大正に入ってからも、陸上運動会と水上運動会とは、学苑の重要行事として連年挙行された。ただ、大正二年においては、創立三十周年記念祝典行事の中に組み入れられたので、六八五頁に既述したように、陸上運動会が例年のように四月ではなく、十月に挙行されている。また五年の水上運動会は「悪疫流行中」のため、更に六年の水上運動会は台風の被害を蒙り、何れも中止のやむなきに至った。両運動会についての決算報告はもはや公表されなくなったが、下宿業組合その他牛込区内商店有志よりの数百円に上る寄附は年々見られたものの如くである。大正五、六年頃の陸上運動会の情景を窺うために、安部民雄の記すところを左に引用してみよう。
一番老侯の姿が心に残っているのは運動会の時である。現在の安部球場のセンターの位置の後方、安部磯雄の胸像のあたりに招待席がつくられていた。中学生の私も朝から父に連れられて、二、三度見物に行った。
午後三時頃全部の競技その他が終ると、いよいよ対科レースが行われた。何米あったか知らないが、一周三百米はなかったと思う。各科から四人の走者が出て優勝を競うことになっていた。当時各科を表示する色があった。政経は赤、商科は紫、法科は緑、文科は白、理工はピンク。現在当時の科の色が何らかの形で残っているのは法学部の緑法会位だと思う。非常に印象に残っているのは、この対科レースの時の選手の服装であった。何も現在と大した相違はないが、代表選手の服装は靴に至るまで全部その科の色に染められていた。各選手それぞれ鉢巻をしていたがもちろん各科の色であった。文科は白で一番貧弱だったし、当時白色は降参する時の印でもあったから一層見ばえがしなかったし、話にならぬほど遅かった。大体四番目の走者が走る時は一周近く遅れていた。
さて、対科レースが始まる前、学生達は各科一団となって校歌を歌い、猛烈な応援を二、三十分やる。そうしているうちに大隈老侯が入場する。万雷の拍手と、校歌の斉唱と言いたいが各科思い思いに歌う校歌の中を、老侯がびっこを引き引き入場する光景は、極めて印象的であった。入口から老侯の席まで大体対科レースのトラックの半分を歩く訳である。もし普通の人の速さで歩いたら総長を迎える学生達にとって誠にあっけなかったろう。またもし故意にあまりゆっくり歩いたら、迎える者にもその作意が伝わったであろう。しかし老侯の場合は最も自然な形で、隻脚を一本の杖に託して、一歩一歩努力をして進んで行かれるその光景は、数千の学生・教職員の心を一つに融合する巧まざる最高の演出と演技であったとも言える。
対科レースの優勝チームは老侯自らの手によって優勝旗が授与された。
(「父安部磯雄よりみた大隈老公」 『早稲田学報』昭和四十七年三月発行第八一九号 三七頁)
大正七年以降、陸上運動会には変化が見られるようになった。『早稲田学報』第二七八号(大正七年四月発行)に、
従来春季大運動会は例年四月三日神武天皇祭の佳辰を以て挙行し来りし所、本年より大学部商科の卒業試験を四月に繰上げ、四月二日より同六日に至る間に之を行ふ事となりたるを以て、春季大運動会は同二十八日(日)に延期挙行する事となりたり。尚ほ来年より該運動会は秋季挙行の事に決定したり。 (二八頁)
と報ぜられているように、七年四月の運動会は例年より時期は遅れたが、従来同様、左の記事のような余興をも大いに期待している四万の大観衆を集めた。
奇想天外的珍趣向仮装行列の場内に練り来るを見れば、先づ一隊の生蕃人跳り出で、間もなく行列の一隊繰出し来りて場内を一周し、続いて軍国主義と銘を打ちたる仮装行列は時に取りての諷刺を意味し、次いで幼稚園児童に扮したる赤帽子や袴や白のエプロンなど取り取りに大きな体に掛けて、練り行く一団の遊戯振り、滑稽にも無邪気にも殆んど観衆をして抱腹絶倒せしめ、続いて相撲部の土俵入り、剣道部の野試合等の勇壮なるあり、殊に柔道部の棒倒しに至りて虎搏竜攘、血湧き肉躍るの壮烈を見せたり。弓術部の古式礼射は日本古武士の面影を偲ばしめて、興飽まで尽きざる裡に余興の幕を閉ぢぬ。
(同誌大正七年六月発行第二八〇号 二〇頁)
しかし、秋季に変更されてから最初に、創立三十五周年記念祝典最終日の同年十月三十一日に挙行された第四十二回陸上大運動会では、「猫競走、鰌競走、パン喰ひ競走」などは依然としてプログラムに残っているが、「いつもの仮装行列や余興ダンス等は一切抜きに、競技もオリンピツク式に行はれ、一体に緊粛せる運動気分を示」す(同誌大正七年十一月発行第二八五号二二頁)という大きな変化が見られ、恐らくそれが事前に伝えられた結果であろう、「大学報告」は「未曾有の盛会」と報じているものの、その年の春季大運動会については公式数字四万を十万と記述している『早稲田学報』記者が、秋季大運動会は「観衆三万」と控え目に記載せざるを得なくなったのである。
更に、大正八年には「十月二十六日より十一月一日迄秋季休業を為す。其の間、水・陸大運動会を挙行せり」(同誌大正八年十一月発行第二九七号三頁)と、両運動会を開催する期間としての秋季休業の定着が報ぜられたが、水上運動会は翌九年よりは春五月開催に改められ、また陸上運動会にも「各学級主催の変装競技、各運動部主催の余興」(同誌大正九年十一月発行第三〇九号六頁)が復活している。
なお、陸上運動会の「分科競走」の優勝科は、二年、三年、および七年春季の政治科以外はすべて商科(五年は保留)であり、水上運動会の「分科レース」は、商科(元・七・八年)と理工科(二・三・四年)とが優勝を分ち合っている。商科は在学生数で第一位を占めているばかりでなく、陸上・水上両運動会にあっても、その花形であったのである。
柔道部では、大正二年四月の部員六名による福島県への「東北修業」、大正四年十月の宮川一貫師範以下六名の部員による「士道振作の為」の静岡県下遠征、大正六年十一月の部員四十一名による甲府・静岡方面遠征、大正七年十一月の箱根・小田原遠征、大正八年四月の福岡における九州教育柔道大会への宮川師範引率六名の選手団派遣、および同年十一月の宮川師範以下校友部員八名による信越・北陸地方遠征などが記録されている。なお、この遠征には石黒敬七(大一一専政)も参加していた。卒業後間もない大正十三年に渡仏し、柔道の海外普及に努めて名を挙げた石黒は、学生時代について、
吾々の中には、朝道場へ来て稽古をし、昼の弁当を火ばちのわきで食つて、また稽古をし、稽古の間には四方山ばなしをして、夕方になると下宿へ帰るという、何のためにワセダに入つたのかわからないようなのが何人もいた。これが金をかけずに一日を暮す最もよき方法でもあつた。 (「会田爺さんのことなど」 『半世紀の早稲田体育』 八頁)
と、そのバンカラ風を興味深く追想している。
なお、「早稲田騒動」において柔道部が、剣道部とともに天野派の急進勢力たる武断派を形成して、派手な行動に出たことは有名である。そのリーダーは、柔道部に属していて後に「軍事研究団事件」で左翼攻撃に立った森伝であった。愛媛県人森伝は大正二年に学苑高等予科(理工科)に入学したが、長期欠席後、同三年七月に退学した。しかし、久しきに亘り、部の背後で隠然たる勢力を保持していたのは周知の如くである。
剣道部では、大正四年、副島義一を名誉部長に推戴し、後任部長に中島半次郎が就任したのが注目される。更に、十年前から計画していた全国中等学校剣道優勝試合の機が漸く熟し、同五年十一月十二日、その第一回の試合が政治科第二十番教室で開かれている。来たり会するもの三十三校、総勢九十九人、遠くは長野師範、前橋中学、粕壁中学、埼玉師範、川越中学、神奈川師範、横浜商業、千葉師範、近くは市内の各中学校等の精鋭を網羅し、来賓には西久保前警視総監、塩谷東京学生剣道会長ほか剣客五十名、それに各新聞社の記者をも加え、なかなかの盛会であった。勝負は高野佐三郎・真貝忠篤両範士審判の下に粛々として進行し、長野師範が優勝して、金色燦爛たる優勝旗を手にした。ただ遺憾とするところは、新築当時東京第一と称せられた本学苑の道場が手狭となって、この大会に使用されなかったことであった。
弓道部では、大正五年十月、年来の宿願であった関西遠征が実現し、田井善道引率の下に総勢十二名が先ず名古屋に入り、八高・一中の連合軍、名古屋武徳会員、愛知医専を連破した後、京都では京大と大谷大学を降し、遂に完勝の成績を収め、錦を飾って帰校することができた。なおこの年、本校所有地を整理する必要上、従来運動場西側高地にあった道場を廃し、穴八幡下の早中運動場の西隅の空地に移築した。構造は元の通りであったが、射垜のみは左右に一間ずつ延長し、十月七日に完成射的式を挙行した。次いで十一月二十五日、明治大学を本校道場に迎えて対校試合を行い、百二十三中対八十中で大勝した。この敗戦に業を煮やした明大は捲土重来の意気物凄く、翌六年三月十四日、我が軍を自校の道場へ招いて競射を試みたが、再び百十六中対九十四中で我が軍門に降った。野球の早慶戦におけるように弓道の早明戦は恒例となり、毎年互いにその道場にこれを迎えて輸贏を争った。
早明戦は明治四十四年秋より始まり、翌大正元年秋の第一回戦まで学苑は負け知らずであった。しかし第二回戦で、早稲田は九回裏反撃に出んとして増田稲三郎、浅沼誉夫を「危機打者」すなわち代打としてバッター・ボックスに立たせたが、その奇襲戦法は功を奏せず、初めて一対四で敗北を喫した。因にこの代打は我が国の代打の嚆矢となった。
大正二年五月には、東京運動記者俱楽部斡旋の下に来日した全フィリピン「商売人」(セミ・プロ?)チームを迎えて三回戦を行い、二勝一敗で勝ち越した。更に九月には明大招聘によるワシントン大学野球チームと雌雄を争い、一勝一敗一引分の戦績を残した。
既述した如く、野球の王者である早慶は相見えることはなかったので、大正三年秋、明大の主唱により早・慶・明のリーグ戦「三大学連盟」が結成された。しかし残念ながらこの企画においても早慶が相戦うことは実現せず、早明・慶明という変則的な形に終ってしまった。因にその成績は、早明では早大が二勝し、慶明では慶大が二勝一敗一引分であった。従来、我が国の野球試合での入場料徴収は外国チーム招聘の時のみに限られていたが、連盟は各野球部の完成を期して、この時初めて入場料(五十銭・三十銭・二十銭)を徴収することに決定した。そしてこの三大学リーグ戦は現在の東京六大学リーグ戦の原型となった。すなわち大正六年に法大、同十二年に立大、同十四年に東大が加盟し、早慶戦も漸く実現して、「東京六大学野球連盟」が発足したのである。また、大正三年の秋にはシアトル日本人チームと戦い、二勝一敗の成績を収めた。
大正四年には第二回マニラ遠征を挙行し、この時は特に監督を付けず選手の自制に任せたが、各自よくその分を守り、修好の目的を十分達したものの、成績は芳しくなく、一勝四敗一引分に終った。法大は前年春に野球部を創設していて、この年から本学苑に胸を借りる形で試合を行ったが、第一回戦の結果は二十三対三という学苑の圧勝に終った。この年にはまた、五年前に招聘を約束したシカゴ大学野球団が来日を果した。一行はライト教授、コーチ兼投手ページ夫妻、および選手十一名からなり、九月二十一日横浜に上陸して帝国ホテルに入った。ページは、五年前来日の時に我が日本チームを全敗せしめた左腕投手で、再度来日の時は既に卒業生であったが、今回もマウンドに登り、ますます円熟した技によって我が軍を苦しめた。すなわち九月二十四日以降四戦して我が方は四敗、関西に転戦した後も三戦三敗という惨敗に終った。大正五年春、約束によりシカゴ大学の招待による第三回渡米が行われた。一行は監督河野安通志以下十二名、三月二十五日横浜出帆、ハワイを振出しに米国西海岸より中西部へ転戦、対戦すること二十八回、九勝十九敗の成績であった。他方同年十月にはハワイ・セントルイス・クラブが来日し、これと三回戦を行い、我が方利あらず一勝二敗に終った。
大正六年の極東第三回大会に学苑チームは、五月十日、十一日の両日、新設の芝浦埋立地野球場で、日本代表としてフィリピン代表のフィリピン大学と二戦して二勝した。その夏には高杉副部長引率の下に十三名の選手を満州、朝鮮に送り、八戦とも学苑の勝利に帰した。更に十二月二十四日、安部部長引率の下に台湾へ向けて神戸出帆、二十八日基隆着、翌二十九日から翌年一月六日まで台北連合軍と六回戦い、五勝一敗の成績を収めた。安部部長は台湾から帰国したが、選手団はフィリピンに渡り、学生連合軍との対戦試合の勝率が同一となった後、再試合を行ってこれを破り、栄えあるカーニバル野球戦の優勝盃を手にした。
大正七年、安部部長十年の苦心経営になった軽井沢グラウンドが竣工を見た。飛田穂洲著『早稲田大学野球部五十年史』にその経緯が詳述されているが、これによると、明治四十三年八月、早稲田大学第一回ハワイ遠征野球団が全マウイ選抜軍の強力チームをみごと二回まで叩きつけて在留同胞を狂喜させた時、マウイの有志が、安部部長の要望により、金三百円を夏期グラウンド建設基金として提供したのが発端である。爾来八星霜、安部はその宿望を達すべく心を砕いてきたのであるが、たまたま軽井沢「離山々麓に大隈総長の別荘が建てられると、大阪の富豪鴻池と其番頭なる原田二郎〔および蘆田順三郎〕氏は大典記念として、軽井沢に二万坪の土地を早稲田大学に寄贈した」(一四一頁)。安部は野球部の先輩ならびに現役選手に建設費調達の件を諮り、建坪五十坪の宿舎と五千坪のグラウンドとが八月初旬に完成して、軽井沢高原に一異彩を放つことになった。
多年軟式庭球界の一方の覇者であった慶応は、大正二年、突如として国際ボールすなわち硬球を使用することを発表して、四大雄鎮の仲間から離脱したので、この年より東京高師、東京高商、本学苑三校の鼎立時代に入った。かくて四月二十日高商と対戦し、これを破って昨秋の復仇をなし、九月二十日には高師コートに高師と対戦してこれも破り、大いに気を吐いた。しかし十月十一日、高商を再び戸塚コートに迎えたが、我が軍は陣容整わずこの一戦に敗れて怨みを残した。
大正三年には高師、高商をともに撃破したが、翌大正四年の春、福田雅之助が早中から大学へ入るとともに第二期黄金時代に入り、後衛では大藪豊次郎、道盛亀之助、内田喜雄、前衛では西田吾一、万俵賀一など、一流中の一流の選手を擁した。また翌年には上田政一が京都二中より学苑に入学し、西田、福田とともに早稲田の三田として鳴らし、大正三年から七年までの五年間、ライヴァル高商と高師には一度も負けたことがなかった。
大正七年六月二十九日、庭球部は満鉄の招待に応じて満州・朝鮮ヘテニス行脚に出かけた。一行は高杉滝蔵部長以下ダブルス七組で、七月四日の大連における全満鉄との対戦を皮切りに、遼陽、撫順、長春、奉天と転戦し、京城では全朝鮮軍と二回試合し、その何れにも勝利を収めた。しかし全大連との二回戦には惜敗して、完勝を飾ることができなかった。
端艇部は、大正二年、用艇が旧式となり他校端艇部の制圧が不可能になったので、スライディング・シートの新艇を建造して威力を加えるとともに、従来のフィックスト・シート三隻の滑席艇への改造も同時に行うこととし、七月三日その進水式を挙行した。新艇は塩沢部長により「悪魔」「天使」「超人」と命名されたが、これは何れも前回と同様、坪内雄蔵の案と言われている。これら新艇の使用により、早稲田の存在は更に大きくなったが、大正六年九月三十日、風水害に見舞われ、ボート九隻が破損し、「秋期水上運動大会」も無期延期のやむなきに至った。そこで翌七年、倒壊した艇庫を修築し、損傷を受けた九隻の修繕と、新たに同じくスライディング・シートの新艇の建造を行った。六月二十三日にその進水式が挙行され、新艇は「正義」「人道」「威力」と命名された。大正八年十一月には、滑席艇による我が国最初の対抗レースが東京帝大との間に行われ、学苑は敗北を喫したが、このレースは漕艇界に大きな刺戟を与え、各校に滑席艇を採用させる契機となった。
なお、「早稲田騒動」に際して体育各部はこぞって天野派についたが、端艇部だけは別で、当時端艇部にいた喜多壮一郎(のち講師、高等学院教授)は、「体育会には、高田と天野の両派の手が、いろいろの関係を通じてのびていたとおもう。ボート部は、塩沢が部長だけに、はやくから『高田派』」であった(『母校早稲田』三〇二―三〇三頁)と回想している。
相撲部は既述したように明治四十年以降「大学報告」から姿を消してしまうが、再びその名が現れるのは大正六年二月で、内ヶ崎作三郎が部長に就任した時からである。しかも、東都学生の年中行事の一つとなった天狗俱楽部および『武俠世界』の共催になる第三回学生相撲大会が、中学校二十二校、専門学校十三校の参加の下に、二月四日両国国技館で開かれた際、専門学校の部で優勝を果して面目を施し、この瞬間から学生相撲界の覇者となった。相撲部は新たに運動場のテニス・コート後方に土俵を設け、二月七日に土俵開きを行った。当日は天野学長・中島剣道部長・内ヶ崎部長臨席の上、東京相撲協会行司木村庄之助の古式にのっとった荘厳な式を以て開始されたが、横綱太刀山、取締友綱をはじめ友綱部屋の力士十数名も参列し、式後力士との練習試合もあり、大隈総長邸で記念撮影を行ったあと、祝盃をあげて散会した。
部長に中村進午を戴く水泳部は、大正五年にこれまでの慣習を文書にまとめ、次の如く発表した。
水泳部概則
第一 旭日東天ノ勢ヲ呈セル吾ガ早稲田大学水泳部モ、将ニ来ラントスル三伏ノ夏季休暇ヲ利用シ、玆ニ第十二回ノ練習ヲ開始セントス。地ヤ房州鏡ケ浦湾内ノ一佳境ニシテ、海ヲ隔テテ遠ク富嶽ノ秀姿及伊豆ノ諸山ヲ雲烟ノ彼方ニ望ミ得べク、気清クシテ山紫ニ、魚鮮シク、海上ノ眺望豪快ニシテ風光天下ニ冠タリ。熱誠ナル稲門ノ健児宜敷来部アリテ研究ヲ共ニセラレ、斯道技術ノ発展ト共ニ心身ヲ練磨シ、本部ノ主旨ニ従ヒ、自他ノ名声ヲ光輝セラレンコトヲ希望ス。
第二 当水泳部ハ房州北条海岸石原由松方ヲ宿舎ト定メ、同沿岸ニ於テ別記大家ヲ嘱託シテ、各流ヲ含ム早稲田式水練術ヲ研究セシム。
第三 練習期間ヲ毎年七月十日ヨリ八月二十日迄トス。
第四 早稲田大学生ヲ以テ部員トシ、本校学生ハ、合宿セザルモ当地ニ滞在スルモノニシテ斯道ヲ研究セントスル者ハ、外来生ト見做シ、入部スルコトヲ得。
第五 新タニ入部セント欲スル者ハ、品行方正ニシテ厳格ナル秩序ヲ有スル本校学生ニシテ、学生課又ハ水泳部事務所マデ申シ込ミ置ク可シ。早稲田工手学校生徒及早稲田実業学校生徒モ準部員トシテ入部ヲ許可スベシ。練習期間中途ニテ入部スルモ差支ナシ。且ツ本校講師・校友及ビ部員ノ紹介ニ依リテ、本校学生以外一般学生ヲ準部員トシテ入部ヲ許可ス。
第十 毎年遠泳大小数回ヲ挙行シ、関東連合水泳大会ニ列席シ、又時々茶話会・講演会ヲ開ク。
第十一 部員技術ノ熟否ニヨリ等級ヲ六級ヨリ一級迄トシ、二級以上ヲ選手待遇トス。
第十二 部員等級ヲ分チテ左ノ筋別帽子ヲ用フ。
六級生 白帽 五級生 赤筋一本 四級生 同二本
三級生 黒筋一本 二級生 同二本 一級生 同三本
第十三 滞在費ハ一日金四十五銭ト定ム。
(『早稲田学報』大正五年六月発行第二五六号 二四頁)
水泳部は開設以来この年までに十二年の歴史を閲したが、正式部員が毎年十七、八名の少数では、頭角を現すことができなかった。しかるに大正四年には一躍四十五名に達し、大正五年にはいよいよ増加して六十名の多きに上ったので、右のような概則が制定せられたのである。
競走部は既に明治四十二年に発足していたが、その後は相撲部と同様、顕著な活動はなかったようである。ところが大正四年になると、
国際的競技として開催せらるる「オリンピツク」に一選手の出場をも見る能はざるは勿論、毎春秋都下に於ける各専門学校徒歩競走に於ても、常に他校をして其名を成さしむ。是れ強ち吾が大学に選手なきに因るにあらずして、其機関なきの致す所……。 (『早稲田学報』大正四年七月発行第二四五号 一七頁)
という声が学内に起った。そこで既成の七体育部の賛助を得、大学当局の了解の下に有志が相集まって競走部を創立することになり、部長に安部磯雄を戴いて、同年五月六日発会式を挙行し、記念行事としてクロスカントリー・レースを行った。第一関門は新井薬師、第二関門は目白中学、第三関門は豊山中学、第四関門は鶴巻町活動写真館前、決勝点は予科正門前というコースで、総道程十一マイル弱であり、第一着所要時間は一時間四十三秒を記録している。
競走部は最初徒競走に重きを置いたが、間もなく欧米先進国に倣って新運動競技たる槍投、円盤投、砲丸投の器具を求め、また棒高跳、走幅跳、走高跳等の練習場を設けて、錬磨に努めた。一方十月には、慶応、明大、東大、東京高師、一高、および我が学苑の六校の運動部委員が相会し、毎月一回各種運動競技会を開催することを決議した。大正五年十月二十八日―二十九日には、大阪朝日新聞社主催の関東関西対抗競技大会に派遣された関東代表選手中に学苑より五名の選手が選ばれて鳴尾運動場で競技を行い、三吉友之輔は棒高跳で九フィート九インチ半の日本新記録を樹立した。しかも三吉は、十一月十九日の第一回秋季陸上競技大会で、その記録を十フィート二インチ半と更新したのであった。また大正七年四月二十日と二十一日の両日、鳴尾の関東関西対抗競技大会に当部より八名の選手が選ばれて出場したが、学苑の金成良雄は、ロー・ハードルおよびハイ・ハードルで日本記録を破って一着を占め、大阪毎日新聞社の日本章を獲得した。更に大正八年には四月下旬、マニラに開催された第四回極東大会に金成・生田喜代次両選手が派遣され、生田が一マイルおよび五マイル競争にそれぞれ一着を得ている。この年、後年の政界の大立物河野一郎(大一二政経)が入部して、翌九年「第一回東都大学専門学校東京箱根間往復百三十マイル駅伝競走」に弟謙三とともに出場して大活躍することになる。一郎はその入部のきっかけを次のように述べている。
神奈川県のマラソンの選手で河野一郎という男が政治経済学科に入ったということが、競走部の先輩に知られて、当時のオリンピック選手で、金栗さんと並び称された三浦弥平という人や、極東大会の千五百の選手だった生田喜代次という先輩が、私を探し出して、「河野、お前、競走部に入ってマラソンをやる気はないか」と勧誘した。オリンピック選手という肩書に、田舎中学生の私はすっかり感激し、その場で勧誘に応じた。 (『河野一郎自伝』 二四―二五頁)
後の彼からはとても想像できないようなしおらしさが感じられて、なかなか興味深い。
蹴球の名を冠したスポーツは、球形のボールを使用するものと、楕円形のボールを使用するものとに二大別できる。前者は今日我が国ではサッカーの名で親しまれているが、ゴール・キーパー以外は競技中手をボールに触れるのを禁じられている。後者はこれに反して、手の使用が認められているもので、ラグビー、アメリカン・フットボール、オーストレイリアン・フットボールがこれに属する。学苑では、部として先ず最初に誕生したのがラグビー部であったから、当初はラグビー部が蹴球部と称せられた。その後、大正十三年、サッカーが部として公認された際に、それと区別するためにラ式蹴球部と改称し、更にラグビー蹴球部となって今日に及んでいる。
学苑にラグビーが見られたのは、大正六年頃、現在の安部球場の前にあった空地で、同志社普通部出身の井上成意その他数名の学生が楕円球を蹴ったことに始まると言うが、早くも翌七年には、オックスフォードから帰国した内ヶ崎作三郎の斡旋により、野球部の使用しない十二、一、二月の三ヵ月だけ戸塚球場を使用するという条件で、北沢新次郎を部長として、体育部に加入を承認された。
創立後最初の対抗試合は、対慶応義塾定期戦のために上京した三高との間に、翌八年一月十五日、前後半各三十分ずつで戸塚球場において行われたが、三高の香山蕃主将はインフルエンザのため欠場したとはいえ、谷村敬介などの大物を擁する三高に到底敵すべくもなく、零対十五の大敗を喫した。尤も、早大フィフティーンは寧ろ「善戦をしたことを喜んでいた」と、早稲田大学体育会ラグビー蹴球部創立三十周年記念出版『日本ラグビー物語』に記されている(一五頁)。なお、大正八年の暮から正月にかけて、部結成後初めての合宿練習が同志社で行われた。