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第五編 「早稲田騒動」

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第六章 大隈総長の遊説

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一 大隈の足跡

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 早稲田大学創立三十周年記念祝典の行われた大正二年に、大隈は祝典を挾んで二度、北陸方面と関西・四国・九州方面とに長駆遊説の歩を運んでいる。この二回の巡遊において大隈の足跡の及んだ地域は実に二府十六県の広きに達し、これら地域の総人口約二千万中、親しく総長の謦咳に触れ、その風貌に接見せんとして集まった者は、四十万の多きに及んだと、『早稲田学報』(大正三年一月発行第二二七号二頁)は報じている。大隈はその生涯に何度か国内遊説を試みているが、この年行われたものについて、特にその意味を考えてみよう。大正二年は、既に国内外の政情が実に複雑多岐な様相を示し始めてきた年である。

 明治四十年に政界を離れた大隈が早稲田大学総長として教育に専念してから六年有余、この年の明くる早々、桂太郎の新政党立憲同志会の結成計画が発表された。これについて大隈との提携が噂されたが、大隈は、新春の校友大会席上ではその噂を肯定したわけではなかった。大陸では袁世凱軍が南京を占領、日本人殺害事件が勃発、また日華両国間で満蒙五鉄道に関する協定が調印され、引続き日本政府が中華民国を承認するなど、めまぐるしい動きが続いた。他方、国内では、翌年を迎えてからシーメンス事件が火を吹き、その暗雲は来たるべき山本内閣瓦壊の運命を秘め、これが、早稲田に蟄伏していた大隈を政界に返り咲かせる結果を生んだ。こうして、日本の牽引車としての大隈が、第一次世界大戦を乗り切り、世界の檜舞台で脚光を浴びることとなるのである。

 大隈の遊説はこうした歴史的展開を前にして行われたのであるが、全く政治と縁を絶った大隈が、早稲田大学総長として、また純然たる大学人として、本校建学の主旨を説き、また文化普及の目的を以て各地方に巡遊を試みたことに、大隈の文化活動に対する並々ならぬ意欲は窺えても、近い将来に政界に返り咲く日があろうとは、誰が予測し得たであろうか。

 さて、これらの巡遊を後年の西下に比べると、その意味は全く異っている。すなわち、大正四年三月の遊説は、後述するように、政界人としての大隈の政見披瀝の旅である。また同年十月、十一月の旅も、御大典準備検分ならびに同式典参列という職務上のものであり、本章で取り上げる巡遊と性格が同一ではない。

 なお大隈は、この年の五月、即日帰京の小旅を二回試みている。すなわち十七日には千葉地方の校友会の求めに応じ、千葉中学校、千葉医学専門学校の講演会および千葉校友会ならびに官民合同歓迎会に出席、同夜帰京している。また二十五日には横浜に赴いて三渓園の探勝を試み、市教育総会ならびに平和協会等の講演会に臨み、これも同夜帰京している。

二 北陸旅行と関西・四国・九州巡遊

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 大隈の大正二年の長期遊説は、何れも地方校友会の懇請により実現したものであった。

 北陸地方、特に新潟・富山・石川・福井四県巡遊の旅は、九月十日上野を発って二十三日新橋に帰着するまでの十三日間、息をつく暇もない忙しい旅程であったが、その逞しい精神力と活力を以て、至る所で講演を行い、その回数大小取り混ぜて七十五回に及び、一日少くとも四、五回、多い時は六、七回の講演に、いささかの倦むところもなかった。総長に同行したのは、同夫人ならびに浮田和民をはじめ、総勢二十名であった。

 この行について記録した市島春城は、長時日に亘る旅程での大隈の行動を、「一日は一日毎に、其の演説・講演に増し来る光彩の陸離たるを見るに至れる、伯の気魄・元気や真に驚嘆の外なく、又到る所に雲集し来る伯会見の人衆は約十万に達すべく、其の歓迎や実に非常の盛況にして、殆んど王者を待つの概ありき」(『早稲田学報』大正二年十月発行第二二四号一〇頁)と述べているが、大隈と大衆との触れ合う息吹がまざまざと感じられる。

 九月十日、高田に直行したのは、先ず高田市開府三百年祭に臨むためであり、即夜偕行社における校友ならびに縁故者の集会に出席した後、十一日、高等小学校雨天体操場において、二千の会衆を前に、開府三百年に関する講演を行った。大隈の多忙な日程は、以下十二日長岡、十三日新発田、十四・十五日新潟、次いで十六日柏崎と続いたが、新潟から柏崎に至る間の如きは、通過する十三駅で大隈を迎うる者が群をなし、伯が下車してプラットフォームで演説を試みること七回と、市島春城の旅行日誌(同誌同号一〇―一一頁)にあるように、行動力に溢れた大隈の姿を彷彿させるものがある。

 十七日、柏崎より直江津・魚津を経て富山に赴き、十九日、富山を発し、高岡を経て金沢に至り、二十一日、金沢を発し福井に着き、二十二日、福井発を以て北陸巡遊の日程をすべて終了したが、この行について『大隈侯八十五年史』は、「君の説くところは各地に於ける殖産興業を始め、教育・政治・美術・歴史などに及び、時に治水や築港のことにも亘つた」(第三巻六七四頁)と述べ、また、「福井では松平春嶽の事蹟を語り、金沢では鍋島閑叟と加賀藩の関係を説き、更に加・能・越の歴史に言及した」(同巻六七五頁)と、大隈の「史癖」が遺憾なく発揮されたことを記している。

 関西・四国・九州方面への巡遊中には、創立三十周年記念行事のプログラムである十一月一日の名古屋校友大会、二日の関西寄附者招待会および大講演会、三日の関西校友大会への出席が組み込まれてあった。これを機に大隈は、本学苑に寄せられたもろもろの同情に謝意を表するため、各地の講演会および校友会主催の祝賀会に出席したり、或いは明治天皇の偉勲を偲んで桃山御陵に参拝したりすることを企図したのである。殊に内海を渡って四国に赴いたのは、本学苑の出身者で旧知の旧高松藩主松平頼寿伯の懇請によるものであり、また故郷佐賀に長駆したのは、鍋島閑叟の銅像建設委員長として、その除幕式に参列するためであった。

 十月三十一日、新橋を発った大隈は、鉄路西下して各地を遊説、十一月二十九日、同駅に帰着するまでの正味三十日間、文字どおり席の温まる暇なく、終始元気横溢、壮者を凌ぐの概があった。この行に追随したのは、総長夫人をはじめ、嗣子信常、高田学長、市島理事、塩沢、田中(穂積)、金子、坂本の各教授、田中(唯一郎)幹事、中村康之助理工科経営主任らであった。途中随行のメンバーに交替はあっても、終始大隈は、その矍鑠たる姿を以て民衆に接し、恙なく巡遊の全行程を踏破した。

 ところでこの旅は、大隈個人にとっても、ひとしお感慨あるものであった。創立三十周年の行事を終えた大隈が、一路西下し、下関・門司を経て佐賀入りをしたのは十一月八日のことであった。大隈の足跡がここに及んだのは、明治二十九年四月以来実に十七年ぶりのことで、県民の熱狂的な歓迎ぶりは、その前日佐賀入りをした鍋島直大に対するそれといささかも異るところがなかった。『大隈侯八十五年史』は、「侯の通路には所謂土下座して侯を送迎するもの相次ぎ、又度々合掌して侯を礼拝するものを見た」(第三巻六七六頁)との当時の一随行者の言を引用しているが、前の北陸巡遊の折における大衆の圧倒的な歓迎ぶりとも異り、郷土民衆の、大隈に対する崇敬の念を秘めた心情の一端が偲ばれると言えよう。この地で鍋島閑叟の銅像除幕式に参列した大隈は、次いで佐賀図書館(現、佐賀県立図書館)落成式に臨んだ。この図書館は、鍋島侯爵家より佐賀市に記念のため寄附されたもので、早稲田大学および大隈伯から、数百部に及ぶ図書の寄贈が行われた。この佐賀における日程は、以上の他、中等学校生および中等女学校生に対する講話をはじめ、佐賀五十五連隊での講演、校友会主催の講演会、九州校友大会、官民歓迎会、県教育会および天晴会での講話等実に多忙を極めたもので、殊にその間を縫って、高伝寺に藩祖の墓を展し、或いは大隈家の菩提寺たる竜泰寺において読経、拈香の典を行うなど、大隈にとっては思い出深い行事が織り込まれていた。そして鍋島侯爵邸での園遊会を最後に、十三日午後二時唐津に向けて出発するまでの間、佐賀入り以来実に六日、この旅行の中でも一番多くの日が費されたのであった。

 佐賀を後にした大隈の足跡は、唐津、有田を経て長崎に至った。長崎は言うまでもなく大隈の第二の故郷とも言うべき地であるから、長崎遊学以来六十有余年に及ぶ、懐旧の念禁じ難きものを覚えたのであろう、鳳鳴館の官民連合大歓迎会、或いは舞鶴座の講演会等の席上で行われた演説には、大隈のそうした心情が吐露せられているのである。

 長崎の日程を十七日に終えた大隈は、福岡では太宰府に至り、その祖と信ずる菅公廟に詣で、大隈は白梅、夫人は紅梅を、宮司の懇請によって手植するなどした後、熊本から久留米、そして広島、姫路、神戸と山陽の道をたどり、京都、岐阜を経て帰京の途についた。この間大隈の説くところ、東西文明の調和あり、東亜の事情あり、世界の大勢あり、或いは史観、経済観、教育観など、実に多岐多様な分野に亘って、雄弁が展開された。殊に十一月二十七日京都同志社における総長の講話は、新島襄との深い関係から、宗教を目的とする同志社と政治を目的とする早稲田大学とが共に兄弟の間柄であることを説き、いたずらに西洋文明に心酔することなく、東西両洋の文明を調和することが必要であるとの自論を強調しているが、かつて同大学の基金募集に力を注いだ大隈であるだけに、大隈にとっても同志社の人々にとっても、この講話はひとしお感懐あるものであったに違いない。

 全日程に亘り、百十九回に及ぶ大隈の講話の延時間実に五十四時間五十七分、聴衆は無慮十六万七千一百人と計算されている。

三 最後の帰郷

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 この後大隈には、政界人として激動の時期が訪れ、大正五年十月五日内閣総理大臣の職を辞するまでの足掛け四年間は、大隈自身、その身辺を顧みる余裕がなかった。

 大正六年大隈は数え八十歳の高齢に達した。この年父祖伝来の墓地の改修が成り、その記念法要のため佐賀を訪れる機会に恵まれた。侯爵に陞叙され、大勲位菊花大綬章を受けた大隈の三度目の、そして生涯最後の佐賀入りである。

 五月十八日東京を発した一行は、大隈および夫人、ならびに熊子刀自、令嗣信常以下家職、医師、外に帝国通信の校友浅川保平、報知新聞記者戸田伝四郎らであった。途中各駅で地方校友や官民多数の送迎を受け、一路西下した大隈は関門を越えて、十九日午後佐賀駅頭に降り立った。このときの佐賀人の熱狂的歓迎ぶりは次のように記されている。

大隈侯爵久方振り帰省の事とて之を迎ふる佐賀市民の熱誠殆んど狂せん計りにて、十九日午後二時二十分汽車の佐賀駅に着するや、打ち揚げられたる煙火冲天に轟き、市内各官衙員、軍人、実業家、愛国婦人会員及び校友、其他県下各地より来集せる有志等の出迎へ殆んどプラツトフオームを埋めて立錐の余地なく、雑踏言はんばかりなし。騎馬憲兵及福田署長先導し、市内両側の軒頭には国旗掲揚せられ、中等、高等女学校、実科女学校及び市内各小学校等の生徒整列して一行を迎ふる後ろには、人民の堵列を以て壁を築きたらんが如き中を順路道を拓きつつ、腕車を列ねて蓮池町なる古賀善兵衛氏邸に入る。

(『早稲田学報』大正六年七月発行第二六九号 二頁)

 これより向う八日間、二十六日の午後佐賀を出発するまで、大隈の忙しい日程が繰り拡げられる。この間竜泰寺における法要のほか、成美高等女学校にて「家庭における女子の本分」を説いたのをはじめとし、公会堂の講演会、佐賀婦人会訪問、官民歓迎会出席等々、或いは水源地の視察あり、或いは各界の招待会あり、五十五連隊での講話、県会議事堂における講演ありと、大小取り混ぜると枚挙にいとまがない。

 今回の大隈の佐賀入りは、郷土の人々に多大の感銘を与え、絶大な反響を呼んだのであるが、その一つの証として、一冊の書物をここに紹介しておきたい。大隈侯講演集記念刊行会編『帰郷記念大隈侯爵講演集』(大正七年刊)がそれである。その序文において、佐賀県知事大芝惣吉は次のように記している。

爾時大正六年五月、侯爵家塋域改築ノ法要ヲ以テ侯ノ帰省セラルルヤ、教育、慈善、公職、実業、婦女、青年等、各団体相競ウテ一場ノ講演ヲ乞フ。繁滋匇忙、寸暇ナキノ際、侯快ク之ヲ允サレ、随処唱説セラレタルモノ無慮二十回、聴クモノハ僅ニ以テ平素渇望ノ一端ヲ満シ得タルニ過ギズト雖、感応ノ深キト薫化ノ大ナルト、固ヨリ言説ヲ待ツノ要ナシ。 (二頁)

 佐賀を発した大隈は、その後前回と同じく山陽道を東にたどり、広島県の宮島を経て大阪に入った後、一度神戸に下り、大阪、京都、名古屋を経て帰京した。東京に着いたのは六月五日午後八時半であった。

 大隈の教育に対する関心が政治と並んで生涯の大きな柱であり、特に民衆教化の方法として、道徳精神の発揮と、優秀なる国民性を培うための新しい教育制度を提唱し、そのために小学校教育を重視してきたことは、右の巡遊の日程からもはっきりと見てとれる。小学校生、中等学校生に多く接し、諄々と所説を述べ、また繁忙な寸刻を割いて、或いは駅頭で、或いは出迎えを受けた露天の場で、乞われるまま快く幼少年に訓話を与えたことなど、決して偶然ではない。また至る所で東西文明の調和を説いているが、これこそ大隈の持説普及に果した役割の決して小さなものでなかったことを、感じないわけにはいかないのである。