学苑周辺の「早稲田八景」については第一巻に説述した(四二二―四二三頁)が、八景の大半は、北辺を流れる江戸川と、これに沿った目白台とに集中していた。特にこの丘陵地帯から河畔にかかる桜花の曖雲は、盛開の候には都心から多くの花見客を招来した。椿山荘に起居した山県有朋は、早稲田邸がなければここは天下の名所であると言い、大隈は、椿山荘さえなければ目白台の桜花は絶品であると言ったと伝えられるが、ことの如何に拘らず、この地が名所であったことには疑いを容れない。殊に目と鼻の先の目白台の一角に、大隈と親交のあった成瀬仁蔵が明治三十四年に日本女子大学校を建設してからは、我が学苑健児がこの丘陵を別の目で眺めるようになったのも否めないだろう。
概して、著名な学園の周辺には、それに学ぶ学生の宿舎が建ち、その学生に鬻ぐ文房具店や書店が開かれ、食堂や娯楽場が軒を争うもので、その特殊性から、通常これを学園都市と呼んでいる。しかし早稲田では、地勢の関係上、学苑を中心にはっきりと同心円を形作って発展するというふうにはならなかった。そして現在の学苑のメイン・キャンパスは東向きであるけれども、東面の鶴巻町辺りが繁華街になるのは、新道が開発されてから五、六年も後の明治四十年代であった。学生時代の殆どを寄宿舎の舎生として通学していた原安三郎や磯部愉一郎のような人達は、新道が完成した当時、裏通りには未だ茗荷畑が残っていたと語っている。秋田徳三(雨雀、明四〇大文)は明治三十五年に入学して、茗荷畑が漸く少なくなり鶴巻町という新開地が形成された時期に在学したのだが、彼の手記にはこう記されている。
私は青森県人の寄宿舎である修養社(小石川竹早町)から早稲田へ通つた。その頃の早稲田大学は寺小屋式私塾の性質から企業会社的性質に変りかけたところで盛んに普請をしていた。……安藤坂を下りて水道町の高低の道を通つて、私は早稲田へ通つた。その頃の早稲田は一面の茗荷畑で、私たちはこの茗荷畑の中を通つて行くか、芭蕉庵で名高い江戸川の土堤を通るかしなければならなかつた。その頃の学校は校舎が少いので二部制、三部制をとつていたので、私たちは電燈がついてから学校から帰つたこともあつた。私は土堤の下の小川の縁を歩いて川へ落つこつたのを覚えている。……私は〔明治三十八年〕寄宿舎の修養社を出て、早稲田鶴巻町の松葉館という下宿に引移つている。この頃には前にのべた茗荷畑も大体なくなつて、その後に早稲田鶴巻町という新開地の町が出来たのだつた。
(「環境から見た早稲田生活」 『早稲田学報』昭和二十五年五月発行第四巻第五号 一五頁、一七頁)
同じく明治末の早稲田の景観を、雨雀よりも後輩の中村宗雄(大六大法)にもう一度語ってもらおう。
ぼくは神田猿楽町で生まれて、明治四十年、ぼくが十二、三の時に早稲田に引っ越した。そのころの早稲田は新開地でね。今の早稲田ゼミナールのあたりに大隈家差配所というのがあった。そこで、地代の取り立てなどが行われていたんです。その後ろが大隈家のお庭ですね。大隈侯爵が時々お伴を連れて散歩されているのを見かけたことがあります。しかし、これが早稲田を見た初めかというとそうじゃない。小学校一、二年のころぼくは神田から遠足で、穴八幡に来たことがある。明治三十三、四年ごろのことですよ。以前の高田牧舎、今の平山時計店のあたりが低く段になっていて、吹き抜き井戸があって、水が吹きこぼれていた。ぼくはその水を飲んだことを覚えている。明治時代の早稲田というのは茗荷畑があって、田園風景そのものでしたよ。ほんとうにのんびりしたものだったな。
(「早稲田わが町――界隈今昔――」同誌昭和五十年三月発行第八四九号 一〇頁)
そして、中村の教えを受けた白仁進(法中退)も、中村の発言を左の如く裏書している。
私は明治三十四年に鶴巻町で生まれた。四十一年に早稲田小学校に入ったんです。一年生の遠足は戸山ケ原でした。このころの早稲田というものは中村先生のおっしゃった通りひなびたもので、私の家の庭で罠を作って山鳩をとるというようなことがありました。茗荷畑はあちこちにあり、今の関口町、鶴巻町の停留所のあたりが一面の田んぼで、鶴巻町の大通りを越してちょっと行くともう田んぼだった。田んぼのまんなかに小川がありまして、学校から帰るとそこへどじょうをとりに行ったもんです。記憶に残っておりますのは、鶴巻町の通りにガス燈があって、夜非常に明るくあたりを照らしていた。むろん私の家なんかには電気はなくて、みんなランプの暮しでしたね。明治四十年前後の話ですが。 (同前)
こうした情景の名残りは、大正に入ってからも何年かは残存していた。大正三年に高等予科に入学し、翌年中途退学した詩人の金子保和(光晴)は、こう言っている。
僕は十九歳で暁星中学を出ると、その年に早大の予科に入った。……英文科予科は、無試験だった。僕は牛込新小川町に住んでいたので、むろん、徒歩で通った。江戸川の川岸を伝って、江戸川橋まで出て、あれから鶴巻町の古本屋通りをまっすぐに正門までゆけばよかった。江戸川は、大曲から先は、桜堤で、草土手を踏みながら、ながれをさかのぼってゆく。江戸川の水は、まだ、きれいで、堤から鮒、たなごなどを釣る太公望の姿があった。四つ手あみで川えびもとれた。小舟の賃貸しもあって、僕は、よく、二時間位かりて、大曲から関口大滝までのぼった。浅瀬で、竿をつかってのぼり、かえりは、流せばよかったのだ。石切橋の角に、橋本という、うまいうなぎ屋があった。
(「早稲田のおもいで(大学の環境)」 同誌昭和三十五年九月発行第七〇四号 一九頁)
後の学苑教授伊藤重治郎と同級であった奥村卯兵衛(二秋、明三六英語政治科)は、「小石川の食物名物」(同誌昭和二年七月発行第三八九号)の中で「石切橋の橋本」を取り上げ、こう伝えている。
橋本は今も石切橋の袂にあるが、南岸から北岸へと引越したものである。電車の開通前、石切橋と江戸川橋との間は、川に沿うて道と云ふものがなかつた。橋本は石切橋の袂も、真に川沿ひにあつた料理屋である。由緒は至つて古く、江戸時代からあつた。……昔に溯れば溯るほど、江戸川の水も綺麗であつた。大曲りの方から柳桜の間を縫ひ、川沿ひに歩いて来て、石切橋の袂で橋本にぶつかつた日には、叩く団扇の音に連れてプンと鼻を打つ蒲焼の匂ひ、これに悩殺されない都人士があつたらうか。 (二九―三〇頁)
奥村はまた、雑司ヶ谷の芋田楽と雀焼を名物として挙げ、次の如く記している。
鬼子母神には毎年十月お会式がある。池上ほどの賑ひこそなけれ、日蓮宗の信者は大勢して万燈を担ぎ、ドンツクドンドンツクツクと、景気好く団扇太鼓で押し掛ける。その連中の休憩する茶屋が四、五軒ある。向ふ鉢巻の勇ましい若衆達は、思ひ思ひに腰を卸して、茶を啜り、芋田楽を頬張る。その美味さは又、格別であるに相違ない。……焼鳥は、雀とか山鳩とか、主に小鳥を焼いた料理なのだが、小鳥を食ふにも季節があつて、十二月から一月頃の寒い時を良しとしてある。が、その時分に鬼子母神へ杖を曳き、チト変つた雀焼なども食べて見やうと云ふのは、まづ物好きの方である。
(「雑司ヶ谷の鬼子母神」同誌昭和二年九月発行第三九一号 三二頁)
鬼子母神には、小栗風葉の『青春』に書かれている蝶屋もあり、大榎の並木の入口にある店の横には大きな金網張りの鳥小屋があって、数百羽の雀がその中を飛び交っていた。しかし早稲田界隈には、うまいものを食わせる店が殆どなく、僅かに正門(現南門)前の高田牧舎(明治三十八年――三十三年ともいう――創業)が、割合に種類の多い西洋料理を調理して人気があった。この店はその名が示す通り、初めは井の頭川と井草川の合流点である落合橋付近に専用牧場を持ち、市民の家庭に牛乳を配達・販売していたが、その傍ら、毎日搾り立ての牛乳を学生に供するミルクホールをここで営んだ。それがだんだん洋食屋になり、比較的値段が高く、学生達以上に講師達の愛顧を受けるようになった。大体学苑の学生は、地方の出身者が多かったので、彼らを賄う下宿屋が学苑の周辺に林立したが、玄人下宿は原則として三食付きであり、素人下宿もまた食事を供するものが大半を占めていたから、学苑の近傍には、時間待ちをするミルクホールか、一膳飯屋程度の頑固食堂(牛飯一杯三銭)や、蕎麦屋の三朝庵(第一巻七一〇頁参照)があるくらいであった。ここに言うミルクホールは、六六五頁にも一言するところがあったが、卓上にガラス製の陳列箱を置き、餡パンやジャムパンを陳列して取るにまかせ、学生は牛乳片手にこれを頬張って時を過ごした。ただ、どこのホールでも官報を備えていたのが味噌であった。このように、学苑周辺には手頃な会合場所がなかったため、例えば同窓会や校友会を開こうとすれば、足を東南に延ばすのが常であった。神楽坂周辺の吉熊、吉新、青陽軒、河鉄をはじめとして、神田多賀羅亭、四谷三河屋、更には星ケ岡茶寮などが会合場所として使用されたことが、当時の『早稲田学報』から知り得られる。大正六年刊の出口競著『学者町学生町』には、大正の初めに学苑の学生がよく出入りした飲食店として、右に述べた店の外に、神楽坂の紀の善、島金、矢ばねなどが挙げられているが、当時の予科正門(今日の正門)前の鶴巻町通りについては、
その通りの凡ては商店で、そしてその凡てが学生の為めに開かれてあるといつて好い。一寸見た処でも文具屋四軒、新本屋三軒、古本屋十軒、洋服屋六軒、ミルクホール四軒、そばや七軒、運送屋二軒、時計屋三軒、雑貨屋二軒、コンパス屋四軒等枚挙に暇がない。其中文具屋の松屋、新本屋の同文館支店、古本屋の世界堂、洋服屋の高島屋支店、ミルクホールの東祐軒、そばやの小槌、運送屋の早稲田運送店、時計屋の竹田、雑貨屋の万屋、コンパス屋の祐文社等は、学生街を装飾し代表してゐるといつてよからう。学校の前には早苗寿司がある。学長高田早苗博士をもじつた訳でもあるまいが。洗濯屋の早洗堂と命名したは如何にも道理ながら、さりとは余り曲がない。 (一三九頁)
と記されているので分るように、飲食店についてはあまり具体的に記述されていず、小料理屋の一力に筆誅を加え、校友大坪淑作の営む頑固飯屋丸稲を詳述しているのみである。そして、清国留学生部閉部後には、「早稲田名物の支那料理は革命後頓と振はず、僅かに一、二軒残つて居る許り」(同書一四六頁)と指摘されている。
なお、学苑の学生は、一七九―一八〇頁にも一言した如く、学生町の「風紀刷新運動」にも力を用いたが、『早稲田学報』第二一三号(大正元年十一月発行)には次のような記事さえ掲げられている。
由来新開地若くは青年壮者の集来する地には、小料理飲食店等業体の曖昧にして怪しげなる者の寄り来ることの常たるの厭はしきは、彼の兵営の設置せらるる所、学府学校の存在する所、何れも附近の空気をして多少の不潔浄を醸すの累を見るは識者の常に顰蹙する所なるが、本大学創立以来校運の隆盛に連れ、名詮自称、早稲田附近の青田はいつしか肆店櫛比の市街地と変じ、所謂早稲田の新開地を現ずるに至り、学生また逐年増加し来りて、早稲田の健児八千を数ふるに至れり。さればにや近来早稲田の附近にも御手軽料理などと怪しげなる看板暖簾を見るに至れり。早稲田附近の空気をして多少溷濁せしめたるやの看あり。
然るに単に是等の事象に刺激せられてにはあらざめれど、一部学生の主唱により、自治自修の精神を発揮し、校風一新の目的を以て、去五月中青年正義会の名称を以て一大修養会発起せられ、続いて寄宿舎に於ても同じく風紀刷新の目的を以て春秋会起り、振粛刷新の気象学生の間に鬱勃たり。此気象の激する所、即ち去月十三、四、五の三日間に亘りて、新聞紙上「早稲田健児の魔窟狩り」云々との記事を掲げられたる一種のデモンストレーションを誘致するに至れり。此種学生のデモンストレーションは従来余り行はれたることなかりし故、一時警察官を狼狽せしめ、新聞記者を驚かしたる様なれども、英国オックスフォード大学及ケンブリッヂ大学等にありては、学校に一部の警察権を委任せられ、所謂学校警察を以て学生の風紀を取締ることとなり居り、学校は常にプロクトル即ち監督を巡邏せしめて学生の挙動を視察監督せしめ居るとの事例に徴して之を観れば、学校が風紀取締の警察権を有し居らざる我が国に於て、学生自ら奮起して之が刷新取締の事に当らんとするに至るは、寧ろ事の自然とも視らるべく、又其の意気の多とすべきものあるを看取せらるべし。其のデモンストレーションを誘致するに至りたることの如きは、鬱勃たる気象の余激のみ、深く思ひを致すべき事にもあるべくや。
元来学生は純潔なるべきもの、学校附近は清浄ならざる可らざるものたるは言を待たざる事なれば、学校の為めに起こり学校の発展により発達して所謂学校町となりたる早稲田附近の清浄潔白ならんことを望むや切なり。仍て又今回のデモンストレーションによりて大に覚醒する所ありたりと聞く。警察官の努力能く其の効を奏して、一日も早く早稲田の空気をして清浄ならしむるに至らんことを望んで止まざるなり。 (一八―一九頁)
高田学長が、翌月の『早稲田学報』第二一四号に、特に「学校町の風紀」と題して、次の談話を寄せていることからも、学生の環境浄化運動の持つ意義が知り得られるであろう。
先頃我が早稲田学園に所謂魔窟退治と云ふ事があつて大分世間の問題となつたが、結局我が学園の学生が其の平生の教に背かず自敬自重の精神を発揮して事の結末を告ぐるに至つたのは甚だ喜ぶべき事である。世間は或は誤解して、学生の大衆が最初から多数を恃んで他に圧迫を加へた如く思ふ者がないとも限らぬが、真相は素より左様ではないのであつて、学生中の篤志者が、万が一にも同窓中より心得違ひの者を出すことがあつてはならぬと云ふことを心配して、学校の〔学生〕監督部を助けて警戒的活動を試みたるに対し、破落戸・無頼漢等を使嗾し反て迫害を加へんとする者があつた為めに、多数の学徒を奮起せしめ、学校の近傍に於ける風紀を正さしむるに至つたと云ふのが事の順序であつて、亦さうなければならん筈である。苟も早稲田大学の学生たる者が所謂魔窟などと称する者を相手として軽挙妄動し、千金の身の貴きを忘るると云ふが如き事は決して有り得べからざることであると、殊更玆に断つて置く必要もないであらう。そは兎に角として、此の事件以前、早稲田大学附近に於いて風紀上多少注意しなければならん家が存在して居つて、学校の当局者及善良なる学生をして眉を顰めしめたのは事実であると同時に、此の事件以後警察の尽力に依りて此等の者は凡て一掃せられ、早稲田の天地が再び元の如く清浄になつたと云ふのも亦事実である。……
抑も学園の風紀なる者は如何にして維持すべきものであらうか。言ふまでもなく、学園内部の事は学校自らが其の責めを負ふべきものである。併しながら、大学程度の学校に於いては、消極的に学生を取締ると云ふよりも、寧ろ積極的に其の学風を鼓吹して学生の自敬自重の念を厚からしむると云ふ方が、適当の方針であらうと思ふ。……学校は孜めて其の学風を振作して学生の自重自敬の心を熾んならしむる様にする、家庭は其の子弟の平生を能く監督して学校と相待つて充分の注意を為す、然るにも拘はらず、政府は学校の附近に所謂魔窟的不正の営業を営む事を認許すると云ふ様な訳であつては、如何なる学園も到底其の風紀を維持する事が出来ない事になるのである。我が早稲田学園の如き、幸にして其の学徒が健全なる思想を懐いて居るのみならず、早稲田大学の学生であるといふ自敬の念が熾んであるが為めに、此の度の如く忌はしい問題を一時解決することが出来たのであるが、彼等不正営業者なる者は恰も飯の上の蠅の如きものであつて、教育に対する政府・警察の方針が確立しない限りは、また再び早稲田附近に所謂魔窟を見るが如き事がないとも限らぬのである。……
早稲田に於ける所謂魔窟問題に依つて端緒の開かれた風紀問題は、未だ真の解決法を得て居るのではないのである。教育の庭、学びの園は、素より清浄でなければならぬ。葷酒山門に入るを許さず的の規律がなければならぬ。併しながら之を爾く保つて行かうと云ふのには、其の附近の市街、即ち学校町を清浄の地とせなければならぬ。之を清浄の地たらしむるのは、蓋し内務省と文部省との責任であつて、両省の当局者は深くこの問題を研究し速に相当の方針を定められんこと、早稲田学園の為のみならず都下に於ける総ての学園の為に切望に堪えざる次第である。 (二―三頁)
『学者町学生町』にはまた、
寄宿舎前の早稲田俱楽部は学生らしい無邪気な元気な気象が溢れて居る闘球場である。中央のガスが青白く球台の羅紗を照らす。少し開けた窓から初夏の微風が流れ込んで皆の熱した頬を快よく撫でる。球を撞かないでも、撞けぬ人でも、早稲田の学生でさへあれば双手を挙げて歓迎する。茶を飲んで無駄口を聞いて終日転がつて居ても宜い。寔に早稲田俱楽部の名に背かず寄宿生が能く出入する。 (一四四―一四六頁)
と、学苑の学生の間にも漸く撞球愛好者が目立ち始めたのを窺わせる記事も見られるが、学生の娯楽場としてはその他には碁会所がある程度で、学苑から比較的近距離には、小芝居の早稲田座(九五二頁以降に見られる早稲田劇場と改称したのは大正初年)、端席の大和亭や江戸川亭などがあったけれども、学苑の学生により賑ったとは考えられない。娘義太夫全盛期には学苑にも堂摺連がいたに違いないが、恐らく下町まで遠征しなければなかなか目的を達せられなかったであろう。神楽坂には、当時としては画期的な地下に食堂を設置した寄席の藁店があったが、時代はまだそれを歓迎することなく、大正初年には牛込館に衣更えして活動写真を上映するのやむなきに至り、次第に高級映画館として名声を博したので、学苑の学生中にもわざわざ足を運ぶ者が見られるようになってきた。後の神楽坂演芸場は明治時代には石本亭と称する浪花節席で、未だ頭角を現すには至らず、映画館にしても、学苑にもっと近い通寺町の文明館や山吹町の羽衣館に対しては、多くの早稲田学生はこれを低俗視してあまり近づかなかったものの如くである。
後年、学苑に在職中代議士に当選した喜多壮一郎(大六大法)の遺稿集『母校早稲田』には、「大学のちかくの質屋は、学生たちがいい華客ダネ。ずいぶん繁昌していたし、その店数もかなりあった」(三七九頁)と述べられ、級友の質屋通いの逸話が紹介されているが、喜多の言は、ある質屋の若旦那が「早稲田附近には〔質屋が〕五、六十軒もあります。而も、それらが皆大抵は学生専門で、相当に遣つて居りますから、面白いではありませんか」と述べている(「質商の観たる大学生気質」『大学及大学生』大正七年一月発行第三号一四六頁)ところによっても、裏書される。質屋は一種の金融機関であるから、これを利用するのに恥じることはないと割り切っている学生も少くなく、白昼堂々と質草を抱えて質屋の暖簾をくぐる学生を目にしても、世人はさほど不思議とも思わなかった。特に地方から上京してきた下宿住いの学生にとっては、故郷からの送金が遅れるのは大きな痛手で、こういう場合に頼りになるのが、庶民の金融機関である質屋の存在であった。この意味で質屋は、学園都市に必須なものだったのである。
以上で学苑を取り巻く景観について大略を述べたが、右に欠けている西北区域について大正中期の姿を描いた文章があるので、これを転載しておく。
昼間は、高田馬場駅より早稲田通りを歩いて来る人波、早稲田終点から来る人波で、当時の未だ狭い道は人が溢れていただろうと思えるのです。こんな様子でしたので、食堂、学生服の洋服屋、本屋等の商店も多かったのですが、それも表通りだけで、裏の方はまだ畑が残っていました。でもここで案外この町が学生街だと云って見過ごされ勝ですが、意外にも工業の町の側面もあります。現在でも印刷、製本業を営む人が多いのですが、当時はその業種に代って、特に神田川周辺に集まっているのですが、当然その水利を使い、ガーゼ、綿等の精製綿業者、染物、晒業者の多い事では東京一でした。
(『下戸塚――我が町の詩――』 一四九頁)
ドイツ会計学の紹介者である岡田誠一は、東京帝大卒業後、大正十三年から学苑の専門部で多年に亘り簿記を講じた篤学者であるが、東京専門学校時代の学苑に、短期間ではあったが在学したことがある。その時の通学路について、九十翁岡田は左の如く回想している。
私は明治三十一年の九月からホンのわずかの間だが、当時の東京専門学校に在学したことがある。その頃の私は、神田の向柳原町の九尺二間の裏長屋に同居していたので、たいてい牛込見附の辺りを回って往復したものであった。牛込見附を出て向うの坂は、当時小石川、牛込随一の繁華街神楽坂である。上りきった左側に毘沙門堂があり、日も夜も参詣人が列をなして跡を絶たない。その裏通りには十数戸の芸者屋が軒を連ねていたし、「わらだな亭」という著名の寄席もあった。神楽坂の十字路をそのまま通過して進むと、左に横寺町の小路がある。その右側に有名な「横寺のどぶろく屋」があった。その先の左側に尾崎紅葉が、その頃は住んでいた。横寺町をあとにして進むと左側は全部が矢来町八番地である。旧酒井藩邸の跡だという。矢来町八番地の尽きる所に巡査派出所があった。道は一応右へ転回して、江戸川橋を渡り音羽の通りを真言宗豊山派の本山護国寺の山門前に至る。江戸川橋の上に関口の滝、神田上水取入口のダムがあり、水車なども、まだその頃は残っていた。矢来の派出所を左に早稲田の方向へ進む道は榎町、早稲田町を経て馬場下町、その右側の奥まった所に当時の犬養毅氏邸はあった。ほとんど並んで、開校してまだ幾年もたたぬ早稲田中学の校門があった。……高田八幡の鳥居前で道は三方に分れ、直角に右折すると一路大隈邸門前に達する。西側の光景には全く記憶がないが、入口の角に当時新築の蕎麦やのあったことと、右側の最後の家が、これも新築の三枝守富氏邸であったことだけを記憶している。三枝氏邸前を過ぎて右折すると当時の鶴巻町の通り、といっても右側には人家があったが左手は通称茗荷畑、見渡すかぎり茗荷ばかり。三枝邸の斜め向うに東京専門学校の校門はあった。上に生垣を置いた盛土の土堤の一部を開いて二本の柱の間に二枚の扉をかけた程度の門である。
(「七十五年前の早稲田かいわい」『早稲田学報』昭和四十九年五月発行第八四一号 一二頁)
既述の如く、明治三十五年には、現在の正門から鶴巻町を経て山吹町に至る「新道」が建設されるという大きな変化はあったものの、寄宿舎や学苑周辺の玄人・素人の下宿に居住していない学生は、明治末までは下町からは岡田の記している道筋を、徒歩で通学するのが通例であった。
東京の路面電車は、明治三十九年三月には飯田橋まで、同年九月には大曲まで開通したが、学苑の学生が利用して便利を感ずるようになったのは、四十年十一月に江戸川橋まで延長してからであり、次いで四十二年十二月に小石川表町と大曲の間が開通すると、山の手の学生も、片道四銭均一(乗換自由)の乗車賃を払えるだけの余裕があれば、電車通学を開始した。尤も、学苑から江戸川橋までは徒歩二十分もかかったから、路面電車が大多数の早稲田大学生の足に代ったと言えるのは、市営に移行後七年、大正七年七月に早稲田車庫が完成、早稲田終点までレールが敷設されてからである。これにより市電の停留所とキャンパスとの距離が徒歩数分に短縮されたことは、特に工手学校の勤労夜間学生にとって最大の福音だったと言えるであろう。
他方、鉄道路線上には、既に明治三十七年、御茶の水―中野間に甲武鉄道会社により電車が運転され、三十九年に国有化されたが、その牛込駅(現在の飯田橋駅よりも市ヶ谷駅寄りに位置)からは、徒歩三十分ばかりを必要としたから、学苑の学生が通学に利用することは稀であった。ところが四十二年十二月より山手線上野―烏森間の電化に伴い、翌年九月小さな高田馬場駅が新大久保駅寄りの土手の上に開設され、通学への「院線」(後の省線、今日の国電)の利用とグラウンド坂上以西の学園都市への発展との礎石が置かれることになった。
なお、三代将軍家光の時代に完成した高田馬場は、現在の早稲田通りと茶屋町通りの間約五千坪の馬場で、今日の駅からは遠く離れ、またその読み方も「たかたのばば」で、「たかだ」とは濁らない。これに関しては、
国電の高田馬場の駅名は戸塚駅にしようとしましたが、すでに神奈川県の戸塚駅があったので、戸塚で一番有名な高田馬場の名前を駅名にしたのです。ところが馬場はタカタなのに、駅名はタカダと濁音です。駅は本来の馬場と離れているので、わざと濁らせたという話が残っています。 (『下戸塚――我が町の詩――』 二五頁)
と、少々できすぎた話が伝えられている。
人には必ず性格や趣味や回顧がある。我が学苑の教職員も、人間である以上すべてこれらを持ち合せている筈だ。しかし、例えば謹厳なるが故に敬慕される人もいれば、謹厳なるが故に疎んぜられる人もいる。無趣味が特長となり、愛せられる人もいる。そのような旧教師に対する思い出話が、明治四十年頃から戦後に至るまで、文字通り思い出したように、ポツリポツリと『早稲田学報』に顔を見せている。今その中から若干を紹介することによって、学苑の歴史を彩る人間像を描こう。不思議なことに、高田早苗や天野為之といった、いわば草創の柱石となった人々の面影が『早稲田学報』に語られることが少く、また田中唯一郎や前田多蔵のような有能な職員の名も殆ど聞かれない。ところが坪内雄蔵となると、誰もがその人となりについて大いに語っている。先ず窪田通治(空穂)の回想から、坪内に関する部分を抜き出そう。
私は明治三十七年、早稲田大学の前身である東京専門学校を卒業した者で、専門学校としては最後の卒業生である。……文学科の卒業生は、地方で中等教員の口を求めれば、何らか得られた。これは文部省から中等教員免許状をもらへる仕組みになつてゐたからである。しかし東京では、よほどの縁引でもない限り、不可能に近いことであつた。殊に哲学部卒業者は一段であつた。
某君は東京に在住しようとし、その上に立つてあらゆる運動をしたらしいが、結局何の口も得られなかつた。他方下宿料も溜まつて来て、追ひ立てられる苦しまぎれから、終に電車の車掌にでもと決心し、採用試験にパスしたのであつた。就職には保証人が要るところから、学生時代の保証人であつた内ヶ崎作三郎教授のところへ行き、事情を訴へて保証を頼んだのであつた。内ヶ崎教授は、帝大出身の英語担任の人で、後には衆議院副議長になつた極めて開放的な、そして高声に物をいふ人であつた。
その翌日内ヶ崎教授は、学校の職員室で、同僚の顔を見ると、「あははあはは」と高笑をして、「文科の卒業生の某君がね、電車の車掌になるんだつて。僕の所へ保証人になれつて云つて来たよ。あははあはは」と例の高声で、さも可笑しさうに話すのであつた。坪内逍遙先生は、やや離れたところの椅子にゐて、それを聞いたのである。
同じ哲学部の同期の卒業生である前田晁君は平常坪内先生の門を潜つており、その時には先生の推薦で、博文館の編輯員として入社してゐたのであつた。その日先生よりの使で、同級の某君を伴ひ、至急来訪せよ、とのことであつた。前田君は何の用だか全く見当も附かないが、云はれるままに某君を伴つて相共に先生の前に膝を並べた。先生は某君に、今日内ヶ崎教授の云つたことを告げて、事実か何うかを確めた。某君は恐縮して、言葉少なに苦衷を訴へた。すると先生は、黙つて頷いて、その場で書翰を認められて、「これを学校の図書館へ持つて行きたまへ。何うにか食へるだけのことはして呉れよう。」某君は戴いて受け取つた。そしてさも云ひにくさうに、「私は下宿料を溜めてしまひまして、追ひ立てを食つてをりまして」と云つた。図書館から給料の前借りができないものかと思つてのことらしい。
「幾らあるんです。」
「八十円溜めまして。」
先生は手を鳴らして女中を呼び、奥さんから四十円を取り寄せられ、それを某君の前に置き、「これだけ入れて置きたまへ。下宿屋なんてものはそれで沢山だから。」某君は更に恐縮して、そして前田君に伴はれて辞去した。
幾月か過ぎた。某君は前田君に同道を求め又相並んで先生の前に坐り、恩借の四十円を差出して、先生にお返しした。それを見ると先生は手を振つて、「それはしまつて置きたまへ。何かに要る時があらう」と云はれて受け取らない。某君は恐縮し、当惑してゐた。それを見ると先生は、「云ふべきことではないが、私は金銭のことは家内に一任してゐるんです。実は君のやうなことを云ふ人が種々あるが、返した人はないんです。中には返す人もあるといふことになると、そこは女で、返さない人達に気の毒な思ひをさせなくてはならない。さういふ様だから、しまつて置きたまへ。」さう云つて坪内先生は話を転じてしまはれたのであつた。……
以上は、隠れた一美談として伝へようとするのではない。早稲田大学文学部創設者としての坪内逍遙先生が、その部に学んだ者の社会的地位の低いのをあはれみ、歎じ、そのことを自己責任の如く感じてされたことであらうと思はれる。少くとも私はさう信じ、悲しんで伝へようとするのである。
(「約五十年前の早稲田出身者」 『早稲田学報』昭和二十七年七月発行第六二一号 一二―一四頁)
小冊子の他には、訳書以外一冊の書物も著すことなく、それでいて篤学者として内外にその名を知られた謹厳な塩沢昌貞が、一世を風靡した名力士常陸山谷右衛門と親友であったという打ち明け話も発見される。
自分の実家は関といつて、常陸山の家と共に水戸の藩士であつた。藩の習慣として藩士の子供はお互に「公」を付けて呼ぶ。自分は常陸山の事を「谷公、谷公」といひ、常陸は亦自分を「関のさだ公、さだ公」と呼んで居たやうに記憶する。常陸は自分より二つ三つ年下であるので、藩の水泳場では互に遊んで居ても、いつでも年長風を吹かせて常陸を泣かせたやうに思ふ。尤も此事は常陸が横綱になつた時、常陸の方から「君には好く泣かされたつけね」と話したので、思はず笑ひ出した事であつた。所が其常陸がいつの間にかあんな堂々たる体格となり、現在の相撲界ばかりではなく、相撲史の上にも無比と言はれる程の大力士となつて居るのだ。常陸は自分と竹馬の友であつた十一、二の折には、腕力なぞも大して他の子供に勝れて居るとは思へなかつた。ただ何処かに鷹揚な所があつたやうに思れる。尤も家柄としては、二人の叔父さん、一人は田中といふ撃剣家(此人は自分の撃剣の師匠)で、も一人は京都武徳会々長の内藤といふ人々があつたから、多分其人々の系統を引いて居るのであらう。其れに常陸の祖父は水戸烈公の鎗の指南であつたやうに記憶する。常陸に聞くと、何んでもああ身体の大きくなつたのは二十前後だと言つて居る。常陸は身体ばかり立派なのでなく、逢つて話して見ると議論なぞでも堂々として居るので、自分は何時でも感心して居る。此点で普通の芸人のやうにぴよこぴよこと人に頭を下げない(実際また立派な家柄に育つたのだから、態とにでは決してない)ので、一部の人々には嫌はれるさうだ。 (同誌明治四十二年七月発行第一七三号 一七頁)
常陸山は、塩沢のみならず、知識人に多くの知己を持っていた。学苑とも関係が深く、大隈に紹介されて相知るようになった永井柳太郎もその一人であった。永井と常陸山との出会いは、喜多壮一郎の語るところによると左の如くであった。
永井が、雑誌『新日本』の講演会のために大隈伯等と、名古屋に出掛けた時のことである。その帰京の折、車中へ横綱常陸山谷右衛門が乗り込んでき〔て〕、大隈伯のところへ挨拶に来た。大隈伯は側の永井を常陸山に紹介するのに、「この永井は、口も八丁、手も八丁、弁舌に文章に勝れてゐる。今後ともつきあつてやつてくれ」といつた。常陸山は大隈伯の言葉に従つて永井にむかつて丁寧に挨拶した。しばらくして常陸山が「永井さん、ただ今、伯爵は貴方を口も八丁、手も八丁、弁舌に文章に勝れてゐるといはれました。私は相撲とりで、相撲道以外のことは全く解りません。しかし相撲道では四十八手裏表手があります。その相撲の手四十八手をみんな呑みこんでゐるものは幕下のペイペイです。呑みこんだ四十八手のうちから自分の得意のもの二手か三手を会得して強くなつたのが幕内力士であります。その二手、三手のうちで、この一手といふ手を自分の体力や気力と共に真に体得して、その時の相撲取りの誰にも負けぬものとなつたのが日下開山横綱となります。私は一手しか得意とする手はもつてゐません。しかしこの一手をもつてすれば、誰にも負けません。貴下はおみうけするところ、右脚が不自由のやうですが、右脚くらゐなくても、口で、即ち弁舌で、文章で、天下の横綱になつて下さい。それには政治をやることですよ」と語るのであつた。 (「永井柳太郎」 同誌昭和二十六年十一月発行第六一六号 二四―二五頁)
塩沢については、当時の雑誌『青年』(大正三年八月発行第二巻第八号)に、「政治経済科 黧一郎」なる人物の筆によって、「その見識その人格は世既に定評あり、而して先生はその定評の如き人にて候。不得要領と点の辛いのと、エエエエを連発する講義に閉口させられることが学生の定評にて、彼には然し正直な先生だと付け加へ居り候。先生は矢張りその定評の如き人にて候」と、また永井については、「先生こそは雄弁中の鏘々たるものにて候。先生の雄弁は雄大なる夏の雲の雷を封じて立てるの概あり、この雄弁を以て社会政策と殖民政策との深遠なる研究を発表す。学生の人気の翕然として集る、宜なる哉に候。先生は一方に於て腕の人なり。教授らしくもなくして然かも立派な教授たるものは先生に候」と評され、その他田中穂積について、「立板に水を流す様なる弁舌と、キビキビしたる態度とが累をなして不評判なるはお気の毒にて候。学生は先生にプロイセン博士なる尊号を奉り居り候。これ先生がプロイセンに於ては……と口癖に仰せられるが為めに候」と、更に安部磯雄について、「田中先生のプロイセンと共に有名なるは安部磯雄先生のグラスゴーに候。直立不動の姿勢を以て、グラスゴーの市設病院はと都市問題を講ずる処は、ほんに懐しい小父さんに候」と、記述されている(一四六頁)。
永年に亘るシカゴ大学への留学より帰国後間もなく、既に東京専門学校時代より学苑の教壇に立った王堂田中喜一は、独得の語彙を駆使した講義や論文が難解だったので、初めあまり評判がよくなかったが、論壇の花形としての地位が確立せられるに及んで、教室でもまた名声を博するようになった。その思想的影響を最も強く受けた一人石橋湛山は、『早稲田学報』第六四一号(昭和二十九年六月発行)に寄せた「今昔雑感」の中で、こう語っている。
田中先生が早稲田大学に来られ、私どもが初めて講義を受けましたのは、明治三十九年であったと思います。それはこういう事情であります。後に京都大学の教授に転じた藤井健治郎博士が、当時われわれに倫理学、哲学概論などを教えておられた。しかるに藤井先生が海外に遊学に出るということで、その間代りに倫理学を受持つ先生を大学で求めた。その結果として田中先生が来られることになったのであります。しかしその頃はまだ田中先生の名前は、専門家の間には多少知られておったけれども、一般には全く聞えておりませんでした。先生は当時蔵前の東京高等工業学校の教授でありましたが、われわれは、そんな処の先生では大したことはあるまいと、実はいささか失望気味で迎えたしだいでした。
ところが講義を聞いてみますと、これまたはなはだわからない。話しぶりも、わかりにくいが、実はその内容が、今までわれわれが哲学だと思っていたものと大分違っていたからであります。そういうしだいで、最初は評判がよくなかったのでありますが、そのうちにだんだんわかり出したら、これはなかなか今まで一般の先生から聞いていた話とは違うぞということで、よくはわからないながらも評判がよくなった。
あるときにこういうことがありました。そのころ高杉滝蔵先生という英語の会話の有名な先生がいました。会話の時間にいろいろの話題をつくるんですが、ある時われわれのクラスの英語の会話の時間に、高杉先生がいま日本の哲学者で一番偉いのは誰かという質問を出した。むろん英語です。ところが初め学生はみな黙っていた。そこで高杉先生がその時分心理学の学者として有名な東京大学の教授の元良勇次郎博士とか、いろいろの人の名前をあげましたが、それに対しては、われわれのクラスの連中は、いずれも「ノー」というわけです。そこで高杉先生から、それでは誰かという質問が出たところ、だれかがプロヘッサー・キイチ・タナカと言い出したものですから、高杉先生は驚いて、喜一田中とはどんな人かと、だんだん学生の説明を聞いて、ああそれなら、講師室に赤いネクタイをしめて、頭の毛を長くして来るあの人かということで、大笑いしたのでありました。もっていかに世間が田中先生を知らなかったかが伺えます。ところが、そのうちにだんだん先生は有名になり、明治末期から大正の初期にかけて、先生は日本の評論界第一の売れっ子になられ、わが大学においても、先生の影響を受けた人は、きわめて多かろうと思います。その中で私とか関〔与三郎〕君とか杉森〔孝次郎〕君とかは、ごく初期の先生の学生で、かつ先生が死去されますまで御指導を受けたしだいであります。
ところで田中先生について今でも常に惜しいと思っていることは、とうとうまとまった著書を残さずに死なれたことであります。私はそれを非常に残念に思いましたから、実は早く大正時代の初めに、是非先生の哲学をまとめておいてもらいたいと懇請したのでした。しかし先生は、なかなか書きません。そこで在学中に、私が講義を筆記したのがありますので、それを元にして口述をして下さいと、たまたま同学の友人で遊んでいる人がありましたので、しばらくの間私が電車賃を出して先生の谷中のお宅に毎日行ってもらったことがあります。だがついに先生は承知してくれませんでした。田中先生が昭和七年に死去されるころには大学の出版部からも頼まれて哲学概論を書くことになっていまして、ずいぶん準備をしておられました。ところがあまり準備が慎重すぎて、著書はついにできずじまいになりました。死去されてから、何かそのメモをまとめるくふうはないかと思って、奥さんからそれをお借して調べて見ましたが、全然駄目でありました。支那の哲学とか、ドイツの哲学とか、ずいぶん広く読まれておって、その批評と思われるものを記してあるのですけれども、全くの心覚えの程度であって、われわれが見ても、わかりません。こういうわけで、まとまった王堂哲学の著書は、ついに残されなかったのです。
(八―九頁)
この湛山の回想に出てきた高杉滝蔵は、アメリカに留学すること十一年余、ドクター・オヴ・フィロソフィーの学位を得て帰国し、学苑で英語を教えた。終生青森弁は抜けなかったが、英語の方は、これまたイントネーションに一種の癖はあったものの、その雄弁に英米人の目を瞠らせた。感情家で涙もろく、人に対しては親切で、特に学生には良い教師だった。服部嘉香はそのような高杉をこう語っている。
困つたのは、教員免状の関係から、宮井安吉先生の英文法と英作文、高杉滝蔵先生の英会話が三年まであつたことである。……高杉先生はワセダ・スピリットを強調された愉快な親切な先生で、「試験の時は文部省の役人が監査に来ますが、英語の解る人なんか来ないから、私の尋ねることが解つても解らなくても、何か諳記しておいてレシテーション式にべらべらおやりなさい。役人びつくりしますよ」とこういう約束が出来ていた。乱暴な話のようであるが、学問の独立を建学の目標とした大隈精神の現われで、官僚・官学に対する自負自尊の奨励だつたのである。ところがわたくしは、当日くじ引で決つた順番が八十八人中の八十番で、教室に行くと、役人は午後四時も過ぎたのですでに帰つており、思いきや広い教室に先生とわたくしとの一騎討となり、全く答が出来ず、「実はお言葉に甘えてこれこれを諳記して来ている、それをリサイトしてよろしうございますか」といいたいと思つてもそれも英語でいえず、無暗にアイ・ドント・ノウを連発して、恐らく二、三十点。その頃事務所に、同県人の服藤利夫という人がいて、点数調べの係をしていたが、「服部君、今のところ一番だよ、頑張り給え」といつてくれて、噓のような気もしていたが、英文法・英会話で文句のないうつちやりを食い、卒業の席次は四番に顚落。
(「わが師わが友」同誌昭和二十六年二月発行第六〇八号 一九頁)
理工科を今日あらしめた功労者の一人に徳永重康がいる。既述の如く、自ら能学博士と称するほどこの道の大家で、高等学校在学当時、宝生九郎に師事してこれを習得し、本舞台に立つこと数百回に及んだヴェテランである。しかし、彼はあくまで本業の学問研究と趣味としての能楽とを区別し、これを強調している。ではその理由とは何であろうか。「人と趣味」欄に載せた「能楽の妙味と人生に於ける趣味の必要」について聞いてみよう。
私は相撲でも、芝居でも、義太夫でも、競技でも、殆んど嫌いなものはない。しかしこれ等は目に見たり耳に聞いたりするのみであるが、能楽は十五、六歳の頃から稽古を始めて、四十年近くの間常に怠らずに今日迄毎月四、五回は必ず先生の下に通つて教を請ふてゐる。世間でいふ謡は能楽の一部分で、芝居のチヨボのやうなものである、即ち、この謡に囃方と舞が加つて舞台で演じてはじめて能楽となる。そうして舞台に立つてシテ方(主人公)を演ずるにはどうしても、四拍子を習得する必要があるから、私は舞の外に大鼓、小鼓、太鼓や笛の稽古にも十年計りかけて可なり苦心をした。私が本舞台で公衆の面前に立つて囃方入りでやつたのは先月までに二百十四回(尤も面と装束を着けてしたのは五十回ばかり)になるが、若し趣味を娯楽と認める人があるならば私を大道楽者の仲間に入れるかも知れぬ。しかし私はこれには信念を有つてやつてゐる。言ふまでもなく私は学問の研究といふ本職があるから、趣味に淫しないやうにすると同時に趣味をあくまでも研究することを本義としてゐる。先生の所へ行く時は万障を繰り合せて出かけて、稽古には身心を打ち込んでやるが、自分の家で謡や舞を慰み半分にやつて貴重な時間を潰すことは出来るだけ避ている。
さて趣味をさやうに深くしてどういふ利益があるかと言はれるかも知れぬが、これを無用の暇つぶしや単なる精神の慰安のみに解するのは当らぬ。私の考えでは、人間は専門の職業以外に心に或る余裕を有たねばならぬと思ふ。純正の学問ばかりを一生のつとめとして何等人間の平生と没交渉で過せる人は格別であるが、教育家でも、政治家でも、事業家でも、苟も人間相手に事をやつて行く人に何らゆとりのない言行ばかりして居れば、勢ひ自分の性質に合はない人にはどうしても物事を任して行くことが能きず、畢竟極めて度量の狭い人となるといふ惧れがある。かかる性質を直して、謂はゆる清濁合せ呑んで、自己の確乎たる精神を打ち立てて行くやうにするには、私はその精神修養の一方法として、自己の専門業以外に或る趣味を深く味つて行くことが必要ではあるまいかと考へるのである。 (同誌大正十三年五月発行第三五一号 三一頁)
ところが他方には、他人の洒落に傾聴し、沈思黙考、研究してみてもなかなか理解できず、遂に当の本人に説明を求めたというような学者もいる。既にしばしば触れた同志社組の一人、浮田和民がそれで、学問以外に心を寄せるものがなく、教えることには厳しかったが、内に親切を秘めた厳しさは、学生を心服させずにはおかなかった。「早稲田的なもの」を語る座談会で、小汀利得はその教授ぶりを次のように伝えている。
いい先生だつたけれどこれくらい苦しめられた先生はないな。今はないが、文科の教室の横に理科教室という日の当らない腐つた建物があつてね。そこでいつも八時からだつたが、先生は機械のごとく、あのヨウカン色の紋附の羽織をきて、いつ行つても時間にはチャンと来ておられる。もう一分でも遅れると「入つてはいけません」とすぐドヤされるのだからかなわない。それでも僕は勤勉な方だつたですよ。ギデングズのエレメンツ・オヴ・ソシオロジーという相当に細かい字の本を毎時間四頁ずつやらせるんだ。そして、未だ二頁ぐらい残つていても一気に十五分ぐらいでやッつけてしまわれる。そして学年末になつて、問題を出して下さいと頼むか頼まぬうちに、これは今学年で全部終らなかつたが全部終つたことにして試験をやると知らぬ振りなので、実際面喰つたものだ。 (同誌昭和二十七年四月発行第六一九号 二五頁)
当時の学者には、象牙の塔にこもりきりで、世情一般については関心が薄く、またなりふりさえ構わぬ人も多かった。煙山専太郎もその一人である。素面の時はあまり語らず、訪問者に話の接ぎ穂を失わせて困らせることがよくあったが、一度酒を口にすると、堰を切ったように話し出し、いつ果てるともしれなくなるのであった。石橋湛山は煙山に対する印象をこう書いている。
煙山先生には、高等予科で一年間、西洋史の講義を受けた。非常な勉強家であるという評判で、絶えず図書館の書庫に入り込み、読書をしていられた。なりふりには一切かまわず、たぶん時計屋に修繕にでも出されるのであろう、目ざまし時計を、ぶら下げて、鶴巻町の通りを歩いているのを見かけたことなどもあつた。こういうわけで、私は、実は教室において先生に接する時間は少なかつたのだが、不思議と深い印象を受け、親しみを感じた。
(「思い出の断片」同誌昭和二十六年五月発行第六一一号 一三頁)
洋学古版書の勝俣銓吉郎とか、浮世絵・茶器・鍔の佐藤功一とかの私設博物館建設者の逸話は暫く措くとして、なかなかユーモラスな話も伝えられている。
考古学・人類学を講じた坪井正五郎がかつて所用で西下した折、途上某地の校友会から招待を受けて出席した。突然のことで何の準備もなかったのに、講話を要請されたので、さすがの理学博士もちょっと困ったが、さりげなく立ち上がって次のような話をした。早稲田はその名の通り元は田や畑ばかりの土地で、稲と茗荷の産地であった。だから、明治十五年に東京専門学校が建てられた時には、田畑が縁を引いたのか、教鞭をとった人々には高田、山田、田原、天野、岡山のような名前が多かった。大隈の隈の字を見ても、そのつくりの方は田を冠っているから、創立者大隈も田に無縁であるとは言い得ないと説き、盛んに田畑の効用を語り、早稲田の今昔を述べて、大喝采を博した。翌日その地で発行された新聞には、この件が麗々しく報ぜられたのはそれでよいとして、その学位が「農学博士」となっていて、坪井自身もまた田畑に有縁の人にされてしまった。
インド哲学の武田豊四郎は学生から物堅い人と思われていたが、明治四十二年高等師範部国語漢文科卒業生の卒業文集『紀念』に、意外にも「那畔舟」と題する次のような川柳を投稿して、啞然とさせた。
(一) 哲学者 哲学者不遇の果が易者なり
不可解のカント、ヘーゲル売り飛ばし 青ざめた顔で宇宙の謎を説き
六ケしい理屈で口説く哲学者 哲学者渋い顔して婿に行き
清貧の例には洩れぬ哲学者 哲学者髑髏など琢いて居
(二) 恋愛吟 教へぬに秋波を送る術を知り
失恋が華厳浅間の図を調べ 妙齢の妹があるで馬にされ
清きラブは悲劇に終ると慨歎し 新詩人手製のラブを吹聴し
キューピッド鏃ヘラブの毒を塗り キューピッド顔に似合はず手荒なり
君とわれ百千万劫離れんや (一九―二〇頁)
ヘンリー・オーガスタス・コックスという英会話担当のイギリス人教師がいた。自分の姓名を古楠顕理と書いたほど非常に日本語が流暢・能弁で、時には日本語で洒落を飛ばして、相手が啞然とするのを見ては得意がっていた。ある時、道で出合った学生に「どこへ行くのですか」と話しかけた。その学生が「歯が痛いので医者に行くのです」と答えると、すかさず「ハイしゃようなら」と洒落を言って、後も見ずにスタスタと行ってしまった。またある教師がからかい半分に、"know son"と書いて彼に示し、「先生、分りますか」と問いただした。Knowは「知る」、sonは「子」で、汁粉を洒落たのであるが、コックス先生少しも動ぜず、言下に「肉ー」と書いてこれを渡した。するとからかった方がその意味がさっぱり分らず、説明を求めると、コックスは平然として一言「肉垂らし(憎たらしい)」と言ったので、これを傍らで聞いていた人達まで呆然としたという。
たとえ月給は安くとも、学問の自由を好み、磊落な気風を慕って集まった、いわば一風変った教授・講師が多かった我が学苑だけに、教職員の大半が大なり小なり変人であったかもしれなかった。生え抜きの早稲田人以外でも、早稲田の門をくぐって二、三年も経つと学苑の空気になじみ、いつしか「早稲田精神」を鼓吹するに至ったのは、もとより個々人の特性にもよるのだろうが、学苑の気風が与って大いに力があったことも否めないのである。
明治大学学長木下友三郎は、「学界に於ける私学の必要と地位」において、
従来の私学は官学に比して世間の信用も薄く、亦官尊民卑の思想も国民一般の頭脳に泌み渡り、その上官学には各種の特典があつて、私学と官学とは決して対等の地位に於ける競争ではないのである。従つて私学は比較的優秀ならざる学生を収容したのは已むを得ない。併し乍ら此の趨勢は永久に継続す可きものではない。
(『現代之実業』大正六年四月発行第三巻第四号 一三頁)
と、私立大学学長という立場にあるにも拘らず、私立学生が官立学生よりも劣っていたことを認めざるを得ないと告白しながらも、それに続いて「私学の信用が年々増して来たために私学は今日の勃興を見たので、目下に於ては私学学生の気品の高きことは帝国大学の学生と比較しても何等の遜色はないのである」(同前)と、大正も年を重ねるに及んで私立学生と官立学生とは同等になったと揚言するに至った。とはいうものの、現実に中学生が卒業後私立学校の早稲田大学高等予科に入学しようとすれば、
ある日、校長から面談を要すといふ呼出しがあつたので、早速、校長室に行つて見ると、
「君は早稲田に入学するといふ噂があるが、本当かね?」
「ええ、さう思つてはゐますけれども」
「今でも、その積りでゐるのか?」
「ええ」
「そりや不可ないね。そんな学校へは這入らない方がいいよ。詰らないから。母校のためを思つて私立の学校へは這入らないで呉れ給へ。特別の理由があるのならば兎も角、さうでないなら官立学校がいいね」
(赤木光二郎『早稲田物語』 一五―一六頁)
というように、官学を偏重する中学校校長から、私学への入学を思いとどまれと注意を受ける始末であった。しかしながら、それを跳ね返して入学してこそ「早稲田健児」たる所以であり、彼らは中学時代に「早稲田は自由主義の学校であり、民本主義学校であると聞いて居た」(BYK「早稲田の蛙」『大学及大学生』大正八年二月発行第一六号一四二頁)ので、それに憧れて入学したのである。
大正五年に山口県立岩国中学校から高等予科政治経済学科に入学した大塚有章は、
早稲田の入学式は、大学の中央校庭に大テントを張って行われた。……入学式は型どおりに「都の西北……」で始まったが、山口県の中学校を出たばかりの田舎者にとっては、見るもの聞くこと総てが驚異であって、式の進行につれて会場の空気は刻刻に熱を帯び、数千のわかものたちの総けっき大会にふさわしいものだった。なにしろ、大隈総長が総理大臣であり高田学長が文部大臣となって入閣していた時だから、私の眼の前で総理大臣やら文部大臣が講話をしているのだが、その話しぶりが平民的であり、私たち聴衆と対等の立場であって、今までの中学校の講堂で受けた感じとは全く雲泥の開きがあった。そこには総長も学長も教授も学生もなく、ただ、漠然として「早稲田」が存在するだけで〔あった。〕
(『未完の旅路』第一巻 八〇―八一頁)
と、入学式において、憧憬の的というよりは雲上の人と思っていた総理大臣や文部大臣を目の当りにして、彼らが自分達と対等の立場で話すことに驚いたと素直に追想している。これが、後々まで学生の胸奥深く収められて、生涯の思い出となるのであった。
明治末・大正初期の学苑が、依然として地方出身学生によって多数を占められていたことは、喜多壮一郎の左の記述でも明らかである。
わたくしの学園入学〔当時〕は、東京専門学校がはじまって、まだ三〇年くらいだったので早稲田にどことなく専門学校の臭みがあったと思う。入学早々、びっくりしたことは、地方弁が露骨につかわれていたことである。予科のクラスでは、ズウズウの東北弁と、「そうじゃけん」とか、「バッテン」、尻音の鋭い九州弁とが、耳にひどく響いていた。「知らへんで……」との関西弁がある。「ケッタイヤナ」の京都弁がある。ときに江戸っ子弁もある。それにしても東北弁や九州弁の交響楽に、圧倒されていた。でも、九州でも、薩摩っぽは、すくなかったようだ。
入学して、間もなく、初めてのクラス会は穴八幡下、早稲田中学の隣、いまある「三朝庵」の二階。会費は三〇銭位だったろうか……。クラス会での自己紹介で、「生れは九州も肥後の国菊池郷、名のあった郷士の家柄。池田某……」と、郷士郷士と、肥後方言まる出しで肩を聳えかした頑健そうな青年がいた。クラスでは、かれをのちのち「郷士池田」と呼びならった。「郷士池田」は熊本、菊池郷、豪農、いなむしろ大山林家のセガレ。酒が強かったし、よく遊びもしたが、地方弁まる出しの青年。東京弁なぞ、つかおうとしなかった。「郷士池田」は、早稲田にきてから、牛鍋よりも馬肉鍋が大好きになった。そのころ、近くでは江戸川橋際、遠くは浅草公園裏に、うまい馬肉屋があった。私は青山宮益坂の馬肉鍋でのクラス会にいくどか出かけた。馬肉鍋の味を知ったのはクラス会で初めて。同級のものと、「桜連」とか、「馬術連」とかをつくった。ときどき、宮益坂までテクで馬肉鍋を、遠征しにでかけた。早稲田から、宮益坂まで、新宿をへて、テクルと、かなりある。だがいい工合に腹もすく。したがって馬肉がうまくなる。そこでは肉が「生」。葱が「五分」。煮る汁が「割下」。アオリのある薄鉄鍋をのっけるコンロと、その炭火とが「鍋下」。いわば牛鍋屋、馬肉鍋やの隠語を覚えた。クラス会は毎学期に一度か二度、多い時には三度も。年に一度は、早稲田よりもズット郊外新井薬師で栗めしでやる。クラスのものはごく親しかった。わたくしは、クラスのものが東西南北の地方弁をつかうので、いろいろと覚えた。早稲田は、いいところだと感じたりしていた。
そのころの学生は大概が和服に袴。たまには羽織。制服着用のものは極めて稀れ。そこで誰か冬の制服をもっていると、何か制服を着なければならん都合のおこったクラスメートで、体軀にピッタリあうのが、損料で賃借した。そのカネは、まとまると馬肉のスキ鍋会の基金。その世話人が、級できまっていた。 (『母校早稲田』 三六九―三七五頁)
さて、学生控所では、
「僕は始めて入学して、この控所に這入つた時に全く驚いたね」
「広告ビラの多いのにだらう。予科の控所の方で僕もびつくりして、こちらの本科の控所に来た時には、何といふ控所だらうと思つたね」
「僕もさうさ。基督教青年会や早稲田音楽会などといふ団体は不思議でもなかつたが、例の乗馬会だの謡曲会だの東北研究会、支那研究会等は、いささか驚くね」
「早稲田の控所は、由来有名なんださうだから、驚くには当らないだらう。よく読んで見給へ。掲示は大抵名文だよ」
(『早稲田物語』 一八一頁)
と、予科生はまたまたサークル活動の多様さとヴァイタリティとに驚かされ、その中の一つに入って、教室仲間とは違ったサークル仲間を見出すのである。
かかる純朴な学生が数ヵ月を経ると、早稲田界隈でかつて玉突屋を経営していた主婦が、「大体に服装なぞにはお構いにならない方の方が多いやうです。そして何処となしに田舎臭い処のあるのや、随つて垢抜けのしてゐない点はいくら贔屓目で見ても隠せませんね」(旧紅白軒主婦「野暮な書生さん達」『現代之実業』大正六年四月発行第三巻第四号八九頁)と的確に述べているように、バンカラな早稲田特有の田舎風学生に変身していく。この田舎風学生への変身は、好き好んで行われることもあろうが、大半は経済的理由、すなわち貧乏が原因であろう。更に、学生は外見が早稲田的に変身するのみならず、早稲田独特の議論・政論好きに変容する。これが嵩じると、先の大塚有章と同級の尾崎士郎が「人生劇場・ワセダ篇――わが青春の舞台に登場した人々――」で叙述しているように、
政変が起ると彼等は寄宿舎の一室にあつまつて(かういふときには政治科も文科も理工科もいつしよくたである)口角泡を吹きながら激論をはじめる。次期の内閣は何党にやらせるか、総理大臣は誰、内務大臣は誰、と仲間同志の名前をあげて勝手放題なことをまくしたててゐるうちに、ほんたうに組閣の大命を拝してゐるやうな気持になつてしまふのである。そのあとが酒であつた。誰れかが一升徳利をぶら下げてきて机の上へおくと、すぐに酒宴がはじまる。それから、ぞろぞろと列を組んで戸山ケ原へ出かけるのである。それが未来を夢みる彼等の青年的情熱の捌け口でもあつた。もう、そのときは彼等はことごとく大命を拝受して、一人一人施政方針を述べようとするところなのである。
(『文芸春秋』昭和二十七年八月発行第三〇巻第一二号 一一八頁)
すなわち、緊急の政治問題が生じると即座に、文科系・理科系を問わず、口角泡を飛ばしながら議論に忘我するのであった。しかし彼らはその日のために、「今は江戸川公園になつてゐる大滝の岩かげへゆくと、どんな晩でも、落下する飛瀑の前で大きなゼスチュアをつくりながら叫んでゐる学生を見かけないことはなかつた。その同じ場所ではほんものの浪花節語りが声を鍛へるために必死になつて唸つてゐたが、学生たちの銅鑼声は彼等の声を完全に圧倒してゐた」(同前)ほど、笑うに笑えない血の滲むような訓練を行っていた。如上の雰囲気と訓練があったからこそ、「早稲田騒動」の際、既述の九月十一日の早稲田劇場における学生大会で、並みいる石橋湛山、伊藤重治郎をはじめとする校友・教職員に伍して、学生が堂々たる演説をなし得たのであろう。
この当時の早稲田を特長付けたのは、俗に言う文科の存在であったと言っても、強ち過言ではあるまい。その文学科に学んだ金子光晴(一一二二頁参照)は、
片上氏は、テンツルという号で、坪内逍遙はブラツキ、島村抱月はダキツキで、……このテンツル先生から、オブローモフの話を聞いて、和製オブローモフが続出した。「まあ、勉強なぞ、やめとかんせ」といった按配で、僕らは、学校へゆくと、一時間も出席すればあとは、誰かの下宿にあがって、三、四人でだべる。下宿の娘は、マドンナだった。娘をまんなかにはさんで、その三、四人が、高田の馬場の射的場の方へ散歩した。……自然主義全盛の早稲田の文学志望学生たちは、気負っていた。彼らは、下宿の二階で、『カラマゾフ兄弟』や『復活』を書こうというので、二千枚三千枚の長篇を書いていた。
(「早稲田のおもいで(大学の環境)」 『早稲田学報』昭和三十五年九月発行第七〇四号 二〇頁)
と述べ、大正前期における文学科の雰囲気とその学生の天真爛漫さと創作意欲とを活写して、卵時代の文士を彷彿せしめている。
いつの時代でも、どこの国でも、外国語で行われる講義を留学生が十二分に消化するのは困難である。当時、清国留学生部は閉鎖されていたが、清国の留学生は多数いた。そこで、大正三年に高等予科に入学した後年の総長大浜信泉は、友人の紹介で、彼らに日本語を教えたりして彼らと接しているうちに、彼らが講義を筆記するのに最も困っていることを知った。その時、大浜は、留学生のリーダーの一人からその対策について相談を持ち掛けられた。そこで大浜は自分の講義ノートを整理し、それを原稿に書き直した上で謄写屋に渡して印刷し、会員に組織した留学生にこれを配付する仕組を考案した。この企画によって彼は、勉学上の利益、経済上の利益、国際親善の推進という一挙三得を果した。大浜自身は「早稲田に関するかぎり、プリントの元祖は私だと自負している」と記しているが、少々図に乗り過ぎて、塩沢昌貞から「著作権侵害だと大目玉を」喰った(『総長十二年の歩み』三〇六―三〇七頁)。
総長就任後の大隈は、入学式のみならず、卒業式、創立記念日等、晴れの儀式には時間の許す限り殆ど出席した。これは、彼が総理大臣になってからも変らなかった。いな、
諸君は余程幸福である。日本は支那にあらず、印度にあらず、支那・印度の文明に導かれたに拘はらず、今は欧羅巴文明を研究し、之れを帝国に利用して、玆に東西の文明の調和が起れば、始めてアングロサクソン、ゼルマン、ラテンの文明以上の新文明を現出することになるのである。之れは誰に依つて出来るか、即ち諸君の力に依つて成立つのである。之れが即ち共同の力である。之れが帝国の一の生命である。早稲田大学の生命である。此世界の思想界、現実界、又政治上にも軍事上にも、大変化の起ると云ふことを考へて、之れを研究し之れを利用して、帝国の新文明を以て世界の平和を惹起さうとするのが我輩の理想である。早稲田大学の永久的生命の内には、此の如き雄大なる崇高なる思想が含まれて居る。其思想は諸君の頭に分配される。然らば諸君の努力は、今日のやうではいけない。是れ以上の努力を要する。実に諸君の責任は重大なるものである。
(「学長就任告別式における挨拶」 『早稲田学報』大正四年十月発行第二四八号 七頁)
と、早稲田と日本、日本と世界との関連につき、早稲田が世界に直結していると、約八千名の聴衆を前にして、野に在った時以上の熱弁を揮い、学生は大隈総長の遠大な視野と抱負に圧倒され煙にまかれるのである。だが、前掲の尾崎士郎が、端なくも、「われ等の総長、大隈重信の、底の抜けた性格が、当時の学生にとつては憧れの的であつた」(『文芸春秋』第三〇巻第一二号一一七頁)と懐旧の情を以て回想している如く、学生にとっては、吉岡弥次将軍指揮下の野球試合応援と相並んで、やる気を起すいい刺戟となった。
早稲田は、既述の如く、正規の学生の他に、青年期に勉学の機会を逸した中・老年の人々や、眼の不自由な人達等のために、明治三十七年以降聴講生制度を設けて大学を社会に開放していた。この制度は、学生の色彩を豊富にしただけでなく、
聴講生といふ制度の下には、私達のお父さんと呼びたい位の年配の人も多勢ゐた。口髯の厳めしい陸軍歩兵大尉といふ肩書を持つてゐる人もゐた。それらの人々も、控所に若い学生達と一緒になつて、過去の半生の生活だの、聴講生となつた動機だのを、流石世慣れた調子で話して呉れた。「矢張り勉強した人が、最後には勝ちますね。」老年になつて学に志した人は、さう言つて皆の顔を見ながら言つた。「私立大学を社会が優遇しないといふことは余りに社会の不公平だ」と気焰を吐いてゐた学生も、その人の言葉に依つて希望の光を植え込まれたやうに、につこりと笑つた。 (『早稲田物語』 一八七―一八八頁)
とあるように、若い学生が社会人と接することによって、自分達学生とのみ交際したのでは得られない社会観を持つに至るという利益もあった。
学生があれやこれやと過すうちに、彼らが最も頭を悩ます試験シーズンが到来する。早稲田八千の学生を相手に商魂を発揮する好機である。たとえば、過去二年間の試験問題を集成したB六版五十二頁の『大正三・四年度早稲田大学試験問題集』(東山堂書房刊)などが刊行されている。学生は、このような本を指針として試験勉強に励むのである。試みに高等予科の問題を見ると、「大隈伯はタイムズの東京通信員に説きて曰く、『日英同盟は宜しく支那に於ける両国経済同盟たらしむべし』と。而して伯の此の意見は英国の諸新聞に於て盛に評論せられたり」(五頁)という和文英訳問題が出たりして、試験問題にさえ早稲田カラーが躍如としている。このような試験を何回か通過して、いよいよ卒業式を迎えるが、その式後には毎年大隈邸で会食があり、その感激を忘れず、大隈重信を慈父と一生慕うことになる。
以上述べてきたような学苑生活は、先の尾崎の如く、「もし、早稲田スピリツトとか早稲田気質とかいふものに愛着と郷愁をかんずる人たちがゐるとしたら(私もまちがひなくその一人であるが)、早稲田大学は大正六年の学校騒動を限界として滅びた」という見方もあるが、彼の指摘が正鵠を得ているか否かは、ここでは断定を控えたい。ただ、騒動の翌年、学生有志が、「唯過去は過去とし逝かしめよ。吾儕には吾儕の新使命あり、曰く『新しき早稲田の建設』即ち是れ」という主旨で、「早稲田スピリットの高調」をスローガンとする「早稲田精神振興会」を組織していることを挙げておく(『早稲田学報』大正七年四月発行第二七八号二五頁)。これは、騒動後における本学苑の学生の意識構造に変化が生じ、早稲田精神の衰退を危惧した学生が、それを防止しようとした企てではなかろうか。
学苑創立時には、全学生のほぼ七割がキャンパスの中に設置された寄宿舎に起居したことは、第一巻に説述したところであった。しかし、その後寄宿舎は幾度か増設せられたにも拘らず、学苑の私塾的性格の稀薄化に伴って、全学生数中に占める寄宿舎生の割合は減少を続け、遂に明治三十六年になると、寄宿舎は教室から全く分離せられて、新たに地をトし、鶴巻町に建築せられるに至ったことは、四四一頁に説述した如くである。
三十七年二月十一日に大隈・鳩山・高田ら列席の開舎式を挙行し、更に三月十三日には舎生会(通例毎月一回開催)の発会式が挙げられた鶴巻町の新寄宿舎は、旧寄宿舎と同じく、毎年九月に開舎、翌年七月に閉舎するもので、最初は高等予科生のみを入舎させたが、第二年度以降はその制限を撤廃した。この寄宿舎が最も多数の学生を収容したのは、清国留学生の減少に伴って、清国留学生用の寄宿舎を第二寄宿舎として合併した四十年以後の数年間である。例えば、四十一―四十二年度の『第二十七回自明治四十一年九月至明治四十二年八月早稲田大学報告』には左の如き自賛が発見せられる。
寄宿舎生が一般下宿屋生活をなせる学生より風紀其の他の点に於て良好なる成績を示すことは言を侯たず。故に本大学に於ては可及的寄宿舎の設備を拡大し、多数の学生を収容する方針を取り、本年度に於ては従来個人の経営に任かせたる早稲田学寮を第二舎の管理に属せしめ、前学年に比し約五十余名の収容を増加するの設備を整へたり。従て本学年末の在舎生は殆んど三百名に達し、而して和気、内に溢れ、同窓講学の便と交遊切磋の益を享くるもの少からず。尚舎内には修養の目的により毎月舎生会を開き、先輩名士を聴して講演を聴き、品性知識の修養に資し、舎庭にはテニスコートを設けて運動を奨励し、各部に舎生委員を設けて舎長を補佐せしめ、殆んど円満なる一大家庭の趣を呈するに至れり。 (五七頁)
ところが、監督上の不便と、第二寄宿舎の耐久力欠乏を理由として、四十四年九月の新学年からは、四四八頁に述べたように、収容定員は百六十名と、ほぼ半減せられた。その定員減を補うものとして、明治四十四―大正元年度の「早稲田大学第廿九回報告自明治四十四年九月至大正元年八月」(『早稲田学報』大正元年十月発行第二一二号)は、
舎生は研学の余暇、俱楽部に集りて談話を交換し、又修養部を設けて先輩諸名士を聘し、有益なる講演を請ひ、或は交互に演説を試みて弁舌の練磨を図り、時々修学旅行を為して名所古跡を訪ふ等、各自の修養を勉めつつあり。舎内には舎生総代及炊事委員を置き諸般の事項を自治的に処理せしむ。舎内の衛生に就ては入舎の際必ず校医の健康診断を受くることとし、常に各自身体の健康と周囲の清潔とに留意せしめ、各種の運動を奨励する等、概して佳良なり。 (二三頁)
と、寄宿舎生活の質的充実を強調している。大正に入ってからは、毎月平均百三、四十名の学生が寄宿舎に起居したものと推定されるが、寄宿舎に関する最後の公式報告には、大正五―六年度末の在舎生数を、百五十九名と記している。
大正期の寄宿舎は、矢沢千太郎舎長の下に、舎生の自治尊重を主方針として運営されたが、修養部の解散(大正三年)以後は、特に弁論と運動と二つの点において、舎生の活躍が顕著であった。
寄宿舎生の弁論活動については、舎生が組織した梓会に関して、既に雄弁会の項で触れるところがあった(一〇五〇―一〇五一頁)が、ここでは河井常三郎(大七大政、近畿大学教授)が西岡竹次郎との寄宿舎生としての友交を追懐した一文を抄録して、その一端を窺ってみよう。
ある朝、食堂に入ると自分の前で大めしを頬張っている元気のよい先輩と、初対面の挨拶をした。新しい名札に「西岡竹次郎」と書いてある。「君は話せる男だ、めしを食ってから僕の部屋へ来給え、君の部屋の前から三つめ右の部屋だよ」といってサッサと出て行った。自分は今ここで西岡と初対面と思っているのに、早くも西岡は私の部屋を知っていた。
西岡の部屋に入ると「さア、入り給え、坐り給え、話し給え」という訳けで、やがて「如何だ、舎には随分猛者がいるので、この際、雄飛会という雄弁会を作ろうと思うんだが、大いにやってくれ給え」「でも舎には梓会が既に在るんだが」「梓会があっても一向かまわん、梓会員が雄飛会員になればいいじゃないか。」なる程と許りに梓会を解散しないで、雄飛会の発会をした。一週間後の土曜日の夜、めいめい何をしゃべくったか、今ではその断片さえ記憶に留めて居らないが、盛会であったことだけ覚えている。お陰で舎生は、後々まで梓会と雄飛会をごっ茶にして話すくせが付き、一つの会で呼び名が二つあっても誰れも不思議としなかったことが、考えて見れば不思議であった。梓会は、小野梓先生を追慕する学生達が、その「梓」の名を会名として雄弁の錬磨をした会である。記念写真は必らず梓先生の油絵の肖像を中にして撮るのが慣例となっていた。もちろん、雄飛会も皆んなで写真という時は「梓先生の肖像」を持ち出さねばおさまらなかった。
学校騒動のために暑中休暇で暢気に故郷で遊んで、やがて秋冷と共に上京して見れば、番人はいたが、寄宿舎は閉鎖されていた。それでも三分の一位は舎に陣取って「断じて動かんぞ」と頑張っていた。床の間の梓先生の肖像はと見れば、影も形もなくなって、遂に発見することが出来なかった。それから三十何年近い時が流れて、早稲田大学八十周年の記念展覧会に何年振りかに学園を訪れ、エトランゼのような思いで、「ハイカラになりやがって」と後輩の現代学生を眺めながら、会場へ入って低徊去るに忍びない心持で丹念に見て歩いたが、学生時代に親しんで眺め且つ大事に持ち歩いた「梓先生の肖像」がチャンと置かれてあるを見て、「あアあった、あった」と声に出して仕舞った。
雄飛会に関連して、西岡竹次郎が如何に鼻っ柱の強い、また味方には頼母しい人物であったかを書かねばならぬ。西岡は徹頭徹尾、言論学生であって、暴力学生ではなかった。総ての闘争は弁舌で来いという訳け、腕力を振ったことは一度もなかった。当時、「都下大学雄弁大会」が春秋に当番の各大学において開かれ、大学から一名の弁士と一名の附き添えとが出席することになっていた。ここに奇妙であったことは、早稲田大学は大学の代表者と一寄宿舎内の雄弁会からの代表者との二名の代表者を出して、外の大学から一言の苦情を漏らすものが無かったことは、西岡の威力によるものであった。あるいは西岡の横車とも考えることが出来るであろう。
その頃の早稲田には線の太い人間が多かったが、中に線の細い人間が混っていて、一つの大学から二名の代表者を出すことを心配したのがいた。中央大学での大会に出場したのは、後年小説家となった尾崎士郎で、黒紋付羽織に長い白紐を結んで颯爽と出掛けた。わたくしは附添えとなって門前まで来ると、早稲田大学雄弁部の幹事をしていた中村三之丞〔大七大政〕と、二、三人が途をさえ切って「気の毒やけどねェ、わしらの大学から二人も代表者が出るのはけったいな、よって中止してもらへんやろうか」と京都弁でいうのであった。「君等がそんな心配せんでも雄飛会は二、三人位出せる会だ。尾崎君を早稲田大学代表で出して、君等の方を引込めるならそれでもよいが、この儘引っ込むわけには行かない」と押し問答の最中に西岡がやって来て、「往来で何を議論しているのか。何に、二名の代表がいかんて。そんな馬鹿なことが。何、いいじゃありませんか。既に協議の結果、雄飛会から一名出場さすことに決定してある。早く入り給え」という西岡の一言に、後年衆議院議員となり、運輸大臣にもなったこともある中村三之丞も西岡には歯が立たず、反撃の一言も加えることが出来ず、もろくも二名の代表を承認して仕舞った。 (『伝記西岡竹次郎』上巻 二九一―二九四頁)
他方、舎生の運動も活発に行われた。大正四―五年の「早稲田大学第卅三回報告自大正四年九月一日至同五年八月卅一日」(『早稲田学報』大正五年十月発行第二六〇号)によると、剣道および柔道部十二名、野球部二十名、庭球部二十七名、端艇部六十三名、フットボール団八十五名等となっている。これは寄宿舎生のみの人数で、学苑各部のものでないことは明らかであるが、それにしてもこれだけで二百名を超え、大正五年八月現在の収容人員百四十七名を上回っている(二三頁)。或いは一人が二部を兼ねていたものもあり、その延人数を挙げたものかもしれないが、それにしても大部分がその何れかに属していたわけで、いかに運動が盛んであったかは、容易に窺知することができよう。
大正五年十月七日、舎長矢沢千太郎は辞任した。河井常三郎の筆によれば、矢沢は、
山梨県出身の背の低い、顔は顎骨が峨々と聳え、眼はヒヨの如く鋭く、その上部に眉毛が黒々と太く、アゴには何んの積りか山羊髭を生やし、人好きのする面相ではなかった。打ちとけて話せば好々爺という一面もあったが、ぶっ切ら棒の学生とはよく衝突し、雷を落すとでも形容したい怒鳴り方をする人であった。 (『伝記西岡竹次郎』上巻 二九六頁)
というが、西岡や河井と激論することも珍しくなく、遂に、河井が主催した演説会で、寄宿舎改善に積極的でないとして、満場一致で弾劾され、やむなく「退職を表明し」たと記されている(同書同巻二九七―二九八頁)。しかし、五年十月二十五日の維持員会の決議事項の中には、「寄宿舎長ノ更迭及立替金ノ件」があり、それについては、左の如く記載されている。
矢沢舎長曩ニ辞任ヲ申出タルニヨリ、之ヲ聞届ケ、校友井上留治郎ヲ後任トスルコト、並ニ前舎長ガ七百四十七円九十二銭九厘ノ負債アリ(此負債中四百六十六円五十七銭ハ大正四年九月ヨリ同五年九月迄ノ一年一ケ月騰貴セル地代ニシテ、舎生ヨリ之ヲ徴収スルコト得ザリシモノ、二百五十円ハ新学年ノ初メ舎内修繕ノ為ニ要シタル設備費、外ニ三十一円三十二銭九厘ハ前年度支出不足額ナリ、而シテ地代ノ残リ分ノ負債ハ本年度収入ニヨリ確ニ償却ヲナシ得ルモノトス)、之ヲ一時立替弁償スルコト。
(文書課保管『自大正五年九月至大正十二年五月維持員会議事録』)
すなわち、当時寄宿舎は独立採算制を採っていたが、矢沢は恐らく赤字増大に無策であったのが、辞任の主原因であったであろう。矢沢の辞任後、半月足らず前田多蔵が事務を取り扱ったが、十月二十日には井上留治郎(明三一邦語政治科)が後任として着任、翌月浮田和民が顧問を嘱託された。井上について、河井は、
この人は東京専門学校卒業以来、外交官試験を受けること二十数回という「試験の虫」のような人で、四十幾歳になっているのに嫁さんを持たなかった。ノッペリとした馬面で、外交官を生涯の悲願とする身でありながら一向洋服を着ず、年中和服に袴を着用に及んでいた。翌年、外交官試験をパスした。寄宿舎の閉鎖は、小説『早稲田大学』で尾崎士郎が書いているように学校騒動が原因であったことは表面的で、内面的な原因は、「万年童貞居士」の井上の献策、更にその奥の理由には自分の試験パスがあったからである。 (『伝記西岡竹次郎』上巻 二九八頁)
と記しているが、井上は就任後九ヵ月にも達せず、六年七月十日に辞任したのであった。「大学報告」によれば大正五―六年度には寄宿舎は六年七月七日まで開舎されていたのであるから、閉舎直後の辞任である。
既述の如く、閉舎の前日には、「『早稲田騒動』の諸種の原因を湊合した震源」となった校友大会が開催されており、紛争は漸く「単なる言論上の抗争」を逸脱する情勢を現し始め、舎長不在の閉鎖中の寄宿舎に学生が出入りする様子も見られたもののようであったが、九月に発足した新理事体制を承認することを拒否する不穏の動きを見た当局は、反対派学生に占拠されるのを惧れて、例年の如く九月上旬に寄宿舎を開舎する運びには至らなかった。ところが、九月十一日夜の早稲田劇場における弾劾演説会に集合した学生・校友の一部は、大学を占領し、十三日に大学撤退後には寄宿舎に籠ったが、十五日には寄宿舎は、十二日に天野派に対抗して結成された母校擁護団の占拠するところとなり、その本部が置かれた。
この間地方の学生は、新学年を目前にして続々上京し、寄宿舎の開舎を当局に迫ったが、瀬川光行(明一九政治経済学科、のち代議士)、三木武吉、浅川保平(明四二大政)、比佐昌平(明四一大政、のち代議士)、清水留三郎(明三五邦語法律科、のち代議士)、粟山博(明四五大政、のち代議士)らより成る母校擁護団の代表者瀬川は、寄宿舎生に対して、「我々団員の緊急の仕事は来る二十二日から授業開始に至らしめる事、第二次の暴動を予防する事等で、此危険さえなくなれば直に撤退する」(『万朝報』大正六年九月二十日号)と答え、この申し出に対し容易に受け容れる気配がなかった。
一方、早大出身の新・旧代議士である関和知、降旗元太郎、小山松寿、黒川九馬、柏原文太郎(明二六英語政治科)らは、超党派の斡旋会を十九日午後一時から内幸町の早稲田俱楽部に開き、天野派の石橋湛山・西岡竹次郎を招いて斡旋の主旨を述べて、その了解を求め、また三木・瀬川らにも特使を派遣して懇談した。他方、早稲田署も午後六時半より斡旋に乗り出し、三木派は、「同夜だけ寄宿舎を撤退すること」(『東京朝日新聞』大正六年九月二十一日号)を受諾した。
さて、学苑の公式記録には、大正七年二月十五日の維持員会で、「寄宿舎ヲ廃止スル件」および「寄宿舎現在ノ建物ヲ売却スル件(朽破甚シキ為メ、修繕ノ功少キニ依ル)」が議決され、更に同年六月十八日の維持員会で、「寄宿舎欠損金一七、三七六円三五ニシテ売却代金額六、三九九円七三五ヲ預金トナス件」が、「端艇復旧費一一、二六〇円七五ニ対シ秋季応援費六二五円同運動会費五八一円艇庫売却金四二五円計一、六三一円ニ大塚土地売却金及寄宿舎預金ヲ加へ之ヲ償却スル件」とともに、承認されている(『自大正五年九月至大正十二年五月維持員会議事録』)。
井上の辞任後、廃止の正式決定まで、寄宿舎運営の責任者が誰であったのか、公式記録には触れられていず、また「大学報告」にも、大正六―七年度からは、寄宿舎の項は全く発見できないのである。井上の意見が、どれほど当局の最終的決断に対して影響力を持ったのかは知り得られないが、ともかく木造二階建延坪四百二十五坪の舎生室棟を主とする寄宿舎の建物の老朽化により改築の必要に迫られた当局が、寄宿舎会計に見られた赤字の累積と、寄宿舎が当局反対の学生の拠点となる惧れが多分にあった過去の経験より判断して、一挙に廃止に踏み切るのを最善の策と考えたことは間違いない。そして、もう一度繰り返して騒動の苦汁を嘗めるのを潔しとせず、学生が廃止反対運動に立ち上がることのなかったのは、学苑直営の寄宿舎の存在理由が、この時期になると薄弱の度を強めていたのを物語るものである。こうして明治十五年以降三十七年弱の学苑寄宿舎の歴史は幕を閉じ、舎屋の販売代金はボート復旧費の一部と化したのであった。