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第五編 「早稲田騒動」

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第二十一章 天空翔る校友と校友会

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一 校友天空を翔る

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 学苑を巣立った卒業生は、社会でどのような活躍をしただろうか。この興味深い問題を解く手掛りとして、試みに『早稲田大学校友会会員名簿』(大正元年十一月調)を調べてみよう。大正元年を選んだのは、学苑が早稲田大学を呼称してから実質的に早稲田大学となるまでのおよそ二十年間のほぼ中間に位置し、また最初の東京専門学校卒業生を送り出してからほぼ一世代を経過しているからである。調査の対象は、清国留学生部卒業生、校外生、推選校友を除いた全学科の卒業生である。ただし、ある学科を卒業した後に別の学科に再入学し、そこをまた卒業した者については、以下の集計では、最終卒業学科のみを調査の対象としたから、卒業生総数は八、五九八名である。しかし、一人で二つ以上の職業分類に該当する者は、その各々に包含したため、ここでの調査は延八、七七〇名について行われたこととなり、右記の卒業生数とは一致しない。

 一定の調査様式を有する国勢調査などとは異り、『早稲田大学校友会会員名簿』に依拠する職業調査には若干の難点が伴う。先ず、すべての卒業生が不断に各自の現住所や職業を校友会に連絡しているわけではないから、連絡のない者の職業欄は空白になっている。大正元年の時点では、存命と推定される卒業生八、〇二八名中、約五〇パーセントを占める三、九八九名が職業の通知を怠っており、外国人卒業生に至っては、職業欄に記載のある者の方が寧ろ稀である。次に、職業名が記載されていても、それは必ずしも当該年のものとは限らない。また、一定の分類に従って職業名が記されておらず、各人の肩書から推測するほかはない。しかし、こうした欠点があるにも拘らず、『早稲田大学校友会会員名簿』には興味深い傾向が示唆されている。

 先ず政界への進出振りであるが、貴族院、衆議院、県議会等々の各種議会に議席を占めている者の数は九一名である。その内訳は、貴族院二、衆議院二一、その他六八である。ここでの特色は、何と言っても邦語政治科や英語政治科などの政治科出身者が全体の七割近く、すなわち六二名を占めていることである。これに次ぐのは、法律科・行政科などの法科出身者で、二二名いる。次に、郡市町村長で、三四名を数える。ここでも政・法両科出身者の進出が目立ち、前者は一九名、後者は一二名である。結局、校友の議員ならびに郡市町村長全体の約六五パーセントを政治科が、約二七パーセントを法科が占めていることになる。

 判・検事を除いた公務員数は四三一名であり、これは調査対象者総数の約五パーセントに当る。官界においても、政界の場合と同様、政・法両科の出身者が多く、共に一六三名ずつ、合計三二六名に達している。

 法曹界では、弁護士が一番多く、五三名である。次に判事が三一名、検事が二一名いる。ここはやはり法科出身者の独り舞台で、全一〇五名中の九九名が法科出身者である。

 教育界に活躍の場を持つ者は六五八名、全体の約八パーセントである。これは、次に述べる一般企業に就職した者に次ぎ、第二位を占めている。その特徴は、上述の政・官・法曹界とは対照的に政・法両科の出身者が少く、反対に文科および高等師範部のそれが著しく多いことである。すなわち教育界に活躍する六五八名中文科出身者は三一六名、高等師範部出身者は二六一名を数え、双方合せて約八割にも及んでいる。従って、文科および高等師範部出身者中に占める教員の割合も、他の学科に比べて著しく高く、それぞれ約二七パーセントおよび約四四パーセントを示している。なお、右の教員中には学苑で教鞭を執っている四〇名が含まれており、この内文科出身者が一七名と最も多く、次いで政治科八名、法科五名などとなっている。

 次に一般企業で働くいわゆるホワイト・カラー層であるが、その数は会社の役員が一八二名、一般社員が一、四五二名、合せて一、六三四名に上っている。これは他の全職種よりも抽んでて、全体の約一九パーセントに相当する。ここでの特色は商科出身者の進出振りで、役員一四名、一般社員七六八名、合計七八二名と、会社員総数の約四八パーセントを占めている。また、この数は、商科の調査対象者一、九六一名の約四〇パーセントに相当しており、商科卒業生の多くが経済界への進出を目指していたことが窺われる。商科に次ぐのは政治科で、役員一〇八名、一般社員四四五名、合計五五三名、第三位は法科でそれぞれ四七名、一五四名、合計二〇一名を数える。また、理工科では明治四十五年に最初の卒業生を出したため、調査対象者の絶対数は三七名と少いが、その約七六パーセントに相当する二八名が一般企業に就職している点も注目に値しよう。

 更に操觚界を見ると、ここに進出した校友は全部で四二九名であり、判・検事を除いた公務員とほぼ同数の者が文筆を業としていることになる。ここでは政治科および文科出身者の活躍が著しく、政治科が一九八名、文科が一三五名、両科合計して全体の約八割を占めている。具体的には、新聞記者が三〇八名、この内政治科が一六二名、文科が七四名である。雑誌・出版関係者は一〇二名で、政治科が三〇名、文科が四九名である。この他著述業を営む者が一九名おり、政治科が六名、文科が一二名を占めている。操觚界で政・文両科に次ぐのは、五四名の法科出身者であり、中でも新聞記者は四二名を数えている。

 以上のほかに数の上で無視し難いものに、農林漁業や小規模な商工業を営んでいると思われる校友がある。すなわち、その数は四六七名、全体の約五パーセントを占めている。この半数は政治科出身の校友で二三九名、次に多いのは法科の一一〇名、商科の八八名である。すなわち政・法・商三科で約九四パーセントを占めているのである。

 さて、以上の数字に含まれる具体的な個人に目を注いでみよう。

 先ず、何を勘違いしたのか、殿上人の若子が、当時反逆人の集まる学校と言われた早稲田の泥田に舞い降り、修学のすえ貴族院議員に収まっている。すなわち、六五四頁に一言した舟橋遂賢子、および六五三頁で触れた杉渓言長男がそれである。

 『早稲田生活』に記されているように、大正二年における錚々たる学苑出身代議士には、十七年出の辻寛(政治経済学科)、十八年出の川上淳一郎(政治学科)、十九年出の井上広居(同)、二十年出の青地雄太郎(政学部)、早速整爾(同)、二十一年出の有田温三(同)、松本恒之助(英学部)、二十三年出の西村丹治郎(邦語政治科)、田川大吉郎(同)、二十八年の関和知(同)、三十三年出の紫安新九郎(同)などがある。この中で最も異彩を放っているのは、広島商業会議所会頭・芸備日日新聞社長で、院内における雄鎮たるのみならず、毎期議会の壇上で熱烈な雄弁を揮っている早速整爾であろう。田川大吉郎は『都新聞』の主筆で、東京市の助役でもある。この外代議士としてかつて議席に列した経験のある者に、十八年出の降旗元太郎(政治学科)、森田卓爾(法律学科)、二十三年出の三田村甚三郎(邦語政治科)以下、数多くの者がいる。

 郡市町村長としては、姫路市長の堀音吉(明二四邦語政治科)と、高松市長鈴木幾次郎(明二六同)の二人きりが市長とはあまりに淋しく、郡長五、町長一一、村長一六というのも、いささか冴えない嫌いがある。

 判事には名古屋控訴院判事浦部章三(明一九法律学科)、長野地方裁判所所長三田幸司(同)、久留米区裁判所監督判事永富貞平(明二七邦語行政科)があり、検事では長野地方裁判所検事正の小林登志吉(明二五邦語政治科)をはじめ、富山の長谷川定(明二二邦語法律科)、樺太地方裁判所の遠藤恭三郎(明二六邦語法律科)などが有名であった。弁護士達も全国各地で第一線に立って活躍し、庶民の信頼を一身に集めて名を得ている者が多い。ただし弁護士会会長を務める者は、広島の森田卓爾と、福井の彦阪矩雄(明二五英語法律科)の二名のみで、これに広島弁護士会副会長の藤田若水(明三一邦語行政科)を加えても、いささか物足りない。

 「稲門出の実業家としての傑物」と言われる前日本鉄道専務取締役山田英太郎(明一八政治学科)は、日本鉄道が政府に買収された後、成田鉄道監査役で日清生命の取締役を兼ねている。成田鉄道には専務取締役に斎藤和太郎(明一七政治経済学科)、取締役兼営業部長に堀内計策(明二三邦語政治科)がいて、「宛然早稲田の所有物」(『早稲田生活』三〇六頁)の観さえある。その他能勢電鉄社長太田雪松(明二四邦語政治科、パワー商会主、養老鉄道相談役)、高野登山鉄道支配人早川徳次(明四一大法、後の東京地下鉄創設者)なども、鉄道関係者中に発見される。

 銀行界の重鎮は、もっと数が多い。明石銀行取締役鞍谷清慎(明一七政治経済学科、明石農業会社長)、長岡銀行常務取締役広井一(明一八政治学科、長岡商業会議所特別議員)、長岡銀行および栃尾銀行取締役川上淳一郎、増田ビルブローカー銀行専務取締役高山圭三(明一八法律学科、関西信託専務取締役)、宮口銀行頭取伊藤市平(明一九政治学科、中央製糖監査役)、明治銀行常務取締役上遠野富之助(明一九政治学科)、土浦商業銀行取締役・茨城県農工銀行監査役桜井平兵衛(明二四邦語政治科)、東京農工銀行および扇町屋銀行取締役森田退蔵(明二〇法学部)、村井貯蓄銀行取締役村井五郎(明四一大商、後の村井銀行常務取締役)など枚挙に遑ない。

 その他各種業界で活躍している名を一々ここに列挙することは紙幅が許さないが、中で二、三、きわめて異色の人材を抽出してみよう。

 南方常楠(明二二邦語政治科)は、学生時代は「政治が好きであつたので終始大隈家へ出入して」いたが、種々の事情から「郷里和歌山で酒屋を始めることになつた」(『早稲田学報』昭和二十七年四月発行第六一九号一一頁)。その後十数年、鋭意精進のすえ、事業も軌道に乗るに至ったが、その酒銘を「世界一統」といい、その名付親が大隈重信であるという。市島謙吉によれば、

明治四十年頃のことである。紀州和歌山の校友南方常楠氏が酒屋をやつて居るところから、新しく作つた酒の命名を侯の許へ懇請して来たことがあつた。其時、私は侯に侍して居たので、侯は私に向ひ「君は酒客で、酒中の趣を一番よく知つて居るから、一つ好い名を付けてくれ」と云はれた。私は即座に引受けたが、さて何と命名して宜いか一寸思ひ付かなかつた。ところで侯は、何でも大袈裟なことが好きで、豪快な気宇を有して居られるから、先づ其辺から、考へて行かうと思つて、世界統一と云ふことなどから考へて「一統」と命名することにした。勿論、一統は「一等」に通ずるし、酒界を一統すると云ふ意味も含まれるし、どの点から考へても、侯の大袈裟な趣味と一致するだらうと思つた。それで此事を侯に話すと、侯も「それは極めて適当だ、吾輩は大賛成だ」と云はれたので、愈々「一統」とすることとし、其上へ、横に小さく「世界」と割つて入れることにした。

当時、私はある用事で、折々、幸田露伴氏と八百善で会飲したことがあるので、其席上、露伴氏得意の釣の話など聞いたが、序に、「一統」のことを話すと、露伴氏も共鳴した。そして「一統」のため、短い賛辞を書いてくれられた。

世界一統

三杯大道に通じ、一斗自然に合す、酔郷由来彼我を分たず、其気は和平、其俗は大同、寰宇おのづから合して一となる。偉なる哉酒、一統と名づくべし。

此「一統」は、紀州で評判になつて、極めて売行が善いと聞いた。侯と酒の命名とは、侯が壮年時代に大酒家であつた丈に面白い、侯は、衛生上、晩年は殆ど一杯さへ飲まれなかつた。そして私等が酒を飲んで居ると「羨ましいなあ、君等は大に飲めるから」と能く云はれたことがあつた。 (『大隈侯一言一行』 一三―一六頁)

 大正十年頃朝鮮輸業ならびに東洋鑿井給水社長となった内山守太郎(明二八邦語政治科)は、長野県が故郷であったが、卒業後いくばくもなくして朝鮮開拓に乗り出し、この地を第二の故郷として活躍した。彼は終始事業そのものを生命とし、寧ろ趣味とした。彼にとっては失敗や成功は問題でなかった。『早稲田学報』第四一三号(昭和四年七月発行)によると、

君が早稲田を出た許りで、就職に困つたあげく、君は単身東京鉄道会社に未知の中野武営氏を訪れた。そして君の言つたことが振つてゐる。僕は相当使へる人間だと思ふから是非使つて見て貰ひたい――と自己推薦に及んだものだ。すると中野氏も又変つた人で、よし使はう、となつて「一ケ月金十五円を給す」で此会社に飛込んだ。これが君が社会に踏出す第一歩であつた。一方事業を生命とする人だけあつて、仕事には若い時から熱心な人だ。嘗て君が東洋拓殖会社に関係されてをつた頃、東拓で朝鮮に模範農場を作る為に土地を必要としたのだが、鮮人の猛烈なる反対に遭つて、大いに困難をしたことがあつた。その時君は草鞋脚絆で、身に迫る危険を心にも掛けず、朝暗いうちから土地買入に東奔西走終に目的を達したといふ。(三二頁)

 新宿中村屋の主人相馬愛蔵(明治二三邦語行政科)は、平将門の流れを汲むと言われる気骨ある士であった。人に使われるのを極度に嫌い、卒業するや飄然故郷の信州に帰って蚕種製造に取り組み、県下随一の製造家になったが、その繁忙期は一年のうち僅か二ヵ月で、あとの十ヵ月は寝喰いというのが実状であった。彼はこの徒食に飽き足らず、遂に明治三十四年、前途有望の仕事を求めて上京した。素人でもやれる商売を探し求めた結果、彼が最後に白羽の矢を立てたのがパン屋であった。しかし、パンが日本人の日常生活に融け込むか否かは未だ疑問であったので、三ヵ月間一日二食パンを主食に切り替えてみた。その結果漸く確信を得、本郷帝大正門前の中村屋を買い取り、屋号もそのままにしてパン屋を開業した。開店創業の成績は良好とは言えなかったが、彼一流の商魂と宣伝上手により、またたく間に得意をふやし、帝大・一高生をはじめ、付近の官公庁にまでパン常食者の数を激増させた。本郷店で成算を得た時、彼が思い立ったのは新開地開拓の第二弾で、焦点を新宿に絞った。大正初期までの泥臭い町新宿へ近代的なパン店を造り、英国風の落ち着いた二階で独得のライスカレーを提供したのだから、奇を好む文人画家達が参集し、一杯のコーヒーを啜りながら、談論風発に時を過したのも当然であった。新宿文化というものがあるならば、中村屋と、そこに群がる文化人が創造したとさえ言えるかもしれないが、その温床を造ったのは、インドの革命家ボースを匿ったことにより「今様天野屋利兵衛」として全国に名を知られるに至った我が相馬愛蔵であった。

 操觚界に目を転ずると、しばしば比較される東京帝大出身者は、官界進出が悲願であるため、文筆を操る者とは当時縁遠い観があった。他方、私学の雄慶応には、福沢諭吉の薫陶を受けて文筆を嗜む者もなくはなかったが、実業界進出者に比べて、操觚界に名を現すことは少かった。そこへ行くと学苑からは、口に政治・経済を論じ、筆で文化を語る校友が簇出して、まことに繚乱目を見張るものがあった。彼らは、思想が時代を指導し、或いは変革し、甦生し、創造することを知っており、我こそそれを醸成するものとの自信を持っていた。

 学苑出身の新聞記者が何故他の大学出身者を凌駕し、我が国の操觚界を独断するかという理由について、市島春城は、大隈が既にして偉大なジャーナリストであったことをあげている。大隈は天性の大記者たる資格を具えていた。そして、そうであったればこそ、学苑の学生に与えた影響は大きかった。大隈が学校の講壇で新聞学や記者術などを教えたことは勿論なかった。また大隈は、自ら筆を執って文章を書くこともなかった。しかし、日々諸新聞紙上を賑わす大隈の言説は、学生にとってこの上ない好読本であった。大隈は実際に新聞の持つ威力を認め、それを効果的に操縦した最初の政治家であり、また、明治の政治家にしてそれをなした唯一の人であったと言える。一九一三年(大正二)の米紙『アウトルック』に載せられた、ハミルトン・ライト・メビーとの会見においても、大隈は六種類の新聞発刊に力を貸したと言っている。大隈がいかに新聞に関心を持っていたかがこれによっても分るであろう。

文科が置かれてから一層ジヨルナリストが殖えて、どの新聞雑誌でも、記者として又経営者として早稲田出身者が其位地を占め、新聞雑誌記者と云へば幾んど早稲田の得業生に限られてゐるかの観を呈し、山県元帥などは常に之れを忌憚したと云はれてゐる。 (『随筆早稲田』 二四三頁)

と、市島は、時勢に対するこれら早稲田人の言論がいかに大きな勢力を持っていたかを物語っている。

 多士済々たる記者のうち、特に有名人を挙げてみても、東京朝日新聞には、大正三年編集局長となり、穏健な論陣を張り、六年に読売新聞の社長となった松山忠二郎(明二七英語政治科)があり、その下に後世政治家に転向して、ユニークな活動を続けた緒方竹虎(明四四専政)や中野正剛(明四二大政)があり、国民新聞には、これを再興した敏腕家で、また京城日報の社長となった吉野太左衛門(明三三邦語政治科)がある。また、やまと新聞には福田常松(明二五邦語司法科)、安田与四郎(明三四英語政治科)があり、この外、大阪日日新聞には倉辻明義(明三一英語政治科)、万朝報には細野猪太郎(明二六邦語政治科)、都新聞には林田源太郎(春潮、明二九文学部)が活躍していた。更に天野の薫陶を受けた植松考昭(明二九英語政治科)と三浦銕太郎(明二九邦語政治科)とを幹部とする東洋経済新報には、石橋湛山が経済記者として健筆を振っていた。このうちの異色を挙げると、先ず第一に指を屈するのが緒方竹虎である。明治二十一年生れの彼は中学時代から中国相手の貿易商人になろうとする考えを抱き、三十九年の夏、上京して東京高等商業学校に入った。緒方は莫逆の友中野正剛のことを書いた『人間中野正剛』に、「覇気の強い中野君は私の商業学校通学に反対を始め、早稲田に転向しろと勧め出した。彼は将来日本の政治を左右する時代を夢に描き、不器用な私までも幕僚に使はうと考へ出したのであらう。私も初めは問題にも何にもしなかつたが、当時高商の校風に失望を感じ出してゐた事情もあつて、何時か中野君に動かされるやうになり、帰郷して一年遊んだ後早稲田に転学、これも中野君の強い勧めによつて早稲田を出ると同時に朝日新聞社に入社した」(三一頁)と記している。緒方が駆け出しの記者の頃、大正元号のスクープで最初の功績を建てた。明治天皇崩御の際、緒方は枢密院で新しい元号が決定されるところから、顧問官の三浦梧楼の家でその帰りを待った。当時政界の大御所として隠然たる勢力を持っていた三浦の家にはいつも多くの記者が出入りしていたが、学生時代からよく訪れただけに緒方は信用が厚かった。三浦は帰宅するや逸速く元号が「大正」と決まったこと、その発音も「タイショウ」であることなどを彼に教えた。そこですぐさま社に引き返し、他社に先んじて号外を出した。彼が政治活動を積極的に始めたのは終戦直前からで、昭和十九年小磯・米内内閣の国務大臣を振り出しに、歴代の内閣閣僚を歴任、二十九年十二月には自由党総裁の椅子に就いた。

 緒方を書けば、その竹馬の友中野正剛に是非触れなければならないだろう。中野は明治十九年福岡市西湊町の質屋の家に生れ、修猷館中学校を終えてから、上京して学苑に学んだ。大学卒業後間もなく、東京日日新聞に入社したが、およそ三ヵ月後に、恩師浮田和民の勧めにより東京朝日新聞社に転じ、主筆池辺三山の知遇を得た。新聞記者として天稟の才を持っていた中野は、却ってこれが禍となって同僚と不和になり、朝日新聞からの退社を早めた。盟友緒方は、「中野君は中学時代から新聞記者志望で、又天成の新聞記者ともいふべき資質を具へてゐた。その私がその後三十五年も新聞社の飯を食ふやうになり、中野君が早く新聞社を見棄てて了つたことを今でも私は時々残念に思ふのである。しかし、新聞記者を見棄てたことは好いとして、中野君が政治界に入つた後も、いつも朝日新聞を去つた時と同じやうな心境の裡に、革新俱楽部から民政党、民政党から国民同盟、東方会と同じやうな去就を繰返したのではないかと、彼の志を悲しむの情に堪へなかつた」(同書三三―三四頁)と、述懐している。中野は、東条英機内閣が出現して軍閥独善の下に輿論を圧迫するのを見て、打倒東条を決意した。すなわち昭和十七年十二月二十一日、日比谷公会堂で時局批判大演説会を開き「天下一人を以て興る」と題して大熱弁を振い、東条内閣に宣戦を布告した。次いで翌十八年正月『朝日新聞』紙上に発表した「戦時宰相論」を、東条が一見して怒気満面、直ちに朝日新聞に発売禁止の命を出した。遂に十月二十一日に至り中野およびその一党を撲滅せんものと、彼を拘引した。しかし、拘留請求の却下により、二十六日釈放されたが、憲兵隊はなお諦めず、憲兵隊員を中野邸に同居させて監視した。軟禁状態になった彼は覚悟を決め、翌二十七日午前零時、代々木の自宅で自刃して果てた。

 石橋湛山は明治十七年日蓮宗の僧侶を父として生れ、三十六年九月に早稲田大学高等予科に編入した。この頃教えを受けて最も強い印象を与えられた師に煙山専太郎があり、思想的に大きな影響を受けた師に田中王堂があり、東京毎日新聞社入社の橋渡しをしてくれた師に島村抱月があり、一年志願兵の兵役を終えて再度就職を希望した時、東洋経済新報社への入社斡旋をしてくれた師に田中穂積があった。石橋が初めに手掛けたのは、社会評論専門誌『東洋時論』の編集であったが、石橋が命を賭けて起死回生を図ったにも拘らず、売行は好転せず、大正元年十月号限りで廃刊となり、その身柄も『東洋経済新報』に移され、哲学科出身の石橋としては畑違いの経済雑誌記者として、新規遣り直しを余儀なくされた。当時は政変が打ち続き、輿論は軍閥・官僚の非立憲を攻撃し、憲政擁護運動が急速に盛り上がったが、政変の根底に横たわるものは、世界的な不況に左右された我が国の経済的不安定であった。自由主義を唱えていささかも譲らなかった彼ではあるが、祖国の経済問題に関しては、金輸出禁止が不況を救う唯一の道であると主張し続けて、遂に犬養内閣の時、高橋蔵相をしてこれを断行させ、長期に亘る論戦に勝利を収めた。昭和十六年には東洋経済新報社の社長に就任したが、戦後政界に転じ、自由党に入党し、更に民主党の結党に参画して、蔵相、通産相を歴任して、昭和三十一年末、学苑出身者として最初の総理大臣に就任した。

 出版界の雄としては、明治三十年から今日に至るまで九十年近く実業界を裨益した雑誌『実業之日本』の生みの親の増田義一(明二六邦語政治科)がいる。彼は明治二年新潟県中頸城郡板倉村に生れ、小学校高等科卒業後八年間、代用教員として父亡き家の生計を助けたが、母の死を機会に上京して、学苑に入学した。二十六年読売新聞社に入社、傍ら、同窓の光岡威一郎が企画する大日本実業学会の創立に加わり、『実業之日本』創刊に際しては主筆としてその編集に当った。三十三年光岡から雑誌の経営を引き継ぎ、株式会社実業之日本社を創設、社長に就任した。増田が実業雑誌に精魂を傾けたのは、その専攻が政経関係であった点から不思議ではないが、幼少時代に長く教員として子供たちと生活を共にし、彼らをこよなく愛したところから、少年少女雑誌の発刊を思い立ち、早くも三十九年には『日本少年』、次いで四十一年には『少女の友』を創刊し、星野久(水裏、明三八高師)や有本歓之助(芳水、明四二高師)を編集者として重用し、非凡な才能を縦横に発揮させたことが特筆せられなければならない。

二 校友会の進展

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 校友会は、第一巻で述べた(五九一―五九六頁)如く、明治十八年十二月十三日、発会式を挙げたが、学苑が早稲田大学という新しい呼称にふさわしい設備の改善・充実の必要に迫られた現在、校友との関係をいよいよ密にし、会員相互の親睦を更に厚くすることが一層強く要求されるに至った。かくて、明治三十五年十月の早稲田大学開校式ならびに創立二十周年記念祝賀会開催に先立ち、七月十六日、芝の紅葉館で校友大会が催されることになったのである。大会開催の主旨は、前校長前島密の男爵授与、ならびに校友横井時冬(明一九法律学科)の文学博士授与を祝賀するとともに、校友会規則を全面的に改正することにあったが、更に学苑の設備増設に対し校友の協力を乞うことが重要な課題であった。

 改正された会則について一瞥する。

早稲田大学校友会規則

第一条 本会は早稲田大学及び本会々員間の関係を密にし、併せて会員相互の親睦を厚ふするを目的とす。

第二条 本会は早稲田大学校友会と名く。

第三条 本会は事務所を早稲田大学内に置く。

第四条 本会は早稲田大学校友、推選校友及び準校友を以て組織す。

第五条 左に掲ぐる者を以て早稲田大学校友とす。

一 元東京専門学校教職員及び卒業生

二 早稲田大学教職員及び卒業生

第六条 左に掲ぐる者を以て早稲田大学推選校友とす。

一 元東京専門学校々友会に於て同校々友に推選したる者

二 本会大会の決議に依り早稲田大学校友に推選したる者 但元東京専門学校又は早稲田大学に学籍を有せし者にして、学識・名望あり、本会々員二十名以上より推選せられたるものに限る

第七条 左に掲ぐる者を以て早稲田大学準校友とす。

一 元東京専門学校々外卒業生

二 早稲田大学校外卒業生

第八条 本会は毎月早稲田大学に於て演説会を開き、隔月に小会を開き、一月及び七月に定時大会を開く。

第九条 本会は会長及び幹事を置く。

会長は早稲田大学校長に嘱託す。幹事は職員中より一名、各学年卒業生より一名宛を選挙し、其任期を一年とす。

第十条 会長は本会を代表し会務を統理す。

幹事は左の事務を執行す。

一 本会の会合を斡旋する事

二 早稲田大学及び本会の状況を報告する事

三 毎年秋季に会員名簿を編纂し会員に頒布する事

四 地方会員に対する往復通信の事

五 会計事務を取扱ふ事

六 会誌を編纂保存する事

第十一条 幹事中より常務幹事五名を互選す。

第十二条 本会は早稲田大学に対し建議を為すことを得。

第十三条 本会は早稲田大学評議員十二名を選出することを得。

前項の評議員の任期は二年とし、毎年七月の大会に於て之を選挙す。

第十四条 地方在住の本会々員は地方校友会を組織することを得。

地方校友会を組織する校友及び推選校友五十名以上あるときは、其過半数決を以て早稲田大学評議員一名を選出することを得。此場合に於ては予め会則を定め、会員の氏名・住所を具して本会の承認を受くべし。

地方校友会の選出したる評議員の任期は二年とす。

第十五条 早稲田大学準校友は本会に出席することを得と雖も、本会の決議に加はり又は本会より選出する早稲田大学評議員及び本会幹事たることを得ず。

第十六条 会員は本会維持費として毎年五十銭以上二円以下を本会に醵出すべし。

第十七条 本会は大会の決議に依り会員中本会に対し不都合の所為ある者を除名することを得。

第十八条 会員中身分・氏名・住所に変更ありたるときは其旨幹事に通知すべし。

(『早稲田学報』明治三十五年七月発行第七一号 「早稲田記事」四四八―四五〇頁)

 今回の大改正では、従来の十ヵ条が十八ヵ条と殆ど倍加され、特に第五、六、七条が追加され、校友、推選校友、準校友と、校友の種類を細分・増加している。また新たに第十三条および第十四条を設け、校友会の組織を通じて、全校友に学苑運営に参加する場を供給することにより、学苑への経済的な協力を期待するところがあった。こうした期待は、その席上で大隈重信が述べた演説に端的に表れているから、ここに抄録しておこう。

どうも歴史と云ふものは余程大切なもので、如何なる学校でも突然一夜の中に出来るものではない。エール大学の如きは二百年の歴史を持て居る。……早稲田大学は是に比する訳には参りませぬが、先づ十分の一……二十年と云ふ歴史を持つて居るのである。さうして校友会は殆んど三千と云ふ会員を持つて居ると云ふ事は、実に学校の将来の発達に関して大いに望みのある訳で、誠に喜ぶべき歴史を供へて居る次第である。是によりて学校は将来に向つては大いに生長し大いに発達すると云ふ事の希望が愈々盛んになつて来る。今日世界に名高い所の、殆んど世界に冠たる所の合衆国が組立つたと云ふ事は決して偶然ではない。エール大学の如き学校が二百年の間国家に貢献した結果、今日の合衆国を組立てた事と思ふ。而して此早稲田大学の校長たる鳩山博士は此名誉ある学校に関係を持つて居られて、此二百年の祝典に名誉ある学位を得られたと斯う云ふ訳である。恰も本年の十月には我東京専門学校も先刻高田博士から諸君に申された如く二十年の祝典を挙げられる。即ち早稲田大学の歴史をなす、殊に将来に向つて希望を重ねる所の尤も大切なる祝典を挙行される。爰に於て私が諸君に訴へたいと思ふ事は、此学校と云ふものは外観はどうでも関はぬ、内容さへ善ければ夫れで宜いと云ふ者もあるが、どうもさうはゆかぬ。まさかに野蛮時代ではないから野原へ天幕を張つて講義をする訳にもゆかぬ。学校が盛んになる時はどうしても夫れに伴う設備が必要である。玆に於て大学を起す丈けの設備が起つたので、現に其の建築に取掛つて居る所が、其の祝典を挙げるまでに総ての建築設備が落成すれば、頗る愉快なる頗る盛んなる事と思ふのでありますが、如何にせん僅に図書館及閲覧室のみで、大学を開くに付て漸く講義をするに差支へないと云ふ丈けの事しか出来ぬ。之は甚だ遺憾とする所でありますが、如何にせん時が許さない、金が許さない。止むを得ず甚だ不十分なる事で祝典を挙げる。所が昨日諸君が御覧になつた通り、敷地の図面建築の図面は出来て居つて、もう凡ての設計は出来て居るのである。併し乍ら之を以て十分の建築をするには余程沢山の費用が要る。而して此建築が出来上れば目の前にある所の寄宿舎、古い講堂と云ふものが如何にも釣合はなくなる。余儀なく之は外へ移さねばならぬと云ふ事になる。移せば又新たに夫れ丈けのものを拵へなければならぬ。尤も此学校は八十人の生徒で始まつて今日は三千余人と云ふ発達をした。丁度家屋も其通り発達をしなければならぬ。而して此学校と云ふものは永久のものである。二十年は愚か、二百年或は千年の後に伝はる永久のものだから、飽まで堅牢なる永久に伝はる建築が必要なのである。……壮大なる堅牢なる家を備へて置けば、其の中へ這入つて居るものも雄大なる健実なる国民と為れるだらうと思ふ。即ち建築の美と建築の雄大なる威厳とに結付いて居るので、関係がないとは言へぬ。夫れ故に私は此学校の建築を十分盛大に飽まで堅牢に且つ自由にしなければならぬ、一見して美でなくとも実は壮厳なものであると云ふやうに、学校の威厳を表するやうにしなくてはならぬと思ふ。爰に於て私は其の意見を持つて設計を立てた。従つて金が余計掛つて来た。校長其の他高田君なども成べく能くやりたいと思はれるが、さて金が沢山要る。爰に於て始め三十万円と云ふ目的を以て金を募る事にしたが、迚も是では往かぬ、更に四十万乃至五十万と云ふ金を募集する事が急務であらうと思ふ。如何となればどうしても此新築の教場が出来上れば目の前にある汚ない教場や古い寄宿舎と云ふものは目障りになつて堪らぬ。……新しく建てなければならぬ。夫れをするには金が要る。全体此早稲田の学風、早稲田の将来に於ける学生の希望と云ふものは、始め建築に付て御話した如く、成るべく健実・雄大なる精神を以て社会に現はれることを望む。……十分に建築を壮大にすると同時に、其の外観と内容と連続して往くやうにならなければならぬ。併し乍ら之も金が掛るから急には出来ぬが、其の精神を何処までも維持して、漸次に建築をして往きたいと思ふ。爰に於て私は年を取つて居るから何だか閻魔から迎ひが来て世の中を急ぐと云ふ御考があるかも知らぬが、どうもさう云ふ立派な事は早くやつて見たいと云ふ感じが切になつて居る。どうか諸君と力を合せて、どうせ九月までには往きませぬが、創立第一年即ち来年若くは創立第二年若くは第三年までには立派に準備をして、更に大いなる祝典を挙げるやうに致したいと思ふ。 (同誌同号 「早稲田記事」四五〇―四五三頁)

 その後三十七年、四十四年、また大正三年、一部条文に訂正が行われ、更に七年には早稲田工手学校卒業生中、社会で相当の地位を占めて活躍している者について、工手学校長から推薦があった場合、推選校友の資格付与が幹事会で議決された。また明治四十二年「一月より『早稲田学報』を毎号校友全体へ配布する事、学報を校友会に於て引受け発行する事、校友会に於て編輯員を選定する事」(同誌明治四十一年十二月発行第一六六号七一頁)などの改正も行われた。しかし概して言えば、明治三十五年に大改正が加えられた会則により、およそ十七年間、大きな支障もなく、校友会は順調に運営されてきたのであった。

 ところが大正七年十二月「大学令」(勅令第三百八十八号)が公布され、私立大学も、一定の基準さえ具えていれば、官立大学と全く同等の待遇を受けることになった。学苑は逸速くこれを受ける決意を堅めたが、法の定める大学の設備またはこれに要する資金ならびに供託金を準備することが必要であった。学苑の場合、基準による供託金は九十万円に上り、これに校舎新築・設備費を加えると百五十万の資金を捻出しなければならないから、経常費の不足を補うためには校友の援助を仰がなければならず、学苑は大正七年十月賛助会を結成した。そこで賛助会の活動を一層容易にするため、また校規改正と平仄を合せるため、会則改正の必要に迫られ、大正八年二月十六日、築地精養軒に開催された春期校友大会の重要案件として、この問題が付議された。規則改正調査委員会が数次に亘り慎重に協議した結果得た成案が大会に提出されたが、質疑応答・修正動議などが活発に行われ、「今後機を得て修正改刪致したき希望あり」(『同誌大正八年三月発行第二八九号一五頁)との希望条件付で原案を可決した。改正規則は左の如く、付則九条を加えれば四十三条で、明治三十五年の改正規則のおよそ二倍半に上っている。

早稲田大学校友会改正規則

第一章 総則

第一条 本会ハ早稲田大学校友会ト称ス。

第二条 本会ハ会員相互ノ親睦ヲ厚クシ、会員ト早稲田大学トノ関係ヲ密ニシ、早稲田大学ノ事業ヲ裨補スルヲ以テ目的トス。

第三条 本会ノ事務所ハ東京ニ設置ス。

第二章組織

第四条 本会ハ左ノ会員ヲ以テ組織ス。

一、早稲田大学卒業生

二、早稲田大学現任教職員

三、早稲田大学維持員・評議員・基金管理委員・商議員タリシ者及之ニ準ズベキ者

四、推選校友

第五条 推選校友トハ左記各号ノ一ニ該当スルモノニシテ、本会幹事会ノ銓考ヲ経、大会ノ決議ニ依リ推選セラレタル者ヲ云フ。

一、早稲田大学教職員タリシ者ニシテ前条第三号ニ該当セザル者

二、早稲田大学ニ一学年以上在学シタル者

三、早稲田大学附属学校・早稲田中学校・早稲田実業学校ノ教職員及卒業生

四、早稲田大学校外生トシテ所定ノ学科ヲ卒業シタル者

第六条 会員其住所・氏名・職業ヲ変更シタルトキハ速ニ本会ニ通知スベシ。

第七条 本会員中不都合ノ行為アル者ハ大会ノ決議ヲ以テ除名スルコトアルベシ。

第八条 地方在住ノ本会々員ハ別ニ地方校友会ヲ組織スルコトヲ得。但此場合ニ於テハ予メ其会則ヲ定メ、会員ノ住所、氏名及職業ヲ具シテ本会幹事会ノ承認ヲ受クベシ。

第三章 会議

第九条 本会ノ会議ハ大会及幹事会ノ二種トス。

第十条 大会及幹事会ハ会長之ヲ招集ス。

定時大会ハ毎年春秋二回之ヲ開キ、事務会計ノ報告ヲ為シ、及必要ノ事項ヲ議定ス。

臨時大会ハ幹事会ニ於テ必要ト認メタルトキ又ハ会員五十名以上ノ請求アリタルトキ、二週間以内ニ之ヲ開ク。

第十一条 大会招集ノ通知ハ郵便又ハ新聞広告ニ依ルモノトス。

第十二条 幹事会ハ会長又ハ幹事五名以上ニ於テ必要ト認メタルトキ之ヲ開ク。

第十三条 幹事会ハ幹事四分ノ一以上ノ出席アルニアラザレバ決議ヲ為スコトヲ得ズ。

第十四条 大会及幹事会ノ議長ハ会長之ニ任ズ。会長事故アルトキハ幹事之ヲ代理ス。

第四章 役員

第十五条 本会ニハ会長一名、幹事四十名ヲ置ク。

第十六条 会長ハ幹事会ノ推薦ニ依リ大会ニ於テ之ヲ決定ス。

会長ノ任期ハ三年トス。

第十七条 会長ハ本会ヲ代表シ会務ヲ統理ス。

第十八条 幹事ハ左ノ区分ニ依リ大会ニ於テ京浜在住者中ヨリ之ヲ選出ス。

一、現任教職員中ヨリ四名

二、推選校友中ヨリ二名

三、卒業生ヲ其修業学科ニ依リ政治経済学科、法学科、文学科、商科、理工科、高等師範部ノ科部ニ分チ、各科部ヨリ各三名宛及之ニ残余ノ十六名ヲ各科部卒業生ノ現在人員ニ按分シタル数ヲ加ヘタルモノ 但按分率ハ五捨六入トス

第十九条 現任教職員及推選校友中ヨリ選出スル幹事ハ会長ノ指名ニ依ル。

卒業生中ヨリ選出スル幹事ハ、選挙管理者ヨリ交付スル一定ノ用紙ヲ用ヒ大会出席者ノ単記無記名投票ニ依ル。選挙ノ結果、前条第三号所定ノ科部別定数ニ不足ヲ生ジタル場合ハ、当選幹事ノ合議ニ依リ之ヲ補選ス。

第二十条 幹事ノ任期ハ三年トス。

第二十一条 幹事ニ欠員ヲ生ジタルトキハ第十八条及第十九条ニ基キ補欠選挙ヲ行フ。但次回ノ選挙会迄之ヲ延期スルコトヲ得。補欠者ノ任期ハ前任者ノ任期ニ依ル。

第二十二条 幹事ハ左ノ事務ヲ執行処理ス。

一、本会ノ諸会合ニ関スル件

二、早稲田大学及本会状況ノ報告ニ関スル件

三、会誌(早稲田学報)ノ編纂竝ニ会員名簿ノ調製及其頒布ニ関スル件

四、予算・決算其他一切ノ会計ニ関スル件

五、推選校友ノ銓考ニ関スル件

六、幹事及評議員選挙ノ事務管理ニ関スル件

七、本規則第八条ニ依ル地方校友会々則ノ承認ニ関スル件

八、其他本会ノ目的ヲ達成スルニ必要ナル事項ノ計画処理ニ関スル件

第二十三条 幹事ハ幹事会ノ決議ニ依リ会務ヲ分担シ及其互選ヲ以テ常任者ヲ設クルコトヲ得。

第二十四条 会長ハ幹事会ノ決議ニ依リ書記其他ノ傭員ヲ任用スルコトヲ得。

第二十五条 会長及幹事ハ無報酬トス。但常任者ニ対シテハ報酬ヲ附スルコトヲ得。

第五章 早稲田大学評議員

第二十六条 本会ハ早稲田大学校規ノ所定ニ従ヒ同大学評議員ヲ選出ス。

第二十七条 前条評議員ノ員数ハ左ノ区分ニ依ル。

一、大会ニ於テ選出スル者 二十名

二、地方校友会ニ於テ選出スル者

会員百名以上ヲ有スル地方校友会 一名

会員二百名以上ヲ有スル地方校友会 二名

会員四百名以上ヲ有スル地方校友会 三名

以上二百名ヲ増ス毎ニ一名ヲ加へ、十名ニ至リテ止ム

第二十八条 本会大会ニ於テ選出スル評議員ハ第十九条第二項ヲ準用シ、京浜在住者中ヨリ之ヲ選出ス。

当選者ハ出席員三十分ノ一以上ノ数ノ得票ヲ要ス。

選挙ノ結果定数ニ不足ヲ生ジタル場合ハ、会長及当選評議員ノ合議ニ依リ之ヲ補選ス。

第二十九条 評議員ノ任期ハ三年トス。

第三十条 評議員ニ欠員ヲ生ジタルトキハ第二十七条及第二十八条ニ基キ補欠選挙ヲ行フ。但次回ノ選挙会迄之ヲ延期スルコトヲ得。

補欠者ノ任期ハ前任期ニ依ル。

第六章 会計

第三十一条 会員ハ本会維持費トシテ毎年金二円以上ヲ醵出スベシ。但一時ニ若干年分ヲ前納スルコトヲ妨ゲズ。

第三十二条 本会ノ会計年度ハ毎年九月ニ起リ翌年八月ニ終ルモノトス。

第三十三条 本会ハ其基本金及維持費トシテ会員其他ノ寄附ヲ受ク。

第三十四条 維持費ハ、剰余ヲ生ジタルトキハ幹事会ノ決議ヲ経テ之ヲ基本金ニ編入スルコトヲ得。

第七章 附則

第三十五条 本規則ニ於テ早稲田大学ト称スルハ元東京専門学校ヲ包含ス。

第三十六条 本規則ニ於テ京浜在住者ト称スルハ東京市・横浜市及両市ノ接続町・村ニ住所又ハ事務所ヲ有スル者ヲ云フ。

第三十七条 本規則第十八条ニ於テ政治経済学科ト称スルハ邦語政治科、専門部政治経済科、英語政治科、大学部政治経済学科ヲ、法学科ト称スルハ邦語法律科、専門部法律科、英語法律科、邦語行政科、英語行政科、大学部法学科ヲ、文学科ト称スルハ英語本科、英語学部、英語普通科、専修英語科、文学科、文学科選科、大学部文学科ヲ、高等師範部ト称スルハ高等師範部及清国留学生部ヲ包括ス。

数科ヲ卒業シタル者ハ最後ニ卒業シタル科部ニ属ス。

第三十八条 第十八条第三号ニ幹事ヲ按分セル各科部ノ幹事総数ハ、選挙ニ先チ大会席上ニ之ヲ掲示ス。

第三十九条 幹事及評議員ノ選挙ニ於テ得票同数ナルトキハ抽籤ニ依リ之ヲ定ム。

第四十条 本規則ニ規定セザル細目ハ幹事会ノ決議ヲ以テ之ヲ定ム。

第四十一条 本規則ハ幹事過半数ノ同意及大会出席者過半数ノ承認ヲ経ルニアラザレバ、之ヲ変更スルコトヲ得ズ。

第四十二条 本規則施行後最初ニ選出セラレタル第二十七条第一号ノ評議員ノ任期ニ限リ、大正十年九月二十日ニ終了スルモノトス。

第四十三条 本規則ハ大正八年二月十六日ヨリ之ヲ施行ス。 (『早稲田学報』第二八九号 一六―一八頁)

 この改正規則は、第四条を校友と推選校友との二本立てにまとめ、新たに「早稲田大学維持員・評議員・基金管理委員・商議員タリシ者及之ニ準ズベキ者」を校友に加えたこと、第五条の推選校友の要件に、「早稲田大学ニ一学年以上在学シタル者」および「早稲田大学附属学校・早稲田中学校・早稲田実業学校ノ教職員及卒業生」を加えてその範囲を拡大したこと、また準校友の呼称を廃止し、早稲田大学校外生の格式を推選校友に引き上げるなどが最も注目すべき点である。その他、臨時大会開催の規定を新設したこと、幹事の数とその選出方法、任期、事務、報酬等を詳細に定め、幹事会に関する事項を規定したこと、大学の運営に参画する評議員の選出についての規定を詳細に定めたことなどを指摘できよう。

三 海外校友会

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 会則には、地方在住の校友は地方校友会を組織することができると定められている。何人の地方校友が集まれば地方校友会を組織できるかについては、規定がないけれども、四、五人集まれば懐旧の情がつのって会合を持つようになり、その心情の度は、人数の多寡では忖度できなかろう。殊に海外に進出した校友らは、時につけ、折に触れ、母校を偲ぶ情の切々たるものがあるに違いない。こうした情況は『早稲田学報』の通信欄からだけでも十分察知できる。中には、米国からの帰途、たまたま便船阿波丸に乗り合せた数名が太平洋上校友会と称して会合した例などもあるが、多くは異郷にある校友が、小は四、五名から大は百余名に至るまでそれぞれの地に拠って会合し、早稲田大学万歳を三唱し、大隈総長をはじめ高田学長ら恩師に書翰を呈上するなど、熱烈な愛校心を吐露している。当番幹事が通信を忘れたり、何かの事故で手紙が届かなかったりしたこともあり、『早稲田学報』記載の分は必ずしも正確とは言い難いが、明治三十五年末から大正九年初頭に至る約十七年間に開かれた、天津の十六回、大連、サンフランシスコの十四回、北京の十三回などは、毎年のように校友会を開いている勘定になる。この他にも世界各地に校友会が組織されており、その内比較的多く会合が行われているのは、台北、京城(ソウル)、奉天(藩陽)、撫順、上海、武漢、シンガポール、シアトル、ニューヨーク、ボストン、ロンドン、ベルリンなどである。

 ところで、世界各地の校友会をアジアと欧米との二地域に大別すると、校友会の数は前者の方が多く、創立期もまた古い。更にアジアといっても、中国東部および中部に位置する主要都市に設けられたものが大半を占めている。これはもとより、当時の清国が我が国の隣国として古より交流があり、近くは日清戦争後本邦の企業が彼地に進出した結果、校友もまた海を渡って清国に至り、商業・貿易に従事したからであった。

 しかし、これら中国にある校友会を組織したのは、独り日本人校友だけではなかった。学苑に学び、帰国して母国で活躍する中国人校友の多くもまた、日本人校友とともに各地の校友会のメンバーとなっていた。しかもそれだけでなく、業を卒えて帰郷した中国出身者の多くが相集まって、「早稲田同学国会議員俱楽部」と称する異色の校友会を結成したことが注目される。これについては、節を改めて一瞥を与えることにしよう。

四 早稲田同学国会議員俱楽部

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 清朝は、一九〇六年(明治三十九)九月一日立憲予備を上諭し、数年後に立憲政治を実施する旨宣告、十一月六日には中央官制を改革し、六部の尚書を十一部に増加し、満漢の種別なく各部に長官一名を任命し、翌年九月二十日資政院(仮国会)を設立、越えて翌年九月二十二日には、君上諸大権・臣民諸権利義務を明文化した憲法大綱、憲政九年準備の上諭を宣布した。この間学苑では大学部各科・専門部・高等師範部・清国留学生部の留学卒業生を輩出し、彼らは帰国後官職その他の重要なポストについていたが、四十年九月に資政院が開かれた時に選ばれて議員となったものが多かった。『早稲田学報』第一九二号(明治四十四年二月発行)には、恐らく四十三年末に発信されたと思われる「清国校友近時の発展」という一文があるので、既に一九三頁に引用した教育関係者を除き、左にその一部を抜粋しておこう。

今日迄の卒業生、以前の英語政治科、邦語政治科などから今の大学部、専門部、高等師範部各科及び昨年其事業を終へた清国留学生部各科まで概算して、其数実に七百名に達する。此等の人々が帰国の後、先輩と後進、共々相扶掖誘導して政治教育界乃至実業界の各方面に活動して居る有様は誠に美くしく、又目出度いことである。

先づ近来の呼び物は資政院である。資政院は清国中央議会の基礎としてある。此資政院の職員から政府委員及び議員まで現代の花形として満天下の注意を集めた者が、殆んど全く本大学の出身者であるに至ては、覚へず快哉を絶叫するを禁じ得ぬ。資政院の総裁兼議長は先年我邦に来遊せられ本大学にも台臨せられて、大講堂に於て親しく存学の清国学生一同に訓示を賜はつたことのある倫貝子殿下、副総裁兼副議長は年来本大学に厚い同情を有つて居る修訂法律大臣法典編纂委員長沈家本氏である。此議長殿下を輔佐し奉り副議長を助けて議場整理の大任に当る者は資政院秘書長書記官長の外にはない。三十六年の英語政治科、翌三十七年の研究科卒業生、政学士金邦平君は即ち此要職に当つておる。政府委員には憲政編査館から任命された楊度(憲政編査館参議、四品京堂、明四四推選)、陸宗輿(東三省顧問官、度支部諮議官、交通銀行協理、四品京堂、明三八推選)、陸夢熊(郵伝部主事、明四〇大商)、許同莘(修訂法律館編案処協修官、明三八校外生)、度支部から任命された楼思詰(度支部員外郎、明四一専政)、李景銘(明四二専政)、陸軍部から任命された唐宝鍔(陸軍部二等諮議官、明三六邦語行政科)、郵伝部から任命された陳毅(郵伝部参議庁簽事、修訂法律館纂修官、明四三専政)、大理院推事姚震(明四二大法)等の諸君がおる。資政院議員は勅選(欽選)と民選(互選)と二色ある。勅選議員の中では、汪栄宝(民政部左参議、明四一推選)君の如き其錚々たる者で、政府委員であつた陸宗輿君は開期中補欠選挙の結果資政院議員に勅選された。偖て民選議員の方では、民党の驍将、資政院随一の弁舌家として其名を我邦の新聞紙上にも轟ろかした、雷奮(江蘇省選出、明三四校外生)君、直隷省選出の籍忠寅(北洋法政学堂教務長、中退)君などがある。

清国各所の地方議会は諮議局である。此諮議局の方では福建諮議局副議長劉崇佑(明四一専法)君、同書記長林長民(明四二大政)君などが其傑出せる者で〔ある。〕

政府には前に紹介した民政部在参議憲政編査館幇弁汪栄宝、憲政編査館参議楊度、度支部諮議官陸宗輿、郵伝部主事陸夢熊、度支部員外郎楼思詰、其他の諸君の外に、外務部主事富士英(明三五邦語政治科)、度支部主事周宏業(明三七専政)、外務部主事嵇鏡(明三八大政)、度支部主事陳威(明三九専政)、大理院推事兼修訂法律館纂修官張孝移(同上)、前駐日考査憲政大臣書記官李景圻(同上)、北京巡警総庁審議課主任姚煥(明四一専政)、度支部主事曲卓新(同上)等の諸君が中央各部に居り、又河南省清理財政副監理官蹇念益(明三九専政)、浙江省清理財政副監理官銭応清(同上)の両君は中央政府から地方へ出張を命ぜられておる。この財政清理監理は清国維新政治に重大な関係を有つた役柄で名誉なる者である。地方各省の総督衙門、巡撫衙門、布政使衙門、提法使衙門、交渉使衙門、提学使衙門等に奉職して居る諸君は、直隷総督衙門で有名なる外交家唐宝鍔君を筆頭に、到底勘定し切れない程沢山ある。

清国現時の複雑なる国際関係の間に外交官として敏腕を揮つて居らるる人には、現に在本邦清国公使館通訳官であり、先頃まで横浜総領事を代理して居た劉崇傑(明三七専政)君、和蘭駐剳清国公使館参賛官董鴻褘(同上)君など、皆傑出せる俊才である。

(八―一〇頁)

 次いで大正二年五月の『早稲田学報』(第二一九号)は、「中華民国の政治界に於ける本大学の勢力」と題する左の如き記事を掲げている。

本大学の出身者若くは関係者が中華民国の建設に対し為したる貢献の甚だ少からざること、又爾後の活動の見るべきものあることは、屢々吾人の伝聞せし所にして、愉快に堪へざる事なりしが、果して民国共和政体の開幕とも称すべき晴れの舞台、即ち四月八日両院開院式の当日、参議院及衆議院に出席せる議員中、本大学出身者の氏名亦少からざるものあり。吾人をして済済多士の感あらしむるは、近者快感の事に属す。即ち、参議院議員二百七十六名にして、当日の出席者数百七十九名の中、本大学出身者若くは関係者の数十八名。又衆議院議員定員五百八十六名にして、当日の出席者五百三名の中、本大学出身者若くは関係者の数五十七名なり。氏名及其の出身種別を挙ぐれば、

〈参議院議員〉)

校友(十一名)

推選校友(二名)

賛助員(一名)

曾て在学せし者(四名)

〈衆議院議員〉)

校友(二十九名)

曾て在学せし者(二十八名)

就中参議院議長の栄職に選挙せられたる張継氏は今や年齢四十の男盛りなるが、曾て十八歳の青年の頃、本大学教授松平康国氏の家庭に、氏の指導を受け居られたる事あり、当時氏は未だ日本語を解せず。漸く片言交り位ゐの程度にありしが、松平氏新工夫の教授法により、僅か半年位にして、充分日本家庭の人たるを得るに至りしと云ふ。又タイプを我が南洲翁に比せらるる黄興氏は今回開幕の両院には入らざりしと雖もその民国革命の大立物にして、負嵎の態以て袁政府の一大敵国たるの観あるは皆人の知悉する所なるが、此の人亦曾て早稲田学園の人なりしことは吾人の快感に堪へざる所なり。 (一九頁)

 なおその後、右の記事については、青柳篤恒が北京より次の如く遺漏を補記している。

〈参議院議員〉)

校友(二名)

曾て在学せし者(一名)

〈衆議院議員〉)

校友(五名)

曾て在学せし者(六名)

(同誌大正二年七月発行第二二一号 一八頁)

 先に示した如く、初めて清国人校友の動静を詳細に報じてきた明治四十四年初頭から、今ここに参・衆両院議員数を知らせてきた大正二年七月までの二年半は、中国の政界に大きな変動を見た時代であった。すなわち辛亥革命の結果、一九一二年(明治四十五)一月一日に孫文が南京で臨時大総統に就任したが、二月十二日の宣統帝退位の翌十三日、大総統辞任を表明し、三月十日袁世凱が臨時大総統に就任し、ここに中華民国の統一が実現することになった。

 翌年二月に国会選挙が行われ、宋教仁らが中華革命同盟会を改組し、群小の政党を合併して結成した国民党が四五パーセントの議席を獲得し、立憲君主派に圧勝した。第一次国会は四月八日に開会され、参・衆両院議員のうち校友国会議員は八十九名を占めて、早稲田大学の中国における存在を鮮明にした。ここに初めて「早稲田同学国会議員俱楽部」の名称が浮かび上がってきたのである。その予備大会が催された報告が『早稲田学報』第二二一号(大正二年七月発行)に掲載されているので、要点を摘記してみよう。

本大学出身の支那政治家にして中華民国第一次国会議員に当選せるもの、参議・衆議の両院を通じて少くも一百名を下らざるべく、右本大学出身の国会議員諸氏は早稲田大学を中心とせる一団体を組織せんことを希望し、今回「早稲田同学国会議員俱楽部」の成立を計画し、五月二十九日正午目下議事多端の時間を割き、北京燈市口徳昌飯店に於て、其成立予備会を開きたり。席定るや、先づ張継氏、日本語にて、吾人早稲田同学議員俱楽部は、其党派の如何に係はらず、公明正大なる態度を以て、邦家の為め人道の為めに尽くす所なかるべからざるを説き、有賀博士は本会の成立は鄙人等の喜びなるのみならず、想ふに大隈総長・高田学長の深き喜こびとなす所なるべし、諸君宜しく、誠心誠意邦家の為に尽くせと懇ろに説かれ、青柳教授は、一同議員諸君の迫る所となり、支那語にて、陸宗輿君等の自分とクラスメートたりしこと、張継君の張溥といへる当時十八歳の青年を以て、中島裁之氏に伴はれて初めて日本に渡航するや、自分の家に寄寓してより、更に松平康国氏、劉雨田氏の宅に移りしこと、其他大学部・専門部・清国留学生部出身の諸君のことども、各人に亘り、一々当年の旧事を追懐して語る所あり、今昔の感尽くるところを知らず。次で陸宗輿君、其他数氏の日本語演説あり。同俱楽部事務所を北京前門外安徽会館に設くること、母校に在りて、革命等の為め未だ卒業せざりし議員諸君を校友に推薦せられんことを同俱楽部の名義にて高田学長に申請すること等を議決し、和気靄々の中に散会せり。当日の来会者は比較的少数なりしも、同俱楽部成立大会を挙行する時までには、総員出揃ひとなるべし。殊に張継氏の参議院議長たる、王印川氏の新に組織せられたる三角同盟即ち進歩党の理事に挙げられたる、谷鐘秀氏の国民党院内総務たる、李肇甫氏の国民党幹事たる、熊成章氏の国民党交際幹事たる、李国珍、劉崇佑二氏の衆議院中に一、二を争ふの雄弁家たる、林長民氏の前参議院時代より現今正式議会の開設に至るまで、引続き其衆議院秘書長を兼ねたる、汪栄〓氏の国会切つての法律家たる、陸宗輿氏の老成の政治家たるが如き、実に上下両院を通じて群鶏の一鶴とも称するに足る人最も多きを以て、同俱楽部完全に成立の暁には有力なる団体となるべきを疑はず。予備会当日の出席者左の如し。

(一五頁)

 この予備会が開かれた後、九月七日には俱楽部規則の相談会が開催され、何れ正式の大会が催される筈であった。しかし、袁世凱が正式に大総統に就任した後、袁世凱は共和主義の看板を一擲して独裁政治を打ち出し、その手始めに国民党に解散令を発し、議員四百名を追放した。次いで国会議員の職務停止を行うなどの暴政を布いた。このため、早稲田同学国会議員俱楽部は準備が行われただけで、消滅したものと推測される。

五 永楽俱楽部の誕生

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 三八頁に既述した如く、学苑の大学開校式の翌日開催された全国校友大会の席上、大隈が、「将来……俱楽部も出来、校友会の大会なども……校友会の大いなる俱楽部の建物の中でやる様に……なりたい」と演説したのは、既に慶応義塾の場合、明治十三年一月に、三田出身の官吏・実業家・新聞記者等の有志が集まり、「互に知識を交換し世務を諮詢する」ことを目的とする交詢社の発会式が挙げられ、京橋南鍋町二丁目の家屋を集会所として適時ここに集会して談論風発に時を過ごしたのみならず、翌十四年には「交詢社私擬憲法案」の作成まで行っていることが念頭を離れなかったからであると察せられる。

 この大隈の宿願が校友会によって具体的に取り上げられるようになったのは三十九年春であり、この年の校友会にはその設立計画が発表されたことが、『早稲田学報』第一三七号(明治三十九年八月発行)に左の如く報ぜられている。

校友俱楽部設立計画 同俱楽部設立の儀に付ては予て黒川九馬氏等十名の調査委員を置き種々調査中なりしが、今回稍具体的に調査成立せしにより七月十五日の大会に於て黒川氏より左の報告あり。

本俱楽部は新に建築するときは数万円を費さざるべからざるに依り、最初は適当の家屋を借入れ漸次理想に近づくの方針を採り、先づ実行し易き計画を立てんに、

毎月収支

一金二百八十五円也 支出高

内訳

金一百円也 借家料 金一百円也 事務員二人 給仕二人 小使一人ノ給料

金十五円也 電燈代 金七円也 電話料

金八円也 筆墨並に新聞代 金十五円也 器具補足代

金五円也 通信費 金十五円也 礦炭費

金十円也 雑費 金十五円也 予備費

一金三百円也 収 入 高

但シ在京会員三百人一ケ月金一円宛醵出

俱楽部創始ニ要スル費用

一金二千一百五十円也

内訳

金一千六百五十円也 館内什具設備費 金二百円也 創立諸雑費

金三百円也 借家修繕費

外に借家敷金五百円也 之は特別借入金となすも可なり。

今仮りに入会者三百名を得れば此入会金一名金五円として金一千五百円を得べし。尚不足金六百五十円は特別会員の寄附に依るものとす。

右報告に依り調査委員の任務終りたるにより、鳩山校長より更に左の十名に其実行委員を嘱托せり。

市島謙吉 田中唯一郎 黒川九馬 斎藤忠太郎 増田義一 昆田文次郎

山田英太郎 渡辺亨 田中穂積 浦辺襄夫 (六九頁)

 その後校友会幹事ならびに実行委員の顔触れにも異動があり、この事業も思うように進まなかったが、俱楽部建設財源にやや明るい見通しが立ったので、四十一年十一月十日、牛込区矢来町の矢来俱楽部に幹事会を開き、市島謙吉ら十五名の幹事が出席してこの問題を審議した。席上市島の説明は次のようなものであった。

今や我大学の校友六千人を超へ社会の有ゆる方面に向て活動を為し其勢力尠からざる者あり。然るに未だ其会合を為すべき一つの場所をも持たぬと云ふことは不便至極である。仮令ば地方より久々にて校友が上京せられても落ち付て談し合ふ場所がない。慶応義塾は既に交詢社と云ふ立派な俱楽部を持て居るに不拘、我早稲田には之を欠くと云ふは甚だ遺憾千万である。校友が将来各々親睦を計り結合して社会に発展を為すには此際何うしても校友俱楽部設立の必要があるは言ふ迄もない。然る処今度学校に於て第二期拡張を企つるに付ては此の俱楽部設立費の全額と云ふ訳にもゆくまひが、凡そ基本ともなるべき額を予算に編入する内議もある訳であるから、多年の宿題たりし此の事業の成功を見るは余りに遠からぬ事であらう。学校の此議に対しては校友会は宜しく感謝の意を表して然るべき事と思ふ。

(同誌明治四十一年十二月発行第一六六号 七〇―七一頁)

 そこで、降旗元太郎(明一八政治学科)を座長に推し、この提案について協議を重ねた結果、「校友俱楽部設置の件は無論基金募集の略々完了せる時を竢つより外なきも、校友は宜しく母校に援助を与へて完了の期を早からしむべく、又斯く前途の事決定する上は仮令ひ小規模にても(例へば当分借屋をしても)俱楽部の形を作り、漸次拡張して完備を期す」(同誌同号七一頁)方針を採ることを可決した。そこで従来の機構を改め、実行委員会に代って新たに校友俱楽部設立委員会を設け、設立事務一切をこれに委譲したが、この設立委員会が漸く腰を上げたのは大正三年七月二十九日で、委員十二名が麴町区有楽町の日本俱楽部に集まり、俱楽部問題を討議した。山田英太郎(明一八政治学科)委員長が提出した案は、従来のものとやや趣を異にし、先ず丸の内方面に適当な場所を見つけ、校友会事務所を大学内からここに移し、これに俱楽部を併置しようとするものであった。問題は飛躍して校友会事務所の移転に触れたのである。しかしこれは本質的には校友会が処理すべき事柄であるから、至急校友会幹事会開催を要請し、その賛同を求めるべきであるということになり、直ちに幹事会にこの旨を通告した。この通告を受けた幹事会は、八月二日牛込区江戸川の清風亭に会合し、設立委員長代理渡辺亨(明一九法律学科)から過般の模様を詳細に聞き、協議を重ねた結果、その実行方法になお研究すべき余地ありとし、田中唯一郎を座長とし、他に六名の俱楽部創立交渉委員を指名して、設立委員とともに更に研究せしめることにして散会した。

 かくて翌四年七月十四日、麴町区有楽町の日本俱楽部で俱楽部創立実行委員および校友会幹事連合の校友俱楽部創立協議会を開き、委員長山田英太郎から次の如き経過報告と提案があった。

早稲田大学校友会は、其事業の一として校友俱楽部を創設せんとし、明治三十九年七月十六日芝紅葉館にて開会したる校友大会に於て、市島謙吉田中唯一郎、黒川九馬、斎藤忠太郎、増田義一昆田文次郎、山田英太郎、渡辺亨、田中穂積、浦辺襄夫の十氏を俱楽部創立実行委員に選定し、超えて同四十四年七月六日の校友大会に於て山田英太郎氏を委員長に挙げ、翌四十五年七月六日の創立委員会に於て、俱楽部基金として金百円以上を醵出するものを創立委員に加ふることを決議し、大正三年七月二十九日更に創立委員会を開き、種々協議を重ねたり。一方校友会に於ても、右に関し創立委員会より交渉を受けたるに依り、同年八月二日幹事会を開き、俱楽部創立に付、田中唯一郎氏を座長に推し協議を遂げ、結局座長の指名に依り、瀬川光行、田村三治、大橋誠一、田中小太郎、三木武吉、浅川保平の六氏を俱楽部創立交渉委員に挙げたるも、未だ実行の運びに至らず、遂に今日に及びたるが、先頃来委員長山田英太郎、委員渡辺亨、山沢俊夫の三氏大隈総長及高田学長を訪問し、俱楽部創設の急務を述べ賛成を求めたるに、総長より金五千円、早稲田大学より金一万円を醵出するの予承諾を得、愈々実行の機運到来したるに依り、玆に之れが実行の呈案を為すに至れり。

案件

一、相当の俱楽部を設け校友会員全部の入会を希望すと雖も、其創設の初めに於ては、先づ仮に規模小なる設備を為し、漸次之が発展を図らんことを期す。

二、校友会員にして部員たらんとするものは別に俱楽部費を醵出するものとす。

三、俱楽部の器具・設備並に維持費は部員之を負担すること。

四、校友会に於て麴町区内幸町一丁目五番地所在西洋建二階家建坪八十坪一棟(代金約一万円)を購入し、無償にて校友会事務所及校友俱楽部の使用に供すること。但し其建物の所有権は校友会に属するものとす。

五、俱楽部創立委員には別に定員を定めず、俱楽部創立に関し特別の尽力をなすべき校友会員を以て創立委員となすこと。

六、校友会幹事は全部創立委員たること。

七、創立委員中に若干名の常任委員を置くこと。

常任委員長の指名に依り左記七名とす。

山田英太郎 山沢俊夫 渡辺亨 昆田文次郎 池田竜一 大橋誠一

田中四郎左衛門

八、前記建物購入に関する交渉委員を左記三名に委嘱すること。

山田英太郎 山沢俊夫 渡 辺亨

九、俱楽部に関する詳細の規程は別に之を定む。 (同誌大正四年八月発行第二四六号 二一頁)

 この決議に基づき、交渉委員は、右記案件四に記載された家屋を登記料および周旋料を除き九千円で入手、七月二十七日所有権取得の登記を完了した。その家屋は、洋間六室、日本間六室、土蔵、湯殿および供待部屋より成り、洋間には椅子、テーブル、窓掛等付属品一切が設備されていた。

 仮称「早稲田俱楽部」の創立総会は、同年九月一日、新規購入のクラブハウスで開催され、出席者は五十余名、山沢俊夫の家屋購入経過報告の後、創立委員長山田英太郎を座長に推し、規約草案について審議したが、議論百出して決定に至らず、新任幹事の手で再び起案し、再度常議員会で協議することにし、次いで常議員の選挙を行い、最後に、会長に名誉学長高田早苗、幹事に山沢俊夫・渡辺亨・昆田文次郎田中唯一郎・上島長久(明一八法律学科)・池田竜一(明二六邦語政治科)・増田義一・浦辺襄夫(明三〇邦語政治科)・大橋誠一(明三六邦語行政科)・田中四郎左衛門(明四一専政)、会計監督に山田英太郎・上原鹿造を選んで散会した。

 この会合で継続審議となった俱楽部規約は間もなく決定された。そして二年後の六年十二月二十八日の総会の席上、この規約は、クラブハウスを同年十一月二十六日、麴町区永楽町二丁目十番地に新築された日清生命保険会社の三階に移転したことにより、俱楽部の名称を永楽俱楽部と改めるなど、改正され、また同じ席上新役員の選任も行われた。新規約は次の通りである。

永楽俱楽部規約

第一章 総則

第一条 本俱楽部は永楽俱楽部と称し、之を東京市に置く。

第二条 本俱楽部は早稲田大学の縁故者を以て組織す。

第三条 本俱楽部は会員相互の懇親を図るを以て目的とす。

第二章 会員

第四条 本俱楽部の会員たらんとする者は会員二名の紹介を以て申込み、委員会の承認を経べし。

第五条 会員は会費として一ケ月金二円を納むべし。

但地方在住の会員及委員会に於て特に銓衡を経たるものは其半額とす。

第六条 会員事故ありて退会せんとするときは、書面にて本俱楽部に通知すべし。

第七条 会員其氏名・住所を変更したるときは、速に本俱楽部に通知すべし。

第八条 本俱楽部に不利益なる行為ありと認むる者又は会費納入を怠る者は、委員会の決議を以て除名することあるべし。

第三章 役員及委員会

第九条 本俱楽部に会長一名、委員二十名を置き、重要なる会務を処理せしむ。但委員は互選を以て委員長及常任委員若干名を設くることを得。

第十条 会長、委員は総会に於て之を選挙し、任期を一ケ年とす。但再選することを得。

第十一条 会長及委員は無報酬とす。但常務を執る場合は此限にあらず。

第十二条 本俱楽部特別の事務を処理せしむる為め、委員会は会員中より特別委員を嘱託することを得。

第十三条 委員会は本規約の範囲内に於て、本俱楽部の事務を処理するに必要なる諸規則を制定することを得。

第四章 総会

第十四条 定時総会は毎年四月に開き、左の事項を決議す。

一、前期間に於ける事務の顚末及決算報告

一、会長及委員の選挙

第十五条 臨時総会は委員会に於て必要と認むるとき之を開く。

第五章 附則

第十六条 本俱楽部は基本金又は維持費として会員及其他の寄附を受く。

第十七条 本俱楽部の会計年度は四月一日に始め翌年三月三十一日に終る。

第十八条 本規約は総会に於て出席会員三分の二以上の同意あるにあらざれば之を変更することを得ず。

永楽俱楽部役員

会長 欠員

委員 池田竜一 井芹継志 飯田新太郎 大橋誠一 荻野元太郎

渡辺亨 田中四郎左衛門 坪谷善四郎 村井五郎 野間五造

黒田善太郎 山沢俊夫 松山忠二郎 増田義一 前田多蔵

浅野泰次郎 佐藤功一 平沼淑郎 森盛一郎 鈴木佐平治

(同誌大正七年二月発行第二七六号 一四頁)

 この総会に引続いて翌七年一月二十八日に、新装成った永楽俱楽部で、移転式を兼ねた新年宴会が開催された。大隈総長はじめ百余名の会員が参集、大隈は次のような演説を試みた。

会長、諸君、早稲田大学の校友会に於て俱楽部設立の問題が提唱せられたのは十数年前よりのことである。所が中々実現しなかつた。漸く両三年前に内幸町に小さな俱楽部の形ちだけ出来上つたが頗る貧弱のもののやうであつた。然るに昨年の初冬に至り此早稲田大学と密接の関係ある日清生命保険会社の好意に依り、本社新築と共に其三階全部を俱楽部的に設計し、之を我早稲田大学の校友俱楽部に提供さるることとなり、かやうに広い、美しい、設備の整つた俱楽部が出来上り、本日玆に移転式を挙げ、兼ねて会員の新年宴会を開くに至つたのは、お互に喜びに堪へぬ次第である。

抑も俱楽部は近代文明の進歩と共に欧米に発達し、社会的に最も必要なる機関として汎く利用せらるるに至つたものである。現今の社会は産業上に於ても、政治上に於ても、又教育上に於ても、競争が激甚となり、非常なる努力・活動を要するに至つた。然しながら人間の力には自から限りがある。活動の後には必ず休息を要する。此休息の時間を俱楽部に於て費し、疲労したる心神に慰藉を与ふることが必要である。我国には昔から茶屋・待合と云ふものがあつて、一種の俱楽部のやうな用を為し来つたものであるが、之は大に弊害があるやうである。社会の進歩と共に西洋流の俱楽部の発達を来し、茶屋・待合と云ふやうな旧式のものは漸次に減少するであらうと思ふ。

日本に於ても昨今文明の進歩と共に俱楽部は日を逐うて発達しつつあるのである。俱楽部の目的は云ふまでもなく可成多数の会員を包容して、各方面の知識を網羅し、共同的精神に基きて各自に其知識を交換し、談笑裡に娯楽を俱にしつつ更に活動の要素を造るに在るのである。多数の人が雑然として集つただけでは利益を得ることは出来ない。恰も神経系統の如くに之を統一し、綜合して、組織的に進歩しなくつては何にもならぬ。俱楽部の用件は此点に存するのである。かやうに秩序を立て組織的に成立つ所の俱楽部は、有意的又無意的に多くの人心を融和し、社会に多大の利益を与ふるのである。此俱楽部が数年前に出来て居て、校友の多数が常に玆に集合して意思の疏通を計つて居たならば、或は昨夏の事件のやうなことも起らなかつたかも知れぬ。

交詢社は福沢翁の主唱の下に今より三十年前に出来て、其設立の当時は吾輩も相談を受けた一人である。此俱楽部は我国に於て比較的に創立の古いだけ、それだけ発達をして居る。御承知の通り交詢社は慶応が中心となつて居るが、此永楽俱楽部も之と同様に我早稲田を中心として、益々発展せむことを希望する訳である。殊に此俱楽部は位置が頗る宜しい。丸の内は帝都の中央にして大銀行・大会社の宏壮なる建物の集合する所である。即ち我国の政治上、産業上其他百般の中心地であり、中央停車場も此俱楽部の軒下に在る。此点から云ふと此俱楽部は其位置に於て天下第一等である。従て会員諸君が之を利用さるるに最も便利である。願くば校友諸君の多数が此俱楽部の会員として盛に之を利用し、社会の為めに早稲田大学の為めに貢献せられむことを望み、併せて此俱楽部の繁栄と発達向上とを祈る次第である。 (同誌同号 一三頁)

 大正九年三月には五百名を超す会員を擁したが、同年四月二十八日の総会で高田早苗が会長に選出されるまで会長空席の状態が続き、この間、平沼淑郎が委員長として永楽俱楽部を代表していたのである。

六 日清印刷株式会社・日清生命保険株式会社

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 校友の実業界における活躍の中で、学苑ならびに学苑出身者と特に緊密な関係のある二つの企業について、次に触れておこう。

 『早稲田学報』第一四五号(明治四十年三月発行)には次のような記事が発見される。

日清印刷株式会社の設立 今回高田早苗市島謙吉、山沢俊夫、上遠野富之助、斎藤忠太郎、田中唯一郎、太田雪松、柏原文太郎、増田義一田中穂積島村滝太郎、其他早稲田大学校友及関係者並に大倉保五郎、小立鉦四郎、川合晋、江草斧太郎、坂本嘉治馬、目黒甚七、其他の書肆等五十余名の発起を以て、大隈伯、前島男、鳩山和夫、三枝守富、坪内雄蔵、小柳津要人、原亮三郎、大橋新太郎、諸氏賛成人となり、早稲田大学の出版物を初め広く内地及清人の印刷註文に応じ兼て活字鋳造・石版・製本其他の目的を以て、表題の如き会社を設立し、二月二十七日富士見軒に於て発起人会を開き、定款其他を議定したるが、資本金は五十万円にて、創立委員に太田雪松、大鳥居弃三、渡辺八太郎、山沢俊夫、小久江成一、江草斧太郎、坂本嘉治馬の七氏を挙げ、更らに創立委員会の互選を以て太田、大鳥居、渡辺の三氏を専務委員に推薦し、早稲田大学出版部内に創立事務所を置き、総株数一万株の内二千五百株を一般より募集したるに、二月二十日の締切前既に数倍の応募者を見たる有様にて、事業の性質確実其の基礎鞏固なるが為め特に非常の好況なりと。因に、同社は来る三月十日第一回の払込を了せしめたる上、直ちに工場の建築に懸り、遅くも六月中旬頃より事業を開始する筈にて、既に牛込区榎町七番地に二千百二十六坪の地所を買収したりと。 (五二頁)

 早稲田大学出版部の事業遂行を円滑にするためには、印刷所の協力が必要不可欠であるが、従来『早稲田学報』のような定期刊行物でさえ、印刷所は転々と変えられていた。そこで、出版部の拡充・整備とともに、信頼するに足る印刷所をその支配下に置くことが強く要請されるに至り、ここに、大学当局および校友有志を中核とする日清印刷株式会社が発足することになったのである。

 日清印刷株式会社の後身である大日本印刷株式会社の社史の記すところによれば、

初めの計画は早大出版部直属の印刷所を作るという、極めて小規模のものであつたが、単に出版部の印刷物だけを目当にしたのでは、仕事の繁閑の調子が取れず経営も困難となるのを免れ得ないから、むしろ世間一般の註文を引受ける印刷所とする方が有利であるとの見地から、計画を拡張して資本金五十万円の印刷会社を設立することになつたのであつた。またその設立趣意書の冒頭に、「方今驚くべき文運の進歩は戦後国勢の発展に伴ひ、出版界にも亦非常の盛況を促し、之と同時に各方面の事業勃興して一般社会の印刷註文益々多大となり、更に又清国文明の啓発に随ひ本国竝びに我邦在留清人等の之れが依頼を為す者も年々著しく増加し来れり。云々」と述べてあり、中国人の註文を期待して、これに応ずることを営業方針の一に加えたところに、「日清」の二字を商号に冠した所以が存するのであろう。

(『七十五年の歩み 大日本印刷株式会社史』 一七六頁)

 日清印刷株式会社は、この年九月一日より業務を開始したが、学宛当局からは、高田早苗が相談役、田中唯一郎が監査役として、役員の中に名を列ねている。創立時この会社は、専務取締役の太田雪松(一〇八三頁参照、長崎新聞社長、『早稲田学報』主幹)と、取締役兼支配人の大鳥居弃三(明三三文学部、前福岡修猷館教諭兼舎監)との対立抗争があり、更に財界も不況で、経営は苦難の連続であったが、右両人の辞任後、四十二年頃からは順調な発展に転じ、大正七年社長制を設けるとともに、相談役市島謙吉(当時学苑名誉理事)が取締役社長に就任している。

 他方、『早稲田学報』第一四一号(明治三十九年十一月発行)には、日清生命保険株式会社についての報道が見られる。

日清生命保険株式会社創立 早稲田大学に縁故ある人々の計画より成る日清生命保険株式会社は、愈々去る十月八日(月曜日)東京商業会議所に於て第一回発起人会を開く。当日の出席者左の如し。

池田竜一 高田早苗 田中唯一郎 土子金四郎 中野武営 牟田口元学

来栖壮兵衛 山田英太郎 前島密 増田義一 浅田徳則 斎藤忠太郎

三枝守富 白井遠平 森村開作 鈴木寅彦

此外申請書類起草者粟津清亮氏請に依り出席せられたり。席定まりて先づ前島男爵を座長とし、仮定款其他申請書類を決議し、併せて当会社を日清生命保険株式会社と称し、資本金一百万円と定め、之を二万株に分ち、一株五十円と為す等の事項を議了し、前島男爵を委員長に、

久米良作 牟田口元学 中野武営 森村開作 山田英太郎 鈴木寅彦

田中唯一郎 増田義一 池田竜一 金沢種次郎 石川徳右衛門 大浜忠三郎

の諸氏を創立委員に依頼せり。 (六一頁)

 右の創立委員は、その三分の二が学苑関係者であったが、これは、明治三十七年に創立された慶応義塾系の千代田生命に対するものとして、その頃より考えられていた学苑と一橋とを背景とする生命保険業設立計画が、学苑単独のものとして、漸く実ったことを反映しているのに他ならない。その「設立趣意書」には、この間の事情がはっきりと窺える。

曠古未曾有の大戦捷の後を承け、世界の大勢に照し時代の要求を稽へ、我等は日清両国に亘る一大生命保険会社を設立するの急務なるを認め、玆に万般の計画完整して之を天下に発表する機運に到着せり。依て先ず之を我等の最も敬愛する吾早稲田大学の校賓並に校友諸君に謹告し併せて諸君の熱心なる賛同を請はんと欲す。

今や我等早稲田大学に関係ある同人は全国を通して最大多数の学生・校友・校賓を有せり。殊に其校友関係の如きは啻に其員数において全国の各学校中第一位を占むるのみならず、其社会において占むる所の位地は政治、教育、実業を始めとして有らゆる方面に渉り、而して更に之を連結するに社会的兄弟たるべき同窓同学の深切なる根蔕を以てす。是豈他に於て決して見る能はざる強盛無比の団体的勢力にあらずや。此勢力を利用して間接には国家の進運に貢献し、直接には相互の福利を増進するは我等の共有する一大責務なりと信ず。日清生命保険会社は則ちこの団体的勢力を基礎として生れ出たるものなり。

殊に吾日清生命保険会社はその事業範囲が広く清国に及ぶに於て、唯一無類の広大なる規模を有するものなり。従来既設の保険会社にして同一の志望を有する者なきにあらざりしも、その目的を達する能はざるは職として特別の便宜を有せざりしに由る。然るに日清生命保険会社の中心たる吾早稲田大学には支那留学生部ありて清国の学生頗る多く、而して既に学成り業卒へて帰国せる学生は其成績頗る顕著多くは科挙に及第して進士に挙げられ、著々国政の要路に向つて昇進し又彼の実業界に入りて枢要の地位を占む。其他吾大学の校友中或は顧問として或は教官として清国に傭聘せらるる者も亦少なからず。且つ吾早稲田大学の創立者大隈伯爵の総裁する同仁会は、支那・朝鮮に文明・医術の普及を図らんが為め、同会所属の学校と病院とを早稲田に設け、専ら支那学生に医術を学ばしめんとするの計画あり。思うに此慈恵的事業が間接に保険事業を支那大陸及韓半島に紹介するの好媒たるや疑を容れず。此の如き特別の関係は吾会社の独り擅にする所にして、他に絶へて見る能はざる所なり。日清生命保険会社が必ず世界における一大生命保険会社として東洋の表に屹立するに至るべきは、我等の堅く信じて疑はざる所なり。

日清生命保険会社設立の趣意は大要右に開陳したる所の如し、而して之が設立は、一に吾早稲田大学の校賓、並に校友諸君の協戮賛助に待たざるべからずと雖も、我等は必ずしも早稲田大学の有縁者のみを以て此事業を経営せんとするの意に非ず。普く世間有力者の協力によりて共に斯業の完成を企図するや勿論なり。要は此会社の設立によりて、吾大学と社会との関係を一層密接ならしめ、彼是相利用して事業の発展を計り、社会の公益に寄与せんとするの微意に外ならず。諸君冀くは奮て此挙を翼賛せられんことを。

明治三十九年十一月三日 発起人

(『東京生命七十年史』 一八〇―一八一頁)

 この会社は現在の東京生命保険相互会社の前身であり、翌年一月二十六日に創立総会を開き、総会直後の取締役会で前島密を社長に、池田竜一(明二六邦語政治科)を専務(後、大正十一年より社長)に選任したが、その他高田早苗が相談役に、鳩山和夫が法律顧問に就任した。その創立当初十年間の発展については、左の如く記録されている。

清国人等は戸籍法の不備、衛生思想の未発達その他から契約条件をきびしくするほかなく、実際にはほとんど邦人契約に限定され、大陸進出の夢はならなかったが、強大な背後勢力に援けられ、戦後の反動不況と創業早々の不利を克服して、第一期の新契約高は二百三十万円に達した。以来、穏健着実主義に則って社業の進展につとめたので、五周年の明治四十四年末には保有契約高一千二百万円に達した。翌大正元年九月本社を麴町有楽町一丁目一番地に移して一層の業務拡充を期したが、所期の通り大正六年十一月十八日には、麴町区永楽町二丁目十番地に新築の本社々屋落成式をかねて十周年三千万円達成祝賀会を挙行することができた。 (同書 一八一頁)