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第五編 「早稲田騒動」

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第十二章 理工科の紛騒

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一 草創期学生の不満

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 プロテスタンツの一難のまだ去らぬうちに、それと相前後し、また並行して、傷口から膿の噴湧したようなのが、同じく大正六年のいわゆる「理工科問題」である。これは、学校当局の常套手段のことなかれ主義の不徹底に対する新進教授・助教授の不満・反感・詰問であり、瓢簞鯰の返事の繰返しにしびれを切らした抗議に外ならぬが、『早稲田大学理工科問題の真相』(以活版代筆写)の小冊子までできていて、当事者の中川常蔵・西岡達郎・田治多蔵・金子従次の二教授・二助教授が、日記、学校当局との直接応答筆記、書翰を以て、委曲を尽している。しかし一言にして掩えば、これもまた新旧体制交替の際に必然的に起る摩擦だったのである。

 早稲田の実務的学科は商科と理工科である。商科創立の際、先ず取って以て倣おうとした先進校は、国内では東京高等商業学校で、こう考えるにはいささかの錯誤もなく、赤門に商科の設置がない以上、一橋は最高のモデル校であった。これに従って、理工科の第一目標としたのも東京高等工業学校だったのである。そこで高田早苗は、その校長手島精一を相談役として指導を仰ぎ、こう言った。

帝国大学の卒業生は少し実地にうとくて理論に走る傾向があり、東京高等工業学校の卒業生は実地には熟達して居ても理論においては至らぬ所があるので、この中間の長所を持つた工科を作ろうとし〔た。〕 (『山本忠興伝』 一〇三頁)

すなわち、単に「工科」とせず、「理工科」という名称を採用したことによっても明らかなように、「所謂原理・原則的の事柄に就ては彼の高等工業学校よりも今一歩を進め」る(本巻三二三頁参照)よう希冀したことは疑いないが、現実には、主目標は、或いは全目標に近いものは、高等工業と定めて、明治四十二年、機械と電気の二学科を設置し、その翌年には、建築と採鉱の二学科を増設した。草創初期のことであるから、実際において、東京帝国大学工科大学の全容は望んでも手が届かなかったのが実状である。こうした規模で発足しても、なお手不足は免れず、学生の期待が充たされなかったので、既に開校三年目にはその不満が表面化し、電気学科を中心として、教員の増加その他若干の改善に当局を踏み切らせるに至っている。

 電気学科の改善問題については、明治四十五年三月十四日、高田学長が理工科学生に対して行った訓示によって、その概略を知ることができる。

先頃から此理工科の事に付いて諸君から委員を出して改善を促がされたことがある。其当時屢々委員と話をしまして諸君の意のある所も略々諒とした結果、爾来益々改善・進歩の方向に向つて進みつつある訳である。尤も其当時委員にも話をしました通り、改善をする進歩させると云ふ事の中で直ちに行はれ得べき性質のこともあるし、又時を俟つて始めて実行の出来る事柄もあるので、何事も一時に総べて解決する訳にならぬと云ふのは之れは当然の事である。併ながら諸君の希望されることにも大に採るべき所があるから、出来得べき丈けのことは其以来段々運びを付けて、改むべきは改め、進めべきは進めた積りであります。翻つてどう云ふ所が一体諸君の改善を求められる要点かと其当時研究した結果私の考へたのは、一面に於いては組織の複雑なるが為めに色々敏活を欠くことがあるのみならず、誤解を生ずることがあつたと云ふことを悟つた。他面に於いては講師の更迭の頻繁、之れは実に困つたことであるが、創立日の浅いと云ふことの為めに止むを得ない現象であつたに相違ない。兎に角講師も更迭が頻繁であつて、又或る場合には適当な人を得ることを難んじたと云ふやうな事情から、少数の人々、殊に二、三専任の人々に、過重なる負担を蒙らしめて、夫れが為めに多少教授上に十分な結果を挙げることを得なかつたこともあつたやうである。其以外の事もありませうが先づ大体に於いて私はさう考へたのである。就て段々其等の点に向つて力を致して、其以来大分教授・講師の増加を計つた筈であります。其以来多数の教授・講師が来つて新に此学校に教鞭を執られることになつた。殊に電気科に於いて其著しきを見るのである。又組織も多少改善をしたのであつて、従来余り複雑なるが為めに随つて誤解を生ずる虞があると云ふことを感じましたから、多少改めて教務主任を置くことを止め、学科主任に直接に教務の衝に当つて貰ふことにしたのであります。次に之れはまだ諸君に発表をしない事であるが、尚ほ進んでは各学科に其学科の顧問を置き、各専門の最も大家と称せられる人々、最も其方面の事に通暁して居られ世の中に名声の轟いて居る方々に御頼みをして学科顧問を嘱託したのである。

尚将来に於いて為すべき事は少なからずある。殊に電気科の如きは一層専任教授の数を増すことの必要を思ふのである。併し其人を得るには十分鄭重なる考を費さなければならんので、段々其事を研究しました結果、まだ其姓名を今日諸君の前に申すと云ふことは或は機会でないと思ひますから省きますが、帝国大学出身の工学士であつて最も学術優秀の聞えのある人で、而して日本に於いて長く実地の事に従事され又長く外国に留学して居つて、現に今は世界で電気学者として最も名の高いスタインメッツ〔Charles Proteus Steinmetz〕と云ふ先生に従ひ、且其人を助けて研究しつつある有力な人が、此次学年より電気学科の専任教授の一人として来られることの予約が出来たと云ふことを諸君に報告することが出来る訳であります。

(『早稲田学報』明治四十五年四月発行第二〇六号 二頁)

ここで高田が予告をしたのは山本忠興であり、『山本忠興伝』には、この間の事情が左の如く記述されている。

〔早稲田の理工科は〕まだ創業の頃なので、設備は勿論、教授陣においても不十分な点が多かつた。ことに高田学長が最初蔵前の高等工業学校長手島精一に理工科の企画を依頼したため、理工科は万事高等工業の行き方を倣う傾向があり、教授に高等工業出身の者が多かつたので、学生は不満を抱くに至つた。当時理工科は創立第三年目で、翌年には初の卒業生を実社会に巣立たせなければならなかつたが、実社会は少しも早大理工科の存在を認めない。その証拠には、就職その他の条件が学生の期待とはあまりに遠くかけ離れて居た。

理工科の改革運動の直接導火線は、電気科の或る科目の担任講師が、三年制度の高等工業をその年の三月に出たばかりの人物で、年から言つても修業年限四カ年半の早大学生よりも年少であつたので、学生は憤慨して教場への出席を拒んだことにある。理工科開設第三年目に起つたこの事件は、やがて全理工科学生の不満を表面化し、学校の首脳部に種々の陳情をするに至つた。しかし学校当局も学生の不満をよく諒解して、商議員や顧問の制度を設けて、積極的に理工科を改造する運動にのりだした。それでまず根本方針として、これまでの専門学校なみに低下して行きそうなやり方を改め、専ら大学の規格を目指して、大学卒業者を講師に選ぶこととなり、第一の白羽の矢を山本忠興に立てたのであつた。山本を招聘することに実際に尽力したのは、当時理工科の商議員であつた竹内明太郎と電気工学科顧問浅野応輔博士の二人であつた。浅野はずつと後になつて、「私が大学のために少しでも尽したことがあるとするならば、それは山本君をこの学校に招くために骨を折つたということである」と語つた。 (一〇四―一〇五頁)

 後年学苑の理事を兼ねた実業人市川繁弥は、当時二年生であったが、

最初に学校は高等工業の手島さんに御相談したものだから、手島さんのお考えがもとで高等工業程度のスケールでいくように、始められたんじゃないかと思うのです。ところが私たちは早稲田大学という名にあこがれてきたものだから、やはり、できてもできなくても気持だけは大学の学生であるようなプライドを持った。だからすることが食い足りなかったですよ。それで私たちが二年ころになって、もうこれはがまんならない、学校は羊頭掲げて狗肉を売るようなことじゃないかというようなことをいいだした。若い頃でもあるし、またわれわれの時分には年をとっていろいろの廻り道をしてきた人間が多いものだから、なかなか素直にいかない。それで中村康之助さんという人のところにこわ談判に行ったり、ほかの気にくわない先生のところにもこわ談判に行ったりして、学校の改革ということを大いに強く主張した。いまだったら相当にマスコミなどにつかまれるだろうけれども、その時分そういうことがないものだから、ごく穏便に高田学長から怒られたりしただけで済んだ。しかし高田先生も非常に理解があって、われわれも追放になるのを覚悟でおったけれども、そのままで済んで学校の方の教授陣容なども変えてくれたわけです。

(「電気工学科の歴史を語る」 『早稲田電気工学会雑誌』昭和四十二年二月発行第四一巻第三・四号 六二頁)

と語っているし、また市川の同級生で後に学苑理工学部の中核として活躍した堤秀夫もまた、当時の学苑当局の対応を次のように想起している。

われわれが行ってこわ談判やったんです。そうしたら高田さんが、われわれを押えつけちゃったんですよ。「その言葉を取り消せ、取り消さなければお前たち、退学させるぞ」というような威厳を示したんですが、われわれはとうとう負けてしまって黙っちゃったんです。そのときに高田さんは考えたんですね、学生の言うのも無理はない。高田さんあたりから見ても、せっかく高等工業と大学との中間を目指し、理科なども入れて少しずつ理論的にやろうとしているのに対して、手島式の高等工業式のあまり実地に傾き過ぎているということがわかったんでしょうね。それで学生を押えたものの、着々として手を打ち始めたのです。 (同誌同号 六二頁)

尤も、不満の原因が授業内容のみではなかったことは、同じく市川が左の如く指摘しているところである。

その当時、明治四十五年頃ですが、電気工学の卒業生に対して資格を決めたことがあるのです。それによると帝大を出た人は一級、高等工業を出た人は三級だった。帝大はその時分、六年で、高等工業は三年だった。早稲田は四年半だった。だからわれわれは当然、そういうレッテルをはるならば、二級というところが空いているから、それをと、思いこんだんです。ところが卒業の間際になって、われわれより一年前の、第一回の卒業生が出るときに、早稲田はやはり三級ということになった。そこでわれわれは、またここで非常に憤慨してしまった。力がある無しは別ですよ。卒業式のあとで真野〔官一、大二電気〕さんのところに行って、ともかく卒業したから、めでたいと、祝盃かなんかあげているうちに、いまのことに話が及んで、浅野応輔のところへ行くことになった。先生は理工科長でもあり、レッテルをはることをこしらえた元締めでもある。電気試験所の所長であるから、浅野さんのところに談判に行こうということになった。若い者だから、怖さを知らないで浅野応輔さんのところに行ったのです。泥靴をはいている二人が、浅野先生の立派な応接間に入れられて、今の不満を述べた。「学校の教育効果というものは、設備と先生と年限と学生の種だろうと思う。不公平な扱いがあれば、学生の種は平等になる道理はありません。先生が悪いために、こういう不合理なレッテルをはられているならば、どの先生が悪いか指摘してくれ。われわれは即座に行ってやめてもらう。設備が悪いというなら、私たちは学校の当局者に言って悪い点を直してもらいます。年限はちゃんと二級に値するところなのに、こういう不公平な扱いをなさるというと、われわれそれこそ、お上のありがたさもわからなくなりますよ。」いまでは赤いといわれるかもしれませんが、そう言って目の色を変えてつめ寄ったんです。そうしたら浅野先生は青くなりまして、困ってしまわれた。結局、まあまあ時期が解決するからということで、われわれは丸められて帰ったんです。それでもやはり、そういうしこりを、そういうカベを、破ろうとして、その当時の人間はともかくも頭がなくても意気だけはあった。 (同誌同号 六三頁)

二 「看板」を求む

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 さて、理工科開設当初の科長には、高田が手島とともに相談相手にした(二九九頁参照)東京高等工業の機械科長で工学博士の阪田貞一が当り、その後、各科に主任制度が設けられると、機械学科主任には既述の如く中川常蔵が嘱任された。中川は蔵前の出身である。この中川は、卒業後、芝浦製作所設計課に就職すること五年、それから渡米してコーネル大学に学び、マッキントッシュ・アンド・シーモア会社において実地研鑽を積んでいた。これを早稲田の新設理工科に推薦する人(多分阪田貞一であろう)があり、我が大学当局は、明治四十四年、電報を以て急遽帰国を促し、本章の主題である紛騒の起きた時は機械学科の幹部として七年の根が生えていた。

 しかし理工科も、開設以来そろそろ十年にも近くなると内容もいささか整備の緒につき、これまでの高等工業的体制の実科本位では、いやしくも大学の面目上、甚だ飽きたらぬとして、殊に機械学科では、学生が常に中川の教育方針に対して不平を漏らしていた矢先、卒業生でそのことを大学当局に訴えた者が幾人ならずあった。大学当局も薄々はそれに気付いて、何とか改善の手を打たねばならぬとも思っていたので、ひそかに中川の更迭を決意した。しかし中村康之助幹事は、中川が自校の後輩でもあり、且つもともとアメリカにいるのを早稲田の方から呼び返したいきさつがあるので、自分の口から直接に言いにくく、同じく高工の後輩の田治多蔵助教授に旨を含めて「理事会では中川を時機を見て更迭せしむることは已に決定せられてゐるのであるから、中川の方から此際辞任を申し出るのが中川の為めに好かろう」という表現で、これが伝達を依頼した。これが大正六年の一月二十一日で、田治は、二十三日、中川を訪れてこの事実を語った。中川は旨を受けると潔く、その二日後に東大出身の第二代理工科長浅野応輔まで辞任を申し出た。すると科長は「よろしい、それでは主任はお罷めなさい、しかし教授としては残つて呉れないか」と言うので、中川はちょっと意外の感がしたが、このいきさつでは、男の意地としてもそんな大学のみの都合を考えた虫のいい話を受けるわけにいくものでない。しかし大学では、主任としては中川は不適任としても、教授としてはまだ大いに利用価値があるので、その後も極力教授として残るように勧め、浅野が主任も教授も共に辞職するというのは「学校の意思に反抗することになるが、それにも拘はらず罷めたいといふ理由は何か」と問い、中川は「自分の方には別に理由はない、寧ろ理由は貴下に伺ひたい。聞けば私の罷めなければならぬ事は已に理事会で、既定の事実の様に見えるが一体どういふ事なるか」と詰問すると、浅野は結局「別に他にはないのだが、装飾としての意味から、看板に具合がわるいので」と言ったという(『早稲田大学理工科問題の真相』一―二頁)。

 看板! なるほど、それなら一応納得できる。東京帝国大学工科大学出身の工学博士が主任といえば学生受けがよろしかろうし、世間にも堂々として押し出しが立派である。しかし冗談なら格別、よくもかかる賤劣な言葉を、馘首していつ去りゆくかもしれぬ教授に言ったものである。大学史にこのような問題の記録が残ることは永遠の恥辱になろう。早稲田大学には、そのような陋俗卑劣きわまる伝統はない。寧ろその反対で、例えば文学科を見よ。坪内逍遙と並んで、まさに神に対するが如き尊敬を受けていたと言ってもよく、陰で噂をするのにさえ、必ず先生の尊称をつけるを例とした増田藤之助は、三重県尋常師範学校付属高等小学校の出身で、他の学校歴は全くない。また史学科の吉田東伍は、これまた中学校すら満足に卒業しておらず、独力学界を驚倒する大著『大日本地名辞書』を著して、これまた学生の尊信が厚い。早稲田は実に、「装飾」や「看板」にならぬ教授が光っていることが誇りである。再び繰り返す。あのような陋俗の語をこの百年史に残すのは、ペンの汚れである。

 しかも主任を追われる中川に、中村幹事は後任に「福原君ではどうでせうかね」と相談を持ちかけ、浅野科長は「肩書といふと男爵貴族院議員か……どうですかね」(同書二〇頁)と言っている。これは福原俊丸のこと、工学博士はよいとして、男爵で貴族院議員に選ばれていることを見栄にし、俗臭紛々とした存在だ。従って熱心なクリスチャンである山本忠興電気学科主任がひどく嫌ってなかなか実現に至らず、暫く停滞していた懸案だったのである。

三 垂直線的区画

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 理工科科長として、東京高等工業学校と兼任で就任していた阪田が去った後へ、工学博士浅野応輔の就任を見たのは前年の大正五年九月であった。浅野は阪田より二歳年少の岡山県人で、明治十四年工部大学校電信学科を卒業、工部大学に教鞭をとった後、工部省に入り、明治三十二年よりは東京帝国大学工科教授を兼任、更に明治四十二年には逓信省電気試験所長に就任したという経歴の持主であるから、官僚的気風が染み込んでいたのは避け難い。常に新聞政策ということを口にし、幸い当大学にはその方面に伝手が多いので大いにそれを利用すべしと言って、大正六年二月九日、自ら筆を執って左の原稿を書いた。九月の新学年から新たに本科が開講せらるる応用化学科の前宣伝である。

早稲田大学は今般工学博士浅野応輔氏を理工科科長に迎へ、新たに応用化学科を設置し予科の年限を延長して、二ケ年となし、学科の内容を整へ設備を改善し、教授の数を増加し、なるべく帝国大学と同等もしくはこれに劣らざる卒業生を出さんことを期しつつあり。 (『早稲田大学理工科問題の真相』 二三頁)

そして余白に「斯様に投書しては如何」と記入したのを、中村幹事を介して示した。さすがにこれは大学最高幹部から「まさか、これは出せない」とか「これは浅野氏の人格に関することだ」(同書二三―二四頁)とかの不同意が出て、新聞には投稿せられなかった。しかし浅野科長の偽らぬ本音は、はしなくも三月三日の恒例の大隈庭園で開かれた理工科学生大会の演説で明らかになった。これは学生の発起にかかるもので、

吾早稲田大学理工科は、創立以来年を閲する事玆に十年、益々其内容を充実し、独特の力を具備し、以て我工業界一方の権威たらんとす。玆に於てか吾人は此抱負を天下に呼号し以て我理工科の存在を明にせんとす。 (同書 二八頁)

をスローガンとして掲げ、大隈総長、高田名誉学長、天野現学長の演説が型の如くあって、最後に浅野科長が演壇に立った。その時の演説の一部がこうであった。

専門学校といふのは、中学の業を終へて直ちに専門の業を授ける所である。大学といふのは中学の業を終へて、更に基礎教育をうけ、進んで専門の教育にうつる所である。諸君は専門学校の少し念の入つた位の学校の学生であるなどと思つてゐるならば、それは当らない。諸君は大学の学生である。最高学府の学生である。これを帝国大学と比べて少しも劣らない。寧ろこれと同等若しくは匹敵するものである。唯異なる所は、一方は基礎教育が三年であるが、一方は二年である。そして他の学科は全く同様で、独逸語がないだけである。もし諸君にして、在学中、又は卒業の後、独逸語を修むるならば、帝国大学の卒業生と何等、譲るべきを認めないのである。 (同書 二八―二九頁)

 これに対しては、もとより非難・批判が紛糾して来ぬ筈がない。その当時、これをじかに聞いた人が直接残している感想を聞いてみよう。

此演説に対する理工科内に於ける、批評の一、二を聞くがままに挙げるならばかうである。中村幹事曰く「科長のあの演説にも困つたものだね。君等はさぞ批難をしてゐることだらうね」、佐藤主任曰く「学生には上根あり下根あり、君等の望みとする所は余りに高尚なり、以て下根の者を率ふるに適しない。科長は、或は下根の者を諭さんがためであつたらう」、又山本主任曰く「あの演説は、科長は学生に対して、お世辞の積りで云つてゐるのだ。君等の様に、さう真面目に批評しては気の毒だ」、我科長は或はこの主任の言の如く、まことに一片の世辞の積りで曰つたかも知れぬ。或時、科長は「私はここへ来るまでは、此理工科は工手学校(築地のを指せるものか)位のものかと思つたが、いや来て見て立派なのに驚きました」といはれた位だから、蓋しかういふ批評が当つてゐるらしい。それにしても、お世辞が已に之であるとするならば益々妙なことではないか。かういふ考へによつて率ひられる理工科は、果して永く此学園内に存立の意義を保ち得るであらうか。この思想は一面から見れば、明らかに早稲田大学の発展に或る限定を与へたものであるとも見ることが出来る。我国に官私立幾多の大学がある。これ等、幾多の大学は単に其修業年限等の多寡によつて、其価値を比較し得るものであらうか。若しそうだとすれば、それは教育の意義を極めて狭い意味に解した為めの誤謬ではなからうか。校舎があつて教師が揃つて、学生が集まつただけでは決して真の大学が成立するものではない。大学は所謂学問のみを教へる所ではない。年限だの、学科だの、数や量で測ることの出来ない、確固たる何物かがそこになければならぬ。 (同書 二九―三〇頁)

言や甚だ宜し。そして次の如く結論しているのには、満幅の賛成同感を禁じ得ない。

我国有数の私立大学を見るに、慶応にしても、同志社にしても、我早稲田にしても、実にこの根本義より出発してゐる。この根本義こそ、やがて、其校、建学の本旨となり、特色となりて、ここに光輝ある歴史を作り、権威ある学風をなしてゐるものである。帝国大学と早稲田大学とは、程度の差ではない、種類の差である。強ひて区画を立てるならば水平線を以てしてはならぬ。須く垂直線を以てすべきであると思ふ。 (同書 三〇頁)

 帝国大学と我ら早稲田大学との差を種類の差とした着眼はよい。質の差としたらもっとはっきりするであろう。官立大学は性質上、純度九九・九九九九九としても銀である。気を負うて、初めから野党的であり、学問の独立を旗標とする早稲田大学は、多くの不純物を含有して純度は低いかもしれぬが、本質は金であるという誇りを、この理工科新進教授・助教授達は持っている。

 一学科内の紛糾は、先に文学科で坪内逍遙島村抱月の師弟離反という事件があったが、それこそ大学内部のことで、たとえ天下を聳動しても、人情悲劇以上の教育的意義を持たなかった。しかしこのたびの理工科の紛争は、当事者に逍遙・抱月の如き世間的名声がなく、従って世に知らるることは文学科のそれに比べて少かったとしても、我が学苑創立の根本義を以て争ったのであるから、教育的意義から見れば、遙かに価値がある。

四 官・私学地肌の差異

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 何れにせよ、浅野応輔は専任科長としての手腕を期待されたにも拘らず、翌年再び東京帝国大学工科大学教授に迎えられたので、早稲田にとっては兼任科長となってしまい、失望感は理工科内で覆うべくもなかった。さて中川機械学科主任の後任に内定した福原俊丸は、

諸君も理工科の事に就ては、種々意見がある様である。自分が今度主任を引受けるにしても、諸君の意見を聞いて置かなければならぬ。で、それを、何か書きものにして呉れないか。 (早稲田大学『理工科問題の真相』 三二頁)

と要求したので、機械学科講師室では、専任教員六名が全部出席して慎重な討議を尽し、「幹部に対し予等の疑問とする所」(同書三二頁)を質問書によって提出することとし、文章が成ると浄書し、八通を複写して、各自が署名し、二通を福原に送り、内一通は浅野科長を経て天野学長に渡してもらうように依頼した。この質問書こそ理工科内紛の中核をなす。全文は次の通りである。

質問書

早稲田大学理工科の現状に対する吾人の質問

一、理工科の現状は早稲田大学の主義・方針と一致して進みつつありや。

二、理工科と大学本部との間に遺憾なき意志の疎通ありや。

三、理工科内各科の主義・方針は遺憾なく統一せられつつありや。

前質問に対する吾人の解釈及び希望

一、吾人の見る所を以てすれば、遺憾ながら其間齟齬・矛盾あるものと認む。既に我大学の主義・方針は早稲田大学教旨に炳乎として明なり。吾人は此綱目を真摯に遵守・実行せんことを望む。

二、吾人の見る所を以てすれば、理工科と大学本部との間甚しく意志の疎通を欠けるものと認む。之に関しては其間に於ける連絡機関其宜しきを得ず且其人を得ざるが故に、其改革を望むこと切也。

三、吾人の見る所を以てすれば、理工科内各科の主義・方針は統一を欠けるものと認むるを以て、此点に関しては各科主任会議の改善を望む。 以上

大正六年三月九日 中川常蔵 西岡達郎 竹中二郎 田治多蔵 金子従次 土居寛通

(同書 三二―三三頁)

 結局理工科問題として前後一年を費し、その結果、「短きも六年、永きは八年」(同書敍二頁)教壇に立った熱誠な四名(うち早大卒業生一人)が袂を連ねて辞職するに至ったのは、この質問書に対し、受けた方の学校当局や理工科当事者が適当な回答をしなかった、いな全く無視したのが、若き教授・助教授達の不満の根源となったからである。とはいえ、この質問は非常に抽象的で、否とでも答えられるし、また少し譲歩すれば、然りと答えても差支えない。言葉を換えれば、返答のしようがない、或いは返答しにくい質問となっている。なぜ、浅野科長の演説その他に対する不満を具体的に列挙しなかったのか。若き純情は認めるとしても、論争のテクニックとして当を得たものではない。尤もその点については、六氏が親しく浅野科長を訪ね、三月三日の理工科大会の演説について糾問すると、浅野がそんなことは言わぬと逃げるので、六氏が新聞広告の案文に遡って更に追及したところ、浅野はこれで了解して、直接学生の前で取り消すと約束した。更に天野学長を訪ねて、質問三ヵ条について浅野に対したのと同じ説明を繰り返した。ただし、この時の天野学長の応対がどうであったかについては、この『早稲田

大学理工科問題の真相』には何も語られていない。

 更に六氏は、春の新学期から機械学科主任に就任してくることに確定した福原を訪ね、一緒に食事をしながら数時間に亘って説くところがあった。福原は早稲田について殆ど無知識なので、理工科創業時代からの歴史を述べて、三ヵ条の質問条項の説明に及ぶと、福原は「まことに起るべくして起つたものである」(同書四〇頁)と、十分の理解を示した。更に佐藤功一建築学科主任に話すと、「一つ真面目に考へやうではありませんか、会議をドンドン開いて……私も大いに自ら思ひ当ることがあります」(同書四一頁)と答えた。また山本忠興電気学科主任に話した時は、この篤信のキリスト教信者は、この会見で六氏が特に中村康之助幹事を非難するのを、人道上よろしくないと反省を求め、別な時、「中村氏のみを無礙に責めるのは酷ではないか、蔭に隠れた政治家があるんだからね」(同書四二頁)と、あたかも糸であやつられている傀儡であるかのような暗示的なことを口にしたが、この「政治家」が何人のことを指していたのかは、今日では捜しようもない。

 またこの六人組のうち金子、田治の二人だけで佐藤功一建築学科主任を訪ねて会談しているうち、主任会議に対する見方が双方でひどく違っていることに気付いた。佐藤は、主任会議は「大学にて認められたる会議ではない。随て何等の権能もなければ、又責任もない」(同書四三頁)と言うが、二人は、絶大の権威を持つものと認めている。理工科は元来歴史が浅く、制度がまだ不備だから、懸案や問題がその時々の都合によって処理され、習慣を以て解決せられている。だから、これが情弊の累積する所以であり、主任会議もその影響力を自ら否定できるものではない、と強調した。また二人は結局、理工科には官僚的と民本的と二つの暗流が交錯している点を指摘すると、佐藤は、「官僚といはれれば或はそうかも知れません。私は一時官界に身を処したこともあるので、自然かうしたやり方が、便利と考へてる」(同書四四頁)と言った。山本電気学科主任は、別な機会に、「此問題に竹中、金子の両氏が入ってゐるのは不思議である。もし、この二君が入つてゐないならば、四人は馘つてしまうのだけれども」(同書四四頁)と洩らしたこともある。

五 一進一退の菎蒻問答

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 福原は、いよいよ機械学科主任として赴任してくる手土産の積りか、問題渦中の中川前主任を大阪のある製鋼所に入れてくれるといういわば親切な処置を取った。「〔その社長〕は、大阪で売出しの少壮実業家故、早稲田の卒業生なども、大に世話に成る事と思ふが、其意味に於て、……是非〔会うがいい〕」(『早稲田大学理工科問題の真相』四七頁)と言う。ちょうど好都合に、今上京中というせっかくの好意に、中川はその社長と会見し、夕食を共にして話だけ聞いてきた。しかし中川は、上記の問題を未解決のままで退陣するのを喜ばず、この就職は断り、学校の要求に添うて一歩譲歩して、初め主任も教授も共に辞職すると言ったのを、教授としては残ることにした。

 このように六人は団体行動を一向に解こうとしないのを、浅野科長はモッブ的であると評するので、どういう意味かと反問すると、「学長の所に直接提出するといふのは、甚だ不穏当ではないですか、それに六人も揃つて」(同書四八頁)と言う。こちらはまた、六人ほどの少人数だからわざわざ代表を選ぶ必要もあるまいと思っており、考えはどこまでも平行線である。何れにしても、学長でなく、先ず主任会議に出すのが順序だとの指示なので、その主任会議の主宰者は科長だから、すぐ貴下の手で主任会議の討議にかけられたいと要求すると、主任会議は毎週開くわけではないと、瓢簞鯰の返事である。少壮学徒にしてみれば、主任会議というのは、理工科の四学科主任に科長と幹事を加えたたった六人のことであり、臨時に開くことも雑作ない筈だと、この返事に不服で、せめて講師会でも近日中に開くことを要請したが、浅野はこれも容易に承諾を与えず、何れ他の主任諸君と相談してからと逃げる。

 四月になって西岡と田治は田中唯一郎理事を訪ね、また別の日、今度は天野学長を訪ね意見を開陳すること数時間、三ヵ条の質問の起きた所以とその主旨を述べたのに対しては、学長は「親しく、これを聴取」した(同書五〇頁)。

 新任の福原主任は、専任教員一同を主任室に招いて公式の挨拶をした時、今出ている三ヵ条の改革案には賛成だと同意を示して、更に抱負を開陳した。その要点として『早稲田大学理工科問題の真相』の摘録しているところは、こうである。

此問題で幹部に折衝する上にも、或は諸君より僕の方が都合がよいかも知れぬ。此問題につきては、大に幹部にぶつつかる。独り早稲田の為めではない。学制問題などいふ事も、今以て懸案になつて居るし、何れ遠からず起る議会の問題でもあり、自分は立法部に足を入れて居るし、自分の為からいふても、日本の私学教育といふ立場からいふても、大にやつて見る必要がある。なに科長がいかないといふなら、京都の○○でも連れて来る、そして此理工科丈は、立派な大学にする。若し理工科内の外の科がいかないなら、機械科丈でも構はん。此主義で立派なものを打建て、他の科は之を見習て踵いて来る様にする。やり出したら、どこまででもやる。文部大臣でも寺内でも、何処へでも行く。場合によつては全部引上げるさ。君等六人位は僕一人で引受ける。 (五一頁)

随分思い切ったことを言ったものだが、その言を壮として、今後一層の尽力を頼んで引き上げた。その結果、交詢社で開かれた主任会議の決定に基づき、同月二十日に六人中最古参の中川に対する辞職勧告が行われた。ことはもともと中村幹事に対する不満から起きているので、何れ秋の学年初めにはそちらも処置をつけるから、「喧嘩両成敗の意味にて、君も此際辞職して欲しい」(同書五九頁)という福原主任の言渡しである。しかし中川が、喧嘩ではないから承諾しかねる旨を答えると、福原は道徳的・宗教的立場から、相手の処置の決まる前に中川の方から自発的に身を引く方が男らしくて紳士的であると言い、そのためには辞職後の就職先まで心配してあると、更に辞職の強要的勧告である。中川が、初めから喧嘩両成敗案でこの問題が解決するとは考えぬにしても、もし自分が自らこの際に辞職することがこの問題を早く片付ける一端になり、他の五名もこれが質問主意の貫徹に好都合だと言うなら、この勧告を受けると返事したので、福原は直ちに他の五名を呼んで同じ主旨を伝えると、彼らは強硬に反対して、この案は流れた。

 実は福原自身も大学理工科幹部の誠意には不信を抱き、その反対に早稲田出身の助教授はこぞって福原を忌避する態度を示すことに気付いていたようでもある。いわば福原は「板挾みの苦境」にあったとも言えよう。福原を除く機械学科の六人は、今後の進退の協議で甲論乙駁、激しい論議の後、漸く意見の一致を見て、左の決議をした。

決議

一、徹底的解決を得るまでは、大正六年四月二十五日より一同出校せざる事。 以上

大正六年四月二十四日 中川常蔵 西岡達郎 竹中二郎 田治多蔵 金子従次 土居寛通

(同書 六二頁)

 決定はしたが、(一)ストライキの形式になる、(二)学生に迷惑を及ぼす、(三)主任を無視するという点で、内心忸怩たるところもあり、福原主任から懇諭を受けて、遂に撤回せざるを得なかった。福原主任は六人に向い、公式に次の如く述べた。

自分は諸君の所謂三ヵ条(質問書のこと)を貫徹するには二つの方法のあることを考へてゐた。其内の一つは諸君が採つた其方法である。自分はまだ何かと漸進的にやれる方法もあると思ふが、併し諸君がそれでなければいかぬといふなら自分もそれでやる。賛成だ。一緒にやる。が、一方学生の方を見ると如何にも可哀さうである。元来教育事業であるから学生に迷惑をかけるといふことは忍びない。又社会に対しても済まぬと思ふ。で、諸君は唯学生に対する授業だけを本学年の終りまでやつて、事務に属する事などは一切構はないといふことにして貰ひたい。それだけの余裕を与へて先方の回答を待つことにして、それでも何等の回答がないならば其時は吾々全部引き揚げても構はない。もしその為めにこの科がつぶれる様なことがあつても其れは止むを得ない。何れ天下に堂々と発表して日本の私学の為めに気を吐かう。私学は早稲田だけではない、つまり国家社会の為めである。その代りこちらからは回答のあるまで何等追求も催促もしない、全く受身となつて、一切手出しをしないことにする。 (同書 六五―六六頁)

これには六人異議なく、「寧ろ其意気の壮なるに驚いた」ほどである。そしてこの小冊子はその後、「僅かに五十日の日子を経過して……かくも勇壮なる言辞が、掌を返すが如く変り果てんとは」と痛歎し、「かくて予等は、この申合せにより、全く沈黙の期に入り、旧の如く授業に専心することとなつた」(六六頁)と言っているから、一応安定を得たかとも見えた。

六 学生に説明す

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 その後また種々錯綜した折衝があったとしても、煩雑を厭うてその記述は省略するが、五十余日を経過した六月十九日、全く受け身でいる六人を呼び、福原から「此事は、も少し前に話せば話せたのであるが」と前置きして、「其後幹部より何の返答もなし、此問題も暖簾に腕押しで、要するに戦は負だ。但し自分は主任として責任があるから自分独でも、主任としてする丈の事はする。諸君は仕方がない、勝手にして貰ふより外ない」と言ったので、一同は驚き、顔の青くなった者もある。なお、「長い者には巻かれよ」とか「君等は社会を知らないから困る」(『早稲田大学理工科問題の真相』七三頁)とかのきわめて世俗的な言辞で籠絡しようとしたのが目立つ。

 夏期休暇が迫って学生が四散する前になると、この「内紛」は卒業生にも伝わり、心配して経過を聞きに来る者もあったくらいだから、学生達も何かあるらしいと感づいて浮き足立つに至った。しかし、提出して印刷もした質問書はやむを得ないと見て、それ以上、またそれ以外の経過内容を学生達に公表すべきか否かについては議論さまざまであり、結局、学生の多数決に従って福原主任が報告演説をすることになった。その際「自分等〔六人組〕は一人も居なくても学生には迷惑は掛けぬ」(同書七五頁)と明言してくれることを条件とした。この演説も例によって多くの疑念の種子を含むとしても、ここに一々記載することは控える。ただ次の一節のあることだけは摘録しておこう。

私は主任となつても元来通り大学の教旨によつて、立派な大学教育をする事は、従前の主任と同じである。其の為には漸次学校の根底が出来、年限も五箇年となり、今までは四箇年半であるが、これは実際には四箇年半も無いので、教育をなすのは正味四箇年である。四箇年では大学教育の完全なるを望むを得ない。五箇年ならば日本現在に適当せる教育を為すに充分なりと思はる。九州大学の真野〔文二〕博士も工科などは五箇年で良いと云はれた。余のみの意見ではない。 (同書 七六頁)

そして内紛についてはこう言った。

つきましては諸講師と相談しましたが、諸君に問題に就いての内容を話す方が安心すると思ふと云ふ人があつたが、私は夫婦喧嘩と同様聞けば聞く丈け、心配を増すのみである。私は主任としての責任を全ふするからして、内容は話さないが、諸君の希望によつては、中川先生から内容を話さるることと思ひます。 (同書 七七頁)

 少壮学徒の意気込んだ質問を夫婦喧嘩と同一視されては、治まる筈がない。これで、この新人グループの上層幹部に対する最後の信頼の糸が断絶した。ここで六人の意見が二つに分れ、先程引っ込めたままになっている辞表をこの際提出すべしという急進論と、信頼はできぬながら、福原主任を陣頭に立てて今暫く隠忍しようという自重派とが、部内抗論を始めること頗る激しき後、結局後者が多数で、左の決議をなした。

従来通り、受身の態度を持続すること。九月新学年初めまでに、尚何等の回答がないならば、其時に至りて意を決すること。

(同書 八一頁)

七 遂に解任

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 外見からは少くとも触れるべき真蕊のはっきりしない菎蒻的問答と菎蒻的折衝が、蜿蜒として果つるところもなく続いている中に、六月下旬には、学苑全体の存続を危うくせしめるほどの、いわゆる「早稲田騒動」の竜巻が噴き上がった。大局から見れば、理工科の紛糾も間接に「早稲田騒動」の一波一浪をなすと言ってよく、世間もそう見た者が多い。しかし実は、これは「早稲田騒動」と直接の起因を異にし、有機的関連はない。ただ「早稲田騒動」の妖雲下における少壮教授・助教授と、学校幹部の二、三の折衝に触れて、その推移の跡を追うことにする。

 七月上旬のある朝、福原主任が西岡の自宅を訪ねて、次のような話をしたと、西岡は手記に記している。

実は自分も六月十九日迄、幹部より何等の回答に接せぬもの〔だ〕から、諸君には斯く云ふより外なかつたが、其後主任会議に於て、こう云ふ事が決まつた。此度高田博士が制度改正委員長となつて、諸般の事改正さるるにしても、一体理工科の事は、勝手に定めて貰つては困る、必ず科長及び主任会議の意見を尊重され度いと云つて、先日浅野科長より此旨を高田博士に通じた。如斯主任会が一致して事に当る以上は、理工科の事は理工科にて定まる訳で、九月高田博士の改正案が出るのを待つ必要もない。諸君は九月より学校に止るか止らぬか、今日に於て態度を決してよい。九月になつてから、去就を決せられては困るから、どうか能く考へて、残つて貰いたい。 (『早稲田大学理工科問題の真相』 八四頁)

 これに対して、西岡は福原主任にこう述べている。

予等の問題は初めから、機械科一局部の利益の為めとか、又はどう云ふ条件を得たい為めとか、そんな事で動いて居るのではない。現在の理工科に対し、種々なる疑点がある、これを質してゐるのである。今度高田博士は民本的基礎の下に、制度の改革を断行さるると云ふことを聞いてゐるが、何れにしても、この問題は最高幹部の手にかからなければならぬ。

(同書 八五頁)

「民本的」の語が理工科の紛擾にも出てきたことに、この時の学内を流れた空気が窺われる。ある日また浅野科長は金子の自宅を訪い、留任を勧めたので、質問書に対する回答なき「留任」は謝絶する旨を述べると、君の如き校友が学校を去ってはならぬと諭した。すなわち、校友教師と非校友教師の「あり方」の差異の認識を求めたことになる。

 七月二十八日、浅野科長は中川に対し、書面を以て、「賢台当初の御志に従ひ、乍遺憾千万御勇退を願候」と辞職を勧告し、中川は「愚生当初の志云々に関しては、如何にも了解に苦しみ中候得共、何れ其中可申上」(同書九五―九六頁)と返事した。それから某々の留任希望、某々へは辞職勧告など、例によって例の如き折衝がいろいろありながら、事態は一向に展開せず、在京機械科校友会が開かれて意見が戦わされたが、それが果して理工科全校友の意向を代表し得るや否やには疑問があって、それを学校当局に押しつけるわけにはいかない。

 八月二十二日、「早稲田騒動」は、高田前学長が一切学校と絶縁するとの態度決定があったが、その頃、浅野科長は天野学長を訪問して、理工科問題の四人(六人のうちこの時までに二人は脱けていた)中川・西岡・田治・金子の解職を上申し、学長はこれを却下した。しかし、この却下は必ずしも大学幹部の意見に添ったものでない。金子と田治が前田多蔵幹事を訪うと、ここでも菎蒻問答が繰り返され、果ては脱線して、前田幹事が「天野学長無能論」(同書一〇六頁)を唱えたのが二人の耳に残った。この天野学長無能論は、後述(九〇八―九〇九頁)するように、市島の発言と伝えられて、それが天野学長の態度を硬化させ、敵愾心と反抗心を煽ったことは事実で、たまたま前田幹事の口からも、軽率に、この際それが出たのである。

 第十四章に後述する如く、八月二十五日の維持員会決定に基づき、天野学長の任期満了後、学長を欠く新体制の下に九月の新学期が始まったが、その学科配当表を見ると、或いは辞任を勧告され、或いは留任を拒否して、去就の定まらぬ四教授・助教授は、元のままの学科を元の如き時間で担任することになっている。ところが、九月四日、坂本三郎理事の名で四人へ呼出状が届けられ、翌五日、塩沢昌貞金子馬治の両理事が会見した。両者とも書斎の学究で、今度の問題の経過も十分には呑み込めぬままに職務としてこの衝に当るので、頗る恐縮しながら口を切った。

諸君の主張はわるくはないのであるが、此際困るから黙つて辞して貰ひたい。是非曲直の如何は問はないで笑つてお別れが願ひたい。学校の方からも一々御挨拶に伺ひ、且つ送別会などもして円満に一先づお別れとしたい。 (同書 一一六頁)

とは塩沢理事の言葉である。学校騒動が火の手を収めようとする矢先でもあることから、四人はそれは快く了承して、ただ「辞職を勧告さるるならば、其理由を文書にして貰ひたい」という条件をつけた。金子理事はいかにも哲学者らしく、それは書いても「諸君の意に充つ様なものが出来るか、どうか判りませぬが、もし意に充たなかつたなら、何度でもお返し下さい、気に入るまで訂正します」と言った。塩沢理事は「それでは〔この件は〕お約束下さるでせう」と念を押すので、四人は「理由さへ明らかになるならば勿論差支へありませぬ。殊に承れば私共の後任の方々も決定になつてゐられる様子であるから、其方はどんどん御進め下さつて結構です。予等は実は差し詰め学生の方の授業はどうなることかと、案じてゐたのでしたが、後任決定のことを聞いて、すつかり荷がおりて、安心した訳です」(同書一一八頁)と答えた。しかし他の理事(坂本三郎田中穂積安部磯雄中島半次郎)は皆、「理由書など不体裁ゆえ出されぬ、どうか理由書などは書かないで、円満にお別れが願ひたい。……お話した方が悉しいので、書けば何れ簡単になる」(同書一一九頁)という意見であった。実は、理事の中には理工科関係者は一人もいないので、皆その経過を知らなかったのである。金子理事は後に問題の意味をやや了解して、「なるほど、伺つて見れば大問題です」(同書一二九頁)と述懐した。

 『万朝報』は逸速くこの辞職勧告を嗅ぎつけて、「金子助教授は分裂前の恩賜館組」「他の三人も此一味」(大正六年九月六日号)と、あたかも恩賜館組と連繫・呼応した運動であるかのように報じたので、辞職を勧告された四人組は、日比谷松本楼に市内各新聞記者を集め、真相を発表した。それは左の四点に要約される。

(一)予等の運動は、全然理工科改善の趣旨に基く単独運動にして、現時、紙上に騒がしき学長問題とは、全く其出発点を異にせるものにして、何等の関係なき事。(二)問題は学長問題に先だつこと遠く、三月九日質問書の提出に、其端を発せること。(三)質問書の内容及び性質。(各関係者の固有名詞は、勉めて之を避けたり。)(四)無理由辞職勧告の頗る其当を得ざること。 (『早稲田大学理工科問題の真相』 一二一頁)

 九月九日の『読売新聞』には「理工科某主任」なる覆面子の談話が載り、「勿論学長問題にも官学私学と言ふやうなことにも本問題は関係がない」と言っている。しかしこの解決に当って天野学長の行政手腕の不足が問われ、学校騒動の一因となっているし、官学私学の件は、触れないどころか、今度の件の核心たるに近い。九月十日発信で、四人は遂に左記の各個人宛の解職通告状を受け取った。

拝啓。愈御清穆奉賀候。陳者多年本大学理工科機械科授業に御尽瘁被下以御蔭益々同科の発展を見るに至り候段感謝の至りに御座候。然る処去る三月以来同科に関し種々行違を生じ候事遺憾至極に御座候。右に就ては先日理事より二回御懇談申上、又更に山本教授を以て御意を得候通り今般理工科の都合上不得止御教職御断り申上候段何卒左様御諒察被下度候。先は右得貴意度候。 敬具

九月十日 早稲田大学

(『早稲田大学理工科問題の真相』 一三一頁)

 これに対する返事は次の如くである。

拝啓。愈御清栄奉賀候。陳者、九月十日付を以て御発送の小生に対する退職御強要の御文書只今拝読仕候処、何等退職の理由と認むべき点御明記無之、受領難致候間、乍失礼不取敢同封御返送申上候。 敬具

九月十日 姓名

早稲田大学理事

坂本三郎殿 田中穂積殿 塩沢昌貞殿 金子馬治殿 安部磯雄殿 中島半次郎殿

(同書 一三一―一三二頁)

 この少し前、山本電気学科主任は四人の家を別々に訪うて、大学からの使として、水引のかかった金一封を置いて帰ろうとしたが、一同申し合せたようにその受領を拒絶した。特に田治は、「大学幹部がこれほどまで自分等の心を了解して呉れないかと思ふと残念に堪えませぬ」(同書一二四頁)との憤懣を面と向って洩らしている。受け取らぬものは仕方がないので、山本主任は元通りそれを鞄に収めて帰っていった。そして福原は「貴族院が主で早稲田が従」(同書一四三頁)であると言い、機械学科主任の地位を同月去り、八年五月まで専任の主任は空席となった。

 結局九月二十六日の維持員会において、「中川、西岡両教授、金子、田治両助教授解任ノ件」(『自大正五年九月至大正十二年五月維持員会議事録』)が決議された。その十二月、右の四人は『早稲田大学理工科問題の真相』の小冊子を作成し、関係方面に配付して、殆ど一年に亘ったこの紛糾もどうやらけりがついた。

八 結語

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 以上の如きが言うところの「理工科問題」である。当事者が小冊子として江湖に訴えた『早稲田大学理工科問題の真相』によって要約したので、それが公平であるかどうかはここで問わない。それに、解職の理由書も渡さなかったのだから、大学当局の資料は皆無であり、従って、この記述が一方的になっているのはやむを得ぬし、ここでその点の詮議も必要でない。大学史の大きな流れから見れば、教師の去就から生じた紛糾などしばしばあることで、そのことだけでは、考究するに値せぬ。殊に文学科の場合とは異り、この場合は未だ世にも名の聞えぬ少壮教授・助教授の問題であり、ことは理工科だけで燻ったので、広く大学と直接に関係するところは稀薄である。しかし別な見方をすれば、文学科の紛糾は、坪内・島村の師弟の乖離であって個人的なのに対し、この理工科の紛糾は、早稲田大学の本質を洗い出したという点で、大いに注目に値する。すなわち、官学に対する全面的依存から次第に脱却しようとする苦悩の姿が、ここに反映しているのである。

 言うまでもなく、東京専門学校創設の当時教壇に立ったのは、小野梓のみが東京大学の設立以前に修業した人間で、彼の率いてきた鷗渡会員は全部、官立東京大学の新卒業生であった。また、年を重ねるに従い、卒業生の中から塩沢昌貞坂本三郎金子馬治の如き中枢教授が育ってきたといっても、各科に亘り一人か二人、つまり異数の例外で、他は依然として東京帝国大学教授の掛持ちか、或いは大西操山波多野精一の如く、官学出身の偉材でありながら早稲田人になり切った人か、または、官学出で官界、法曹界、その他社会的に名前の聞えた人を物色してきたので、少くとも専門学校時代は、自校の生え抜きは迎えないのを建前とし、たまたまあれば、まことに稀有の例外であった。

 しかるに大学と改称してからの初期の出身者にはさすがに俊才が多く、政治経済学科の大山郁夫永井柳太郎、法学科の井上忻治・寺尾元彦、文学科の吉江喬松杉森孝次郎片上伸その他が抜擢されて目覚しい成果を上げ、創立三十年記念祝典に際しては、すべて専任の教授または講師として名を列ねている。また後続の商科でさえ、間もなく伊地知純正や浅川栄次郎が教授として光彩を放ち始める。すなわち、学問的には東大その他の出店、或いはそこでの商品の中継販売店の観があったのが、自家生産の学問で仕切るだけの実力をここに至って漸く蓄積してきたと言うことができる。

 見よ、砂糖にせよ、蜜柑にせよ、タバコにせよ、ジャガイモにせよ、サツマイモにせよ、舶載せられて日本化するには、長きは千年以上、短くとも百年の歳月を要している。或いは、それらを以て学問に比するは当を得ていないかもしれぬが、漢文が日本に入って、頼山陽の『日本外史』の如き「和臭の漢文」で、しかも本国中国人をして「用字・措字の相違はあるが、まさに天才の文」と言わせて、感嘆せしめる傑作が生れるまでは、千年もしくは千五百年を要した。

 要は、独特の風味・風格を円熟させてくるには、多くの歳月と努力の累積に俟たねばならぬということを説きたいのだ。早稲田は建学三十年にして、一先ず「学問の自家製造」の段階にまで到達した。この間に激しい気圧の差が生じてくるのは必然で、いわばそれを埋めようとして吹き起った台風が「早稲田騒動」なのだが、遅く出発した上に、他の政・法・文・商の如き文科系学問とは性質を異にする理工科が、単独に、いささか他科に魁けて、この苦い経験を嘗めたのが、いわゆる理工科問題である。それは当事者の再三の言によれば「早稲田騒動」とは直接関係ないのであるが、しかし同じ季節の現象の一部として共々に見れば、事態が理解し易いばかりでなく、含む意義に共通点が少いとは言えないのである。