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第五編 「早稲田騒動」

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第七章 高田学長の外遊

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一 その日程

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 大正二年十月十九日、創立三十周年記念校友大会の席上、校友増田義一以下十四名の建議による高田学長欧米巡遊案が可決された。高田学長外遊の表向きの理由は、東京専門学校創立以来三十年の長きに亘って絶えず学苑経営に心血を注いできた高田に対して、校友が慰労の意を表したいためであり、多年の激務に由来する高田の心身共の疲労を癒すためであり、学長には欧米諸大学を視察して学苑の将来の発展に一層尽力してもらいたいと校友が願ったためである。高田自身はこの思いがけぬプレゼントに驚いて、自分は既に年も取っていることであるから、今更洋行したところでどれほどの利益があろうかと逡巡もしたが、一方では、長年イギリス政治学を研究してきた者としてせめてイギリスだけでもこの目で見ておきたいし、教育に携わる者として諸外国の大学教育の実態は直接見聞しておかねばならぬとも思ったので、なかなか決心がつきかねていた。しかし、十二月十三日の維持員会で「創立三十年記念祝典の際中央校友大会の決議に基き、学長高田博士をして欧米各国を漫遊せしめ、その費用金一万五千円を支出する件」が可決され、更に翌年三月十二日の維持員会では「学長不在中ハ天野理事ヲ以テ其代理トシ、事務ハ天野・市島両理事ニ於テ分担シ、教務、会計ハ天野理事、外務、庶務及基金事務ヲ市島理事担任トスル事」が決議されるに至ったのである。

 高田は翌大正三年四月十一日、欧米旅行に対する抱負を明らかにして学生・教職員に別れを告げ、明くる十二日に五百名を超す見送りをあとに、学制改革に熱心な橘静二秘書を随伴、欧米旅行の経験のある増田義一とともに新橋駅出発、大隈が首相の印綬を帯びることになったとの電報を翌日受け取ったが、下関から乗船、朝鮮、満州、シベリア経由で、約七ヵ月間に及ぶ訪欧米の途に着いた。その旅程は次の通りである。

満州里(四月二十四日発)……モスクワ(五月一日着)……ペテルブルク……ベルリン(五月七日着)……オステンド……ロンドン(五月十一日着)……ケンブリッジ……ロンドン……オックスフォード……ロンドン……パリ(六月一日着)……リヨン……ニース……モナコ……マントン……ローマ(六月十日着)……ナポリ……フィレンツェ……ヴェネツィア……ウィーン(六月二十二日着)……ブダペスト(六月二十七日着)……ライプチッヒ(七月一日着)……ベルリン……イェナ……ミュンヘン……チューリッヒ(七月二十八日着)……インターラーケン……ジュネーヴ……パリ……ロンドン(八月十九日着)……エディンバラ……グラスゴー……ロンドン……リヴァプール(九月十七日?発)……ニューヨーク(九月二十三日着)……ワシントン……フィラデルフィア……ニューヨーク……ニューヘヴン……ボストン……シカゴ……ナイアガラ……シカゴ……オークランド……サンフランシスコ(十月二十一日発)……ホノルル……横浜

 帰国途上の船中で田原栄の訃報を受け取って悲痛な面持に陥ったのも束の間、十一月六日、横浜に到着すると坪内や市島ら五百名の関係者に出迎えられ、新橋駅では天野学長代理をはじめ、三千人もの大歓迎陣が待ち受けていた。

 十一月十日、青島陥落祝勝会を兼ねて、高田学長欧米視察帰国報告講演会が校庭銅像前に開かれた。「外遊所感(教育と戦争と)」(『早稲田学報』大正三年十二月発行第二三八号二―八頁)と題するこの漫遊視察談を聞こうと集まった学生・教職員は一万を超し、高田が諸外国で得た新知識をどのように学苑に反映させるだろうかと、大いに期待を寄せた。以下の章との関係で一言触れておかねばならないのは、この席上高田が、教育ではイギリスに、学問ではドイツに、施設ではアメリカにそれぞれ長所が見られ、日本の教育方針は欧米に学ぶべき点が少くないのを再確認したと述べて、学制改革の必要性をほのめかせたことである。

二 随所随想

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 さて、高田は既述の如く、明治三十八年、清国留学生を学苑に大量に招致することによって中国の近代化に貢献し、且つ日清親善を促進する目的で、八十日余り中国大陸を視察した経験があるが、奉天訪問は今回が初めてであった。満州については、高梁と大豆しか生育しないと思っていたところが米作も行われているのに驚いて、将来の発展に期待を寄せたものの、

唯だ施政上賛成し難きは、目下の三政府鼎立の組織なること是れなり。都督府、満鉄及領事の権限明瞭ならず。其間互に権力の争ありて満洲経営を阻害すること尠からず。随て居留民の不便も甚だ大なり。之に反し露国の極東に於ける施措を見るに、総てを大蔵大臣に一任し、鉄道のこと、行政のこと、軍隊の指揮までも皆其権内にあり。東清鉄道総裁其命を受けて之を奉行するが故に何事も敏活に行はれ毫も渋滞すること無しといふ。如斯き統一的施措は日本に於ても今後倣ふの必要あり。

(『早稲田学報』大正三年十月発行第二三六号 九頁)

と述べて我が国の対満政策の盲点をつき、政治家としての高田の片鱗をのぞかせている。高田のこの政治的関心は、今回の視察が教育行政に重点が置かれていたにも拘らず、随所に随想として現れ、例えばロシアにおいては、ペテルブルク大学は参観したものの、モスクワ大学は外観だけを見るに止め、私立大学参観を等閑に付したことを悔いながらも、一九〇五年革命で誕生した国会(Duma)の傍聴には異常なほどの関心を寄せ、またドイツにおいても帝国議会(Reichstag)の見学を忘れていない。すなわち、

独逸語を解せざる余は議員の演説を批評する能はざれど、……ライヒスタツグ内部の模様は露のドウマと大差なく、要するに大陸式なり。但しライヒスタツグの空気はドウマに比して何となく沈着なるが如く事務的なるが如く感ぜられ、演説の調子も講義的なるが如く思はれたり。これ蓋し民族性質の然らしむる所歟。 (同誌大正三年十二月発行第二三八号 一九頁)

と印象を記し、露独両国の議会の雰囲気を対比している。イギリスに渡っては、五月十八日に下院を傍聴し、高田はその模様を次の如くやや詳細に伝えている。

この日の日程はWelsh Disestablishment Billの三読会にして、左まで外国人の興味を与ふべき問題にあらざれど、国会議事法(Parliamentary Practice)を調査し講義したる余に取りては、議場内の光景一として感興を起すの種ならざるは無し。議長が議事を整理する法、議員討議の模様、採決の方法等、余が前年研究したる所に寸毫も違ふ所無し。而して特に余の感じたるは議員と大臣との間に於ける質問応答の方法要領を得たるにあり。我国の議院規則(第一議会の時余が委員となりて定めたるものなり)はこの点に就て多少の改良を為すを可とす。又尚一つ感じたるは議員の態度比較的冷静にしてヒヤーヒヤーの声の如きも悠揚迫らざるの一事なり。議員相互に名を呼ばざる如きは曾てアースキン・メイの名著によりて余が説明したる所に違はず。下院の建築狭隘にして議員全部を容るるに足らずとは予ねて聞きし所なるが、陣笠連が立ん坊の如く議場の真中に立ちて首領連の演説を聴く様頗る可笑し。 (同誌大正四年一月発行第二三九号 一〇頁)

かつて高田は『読売新聞』の「国会問答」にイギリス議会の内部の有様を載せたことがあったが、ロンドン滞在中三度も議会に足を運んでその記述に誤りなきを確認し、安堵の息をついている。私事とはいえ、高田にとっては今回の外遊で得た最大の収穫の一つであったろう。

 高田外遊の本来の目的は欧米の大学制度の調査にあったから、イギリスに来た以上は少くともケンブリッジ、オックスフォード、ロンドンの三大学は参観したいと願っていたところ、ロンドン大学から学位授与式への招待状が届き、喜んでこれに列席した。そもそもこの大学は学力試験をして学位を授けるだけの場所であったが、後には授業も行われるようになったので、市中各所に施設が分散し、我が国の大学とは頗る趣を異にしているので、マイヤー学長との会談ではこの点に中心が置かれた。そのうちの一つLSEでは実際に講義を聴講し、その幹事とも意見を交換したが、この幹事が女性であったのには「一寸面喰つた」(高田早苗『半峰昔ばなし』五一一頁)と、正直に告白している。一方、ロンドンからそれぞれ汽車で一時間程の所にあるケンブリッジ、オックスフォード両大学は、その歴史の古さと規模の完備とで夙に我が国でもよく知られていたが、来て見て知る例に洩れず、ケンブリッジからは「勿論真似は出来ず、又真似可き事計りでも無きやうなれど、大学的空気の全市に充ち満ちたる光景は格別に感じ申候」(五月二十一日付絵葉書、『早稲田学報』大正三年七月発行第二三三号一〇頁)と第一印象を伝えている。そして、次のような両大学訪問感想記を残した。

私が此の剣橋と、後に牛津をも参観して第一に感じた事は、此の世界的二大学園は、確かに製造したものでなく、成長したものであるといふ事であつた。第二に感じたのは、是は勿論学問の場所であるが、主としては教育の場所であるといふ事であつた。そして其の教育の場所であるといふ事は何に原因するかと言へば、此の両学園では、コレーヂが基礎であつて、其のコレーヂなるものが学校であると同時に寄宿舎であるといふ事の為であると感じたのである。コレーヂの数は、剣橋は十八、牛津は二十一で学生の数は剣橋は三千、牛津はもすこし多い様に聞いた。又両学校町としての人口も、剣橋町は四万人、牛津町は五万に近いといふ。両大学共に所謂ユニバーシチーなるものは、各コレーヂ連合の事務所たるに過ぎないから、双方共につまり聯邦組織で、其の総事務所は極めて小さい。……私が剣橋、牛津両大学を見て全体として感じた事は、是は唯の学校でなく、日本で言へば比叡山や高野山の如きものが、学問所として発達したのであるといふ事であつた。牛津でも剣橋でも、其歴史の示す如く、昔は僧庵から起つたもので、今コレーヂと称するものは、其昔高野山や比叡山に在つた処の宿坊と称するものと同一である様に思はれる。 (『半峰昔ばなし』 五一四―五一五頁)

 イギリスの冬は長く暗い。それが、五月の声を聞くと、野山は一せいに色彩豊かに変化する。人々は重苦しい空気から解放され、思い思いの装いを凝らして、待ちに待った緑の戸外へ跳び出す。イングリッシュ・メイ。最も爽快な季節だ。こんな季節に、一行も堅苦しい任務に閉じ込められてばかりいたわけではない。ウェストミンスター寺院を訪れて英雄・豪傑・大詩人・大文豪の往時に想いを馳せ、ハイド・パークやハンプトン・コートに遊び、ロースト・ビーフに舌鼓を打ち、ロンドン塔では血塗られしイギリス史を回想し、ボート・レースの練習に目を休め、或いはバーナード・ショーの新作劇を見て旅の疲れを一時癒したのであった。そして一行がイングリッシュ・メイに別れを告げて、ドイツ留学を終えベルリンから合流していた大山郁夫とともに再びドーヴァー海峡を渡ったのは、五月三十一日のことであった。

 花の都パリでは、「学校といふよりも寧ろ宮殿に近い」(『半峰昔ばなし』五二二頁)パリ大学を参観し、ヴェルサイユ宮殿においてはブルボン王朝の盛時を偲んだ。南へ下ってはリヨン大学を訪問し、モナコではカジノに足を踏み入れたものの結局賭博には手を出さず、ストライキ最中のローマに入った。カトリック教の大本山サン・ピエトロ寺院の参詣に臨んで「あつと感嘆」(同書五二九頁)し、ヴァチカン宮殿には「目眩めくばかりの感じ」(同書五三二頁)を受け、ハドリアヌス帝の墓やコロシアムに古代ローマ帝国の盛衰を思い、ローマ大学を参観した。更にナポリまで南下してから一転北上し、フィレンツェ、ヴェネツィアを見て回って、建築・美術の荘麗さに食傷気味になりながら、アルプスを越えてオーストリアに入国し、ウィーン大学で学制等について意見を交換した後、いよいよハンガリアの首都ブダペストに至った。

 議会を傍聴し、ブダペスト大学医学部付属病院を参観し終ってから、市内各所を見物しているところへ「新聞売りが頻りに号外を売り歩くから一枚買つて見ると、墺国皇儲夫妻がセルビアの首府に於て暗殺されたといふ、驚くべき報道が記載されてあつた」(同書五四八頁)。時に一九一四年(大正三)六月二十八日のことである。

三 世界大戦に遭遇

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 この日、オーストリア領ボスニア州サラエヴォを訪問中のフランツ・フェルディナント皇儲殿下夫妻が、南スラヴ民族の統一を唱える青年に暗殺されたことから、世界を戦乱の渦に捲き込む一大動乱が勃発した。

 もとよりこのサラエヴォ事件は単に世界大戦の導火線に過ぎず、その遠因は十九世紀末期のドイツとイギリスとの対立にまで求められる。すなわち、新興工業国ドイツの生産力はイギリスのそれを凌駕する勢いを示し、ドイツ製品はイギリス製品を世界的に駆逐し始めていた。だが後発国ドイツが植民地を各地に建設し販路を拡張するためには、先発諸国とことあるごとに対立せざるを得ず、そこでドイツは軍備、殊に海軍力の増強に力を傾けた。ドイツのこの軍事政策がイギリスを仮想敵国と目するようになったのは一九〇〇年以降のことであり、イギリスもまたこれに対抗して、戦艦の基準排水量を増大し、装備を強化する弩級艦の建造に踏み切った。両国の対立は近東においても甚しくなり、ドイツ資本は、オーストリアからバルカン諸国、小アジアに至るまで浸透し、ベルリン、ビザンティウム、バグダードを鉄道で結ぶいわゆる三B政策を以てペルシア湾を狙い、イギリスの宝庫インドへの通路を脅かすに至った。かかる情勢を見て、イギリスは、ヨーロッパ列強に対して採ってきた超然たる態度をかなぐり棄ててフランスおよびロシアに接近するに至り、一九〇四年には英仏協商が、一九〇七年には英露協商がそれぞれ調印され、既に締結されていた露仏同盟と結びついて、ドイツ包囲体制と称せられる英仏露の三国協商が出現した。他方ドイツはビスマルクの同盟政策により、一八八二年、オーストリアおよびイタリアと三国同盟を結んでおり、これが三国協商と対立する形を呈したが、三国同盟がその軍事的色彩をいよいよ濃厚にし始めたのは、トルコの宗主権下にあって行政管理権だけを掌握していたボスニアならびにヘルツェゴヴィナ両州を、一九〇八年、オーストリアが強引に併合してからのことであった。ただしイタリアは、その地中海における特殊な権益から、イギリスとは到底対抗できなかったので、終始曖昧な態度を採っていたから、三国同盟といっても、その実質は独墺の二国軍事同盟のような様相を示していた。

 大戦の直接の原因となったロシアとオーストリアとの確執に目を転じよう。日露戦争後ロシアの政策はバルカン諸国に向い、汎スラヴ主義の下にバルカンのスラヴ人を糾合しようとしたため、領土内に異民族を多数抱えるオーストリアと真向から対立した。そこでオーストリアは逸速くボスニア、ヘルツェゴヴィナの二州を併合したわけであるが、これは両州在住のセルビア人の多大の反感を買うことになった。その上、多数の弱小民族が互いに牽制し合っているバルカン地方は、一方においてロシアの汎スラヴ主義に傾き、他方ではドイツの汎ゲルマン主義に依存し、「ヨーロッパの火薬庫」と称せられるほど複雑な様相を示していた。加うるに、ドイツはその近東政策を推進するに当って青年トルコ党革命後のトルコに勢力を扶植し、特にイスラム教徒懐柔策は、西南アジアからアフリカ北部にかけて勢力を固めていたイギリス、フランス、ロシアの三国に脅威を与えた。このように戦争勃発に向う諸条件が整っていたから、一触即発、何かちょっとしたきっかけがあれば、重大な紛争の起る可能性は十分あったのである。その導火線となったのが、サラエヴォ事件であった。七月二十三日、オーストリアは四十八時間の回答期限を付けた最後通牒をセルビア政府に送った。十ヵ条に亘るその内容はセルビアにとって甚だ厳しいものであって、ロシアを後楯とするセルビアには到底受け入れ難く、回答期限の七月二十五日、遂に両国の国交は断絶し、二十八日、オーストリアはロシアの調停を拒否してセルビアに宣戦を布告したので、ロシアもまた二十九日バルカンにおける軍事行動を開始した。ロシアが総動員令を発布したのが三十日の午後六時で、これを以て事態は一挙に大戦争に突入し、八月一日ドイツはロシアに、三日にはフランスに、同日フランスはドイツに宣戦を布告し、イタリアは中立を声明した。越えて四日イギリスは、ベルギーに進攻したドイツに宣戦し、アメリカは局外中立を声明した。更に英・仏は十二日オーストリアに宣戦し、我が国も新生大隈内閣が日英同盟の厚誼から二十三日にドイツに宣戦布告して青島を攻撃し、ここに文字通りの世界大戦が勃発したのである。

 高田一行は暗殺事件を伝える号外を読んで、大変なことが起ったと思ったが、戦争の暗雲はまだ彼らの身を直接覆っていなかったから、悠々と旅行を続けた。ただ、強行軍の一行にとってはヨーロッパの夏は暑く、身体も疲れていたので、トルコまで足をのばしてコンスタンティノープルを見学する予定を急遽断念して、二度目のベルリンへと急いだ。「若し此際私共が土耳古辺をまごついて其上で伯林に再遊した事ならば、其時は世界大戦は最早始まつて、我我一行は独逸領を去らぬ間にたとへ一時なりとも捕縛の運命を免かれなかつた」(『半峰昔ばなし』五五〇頁)と、高田は後年回顧している。

 今回のドイツ訪問の目的は専ら学制調査に重点が置かれ、ベルリン大学を訪れてその総長らと会見した。同大学は模範的官立大学であって、学問の場としては尊敬に値したが、教育の場としては、ケンブリッジ、オックスフォード両大学を見たときほどの感興を覚えなかった。ライプチッヒでは大学や著名な出版社や印刷所を見て回り、イェーナ大学に進化論の大家ヘッケル博士を訪ね、また、来日予定であったオイケン教授には丁重な歓待を受けた。

 ビールで酩酊したミュンヘンを去ってスイスへ向う頃、ヨーロッパの政情が険悪になってきた。いよいよ戦争の暗影が一行を取り囲み始めたのだ。早大学長としての高田の頭を悩ませたのは、当時ヨーロッパに留学中の校友や教授達をいかにして避難させるかという大問題であった。そこで方々に電報を打ち、全員スイスに集合して、その上で善後策を講じることになった。七月二十九日付スイス発信の絵葉書には、近況と今後の予定とが次のように伝えられている。

昨夕山紫水明のスウイツス国に入り申候。独逸方面よりする時はツウルツヒ市最も近けれど、先づこの所に両三日滞在、これより山に入り湖をわたり、十日計後に巴里着の筈に候。季候涼しく三伏の暑中頻りに寒さを感じ申候。

(『早稲田学報』大正三年十月発行第二三六号 一四頁)

この通信によれば、八月十日前後にはパリに着く予定になっているが、フランスが参戦したため、その日程がすっかり狂ってしまった。それだけでなく、アルプスの壮観に心身を休める暇も惜しんでジュネーヴへ急行してみると、信用状に対する支払いも既に停止されてしまったことが分った。ロンドンへ戻る手段は勿論だが、当面の問題は旅費の工面である。フランス大使館やイギリス大使館へ旅費の援助を求めたが、待てど暮せど返事がない。たびたびジュネーヴ大学を訪れたりしてやむを得ずここに逗留したが、懐は淋しくなる、大戦の動向が気掛りになるで、ホテルの食事もうまくなくなるような気がしてくる。こうして約二週間全く困り切っていると、校友の横浜正金銀行リヨン支店長(小野政吉、明二八推選)の斡旋で五千フランが送られてきた。一同にわかに生気を回復し、早速ロンドンへ戻る算段に取り掛かり、ジュネーヴのフランス領事館に鉄道旅行券を請求したが、梨のつぶてである。思い余って橘静二大山郁夫の二人を、「闖入してもよいから」と領事館へ直接取りにやらせ、漸くこれを手に入れることができた。

 一行がスイスを出国してパリ経由でイギリスに向っていた頃、学苑では「高田学長一行行方不明」の噂が流れて大騒ぎになっていた。八月上旬ロンドン到着予定との知らせがあったのに、高田からの消息が途断えてしまったからだ。一行にしてみれば、戦乱のヨーロッパを縦断しているときに、書簡を本国へ送るような余裕はなかったのであろう。大学関係者は彼らの安否を心配し、外務省からロンドンの井上勝之助大使に打電してくれるようにと依頼した。これに対して、

倫敦発本省着大正三年八月二十二日後二、〇

加藤外務大臣 井上 大使

第一九一号

貴電第一二二号高田及増田一行八月十九日無事当地ニ帰着セリ。日取追テ高田ヨリ電報ノ筈。

(『早稲田学報』大正三年九月発行第二三五号 二三頁)

という返電が入り、更には高田から八月三十日付絵葉書が届いたので、学苑では漸く愁眉を開いたのであった。

 さて、一行がロンドンを再訪してみると、かつての面影は跡形も見られない。通過してきたパリと同様、ロンドンでも、支配人から給仕に至るまで、また自動車の運転手も残らず女性に変っており、徴兵制が布かれていないイギリスでは、カーキ色の軍服を着た義勇兵が公園や空地で教練を受けているのがしきりに目についた。「国王と国家とが諸君を必要とする」というポスターが街頭はもとよりタクシーにまで貼ってあるのを見ると、いつイギリスも戦場になるか分らないという不安が湧いてきて、できるだけ早くアメリカへ渡ろうと決心したが、出航まで暫くの余裕がある。その間スコットランドへ旅行することに決めた。到着したエディンバラの駅の名前がウェーバリー駅なので、高田が東京大学の学生時代に初めて買って読んだ文豪スコットの『ウェーバリー・ノヴェルズ』をなつかしんだり、更にその駅前に立っている大理石像がこれまたスコットを記念したものであり、湖水見物のために乗った船の名前が「サー・ウォルター・スコット号」であるなど、若かりし日の思い出は尽きなかった。

四 アメリカ紀行

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 アメリカ合衆国の諸大学には本学苑の留学生が多く学び、また、その施設等を参考にして本学苑の機構に採り入れたところが少からずあるので、各大学を訪問しては謝意と敬意を表する積りでいた。しかるにニューヨークへ上陸してみると、ロンドン等のヨーロッパ諸都市と比較して人々があわただしく往来しているため、却って持病の神経衰弱がひどくなってしまった。そこで、帰心矢の如きものあるを覚えた高田はアメリカ滞在期間を三週間と定め、訪問箇所を絞ることにした。

 先ず南へ下って九月二十八日、ワシントンでは国会図書館の規模および設備に驚嘆した後、ホワイト・ハウスにウィルソン大統領を訪問した。高田は、ウッドロー・ウィルソンがジョンズ・ホプキンズ大学在学中に著した学位論文『連邦政治論』(Congressional Government, 1885)を読んでその所説に感心し、明治二十八年には、彼の『政治汎論』を翻訳した(本書第一巻七〇四頁参照)ことがある。その際手紙を交換したので、ウィルソンも高田のことを覚えていた。ウィルソンは一九〇二年以降プリンストン大学総長として名声を高めたが、同大学を学問偏重の学苑ではなく教養教育の場へと改革しようとして教授陣の反発を買ったので、遂に総長を辞してニュージャージー州知事となり、更に進んで一九一三年に大統領となったのである。このような関係から、大統領は、「貴君は政治家から教育家になつたが、私は教育家から政治家になつた」(『半峰昔ばなし』五八〇頁)と言って、高田を心から歓迎してくれた。この会見で受けた大統領の人柄に対する印象が新鮮だったので、高田が大正五年に『政治汎論』の改訳版を上梓した際、その二巻本をウィルソンに謹呈している。翌二十九日には、明治三十八年に早稲田大学を訪れたブライアン国務長官と旧交を温めて、フィラデルフィアに向い、ペンシルヴァニア大学でスミス学長との会見を終えて、ニューヨークへ戻った。

 十月三日、コロンビア大学を参観した後、日本人が五、六百人程集まったカーネギー・ホールで、彼が遭遇した大戦について演説した。アメリカ合衆国は外交の面でも貿易の面でも日本と親密で、ニューヨークには大勢の日本人が居住している。当時アメリカはまだ参戦しておらず、ドイツ贔屓が少からずいる中で、「今度の戦争は、独逸皇帝其人が発頭人である」(同書五七六頁)と断じ、通商を介して世界の覇権を握ることができた筈のドイツが、武力に訴えてそれを握ろうとした無謀は、トライチュケに端を発してベルンハルディの『ドイツと来たるべき戦争』(Friedrich vonBernhardi, Deutschland und der nächste Krieg, 1912)が宣伝した軍国主義を受け入れたためであると力説した。そして、今次の戦争は、イギリスの君民共治とドイツの皇帝独裁、イギリスの教育方針とドイツの教育方針との何れが優れているかの試金石であり、何れは連合軍側が勝利を収めるであろうと予言した。これには、ややもするとイギリス主義に対して反感を抱く日本の藩閥政府や官僚政治家に、学問上では帝国大学に、警告を発する意味が含まれていたのである。

 ニューヨークから列車で二時間余り行ったニューヘヴンにはエール大学がある。校友でエール大学教授の朝河貫一の案内で同大学を見て回り、早稲田大学で連続講義をしてくれたことのある元総長ラッド博士の自宅で、夫妻の懇ろな歓待を受けた。アメリカの大学の双璧とも言える一方のエール大学を後にして、次はもう一方の雄ハーヴァード大学をボストンに訪れたが、四十年間総長としてハーヴァードの発展に尽力し、また本学苑にも来校したことのあるエリオット名誉総長への訪問は、エリオット旅行中のため実現しなかった。これは心残りであったが、高田が昔東京大学で進化論の講義を聞いたモース博士に会えたことは、両人にとって懐しく、また楽しい思い出となった。これを東部旅行の最後として、一行は中西部へ向けて出発し、ナイアガラに立ち寄った後シカゴ大学を訪れた。明治三十八年、早稲田大学野球部が初めてアメリカ遠征を行った際に、シカゴ大学野球チームとも対戦したり、明治四十三年にはシカゴ大学野球部が来日して、同部コーチのメリーフィールドが早大野球部をコーチしたりした関係で、両校は親交を結んでいる。高田一行来校時には、幹事兼投手として我が打撃陣を苦しめたページが引続き同大学体育科教師を勤めていて、彼の案内で学内の運動施設を入念に視察し、今は教鞭を執っているメリーフィールドとも会食を楽しんだ。

 十月十四日、高田と橘は増田と大山の二人と別れてシカゴを発ち、一路サンフランシスコに直行した。アメリカ西海岸には明治以来多数の日本人が入植しており、スタンフォード大学を訪れた十月十九日には、日系人約二千人が集会した日本人基督教会でも講演を行った。明くる日にはバークレーにカリフォルニア州立大学の施設を隈なく見て回り、ホイラー学長とも意見を交換した。

 高田と橘が天洋丸に乗船、いよいよ帰国の途についたのは十月二十一日であった。訪問箇所を絞ったにも拘らず、北アメリカ大陸横断旅行は多忙且つ駆け足であったから、十一月六日に船上から日本を望んだときには、胸中ほっとしたことであろう。出発前、「再び諸君に御目に掛ります時には、精々保養を致して、少なくとも十五貫以下では御目に掛らぬ積りであります」(『早稲田学報』大正三年四月発行第二三〇号四頁)と学生・教職員に述べてきたのに、地球を約七ヵ月で一周するという強行軍であったため、また予想外の大戦に遭遇したため、瘦軀の高田は却って疲労困憊してしまった。だが、イギリスに遊ぶという若き日の夢が実現し、多くの先進諸大学を自身の目でつぶさに視察できたことは、高田にとって大きな収穫であった。なかんずく、彼ら一行が足を停めた所ではどこでも校友が大勢集まって歓迎し、便宜を図ってくれたことに対しては、高田は心から感謝し、「早稲田大学の発展の見るべきものがあることを証拠立てる」(同誌大正三年十二月発行第二三八号一一頁)ものとして、感慨に堪えなかった。こうして高田の束の間の休暇は終ったが、高田や橘が外遊で得た新知識を活用するために、出発以前に増して繁忙な日々を送らざるを得なくなることは、後章で述べられるであろう。