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第六編 大学令下の早稲田大学

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第四章 過渡的体制の払拭

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一 後継総長問題と新校規制定の要望

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 学苑出身の初代学長として、全学の輿望を担って就任した塩沢であったが、塩沢の学才をこよなく愛して庇護を惜しむことのなかった大隈総長の逝去により、船出したばかりの塩沢丸は激浪に翻弄される悲運を甘受するの余儀なきに至った。十一年五月尽日の市島私記には、歯に衣を着せることなくこの間の実情が説述されている。

大隈早大総長薨去の後、総長の後継者を得ず、学長は貫目足らずして学校の箍は緩みつつあり。而して当面には総長の紀念事業の為二百万円募集の事あり。将来に就ては内容を充実すべき幾多の懸案あり。頗る学校の緊張を要し、且つ経営の大才を要する折柄、動もすれば内部に暗闘あり。今にして箍を締め直さずんば前途甚だ寒心すべし。……ここに於て昨今吾等幹部の間に密々議を凝らし、先づ両三日前高田の主催にて紅葉館に会し、今朝は坪内、金子と余、高田方に内議を凝らしたれども未だ成案を得るに至らず。紅葉館の会談には高田校規の改正を主張し、終身維持員を廃すること、停年制を設けて、六十五歳のものは維持員・教授其職を辞し、淘汰を行ふべしと論じ、校規の改正の立案を田中担当することとなりたり。高田は切りにストロング・ガヴァメントを作らざる可らずと主張すれども、これ制度の問題にあらずして人物の問題なり。如何にして之れを作り得るか、未だ其説を聞く能はず。高田は今の学長を総長に改め、各科長を学長に改むるの合理的なるを云へど、総長の名は大隈総長を聯想して種々誤解を惹き起すの虞あり。高田が校規改正後の総長と呼ばるるは恐らく内外より誤解を招くべしとは余の反対説なり。余の主張は来十月が学校四十周年なるを以つて、それを一紀元に劃し、新校規を実施し、学長を更迭すべしと云ふもの一。理事は其適任者を得難きにより、今後は廃すべしと云ふもの其二。維持員会中より委員を挙げ、それを以つて理事の職を行ふべし。学長を其の委員長たらしむるも一案。或は学長以上の人をそれに充るも一案、これ其名委員長なれども、其実権のある総長なり。後案には学長をも委員とする仕組なり。恐らくこれストロング・カビネットを作るの一案たらん歟。

(『壬戌漫録』三)

 更に、十月二十一日の項に目を注いでみよう。

綜合大学としての内容は未甚だ貧弱なり。而して近年世の風潮に伴ふて内部の緊張を欠き、老侯を喪ふて後殊に弛緩の色あるを見る。校規を改正して善後を策せんと、初夏以来努力しつつあるも今尚ほ決定に至らず。今日此〔四十年記念〕式典の際にも吾等は内密此事に斡旋し、解決の甚だ難きに困しむ。其の難き所以は実に人事に関す。即ち現学長に易ゆるに田中穂積を以てする内約あり亦順序にもあるなれども、任期中現学長を動かすを不穏当とするものあり。玆に於て校規を改め、学長を総長と改め、副総長を置き、先づ第一期総長として高田を推し、田中を副総長とせんと策したれども、副総長に田中を推すに校内反感あり。為めに田中は隠退せんとまで決意し、此事の波瀾は紀念事業に悪影響を及ぼさん傾向あり。数月来維持員中の委員並に余等数人の苦心は一方ならず。大学も四十歳を迎へては困難に会すること恰かも人生四十歳前後に困厄の来ること往々あると一般。此日に於て吾れは尤も此感を深くしたり。 (同書 六)

すなわち、大隈総長歿後の新情勢に即応すべく校規を改正することは、塩沢学長の逢着した財政困難打開の方策樹立の必要に促されて、後述(一三六頁以降)の如く維持員会の日程に上ることになるのであった。

二 創立四十周年記念祝典

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 大正十一年は学苑創立四十周年に当るので、学制頒布五十年記念を兼ね、十月二十日記念式が挙行された。この日午前九時、護国寺境内の墓前で創立四十年記念報告祭が執行され、次いで午後二時より中央校庭で記念式典が挙行された。式場は天幕張りで、演壇には校旗を中心に二鉢の白檀が配されるのみの質素なものであった。これは故総長の喪中にあること、および記念事業のために広く寄附金を集めつつある際、式典に多額の費用を用いることへの遠慮のためであった。列席者も大学関係の教職員、学生と校友に限定され、式次第も次の如く簡素なものであった。

一、開式

二、校歌斉唱

三、式辞 学長 塩沢昌貞

四、記念講演 名誉学長 高田早苗

五、同右 基金管理委員長 渋沢栄一

六、祝辞 校友総代 斎藤和太郎

七、国歌斉唱

八、閉式

 塩沢学長の式辞は、学制の公布により特権階級に独占されて来た教育が各階級に斉しく均霑するに至ったと、学制頒布五十周年を祝う辞に始まり、故総長以下先人の苦心経営と、皇室ならびに多数の寄附者の後援により、外形上もまた内容的にも、早稲田大学が格段の発展をしたことを述べ、しかし現状を以て満足とは考えられぬ、講堂の建設その他建築・施設の充実とともに、早稲田大学の精神を発揮し、国家社会、世界人道のために貢献するという理想実現のために「今日の時勢に於ては、我々はあらゆる学問を十分に吸収して、十分に之を研究しなければならぬのでありますけれども、併ながら是と同時に、真に此人格的誠意と云ものと結び付けて、其学問が本当に社会・人道の為めに役立つやうにしたい。是は言ふ迄もなく、早稲田大学の理想の一面であります。今後大学関係者一同が益々協力一致して大いに努めましたならば、四十年発展の跡を瀆することなく、又故総長の此大学建設の意義に背かぬことが出来やうと思ふのであります」(『早稲田学報』大正十一年十一月発行 第三三三号 四頁)と述べた。

 また高田名誉学長は、本大学の昔噺より説き起して、或いは過去の経済的窮迫と闘い、或いは世の冤罪的誤解を解き、粒々辛酸を嘗めて今日に至れる所以を、その深刻なる実感より吐露し、進んで、未来の希望として、有形的施設経営の方面に多々ある事はもとより、大学の本義を徹底するために、深奥なる学術を研鑽し、以て、我が東洋の学問をして西洋の学問より独立せしむるの要を切言し、殊に、世界大戦後の大変動期にある今日を以てその絶好機とした。

また更に、体育を普及して持久戦の勝利者としての素質を養うの緊要を説き、終りに、かかる目的は、一に我が学苑の団結に依ってのみ成就し得るとの趣旨を演説した。特に、未来に対する希望として、「一応大学の形は出来た」が、「今日は他の官立の諸大学と法律上、制度上対等の地位に立つことを許された以上は、彼に凌駕しなければなら」ず、そのために先ず外形上は、大講堂・図書館・学生倶楽部・教職員倶楽部の建設や事務所の改善を進め、また無形上は、教旨の徹底を図り、模範国民の養成に努力しなければならぬ、「学問の活用といふが、活用といつた所で、言ふは易く行ふは難いので、成べく深く学理を修めて、啻に学理を学理として研究するのみならず、自ら更に進んで之を実際に応用して誤らぬやうな人間を造出すといふことは、是亦容易な事でないのであるから、深く此所に御出でになる諸君の御研究を煩はさなければならぬ」と述べ、早稲田大学の最高理想たる、学問上外国の奴隷にならぬという「学問の独立」実現に真剣な研究を要望した(同誌 同号 九―一〇頁)。「学問の独立」は大隈や小野梓らの理想でもあったが、高田は外遊中に第一次世界大戦に遭遇し、この紊乱によって欧州の学問は暫くの間は退歩する、少くとも進化は望めまい、今こそ彼に習うばかりでなく、彼に教うる基礎を築く機会であると信じ、帰国後直ちに学生に演説したが、遂に見るべき学問の発達がなかったことを嘆いて、この発言になったのであり、高田の学問発達に対する強い意気込みと期待とは、この演説によく現れているのである。

 次いで渋沢栄一が大学発展のあとを追懐して記念講演を行ったが、その中に左の注目すべき発言が見られる。

世間に向つて寄附金の募集は卑しむべき事業でないと考へて、只今名誉学長のお話の通り、近日中に京阪地方に参るのでございますけれども、社会が左様に同情を寄せて下さるといふことは、其必要があるからである。其必要を生ずるのも真に効用を足すからである。若しそれが真の効用を足さなかつたならば、実に甚だ時機を誤ると言はなければならぬ。斯う考へて見ますると、吾々の苦心は皆な満場の諸君の世間に尽す効用の大なるに依つて光を持ち、之に反対するに依つて吾々は大に世の中から謗られねばならぬから、吾々をして世に誉れあらしむるも、亦世に叱られるやうな人にするのも、諸君の是れから先に世に立つ働きに依つて定められると申すものであります。 (同誌 同号 一二頁)

社会が寄附金を寄せて大学を援助するのは、大学卒業生が社会の期待に応えて効用をいたすからであり、卒業生の活躍を社会が必要とするからである、在学生諸君はその覚悟を以て、世の中から謗られぬよう、将来の活躍を望むというのである。大学が建学の目的の一つとした模範国民の造就はまさにこのような期待に応えるものであるが、この発言は、大学と社会との緊密な関係、財界等の大学に寄せる期待の大きさを窺うに足るものであった。

 式典のあと、別席で来賓一同に茶菓を饗してこの日の行事は終ったが、質実のうちにも誠意の籠った式典であり、四十周年を迎え、一万四千四百人を超える学生を擁する学苑の社会的位置が浮彫にされた催しであった。

三 イギリス流総長からアメリカ流総長へ

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 第二巻に記したように、早稲田大学は大正七年に校規の改正を行ったが、その後大正十二年までに、学位令による改正を含めれば三度の改正が実施された。

 改正の第一は大正九年に行われたもので、本学苑が大学令による大学に昇格したために必要になった改正であった。大正九年二月七日の維持員会において、校規の一部改正が議題となり、議定されているが、同月二十六日校規改正認可願が文部大臣に提出された。しかし認可まで意外に手間どり、五月十四日付で漸く認可された。この時改正された条項は次のとおりである(カッコ内は旧規定)。

第六章 教授、助教授、講師及教授会

第四十一条 教授助教授及講師ハ左ノ五学部ニ分属ス(左ノ七科部ニ分属ス)。

但シ他ノ学部ニ兼属スルコトヲ得(他ノ科部云々)。

一、政治経済学部(大学部政治経済学科及専門部政治経済科)

二、法学部(大学部法学科及専門部法律科)

三、文学部(大学部文学科)

四、商学部(大学部商科)

五、理工学部(大学部理工科)

(六、高等師範部、七、高等予科削除)

第四十二条 各学部ニ学部長一名ヲ置ク(各科部ニ科部長各一名ヲ置ク)。

第五十四条 教授会ノ議事ハ学部長之ヲ整理ス(科長又ハ部長之ヲ整理ス)。

第四十三条、四十四条、四十五条、四十七条、四十八条、五十条、五十一条、五十三条、五十五条、五十七条、六十条ノ各条中科部ノ文字ヲ学部ト改ム。

第八章 評議員及評議員会

第六十七条 第二項

教授会ニ於テ教授中ヨリ選出シタルモノ二十五名(三十五名)。

附則

第二条、第三条、第四条削除、第五条ヲ第二条トシ、左ノ如ク改ム。

旧校規ニヨリ教授中ヨリ選出シタル現在評議員ハ其任期中引続キ評議員タルモノトス(現在評議員タル者現行校規ニヨリ其資格消滅セザル間ハ引続キ評議員タルモノトス)。 (『早稲田学報』大正九年六月発行 第三〇四号 五頁)

旧規定と相違する主要なところは、従来七科部に分属していた教授・助教授・講師を五学部に再分属させ、校規中に「科部」とあったのを「学部」に改め、評議員のうち「教授会ニ於テ教授中ヨリ選出」する員数を三十五名より二十五名に減じた三点である。前二者は大学令による大学昇格に伴う改正で当然であるが、評議員に関する改正にはやや問題がある。教授の総数には変更がなかったにも拘らず、所属する学部の数が従来の七科部から五学部に変ったばかりに、選出できる評議員の員数が十名減少させられ、教授の権限が縮小した結果になるからである。これは、漸く勃興しようとしていたデモクラティックな気運に逆行する処置のように思われるが、それでも教授会側から強い反対が出なかったのは、教授会選出の評議員の中から互選する維持員数が新旧ともに七名で、変化がないためであろう。

 第二の改正は学位令の改正によるもので、詳しい事情は既述してあるので省略するが、校規のうちに、教授会の権限として「学位に関する件」を加えたものである。

 第三の改正は総長大隈重信の死に起因する改正である。この改正を促した具体的な事情は一三〇―一三一頁に既述したが、維持員会の議題に初めて上ったのは大正十一年六月八日であった。同日の議事録にはこう記されている。

次ニ学長左ノ各項ニ就キ決議ヲ求ム。

〔一―六省略〕

七、校規改正ニ関スル件。

学長、調査委員会ヲ設ケ、委員ニハ維持員、教授団若クハ評議員ヨリ之ヲ選ビ、学長又ハ理事会ヨリ嘱任スルコト、原案ノ起草ハ理事会ニ委任サレタキコトノ主旨ヲ述べシニ、校規ハ大綱ヲ規定スルニ止メ、教授会其他細目ニ亘ルモノハ、附属法ニテ規定シ、不得已場合ノ外校規ハ永ク之ヲ更メザルノ方針ヲ取ルベシトノ議アリ、来ル七月ノ本会ニ於テ委員会ノ組織等ヲ決定スル事トナリ、各項異議ナク可決。

これは、校規改正は既に維持員会の諒承ずみで、ここでは、調査委員会の設置、原案作成の理事会委任、校規は大綱に止め細目は付属法とするという校規改正の方針決定など、具体的な検討が行われたように読み取れるが、この日の出席維持員は渋沢、高田、坪内、三枝、市島、渡辺、金子、上原、山田、増田、昆田、寺尾、宮田、塩沢、浅野の十五名で、校規改正はこの時点では決して既定の方針ではなかったのである。すなわち同年九月十五日の維持員会議事録には左の如く記録されている。

七、校規ノ改正

学長、是迄教授側ヨリ改正ノ希望アリタル事、去ル六月ノ本会ニ於テ、自分ヨリ改正ノコトヲ提出シテ、理事会ニ於テ一応原案ヲ作成ス可シトノ決議アリタル事ヲ述べ、更ニ改正ノ各条項ニ付キ其理由ヲ概説シタルニ、大隈、松山維持員ヨリ、目下改正ノ必要ニ就テハ、慎重ノ考慮ヲ要スベシトノ説アリ、渋沢維持員ヨリ更ニ慎重ニ討議スルヲ可トスト述べ、山田、高田維持員之ヲ賛成シ、来ル二十九日午後二時更ニ本会ヲ開キテ審議スル事トシ、五時半閉会。

すなわち、学長は前回の決定に従い、理事会作成の原案につき改正各条項の説明をし、決定を得ようとしたが、前回欠席の大隈、松山が改正の可否を慎重に考慮すべしという(寧ろ改正反対の)意見を出し、渋沢、山田、高田がこれに賛成したので、継続審議となったのである。六月の維持員会は大隈らの欠席のためすんなり改正を認め、その手続まで論じたのであったが、これを見ると、維持員のうちには必ずしも賛成でない者がいたことが分る。前回出席の渋沢らは勿論改正賛成派だったと見られるが、紛糾を避けるため柔軟戦法に出たのであろう。

 次いで開かれた九月二十九日の維持員会でも協議されたが、漸く原案審議のための小委員会設置が渋沢の提案により承認され、渋沢、坪内、山田、昆田、坂本、松山、早速の七名が委員に嘱任された。原案審議の小委員会が置かれたのは、ともかくこの維持員会で改正が承認されたということであろう。小委員のうち早速の立場は明確でないが、六月の維持員会に出席したメンバーが大半を占めており、原案に好意的な委員会だったと思われる。尤も六月の学長提案では、維持員と教授団または評議員(評議員の約三割は教授会選出)より人選して、校規改正の調査委員会を作ることになっていたが、結局維持員からのみ小委員会が設けられたことは、或いは教授側には不満が残ったかもしれない。

 その後十月六日、十三日および十二年二月二十五日に委員会が開かれて、慎重に原案の審議が行われ、漸く成案を得ることができた。そこで、翌年三月十四日の臨時維持員会に渋沢委員より委員会修正案が提出され、同意を得た。

同日付の維持員会議事録には次の通り記されている。

当財団法人早稲田大学ハ大正十二年三月十四日臨時維持員会ヲ開キ、維持員五分ノ四以上ノ同意ヲ得、財団法人早稲田大学寄附行為ヲ別冊之通改正ス。

右決議候也。

大正十二年三月十四日 財団法人早稲田大学 維持員 大隈信常

〔以下署名㊞略〕

当日の出席者は、維持員二十五名中、大隈会長以下市島、早速、高田、田中、坪内、中島、上原、山田、増田、昆田、寺尾、三枝、坂本、宮田、渋沢、塩沢の十七名(欠席者渡辺、金子、浦辺、松平、松山、浅野、砂川、平沼)であったから、五分の四以上の賛成を得たというのは委任状方式を採ったか、事後承諾ということであったろう(維持員会議事録には全維持員が捺印している)が、当日の審議の模様とともに詳細は不明である。「五分ノ四以上ノ同意ヲ得」というのも、校規第九章第八十条に、「本校規ハ維持員五分ノ四以上ノ同意ニ依リ主務官庁ノ認可ヲ経テ之ヲ改定スルコトヲ得」とあるのに従った記録で、全員改正案に賛成したのか、或いは反対者もあったのか、今日では明らかにし得ない。

 なお本改正で注意すべき一つは、従来「校規」と称したのを、法の規定に従い「寄附行為」と改めたことであり、新「寄附行為」は、三月十七日付で東京府知事を経て文部省に提出され、四月十二日文部大臣の認可を得た。

 この間塩沢学長は三月二十九日評議員例会、三十日校友会幹事会において、改正寄附行為を示して諒解を求めたが、認可が下ると、五月五日に臨時維持員会を開き、新寄附行為の即日実施を定めた。これに伴い従来学長と称した本学代表者は同日以後、総長と称することとなり、塩沢学長が自動的に総長となったが、これは新陣容が決定するまでの一時的措置であった。

 新寄附行為は十章と付則とで三十五ヵ条より成り、次にその全文を掲げる。条文上の印は、それぞれ旧校規(全八十条、付則二条)の条文と比較し、変化のないもの(○印)、内容は変らないが字句に訂正があるもの(△印)、内容が変えられたもの(×印)を示す。×印の条文には、旧校規に対応条文が存在する場合、それを下段に記す。

(新寄附行為)

財団法人 早稲田大学寄附行為

目次

第一章 総則

第二章 資産

第三章 名誉総長

第四章 維持員及維持員会

第五章 理事

第六章 監事

第七章 評議員及評議員会

第八章 大学院、学部、附属学校及図書館

第九章 計算

第十章 寄附行為ノ改定

附則

第一章 総則

(旧校規該当条文)

財団法人 早稲田大学校規

目次

第一章 総則

第二章 資産

第三章 維持員及維持員会

第四章 総長、理事、監事

第五章 計算

第六章 教授、助教授、講師及教授会

第七章 図書館長及附属学校長

第八章 評議員及評議員会

第九章 寄附行為ノ改定

附則

○ 第一条 本財団法人ハ早稲田大学ト称ス。

× 第二条 本大学ハ品性ノ陶冶、学術ノ教授、研究及普及ヲ目的トス。

△ 第三条 本大学ハ事務所ヲ東京府豊多摩郡戸塚町大字下戸塚六百四十七番地ニ設置ス。

第二章 資産

○ 第四条 本大学ノ資産ハ別冊財産目録ニ掲載ス。

○ 第五条 本大学資産ノ管理、使用及処分ハ維持員会ノ決議ニ依リ理事之ヲ行フ。

第三章 名誉総長

× 第六条 本大学ハ設立者侯爵大隈重信ノ家督相続人ヲ名誉総長ニ推薦ス。

第四章 維持員及維持員会

○ 第七条 本大学ニ維持員二十五名ヲ置ク。

× 第八条 維持員ハ左ノ二種トス。

一、維持員会ニ於テ功労者中ヨリ推挙シタル者 十一名

二、評議員会ニ於テ評議員中ヨリ選出シタル者 十四名

△ 第九条 維持員会ハ維持員ヲ以テ組織シ本大学ニ関スル重要事項ヲ議定ス。

× 第十条 維持員ノ任期ハ三年トス。

△ 第十一条 維持員ノ資格ハ左記ノ事由ニ依リテ消滅ス。

第一条

第二条 本大学ハ各種専門学術ノ教授及研究ヲ目的トス。

第三条

第四条

第五条

〔旧校規になし〕

第七条

第八条 維持員ヲ分チテ終身維持員及有期維持員トス。

第十六条

第十一条 有期維持員ノ任期ハ三箇年トス。

第十二条 〔五項目より成る〕

一、任期満了

二、辞任

三、禁治産、準禁治産、破産

四、死亡

五、除名

六、第八条第二号ニ依ル維持員ガ其ノ任期満了シ引続キ推挙又ハ再選セラレザルトキ。

△ 第十二条 維持員ノ除名ハ他ノ維持員五分ノ四以上ノ同意アルコトヲ要ス。

× 第十三条 維持員ニ欠員ヲ生ジタルトキハ第八条ノ種別ニ従ヒ其補欠選任ヲ行フ此場合ニ於テ新任者ノ任期ハ前任者ノ残任期間トス。

前項補欠員任期ノ規定ハ本校規ニ於ケル他ノ補欠選任ノ場合ニ之ヲ準用ス。

第五章 理事

× 第十四条 本大学ニ理事七名以内ヲ置キ維持員会ニ於テ之ヲ互選ス。

○ 第十五条 理事ハ維持員会ノ決議ニ基キ一切ノ経営ニ任ズ。

× 第十六条 理事ノ互選ヲ以テ総長一名ヲ置キ本大学ノ代表者トス。

第十三条

第十四条 維持員ノ補欠ハ第九条及第十条ニ依リ之ヲ行フ。

第十五条 有期維持員補欠ノ場合ニ於ケル後任者ノ任期ハ前任者ノ任期ニ依ル。

第二十七条 理事ハ五名以内トシ、維持員ノ互選ヲ以テ之ヲ定ム。

第二十八条

第二十六条 総長ハ維持員会之ヲ推薦シ、本大学ノ最高統率者トス。

第二十九条 維持員会ノ決議ヲ以テ理事中一名ヲ学長トシ、本大学ノ代表者トス。

× 第十七条 理事ノ任期ハ三年トス。

但維持員ノ資格消滅シ引続キ推挙又ハ再選セラレザルトキハ理事ノ資格モ亦消滅ス。

第六章 監事

△ 第十八条 本大学ニ監事二名以内ヲ置キ維持員会ニ於テ之ヲ互選ス。

× 第十九条 第十七条ノ規定ハ監事ニ之ヲ準用ス。

第七章 評議員及評議員会

○ 第二十条 本大学ニ評議員ヲ置ク。

× 第二十一条 評議員ハ評議員会ノ規定ニ依リ推挙又ハ選出セラレタル者ニ対シ本大学之ヲ嘱託ス。

○ 第二十二条 評議員会ハ評議員ヲ以テ組織ス。

× 第二十三条 評議員会ハ学事並ニ会計報告ノ承認及諮問事項其他ニ付決議ヲ為ス。

第三十三条 理事及監事ノ在職期限ハ三箇年トス。

但有期維持員中ヨリ選挙セラレタル理事及監事ハ、在職期限内ト雖モ維持員ノ資格消滅ト共ニ退職スルモノトス。

第三十一条 〔監事を会計監督と称した〕

第三十三条 〔前掲〕

第六十六条

第六十七条 評議員ハ左ノ四種トシ、学長之ヲ嘱託ス。

一、総長及維持員会ニ於テ本大学関係者中ヨリ推薦シタル者 三十五名

二、教授会ニ於テ教授中ヨリ選出シタル者 二十五名

三、中央校友会ニ於テ其会員中ヨリ選出シタル者 二十名

四、地方校友会ニ於テ其会員中ヨリ選出シタル者 若干名

第六十九条

第七十六条 学長ハ毎年ノ学事及会計状況ヲ評議員会ニ報告シテ其承認ヲ求ムルコトヲ要ス。

第七十七条 評議員会ハ其決議ヲ以テ意見ヲ維持員会ニ提出△ 第二十四条 評議員ノ任期ハ三年トス。

× 第二十五条 第十一条及第十二条ノ規定ハ之ヲ評議員ニ準用ス。

第八章 大学院、学部、附属学校、図書館

× 第二十六条 本大学ニ大学院及左ノ学部ヲ置ク。

一、政治経済学部

二、法学部

三、文学部

四、商学部

五、理工学部

△ 第二十七条 各学部ニ教授会ヲ置キ其学部ノ教授ヲ以テ之ヲ組織ス。

× 第二十八条 教授会ハ教務教則ニ関スル事項ヲ審議ス。

△ 第二十九条 本大学ニ附属学校及図書館ヲ置ク。

× 第三十条 第二十七条及第二十八条ノ規定ハ之ヲ附属学校ニ準用スルコトヲ得。

第九章計算

○ 第三十一条 本大学ノ予算及決算ハ維持員会ノ決議ヲ以スルコトヲ得。

第六十八条

第七十九条 〔構成相異により略す〕

〔旧校規になし〕

第四十七条、第四十八条

第四十九条教授会ハ左記ノ事項ヲ決議ス。

一、教授及研究ニ関スル件

二、学生ノ指導訓練ニ関スル件

三、学位ニ関スル件

四、其他学長又ハ維持員会ヨリ諮問セラレタル件

第六十二条

〔旧校規になし〕

第三十六条

テ之ヲ定ム。

○ 第三十二条 本大学ノ会計ハ維持員会ノ決議ヲ以テ定メタル会計規定ニ依リ之ヲ処理ス。

第十章 寄附行為ノ改定

○ 第三十三条 本寄附行為ハ維持員五分ノ四以上ノ同意ニ依リ主務官庁ノ認可ヲ経テ之ヲ改定スルコトヲ得。

附則

× 第三十四条 旧寄附行為第十条第二号ニ依ル維持員ハ本寄附行為第八条第一号ニ依ル維持員、旧寄附行為第十条第一号ニ依ル維持員ハ本寄附行為第八条第二号ニ依ル維持員トシテ各其残任期間引続キ在任スルモノトス。

旧寄附行為第九条ニ依ル維持員ハ前項前段ノ維持員ト看做ス。

旧寄附行為ニ依ル学長理事監事及評議員ハ本寄附行為ニ依ル総長理事監事及評議員トシテ各其残任期間引続キ在任スルモノトス。

本寄附行為ノ実施ニ際シ前各項ニ依ラズシテ新ニ選任セラレタルモノノ任期ハ前各項ニ依リ在任スルモノノ任期ニ従フ。

× 第三十五条 本寄附行為ハ大正十二年五月五日ヨリ之ヲ施行ス。

第三十七条

第八十条

〔旧校規になし〕

〔旧校規になし〕

旧校規から削られたのは、(一)解散に関する規定、(二)終身・有期維持員に関する細則、(三)維持員会に関する細則、(四)学長に関する規定、(五)理事、監事の資格消滅に関する規定、(六)教授、助教授、講師に関する規定および教授会に関する細則、(七)図書館、付属学校に関する細則、(八)評議員会に関する細則の八項目である。これらのうち諸細則は別に規定されることになっており、特に教授等教員に関する規定および各細則は、それぞれ個別の規則として整備されることが十一年六月八日の維持員会で決まっていたし、実際に検討もされていたから、大きな変化として注目すべきは、(一)と(四)の二点である。そして両者とも大隈家と深い関係があるのはなかなか興味深いが、この点については次頁以下に述べる。

 次に、改定され、或いは新たに加わった条文を整理すると、(a)本大学の目的に品性の陶冶と学術の普及を加えたこと、(b)名誉総長制度を置いたこと、(c)総長・学長制を廃し、総長制度を置いたこと、(d)評議員会の権限を拡大したことおよび評議員の資格消滅の規定を加えたこと、(e)付属学校に教授会を認めたこと、の五項目になる。

 (a)は、この頃大学教育の目的がいろいろ論じられたときに、学生の品性を向上させ、国家有為の人材を生み出す必要が叫ばれていた、そのような社会風潮の現れと見ることができる。また、品性の陶冶、学術の教育と研究、およびその普及を目的として掲げたのは、大正二年十月十七日の創立三十年記念式において大隈総長の宣言した「建学の教旨」(第二巻第五編第三章参照)の趣旨に一層副うものであると言えよう。(d)は「諮問事項其他」という限定があるが、ともかく評議員会に決議権が与えられた点、従来「決議ヲ以テ意見ヲ維持員会ニ提出スルコトヲ得」とされたに止まったのに比し、やや評議員会の権限が強まり、それに関連して評議員の資格についても明確な規定が作られたのであるが、評議員会には教授会で選出された者が相当多数加わっていることを考えてみると、この新規定によって、従来より幾らかでも一般教員の学苑運営に関する発言力が増加したと思われるのであり、当時のいわゆる民本主義的風潮の影響がなかったとは言えないであろう。(e)は、大学令によって新たに設置された高等学院その他付属学校の教授会の権限を認めたもので、それぞれに教務関係の自治を一応認めたものとして評価できる。

 しかしこの改定で最も重要なのは(b)と(c)で、これは前記の旧規定から削除された(一)と(四)の二点とともに、検討しなければならない。それではこれらの四点を通じて、どのようなことが示されているであろうか。これを纏めると、(イ)従来の総長・学長制を廃して総長制とすること、(ロ)名誉総長を置くこと、(ハ)大学解散の場合、設立者(大隈重信―旧校規付則第一条)の寄附に係わる土地は設立者の家督相続人に帰属するという規定(旧校規第六条)を削除したこととなる。(イ)については、のちに高田早苗が総長「就任の辞」で、次のように述べている。

何が故に学長を改めて総長としたかと言ひますれば、簡単に之を言現はすと、学長は単科大学の代表者・支配者である、総長は綜合大学の代表者・支配者である。早稲田大学は今や綜合大学になつて居るから、故に名を改めた、斯う簡単に言へば事が済むやうにも思はれるのであるが、私の考へでは必ずしもさうでないと思ふ。早稲田大学は政府が官私平等の主義を採つた以後始めて綜合大学になつたのではない。早稲田大学は三十年祝典を挙ぐるまでに理工科を造り、大学に無かる可らざる総ての学科を備へたと天下に宣告した其当時から、早稲田大学なるものは綜合大学である。故に其当時に於ても早稲田大学は総長と学長と云ふものがありまして、今や隔世の人となられた故大隈侯が総長であられ、其下に学長と云ふものがあつて、事実此学園を統率して居たと云ふ訳であります。それだから何も此度若くは近き過去に政府が制度を改めた結果、早稲田大学が綜合大学になつたのではありませぬから、前の説明だけでは聊か物足らぬやうに思ふ。

早稲田大学の校規なるものは元来私自からが起草したものである。爾来幾多の改正は加へられましたが、其始めの校規、始めての校規の草案は斯く申す私が作りましたから、其精神には聊か通じて居る積りである。即ち当時総長を置き学長を置いたのは是は模範を英国の大学に取りました。英国の大学はオツクスフオード、ケンブリツヂを始として大概チヤンセロル及びバイスチヤンセロルを置き、チヤンセロル即ち総長は、事実に於て学校を支配しませぬので、バイスチヤンセロル即ち副総長なるものが支配すると云ふことになつて居る、其英国流の制度を模範とした。其意味で故大隈侯爵は長く此学園の総長であられた。

所が御承知の如くに昨年隔世の人となられ、偖どうしたら宜からう、当り前ならばそれと同じ意味の総長を続いて置くのが当然でありますけれども、前の偉人の跡を総長として襲つて而して此所を統率すべき丈けの人は、是は容易に見当る訳のものではない。多士済々の此学園ではありまするけれども、直に故総長の跡を襲うと云ふことは容易な人には出来ぬ。下手にさう云ふものを造ると云ふと所謂沐猴にして冠すると云ふことになる、猿が冠を被つたと云ふ謗を受けてはならぬ。蓋し夫れや是れやを考へて此場合は制度を改正し、総長・学長の二重制度を廃して、さうして綜合大学に相当はしき名の総長、即ち事実の支配者と云ふものを一人置かうと云ふのが、今度の改正の要旨である。是は畢竟するに亜米利加制度で、エール、ハーバードを始めとして亜米利加の大学は大概さうなつて居るのである。詰り英吉利流を変じて亜米利加流に変へたと云ふことに過ぎない。

(『早稲田学報』大正十二年六月発行 第三四〇号 一三頁)

つまり従来の制度はイギリスに範を採ったが、総長亡きあと、偉人の跡を襲い、よく大学を統率し得る新総長は容易に得られるものではないから、今度はアメリカに範を採り、事実の支配者を一人置こうと考え、総合大学にふさわしい名の総長制にしたというのである。一応納得できるような説明であるが、事実の支配者としての総長にしても、学識経験共に豊かで品性高潔な人物が望まれるから、後者の意味の総長が勤まる人物に、前者の意味の総長が勤まらぬとは納得し難い。たとえば高田総長、塩沢学長というような組合せも十分考えられるのではないか。

 ここで思い合せられるのは、(ロ)の名誉総長制を布き、大隈信常を名誉総長に推薦したことである。名誉総長は総長になれないことを考えると、これは大隈を総長に選出させないための布石とも見えるのである。すなわち、新総長制度は、大隈(或いは大隈家)の世襲的な学苑支配を避ける意味があったように見えて来る。勿論大隈信常自身にそのような野心はなかったろう。名誉総長に推薦された大正十二年五月十一日の維持員会で、大隈が「推薦ヲ感謝シ、地下ノ侯爵モ定メテ喜バルルコトナルベク、将来本大学ノ為ニ微力ヲ効ス覚悟ナレバ、各位ノ同情ト援助トヲ乞フ」と発言しているのは、その現れである。しかし彼個人にその意思はなくとも、何らかの力が働いて、彼を擁立するような運動が生じないとは言えない。維持員会で校規改正に慎重論が出たことや、改正案議定の維持員会に、慎重論を主張した松山忠二郎が、小委員の一人でありながら(恐らく改定案に不満が残ったのであろう)欠席したことなどは、既にその小さな兆しだったようにも見られる。しかしもし将来そのようなことが現れれば、それは学苑に無用の風波を起し、平和を乱すことになろう。旧校規の改正の底には、このような禍根を未然に防ごうとする意思が働いていたように思われるのである。

 (ハ)については、大正十二年までに大学の所有した土地は、郊外に持っていた利殖目当ての土地および軽井沢の土地を除けば三三、一八四坪九合四勺で、そのうち大隈家寄附に係わるものが二四、〇七〇坪五合五勺(七四・四パーセント)を占めていた(市島謙吉「思い出すままに」『早稲田学報』昭和二年五月発行 第三八七号 二〇頁)。尤もこのうち、大隈会館敷地については、大正十一年七月十七日の維持員会において、山田英太郎から「校規第六条ノ法人解散ノ場合ニ今回御寄附ノ土地及物件モ右ノ条項ニ含有セラルベキヤ」と質問があったのに対し、塩沢学長は原嘉道弁護士に意見と鑑定書を求めたところ「今回ノ分ハ其内ニ含マレズ」と弁護士が明言したと答えたから、(ハ)に関係があるのは、明治四十一年に寄附された土地約七、〇〇〇坪(全体の約二一パーセント)だけである。それにしても旧校規第六条の削除は、大隈家にとっては愉快なことではなかったろうと思われる。実質的には、財団法人の解散は殆ど考えられないから、問題はなかろうが、設立者の後継者として、設立者の所有した権利を(形式的なものにしても)失うのは、後継者という立場が金く有名無実化することを意味するのである。従って大隈家側に不満が全くなかったとは思われないが、後述の如く、旧邸の寄附に莫大な謝礼を贈ることにより、学苑は第六条削除をなし得たのであろう。そしてこの削除は、前記の改正と並んで、明らかに学苑が大隈家から離れようとする一連の動きであったと見られるのである。

 明治以来大正に至るまで庶民は我が学苑を「大隈さんの学校」と呼んでいた。設立者大隈重信と早稲田学苑とは、世間一般の耳目にさえ、表裏一体、密接不離なものとして映っていたからである。学苑は一旦創設されるや、独立した「有機体」として、独自の歩みを続けて発展して来たのであるが、他面世間の常識に映ったように大隈の庇護を常に蒙り、その影響を強く受けて来たことは否めない。大隈自身は、学苑の経営や人事などについて干渉がましいことは一切言わなかったが、創立四十年を越えた学苑は、成人した男子のように独立独歩の働きを望み、またそれができるようになっていた。総長大隈の死を契機として行われた新寄附行為の制定は、従来ややもすれば頼り勝ちなところのあった大隈家の庇護を断って、早稲田大学が真に独立した組織として発展するための第一歩として、大きな意味を持ったのであった。

四 高田総長の就任

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 新しい寄附行為が四月十二日付で認可されたのを承けて、五月十一日の定時維持員会は、先ず名誉総長と新理事一名の決定を行った。寄附行為第六条の定めるところに従い、名誉総長には大隈信常が推薦され、また第十四条で理事七名以内を置くことができるようになったので、取敢えず一名を増員し、現任者五名と合せて六名とすることが可決された。このとき塩沢総長は一名増員の理由を、高田維持員を理事に加えるのは当然であると説明した。そういう経緯であったから、一名の増員が決まると、直ちに高田を理事に推薦することが可決されたのである。ところがここまでは平穏裏に進行してきた維持員会は、次いで塩沢新総長が辞任を申し出ると、忽ち紛糾し、殆ど先例を見ないほどの論戦が繰り広げられた。出席者の一人市島は『小精廬雑載』四にその経緯について、左の如く記録している。

大隈侯を名誉総長に推薦するの件は異議なく決したるが、高田を総長に推すの一段に到り、山田(英太郎)より異論起りたり。其の要旨は塩沢の任期尚一年有余を剰すの今日、他人の代はるは内外に対し誤解を生じ易し。其の誤解は高田の晩節を傷ける虞あり。宜しく他日然るべき時を見て、更任するを可とすと云ふに在り。……余は出来得べくんば口を噤し度高田との間柄なれども、満座山田の説を非としながら、誰れも黙し居るが故に、余は今日高田の起つの止むを得ざる所以を専ら学校の財政の行詰り居る事実に依つて説き、これを料理することは実に難事なり、此の難局に高田を当らしむるは、私情としては忍びざれども、学校の前途のためには私情を棄てて、高田の起つを已むを得ずと為す。財政の難局は日を曠ふすれば益々困難を益し、山田の云ふごとく他日高田に起たしめんとするも高田は拒むことあらん。亦塩沢の辞せんと云ふを強て留むるは、此難局に当れよと云ふに同じ。若し塩沢此の局面を切りぬき得ずとあつても、維持員会は他日塩沢を責むること能はざるべしと云ふが、大略余の主張にて、余の露払にて、坪内、昆田、増田、宮田等交々弁ずる所あり。山田は例のごとく、彼是執拗に自説を固持し〔たれども、〕山田の説も高田を総長とするを不可となすにあらず、注意的警告を為すに過ぎざれば、此場合枉げて賛成すべしと口々に論じ、山田も結局自分の主張を会議録に明記すれば御多分に漏れずと漸やく折れ、爰に全会一致を以て高田は総長となる事に決したり。

 このようにして理事会の互選により高田が総長に当選し、維持員会に報告された。高田はこのとき、当選した以上は自ら奮って局に当ると決意を述べた。こうして高田総長が出現したのである。高田総長出現の意味について、高田は自ら「就任の辞」の中で次のように説明している。

校規に於て今申上げたやうな意味で総長が出来て、遂に此所に居られる塩沢前学長の懇ろなる推薦に依りまして、維持員会が之を容れて、私に総長になれと云ふことで、御受をした。一体なれば塩沢学長が総長として続いて此学園を支配されるのが当然のことである。けれども謙譲の美徳に依つて此場合先輩たる吾輩に此職を執つて貰ひたい、自分は理事として補助する、其懇ろなる勧めに依りまして私が老軀を引提げて此地位に立つと云ふことになつた訳であります。考へて見ると是程時代錯誤はない、……竊に自から其意味を理解するに苦んで居たのでありまするが、遂に私自身だけは其意味を発見した積りである。どう云ふ意味合か、無論時代は古きより新しきに進みつつある。此場合に古きを纏めて新しきに渡すには古い中の最も古い古参者たる吾輩が宜からう、斯う云ふ意味であらうと思ふ。さう理解して私は早稲田の四十年の過去、此過去を引提げて之を取纏めて新しき時代新しき人物に引渡すのを以て私の使命とする心得である。

(『早稲田学報』大正十二年六月発行 第三四〇号 一三―一四頁)

 しかし早稲田大学四十年の過去を、新しき時代、新しき人物に引き渡させるためだけに、高田が総長に選ばれたのではない。校規(寄附行為)の改定から高田総長の出現に至る大正十一―十二年は、早稲田大学にとり、一種の危機と言ってもよい非常に重要な転換期に当っていた。大正九年大学令による大学に昇格したあとの、学制の整備、高等学院等の創立、図書館等研究施設の建設に加え、創立者大隈重信の死、大隈記念事業の発足、その資金募集の困難が続き、更に関東大震災による大被害も受けた。その上大学を取り巻く社会状勢は、第一次世界大戦後勃興したデモクラシー思想、社会主義思想と、それらに対する反動的思想との対立激化の影響が当然学苑にも及び、軍事研究団事件、虎の門事件等が続発した。このような事態への対応を否応なく迫られていた学苑が、この困難な状況を切り抜けるために老練な高田の手腕に期待したことが、総長推戴の第一の理由だったのである。しかし同時に、大隈総長亡きあとは、大隈家家督相続者が襲うのが当然ではないかとの世襲的な考え方をはねのけて、大学の自治独立を維持するためにも、やはり創立以来の実力者の登場が、この際必要だったと思われる。高田は「早稲田騒動」後、一旦学苑の一切の役職から去ったが、大正七年終身維持員に、また翌年名誉学長に推薦されて、学苑の中枢部からやや離れた地位から学苑の発展を見守っていたが、十一年に大隈記念事業資金募集委員長に就任したのに続き、今や総長の重責を担って、陣頭指揮に乗り出したのである。

 しかし、新総長の前途には容易に楽観を許さないものがあった。再度市島の手記を引用しよう。

さて高田総長就任となつて、新総長は果して一般の期待に副ふの新施設をなし得べき歟、実は甚だ難局なり。学校に最も大切なるは内容の充実なり。新総長に待つ所之れより大且急なるはなし。若し大隈侯の薨去なく、随つてその邸第を学校に申受くることもなく、又紀念館設置の事もなければ、学校の内容改善も新総長に於て左まで難しとせざるべきが、老侯の薨去と共に旧邸申受並に紀念館建築に二百万円の資を要する事となり、それが今尚半途に在り、ながなかに内容充実に手の廻はるべくもあらず。紀念事業の募金は応募百七十万円に上りたれど、実収二百万円を得んとするには二百六、七十万円を得ざる可らず。而して漸やく行つまらんとしつつあり。何故に二百万円の外に六、七十万円を要するやと云ふに、今回の募集費は一ヶ年約十五万円の経費を要し、大隈家へ出すべき百万円に対する利子もなかなかに少からず、尚寄附金の収入とならざるもの約二割とすれば、四十万円は控除せざる可らず。此等を合算すれば既に六十万円に上る。尚募集期延長すればするほど経費は嵩むべし。或は大隈邸内の不用の土地を売却して仮りに四十万円位を得べしとすれば、これより先き募集に悩みたる場合の補充となるべきが、それにて果して正味二百万円の手取となるべき歟、甚だ関心の事なり。尚ほ他方を見れば、文部省へ供托すべき金は今後二年に渉り年々十五万円を支出せざる可らず。而して図書館の建築は今より数年前着手すべかりしもの今尚着手に至らず、之れに要する経費は約六十万円、仮りに二期に分ち、一期分のみ手を下すとするも三十万円を要す。此等に対し学校は所有の土地を売却するにしても此頃売却了りたる落合の土地に対する十七万円の外に二個所の土地あれども、双方売却せしとて十万円を得るは難からん。兎もすれば図書館の建築にも取掛りがたき内情なり。扨て図書館の経営はあとに回はすこと止むを得ざるに似たれども、学校教授の新総長に期待するものは主として建造の後れたる図書館を早く作るべしと云ふにありて、大隈侯紀念館のごときは不急のものと唱へつつあり。今更紀念会館をあとに回はすことも叶はず、又図書館の経営を更らに遷引せば、学校の内部は或は沸騰し、新総長の鼎の軽重を問ふに至らん。内容充実を常に口にする新総長其の登任の時に図書館の経営を尚延ばす如きは、如何なる口実を以てするも不可能たるべし。尚ほ各学科の教授は惰気満々として、文科のごときは銘々勝手を言ふて学校を去らんとし、風紀の弛廃は幾んど言ふに忍びざるものあり。これも煎ずる所俸給の菲薄なるによる。その待遇の改善も教授連が総長に期待する所なれども、これ将たなかなかに困難の事に属し、僅かに一割増額しても数万円に達することなれば到底教授連を満足せしむるなどは現下の財政状態に於て不可能と謂はざる可らず。由来私設の大学は募金を以て成立するものとは云へ紀念事業の資すら募り了らざるに重ねて募金の計画をなし得べきにあらず。今の募金完了したる上は少なくとも二、三年は間隔なかる可らず。而るに学校内部の経費は嵩むばかりにて、経常歳計を料理するすら前途甚困難なり。新たに入りて総長たるもの亦難哉。高田は学校創立以来の功労者なれども、一旦退て以来学校内部、特に教授方面に多くの変遷あり。今は極めて御し難きものと変化せり。彼等は旧功労者を眼中に置かざるなり。高田の能力旧の如しとするも今は之れに処する旧日の如く容易ならず。一歩失すれば惨憺たる末路を現ぜんも知る可らず。高田自身は旧功ある故を以て闔校之れを待つこと大早の雲霓啻ならざるごとく思惟するらしきも、実情は決して然らず。往々老輩の再現を時代錯誤と公言するものもあり。若し登任後の施措一般の期待に背くこともあらば長く其地位を持続すること難からん。……此等に想ひ到れば、校規改定後の局面の多難にして新総長の地位の危殆を感ぜざる能はず。 (『小精廬雑載』四)

 文部大臣による高田新総長の認可は六月七日であったが、これより先同月二日に校庭において、維持員・評議員・教職員・学生・校友出席の下に盛大な総長就任式が挙行された。高田は就任の辞で、前に引用した如く、先ず総長制を布いた理由、その総長に選任された意味を述べ、続いて現在は有形的にも無形的にも内容充実・整頓の時代であり、それが自分の仕事であると、次のように抱負を述べた。

今や此学園は内容充実・内容整頓の時代である。……内容整頓・内容充実といつた所でいろいろな事があります。無形的の事もあれば有形的の事もある。どちらも容易なことではないが、併し此場合有形的のことをやり遂げると云ふことは是は又実に困難なことである。けれども是れとした所で少しも手を着けぬ訳にはいかぬ。記念事業、大講堂の建築、記念講堂の建築と云ふことは我々と諸君と一致合体して今日迄骨折り来つたので其実現は遠くない。是又有形的の内容充実の最も大なるものの一つであるが、夫ればかりではない。……大講堂が先きに出来ても此研究を生命とする場所に於て研究の機関、図書館と云ふものが此体裁では到底我慢が出来ぬ訳であるから、如何に困難をしても是は先づ着手しなければ相成らぬと決心をして居る。其他数へ上げたならば有形の事多々ありませうけれども、仲々さう出来る訳のものではない。併し計画は立てて置かなければならぬ。計画を立てて将来是れ丈けのものは必要だと云ふ其計画は確に立てて置いて世の篤志者同情者を待つ、其人現はれれば何時でも其事柄が挙がると云ふ丈けにして置かなければならぬと考へて居る。是は先づ有形的の方面の話であるが、無形の方面にも為すべき事は多々あるので、実に一にして足らないのである。兎に角此場合は私の仕事としては内容充実・内容整頓之を以て自分の仕事としなければならぬ。

次に、高田が総長に推薦された翌十二日に起った軍事研究団事件(本編第十二章参照)に関連して、次のような持論を展開し、学生に自重を求めた。

大学は研究を以て生命として其研究は自由でなければならぬ。誠に其通りである。けれども大学其者は研究の場所のみではない。少なくとも今日の日本の大学は単に研究の場所のみではない。研究の場所であり、同時に学問の場所であり、同時に教育の場所である。……諸君は皆専門に志す。無論諸君の専門の範囲は何事にも在学中に通じなければならぬ。専門の事のみではない。例へば今日の思想問題、古きことも知らなければならぬ。新しきことも知らなければならぬ。凡そ世の中に盲目程危険なものはない。盲目程危ないものはないのであるから何事も知らなければならぬ。けれども古いこと、新しいこと、斯う竝べて見る。古いことは陳腐か知らんが皆実験を経て居る。新しいことは、趣味が深いか知らんが、実験をしてないものが多い。故に往々新しきものに危険性があると言つて老人達が心配する。さう考へると何事も教へなければならぬ。知らしめなければならぬが、知らしめるに順序がある。諸君も又学ぶに順序がある。先づ古きことより学んでさうして新しきことに及ばないとならぬ。此順序を極めて尊重しないと其間に間違ひが起ると云ふことになる。此学ぶに順序があると云ふことは無論此所に御出でになる教授講師の諸君は十分に御諒解になつて居るが、尚ほ御注意を願ひ、又学生諸君も自から学ぶ上に於て大いに注意されんことを希望する。もう一つ諸君に御話して置かなければならぬ。学園は教育の場所であり学問の場所であり研究の場所であるが実行の場所ではない。是れだけはよく諸君は記憶して置かれたい。……習つて居る間学んで居る間はまだ未熟である。未熟であるからそこで学んで居るのである。此未熟の者が外へ出て実行に関係するは危険是れより大なることはない。又其本分に背くの甚しいものである。今日思想問題、いろいろの問題、其研究は順序を得れば宜しいが、苟くも学園に居る内に事が実行に亘ると云ふことは、其本分に背く行為であるのみならず、自から守る上に於て頗る危険千万なことであるから、学校も大いに戒しめなければならぬが、諸君も相互に戒しめて、さう云ふことのないやうに固く心掛けて貰はなければならぬと云ふことを諸君に一言して置く。

そして最後に、学苑の団結を求めて、次のように就任の辞をしめくくった。

最後に諸君に切に望むことは学園一致団結の必要である。……一箇の偉大なる人が統率して居た其重しがなくなつた学園であるから是からは銘々が自ら夢の間も一致団結と云ふことは忘れてはならぬ。私は、六十有四と云ふ年で、老軀を引提げて此学園の重責に当る。此重責に当るの力草は何であるか、何の力に依つて此重責を果さんとするか。外ではない、教職員・校友・学生の一致団結の精神、此一致団結の後援に依つて、援助に依つて、此職責を全うするより外に道はない、呉々も此場合に於て御列席の教授・講師・職員、又校友諸君・学生諸君に御願をするのは、どうか此一致団結の精神を益々盛んにして私に援助を賜はつて而して大過なきやうに、此職責を完うさする様返す返すも懇願を致す次第であります。

(『早稲田学報』第三四〇号 一四―一七頁)

 次いで前総長塩沢は、父母にも比すべき大隈前総長・同夫人を失った学苑に、恩師高田を新総長に迎えるのを歓び、新総長の下で内容充実とともに諸施設の発展を期待すると述べ、また在任中の援助を謝して、離任の辞とした。

 こうして高田総長は、塩沢昌貞田中穂積平沼淑郎金子馬治山本忠興・松平頼寿を理事とする新組織の、特に常務理事―五月十二日、臨時理事会において新設―田中の補佐を受けて、学苑の内容充実という抱負を実現するために、老齢を提げて、困難の予想される前途に向い、力強く歩み出したのである。

五 研究室・教授会・学会

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 大正九年七月学位令の改正により、本大学も博士の学位を授与できるようになった(四五―四七頁参照)。これに関して高田早苗は左の如き発言を大正九年七月八日の維持員会で行っている。

今回政府ガ発布セル学位令ニ関シ、本大学当局ニ向テ注意スル所アリ、要スルニ本令ノ実施ニ依リテ、大ニ本大学ノ信用ヲ世間ニ問フ事トナルガ故ニ、最モ学位ノ濫授ヲ防ガザル可ラズ、右ニ付テハ其詮考機関ヲ設定スル事ニ於テ、深ク注意ヲ払ハザル可ラズ、深思熟考其規程ヲ本会ニ提出セラレンコトヲ求ム。

 東京専門学校=早稲田大学は、創立以来当時の制度や学校財政などに縛られ、在学年限、教育配置、研究施設等の点で帝国大学に比し不利は免れず、教員の努力と学科目編成の工夫その他で精一杯運営はしてきたが、「大学」とはいえ、学術の蘊奥を究めるというよりは、実学を主とする方針を採らざるを得ないところがあった。しかし既述の如く、大隈はじめ小野梓、高田らは最初から本学苑の帝国大学と並ぶ大学への昇格を念願としていたから、大正九年の大学令下の大学への昇格、学位令の改正は理想への一歩前進であったが、他面内容の充実・発展の必要は、却って切実な問題となったのである。大正初年恩賜金を得て建設された恩賜記念館およびその後計画・実施された大正天皇即位御大典記念事業による図書館の建設、その他理工学部実験室の建設・整備等はその一つの現れであった。

 恩賜館の建設、新図書館の整備等については別項に譲り、ここではその使用規程などを中心に記すことにする。学苑当局者が、日本の学術研究がややもすれば欧米に及ばない原因の第一に研究施設の不備を挙げ、乏しいやり繰り財政の中で何とか施設充実に努め、東京帝国大学すら持っていなかった研究室の設置を実現させた炯眼と努力とは、特筆大書されるべきである。

 明治四十四年に竣工した恩賜記念館は、総三階で、一階は玄関と階段室と講師室と第一・第二実験室、二階は記念室と暗室と研究室、三階は会議室と研究室とより成っていたが、大正七年延坪一九八坪二合七勺(一階七一坪七合七勺、二階・三階各六三坪二合五勺)の増築があり、総延坪五〇八坪余に達した。二階、三階の主要部分は研究室に充てられて五室の増加を見、更に三階の読書室が二分されて研究室となったが、大正四年六月二十五日の維持員会で、「研究室図書費トシテ、来学年度ヨリ一千五百円ヲ支出スルコト(必〔ズシ〕モ継続ヲ期セズ)」が決議されている。これは研究室運営に関する初見史料である。千五百円と言えば、大正四年の全国年間平均米価が石当り十三円十四銭(東京深川の米価は十三円五十銭)であったから、当時としては相当な額だと言わねばならない。因にこれは同年の我が学苑決算における支出総額二七三、五〇九円三〇銭八厘の〇・五パーセント、図書館費一二、五八一円三五銭の一一・九パーセントに相当している。その使用方法は、同年十一月二十五日の維持員会で、「研究室用図書費一千五百円ハ、之ヲ研究者ニ平分シ、図書ノ購入ハ研究室事務取扱ニ申出デ、事務取扱ハ各科長ニ照合ノ上、図書館主任ニ書目ヲ報告シ、購入ヲナサシムルコト」と定められた。当時恩賜館研究室を何名の教員が使用していたか不明なので、一人当りの図書費を算出することはできないが、必要図書の幾分かは各研究室備付図書として購入整備されたことと思われる。この研究室図書費の規定は、「必〔ズシ〕モ継続ヲ期セズ」とあったが、大正八年の新規程で、研究室図書費規定が廃止され、図書館予算の中に特設されることが定められるまで、継続していたようである。

 次に研究室の運用が如何になされていたかを見るために、「研究室規程」を検討する。最初に同規程が制定された時期およびその内容は明らかでないが、大正三年六月発行の『早稲田学報』(第二三二号)には「研究室使用の改善」という次のような記事が出ている。

従来諸学科研究の為め恩賜紀念館内に設置したる研究室は今回一層其の使用を有効にせん為め、統計及経済学科、法学科、政治及史学科、文学科、哲学科、及び教育学科研究室は各学科教授私有の書庫をも該研究室に移し、毎日午前八時より午後十時に至るまで休日と雖も自由に之を使用する事となれり。尚ほ恩賜館内新に雑誌閲覧室を設け常に各科専門の雑誌を備へ、研究室内に於ての閲覧を便にすることとなり、塩沢教授之れが管理に当らるることとなれり。 (一〇頁)

これは一種の「研究室規程」で、しかも「旧規程」(それは或いは不文律だったかもしれない)を改めたものである。これ以前研究室にどのような図書が配列され、また使用時間の規定は如何になっていたか分らないが、この「改善」によって、漸く研究室の体裁を整えて来たように思われる。前記の「研究室図書費」の設定も、右の規程に副って行われたのであろう。次いで大正八年に至り、十一月八日維持員会は、この規程を改訂して、新しい「研究室規程」を定めた。その内容は次の如くである。

早稲田大学研究室規程

第一条 研究室ハ本大学教授・講師ニシテ専門学術ヲ研究スルモノノ為ニ設ク。

第二条 研究室ハ政治経済学科、法学科、文学科及商科ノ四科ニ分チ其座席ハ各科ニ之ヲ均分ス(理工科研究室ニ関シテハ別ニ之ヲ定ム)。

但研究室ニ空席アル時ハ便宜他ノ学科ニ使用セシムルコトヲ得。

第三条 研究室員タラントスルモノハ毎学年ノ初研究室事務取扱ニ申出ヅベシ。

第四条 研究室員、研究室及座席数ハ学長之ヲ定ム。

第五条 研究室員ハ毎学年学長之ヲ定ム。

第六条 研究室ハ毎日午前八時之ヲ開キ午後九時之ヲ閉ヅ。

但冬・夏季休業中ハ別ニ之ヲ定ム。

第七条 研究室ハ教務理事ノ一名之ヲ監督ス。

第八条 研究室ニ図書委員四名ヲ置キ、図書館予算中ニ特設セル研究室図書購入ニ関スル事務ヲ取扱ハシム。図書委員ハ各科研究室員中ヨリ一名宛之ヲ選挙ス。

附則

第一条 研究室図書費規定ハ之ヲ廃止シ該図書費ハ図書館予算中ニ之ヲ特設ス。

第二条 研究室員ニシテ図書ヲ購入セントスルトキハ其書名価格等ヲ明記シ図書委員ニ申シ出ヅベシ。

この規程に基づいて左の研究室員が定められた。研究室の使用が認められているのが必ずしも専任教員と看做される人々のみに限られていないことは、注目せられるべきであろう。

研究室員

(第一号室) 本多浅治郎 中村万吉 寺尾元彦 遊佐慶夫 清水孝蔵

(第二号室) 帆足理一郎 矢口達 山岸光宣 山本勇造 島村民蔵

(第三号室) 高橋清吾 清水泰次

(第四号室) 煙山専太郎 原随園

(第五号室) 武田豊四郎 中島半次郎

(第六号室) 北沢新次郎 樋口清策

(第七号室) 横山有策 吉田源次郎日高只一

(第八号室) 関与三郎 片上伸

(第九号室) 山口剛 勝俣銓吉郎 中村進午 小林行昌 安藤忠義 西村真次 小田内通敏 木村久一

(『早稲田叢誌』大正九年七月発行 第三輯 一八七―一八八頁)

 この規程で、毎年学長が希望者中より研究室員を定めることになっているのは、多数の教員に対し、研究室数および座席数が恐らく不足していたからであろう。つまり大正七年の研究室建増しを以てしても、なお十分とは言えなかったのであろう。他大学の多くが研究室を持たなかったのに比すれば、これでも上等であるにはちがいないが、研究室の整備を研究業績推進の必須条件として重視する高田ら当局者にとって、現状が不満だったのは当然である。大正九年十二月八日の維持員会で、高田が、「研究室ヲ完全ナラシメ、図書館ノ制度ヲ整備スルコトハ、本大学ノ名声価値ヲ大ナラシムルノ基ナレバ、当局者ハ之ニ就テ十分ニ調査考究ヲナサレンコトヲ望ム」と述べ、次いで翌十年一月十五日の同会で、田中穂積理事が「図書館研究室ノ新築(所謂御大典紀念事業)急ヲ要スルモノアリ」と報告したのは、その現れであったと言えよう。しかし当局者の苦心経営にも拘らず、図書館研究室および理工学部実験室等の整備は容易ではなく、目的を達成するまでなお数年を要したのであるが、その委細は別項で述べることにする。

 学苑当局者は、教育の充実と学術研究の向上を望み、そのための施設の拡充・整備に努力を重ねたが、それらは施設の整備によってのみ得られるものではなく、寧ろ教育者であり研究者でもある一人一人の教授・講師の自発的努力によるところが最も大であると言えよう。現に設備の悪かった過去において、我が学苑は幾多の俊秀・英才を世に送ったのはその証しである。しかし学苑の規模が拡大し、教員数も学生数も当初とは此較にならぬほど増えてくると、単に一人一人の教員の努力のみでは不十分で、設備の拡充・整備とともに、教授会という組織が、自由な立場で教育方針を考え、学生を指導していく力を持つことが必要であるし、また誰からも干渉されず自由な研究を進めるには、教授・講師の身分の安定が望ましいと考えられるようになった。学苑において教授会規則が作られ教授会の権限が明確になったのは、第二巻第四編第十四章に記述した如く、明治末年であるが、大正中期以降その権限の拡大を望む空気が生れ、また「教職員任免規程」が昭和初年に作られたのは、そのような観点からだったと言えよう。

 大正七年に改正された校規の第六章は「教授、助教授、講師及教授会」で、第三十八条から第六十一条までがこれに当てられている(第二巻九八九―九九一頁)。教授、助教授の任免については、

第四十条 教授及助教授ノ任命並ニ講師ノ嘱託ハ、維持員会ノ決議ヲ以テ定メタル規定ニ依リ、学長之ヲ行フ。

第四十六条 教授及助教授ノ解職ハ維持員会ノ決議ヲ以テ学長之ヲ行フ。

但シ此場合ニ於ケル維持員会ノ決議ハ第十三条ノ規定ヲ準用ス。

と定められ、第十三条には、維持員の除名には他の維持員の五分の四の同意を必要とすることが決められているから、教授・助教授の解職の決定は簡単には行えないわけであり、その身分はやや安定したのである。昭和二年六月八日には左の「教職員任免規程」が制定された。

教職員任免規程

第一章 任用

第一条 大学学部及高等師範部教授ノ任用ハ教授会ノ同意ヲ得タル後、維持員会ノ承認ヲ経テ大学之ヲ行フ。

第二条 大学学部及高等師範部教務主任、助教授及講師ノ任用ハ大学学部長及高等師範部長ノ禀申ニ基キ大学之ヲ行フ。

専門部、第一及第二早稲田高等学院教頭、教務主任、教授、助教授、講師及早稲田専門学校教務主任ノ任用ハ当該学校長ノ禀申ニ基キ大学之ヲ行フ。

早稲田専門学校教授講師及早稲田工手学校講師ノ任用ハ大学ノ承認ヲ経テ校長之ヲ行フ。

第三条 大学学部長、附属学校長、図書館長及幹事ノ任用ハ維持員会ノ承認ヲ経テ大学之ヲ行フ。

第四条 主事、副主事、技師、書記、書記補、技手、技手補及雇ノ任用ハ大学之ヲ行フ。

嘱託及図書館副館長ノ任用ニ付テモ亦同ジ。

第五条 前条ノ職員ヲ大学学部、附属学校又ハ図書館ニ任用スル場合ハ予メ学部長、校長又ハ館長ノ同意ヲ経テ大学之ヲ行フ。

第二章 休職

第六条 教職員左ノ各号ノ一ニ該当スルトキハ大学ハ休職ヲ命ズルコトヲ得。

一、大学ノ承認ヲ経ズシテ本務ト両立セザル他ノ職務ニ従事シタルトキ。

二、本人ヨリ願出デ大学之ヲ承認シタルトキ。

三、刑事事件ニ関シテ検事ノ起訴アリタルトキ。

四、職制ノ改正、組織ノ変更其他ノ事由ニ因リ過員トナリタルトキ。

五、病気其他ノ事故ニ因リ引続キ欠勤満六ケ月ヲ経過シタルトキ。

六、外国留学生トシテ派遣セラレタルトキ。

七、兵役ノ義務ニ服シタルトキ。

第三章 解任

第七条 教職員ニシテ体面ヲ毀損スル行為アリタルトキ、又ハ其本分ヲ踰エテ甚シキ不当ノ行為アリタルトキハ、査問会ノ査問ヲ経タル上、維持員会ノ決議ヲ以テ大学之ヲ解任スルコトヲ得。

本規程第四条ニ依リテ任用セラレタル職員ハ大学之ヲ解任スルコトヲ得。

査問会ニ関スル規程ハ別ニ之ヲ定ム。

第八条 前条ニ掲ゲタル以外ノ事由ニ因ル大学学部及高等師範部教授ノ解任ハ所属教授会ノ同意ヲ経テ、大学之ヲ行フ。

第九条 第七条第八条ニ依リ解任セラレタル者ハ維持員会ノ決議ニ依リ年金、生命保険金、退職手当金ヲ支給セザルコトアルベシ。

第十条 教職員左ノ各号ノ一ニ該当スルトキハ解任スルコトヲ得。

一、大学学部長又ハ高等師範部長ガ教務主任、助教授又ハ講師ノ解任ヲ禀申シタルトキ。

二、附属学校長ガ教務主任、教授、助教授又ハ講師ノ解任ヲ禀申シタルトキ。

三、大学学部長、附属学校長、図書館長及幹事ガ第四条ノ規定ニ依リ、任用シタル職員ノ解任ヲ禀申シタルトキ。

四、自己ノ都合ニ因リ辞任ヲ申出タルトキ。

五、休職満六ケ月ヲ経過シタルトキ、但シ外国留学生トシテ派遣セラレタルトキ、又ハ兵役ノ義務ニ服シ此期間ヲ経過シタル場合ハ此限リニアラズ。

附則

本規程ハ昭和二年六月八日ヨリ之ヲ施行ス。

従来不文律で、当局者の裁量に任せられることの多かった教職員の任免が、拠るべき規定を持つようになったこと、特に教授の身分保証が第一条、第八条で高められたことは、同時に教授会の権威の確立にも繫がることであり注目されるが、ただ同年七月八日の維持員会でも問題になったように、第七条の規定は大学学部規定第二条(「教授ノ嘱任解職ハ維持員会ノ定メタル規定ニ依リ」)の条項に従って定められたとはいえ、第八条の「教授ノ解職ハ教授会ノ同意ヲ得テ行フ」という趣旨を制限するもので、第七条に言う「体面ヲ毀損スル行為」および「其本分ヲ踰エテ甚シキ不当ノ行為」の規定が抽象的で解釈の幅が広いだけに、問題が残ったと言えよう。

 さて、教授会に関しては、前述の如く、大正七年九月二日に認可された新校規に詳細な規定が見られる。その主要な点は、各科部ごとに所属教授を以て教授会を組織し(第四十八条)、「教授及研究ニ関スル件、学生ノ指導訓練ニ関スル件、其他学長、維持員会ヨリ諮問セラレタル件」について決議し(第四十九条)、科部長候補者・評議員(各科部五名ずつ)を互選し(第五十、五十一条)、学長は連合教授会を招集することができ(第五十五条)、教授会及連合教授会の決議は維持員会で決定する(第六十一条)ことなどであった(第二巻 九九〇―九九一頁参照)。なお、大正十二年制定の「寄附行為」では細則的な箇条は削除された(前述一四五頁参照)。

 ところで、教授会が各科部ごとに運営されるようになったため、従前に比し、横の連絡はとりにくくなった。それを補うため大正七年と九年の校規は第五十五条以下に各科部連合教授会の規定を設けているが、実際問題として世帯が大きくなったためにその開催は種々困難を伴ったと思われる。大正十三年九月十五日の維持員会で決議された「学部協議委員規程」は左のように簡単なものであったが、恐らくそのような障害を伴う形式的な方式に代えて、簡便に、しかも効果的に、各学部間の意思疎通を図るために設けられたのであろう。

学部協議委員規程

第一条 各学部ニ亘ル事項ヲ審議スル為メ学部協議委員ヲ置ク。

第二条 学部協議委員ハ各学部二名トシ、中一名ハ学部長ヲ以テ之ニ当テ、他ノ一名ハ各学部ニ於テ教授中ヨリ之ヲ互選ス。

第三条 学部協議委員ノ任期ハ二年トス。

附則

第四条 本規程ハ大正十三年九月十五日ヨリ之ヲ施行ス。

 明治四十四年以降の教授会に関する規則の主要な変遷は、明治四十四年規則、大正七年規則、大正七年校規をそれぞれ(甲)、(乙)、(丙)とすれば、次の三点であると言えよう。

(一) 審議事項は、(甲)では学長の提案に限られたが、(乙)ではそのほか教務に関する発案を認め、(丙)に至って、教授および研究に関する件と学生の指導訓育に関する件、学長・維持員会から諮問せられたる件は教授会の決議事項となり、審議権が明確になり、拡大されたこと。

(二) (甲)では何ら認められていなかった選挙・推薦権が(乙)では認められ、(丙)ではその内容が科部長候補の互選権、評議員の互選権と明文化されたこと。

(三) (甲)、(乙)では教授会の決議は「学長之ヲ実行ス」とあったものが、(丙)では一応教授会の決議権を認め、ただしその決定は過半数の出席による維持員会の決議によると改められたこと。

 このうち(三)に挙げたところは、(甲)、(乙)に比し(丙)は却って後退したかの観があるが、(一)に示したように審議権の内容が拡大しているのであるから、実質的には必ずしもそうとばかりは言えず、全体として教授会の権限が拡大する方向にあったことは認められよう。このような変化が大正七年以降に現れたのは、「早稲田騒動」という試練を経た結果がここに出ていると言えるのであり、「早稲田騒動」が単なる混乱の歴史に止まらず、学苑の民主的前進の礎石の一つになった証しとして注目したいのである。

 しかしこの段階になっても、教授会の力は決して十分ではなかった。そのことは、大正九年二月二十八日に開かれた連合教授会で、「試験ニ関スル凡テノ事項ハ爾今教授会ニ諮ルコト」が希望事項として可決され、また同十年十二月十日の学部長主任懇談会でも、

(一) 重要ナル教務事項ハ可成各学部教授会ニ全部提出サレタキコト。

(二) 教授会ノ権能ヲ確立シ、主動的ニ活動シ得ル様取計ハレタキコト。

(三) 留学生ノ選定ハ、将来一応教授会ニ諮問サレタキコト(学長之ヲ認ム)。

(四) 各学部教授要員ノ異動ハ、各部教授会ニ予告サレタキコト。

(五) 各教授、講師、担任時間ノ限度、俸給等ハ部長及主任ニ通知スルコト。

(六) 高等学院ト大学各部トノ間ニ教授上ノ連絡ヲ計ラレタキコト。

(七) 将来校規改正ノ際ニハ、教務主任ノ権限ヲ定メラレタキコト。

専門部主任、高師主任ト各学部主任トノ権限ヲモ確定サレタキコト。

が希望されたことで明らかである。これらを通して見る限り、「教授及研究ニ関スル件」の決議権を与えられたといっても、当時の教授会が甚だ形式的で、微少な力しか持たなかったのが窺われるが、ともかくかような希望が積極的に教授側から提出されるようになり、右の第三項に見るように一部でもそれが実現されることによって、徐々に近代的な組織に改められて行くのであり、この傾向が大正末年から著しくなったことが注目される。

 さて、このようにして研究室の拡充・整備が進み、教授会の権威も次第に高まってきたこと、および大学令により帝国大学と同等の大学に昇格したことにより、学苑内の教育・研究に対する熱意が、教員学生の間に一段と昻揚した。そしてそのような空気を反映して、創立年の確認し得るもののみを挙げても左の如く学苑内で多くの学会が成立し、機関誌を刊行するものも見られるようになった。

創立年 学会名

明治四四年 心理学会、政治学会

大正三年 早稲田東洋学会、早稲田法学会

四年 早稲田大学国語漢文学会

五年 社会政策学会、早稲田大学経済学会、早稲田漢学会

六年 早稲田大学独逸学会、早稲田会計学会

七年 英語研究学会、早稲田哲学会

八年 早稲田社会問題研究会、都市政策学会

大正一〇年 演劇学会

一一年 早稲田教育会、早稲田法学会(再興)、早稲田応用化学会

一二年 早稲田大学露西亜学会、外国文学会

一四年 早稲田大学政治経済学会、早稲田商学同攷会、早稲田理工学会、文学思想研究会(外国文学会を改組)

昭和三年 早稲田東洋学会(大正三年創立のものとは別)、交通政策学会

五年 早稲田東洋美術学会

 尤も学術誌の場合は購読層が限られるので、その発行は容易ではなかったから、例えば大正十一年十一月早稲田法学会に一、六五〇円が補給されているのに見られるように、大正十一年以降は大学が学術研究雑誌発行補助費を支出し始め、大正十四年よりは連年七、五〇〇円がそのために計上されている。尤も、『早稲田法学』、『早稲田政治経済学雑誌』、『早稲田商学』等々、学部または学科単位の機関誌の発行の実現には、このような大学よりの補助金と同時に、それぞれに所属する学生全員が、正会員として会費の負担を快諾し、授業料とともに会費を納入することにより、財源が確立されたのに負うところが大きかったのは事実である。なお、大正十五年七月に助手制度が制定されたが、助手は無給であったので、助手に学会誌編集の手伝いをさせて若干の手当を与え、研究費の一助にした例も珍しくなかったのを付言しておきたい。大正―昭和初期に創刊された学術誌の一覧を左に掲げ、参考のため創刊号の主要な目次を示すことにする(*印は現在まで存続している)。

早稲田採冶会『早稲田採冶会会報』大正七年十二月創刊

日本のニッケル鉱及其製錬法に就て(徳永重康)、重クローム酸加里に就て(小室静夫)、〇〇炭鉱調査報告(野村堅)、試金に於ける灰皿の損失(山本八十吉)

早稲田大学『早稲田大学理工学部紀要』大正十一年五月創刊*

常磐炭田ニ就キテ(徳永重康)

早稲田法学会『早稲田法学』大正十一年十月創刊*

ハンムラビ法典ノ研究(遊佐慶夫)、自然法ト立憲制(副島義一)、会社合併論(寺尾元彦)、航海堪能力ヲ論ズ(大浜信泉)、「リード」ノ相続制度廃止論(井上周三)、独逸戦後ノ土地法(長場正利)、社会法学ニ就テ(中村弥三次)

早苗会『早稲田建築学報』大正十一年十二月創刊

建築と音響と(三宅一雄)、教会堂の設計(山本拙郎)、裏千家の邸宅(木村幸一郎)

文学部外国文学会『外国文学研究』大正十二年三月創刊

シエリーと現代(横山有策)、ボオドレエル論(シェリング)、ゲエテの二面(舟木重信)、近代英文学に現はれたる美の研究(吉田絃二郎)、フリードリッヒ・ヘンデルリン(山岸光宣)、「天の猟狗」の思想及技巧(日夏耿之介)、平民悲劇の芸術性と文化力(島村民蔵)、仏蘭西古典劇研究序論(吉江喬松)、黎明期に於ける露西亜の社会意識(馬場哲哉)、ロシヤ批評研究序論(片上伸

早稲田応用化学会『早稲田応用化学会報』大正十三年七月創刊

大豆油より石油炭化水素の生成に就て(山本研一)、将来のアセチレン工業(阪田貞臣)、空中窒素固定工業概括(水野敏行)

文学部文学思想研究会『文学思想研究』大正十四年五月創刊源氏物語研究(山口剛)、フリードリッヒ・ヘンデルリンの作品(山岸光宣)、トマス・ハァディの自然観(日高只一)、現象学的帰結と妥当性(金子馬治)、日本に於ける羅馬加特力教徒の執拗なる信仰伝承(西村真次)、仏蘭西古典悲劇研究序説(吉江喬松

早稲田大学政治経済学会『早稲田政治経済学雑誌』大正十四年五月創刊*

支那革命の当時統治権が清帝国から中華民国へ移転せる法理の考察(青柳篤恒)、為替相場の理論と実際及之が金融政策(服部文四郎)、我が予算の編成を論ず(宇都宮鼎)、エーゲ海の側岸に於ける刻下の民族大移動(煙山専太郎)、修正派としてのサンヂカリズム(五来欣造)、政治科学及び政治の概念について(高橋清吾)、福祉経済学者の租税論(阿部賢一)、社会政策概念の史的発展(林癸未夫)、経済学方法論概説(二木保幾)、欧米人の日本植民政策批判に就て(浅見登郎)、人囗理論の社会的背景(久保田明光

早稲田商学同攷会『早稲田商学』大正十四年六月創刊*

財産評価論の梗概(原島茂)、労働と閑暇(出井盛之)、失業対策の二方面(北沢新次郎)、関税と物価の関係(小林行昌)、交通賃率決定の要素としての費用(島田孝一)、起債法として普遍化しつつある社債(長谷川安兵衛)、国際物価指数日本部設計報告(小林新)、ハットフィールド及ぺートンの簿記理論に就いて(中田浩)、十九世紀末独逸に於ける社会保険創設の時代及其萠芽(末高信)

交通政策学会『交通研究』昭和三年七月創刊

運送ニ関スル一新職業(伊藤重治郎)、大都市の交通機関(早川徳次)、鉄道統計研究(瓜生卓爾)、交通ト云フ言葉(藤岡長敏)

早稲田大学欧羅巴文学研究会『欧羅巴文学研究』昭和六年二月創刊

独逸浪漫主義発生の思想史的考察とその本質(山岸光宣)、ロシヤロマンテシズム概観(岡沢秀虎)、『大鴉』縁起考(日夏耿之介)、透谷とバイロン(本間久雄)、仏蘭西浪漫主義の文芸(吉江喬松

文学部文学科『綜合世界文学研究』昭和六年十一月創刊

和泉式部日記の本文意義趣味考(五十嵐力)、表現主義以後の独逸文学概観(山岸光宣)、文学に於ける自伝的要素(江間道助)、唯美主義とオスカァ・ワイルド(本間久雄)

早稲田大学史学会『史観』昭和六年十一月創刊*

史学管見(浮田和民)、歴史事実に関する私見(野々村戒三)、希伯来の聖数に就いて(中西敬二郎)、宗教改革前独逸の精神界に関する諸説(小林正之)、日蘭交通の起源(京口元吉)、我国石器時代人の食料(池上啓介)、明代の宦官(清水泰次)、支那古代史研究の趨勢と説話考察の意義(出石誠彦)、現代ロシアの国史研究とその問題(小島幸治)、オロティ族研究(平竹伝三)、イラークの旅(定金右源二)

文学部哲学科『フィロソフィア』昭和六年十二月創刊*

へーゲル哲学序説(金子馬治)、へーゲルの論理学(桑木厳翼)、新へーゲル主義(大江精志郎)、へーゲル世界観の特性(岩崎勉)、へーゲルの法律哲学(安藤春雄)、ヘーゲルの市民的社会に就て(今田竹千代)、歴史観への二途(へーゲルとマルクス)(樫山欽四郎)

 右に挙げたものは学苑の学部または学科の研究成果を発表する純学術雑誌であるが、その他校友、学生有志の研究活動も、例えば政治学会が大正十五年に政治経済攻究会に改組されたように、大正末期に活発化する傾向が見られ、中には機関誌を発行したものもある。次に掲げるのはその一例である。

早稲田教育会『早稲田教育』大正十一年十一月創刊

学校教師の具備すべき資格(塩沢昌貞)、教育の効果(桑木厳翼)、教員養成の傾向(中島半次郎)、文化と国語及国字(永井一孝)、中等学校の英語に就て(宮井安吉)、中等学校の漢文科に就て(牧野謙次郎)、芸術教育の根本精神(宮島新三郎)

早稲田大学経済学会『稲門経済』昭和二年二月創刊

金融雑感(結城豊太郎)、自動車による貨物運送の経済的意義(島田孝一)、不良商人論(小林行昌

早稲田大学日本学協会『日本研究』昭和五年六月創刊

石敢当の研究(西村真次)、佐渡国分寺阯の研究(今井浤二)、信濃大町の借馬市(洞富雄)

早稲田大学英文学会『早稲田英文学』昭和五年七月創刊

リチャード・クラショオ――愛と死との聖詩――(尾島庄太郎)、ヰリアム・モリスの詩劇『恋だにあらば』の研究(大槻憲二)、オニール新作『ダイナモ』と機械文明(山口太郎)

早稲田大学支那協会『東華評論』昭和六年一月創刊

支那の航運業と航行権(井村薫雄)、最近の対支貿易と支那側の排撃(長野恵喜三)、買弁に就て(蒔本至徳)

 学術研究誌の刊行が相次いだことは、高田総長が、『早稲田商学』創刊号の「祝辞」で、

私立大学は今や官立大学に比し何等異る所が無くなつたに拘はらず、世間多数の頭脳には尚官尊民卑の陋習が固くこびり附いて居て、容易に取り切れない状態であるから、各学部の教授、助教授及講師諸君の研究の結果を世間に示して、所謂最高学府なるものは、必ずしも官立大学のみに限らないと言ふ事を世間に示す事は、極めて必要な計画であると信ずるのである。

(一頁)

と述べたように、我が学苑の学問的位置が、漸く官立大学に拮抗するに至った事実を示すものであった。