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第五編 「早稲田騒動」

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第二十三章 大学令への道

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一 学校体系の整備

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 高等教育をめぐる学制改革の論議は、文部官僚として当時この難問と対面してきた松浦鎮次郎の言を借りれば、「明治二十七、八年頃から大正六年臨時教育会議の開かれる迄、其の間約二十五、六年もたつといふ長い間に渉つて、教育界を騒した、誠に面倒な問題」(「最後の学制改革」『教育五十年史』二九五―二九六頁)であった。その端緒を実質的に開いたのは、明治二十七年六月、井上毅文部大臣の手で実現した「高等学校令」である。高等学校の名称が初めて陽の目を見るのは、この勅令によってであるが、これを説述する前に、二十七年に至るまでの我が国の高等教育がどのような道筋をたどってきたかという、いわば学制改革の前史を、本章の主題の理解に資するよう、若干の重複を厭わず略述しておこう。

 新生日本が、近代化の早期達成を図るための教育体系を創造するに際して、真っ先に、そして常に、配慮したのは、新しい価値観の受容ならびに普及の下地を作るべき小学教育と、国家建設に当る高度な専門知識を具えた少数の人材を養成すべき大学教育とであった。この二つは、いわば将校と兵卒の育成機関であり、その中間を占める下士官の育成方針は、明治期を通じて、そして大正前期に至るまで、一定せず、絶えず揺れ動いた。

 我が国の本格的教育制度は明治五年の「学制」に端を発したが、十年、高度の洋学を核とする東京大学が成立した際、中学は未だ整備されていなかったから、大学はここで学ぶ学生を自身で養成するための予備門を設置せざるを得ず、教育体系は複雑化の様相を呈し、この予備門的教育段階の扱い方が、重要な課題となった。

 「学制」は十二年に廃止され、替って「教育令」が制定された。「教育令」も翌十三年の「改正教育令」も、中学校を高等普通教育機関と規定したが、十四年の「中学校教則大綱」の第一条は、「中学校ハ高等普通学科ヲ授クル所ニシテ中人以上ノ業務ニ就クカ為メ又ハ高等ノ学校ニ入ルカ為メニ必須ノ学科ヲ授クルモノトス」と定めて、向後の議論の焦点の一つとなる、就職と進学という二重性格を中学校に付与した。専門学校に関しては、六年の「学制二編追加」に見られた、外国人教師による高尚な学校とか、外国語学校の下等二年を基礎課程とするとかといった規定は、「教育令」にも「改正教育令」にもなく、専門学校は特定の専門学芸を授ける学校とされた。

 十九年は明治教育史上の分水嶺である。内閣制度ができて初代文部大臣に就任した森有礼は、この年、「帝国大学令」「師範学校令」「小学校令」「中学校令」を公布して、学校ごとの制度の確立を企図した。森の国家主義思想は先ず「帝国大学令」の第一条「国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」に具現し、同令によって東京大学は帝国大学と改称した。従来、大学についての厳密な規定は存在せず、高度の専門学術を授ける所が大学であるという緩やかな共通の理解があったに過ぎない。しかし、莫大な資金を投じ、質の高い教師や学生を集めるのは、現実問題として、国の手によるのでなければ不可能に近かった。それ故に小野梓は、「十数年ノ後チ漸クコノ〔東京〕専門学校ヲ改良前進シテ、邦語ヲ以テ我ガ子弟ヲ教授スル大学ノ位置ニ進メ」たい(第一巻四六二頁)と希望したのであった。「帝国大学令」は国の側から大学の概念を具体的に定めたものであるが、その規定に何ら臆することなく、同志社や慶応義塾や我が学苑などの私立専門学校が、「大学」への昇格を目標にして組織を整え、内容を充実し、教育程度を高め、専門学校といえども実体は大学なりとの認識を社会に浸透させていったことは、第一巻第三編第十六章に既述したところである。学制改革問題を惹起した震源の一つは、まさしく、こうした私立専門学校たる大学の存在だったと言えよう。

 一方、義務教育制を導入した小学校の卒業生を収容する中学校は、「実業ニ就カント欲シ又ハ高等ノ学校ニ入ラントスルモノニ須要ナル教育ヲ為ス所トス」と規定され、中等教育機関たる五年制の尋常中学校と、帝国大学への予備教育機関でもあり社会の指導者の育成機関でもある二年制の高等中学校との二つに分けられた。これらは、従来一つの学校の中に併設されていた初等中学科および高等中学科の如き関係を有するものではなく、中学校とはいっても、それぞれ独立した別種の学校である。高等中学校は尋常中学校修了者を収容する建前をとっているが、後者の教育内容に比べるとはるかに高度な高等中学校は、別に三年制の予科と、更にその下に二年制の補充科とを置くことが認められ、この二科の通算修学年数は尋常中学校のそれに等しく、事実、尋常中学校修了生を受け入れても、彼らに予備教育を施してからでなければ、高等中学校の課程を完うさせるのは難しかった。その結果、多数の生徒にとって修業年限が延長されることになった。このように変則的な両中学校の連絡関係と、意図的ではなかったにせよこの間の修学年数の実質的延長とは、専門学科を教授する筈の高等中学校が、実際には、副次的に認められた大学予備教育の方を主体として発展していったこととともに、是正すべき問題として、二十年代以後の学制改革論議を惹起したのである。その上、「中学校令」に基づく尋常中学校の校数および卒業生数は大幅に増加したにも拘らず、高等中学校の門戸は狭く、第一から第五までの序数を冠する高等中学校と、山口高等中学校(十九年創設)および鹿児島高等中学校造士館(二十年創設)との合計七校しかなかったため、進学難が顕著となり、高等教育への志を果し得ない青年が激増して、学制改革の必要は社会問題化し、その実施は焦眉の急を告げるに至った。

 これを理論的に論じたのは、二十三年に待遇改善と地位向上を目指す教員を糾合して国家教育社を創立した伊沢修二である。二十四年開催の国家教育社第一回大会における講演で示した彼の提案は、高等教育機関の性格を改めて、帝国大学以外に低度の大学校や高等専門学校を多数設置し、向学心に燃える青年を収容して、併せて小学校から高等教育までの修業年限を短縮しようというものであった。公・私立を問わないその新構想による大学校と高等専門学校なり、帝国大学なりへの、準備階梯としては、高等中学校を廃して代りに予備校を置こうというのである。伊沢案は、大学制度全体を見直し、高等教育と中等教育との間の段階を正面から取り上げ、その後の学制改革の中心課題を鮮明に抽出したもので、注目に値すると言えよう。

 二十六年、文部大臣に就任した井上毅は、最も問題の多い高等中学校の再検討に着手した。井上には、従来の帝国大学の外に、低度の専門教育を施す高等教育機関を各地に設けて国民に高等教育への門戸を拡大し、帝国大学への予備門的性格を濃厚にするに至った高等中学校を廃止して、専門教育修了までの期間を短縮すると同時に、専門教育を受けた人材を多数要求する社会の要望に応えようとする意図があった。岡田良平によれば、井上はこの新しい高等教育機関を「内心大学としたかつたのであるが、帝国大学の反対を恐れ、大学の名を遠慮して独逸のホホシユーレに倣つて高等学校といふ名称」を採用したのである(「中学校令並に専門学校令」『教育五十年史』二〇九頁)。こうして誕生した四年制の高等学校が主眼としたのは、「高等学校ハ専門学科ヲ教授スル所トス但シ帝国大学ニ入学スル者ノ為メ予科ヲ設クルコトヲ得」と定めた「高等学校令」第一条に端的に表明されている如く、専門的学術を授けることであり、三年制の大学予科が副次的に置かれたのであった。そして、高等中学校に設けられていた予科および補充科を廃止して、尋常中学校との連絡を正常に戻し、修業年限短縮が図られた。ところが、高等学校はその後本来の線に沿って進展せず、寧ろ、第一条の但書にある三年制の大学予科の方が隆盛を見るに至り、井上の構想は破産したと見てよい。

二 学制改革案の変遷

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 明治三十年代は、日清戦争後のブームに沸き返り、経済界が産業の指導者を多数需要した時代である。そしてこの時代相を背景に、教育体系の重点は高等教育機関へ移行し、そのあり方をめぐってさまざまな議論が戦わされた。大学とは帝国大学だけであるとの従来の考え方は、「高等学校令」成立の精神において揺るぎ始め、帝国大学の外に低度な大学をも認めるべきだという考え方が芽生えてきた。明治三十年代から大正七年までの時期は、その考え方が紆余曲折を経て形を整え、具体化し、整備された時代である。

 前節で触れた伊沢修二は、二十七年、近衛篤麿や高田早苗ら教育に関心を寄せる議員や政治家や教育者等を中心に学政研究会を組織し、教育問題を取り上げて政府や議会に働きかけた。のち学制研究会と会称を改め、その建議によって、二十九年、文部大臣の諮問機関として高等教育会議の設置が実現した。更に三十一年には学校制度に関する意見を発表したが、それは「高等学校令」の趣旨を支持し、高等学校の専門学部を大学へ昇格すべしと説いた。これは、アメリカのカレッジに倣った単科大学の設立を要求する声として重要である。

 三十二年十一月四日には、久保田譲が、辻新次の組織する帝国教育会における講演で、学制改革案を開陳している。久保田案は伊沢や井上の低度大学創設案を一層発展させたもので、彼の言う実用専門大学を軸にして学校体系の代案を提示した。修学年数を短縮して専門知識を具えた人材を若いうちに世に送り出すために、高等学校を廃止して高等普通教育機関たる八年制中学校を設置し、小学校は社会へ出る者のための六年制小学校と、中学校へ進学する者のための四年制小学校との二本立てを考え、実践に有用な人材の養成を旨とする実用専門大学へ中学校卒業生を直ちに収容し、帝国大学は学校体系から独立した学術研究機関とするというのが、その骨子であった。この講演をきっかけに、帝国教育会と学制研究会の有志が学制改革同志会を結成した。学制改革同志会は同月二十七日の創立大会で学制改革要綱を決定し、以後、民間における輿論形成の立役者になる。その学制改革要綱は、高等学校を大学校に改組して国家須要の人材を養成する機関とし、中学校と大学校を直結させ、帝国大学は学術技芸の蘊奥を攻究する所とするという点で、久保田案と大差はない。こうした低度大学創設案は、加藤弘之や菊池大麓など主として帝国大学側からの猛反発を招いた。反対論は、高等学校の専門学部を増設して社会の要求に応えるのは必要であるが、大学は教育のみならず研究を行う場であるから、修業年限を短縮したり低度大学を設けたりして大学の程度を下げるべきではないというのである。

 学制改革問題は議会でも取り上げられ、いよいよ政治問題化してきたので、政府は何らかの決着をつけなければならなくなった。三十四年六月、文部大臣に就任したのは、東京帝国大学総長菊池大麓である。菊池案は、高等学校の専門学部と大学予科を分解して、大学予科は、入学資格を中学校卒業以上とする二年制の大学予備門とし、専門学部は、中学校卒業者を受け入れる修業年限三年の専門学校に改組し、中学校には当分の間――すなわち中学校が充実するまで――一年制の補習科を置くという三点に集約できる。こうして修学年数の短縮を図るとともに、帝国大学を温存して、低度大学論を専門学校設置論にすりかえたのである。菊池案は三十五年十一月、高等教育会議に諮問された。高等教育会議においては、特に帝国大学派の委員から、補習科をすべての中学校に設けることの難しさが指摘され、大学予備門は帝国大学入学者の学力を低下させる惧れありとの反対に遭い、遂に専門学校に関する件のみが賛成多数を得、五九―六〇頁に掲げた「専門学校令」が三十六年に公布されたのである。こうして低度大学提唱者の考え方は否定された。「専門学校令」を「帝国大学以外の高等専門教育機関の『専門学校』の枠内への封じ込め」(天野郁夫『旧制専門学校・近代化への役割を見直す』一六五頁)と評価する見解もあるが、しかし「専門学校令」公布に先立って、一年半制予科併設を条件に、学苑が実質的に「専門学校」の枠外にはみだす「大学」の地位を獲得して、他の私立専門学校が大学を名告る先駆者となった事実を、決して忘却してはならない。

 教科書疑獄事件により菊池は閣外に去り、更に日露戦争の勃発もあり、学制改革問題は一時下火になったが、四十年に「小学校令」が改正されて念願の義務教育六年制が布かれると、学制改革問題も再燃した。四十二年十二月には、学制研究会が「学制改正法案」をまとめて各方面に配付した。四十三年三月には、高等学校を高等中学校に改め、大学に単科大学や法人の設置も認めよという根本正他一名の「帝国学制案」と、大学は専門学術を教授・研究する場ではなく紳士を養成する場とすべきだと主張する松田正久・鳩山和夫他四名の提出した「学制改革に関する建議案」が、衆議院で論議された。

 こうした情勢の中で、文部大臣小松原英太郎は、四月、今や大学予備教育機関となってしまった高等学校を高等普通教育機関へ改めるとともに、従来の中学校五年・大学予科三年、通算八年の課程を、高等中学校七年の課程に改めて、大学へ至るまでの修業年限を一年短縮しようとする文部省案を、高等教育会議に諮問した。高等教育会議は、これを承けて甲論乙駁した結果、七年制では学力低下を招く虞れがあるとの反対論が多数を制し、中学科五年・高等中学科二年半の修正案を答申した。そしてこの修正案が、翌四十四年七月に「高等中学校令」として公布され、四十六年(大正二年)四月から施行されることになったのである。しかしこれの実施については難問が山積し、大正二年二月に文部大臣に就任した奥田義人は、新令の規定に従って多数の高等中学校を設立するのは財政的に不可能であるとして、翌三月、遂に「高等中学校令」を改正して、その施行は無期延期となった。

 ところで、これまでのいきさつから、「学制改革問題が最終的な解決をみない理由は、官僚と帝国大学教授等によって支持されている帝国大学及び大学予科を主体とする高等学校を現状のまま存置しようという保守的な主張と、議会方面及び民間教育者によって支持されている中学校に直結する低度な大学を認め、高等学校を廃止しようという革新的な主張とが、たがいに相容れないことにある」(中島太郎「旧制高等学校制度の変遷(1)」『研究年報』(東北大学教育学部)昭和三十八年発行第一一集三六―三七頁)のが理解されよう。大正二年、奥田文部大臣は、両者の意見の調整は不可能と考え、しかし学制改革は断行しないわけにはいかないので、遂に、官僚・帝国大学教授・官立学校関係者等を主体とする高等教育会議を廃して、政界・実業界・私学界から選任する教育調査会を新設した。今後の改革論議はこの教育調査会を軸に展開するのである。

 さて、第二次大隈内閣出現と相前後して、修業年限短縮を主とした従来の学制改革問題の他にも、大学を自称した私立専門学校の整備進展を背景として、官立大学の他に公・私立の大学を許可すべきか、総合大学の他に単科大学を認可すべきかといった新しい問題が、にわかに具体性を帯びてきた。尤も、このような大学の設置案は、「帝国大学のあり方を基本的にみとめた上で、性格的にできるだけそれに近づくことによって、大学としての同等な資格を得ようとする、要するに現行制度内での差別撤廃運動であったとみられ、やはりこれまでみてきたような大学制度改革案とはいちおう次元を異にしている」(山内太郎「諮問第三号 大学教育及専門教育ニ関スル件」 海後宗臣編『臨時教育会議の研究』五八二頁)と考えられる。

 大隈内閣の文部大臣一木喜徳郎は、就任後未だ日の浅い三年六月、「大学校令案」を作成して教育調査会に諮問した。一木案の骨子は、帝国大学は従来通りに扱い、単科制の官立大学や公・私立の大学をすべて大学校に改組し、修業年限および入学資格が高等学校大学予科に準じる予科を大学校に付設させるというものであった。ところが一木案が教育調査会に提示されると、会員の菊池大麓が独自の学芸大学校設置案を提出した。菊池案は、高等学校を廃止して学芸大学校に改編し、且つ専門学校をも大学へ昇格させて学芸大学校とし、中学校より進学する生徒はすべて学芸大学校に収容し、帝国大学についてはその下部に学芸大学部を設け、その上部に高等な専門研究部を置くというものであった。教養教育中心のアメリカの大学制度に準ずるこの菊池案は、従来の彼の考え方が渡米後大幅に変化したものとして注目されるが、教育調査会の総会で暫く審議された後、一木案と、一木案に先立って会員江木千之が提出した中等教育制度改革案と併せて、特別委員会に付託審議されることになった。特別委員会でも議論が沸騰し、結局、帝国大学に手を触れない限り大学制度は決定できないとして、別個に特別委員会案を作成し、翌四年七月に教育調査会総会に報告した。特別委員会案は、一木案と同じく公・私立の大学や単科大学は認めたが、その機能を高度な学術研究に置く点で、高度な教養教育を主眼とする一木案や菊池案と異り、その上、予科を経ないで直ちに高等学校卒業生をどの大学にも進学できるようにした点で、一木案と隔たっていた。同案に不満を持つ菊池は、特別委員会案の総会への提出に先立ち、欧米の教育制度視察から帰国して間もない高田早苗らと連名で「大学制度等ニ関スル建議案」を総会に提出し、「中学校卒業生及ヒ同等以上ノ学力アル者ヲ収容シ四箇年以上ノ教育ヲ施ス学校ハ大学ト為スコトヲ得ルコト」というその第一項を先ず第一に決定すべきであると提案し、総会はこれを賛成多数で可決した。ところがその後間もなく、大浦事件に端を発する内閣改造が行われて高田が文部大臣に登用され、高田は建議案第一項決議に基づいて新たに文部省案を作成し、四年九月二十一日、教育調査会に諮問した。これが「大学令要項」である。

三 高田文部大臣の大学令要項

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 大正二年十月、創立三十年記念祝典の際、神田青年会館における記念講演会で、高田は「学業年限短縮と官私立大学の併立」をテーマにして講演を行った。高田の学制改革に対する姿勢は既にここに明確に示されているので、その要旨を摘記しよう。

大学教育と云ふ事に就ては色々の問題がある。殊に大分前からであるが世間に於て多くの人が唱へて居るのは年限短縮と云ふことである。一体教育の年限が長く掛り過ぎる。今日の有様で言ふと、帝国大学は二十五、六位で卒業の出来べき筈であるが、其位で卒業する人は極めて少くして、多くは二十七、八、三十近くなつて卒業する。処が如何に賢い人でも、大学を卒業したら翌日から直ちに経験に富んで何事でも捌いて行けると云ふものではない。……是ではいけないから、成るべく年限を短くしなければならぬと云ふ。此年限短縮と云ふ事は、大学教育と云ふ問題に就ては最も道理ある議論であると思つて、私もそれに賛成した。

表面は高等学校の三年を二年にするか一年半にするかして短縮するのが結構であるが、今日の様に中学から高等学校、即ち大学予備門に這入るに幾年も拋つた日には、表向き年限が短縮されて、事実は依然として年限が延長される事になる。此裏面の問題の解決と云ふことをしなければ、如何に御布告の上で又制度の上で年限を短縮したからと云つて、実際に何等の効果がある訳ではなからう。処が今日の如く中学を卒業した者が進んで高等学校に入らんとする希望があつても事実這入れない。所謂選抜試験の為に拒絶される。年々歳々試みても、遂に入学の目的を達せざる者もある。是が為に年を費すこと幾干なるを知らぬと云ふ此事実は、事実の上の年限延長の原因であるのみならず、私の考へでは是が中学の教育に首枷を篏める原因になつて居る。

年限短縮と云ふことを定めるに就ては、先づ大学教育の主眼と云ふことから明かにして掛らなければならないと思ふ。……私は大学を以て学者を造る所とは思はない、少くとも大学の本科と云ふものは学者を造る場所ではないと思ふ。……一体国家の要する所のものは何者であるか。斯う考へて見ると、私は少数の大学者、多数の専門的修養的教育を受けた活動に適する人物、是が国家の多数要するものだと思ふ。……年限短縮の実を挙げようとすれば、学校をもつと数多く立てなければならぬ。今日は多数の青年が学ぶ所が無い、学ぶに所がない場合に、曲りなりにも我々の早稲田大学の様なものが出来ると、南より北より西より東より集つて来る、即ち一万の学徒が早稲田学園に集ると云ふことになつて来る。……右の見地から言ふと、誰が何と言つても大学は官私併立にしなければならぬと云ふ結論が起る。官学ばかりでは足りない、官学ばかりでは間に合はない。……官私併立主義を取つて国家の教育を負担させると云ふことが事実に於て必要であると思ふ。

(『高田早苗博士大講演集』 二六〇―二六二頁、二六四頁、二六七―二六八頁)

 すなわち高田は、社会が最も必要としているのは、専門的・修養的教育を受けた、実際の活動に有用な多数の人材であるとの前提を根幹に据える。ところが、現在の学校体系では、大学を卒業するまでの年数が長すぎて、社会に出て活躍を開始する年齢が高くならざるを得ないから、修業年限を短縮する必要があるが、それには、門戸が狭くて中学校教育にも歪を与えている高等学校――帝国大学に進学するための予備門化している――のあり方を修正するのが近道である。と同時に、大学の基本的性格を以て多数の教養人の育成機関と考え直さなければならないが、志を抱く若者に大学の門戸を解放し、社会の要求に応えるためには、官立大学だけでは不足なので、私立大学を多数併立させることが必要になる。他方、少数の学者の養成は、大学の上に設ける研究科に任せればよいというのである。

 私学の創立に寄与してこれに生命を捧げた高田は、この講演に窺われるような確たる学制改革の信念に燃え、文相就任以前に欧米の大学制度を自身の目でつぶさに視察してきた。先決問題として教養大学設立を提唱した一人である彼は、文相就任後直ちに学制改革案の起草に着手し、次のような「大学令要項」を作成して教育調査会に諮問した。>一、大学ハ高等ノ学識及品格ヲ備へ社会ノ指導者タルヘキ須要ノ人材ヲ養成シ及学術ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トスルコト

一、北海道地方費、府県又ハ市ハ大学ヲ設立スルコトヲ得ルコト

一、私人ハ大学ヲ設立スルコトヲ得ルコト

一、公立及私立ノ大学ノ設立廃止ハ文部大臣ノ認可ヲ受クルコト

一、私人ニシテ大学ヲ設立セントスルトキハ、其ノ学校ヲ維持スルニ足ルヘキ収入ヲ生スル資産及設備、又ハ之ニ要スル資金ヲ備へ、民法ニ依リ財団法人ヲ設立スヘキコト

一、公立及私立ノ大学ハ文部大臣之ヲ監督スルコト

一、大学ノ修業年限ハ四箇年以上トスルコト

一、大学ニ入学スルコトヲ得ル者ハ中学校若ハ修業年限五箇年ノ高等女学校ヲ卒業シタル者、又ハ文部大臣ニ於テ之ト同等以上ノ学力ヲ有スルモノト指定シタル者タルコト

一、大学ニ於テハ其ノ卒業者ノ為ニ研究科ヲ置キ、其ノ他学術研究ニ必要ナル設備ヲ為スヘキコト

一、大学ニ於テハ別科及附属専門部ヲ置クヲ得ルコト

附属専門部ニ関シテハ専門学校ニ関スル規定ヲ準用スルコト

一、官立大学ノ修業年限、学科、学科目及其ノ程度並研究科及別科ニ関スル規程ハ、特別ノ規定アル場合ノ外、文部大臣之ヲ定ムルコト

一、公立及私立ノ大学ノ修業年限、学科、学科目及其ノ程度並研究科及別科ニ関スル規程ハ、公立大学ニ在テハ管理者、私立大学ニ在テハ設立者、文部大臣ノ認可ヲ経テ之ヲ定ムルコト

一、公立及私立ノ大学ノ教員ノ採用ハ、公立大学ニ在テハ管理者、私立大学ニ在テハ設立者ニ於テ、文部大臣ノ認可ヲ受クヘキコト 但シ勅任セラルル者及奏薦ニ依リ任命セラルル者ニ就キテハ此ノ限ニ在ラサルコト

一、大学ニ於テハ其ノ卒業者ニ対シ学士ノ称号ヲ授クルヲ得ルコト

一、大学ニ於テハ其ノ研究科ニ三箇年以上在学シ研究ノ成績ヲ提出シテ請求ヲ為ス者、又ハ論文ヲ提出シテ請求ヲ為ス者ニ対シ、教授会ノ審査ヲ経テ、博士ノ称号ヲ授クルヲ得ルコト

前項ノ外学術上ノ功績アル者ニ対シテハ、大学ニ於テ教授会ノ決議ヲ経テ、博士ノ称号ヲ授クルヲ得ルコト

一、称号ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ムルコト

一、本令ニ依ル学校ニ非サレハ新ニ大学又ハ大学校ト称スルヲ得サルコト

一、学位令及博士会規則ハ之ヲ廃止スルコト 但シ本令施行前授与シタル学位並ニ本令施行ノ際現ニ論文ヲ提出シテ学位ヲ請求スル者ニ対シ本令施行後授与スル学位ニ関シテハ、博士会ニ関スル事項ヲ除ク外、仍従前ノ規定ニ依ルコト

(教育調査会『学制問題に関する議事経過』 一五六―一五八頁)

 この「大学令要項」は、「所謂自由教育の意味を含んだもの」(松浦鎮次郎「最後の学制改革」『教育五十年史』三〇七頁)と言われ、イギリス・アメリカ流の大学制度の色彩が濃厚で、高田の面目躍如たるものがある。高田案の骨子は、公・私立の大学を認めて四年制とし、高等学校を廃止して中学校もしくは五年制高等女学校の卒業生を大学に受け入れ、大学には研究科を付設して学術研究をも行わせることにあった。

 さて、教育調査会が「大学令要項」の審議に入って間もなく、九月二十八日、東京帝国大学評議会は、その内容が帝国大学にも関係するから我々にも諮詢せられたいと要求した。そして十二月二十一日の評議会において、帝国大学と他の大学とを同一の法令の下に置くのはよいとしても、帝国大学の修業年限は短縮すべきでなく、高等学校も廃止してはならないという各分科大学教授会の決議が報告され、総長がこれをまとめて意見書を高田文部大臣に提出することになった。

 「大学令要項」は教育調査会の特別委員会で一部修正の上可決され、翌五年三月二十三日、調査会総会に回付された。ところが総会は、枢密院内部に高田案に対する反対意見が抜き難いことを聞き、また調査会委員中貴族院側の委員の中にも反対の立場を固執する者がいたので、遂に六月十二日、審議延期を申し合せ、新たに帝国大学改正案等調査特別委員会を設置して、これに審議を付託することを議決した。そしてこの特別委員会が「参考トシテ現在内外教育制度ヲ統計的ニ調査スル」旨の申合せを行い、「大学令要項」の審議を事実上棚上げにしたまま徒らに時日を費しているうちに、元老達の圧迫により大隈内閣は総辞職の余儀なきに至り、これに伴って高田案も流産してしまった。高田は後年、「文部大臣としての私は、常務以外の事に就ては、無能に始まつて無能に終つたと見るのが、蓋し適評であらう」と自認したものの、「せめて大隈内閣の組織された当初から局に当る事が出来たのであつたならば、多少の仕事を為し得ない限りもなかつたと思ふ」(『半峰昔ばなし』五九七頁)と残念がった。だが、大隈が内閣を統轄していた時代に大学改革案がいくつか起草され、その目的のために高田を文相に登用したことは、私学の大学昇格に傾ける大隈の熱意の表れとして、その意義を決して軽視すべきではなかろう。

四 臨時教育会議と大学令公布

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 第一次大戦後、日本のみならず世界の新情勢に対応すべき教育制度のあり方が、大隈内閣を引き継いだ寺内正毅内閣の文教政策上の緊急課題となった。寺内は、学制改革問題の解決を新内閣の重要使命の一つとし、一木の実兄岡田良平を文部大臣に起用した。

 従来の懸案の一挙解決のための第一着手は、文部大臣の諮問機関教育調査会を廃止し、内閣直属の強力な諮問・調査機関として臨時教育会議を設置することであった。臨時教育会議は、寺内内閣に最も関係の深い平田東助を総裁に、学制改革の火付役久保田譲を副総裁に戴き、小松原英太郎、一木喜徳郎、山川健次郎、手島精一、成瀬仁蔵、沢柳政太郎ら三十六名の委員が、各省および各方面の有力者・学者・教育家から選ばれ、他に幹事長一名ならびに幹事四名を加え、「勅令第百五十二号」を以て六年九月に発足した。翌年四月には学苑の平沼淑郎も委員に加わった臨時教育会議の雰囲気は、松浦鎮次郎により最もよく伝えられている。

学制制定に当つては、特別の上諭を拝して現はれたといふ訳であるから、政府も委員も、此の時之を解決しなければ、もう再び其の機を得なからうといふ風に考へたやうであつた。そこで岡田文相は、是迄の経験に鑑み、最初から白紙でゆくといふ触れ込みで、別に政府案は提出せず、簡単なる諮問案を出して、会の方から適当なる案を答申してもらふ事にした。委員の方でも又総て従来の行掛を捨てて、成る可く纏める考へで行かうといふので、少しく問題が面倒になると、議事を中止して懇談に移り、あらまし話がついた処で又議事を進めるといふ遣方を取つた。其の結果多年の懸案たる学制改革案は言ふに及ばず、凡そ一切の教育問題が、善かれ悪かれ全会一致の形で決定を見るに至つた。これに就ては平田総裁、久保田副総裁の尽力、寺内首相の了解を得て居る事等が、与つて力ある事は言ふ迄もないが、又当局者も、委員の諸君も、此処で解決をつけなければ、もういかんぞといふ頭脳で之に臨んだことも、主なる理由の一つであつたかと思はれる。

(「最後の学制改革」 『教育五十年史』 三〇九―三一〇頁)

この引用文にもあるように、岡田文部大臣は、文部省案をあらかじめ立案してそれを諮るという旧来の方式ではなく、初めから白紙で臨み、臨時教育会議の議論の過程で改革案を練っていくという方式を採用したのである。

 岡田は、諮問第一号の小学校制度に続いて、諮問第二号で高等教育制度の検討を臨時教育会議に要請した。これを承けて久保田副総裁は、高等学校および大学予科を廃止して新たに修業年限七年の高等普通教育機関たる高等中学校を設けるという案を提示した。当時の主流的意見を代弁したこの久保田案は、明治四十三年に小松原文部大臣が高等教育会議に諮問した案と酷似しており、事実小松原案の全面的復活と言われているが、高等学校を廃止して中学校から教養大学へ直結させようとする従来の学制改革案を否定し、高等中学校を高等普通教育の完成機関と定めたのであった。この案は、臨時教育会議において、高等中学校の名称を高等学校に修正され、修業年限を尋常科四年・高等科三年に改められた以外は、殆ど原案通り可決されて、議会の審議を経、大正七年十二月六日、「勅令第三百八十九号」による「高等学校令」として公布せられた。中島太郎は、「臨時教育会議が高等学校における教育の性格をはっきりと大学予備の教育から高等普通教育に切り換えようと企図したことは、当時すでにわが国における学校制度が一応整備されるとともに大学教育のあり方が適正に確立されてきたことを確認した結果ということができる」(「旧制高等学校制度の変遷(Ⅱ)」『研究年報』(東北大学教育学部)昭和三十九年発行第一二集五頁)と述べているが、高等学校の現実の機能は、戦後に至るまで、一貫して大学予備門としてのそれであり、この意味で、高等学校教育は従前と何ら変らなかったのである。

 他方、大学制度の検討は、諮問第三号「大学教育及専門教育ニ関シ改善ヲ施スヘキモノナキカ若シ之アリトセハ其ノ要点及方法如何」を承けて、七年五月に開始した。

 最も熱心に審議されたのは、帝国大学に象徴される総合大学の外に、単科大学を認めるかどうかの問題である。総合大学制を支持する急先鋒江木千之は、神や人間や空間・時間と人間との関係を研究するのがそれぞれ神学部、法学部、理学部であり、このような学問を個別に行うことはできないと主張した。しかし、現に単数の専門学科を教授している高度な学校も存在するから、単科大学を認めざるを得ないが、ゆくゆくはこれも総合大学にしてはどうかと述べて、山川健次郎(東京帝国大学総長)や荒木寅三郎(京都帝国大学総長)ら主として帝国大学を代表する委員の賛成を得た。これに対し、積極的に単科大学制を支持したのは、嘉納治五郎(東京高等師範学校長)や鎌田栄吉(慶応義塾塾長)や北条時敬(東北帝国大学総長)らであった。この問題は結局、総合大学を原則とするが、単科大学をも許容するという線に落ち着いた。

 公・私立大学を認めるかどうかに関する論議は、当時の実情から言って、単科大学を認めることが実質的に公・私立大学を認めることにつながるので、単独には殆ど問題にされていない。先の江木も、「今日大学ト名ヲ付ケテ居ル所ノ私立ノ専門学校デモ大キナモノハ既ニ此綜合大学ノ組織ニ拠ラウト云フ計画ヲ進メ居ルモノハ東京市内ニ於テモ既ニ確カニ二ツアル。……尚ホ併シ単独ニ離レテ経営シナクテハナラヌト云フモノガ大分マダ数ガアル。……是ガ決シテ十分トハ申サレヌガ、是等ニ対シテハ暫ク単科大学トシテ大学ノ点数ヲ与ヘルヨリ外ハアルマイ」(山内太郎「諮問第三号大学教育及専門教育ニ関スル件」海後宗臣編『臨時教育会議の研究』五三七頁)と述べており、大学の実体を備えながらも、法令上大学として扱われてこなかった公・私立の専門学校に対し、相当の処遇を講ずることに関しては、もはや異論を挾む委員はいなかった。この問題は寧ろ、北条時敬の如く、「私立ノ大学デアリマスレバ、相当ノ基本金ヲ持ツ所ノ財団法人ト云フモノニ対シテ大学ノ名称ヲ付スルトカ、教授ノ内容ナリ、大学ノ設備ナリ、総テ大学トイフ名称ニ適フヤウナコトニシテ、然ル後公立ナリ、私立ナリ、分科大学ト云フモノガ出来ルト云フコトモ宜カラウト思ヒマス」(同書五四六頁)と、その実体に厳しい基準を設定する方向へ進んでいった。こうしてみると、「新大学令は、久保田案、菊池案(学芸大学校案)、あるいは高田案のように中学校につらなる大学として低度の水準で構想されたものではなく、あくまで従来の帝国大学の水準で、帝国大学を大学制度の中核として考えられたものである」(同書五八六頁)ことが、よく理解されよう。従って、新しい大学への入学資格は、高等学校もしくはこれと同等の大学予科の卒業生たるべきことを要求され、大学を維持するのに十分な資産を用意し、教育・研究に必要な設備を整え、その設立に当っては天皇の勅裁を得るものとされた。

 こうして作成された答申二十一項および希望事項八項を骨子にして、大正七年十二月六日、次の原敬内閣の文部大臣中橋徳五郎の下で、「勅令第三百八十八号」による「大学令」が左の如く公布され、およそ四半世紀に亘る学制改革問題に終止符を打ったのである。

第一条 大学ハ国家ニ須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ竝其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養ニ留意スヘキモノトス

第二条 大学ニハ数個ノ学部ヲ置クヲ常例トス但シ特別ノ必要アル場合ニ於テハ単ニ一個ノ学部ヲ置クモノヲ以テ一大学ト為スコトヲ得

学部ハ法学、医学、工学、文学、理学、農学、経済学及商学ノ各部トス

特別ノ必要アル場合ニ於テ実質及規模一学部ヲ構成スルニ適スルトキハ前項ノ学部ヲ分合シテ学部ヲ設クルコトヲ得

第三条 学部ニハ研究科ヲ置クヘシ

数個ノ学部ヲ置キタル大学ニ於テハ研究科間ノ聯絡協調ヲ期スル為之ヲ綜合シテ大学院ヲ設クルコトヲ得

第四条 大学ハ帝国大学其ノ他官立ノモノノ外本令ノ規定ニ依リ公立又ハ私立ト為スコトヲ得

第五条 公立大学ハ特別ノ必要アル場合ニ於テ北海道及府県ニ限リ之ヲ設立スルコトヲ得

第六条 私立大学ハ財団法人タルコトヲ要ス但シ特別ノ必要ニ因リ学校経営ノミヲ目的トスル財団法人カ其ノ事業トシテ之ヲ設立スル場合ハ此ノ限ニ在ラス

第七条 前条ノ財団法人ハ大学ニ必要ナル設備又ハ之ニ要スル資金及少クトモ大学ヲ維持スルニ足ルヘキ収入ヲ生スル基本財産ヲ有スルコトヲ要ス

基本財産中前項ニ該当スルモノハ現金又ハ国債証券其ノ他文部大臣ノ定ムル有価証券トシ之ヲ供託スヘシ

第八条 公立及私立ノ大学ノ設立廃止ハ文部大臣ノ認可ヲ受クルヘシ学部ノ設置廃止亦同シ

前項ノ認可ハ文部大臣ニ於テ勅裁ヲ請フヘシ

第九条 学部ニ入学スルコトヲ得ル者ハ当該大学予科ヲ修了シタル者、高等学校高等科ヲ卒リタル者又ハ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ之ト同等以上ノ学力アリト認メラレタル者トス

入学ノ順位ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム

第十条 学部ニ三年以上在学シ一定ノ試験ヲ受ケ之ニ合格シタル者ハ学士ト称スルコトヲ得

前項ノ在学年限ハ医学ヲ修ムル者ニ在リテハ四年以上トス

第十一条 研究科ニ入ルコトヲ得ル者ハ医学ヲ修ムル者ニ在リテハ四年以上其ノ他ノ者に在リテハ三年以上当該学部ニ在学シ其ノ他相当ノ学力ヲ具ヘタル者ニシテ当該学部ニ於テ適当ト認メタルモノトス

第十二条 大学ニハ特別ノ必要アル場合ニ於テ予科ヲ置クコトヲ得

大学予科ニ於テハ高等学校高等科ノ程度ニ依リ高等普通教育ヲ為スヘシ

第十三条 大学予科ノ修業年限ハ三年又ハ二年トス

修業年限三年ノ大学予科ニ入学スルコトヲ得ル者ハ中学校第四学年ヲ修了シタル者又ハ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ之ト同等以上ノ学力アリト認メラレタル者トス

修業年限二年ノ大学予科ニ入学スルコトヲ得ル者ハ中学校ヲ卒業シタル者又ハ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ之ト同等以上ノ学力アリト認メラレタル者トス

第十四条 大学予科ノ設備、編制、教員及教科書ニ付テハ高等学校高等科ニ関スル規定ヲ準用ス

第十五条 大学予科ノ生徒定数ハ毎年ノ予科修了者ノ員数カ其ノ年当該大学ニ収容シ得ル員数ヲ超過セサル程度ニ於テ之ヲ定ムヘシ

第十六条 大学及大学予科ノ学則ハ法令ノ範囲内ニ於テ当該大学之ヲ定メ文部大臣ノ認可ヲ受クヘシ

第十七条 公立及私立ノ大学ニハ相当員数ノ専任教員ヲ置クヘシ

第十八条 私立大学ノ教員ノ採用ハ文部大臣ノ認可ヲ受クヘシ公立大学ノ教員ニシテ官吏ノ待遇ヲ受ケサル者ニ付亦同シ第十九条 公立及私立ノ大学ハ文部大臣ノ監督ニ属ス

第二十条 文部大臣ハ公立及私立ノ大学ニ対シ報告ヲ徴シ検閲ヲ行ヒ其ノ他監督上必要ナル命令ヲ為スコトヲ得

第二十一条 本令ニ依ラサル学校ハ勅定規程ニ別段ノ定アル場合ヲ除クノ外大学ト称シ又ハ其ノ名称ニ大学タルコトヲ示スヘキ文字ヲ用ウルコトヲ得ス

附則

本令ハ大正八年四月一日ヨリ之ヲ施行ス

本令施行ノ際現ニ大学ト称シ又ハ其ノ名称ニ大学タルコトヲ示スヘキ文字ヲ用ウル学校ニハ当分ノ内第二十一条ノ規定ヲ適用セス (『法令全書』大正七年勅令)

 ところで、これまでは、大学とは帝国大学そのもので、法規の上では帝国大学以外に大学なるものは存在しなかったわけであるが、「大学令」により大学一般についての通則ができたので、大正八年二月七日「勅令第十二号」を以て「帝国大学令」が改正せられた。それは帝国大学を総合大学と規定し、「大学令」に抵触しない範囲内において専ら官立総合大学のみに適用される通則となったのである。

 早稲田大学を含む我が国の一部の私学は、「大学」と称することを認められていたが、しかしこれは、大学の名称を有する専門学校、すなわち極言すれば似而非大学に過ぎなかった。だが、我が学苑を含めて私立専門学校は、大学としての内容充実に努力を傾け、社会にそれを認めさせると同時に、法令上における大学の地位取得を要求し、遂に大正七年、いわば私学の代表者たる高田早苗の「大学令要項」からはおよそかけ離れたものであったにせよ、右の大学令により初めて、名実共に大学の地位を認められたのであった。換言すれば、大学の地位を社会にも当局にも認めさせた主因は、本巻冒頭に引用した高田の科外講演に見られる「論より証拠」(六頁参照)という自負心にほかならなかったのである。しかし新大学令の早稲田大学への適用と学苑のそれへの対応についての記述は、第三巻に譲らなければならない。