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第五編 「早稲田騒動」

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第十七章 財政の推移

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一 収支状況

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 明治三十五年九月から大正九年三月までの十七年間は、早稲田大学が大学としての基礎を名実ともに形作っていく時期であり、図書の購入、講師の養成、教室の増築という、創業期の人々が幾十回繰り返し口にし煩悶した三つの悲願が、次第に実現されていく時期であった。それだけに、この時期、特にその前半は、財政的にはきわめて困難な局面が続き、大学は、世の理解ある人々の同情を求め、懸命に基金の募集を行っている。しかし、募集に要する経費を募集した金額の中より支出することは、寄附者の厚意を減殺するとして、経常費の中より支出したから、経常収支を圧迫し、早稲田大学を名告ってからの最初の十年間の収支決算は概ね赤字の連続であり、一時借入金を以て凌がざるを得ない状態が続いた。

 当時の早稲田大学の財政を語る場合、経常勘定と基金勘定の区別を知らなければならない。経常勘定は、大学がその日常生活を営む上で必要とされる人件費や経費などの経常的支出と、それを賄うための授業料その他の経常的収入に係わる会計である。これに対して基金勘定は、大学が募集した基金の収支の会計である。基金は利殖を図り、その利子を経常費の補助に充てることを目的としており、基金そのものは、建築費に流用する場合を除き、これの使用は

第三十三表 明治三十五―三十六年度経常費収支決算表

(『第廿一回自明治三十五年九月至明治三十六年八月早稲田大学報告』50―51頁)

第三十四表 大正七―八年度経常部収支決算表

(「早稲田大学第卅六回報告(自大正七年九月一日至同八年八月卅一日)」『早稲田学報』大正8年11月発行第297号 21頁)

認められていない。経常勘定において、経常費と経常的収入との収支均衡を図るというのが、大学財政の基本的な考え方であった。

 先ず明治三十五―三十六年度(自明治三十五年九月至三十六年八月)と大正七―八年度(自大正七年九月至八年八月)の経常部収支決算(第三十三表および第三十四表参照)を比較してみよう。両年度の収支決算は、収入および支出の科目の名称や分類の仕方が異るだけでなく、また決算の仕方も必ずしも同じでない。明治三十五―三十六年度の収支決算(これに関しては、「明治三十六年度収支決算書」(『早稲田大学収支予算決算書類(自明治三十六年至昭和二年)』所収)と題する手書きの資料が図書館に所蔵されてあるが、ここでは一応公刊された「早稲田大学報告」の数字を採用することにする)には、収入の部に諸預り金三七七円一〇〇が、また支出の部に負債償却(返済)四、二八三円八六八が含まれているので、これを除外して、大学に帰属する収支の金額を比較すると、収支決算の規模は、明治三十五―三十六年度の収入が九八、二二三円二一九であるのに対し、大正七―八年度の収入は四七九、〇四九円九三五と、四・九倍に増大している。また支出額では、明治三十五―三十六年度が九三、七〇三円〇四一であるのに対して、大正七―八年度は四七六、一六〇円五二五と、五・一倍に膨脹している。収入の部の大半を占める学費(授業料)は明治三十五―三十六年度が七三、七七八円七五〇であるのに対し、大正七―八年度には四〇四、五四六円七八〇と五・五倍に、支出の部の過半を占める人件費(講師給、職員給、小使給仕職工給、雑給、慰労手当の合計)は、明治三十五―三十六年度が四八、九二四円二九八であるのに対して、大正七―八年度には三二四、九二三円一八〇と六・六倍に達している。この間に学生数は明治三十六年七月の三、八八二名から大正八年六月の一一、二五四名へと、二・九倍に増加している。収支決算規模がこうした学生数の増加率よりも著しく大きな割合を以て増加していることは、物価騰貴の影響を無視することができないとしても、大学がそれだけ質的に充実していったことを物語っている。

 こうした早稲田大学の財政規模の大きさを示す資料として、『廿五年紀念早稲田大学創業録』(明治四十年十月刊)から、東京帝国大学等に対する政府支出金との比較を行った次の記述を引用しておこう。「経済的経営」と称してはいるが、早稲田大学の財政規模は当時既にかなりの大きさに達していることが知られる。

特にここに読者の注意を請はざるべからざるものは、我が早稲田大学の経営が割合に経済的なる事、是れなり。今東京に於ける重もなる官立学校の経営を観るに、固より多額の国庫の補助を受けざるはなきなり。即ち最近の予算について之れを撿するに、東京帝国大学の政府支出金は八十一万八千九百三十八円、東京高等師範学校は十六万二千六百九十七円、東京高等商業学校は五万七千一百九十九円、第一高等学校は六万一千七百八十円にして、総計百十万円余の巨額を年々国庫より補助しつつあるなり。又た是等諸学校が年々支出するところの総金額は実に百二十一万一千九百八十五円に達するを見るなり。然るに我が早稲田大学は、是等官立の諸学校に比して諸般の設備に遜色あるは固より免がれざる所なりと雖も、又た支出増大の重もなる源因たる理工科・医科の設備全然欠くると雖も、とにかく大学(法・文)、専門学校、高等師範学校、高等商業学校、高等学校、及び清国留学生の為めにする優級師範科までも、一校の内に包括・網羅して、一文半銭の国庫の補助を受くることなく、而かも毫厘も基金を経常費に流用することなく、六千有余の学生を収容して教授すること、之れを称して経済的経営といふも、敢へて不当にあらざるべきを信ず。要するに、早稲田大学がその束脩・授業料を集め、年々二十万円内外の支出をなすの一事も、その包含する所の学科の数の少なからざるを思へば、未だ必ずしも多費なりといふべからざるが如し。

(一五七―一五八頁)

 また、明治三十五―三十六年度から大正七―八年度に至る期間の年度別収支状況は第三十五表の通りである。当時の収支決算では、しばしば借入金や預り金が収入の部に、借入金や預り金の返済或いは積立金が支出の部に含められているので、この表ではこれらの収支を除いた収入と支出を示してある。収支余剰は借入金や預り金の返済に充当され、収支不足は一時借入金によって埋めている。しかし明治四十―四十一年度以降は毎年不足金が生じ、これを補塡するための借入金は、明治四十四―大正元年度において七五、四三三円に達した。

 大正六年十二月に、「早稲田騒動」に関連して行われた会計調査の報告書(九六九―九七一頁参照)にも、明治四十―四十一年度から大正五―六年度に至る十年間の収支状況が、ここに示した表と同じように示されている。この「早稲田大学会計調査報告書」では、明治三十九―四十年度までの不足額の累計を八、四七六円五七三とした上で、「大正元年度に於ては従来の欠損積んで八万九千百三十七円十一銭六厘に達せり」(『早稲田学報』大正七年二月発行第二七六号三頁)と報告されている。右の「会計調査報告書」に示された金額とここに示した金額との差異は、主として、調査報告書において積立金を支出額のうちに含めていることから生じている。積立金は明治三十九―四十年度から四十二―四十三年度までに二三、八七六円八六七が積立てられ、負債の返済に充てられている。当時、積立金は総収入の五パーセントを支出科目として計上し、負債の存する間はこれをその返済に充てるという計画であったが、実際に積立てられた金額は計画通りにはいかなかった。

 明治四十―四十一年度から同四十四―大正元年度まで毎年度収支不足金が生じた原因は、年度ごとに必ずしも同じでない。それらの年度の収支不足は既に予算編成の段階で見込まれており、明治四十―四十一年度の予算説明書には次のように書かれている。この説明から、明治四十―四十一年度の収支不足の原因が、創立二十五周年式典費などの臨時支出の多かったことにあるのが知られる。

第三十五表 年度別収支状況(明治35―36年度―大正7‐8年度)

本年度ニ於テ六千余円ノ不足ヲ生ズル主タル原因ハ、収入ニ於テ、高等予科及ビ専門部一年級学費増加ノ為メ約一万六千余円ノ増収ヲ見タルモ、一方ニ於テ高等師範部一年級ノ廃止及ビ清国留学生部学生ノ減少ノ為メ、其学費ノ減少ヲ見タル結果、収入ノ増加前年度ニ比シ僅カニ金二百余円ニ過ギザルニ対シ、支出ニ於テハ、二十五年式典費金三千円、電話購入諸費金六百三十余円、清国留学生部理化博物用機械器具金三千二百円、ボート新調費金九百七十五円、臨時校舎大修繕費金一千二百余円、基金募集費金八百円、合計金九千八百余円ノ避クベカラザル臨時支出アルニ基クモノニシテ、其等特別支出ヲ以外ニシテ之レヲ観レバ、本年度収支予算ハ、高等師範部・清国留学生部学生ノ減少アルニ拘ラズ、多少ノ剰余ヲ見ルベキモノナリトス。

(「明治四十一年度予算説明書」 『早稲田大学収支予算決算書類(自明治三十六年至昭和二年)』所収)

 ところが明治四十二―四十三年度と四十三―四十四年度の予算説明書では、収支不足は、不景気による学生数の減少に基づく収入不足と、理工科新設などに伴う費用の増加とに起因するものであることが明らかにされている。

前年度〔四十一―四十二年〕ニ於テ収入減少シ支出増加シタルノ結果、従来ノ負債ヲ減額スルヲ得ザルノミナラズ、却テ其増加ヲ見タルヲ以テ、本年度〔四十二―四十三年〕ニ於テハ努メテ収支相償フノ方針ヲ採リ、且ツ出来得ベクンバ負債ノ幾分ヲ返却セント欲スレドモ、如何セン一般ノ不景気ハ本年度ニ於テモ尚ホ継続サルベキ形勢ニシテ、随テ入学生ノ増加ヲ見込ム能ハズ、且ツ清国留学生部ノ閉鎖、高等師範科ノ不振等ノ事実アリテ、学生数ノ減少ヲ免レズ、依テ已ムヲ得ズ収入増加ノ目的ヲ以テ学費増徴ノ案ヲ立テタリ。然レドモ其結果トシテ来年度ニ於テ増収サルベキモノハ、本年九月入学スベキ専門部学生及ビ来年四月入学スベキ高等予科学生ノ学費ニ過ギズ。右ノ如クナルヲ以テ、一面支出ニ於テ削減方針ヲ採ラザルベカラズ。依テ講師給ニ於テ半額、其他ノ費目ニ於テ半額ヲ削ルコトトナセリ。以上ノ方針ニヨリテ予算ヲ組メルノ結果、尚ホ一千九百円ノ支出超過トナルト雖モ、他方ニ於テ既定ノ積立金ヲ為スガ故ニ、彼此相比ブルトキハ本年度ニ於テ約七千余円ノ負債償却ヲ為シ得べキ見込ナリ。而シテ大ニ負債ヲ減ズルヲ得ルノ時機ハ、基金募集ノ事業アリテ其費途ヲ要セザルニ至リ、且ツ学費ノ増額一般学生ニ及ボスノ時ニアルベシ。 (明治四拾参年度早稲田大学「収支予算書」 同書所収)

本年度〔四十三―四十四年〕ノ学生数ハ昨年度予算ヨリ約三百名ヲ減ジテ計上シタルヲ以テ、曩ニ学費ヲ引上タル結果ノ漸ク上級ニ及ブニ拘ハラズ、多ク収入増加ヲ見込ム能ハズ。支出ニ於テ理工科二学年ノ新設其他同学科ノ為メ要スル所ノ費用漸ク多キヲ加へ、基金募集並ニ学生募集ニ要スル費用等ハ之ヲ減ズルヲ得ズ。為メニ本年度支出ハ特ニ節約ヲ旨トシタルコト勿論ナリト雖モ、尚昨年ニ比シテ多少ノ増加ヲ避クル能ハズ。結局収支ヲ差引キ金九千二百五十七円五十八銭五厘ノ不足ヲ生ズルコトトナレリ。 (「明治四十四年度早稲田大学収支予算説明書」 同書所収)

 このように困難を極めた大学財政も、大正元―二年度には収支がほぼ均衡した上、先に基金部よりの一時借入によって運動場用地として購入した池袋の土地一万余坪を売却して得た利益四六、五二七円八九七のうち、三三、〇〇〇円を負債の返済に充当したため、一時借入金は四二、四四三円に減じた。その後、大正二―三年度から漸次収支に余裕が生じ、年々の剰余でこの借入金は返済され、大正四―五年度には完済されている。

第三十六表 収入総額に占める学費等の割合(明治35‐36年度―大正7‐8年度)

(注)学費等の割合は小数点2位以下を切捨て。

 第三十六表は、収入総額(諸預り金を除く)と学費等の学生納付金を年度別に比較したものである。ここで学費等は、そのうちに学費(授業料)のほか、入学金(束脩)、試験料、体育費、図書費、実験実習費などを含めてあるが、収入総額のほぼ全額に近い。大学は学費の外に頼るべき収入源を持たなかった。従って、経常費の節約を図ってもなお回避し得ない支出に対しては、学費の改訂でしか対処し得ないという私学の宿命は、既にこの頃から存在していた。

 明治三十七―三十八年度(自明治三十七年九月至三十八年八月)の収支予算書には、学生数と一人当り学費等が第三十七表のように示されている。これによると、学費は月額で、大学部三円、専門部二円、その他二・五円であり、一年に十一ヵ月納付することになっている。その後、一般物価の騰貴に伴う校費膨脹のため、学費は何回か改訂され、新制度に移行した大正十年度には年額で、大学学部九十円、専門部六十円、高等師範部・高等学院七十円にまで達している。近年、学費改訂に際し、改訂された学費を新入学生に対してのみ適用し、在学生に対しては入学時の学費をそのまま据置くことの是非がしばしば議論されるが、先に掲げた明治四十二―四十三年度および四十三―四十四年度の収支予算説明書に見られる通り、こうした慣習が既に当時の学費改訂の際に存在していたことは興味深い。

第三十七表 明治三十七―三十八年度学費等予算

(『早稲田大学収支予算決算書類(自明治三十六年至昭和二年)』より)

 第三十八表は、支出総額(諸返却金を除く)と人件費の金額を年度別に対比したものである。支出総額のうちに占める人件費の割合は、五〇パーセントから七〇パーセントまでの間で変動しているが、概ね六〇パーセント台であり、七〇パーセントを限度としている。後年、大学を経営する人々が、大学財政の基本原則の一つとして、「人件費は支出総額の七〇パーセントを超えてはならない」という考え方をしばしば示しているが、それは、こうした事実に由来するのであろう。

 なお大正七年には、経常費を補助するための賛助会が設立されている。賛助会の設立は大正七年十月十一日の維持員会で決議され、同月二十七日創立三十五周年記念祝典の席上で公表し、翌二十八日校友大会でその賛同が求められた。賛助会に対する醵金の申込みは、大正八年八月三十一日現在で、人員一、七六〇名、金額四四五、三〇〇円に達しているが、実際の収入は二二、八八九円で、この中から人件費その他諸経費を控除した残高は一五、四九七円〇一〇であった。大正八―九年度の収支予算書には賛助会受入金一一、〇二八円〇七五が計上されていたが、決算ではこの年度の収入が支出を上回り、剰余が生じたため、その受入れは行われなかった。

第三十八表 支出総額に占める人件費の割合(明治35‐36年度―大正7‐8年度)

(注) 人件費の割合は小数点2位以下を切捨て。

二 資産と負債

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 大学の資産負債表が初めて作成されたのは明治三十六―三十七年度(自明治三十六年九月至三十七年八月)であった。『第廿二回自明治三十六年九月至明治三十七年八月早稲田大学報告』には、「本校経費決算の報告は従来其年度の収支のみに留めしが、本年度は会計規程制定の結果改正を加へ、随て左の如く資産負債と損益の二表に別ちたり」(五四頁)との前書きがある。第三十九表に掲げたその大学最初の資産負債表は、明治三十七年八月三十一日現在で経常部に属する資産および負債を記載したものであった。この資産負債表は、資産の部を貸方、負債の部を借方と呼んでいる。これは、現在一般に使われている「借方」と「貸方」の用語の使い方と反対であることが、注目される。

第三十九表 明治三十六―三十七年度資産負債表(明治37年8月31日現在)

(『第廿二回自明治三十六年九月至明治三十七年八月早稲田大学報告』 54―55頁)

 この資産負債表は、明治三十五年九月に東京専門学校が早稲田大学へと組織を改めてから二年を経過した時点での資産と負債の状態を示している。第一回の建築工事は早稲田大学が開校の式を挙げた時に既に終っていたが、第二回工事もまたこの二年間でほぼ完了しようとしていた。

 明治三十五年九月に大学部を開設するに先立って、これに入学すべき学生の予備門たる高等予科が三十四年に発足したため、講堂・教室の建築と図書館の拡張が最も緊急に必要とされた。そのうち書庫と閲覧室の建築は、第一回工事として三十四年四月に始められ、一年半の歳月を費して三十五年十月に完成した。この第一回の建築費は四七、〇八八円一二六であった。これに続いて、高等予科教室二棟、大学部商科兼早稲田実業学校教室一棟を中心とする第二回工事が始められた。第二回工事は三十七年十二月に完了しているから、この資産負債表が作成された三十七年八月三十一日現在では建築費は大体支出が終り、一二四、四八五円七七三と示されている。

 資産負債表の中に、旧諸建物、旧諸器具、旧図書という科目が見出される。これらは東京専門学校時代のものであろう。中で旧諸建物、旧図書の金額にはその後追加が見られ、大正三年八月三十一日には、それぞれ六四、七五〇円七五〇、二三、三一九円八六〇に達している。しかし大正三―四年度以降は、新旧の区別を廃し、右の旧資産も新資産と合せて、建物、機械器具、図書として表示されている。

 大学の資産には、このほかに基金勘定に属するものがあった筈だが、この方は報告されていない。資産負債表は翌三十七―三十八年度に資産負債対照表という名称に変更された。資産負債対照表という名称は、その後大正七―八年度に経常部貸借対照表と改称されるまで、継続して使われている。

第四十表 大正七―八年度経常部貸借対照表(大正8年8月31日現在)

(「早稲田大学第卅六回報告(自大正七年九月一日至同八年八月卅一日)」『早稲田学報』第297号21頁)

 明治三十六―三十七年度の資産負債表(第三十九表)を大正七―八年度の経常部貸借対照表(第四十表)と比較してみると、資産総額が二四〇、三九六円から一、八八〇、四七一円へと、八倍近く増加していることが分る。他方、負債の金額は、明治三十七年八月末日で、諸預り金・未払金・支払手形を含めて六七、五七四円七〇四であり、大正八年八月末日では二四八、一八四円一三〇である。負債総額は約三・七倍になっているが、資産に対する負債の割合は二八パーセントから一三パーセントへと半減している。

 更に、大学の資産の過半を占める土地および建物について、明治三十六―三十七年度から大正七―八年度までの推移を尋ねると、第四十一表の通りである。この表には明治四十年八月と大正二年八月の数字が欠けている。資産負債対照表は、収支決算書とともに、毎年「早稲田大学報告」(明治四十一―四十二年度までは単行本として、明治四十二―四十三年度から明治四十四―大正元年度までは『早稲田学報』の一冊として、大正二―三年度以降は同誌の別冊附録として、公刊された)に公表されているが、明治四十年と大正二年は、たまたま創立二十五周年と三十周年に当り、それぞれ『廿五年紀念早稲田大学創業録』『創立三十年紀念早稲田大学創業録』の刊行を以て、「早稲田大学報告」に代えたのであるけれども、『創業録』には収支決算書は記載されていたものの、資産負債対照表は掲載されていなかったからである。

第四十一表 年度別土地および建物の状況(明治36‐37年度―大正7‐8年度)

 第四十一表から分る通り、建物の方は、大学組織に改めて以来建築工事が進められ、増加が見られるが、土地は明治四十一年に至るまで全く所有していなかった。校舎の建設された七千坪弱の土地は大隈家よりの借地であった。大学が初めて土地を所有したのは、明治四十一年二月、穴八幡付近に宅地四、〇九六坪を購入してからであった。既述(二五七頁)の如く、これより先、四十年十月、二十五周年記念祝典の当日、大隈総長が大学敷地の全部六、八七六坪の寄附を言明したが、その登記は四十一年二月に購入土地の登記と同時に行われた。

 この時期、早稲田大学は社団法人から財団法人にその組織を変更している。当初、大隈が寄附を言明した学校敷地と新たに購入した土地とを合せて登記し、財団法人を組織する予定であった。しかし財団法人の組織には多少の時日が必要であったため、社団法人から財団法人への組織変更を実行するには、次の方法が用いられた。先ず大隈寄附の学校敷地を以て財団法人早稲田大学を組織し、大学としての一切の事業をこの財団法人に移管する。他方、従来の社団法人早稲田大学は解散して無期限に清算中の状態に置き、その後適当な時期に社団法人早稲田大学の財産を財団法人早稲田大学に引き継ぐ。このため、穴八幡付近に購入した土地の方は、取敢えず従来の社団法人早稲田大学の財産に編入した。

 財団法人早稲田大学は、主務官庁より設立の許可を得、四十一年五月にその登記を完了した。その後、明治四十一年八月から大正七年八月までの資産負債対照表は、財団法人早稲田大学の資産および負債と、旧社団法人早稲田大学の資産および負債とを、合併して表示している。

 大学はその後、隣接の土地一、九五二坪を大隈家に請うて購入し、二九六頁に既述した如く、初めて一万坪を超す敷地を所有するに至った。しかし大学はなお、運動場に充てる土地を必要としていた。当時、大学の後方にある福田某らの所有地五、四〇一坪を借り受けて使用していたが、こうした状態は早急に解消しなければならなかった。先ず大学は、明治四十三年九月、北豊島郡池袋村に、運動場用地として一〇、五九五坪の土地を七二、〇八八円二八三で購入したが、この土地は大学と離れていて不便であった。このため、大学後方の借入地の購入につき所有者と交渉を重ね、遂にその同意を得て、四十四年十一月にそれを購入した。この購入により、池袋村の土地は不要になったため、大正二年二月にこれを売却した。こうして大学は、不十分ながら、敷地、運動場および控地を有することとなった。

 大正三年十二月に大学は、基本財産の一部として北多摩郡国分寺村に総坪数一三、二七五坪九二の土地を購入したほか、大正四年六月には、大学敷地と運動場との間に介在していた大隈家、麴町銀行、鈴木三吉所有の土地総坪数三、三〇〇坪五六を新たに購入し、地形の整理を始めている。大正五年四月には、同じく大学敷地と運動場との間にあった坪谷善四郎所有の土地九二七坪、下戸塚の小川重次郎・重吉所有の土地一、七八六坪を購入したほか、運動場整理のため相馬永胤所有の土地九〇〇坪と大学所有の土地九〇〇坪の交換を行っている。

 こうして、大正六年八月三十一日現在の大学敷地は運動場を含めて一九、一九四坪六七となり、穴八幡下、下戸塚、小石川、国分寺、軽井沢等の所有地四〇、二六八坪〇八と合せて、大学は五九、四六二坪七五の土地を所有することとなった。建物も、この時点で、棟数七十二棟、建坪三、六一〇坪、総延坪六、四八二坪に達している。

三 基金募集

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 学苑は大学自称期において、名実ともに整備されていったが、そのために必要とされた資金の大半は、三回の基金募集によって賄われた。すなわち、

第一期基金 明治三十四年三月―四十二年八月 二六二、七二二円二七〇

第二期基金 明治四十年十月―大正八年八月 九四九、一六五円六三九

御大典記念事業資金 大正四年十月―八年八月 六三二、八六〇円七三〇

である。

 第一期基金の募集については、第一巻九七二頁以降に記述した如く、大学昇格に必要な準備を整えるために、基本金三十万円を募集し、そのうち五万円を建築費に充て、二十五万円を確実なる管理のもとに利殖を図り、校費の補助とするという構想であった。

第四十二表 第一期基金年度別申込額および実収額

(『第二+七回自明治四十一年九月至明治四十二年八月早稲田大学報告』40―41頁)

 この第一期基金の総決算は二六五―二六六頁に既述した通りであるが、上表に見られるように、実収額は申込額をかなり下回り、四十―四十一年度には五六、二九一円三九〇を整理減額した結果、四十二年八月三十一日を以て決算された段階では、申込額二六二、七二二円二七〇、実収額二二八、二五八円〇二〇であった。このように実収額が申込額を下回ったのは、基金納付の中途で申込者が死去したり事故に遇ったりしたため完納に至らなかったからで、一般によく見られる例である。このため、こうした人々の寄附は既納の分を以て全額完納として処理し、残額を打ち切った。また同じ理由で、期限に至るまで全く納金のない人々の申込額も削除された。

 第一期基金は、目標額三十万円のうち五万円を建築費に充てることが予定されていたが、実際にはこの五万円は、大学開設に備えて建築された図書館書庫と閲覧室にすべて消費されてしまったので、第一期基金のうち二一九、一八七円五〇三が建築費に充当されるという結果となり、残額四三、八六二円四五七が、未収基金、有価証券、預金および現金という形態で、第二期基金に繰り越された(『早稲田学報』明治四十三年十月発行第一八八号一三頁)。

 しかし、その後、第二期基金に引き継がれた第一期基金残高は、明治四十四年に一〇〇円、四十五年に五〇円が追加されて、大正八年八月三十一日現在の基金勘定で四四、〇一二円四五七と報告されている。従って、最終的に、第一期基金の申込額は二六二、九七二円二七〇、第二期基金への繰入額は四四、〇一二円四五七であったことになる。

第四十三表 第二期基金年度末申込合計額

(『創立三十年記念早稲田大学創業録』104-106頁による)

 第二期基金の募集は、二七〇頁以降に前述した如く、明治四十年十月二十日に挙行された創立二十五周年記念祝典で、大隈総長や高田学長の口を通じて発表された第二期計画に対応して始められたが、そのための基金百五十万円の募集が発表されたのは明治四十一年二月であった。その募集規定の内容は二七三頁以降に既述した通りである。

 しかし、当時財界は不振の極にあり、世間一般に対して基金募集を発表するのが憚られるような状態であった。こうした暗澹たる基金募集の前途に一縷の光明を与えたのが、四十一年五月の宮中よりの御下賜金三万円(二七一頁参照)であり、この恩賜金により基金募集の端緒が開かれた。第二期基金の申込合計額を各年度末について示すと、上表の通りである。

 この時点までの第二期基金応募者数は二、六八〇名に達した。このうち、第一期基金の募集に応じ、更に第二期基金の募集に応じた人の数は四二九名であった。これらの人々は第一期に十三万円以上を寄附し、更に第二期において四十一万円以上を寄附しているので、前後を通じて大学への寄附額は五十四万円以上になる。また、校友で第二期基金の募集に応じた者の総数は一、五八〇名で、その寄附額は二四二、一二七円(大正二年七月現在)に達している。

 大学の当初の意気込みでは、一挙に目標額百五十万円の募集を完了しようと願っていたが、当時の経済環境でそれだけの金額を募集するのは容易なことではなかった。たまたま明治天皇崩御のこともあり、創立三十周年記念祝典を一年延期し、せめて三十周年記念祝典を挙げるまでに百万円を集めようとした。しかし、前後六ヵ年間を費して募集した金額は、遂にこの目標額すらをも満たすことができなかった。けれども、一私学の力を以て、第一期・第二期を合せて、ともかくも百十八万円余という巨額の基金を募集し得たのは、注目すべきことであった。

 大正八年八月三十一日現在、第二期基金は決算を完了していないが、同時点で第二期基金は、申込人員二、七三七名、申込総額九九四、三七八円〇九六、収入総額七五〇、八一〇円六八六に達した。その貸借対照表は第四十四表のように作成されている。

 次に御大典記念事業資金は、八二八頁以下に既述の如く、大正四年十一月に挙行された大正天皇御即位の大典を祝い、御大典記念事業として、大学教育の眼目たる研究機関設備を完成することを目的として、総額三十万円が同月から募集された。この資金は御大典を奉祝するという意味で計画されたから、学苑関係者は金額の多少に拘らず、できる限り洩れなくこれに参与するという趣旨で、在学生にまで資金醵出の勧誘が行われた。その申込額は忽ち予定募集額に達したが、既述(七二五―七二六頁)の如く、たまたま森村豊明会より応用化学科建設費の特別寄附があったので、その新設を御大典記念事業の一つに加える一方、研究室の完備や構内建物の整理等に多額の経費を要することとなったため、大正五年五月、大隈総長邸における実業家招待会の席上で、募金総額を五十万円以上に改めることを発表した。

第四十四表 第二期基金貸借対照表(大正8年8月31日現在)

(「早稲田大学第卅六回報告(自大正七年九月一日至同八年八月卅一日)」『早稲田学報』大正8年11月発行第297号 22頁)

第四十五表 御大典記念事業資金年度末申込合計額

(「早稲田大学第卅三回報告(自大正四年八月一日至同五年九月卅一日)」『早稲田学報』大正5年10月発行第260号 20頁,「早稲田大学第卅四回報告(自大正五年九月一日至同六年八月卅一日)」同誌大正6年10月発行第272号 20頁,「早稲田大学第卅五回報告(自大正六年九月一日至同七年八月卅一日)」同誌大正7年10月発行第284号20頁,「早稲田大学第卅六回報告(自大正七年九至同八年八月一日月卅一日)」同誌大正8年11月発行第297号22頁による)

第四十六表 御大典記念事業資金貸借対照表(大正8年8月31日現在)

(「早稲田大学第卅六回報告(自大正七年九月一日至同八年八月卅一日)」『早稲田学報』第297号22頁)

 御大典記念事業資金は、大正四―五年度末において、申込総額五四二、七八四円○八○(森村豊明会よりの、応用化学科創設費寄附金五六、○○○円を含む)、実収総額一五九、六六五円四六○(同上)に達していたが、決算完了前の同八年末には、それぞれ六三二、八六○円七三○(同上)、五七五、三八六円○一○(同上)、申込人員一、四二八名を数えるに至った。その年度末申込合計額および大正八年八月三十一日現在の貸借対照表は、第四十五表および第四十六表の如くである。

 基金は利殖を図り、その利子を以て大学の事業の用途に充て、基金そのものは、校舎建築や敷地購入に流用する場合を除き、これを使用することは許されなかった。それのみならず、基金募集の費用さえも、基金そのものの中から支出せず、常に経常費中より支出した。この方針は第一期基金の募集の時より一貫して守られてきたが、第二期基金の募集の時はこの方針を守ることがかなり苦しかったようで、当局者は次のように述懐している。

蓋し募集に要する経費を募集したる金額の内より支出するが如き事之れあれば、是れ明かに寄附者の厚意を減殺する所以なるが故、本大学は、夙に該経費は一切之を経常費の内より支出す可しと誓言し、第一期の募集に際しては、既に此の誓言を実行したるが故、第二期の募集に際しても、亦た必ず此の誓言を実行せんと期せしに、第二期の募集額は、第一期の募集額に比すれば、固より同日に論ず可きものにあらざりしかば、随つて其の経費も多額に上り、之が為め本大学は、一面巨額の基金を募集し得ると同時に、一面経常経済に不足を生ずるが如き奇観を呈したれ共、遂に不撓不屈の精神を以て当初の誓言を実行することを得たるは、聊か吾人の快感を覚えたる所なれども、而かも亦た局外者の知り得ざる一大苦心の存せし所も、実に此の点に在りし也。 (『創立三十年紀念早稲田大学創業録』 一〇八頁)

四 大学令による大学設立の準備

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 大正七年末の大学令発布に伴い、次巻に説述する如く、大学は大正八年に大学令による大学設立の認可を申請して、大正九年二月五日、その認可を得た。また、これに伴って改正された学則も、大正九年三月三十一日に発効している。従来の大学部各科が学部と名称を改めたのは、この時期である。また大学の会計年度は、それまで、前年の九月一日からその年の八月三十一日に至る一年であり、終了時の年を年度の呼称としているのを、本書においては理解を容易にするため開始・終了の両年をともに記載する方式を採用してきたが、この時期に、四月一日から翌年三月三十一日に至る一年に変更されたので、それ以後に関しては年度開始の年のみを記載する方式を採用している。その結果、過渡期として、学苑の当時の呼称による大正九年度(本書では大正八―九年度)は、大正八年九月一日から大正九年三月三十一日までの七ヵ月を以て決算を行っている。そして大正九年四月一日から大正十年三月三十一日までの会計年度を、一応、二次大正九年度(本書の方式では大正九年度)と呼んだ。

 大正八―九年度は七ヵ月しかなかったが、大学令に依拠する大学として早稲田大学が再出発するために、きわめて重要な年度であった。大学令による政府供託金、高等学院の新築費および設備費として、合計百五十万円の資金の必要が見込まれたため、大正八年一月から理事田中穂積が専らその局に当り、大学基金の寄附を募集した。大学基金の募集は、早稲田大学として第四回目の基金募集であり、大正九年四月末日現在において、応募者は一三〇名、金額は一、〇一八、九八〇円に達し、大学当面の改造事業はこれを以て着々と進められた。

第四十七表 大正八―九年度貸借対照表(大正9年3月31日現在)

(「早稲田大学第卅七回報告(自大正八年九月一日至同九年八月卅一日)」『早稲畔報』大正9年12月発行第310号 22頁)

 大正九年三月三十一日は、早稲田大学が大学令による大学として再出発する直前の日であるが、この日現在で大学全体の財政状態を示す貸借対照表が、初めて作成されている。その貸借対照表は第四十七表の通りであるが、これには、明治十五年に東京専門学校が創立されて以来の、早稲田大学の財政の歴史が刻み込まれている。未収基金を基金申込者に対する大学の債権と考えるならば、この時点で大学の資産は三、五六三、八三五円九九六に達しているが、こうした資産の七〇パーセント強は、広く一般から募集された基金によって取得されたものであった。すなわち、この貸借対照表に示された基金二、五六二、六二九円九一九は、第一期基金(払込額)、第二期基金(払込額)、御大典記念事業資金(申込額)、大学基金(申込額)の合計である。これは、明治三十四年三月に学苑が初めて第一期基金の募集に着手してから大正九年三月三十一日に至るまでに寄せられた、いわゆる「世の理解ある人々」の厚意の結晶であり、早稲田大学の財政的基盤はこうした人々の善意の上に築かれたのであった。