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第五編 「早稲田騒動」

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第十三章 「早稲田騒動」(上)

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一 反抗的早稲田体質

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 もしそれ「早稲田大学百年の歴史において最大の危機は」と問われたら、経営的、精神的、学問的など答える側の立場によって種々であろうが、一般の常識からすれば、大正六年の「早稲田騒動」であったとするのが、最大多数を占めるに違いない。実はこれには正式な名称もつけられておらず、その必要もなかったであろうが、東京大学の寄宿舎に同じ釜の飯を食い、まだ狐が鳴き、雁が舞い降りた頃の早稲田田圃に、新学苑開設で同じ辛労を積み、その道で三十五年苦楽を共にした盟友(内心はどうあったろうと、世間の目にはそう映った)同志が、二派に分れて血みどろの苦闘を演じたのは、確かに「都の西北」の学府を土台から振盪し、震憾した。渦中の一人北昤吉が、「紛擾に紛擾を重ね、昨日の親友は今日の仇敵と化し、教授・学生相詈り、先輩・後輩乱れ戦ひ、紛糾結んで解けざること約二ケ月、啻に我が国のみならず、実に世界に於ける学校騒動史上の新記録を造つた」(「私立大学の前途」『中外』大正六年十一月発行第一巻第二号三二頁)と記したのは、必ずしも誇大の言ではないのである。

 その原因も単純ではないものの、背景として地色をなすのは、その体臭からして、何となくrebelliousであったのを否定することはできない。その当時、東京帝国大学出身の教育専門のある先輩が、「早稲田騒動」は他の単なる学校ストライキや紛騒と違い、規模が大きく予想に反してなかなか鎮定せぬどころか、日に日に猖獗を極めてくるのに目を見張り、「やっぱり早稲田だなあ!」と、感嘆とも嘆息とも分らぬ呟きを発したという話が伝わっているが、なるほど「やっぱり」という一語に、千万無量の深い含蓄がこもっている。

 東京専門学校は、既述(第一巻第二編第七章参照)の如く、明治十四年に公卿と薩長藩閥のクーデターに遭って下野した大隈重信の、政府に向っての満腔の反抗心から出発した学苑で、設立早々から西郷の私学校になぞらえて「大隈の私学校」と呼ばれ、これが我が大学を支える土性骨となっている。されば明治二十年代の卒業式における教授・先輩の祝辞の中には、就職に官界を選んだら前途は嶮難だという警告が発せられているのを見る。この「官界拒否反応」は取りも直さず権力に対する反体制の姿勢に外ならない。

 従って、早稲田学生の官学出教師に対する「いじめ方」は乱暴を極めた。正宗白鳥の思い出話によると、教師になりたての島村抱月が講義に馴れず、教壇の上をあちこち歩き回るのは目障りだから、抗議しようと一度は決議しながら、同学の先輩だからと言ってそのままに止み、これに反し高山樗牛の美学に対しては、既述(第一巻六六九―六七〇頁)の如く語学の才ある者をドイツ語の夜学に通わせてわざわざ準備させ、食いさがる手筈まで決めた。そうまでして、官学に向って対抗心を燃やし立てるのが早稲田の学生気質であった。

 社会主義が現れるとすぐそれに燃えつき、早稲田はこのいわゆる危険思想の醞醸源となった。その出版部は、既述の如く、明治三十五年、『近世無政府主義』(煙山専太郎著)を刊行した。この書は今日なお一読に値し、この時期においてこれだけまとまった無政府主義の研究が上梓されたことは、特筆に値しよう。足尾銅山の鉱毒が一世の問題になると、率先してその視察に赴いたのは、先述の如く早稲田の学生であり、平民社が結成せられた時、手弁当で奉仕したのも、早稲田の学生であった。日露戦争の講和に不満の日比谷騒動が起った時、参加した中で早稲田の学生が最も目立ち、憲政擁護運動でその整々たるデモンストレーションを行った主力も、また早稲田学生であった。学苑の記念祝典の提燈行列が皇居前広場に整列して、手に手に酸漿提燈を掲げて万歳を三唱した時、皇居からは女官が堤上に現れて、同じく提燈を振って応答したが、その時彼女達が、眼前に拡がる燈の海を見て「今に天下は早稲田のものになるのではあるまいか」と危惧に襲われたと語ったというのは、有名な話である。これらを総合して学風のイメージをまとめると、「やっぱり早稲田だなあ!」と感心せられた理由がうなずける。

 しかし、この外界へ向って活動し、躍進し、悪く評すれば虚勢を張ったのは、大体明治時代を以て終熄する。それまでは、もし学内で内訌を起せば、基礎薄弱で自然に潰れ、或いは他の力で潰される心配があった。従って、明治の早稲田にはストライキの歴史は殆どない。坪内逍遙の甥で日露戦争の時に戦死した坪内鋭雄の在学中の日記(未公刊)を見ると、学内でこれを計画した気配はあったらしいが、実施を見合せたのは、ひとえに、それが学苑の伸長の妨げになるばかりか、危くすると学校の命取りとなることを怖れたからである。

 しかし大正に入り創立三十年記念の年になると、大学はある発展段階まで到達し、日本一の私学たる勢力を張って、もはや外へ向って反抗し、示威する必要がなく、ちょっとやそっとの外的圧力、例えば藩閥政府の暴圧を以てしても、びくともせぬだけの自信がついてきた。そうなると、今まで外にのみ発散させていたエネルギーを潜在させて、その不満が学内に内訌していくことになる。

 実は大正の初期、大学前にあった書店同文館の販売店で、高等予科生が一冊の書物をくすねようとして捕まった事件がある。書店は学校に何も知らせず、いきなりその学生を警察に突き出して、ささやかながら新聞記事になった。予科生は各科直ちに連絡し、もともと早稲田学生に依って経営の成り立っている店が、この些細なことは学校へ連絡するのが順序でありながら、いきなり警察沙汰にした不都合を責め、直ちに不買同盟を決議してボイコットに入った。一週間もたたず、同文館では売行の急減に悲鳴をあげ、学生課に調停を依頼したが、予科の団結組はなかなか承引せず、その頑強さに学校当局をてこずらせた。大学側では、予科生が容易に書店の申し出に応じないのに意外の面持をなし、「当節の学生はひどく変ってきた」と言ったのが伝わって、ボイコット組は凱歌をあげた。学校幹部や学長の諸権威に向っても、筋の通らぬことは敢然として反対し、抵抗する気風が、いつの間にか養成せられてきていたのである。

 これのもう少し規模の拡大されたものが、明治末から大正初頭にかけてのいわゆる魔窟征伐である。鶴巻町の裏町に私娼窟が栄えたのに憤激した学生は、手荒い騒擾をいやがる大学当局の無関心・不熱心を尻目にかけて、夜ごとに鬨の声を上げて闇の商売を不可能にし、彼らが警察に手を廻して穏便の調停を計り、そのために示された申し出を学生組ははねのけて、初志を貫徹し、その徹底的粛清を企てた。こうした内訌的傾向が大化膿を起して、遂に決潰したのが、「早稲田騒動」だったと見ることができる。

二 大隈色絶対排除案

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 「早稲田騒動」はほぼ前後一年の長きに亘り、その中心の三、四ヵ月はまさに火を吹く白熱的激しさであったが、その攻防の中心題目は何であったのか。一般には、高田早苗天野為之の学長の座の争奪戦だったと思われている。いな、紛争の当事者の一人で、昭和十五年九月、『校紛録』(「当時余〔市島〕の左右に居つて紛擾の経緯を余の旨を承けて関太郎〔明治二二邦語法律科〕が筆録したもの」)、『外平内動録』(「紛擾の前年、高田が学長を天野に譲らんとした時、自分〔市島〕が衝に当つて学校前途の方略に関し内交渉を行ふた時の記録」)、その他「校紛に関する記録」を学苑に寄託した八十翁市島の如きは、「此の事件は結局天野の嫉妬から生じた醜事件で、天野が左右のために傀儡に仕はれた意気地のない歴史である」(『養痾漫筆』巻十四)と、二十三年を経過した後においてさえ、嫌悪の感情を露骨に表明して憚らない。しかし高田も天野も、初期東京大学出の紳士であり、天下の碩学である。早稲田大学学長の椅子がどんなに高く、尊いものであるにしても、それを争うのに、なりふりも構わず賤劣な闘争を露骨に展開することがあろうか。

 三十周年記念祝典は盛大に挙行されたものの、学風は明治期の終焉頃から沈滞期に入り、改革・刷新の待望は諸方に萌していた。ただ、その新構想はいかなる体制の下にまとめらるべきか。

 一つの案は、旧来の大隈総長・高田学長で建築してきた体制を基軸として、それを動かさずに手入れを施すことで、改革というよりも寧ろ修繕案と言うべきものである。その中には、高田・坪内・市島三長老の如く、自分らは身を引いて新時代に交替するが、しかし天野は大学行政の手腕に乏しいからその手に渡さず、自派の若き後継者に譲ろうとする者と、恩賜館組プロテスタンツの大部分の如く、天野の手腕は試験ずみだからこれを除外し、高田への還元を望んだ者との二派に分れるが、当時の大学当局者は、塩沢昌貞田中穂積金子馬治などの本学出身の大先輩も、浮田和民安部磯雄など、他から入ってきて枢軸部を占めた教授も、多く高田復帰を望む第二案の支持者で、少くとも天野に望みを嘱した者は、大学内ではきわめて少数に過ぎなかったと言える。

 これと対立した改革案は、大隈総長を廃して大隈家との過去一切の旧縁を絶ち切り、真の学問確立のために立ち上がろうという大胆不敵な抱負を持ったもので、これが天野自身の潜在的な考えであった。つまり、早稲田大学を過去の歴史の殻から全的に離脱させようという、改革どころか全くの革命案である。これの支持者は、後二、三の新進教授が加わったのを例外として、早稲田首脳部には一人もいなかった。しかし学外では、『東洋経済新報』の記者で本学出の石橋湛山がこれを支持し、局外の全くの無縁者としては、元京都帝国大学教授の無責任な放言居士として有名な谷本富が、純粋な学問確立のためにはそうあるべきだという意見を『雄弁』第九巻第一号(大正七年一月発行)に発表している。従来、世間でぼんやりと考えられていた如く、単に高田・天野の学内政権争いに留まるなら、それが日本学苑史上、空前にして絶後とも言うべき学校騒動を捲き起した原因としては薄弱だが、大隈的影響を全く払拭して徹頭徹尾純粋の学問確立を計るというのであれば、ああまで激烈に、白熱的に、血で血を争う凄惨酷毒な紛争となったのも、それだけの理由があったと言える。

 従来、この問題を取り扱うのに、過去の二つの本大学史、すなわち西村真次の『半世紀の早稲田』は「今日〔昭和七年〕はまだ事件の展開について詳述する時期に達してゐないから省く」(二九一頁)と言い、中西敬二郎の『早稲田大学八十年誌』は、事件を要約した後、「現存資料だけで、高田側や天野側の人々の是非を決めるのは早計であり、若しその裁決をする必要があるならば、それは時が定めるか、公正な資料が発見されるか、或いはまた透徹犀利な史家の眼にまつ外はなかろう」(一七二頁)と、結論を下すのを回避している。「早稲田騒動」の核心が、大隈というキャップを全面的に排除するか、これを非とし、暴として、防護するかにあったことは、薄々その当時から噂が立たぬではなかったが、これはワセダ・マンにとっては冒瀆にも等しい禁秘事項に類するから、この点に気付いた者も恐らくタブーとして筆にすることを遠慮したのではないか。このいわば大隈排斥とも考えらるべき天野の信念は、十九世紀以来ひそかに懐抱せられていた由来の古いもので、逸速くこれを察知して警戒したのは高田自身である。大学が騒動直後にその経過に関する資料を集成した記録集『早稲田大学紛擾秘史』(筆写本)の第五冊に収録された「高田博士直話筆記」にこうある。

天野氏は兎に角学校の元老の一人たるに相違ないのであるから、此人をして可成其名誉を全ふせしめ其終を能くせしめたいと云ふのは、素より自分の冀望であつたが、不幸にして或る事件の為に自分は天野氏の心事を疑はざるを得ざることになり、其以来両者の関係は益々冷却するに至つたのであつた。それは如何なることであるかと云へば、明治三十三年自分は専門学校を改めて大学組織にする冀望を抱き、自ら奮て其事に当らんと決心して遂に政治上の関係を絶ち、初めて基金の募集に従事し、明治三十五年に至りて、東京専門学校を改めて早稲田大学と改称せしむることにした。然るに大学組織が一ト通り完成して間もないことであつたが、当時の校長鳩山和夫氏と天野為之氏との間に、自分を退けて両人相提携して学校の実権を掌握せんとするの密約が成立したのである。自分は当時毫も其事に気付かなかつたのであるが、従来維持員会を開く度毎に自分の提議は曾て一度も排斥又は修正を蒙むつたことのないにも不拘、其頃の維持員会に於ては往々両人より謂はれなき故障を提出し、自分の施設を妨げんとするの徴候が現はれて来た。於是か自分は鳩山・天野両人の間に、何等かの提挈が成立したと云ふことを気付たのであつたが、其後間もなく鳩山・天野の両人よりして自分を大隈侯爵に弾劾したのであつた。其弾劾の個条は大体三ケ条に渉り、

 第一 は自分が大学経営の間に募集したる基金を私消したと云ふことである。

 第二 は自分が建築を命じたる請負師と結托して収賄したと云ふことである。

 第三 は自分が出版部を横領して自家の処有となしたと云ふことである。

尤も鳩山氏、天野氏の両人が提挈して自分に反対を試みた時に当て、自分は寧ろ天野氏をして一時局に当らしむる様にする方〔が〕宜しかろうと考へて、坪内・市島の諸君とも相談の結果天野氏をして学監たらしむる方針を執り、天野氏も亦自分の後継者となることを承諾したのであつたが、彼是交渉を重ねて居る内に学校の前途に対する方針について、天野氏は自分及其他の人々と全く意見を異にすることを発見したのである。即ち自分達の考では、学校の第一期経営が了はつたからと云つて夫丈に止めて置ては、基礎が確実にならないから、更に続て第二期経営の計画を立て理工科を設けなければならぬ。それが為には再び基金を募集しなければならないが、已に第一期の募集をした後であるから大に面目を一新するにあらざれば、第二の募集をすることが出来ない。是に於て大隈侯爵を煩はして早稲田大学の総長となし、其威望と其勢力との下に立つて、第二期計画を遂行しなければならぬと云ふのであつた。然るに天野氏は第二期計画と云ふことには断然不同意であると言明し、限りなく学校を拡張するのは不利益であると云ふ意見を抱くのみならず、大隈侯爵を総長となすのは早稲田大学の独立に害があるから、是亦同意が出来ぬと云ふ次第であつた。そこで坪内君等の意見として、如此学校の前途に対して意見を異にし方針を別にする以上は、天野氏をして局に当らしむることは早稲田大学の利益でないと云ふことになつて、遂に交渉を中止し再び自分が局に当て、第二期計画の衝に当ることになつたのである(市島氏『外平内動録』参照)。斯る次第であるから天野氏は当局者たらんとして遂に其目的を達ずることが出来なくなつた為に、頗る不満であつたものと見へて、益々鳩山氏との提携を堅くし、前述の如くに自分を弾劾することになつたのである。然るに所謂三ケ条の弾劾理由なるものは何れも問題にならぬことのみであつた。

第一 に自分が基金を費ひ込だか、費ひ込まぬかは、帳面を開けて見れば直に解るのである。又、

第二 に請負師と結托した抔と云ふことをいふけれども、当時の建築事業は初めより大隈侯爵に一任して侯爵が自ら監督せられ、総て材料も自ら注文せられて出来上がつたのであつて、自分及学校は只侯の命に依て基金を差出したのみで、何等の関係がなかつたのである。如此次第であるから、若し建築其他について曲事があるとせば、又請負師と結托せることがありとすれば、侯爵が曲事をなし請負師と結托したことになる訳である。又、

第三 に出版部のことの如きは、其一両年前に極度の悲境に陥つたことがあつて、其儘にして置ては学校に迷惑を掛けるといふ虞があり、鳩山氏・天野氏辺りも其事について彼是議論があると云ふことであつた処から、自分から提議して、出版業の如き浮沈の多いものを学校自らの経営にして置く時には、一朝失敗した場合に迷惑を之に及ぼす虞があるから、寧ろ之は自分個人の経営に移し、自分一個で全責任を負ひ、若し利益があつたならば、其一部を学校に提供し、若し損失があつたならば、其全部を自分の負担にすると云ふことを申出した処が、鳩山氏・天野氏を始め一同大賛成を表し、其結果自分と学校と契約をすることとなり、其契約書中に自分が多年出版部を経営して利益を学校に与へたること、又之を自分の責任に移さざるを得ざるに至つた理由等を詳密に明記して、遂に自分が経営をすることとなし、坪内・市島・田原其他の人々を匿名組合員とするに至つたのである。当時天野氏にも亦組合員の一人となることを勧めたのであつたが、其勧めに応じなかつた故に除外することになつたのである。

さう云ふ始末であるから、所謂三ケ条の弾劾理由なるものは、殆ど何等の価値のないものであつた為に、其事については大隈総長に凡そ十分間ばかり会談して直ちに問題が解決せられ、大隈総長は自分が自ら建築其他のことの衝に当つたのに、請負師と結托した抔といふのは、自分が結托したと云ふことになるではないかと云はれて、一笑に附された次第であつた。如此重ね重ねの不始末が一方にあつたと同時に、鳩山氏は政治上其説を二、三にし、遂に政友会に走ると云ふことになつた為に、大隈侯爵は斯る人に学校は委ねることは出来ないと云ふ理由から、之に辞職を勧告さるることとなり、其結果自分が学長となつて第二期計画の衝に当ることになつた次第である。

この鳩山・天野の提携説を傍証するに格好なのは、理事田中唯一郎の次の談話である。

天野氏は超然として高処に翔翺し、功名・利達には敢て関せざるが如く粧ふて居らるるが、実際はなかなかそんなものではない。女性的の名利心・嫉妬心が頗る強烈で、現に故鳩山博士の校長時代に、囲碁会と称して同志の教師連十数人を集め、毎月一回宛鳩山博士の宅に会して、窃に高田先生を陥擠せんと計画したこともある。自分も知らずに一度仲間入をしてみたことがあつたが、陰謀の気分が漲つて居るのを見て、其後の出席は止めてしまつた。

(「田中唯一郎談話」 『早稲田大学紛擾秘史』第七冊)

これで思い出されるのは、鳩山前校長の馘首を早稲田大学がきわめて無造作に、冷淡に、また非礼的に決めてしまったのを、春子夫人が泣いて口惜しがっている記事を前に掲げた(二二一頁)が、かかる背景があってみれば、或いは弁護の余地もあったろう。

 なお、高田も田中唯一郎も同一陣営に属したのであるから、その所説の合致に不思議はないとして、この資料を軽んずる者があるなら、全く反対側に立って天野派の首領の如き役を務めた後年の首相石橋湛山の、左の如き手記「大正六年の早稲田騒動」を見よ。

それには天野博士にも、ある意味において責任があった。天野博士は確かに早稲田大学から高田博士と大隈侯との勢力を駆逐しなければならぬと考えていたのである。校規の、いわゆる民本的改革とは、天野博士にすれば、そこに目的があり、その含みで主張したのであった。また、それであればこそ、天野派として行動した我々には、天野博士に共鳴するところがあったのである。しかし高田博士およびその側近者から見れば、もちろんこれは飛んでもない事である。彼等が絶対に天野博士を許し得なかった所以である。また大隈侯としても、侯およびその子孫の特権として保持した終身維持員の廃止をさえ、天野博士が主張すると聞いては、心に愉快を感ずるわけがない。 (『石橋湛山全集』第一五巻 二四九頁)

この天野博士の考えは、当の対立者たる敵役の高田博士が言うばかりでなく、この時の天野派の総帥と世間も思い、「私は、この騒動に、のっぴきならぬ事情から首領の位置に据えられ、全責任を負う立場を取った」(同書同巻二四五頁)と自認している石橋湛山が言っているのだから、十分に信用できるし、また信用しなければならない。

 しかし今から冷静に考えてみて、大隈色を払拭して、天野統率に置かれた早稲田大学などというものの実現が、そんなに望ましいことであったろうか。第一、大部分の学生がそれに魅力を感じて集まってくるとは思えない。当時はまだ、大隈あっての早稲田大学ではなかったか。純粋学問の確立の立場から大隈家と絶縁するというのは、なるほど、抽象的理想としてなら考えられないことはない。しかし、それを実現し得る可能性が少しでもあるか。実現しても、それが、よりよき早稲田大学となるのに貢献するという当てがあったであろうか。社会的に見て大隈色の早稲田大学と、学問の純理想からいう無色透明の早稲田大学、或いは天野色の早稲田大学との何れが、文化的により多くの貢献をなし得るか。この点から現実に即して比較考量されなくてはならない。

三 賛否の色分け

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 例えば、幾百千の較竜、海波を潑して争う宝珠の如き目標は、前述の如く、大隈・高田的早稲田か、或いは無色的または天野的早稲田かの二者択一にあるとして、これを争った両巨頭は、騒動勃発時点での前学長高田早苗と現学長天野為之とである。

 しからば、ここに端的に問題を絞って、両者の何れが学長としてより適当であったか。早稲田大学内の当事者が教授・職員こぞって高田派であったのは、前述の通りである。単に東京専門学校以来の創立関係者、早稲田生え抜きの諸教授がそうだったばかりでなく、最も公明なる立場を執れる人々として中外の信望の厚かった浮田和民安部磯雄の両教授も、明確に強き高田支持であった。いや学校経営者としては高田が遙かに勝れ、天野は寧ろ学者で、経営的な実務の点においては遙かに高田に劣ることは、天野を担いだ石橋も、後年に至って明白にこれを認めている。その点を石橋自身がいかに考えていたか、その自記から抜萃しよう。

天野博士の東京専門学校に於ける位地は……、最初は高田博士と全く同格であって山田一郎高田早苗天野為之田原栄が交代で監督の任に当ったこともあった。然るにいつの頃からか、学校経営の実権は次第に高田博士に集り、専門学校が大学に改められた頃には、最早主役は高田博士で、坪内博士は云うまでもなく、天野博士も大学に於ては脇役を勤めていたに過ぎなかった様に見える。之は思うに高田博士が無理に策謀して左様な権力を握ったわけではなく、夫々の人の生れ付きの性格から自然に起った推移であろう。高田博士は非常な才人で、経営の能に勝れていた。其の代り学者としては遂に天野・坪内の域に達しなかった。私が明治三十六年に早稲田大学に入学した頃には、最早講義も余りしていなかったようであった。然るに之れに反して、天野博士は経営の才もなかったとは云えないが、その最も得意とする所は経済学の研究であり、其の講義であり、経済問題の評論であった。又学校に関して云うならば、天野博士は其の内容である教育そのものには非常の興味をもち、熱意を抱いたが、校舎を造ったり、之れが為の資金を勧募したりする、謂わば企業的の仕事は、出来れば避けたい方であったに違いない。 (「天野為之伝」『石橋湛山全集』第一三巻 五六六―五六七頁)

更に石橋は、天野博士の功績・手腕も十分に認めるとともに、次のようにも言っている。

自ら早稲田実業学校を創立するのみならず、早稲田大学にも商科を設けしめた。我が国の諸大学に商科が作られ、帝国大学の経済学部が法学部から独立するに至った如きは、いずれも天野博士の主張に淵源したと云うて善い。其の功績は著大であった。併し此の事は同時に、天野博士の注意が経済教育と云う一部に集中し、綜合大学としての早稲田大学全体の経営に万遍なく興味を持つと云う点に於ては、或は欠ける傾を持たしめたかも知れない。早稲田大学の実権がいつの間にか高田博士に移ったのは、蓋し此等の理由に出たものであろう。膨張期の早稲田大学の首脳者としては、公平に見て高田博士が適任であった。

(同書同巻 五六七頁)

かくの如くであってみれば、早稲田大学の総合的な発展を期する上からは、高田が遙かに勝れていることは、敵味方ともに十目十指するところである。それがなぜ、水の低きに流れ、風の空気が稀薄な方へ吹く如く、自然にすんなりと行われなかったのか。騒動は蓋し、この無理から摩擦が起きて、火花を発して燃え拡がったと言うべきであろう。

 これに絡んできたのが、道義と情誼の問題である。大隈内閣改造に当り、文相としての迎えが掛かると、高田は早稲田大学の学長を天野に譲って、文相に就任した。これは「学長の椅子を弊履の如く捨てて」とも、或いは「復帰するまで暫く預けておいて、文相をやめると取返す積りであった」とも、人によっていろいろに解釈せられている。「文部大臣をやめたからとて、忽ち天野博士を退け、再び自分が学長の位地に戻るというのは、甚だ手前勝手の仕打ちである」と考える者が多かった。中には、「それこそ道義上許すべからず、随ってこれが学生に及ぼす教育的影響も甚大である」と切論する者も、少い数ではなかった。また高田は、大臣の肩書の他に貴族院議員・勲一等の栄誉を得ているのに、今ここで天野を学長の椅子からまで追い立てようというのは、手前勝手にすぎ、欲が深すぎると言う者もあった。この噂は、鐘の音の拡がるように学生にも伝わってきた。そして純情な彼らは、内部の事情は何も分らないので、この時点では、ぼんやりとながら天野同情派の方が優勢だったと思われる。

 既述の如く、大学内の首脳陣・教授陣・職員陣は高田支持が絶対的に多く、或いは天野支持は殆どなかったと極言してもよいであろう。それは、繰り返して言うが、天野の経営的手腕に対する不信任に由来している。しかし学生には、経営的な内部事情に理解の及ぼう筈はないので、漠然とながら、この際は天野支持が多数を制していたと言える。そして殊に学外では、高田復帰を道義的・人情的に批判して非とする者が少数ではなかった。この両者の気圧の差が、「早稲田騒動」という台風の風源となってくる。

四 鉄筆版と称する怪文書

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 比喩が許されるならば、東京専門学校体制は日本家屋の如く、大学昇格はそれに洋風建築を加味し、その後の商科・理工科の増設その他の発展は増築拡大の観がある。皇居前の広場に展開された学苑の提燈行列に堤上から燈を振って応答した女官が「今に天下は早稲田のものになる」と洩らしたという先の揷話は、きわめて暗示的である。早稲田は、外からの素人目には日本一の私学に成り上がった。それは、新建材を用いた建築が外観上の壮麗さを誇るようなものである。鵜崎鷺城が「慶応と早稲田」と題する一文で、「甚だしい懸隔はないにしても確かに〔早稲田の方が〕一枚か二枚下である」(『中央公論』大正二年十一月発行第二九八号一五頁)と言っても、内心顧みて否定し得ない弱点があった。

 しかし何ものも欠陥を持たぬものはない。従ってその点で、早稲田当局を非難はできぬが、ネジが緩んで人知れずガスが洩れ、いつの間にか室中に充満したのだ。もしこの際マッチを擦ったら、一点の火の粉はバッと爆発を起して、新建材の壮麗だがどこか脆弱な建造物を吹っ飛ばすに似た状態であった。さればこの際、その点火者に全部の責任を負わすことはできない。たとえ彼の手を待たなくても、いつかは爆発せずにはおかぬ悪条件は既に揃っていたからである。と言って、点火者の責任を全く没却してしまうこともできぬ。恐らく彼は、普通ならば、大学史に名前を留めるほどの存在ではない。たとえその名が記録されることがあっても、人々の記憶には残らなかったであろう。彼は恐らく、天野支持のため誠心誠意尽すこと以外に、何の考えるところもなかったであろう。しかし師天野のために画策奔走したことが、却って鶍の嘴と食い違って、遂に天野を惨敗させることになったのは、まことに天道是か非かの嘆きなきを得ない。彼の名は佐藤正である。

石橋湛山は事件の発端についてこう書き出している。

大正六年六月の十九日か二十日ごろであったろう。当時牛込天神町にあった東洋経済新報社に、早大学長秘書の佐藤正君が尋ねて来た。其の話によると、この八月に天野為之博士の学長の任期が終るが、それと共に再び高田早苗博士を復活させる隠謀が行われている、そのため市島謙吉坪内雄蔵及び浮田和民の三長老が、二十一日の午前におもな教授を、またその午後は在京評議員を召集して、それらの人々を説得する手はずになっているから、何とかこの隠謀を阻止することに協力して貰いたいというのであった。佐藤正君は明治四十二年の哲学科出身で、後には代議士にも出た人だが、大正四年八月天野為之博士が学長に就任すると共に、その学長秘書になった。最近知ったことだが、天野博士の女婿の浅川栄次郎君(当時早稲田大学の教授であった)が推薦したのだそうである。……私は元来、天野為之博士とは大学時代に全く縁故が無く、東洋経済新報に勤めるに至って後も、博士は、すでにこの雑誌の経営には関係せず、正月の年賀に博士邸に行って面会した程度のことであった。従って私は、天野博士が果して早稲田大学の学長として適任であるかどうかもわからず、また東洋経済新報社の恩人なればとて、それ故是非とも天野博士を早稲田大学の学長に推さねばならぬなどという私的感情は毛頭抱いていなかった。しかし前記の佐藤君の報告を聞いて、ただ一つ直ちに私の心中に浮んだ感想があった。それは高田早苗博士の学長復活には絶対に賛成しがたいということであった。高田博士は大正四年八月、大隈内閣の改造に際して文部大臣の位地につくため学長を辞し、その跡を多年の協働者である天野博士に譲ったのである。しかるに今大隈内閣が倒れ、文部大臣をやめたからとてたちまちまた天野博士を退け、再び自分が学長の位地に戻るというのは、はなはだ手前勝手の仕打ちである。のみならず、早稲田大学は長く高田博士の専制の下にあって、ために種々の弊害も生じているらしい。すでに早稲田大学には若手で、例えば金子馬治とか、塩沢昌貞とか、田中穂積とかいう自校出身の人材も相当に出来ていることであるから、たとい創立の功労者であるにしても、元来他校の出身者である高田・天野・坪内の如き元老は引退し更始一新するがよろしいとは、私のかねて抱いていた意見であった。そこに佐藤君が前記の話しを持って来たので、私はいささか憤慨した。天野博士を推す推さぬは別問題として、とにかく三浦〔銕太郎〕氏とも相談して、出来る限り教授と評議員とに話しをして見ようといって別れた。しかし問題は、すでに一両日の後に迫っているので、多くの人にこの話しを持ってまわる余裕はなかった。私は教授では永井柳太郎波多野精一の両氏、評議員では当時朝日新聞の編集局長をしていた松山忠二郎氏を訪問して、佐藤君のもたらした情報を伝えた。同じく評議員でその頃東京の弁護士界に勢力のあった若林成昭氏、代議士の斎藤隆夫氏等にも連絡したが、これらは多分三浦銕太郎氏から話したのであったろう。佐藤君はどれほどの運動をしたか知らないが、私としては実は、はなはだ動かなかった。のみならず、永井・波多野・松山の三氏にも、前述のとおりの理由で、あえて天野博士を支持してくれとは頼まなかった。三氏もまたいずれ会合に出席して十分事情を聞き、善処しようというだけであった。勿論私はこの結果が、後に実際に起ったとおりの大騒動になろうとは、夢にも想像しなかった。 (『石橋湛山全集』第一五巻 二四五―二四七頁)

この中で先ず、「高田早苗博士を復活させる隠謀が行われている」という表現が穏当でない。早稲田大学の名で大正六年九月に発表せられた『学長問題経過概要』には、こうある。

〔大正五年〕十月、大隈内閣総辞職に際し天野博士は書を高田博士に致して、病気の理由により学長辞任の意を洩したることあり、高田博士は之に対し飽迄留任を勧告して、其辞表を返送したり。之と前後して大学内部には事端漸く繁く……校内の紀綱弛緩の状ありて、前途甚だ不安の感なきを得ざりき。此情勢を看取せる幹部は事重大ならざるに先ち、適当の時機に於て局面を一変して之を匡正するより外なきを思ひ、善後の策を商議するの必要を感ずるに至れり。而して理事会に於て始めて正式に此事を議したるは五月十一日にして、……兎に角事甚だ重大なれば、尚回を重ねて商議すべきことを申合せたり。然るに此際天野博士は右の申合を為したるに拘はらず、他の理事に計る所なく、突然高田博士に書を送りて病気勝ちなるの理由を以て再度の辞意を述べ、然るべく維持員会に伝達せんことを依頼し、且つ後事は他の三理事をして之に当らしむ可しとの意見を添へたり。高田博士は、期限中の辞職は不得策なるを以て辞意を翻さんことを求め、若し其決意にして動かすこと能はずとすれば、暑中休暇後に於て徐うに善後の方法を懇談すべきことを答へ、一先づ其辞表を返送したり。当時他の三理事は毫もこの事ありしを知らず、後に至り天野博士の言明によりて初めて之を知り(〔六年〕六月十二日の理事会に於て)、後ち高田博士に就て其真相を詳にしたる次第なりき。 (三―四頁)

すなわち三理事は、天野学長自身の口から聞いたと言うのだから、彼が辞意を表明したことは疑う余地がない。

 この件に関しては六月十二日に理事会を開き、この時は天野学長自身も三理事も出席して、みんなの任期は八月末までだから、任期満了とともに相携えて引退する決定をした。これは理事会から維持員会に提出するのが順序だが、「突然の事にもあり、善後策を定むる上に於ても不便なるのみならず、他に漏洩して動揺を来すが如きことありては不得策なれば」(同書五頁)、公然発表することは見合せた。しかし一先ず、この旨は高田前学長に通じ、先輩諸氏(坪内・市島・浮田)の内議を乞い、その上で維持員会で公表するのがよかろうということになって、高田前学長に経過一切を打ち明けて、善後の相談をした。坪内は次のように回想している。

ここに先輩諸氏とあるのは、市島、浮田及び自分なぞを指したものらしく、此幾日か以前にも一通りの経過だけは聞いてはゐたが、六月十七日に急に改めて招かれて高田君の宅で市島君・浮田君同席で、善後策に関して相談を受けることとなつた。尚他の維持員も参会して種々協議を凝らして見たが、仮令かういふ行懸りになつてゐないまでも、早晩何等かの一刷新を校規や学則の上に行はねばならぬ有様となつてゐるといふことは、誰れの観る所も一致するのだから、此際高田君が復任して、銅像問題以来、半解決又は未解決のままになつてゐる種々の紛議を一掃すると同時に、将来永遠の為に地盤の据え直しに努力するといふ事は、至極結構なことであらうといふことに衆議が帰着したので、其通り同君に勧めると、同君は「自分は目下憲政会との関係もあり、世間の思惑もいかがはしいから、甚だ迷惑だが、目下の事情を知つてゐながら傍観するのも何だから、やつて見てもよい。併しそれは是非教授会及び校友一般の希望であつて、さうして何処からも異議が出ないといふやうになつてゐなければ困る」といふことであつた。これは無論さうであるべきだと誰れも思ふ所であつたので、それぞれ其手続きに及ぶこととしたが、尚憲政会の方が気になつたから、念を押して見たところ「それは大隈総長からも、よく此事情を話して貰ひ、われわれからもくはしく止むを得ない仔細を説明したら、大丈夫異議はなからう」といふことであつた。で、市島・浮田の両氏は、すぐさま侯爵邸へ此協議の結果を報告に出向き、同時に教授及び評議員中の主なる人々へ、二十一日を期して、一方は大学応接室へ午前中に、一方は早稲田俱楽部へ正午までに、参会せられたいと通告した。尚此決議を市島氏が天野学長へ伝へたのも、同じ日の事であつたと記憶する。以上、何の異議もない、尋常一様の事件の推移・流動だとばかり、自分は迂濶にも看取してゐたところ、後になつて考へると、もう已にそこに怖ろしい暗流が渦巻きはじめてゐたのであつた。

(「自分の観たる我校の紛擾顚末」 『早稲田大学紛擾秘史』第六冊所収、『早稲田大学史記要』昭和五十一年三月発行第九巻 資料四一―四二頁)

 坪内は更に回想の筆を進め、「例の鉄筆版の、長文の印刷物――中傷記事――が作製され、都下の各新聞社へ、早稲田大学校友有志の名義で配付されたのは、十九日中の事であつた」(同誌同巻四二頁)と言って、その大要を語っている。しかしこの印刷物こそ、まさに充満ガスに投げ込まれた火種とも言うべきであり、「早稲田騒動」を燃え上がらせた直接原因と言うべき重要資料であるから、左に原文を『早稲田大学紛擾秘史』第二冊より転載しておく。

拝呈、貴社益御清栄奉慶賀候。扨突然ながら生等は早大の一校友として、且又教育界の革正に微志あるものとして、悲しむべき一事を御報申さざるを得ざる事出来仕候。と申すは、早稲田大学の内部は今や一種の陰謀団跳梁し、校規を紊乱するのみか私利私情のために同大学を私し、それらに都合悪き現学長天野博士を排斥せんとする陰謀に御座候。即ちその中心たるは同大学の理事田中唯一郎氏にして、市島謙吉氏その背後の糸を引き、浮田博士等を使嗾して、前学長たる高田博士を再び引き入れんとの企図に御座候。かくの如きは一面には愈同大学をして暗黒裡に陥るるものにして、又一面には同大学を政党化し、早稲田大学の校是たる学の独立を害する教育上由々しき事となし、頗る心外に不堪候。就ては、左の事実御参考の為に左右に供し候間、何卒御精査の上適当の御批判下され候はば幸甚に御座候。 早稲田大学校友会有志

尚早大校友の有志者は、此回の成行如何によりては、早大改革を旗印として有力なる運動を起すべき計画もありと聞及候。是亦御参考迄に御耳に入れ置候。

一、田中唯一郎は高田前学長時代事務一切の権を掌握し、会計上に於ても少からざる不正の点あるやにて、従来非難少なからざりしが、一昨年九月天野学長就任以来、田中穂積博士会計監督理事となりしがため、往々にして、過去の非の曝露せる場合もあり、此の上久しく天野博士学長たるに於ては、遂に自己の位置の保たれ難きを恐れ、前記市島氏等を始め有力なる維持員を説得し、即ち高田博士の復活を計画したる次第の由。

一、大隈内閣の際早稲田大学の職を罷め役人生活に入れるものの中には、同内閣瓦解後再び大学に舞戻る運動をなせる向あるも、天野学長のため阻止せられ其目的を果さず。是等の連中も亦之を含み、田中唯一郎一派に組みしつつある形跡あり。

一、高田前学長の会長たる憲政済美会(大隈〔伯〕後援会の後身)は早稲田大学を利用して活動を試むる計画なりしも、之亦天野学長のため、学問の独立及び大学将来の発展の見地より、教授及学生の学業を廃して同会のため奔走するを禁ぜられたるが、高田博士一派は之を以て天野博士の無能呼はりをなしつつある形跡あり。

一、早稲田大学会計の紊乱に就ては、種々なる事実あるらしきも、田中唯一郎一味を除いては其真相を知るものなきを以て、一々之を挙ぐるを得ず。併しながら大学会計の委細が何人にも公開せられざる事こそ即ち少なからざる不正の潜める証拠と見るべし。数年前会計課員の二万円消費事件なるものあり、当時新聞にも現はれたるが、遂に其金額は帳簿を誤間化し弁済し終りたることに糊塗し了れり。田中唯一郎は現に妾二人(一人は小石川伝通院前横丁にて田中寓と標札あり、一人は牛込早稲田劇場附近に住す)を畜ひ、市島謙吉は書画骨董数万円を競売に附し宏壮なる邸宅を購入し、又高田博士も国府津及長岡に別邸を構へる外東京府内にも少なからざる土地を所有し、且其所蔵書画の如きは数十万円を算する由。是等の資金は果して何れより出でたるか、是等諸氏定規の収入より観察すれば頗る不思議と云はざるべからず。

 これは『万朝報』と『中央新聞』に左の如き記事として掲載せられた。『万朝報』がこれを掲げるのは、いわゆる学生新聞と称されていたのだから当然としても、『中央新聞』は、この頃は政友会に買収せられ、その機関紙たる観を呈していた。従って反大隈的・反早稲田的立場から、舞文曲筆の露骨な痕があるのは掩い難い。

高田氏早大学長に復せん/校友有志の憤慨の檄/前幹事の陰謀と做す

早稲田大学々長天野為之氏は、一昨年九月前学長高田早苗氏が文部大臣に就任するに際して其後を襲ひしものなるが、今回天野氏が職を辞して再び高田氏が学長となり、近日中其発表あるべしとの事なり。之に付「早大校友有志」の名にて「右は前幹事田中唯一郎氏が高田学長時代に、会計上種々なる不正を行ひしを、天野学長就任以来過去の非行暴露するを恐れ、一味を語らひて天野氏排斥を企てしものなり」となし、尚田中氏等の不正を数へて、私利私情の為に早大を暗黒裡に陥れ、且校是たる学の独立を傷つけ、同校を政党化するものなりとの檄文を各方面に飛ばし、「若し陰謀遂行さるれば、早大改革の旗印の下に有力なる運動を起さん」と呼号しつつあり。之を早大の有力なる一職員に訊せば、「学長の任期は三年毎に改選の規定であるが、高田前学長は就任後一年で文部大臣となり、天野氏が後任に挙げられたのである。天野氏の任期は未だ尽きないが、今回都合があつて高田氏再任と決し一両日中に発表の筈で、併し陰謀云々の事は全然無い」と語れるが、高田氏自身は与らずとするも、曩に朝に入る都合にて学長に推し、野に下れば之を去らしむる如き勝手なる遣方は、世の非難を免れざる所なるべし。

(『万朝報』大正六年六月二十日号)

早大騒ぐ/天野学長排斥運動/高田博士の復活と新学長擁護

城北に巍然として聳ゆる早稲田大学が、今や学長争奪の紛擾に、高田派と天野派と分れて血で血を洗ふ喧嘩をやつて居る。事は大隈内閣瓦解後から起つて居る。抑も大隈侯が内閣を組織して首相とならんとした時、極力老侯を引留めたものは学長の高田博士であつたが、老侯が頑として之を退け首相の椅子に着くに及んで、天下の形勢漸く老侯に利ありと見るや、今迄盛に老侯を引止めて居た高田博士は続いて文部大臣の椅子を占め、更に早大出身者を駆つて大隈伯後援会を組織して、神聖なるべき学苑を政争の巷と化してしまつた迄は先づ宜いとして、扨て大隈内閣が瓦解し高田博士が浪々の身となるや、急に又学長の椅子が恋しくなつて来た。然るに学長の椅子は、高田博士が文相就任と共に早大で最も信望のある天野博士が之に就くことになつた。天野博士は其の人物の如く、何処までも着実堅固の方針を持して、教授や学生が大隈伯後援会の後身たる憲政済美会に赴くを禁じ、一方由来伏魔殿と称されて居る同大学の会計整理に一大改革を行ふことを企画した。然るに同大学の会計は頗る紊乱をして居つて、今若し新学長の断乎たる改革を加ふるに至らば如何に醜悪な事件が暴露せぬとも限らぬ為めに、早くも天野新学長の排斥を企て高田博士の復活を計画し出した。此の陰謀団の中心と目されてるのは、現在同校理事で、従前高田学長の折には実際学長の事務を執つてゐて会計の事は一切一人で切り廻した田中唯一郎氏である。田中氏は高田学長と同国人で、数十年来高田博士の恩顧を受け、埼玉派の頭目を以て任じて居たが、田中氏は近頃頗る有福な身分となつて、小石川伝通院横丁及び早稲田劇場附近との二箇所に妾宅を構へてゐる有様である。而して早大の会計の委細は何人にも公開されず、数年前に二万円の金が会計課員の手で消費されて間もなく糊塗されて了つたと云ふ怪事件及び種々の後暗い事実が沢山あると噂され、更に田中氏の背後に糸を引いてる人物は書画骨董で数万円を儲けた市島謙吉氏であり、更に又浮田和民博士等も使嗾されて、新学長排斥の陰謀団の一味となり、之に大隈内閣の出来た時学校を廃て役人となつた連中が内閣瓦解後学校に舞戻らうとして天野学長に跳ねつけられた恨みを晴らさうと云ふ一派も加担して、今や頻りに天野博士無能論を称へ、高田博士の復帰運動をしてるとの事である。玆に於て早大校友中の有志等は、此れ実に早大を暗黒裡に導く大問題であり、惹いては教育上由々しき大問題と云ふので、昨今頻りに天野学長の擁護運動を起してるさうである。 (『中央新聞』大正六年六月二十日号)

なおこれについては次の如き一説が流れている。

該新聞記事の原稿は、伝ふる処に依れば、材料を天野学長及佐藤秘書之を供給し、永井柳太郎執筆して石橋湛山之に加筆し、六月十八日鉄筆版にて印刷したる上、佐藤秘書は神楽坂の某旗亭に校友水谷武君を招きて諮る所あり、同人の助言を得て即日、佐藤秘書に関係ある書生をして、都下の各新聞社に投ぜしめたるもの……。 (『早稲田大学紛擾秘史』第二冊)

五 まぼろしの「無能」の語

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 たまたま鉄筆版が配られ、それが『万朝報』『中央新聞』の両新聞に掲載された日、憲政会本部では代議士総会が開かれ、当然全員の話題となって、会の終了後、早稲田関係の左の議員と書記長黒川九馬とが別室に集まった。

この日高田自身が憲政会総務として総務室に来合せていたので、協議の結果会見を求めると、同志の仲とて和気藹々の裡に高田の陳述があった。その要旨は次の如くである。

天野君は理事会に於て再三辞意を言明し、何としても自身は留任せぬと主張せり。之が抑も問題の発端にして、而して又自分に学長復帰説の起りたる所以なるが、自分は復帰のことを確諾したるにあらず。諸君の意見は十分に尊重すべき根拠あるを以て深く之を考慮すべし。尚天野君は辞任を主張すると共に、善後策としては「若手に遣らせるが宜い」と唱て、塩沢博士に「君任じて局に当れ」といふの意を致せるも、自分に対しては復帰せよとのことを謂はず、是亦自分としては考慮を要する点なりと思ふ故、かたがた以て自分の学長復帰は回避すべき必要あり。但し学校の幹部にては、自分の復帰を主義として急速決行の運びを附けんとする形勢なれば、諸君は其所見を告げ拙速に陥らざる様されたし。事已に此に至るとせば、今や人を標準とせずして校規を改正し、其運用に依りて経営を完ふするを可なりとすべし。元来現在の校規は家族的の長所あると共に、自分の在任中は専断を以て事に当りしも、若手教授の要求中には、所謂デモクラチツク・ベーシスに則るべしとの主張もあり。其意見の全部は暴かに之を採用し難きも、相当に之を塩梅し、加味すべき良策もあるに依り、立憲的統制の下に運営に任ずとせば大過なきを得べし。此基礎に従はば必ずしも学長は誰彼と八釜敷詮議立するにも及ぶまじ。

(『早稲田大学紛擾秘史』第二冊)

 ここで校規というのは、九一六頁に後述する如く、法律学者坂本三郎の解釈によれば、国家の憲法に当る基本法で、容易に変更すべからざる重大性を持つものである。そして右の言葉の中で、特に指摘しておかねばならぬのは、今日までの校規が家族的・私塾的で、つまり専門学校的であったことを自認している点と、今後の新校規が立憲的ならざるべからざるを主張している点とである。これによって見るも、この大学紛騒は大学の脱皮のためには免れ難き宿命で、勿論、これに躍った個々人の行動には批判すべき点も多々あるが、大局から見れば実は深く咎めるには当らないかもしれぬ。

 以上の高田の弁明で、諸代議士は高田の意見に賛成し、彼自ら今後も名誉学長として教務に助言し、新校規の立案にも当るよう依嘱して、鳧がついた。しかし高田の学長復帰は、大隈が、たとえ憲政会に故障があっても教育は政治より大切だからとして、これを既に承諾しており、大学側はその積りでことを運んでいるから、これを改めさせるのは焦眉の急を要する。早速整爾・鈴木寅彦・斎藤隆夫・黒川九馬の四人が委員となって、当日すぐ大隈総長を訪い、更に田中穂積理事を訪うたところ、教授会・評議員会を開催して、高田学長復帰を正式に決定することが明日に迫っているのを知り、急遽憲政会に帰って開催中の懇親会の席上に報告し、更に早速整爾小山松寿を委員として高田邸に急派すると、あたかもよし坪内・市島・浮田の三元老、塩沢・田中穂積田中唯一郎の三理事が来邸して相談中であったので、ここで高田復帰の絶対非なるを力説し、高田もその中止を明らかにした。

 大学側は改めて高田の胸底を叩き、復帰が峻拒に会ったので、せめて学制改革のことだけの担任を乞うと、この方は欧米を漫遊して抱負もあり、「自分の素志は身文相として全国の学制改革を行ふ能はざりしとしても、せめては早稲田大学の学制にても改正し、適当なる教育を与ふる場所とせんと欲するに在り」(同書同冊)と語って、大いに乗り気で快諾し、なおこれには直ちに着手すべく、成案の上は衆議に諮って決定するから、それまでは自分に全権を委ねられたしとの申し出があった。

 次いで六月二十四日、九段の富士見軒において、例年の教授・講師の慰労会があり、大隈総長、高田前学長、天野現学長が揃って出席しておのおの一場の演説をしたが、天野は「今回高田博士に制度改正の立案を委任し、さうして来年度から之を実行する計画になつたが、未だ直接に同君からは承らぬけれども、新聞の報道に依ればそれはデモクラチツク・ベーシスの改革だとのことであるが、それは至極結構なことであると思ひます」と述べ、大隈総長は「学校は有機的に生命のあるものである。天野君のお話の如く多数の教員・職員が聚合して、独立して往かうといふ、これが即ちデモクラチツクといふ意味に当る」(同書同冊)と天野説を敷衍して花を持たせた。しかも天野学長は元来、デモクラシーを口にしたことかつてなく、プロテスタンツのこの要求にも厳しく反対しているので、ここでこの語を初めて用いたのが列席者には等しく異様に思われたのである。高田前学長は、二人の後を承けて、

制度改革の基礎をデモクラチツクにするといふのが私の考へであります。まだ案は定まつてはおりませんが、教授・講師の方方が学校のことについて御意見のある場合に、其御意見が維持員会に現はれるといふことは、なければならぬことである。其方々が残らず維持員になるといふことは、船頭多くして船が山に登ることになりますが、其意見が維持員会で討議せられ、決定せられるといふ途が開かれるのが、それがデモクラチツク・ベーシスであらうと思ふ。無論学校は総長の学校でもなく、もとより吾々のみの学校でもなく、又諸君の学校でもない、諸君吾々相頼つて維持してゐる学校であります。 (同書同冊)

と「デモクラチツク」の無制限解釈を警戒したが、三者の意見、合するが如く、合せざるが如くであっても、致命的な破綻はまだ鋒鋩を現さなかった。

 これより前、既に、高田復帰を諮るべく、坪内・浮田・市島三長老の名において教授会ならびに評議員会の召集状が発送せられている。これは高田辞退で必要がなくなったが、せっかく召集日が決まっているのだから、学制改革委託の次第を報告するのも不可なかるべしとして、予定の如く六月二十一日午前と午後に別々に開かれた教授有志会と評議員有志懇親会両者で、市島は、天野学長が病気の故を以て任期満了とともに辞任が決定したこと、高田復帰は政党方面の故障があって不可能なので、学制改革の依頼だけをしたことを、詳細に亘って報告した。これに対して教授永井柳太郎は、大学内部を知悉しているので、複雑な質問を発し、「何故天野学長をして其改革の任に当たらしめざるか」と難詰した。市島はこれに答えて、天野は「保守・収縮に適し、大学当面の改革案実行者としては……不適任なり」と述べ、坪内もまたそれを補足して、自分に比べれば天野も経営家であるが、高田とは「露骨に言へば比較にならぬ」と補助説明した(同書同冊)。尤もこの発言については、坪内自身は否定しているが、世間では坪内のものと言われていた。

 この市島の説明が、天野を無能と言ったと、欠席した天野に伝えられ、「無能呼ばはりをされたる以上、男子の意地として辞任する能はず」(同書同冊)と開き直ったのが、天野再任運動表面化の動機となる。市島が天野を無能と言った言わぬは、速記はとらず、勿論録音などあろう筈はないのだから、水掛け論だが、市島自らは「無能」の言葉は使わなかったと言い、こういう場合には神経質なほど公平厳正な態度をとっている坪内手記も、確かに「無能」という言葉は使わなかったと明記しており、浮田和民もそれを証明している。この「無能」は只一語だが、おとなしく学長をあきらめ、文書でも口頭でもそれを表明している天野が、これを聞いて、一度死灰となった望みを再燃させる動機となっているのだから、「早稲田騒動」としては、死活を分岐させるほどの重要意味を持つ。言った覚えのないこの言葉がどうして天野の耳に入ったのか。それは若林成昭の言葉の操作である。彼は当時、東京弁護士会でも最も羽振りをきかした有力者で、その自負から態度が自ずから威圧的・誘導訊問的であり、市島に向って「貴下は天野学長の無能なる所以を力説されたが、その実を承りたい」と詰め寄った。思うに、市島の天野批評を総合すると、無能ということに落ち着くような印象を受けたのであろう。それを、自分が用いたこの言葉があたかも市島の口から出たものの如く天野に伝えたのであるから、その利き目はまさに覿面だった。

 すなわち六月三十日に開かれた予算および決算議定の維持員会は、冒頭から、例のない嵐を捲き起したのである。坪内手記「自分の観たる我校の紛擾顚末」にはこうある。

此際高田前学長は、鉄筆版の出所を取糾すこと、又紛々たる各処の留任運動や不穏な掲示を取締るのは、当局者〔学長等〕の責任であらうと言ひ、又天野学長は市島前理事に対して「君は、評議員〔有志懇談〕会に於て、自分を無能だといはれたさうだが、無能といはれては、意地としても辞職する訳にはゆかぬ」といふ意味の言葉があり、それに対して、市島氏は「無能といふ語は、聴者の或者が、自分の語つた諸事実から、敢て推論して下した評語で、自分が用ひた語ではない。自分の其時言つた事は、今ここで決して言ふのを辞せん」云々と弁じ、浮田博士も之を証言し、尚天野博士に対して、其留任後の覚悟を質すなぞといふ波瀾があつた。 (『早稲田大学史記要』第九巻 資料四七頁)

 しかし、大学の書生時代から三十余年の交際が続いていれば、「貴様は馬鹿だ」などと向い合って面罵するくらいのことはよくある。ところが、この会で彼は、「自分には嘗て辞意あるにあらず、偶ま之を口にしたるは謙遜的意味においてなせるものなり」(『早稲田大学紛擾秘史』第二冊)と言って、並みいる聴者一同を呆気にとらせたのであるが、その心機一転がただ「無能」の一語にあったのでは根拠薄弱すぎる。

 また永井柳太郎の、先の教授有志会からこの頃に続く言動も、全く人の意表に出るものであった。彼はもと学生時分、雄弁会で華麗な弁をふるって忽ち大隈の注目を惹き、まるで鳳雛扱いで、珍重して大切に引き立てられ、大学となって第一回の卒業生から講師に抜擢された各科の諸英才を通じ、最初に留学し、最初に教授となって、まさにブリリアント永井(オックスフォード留学中、イギリス学生達が彼をそう呼んだ)であったが、それは一に大隈の眷顧によるものであり、学校経営に関しては大隈と一心同体とも言うべき高田の後楯によることが多い。永井自身もその恩誼は十分に感じ、現にプロテスタンツが大隈夫人銅像建設異議を唱えた抗議文の作成には、署名を断っているくらいである。それが、学制改革の実施はなぜ高田でなくてはならぬのか、天野ではどうしていけないのかと、内情を十分に知りつくしている教授の身で、今更らしい質問を発し、それが市島の天野を評したまぼろしの「無能」説を引き出す導火線になっている。後年政界に出て、天下万民の環視の前に立つようになってからの永井は、温厚中正、一言一行ガラス張りで一点の曇りがない。官僚出身大臣は、面会者を前にして、ひそひそ話の耳打ちで下僚の報告を受け、同席の訪問者を不快がらせたものだが、永井大臣はさすがに政党出身の本性を失わず、決して人前で、下僚のひそひそ話の報告を受けるなどという失礼なことはしなかった。同郷の大先輩林銑十郎大将が組閣の際、彼の入閣を求めながら、政党を脱してとの条件をつけると、政治家が軽々しく政党を脱するのは死に等しいとの名文句で、永井はこれを断っている。その公明正大な永井が、この時の大隈・高田の恩顧に背いた如き態度は、彼の生涯の中の唯一の謎である。

六 万波洶湧の校友大会

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 この六月の末においては大学紛議が広く世上に知れ渡ったので、評議員中の有志は、波瀾を防ぐため、暫く現状維持で鳴りを潜めているのが無事であろうとして、九月以降も依然天野学長継続とし、三理事も留任としておきたいとの希望を以て、天野学長に諮ると、自分の出す条件が実行されるなら留任してもよいと答え、ここで初めて彼の校規改正案を示した。彼もひそかに持っていたのだ。それによると、維持員会・教授会・評議員会の三者同数、すなわち各十八名の委員を挙げ、高田改正案を調査させたいという主張である。しかし三人の理事が固辞するので、天野学長だけの学長留任は成り立たないわけで、これでまた行き詰ってしまった。

 事態を懸念した大隈は、七月三日、高田・天野・坪内の三人を自邸に招き、「君等三人に於て時局の収拾を図らざるべからず、如何なる方法に於ても之を収拾せよ」と穏やかに求め、三人が別室に退いて協議した結果、左の二案に絞られた。

第一、塩沢博士を学長に擁立し、高田・坪内・天野の三博士之が後見となるか。

第二、校規の改正を行ひ、新校規に依つて新維持員会を組織し、而して新学長及新理事を選挙することにするか。

(『早稲田大学紛擾秘史』第二冊)

しかし坪内が自分には到底後見の資格がないとして第一案に反対したので、第二案によって天野学長再選の内議を決した。尤も、一旦決議したことに後で再考して異議を申し立てたり、実施に故障を入れたりするのは、天野の性癖なので、高田はこの点でくれぐれも注意した。

此日の内議及決定は、総て高田・坪内・天野三元老間の私約なる上、今日之を漏らすにおいては大学幹部の内にも異論を生じ、殊に教授間に在りてはプロテスタンツの一派を始め必らず反対を呼号すべければ、之は三人限りに止めて絶対厳秘を守ること。又校規改正後の学長として天野学長を再選することは、天野学長より追て確答すること。 (同書同冊)

 しかし、これで歯止めができると安心していたのは、高田も人が好い。彼は大学以来、天野と三十余年の知交があって、彼の性格は熟知しているとして、その弱点を精細に列挙している。元来、天野は典型的肥前人であり、亀の如く首と脚を甲羅の下に引っ込ませたら、決して出てこない単独主義者で、協調・妥協は最も難しいと、高田は認識している。天野は、明治時代の書生に金言として奉ぜられた「男子の一言金鉄の如し」といって然諾を重んずるような気配を全く欠く、実際的性格の持主である。果然、ここから紛擾の火の手は上がってくる。ただそれは、高田の心配した如く、反天野派からではなくて、その反対に親天野派から沸騰してきたのだ。天野は、自分の学長再任が認められたことを秘書の佐藤正に洩らしたが、佐藤はこれを聞いたが最後、手を拱いて待つような人物ではない。早速、諸方に網を打って、陣立をした。

 七月六日は校友大会。この日の校友大会は大学史上においても特筆すべき意味を持つ。例年の校友大会はいつも集りがよくないので、この時は招待状を出す範囲を拡大し、東京とその近県のみでなく、広く全国に呼び掛けた。既に新聞記事で母校の危機を知った地方校友は東から西から駆けつけて、空前の盛会となった。会場は例年の如く築地の精養軒である。定刻が来て開会し、型の如く諸種の報告が終ると、天野校友会長は、大学昨今の紛議について語っている中に、長くなって段々脱線し始め、傍聴している高田が校規のことは軽く刷過するだけにせよと注意したにも拘らず、内密事項にまで踏み入り、近く校規を改めて学長を選定する手筈になっており、自分がその選に当って再任した暁には、粉骨砕身してその職に当ると、昻奮して抱負を述べ立てた。あたかも既に内約があって、自分がそれに推挙せられるのだと、露骨にこそ表現せざれ、そうと明言した以上に出でた。

 演説が終ると、それに対し、特に新校規の内容に質問が蝟集し、質問と反論が果しなく広がる。やがて前方に屯した一群から、天野留任の決議文を読み出す者があったが、それはその前日、矢来俱楽部に集まった少数教授(永井柳太郎井上忻治、伊藤重治郎、原口竹次郎など)とその与党である。

 続いて校友会の不振と堕落を痛撃して、その幹事は会長指名になっているところに欠陥があるから、右は今後選挙とし、その規約を定めるために十五名の委員を挙ぐべしとの動議が出た(これは天野の懐抱論)。これには反対論があり、年に僅か両三度だけ開く校友大会では、幹事といっても格別問題になるほどの重要性を持たない。その選挙に全国一万の校友に投票を呼び掛けても、むだの手数と膨大な費用を要するだけで、まことに事情を知らぬ者の迂遠の論である。大体、地方校友がどうして中央の執務に適当な人を判別することができるか、結局学長指名の人に落ち着く以外に方法がないではないか、というのが反論の根拠だ。

 大山郁夫が立って所論を述べかけると、それを不利と見た佐藤正が急に引っぱり出して別室に拉していき、我々の背後には大物が控えているのを知らんのかと言って、威嚇的態度に出た。これは有名な揷話で、幾人かの人に語られているが、大山はこの大物とは後藤新平だと直感した。後に石橋湛山は、有力者は世に多い、それがどうして後藤と分るのかと言っている。この事件の背後に後藤が控えているという噂が浮かび上がってきたのは、この大山の推測が最初であろう。怪文書の撒布以来、心棒になっている佐藤が後ろ楯の有力者と言えば、後藤以外と考える方が寧ろ無理だろう。後で掲げる後藤新平の直話(九六四頁参照)からも窺えるように、佐藤は同郷で、しかも後藤がまだ医者の時代からの古い知合いであり、宮城県の中学を出ると後藤家の書生となって早稲田に通学した。卒業後は後藤が総裁だった鉄道院に入り、今鉄道院を辞めても、そこの調査課にいる橋本良蔵がやはり後藤・佐藤と同じく東北出身で、且つ佐藤とは同じ早稲田出(明三八高師)である。今度も彼らは緊密に連絡をとって、今までにはないことには、鉄道院稲門俱楽部の四十余名が先日矢来俱楽部に集合しているし、今またこの校友大会でも一見して彼らと分る特異の制服を着て会場の前方に割拠し、盛んに気勢をあげて大会の勢を制し、誘導せんとしている現状では、もしこれを後藤と感づかない者があったら、その方がおかしくないか。或いはこの時点においてはまだ発端であるから、後藤の耳に直接には、早大紛擾の経緯は話していないかもしれない。しかし、背後の力と言って威嚇材料に用いるには、十分な距離に後藤は立っていたのだ。

 この校友会幹事選挙という非現実的にして無謀の案も、デモクラティック・ベイシスの呼び声の下に動議の賛否を起立で問うことになると、前方に固まって席を占めていた鉄道院稲門俱楽部の四十余人組とその周囲の者が一せいに起立する。マイクロフォンのない時代で、多くの者には天野の声が徹底せず、殊に地方出の者と昨日卒業証書を貰ったばかりの多数の新校友には、何の意味かさっぱり分らない。もう少し詳しく説明願いますという要求があるのに、耳も貸さず、天野校友会長は起立多数と宣言して、遂にこの実現至難の動議は通った。しかしこの大会で次の幹事を選ぶ段になると、咄嗟のことで選挙法の草案の影さえ出ていないのだから、早速行き詰まり、窮余の手段として、前幹事の留任がそのまま会長から報告せられるという始末であった。

 天野は会場の鼎沸を沈静させようとしないばかりか、寧ろそれを招致する風さえあり、あまつさえ、自己の学長就任をほのめかすに至っては、高田は天を仰いで浩歎し、並みいる大学の教授や幹部も、この隻手を挙ぐれば隻手をもがれ、一眼を開けば一眼を眇する状態に、反対し、駁撃する余地なく、遂に猛り立つ一部のモッブの前に沈黙するの外なかったのである。