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第六編 大学令下の早稲田大学

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第十四章 虎の門事件

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一 大正十二年十二月二十七日

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 暴力は暴力を呼ぶ。大震災時の軍部による社会主義者殺害は一部の人々に報復テロを決意させた。アナーキストの古田大次郎は社会主義者の和田久太郎とともに大杉の仇討ちとして、戒厳司令官であった福田雅太郎大将を狙撃するが、これより先、大正十二年十二月二十七日、一人の人物によって、真に驚くべき事件が引き起された。摂政宮裕仁親王に鉄砲の弾丸を放ったのである。当日宮内省は事件に関して左の如き公表を行った。

(午後一時宮内省公表)今朝摂政殿下議会開院式に行啓の御途中、午前十時四十分、虎之門跡に御差しかかり遊ばされたる所、一兇漢鹵簿の右方よりお召車に対して発砲し、窓ガラスを破損せるも、殿下には些の御障りもあらせられず、そのまま開院式に臨ませられ、開院式の勅語を賜はり、終了後御機嫌麗はしく午後零時十分還啓遊ばされたり。兇漢は直ちに逮捕せられたり。

すなわち、同日午前、第四十八帝国議会の開院式に行啓のため摂政宮の自動車が虎の門に差し掛かると、一人の若者がステッキ銃を持って、群衆の中からおどり出、車のすぐそばまで走り寄って引金を引いた。弾丸は自動車の窓ガラスを突き破って天井に突きささった。陪席の侍従長入江為守がガラスの破片で顔に軽い傷を負っただけで、宮には何の障りもなかった。

 一新聞は、「空前の一大不敬事突発/兇漢摂政宮殿下を狙撃/殿下幸に御無事/兇漢直ちに捕縛」(『中外商業新報』大正十二年十二月二十八日号)との見出しで報じたが、文字通り、それは当時の人々にとって想像を絶した事件であった。取調の結果、若者の名は難波大助、元第一早稲田高等学院学生などのことが間もなく判明した。しかし、一般国民に対しては「虎の門事件」と呼ばれるこの事件の全貌は秘密にされ、概要が公表されたのは一年の後であった。尤も、事件に関しては、真偽取り交ぜて坊間に早くより種々の情報が伝えられていたが、真相は第二次世界大戦の敗戦後になってからでなければ我々の前に明らかにされなかった。

 先ず難波大助と学苑との関係について、その概略を左に摘記しておこう。難波が第一高等学院に入学したのは大正十一年四月で、文科B組(政治経済学部進学予定)学生として、最初は真面目に通学し、クラスの友人達は、草野球の捕手の難波が示した猪突猛進的特質に印象づけられた模様である。しかし、

入学後半年で早くも学校生活に深刻な懐疑を抱くようになったが、父〔庚申倶楽部所属代議士、難波作之進〕のことを思って大助はともかく学校をつづけた。十月中頃までは遅刻も欠勤もなく皆出席であったが、その後は時々欠席するようになった。……年が明けて大正十二年を迎え、三学期に入ってからは、殆んど毎日のように遅刻した。しかし欠席はしなかった。……大助は早高に入学する前頃から、テロリストたらむとの大望が学校生活と両立せぬことの矛盾に悩んでいたが、入学してからのちいよいよその不徹底に苦しんだ。……そこで、二月十二日に、議会の会期中で鎌倉に滞在していた父を訪ね、「自分は放蕩して或る淫売婦に恋をしているため、学校をやめたい。恋がさめる時があったら労働者になって革命運動をやりたい」と言って、承認を求めた。父はそれをきいて泣いて諫め、学校だけは続けるようにと言ったが、大助はきかず、……父と兄とに絶縁をねがってその晩のうちに立去った。……大助の本心は、「親爺には革命運動のために学校をやめると言ったのでは学校をやめるのに都合が悪いので、私としては親爺に愛想をつかさせるため、自分は淫売にのぼせたというように親爺に言って、学校をやめるための狂言を打ちました」というようなものであった。……〔こうして大助は〕大正十二年二月十五日、早稲田高等学院を退学して牛込の下宿を引払った。 (原敬吾『難波大助の生と死』 七三―七七頁)

 また、高等学院時代の難波の友人歌川克己(昭三政)も、

わたしの記憶に残っているかれは、無口な、どちらかというと控え目な男だった。いつも教室の片隅にすわって講義をきいていた。友人も少なかったようだが、別に淋しそうにもみえなかった。まっ黒な顔に、小さい身体ががッしりとまとまっていた。それでいて全体から受ける感じにはどこか人の心に呼びかける力があったことを覚えている。

(大島英三郎編『難波大助大逆事件――虎ノ門で現天皇を狙撃――』 一三一頁)

と、学苑の学生生活が難波の思想形成に及ぼした影響については、断定的なことを何も記していない。

 これらの引用から察せられるように、大助の思想形成にとって、学苑は殆ど無関係であった。それにしても、何故に大助は高等学院学生としての生活を僅か半年で打ち切って、一年の後に虎の門事件という真の意味での大事件を引き起したのであろうか。

 少年期の終り頃まで、父の感化もあり愛国主義者・天皇主義者であった大助も、自我の目覚めとともに、それに疑いを持つに至った。母を虐げる暴君としての父親、軍人崇拝熱の高い郷土長州の空気も手伝って、大助は急速に反対の方向に変った。大正八年から東京で浪人生活を始めると、『改造』『解放』『前衛』『赤旗』などをむさぼり読み、次第に社会主義思想に惹かれていったが、思想傾向としてはマルクス主義よりも、テロリズム的なロシア・アナーキズムに共感を持った。その決定的転機となったのは、『改造』第三巻第四号(大正十年四月発行)所載の河上肇の随想的論文「断片」との出会いであった。同稿の主眼は、サックの『露西亜民主主義の誕生』により、ツァーリズム下のロシアにテロリズムが現れ出た必然性を述べることであるが、その間に日本社会への河上の批判が巧みに織りまぜられている。「良心が人を暗殺に導くことを注意せよ」(『河上肇著作集』第一〇巻 二一〇頁)、「暗殺さるる者よりも、暗殺する者の方が、より鋭き良心の所有者たること在り得るを注意せよ」(同書 二一一頁)、また「若し君が不幸にして、一切の平和的改造運動が抑圧し尽された当年の露西亜に生れたとしたら、一体どうする積りだ。手を拱いてへこたれてゐる積りか。外に意義のある生きやうの無い暗黒時代に生れた青年が、――自分の生命を断頭台に棄てる外に、何物をも持たず、棄つべき他の場所をも持たなかつた当年の青年が、――自ら進んでテロリストと為つたのは、その志甚だ憐むべきものがあるでは無いか」(同書 二二四頁)などの言葉は大助の心を強く打った。

 彼にはもともとテロに共感する人格的素質があったに相違ない。テロ、特に個人テロは激しい情熱と氷のような虚無感を併せ持つ人物によってのみ可能である。しかし、大助のそうした素質と河上の啓示とを結び合せる過去および現在の社会的条件はあった。大助は河上論文を読んだ後、上野図書館で、明治四十四年の大逆事件関係の新聞記事を読みあさった。「幸徳〔秋水〕氏等ガ断頭台ノ露ト消ヘテモ、其同志等ガ何等幸徳氏等ニ酬ユル丈ケノ実行方法ニ出ルモノモナク、幸徳氏等モ定メシ残念デアツタラウト思ヒマシテ、私ガ一ツ遣ツテ見ヤウト思ヒマシタ」(「予審訊問調書」我妻栄・林茂・辻清明・団藤重光編『日本政治裁判史録大正』四四七頁)と事件後、彼は予審判事に語っている。知識として入ったテロリズムへの志向は、大正九年の普選デモや社会主義同盟講演会での官憲の力による弾圧の体験により固まっていった。

 しかし、大助はそのままストレートにテロの実行に移ったわけではない。その後更に諸理論を読み、考えるうちに、彼は、大衆行動が正道であり、テロは危険な権道であるのを悟った。彼を取り巻く社会の状態がバランスを回復していったならば、彼のうちに棲むテロリストという怪物はそのまま眠り込んでしまったであろう。だが、大正十二年になると、社会のバランスは大きく崩れた。我が学苑に起った軍事研究団事件や銅像前の乱闘を、既に学苑から離れてはいたが、一度はその学生であった大助がどのように感じたか、我々にはそれを知り得ない。しかし、それらが何ら大助の心に変化を与えるものとして作用することがなかったと断定して、果して誤りないであろうか。

 勿論、彼をテロリストの道へ回帰させた決定的出来事は、大震災の混乱の中で起った軍部・警察の大規模な一種のテロであった。それは、河上の言う「一切の平和的改造運動が抑圧し尽された」状態を、生々しい感覚で大助に実感させたからである。

二 学苑当局の憂慮

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 難波大助が郷里の中学校第五学年を中途退学したのは大正八年であり、翌九年および十年官立高等学校を受験して目的を達せず、十年には学苑の第一高等学院の入学試験にも不合格、漸く十一年に至って第一高等学院に合格した際には、年齢二十二歳、当時教室には現在よりも年長者が多かったとはいえ、大多数の級友とは年齢差があったのは事実である。『虎ノ門ニ於ケル不敬事件ニ関スル調査』(特別高等警察研究資料第一)によれば、「漸ク社会主義的思想ヲ感得シ」たのは大正八年秋であったというが、それと学苑を選んで入学したことと関係があったと考えられている節は見られない。高等学院入学後は、「再社会主義刊行物及露西亜文学ヲ耽読セリ。当時『サンヂカリズム』ノ思想特ニ『ソレル』ノ所説ニ心酔シ、革命手段ヲ暴力破壊ノ方法ニノミ求メムトシタリ。後、I・W・Wノ思想等ヲモ多少渉猟シタルモノノ如シ」と報告されているが、学苑生活が難波の思想形成に何らかの影響を与えたとは記されていない。翌十二年には、「本人ノ思想ハ急転直下ノ勢ヲ以テ著シク悪化ヲ来セルモノノ如シ。当時ニ於テ本人ハ無政府主義ノ思想ニ心酔シ、『革命家の思出』其ノ他露国無政府共産主義者『クロポトキン』ノ著書及同人ニ関スル書籍ヲ耽読シ、益々権力ニ対シ憎悪呪咀スルニ至リ、相当強烈ナル信念ヲ抱クニ至リタルモノノ如シ」と記述されているが、警察当局の調査には、こうした難波の思想に関して、学苑との関係は全く触れられていない。そして、一年足らず在学の後、学苑を去ったのであるが、「将来父子ノ絶縁ヲ声明シ」た結果「忽チ資金ニ窮シタル為玆ニ断然学業ヲ放抛シ」たというのが、その公式説明である。

 しかし、難波は学苑に退学の正式の手続を行ったわけではなかった。第一早稲田高等学院名で教員その他学苑関係者宛発信された大正十二年十二月二十九日付謄写版刷書簡には、

難波大助は大正八年三月山口県鴻城中学校四年修了、同十一年四月本学院に入学し、同年内は欠席勝ながら通学致し居候へ共、大正十二年に入りては全然欠席致し居候のみならず、授業料も納付致さず、従て三月の学年試験にも落第致し、又原級編入届も提出致さず、仍て六月一日付を以て除籍致したる次第に付左様御承知置願度、なほ本人は従来本学院に有之候社会思想研究会にも関係無き者に有之候。

と、学苑との関係が説明されている。

 学苑学籍課所蔵の学籍簿には、難波大助については退学の欄に「12・6・1」と記入(島根又三筆蹟と推定)され、事由の欄に「元級手続未済」の印が押捺されてあり、また当編集所所蔵の「佐久間文書」中の「除籍伺書綴」中には、第一高等学院長宛、大正十二年六月五日付、事務主任河原弥市郎名(吉田初雄筆蹟と推定)の、「左記ノ者頭書ノ事由ニ依リ除籍スベキ者ト認メラレ候ニ付六月一日附ヲ以テ除籍致度此段申請候也」と記された文科一年生十名、理科一年生十一名、文科二年生七名、理科二年生十一名中に、「元級手続未済、一月以降学費未納」の事由で、「文科一年B難波大助」が発見せられて右書簡の記載が真実であることが立証されるのは事実であるが、難波の除籍手続は、犯行時においては未だ完了していなかったとの説も存在する。すなわち、

学費未納学生に対しては何回となく督促状を出し、未納学生は校規により除籍処分される。しかし期日到来後でも尚事情考慮、学生の良心的反省を再三促がす暖かい思いやりの教育方針で事務処理をして来た。難波とて例外ではなかった。事件のニュースを耳にした当時、係の島根又三先輩(鶴巻町に居住)が急遽事務所に行き関係書類全部に除籍処分記入を記録し、斯る書類の別置倉庫へ当直の井上労務員に依頼し、事務所に引返した直後、警官が来て一件関係書類提示を要求された。

(佐久間和三郎「回顧録(中)」『早稲田大学印刷所報』昭和五十二年二月発行 第二号 五四頁)

との秘話も伝えられている。

 いずれにしても、この事件が学苑首脳部に与えた心痛は筆紙に尽し難いものがあった。「早稲田騒動」により醸された学苑の危機を漸く克服して一安心する遑もなく、審理の結果如何によっては学苑の将来に暗雲を招く惧れの多分にある不敬事件が発生したのである。出身地山口県熊毛郡周防村では、村長や卒業した小学校の校長、担任の訓導まで辞職をしたような当時の空気は、今日では理解が困難であるかもしれないが、難波が級友歌川に累を及ぼさぬよう極力自ら配慮したこととともに、輿論が学苑に対して平静であったのは僥倖と言うべきであったと感ずる者さえ例外でなかったのは事実である。ともかく、第一高等学院長中島半次郎の寿命は、この事件によって縮められるに違いないと、学内ではひそかに噂されていた。虎の門事件は、寧ろ「早稲田騒動」にも増して、薄氷を履む思いを学苑首脳部に味わわせたと言っても、必ずしも過言ではない。市島の日録『小精雑識』二には、十三年一月七日の項に、学苑当局に与えられた衝撃が生々しく記されてある。

旧臘尾の不敬事件は内閣を総辞職せしめた丈、早稲田大学の神経をそそつた。其の凶漢が嘗つて早大の高等学院に学籍を置いたことがあるからのことだ。但し此凶漢は凶行よりヅット前に退学してゐる。警視庁が此の凶漢から得た口供、貴族院に於て司法大臣に質問した要点などは新聞に絶対秘してあるが、その事実は凶漢は二年前早く凶行の意思があつた。それを何故に発せざりしと云へば凶器が手に入らなかつたと云ふにある。二年前は此男が未だ早大に学籍を有せざりし時である。亦た何人の薫陶により斯る大事をなさんとする気になつたかと云ふ警視庁の取調に対し、雑誌「改造」に掲げられたる佐野学や麻生久や山川均などの説に動かされたと云ふてゐる。佐野は早大講師ではあるが、講堂で感化を受けたとは言ふてゐぬ。貴族院の秘密会に平沼法相の質問に答弁も絶対に早大の与かり知らぬ処だと言明してゐる。事実は全く斯くの通りであるが、早大には高田総長就任の際に思想上の一紛議があつたことは世に隠れもないことになつてゐる。何となくそれと関聯するかに疑はれる虞れもあるから、早大の当事者の頭を病ました訳だ。第一高等学院長中島の如き責を引て辞し全然教育界を脱せんとまで決心し、高田総長も辞さんとまでした。併し矢鱈に遠慮して引責すると世間では誤解の上に誤解を重ねて本ン物にする嫌があるので、軽挙を止め、寧ろ今後の廓清と教育方針の立て直しを以つて奉仕することの方針を取つた。それは可とすべきだが、世間暗黙の間に早大を危険に思ふことがますます盛るであらう。学校は今後頗る難儀の位置に立つものと思はねばならぬ。