Top > 第二巻 > 第五編 第一章

第五編 「早稲田騒動」

ページ画像

第一章 世界の風潮と「早稲田騒動」

ページ画像

一 まず年表を見よ

ページ画像

 それは新旧交代の時代、それに伴う激動と騒擾の時代、そしてまた革命と新生の時代とも言える。世界も、日本も、そして我が早稲田大学も、大なり小なり、或いは強く濃く、或いは弱く薄いの差はあっても、その時代的雰囲気の外には出ない。説明を簡略にするため、大雑把ながら次の年表の一瞥を乞いたい。

二 第一次世界大戦

ページ画像

 明治天皇崩御の時、ロンドン『タイムズ』は、その治政下の日本の躍進が世界史の驚異となったのは、類例なき長期の封建制度の残した余風と、駸々たる近代文明の流入とが、相半ばして融和・抱合した特殊現象であると述べ、今後、封建的風潮の退凋とともに、かかる特色の繁栄はこれを絶頂として漸次下降を示すのではないかと予測し、まさに武士道と称する封建遺制のシンボル的人物とも見られた将軍乃木希典が、この評に同感して措かなかったという逸話は、この時期における新旧の交代を興味深く暗示する。

 封建勢力の弔鐘として響くものに、藩閥勢力の後退がある。藩閥とは、天皇を補佐して維新を成し遂げた西藩大名、特に薩長土肥四藩が、その功績の維持のために、多く意識せずしてまとめ上げた半ば自然成長的制度であったが、憲法制定の緒に着くとともに、土肥を仲間から弾き出して、薩長独占の特権とした。大隈重信は、初め薩長と事を共にしながら、ひそかに薩長勢力を牽制し抑制するため、国民の声望を背景として事を図り、却って薩長の反撃に会って、中央政治への立脚地を失うに至った。どの程度まで事実か明らかでないが、既述の如く、明治天皇は伊藤博文贔屓で、大隈重信嫌いとの世評があり、これと反対に新帝は皇太子時代から紛れもない大隈贔屓で、その天皇の交替に、重苦しい大極殿の屋根の下から脱れ出て、瀟酒たる四阿に入ったような、政治的軽快さを感じないではおられなかった。

 新帝は、聡明・怜悧であられるところから、却ってやり損ないなどがあるかもしれぬという宮廷通の批評家の評言が現れ、絶対冒すべからざる神聖なものが、にわかに国民の間に身近になったような感じがあった。殊に、フランス大使謁見に際して、若き天皇には自らフランス語で老いたる宰相大隈を紹介せられたので、ここにも時代の推移を見ると新聞が報道し、どこをどうと明確な区画線は引かれぬが、雰囲気として世は明らかに推移しつつあるというのが、明治が大正に替った初期に国民一般が何となく身に感じたところである。そこへ突如として世界を衝撃したのが、ヨーロッパ大戦勃発の報道である。

三 叔父・甥の英・独皇帝

ページ画像

 二十世紀第一年すなわち一九〇一年、我が明治三十四年の一月末、イギリスの商工文明を絶頂に至らしめたという評判でthe good old womanの愛称を得たヴィクトリア女王が、六十四年に近い長期の治世を終り、エドワード七世が王位を継承すると、何か好ましからざる変化がもたらされるのではないかと懸念せられた。エドワードは、賢明厳格な母親から往々にして生れがちな手のつけられない驕児で、その行動は放逸・無頼に近く、そのため人生半ばになるまでは、国政の枢機には何一つ関与するを許されず、その生活は美女・醇酒・競馬・トランプの間に送られ、自ら相場を試み、門客中には大山師・小山師の類も多く、園遊会には浮浪の徒を宮苑に招き入れて、一世を驚かしめた。

 かくの如き皇太子が、久しきに亘って国民信愛の焦点であったヴィクトリア女王の後を、齢五十九歳を越してから継いだのだから、何人も大英帝国の将来のために憂えざるはなかったが、案ずるよりは産むが易く、この放縦なる皇太子は一度王位に上ると、まるで面目を一新した賢王となり、世の甘酸も外交の表裏も知り尽し、八面玲瓏の応酬は、国内においては触るるところ随所に春を生ずる政治となって国民の信頼が厚く、一度外に対すれば、どんな摩擦・軋轢も潤滑油を注がれたる如くに解消し、ヨーロッパは実に不思議な安定感ある平和を享受し、防備薄弱な東洋に対しては、久しく習慣的に劣等視した有色人種の日本との間にさえ対等の日英同盟を締結して、イタリア公使をして日本も偉くなったものだと三嘆せしめた。

 しかし、この苦労人の八方美人的な丸め込み政策から洩れて、警戒を緩めることのできなかった目標が、ただ一つあった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世である。彼カイゼルは、ヴィクトリア女王にとっては目に入れても痛くない孫であった。従ってエドワード七世にとっては親子に次いで親密なるべき甥である。しかもエドワード七世がヨーロッパ旅行中に述べたところを、ドイツの論客ハルデンが記した次の文(徳富蘇峰訳)を見よ。

予が姪――独逸皇帝――は珍らしき多能の人也、唯だ如何せむ信頼す可き人にあらず。吾人若し彼の企謀を抑制するに力を戮せずんば、彼は乍ち欧洲に放火せむ。予は親戚の間柄として、為し得可き限りの総てを試みたり。然も一として水泡に帰せざるなし。予が欲する所は、唯だ平和を維持し、文明を戦乱の禍害より擁護せんと欲するにあるのみ。何人も安寧と繁栄とを希ふ者は、予に来れ。何人も其咎なくして脅かされたる人は、予の同情に待つ所あらむ。

(徳富蘇峰『世界の変局』 一三八頁)

このエドワード七世は一九一〇年(明治四十三)に崩じ、ジョージ五世がその後を嗣いだ。新王には、六十歳近くまで冷飯生活の皇太子で過ごしたという特殊な人間訓練をした先王の真似はできぬ。

 独帝はここで漸く、身を拘束していた呪縛から免れ得る機を摑んだのである。まさか虎を千里の野に放ったというほど危険ではないにせよ、"the Kaiser unbound(解き放たれたるカイゼル)"としての警戒は要する。その後の彼の行動には、人を衝撃し、世を聳動することが、たびたび起るようになった。東北をロシアに抑えられ、西南をフランスに塞がれているカイゼルの目は、自然に東南に向って注がれざるを得ぬ。そこには「蕞爾」と形容されるバルカン諸国がひしめき合っている。当時、苟も政治を語る青年なら、必ず肩を聳やかせて「バルカンの形勢」を口にせざるはなかったほど危険な「ヨーロッパの火薬庫」だったが、それが、野放しになったカイゼルに狙われだしたのだ。

 早晩、何らかの破局が来ないではすまぬと各方面で予期され、覚悟されていたことではあったのだが、第七章で説述する如く、遂に一九一四年(大正三)六月二十八日、オーストリアの皇儲殿下夫妻がサラエヴォにおいて暗殺されるという悲劇が勃発して、一挙にヨーロッパはナポレオン戦争以来の大規模な戦場と化し、更に日本がドイツに宣戦し、後れてアメリカも連合軍に加担するに及んで、有史以来初めての世界大戦となった。

 早稲田大学にあっても、また他の諸大学においても、学生は、教科書の上のみで学んでいたような大事変が日々の新聞紙上に眼前周辺の事実として報道されるので、まさに生きた学問をするのであった。史家は言う、この第一次世界大戦こそ、十九世紀を清算して実質的に二十世紀に入る境界線であったと。而して映画の如くめまぐるしく変転する歴史的諸事象に付帯して変化する思想的影響が、若人の骨肉に食い入って学生を質的に変化させたこと、この時期の如きは多く類例があるまい。

四 文化主義と民本主義

ページ画像

 先ず火蓋を切ったのはドイツで、イギリスが参戦しないことを信じ、且つそれを切望していたドイツは、その当てが外れ、イギリスの動員を聞くと直ちに、それを目標とする激しいドイツ文化宣伝を、主としてアメリカに向って開始した。それはアメリカがまだ中立で、ドイツ側に同情を引き込める余地があると判断したからである。

 その出発点は、当時精神主義の大哲学者として聞え、ノーベル賞受賞者でもあり、国内的には枢密顧問官であったイェーナ大学教授ルドルフ・オイケンと、同じく枢密顧問官で、動物学の大家であった前イェーナ大学教授エルンスト・ヘッケルとの連名で、二回に亘って行われたアピールである。そのアピールによると、ドイツ文化は世界の最高特絶のもので、今回の戦争はそれが侵されるのを防護するための戦いだという。イギリスやフランスには文明と文化の語義に殆ど差別がないが、ドイツはこれらに明確な差別を付していることを主張し、そしてまた他の学者によって、文化とはゲマインシャフトの所産で、文明とはゲゼルシャフトの所産であるとも説かれ、日本では米田庄太郎、桑木厳翼、その他の諸学者がこれに呼応し、我が早稲田大学ではドクトル・デル・フィロゾフィーの学位を有する金子馬治が最も熱心で、しまいには文化主義という言葉までできた。大体大正三年より関東大震災の頃までは、思想界は文化論の全盛時代であったと言ってよい。

 これとほぼ並行し、政治論として論壇を風靡したのが、民本主義、すなわちデモクラシー論である。我が大学では高田早苗が早くこの思想を移植し、殊に同志社から来た浮田和民安部磯雄は積極的にそれを主張し、それは早稲田政治学の一面の特長なるかの観を呈した。帝国大学生で、この浮田・安部の政治論に深い影響を蒙ったのが吉野作造で、欧州留学から帰国して母校の政治学科の中心教授となり、更に『中央公論』の特別寄稿者となるや、デモクラシー論を華々しく展開して、天下青年の時代精神を形成する力が著大であった。彼は、デモクラシーを「民主主義」と訳す方がより歴史的で適正なことはもとより承知の上だったが、それでは我が政府がその思想の流布を禁遏すべきことあるを怖れ、特に「民本主義」の訳語を使用した。我が早稲田大学においては、唱道が古くて新鮮味を失いかけていたデモクラシーが、この訳語によって新しい脈搏を打ち出し、かねて学生時代から吉野と交友のあった永井柳太郎大山郁夫、また北沢新次郎、北昤吉などが活発にこれに相呼応し、哲学界では文化主義時代である如く、いや遙かにそれより明確に、民本主義時代或いは大正デモクラシーの時代なる区画を歴史の上に刻んでいる。

 文化論が、まさに明白に、ドイツのアピールに由来する如く、デモクラシーが主としてイギリス側のプロパガンダに煽られたことは疑えない。ドイツの文化宣伝を手強しと見たロイド・ジョージ首相は、世界の新聞王の名のあったノースクリッフの全面的援助を取り付けた。そこで、その支配下の刊行物で、世界的高級紙としての権威を持つ『タイムズ』、世界一の販売部数を誇る『デイリー・メイル』以下、各種の新聞雑誌その他一切が、連合軍の戦いはドイツの軍国主義・覇権主義・専制主義に対する人道的な義戦で、世界文明のためにデモクラシーを防護する抗争であるという宣伝を、なりふり構わず世界に振り撒いた。我が国にデモクラシー思想の入った歴史は古い。しかしこの時急に百花繚乱の満開を見せたのは、ノースクリッフの宣伝力の影響が著大である。第一次世界大戦の戦勝の功の第一がノースクリッフの把握する膨大な言論機関によることは、ロイド・ジョージもこれを認め、戦勝の定まった時、「君の所望は何でも叶えよう」と言ったところが、ノースクリッフは「平和会議の全権」を要求してこれが拒絶されたので、遂にこの両巨頭が仲違いしたのを見ても、ノースクリッフの貢献のいかに大きかったかが知り得られよう。

 本編の焦点とも言うべき「早稲田騒動」においては、その発端とも見られる時期に、恩賜館組(プロテスタンツ)と呼ばれる少壮教授が「デモクラチック」の運営という要求を掲げているのは、明らかに時代風潮を取り入れたもので、時の学長天野為之はこれを峻拒したが、高田早苗は理解を示して「デモクラチック・ベーシス」としてこの要求の大半に賛成し、中途から「民本主義」の語も見えるのは、明白に吉野デモクラシーの反映である。坪内逍遙は、八四五頁に後述する「早稲田騒動」に関する手稿の中で、デモクラシーが民本主義の訳語を当てられたことの疑義と不当を例の調子で諄々と述べているが、それが大正初期の造語で、特に吉野の使用により一般化していることを、果して老博士は知っていたのであろうか。ともあれ、事態の進行とともに、一度は彼らの要求を退けた天野もこの語を自派の標語とし、「早稲田騒動」では、敵味方ともこれを掲げて闘ったのである。

五 革命にあこがれた早稲田学生

ページ画像

 デモクラシーまたは民本主義の、さしも盛んだった勢焰を、次第に退潮させていったのは、ロシア革命の勃発である。これが成功の意外さは、遙かに世界大戦の報以上であった。労働者と兵士が政権を握るなどということは、鴨川が逆しまに流れ、天日が西空より出ずるとも、あろうなどとは全く考えられなかったことだ。

 しかし早稲田には、何となく革命に共感する空気が久しく馴養せられていたと言える。アメリカのファーディナンド・シュウィルが著した『ヨーロッパ近世史』(Ferdinand Schwill, History of Modern Europe, 1898)という概説書がある。日露戦争以前から輸入され、丸善でも最も多く売れた洋書として、その社史に特筆さるべき好著だが、名文でありながらきわめて平易な英文なので、中学出たての学生に教えるには格好の教科書として、そのフランス大革命の部分だけを抜いて小冊子とし、専門部や高等予科の教科書として使用すること数年、しかもその講義者は煙山専太郎安部磯雄などであったのだから、学生たちは、語学教授として以外の感化を与えられた。その教室では、いつの頃誰が訳読した時の話か知らぬが、マリー・アントワネットが"was guillotined"と記述してあるのを、「ギロチンでチョン切られた」と訳した者があったということが、有名な話として、年々語り伝えられていた。青年の心は、次第に鉄火碧血の革命の悲壮劇にあこがれざるを得なかった。しかしフランスには地理的に遠く、維新とは時代が隔たっているので、自分らの目の玉の黒いうちにこんな事件に出くわす幸運にめぐり会えようなどとは、誰も夢にも思わなかったのである。ところが、「ロシア大革命起る!」の記事が連日、新聞に現れ始めて、胸は高鳴り、目は輝いた。学校の休み時間には、みんな唾を飛ばして、新聞記事を材料に、幼稚な、しかし熱を帯びた議論を闘わせて倦むところを知らぬ有様だった。幸徳秋水の「一刀両断天皇頭」または「布衣高掲赤色旗」の詩は絵空事のように思っていたのが、赤色旗は現実にモスクワ伽藍の上に閃めき、エカチェリンブルクの山村でニコライ二世夫妻は確かに死刑に処せられたのだ。このロシア革命の影響は明らかに「早稲田騒動」にも現れ、赤旗にR. W.(早稲田革命)の文字を染め出して掲げている。

 一部の学生が克明に革命の新聞記事をあさったのは、或いは教授よりも勝ったであろう。当時、ロシア文学専攻の第一回留学生として、学苑から片上伸がモスクワに派遣されていた。彼が日本の新聞に送った諸通信を見ると、朝窓を開くと銃声があちこちに聞えるのに、彼は革命が起っていることにちっとも気付いていない様子だったのである。内地でそれを読む学生達は、彼の鈍感さを切歯扼腕したものだった。ロシアを引き揚げて帰る時、片上は内田康哉駐露大使と同じ汽車に乗り合せ、彼からロシア政界各種の事情を聞いて、初めて革命のことが分ったと話した新聞への帰国談を見て、純文学専攻の教授の社会的没常識に呆れ返り、その歓迎の席上で二、三の学生が追及すると、「いや、全くその事情には疎かったなあ」と、あの特長のある大きな若禿の頭を撫でて、詑びるように苦笑したものだった。

 この大正デモクラシーとロシア革命が東京帝国大学に産み落したものは新人会で、早稲田でこれに当るのは、民人同盟会、そして建設者同盟である。これらは次巻で詳説されるが、もし一口にその差異を述べれば、東大のは知識的・文化的で、早稲田の方は実行的で泥臭い。東大出には鈴木文治、麻生久、三輪寿壮など、鉱山その他の組合運動を起し参加した者が多く、早稲田には農民組合に走った者が多い。

六 イギリス労働党と大隈重信

ページ画像

 ロシア革命と相並んで、ここに特記せねばならぬのは、時間的には次巻に属することではあるが、一九二四年(大正十三)一月二十二日、すなわちレーニンの歿した翌日、イギリスにおいて、ラムゼイ・マクドナルドを首相とする第一次労働党内閣が誕生したことである。これも世界中が思いがけなかったことで、実は総選挙では、ボールドウィンの統率する保守党が第一党を占めたのである。労働党は第二党だったが、それでも自由党を追い抜いた目覚しい躍進ぶりに、世界中が驚いた。しかしその結果から言って、当然保守党内閣が成立すべき順序でありながら、横紙破りで知られる自由党総裁ロイド・ジョージが、労働党の政策を支持するとの声明を発した。ロイド・ジョージは世界大戦に勝利をもたらした勲功第一の大政治家として、イギリス国民の尊信のまだ薄らいでいない時だったから、この一言は九鼎大呂の重きをなして、保守党は組閣をあきらめ、労働党に譲ることになったのである。

 これは勿論、政治科の学生には大きな関心事であったが、早稲田学生全体としては、その人気の沸き立つこと、到底ロシア革命の比ではなかった。しかしこの労働党内閣の出現も、早稲田と切り離すべからざる関係を持った。それは、その成立に先立つこと数年、満腔の自信を以て発表した『労働と新社会秩序』(Labour and the New Social Order)と題する宣言綱領に、ただ一つ先人の言の引用がある。それも書き出しに近い初頁に載っているのが、何と、マルクスにあらず、エンゲルスにあらず、経済学者のミルにあらず、またフォーセットやジェヴォンズにあらず、労働党の長老として重きをなすシドニー・ウェッブにあらず、知識的支持団体たるフェビアン協会のH・G・ウェルズにあらず、バーナード・ショーにあらず、意外も意外、日本の大隈重信の言葉なのだ。

 日本の政治家中、最も老齢、最も老練、且つ最も有能な一人である大隈伯は、地球の反対側から現在の戦争を注視して、それ がヨーロッパ文明の死に外ならないと断言している。

この早稲田の老政客が、世界に対する日本の代表者として、その所論の海外に発表せられること幾百千万言、しかしこの『労働と新社会秩序』に引用せられたほど、輝かしく栄誉ある舞台を持ったことはない。それはロシア革命におけるレーニンの宣言、アメリカから国際連盟の構想を発表したウィルソンの声明と並んで、マクドナルドの率いるイギリス労働党が、第一次大戦後の新しき世界を産む三つ巴の一翼として、光明赫々たる晴れの舞台なのだ。この労働党の『労働と新社会秩序』なる宣言綱領に引用せられた大隈の言葉は、第一次世界大戦をヨーロッパの老衰病と見る点で、シュペングラーの有名な「西洋の没落」哲学の先駆をなすであろう。大隈は起死回生の策として、東西文明の調和を最後までの夢とし、念願として、大正十一年一月十日に八十三年十ヵ月の生涯を終えるのであるが、新発足の第一次イギリス労働党内閣は、その夢を生き返らせ、新しき脈搏を打たせるものは、労働党の掲げる新社会秩序あるのみとしたのである。

 これは、宣言綱領たる性質上、大判で二十頁にも満たぬ小冊子で、日本に入ってきた部数が少く、多くの学生の目には触れなかったであろうが、本学苑では、まだ新鋭の少壮学者だった阿部賢一などが夙に注目して講義に述べ、また新人会の切れ者赤松克麿が逸速く翻訳したので、早稲田学苑は最高の誇りとした。その後、戦争反対論で有名なノーマン・エンジェルの『イギリスの革命とアメリカの民主主義』(Norman Angell, The British Revolution and the American Democracy, 1919)の巻末附録にもその全文が収められたから、就いてみるに不便はない。

 ついでを以て付記しておく逸話は、アメリカ大使モリスと大隈との会見である。モリスはアメリカ法曹界第一の雄弁家・評論家として聞え、ウィルソン大統領の選抜で日本に赴任し、夙に大隈の名声を聞いて大隈邸を訪問し、大隈がそれに答礼したが、内閣から退いた後だったので、何れも非公式に行われ、大隈の答礼した時には、新渡戸稲造と我が学苑の教授塩沢昌貞とが通訳に当った。その時の思い出を、新渡戸は『東西相触れて』と『偉人群像』とに語っている。何れも興味の豊かな珠玉の文字だが、幾十百ある大隈の伝記中で、これに気付いているのが皆無に等しいのは惜しい。ここでも大隈は第一次世界大戦を西洋の老衰病から発したとし、モリスはこれを反駁して例えば出産前の陣痛の如き生理現象と解釈し、大隈の答礼した時には玄関口に出迎えるや議論を始めて、応接室に入るまでに相当に打々発止と応酬し、席に着くといよいよ白熱してきたのを、新渡戸は面白いと思って、止めもせず通訳しているのである。

 後にこの話を寺内内閣の閣僚等十人足らずの小宴会で述べたところ、その内務大臣後藤新平がこう評した。

我々日本人は思想上の話になつては殆ど零だ。今の話でも早稲田の阿爺だから受太刀になつても、チヨイチヨイ切り込みも出来るが、失敬ながらここにゐる御同前ではただ謹聴する位に過ぎぬだらう。 (『東西相触れて』 二四〇頁)

 同じ話が、もう一方の著書ではこう語られている。

早稲田の老人も一本やられたやうだが、それでも受太刀ながら二、三回でも質問を発したごときはさすがに大隈さんだけあるぜ。恐らくお互だつたならば、一口話をすると二の句がつげないでただ傍聴するばかりだが、政治論とか、つまらぬ雑談、殊に女や酒の話なら無尽蔵だが、人生観とか世界観となるとナー……いかに日本人が思想に乏しいか、思へば恥かしいものだ。

(『偉人群像』 二八七―二八八頁)

後藤には、「早稲田騒動」の黒幕として、大隈を苦しめるために騒ぎの糸を操った張本との話があり、その真相の究明は後章に譲らねばならぬが、由来、大風呂敷は大隈が第一世、後藤が第二世、両者竹を割ったように快活な共通点ある政治家として、共に人に好かれるタイプとはいうものの、学校騒動の記憶を持つ学苑の校友や学生にとっては、好意を寄せ難い立場にある政治家だった。しかしその余燼もまだ納まらぬ時代に、彼が大隈を見ることかくの如しとすれば、いささか天下のこと使君と操との襟度が見えると言うべきだろう。

 要するに本編は、明治から大正への元号の変遷から、大隈の組閣、世界大戦、文化主義と大正デモクラシーの風潮、ロシア革命、学苑大紛擾、その沈静などが渦巻の芯をなし、それをめぐって生じた雰囲気が中心となるので、学問的に見れば大学の沈滞時代にあったとも言えようが、新学制が我が国の全大学をほぼ一定規準に統一する前の、早稲田大学が養成し、伝承し、建設し来たった全特長、全欠陥が、恥部まで一切を挙げてさらけだされたような点で、興味もあり、歴史としての特色もある。この時までの早稲田は、善悪無差別に流れ込んだ事物が沈澱した深淵であり、黒潮も親潮も等しなみに吹き寄せた港湾と言ってもよかろう。