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第五編 「早稲田騒動」

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第五章 カリキュラムの充実

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一 大正前期のカリキュラム

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 大正前期におけるカリキュラムの改正には、明治期におけるカリキュラムの推移に見られたような著しい変化が少かった。明治期、特に東京専門学校時代の二十年間は、毎年のようにカリキュラムの改正が行われていた。当時は日本全体の高等教育に対する試行錯誤の時代であり、また文部省の方針にも、たびたび変更があったためである。

 ところが大正前期の主要な改正には、高等予科の年限延長(大正六年)を考慮の外におけば、史学及社会学科の新設(大正三年)、第二外国語としての露西亜語科の新設(大正五年)、応用化学科の新設(大正六年)のほか、大正八年に文学科の課程を哲学・文学・史学の三専攻科に分け、更にそれぞれを細かく専攻別としたことを数えるだけである。そして大正八年頃に完成したこの基本的体制は、大正九年の新大学令下の大学へ概ね引き継がれ、昭和に入っても暫くはそのまま続いていると見て差支えないと思われる。

 他方、高等予科については、我が国の教育制度全般、特に私立大学の地位向上との関連で実施に踏み切ったきわめて注目すべき改正が見られた。しかもこの改正は、高等予科の高等学院への発展的解消に向っての布石としての意義をもこめて、学苑の将来の発展の構図に不可欠の一石であったのみならず、内部的には大紛擾勃発の遠因にもなったという、見落すことのできない重要性を持つものであった。学苑全般の歴史を考察するに当り、大正前期におけるカリキュラムの改正の中で、年代順によらず、先ず高等予科のそれを取り上げる所以はここにあるのである。

 なお、右の改正のそれぞれについて説明するのに先立ち、大正元―二年度の各科一覧を次に示しておこう。この一覧は『明治四十五年一月改正 早稲田大学規則便覧』によるものであるが、これ以外にも、例えば学費には表に挙げた他に入学金とか理工科実験費とか雑多な諸費用の規定があり、また特典なども条件がいろいろ記してあるけれども、繁雑を厭い、すべて省いてあることを一言しておきたい。

第二十八表 大正元―二年度各科一覧

特典

一、在学中は第一種学生のみ徴兵猶予あり。

一、大学部法学科・専門部法律科の卒業生には、判検事登用試験の受験資格あり。

一、中学校・師範学校・高等女学校の教員資格は次の通り。

(修身・教育) 大学部文学科哲学科の卒業生 (英語) 大学部文学科英文学科の卒業生

(国語及漢文) 高等師範部国語漢文及歴史科の卒業生 (英語) 高等師範部英語及歴史科の卒業生

授業期間

高等予科 四月より翌年七月まで 大学部 九月より翌年七月まで

高等師範部第一部(予科) 四月より同年七月まで 高等師範部第一部(本科) 九月より翌年七月まで

高等師範部第二部 四月より翌年三月まで 専門部 九月より翌年七月まで

二 高等予科の年限延長

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 第一巻に説述した(九七八頁)ように、学苑は明治三十五年の大学開校に先立ち、同三十四年四月から一年半の高等予科を開設した。官立高等学校の修業年限が三年であるのに対し、修業年限短縮の要望が識者の間に漲っていたのを考慮しての措置であり、官立の入学期が秋である関係上、卒業期から見れば二年の短縮になっていたわけである。学苑の例は、他の主要私立大学の大半によって追随されるところとなったが、一年半と三年とでは、その開きが大きすぎ、少数の例外的学生を別とすれば、官立大学の学生に比して学力が劣ることは免れなかった。この学力の差の実状と、年限短縮を望む江湖の声とを、どう調和させるかが、学苑当局者に課せられた宿題だったのである。

 学苑においては高田名誉学長の主唱の下に、後に詳述する如く、大正四年十一月「学制調査会」が設置され、調査報告が提出されたが、その「高等予科改正方針」の冒頭に、「高等予科を二年とすること」(教務部学籍課保管『早稲田大学学制調査参考案』一頁)と高等予科二年制案が明記されており、これを採用したものであろう、同五年十二月二十一日の維持員会は「高等予科二年制実施」を決議した。そして「臨時学制調査会」が翌年一月に設置され、旬日を経ないうちに、この会と臨時教授会とで、大正六年四月より高等予科の年限の半年延長を実施することが正式に決定したのであった。

 しかし、この高等予科年限延長決定の最終段階はあまりにも電光石火的であり、一部教員から不満の声が挙げられることになった。後述する恩賜館グループの一人、服部嘉香の記すところを引用すれば、

大学予科の修業年限を一年半から二年に延長する議があり、各科教授会、予科教授会、各科連合教授総会に順次附議して審議、修正せしめるとしながら、実は新入学案内にはすでに原案のままを印刷して一般に頒布する不信を敢えてしたので、三月十日の教授〔総〕会では、プロテスタンツに属する五教授大山、井上、武田、寺尾、宮島の五君は、約二時間にわたり教授会の権限に関して学長並びに理事に質問を試みた後、満足な回答が得られないままに、採決に加わるを拒否して、憤然退場するに至った。五教授退場事件と呼ばれたのはこれである。 (『随筆早稲田の半世紀』 二五―二六頁)

すなわち、若手教員は学長以下当局の教授会無視を憤慨して、抗議の姿勢を明確に表明したのであった。殊に天野学長の説明は首尾一貫せず、漸く学苑は物情騒然とする兆候を呈し始めた。

 尤も、高等予科の年限延長に関して教授会と対立したのは、天野学長ばかりではなかった。年限延長に伴って、新しく国民科という学課目を設けることについては、高田名誉学長の専断が批判されている。国民科新設の目的は、政治・法律の大意を理解させることにより、従来の倫理科に代って模範国民の養成に資せんとするものであり、大隈総長が『国民小読本』(大正三年刊)中に説いた「国民教育」に通ずるものがあった。大隈の意のあるところはまた高田の素志でもあったから、彼は維持員会である程度強引にその通過を計ったらしく、この問題に関しては、高田に対して、教授会の意向無視との批判が何人かによって叫ばれたのである。

 さて、高等予科二年延長案の実施を学苑当局が急いだのは、表面的には、天野学長の述べている如く、国民科を新設することによって模範国民の養成に貢献し、外国語の修得時間を増加することによって専門教育の効果を高めるのが目的であった(「高等予科修業年限延長に就いて」『早稲田学報』大正六年三月発行第二六五号二頁参照)が、その裏には、学苑首脳部が躊躇している中に他の私立大学が高等予科二年制実施を発表したので、首脳部は驚いたと橘静二が言っている(「早稲田を去る」『大学及大学生』大正六年十二月発行第一号七五頁参照)如く、来たるべき大学令・高等学校令に対して、学苑がその先駆たらんとした思惑があったものと察せられる。すなわち、一年半制の予科制度で他の私立大学に先鞭をつけた早稲田が、今回もまた率先して二年制に踏み切ることにより、私立大学のモデルとなり、法改正に際して高等学校の修業年限を二年に短縮するよう、事実を以て圧力をかけたいとする意図が、天野学長をはじめ学苑の幹部にあったと推定しても、誤りではないであろう。

三 文学科の整備

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 この時期における学苑の大学部において、カリキュラムの改正が最もしばしば行われたのは文学科であり、その整備の実績は詳述に値しよう。

 先ず大正三年九月には、大学部文学科に史学及社会学科が新設された。その予科生は大正二年より募集されており、『早稲田学報』第二一七号(大正二年三月発行)には、「同科は史学を専攻せんとするもの、歴史地理の中等教員たらんとするもの及び史学・社会学の智識を基礎として将来社会に活動せんとするものを養成する方針」(二頁)であると報じられている。またこのとき同誌に発表された課程表は次の通りである。

第二十九表 史学及社会学科課程表(大正三―四年度)

 高田学長も、大正二年七月五日に行った第三十回得業証書授与式の訓示の中で、

文学科に史学及社会学科というものを設けることに致しました。今日迄文学科は色々変遷も致しましたが、最近の所英文学科と哲学科の二になつて居ります。更に次学年度より史学及社会学科を新設致しますことになりました。之は勿論歴史が専門でありますけれども、随つて、其歴史科の教員の免状も得られるのでありますが、尚ほ其上に社会学と結付けまして、或は史学の専門家或は中等教員になると云目的以外に、史学の基礎に依り社会学の基礎に依つて所謂リベラル、エヂユケーシヨンを受けたいと云ふ方面の人も這入り得る様な仕組に致して居ます。 (同誌大正二年八月発行第二二二号 三頁)

と述べている。ここで触れられている如く、史学及社会学科の卒業生には「歴史」科目の中等教員無試験検定を得る特典が復活した。この特典は明治四十三年まで与えられていたが、その年に史学科が改編されて国語漢文及歴史科と英語及歴史科との両科に分れたことにより、失われたものであった。

 ところでこれまでの史学科の推移はめまぐるしく、早稲田大学と改称してからだけでも、専門部歴史地理科(明治三十五年)、高等師範部歴史地理科(同三十六年)、大学部師範科歴史地理科(同四十年)、大学部文学科史学科(同四十一年)、高等師範部第一部国語漢文及歴史科、同英語及歴史科(同四十三年)と変転したことは、三八七頁に既述した通りである。この当時は史学を専攻しようとする学生数が少く、中等教員養成を主眼とせざるを得ない状態が続いたわけである。しかし大正二年に至り、高等師範部第一部より歴史関係の科目を削減して、科の名称も国語漢文科と英語科に改正した折に、史学専攻科を高等師範部より大学部に移したのである。

 学苑からは、草創期このかた、横井時冬(明一九法律学科)、内田銀蔵(明二二政学部)、津田左右吉(明二四邦語政治科)、朝河貫一(明二八文学部)、西村真次(明三八文学部)、会津八一(明三九大文)、村岡典嗣(明三九大文)など著名な歴史家を輩出しているのであるが、漸く大正三年に至って、大学部文学科に史学が定着したのであり、それが今日の文学部史学科に発展したのである。

 さて、大学部文学科文学専攻科に露西亜文学専攻が設置され、我が国大学における唯一の存在を誇ったのは、後述する如く大正八年のことであるが、それは突如として出現したものではなく、大正の初頭にまで、その前史をたどることができる。すなわち既に大正元年秋において、一年の短命に終ったとはいえ、旧来の文学科英文学科、すなわち英文学科第一部(第二部は三八八頁に記した旧高等師範部英語科)を、更に(甲)(乙)に二分した際、恐らく作家志望の学生の要望に応じて設けられたのではあるまいかと思惟される(乙)にあっては、「ドストイエフスキー研究」を片上伸相馬昌治が、「ゴルキー研究」を吉江喬松が担当する旨、学科配当表に記載されている。この(乙)に入学した学生の最後の学年であった大正三―四年には、英文学科第三学年に「露文学研究(ドストイエフスキー、ザ・ブラザース・カラマゾフ)」という学科が配当されて、片上が担当している。更に大正四―五年の英文学科の配当表には「露文学研究(ドストイエフスキー、レターズ・フロム・ゼ・アンダーグラウンド等)」があり、片上が大学派遣留学生としてロシアにおもむいたため、昇直隆(曙夢)の担任となっている。五―六年には「露文学研究」は「露文学」と科目名が改められるとともに、三年の随意科目に移されて、昇がこれを講じている。六―七年には「露文学」は英文学科から姿を消し、昇の担任は次に述べる第二外国語としての露西亜語に代った。そして大正八年に露西亜文学専攻が新設されたのである。

 これより先、大正五年九月に、大学部数科の第二外国語として、露西亜語が新設された。この当時、大学部各科の中には第二外国語として、独語、仏語、支那語、実用英語(明治四十―四十一年度までは実際英語)を配当しているものがあった。実用英語は学科配当表によると大正五年一学年生より廃止されているが、この代りにこの年から露西亜語が置かれ、担任講師として、昇の外に八杉貞利が嘱任されたのである。

 さて『早稲田学報』第二九一号(大正八年五月発行)には、大正八年四月に実施した文学科学科課程の大改正が、次のように報じられている。

大学部文学科に於いては、今新学期を機会として従来の学科課程に一大改革を行ひ、最も新しき試みを実行することとなれり。即ち文学科を哲学専攻科、文学専攻科、史学専攻科に三大別し、哲学科は東洋、西洋、社会各専攻科、文学科は国文学、支那文学、英文学、仏文学、独文学、露文学各専攻科、史学科は国史、東洋史、西洋史各専攻科に分ち、学生は各科何れかの専攻科を修むべき筈であるが、科目は、各科専攻の必修科目、各科共通の必修科目の外に、選択必修科目を設けて之を修めしむ。

而して之れが試験制度は未だ確定に至らずと雖も、語学を除きたる専攻共通両科目は毎学年末に試験を行ひ、而も総て研究報告に依りて採点する事とし、且つ其試験も、従来の如く必ずその学年に及第せざれば進級する能はずと云ふが如きことなく、共通及専攻科目の三分の二以上を受験したる者は成績の如何に拘はらず次学年の講義を聴くことを得ることとし、若し及第点に満つることを得ざりし科目ある場合には、科目数の如何を問はず、次学年中は勿論、二年、三年の後と雖も、在学中にさへ受験及第すれば卒業資格を与ふることとなるべし。

要するに今度の改革は講座本位を採る者にして、学生修学の如何によつて仮令修業年限は延びることあるも、従来の如く落第と云ふことは無くなる筈なり。 (四頁)

 この細分された各専攻科の学科配当表は第三十表の通りである。尤も大正八年においては一学年のみであり、二年生が生れる大正九年には大学令に基づく改正が行われたが、これについては次巻で述べることとし、以下は一学年のみの配当表であるが、八年の姿を敢えて掲げておく。なおこの改正に伴って各科に教務主任を置くことが決定され、哲学・文学・史学の各科教務主任に関与三郎、片上伸煙山専太郎がそれぞれ就任している。

第三十表 文学科第一学年課程表(大正八―九年度)

哲学専攻科

文学専攻科

史学専攻科(国史専攻東洋史専攻西洋史専攻)

(『早稲田大学学科配当表』大正九年度 五―六頁、八―一〇頁、一二頁)

 ここで注意すべきは、従来史学及社会学科として史学に従属していた社会学が独立して、哲学専攻科の社会哲学専攻となったことである。また文学専攻科の露西亜文学専攻については、既にその前史につき説述しておいたが、仏蘭西文学、独逸文学の各専攻の前史(すなわち英文学科内に設けられた仏文学・独文学の講義)については、当時他大学にも見られたところであるので、ここでは省略した。

四 理工科の拡充

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 明治四十一年に理工科新設の具体的計画が発表されたとき、その計画には製造化学科も含まれていたのであるが、それには多大の経費を要することが予想されたので、その設置は暫く見送られていた。しかし時代の必要は漸く急を告げるに至ったので、いよいよ応用化学科として開設する運びとなり、大正五年四月にこの予科生を募集している。

 この間の経緯をも含めて、理事田中唯一郎は次の如く所見を述べている。

是れは此頃の化学工業勃興に連れ、遽に時流を逐うて起つた企ではない。実は去る明治四十一年、現在の理工科四学科を創設する際、大隈総長・高田前学長の熱心なる主張に基いた企であつて、其の際既に文部省にも出願し、同時に学則の認可をも経て居る学科であるから、いつ何ん時開始するも差支のない迄の運びとなつて居つたのであるが、何分該学科は多額の経費を要することゆえ暫く開設を見合せ置いた迄の事である。……然るに這回欧洲戦乱の影響する所、官民挙げて化学研究の急を叫ぶに至り、其の余波の及ぶ所各方面より我が早稲田大学に対する応用化学科開設の勧誘ともなつた様な事情もある上に、既設の電気学・冶金学等に於ても化学を加ふるの必要も起り、……此四月予科を開始し明年九月より本科を設くる場合となり、近々講堂の建築にも着手するの運びに至つた。 (『早稲田学報』大正五年四月発行第二五四号 二頁)

 これに対する反響は甚だ大きく、翌年の『早稲田学報』(大正六年二月発行第二六四号)に、天野学長は、「応用化学科に就いて」と題する一文中に左の如く述べている。

昨年御大典記念事業の計画を立つるに当り、其資金募集の挙あり。又一方に於ては時勢の趣く所、最早応用化学設置の遷延の許さざるの事情もあるので、意を決して之を開設することにしたのである。ところが、此計画は我早稲田大学関係者は勿論、広く世間有力者の賛成を得、殊に森村男爵の如きは進んで之が建設費を一手に寄附せらるるといふ様な次第で、応用化学科開設の基礎は玆に確立し、一方応用化学科高等予科の入学志願者は募集人員の十倍以上に達するの盛況を呈したのは本大学の最も喜ぶ所であります。……然らば此応用化学科は如何なる主義・方針の下に経営せらるるかと申せば、其大綱は勿論我早稲田大学の教旨に基くことであるが、更に其内容に立入つて少しく御話をするならば、先づ一言以て之を掩へば、のびのある実用的化学工業の技術者又は学者を養成するといふことになる。詳しくいへば、教授の方針として、工学の基礎的学科の研究と基礎的技術の習得とに重きを置くのである。例へば応用化学の基礎は純正化学であるから、漫りに応用の多方面にのみ亘りて散漫なる智識を与ふるよりも、根本原理の研究を充分にして之を応用に結び附けるといふ様にし、又技術にしても、枚挙し難き各種の製造実験を半可通に習はしむるよりも、此等実験の根元となる所の分析術に堪能ならしむるが如きである。かくして従来在る所の他の学校の応用化学科とは多少行方が異なる所あると信ずるのである。 (二頁)

そして大正六年五月、初代の応用化学科主任として河合勇が就任した。

 この科の学科配当を示せば次の通りである。七三〇頁に説明するように、ある学年の学生が空白になる年があるため、大正八―九年度の学科配当表より第一学年と第三学年との学科配当を、大正七―八年度の学科配当表より第二学年のそれを示した。

第三十一表 応用化学科課程表(大正七―八年度および同八―九年度)

(『早稲田大学学科配当表』大正八年度 一七頁、大正九年度 二一―二二頁)

 またこの科の新設は、当時大学が実施していた御大典記念事業の一部に組み入れられ、創設費として金五万六千円という多額の金が森村市左衛門男爵の主宰する森村豊明会より出捐されたことは、前に引用した天野の意見の中にも述べられている。八三五―八三六頁に後述する新たに購入した運動場との間の土地に、この寄附金を中心として建設に着手した応用化学実験室「豊明館」は大正七年完成し、創立三十五周年式典の際、その開館式も併せて挙行することができた。森村の学苑に対する貢献に関しては、既に前編第十二章にも触れたが、大隈は右式典の演説の中で、次のように深甚な謝意を表明している。

ここに忘る可からざる人は渋沢男爵の友人で、この学校に応用化学の実験室を拵へて下さつた所の森村男爵である。これは私より一つ弟、私は一つ兄だ。これが又人格の優れた人である。もとは貧乏人であつたが、非常に努力して今日に至つた。今まで一回も役人などに御世辞を言つたことはない、役人から寄附を申込まれると直に刎付けてしまふ。……然るにこの学校や女子大学やその他教育・慈善の団体から書生が行くと直に喜んで遇はれる、相当な金を出す。渋沢男爵とは異つて身体は健康ではない。若しこの人が貪慾で非道な金儲けをしたら、最早遠くに死んで了つて居るのである。然るに善を好む為に長生をして居る。今日の状態ではまだ幾年も生きられると思ふ。これ亦実に壮なりと謂ふべし。かくの如き人は日本では僅に指を屈するほどであるが、亜米利加にはこんな人は頗る数が多い。しかし日本にも近き中には沢山出来るに相違ないと思ふ。……今より六年前に私と渋沢・森村両男爵と三人で旅行したことがあつた。三人の年齢を合すと二百十ばかりになつた〔二九二―二九三頁参照〕。上方から岡山辺まで旅行して、諸処で演説をした。それはそれは盛んなものであつた。両男爵共に実に多忙な人で、学校の為に演説などをする暇はないのだが必要の為には万障を差繰られたのである。その間に沢山富を得ることも出来るのにその富を棄てて私と一緒に行つて下さつたのである。これは実に羨ましいことで、人間の心はさう云ふ風にならなければならぬ。真に人の模範と称すべきである。 (『早稲田学報』大正七年十一月発行第二八五号 四頁)

 応用化学科の第一回卒業生山沢松男は、

高等予科に入ったときの応用化学志望者は八十六人だったが、本科へ入れたのは二十人だった。大正六年九月から本科の講義が始まったが、教室が完成する大正七年十月までは、採鉱科の教室と実験室を借りていた。親類の家に同居しているようなもので、肩身の狭い生活でした。 (『早稲田大学応用化学半世紀の回顧』 五頁)

と回想しているが、大正七年九月に完成した「森村豊明会の寄附で建てられた木骨煉瓦の建物」(二階建延三百三坪)にしても、そ「の南側は学園を東西に貫通している公共道路があり、このため絶えず人や荷馬車が通り騒音が講義の邪魔になった」(同書八頁)とは、その五年後に講師に迎えられた小栗捨蔵の語るところである。

 こうして理工科は、既設の機械工学科、電気工学科、採鉱学科、建築学科と合せて五つの分科を擁するに至り、この形のまま大正九年大学令により理工学部と改称することになる。なお、採鉱学科は大正六年二月の維持員会で改称が決議され、採鉱冶金学科となっていることと、創立当初機械学科、電気学科と命名された両学科が、明治末より機械工学科、電気工学科と呼ばれるようになったこととをつけ加えておく。

 理工科は、他の諸科と同一キャンパスに存在しながら、ある意味では別天地であった。そして理工科独自の、または科内の学科独自の、問題を抱えていた。例えば電気学科では明治四十五年頃に、また機械工学科では大正六年の大紛騒を前にして特異な内紛を経験したが、これについては第十二章で触れることにする。

五 独走する商科

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 理工科ほど別世界ではないにしても、商科もまた、学苑にあって、かなり独自の動きを見せたのが看取される。例えば、大正三―四年度に商科は学年制より学期制に改めている。すなわちこの年度の大学報告は、「大学部商科に於ては従来学年制度を執り来りたるが、大正四年度より各年級共之を学期制度に改め、一学年に前後二回の試験を執行することに改正せり」(「早稲田大学第卅二回報告自大正三年九月一日至同四年八月卅一日」『早稲田学報』大正四年十月発行第二四八号二頁)と記している。商科のみがなぜこのように改正したかの理由は判明しないが、商科のこのような独自の動きは大正六年にも見られる。すなわち大正六年四月の維持員会は、商科の卒業期を七月より四月に繰り上げて、大正七年より実施すると決議した。

 このような、大学内としては異例の措置とも言うべき学期制への変更や卒業繰上げが、どれだけ科長田中穂積の独創であったのか、それとも天野為之がその背後にあって自己の意向を反映させたのかは、にわかに断定し難いが、例えば明治三十七年大学部に商科が新設されてから後も、専門部に政治経済科と法律科とが設置されてあるにも拘らず、商科は設置されなかったことによっても窺われるように、商科には、やや大学内の異分子的動きを示すものがあったのは、否定できぬところである。専門部商科が設置されたのは、天野が学苑を去った後のことであった。

六 法学科の苦悩

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 商科が独自の動きを示し得た背後には、学生数が多く、学苑財政への寄与の程度が他科を圧倒していたという事実の存在を見逃せないが、これに反して、明治末から大正初年にかけ学生数の減少に悩まされたのは法科であった。大正二年の如きは、大学部法学科の卒業生は、九名という最低記録を示したのである。

 前述(三九一―三九二頁)の如く、明治四十三年の学則改正の結果、大学昇格以後四年間の英法独法兼修制度(昇格後最初の二年間は英法仏法兼修学生も存在したと思われる)の後を承けた独法科のみによる構成が改正されて、大正三年からは、独法科と英法科の卒業生が出ることになった。しかし、独法科は、大正三年にこそ十四名の卒業生を数えたが、大正四年三名、大正五年三名、大正六年五名、大正七年九名、大正八年五名、大正九年十一名という状態で、その維持に汲々とせざるを得ず、仏法の復活までには到底手がまわらないのであった。教務課長中村芳雄は、当時の実状を次のように回顧している。

私が秘かに心配したことをお話いたします。それは中村〔進午〕先生の科長時代でありましたが、法学科が英法科と独法科とに分れた後で、独法科が危機に瀕したといふ問題であります。何でもその時分、卒業生が三、四人しか出ない、学生が皆で二十二、三人といふやうなことになりました。丁度その時の学長は天野さんでありましたから大正五年頃と思ひます。その時独法科の存廃問題が起りまして、まあ御前会議といふやうな有様で、天野さんの前で中村先生、当時の理事田中〔唯一郎?〕さん、前田〔多蔵、幹事〕さんなど集りまして、どういふ風にしようかといふことになりましたが、結局独法科は今でこそ英法科と分立して居るが、明治三十五年に大学組織になつて以来法学科といふものは事実上独法科みたやうなもので古い歴史を持つて居るし、何とか入学の規則でも改正したらもつと盛んになるだらうから、兎に角経済問題だけは辛棒して矢張り継続してやることにしようといふことになりまして、私共も安堵いたしました。

(「法科回顧録」 『早稲田法学』昭和八年五月発行第一三巻「創立五十周年記念論集」 三二―三三頁)

七 過渡期の諸変化

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 大学令を見越しての高等予科の年限延長については、第二節に説述したが、それと直接、間接、関連して、種々の変化が惹起された。

 先ず、高等師範部第一部の国語漢文科と英語科には従来半ヵ年(四月より七月まで)の予科があったが、大正六年四月より、この予科の修業年限を延長して一年と定めた。従って従来九月より開始されていた第一部の本科には、大正六年九月に本科生となる学生は存在せず、大正七年四月に、前年四月に入学した予科生が本科生となっている。換言すれば、大正六年には一年生が存在せず、従って七年には二年生が存在しないという状態になる。

 次に、学生数の増加により赤字を改善する見込みが遂に立たなかった高等師範部第二部の数学科と理化学科とが、大正六年三月を以て廃止され、このとき在学していた学生が大正八年三月に卒業したとき、第二部最後の卒業生となっている。そして高等師範部の第一部という名称もこのとき消滅した。以後、高等師範部には、第二次大戦後誕生した教育学部に理学科が設けられるまで、理科系の学科が置かれることはなかった。

 さて高等師範部に一学年、学生の空白が生じたのと同じことが、高等予科にも起きている。すなわち大正六年四月に入学した予科生は、大正七年三月に一年の課程を終えて、七年四月から八年三月まで二年生となり、大学部には八年四月に入学した。予科一年半のときは大学部には毎年九月に入学しており、もし一年半であったなら大正七年九月に入学する学生が、二年に延長となったために八年四月に大学部に入ったわけであるから、大正七年九月から半年間大学部には一年の学生がいないことになったのである。

 こうして大学部と高等師範部本科の授業開始は九月から四月に変更された。ところで高等予科と高等師範部の予科は従来より四月に開始されていたから、この時から専門部のみが九月の授業開始で、翌年七月が授業終了となった。そこで専門部の学年開始も、大正八年四月より四月に改正されて、これで学苑全部が四月授業開始、翌年三月終了となったわけである。大学令施行に伴う改正の実施は、早稲田大学の場合、大正九年四月からであるが、その一年前に学年暦は四月開始に変更されていたのである。

 高等予科の年限延長は、その決定に至る手続の上で学内に波風を立たせたものの、当局の決断は、大正八年に、学苑大学部卒業生に対して、高等試験の予備試験免除の特典をもたらすことになった。すなわち大正七年一月に発布された奏任文官、外交官・領事官、司法官、それぞれへの試験を統一した「高等試験令」の第八条には、

高等学校大学予科又ハ文部大臣ニ於テ之ト同等以上ト認ムル学校ヲ卒業シタル者ハ予備試験ヲ免ス

予備試験ニ合格シタル者ハ爾後予備試験ヲ免ス (『法令全書』大正七年勅令)

と定められたが、これを受けた「高等試験令第七条及第八条ニ関スル件」(大正七年二月文部省令第三号)の第二条には、「左ノ学校ハ高等試験令第八条ニ依リ高等学校大学予科ト同等以上ト認ム」とあって、その第四号に、

中学校卒業以上ノ学力ヲ以テ入学程度トスル修業年限二年以上ノ予科ヲ有スル私立専門学校本科ニシテ文部大臣ノ認定ヲ受ケタルモノ (同書大正七年省令)

とあり、この認定が「文部省告示第百九十六号」を以て左の如く学苑に対して告示されたのは、まさに二年延長の賜にほかならなかった。

私立 早稲田大学

右ハ高等試験令第八条ニ関シ大正七年文部省令第三号第二条第四号ニ依リ高等学校大学予科ト同等以上ト認定ス

但シ此ノ認定ハ予科二年ノ課程ヲ履修シテ本科ヲ卒業シタル者ニ限リ其ノ効力ヲ有ス

大正八年七月二十三日 文部大臣 中橋徳五郎

(同書大正八年告示)

 この時期に見られた変化で、もう一つ記述を逸することのできないのは、理工科以外の予科の入学志望者にも大正七年から入学試験を実施するようになったことである。既述(五九頁、三〇九―三一〇頁参照)の如く、理工科を除く各科の予科に対する中学卒業者の無試験入学は、学苑の一つの特色であり、大隈総長もしばしばそれを誇りとして演説したのであったが、中学卒業生の増加に伴う学力不平均は、入学志望者数の累増と相俟って、遂にこの年三月の『早稲田大学規則便覧』に、次のような改正を発表するの余儀なきに至らしめたのであった。

早稲田大学は、従来中学卒業生の特権を重んじ、理工科入学志望者を除くの外、各予科に無試験入学を許可し来れり。理工科入学志望者と雖も、中学卒業成績の優良なる者には、試験を要せざることとしたり。然るに多年の経験に徴するに、各予科より本科に進まんとする時、原級に止る者比較的多数に上るは、遺憾とする所なり。この主因は、中学卒業生の学力平均せざるに在り。故に本大学は、今回各予科入学志望者に対して、学力考査を行ひ上述の欠陥を補はんとす。世の所謂入学試験は、往往にして拒絶試験たる観あれども、本大学は此の如き精神を以てするに非ずして、一層能率を高めんとするに外ならず。従つて考査は、出来得るだけ簡単にして且公平ならんことを期し、寛大なる従来の精神主義に則りて、新制度を実施せんとす。

(序 一―二頁)

 大紛騒後半年、入学志望者の減少を憂うることなく、入学試験実施に踏み切ったところに、学苑新当局の意気込みが読み取れるのである。

八 紛擾期の学科配当

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 この章を終えるに当り、大正六―七年度、すなわち大正六年九月より実施予定の学科配当表を掲げておこう。この年度を選んだのは、大正六年が「早稲田騒動」の年であって、その渦中にあった教師が、この時どの科でどのような科目を担当する予定であったかが知り得られるからである。なお、配当表に添付した教員名簿は、「早稲田大学第卅四回報告(自大正五年九月 一日至同六年八月卅一日)」(『早稲田学報』大正六年十月発行第二七二号)に掲載された、六年八月末日現在の名簿によった。またこの年度の学科配当表のうち高等師範部が二、三学年分のみである理由は、七二九頁に既述したところである。

第三十二表 大正六―七年度教員および課程表

〈教授〉

〈講師〉

〈助教授〉

大学部政治経済学科(第二学年及第三学年ニ於テハ×印ヲ必修課目トシ、其他ノ課目中ヨリ各学期毎ニ六課目選択必修ノコト。但シ必修課目中セミナリーハ政治学・国際法ト経済・財政トノ二部トシ、一部選択ノコト。)

大学部法学科(法学科中○印ハ独法科、×印ハ英法科ニ之ヲ課シ、其他ハ共通トス。)

大学部文学科哲学科

大学部文学科英文学科

大学部文学科史学及社会学科

大学部商科

大学部理工科機械工学科

大学部理工科電気工学科

大学部理工科採鉱冶金学科

大学部理工科建築学科

大学部理工科応用化学科

専門部政治経済科(第二学年及第三学年ニ於テハ×印ヲ必修課目トシ、其他ノ課目中ヨリ各学期毎ニ六科目選択必修ノコト。)

専門部法律科

高等師範部第一部国語漢文科

高等師範部第一部英語科

高等師範部第二部数学科

高等師範部第二部理化学科

特殊研究科

実用英語科

独語科(各一学年Aハ大政、大文、Bハ大商、専法各三学年Aハ大政、大商及専法、Bハ大文)

仏語科(各三学年Aハ大政、大商、Bハ大文)

露語科

支那語科

高等予科(第一学年第二学期)(高等予科第四部中、○印ハ商業学校卒業生ニハ之ヲ省キ、×印ハ同卒業生ニ限リ之ヲ課ス。)

(『早稲田学報』第二七二号 四―六頁、『早稲田大学学科配当表』大正七年度 一―三三頁)