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第五編 「早稲田騒動」

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第二章 二十世紀初頭の早稲田学生

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一 種々雑多の学生

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 日本の大学で、恐らく早稲田ほど、いろいろ雑多な学生が入り込んできた所はあるまいと考えるのは、常識であろう。

 他の大学は、一つの制限を基礎に踏まえて成立している。例えば最初の近代教育を開拓した慶応義塾は、成立ちが中津藩の江戸の長屋で開かれた蘭学塾である。だから入ってくる者はみな士の子で、両刀を帯していた。福沢塾主が後に声をからして、自ら町人諭吉と名告り、両刀を馬鹿メートルと罵っても、学生は容易に丸腰にはならなかった。これが浸染してプライドが育まれ、今日慶応を支える一種の気品となっている。維新後間もなく設けられた官立大学は、はじめ東京の所在の位置から、文科系を南校といい、医科系を東校といったが、初期の写真を見ると、その学生は何れも両刀を帯して写っている。各藩から優秀青年が抜擢されたからだ。

 これに反して早稲田は創立が後れて明治十五年だから、散髪脱刀令が完全に行われていた後なので、どんな古い写真でも、学生が双刀を帯しているのは一枚も残っていない。そして初めから学問の独立、その自由討究を旗印としたので、およそ学問を志す青年が、日本全国のあらゆる階級、雑多な職業から無制限に入ってきた。中にはまことに意想外の学生までいた。

 例えば、文科の卒業論文に造園を論じたものが提出されて、大学には採点できる教員がおらず、その家庭の職業を調べてみたら庭師だった。また史学の論文に遊郭の研究が提出せられた。新宿花街の某楼の息子が家に伝わる代々の帳簿を基礎にしてまとめた実証的研究で、担任教員も内容の調っているのに敬服した。竹内逸三という学生は詩人で、明治四十五年に高等予科を中途退学した後は、また逸速く、絵画に関する優れた研究・随筆を発表して注目せられたが、ある夏、須磨で游泳中、鱶に襲われて臀肉を片方食い切られて跛になり、著作よりその方で一層有名になった。彼は、「蘇州の雨」という名画を請われてパリに寄贈して、ヨーロッパにも聞えた名匠竹内栖鳳の子であった。木名瀬乕雄(大四大文中退)という学生は、いつも人の後ろに控えていて影のようにおとなしい、目立たぬ学生であったが、その父は、大逆事件に幸徳秋水以下の囚徒を収監した時の有名な木名瀬礼助典獄であった。

 これらの例を一つ一つ拾い上げると、なるほど、年々歳々、入学し卒業して、集まり散じた早稲田学生には、天下一切の階級、あらゆる職業の出身者の子弟で、およそ席を置かないのは絶無のような錯覚が起る。

二 早稲田フォービア

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 ところが実際は、早稲田を忌避して子弟を送ろうとしない階級・職業は、非常に多いのである。殊にいわゆる上流階級・特権階級において顕著である。それは早稲田学苑創立の当初、大隈の私学校として忌避された時以来生じているphobiaであろう。精神分析の上では、フォービアというのは、ある事物に対する謂われのない不合理な、過度な、頑固な恐怖・憎悪・反感などをいうのである。とすれば、早稲田を毛嫌いしてかたくなに子弟を送りたがらない階層の抱くのが、そのフォービアでなくて何であろうか。

 先ず上層から見おろしていくと、皇族は開校以来一人も入学してきたことがない。天皇にはもとより特殊帝王教育が施され、その他の皇族も初等教育は学習院に入る建て前になっており、それから皇男子は陸海何れかの軍籍に属さねばならぬので、陸軍幼年学校・士官学校または海軍兵学校、そして陸・海軍の大学校という順路に修学することになっていて、終戦以前にあってはそれ以外の学問履習は許されなかったのだから、早稲田へ入ってこなかったのは当然である。

 公卿は明治以来、華族を総称して皇室の藩屛たる制度からも、また古来宮廷周辺に仕えてきた長き歴史からいっても、皇族に次ぐ位置を占めるが、学習院とは本来彼らの子弟の教育場なので、皆そこに収容された。たまたま例外の反逆児の近衛文麿は、学習院長乃木希典の厳格な教育方針に反感を持ち、中学部を終えると第一高等学校・京都大学の課程を履んだ。もともと彼の父近衛篤麿は英邁の才を抱いて、政治的には伊藤博文に対立し、大隈重信に親昵していたのだから、もし政治が全的に教育を支配するものなら、彼は当然、早稲田に来べきであったろう。しかし慣習、特に公卿全般に抱く早稲田フォービアと、殊に父篤麿の死後でもあったから、早稲田へ来なかったのを誰一人怪しむ者もなかった。杉渓言長が明治二十二年の英語普通科出の校友として名簿に載っているのは、恐らく異例と言うべきであろう。彼は維新まで南都興福寺妙徳院の住職で、維新とともに還俗し、新たに杉渓家を興したのだが、もと中納言四条家の別家という名族だから男爵となったので、まことに由緒の正しい公卿一族である。

 旧藩主華族のうち、公・侯爵になった家の世継ぎで、世が世なら大名となった者、またその子孫も、この時代まで早稲田の門をくぐってはいないが、伯・子・男となると、必ずしも絶無ではない。先ず四国高松十二万石の松平伯爵家の頼寿が日露戦争の二年前に卒業して、久しく校友会総代だった。なにしろ御三家水戸の分家で、初代は黄門光圀の庶兄頼重だから、同じく松平を名告っても、軒並の松平とは家格の威重が違う。早稲田の式典のたびに高らかに「校友総代・伯爵・松平頼寿君」と呼ばれて、粛々と壇上に立つのを見るごとに、その頃の学生達は、「へえ、うちの学校にもこんな卒業生があるのか」と、一同珍しくも思い、誇りにもしたものだった。同じく伯爵出には吉井勇もいる。尤もこれは大名でなく、維新の功臣で大西郷の親友なる吉井友実の孫で、いわば昔の陪臣の出である。早稲田入学前から明星派の投書家で聞えた歌人、在学中から居酒屋や繩暖簾に「酔いどれ」の名が高く、中退して卒業しなかった。その他、舟橋遂賢(子爵、明二二邦語政治科)、島津久賢(男爵、明三九専政)などがあるにはあったが、概して言えば、華族で早稲田へ子弟を送るというのは先ず例外で、松平頼寿が入学したのも、今の早稲田の敷地がもと高松松平家の下屋敷だったのを大隈家が買い取った縁が取り持ったのであろう。つまり華族は、公卿も大名・功臣も、一応早稲田フォービアの持主であったということになる。

三 庶民大学

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 それ以外新華族に列せられた者には軍人・外交官・財界人が最も多く、若干の学者にも受爵者があるが、こうした上層階級の早稲田を見る目はどうであったろうか。

 陸海軍は大隈総長を帝国軍人後援会長に仰ぎながら、早稲田を毛嫌いし、陸軍大尉の職業軍人出が、大正の初めに、剣光帽彩厳しく、胸には功四級の金鵄勲章を吊って、珍しくも英文科に入ってきたのが異例とさえ言えるのであった。彼は奉天戦の勇士だったが、数々の戦功を立てて兵卒から成り上ったいわゆる特進将校であり、実際の戦争を身に親しく体験したすえ、深く考えるところがあって学問の仕直しに早稲田へ入ってきた。実は軍全般にも強い早稲田フォービアがあり、こういう千載一遇とも言うべき経験を持つ特殊軍人でなくては、「都の西北」を歌う校門をくぐってくる筈がない。彼には『戦争』という長篇小説があり、実際の砲煙弾雨の下を馳駆した経験を描いたので、一読して、「この中をよく生きて帰れたものだなあ」と、身柱にゾッと寒さを感じぬ者はない。その名は綿貫六助(大七大文)である。

 早稲田フォービアの殆どない例外は外交官で、それは日清戦争後に外交官試験制度が設けられると、信夫淳平、埴原正直などが逸速く受験して自ら外交官となり、対外強硬論者として知られた本多熊太郎も推選校友になっているから、早稲田嫌いの障壁を作る余地がなかった。

 実業界では、巨豪なる三井・岩崎・住友・鴻池などの新旧財閥は、やはり早稲田フォービアの患者である。三菱は、台湾征討と西南戦争に、まだ海運幼稚の日本には他に輸送の衝に当り手がなく、大隈が財務を担当して、その信任を受けて海上王の大をなす端緒を開いたもので、三井を筆頭として大抵の財閥が伊藤博文・井上馨の長州系、学閥としては慶応系なるに対し、ただ一社、三菱だけが大隈系・早稲田系である。大隈が政界に百折不撓だったのは、三菱財閥の後ろ楯があったればこそだ。それならその子弟も早稲田へ送ってもよさそうなものだが、岩崎一族の有力子弟で都の西北の学苑の人となった者のある話を聞かぬ。

 ただ、備中倉敷に古くから地方財閥として栄えた大原家の御曹子孫三郎(明四四推選)は、どういう動機であったか、既述(一二五―一二六頁)の如く明治三十二年早稲田に入ってきた。特に早くから社会問題に関心を持ち、折から天下を聳動した足尾銅山事件に興味を寄せ、親しく実地の見聞踏査を試みている。足尾銅山の持主古河市兵衛と天下の義人田中正造の対立は、実に、工業国日本か農業国日本かの二者択一の、血を以て血を洗う決戦だったので、大原孫三郎青年の後年の思想の開眼確立となり、第一次大戦後の大原社会問題研究所の遠き芽生えはこの時にある、と言ってよいであろう。しかし、そういう特異な興味思想を有する財閥子弟は他になく、大富豪の子は都市・農村を問わず、多く高商か慶応を志望して、早稲田には大原の後続が絶えている。上流階級・富裕階級は皆ソッポを向いて早稲田には子弟を学ばしめず、逆に言えば都の西北学苑は、それらをマイナスした残部から、つまり一口に言う庶民階級の子弟が中軸をなして、発展してきた大学ということになる。

 更に学者を顧みると、ここにも早稲田は旗色が悪く、現に鳩山和夫は早稲田大学の校長でありながら、既述(二一八頁)の如く、一郎、秀夫の両児を一高・東大に入れた。一般世間はこれに対して何の不審も疑念も持たず、当然のことと考えていたが、自分が校長をしている学校に子供を託するだけの自信がないのかとの批判も一部にはあり、鳩山が早稲田を去るに至った一因に数える者もある。また、こうした例は足許にも起っている。例えば、片上伸と言えば、純然たる早稲田育ちで、殊に口を開けば、一高受験に失敗してでなく早稲田を第一志望としてくる学生を熱烈に翹望・歓迎して措かなかった教授である。それが自分のこととなると、四人の息をみな官立に入れたので、世はその豹変ぶりに驚いた。早稲田の教授自身も、自分の学校を全面的には信頼していなかったのかもしれない。

四 泥臭い体臭

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 以上は早稲田に入ってこなかった種類の学生の出自を概見したのだが、然らば早稲田学生の数的枢軸をなしたのはどの方面だったかといえば、既に定評となっている如く「泥臭い」のが体臭である。言い直せば、百姓らしいということになる。明治の初期においては、学問の志望者は、各藩から選抜された貢進生たる士族を除けば、殆ど全部が農村子弟であった。階級制度下でも、士農工商と言って士と農とは階級を接し婚姻もしていたので、自然下士階級の学問的覚醒に先ず刺戟を受けたのは富裕農家であった。すなわち、東京或いはその他の大都市に出て学問でもしようというのは、士族以外では、殆ど農家に限られていた。こうして早稲田は初期の二十年の間に、田舎臭い、もっさりした性格を作り上げたが、後れて商科ができると、その影響で先ず服装が改まり、今までの母の手織のゴツゴツの紺絣が、銘仙や縞紡績に代って、他の大学では「早稲田も慶応に負けぬハイカラになった」と目を見張った。しかし時既に遅く、早稲田に染み込んだ田舎臭さはなかなか一朝一夕には脱け切れない。

 尤も一口に農家と言っても、生活状態は千差万別で、いわゆる水呑百姓の子は、明治時代、義務教育の尋常小学校でやめて、半数或いは三分の二くらいが高等小学校へ進む。そして更にそれから中学に入る者は、明治の末年までは、一年一村にせいぜい一人か二人である。それから更に早稲田へ来ようというのは大抵村の名望家で、旧幕時代の庄屋や名主や郷士や、名字帯刀の家に限られていた。尤も明治の農村は推移興亡の浪が激しく、年を逐うて旧家の倒産が相次いだ。しかしそうした家には、「あの家で息子を東京に出すのに、うちでも負けてはおられない」という対抗心があり、競うて子供を都会遊学に出したが、学資の支給が十分でなくて、今で言うアルバイトを以て補給し、中には旅費だけ持って飛び出して、明日からの米塩の資にも困るのがあり、彼らは異郷だから見栄も外聞もなく、先ず生活費稼ぎに掛からねばならなかった。かくて明治の学生社会に苦学生なるものの出現を見るに至ったのである。

五 ヴェテラン苦学生

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 この時代の代表的とも言うべき苦学生に、後の日本社会党委員長の鈴木茂三郎(大四専政)がいる。彼は苦学手段を全面に亘って経験して、まさに斯道のヴェテランとも言うべき思い出を語り残しているから、ここに引用しよう。

私の苦学時代は、明治四十年三月高等小学を卒業した十四歳二月から、中学を中退し、早稲田大学専門部政経科を卒業した大正四年七月、二十三歳までの八年四ヵ月つづいた。

小学をおえると、上級の学校に苦学しながら入学させてくれるよう両親にたのんだが許されなかった。そこでその年の四月から郷里の小学校の代用教員を奉職して、伯父から日本外史の素読、四橋義久という学校の先生から英語をならい、中学の通信教育を通じて勉強したものの、青雲の志望やみがたく、教職をやめて九月上京、浅草の叔父の洗たく屋に奉公したが、結局苦学をゆるされて苦学の歴史がこの時からはじまった。新聞配達、牛乳配達、夜店、土方、車ひき、書生、原稿書生なんでもやった。土方は水道橋橋畔に人夫の周旋場があり、毎日未明に出かけていったが、アブれることが多かった。つるはしをふるう土方は半日とつづかなかったので、たいていはお役所の倉庫の書類はこびをやった。人力車は鉄輪からゴム輪への転換期だったが、私はガラガラと騒音をたてる鉄輪の古びた車を親方から借りて、夜の池の端に毎晩客まちをした。ある夜、吉原へゆく酔っぱらいを乗せたところ、入谷の田圃で道がわからなくなって客から怒鳴られたことがある。

赤坂榎坂町の報知分局で働いているとき、東京府下中野小学に奉職していて、私のためあれこれとめんどうをみてくれた次兄が私をたずねてきたが、その次兄に書き残しておいた手紙の端くれが現在私の手元にある。それにはこう書いてある。「本日、社会主義者判決日につき、かねて号外発行の件、予告がありましたが、ただ今それが出ましたので、これから配達に行ってきます。かえりは午後五時半、夕刊が五時に出ますから、号外の配達からかえって、またすぐ夕刊配達に出ますので、面談時間がありません。夕刊配達からかえるのは九時ごろでしょう。」その上、あくる日の未明、朝刊を配達して海城中学に通うのだから新聞配達による苦学はたいへんなことだった。社会主義者の判決というのは幸徳秋水一党のいわゆる大逆事件のことで、明治四十四年一月十八日の出来事である。牛乳配達は新聞配達が脚気でできなくなって、一合三銭でおろしてもらって、毎日一升五合ずつ配達すると月末に五、六円の収益があり、また配達先はほとんど自分のおとくいであるから、新聞より楽だった。岩崎家の書生をやめて早稲田大学に入学してからは、夜店や原稿かせぎをやった。そのころ神田の畳屋の二階を借りていた学友の大倉一郎君といっしょに神保町に夜店を出したこともある。友人はバナナ、私は外国の絵ハガキを商った。畳屋に七、八歳のかわいい女の子供がいたが、それが後年問題を起した阿部定さんだということである。原稿かせぎは同郷の友人の教育学者の三浦藤作君が世話をしてくれて、雑誌の『帝国教育』に新聞の切抜きのような時評めいたものを書いた。ほかにも手当り次第いろいろの仕事をやった。麻糸つなぎもやった。ウルシ絵の手内職もやった。生活はひどいもので、質屋通いは学友のなかで幅が利くほど通であった。早稲田を卒業する三、四ヶ月前から東洋通信社に勤務して憲政会と国民党を担当するようになって、私の苦学時代は終えんを告げた。この苦学時代に私は毎年のように夏になると脚気で帰郷したため、その間、前後二年三ヵ月ほど小学校の代用教員をつとめた。 (日本経済新聞社編『私の履歴書』第一集 七一―七三頁)

 苦学生を支える二大職業と言うべきは、新聞配達と牛乳配達である。それは、当時は牛乳を嫌う人が多いながら、幼児・病人と各家で需要が多くなったことを意味し、新聞は、明治十年代までは、まだ購読せぬ家も多かったが、日清戦争とともに、一紙ぐらいは月ぎめ読者として購読するような習慣が普及し、中には二紙、三紙を併読する家も現れ、更に明治四十年代になると夕刊が発達し、電車の乗換場で新聞売りの学生が、賑かに鈴を鳴らしながら声高に新聞名を叫んで、電車に乗っている客に呼び掛けた。

 新聞配達上りとしては、後の日本経済新聞社長、国家公安委員、小汀利得(大四大政)の経歴が代表的である。これも本人の記述をそのまま引用する。彼は郷里出雲の高等小学校を中途退学したが、学問への憧憬やみ難く、初めから全的に苦学の決心で東京へ出て、『時事新報』の本社の予備配達係に採用された。

朝起きて自炊をし、二、三の学校へ首を突っ込んで勝手に勉強をし、適度に休養をとったあと、夜十二時に銀座の時事新報社へ出勤するわけだが、予備配達になってから一年ばかりして発送係に欠員ができたので、先輩から「君はからだが丈夫そうだ。一つ発送をやらないか」と言われ、発送係へ回された。月給はさらに一円上がって十二円になった。配達は一枚一枚各家庭に新聞を配るわけだが、発送は大量の新聞を鉄道の駅へ運搬するのが仕事である。

ぼくは貧乏ないなか者で健脚だったから、発送はもってこいの仕事であった。発送の仲間たちも二十歳前後の若者ばかりで、みんな足は速かったが、ぼくはだれにもひけをとらなかった。現在のようにトラックのない時代だから、当時は郵便車に似た箱車に新聞を積み込み、銀座六丁目の時事新報社から上野、両国、飯田橋、新宿駅へ運搬するのだ。ぼくの受け持ちは上野駅が主であった。夜中の十二時に出社すると間もなく、輪転機からインキのかおりも新しい新聞が滝のように流れてくる。それを五十部、百部と手早く包装して、仲間が間髪を入れず箱車に積み込んでくれる。積み終わるやいなや、ぼくはハッシとカジ棒をにぎって、上野駅を目がけて一気に疾走するのである。

そのころの銀座通りは、現在とちがって舗装をしていない。泥道のまん中に石畳を置き、その間にチンチン電車のレールが敷きつめてある。そこで車の両輪をレールの上にのせて一目散に走り出すのである。人通りが多いとそれこそ人をひき殺すほどの勢いだが、夜中は人が少ないからうまく通行人をよけて行くと、時々終電車がうしろからチンチン追いかけてくる。ここでレールをはずすとえらいことになるので「チンチン電車に負けてたまるか、ついてこい!!」とばかりに全速力で走り、そのまま上野へすべり込んだことも一再にとどまらない。発送の仲間はたいてい二十二、三分かかっていたが、ぼくは二十分の新記録を保持していた。駅へ着くとこんどは新聞を手押し車で汽車に積み込み、「バンザーイ」と叫ぶと、車掌までが一緒に「バンザイ」を言ってくれる。こうして駅内の水道で汗をぬぐうわけだが、晩秋から春先以外は水道で水を浴び、シャツを洗ってぬれたまま着て社へ帰ってくるころは体温できれいにかわき、そう快そのものである。まことに“労働は神聖なり”である。月給十二円で三畳の間二人もちで、一人一円五十銭の間代を支払い、自炊をしていると生活は楽であった。あとは適当に間食をして、残りは本を買って大いに勉強できた。十二円で足りないやつは酒をのむか、そのほかのつまらぬ遊びをしている下等動物たちである。

こうして二、三年ののち、目的の早稲田大学へ入学した。前に述べたように高等小学校は中退し、中学では好き勝手な勉強をしていたので、ぼくには中学卒業の資格がなかった。資格がなければ大学へははいれない。そこで中学卒業の検定試験を受けようと思ったがあまり意味がなさそうなので、早稲田独特の資格試験を受けた。資格試験を受けた人は大ぜいいるが、原安三郎堤康次郎君らもその組であった。……

三年になってぼくも少し考えざるを得なくなった。それは、いくら席次や点数を気にしないといっても、成績が悪いと社会へ出てから、何かにつけて不利であるのが当時の風潮だったからである。そもそもぼくは新聞記者になろうと思って早稲田にはいったのであるから、いい記者になるためには卒業の時ぐらい、いい成績をとろうと考え、卒業試験はたっぷり時間をかけて答案を提出した結果、一年の時の首席杉山栄君、二年、三年の首席森本宋君を押えてついに首席で卒業した。

さて、ぼくの新聞配達、発送の仕事は大学二年まで続いたが、三年になる時、ある篤志家がぼくのために奨学資金を出してくれたので、三年からその資金によって生活することになったため、時事新報社は大正三年八月で退社した。だが、勤労学生の八年間は決して苦労したと思っていない。ぼくはだいたい苦学生ということばがきらいである。楽しく働きながら勉強できた“楽学生”といいたい。奨学資金は恩師の安部磯雄先生を通じていただいた。当時の金で百五十円ぐらいだったと思う。縁もゆかりもない人から姓名もあかされないまま金をもらうのはどうかと思い、断わろうと思ったが、先生のたってのおすすめによりいただくことにした。そこでぼくとしては、せめてその篤志家の名前だけでも知りたいと思ってお伺いすると「自分も同志社を出て米国へ留学する時、金を出してくれた人があったが、紹介者がどうしても教えてくれなかった。だから金を出してくれた人のことは忘れて勉強を専門にやりなさい」とのことで、そのまま拝借して大学最後の一年間熱を入れて勉強できたわけである。この資金はその後大正七年に安部先生をたずね二割の利子をつけて返済した。

(『ぼくは憎まれっ子』 四二―四五頁、五三―五五頁)

 苦学の種類は他にもあった。信州佐久出身の詩人、三石勝五郎は、谷崎精二広津和郎などと同じ大正二年卒業組だが、夕方になると神楽坂に大道易者の提燈を掲げた。年が若いので場所がら神楽坂花柳街に得意が多く、まじめな人柄でよく当ると評判であった。同じ頃にはまた竹田敏太郎(敏彦)がいた。四十四年に在学一年余で中退して新聞記者となった後、新国劇の文芸部長となり、更に新聞連載の現代小説家として大成した。彼は香川の丸亀中学で後の大蔵大臣津島寿一に比肩すると称せられた秀才だったが、卒業前に家が破産したので、早稲田の高等予科に入った後には、自活の道として按摩を学び、これもまた赤坂の花柳街を得意とした。ある時竹田は友達と一緒に角帽をかぶって街上を歩いていると、すれちがった女性群の一人が嬌声を上げて「あら按摩さん! あんた大学の学生さんなの」と言うので、竹田は狼狽して、角帽を懐にしまい込みたいくらいだった。しかし、もう赤坂の花柳街に按摩笛を吹いてまわることはやめようと思っても、その評判が伝わり、大学生の按摩さんといって、芸者達の間の人気者となった。

 芸者と言えば、姉が花街に稼いで弟に学資を送っているというような筋が明治の小説にはよくあったが、その実例も絶無ではない。すなわち、石田武太郎(大四大政)がその例で、石田は小汀利得と同級、成績は別に優秀というほどではなかったが、演説好き且つ世話焼きで、名物男の一人であった。そんな男だから、卒業後はすぐ職が見つかって、中外商業新報社に入った。これはその頃三井財閥の機関新聞で、記者は殆ど全部慶応系で占められていた中に、彼ひとり異端の如くにして入っていったのだが、小汀利得と小田嶋定吉(大五大文)と三人で勢力を張って、幾年も経ぬうちに早稲田系中心の新聞に改めて、今日の日本経済新聞に及んでいる。早稲田ジャーナリズムの勢力拡大には、忘るべからざる人物である。代議士を望んで郷里大阪府から逐鹿戦に立ったが成功せず、昭和初年に早逝したのは惜しかった。

六 バーと古本屋

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 彼らの学生時代、早稲田の正門前通りを突き当った正面、山吹町に羽衣館という映画館ができた。この羽衣館の裏町に三銭バーという手軽な飲み屋が出現し、安いので、これは学生間に大歓迎せられて繁昌した。出る和洋料理は何でも一品三銭である。二十銭玉一つ握って行くと、七品の和洋食料理が食べられる。一銭不足だが、何人かいたボーイがみな英語を習っているので、差し出すリーダーの分らぬ単語を二つ三つでも教えてやれば、それはまけてくれる。ビールもその頃は一本十五銭くらいで、よろず安上りだから、毎晩、早稲田の学生で満員で、この三銭バーは飲食店というより、早稲田各科の学生有志の適当な交驩クラブだった。この頃は大学でも、現在の図書館の前に、学生控所といって、中は屋根を支えている柱の他はがらんどうの建物があった(写真第五集49参照)。実はそこが各科の学生の寄合い場で、各種の掲示は、学期試験や進級・卒業試験の及第や席次をはじめとして、皆そこに貼り出される。特別講演、教授の休講、授業料滞納の督促、対外野球試合等々、すべてその壁に貼り出されたのである。

 各科の学生はそこに寄り合って、互いに知人ができ、それからそれへと連絡が拡がって他の科の事情も分る。学校の規模も小さかったが、今のように、他学部のことは皆目知れず、いや自学部のしかも同級内の学生の素性も知れぬというような、素ッ気ない寒々しさはなく、科は違っても同じ大学の仲間だという連帯意識が学生控所を中心に生れたものだったが、三銭バーは取りも直さず、私設のミニチュア学生控所に外ならなかった。

 学生の金融には、また古本屋が大きな役割を演じた。明治の末期から大正の初期には、早稲田鶴巻町は表通りは軒並古本屋と言ってもいいほど繁昌して、神田に次いで活気があり、本郷の大学前を凌ぎ、東大の学生まで古本捜しにやって来た。従って棚にはなかなか良い本が並び、往々にして珍本・稀覯本の得られることさえあった。それら古本屋の主人や番頭は学生に親切で、読んだ本も、保存がよくて汚れてさえいなければ最高の値段で引き取ってくれた。質草のようにして、金を貸して暫く預ってくれる。それが顔なじみになると、学生証を渡せば、質草になる本は持参しなくても、金を貸してくれる所もあった。

七 インテリゲンチャの発生

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 インテリゲンチャ! その名の何と爽やかに且つ快く響くことだろう。言うまでもなくintelligentiaというラテン語が、北空に入って、広大なステップの中に培われ、あたかも聖経にいう芥子種子の如く、沃土に芽を吹き、生い育ち、遂に枝葉を繁茂させて、鳥が飛来して巣くうようになったにも譬えられるべきロシア文化史上の花である。レーニン革命後それは世界語となり、イギリスではインテリジェンツィヤと発音している学者もあるが、それに先んじて日本には、それを夙に体現している青年が現れかかった。我が早稲田大学こそは、その最初の温床となり、日本で初めてのインテリゲンチャを育て上げたのである。

 ここにその生き見本とも言うべき当時の学生日記が残っている。すなわち『飼山遺稿』で、筆者は山本一蔵という学生。明治四十二年に早稲田に入学し大正二年に卒業した彼の日記は、中途一年分の紛失はあるものの、ほぼ完全に彼の在学期間をカヴァーする。学生日記は一等史料としてこの大学史で重視しなければならないが、断片的なもの以外、殆ど残っていないと言っていい。他に注目すべきものとしては、綱島梁川「日記」(梁川会編『梁川全集』第八巻)が挙げられるくらいであろう。山本一蔵という学生は、ただに早稲田の生んだ最も優秀なる寧馨児であるばかりでなく、たとえ他校に学んだとしても、秀才として等輩の間に傑出したであろう。そして官学畠には容易に見出し難い敏感な、時代の苦悩に反応する神経を持っている。彼の心情はまことに風に揺らるる葦である。早稲田におけるインテリゲンチャの発生が彼の魂に見られる。

 先ずこの学生の経歴を略説しておく方が、この日記を読むのに理解と興趣が多いであろう。父親を早く失った彼は、茶・生花の師匠もできる教養のある母に伴われて信州松本在の父の生家に寄寓したが、母が北信の田舎の農家に再嫁した後、松本中学校から早稲田に入学した。逆境なれども希望は失わず、富裕ではないが勉学に不足はない。しかも資質として稀有の英才で、殊に語学に勝れて中学時代から英原書に接し、大学に入ってからはフランス語を薬籠中のものにしてトルストイやクロポトキンを渉猟している。郷里にあって早くからキリスト教の篤信な信徒であったが、それが折からの自然主義の無理想・無解決な思想に煽られて動揺した。殊に郷土の先輩木下尚江の思想の影響で中学時代逸速く社会主義に接触し、上京してからは堺枯川、大杉栄ら売文社の一党と往き来して、始終スパイにつけまわされるという学生生活を送っている。大学を出ると四ヵ月後に戸山ヶ原近くで鉄道自殺して、大学生と思想問題・就職問題の絡み合う社会問題として、藤村操以来のショックを世に与えた。生れつき健康には恵まれず、早くから時々、忍び寄る死の影に不安を感じている痕を日記に留めている。きわめて興味ある部分のみを、その中から抄録してみよう。

明治四十二年三月十九日(金)晴△午前十時半より中学校講堂にて卒業証書授与式。予は一枚の卒業証書を得ん為に多くの屈辱を忍び来れる苦辛の跡を顧みて以て将に来らんとする×××××〔社会革命家?〕の惨憺たる生涯を想望せんのみ。

三月二十八日(日)曇△『エピクテタスの教訓』を読む。曰く「心意の管すべからざる事物に就ては大胆なれ、心意に従属する事物に就ては小心なれ。」又曰く「死せん事を恐れずして卑怯の死を恐れよ」と。△早稲田大学の事務所へ入学願書を出す。

四月七日(水)曇―晴△五時十五分上野着。△午後通岱君と共に早稲田へ行く。高等予科事務所へ行つて願書の手続きを聞き体格検査をやる。

四月八日(木)晴△午後寄藤氏と共に早稲田に行かんとて須田町の停留場にて同氏を待つ。電車に乗る、寄藤氏途中にて下車、約一時間半の後再会を約す、予は江戸川の終点にて下車、学校へ行く。

四月九日(金)曇△花曇り。△学校へ行く。入学金と四月分学費とで一挙に六円五十銭取られる。啞然たらざるを得ず。

四月十一日(日)晴△午後、田川君に連れられて向島へ行つてボートレースを見る。△夜八時頃雉子町より早稲田へ移転。

四月十二日(月)晴△今日から予も早稲田大学生だ。△講堂で始業式がある。田原栄高田早苗氏の訓辞がある。

四月十三日(火)晴△今日から授業がある。△夜、岩岡君・三沢君と共に目白台辺を散歩す。ミルクホールでミルクを飲む。

四月十四日(水)晴△片上天弦氏、英語の時間に身の入つた話をする。

 ここで一区切りとする。四月十六日以後明治四十四年十一月末までの日記は紛失して見当らないからである。ここでミルクホールへ初めて入ったという記事が目を惹く。吉井勇や若山牧水の始終入りびたりになっていた居酒屋は次第に後退して、この頃から東京に現れだした新景物がミルクホールで、地方から出て来る学生は、先ず、甘い牛乳の香りと、それを運んでくれる白エプロンの少女の姿とに、一種の都会的な或いは淡いエキゾティシズムに似た刺戟を感じ、東京学生としての洗礼を受けたのだ。講師として初登壇の片上伸の颯爽たる教師ぶりに、ああ、田舎の中学とは違うなという、早稲田の有難味を初めて感じたことであろう。次は明治四十四年に飛んで、一躍、大学部の二年生になった姿である。

十二月一日(金)晴△昨夜は帝劇に文芸協会の『人形の家』を見た疲労で十時頃までねる。△ワイルドのサロメの事を考へながら戸山ケ原を歩む。善を求めて止まぬジョカナン、美を追求して飽かぬサロメ、此の対照を興味あることと思つた。さるにても予の進むべき道は何れぞ。基督教か耽美主義か、胸を抱いて宇宙に迷ふ。△夜冷気身にしみ寒月天に冴ゆ。△黄興如何にしたる。黎元洪如何にせしか。隣邦の共和遂に望むべからざるか。△"Review of Reviews"を読む。

十二月十日(日)晴△十時迄ねる。△約翰黙示録を読む。△午後横山雅夫君来る。雑談す。林義治君来る。四人にて夕飯に豚汁を食ふ。静かなる大久保の夜を雑談に耽る。十時頃両君帰る。△黙示録読了。

十二月十八日(月)晴△今日より学校休み。△クロポトキンの『田野と工場と製作所』を飜訳する。冬季休業の仕事だ。△夜、ワイルドの『柘榴の家』を読む。

十二月二十三日(土)曇△冬至。△飜訳。△柚湯に入る。△『柘榴の家』を読む。"Fisherman and His Soul"興趣深し。

十二月二十四日(日)晴―曇△寒気強し。△久し振りにて徳本スパイ来る。△支那共和制成らんとするものの如し。△例月の送金未だ来らず、借金は増し襯衣は破る。寒きかな、寒きかな。

十二月二十九日(金)晴△寒し。△午前中に飜訳を終る。飜訳は反逆也の感今更の如く起る。予に未だクロポトキンの筆なし、信無し、学無し、才無し、大に努めんかな。△支那愈々政体の更革か? △午後早稲田に為替を取りに行く。未だ来らずと云ふ。

十二月三十一日(日)晴△終に最後の日は来りぬ。△創世紀を読む。△午後青年会館にてラセル氏の説教を聞く――演題『時の休徴』。△電車の車掌・運転手の同盟罷業。

 補注しよう。『人形の家』と『サロメ』と中国革命とで始まる一九一一年のこの日記の書出しは、この頃の日本青年の、特に早稲田大学生の、精神的climateを暗示している。Review of Reviewsは『評論の評論』の訳名で知られ、モダン・ジャーナリズムの開祖ステッド(William Thomas Stead)が興した雑誌で、実に世界中の動向を指し示す時評の如き権威と便利を持っていた。我が『中央公論』は、もと『反省会雑誌』と言って、西本願寺の禁酒禁煙を宣伝する機関誌として誕生したが、誌齢十余年を重ねた時、海外にある大谷光瑞から『評論の評論』を参考として送ってきて、それに倣って『中央公論』と改称したのである。山本は恐らく早稲田の図書館の蔵書を閲覧したのであろうが、これだけでも、この学生の時代に対する勘の良さと語学に勝れていたこととが分る。

 徳本スパイが久し振りに来るというのは、この日記の筆者は社会主義学生と目されて監視を受けていたからである。彼の最も傾倒していた社会思想家は無政府主義者のクロポトキン(Piotr Alexeievitch Kropotkin)で、その主著はもとより、片々たるパンフレットまで入手して読破し、翻訳に掛かっていることが日記で分る。クロポトキンといえば、これから十年後にクロポトキン研究により筆禍事件を起して有名になった森戸辰男でも、多くの著書は大逆事件の弾圧で入手できず、堺枯川の所蔵書を借覧したと書いてあるのに、それに先んじ、まだ早稲田の在学生が殆ど全部を揃え、且つその『相互扶助論』の翻訳がこの遺稿集に合綴せられているのを見ても、我が学苑の進歩性が裏書される。

 そして明治四十四年、山本が大学で積んだ教養の最も収穫多き年なるこの大晦日が電車のストライキで終っているのは、まことに劇的な終結として、余韻に富む。この時の電車ストライキは、大逆事件後、社会主義を徹底的に弾圧し、絶滅したと安心しきった日本政府の意表をついて、かつての我が学苑の講師、当時は東洋経済新報の記者だった片山潜が画策し、指揮したもので、全市に亘って電車を動かさず、年末年始の賑やかなるべき東京を死の如く静止したる大都会と化せしめた。片山潜は逮捕せられたが、大正天皇即位の大赦令で危ない命を助かり、大正三年一切を石橋湛山に託して渡米し、遂に二度と日本に帰らず、アメリカから更にロシアに潜入して、コミンテルン執行委員会幹部会員に選ばれ、ソヴィエト連邦の建設に参加する。早稲田大学二年生の日記に書き留められている僅か十三字の記述は、注目しておかねばならないのである。

八 マルクスへ着眼

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 この山本一蔵の日記は、この先まだ明治四十五年から大正二年まであって長いが、この筆者は早稲田の飛び抜けの秀才で、ここで割愛してしまうに忍びぬから、できるだけ注目の要点を拾って、なお暫く追うてみる。

明治四十五年一月二十六日(金)雨△炬燵に当りつつ冷雨の戸を打つ音を聞く。△夜『マン・アンド・シューパーマン』第三幕シエラ・ネバダ山中の夕、読了。ドン・ジュアンをして新らしき超人道徳を叫ばしむる所、正に著者〔バーナード・ショー〕の言の如く新進化論者の創世紀なり。△ニイツェの『ツァラツストウラ』を読む。

二月二十一日(水)晴―曇△信濃日報に予の原稿『国民道徳と基督教〔海老名弾正〕を読む』が出て居る。

二月二十六日(月)晴△〔E. H.〕Crosby, "Garrison, the Non-Resistant"を読む。人道の戦士の奮闘に感ずる事多し、次の如き一事深き感興を引きぬ。――明治の初年軍事研究の為め渡米せる日本の一青年ありしが、偶々ガリソンの説を聞きて感措く能はず、帰朝の後××〔徴兵〕に関与するを拒み、牢獄に投ぜられしと云ふ。――此の一青年とは何人なりや、そぞろになつかしさの情に絶えず。

四月十五日(月)曇―晴△風強し。△初めて学校に行く。島村氏の『フワウスト』の講義を一時間聞いて帰る。△夜中央公論の『マルキシズムとダーウィニズム』(河上肇)を面白く読む。公平なる学者の議論と云ふべし。

四月十六日(火)曇△シェークスピーアの『ウィンタース・テール』の休んだ所を研べる。不明な点一箇所もなかつたので非常に嬉しかつた。

四月十八日(木)晴△兵器廠の門から出て来る男工女工の群を見て「カムレード」よと叫んで手を握りたく思つた。

五月十九日(日)曇△長崎君、深沢君来る。長崎君間もなく帰り、深沢君と共に四人にて豚汁にて昼飯を食ふ。食後大塚停車場より山の手電車にて高田馬場へ行き、戸山ケ原の櫟林の下にて快談す。戸山ケ原は予に取つては様々なる思出多き地也。新宿にて深沢君と別れ、我等三人ビーヤホールにてビールを飲む。微酔の快感を味ひつつ電車にゆられて大塚に帰る。大塚のミルクホールにて又飲む。酔ふて平生の鬱を散ず。△快き一日なりき。

五月二十三日(木)晴△学校へは行きたれども嫌で嫌でたまらず一時間にて帰る。△クロ〔ポトキン〕の『仏蘭西革命史』を読む。思へば一昨年の今頃此書を購ひ大久保村の汚なき自炊生活の間に猪水と机を並べて読み耽りたりき。△恋も要せず、名も要せず、唯××〔革命〕の火と血とを一目見て死にたきものかな。△田岡嶺雲の『数奇伝』、福本日南の『日南草蘆集』――右二書買ひたけれども金無くして買ふ能はず。

五月三十日(木)晴△ボツボツと試験の下しらべをする。△夜月清し、三人にて茶をすすりつつ語る。談、各自の寿命の長短に及ぶ。平林君曰く「山本君は最も早く二十六、七歳にて死ぬべく、香津君は其次にて、僕は最後まで居残るべし」と。此の予言或は適中すべきか。予は敢て長寿を願はず、寧ろ充実せる短命を希ふ。堀内君の云ふ「怒り」に充実せる生涯を送らん事を希ふ。

六月七日(金)晴△試験の第四日。△試験の勉強なんかするのがつくづくいやになる。

六月十四日(金)曇△試験の最終日――言語学。△夕四時から矢来倶楽部で松本中学出身早稲田大学在学者の会合が開かれる。吉江孤雁氏、瀬戸君、丸山君、竹野君等十名、菓子を食ひ茶を飲みながら雑談す。天丼で夕飯をすまし八時頃まで語る。

六月二十八日(金)曇△新聞紙の三面雑報頻々として米価の騰貴を報じ、生活の益々窮迫せるを教ふ。紳士閥愈々驕り平民階級盛々〔益々?〕衰ふ。△夜七時より、神田青年会館にてルソー誕生二百年紀念の講演あり。感ずる所甚だ多かりき。△精神興奮して容易に眠られず。

六月二十九日(土)曇△渡辺政太郎氏を訪ふ。渡辺氏曰く「今夜売文社に同人の茶話会あり、行きて見ずや」と。即ち夕飯の御馳走になり青山墓地を抜けて四谷左門町の売文社に到る。渡辺氏の紹介にて初めて堺さんと語る。無限の歓喜心に溢る。会するもの、堺、大杉、荒畑、渡辺、斎藤、幸内、添田其他数人の同人諸先輩也。十一時半頃まで雑談す。△感慨多し容易に眠られず。

〔夏期休暇帰郷中〕七月五日(金)晴―曇△仏文の『コザック』を読む。"Il sentit la montagne"と云ふ言葉を面白く感じた。△何処へ行つても米価騰貴の話ばかり、大塩平八郎の出ねばならぬ幕だ。

七月二十五日(木)晴△天皇陛下の大患にて新聞紙殆ど全紙面を埋む。

八月二十三日(金)晴△堺さんより本を送らる――"Karl Marx, His Life and Work."マルクスやエンゲルスや、ラサールなどの肖像が沢山ある。堺先生に深く感謝す。

 若干の補注を試みる。兵廠の職工を見て、「カムレード」と呼びかけたい衝動を感じたとあるが、二十世紀の初頭、万国社会主義者は、呼び交すに「同志(comrade)!」の語を用いることを言い合せた。日本ではこれに気付いた者が殆どなく、従って、社会主義者の間でもこの語を用いている例はきわめて少い。ロシア革命が起ってから進歩的青年の間に氾濫していくのだが、それに数年を先んじて、早稲田大学には早くも敏感にそれを知っていた学生があったのである。自然主義の勃興このかた、世界の最新思潮は早稲田大学に流れ込むというのが、ジャーナリズムの常識になっていたが、この一例を見てもその実績はあった。

 この日記は、夏休みで信州の山村へ帰郷中、明治天皇の大患の報を新聞で見て、一種のショックを感じており、彼の社会的傾向として、その「崩御」について感想を記入すべきところだが、スパイに見られることを警戒したのであろう、それについては何も漏らしていない。ただ、一友人の思い出にこういう一節がある。

彼の学校時代の終頃に買求めて愛用してゐたラルースの辞書を持つて来て、「ここにムツヒト〔睦仁〕といふ名もある。先帝は実に大なる偉人、大なる革命家であられた。若し一平民としても必ず大業を遂げるやうな偉大な人格であられた」と賞讃したりした。 (『飼山遺稿』 三一二―三一三頁)

やや意外であるが、しかし近頃は研究家の中にも、明治天皇は天忠組の指揮者中山忠光の血縁の甥であり、維新直後逸速く、女官の反対を振りきって東京遷都を断行し、四つ足の牛肉・牛乳を率先して食膳に上せ、衣冠束帯を廃して四つ足の毛皮で作った軍服を日常服とし、遂に立憲政治を実施したなどに徴して、革命家の資質が具わっていたという研究が出ている。彼はそれに何十年か先んじての主唱者であった。

 しかし彼は新天皇の践祚にも元老の変化にも全く無関心で、女工が虐待されたとか、社会主義者が獄死したとか、米価高騰で三十人の小学生が昼飯を持参せず、学校で空腹のため昏倒したとかということになると、きわめて敏感に反応する。また、明治と大正の区画線は彼の注意を惹かず、ただ大正になっての早々『マルクス伝』を手にしたところで新元号の記述に入っているが、偶然か否か、深甚の意味がある。この記述において、早稲田に、いな全日本の学生思潮に、新気運の胎動してきたのを感ずる。

 マルクスの日本に伝わったのは古いことである。彼は『資本論』の第一巻を発行した時、世界各国の大学と図書館に贈っているから、日本にも来ている可能性があると説いた学者もあるが、それは覚束ないとして、明治十五年頃には、アメリカのウルジー(Theodore Dwight Woolsey)の邦訳などによって、マルクスの名もインターナショナルの運動の概略も伝わっている。更に明治二十八年には、安部磯雄の初論文が『国民之友』に載って、単に学説としてでなく、社会運動の実践的方針としてはマルクス=ラサールの線に沿うべきであることを積極的に表明している。日露戦争時代になると、『平民新聞』紙上に幸徳秋水・堺枯川共訳の『共産党宣言』の翻訳が載り、ブルジョア階級に対する把握が十分でなく、「紳士閥」の新訳語を用い、この山本一蔵の日記にも時々それの襲用が散見せられ、もし彼の父が生きていたら彼自身も紳士閥の子たるを免れないと書き残している。大逆事件前後から日本の左翼はクロポトキン中心の時代となり、現に山本日記を見ると、クロポトキンの全著作を渉猟して『相互扶助論』と『自伝』と『田野と工場と製作所』の翻訳に掛かっている。しかしこの頃から漸く、売文社員の中にも堺利彦にマルクス中心への転向が現れかかり、平民社では『空想的・科学的社会主義』『賃金・利潤・資本』などの簡便なパンフレットを配布し、山本などのような有望学生にはマルクスの伝記と学説のまとまった書を送りつけているのは、この日記にある通りである。

 この時は、河上肇の『社会問題研究』が創刊されるより七年前であり、早稲田では山本一蔵なる尖敏の左翼的傾向の学生が、堺の指導によってマルクスに興味を覚えかかっている。ただ、堺から送ってきたのがスパルゴー(JohnSpargo)の『マルクス伝』であったのは、今日から見ると幼稚で憫笑に値するが、初期のこととて、堺でさえその程度であったのだ。

九 戸山ヶ原と早稲田学生

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 きわめて一般的な、常識的な見方として、当時の早稲田が東大に比して劣るはっきりした差異は、準備段階において、高等学校の三年に比し、早稲田の高等予科は一年半だから、つまり一年半だけの時間的マイナスがある。これが最も明白に現れるのは語学習得の上なので、早稲田はこの遅れを取り戻すために、この時代ほど、英語の原書の読破に主力を注いだことはあるまい。その結果かなりの進歩が目立ったが、その代り一方でまた第二外国語を顧みる余裕に乏しかった。そのためドイツ語やフランス語を学生時代において読みこなすだけの学力を身につける者はきわめて少く、一級にせいぜい二人か三人、時によっては皆無な級もあった。

 そのなかでこの山本一蔵はきわめて異色であり、大学二年の時には、フランス語訳でトルストイを読むところまで漕ぎつけている。特に平野育ちのトルストイがコサック騎兵としてコーカサスでの第一印象、Il sentit la montagne(彼は山を感じた)という問題の句に注目しているのが面白い。東大ドイツ文科出の信州人作家藤森成吉は、少年時代から山々に囲まれて育ったので、この初めて「山を感じた」という句に異常さを覚えたと語っている。同じ信州で、同じ環境の中に成育した山本も、受入方は違うが、この句に気を惹かれている。そして山本は、その山国から出京したので、本来なら関東平野においてはIl sentit la plaineであるべき筈で、その小縮図を戸山ヶ原に発見し、ここを自家の庭園のように愛し、親しんだ。ただに山本ばかりでなく、代々の早稲田学生全体が、あたかも戸山ヶ原が大学のキャンパスの一部であるかのように親しんだのである。学科をエスケープして戸山ヶ原へ往くということは、早稲田学生にとっては、最大の息抜きであり、自由であり、解放であった。時には晴、時には風の戸山ヶ原に、春は萌え出るクローヴァを藉いて、青い大空を見上げて悠久永遠を感じ、近くを走る山手線の鉄路の涯を眺めては、無限無終を感じた。そこに宗教を冥想し、そこに哲学を思索した。明治・大正の学生は、そこで、大学で受ける教養を補正し、新しく濶養して、何倍もの内容としたのだ。だから軍が武蔵野の一角を戸山ヶ原の練兵場として鋤犂を入れずに処女地のままで残しておいてくれたことは、我が軍力をどれだけ増大したかは問題外としても、早稲田大学が適当な距離にあったために、日本文化形成の上で、思いがけない、無形な貢献をしていることになる。戸山ヶ原が戦時中高射砲陣地となり、戦後は戸山ハイツとなったことにより、少くとも早稲田学生は哲学的教養、宗教的情思を鍛練する天然道場を失ったのだ。

十 早稲田ロマンティシズムの終焉

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 山本の大学部最後の年、すなわち三年生の日記から抄出しよう。

大正元年八月二十八日(水)晴△朝九時俥で松本停車場へ行く。巡査がきよろきよろしていやがる。九時十四分発車。さらば松本よ、今後再び此地を踏むか否か知らぬが、もし今一度此地を訪ふとしたならば、其時は今日よりも更に数奇な運命を齎らして来るであらう。夜八時飯田町へ着いた。△神楽坂の或るソバやでソバを食ひ、酒を飲んだ。久し振りで東京のうまい酒を飲んで軽く酔うた。大塚の寓居へ着いた。黴臭い蒲団の中に包まれてぐつすり眠つた。

八月三十日(金)晴△未明に目がさめる。ラムプをつけて蚊帳の中で中央公論の〔松崎〕天民の『淪落の女』を読む。

九月十日(火)雨―曇△無事の日。スパルゴーのマルクス伝を読む。

九月十二日(木)曇△連日の陰雨漸やく晴る。明日は御大葬なり。

九月十三日(金)曇―晴△深沢君と芋の菜にて朝飯を食ひ冷風に吹かれつつ大葬の都に帰る。日比谷の辺、衆人動揺す。

九月十七日(火)曇△朝、早く、山手電車に乗つて大久保に大杉〔栄〕さんを訪ふ。不在。戸山ケ原の様子が大分変つた。所々に「陸軍用地に入るべからず」と書いてあるのが眼ざはりだ。△久し振りで講義を二時間聞いて帰る。

九月二十八日(土)晴△大赦令の為めに片山潜氏を初め橋浦時雄君等同志諸君出獄す。

九月三十日(月)曇△今日まで予の思想を開拓せる恩人の名を左に記さん。

徳富蘆花、内村鑑三………宗教的情想或は信念。

木下尚江………基督教的社会主義。

田岡嶺雲、福本日南………一種の反抗的精神。

幸徳秋水………××××××。クロポトキン………×××××××。

十月二十四日(木)晴―曇△"La Morale Anarchiste"読了。語学と思想との上に与ふる所が少なくなかつた。曾て初めて東京へ来た時予の英語の学力を増さしめ、予の思想を開拓したものはクロポトキンの著書であつた。今や同じくクロポトキンの"La Morale Anarchiste"は予の仏語の解釈力を大に進ましめ、併せて予の人生観の礎を層一層堅くして呉れた。予はクロ翁に涙を以て感謝せねばならぬ。

十一月九日(土)曇△夜、Tcherkesoffの"Pages d'histoire socialiste"を読む。アナルシストの立場よりマルクス、エンゲルスを攻撃して痛快を極む。

十二月五日(木)晴△頻りに頭痛す、十時半までねる。△学校を休む。切に死を思ふ。△噫、最後の夜!!さらば友よ、さらば同志よ!!

十二月六日(金)曇△昨夜自殺なさんと思ひたれども遂に決行し得ざりき。我れには我れの使命あり。

十二月十日(火)晴△老子読了。

十二月十三日(金)晴△頭痛み、体熱する事依然たり。△荘子を誦す。

大正二年一月一日(水)晴△新しき年は来りぬ。△天下不景気にして細民の苦むもの多し。然も天下の人心痲痺して猶ほ未だ××〔革命〕の道に来る事を知らず。嘆ずべきかな。

一月二日(木)晴△「山本一蔵玆に再生す。一千九百十三年一月二日」と書して壁に張り、其の横にトルストイ翁の肖像を掲ぐ。蓋しトルストイ翁を以て我が水先案内となさんが為めなり。馬太伝を読む。

四月十二日(土)晴△風強く砂塵濛々たり。△学校は一時間きり、戸山ケ原に行く。櫟林の中に腰を下ろして、未だ落ちやらぬ枯葉の囁きを聞く。快き郊外の眺めなるかな。

四月二十五日(金)晴△学校より帰りて後部屋を奇麗に掃除して予の書斎兼自炊室となす。明朝より大久保時代以来久し振りにて自炊生活を始めんとすれぼ也。

四月二十六日(土)曇△朝五時に起く。自炊生活の第一日也、飯のうまく炊けたるも嬉しく汁の美味なるも喜ばしかりき。△仏蘭西語の時間、予一人也。安藤〔忠義〕先生と教場にて一時間語り合ふ。兆民の塾に居たる話など出で兆民居士の逸事など語られたり。

五月二十八日(水) △本日を以て授業終りなり。其の最後の講義は坪内博士のシェークスピーア『アントニイ・アンド・クレオパトラ』にてクレオパトラが三人の侍女と相前後してナイル河の毒蛇に身を嚙まして死ぬ大団円なりき。之が四年半の一切の講義の終なるかと思ひたる時は一種の感慨に打たれざるを得ざりき。△エマーソン論文集を読む。試験準備也。

七月五日 早稲田大学文学科英文学科を卒業す。空の空、空の空なるかな空の空也。

八月十日 小石川より大井町一六〇伊佐美屋へ転居。出家の念頻りに湧く。木下尚江氏の旧著『日蓮論』『法然と親鸞』を読む。

八月二十一日 病気の為め突如帰郷の途に就く。新宿停車場迄送るもの深沢、平林、河野の三君也。

学生時代の日記は以上で終っている。

爾来今日に至るまで〔故郷にこもりて〕美的百姓を為す傍ら、読書三昧に入る。心内の動揺は依然として止まず、或は泣き、或は怒り、或は悟り、或は迷ふ。然も心内自から忘じ難き一片切なる要求のあるあり。「饑え渇く如く義を慕ふの念」即ち是れ也。

十月十二日(日)晴△濃霧山野を閉す。十時頃に至りて漸く晴れ水色の紗を張れる如き空を見る。△日なたぼつこを為しつつカアライル『英雄論』を読む。ルーテルの風丰を思ふ。△桑畑の草取り。△桂太郎の死、袁世凱の大総統就任式。△十三夜の月見、家にては餅を舂く。空には秋月明晧々たり。△カアライル『英雄論』(ノックス、ピュリタンを論ずるの項)を読み感ずる事深し。

 日記はここまでであるが、次に友人に送った手紙から若干引用して、日記を補っておく。

僕卒業後は暫らく郷里信州の山中に逍遙自適して、九月にでもなつたら出京して何か職業を求むる考である。其節心当りがあつたら君の為めに進んで周旋の労を取らう。が然し前にも云ふ通り田舎に静かな生活を送つて居た方がどの位いいか知れない。僕は君が君の好きな海と長しへに親しんで居られん事を切に望む。学校は今月限り、試験は六月十三日から。社会主義を学ばんとして早稲田に入学し、今、神の祝福を感じつつ早稲田を出でんとす。人生の転変計り知るべからず。(大正二年五月十三日、橋浦時雄宛) (『飼山遺稿』 三〇四頁)

今日は大橋図書館へ行つて今し方帰つて煮豆と福神漬とで昼飯を食つた所だ。図書館では戸川秋骨のエマーソン論文集を見て来た。不明な箇所が少なからず氷解して、嬉しく感じた所もあつたが、彼れの訳に感服の出来兼ぬる箇所もないではなかつた。"Nature"の中で誤訳と思はるる箇所が二、三あつた。例えば"......and a plain begging of the question"を明かなる疑問の慾求とか訳してあつたが、to beg the questionは一の熟語で、「先づさうとして置く」「姑く承認しておく」(模範辞典)と云ふ意味であつて、「明白なる疑問の仮定」とでも訳すべきであらう。然し兎に角エマーソンをあれ丈けにこなしたのは随分骨が折れた事だらうと思ふ。(大正二年五月十九日、香津英治宛) (同書 二六二頁)

新小川町に金子筑水氏を訪うた。氏の曰く、「目下は休暇中で思ふやうにも行くまいが、一、二ケ月待つ内には必ず捜してやるから」と、大分熱心な様子であつた。「もし東京に思はしい口がなければ、地方の教師になるつもりならば幾らも心当りがあるから」とも云つた。(大正二年五月三十日、香津英治宛) (同書 二七一頁)

深沢君と語る。此の両三日来刑事が来て、僕の所在がわかつたら至急知らせて呉れと云ひし由、あぢきなき世なるかな。都合上、旧に依て我が本陣を此処〔大井町、伊佐美屋〕に定めたから通信はこちらへ願ふ。此処の宿の主人は此辺の漁師町の頭取をして居る位で多少物もわかつた人で、刑事の来る事など格別苦にして居ないらしいし、それに蒲団、机なども此処にある事だから先づ当分此処に居る事にした。平林君の家へ刑事が行くやうでは、平林君は勿論、家の人にも気の毒だ。ああ住居の自由さへおびやかさるるとは! されど是れ皆祝福である、感謝々々。(大正二年十月二十二日、香津英治宛)

(同書 二七六頁)

 別に注説にも及ぶまい。先ず、当時は一般学生が、卒業後の就職については、必ずしも切実に考えていない時代である。学校には特別に就職斡旋の部課が設けられてなく、相談に行くとすれば日夕親しんだ教授のところで、この山本も文学科長の金子馬治を訪ねたが、その返事は、卒業後一、二ヵ月も待つうちには何か見つけてやろうという、今から見れば呑気なものである。

 なお、ここに特にエマソンの誤訳指摘の条を引用したのは、早稲田の翻訳が文壇或いは読書界の問題になっていた時期なるがためである。当時、西洋文芸の翻訳が盛んになり、早稲田出身の文士がそれに当ること最も多かったが、帝大出身学士の翻訳が佶屈・難解なのに反し、早稲田派の翻訳は文章がこなれていて読み易いというのが一般の定評であった。その代り風当りも増し、誤訳の指摘が一風潮をなすとともに、最も多大の損傷を受けたのは早稲田で、中には早稲田大学出版部から刊行された大学講師の訳書であまりにも多くの誤訳が摘発された結果、高田早苗のお声掛かりで絶版を命じられたものさえあった。そうした時代に学苑の学生には山本のような優れた語学力の保持者もいたことを一言しておくのは、外国語読解力低劣との悪評が必ずしも学苑の全般に妥当するものではないのを証示するためにも必要だと考えられるからである。

 この山本は卒業後、故郷の山村に籠って、養蚕の手伝いなどをしていたが、十一月には上京し、四日の深夜、思い出の深い戸山ヶ原へさすらい出でて、鉄道自殺をした。彼の死は、新聞雑誌で取り上げられて、さまざまに論じられた。主として、左翼的傾向の学生の就職という観点から、同情的に批評したのが多かった。

 元来、自殺という語は、明治になって広まった言葉である。明治二十七年、我がロマンティシズムの発祥と言われる『文学界』盟主北村透谷が縊死した原因は、我が国で初めての思想死と言われ、哲学死と言われ、情熱死と言われ、煩悶死と言われた。またその翌年、藤野古白がまた同じような自殺をした。古白は、島村抱月の思い出(本書第一巻六七三―六七四頁)に見られるように、抱月と同級の親友で、絢爛奔放の天才的性格のところから、早く透谷の死と併称せられた。しかも相次ぐ透谷と古白の死が、どちらも早稲田の学生上りなのが、特に世の注意を惹いた。明治三十年代に入ると藤村操が華厳の滝に投身したのが天下を衝動した。彼は第一高等学校で屈指の英才だったが、一高の天下国家型の学生と類を異にして、魚住影雄(折蘆)、安倍能成、宮本和吉などとグループを組んだ向陵の異色で、特に綱島梁川に傾倒していただけに、官学の英才というより、早稲田系の軌道外の彗星の観があった。

 この思想的系統を引いて、大正の初頭、世の注目を惹いたのが山本一蔵の鉄道自殺である。他の官私どの大学からも、こうした思想死の犠牲となった者はないのに、早稲田にのみ輩出したのは、善悪の批評はどうあるとも、都の西北学風の一特色であり、且つ大学史に特筆して誇るべき意義・含蓄・暗示・内容を含む。それから三、四年をおいて、素晴らしい天才の出現として、詩壇から大いに翹望せられていた今井国三(白楊、大二大文)と三富義臣(朽葉、明四四大文)が、これは自殺ではないが相共に、銚子浜で荒浪に呑まれて溺死し、天下を痛惜させた。

 繰り返して言えば、北村透谷、藤野古白、これに藤村操を軌道外の彗星として数えて、山本飼山、今井白楊と三富朽葉、脈々として続いた早稲田ロマンティシズムは、天の一角の七彩の虹の消えたるかの如く、これを以て終焉となった観がある。