができ上がったが、関東大震災後次第に様式を変え、今では地方に行けば知らず、都市で鉄筋コンクリート以外の学舎を見出すことは困難である。

 しかし早稲田キャンパスには、航空写真でも、黝色を帯びた異様な一棟が、東端から安部球場に向う間に介在するのが指摘せられる。正面から見れば、近代の建築様式にはずれて、幾本もの柱が表立って現れて、漆喰の白壁を擁し、屋根も異様なエリザベス朝式で、日本のどの学苑にも、またと見られるべき建物でない。いや、その内容から言えば、世界にただ一つで、他に類例がないとあまねく評判せられている。すなわち坪内博士記念演劇博物館である。

 されば、バーナード・ショーが豪華船エムプレス・オヴ・ブリテンの世界一周航海に便乗して日本に来た時、彼はあらかじめ一切の招待を拒否していたが、早稲田に演劇博物館があると聞くと急に眼を輝やかし、「それは見よう」とすぐ腰をあげた。演劇に関する博物館がヨーロッパに絶無なわけではない。しかしそれは、例えば中世の人形劇とか宗教劇とか一局部に限られたもので、早稲田の演劇博物館の如く、国劇を中心としながら広く全面的に、古今東西に亘り、事およそ演劇に関するものは巨細となく蒐集することを心掛け、大は舞台装置から小は俳優の化粧筆にまで及び、脚本類はもとより、個々の名優の衣裳、絵看板から片々たるチラシに至るまで、可能な限り手を尽して、つまり全演劇の博物館と言える設備は、欧米にも絶えてない。まさに世界に唯一独特である。

 終戦後にロックフェラーが来日して、「これはどこにも類例のないものだ」と言って歌舞伎とともに珍しがり、その関係者が再三来訪して調査するところがあった。尤も、演劇博物館に対しては、経済的に援助しそうな素振りを示しながら、結局実現に至らず、時の演劇博物館長を失望させた。しかし今から思えば、もらわなかった方がよかったであろう。この演劇博物館の発起建設者は、狷介孤立で政府の栄典は一切断り、死後、議会から贈られた勲一等の決議さえも、遺族が故人の志ならずとして返上したほどの「旋毛曲り」坪内雄蔵である。ロックフェラー財団などからの援助金とあっては、「以てのほか」と地下で眉を怒らせたに違いない。

 劇即逍遙――これは彼の選集発行趣意書に用いられた言葉で、爾来、逍遙を語るたびに枕言葉の如くに頻用されている。美濃の国太田の代官所に生れた彼は、幼き日、演劇好きの母の腰巾着となって六十万石の城下町名古屋に伴われ、演劇は彼の胎教となり、母の乳房とともに口に含んで成長した。彼一代の文勲は多岐に亘っていても、中心を貫く太柱は常に演劇で、その生涯のいわば悲願の凝って成ったのがこの演劇博物館である。もしそれ、演劇博物館の歴史をその起源から、遺漏なきを期して巨細に亘って語るとすれば、坪内の全生涯の文歴を繰り返さねばならないであろう。それほど彼の、極端に言えば一言一行の末にまで劇の薫習が及び、劇と切り離し難い。しかしそれはここに省略するとしても、彼の頭脳にその考えが胚胎し、消滅、継続、再発、発展、さまざまの順序を経て遂に実現を見るに至った経路の、一朝一夕の事ではない概略は明らかにせねばならぬ。

 手近なところで言うと、彼は思いつくことをそこはかとなく書きつけた「其折々」と題する手控え(「大正五年十二月末、大正六年一月」と表記の冊子)の中に、「未来の仕事」という断片として初めてその文字が現れてくる。

六、舞台画(劇画)〔芝居絵〕――演劇博物館設立案――浮世絵と劇画

時あたかも、坪内は学校の講義を辞して引退の閑日月を送っていた。大正五年と言えば第二次大隈内閣の成立から三年目、学苑は「早稲田騒動」を翌年に控えて不穏の地鳴りを起し、遙かに目を放つとヨーロッパでは第一次世界大戦が彼我四つに組んで、勝敗は未だいずれとも見通しのつかない時である。大局から見れば坪内のこの思いつきの如きは、陽炎よりもはかない閑人の夢たるに過ぎない。

 逍遙は言う、

一昨々年(大正五年)の冬になつて、小林文七氏所蔵の劇画約一万五千枚を、仔細あつて、私が言ひ出し、友人市島春城君の斡旋で、早稲田大学図書館が購入することとなり、……大多数は殆ど悉くが文化以後の物であつた。其代り、文化六、七年以後のとなつては――若しそれに私自身の所蔵を合せると、……明治の三十年度までも連絡するといつてよい位ゐで、さうして其数も優に二万枚以上に及ぶであらうと概算された。 (「芝居絵と豊国及び其門下」『逍遙選集』第七巻 一〇―一一頁)

『芝居絵と豊国及び其門下』は大正九年六月単行本として公刊されたが、その書出しで彼はこう言っている。

ここに幸ひにも数百年間に亘つて、極めて豊富に、殆ど間断なく保存され来つた或国の古い劇の画があるとする。その古い劇の画が、或劇史研究家の手によつて、正当に分類されて、例へば、其一部分は特に劇場構造や舞台装置等の進化変遷を証明するものとして、又他の一部は専ら舞台に於ける俳優らの各種の劇の各種の場面に於ける扮装、姿態、表情等を証明するものとして、又他の一部は、主として彼等の楽屋、家庭もしくは社交場等に於ける生活模様を証明するものとして、或整然たる体系の下に、一々年代順に、いはば、活動写真式に、手際よく連綴され排列されたとする。すると、それが殆ど其儘該国の演劇画史と看做すことが出来るといつてよい程にそれ程に古い劇画に富んでゐる国が――我が日本を除いて――又どこに、何時の世にあつたらう?それが国の誇りになるかならぬかは別問題として、劇の画の富みに於ては、我が国は、真に絶対に、古今無類であるといつてよい。 (同書 同巻 七―八頁)

この「活動写真式に、手際よく連綴され排列され」という仮想が、やがて平面の絵を立体化して、演劇博物館設立案にまで展開した彼の思考過程は、これでほぼ明瞭である。

 大正十五年六月『逍遙選集』の刊行が始まったが、同月八日に行われた定時維持員会の席上で、逍遙からその印税全部を寄附する旨申込みのあったことが報告されている。総長高田早苗や常務理事田中穂積や名誉理事市島謙吉およびその他大学当事者、文科の先輩校友も協力することになって、十一月十四日文科校友有志会を逍遙の住む熱海に開き、金子馬治五十嵐力吉江喬松日高只一などの諸教授、長谷川天渓正宗白鳥、中村吉蔵、小川未明、本間久雄などの文壇人合せて四十九名が集まって、演劇博物館の設立を満場一致で賛成決議した。間もなく逍遙の古稀が来る。終生の念願なる『シェークスピヤ全集』の完成も近い。演劇博物館こそはその記念として絶好の案だと、来会者みんな満足し、且つ喜んだ。十日ほど経て十一月二十四日の逍遙の日記にこうある。

午後出版部に立寄り、大隈会館にて期成演劇博物館の相談、高田、市島、田中、林館長、金子、難波会合――準備委員選定交渉の件、博物館だけを会館区域に建築、予算minimum十五万円。

すなわち、最初は建設地として大隈会館敷地内が考えられ、大学の校舎と離れた地に独立する案だったのである。

 しかしその時は、故総長記念事業のため江湖に広く二百万円の寄附金募集中で、不況の折からそれも完了していないのに、別に十万を超える寄附を求めるのは至難であろうとの懸念が、大学当事者側から出た。そこでやむなく逍遙の出資および側近の寄附のみを以て、図書館の上に一階増築してこれに充てるという案が大学側から出て、いたく逍遙を失望せしめた。このあたりから学校当局と逍遙との、気持の離反が生じ始める。文科の校友は、この大学側の処置に不満で、逍遙の古稀であり、且つ『シェークスピヤ全集』も完成する昭和三年というチャンスを逸したら、せっかくの案は永久に埋滅の恐れがあるとして、昭和二年の四月頃から独立建設計画に再燃の火をともした。すなわち、劇壇と文壇に資を仰いで、大隈の記念事業には全く支障を来たさぬという別途の方法を考える方が、狷介にして権勢と名利を嫌う逍遙には寧ろふさわしいとして、発起人の選定に着手した。

 昭和二年六月に入って発表した趣意書は左の如くである。

拝啓 愈々御清穆之段慶賀致候。陳者早稲田大学名誉教授坪内雄蔵博士が我が国劇向上の殊勲者たりし事に関しては何人も異議なき所と存候が、明年は博士の古稀の賀に相当すると同時に其半生の研精に成れる沙翁全集四十巻の翻訳も完成せらるべき筈に御座候。就いては之を機会に博士の業績の記念として東洋未曾有の一演劇博物館を創建し、以て前後四十有余年に亘れる博士が多方面の文勲を顕彰し、兼ねては之を以て永く斯道の公益機関たらしめたく切望致候。演劇博物館の創建を以て博士を記念すべく思ひ立ち候は一にそれが博士多年の宿願たりし故に候へども、二には此挙が諸外国に比して遙かに多く演劇図書資料及び記念品に富める我が国の現在に於てこそ、最も適当なる又特に有意義なる計画と存じたる故に御座候。公私御多端の折柄御迷惑とは存候へども、何卒前陳の趣旨御諒察成下され深厚なる御賛助を賜りたく悃願致候敬具。

(『早稲田学報』昭和二年七月発行第三八九号 二六頁)

これに名を列ねた発起人は次の二十八名であった。

事務所は大隈会館に設けられ、校友からなる実行委員が選任せられた。それは確かに、遠慮して、大隈記念事業と牴触せぬように注意を払った跡はある。しかし大学当事者側からすれば、発起人には、財界の総帥渋沢会長をはじめ、小林一三や、安田善次郎や、増田義一や、福沢桃介など財界人が袖を連ねているから、この顔触れに一脈の懸念を抱いた跡が掩えない。殊に寄附募集を始めると、金額が少くもあり、今までの寄附とは目的も違っているので、予定の金額に達する先が見えたが、いよいよ敷地を決定する段になって、また別な問題を生じた。これは外国の観光客の興味も惹く国際名所になるからというので、官界・財界・文化界の一部の人の間に、日比谷か芝に建てようとする陰の動きが起ったのである。しかしそれでは逍遙の記念事業という薫染が稀薄になりすぎ、或いは全く消滅するので、いっそ大隈会館などと言わずに、大学の校庭の一角にとの案が逍遙を囲む校友間に強く起り、その結果現在の場所が選ばれた。これは資金の調達に難渋する原因となったが、今にして思えば、この決断は見事だったと言わねばならぬ。

 建築の形式は、年来、坪内逍遙自らの腹案があり、シェイクスピアの存命中、彼の劇を数々演じたロンドンのフォーチュン座を模すべしとの強い主張で、その復原図に基づき、本学苑営繕課の桐山均一が実際の建築の衝に当った。「演劇博物館の建築に就いて」の一文で桐山は次のように書いている。

演劇博物館の設計は、発企人の方や佐藤功一先生の御依嘱によりまして、及ばず乍ら私がお引受けを致すことになりました。然し根本の案は坪内先生の発議によつて、沙翁時代に現存してゐた「フォーチューン座」に拠る事となつてをりますので、それを鉄筋コンクリートの上にどう表現しようかといふのが、主眼点だと申せば申されませう。「フォーチューン座」は私共の方から言へば、中世紀風の英国式ゴシック建築で、原始的な味を多分に持つてゐます。学園としては全く類のない、面白い建築になるわけですから、出来るだけの苦心と注意を払つてやつてをります。単に学園として珍らしいばかりでなく、日本には殆ど其例がありますまい。英国でも沙翁の生地ストラットフォード・オン・エイヴォン辺には、材木を見せた様式の建築が今でも沢山にあるさうです。けれども「フォーチューン座」といふものは、三百年の昔にあつたもので、今日それを模したものといつては、模型ならいざ知らず、世界の何処にも存在してゐないのですから、つまり世界に類例のない演劇史的価値のある建築が我が学園内に建築されるわけです。即ち館の建築自らが既に演劇博物館の一大資料たるばかりでなく、実に世界的名物として算へられるべき資格を持つてゐるのだとも言へます。 (同誌 昭和二年十月発行 第三九二号 四五頁)

 なお、これが世界に比類のないものになることについては、雑学的博識の趣味人であり通人であった市島謙吉が、「坪内君と演劇博物館」という題で一文を草している。

聞く所によると、演劇博物館なるものは、我国のみならず此の東洋としては全く前例のないものだといふ。欧米諸国にしても、大学の研究室の一部を特殊の展観場或は研究室として設備し、演劇博物館と称してゐるものもあるといふが、独立した建物全部而も今度のやうに、延坪三百二十坪からの建物を悉く其の為に提供しようといふほどの規模のものは、殆ど稀だといふことである。 (同誌 昭和二年九月発行 第三九一号 二九頁)

 逍遙は演劇博物館を大学に寄附したのみならず、その費用に充てるため牛込余丁町の邸宅も添えた。後者の寄附書には左の如く記されている。

寄附書

一、東京市牛込区余丁町百十四番地所在

拙者所有宅地四百余坪

二、前記地所内拙者所有

木造瓦葺建物三棟約九十坪

以上現形ノ儘

右早稲田演劇博物館費用トシテ寄附仕候也

昭和三年六月三十日 東京市牛込区余丁町百十四番地 坪内雄蔵

早稲田大学総長高田早苗殿

 昭和三年二月二日地鎮祭。七月九日、逍遙の誕生日を以て上棟式を行う。本来は五月二十二日なのだが、新暦に換算したのである。夏休みを控えて校内に学生は少く、静かに庭樹に微雨の降り注ぐのを、雨降って地固まると縁起をかついで祝い合った。竣工は十月。

第七図 演劇博物館平面図

二 開館式

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 十月二十七日開館式を行う。来会者は千名を超え、非常な盛況であった。順序は左の通りである。

一、開式 幹事 難波理一郎

一、国歌合唱

一、報告 実行委員長 市島謙吉

一、式辞 早稲田大学総長 法学博士 高田早苗

一、祝辞 英国大使 サー・ジョン・ティリー閣下

一、祝辞 発起人総代 子爵 渋沢栄一閣下

一、祝辞 文学博士 上田万年

一、祝辞 小山内薫君(土方与志代読)

一、祝辞 中村歌右衛門君

一、祝辞 長谷川誠也

一、謝辞 文学博士 坪内雄蔵

一、校歌合唱

一、閉式 (『早稲田学報』昭和三年十一月発行 第四〇五号 一二―一三頁)

この日の陳列物は六室の外、廊下から階段にまで及び、もとより各方面から借りたものもあったが、早くも劇界の歴史的至宝を蒐め、この企画の空しからぬことを証明するに十分であった。

 なお、演劇博物館が建設された翌年一月、館の宣伝、運営資金の獲得を目的とした演劇博物館後援会が発足した。これが、昭和五年九月発足の国劇向上会の前身なのである。

三 ショーを迎える

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 世界に唯一無二のものだけに、演劇博物館の放射した文化史的貢献は広汎で、従ってここを訪れた世界的名士も数多いが、その最大の話題は昭和八年にバーナード・ショー(George Bernard Shaw)を迎えたことであろう。

 その時のショーは、老齢七十八歳であったが、矍鑠として壮者を凌ぎ、その文名は絶頂にあった。彼はイギリス劇壇で、恐らくシェイクスピア以後の最大の劇作家ではないかとの評価が生じかかっていた。経済学者としても第二流を下らぬと言われた彼は、フェビアン協会の創立者の一人で、熱心な社会改革家である。第一次世界大戦が終ると、その批判の意味を持つ『セント・ジョン』の作によって劇壇の名声を盛り返し、ノーベル賞を贈られても、旋毛曲りの彼はこれを謝絶し、再三の交渉で、その名誉だけを受けて賞金は断ったので、一層世の喝采を博した。文学を以て名声最高のショーは、また改革思想の尖端を行く勇敢な戦士で、列国が警戒猜疑しているソヴィエト連邦に迎えられて、謎の支配者として世界注視の中心だったスターリンと交歓して憚らなかった。今度はそれがソヴィエト連邦に次いで興味を惹かれるのは日本だと言って、来たのだ。そして、殆どどこも訪ねない先に早稲田へ姿を現したとは、そもそもどんな因縁か。それも大学を目的としたのでなく、演劇博物館のみの見学が目的とは、どうした風の吹き回しか。

 ショーは自ら言っている。私は大地に生えた樹木の如く、実はちっとも動きたくなかった。しかし家内が永い永い家事に飽き飽きして動いてみたいと言う。そこですべての運びは向う任せで、ただ乗っていれば、いろいろなところへ連れて行ってくれる世界遊覧船のエンプレス・オヴ・ブリテンの座席を申し込んだのだと。この船はアメリカーイギリス間を通う定期船だが、冬期四ヵ月は乗客が減って、世界第一の豪華船は欠損を生ずる。それを救う窮余の一策として考案されたのが、この贅沢きわまる世界一周旅行だったが、これが思わぬ経済的成功を博したのだ。殊にショー夫妻が乗るとなれば、宣伝ヴァリュー一〇〇パーセントで、世界中が騒ぎ立ててくれる。しかしショーにとっては迷惑千万なので、乗船計画一切を秘密にして、マルタ島からこっそり乗ったから、さすがに鵜の目鷹の目の報道機関も全く出し抜かれた。そしてその乗船が分ると早くも、この旅行中は「自作の上演・映画撮影の契約は拒絶する。寄稿・講演も拒絶する。茶・食事その他の招待も拒絶する」の三絶を発表して、一切寄りつけぬように拒絶網を張り巡らした。

 エンプレス・オヴ・ブリテン号は、香港から上海、秦皇島と廻航して、日本に向い、別府、神戸、横浜と立ち寄り、その間京都と東京を見物するというプログラムであった。横浜入港後ショーの東京滞在三日間中に、早稲田訪問の予定はなかった。この世界劇壇の巨星の来日に、演劇博物館へ迎えることができないのを遺憾とした副館長の河竹繁俊は、英国留学から帰った市川又彦を通訳として、イギリス大使館へ再度足を運んで懇請してみたものの、大使館にも何の便宜を計る力もなく、全く暖簾に腕押しであったところ、たまたま、ショーの案内に校友木村毅が付いていることが分って、そちらに連絡をつけた。

 実は木村毅は、改造社から、ショーに寄稿・講演を強引に頼み、拒絶されたら、せめてショーに毎日随行して、その言行を記録してくれとの依頼を受けて、上海へ急航したが、上海ではショーは木村の要望を容れることがなかったものの、事変中にも拘らず、更に木村が鉄道で北京に急行し、秦皇島に寄港したショーに再会すると、ショーもその熱意に動かされて、日本に来てから、駐日イギリス大使館商務参事官のサンソム(後のコロンビア大学教授、『西欧世界と日本』の著者)と相談してくれという好意を示した。そして河竹・市川の申込みについては、プログラムにはあらかじめ組まれていないことだったが、早稲田大学に演劇博物館があると聞かされて急に興味を催し、「それでは行って見よう」ということになった。

 昭和八年三月十日、この日快晴。早稲田に着くと、先ず大隈会館に案内した。かねて呼んであった秩父に古来からある車人形の実演をショーは興味をもって二曲も三曲も飽かずに観て、最後に特に「ハラキリ」の型を所望して、これにも非常に満足の意を表した。この頃からショー来たると知って表門から演劇博物館までの校庭を学生が一杯に詰めかけ、殊に目白の日本女子大学校生が大挙して列を作って待っていて、口々に「ショー、スピーチ、スピーチ」と促す。ショーがスピーチに応じないことはあらかじめ学校当局に厳重に通知してあったのだが、こうなると、そこは名代のお喋りだ。遂につられて、「いや、実はカルカッタと香港の大学で、私のスピーチから大騒擾が起り、大学当局に非常な迷惑をかけた」から、スピーチは断ると言いながら、その理由を述べたのが二十分ぐらいな長広舌となり、学生達はみんな満足して、嵐の如き拍手を送った。

 演劇博物館ではさまざまの特別展示に、一々顔をつけるようにしてのぞき込んで見入り、殊に階段から廊下の壁一杯に掛けられた日本における自分の芝居上演の写真を眺め回して、有名な作が殆ど舞台に上らざるはないのに驚き、「しかし私は、上演料は一ペニーも受け取った覚えがないよ」と言って、みんなを笑わせた。能面の陳列では、殊に般若の面が気に入って、自ら被って、愛嬌に左右を振向いて見せた。しかし二、三のカメラマンが「ワンス・モア」と呼び掛けると、面を脱いで厳然として「ノー!」と言い放った威厳には、浮わついて陽気だった座が一時シンとした。カメラマンの不作法を憤るとともに、他律的に行動を強いられるのを本意としなかったのかもしれない。

 この演劇博物館の印象はよほど深かったと見え、四ヵ月の長旅を終ってロンドンに着いた時のことが報道された諸新聞を見ると、演劇博物館で般若の面を被った写真が各紙に載っており、且つ「巡った世界各国から無数の贈り物を受けたが、特にその中で興味のあるのは日本で貰ったこの歴史的な絵である」と言って、取り出して示しているのは、「奈良絵本お国かふき」(京大本の複製)の草紙であった。

 世界劇壇の王者バーナード・ショー。しかも彼は気まぐれな旋毛曲りで有名な男だのに、その足を半日引き留めたほど珍奇にして豊富な資料があったという評判は、まだ評価未定の演劇博物館の権威に千鈞の重味を加えた。言い換えれば、世間のここに対する認識を一飛躍させたのである。しかもこの昭和八年には『新修版シェークスピヤ全集』が、徳富蘇峰の『近世日本国民史』と前後して中央公論社から出版され、円本台風の打ち留めとして大成功を収め、その印税は同館の運営基礎を安固ならしめるために充てられた。

 逍遙のシェイクスピアを講ずること数十年、そのシェイクスピリアンとしての名声は、大批評家ゴス(Edmund Gosse)監修の『世界文学叢書』の第一編アストン(W.G.Aston)のA History of Japanese Literature(1899)およびフロレンツ(Karl Florenz)のGeschichte der japanischen Literatur(1905)ならびにロンドン『タイムズ』紙の日本特集号(19 July,1910)その他によって、広く海外に知られていたが、それは主として文壇の開拓者またはシェイクスピアの影響を著しく蒙った日本劇の作者としてであった。明治四十二年の『ハムレット』の全訳を発端にして、昭和三年までに『シェークスピヤ研究栞』一巻を含む彼の全集四十巻を完成した、この間の二十年に文致の画一も期し難く、訳法もまた変化があり、全くの改訳は不可能だとしても、誤訳や不備・不満な個所の修訂を心ひそかに望んでいたところ、中央公論社からそれを縮刷にすべき申込みがあり、全部組み換えとなるので、逍遙は修訂の機会に巡り会えることを喜び、元の版元の早稲田大学出版部の承認を得てこれを勇躍快諾し、予約出版として広く募集計画を立てると、文壇や文科校友がこぞって応援して、彼自らもシェイクスピア劇朗読の公開と、その中継放送を行った。また、宣伝隊は幾つかの班を作って全国を巡り翻訳劇の上演をしたため、この種の文芸翻訳としては、空前の読者を獲得し得たのである。

 昭和六年、逍遙が維持員を辞した時、大学は三万五千円を慰労金として贈ったが、逍遙は願わくば演劇博物館に寄附してもらいたいとの注文をつけ、その手続が取られた(うち五千円は国劇向上会に分つ)。これに関連した大学側の記録では、同年七月十日の臨時維持員会の決議に、

前総長高田早苗氏ニ対シ退職慰労金ヲ贈呈スルコト。

坪内雄蔵市島謙吉二氏ニ対シテモ此際退職慰労金ヲ贈呈スルコト。

前二項ノ退職慰労金総額ヲ金拾五万円トシ其分配ハ理事会ニ一任スルコト。

とあり、各人に贈られた金額は明記されていない。