大正三年四月十三日――その場に居合わせた幾百或いは幾十の学生達も今は数少い遺老となったであろうが、彼らはこの日の戸塚球場(安部球場)に生じた情景を永久に忘れることはできまい。逝く春に多い薄曇りの空に日が蒸されて、空気は酒のように濃い午後で、早明野球戦に向けての練習の日だった。早慶戦が中止され、それぞれ年一回の早または慶対一高戦が僅かに満都好球家の情熱を燃えたたせるだけであったから、物足りない思いのところへ、明治大学が野球部を新設して約四年、漸く力を整備してきて、来たるべき早明戦は早くから好試合が期待されていたので、正午には早くも球場は見物の学生で埋まっていた。ノックを始めたところへ、右翼一塁側の入口から、「号外! 号外!」と叫びながら四、五人の学生が黒礫を投げるように飛び込んで来て、更に叫んだ。「早稲田の皆さん! いよいよ大隈さんに大命が降下したぞ。大隈内閣ができるんだ。大隈内閣! 大隈内閣!」
一塁側の応援席から、三三五五また五五三三、飛蝗のような格好で飛び降りて、手に手に号外を買って席へ戻ると、待ち構えたように、前後左右に隣り合わせて陣取った学生の顔が、広げられた号外の上に寄ってくる。「大隈総長万歳!」の喚声が、期せずしてあちこちから上った。「しかし、この際出ちゃいかんな。辞退しないと大隈伯の晩節に傷がつく。」
一、二日前から大隈内閣の噂がちらちら新聞に見えたが、まさかそれが実現すると思った者は一人もないと断言できるほど、大隈は政権から遠ざかったばかりか、憲政本党の総理も辞して政局から絶縁していたのだ。それに明治三十一年の隈板内閣は、最初の政党内閣として前景気こそよかったが、板垣との連立であったため、旧改進党系と旧自由党系がことごとに内部抗争を起し、それに野笹の根の如く張りめぐらした官僚網の怠業、貴族院という姑の嫁いびり的邪魔、それに桂陸相が長閥の隠密となって大臣席からゆさぶりを掛けるので、一回の議会召集もせず、まことに無様な最後を遂げた。爾来、大隈は要するに口舌の雄に過ぎず、実際には大したことのできぬ空法螺吹きだとの藩閥が流した評価が、一世の定評のようになっていた。あの時に比べて、藩閥、貴族院、官僚網こぞっての反大隈感情が緩和した点は少しもない。その上に大隈は年取って旧来の雄心も漸く銷磨しているかもしれぬ。それ故この際印綬を受けたら、失敗の可能性はあっても、成功の見込みは少い。純真の学生達は、孫が祖父を思うように、親身になってその点を心配したのだ。
当時はテレビもラジオもないので、その結果は翌日の新聞まで待たなくては分らなかったが、大隈は全学生の懸念にも拘らず、遂に決意して大命を拝受したと報ぜられた。世は、数え七十七歳の老宰相がこの国歩の艱難を双肩に担うて立つとして、その意気を壮とし、かくの如き高齢を以て内閣を組織した例は世界に前例なしと言って、その気魄を讃嘆した。「勅なればいとも畏し」という古歌を引いて心事の複雑さを譬えた者もあるが、全国民がこぞって歓呼して迎えているし、殊に校友の中で政治家となり、また政界の事情に詳しい大先輩達が、みんな口を揃えて心からの祝意を表しているし、更に卒業生全体が活気づいているので、学生も昨日の懸念を一擲し、「やはり出てよかったのか」と納得した。殊に全国津々浦々に至るまで、国民のあらゆる階層がこれほど大きな関心を抱いた政変は空前なので、男子一代の面目として、たとえ成功は覚束なしと分っていても、出廬せぬわけにはいかなかったろうと思い直した点もある。別な比喩を用いるなら、藩閥の敷く惑星の軌道を外れた彗星の出現で、いわば政界の異常現象が産み出した九天直下的の出来事なのである。これほど各界の意想外の内閣が忽然として出現した例はない。まさに不可能が可能に化したのだ。されば「電信柱に花が咲く」とか、「待てば海路の日和」とか、「千載一遇、優曇華の花」とか、あらゆる諺を列ねて、冷かし立てたのも、これまたその盛んなる国民的好意が少しねじれた形で表現せられたものに他ならなかった。
海外の反響もこの上なく好調で、さすがに日本を世界に代表する偉人の組閣にふさわしかった。明治天皇崩御の後、全世界の新聞に現れた哀悼記事と追讃批評を集めて、膨大なるThe Late Emperor of Japan as a World Monarch(同じく望月小太郎による纂訳『世界に於ける明治天皇』とともに大正二年刊)という書物が出ている。これに倣って、大隈内閣へのこの時の世評待望を洩れなく集めたら、それに雁行する大書冊となったろう。ロンドン『タイムズ』はWorld institutionと言われ、同社史中最も権威ある時代であったが、夙に国民的に見て伊藤博文より大隈を重しとし、一九一〇年(明治四十三)七月十九日に有名な「日本特集号」を編んだ時も序章を大隈に依頼している。故にその組閣に対し、「紛糾して乱麻の如き日本の現状を、伯の巨腕は、沈静せしめるに十分なる確信を持つ」と言った。当時世界に広く読まれ、例えばトルストイも大隈も愛読者であった、アメリカの有名な週刊誌『リテラリ・ダイジェスト』(後年『タイム』に合併)がニューヨーク『サン』を紹介転載して、五月二日号でJeffersonian Premierと述べたのが目立つ。また『アウトルック』は、大隈がこの雑誌を真似て『大観』と題する機関誌を出したほどの有力誌だが、同誌も五月二日号で、「この老政治家は七十七歳で青年の知的活力とエネルギーとを保持している」とし、「気質、天性、教育では東洋人であるが、現状の認識、日本が自己発展に際してなさねばならぬことについての曇りない明察、および政府の政策決定に当り人民の権威を増大する運動に対する熱烈な支持の点では、全くの現代人である」と評して、大隈に期待を掛けた。隣邦の袁世凱が、「東亜大局の中心人物だけに、日華の親善これより大いに躍進すべく、その老齢を冒しての組閣は感激して言うところを知らぬ」と洩らしたのは、なにしろ一代の梟雄の言だから意味深長である。
世には、本来その歴史の一齣の枠外にありながら、本来の組成分子よりも多大の影響をその歴史の進展に及ぼす出来事が、往々にしてある。大隈内閣の出現も、早稲田大学史プロパーの資材ではない。しかし大隈が総長であってみれば、大学は勿論、基礎的影響を受けずには措かぬ。すなわち、「早稲田騒動」という日本の学苑史に前後比類なき大竜巻が巻き起ったのは、大隈内閣と離れては記述し難い。また、その組閣中および直後に起きた世界大戦の勃発、デモクラシーの世界風靡、ロシア大革命の意表外の成功、予想もできなかった労農政府の出現――これらももとより大学史の組成分子以外であるけれども、海外の新しい急進思潮を受け入れるに最も鋭敏だとの定評あった早稲田の教授・学生は、最も早く、最も多くそれに触知し、呼応し、自家身上のこととして行動せずにはいられなかった。大正の前半は、早稲田大学をなしている骨格以外のこれら諸異変が、飈風怒濤の如く襲来して、我が学苑をゆさぶった歴史と言える。
明治末年から大正初期にかけて、学生は全般におびただしく現実の政治に興味を寄せ、俗に言えば「政治づいて」いた。政治と言えば、何か悪い、うしろめたいことのように思って、近づくのさえ嫌ったのは自由民権時代における官僚の陰謀で、それが後々まで尾を曳き、東京帝国大学でさえ、二十世紀を経過する数年後まで政治学科の整備を見ず、他の官学はもとよりその科さえ設けない時、早稲田大学が建学のそもそもからそのタブーを破って政治科を眼目として発達してきたことは、従来繰り返して述べてきた通りだが、「明治・大正の政変」と特称されるほど、この元号の交替期は政治のupheavalsが続いて、殊に早稲田はその渦巻きの中心の観をなしたから、政・法の二科は言うに及ばず、文科・商科まで、共同の学生控所に集まり時局の煽りを受けたかの如くに、盛んに政治を議題として高談放論する風が盛んであった。
それは政局の敏感なる反映で、明治天皇の崩御に前後した西園寺内閣は、言論を尊重し文化を愛し、軍備拡張を否決した平和内閣として、学生もこれを支援する空気が強かった。しかるに陸軍大臣上原勇作が、二箇師団増設案が内閣で容れられないのに反発し、内閣に留まる能わずとして、首相を経由せず単独で天皇に辞表を出し、内閣が潰れたのを見ると、何しろ議会史上前例なきことだから、統帥権の独立とか、帷幄上奏とかは、使いようによっては、そんなに恐ろしい時限爆弾になるのかと、初めて実物教育を受けた。桂、西園寺の内閣盥廻しの時代なら、すぐ桂が後継者となるべきだが、今や彼は皇上の諮問・輔導の役たる内大臣の重職にあって、いわば雲の上に祭り上げられているのだから、再び政界に出るべき機会はない。
しかるにこの期に及んでも政局に満々たる野心を抑えきれぬ桂は、総理大臣の職に大いに食指を動かして措かぬ。新聞は、衣冠束帯の桂が雲の上から久米の仙人のように辷り落ちそうな時事漫画を以てこれを諷し、政界以外、民間の反抗が燻り始めたのは、これが宮中府中の別を紊るの基となるからである。しかも桂は、自らの多智多策と背後の長閥の威力を頼んで、実になすべからざることながら、内府を出でて三度目の総理大臣に返り咲いたのだから、停滞した油に火を投げ込んだ形となって、全国民的反抗を結集した憲政擁護運動が勃然として炎を吹き上げた。
これは自由民権運動以来絶えて見ざるところで、しかも一度、日露戦争講和不満で日比谷原頭に鉄火碧血の洗礼を受けて間がないから、まことに正々堂々、一糸乱れぬデモンストレーションを展開した。その陣頭の両柱が犬養毅と尾崎行雄。改進党以来、大隈の関羽、張飛、早稲田伯の両翼として天下誰知らぬ者なき老練の戦闘的政治家である。しかも二人とも夙に東京専門学校の評議員として校友名簿の巻頭に名を列ねている人、その雄風を仰いでは、どうして教室などに留まっておられよう。有志学生は大挙してその示威運動に加わった。これには、独り早稲田に限らず、恐らく大なり小なり多数の学校の学生が参加したと思われるが、他の私立大学はみな法律学校である中に、早稲田のみが政治学校を地肌としたので、その主流をなしたこと、言うまでもない。議政壇上においては、尾崎の攻撃演説最も痛烈を極め、今日も不朽の名文句となっている、「玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて」自らを防備するの不遜を敢えてする者と言って、殊更に指さして迫ると、さすがに剛腹の桂首相も顔色急に蒼ざめて、ブルブルと慄え出した。これが引導となって、第三次桂内閣は六十二日という帝国議会が開始して以来の最短命を以て倒潰した。けだし、第一次大隈内閣の際、尾崎の共和演説を種子にして、最も多く内閣をゆさぶり、苦しめ、内から潰した張本は、時の陸軍大臣桂太郎であったから、十五年目にして尾崎は江戸の仇を長崎で討ったのに譬えられた。何れにしても、これで最も溜飲を下げたのは、早稲田の学生だったのである。
しかしその後に、単純な早稲田学生の頭では到底理解し難いことが起った。桂が政党の創設を明言したのである。これは、同じ長州の大先輩伊藤博文が政友会を結成した先例があり、必ずしも瓢簞から駒が出たような驚異には値しない。ただ、その糾合した党員が問題である。桂としては、伊藤の遺産たる政友会を把握できれば系統的には最も自然で、自分も内心それを望んだ痕がある。だがそこは、西園寺公望が伊藤の後を固めて信望を集めているから、手をつける余地がない。とすると野党として第二党の立憲国民党に呼び掛ける以外に手はなく、桂は実際その挙に出た。
しかしここは、いわば大隈の旧幕下で固められており、早稲田の出城の観がある。犬養をはじめ、並いる党員はみな一騎当千の政界の強豪の寄合いで、一人一人の技倆から言えば、国民党ほどすぐ大臣の務まる有力党員の揃った政党はない。しかし万年野党でいつまで経っても日の目を見ぬ。たまたま無二の強敵桂を倒したので意気大いに揚り、この勢いを導いたのは、万年与党の政友会よりも、万年野党の国民党である。ここらで西園寺に匹敵する適当の党首さえみつけて冠冕とすれば、政権の来る日も遠くないと考え始めた。そこへ桂の新党創立の計画が発表せられたので、大いなる衝撃を受けずにはおられなかった。
帝国ホテルに新政党創立事務所を設け、気勢頓に揚れるが如し。国民党は政友会に次ぐ大政党にして、西園寺が政友会総裁として内閣を組織し、国民党も之に劣らざる首領を戴くべきを考ふる空気の漂ひ、順序として大隈伯が統率すべき筈ながら、山県等と思はしからず、内閣組織の大命の降るべしと考へられず、幸に桂公の意が動き、依りて政権に近づかんとする勢の頗る揚れるが、実は外観ほどに勢が熟せず、暗闘の絶えずして、軋轢が烈しく、漸く表面に現はる。
(三宅雪嶺『同時代史』第四巻 四一五―四一六頁)
政権とからみ合せての大隈の名は久しく現れなかったのに、珍しくここに見え、更に桂の食指動く兆あるを指摘するところ、この時局を語れるものとしては、見逃すべからざる文献である。
しかし大隈と桂の提携などということは、瓜の蔓に茄子をならすにも等しい奇蹟である。第一次大隈内閣の獅子身中の虫となってあらゆる機会にその不利を謀った桂に対する深讐が、そう一朝一夕に忘れ去られようか。
上記の文による軋轢とは、改革派と犬養などの非改革派との対立で、遂に反犬養派は脱党したが、老巧河野広中は、寧ろこの際いさぎよく国民党を解散し、その中の同志は相率いて清新なる桂の新党に加わっては如何と提案し、桂と会合してその所存を叩くと、彼また赤心を開いて抱負を語ったので、ここに彼らの参加が決定した。すなわち、夙に桂側近としてそのモスクワ行にまで同行した後藤新平・若槻礼次郎はもとより、関係深き加藤高明の三官僚が三尊として桂新政党結成に参画し、これまで野党として百戦練磨の大石正巳・河野広中・片岡直温・島田三郎・箕浦勝人・武富時敏が加わったのだから、彼らがそれぞれに付き従う陣笠を傘下に納めれば、にわかに居然たる一有力政党出現の観を呈した。
しかし時なるかな、運なるかな、桂が不起の宿痾を発し、それと見ると、新党準備に最も重きをなした後藤新平が逸速く脱党した。政界隠士なる匿名の批評家が「後藤はああ見えても元が医者じゃ。どんな藪だったにしろ、桂の病は不治の悪疾として早く見切りをつけてこの党のもつ悪評から脱け出ることを計ったのは機敏じゃ」とほめた。しかし、出でしが賢なるか、残りしが愚なるかは、にわかに判断し難い。後藤が晩年あれほど右往左往して機を狙っても、遂に宿望の総理大臣になる望みを達し得なかったのは、政党に席を持たなかったからである。藩閥でない者が首相となるには政党所属が必須の条件であることが見抜けず、脱党の軽挙に出たとは、いわゆる猿も木から落ちるものか。彼のライヴァル加藤高明は、あれほど山県その他の元老から蚰蜒のように嫌われながら、遂に東京大学出身者として最初の首相たる栄冠をかち得、また後藤の後輩視した若槻は、憲政会員、民政党員たりしため、二度も首相の印綬を帯びるに至る。
立憲同志会は桂の急逝後に成ったが、しかし桂が宮中府中の別を紊したことに対する国民の反感は広く強く残っており、この新党は蔑視された。星亨も悪評で「押し通る」と言われたが、それ以上の侮蔑で、恐らく議会史上これほど国民の悪評を買った政党はない。ある有名な料亭の女将は、「見損った。あの人達の俠骨を買って、これまで会合の場所を申し込まれると、無理をしてでも便宜を計ったが、もう何と言って来ようと寄せつけない」という如き談話を、公然と新聞に発表したものである。
彼らはみな早稲田と関係があるか、そうでなくても親近な政治家だったので、学生達は、或いは彼らを大隈への裏切者として憎み、大隈は何故、引き留めるなり、一応自分の傘下に糾合するなり、適当の処置を講じなかったのか、何れにしても敵陣営の桂に渡す手はあるまいと、地団太を踏んで痛憤する思いだった。これに対して、大隈はそもそも何と感じたか。野に虎嘯すること久しいといえども、政界にことあるごとに歯に衣着せず大局から放論する大隈が、これに対して何ら有力な意見を出さないのを、学生達は不思議としたが、ある教授達の言動は更に解し難かった。例えば内ヶ崎作三郎は、文科学生にカーライルの『衣裳哲学』(SarterResartus)を講ずる際、談、新党に及んで言った。「いや、桂公の心事を思うと、大いに諒とし、同感すべき点がある。今後の政治は政党の力の上に立脚しなければ運営できないと痛切に感じたのだ。今まで彼は現役の大将であった。軍人は政治に関わらずの軍人勅諭からいって、せっかくやりたくても、超え難い線にぶつかった。今度はサーベルを捨てて丸腰になった。あの人のことだから、元帥が目の前にぶら下っている。それを進んで辞して、政界の刷新に乗り出したのだ。いたずらに慢罵を逞しゅうしないで、成行きを見つめていく寛容があるべきだ」と。なるほど、そんな観方もあるか、それが大学生としてこの新党に対すべき態度なのかと、異様に思ったものである。国民党を半分ちぎられて持っていかれた形の犬養の孤影悄然たる姿に、学生の全同情は集まった。
政界のことは大学史と直接関係はないが、この時期に限り、その推移を削除するわけに行かぬ。桂内閣に引退を勧告した山本権兵衛が、政友会の援護を得て次の内閣を組織し、久しぶりの薩摩隼人の勇猛果断ぶりには、なかなかの人気が湧いた。思うにこの内閣ほど実行力に富んだのは前後に比なく、それは軍部大臣が現役に限るとされた鉄壁の制度を砕いて予備役にまで拡大したのでも分り、その他文官任用令を改正して特別任用の範囲を拡大し、行・財政の整理、税制の改革など、短期間に相当の実績を残した。
惜しいことにシーメンス事件という疑獄が突発した。官僚特有の知らぬ存ぜぬの、木で鼻を括ったような応対に、詰問の口火を切った老巧島田三郎も、なにしろ遠いドイツでの出来事なので、新聞報道以外の材料のないのに焦燥の思いをしていた時、この材料を提供したのが早稲田の講師室だったのだから面白い。安部磯雄が、この度の罪魁の名はリヒテルであることを島田に告げ、なおこの質問材料は幾らでもあるから、攻撃の鉾をゆるめずして追究せよと力づけたのが、突破口となって、さしも多年に亘る伏魔殿の海軍収賄が一掃せられるに至ったのである。
学生間では、海外にある社会主義の同志がひそかに安部教授に連絡をとったものと噂され、そういう点もあったに違いないが、実際は学苑における同僚本野英吉郎(教授)の提供が主だった。彼はロシア大使本野一郎の弟で、久しく海外にあってイギリス人気質を身に着け、帰来、社主一郎の『読売新聞』の社長に就任していたので、国際情報に接する便宜があり、殊に、事件発覚後に日本を逃亡したロイターのプーレーとは直接の知り合いでもあったのだ。今のような教授の個別の研究室がなかった当時、早稲田の教員の控え所は各科合同で、和気靄々のうちに談笑するのが例だったから、安部から島田に提供せられた材料も元は本野から出たという秘話を、安部自ら語っている。この正直一偏の君子教授に噓などのあり得よう筈がない(木村毅『忘れられた明治史』第四巻一七二―一七三頁参照)。
しかし、山本内閣は頑強にして容易に退陣しない。巷には、店舗で飼う鸚鵡にまで教え込んで「ゴンベエ、シューワイ」と叫ばせたほどの反感が、遂にまたまた憲政擁護運動を捲き起し、またまた早稲田の学生が主力となったことは、前回に同じである。
剛腹慓悍の山本内閣を倒した功は、最も多く桂の遺産立憲同志会に帰せらるべきものである。犬養、尾崎が憲政の神と祭り上げられたことは前回に変らなかったが、犬養は山本と個人的関係があって、「議場に虎の如く黙喁す」と新聞に評せられた如く、陣頭には立たず、また尾崎は持ち前の華麗痛烈の弁を展開したが、前回の桂攻撃には及ばなかった。そこで、実質ある材料を並べて命を制した第一人者は同志会の島田三郎であり、その他同志会員は、首領桂のための仇討ちとして蔭になり日なたになり、絶えずその力を結集発揮した。すなわち立憲同志会は、この実績によって存在意義を十分に示し、天下の悪評の幾分を拭うた。
その後の政界の紛乱は、これまで議会史の前後に例がない。山本内閣の後継は西園寺が内命に接したが、受諾せずして違勅の汚名を永久に受け、筆頭元老の山県は、藩閥外ながら秘蔵の子飼いの清浦奎吾を擁立したが、政党の力を漸く認識してきた世間は、その政党に拠らざるを以て非立憲とし、桂、山本両内閣糾弾ほどではなかったが、多少なりとも反対のデモンストレーションの動きがあった。しかし組閣人名まで発表せられたのに、海軍が大臣を送るのを拒否したため敢えなく挫折したので、世はこれを専ら鰻香内閣と称して嘲り、また壇の浦内閣の称もあった。正式に大命が降り、大臣まで決まったのに、内閣の成立しなかった例は、のちに今度は陸軍がボイコットして成立しなかった宇垣一成の場合と、我が議会史上二つだけである。
官僚は権力を持続するに後継者を捜すこと巧黠で、旧藩閥は勢威を護るに次代の人材を養うこと抜け目がなかったが、それで持ちこたえた政治機構は今や末世に及び、ここですべての持ち駒がなくなったので、遂に敵の軍門に復交の声を掛ける調子で、大隈の意嚮の打診にかかったのである。
早稲田の学生には、明治十四年のクーデター以来、離合の起伏はありながら、大体において反目して、深讐綿々の形にあった長州元老のうち、病床の井上馨が先ず「この際、大隈にやらせてみたら」と思いついたというのが、不思議である。元老松方正義があっさりそれに賛成したというのも、大隈財政の否定者たる役割を果した歴史からいうと、素直にうなづけぬ。しかし井上は若き日築地の梁山泊で大隈の弟分だった旧縁があり、喧嘩もし、絶交までした仲ながら、不思議に腹が合って、昔なつかしさから焼木杭に火のつきやすい親しさがあり、松方は大蔵において大隈の後輩であり、大命を拝しても大隈を外務に招き、すべてに彼を頼りにして組閣したため、連立でもないのに松隈内閣の称があり、それに、薩州人は長州人と違い、旧怨を忘れることにきわめて淡泊である。元老大山巌に至っては元が武弁、大隈への反感など持ったことなく、今度も元老会議の席で山県に重い口を開いて「おハンが何とか心を決めなさらねばならぬ場合でごわすぞ」と、彼が輿論を無視して評判の悪い清浦を私縁によって推薦して招いたこの混乱の責任に、ダメを押した。山県の大隈嫌いは天下公認のもの、椿山荘から見下ろして「ワシがこの世で一番嫌いなのは、社会主義と早稲田大学じゃ」と口にしていたとは、広く世間に聞えている。それがこの土壇場になって、ウンと一言、大隈推薦に同意したというのだから、学生の頭にはいよいよ以て分らない。
しかしこの際山県には、大隈以上の憎くてたまらないものが出現していた。政友会である。そもそも政友会は伊藤博文の創立したもので、代々、万年与党というのは、つまり長州の庇護のもとに大をなしたということに外ならない。それを何ぞや、護憲運動などという不逞の徒の集合に乗って、さきには長州閥のホープ桂を倒して憤死せしめ、今はその贔屓筋として自分の目に入れても痛くない清浦に、鰻香内閣の恥辱を与える。骨を膾とし、肉を鹹として食っても飽き足りない。ぜひとも一大痛棒を下して、万年第一党の勢力にひびを入れねばならぬ。天下これをよくするもの国民に人気を博する大隈あるのみ! それで山県もこの時ばかりは存外あっさり大隈推薦に同意したと聞くと、なるほど、そんなわけだったかと、これもどうやら呑み込めぬことはなかった。
尤もここに全く不可解なことがある。それは大隈が、こともあろうに、桂の遺産の立憲同志会の残党を頼みとして、この組閣を引き受けたことである。彼桂は何者ぞ。第一次大隈内閣に陸相でありながら内部からゆすぶってこれを崩壊に導いた張本人であったことは十五年も前の話なので、旧怨にこだわらぬ性分だから、或いは大隈は、忘れ切ってはいなくても、くよくよ意に介していなかったかもしれぬ。しかし大隈が終生をかけて戦ってきた長州藩閥の後継者、サーベル出の政治家の、山県に次ぐ巨頭、そして直接関係はないながら、何となく大隈の光被範囲内のものと思われている国民党の中から半ばを引きちぎって、いわば大隈の旧門下をさらっていった桂の遺産を引き受けて、政界に返り咲きの基盤にしようなどということが、どうして学生の思議で理解できるか。
ただし、ここにそれを解く一つの鍵があった。長州軍閥のホープとして早くから噂の高かった田中義一である。彼は、日露作戦の基礎を作ったと言われる川上操六の眼鏡にかなってロシア公使館付武官に選ばれた。川上は皇族以外から出た最初の参謀総長。まことに仰いで高しの感ありと言われた陸軍きっての英才で、早くから藩閥観念を超脱し、薩摩出ながら、他藩の出身者でも参謀に適任だと見れば無差別に収容したので、参謀本部は実に将来の日本を担う小英雄の寄合い場と見られた。
日清戦争は、一度だけ清国を叩いておく必要があったけれども、向うがこちらの力を認識したら、すぐ日清手を組んでヨーロッパに備える永遠の計にかからねばと考え、三国干渉の怨敵、殊にロシアとの一戦は避けられないとして、深讐綿々、その策を練った。それには清国学生を大量に吸収して教育を施す必要があるというのが川上の持論で、大隈が早く天下に率先し早稲田大学の門戸を清国留学生に開放したのは、時期的にはこうした川上の呼掛けが行われた頃であった。川上はまた円転滑脱、まことに調和の策に秀で、政府が一時外務への転出を希望したほど外国事情にも精通していた。創設以来、犬猿もただならず反目した海・陸軍も、彼が乗り出すと角立たず、早くから牒報を重んじて、昔いうところの軍事探偵の密命をふくめ、海軍から八代六郎(のちに第二次大隈内閣の海軍大臣となり、シーメンス事件の後を承けて海軍の宿弊を一掃した)、広瀬武夫、そして陸軍からは田中義一が簡抜されて、ロシア公使館付武官となったのはみな川上の差し金だったと、諸伝記に見える。
果然、田中が滞露中の修業収穫は目覚しく、帰来、参謀本部に入って、対露作戦の計画に没頭し、軍部諸英材が脳漿を絞っての諸建策中、田中の提案がロシアの実情の精密な知識の上に立てられているので最も光彩を放ち、戦地に実施して効があったのは、佐藤鋼次郎の『旅順戦実話』に記す如くである。従って、田中の戦後の名声は隆々として、長州軍閥の将来を担う者はこの人と、敵味方から太鼓判を押されていた。将官となるには階梯として実兵を指揮する必要があり、彼は参謀本部を出でて、麻布の歩兵第三連隊長に補せられた。ここは軍人出世の関門だったので、田中の前途は、光明赫然、四海洞開、繊塵の雲影もなく見えていた矢先に、軍始まって以来の難問題が彼の面前に降って湧いた。すなわち、社会主義者が入隊してきたのだ。それがこともあろうに早稲田大学の卒業生である。名は白柳武司(秀湖)で、明治四十年十二月のこと。
軍の大御所であり、殊に田中にとっては直統の祖父とも言うべき長州の大先輩山県有朋が日頃から最も嫌っていたと噂される社会主義と早稲田大学とを二つとも背負って、彼白柳新兵は入隊してきたのである。その頃官僚と軍が社会主義をそんなに怖れ、或いは毛嫌いしたのは、月夜路上に横たわる老松の影を大蛇と見誤ったようで、今から考えると滑稽をさえ禁じ得ないが、田中としては、この処置を一歩誤ったら出世の躓きとなる。中隊長に特にその監視と取扱いを注意して報告を求めると、班長も同班兵も毛虫にさわるように白柳との接触を避け、白柳もまた昻然として孤立しているのが、「俺は社会主義者だぞ!」と自ら高く標置しているように見えるとのことである。これは中隊長などにまかせておけないと思った田中は、前例を破って白柳新兵を自室に呼んだ(階級制度の厳しい軍隊では、直属上官の中隊長・大隊長を素通りにして、連隊長が最下級の二等卒をじかに呼びつけるなどということがあり得ないのは、旧軍隊制度を心得ている者には容易に分る)。
連隊長室に入ってきた白柳は、六尺棒を呑んだようにしゃちこばって、直立不動の姿勢をとったまま、暫く微動だもしなかった。軍規上当り前のことである。田中はまた長州閥直統の山県・寺内に見られる窮屈さのない、磊々落々たる開けっぱなしの性質だ。「今日は、オラ(これが彼の口癖)も肩章をはずし、サーベルをはずす。お前も新兵服を着ていることは全く忘れろ。一対一の人間として話そう」と言って、陸軍礼式に全くないことながら自分の前に椅子を置いて、白柳を掛けさせた。それから両者の一問一答は、劇的にまた小説的に面白く語り伝えられているが、要は、「お前が社会主義者になった思想的動機は何だ」と聞き、白柳が「いろいろあるが、その一つはツルゲーネフの小説を耽読したことだ」と答え、ここで田中が膝を乗り出して、「オラなど駐在武官としてロシアにいる間、ツルゲーネフを愛読して、大いに感銘を受けたものだ」と言った。広瀬武夫は、トルストイが『復活』を雑誌『ニーワ』に連載中、通読していた痕があり、明治中期の駐在武官は、なかなかどうして文雅の教養をおろそかにしなかったらしい。結局田中は、ツルゲーネフに共感する点でお互いの心は共通だ、しかし自分はそれでいて規則の最も厳しい軍人が務まり、お前は社会主義者として連隊でも注意人物の第一号だ、この差異は何から生じたのか、ワシは現有制度に適応していくし、君は殊更反抗するからだ、しかし軍隊に入ったのはこれも一つの運命とあきらめて、殊更に社会主義という孤立感を捨て、三年間だけ鋭鋒を納めて軍隊生活をやり遂げる気になってくれぬかと説き、その誠意に打たれて、白柳も快く同意した。白柳は適応性の豊かな線の太いところがある。それからはよく軍務を務め、三月末の第一期の検閲後は、中隊はおろか、連隊で十二中隊ある中の、最右翼の伍長勤務上等兵候補に抜擢せられた。
これで田中は、早稲田大学がいわば社会主義の源流、或いは淵叢であることを知り、何とかそちらへ手を廻して押えねばならぬと考えた。その手始めとして、大隈に、自分の連隊で講演をお願いいたしたいと、慇懃を極めて申し入れた。大隈は演壇に立つこと幾百千回、しかし未だ兵舎に招かれて現役軍人に講演したことはない。しかも依頼者は、自分が終生敵として戦ってきた長州閥のホープとして世間に聞えている人物である。これは面白いと思って快諾を与えた。約束の日に馬車で三連隊の営門に乗りつけると、待ち受ける隊から元帥に対する礼を以て迎えられたのには、大抵のことには動ぜぬ大隈もことの意外さに驚き、殊に新聞の騒ぎようは、一大異変が降って湧いたような報道ぶりであった。
大隈と従来相容れざりしは、兵権也。大西郷、桐野以来、帝国の軍人は、概ね大隈を好物視せざれば、国賊視したり。されど舞台は廻転せり、何時の間にか、大隈と兵権とは、握手せり。近年に於ては、或る連隊長は、大隈の前に分列式を挙行したり。
(徳富蘇峰『大正政局史論』 二四九頁)
それが兵権との握手と言うべきものかどうかは分らない。しかし、この錬達記者の史筆にまで取り上げらるる問題であった。山県は特に軍の特権を文官に許すことを禁じ、ある機会に伊藤博文が帯剣を申し出でたのに対しても拒絶した。伊藤が韓国統監の制服を帯剣にしたのはこの報復であったとも言われる。それほど大切にした軍礼式、しかも最高の軍礼式なる元帥を迎える式を、山県の最も嫌いな大隈に向ってしたことは、田中もなかなか思い切ったことをする男である。大隈はその日、上機嫌で兵に向って約束の講演をした後で、またとない機会だからと乞われて、将校集会所でも別な講演をしたと伝えられている。
田中は即夜、大隈邸に伺候して感謝の辞を述べた。それから切論して、「閣下は維新の元勲であらせらるる。しかるに昨今、閣下創設の早稲田大学が国賊の社会主義者の養成所となっているのは、閣下の晩節を汚す恐れがある」と言って、これが教授の中止を進言し、大隈も納得してその申し出を承諾した。そして早稲田大学の教室からは頓に社会主義の講義は聞えなくなったと伝えられている。ありそうな話だが、当時の教授に訊してみると、大隈からそんな命の下ったこともないし、自分達が大隈に阿って社会主義を意識的に講義から省いたことも絶対にない、それは大学の名誉のために言っておくとのことであった。ただ、その後に起った大逆事件のため、社会主義の講義は残念ながら表向きには中絶せざるを得なかったとは、当事者たる諸教授の話である。
かくて生じた折衝で、田中義一が大隈の真価を認め、将来の政治は政党を中心に行われていかねばならず、次第に民主的に傾斜していく政治は、大隈が民衆に有する人気に乗らなければ円滑に遂行できないと感じたことは、事実である。それは、まだ雌伏時代の寺内正毅に向って、将来、政権にありつこうと思えば、大隈伯と握手することが絶対に必要だと勧めた書翰が幾通も残っているのに徴して明かである。
彼は無論、その前に、大隈提携の献策を桂に向ってもしたのである。「そこへいくと桂さんはエライ。オラが言い出す前に、裏で、いつの間にかちゃんと大隈さんとは有無相通じていたのだ。ああいう大人になると、昔の行き掛りなどにはこだわらないで、国家のためにはすすんで握手したんだなあ」とは、田中が、折さえあれば、後輩の長州人に洩らした述懐だった。これは、はじめ翻訳家・読売新聞記者たり、後に文明協会の編集者として、いささか名の聞えた藤井繁一(白雲子、明三八大文)の談。彼は田中直系の乾児であった。しかし実は、かつての対立者であった大隈と桂が、いつの間に、いかにして、有無相通じ、或いは意気投合して、桂の遺産の政党をすぐ大隈が引き継ぐに至ったか、その経路は、或いは今日といえども分明に分っていないのではないか。桂・大隈の詳伝を読み、或いは雪嶺・蘇峰ら明治の高名な政論家の遺著を渉猟しても、満足な説明を見出すことはできぬ。
大正三年四月十六日、親任式が行われて、第二次大隈内閣は成立した。晩節に蹉跌あらしめてはならぬと内心危惧した学生も、世間が喝采し、また校友達が心から慶祝しているのを見ては、一緒に喜んだ。しかしそれは存外冷静で淡泊なものだった。早稲田では、卒業生の中から大臣または代議士が出ると、その出身地の学生は、同郷人への呼掛けを誇張した漢文調で大書して控え所の壁に貼り付け、料亭に祝宴を開くのが例で、それから推すと、どんなに全学苑が有頂天になり、提燈行列でもしなければ釣合いの取れぬところではあったが、そういう催しは一切なかった。ただ、日本では大学教授から大臣になった人物は、外山正一や菊池大麓など前例がなくはない。しかし大学総長から総理大臣になった者は、今度が初めてである。学生には自分らの大学から出たのだという誇りはあった。何れにしても、大隈内閣の出現で、早稲田の格が世間の目に一段と上って映ったことは確かである。
大隈内閣の閣員構成の無理や欠陥、また山本内閣が挫折し、清浦内閣が流産して、抱え込んだ難問題などの詳細は、大学史と関係がないから省略する。ただ、その前途に横たわる一切の懸念の暗雲を一挙に吹き飛ばして、その進水を円滑にしたのは、第一次世界大戦の勃発であったことは、一言しておく必要がある。明治期の東京帝国大学、ひいて早稲田大学、或いはその他の国際政治を講ずる学苑で、共通の課題があった。すなわちバルカンの形勢である。苟もことこれに触れると、学生の気焰とみに上り、白熱して甲論乙駁するのが常であった。バルカンは世界の火薬庫と言われてきた。それが本当に火を吹いたのである。第一次大隈内閣は一回も議会と接触せざるうちに退陣したが、第二次内閣はそれにひきかえ、成立早々、五月初めには昭憲皇太后の大葬費予算上程のため、翌六月下旬には追加予算討議のため、臨時議会を召集し、それを終るか終らぬかに、追いかけて、ボスニアの首都サラエヴォで青年の放ったピストルの兇弾がオーストリア皇儲殿下夫妻を落命させたとの飛電が入った。その後の世界史の展開については第七章に説述したところである。
先にも述べた如く、早稲田の学生達が、自国政治にも、国際関係にも、この時ほど深く関心を持ったことはあるまい。自分の大学の総長が、紛糾した時艱を救う唯一の人と期待されて内閣を組織し、その内閣は、年来教え込まれてきた「バルカンの形勢」に火が入るとともに、長鞭馬腹に及ぶの勢いで日本もその一翼として参戦することを決断し、更にその尾は曳いて、年来、早稲田で甲論乙駁されてきたロシア大革命につながるという政治理論の実演を、まざまざと目の前に見たのであった。
この間大隈内閣と早稲田大学の関係は静を持していたと言える。ただしこれは長きに渉るを許されぬ。大隈が与党として把握するものは同志会九十名余、党首犬養は入閣を拒否しても、半分にちぎられたる国民党は協賛してくれた。それに政友会を脱党した尾崎一派の中正会が若干、そのすべてを合せても、万年与党政友会の持つ勢力には遙かに及ばぬから、三回の議会はどうにか切り抜けたが、この先の政治の運営には、ぜひ解散して多数を制せねばならぬ。それに政友会の横暴と忘恩を膺懲して、少数党に転落さすべきことは、山県・井上の長州元老が課したる必須の条件であり、そしてまたこれをなし得るものは天下に大隈以外にないとは、自他ともに認めるところであった。
その中外待望の手腕を実地に見せる機会は遂に大正三年十二月二十五日に到来して、敵味方ともに待ち設けた議会解散が行われた。その経過や政治的批判はここには省くとして、大学史として特筆すべきは、これほど「早稲田」の名と力を天下に認識せしめた例は前後にないということである。それは旱天の街区に待ち設けられたる撒水車の如く、早稲田を四方八方に散る飛沫として天下に振り撒いた。今まで、いわば鳴りを潜めて、政治のためには結束した前例なき校友会が、伯大隈一代の存亡を賭けた天王山として、大隈伯後援会を結成すべく決起した。
この後援会は、大隈内閣成立後間もない六月十四日の早稲田大学校友有志大会に端を発して結成されたもので、先ず十九日に東京に、次いで七月に入り大阪・横浜に結成され、十月半ば頃には後援会組織は二府一道二十四県に及び、組織準備中は一府十三県、未組織は僅か六県のみという発展ぶりを示した。十二月の議会解散から翌年三月の総選挙までは組織も一層充実し、その後、更に海の彼方のアメリカにも波及して、カリフォルニア州のサンフランシスコ、ロサンゼルス、リヴァサイド、またテキサス州でも後援会を作ったとの連絡が届いた。その組織の広範なことは四年九月一日現在の『大隈伯後援会名簿』に詳細に示されている。この後援会は、必ずしも早稲田の卒業生のみから成っておらず、大隈の支援者が広く集まってできたのである。しかし後に学校騒動が起きた時、早稲田大学の卒業生が政治に介入し、学苑を「政治に捲き込んだ」のは、厳正中立なるべき学問の府としては、犯してはならぬ邪道であり、自殺行為であると、天野派によって再三糾弾された点から察せられるように、早稲田の校友が中心勢力となり、その卒業生の団結なくしてはできなかったのである。
ただ、これを学問の邪道とし、大学の道に外れたと非難したのは、必ずしも当らない。大学内にいる間こそ、学生は学苑の制規に縛られる。しかし卒業したら、苟も国法と道義に背かぬ限り、何をしても自由である。天上天下独立濶歩、杖を揮うも、大声を発するも、友垣を結ぶも、類を以て結社・団体に加わるも、誰に拘束されることなく、どこに遠慮することもない。況んや早稲田建学の初目的は、他の同僚私立大学がみな法律学校であったに対し、政治の教育機関であることを標榜した。ただそれは東京専門学校の姉妹として興った改進党の私的教育機関でなく、卒業後は何れの政党に属するも可、信念を以てするなら敵党に奔るもまたよしという精神で、徹底的に鍛え込んだ。従ってこの大正初年の段階においては、改元の年の第十一回総選挙での校友当選者二十五名中、政友会は八名で、非政友会派が優勢を示していたとはいうものの、地方議会では、早稲田出身者ながら大隈とは反対の政友会系に属する者の方が遙かに数多い状態であった。政友会は田舎党と言われ、選挙区の地方事情によっては、たとえ早稲田出身でも、政友会員たらざるべからざる事情が、いろいろ伏在したのである。そのためこれまでは、早稲田出身者と書いても候補としての魅力にはならず、一票の票かせぎさえ覚束なかった。それがこの解散に至って、早稲田出身ということが初めて大きな、有利な看板となって、ポスターには麗々とそれが書かれ、地方新聞は候補者に早稲田出の文字を大見出しに使うようになった。「明三百年ひとりこの士を養う」という言葉があるが、早稲田は建学三十年にして、いつの間にかこの政治基盤ができていたのだ。早稲田が慶応と併称して私学の双璧と重んぜられながら、創立三十周年の時には、時評家鵜崎熊吉(鷺城)が、後述(八九八頁)の如く、大学としてはまだ慶応が一枚上だと書いている。もしそれが逆転したとすれば、恐らくこの期であったろう。六大学の好球家は七割五分まで早稲田チーム・ファンであると言われて長かったが、その情勢を馴致したのもこの前後からと見られる。
この選挙には、大隈は老軀をひっさげ、東西南北に奔走転戦して、まことによく長広舌を揮って飽きなかった。汽車に乗っている間も、数分間の停車時間を利用してプラットフォームに待つ群集に呼び掛けると、総理大臣の顔を見るというよりも大隈さんの顔が見られるというので、老幼を問わず窓辺に集まってきた。また大隈はある県で、甲の候補の後援者として名前を列ねるのを承諾し、続いて乙の候補の依頼にも無論これを拒まなかった。しかし両候補は真っ向からの対立者なので、大隈のところ嫌わぬ無頓着さが、非難されるよりも寧ろ滑稽として、諸新聞に伝えられた。大隈が後援会に招かれてその地の演壇に立つと、一体、本心はどちらの候補を応援するのだろう、その決着をいかに着けるかの好奇心も手伝って、聴衆は堂を圧した。大隈は例によって、懸河の長広舌、滔々と弁じ去り、弁じ来たって、さて最後に結論して「どちらも負けるな、どちらも勝て」と言ったので、却って万雷の如き拍手であった。大隈の、追い詰められた窮境に立ってもするりと切り抜ける巧妙さは、かくの如くであった。
総選挙の結果は果然大勝を博し、万年与党として鉄壁の陣を固めている政友会をよく破り得るもの、天下広しといえども一人大隈あるのみの威力をまざまざと中外に立証した。結果は次の如くである(括弧内は、解散前の第三十五議会時との対比)。同志会百五十名(五十五名の増加)、尾崎行雄の中正会三十三名(一名減)、大隈伯後援会二十九名(新党)、反対派は立憲政友会百四名(八十一名減)、立憲国民党二十七名(五名減)、他に無所属三十六名(『日本国会七十年史』上巻四一九頁)。憲政の神として名声の頂点にあった尾崎の中正会にしても一名を減じ、犬養の国民党に至っては五名を減じている中に、同志会のみ一挙に半百余を増加し得たのは、一に大隈の人気であり、後援会が無から発して新規に二十九名を獲得したのは、全部が早稲田の卒業生ではないにしても、それが主力で、つまり早稲田の政治力はここに至って、多年の歴史を有する国民党に匹敵したのである。「ワセダ、ワセダ」のエールの余韻が、暫く日本全国の中空に漂うて消えぬような政戦であった。
しかし大隈内閣は、実際としては早稲田大学のために何程の便益ももたらさなかった。当然のことで、内閣は天下の万般を処理し運営するので、いかに自分が総長であるからといって、特別に私恩を施すほどに大隈は公私を混同する小人でなく、また早稲田大学も総長が首相になったからといって、その情実で何かの恵沢にありつこうと期待するほどさもしくはない。
しかしこういうことはあった。議会はラフカディオ・ヘルンの文勲に対して、前例のないことながら正四位を追贈した。これなどは、早稲田関係の議員にして初めて提案し、早稲田の総長が首相たる議会だから初めて通過させ得た案として、今日も文化的に高く評価されている。また、早稲田大学の英文学科卒業生に対しては中等教員無試験検定の特典が入学要項に明記してあっても、実際は文部省の係官が試験答案を点検する結果、少き時は三人、多くても七人以上の合格者が出たことなく、平均は五人で、四十人を超える年々の英文学科卒業生の比率から言えば、無試験検定の特典はないも同じで、有名無実の空文に等しかった。しかし大正四年の英文学科(第一部)卒業生からは、一挙に十五名という、卒業生の半数に当る免状の獲得者が出て、実に学校当局の方で驚いたことを、木村毅は記憶している。これは勿論、大隈首相がこんな瑣事に口を出す筈なく、また、どうせ官僚の点は辛いと高を括ってあきらめている大学の方から、内密の工作をしたのでもない。権力の前には弱い文部官僚が、首相の前に気をかねて施した匙加減であったに違いない。他の科においても若干これに類した恩典に浴した点が絶無とは限らぬが、総じてそういう小細工に類した策謀や請願をした跡が全くないのは、後から見て天晴れと言わねばならぬ。