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第五編 「早稲田騒動」

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第十一章 新機運うごく

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一 卒業生に遜色なし

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 御大典記念事業の設計図は、高田文相の抱いた大学改革草案と大体似ている。高田はこの数年、大学の改革の必要を感じて、坪内・市島らの腹心の旧友には洩らし、洋行は休養のためもあるが、他面で欧米の大学の実状・歴史を参看して改革に資する目的もあり、外遊を終る頃にはそれが概略まとまって、帰国報告や、その他公開の演説、私談等にしばしばその片鱗或いは全貌に近いものを洩らしているし、また腹案を個条書きにしたものも残っている。惜しいかな、全幅の経綸を瀝示するだけの成文が見当らない。しかしある限りの資料で内容を彷彿するに難くはなく、彼此対照すれば、御大典記念事業は高田の大学改革案に大礼服を着せたものの観があると言ってよい。そしてその前後左右に細かく枝葉を張った細目も、台風の眼とすべきは、研究の充実の一点に帰するであろう。

 大学に研究が大黒柱となるは、今更言うを要しない。多数の学生を教育するのが表看板で、その教育の内容を常に高く、深く、新しく、生命づけていくのが研究である。明治以来の日本の大学は、慶応義塾、同志社、札幌農学校、東京大学などの官私の先輩校がみな維新の急場の対応から、先ず、広汎という点に特長のあるアメリカ式八宗兼学方針を第一にして、学問の深さ、緻密さの科学的態度が二の次になったことは、既に再三述べた。東京専門学校の旗幟も先ず学問の独立であって、専門的深化ではない。国の文明の段階が真っ先にそれを要求したのだ。

 明治十九年、東京大学は帝国大学と改称し、アメリカ式八宗兼学のリベラル・エデュケーションを止揚してドイツ式学問の強化を主張し、そのためには経済的に到底収支の償わぬ専門科目の増設をさえ行った。例えば昔の文学部の国、漢、英に、独、仏が追加され、最も学生の多かるべき筈の英文学科も夏目漱石の時には彼唯一人で、しかも前後の級にも先輩後輩は誰もいなかった。文学部の梵文学や、また理科大学方面で星学科など、一人の学生もいないことが続いても、その科は廃止せられずに存続した。そのため政治学・経済学を和・漢・英文学と並んで修得したアメリカ式時代の卒業生の坪内逍遙と、英文学科が独立して、専門化してからの夏目漱石とでは、同じ英文学でも学問の質が違ってきている。

 されば帝国大学がアメリカ式をドイツ式専門化に切り替えた時、これに最も多くのショックを感じ、このままにはしておけぬと思ったのは、東京専門学校の枢要部を占めていた高田であったろう。早稲田も従来の諸特色に高度な専門化も加味せねばならぬと思ったに違いないが、学校経済がそれを許さぬ。学生のいない、或いはいても一人か二人というような学科は、日の丸が背景にない限り、いかに専門に必要でも設置できるわけがないので、その方面では暫く鳴りを潜めていたのである。また、全国で僅か八ヵ所という難関の高等学校のエリート学生のみを篩い残して少数英才教育を施す帝国大学に比し、早稲田の如く、苟も中学校の卒業証書を有する者どころか、実力のある者ならば詮衡の上小学校卒業生まで無差別に収容し、大衆凡才教育を施す制度では、到底高度の専門化した研学方針にはついて行けぬのは明白であった。

 しかしその凡才教育も、施さぬより確かに施した方が有効で、底辺の卒業生の対比になると、勿論懸隔はあっても、天地霄壌というほどの開きではない。そして若干劣るにしても、社会に出て、結構それぞれの貢献をしている。最先端の優等生になると、官学の方がその輩出の数が多いだけで、質は彼らを凌ぐとも劣らぬ者が、東京専門学校からも続々と出た。経済学の塩沢昌貞、国際法の山田三良、監獄法の小河滋次郎、日本経済史の内田銀蔵、内務官僚となった坂本三郎、美学および文芸批評の島村滝太郎、漢学の桂五十郎、古代史・思想史の津田左右吉、或いは本学苑卒業後エール大学に留学し、中世封建制度史の研究で欧米に名を成した朝河貫一など、斯界第一流の学者で、官学出のいわゆる銀時計の秀才組を後方に瞠若たらしむるものがある。

 大学になってからの政治経済学科第一回卒業生、大山郁夫永井柳太郎は、東京帝大の同年前後の法科大学、文科大学の首席、吉野作造や小山東助と並んで、学生時代から出色の寧馨児として識者の注目を浴び、殊に文学科は早く名声を馳せ易いので、杉森・片上・石橋らが学巣を出ずると早々の評壇の活躍ぶりは、既述の如く、東京帝大の生田・阿部・安倍らと対峙して、寧ろ圧倒して余りあった。これは学校当局として、研究機関をより完備する刺戟になったと思える。

二 研究室と図書館

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 かつての早稲田は、若干の例外を除いて、自校の出身者は教師として採用せぬような不文律でもあるかの如き観を呈していた。東京帝国大学出身の秀才を迎えることが多く、すべて講師と呼ぶ中には波多野精一などのように専任も稀にあったが、大抵は桑木厳翼のように東京帝大または官界との掛持ちが多かった。中には早稲田で教師の下準備をして、それから東京帝大、東京高師、京都帝大に迎えられていく教師もあった。また吉田東伍のような中学校すら満足に卒業していない学者を発見してきて、英断を以て講師に迎えた例もある。しかし自校出で講師に拾い上げられたのは、政治経済学科の塩沢昌貞田中穂積、法学科の坂本三郎、文学科の金子馬治島村滝太郎など、非凡の英才に限られていた。建物が狭隘だから個人個人の研究室はなく、広い控室に、授業のすんだ各科の講師が雑糅の形で寄り合って、思い思いの雑談、または新しい見解や珍しい研究報告も交して、和気靄々たる中に自由親和の気の充ちた特殊の雰囲気を創り出していた。しかしそれは大学の品位または研究の便宜というには遠かった。

 彼らはきわめて薄給に甘んじ、また、予科の英語の訳読など多くの時間を持たされても、おとなしく従って、不平を言わなかった。もとよりその給料だけでは生活できない。そこで、補助的仕事、今でいうアルバイトを、学校で捜し、或いは自分で見つけた。講義録や、学校関係の出版物の編集・執筆、一般の新聞雑誌への寄稿、中学教師の掛持ちなどであった。「地方中学教師として赴任した連中の月給の半分にも当らない。しかし学校の背景で他の雑仕事があるから、どうにかこうにか地方中学教師並の月収にはなる。ただ、早稲田大学講師という名がいいから、郷党に対するヴァニティの上から、この薄給に甘んじているのだ」と、笑いながら言っている人もあった。しかしこの新鋭の講師たちは存外教育成績を上げるので、創立三十年記念祝典の折、それら大学昇格後卒業の講師の給与を増額するとともに、それぞれの研究を進めさせるために恩賜館に研究室を与えた。かく優遇することは高田早苗の外遊中からの考案だったのである。彼の「早稲田大学の宿題御大典紀念事業に依りて解決せらる」という、研究機関の設備に関する意見には、次のような言説がある。

自分は、昨年本大学の命に依りて欧米の大学を視察したのであるが、其間、殊に深く感じたのは、欧米何れの大学に於ても、図書館及び研究室が其中心となつて居るといふ事実である。……恩賜紀念館を建築した時も、之を以て各科の研究室に充てるといふ方針を取つた位であるから、図書館と研究室とが大学の中心であるといふ位な事は前以て心得て居るのであるが、如何にしても、欧米の諸大学に於ける夫等の設備と我が早稲田大学の夫れとを比較して見れば所謂月と鼈との相違があるので、殆んど啞然たらざるを得ざるのである。……故に此の紀念すべき御大典の時期に際し、又早稲田大学としては、新学長・新理事の就任されて新内閣が組織された最初の事業として、此の緊要な新計画に手を着けらるるは誠に慶賀に堪へぬ次第と謂はなければならぬ。……自分が欧米漫遊中、独逸のライプチヒ大学を参観した時に、各科の研究室が大学構内の各所に散在して居るのを見て、当局者に一、二の質問をした所が、当局者は、自然の発達の結果此の如くなつたのであつて、頗る不便不経済であるといふ事を話されたのである……亜米利加に渡つてから、新式の研究室を見ると、丁度自分の思つた通りに図書館閲覧室を中心に其の周囲を研究室に充て、各研究室を特別なる専門図書の書庫に併せ用ふるといふ仕組になつて居るのを発見したのである。今度早稲田大学に於て、幸にして此事業に着手せらるる事となつたならば、特に此点に注意されて不便不経済の結果を予め避けらるる様にありたいと思ふのである。 (『早稲田学報』大正四年十一月発行第二四九号 二一頁)

これに、天野新学長の「研究機関の設置は大学設備の画竜点睛たり」という意見を対比してみると、大学の不備を言い、学生の原書読破力の薄弱を歎くだけで、高田前学長の企画の継続について前任者への功績を讃える温き感情の流れには殆ど接することができぬ。

兎角外国人に一籌を輸するが如き憾みあるは、職として此の方面の人々が其の学ぶ所其の従ふ所に忠実なるべき精神真面目の陸海軍人に及ばざるものあるに因る事であらうと思ふ。されば、此の際学問に関係する人又平和的事業に従事する人々が陸海軍人同様に真面目に誠実に其の学ぶ所従ふ所に奮励努力するあらば、軍事上優勝の地位を占めたる我が国は、平和的若くは文化的地歩に於いても亦優勝の位地に向上発展し得るであらう。 (同誌同号 二二頁)

かくの如き結論は、いささか場違いではなかろうか。『早稲田学報』第二四九号に特輯された「研究機関設備に対する学園意見の一般」中の「精髄」としては、意外な見当違いの言という感を抱かざるを得ぬ。やはり旧新学長の交替で、大学の出す音色に不協和音が交じってきたのだ。

 御大典の施行を華麗な打上げ花火として、大隈内閣は大正五年十月四日に辞表を差し出した。狡兎死して走狗烹らるで、元老と藩閥と官僚は、一時預りの荷物としての大隈内閣にはこの上の使用価値がなくなったので、民衆の間に大隈の人気未だ必ずしも消尽していなかったとしても、この上は何程の貢献もできないに決まっている。大隈は後継内閣として加藤高明を「練達堪能の士」として推薦したが、憲政が常規にそわぬ日本では容れらるべくもなく、山県は予定通りに寺内正毅を推薦し、官僚内閣としての使命を負いながら、サーベル内閣が出現した。

 明治三十一年の大隈内閣が約半年にして倒潰し、我が政治史上に当時まで最短内閣の記録を作ったのに比すれば、これは二年七ヵ月持続した。その上に第三次桂内閣の六十余日、清浦の鰻香流産内閣などの不手際に比して、見る人によって評価はいろいろでも、立派な足跡というべく、成立の時、晩節を汚す結果にならなければよいがと早稲田大学生こぞって懸念したのは、杞憂に終った。世界大戦への参加は、絶東島民国の日本を初めてヨーロッパ史に直結した。偉大なるworld citizenの称ある大隈の政治的成果としては、最もふさわしい。

 ただし大隈総長は、去るも帰るも、学生としては殆ど直接的影響はない。しかし一年余留守した高田前学長が復帰してくるような形勢になってくると、たとえ表面に声高く退閒を表明し希望しているとしても、周囲の感情は複雑な様相を呈した。文部大臣として学外に去っても、彼の存在は天上の月の如く、その盈虚が大学へのさし潮、ひき潮となって、波濤の去来をなした。今やその月があたかも天上から下界へ降りてくるかもしれないような状態になったのである。

三 早稲田育ちの華

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 有体に言って、天野学長の約二年間の成績は、目覚しき発展も改革も望まるべくもないし、その上目玉看板の坪内の引退があり、大学は何となく意気銷沈の形で、殊に文学科は、島村抱月が劇界に奔り、吉江、片上の両花形教授が海外留学して、そのあとは閑古鳥の鳴くほどに寂れた形であった。文学科はこの数年、外界に向っては早稲田の華と映っただけに、これは一学科のことに止まらず、学苑全体がどことなく意気沮喪して見えた。

 しかしその間も研究室の整備は支障なく進み、研究の充実・伸長の掛け声は最初にここに根を下ろした。その頃の恩賜館研究室を見知っている者は、豪華だったというイメージを今でも失わぬであろう。恩賜館研究室は同傾向の教授二人か三人の同居で、横には立派な書棚が設けられ、或いは図書館から借り出し、また自宅から持ってきた大小の書冊が金文字の背を並べている。また、疲労した時や静かに沈思冥想する時の用意に特別の臥床があって、暫くの酣睡を楽しむことができる。窓の彼方には庭を隔てて図書館が眺められ、連絡に不便はない。いずこのハイカラな貴公子の読書室かと思うようであった。明治末までの早稲田大学には特別の研究室がなく、或いは図書館の一隅に坐し、或いは大学の講師室に残り、或いは自宅に帰って読書し、執筆し、講義案を練るという有様であったが、その講師室は、各科の教授・講師が合同で、思い思いに放談する者、議論する者、煙草をふかす者、私語する者、一方で碁を囲めば他方では将棋を指すという風で、自由と言えば自由、乱雑と言えば乱雑、しかしそこに特色があり、人を毛嫌いして東大の教授室には一歩も踏み込まなかったラフカディオ・ヘルンでさえ参加を楽しんだというのだから、よほどの変態のものであった。

 そこに特色もあり、欠陥もあり、専門学校の遺風と伝統を留めていたのであるが、大世帯の大学となっては、このままではすまされない。そこで、主要教授・講師を恩賜館研究室に送り込むことになるのだが、もし従来の長幼序ある東洋式儀礼に従えば、そこには、東大からの波多野精一、同志社からの浮田和民安部磯雄、我が大学出ならば塩沢昌貞田中穂積金子馬治など、長老でしかも全国的名声があって学生の信望の厚い諸教授が先ず祀りこまれるべきところである。しかし大学当局は中老教授をも送ったが、それはほんの一部分で、意外にも英断を以て、早稲田が大学になってから卒業した、成績抜群で将来春秋に富むとして期待を掛けられている青年層の教授・講師を、大半の室に送り込んだのである。青嵐が緑樹を吹きわたるが如き爽快感があった。しかし他面から見れば、鳳凰か孔雀の舞い降りるべき禁園に猛禽の鷹か鵙の雛を放ったようで、たとえ虎を千里の野に放つが如き危険はないにしても、花や蕾を踏み破り、蜂蝶や鳴禽を食い殺しそうな心配が全くないとは限らない。とにかく一種の冒険であったことは争われない。

 さてここに、「早稲田騒動」のほとぼりが覚めぬうちに『現代之実業』の石川宰三郎(大二大文)に乞われてその顚末を認めたが、結局発表されることのなかった坪内の手稿「自分の観たる我校の紛擾顚末」(『早稲田大学紛擾秘史』第六冊所収)がある。坪内は、高田派であるとはいえ、過去三十余年間学苑の「参謀本部の中枢」であった高田を以て、

其資性もそれに適してゐたのであろうが、インテレストもそれに在り、最初からの関係上、最大の責任もそこに在り、多年の経験上、殆ど他人の企及しがたい練熟もそこに成つて、恐らく明治年間の最も卓越した私学経営家の随一人であつたろう。自分は、過去に於ては、それが早稲田大学の利益でもあり、特色でもあり、権威でもあつたが、それがまた其大蹉躓の一宿因でもあつたろうと思ふ。 (「自分の観たる我校の紛擾顚末」 『早稲田大学史記要』昭和五十一年三月発行第九巻 資料三一頁)

と記し、また本手稿執筆の直前、市島に、

学校問題が段々に紛糾を極めわれわれ一同が辞職した後は、或は潰れぬに限らぬと悲観し、豊臣の末路、乃ち大阪の役とよく似て居ると云ふて、山県を大御所の名まで同じとて山県に比し、昨今の大隈侯の病めるを病大閤に比し、高田を片桐に比し、坂本や田中(穂)を木村長門等に比し、さて落城も或は同様で無ければよいが……など歎息す。切めて大隈老侯の終を輝かす為め偉人相応の処置を取らせ、落城迄大阪役の二舞をさせるに忍びぬ。 (市島謙吉『酒前茶後録』巻二)

と言いながらも、「自分は人に何んと云はれても芸術一点張りで行かねばならぬ、学校に学長が無いからと云ふて自分に起てなど云ふものもあるが、学校が潰れても自分は学長として起てぬ」(同書)と率直に語っているのによっても知られるように、他の当事者に比べれば、第三者的冷静さを幾分なりとも保持していたと思われる。この坪内の手記によれば、

其中に、どういふ都合でか、中老教授は、いつとなくそこに影が見えなくなつて、年若な、元気な教授や同年輩の講師ばかりが頻繁に同館に出入することとなつたが、それらは殆ど悉く明治三十八年、即ち大学になつてからの我校の出身者で、さうして現に母校内で教鞭を執つてゐる者であつた。文科の校友が隠然其主要部を形成してゐるかのやうにも見えてゐた。……彼等は学術上の研鑽に疲れると、必ず集まつて学校の当局者に関する非難や苦情や同僚其他に対する批評の花を咲かせた。其中には、母校の校規・学則の不備・欠陥を衷心から慨する者、憂ふる者もあつたから、或教授連の能不能を真面目に批判するものもあつたらう。当局執務者の不明又は専断を憤る者もあつたらう。待遇の不公平を憤る者もあつたらう。が、此十人十色の心状態を一貫して、暗に一脈の結朋的気勢が動いてゐた。とにかく、恩賜館内の空気は、著しく火を引き易くなつてゐたのである。 (「自分の観たる我校の紛擾顚末」 『早稲田大学史記要』第九巻 資料三四―三五頁)

 恩賜館を占拠した少壮教授のグループの状態については、その当事者の語り残した思い出を更に次に引用することにしよう。

四 プロテスタンツ=恩賜館組

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 先ず服部嘉香(明四一大文)の登場を迎える。彼は大学になって第四回の文学科の出身で、

大正五年秋から六年秋にかけての早稲田騒動には、革新派の少壮教授連から学校当局者へ出す意見書や質問書などは、同室者である便宜上、大山氏とわたくしとがいつも起草委員に指定され、わたくしは大山氏のいうがままを筆録・清書する役目を勤めるに過ぎなかったが、そのどれもが、端正・徹底・辛辣の名文で、当局者は、「恩賜館組の書きつけ」として怖れをなしていた。しかし、一時は、ぺえぺえ講師の服部が原文を草し、留学帰りの大山がこれに加筆するのだろうと想像したらしく、一度、幹事田中唯一郎が、「恩賜館組の書付もいいが、あなたは少し書きすぎるという評判ですから、少しお手柔かにして下さい」と真顔でわたくしにいったことがある。

(「闘争する平和主義者大山郁夫氏を語る」 『伝記』昭和二十四年五月発行第三巻第四号 四五頁)

とは、服部自身の記すところであるが、また『随筆早稲田の半世紀』という興味の多い懐旧録を残している。その中に次のような一節がある。

大正二年は、留学を終えて帰朝した吉野作造が『中央公論』その他に盛んに民本主義を唱え始めた年であり、早稲田大学が創立三十周年を記念して、教育史上未曾有の大規模の式典を挙げ、世界の注視を浴びた年である。以来、普通選挙の実現と政治の民衆化を求める声は全国にみなぎり、早稲田大学によって示された民衆とともにある私学の学風と実力の顕揚は、将来への大期待を呼ぶに至った。この機運に乗じて、新思想に敏感な少壮教授連が、三十周年式典後数年、却って萎靡沈滞するかに見えた前途を憂え、真摯な大学意識によって母校改革に傾心して来たことは当然以上の当然といっていい。当時恩賜館の三階の、読書室とした一室を除き他の全部を研究室に使っていた少壮教授並びに講師は、日夕歓談の機会を多く持つという便宜によって寄り寄り意見を吐露し合っていたが、事は重大であるから、良心を以て事に当り、団結を固くする必要があるとして誓約書を作成しようということになり、連帯責任を以て事を厳粛秘密に運ぶこと、母校改革に努力するのは教師の本分を尽くすに外ならんのであるから、校友並びに学生には絶対に訴えないこと、その他を記載し、留学中の片上伸吉江喬松を除き、大山郁夫井上忻治宮島綱男・武田豊四郎・遊佐慶夫・寺尾元彦原口竹次郎の七教授、村岡典嗣北昤吉服部嘉香の三講師の十名がこれに署名捺印したが、外に、大学制度の理論及び実際に通じ、その事のために高田前学長と共に欧米の諸大学を一巡した元文相秘書橘静二に制度改革案の起草を依嘱すると共に、議事の発言には団員と同一の権利を認めることにした。大正五年十月か十一月のことである。橘の思いつきにより、この団体をプロテスタンツと呼んだが、一般には恩賜館組の名で呼ばれていたのである。 (二三―二四頁)

 言うまでもなく、プロテスタンツとはキリスト教でカトリック教の教義に反対する新教のことで、また、一般に、抗議する者、異を唱える者の意味にも使用されている。恩賜館組はもとよりキリスト教団体ではないが、ルーテルが旧教権に対して敢然反旗を翻した如く、母校早稲田大学の従来累積してきた業績・習慣・権威・伝習に対して異議を唱えようとして結成せられたからの命名であるに違いない。

 プロテスタンツの前史は、恐らく大正二年頃に発足した、早稲田大学改称後の卒業生から成る若手教員の会であるセコサン会(会合を第二日曜日に開いたのが命名の由来)にまで遡ることができる。この会は自然休会の状態にあったが、大隈侯夫人銅像事件を契機として活動を再開し、自らをプロテスタンツと称するに至ったのである。大隈侯夫人銅像事件について、恩賜館組の一員村岡典嗣(明三九大文)は次のように述べている。

大正五年十二月の交、早稲田大学校庭に私かに進行しつつありし工事が大隈侯爵夫人の銅像の建設にありと聞知したる吾人は、意外の感に打たれ、直ちに当局者に反省を促すべきものあるを感じ、恩賜館研究室にありし教授・講師の一団中心となりて早稲田大学出身の母校教員の社交団体セコサン会を召集して之を計りぬ。時は十二月十八日の夜、会せしもの凡て十九人〔であった。その正確なメンバーは確定し難いが、案内状に対し出席を返事したのは、寺尾元彦大山郁夫原口竹次郎、武田豊四郎、北沢新次郎村岡典嗣服部嘉香、井上折治、北昤吉、遊佐慶夫、中村仲、宮島綱男山口剛永井柳太郎、河野安通志、金子従次横山有策間瀬直一堤秀夫伊地知純正の二十名、欠席の返事をしたのは、浅川栄次郎、関与三郎、日高只一、樋口清策、立川長宏、市川繁弥、吉田源次郎、馬田行啓、坪内士行の九名であった。出席者は、〕数時間討議の結果、その教育上不穏当の挙なることを承認するに一致し、その中止を当局者に要求せむとしぬ。而してこれを決議書として署名して幹事に提出するにのぞみ、永井柳太郎氏は唯一人これをかくの如き公けの問題となすを欲せず、師弟間情誼上の忠告たらしめむとの意見を声明して之に加入せざりき。而も氏を除いて他の出席者は凡て之に記名し、後、別に欠席者にして之に加はるもの数名あり。翌日大山・原口・井上・宮島の各委員は、この決議書をもたらして理事を訪問し、その反対の趣旨を説明しき。こえて数日、吾人記名者の凡ては、天野学長の召集をうけて本部応接室に学長及び高田名誉学長の弁明を聴きぬ。学長はその正当の挙なるをいひ、名誉学長は学校創立以来侯爵家との関係をとき、この度の挙たる大隈侯爵銅像建設委員が同費用の残余をもつて造りし夫人の銅像の為に学校が単に敷地を提供するに外ならず、必ずしも学校自らが之を建設すとならば、或は夫人内助の功に対して却つてふさはしからずとのそしりあらむも、事情はかくの如しとて反対の撤回を求めたり。会見後、即時会議を開いて更に今後の行動を議しぬ。当局者の説明に満足して今後の行動をとるを欲せずとして席を退きしもの、河野・北沢の二氏を除いては、いづれも両学長の説明に満足せずして趣旨の貫徹に勉むるに一致したり。討議数刻、曰く、校庭に銅像として表照せらるべきはその功績と人格と一万の学徒が万世に景仰するに足る人ならざるべからむ。曰く、夫人内助の功は已に侯爵その人の銅像によりて表照せられたるにあらむや、別に之を建設せむとするが如きは、却つて夫人の淑徳を傷くる所にならむ、と。或は曰く、外部よりの寄附にかかるといへども、そはむしろ始めより受くべからざるの寄附的行為ならずや、と。或は曰く、已に銅像は相成り台石は建てられむとするに至りても、なほ一度も学校内部に公表せられざるはそもそも如何、等凡て八箇条よりなる質問書は作られ、翌日委員は再び之を学長にもたらしぬ。此日学長より回答あり。曰く、銅像の挙は絶対に中止せり、と。吾人は、希望の達せられて母校を識者の嘲笑より救ひえたるを賀し、天野学長に対して感謝の状をおくりぬ。かくて銅像問題は落着したり。

(「早稲田大学改革運動史」 『早稲田大学史記要』昭和四十六年三月発行第四巻 三九―四〇頁)

 服部嘉香は「今の図書館の学生入口の前あたりに突如として得体の知れぬ基礎工事が始められ」たと言って、更に「大山君などは、『夫人は……早稲田大学に対しては、直接にも、間接にも、内助の功も、外助の功もない。吾々が日夕登校し退出する場合、一々夫人の腰巻の下を潜らねばならん理由がどこにあるか』と絶叫した」(『随筆早稲田の半世紀』二四―二五頁)と、この時の情景を具体的に語っている。ここには明らかに、旧来の東洋式の男尊女卑思想、女子蔑視観念、「女子と小人は養い難し」的な考えの余臭がある。当時の早稲田大学は運動会の時の招待以外は女人禁制で、僅かにタイピストが一人か二人いただけだ。女子聴講生が入学し始めるより四年余り、女子学生が入学し始めるより二十二年余りも前の話である。

 今日の教師や学生がその場にいたとしたら、大隈夫人の銅像が校庭に立ったとて、声をとがらせて異を唱える者は恐らく一人もあるまい。現にその少し前に行われた即位の大典に、大隈首相は政治的に表面の功績は何もない綾子夫人とともに参列している。況んや東京専門学校以来、卒業式の特待生が夫人の名による賞与を贈られること、あたかも東大の恩賜の銀時計に匹敵した。大山郁夫は現にそれを受けた一人で、それだけでも無関係とは断じ得ない。また卒業生は式後に必ず大隈庭園に招かれて、みんな饗応を受けるのが恒例になっていた。これもやはり夫人と関係がある。しかし当時は、最も進歩的な少壮教授の間でさえこういう考えが幅を利かせていたのだ。

 ただし、維持員会また学校当局の態度も腑に落ちぬ。高田前学長の言うところはこうである。

大隈侯爵夫人の銅像建設といふことは、元来自分に対して大隈侯爵銅像建設委員から、交渉があつたのが其発端である。芝公園に大隈侯爵の銅像を建つる為に費用を集めた処が、多少剰余金が生じたについて夫人の銅像も併せて作つたが、どうか早稲田大学の校内に之を建つて貰ふことは出来まいか、大学の幹部に交渉して貰ひたいと云ふことを銅像委員中の二、三から依頼されたので、其趣を学長・理事に話した処が、誰も異存がなかつたのであつた。尤も此侯爵夫人の銅像なるものは、学校自ら建設するものにあらずして、学校は其敷地を貸与する丈のことであり、建設は委員の手に於て之をなすと云ふのであるから、さなきだに学校創立の当時よりして、早稲田大学に対しては深厚の同情を寄せて居られ、且つ大隈侯爵が早稲田大学を保護し経営するについて、内助の功頗る多い夫人のことであるから、之が銅像を学校の敷地内に置くといふことは何等異存のあるべき筈がないのである。 (「高田博士直話筆記」 『早稲田大学紛擾秘史』第五冊)

 これは事訳のよく分る高田前学長の話として解せぬ点が少々ある。創立三十年記念祝典後、ひどい神経衰弱に罹って悩まされたというのが、その聡明を曇らせたのではないか。大体、一緒に作った夫妻の銅像なら、同じく芝公園に並べて建てるのが本来ではないか。それがいかなる理由でか建てられぬことになって、夫人の像だけを早稲田大学の敷地に建てるというのは少々筋が通らぬ。第一、その芝の大隈銅像建設委員というのが、大隈の恩顧を蒙った実業界有志というので、早稲田大学学生にとっては正体が分らないし、またいかなる理由でそれを建設したのかも分明を欠く。況んや、その金が余ったからついでに作ったというような、いわば御都合主義的作品を建てるというのでは、若きプロテスタンツよりも一万の学生感情が納得しない。それを維持員会と幹部にだけ了解をとって、教師・学生は聾桟敷に置いて何も知らせず、理解をとらず、闇行為で突貫工事を進めたのでは、プロテスタンツならずとも反抗したくなる。だからこれは、着手の始めにすべての教師・学生に事情を説いて、納得を得てから取り掛かるべきが順序であろう。何れにしても、

〔高田前学長〕の情理を尽した説諭も論弁も鎮撫も、純理一偏に立脚して情実一切を排斥する若教授の同盟的抗議を如何ともすることが出来ず、此上は何れの方面かに向つて、忍びがたきを忍ばねばならぬといふ破目となつた。第一には幹部の威信といふこと、第二には侯爵家への情誼、寄附者への面目、これらを如何に解決すべきかと当事者一同困惑した結果、或は涙を揮つて英断せざるを得なからうといふ議も出たが、彼等は何れも我校の出身者である。其行動は不穏だが、要するに年壮気鋭の余りたるに過ぎないものをといふ緩和説が多数を占めて、忍びがたきを忍んで銅像建設は、つまり、預りとなつてしまつた。此間に処した当事者の困偪は察するに余りがある。学長は為に辞表を提出した。併しこれは維持員会が受入れなかつた。

坪内逍遙「自分の観たる我校の紛擾顚末」 『早稲田大学史記要』第九巻 資料三五―三六頁)

 ほぼ平和を持していた早稲田学苑の、北方暗剣殺に妖気が立ちこめてきたのは、これが発端で、いうところの「早稲田騒動」の発火点である。

 尤も、

自分の観る所では、恩賜館組の行動は、仮令其本意は愛校の精神に出でたにもせよ、……公明正大とはいはれない。殊に予め秘密に同盟し結托してゐて、機会を捉ふるや否や突然多数者を糾合して公然当局者に迫るといふ遣り口が自分には最も不自然に感ぜられる。 (同誌同巻 資料四三頁)

と断じている坪内は、「それが導火となつて、後に大火災が起らうなぞとは、仮り〔に〕も夢想せなんだ」(同誌同巻資料三四頁)と記しているが、これは決して坪内の不明を証するものではあるまい。

 ところが、続いてまた浮田和民の失言問題というのが起って、さなきだに、ピリピリするのが収まっておらぬプロテスタンツの神経を逆撫でにした。

 年が明けて、正月に始まった新学期に、浮田は、たまたま政治経済学科一年の授業で、大隈夫人銅像建設の反対・中止の動きを自分の進歩的な女性観から批判・冷笑した。日露戦争の時、捕虜留学論を唱えて、強大軍部を向うに回して敢えて屈せず、南北朝正閏問題、乃木大将自刃問題には、天下の輿論に抗して自分が正しいとする信念を守って戦った浮田には、自分の教えた旧学生から成り上った若造どもの言は、別に批判を控えねばならぬこととは映らなかったであろう。しかし、プロテスタンツは激昻した。夫人銅像事件を記録した村岡典嗣の記録には何とも書いてないが、服部の記録には、「維持員会は恩賜館組の意見を容れ、銅像は大隈邸の庭園内に建てられることと〔するが〕、このいきさつは紳士協約として、外部には秘密に附することを誓約」(『随筆早稲田の半世紀』二五頁)したのを、浮田が破ったのが怪しからぬという言い分が記されている。そこで浮田にその取消を求めて善後処置をすることは学長の責任であるとして、到底同意し難いと感じた原口・遊佐・中村(仲)を恩賜館組から脱退させるに至ったほどの厳しい筆鋒の決議書を天野に差し出した。ところが、学長はいつもの流義で逡巡し、曖昧にし、何の処置も採らないので、恩賜館組の不満はいよいよ高まり、他のどこよりも早く天野学長の不信任を声明するに至った。

 それにまた追っかけて五教授退場問題というのが起った。本編第五章で述べたように、高田の熱心なる腹案だった高等予科を二年に延長する企画は、プロテスタンツもまた同案で、満幅の賛意を表していたことではあった。しかしいよいよそれをこの年(大正六年)四月から実施することとし、各科教授会、予科教授会、各科の連合教授総会に順次に回付して審議・修正せしめるという達しであったのに、新入学案内を見ると、既定の事実のように原案のままに印刷して、入学志願者に頒布する手順になっていることが分った。三月十日の臨時教授会で、プロテスタンツに属する大山・井上・武田・寺尾・宮島の五教授は、こもごも立ってその不都合を糾弾し、教授会の権限に関して天野学長と理事に質問し、不都合を追及すること二時間に亘ったが、一向に満足な回答が得られぬままに採決される形勢になったので、憤然として五教授は退場し、これがまた学苑のしこりとして残ることになった。弁解の余地なく、当局の甚しい不手際であったこと言うを要せぬ。

 かくして早稲田学苑の一角は妖気いよいよ広く且つ深く、蟠居して去らぬ状態を、文部大臣でもなく、また学長でもなくて、いわば退隠の状態にあった高田早苗は、こう懐古して述べている。

〔彼らが〕当時の幹部殊に学長〔たる天野〕に対して反感を抱て居つたのが、其の重なる原因であると云ふことは、自分は後になつて承知したのである。さう云ふ次第であるから銅像問題が中止されたに不係、若手教授連の幹部に対する反対は益々甚だしくなり、学制改革問題が起り、夫が為の教授会が開かれるとなつてから、両者〔プロテスタンツと天野学長〕の間の反目は弥々甚敷なるに至つたのであつた。即ち此若手教授連は恩賜館研究室に屢々会議を開き、プロテスタンツと称して学校改革を激烈に主張し、遂に現幹部殊に学長を更迭しなければ、到底早稲田大学の隆盛を図ることが出来ないと唱へる様になつたのである。然るに当時の幹部内に於ても学長と他の理事との間に意見の疏通を見ることが出来ないので、如此き学長と共に長く其職に留まることは到底不可能であると、三人の理事相共に、申合せる様になり来つた為に、所謂天野内閣の継続は、大勢に於て到底六かしいこととなつたのである。 (「高田博士直話筆記」 『早稲田大学紛擾秘史』第五冊)

この時辞任を申し出た三理事というのは、塩沢昌貞田中穂積田中唯一郎の三名である。後に高田体制の主柱となるが、しかし高田、天野の旧新学長引継ぎの際、天野もその新任に関しては全く合意して異を唱えておらぬいきさつがある。

 プロテスタンツは世間知らずの駄々ッ子である。研究室というものが設けられなかったら、或いは出現していないかもしれぬ恩賜館の鬼子だ。もし旧来のままの、教師の大控室の隅に小さくなっている境遇に置かれたら、長老、中老、初老の諸先輩から、学苑の成立や現組織の情実等がいつの間にか耳に熟して、谷川を流下する岩石が次第に角がとれて、河原に居坐る頃は丸い石塊となっているように、円満化していたかもしれない。たまたま特殊の境遇に恵まれて、恩賜館研究室に野放しにされたために、大学内各方面に情報網を張り巡らせ、苟も不合理なもの、いや彼らの気に入らぬものは片端から取り上げて、非議し、駁撃し、嘲罵・冷笑を加えて快としたため、諸方に摩擦や軋轢を生じたのである。更にその間にさまざまな先輩と接触し談合する機会が生れてくると、漸く事情が分ってきて、やはり早稲田は高田体制で運営しなくてはダメだ、自分らの改革案を最も完全に近く実現する能力ある者は高田以外にないという結論に落ち着かざるを得なかった。

 彼らの言動を一々細叙する必要はないが、次にその散らした火花の一、二を例示しよう。

五 アンシャン・レジームの否定

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 こうした不和を心配した理事田中唯一郎は、個人的資格を以て彼らに会見を求め、三月十三日の話合いでプロテスタンツが広く大学改革論を持っていることを知って、それなら、ちょうど高田前学長もせっかく改革案の推敲中だから、この際寧ろ高田に会見して所見を開陳してみては如何と勧め、三月二十日最初の会見が実現した。同じプロテスタンツと言っても、直接高田から授業を受け、その学問・思想・人柄をある程度じかに知っている政治経済学科出の大山郁夫と、文学科出で、式典の講演など以外には高田に接せず、その懐抱する学説や思想に全く興味のない村岡典嗣服部嘉香とでは、高田に対する信任の度合が非常に違っていた。

 しかし彼らは共々に、母校の制度・教育方針や教師の学力などを一新しなくては、新時代の最高学府の実績の上がらぬことを力説し、前年末より橘静二に委任して起草させた大学改革案、いわゆる「プロテスタンツ原案」を示した。

 この「プロテスタンツ原案」は、「黌憲」「教授任用分限規程」「俸給規程各号表」「学課配当表」を含む膨大な草案(橘静二「早稲田を去る」『大学及大学生』大正六年十二月発行第一巻第一号特別附録七一―七四頁)であり、「教学事項はもちろんのこと、教授の任免、大学運営、大学財政、大学資産の管理にいたるまで、すべてに教授会の権限を貫徹させ、早稲田大学の管理運営全般を教授会に一元的に統轄しようとするもの」(田中征男『近代日本の私立大学における大学自治の一齣――早稲田大学改革運動(一九一六~一七年)について――』一〇頁)であった。しかし、「プロテスタンツ原案」は、坪内が、

東京ッ子で、才子で、中々遣手で、計画が得意だ。経営の手腕もあつて、殊に大学制度の取調は其専修事業である。米国の大学廻りをしてから欧州に入り、前学長に随つて列国を廻る間も専ら大学視察に意を注いでゐた経歴上からも純乎たるハイカラであるべきだが其生来が派手好きである。野球なぞも大好き、江戸ッ子だけに祭礼風の事が好きである。で、どうかすると脱線して、いふ事が虚喝となり、する事が虚栄となり、一寸煽動家ともなり、一寸陰謀家ともなり、官僚臭をも帯ぶが、其本来性からいふと、空想家で、むしろ無邪気で、誰れやらが稚気に富み、衒気に富み、匠気に富むと評したが、さうも言へる。

(「自分の観たる我校の紛擾顚末」 『早稲田大学史記要』第九巻 資料三九頁)

と評した起草者橘の性格を反映していて、その実現性の点で団員内部にさえ疑問があり、団の正式の案とするまでに至っていなかったのであるから、高田が改革の必要については同意したものの、更に実行の可能な改革案を立案するよう求めたのは異とするに足りない。村岡典嗣の筆にするところによれば、高田前学長は、「吾人の運動の早稲田大学発展の勢に生じたる自覚にもとづく合理的の要求なるを承認し、吾人の為に当局者に対して仲介者たらむ」(「早稲田大学改革運動史」『早稲田大学史記要』第四巻四二頁)から、浮田問題などは、暫く矛を納めて留保せよと言うのであった。

 ここで今更の如く気が付くのは、プロテスタンツは、本学苑が新しく大学になってからの卒業生なので、それが東京専門学校時代の遺制に対して反抗の声を挙げたという意味を持つことである。これを根拠にして考察すると、いわゆる「早稲田騒動」は、新旧時代の気圧の差から生じた台風で、避くべからざる必然であったのだ。明治維新が成ったからといって、封建的制度はその時から完全に一掃されたわけではない。西南戦争と自由民権運動で、初めて封建遺制の大掃除ができた。「早稲田騒動」は、あたかも明治維新に対する西南戦争と自由民権運動に似た役割を果すことになるので、東京専門学校遺制に対する大掃除と見るのは、非か。

 修正案は、橘と「プロテスタンツ原案」の最大の批判者村岡との手により四月末までに作成されたが、その内容は、村岡の記すところによれば左の如くであった。

案の本旨は、立憲的校憲を定め、教授上万般の実質の改善をはかるにあるは言ふまでもなし。その校憲の要領は、改善せられたる教授会を根柢として、その互選にかかる常議員会を催け、さらに常議員会の互選によりて総長を戴き、総長は、常議員等を補佐として教授会の決議にもとづいて校務の一切を遂行するにあり。次に教授を学校専任者にかぎることを主として、その他二、三の条件を設けて従来の如き有名無実の教授会を整理・改造すること、図書館研究室の制度・設備を完備ならしむること、教授・訓育上の改善を計ること等諸方面にわたり、第三に高田博士を新制度の総長として戴き、博士の運用によりて真に立憲自治の政を行ひうるの訓練をつまむことを前提的希望とせり。

(「早稲田大学改革運動史」 『早稲田大学史記要』第四巻 四三頁)

この修正案については「現行の維持員会を新決議機関にそのまま吸収するという妥協点を除けば、プロテスタンツ原案の基本構想はかなり忠実に継承されたと言ってよいであろう」(『近代日本の私立大学における大学自治の一齣――早稲田大学改革運動(一九一六~一七年)について――』二一頁)と評されているが、橘が、現状で民主的な選挙を実施しても、その結果について期待できないとして、第一回は高田の指名に一任すべしと主張し、その参考案として候補者リストを作成、恩賜館組よりは、大山・宮島・井上が常議員、寺尾が法科科長、北が師範学校校長、村岡が会計監督、服部が研究発表機関担当、橘自身が教務局長に挙げられていることは、果然大きな波紋を惹起し、やがて、北・井上・武田・寺尾らにプロテスタンツと袂別させ、また「恩賜館組は猟官のための陰謀集団として猜疑の的になってしまう」(同前)遠因となるのである。

 さて、高田に提示した修正案には、結局二十九名の維持員候補者のみを挙げるに止まったが、しかし橘はもともと高田の秘書で、洋行に随従して欧米各大学の見聞を共にし、毎日のように高田の腹案を聞き、しばしば自分も意見を述べているので、理念において高田腹案と修正案とは抵触するところが少い。この修正案が高田に提出せられたのは、五月四日である。

かくて、相たづさへて富士見軒に高田氏と会しぬ。田中唯一郎氏列席す。村岡典嗣吾人の改革案の大要を説明し、同案運用の当事者として高田氏を総長に迎へむとの吾人の希望を開陳したり。細目について他日を期して説明することとなりぬ。博士は、吾人の改革案の精神を諒とし、その大体に於いて実行しうべきものなるを認め、之を当局者に取次ぐべく、更に総長として迎へむとの希望に対しては、その答を保留したり。 (「早稲田大学改革運動史」 『早稲田大学史記要』第四巻 四三頁)

 このプロテスタンツの高田(旧体制の象徴として)に対する不満、或いは反抗が、次第に雪解け状態になって、遂に彼らの大部分が高田推戴に至る経過を、服部嘉香はもっと具体的に描いている。

その頃は、維持員会において、六年八月を以て任期満了となる天野学長を再選せず、高田前文相を迎えようとの策動があった。橘がその情勢を吾々に伝えた時は、「ふーん、そうか」と思っただけであったが、田中唯一郎理事が吾々に対して、「諸君の書付(要求書、意見書を氏はそう呼んでいた)のことも高田先生は心配している。一度会って諸君の意のあることを伝えてはどうか」との申入があった。大山君は、「高田先生は、大隈内閣成立の時に、自分は大学と共に終始するつもりであるから断じて入閣しない、と吾々に誓いながら、改造の機会に急遽入閣した人だ。形態の大を成し遂げた功労は認めるが、これから内容的に真に大学らしい大学とすべき重大時機に当り、誓約を破って吾々を見棄てた人ではないか。殊に過去においては専制者でもあった。面会の必要はない」といい、吾々も同意して田中理事の申入を蹴った。この一事、恩賜館組が高田派でなかったことを証明して余りがあると思う。しかし同理事よりは数回申入があり、吾々も、意見を聴こうとしない現在の当局〔天野学長〕よりも、意見を聴こうという前学長に会うことは無意味ではないだろうと思うようになったし、大山君も、「考えてみれば、高田先生も政治の実際に当って来たし、憲政済美会の会長となって〔寺内藩閥内閣打倒のために〕全国遊説中でもあるし、新時代思想にも十分触れたであろうから、大学の精神並びに行政をデモクラティック・ベイシスに置こうとする吾々の改革意見を理解するかも知れない。試みに一度、悔い改めた高田早苗として会ってみてもいいだろう」というようになったので、吾々も会見を承諾し、求めに応じて「プロテスタンツ原案」の完成を急ぎ、提出したが、一年を四学期に分かち、今日いう一般教育科目、共通専門科目などを織り込んだ先見・創意に充ちた理想案と信じていたので、提出の際には、「この案を現在の当局に取り次いで実行を求められたい。もし当局においてこれを実行する誠意がないか、或は能力がないと認められた場合には、高田先生みずから出馬して実行されたい」との条件を附した。吾々の抵抗行動は一応ここで終ったのであるが、この条件が誤り伝えられて、高田引入運動のように思われたのである。後には、結局、恩賜館組の学制改革案の実行者としては高田博士を最も適任者とするという判断から、高田博士の復帰を要求するようになったが、その間の事情は複雑で、今は書き切れない。

(『随筆早稲田の半世紀』 二六―二七頁)

右のうち特に注目すべきは、高田の学長復帰が公然と打ち出されている点と、デモクラティック・ベイシスの語が初めて現れていることとであろう。

 高田の復帰は、内心これを希望していた者は蓋し少数ではなかったようである。しかし、天野学長下で、情勢きわめて微妙なるものがあり、これを口外することをみな控えている時、そこは若き世代の正直と勇敢さで不遠慮、寧ろ無思慮にこのタブーを破って口外した形である。プロテスタンツは、先ず何に向ってプロテストしようとしたのか。その最大目標は、早稲田の脱却し切れない専門学校的アンシャン・レジームで、これを象徴する者は、建学以来三十年、常に運営の中枢の座を占めた高田と見えた。彼らは出発の当初において特に天野への期待を打ち出してはおらぬが、その限りにおいては自然に天野擁立ということに落ち着かざるを得ぬ。しかし両者に直接接触してみると、天野は、彼らの持ち出した当面の問題、すなわち大隈夫人銅像の善後処理、浮田放言問題、予科二年制印刷問題に対して、因循姑息で、一刀両断の快腕がない。それに引換え、高田の抱く大学改革案と、自分らの提出した橘の起草案とは、少くとも理念においては一致する。そこで、自分らの抱く新体制の大学改革等は、高田の見識と経験と実行的手腕とを以てのみ初めて実現を見るというように、考えが変ってきたのだ。デモクラティック・ベイシスの語の出現は、明らかに当時、四つに組んで何れが勝つとも分らぬ死闘を繰り返していたヨーロッパ大戦の間接的影響で、そしてそのために動揺している我が思想界の直接的反映であった。

六 世界風潮に揉まるる早稲田学苑

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 既述の如く、ヨーロッパ大戦の勃発するや、ドイツはこれを以て、世界最高の価値あるドイツ文化を擁護し宣揚するための戦争であるというプロパガンダを広く、というよりはアメリカを中心目標に、振り撒いている。日本で逸速くこれに呼応して文化主義を主張しだしたのは、米田庄太郎その他の京都大学派およびその追随者であり、学苑では金子馬治である。アメリカでは、ニュース第一を社是とするニューヨーク『タイムズ』が、その発行する雑誌『カレント・ヒストリー』の特集号を以てドイツの誇大妄想宣言を反撃した。この影響から内田魯庵によって「明治文化」という新語が初めて鋳出せられた。イギリスはまた、アスキスのジェントルマン政治を揚棄して狂える猛獅の如く奮い立ったロイド・ジョージ戦時内閣が、ノースクリッフの全面的援助の下に、今度の戦争はドイツの軍国主義的制覇に対するデモクラシー擁護の義戦だという主張を世界に張り巡らした。これに最も敏感に反応したのが、東京帝国大学の異端教授吉野作造の民本主義である。早稲田は古くから、浮田、安部など主として同志社系統の教授による民主思想の淵叢であり、且つ新進大山郁夫が吉野と呼応してデモクラシーの主張者となるので、ここに当学苑の行政に関して「デモクラティック・ベイシス」の語の使用を見るのは偶然ではない。しかも、民主的傾向には従来反対の立場を執ると言わざるまでも、かつてこの語を口にしたことなく、殊にプロテスタンツにこの語をつきつけられて蚰蜒を見るように嫌悪した天野学長も、六月下旬からは、デモクラティック・ベイシスを自家の教育思想或いは大学行政の基本として主唱するに及び、敵味方ともに主張が混淆して、傍観者には是非の判断がつかなくなる。他日「早稲田騒動」の火焰を強くする扇風機の風となったのは、このデモクラティック・ベイシスの語である。

 これを以てみても、一私立大学の学苑騒動とはいっても、何れを是、何れを非とも、軽々には判断を下せぬ世界的風潮が、初めて我が教育界をゆさぶったので、早稲田は最初の、その受難者だったのである。