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第五編 「早稲田騒動」

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第二十四章 「大学」自称期の歩み

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 本巻に説述した二十世紀第一および第二・十年期における学苑の発展を、数字に基づいて、本章にまとめておこう。すなわち、「大学」自称期における学苑の学生数、得業生数、および校外生数を、第五十表、第五十一表、および第五十二表に示し、また、この時期に学苑で教鞭をとった教授・講師・助教授の就・退任およびその担当科目をまとめて、第五十三表として最後に掲げておいた。

 学生数を示す第五十表は、毎年の「大学報告」に基づいて作成した。ただし、明治三十七年および三十八年の二ヵ年については、「大学報告」に若干信憑性の欠けるところがある。すなわち、大学部商科は三十七年九月から授業を開始したので、同年七月現在では学生は在籍していない筈であり、同様の理由から、三十八年七月現在では一年生のみが在籍している筈である。ところが、三十七年の「大学報告」では、七月現在として、商科第一学年に二三七名の学生数が掲げられており、三十八年の「大学報告」には、同じく七月現在として、第一学年および第二学年にそれぞれ三四五名および二四二名の学生数が記入されている。従って、「大学報告」中に掲げられた三十七、三十八の両年の学生数は、それぞれの年の七月現在のものではなく、実は新学年の始まる九月以降の数値であろうと推測されるのである。この推測をある程度裏付けるものは、三十七年の英語政治科の学生数である。すなわち、得業生数を示す第五十一表を一瞥すれば分るように、英語政治科は三十七年に最後の卒業生を出しており、従って同年七月にはこの最後の学生が在学していたに違いなく、同科の欄の学生数が消えるのは同年九月以降でなければならない。ところが、同年の「大学報告」は七月現在の学生数を示す筈であるにも拘らず、英語政治科の学生数は示されていないのである。以上のことから、「大学報告」中の明治三十七年および三十八年の学生数はいささか不正確であると推測されるのであるが、第五十表では、商科を除き、それらの数字をそのまま採用した。そして、三十七年の英語政治科については三十六年の「大学報告」に示された第二学年の数字を、三十八年の商科については三十八年の「大学報告」中の第二学年のそれを、当てた。なお、三十七、三十八の両年に関する以上の如き不正確を補う意味で、これら両年の卒業式における高田学監の学事報告中の学生数に関する部分を、総数と内訳との間に差があるが、そのまま左に引いておく。すなわち、三十七年七月の学事報告では次のように述べられている。

現在の学生の総数は四千二百五十二名で、其内大学部に属しまする者は六百六十二名、専門部に属しまする者は九百二十四名、高等師範部に属しまする者は二百七十九名、高等予科に属しまする者は二千三百三十名となります。之は元より早稲田中学、早稲田実業学校と云ふものを除きまして、又一月以上欠席して居ります者も除名致しまする規定になつて居りますので、即ち現在の実数であります。 (『早稲田学報』明治三十七年八月発行第一〇四号 三九頁)

また、三十八年七月の卒業式では、高田は次のように報告している。

現在学生の総数は四千九百一名であります。実業学校、中学校は是より省きましたので、直接大学に居る丈けの数であります。夫れは三十八年六月末の現在数に依つて調べましたもので、内大学部が千二百八十名、専門部が九百二十名、高等師範部が四百七名、高等予科が二千二百六十八名と云ふことになります。 (同誌明治三十八年八月発行第一二一号 六五頁)

 さて、以上のことを念頭に置いた上で、第五十表を見てみよう。先ず大学部の学生数の変動であるが、ここでは第一に、各科とも最初の三年間に学生数が比較的急速に増加していることに気付くであろう。しかし、これはいわば見せ掛けの急増である。政治経済学科を例にとれば、明治三十六年の一三八名という数字は、同科創設時の最初の入学生数、換言すれば第一学年の学生数のみを示すものなのであり、同様に三十七年の四一八名は、第二学年と第一学年

第五十表 学生数

の学生数の合計なのである。そして、三十八年に至って初めて、三学年揃った学生数が示されるのである。従って、最初の三年間における学生数増加は、学科新設時に特有の現象なので、本来の意味での学生数増加とは言い難い。このことは勿論、政治経済学科以外の各学科にも当てはまる。また、文学科や理工科では科の数が変化しており、これに付随して学生数の変動が生起している。

 大学部学生数に関して注目に値する第二の点は、何と言っても、商科の学生数が他の学科のそれに比べて著しく多いことである。商科の他学科を圧する学生数は、大学部全学科中に占める商科の大学財政への貢献度が著大であったのを示唆している。と同時に、当時の日本経済界の高等商業学を修めた人材に対する需要の高さのみならず、他方においては、商科におけるマス・プロ教育の存在をも物語っている。因に、大正八年一月改正の『早稲田大学規則便覧』より学科ごとの教授および講師(他科との兼任を含む)の人数を数えると、政治経済学科が四十七名、法学科が三十三名、文学科が五十七名、理工科が七十七名(助教授を含む)、商科が三十六名で、大正八年の学生数をこれらの数字で割った教員一人当り学生数は、政経が八・四人、法が六・二人、文が五・五人、理工が八・一人であるのに対し、商は五三・四人にも達しているのである。尤も、政治経済学科の中には専門部政治経済科で、法学科の中には同部法律科で、文学科の中には高等師範部や高等予科で、理工科の中には工手学校で、それぞれ教鞭をとった教員も見出されるから、実際の教員一人当り負担総学生数は、商科教員のそれに若干近づくことを考慮しなければならないのは事実である。

 専門部の学生数は、注に記した如く、明治三十七年までは旧課程の邦語政治科・法律科・行政科の学生数をも含んでいる。このため、三十八年までの大学部学生数に見られたような見せ掛けの急増は、専門部ではさほど顕著ではない。けれども、専門部においても、大学部と同様の現象は存在したのである。政治経済科の学生数は、明治四十二年を第一のピークとして、大正二年に至るまでかなり大幅に変動したが、その後は増加の一途をたどった。これに対し

第五十一表 得業生数

て法律科の学生数は、大学部法学科のそれと同様、大正初期まで横ばい状態を保ち、漸く微増現象が看取されるのは「早稲田騒動」の前後からである。

 高等師範部の学生数は大きく変動している。しかしこの大幅な変動は、三八五―三八九頁に説述した師範教育制度のめまぐるしい変転の結果であり、制度変更に伴う見せ掛けの増減も含まれている。

 清国留学生部在学生数の変動もまた、制度自体の短期的変化を反映している。しかし、清国留学生部そのものは短命に終ったとはいえ、大学部や専門部などに籍を置く大陸からの留学生が、この時期を通じて決して少くなかったことを忘却すべきでない。

 一方、工手学校に対する人気の沸騰は目覚しい。尤もこの場合も、初期の生徒数急増は制度の新設に随伴したものである。しかし、大正初期における一時的停滞を除き、生徒数は一貫して急伸している。他に類似の学校の少かった工手学校が、経済的事情などにより中等技術教育を受けられない人々に、門戸を開放して勉学の機会を提供した点は、特記しなければならない。ただし授業内容は、理工科の実験設備を大勢の生徒が共用するマス・プロ教育に、重点が置かれた。大正八年の工手学校の講師は八十名を数えたが、講師一人当り生徒数は三〇・七人で、理工科と比較すればその比率は遙かに高いのである。これが、高価な実験施設を理工科に設備するための、更には大世帯の理工科教員を擁するための、財政上の一助になったのは、疑問を差し挾む余地がない。

 得業生数を示す第五十一表は、「早稲田大学第卅七回報告(自大正八年九月一日至同九年八月卅一日)」(『早稲田学報』大正九年十二月発行第三一〇号)および『大正八年十一月早稲田大学校友会員名簿』をもとに作成した。ただし、毎年二月と七月との二回得業式を行う修学年限二年半の工手学校に関する欄は、「大学報告」には設けられていないが、毎年の「大学報告」からその得業生数を抜き出し、年二回の得業生の合計数を各年ごとに表示した。研究科は合計十五名の修了者を出しているが、これら

第五十二表 校外生数

は、旧課程の政学部を卒業したのち研究科へ進み、大学部政治経済学科卒業生と同じ資格を得た学生である。

 校外生数を示す第五十二表の数値は、すべて毎年の「大学報告」によっている。明治二十三年に開始し、三十一年より三十八年までの八年に亘って二千台以上を維持したが、三十九年を以て廃止された行政科、人気を博したものの短命に終った歴史地理科ならびに高等国民教育科の三科を除いて、二十三年の創設当初より継続している政治経済科と法律科、二十八年に出発した文学科、それに商業科と中学科の五科の校外生数を見てみると、政治経済科・法律科・文学科の三科は、何れも殆ど歩調を揃えて、明治四十年代初期に至るまでに一旦微小のピークを形成して減少したが、その後、小幅に変動しつつ微増に転じた。そして大正六、七年には若干落ち込んだものの、その後は急増する傾向を見せた。

 注目に値する趨勢を見せているのは、政治経済科・法律科・文学科などよりも程度を低くして新設された商業科および中学科の二科である。この二科は出発当初より、大学で勉学する手段を持たない人々の心を把えた。商業科の大正初期のディップは大学部商科の同期のディップと似通うところがなきにしもあらずであるが、大正四年まで比較的高い水準でかなり大幅に変動し、その後急騰に転じた。もっと目覚しいのは中学科である。中学科が発足した明治三十九年と、本巻が対象とする時期の終期である大正八年とを比較すれば、実に七・二倍もの急成長を遂げている。このことは、当時、小学校程度の教育を受けるのが一般的であった国民の一部の中等教育に対する渇望がいかに大きかったか、そして、その渇望に応えようとした学苑の姿勢がいかに高く評価されたかを、如実に物語るものである。

第五十三表 教員就退任および担当科目(明治三十五年九月―大正九年三月)

一、外国人人名の表記は当時の方式に従った。

一、科外講義のみ担当の教員や、今日の助手に相当する理工科の助教や、講義を担当しない理工科の顧問および科長や、工手学校の教員は、確認し得た限りこれらを省いた。

一、在任期間のローマン数字は東京専門学校時代を含む明治期の年・月を、イタリック数字は大正期の年・月を、それぞれ表し、*は東京専門学校時代の在任期間に中断があることを示す。更に大正九年四月以降に亘る在職者については↓で示した。

一、年の(?)はその年に在職していたかどうかを確認できなかったことを示し、月の項の?は何月か不明であることを示す。

一、担当科目には担当予定科目を含み、空欄は学苑の公式記録に記載が欠けていることを表す。

一、科外講義の科目は、確認し得た限りこれを省いた。