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第五編 「早稲田騒動」

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第三章 三十周年記念祝典と教旨の制定

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一 その準備と挙行

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 明治四十五年、この年本学苑は創立三十周年を迎えた。人間にとって三十年とはほぼ一世代に相当するが、それと同じように本学苑も、理工科の開設を主眼とする第二期計画を終えて新しい世代に入ろうとしていた。

 例えば、この頃の教職員を見ると、その数約二百に上っている。明治四十五年三月二日に温交会という各部科教職員の懇親を目的とする組織ができているが、わざわざこのような会を組織しなければならないほど、学苑は大きくなっていたのである。高田学長は、温交会の発起会において、「本大学の発展に伴ひ教職員も次第に増加し来り殊に理工科の増設せらるるや教職員の数頓に劇増し、各科教職員にして御互其の顔を見識らぬ者も尠からざる有様に立ち至」った(『早稲田学報』明治四十五年四月発行第二〇六号一一頁)と述べている。因に、「毎年四回会員の会合を催し、晩餐会・園遊会等を開く」と規約に定められたこの温交会は、爾来毎年数回の会合を重ね、昭和十一年には創立二十五周年記念祝賀会を催すに至ったが、翌年春の観劇会を最後に、「時局に鑑み」て一切の集会を自粛せざるを得なくなり、やがてその歴史を閉じることになった。戦後、このような教職員一同を包含する親睦会が再建されないのは、恐らく学苑があまりに大きく膨脹したからであろう。

 また、この頃多くの著名な外国人が学苑を訪れるようになった。その中で、殊にアメリカからの来校者が多い。例えば、大正二年一月にはカーネギー平和財団の日米交換教授としてハミルトン・メビー博士が、同年三月にはシカゴ大学社会学教授のチャールズ・ヘンダーソン博士が、同年四月にはハーヴァード大学のフラーンシス・ピーボディー神学博士が、大正三年九月にはミシガン大学のヘンリー・アダムズ博士が、更に大正四年二月にはシカゴ大学神学部長シェラー・マシューズ博士およびギューリック博士らが来校し、講演を行っている。アジアからの訪問者を見れば、孫文が大正二年二月に、インドの文学者タゴールが大正五年六月に、学苑を訪れている。このように、早稲田大学は単に国内的にだけではなく、国際的にも一つの地位を占めるまでになってきたのであった。

 さて、三十周年記念祝典の挙行は、たまたま明治天皇の崩御に遭遇したため、翌大正二年に延期されたが、その準備は高田学長を中心に進められた。高田は、特に次の三件を計画した。第一は「早稲田大学の教旨を定め……祝典の式場に於て大隈総長に之を宣言してもらふ事」(高田早苗『半峰昔ばなし』四八一頁)であった。本学苑がその建学の理念を明らかにすることは、三十周年記念式典にとって、最もふさわしいことであったと言えよう。また、教旨の制定は本学苑百年の歴史にとっても特筆すべきことに相違ない。高田の計画の第二は「校旗を造り、又総長以下教職員の式服を定め」る(同書四八二頁)こと、第三は「世界の有名な諸大学に招待状を発して代表者の参列を求め、若し其事が出来ぬならば、祝辞なり電報なりを送つて」もらう(同書四八二―四八三頁)ことであった。この祝典計画案は、大正二年九月十日、恩賜記念館会議室で行われた祝典準備委員会に提案され、承認を受けた。それに従って祝典諸行事の日程と各準備委員の分担が定められ、準備が進められていった。こうして準備は完了し当日を待つばかりになったので、祝典に先立つ十月十五日、大隈総長は、『創立三十年紀念早稲田大学創業録』と記念写真帖を携え、宮中に参内して、上表を奉呈した。

 さて祝典第一日目の十月十七日はあいにく朝から雨模様であった。しかし、花火が打ち上げられ、早稲田界隈では、祝意を表するため大行燈、国旗、提燈等が飾られた。また、本日の盛儀に列するために参じた人々は賓客・校友等約一万、学生約一万、合せて約二万名に上った。

 式典は、校旗を先頭とした大隈、高田、教職員等の入場によって開始された。この時、大隈らは式服・式帽で身を装っていたが、前述の如く、校旗と式服・式帽は高田の発案により今回新たに作られたのである。校旗は今和次郎のデザインにより赤地の塩瀬に金糸で校章が円形に刺繡されてあり、式服・式帽はイギリス流のガウン・エンド・キャップである。これらは何れも高田の秘書橘静二の案に出たものであった。橘静二は高田の同級生橘槐二郎の兄顕三の息で、明治四十一年文学科卒業後、学苑の事務所に勤務、四十四年野球部の第二回渡米の際私費により同行、シカゴ大学その他で大学経営の実際を学び、ヨーロッパをまわって翌春帰国後、学長秘書に登用されていたのである。

 さて式典は恙なく進行し、高田学長、渋沢栄一基金管理委員長に続いて、大隈総長が登壇した。ここで大隈は教旨の宣言を行ったのであるが、これについては節を改めて述べることにする。このあと松平頼寿伯爵が頌辞を呈し、英国諸大学を代表して菊池大麓男爵が、米国諸大学を代表してウィリアム・インブリー博士が、それぞれ祝辞を述べた。更に、総理大臣その他の祝辞朗読があって、盛典は滞りなく終了した。また、高田の希望通りに、この式典に対して世界の諸大学から祝辞・祝電が多数寄せられ、その数は「殆んど百余に至つた」と報告されている。

 式後、恒例により大隈邸において園遊会が開かれ、数千名の人々が饗応の立食に舌鼓を打ち、歓を尽して今日の盛儀を祝し合った。

二 教旨の制定

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 既述の通り、教旨制定は高田の発案によるものであり、三十周年記念祝典の一環であった。従って、教旨制定作業は祝典準備と並行して進められた。明治四十五年一月三十一日の維持員会で教旨起草委員会の設置が決議され、その委員に天野為之坪内雄蔵浮田和民松平康国塩沢昌貞金子馬治中島半次郎の七名が学長より指名せられた。この七委員により同年二月二十四日以降委員会が数回に亘って開かれ、教旨草案は何回か修正されて、最終草案に至ったものと思われる。市島春城手稿『雙魚堂日載』巻十一に、中島案と二つの坪内案とが残されているが、市島によると、「先づ従来唱ひつつある事を試みに文章に綴つて見ん」とて執筆された中島案は「余りに幼穉なる言ひ廻はしの処あり、余りに露骨なる所あり、又余りに長きに失し、到底宣言などとしては不適当」なので、坪内が改作して、「先づ完全に近かし、唯だ字句に於て未だ穏かならざるもの」がある草稿を得、これが最終草案の骨格となったようである。とはいえ、何れの案においても、学問の独立、学問の活用、および模範国民の造就の三つが中心であることに相違はない。委員会の討議を経て作成された最終草案は、更に大隈の意見を採り入れて修正され、左の如く教旨が制定された。

早稲田大学教旨

早稲田大学は学問の独立を全うし、学問の活用を效し、模範国民を造就するを以て建学の本旨と為す。

早稲田大学は学問の独立を本旨と為すを以て、之が自由討究を主とし、常に独創の研鑽に力め、以て世界の学問に裨補せん事を期す。

早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て、学理を学理として研究すると共に、之を実際に応用するの道を講じ、以て時世の進運に資せん事を期す。

早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て、立憲帝国の忠良なる臣民として個性を尊重し、身家を発達し、国家社会を利済し、併せて広く世界に活動す可き人格を養成せん事を期す。

 右の教旨に強調された「模範国民」は、中島案によれば、左の如く説明されている。

所謂模範国民とは世界に対しては世界的国民として働き、国家に対しては立憲思想を有し、自己に対しては自敬・自重の念、健剛・不屈の意力を有する人を謂ふ。 (『雙魚堂日載』巻十一)

すなわち、大隈が、明治四十三年三月に刊行した『国民読本』において、

我国民にして能く東西文明の調和者たる天職を理会し、之を全うするの覚悟あらんには、其影響する所、列国間の嫉妬漸く衰へ、人種問題の偏見次第に去り、国際の関係は、武装に頼らずして、平和に融合し、人道に則りて、互に文化を進め、幸福を図るの日を来さん。 (一九七頁)

と論じ、また、

我等は至誠なるべし、我等は正義にして、仁愛なるべし。我等は剛健なる意志に兼ぬるに、犠牲の精神を以てすべし。

(一九九頁)

と説いているところと一致する。大隈が『国民読本』の普及に熱意を持ったことは二八九頁に既述したところであるが、大隈は、東京にあっても四十三年十二月、六日間に亘って学苑の大講堂に国民教育講習会講演会を開催し、その速記を出版し(『国民教育東京講演』)、更に翌四十四年には自らの監修になる『国民教育青年講習録』を発刊するなど、少からぬ精力を注いだのであり、その理想が教旨の中に盛り込まれたのであった。

 こうして制定された教旨は式典当日に大隈総長によって宣言され、大隈は更に語を継いで次のように説明した。

世界の文明は停滞するものでない。世界の文明は日に進歩しつつある。総て世界の思想・感情、総て社会の状態は日に月に変化しつつある時に当つて、国を立て社会を為し、又この国と社会との為に大学教育を施さんとするには、其根本として雄大なる理想がなくてはならぬ。今、日本は将に東西文明の接触点に立つて居る。吾人の大なる理想は文明の調和者として、東洋の文明と西洋高度の文明と並行せしめ、調和せしむるにある。吾人はこの理想の実現に努めなくてはならぬ。此理想を実現するには、何としても、学問の独立、学問の活用を主とし、独創の研鑽に力め、其結果を実際に応用するにある。而してこれに任ずべきものは個性を尊重し、身家を発達し、国家社会を利済し、広く世界に活動することを以て自ら任じ、又其任に堪ゆる所の人格にある。是即ち模範国民である。 (『早稲田学報』大正二年十一月発行第二二五号 九頁)

すなわち、進歩しつつある世界において国家社会のために行われる大学教育がその基礎とすべき理想は東西文明の調和であると断じ、その理想を実現するためには、学問の独立を全うすること、学問の成果を実際に応用すること、およびその任に当るべき模範国民を造就することの三つが根本であると、力説したのである。なお、塩沢昌貞の記すところに従えば、「模範国民といふ言葉は、高田先生の創意から出た造語であつて、先生は早くからよくこの言葉を使つてをられた」(「高田先生を憶ふ」『早稲田政治経済学雑誌』昭和十四年二月発行第六三号七頁)という。

 ところで、教旨によって明らかにされた早稲田大学の教育の本旨の基本は、左の如く、既に明治十五年十月二十一日の東京専門学校開校式において小野梓によって宣言されたものであった。

一国ノ独立ハ国民ノ独立ニ基ヒシ、国民ノ独立ハ其精神ノ独立ニ根ザス。而シテ国民精神ノ独立ハ実ニ学問ノ独立ニ由ルモノナレバ、其国ヲ独立セシメント欲セバ、必ラズ先ヅ其民ヲ独立セシメザルヲ得ズ。其民ヲ独立セシメント欲セバ、必ラズ先ヅ其精神ヲ独立セシメザルヲ得ズ。而シテ其精神ヲ独立セシメント欲セバ、必ラズ先ヅ其学問ヲ独立セシメザルヲ得ズ。

(本書第一巻 四六二頁)

この「学問の独立」という東京専門学校建学の理想は、三十年後、早稲田大学教旨として改めて学苑の基礎に据えられ、これに模範国民の育成が加えられたのである。再び塩沢の言を引用すれば、「教旨は勿論一時的の思ひ付きでは決してなく、東京専門学校創立以来の早稲田精神の結晶に外ならない。此の教旨に盛られた内容が老侯建学の理想であることは言ふ迄もないが、それが斯様な形を整へて現はれるに至つたのには高田先生の抱負が多大に織り込まれてゐるのである」(「高田先生を憶ふ」八頁)。この教旨は、大正五年に前島密の筆により欅の板額に刻された。

三 その他の行事

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 祝典第一日の十七日の夜、提燈行列が行われた。提燈行列は、先に二十周年祝典・二十五周年祝典の時にも催され、学苑挙げての祝典行事の一つとなったが、今回は第二期計画が完成し、理工科学生・工手学校生徒等も加わるようになったので、その盛大さは先の両回のそれに優るとも劣らないものがあった。

 式典後、教職員・学生・校友等一万有余の会衆は各自所定の場所に集合していたが、午後四時四十分一発の花火を合図に、一せいに提燈に点火した。学苑周辺は紅火の海と化し、勇壮な校歌は各所から起り、行進が開始された。大集団は六つの分団に組織され、あらかじめ指示された「行列心得」に従って粛々として列をなし、おのおの定められたコースを通って皇居前まで行進し、大隈の音頭により万歳を三唱して解散したが、沿道では、各会社・商店が趣向を凝らしてこの挙に讃意を表し、行列を歓迎した。

 十八日には向島において水上運動会が、また翌十九日には大運動場において陸上運動会が、何れも多数の観衆を集めて盛大に挙行された。

 また、十八日午後四時から上野精養軒で祝賀校友大会が開かれた。これは、創立三十周年祝典に出席のため地方から上京してきたおよそ一千名の校友を犒わんため、中央校友会が主人役となって催したもので、勿論大隈総長、高田学長以下教授・講師等をも招待したものであった。ここで、総長、学長、理事、教授等の三十年間に亘る尽力に対し、校友一同の謝意を表するため、記念品を贈呈することが報告された。次いで校友会は、高田学長を欧米諸国教育行政視察のため「欧米に漫遊せしめられんことを希望す」(『早稲田学報』第二二五号三〇頁)との建議を採択した。

 二十日には、学苑の物故功績者にこの祝典挙行のことを告げ、併せて英霊を慰めんために、殊に広い範囲に亘り墓参が行われた。すなわち東京では、高田学長、市島理事、田原高等予科長らが小野梓鳩山和夫、佐藤善長、山田喜之助秀島家良、前田秀村、金子昌明、永田碩次郎、山岸岩根、今井鉄太郎、吉川義次の墓所へ香花を手向け、地方においては、それぞれの校友会が学苑を代表して南部英麿、三宅恒徳、大西祝山田一郎、牧野啓吾の墓に参った。当日、更に功績者を偲ぶ演説会を大講堂に開き、早稲田中学校幹事・校友・増子喜一郎南部英麿を、市島理事は山田一郎を、金子馬治大西祝を、高田学長は鳩山和夫を、大隈総長は小野梓をそれぞれ追悼した。なお、この期における学苑関係の物故者は五十名であった。

 十九、二十一日の両日には、校外教育大講演会が市内六ヵ所の会場において本学苑教授三十余名の出演を乞い開催された。その演題ならびに演者は左の通りである。

十月十九日(日曜日)各所共午後一時より

築地本願寺に於て

一、開会の辞 教授・法学博士 塩沢昌貞 一、社会生活より見たる東西文明 教授 山崎直三

一、国の盛衰興亡 教授 煙山専太郎 一、企業の精神 教授・法学博士 塩沢昌貞

一、列強の地理学者を以て国家的生命となす所以 教授 志賀重昻 一、法律と常識 教授・法学博士 中村進午

浅草本願寺に於て

一、開会の辞 教授 中島半次郎 一、文明と犯罪 教授 井上忻治

一、世界文明に及ぼす商業の勢力 教授 杉山重義 一、近代文学と人生の暗黒面 教授 片上伸

一、独逸に於ける社会教育事業 教授 中島半次郎 一、強き国民 教授・文学博士 吉田東伍

両国回向院に於て

一、開会の辞 教授 内ヶ崎作三郎 一、社会と保険 教授 宮島綱男

一、近代文学とアルコール中毒 教授 山岸光宣 一、大国民の資格 教授 内ヶ崎作三郎

一、世界史上日本の地位 教授 平沼淑郎 一、成功の人とは何ぞや 教授・文学博士 遠藤隆吉

十月二十一日(火曜日)各所共午後五時より

神田青年会館に於て

一、開会の辞 教授 服部文四郎 一、建築の変遷 教授 佐藤功一

一、現今の金融 教授 服部文四郎 一、石炭の話 教授・理学博士 徳永重康

一、独占事業論 教授 安部磯雄 一、学制改革と大学教育 学長・法学博士 高田早苗

本郷中央会堂に於て

一、開会の辞 教授 坂本三郎 一、如何に海運補助法を改正すべきや教授 伊藤重治郎

一、法律上より見たる女 教授 坂本三郎 一、戦争の意味 教授 永井柳太郎

一、精神上の解放 教授 金子馬治 一、通貨的暗黒時代 教授・法学博士 天野為之

芝三田惟一館に於て

一、開会の辞 教授 青柳篤恒 一、動力としての電気 教授 山本忠興

一、見たままの北京 教授 青柳篤恒 一、早稲田大学発展の気質観 教授 五十嵐力

一、興国の意義 教授・法学博士 田中穂積 一、第二維新 教授・法学博士 浮田和民

(『早稲田学報』第二二五号 四九―五〇頁)

 また、十八日から二十一日までの四日間、政・法・文・商・理工・高師各科および図書館の主催により各種展覧会が催された。これは非常な人気を集め、観覧者数は一日平均四万二千にも上ったという。

 これら一連の行事とは別に、十一月一、二、三日の三日間、名古屋・大阪において校友大会・講演会が行われ、記念諸行事のプログラムを締め括った。

四 早稲田大学への期待

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 今回の祝典は、一般社会からも大きな好意を以て迎えられた。例えば『二六新報』(大正二年十月十六日号)は、祝典を「綜合大学たるの本質を具備し名実共に私学の雄鎮たるに背かざるに至りし前後三十年の発展を記念するのみならず、更に大正新時代に於ける劈頭の文明運動としても永く記念さる可き価値十分也」と称讃している。その他、多くの新聞・雑誌が祝典の模様を連日詳しく報じており、祝典に対する巷間の関心の高さを窺知させる。それはやはり、「早稲田大学の前身者たる東京専門学校の遭遇したる迫害と誤解と、それに処して宜しきをえたる当局者の態度」(『六合雑誌』大正二年十一月発行第三九四号一二六頁)への同情と共感から出たものであったろう。

 しかし、このような称讃や高い関心は、官学とは異った独自の理想を掲げて立つ本学苑に対する大きな期待と表裏の関係にあると言わなければならない。例えば『二六新報』(大正二年十月十八日号)は、「早稲田今日の事、久遠なる学徒が理想の上より之れを見れば、未だ一階梯的成功に過ぎずと云ふを妨げず、希くば永く進取の精神を以て大なる使命を完成するに力めよ」と強い希望を表明している。本学苑は三十周年記念祝典に際して、今まで以上に大きな責務を負って新たな一歩を踏み出すことになったのである。